同志たちの訪問 

一条真也です。
4月16日、わが社は、素晴らしい業界の同志をお迎えしました。ラックの松井秀二社長、総合センターの西本恒夫社長、ライフプランの坂井賢一社長の3人です。ブログ「同志の訪問」で紹介した3月11日に(株)サン・ライフメンバーズの比企武社長をはじめ同社幹部のみなさんをお迎えして以来の同業他社の訪問です。来社目的は、わが社のグリーフケアへの取り組みの視察です。


グリーフケア・サロンのようす


「うさぎの会」活動のようす

 

一行はまず、わが社のグリーフケア・サロンである「ムーンギャラリー(MG)」を訪問。わが社がサポートするグリーフケア自助グループである「うさぎの会」の活動のようすを視察されました。その他、わが社のセレモニーホール(コミュニティホール)である「紫雲閣」やなどを視察され、上級グリーフケア士から説明を受けられました。


ようこそ、いらっしゃいました!


グリーフケアの著書をプレゼント


面談のようす

面談のようす


大いに意見交換させていただきました


終始なごやかな面談でした

 

視察後は、サンレー本社の貴賓室で比企社長らと面談しました。わが社の東専務、青木部長、グリーフケア推進部の市原部長も同席して、グリーフケアに対するわたしの考え方、わが社のグリーフケアへの取り組みなどについてお話しました。みなさんには、映画君の忘れ方の原案であるグルーフケアについての拙著愛する人を亡くした人へ(現代書林)を贈らせていただきました。みなさんから活発なご質問やご意見も受け、わが社としても大きな学びとなりました。


3社長との記念撮影


全員での記念撮影

 

その後は、松柏園ホテル の茶室に場所を移して、お酒を飲みながら、葬儀やグリーフケアについて大いに語り合いました。生業を同じくし、想いを同じくする同志のみなさんと飲むお酒は、どうしてこんなに美味しいのでしょうか。他にも、同業他社の訪問予定が入っています。サン・ライフメンバーズさんから始まった創業時代以来のサンレー視察ラッシュについて、わたしは「天下布礼」が次のステージに入ったように思えてなりません。


松柏園ホテル の茶室でカンパイ!

 

2024年4月16日  一条真也

『恐怖の正体』

恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで (中公新書)

 

一条真也です。
『恐怖の正体』春日武彦著(中公新書)を紹介します。サブタイトルは「トラウマ・恐怖症からホラーまで」です。著者は、1951(昭和26)年、京都府生まれ。日本医科大学卒業、医学博士.、産婦人科医を経て、精神科医に.、都立精神保健福祉センター、都立松沢病院,、都立墨東病院などに勤務.。多摩中央病院院長,、成仁病院院長を経て、同名誉院長。甲殻類恐怖症で、猫好き。著書多数。


本書の帯

本書の帯には児嶋都氏のイラストが描かれ、「知りすぎてはいけない――」「右も左も恐い。前も後ろも怖い。上も下も畏い。そんな方はご一読を。数多のコワイを集めて春日先生が暴きます。でも、今度は正体がこわい。 京極夏彦」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には「心の深淵に隠された秘密とは?」として、「うじゃうじゃと蠢く虫の群れ、おぞましいほど密集したブツブツの集合体、刺されば激痛が走りそうな尖端、高所や閉所、人形、ピエロ、屍体――。なぜ人は『それ』に恐怖を感じるのか。人間心理の根源的な謎に、精神科医・作家として活躍する著者が迫る。恐怖に駆られている間、なぜ時間が止まったように感じるのか。グロテスクな描写から目が離せなくなる理由とは。死の恐怖をいかに克服するか等々、『得体の知れない何か』の正体に肉薄する」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 恐怖の生々しさと
    定義について

第二章 恐怖症の人たち
第三章 恐怖の真っ最中
第四章 娯楽としての恐怖
第五章 グロテスクの宴
第六章 死と恐怖
「おわりに」


アマゾンより

 

「はじめに」には、「恐怖というテーマは人を惹きつける」と書かれています。恐怖には、怪異や非日常から身につまされる体験までさまざまな出来事が含まれます。どんなものに恐怖を感じ、どのように振る舞い、それをどんな言葉で語るかによって、当人の人間性がありありと立ち上がってくるようにも思えるそうです。精神科医として臨床に携わっていると、恐怖そのものをダイレクトに訴えてくる人には滅多に出会わないことを知るといいます。だが彼らの症状の根底には、遠い過去に、さまざまな形で遭遇した「恐怖」が横たわって影響を及ぼしていることが少なくないと指摘し、著者は「いわゆるトラウマも、広義の恐怖体験と見なせるのではないか。自分ではうつ病だとさかんに主張しているが、実際には職場恐怖症であると判断されるケースもある。妄想と恐怖とが合体して、頭の中が大変なことになっている人もいた。自分では意識していない恐怖は案外多い」と述べています。

 

 

第一章「恐怖の生々しさと定義について」の「警戒心、不安」では、中国出身、アメリカで活躍した地理学者(人文主義地理学)であるイーフー・トゥアン(1930~2022)の『恐怖の博物誌』金利光訳、工作舎)において、「では恐怖とはいったい何だろう? それは警戒心と不安という、はっきり区別されるふたつの心理的緊張がからみあった感情だ」と説明されていることが紹介されます。トゥアンは、「警戒心は環境にふだんとちがう出来事が発生することで喚起される」と述べ、さらに不安については、「不安とは何か危険が起こりそうな予感といっていいが、その危険の原因が何なのかははっきりわからない。これだと特定できる脅威が周囲に見あたらないため、確固とした対応をとろうにもとれないのだ」と記します。著者は、「一般的に、不安はそれをもたらすものの正体が曖昧である。他方、恐怖は正体が明確化して危険やダメージが予測されるけれども、逃げたり逆に立ち向かうのが困難な際に生ずる感覚だろう。いずれにせよ、無力感やもどかしさが大きな要素を占める」と述べます。

 

 

SUNABAギャラリー代表で文筆家の樋口ヒロユキ氏は、著書『恐怖の美学』アトリエサード)で、恐怖についての説明しています。彼は、「恐怖とは単なる生理的、動物的な恐怖のセンサーであるだけではなく、死にまつわる記号に触れた時にも起こる、きわめて人間的な感情でもあるわけだ」と述べています。夜の墓場だとか暗がり、廃墟、(もちろん、信じ難い力で引き千切られた野生動物のパーツとか、無残に頭を齧り取られた家畜の死骸とかも)の類は「いずれも死や衰退、遠い過去といったものに結びついた記号」であり、「夜の墓場の肝試しとは一種の記号消費であり、原初的な文化鑑賞」なのだ」と述べます。

 

 

産婦人科医である著者は、あるとき分娩を担当した患者の中に、盲目の夫が出産に立ち会うという経験をします。目の見えない夫はどんなふうに世界を認識し理解しているのか。彼にとって世界の感触はわたしの感じるそれとどれだけ隔たっているのか。著者は、「どこか根源的な部分において自分とは大きく異なっているかもしれない人が、背後でこちらに向かって沈黙したまま座っているという居心地の悪さは、やはり恐怖につながっている。いや、それを敷衍すれば、あらゆる人たちが不可解かつ不気味といった結論になってくる」と述べています。詩人で評論家の遠丸立(1926~2009)は、著書『恐怖考』(仮面社)において、「恐怖とは空虚や無、それに未知なもの、異風なもの、深淵やくらやみ・・・・・・に接したとき原意識からおしだされる第一次的情緒なのだと推察される」と書いていることが紹介されます。


 

「あらためて恐怖を定義する」では、著者は恐怖の定義として、(1)危機感、(2)不条理感、(3)精神的視野狭窄――これら3つが組み合わされることによって立ち上がる圧倒的な感情が、恐怖という体験を形づくると述べています。興味深いことに、(1)の「危機感」が実在していなくても、人は恐怖に駆られることがあるとか。いわゆる恐怖症、精神科領域に属するとされる症状です。たとえば高所恐怖、閉所恐怖、尖端恐怖、視線恐怖、対人恐怖、広場恐怖、自己臭恐怖、醜形恐怖、不潔恐怖、学校(職場)恐怖、巨像恐怖、人形恐怖、甲殻類恐怖など。著者は、「いずれも、当人は『本当の』危機には直面していないしその可能性すらない。ただし『危機感』に代わる別な要素が『不条理感』および『精神的視野狭窄』と作用し合って恐怖感もどきが立ち上がっている」と述べるのでした。

 

 

第二章「恐怖症の人たち」の「恐怖症のこと」の冒頭を、著者は「心の病のひとつとして、恐怖症phobiaと呼ばれるものがある。『精神症候学』(濱田秀伯、弘文堂)から、まさに必要十分といった趣の簡明な説明を引用してみたい。すなわち、『恐怖症は、恐れる理由がないと分っていながら、特定の対象や予測できる状況を不釣り合いに強く恐れ、これを避けようとすること。日常生活を侵害しない程度のものは小恐怖という。恐怖症の対象にはあらゆるものが含まれ、学術用語になっているだけでも200を超えるという』。」と書きだしています。


「びっしりと・・・・・・集合体恐怖」では、集合体恐怖Trypophobiaについて、著者は「木肌にびっしりと産み付けられた蛾の卵、限度知らずといった按配に産み落とされたカエルの卵、岩肌を覆うフジツボ、コモリガエルの背中、海ぶどう、ハスの花托(丸い穴の集合)のひとつひとつに種がいちいち嵌り込んでいるところ、そういった小さな穴や突起やブツブツしたものの集合体に過剰反応をするのが集合体恐怖である」と述べています。


集合体恐怖の理由の説明として、寄生虫や皮膚病、伝染病などに皮膚が冒された状態を連想させてその危機感や不快感が恐怖につながる、といった話が比較的流布しているようです。著者は、「わたしはかつて小児喘息とアトピーに悩まされていたが、アトピーでは肌にみっしりとブツブツが生じ、それを目にするとますます痒みが激しくなる。いくら掻いても痒みは治まらず、自分の皮膚はいよいよ異様な状態に変化していく。透明な汁がじくじくと滲出し、落屑が雲母のようだ。おぞましいものに変身していくかのような気味の悪さをひしひしと自分自身に感じたものであった。そのせいか、集合体恐怖的な傾向が強く、それどころか自虐的な遊びに耽っていた時期さえある」と述べます。


百度も考へて恐ろしく」では、高所恐怖症について考察されます。「なぜよりにもよって高い所だけが苦手となるのか」と問いかける著者は、「そのような疑問は、高所恐怖症のみならずあらゆる恐怖症に対しても生ずるだろう。恐怖症は特定の対象で生ずる精神のアレルギーと考えられようが、それをトラウマがどうしたといった単純な因果論では説明しきれまい。よもや前世の記憶などを持ち出すわけにもいかない。結論から述べるならば、それは心理学や精神病理学では扱いきれない領域だ。あえて(大真面目に)申せば、むしろ文学が取り扱うべきテーマではないのか。ある特定の事象に伴うイメージや言説とわたしたちの不安がどのようなミラクルを経て結びつくのか。ある種の相性のようなものがあるのか。恐怖症が特殊であると同時にそれなりの普遍性を感じさせるのは、つまり世界全体が油断のならぬ場所であるという事実を示唆しているからなのか。それらへの答えは、文学の営みこそがもたらしてくれるのではないか。考えれば考えるほど、恐怖症は科学の範疇から遠ざかっていくのである」と述べています。


また、高所恐怖症についての科学からも文学からもほど遠い説明として、遠丸立著『恐怖考』に書かれている内容が紹介されます。遠丸は、「人間の出産行為、つまり胎児が子宮から母胎外の世界へ飛び出すという行為は、右の衝動説からすれば、子宮から膣口を経て外部空間へまで墜落するということを意味するわけで、要するにそれは一個の個体としての人間が『墜落したい』という衝動に身をゆだねる最初の行為にほかならない(頭からさきに、産道を下へ下へと下降する胎児の姿勢を想像せよ。これはまさに人間が空間を墜落するさいの姿勢にそっくりではないか?)」と述べ提起ます。



「逆転する立場」では、尖端恐怖症について言及されます。実は尖端恐怖症の人々の一部は、自分が加害者になるのではないかという危惧も併せ持っているとされるそうです。もし他人を傷つけてしまったら、二次的に自分を窮地に追い込むことは必定であろうとして、著者は「自分が思うようなアブナイことは他人もまったく同様に思っていても当然といった発想も生じかねない。加害者・被害者という立場は、予想以上に簡単に入れ替わるものなのである。だから尖端恐怖症患者において、普段は押し隠している攻撃性や衝動性を首尾良くコントロールしきれるか否かの覚束なさがそのまま『目に刺さってくるような感じ』として立ち上がってくるわけだ」と述べています。


「おぞましい思い出」では、目を傷つけるのは恐ろしい出来事であるとして、著者は未だにルイス・ブニュエル監督の「アンダルシアの犬」(1928)の目に剃刀を当てて引く場面を正視できないといいます。にもかかわらず、ゲイリー・A・シャーマン監督のホラー映画「ゾンゲリア」(1981)で目に注射針を突き立てるとか、ルチオ・フルチ監督の「サンゲリア」(1979)で尖った木片が目に刺さるとか、そういったものが世の中には繰り返し登場することを指摘します。著者いわく、いわゆる「怖いもの見たさ」の最たるものが、怖いものを見るための道具である目そのものが傷つけられる光景であるのは、なかなか皮肉の効いた話ではあると述べます。


「この狭さが息苦しい・・・・・・閉所恐怖症」では、閉所恐怖症に言及します。なぜ「すぐに」外へ出られないことが恐ろしいのでしょうか。事故や災害で生き埋めになるとか逃げ損ねるのを恐れる人はいます。かつて、実際に危険な目に遭遇した(あるいは親しい人がそのような体験をした)という経験が絡んでいるケースはあるに違いないとしながらも、著者は「全員がそうとは信じられない。両親が過干渉で常に束縛されていたがためにそれが心の傷として作用し、自由が利かない状況を極端に恐れるといった類の因果関係もあまり見たことがない(むしろ別な束縛を求めて自縄自縛に陥ってしまうパターンのほうが普通である)。わたしは閉所恐怖ではないものの、急に便意を催したり吐き気に襲われたりしたときのことをかなりリアルに想像してしまうので、映画館ではすぐに席を立てるように通路側に座るようにしている」と述べます。これは、わたしもまったく同じですね。


「空気が薄い」では、おしなべて閉所恐怖症の人たちは、〈後悔することになりそうで動きがとれない→息が詰まりそうだ〉〈狭い空間は逃げ場がない→息が詰まりそうだ〉といった具合に、案外シンプルな図式が症状の裏に成立することが多い気がするとして、著者は「わたしが精神科外来で出会った人たちを思い起こしても、そのような図式におおむね該当する傾向があった(ただ、そのような図式が見えてくるくらいに心の葛藤や苦しみを本人が言語化できれば、もはや症状は鎮静化しているのが通常のパターンであった)」と述べています。

 

「恐怖症とアイデンティティー」では、恐怖症の対象となるのは、本来、「危険ではない」ものである。場合によっては危険になり得ても、とりあえずそんな可能性はほぼゼロである――そんな状態にあっても、危険だと認識してしまうといいます。それどころか過剰反応をしてしまうとして、著者は「つまり多くの人にとっては安全と見なされる状況においても、恐怖症の人々は勝手に『危険』を見出して狼狽したり混乱に陥る。それは、捉えようによっては滑稽な姿にすら映るだろう」と述べます。


そもそも恐怖症とは、神経症の一種であるといいます。すなわち、恐怖症となるような人たちは普段から心の中に漠然とした不安や屈託を抱えているのです。著者は、「人間というものは、どうやら『漠然』とか『曖昧』というのが苦手のようで、だから摑み所のない不安や屈託などは苦痛になる。でも解消はできない。そうなると、とにもかくにもその不安や屈託を何か具体的な事象に託したくなる。とりとめのない状況に苦しむよりは、具体的なことに苦しむ――そのほうが気分的に楽になるのだ」と述べます。


「別の結末」では、人形恐怖症について説明を行った後で、ピエロに言及します。著者は、「ピエロはどうだろうか。首尾良く人間になりおおせた人形が、まだ自信を持てないので突飛な化粧をほどこし、悪意と躁的気分とで陽気に振る舞っているといった印象なのである。すなわちピエロのコスチュームやカラフルな化粧は『見え透いた嘘』そのものであり、その下には異常な心が隠されている。だから怖い。そのあたりを物語へと巧妙に仕立て直すと、すなわち社会現象を巻き起こした映画『ジョーカー』トッド・フィリップス監督、2019)になりそうに思われる」と述べています。



さらにピエロの恐怖について考察する著者は、「つまりピエロは人間になりたての人形であると同時に、わたしの心に潜む超自我と『つるんで』いる。とんでもない奴であり、でも、もしもこのピエロを殺したら自分も同時に破滅することになりそうな不穏さがある。人形にせよピエロにせよ、わたしたち人間と適度な距離感を上手く保てないところにおぞましさが宿っているような気がするのだ」と述べるのでした。


第三章「恐怖の真っ最中」の「ゴキブリの件」では、床の上のゴキブリは、ちっぽけであるにもかかわらず、真っ白いシャツに跳ねた一滴の黒い飛沫のような強いマイナスイメージを伴った存在感を与えてくると指摘し、著者は「目にした途端、どこか取り返しのつかない気分がわたしの中に生じ、図々しい闖入者といった腹立ちもまた生ずる。ゴキブリなんて、所詮はゴミを漁るような汚らしく低劣な生き物である。そのくせ、3億年前から地球上に棲息している。なりふり構わぬ生命力を携えた昆虫の姿は、文明という病に感染しその結果として脆弱な存在と化してしまった当方を嘲笑うかのようでもある」

 

目の前に姿を現したゴキブリは、ひとつのメッセージを携えているといいます。それは、「お前の住む部屋は、もはや安全やプライバシーの確保された心地好い空間ではない、既にゴキブリが出入りしたり、それのみならずどこか見えない隙間でゴキブリが増殖したりするような不衛生で無防備な空間に堕してしまったのだ」というメッセージです。どれだけのゴキブリが隠れ潜んでいるのか、それは決して確認ができないと指摘し、著者は「電気を消して眠りに就いた途端、ゴキブリは再び姿を現すだろう。おそらく複数で。睡眠中のわたしの身体を這い回ったり、半開きの口の中を覗き込むかもしれない。床も壁も(ひょっとしたら天井も)家具も蒲団も食器も、ことごとく不潔な奴らに汚染されている可能性が高い。いつの間にかわたしの住処は事実上乗っ取られ、清潔で安全な感覚を剥奪されてしまった」と述べます。


また、人間は肉体がタマシイを包み込む構造になっていて、さらに住居が第二の皮膚となって日々を暮らしているといいます。でも、今や第二の皮膚の下をゴキブリが右往左往していると指摘し、著者は「それは『おぞましい』としか形容の言葉がない状態だ。その『おぞましさ』がみるみるドミノ倒しのように広がり、遂にわたしは恐怖に捕らえられる。タマシイを包む『層』の一部へ、生きたゴキブリが混入してしまったという不快感、いや絶望感はわたしを打ちのめす。その感触は、あたかも世界が変容して自分がまったく油断のならない――それこそ太古のジャングルへ放り込まれたようなものだろう。しかもわたしは、ゴキブリにはおそらく死の観念ないしは死を恐れる感覚が欠落していると信じている(逃げるのは、ただの反射的振る舞いでしかない。)」と述べるのでした。

 

「日常が変貌する」では、1970年代から80年代にかけて、アメリカの写真界でニューカラー New Color Photographyというムーブメントがあったことが紹介されます。メインの写真作家はスティーヴン・ショアやウィリアム・エグルストンジョエル・マイロウィッツなどで、カラー・フィルムによる画像によって描き出されたアメリカの日常が主なテーマとなっていました(それまではカラー写真は退色することが理由で芸術写真の範疇には入れられていなかった)。ことにスティーヴン・ショアが撮影した荒野やハイウェイ沿いの駐車場やガソリンスタンド、ダイナーなどの光景は見る者を圧倒したといいます。ちなみに、ネット検索でいくらでも鑑賞可能だそうです。


著者も写真集を通じてそれらに衝撃を受けたのですが、とにかく異様な写真だと思ったといいます。べつに画像に死体とか怪物とか気味の悪い物が写り込んでいるわけではありません。アメリカン・ニューシネマ以降の映画で見掛けるようなロードサイドの風景でしかないのです。だが大判フィルムで撮影されたそれは異様に解像度が高く、色も微妙に人工的な鮮やかさで、しかも画面の隅々までピントが合わせられていて曖昧な部分が一切ないとして、著者は「通常の人の目では、これほど鮮烈に風景を捉えることなど不可能である。端的に言ってしまうなら、過覚醒状態の人間の目に映った風景なのである」と述べます。

 

「慢性化する恐怖」では、死刑囚が味わう恐怖について言及されます。日本の場合、死刑との判決が下っても、それがいつ執行されるかは分かりません。複数の死刑囚がいても、そのうちで執行される順番が決まっているわけではありません。予想がまったくつかないのです。著者は、「ある朝、監房の扉の前で8名の係官たちの足音が止まったときに、はじめて恐怖の実体が目の前に立ちはだかる。促されて教誨室へ連れて行かれ、いくつかの確認事項を問われ、遺書を書いたり煙草を吸うなどの短い時間が与えられ、あとはあれよあれよと絞首刑が執行される。本日これから死刑が執行されると判明したときの恐怖も鮮烈であろうが、やはり執行当日に至るまでの重苦しい宙ぶらりんの日々こそが途方もない恐怖となるだろう」と述べます。

 

「二十の恐怖(1)」では、著者自身の不安体験が語られます。著者は、学生時代にひどい不安感に苦しめられていたそうです。それは試験がどうしたとか、恋愛がどうしたといった類の悩みではありませんでした。さながら警戒を促す不吉なサイレンが延々と鳴り続けているかのような持続的かつ切迫した不安で、そもそもの発端は、中学生時代にあるとして、「当時の母は毎晩のようにブロバリン睡眠薬。飲み過ぎると死亡する)とアルコールをいっぺんに飲んで酩酊しており(そのような行為に耽溺するには相応の異様な理由があったが、それを知ったのはもっと後になってのことであった)、心肺停止寸前になったことすら何度かある。医師であった父が彼女を蘇生している場面も複数回目にした」と述べています。

 

 

そのような特異な体験のせいで、著者は、ある日いきなり母親が死ぬといった場面が容易かつリアルに想像されたそうです。そして、それは悲しみよりも葬式だとか火葬、納骨など俗世間の因習的なものに対する嫌悪感や拒否感となって著者を圧迫したといいます。著者は、「母が死ぬという事実もさることながら、世の中に存在しているどこか土俗的な気配すら垣間見られる『葬儀』という旧習に母もわたしも呑み込まれるであろうという生々しい気配のほうが、不快感を伴った恐怖として黒々とまとわりついてきたのだ」などと述べています。これは、葬儀は人間にとって最重要の儀式であると考えているわたしにとってスルーできない発言ですが、一種の精神疾患のようなものと考えれば、ここで突っ込むのも野暮かもしれません。



第四章「娯楽としての恐怖」では、恐怖小説が取り上げられます。まず、恐怖小説の読者は本当に恐怖を体験したいと望んでいるのか、そこに疑問があるといいます。著者は、「本物の恐怖なんて、精神衛生上よろしくない。トラウマになったりPTSDを引き起こすかもしれない。マゾヒストにおける『痛みや羞恥がもたらす屈折した快感』などとは種類が違うのではないか。希求しているのはあくまでも恐怖に似たもの、いわば『恐怖もどき』であろう。たんに中華料理といっても蝙蝠だの土竜までをも食材にしてしまうようなハードで生々しい中華料理でなく、日本人向きにアレンジされたマイルドな中華料理をわたしたちが好むように、人々が望むのは甘噛みの恐怖だ。本当に牙を立てて食いついてくる恐怖ではない」と述べています。


光人社NF文庫というレーベルがあります。太平洋戦争における戦記物を中心に、特攻兵器だの幻の試作戦闘機だの軍人の生涯だのを書き綴った作品が多いです。著者は、「このレーベルのキャッチフレーズが〈心弱きときの活性の糧〉となっている。軍歌を聞いて心を奮い立たせるといったノリではなく、家族や自分を守るためには戦争に参加せざるを得なかった人たち、懸命なあまりに突飛な(ときには残忍な)武器を考案してしまった技術者、そういった人たちへの共感とやるせなさ、感慨と自嘲といったものがそのキャッチフレーズから伝わってくるようで、わたしは心秘かに好意を寄せている。そして恐怖小説には、現実逃避の手段というよりも〈心弱きときの活性の糧〉といった性質があるような気がしているのだ」と述べます。


「身長13センチメートルの人」では、アレクサンダー・ペイン監督のSF映画映画ダウンサイズ(2017年)が取り上げられます。未来社会の食糧難を解決するべく人間を13センチの縮小人間に変える物語です。ただし、一度縮小した人間は元には戻れません。ここに恐怖を見出す著者は、「引き返せないような決断をすること自体が恐怖なのだ。それは自分自身の判断能力を自分で信用していないということもあるし、もともと臆病者だからでもある。顔にまでタトゥーを入れた人や、大胆な美容整形を行った人を見ると、彼らは内心『しまった、軽率なことをしてしまった』と悔やむことはないのだろうかと思い、たちまち胸がざわついてくる。もちろん彼らは『後悔なんかするわけないだろ!』と言い張るだろうが、夜中にふと目が覚めたとき、暗闇の中で忸怩たる気分に陥ることはないのか。心苦しくならないのか。そうした疑問は、最終的には、自殺を遂げた人に対して生じる気持ちと同質である」と述べています。


第六章「死と恐怖(1)」では、死はなぜ恐ろしいのか。そこを考察するために、死には3つの要素が備わっていて、それらがわたしたちを脅かすのではないかと想定してみるとして、著者は、(1)永遠。(2)未知。(3)不可逆。を挙げます。そして、「死は永遠と結びつくことで、恐ろしくはあっても形而上的で聖なるものとなる。けれども川沿いの墓地を眺めるたびに、永遠というものも案外脆弱なものだと思ったりしてしまう。大雨による川の増水と決壊で、あっさりと形而上も聖性も押し流されてしまうのだ。と、そのような感情移入に満ちた感想の中には、どこか永遠が帯びている峻厳さを突き崩すことで安心感を覚えたがっているような気配がある。おそらくわたしはそうした気配を、ある種の救いに近いとさえ考えているのだ」と述べています。


「不老不死」では、死後の世界について言及しています。天国や極楽は、あえて奇妙な言い方をしてみるならば、「死ぬことによってやっと獲得できた不老不死という安定状態」を多くの善男善女たちと一緒に分かち合い、味わい、ゆったりと暮らしていく世界なのかもしれないと指摘し、著者は「ここならば孤独とは無縁でいられる。死の恐怖もない。穏やかで平和だ。ただし退屈そうだ。竜宮城のエロい世界のほうがわたしは好みだけれど、こちらには玉手箱という罠が待っている。おそらく抜け道はない」と述べています。

 

 

「おわりに」では、著者が幼少の頃に父親と人間魚雷回天という映画を観たことが語られます。著者はそれがトラウマ作品となったそうです。その後、戦争末期に海軍に所属していた父親が伊号潜水艦への搭乗を志願していたという事実を知ったそうです。著者は、「なぜそんな自殺行為に等しいような志願をしたかといえば、死にたいと父は思っていたからである。彼には仲の良い兄がいて、その人は画家であった。気性の激しいところがあって、そのくせ黎明期のアニメーションの作画などにも関わっていたらしい。そのあたりはいずれ暇になったら調べてみたいと思っている。わたしと気が合いそうにも感じられるが、その『兄』は南方の島に送られて戦死し、結局会ったことは一度もない」と述べています。


「兄」が南の島で戦うことになったのは、父が原因であったそうです。少なくとも父はそう考えていました。著者は、「若気の至りなのか、父には反戦運動的な活動をした過去があったらしい。それに対する見せしめ的な意味合いで、既に徴兵されていた『兄』がとばっちりを受け、南方戦線に送られた。そして呆気なく戦死した。したがって父は『兄』を殺したも同然である(と、信じていた)。そんな顛末に対する贖罪および自己嫌悪の思いから、彼はあえて潜水艦で死のうとした。苦痛に満ちた死に方は、むしろ望むところだったのかもしれない」と述べます。



戦後まで生き延びてしまった著者の父にとって、映画「人間魚雷回天」との遭遇は亡霊と出会ってしまったかのような事態だったのではないかと、著者は考えます。死にまつわる遺恨と罪悪感と自己嫌悪とが、いきなり過去から生々しく蘇ってきたわけであろうと推測し、著者は「そんなふうに考えると、あの映画館という場そのものが亡霊、いや恐怖と同義であったように思えてくる。それを今になってやっと理解した。もはや60年以上も前のことなのに。この本を書かなかったらそんな忌まわしい『発見』をスルーできたのかもしれないと思うと、いささか複雑な気分になってくる」と述べるのでした。恐怖についての本かと思って読み進んでいたら、最後に著者の人生の秘密に触れて厳粛な気分になりました。「恐怖の正体」とは「人間の正体」でもあると思いました。

 

 

2024年4月16日  一条真也

『恐怖 ダリオ・アルジェント自伝』

恐怖 ダリオ・アルジェント自伝

 

一条真也です。
『恐怖 ダリオ・アルジェント自伝』ダリオ・アルジェント著、野村雅夫+柴田幹太訳(フィルムアート社)を読みました。著者は1940年、イタリア・ローマ生まれ。世界中のクリエイターに影響を与える“ホラーの帝王”。映画プロデューサーの父親と写真家の母親を両親に持ち、新聞『パエーゼ・セーラ』で映画批評を担当したことから映画との関わりが始まりました。セルジョ・レオーネ監督作『ウエスタン』(1968年)でベルナルド・ベルトルッチとともに原案に携わり、以降数々の脚本を手がけました。歓びの毒牙(1970年)で映画監督デビューを飾り、『わたしは目撃者』(1971年)、『4匹の蠅』(1971年)の“動物3部作”でジャッロ映画の人気監督の地位を確立。サスペリアPART2/紅い深淵』(1975年)でその名は世界に知れ渡り、サスペリア(1977年)はオカルトの新境地を切り開いた名作として、ホラー映画史上の金字塔となりました。その後の監督作品に、インフェルノ(1980年)、『シャドー』(1982年)、フェノミナ(1985年)、オペラ座 血の喝采(1987年)、『トラウマ/鮮血の叫び』(1993年)、スタンダール・シンドローム(1996年)、オペラ座の怪人(1998年)、『スリープレス』(2001年)、『デス・サイト』(2004年)、サスペリアテルザ/最後の魔女』(2007年)、ジャーロ(2009年)、ダリオ・アルジェントのドラキュラ』(2012年)など。2023年には10年ぶりの新作『ダークグラス』が公開。2019年にはイタリアのアカデミー賞と呼ばれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞ダヴィッド特別賞を受賞。


本書の帯

 

本書のカバー表紙には著者の顔写真が帯には著者の顔写真が使われ、「独自の美学を追求するホラー/サスペンス映画の巨匠が、恐怖に魅入られた幼少期、愛する家族、自らの作品とその俳優や仲間たち、輝かしいキャリアと試練や苦難、強迫観念や倒錯的な夢について、その比類なき人生を鮮やかな筆致で明かす」「全自作を語る!」「出世作サスペリアPART2/紅い深淵」「ホラー映画の金字塔▶サスペリア」「最新作▶ダークグラス」「“ホラーの帝王”ダリオ・アルジェントの自伝、待望の翻訳!」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「私の怪物たちが会いに来てくれるのを、坐りながら待つ。(・・・)窓を開け、風邪が吹くのに耳を傾け、そうして物語たちを一緒に部屋に招き入れ、私を虜にしてくれるのを待つ。最低な悪夢に現実の血肉を与えるための媒介者が私であることを物語たちは知っていて、だからこそあいつらはそれを上手に利用するのだ。(・・・)私は自分の意識の中の血まみれの怪人たちを歓迎する。まるで目に見えない蜘蛛が辛抱強く巣を編み上げているかのように、私の頭の中でアイデアが少しずつ確実に組みあがっていく。それが自分でもわかったとき、他にはない感動を味わうことができる。(本文より)」と書かれています。

 

アマゾンの内容紹介には、「ホラー映画の伝説的存在であるダリオ・アルジェントは、その特異な作品群でクエンティン・タランティーノジェームズ・ワンなど同時代の映画人たちをはじめ多くのクリエイターに影響を与え続けている」「世界的に有名なアルジェント専門家アラン・ジョーンズによる注釈付き」「撮影現場やオフショットを含む貴重な写真をカラーで収録」「ホラー映画ファン必読の、歴史的な一冊」などと書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「英語版への序文」アラン・ジョーンズ

母、そしてディーヴァたち
怪人
その他、子供時代に印象的だった人々
恐怖の夏
パリでの日々
育ち盛り
ラブ・アクチュアリー
二重のお祝い
セルジョ・レオーネ
蜘蛛の巣
鳥が巣立つ
それでこれはジャッロなのか?
娘、フィオーレ
災難
クロスワード・パズラー
動物の襲来
鏡を通して
女たち
路線変更
サーベルタイガー
ときに過去はよみがえる
子供の叫ぶ屋敷
誕生日プレゼント
暴力の爆発
人形の復讐
アーシア
すれ違い
火山の麓で
消えてしまいたい
中国は近い
ゾンビと歩いた
眠れる森の美女
殺人鬼に見張られて
自然の力
殺人猿
ファーブル氏
オペラ座の夜
一番の悲しみ
キラー・アイ
呪い
ラブ・ストーリー
私はダリオ・アルジェントではない
神よ、我が哀れな魂を救いたまえ
オーラの謎
パルテノン神殿フロイト
予感
怪人、再び
黒いトリノ
いつわりの祈り
イタリアからカナダへ(そして帰国)
過去からの声
彼女について
ポランスキーの印
ウィズイン・ザ・ウッズ
大通り沿いの家
砂の男
幸運な男
恐怖
「あとがき」
フォトギャラリー1 1970−1978
フォトギャラリー2 1980−1998
フォトギャラリー3 2000−2012
「訳者あとがき」野村雅夫
「訳者あとがき」柴田幹太
ダリオ・アルジェント 主要作品リスト」

 

「母、そしてディーヴァたち」では、著者は幼少期の記憶について、著者は「そろそろ4歳になろうかというある午後、母と父は私を劇場へ連れて行くことにした。理由はわからない。たぶん、乳母に僕の世話をする余裕がなかったんじゃないかと思うけれど、本当のところは誰も知らない。ともかく、私はその日、ローマの劇場で『ハムレット』を観ていた。両親は軽い気持ちで連れて行ったのだろうが、それがどれほど深いレベルで私に影響をもたらすか、それはきっとあまり意識していなかったに違いない」と書いています。

 

観劇は万事うまくいくように思われました。もちろん、舞台上の出来事すべてをはっきり理解しているわけではなかったにせよ、4歳児だった著者はかなり楽しんでいたようです。ただ、ハムレットの父親の亡霊が登場する段になると、著者はまわりの観客が驚くほどの叫び声をあげてしまったのです。その後、身体はあちこち勝手に震え出し、口からは泡を吹いていました。後にも先にも、そんな痙攣が起きたことはないそうですが、あの時はあまりに具合が悪かったので、著者は結局外へ運び出されることになったのでした。著者は、「あれ以降、私はすっかり変わってしまった。今でも集中さえすれば、脇のボックス席から観た舞台の様子をそっくり思い浮かべることができる。亡霊を演じたあの俳優の登場は、胸をナイフで刺されたような衝撃だったのだ。あの日にこそ、私はたくさんの魅惑を覚えた。誰も知らぬ間に、自分ですら自覚のないまま、種はしっかり播かれたわけだ」と述べています。

 

著者の母親は、モデル出身で写真家でした。幼かった著者はスタジオのメイク室に入り浸っていました。女性モデルたちは著者の目の前で服を脱ぎました。太ももや胸が突然目に飛び込んでくるわけですが、著者は「私はかなり昂っていたけれど、彼女たちにしてみれば、私なんてただのちびっ子以上の何者でもなかった。子供は性的なことはわかっていないと思われているフシがあるけれど、そんなことはない。子供は大人以上に性に対して敏感なものだ」と述べます。著者の母は、とにかく顔にこだわっていて、目と鼻と口のプロポーションについて、いつも話していたそうです。著者は、「光と影がそこに表情や感情を生み出し、動きを与えていく。私はその様子に魅了されていた。きっとそのせいだと思うのだが、今でもなお、私が女性に惹かれる要素の筆頭は顔だ。光の魔法は、きらめいて髪や目を輝かせ、肌にツヤを与えていく」「女性たちの超クロースアップと、強烈な目元のメイクが私の映画ならではの特徴だと指摘されることがある。まさにその通りで、それは私の子供の頃の視線そのものなのだ」と述べるのでした。

 

「怪人」では、著者の少年時代に、映画プロデューサーだった父親が家にいるとき、有名なプロデューサーや映画監督が我が家の夕食に同席するということがしばしばあったことが紹介されます。映画界の有名どころやお偉いさんが、我が家のソファーに腰かけて、おしゃべりしているのでした。デ・ラウレンティス一族が会いにやって来ることもありました。当時はイタリア映画がそれまでになく華やいだ時代で、ルキノ・ヴィスコンティフェデリコ・フェリーニエリオ・ペトリらが毎年のように新作を発表していました。著者は、「父の仕事は彼らの作品を海外に知らしめることで、必然的に彼らの多くととても親しくなった。大広間の1つに卓球台があったので、私と弟は食後に彼らによく試合を吹っかけたものだ。私たちの卓球の腕はかなりのものだったから、無敵のコンビだった。ベッドに就く時間になると父は私たちを呼び、来客にあいさつをさせた後に、寝室まで一緒にやってきて、微笑みながら言った。『今、卓球でやっつけたの、誰か知ってるかい?』こうして私は、映画と出会うことになったのだ」


著者はずっと孤独を愛しました。考え込んだり想像を膨らませたりするときに、孤独は役に立ったからです。自室は著者にとって王国であり、避難所だったのです。成長するにつれ、著者は家族の誰とも違っていることにますます気づかされることになりました。たとえば、初めてディズニー映画の『白雪姫』(1937年)を観た日のことをよく覚えているそうです。意地悪な女王が問う。「鏡よ鏡、わが欲望の忠実なる僕よ。この王国で一番美しいのは誰?」鏡が答える。「女王様、あなたこそ美しい。でもご注意あれ、あなたより美しい子供がこの世の中にはいるのです」。著者は、「魔法の鏡の言うことに私は納得できなかった! 白雪姫という天使のような少女が大嫌いだったのだ・・・・・・。血の通った生々しい女性であれば、何の疑問もなかったのに。意地悪な女王こそ、王国で一番美しかった」と述べています。

 

しばしば父と母の帰宅が遅くなることがあり、そんなときは著者たちは子どもだけで夕食を済ませ、父母は外食して帰るのでした。上着も脱がずに著者の部屋の前までやってきて、ノックし、父が「映画に行くんだけど、お前も来るかい?」と言われたとき、著者は嬉しくて、気も狂わんばかりでした。著者は、「上映室に入るときにくぐるあの重くて赤いカーテンや、映画が始まると急に聞こえなくなるおしゃべりに恋焦がれ、タバコと埃の混じり合った映画館独特の甘ったるい匂いさえもうっとりした。座席に腰かけて暗闇に身を沈め、大きなスクリーンに映る映像を観ることは、他の何からも得ることのできない感動だった。まさに魔法の空間に入り込んだように感じられるのだった。映画に行くことをまるで儀式のように重要な行為とみなし、上映室に入ることに対して聖なる場所に入ることと同じ意味を持たせていた」と述べます。


著者はまだ10歳にもなっていませんでしたが、夏休みのある日、祖母と弟妹たちとドロミティのモングエルフォにある避暑地に行ったときのことをよく記憶しているそうです。野外で特集上映が組まれていて、その夜はオペラ座の怪人(1943年)をやっていました。それは著者にとって間違いなく最初のホラー映画との出会いとなりました。年老いたヴァイオリン奏者が正気を失ってからは、愛する女性を誘拐し自らが暮らす地下室で調教し、ついに殺すに至るという物語は、著者を完全に虜にしました。著者は、「恐れおののくということはなく、むしろ魅了されていた。作品が持つ陰湿な雰囲気、精神崩壊の描き方、(崩れた顔立ちを隠すために仮面をまとった)主人公の恐ろしい外観が、私には衝撃的であった」と述べています。


怪人と化すヴァイオリン奏者にクロード・レインズという名優を起用した、アーサー・ルービン監督によるカラーバージョンでしたが、当時の著者にとってはそれが映画であるということだけで十分でした。それまで誰も教えてくれませんでしたし、自分でも考えてもみなかった世界に招き入れてくれた扉でした。禁断の愛に生きた醜い人間や怪物や殺人鬼が暮らす世界がそこにはあったのです。著者は、「夏休みが終わり家に帰ると、両親に映画のあらすじを語って聞かせた。「とても悲しい話なのね。でもとても美しいわ」。私が話すのを聞いて感動した母は感想を言ってくれた。あの物語はそれから先も私を見放すことはなかった。変身は完成した。つまり私は怪人になり、あるいは怪人が私になったのだ」と述べるのでした。


「恐怖の夏」では、ナザーレという私立の学校で学んでいた頃のエピソードが綴られます。読書に目覚めた著者は、手当たり次第にあらゆるものを貪るように読みふけりました。当時の子供なら誰もが読んでいたロシア文学アメリカ文学、それからフランス文学も読みました。もちろんすでにテレビはありましたが、当初それほど関心はなく、トワイライト・ゾーンシリーズを不安と興奮が入り混じった状態で追いかけるのは数年先のことになります。シリーズ第8話の「廃墟」での地球上に男が1人だけ生き残るというエピソードに著者は特に感動したのです。著者は、「その男は最終的に、つまり人類が滅亡して初めて、読みたい本を読みたいだけ読めるようになり悦に入るという物語だった。しかも、そうなった瞬間に男の眼鏡が壊れてしまうのだ! 私には男の絶望を手に触れるように感じることができた」と述べます。

 

 

しつこいリウマチ熱を患い、数ヵ月にわたりベッド暮らしをしたことがありました。布団の中に縛りつけられるというのは、誰にも邪魔されることなく聖なる静寂の中で読書をするための、究極の言い訳であるように思えたそうです。まさに『トワイライト・ゾーン』のあのエピソードのようでした。そのようにして著者は数日でシラノ・ド・ベルジュラックを読み漁り、そのロマンチックで苦痛に満ちた愛の物語に、他にはないほどに打ちのめされ、そして心を揺さぶられたのでした。その一方で、ダンヌンツィオの『快楽』アンドレアとエレナがひと口のお茶を一方から他方に口伝いに飲ませ合うシーンに、私はひどく動揺したものだ)や、エイナウディ社から出ていた千夜一夜物語の完全版のような、当時の著者の年齢にはそぐわない本との出会いもありました。著者は、「どれもとても露骨な出来事ばかりで、大人たちが性と呼ぶ神秘がそこにはあった。私にとってのマスターベーションの発見はそのようにしてやってきた」と述べます。

 

 

ある朝、いつもどおり自宅の書斎を漁っているときに、思いがけないことが起こりました。ダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーの極めて想像力豊かな物語や、シェヘラザードによって語られる愛に満ちた情事を、一発で粉々にしてしまう本に出会ったのです。黒の表紙に題名が金箔で浮彫りにされた分厚い本、それがエドガー・アラン・ポー『怪奇幻想物語集』でした。著者はそれを隅々まで読みつくし、その後でもう一度最初のページから読み始めました。著者は、「一度に少しずつ物語の中に足を踏み入れ、またその物語を記憶の中に送り込むにつれて、頭の中にずっとありながら、その存在に気づいていなかった部屋の鍵を見つけたみたいなものだと私は理解した。それはがらんとした部屋で、家具どころか何もないのだけれど、窓だけがいくつかあった」と述べています。

 

まさにポーの本を紐解くように、その窓を開け放ちさえすれば、未知の生き物が住む世界が自分の前に広がることがよくわかった著者は、「もはや私は病弱で寝込みがちな、痩せっぽちの内気な少年ではなく、あるいはもしかしたら、肉体さえも持っていなかった。生き埋めにされた人間たちが住む世界、閉じ込められた猫が死体の存在を暴き出す世界、愛する人間の歯や心臓が体からむしり取られる世界を、私は一気に発見したのだった・・・・・・。そしてそうした世界の中でこそ、私はようやく自分自身を感じることができた。すでにどこかで言う機会もあった通り、あの日、私の根本に関わる何かが起こった。マスターベーションから恐怖と神秘の崇拝へと、瞬きひとつする間に私は途切れ目なく飛び移ったのだ」と述べます。


ヴィンセント・プライスが主演した『地球最後の男』(1964年)というSFホラー映画があります。病気が人類のすべてを生きている死者に変え、地球上の最後の人はゾンビハンターになる物語です。ウィル・スミス主演のアイ・アム・レジェンド(2007年)に影響を与えた映画ですが、その中に登場する見捨てられた地区と同じようなEUR(エウル)を父親を歩いたときの思い出を、著者は「辺りを少し歩いてみると、その間、誰1人として出会うことはなかった。私たちは荘厳でとても美しい教会までやって来た。重たい銅の扉はわずかに開いていた。私たちが中に入ったときに、驚いたように急に羽ばたく翼の音が聞こえたのを覚えている。辺り一面のハトが一斉に飛び立ち、空中に見事な放物線を描いた。光の差し込む窓には、ガラスがはまったものもあれば、ほとんど割れたものもあった。その教会は完全にハトに占領されていて、私たちがその驚くべき光景の唯一の観客だった。その絶景の真ん中に私がいるということが、とても印象的だった」と述べています。


EURで著者が受けたその衝撃の大きさたるや、後になってミケランジェロ・アントニオーニの代表作『太陽はひとりぼっち』(1962年)の中で、その同じ場所が人の目に晒されるのを知ったときに、自分も同じようにやっておけばよかったと自らに言い聞かせたほどでした。著者は、「まあ、そんなこともあって『サスペリアPART2/紅い深淵』を、子供の頃の私を不安な気持ちにさせたトリノで撮ったときは、ローマ通りやCLN広場〔CLNは国民解放委員会の略〕を選んだのだし、さらに『シャドー』は、そのほとんどをEURで撮ったのだ。ファシズム期の構造主義的な建造物を用いたのは、驚きに満ちた眼差しを持ったあの時の少年に立ち返るための、一番ストレートで効果的な方法だったからだ」と述べます。


休学していた高校に復学して学業期間を修了した頃、ある晩、帰宅した父が「こんなものをプレゼントされたよ」と著者に言いました。ポケットから引き出したのは「恐怖の夏」と書かれた映画の無料招待券でした。お1人様限り有効で、それがあればその夜からメトロポリタン劇場で始まる特集上映のすべての回を観ることができるものでした。それを父から貰った著者は、「その日から3週間、何も手につかなかった。この特集上映がジャンルものだったことを父は知らなかったのではないかと、私は今でも疑っている。作品はすべてホラーやサスペンスばかりだった。私は毎日メトロポリタンに通って、必ず1作品は観るようにした。『狼男』(1941)、『ドラキュラ』(1931)、『透明人間』(1933)・・・・・・。その時私が観たのは、まぎれもなく傑作の数々であり、そのすべてが美しく、フランケンシュタイン(1931)のような古典もあり、他方で『第七の犠牲者』(1943)のように恐ろしく怖い40年代のアメリカのフィルムもあった。残念ながらすべての題名を覚えているわけではないが、それでもあの上映の破壊的な魅力は私の中にしっかり刻み込まれた」と述べています。

 

メトロポリタン劇場で多くのホラー映画やサスペンス映画を観た著者でしたが、不思議なもので、スクリーンで起こることにまったく怖さを感じなかったそうです。周りの観客は叫んだり、ビクッと体を動かしたり、手で目を覆ったりしていたのに。著者は、「たとえば、『獣人島』(1932)の中に描かれた奇怪さに対して、私が悲鳴を上げることはなかった。それどころか、あの現実離れした世界観に私は魅せられた、蜂蜜に群がる蠅のごとく熱狂した。まるで汚れたもののように誰もが黙して語らない、あの謎めいてソワソワ落ち着かない場所に、ついに私は入り込んだのだ。家では誰もそのことについて話さず、学校でも誰もそのことを話題に出さず、本の中でもこの異世界に向き合わなかった。スクリーン上、そしてポーのいくつかの短編小説の中でのみ、この多様性は語られた。私はまるで、催眠術にかかったようだった」と述べます。



それはあらゆる年代の子どもたちが怖い物語や見知らぬ物語に接したときに感じるものであり、しばしば著者の作品の若い観客たちがはっきり感じたと著者に告白してくれるものでした。著者は、「あの偉大なH・P・ラヴクラフトが書いているように、人類の最も古い感情は恐怖であり、また最も強い恐怖は未知に対する恐怖なのだ。だからこそ、私はまるで自分が新しい生命体や地球外の生命体、あるいは、そう、まさに未知の生命体を研究する科学者になったつもりで、当時の作品を観ていたことを覚えているのだ。あの作品の数々は私に対して、他でもない私のことについて語っているように感じていた」と述べます。父の友人、批評家、それから自宅によく来ていた業界人たちは「吐き気がするな、こんな映画は」などと怖い映画を侮辱していましたが、他の人間が「吐き気がする」と言えば言うほど、著者はますますそういう映画が好きになり、そういう映画を自身の一分としてさらによく理解できました。


「パリでの日々」では、著者は、休暇と勉強を兼ねて南フランスのコート・ダジュールでホテルを経営している父の友人のもとへ向かいます。新学期のスタートに合わせてパリに移った著者は、レオナルド・ダ・ヴィンチ高校に転校。午前中こそ勉強していたものの、あとはずっとシネマテーク・フランセーズに閉じこもって映画を楽しみました。すでに観ていた作品だろうとお構いなしで、イタリアにはまだ入っていない作品も多かったそうです。他にも、2本立て、3本立てで上映するサークルがありました。1本目がイングマール・ベルイマンで、次にフリッツ・ラングというような感じだったとか。著者は、「あの頃、私は片っ端から観ていった。アメリカ映画、ロシア映画表現主義・・・・・・。いくら観ても足りなくて、もっともっと観たがった。映画に飢えていたのだ。とにかく夢中で、欲張りだった。晩ごはんは安い食堂で適当に済ませた。それが温かい食べものであれば、あとはなんだって良かったのだ。食事中にも、観てきた映画を脳内で反芻しては、気になったシーンや筋立てを思い返していた。何もかもがごちゃまぜで、それでいて最高だった」と述べます。


パリでの著者の異性関係も語られています。著者は同い年の女の子たちとは、建物の門の裏とか人目のつかないところで軽くキスをしたり、身体を触れ合ったりする程度にしか踏み込むことはなかったとして、「何人かとは大人みたいにしっかりデートをしたことはある。一緒に映画館へ行ったのだ。覚えているのは、それから数年後、『サイコ』(1960)が封切られたときのこと。ローマの劇場にかかる初日、最初の上映には私は当時のガールフレンドと出かけた。舞い上がっていたので、かなり早く着いてしまった。劇場の暗がりで、彼女は私が熱いキスに及ぶのを期待していたのだろうけれど、こちらとしては映画の方がよっぽど興味があったのだ!」と述べるのでした。


ラブ・アクチュアリー」では、『パエーゼ・セーラ』紙で映画批評を担当した興味深いエピソードが語られます。フリッツ・ラングのインタビューを提案されたときのこと。ラングは著者にとって伝説的な人物でした。ドイツ表現主義とマブゼ博士を主人公にした一連の作品は、映画的作劇の理解を根本から変えてしまったからです。著者は、「残念ながら、アルフレッド・ヒッチコックにインタビューすることはついに果たせず、それがかなり心残りだ。彼は記者会見をすることはあっても、個人的なインタビューについては許可を出さなかったのだ。私がヒッチコックを近くで見たのは、ローマ中心部にある有名なレストラン、フォンタネッラ・ボルゲーゼだった。私は父と一緒で、何テーブルか向こう側にいたヒッチコックは、妻のアルマやその他大勢と席を囲んでいた」と述べています。


フォンタネッラ・ボルゲーゼでのヒッチコックは、お仲間が夢中で話して笑って冗談を飛ばしている間、黙りこくっていました。ときどき手を挙げてウェイターを呼び寄せては、こんがり焼いたカナッペを注文していたといいます。手慣れた仕草でそこにバターを塗ると、妻にやさしく差し出すのでした。著者は、「その晩の私には、一歩踏み出す勇気がなかった。それでも、機会を見つけては雲の上の存在とも言えるような偉人たちにインタビューすることができた。ジョン・ウェインピエトロ・ジェルミヌーヴェル・ヴァーグの代表的な面々、そしてある時にはなんとビートルズにまで・・・・・・。ちょっと前までは、パリのストリートをうろつくごろつきみたいだった私が、今ではフィアンセと幸せな時間を過ごし、国際的なスターたちに親しく話せるような仕事に就いている。それはまるで夢みたいなことだった」と述べます。


「二重のお祝い」の冒頭を、著者は「1964年の夏、フェデリコ・フェリーニの映画のセットに出入りする特権を得た。私が子供の頃、フェリーニは我が家の応接間に通ってくる人たちのうちの1人だった。彼の住んでいたマルグッタ通りは、私たちの家からすぐそばのところだった。フロリアーナが一時期、短い間だったけれど彼の秘書をしていて、いつの間にか相談相手みたいになっていた。そんなわけで、魂のジュリエッタ(1965)の撮影期間中、自分の妹にあいさつに行くことを口実にしたり、新聞関連の目的だとかと言い訳したりして、制作途中のフェリーニを間近に観察することができた」と書きだしています。


「蜘蛛の巣」では、映画の脚本を書くことについて述べられます。ある種のトランス状態で書いていると、スティーヴン・キングの言うところの「邪悪な半身」に到達し、そうなって初めて深いセリフを作り出せるようになるとして、著者は「ときどき私は、自分の書いたものを読み返して、頭の中で繰り広げられていたものに面食らうことがある。きちんと分析してもらったことはないけれど、自分自身を客観視する必要を感じるときや、自己矛盾に陥りそうなときはいつも、別の新しい作品に身をゆだねることですべてが解決する。『81/2』フェデリコ・フェリーニの代表作の中でも私が最も頻繁に繰り返し見た作品だが、それを彼は『ふらふら不安定な精神カウンセリング』と呼んでいた。自分の作品について何かを書くときに、私もよく使った表現だ」と述べます。


「災難」では、著者のどの映画の中にも、フロイトの思索やその理論があることが明かされます。著者がウィーンに行くときは、今は博物館になっているフロイトの自宅を必ず訪れるそうです。著者は、「それは街で唯一の上り坂であるベルクガッセ地区にある。そこにあるあらゆるものが私を魅了する。ソファとか犬の写真だとか・・・・・・。私にとってフロイトは二重の価値を持つ。ひとつには彼から知的な刺激を受けていること、そしてもうひとつは彼が私にとっては真の芸術家であること。映画を見た人なら誰でも知っていることだけれど、私の脚本の中で芸術家とは贖罪しなければならない存在であり、だからこそほとんど自動的に災難に巻き込まれる。それはまるで物語の中で、フロイトが私にもたらしたものに対して復讐しながら、同時に彼に感謝しているようなものだった」と述べます。


クロスワード・パズラー」では、著者は超現実的なことを信じてはいませんが、文化的な現象としては魅了されていることが明かされます。サスペリア(1977年)の準備をしている頃、秘教的な資料(1920年代から30年代のフランスのものなど)を、有名なのはあらかた調べ尽くしたそうです。一方で、偶然の一致や運命の悪戯は信じるたちだとして、「たとえば、私の家族にはフランチェスコという大伯父がいて、彼は超能力者だった。トラズィメーノ湖のほとりにある小さな町の教区司祭で、病気を治癒してくれる人として、地域ではよく知られていた。ウンブリア州全土を何年かけて巡り集めた妙薬の調合法を駆使して、貧しくて本物の医者に診てもらえないような人や、そもそも一般の薬を疑ってかかるような人を助けていた」と述べています。

 

治療で得たお金で、大伯父は教会を拡張し、映画館を開設し、地域の暮らしを改善するための事業を起こしまし。するとある頃から、ペルージャ大司教が彼を訝しむようになり、その行動に目を光らせ始めました。治療以外にも、フランチェスコおじさんはダウジングの研究にも熱心だったのです。著者は、「何かアイテムを使って修練を積んでいけば、無機物から発せられる放射線をキャッチできるという、あれだ。おじさんもやはり、振り子の揺れによって、行方のわからなくなっていたものをわんさと発見することができたらしい。それがゆえに、彼は『魔法使い』と呼ばれていた。そんな調子だから、教会がおじさんを監視下に置くというのも理解できる。妖術にまで発展させてしまうのではないかと恐れられていたわけだ・・・・・・。結果として、おじさんは教区を取り上げられ、修道院へと送られてしまった。書物や調合法をまとめた書類、それに調剤に用いるハーブまで、とにかくすべてが押収された」と述べるのでした。


「暴力の爆発」では、1975年3月に公開されたサスペリアPART2/紅い深淵』について語られます著者は、一作品ごとに、そのときどきで自らを研鑽し、その後の著者のトレードマークとなる殺人の美学を作り上げてきました。そのために、観客だけでなく著者に続く他の監督たちの想像力にも影響を与えようとしたのです。だからこそ、黒手袋の殺人者は残虐行為に及ぶ前に、必ずまったく同じ儀式を繰り返しました。両目に化粧を施し、武器をじっと眺め、実際に存在するものであると同時に、その病んだ心の投影でもある小さな置き物を吟味します。これらを満足いく形でとらえることができたのは、シュノーケルという当時開発されたばかりの、内視鏡の原理を利用した長さ調整可能なミクロレンズのおかげだったと言わなければならない」と述べています。

 

新しい映画のヒントを探し求めて、著者はヨーロッパ中を長く広く旅して回りました。19世紀から20世紀初めの秘教や錬金術に関する有名な資料を片っ端から読み漁り、哲学者ルドルフ・シュタイナーの学説を掘り下げ、お香漂う大聖堂や「呪われた」場所を専門とするカビだらけの図書館を巡ったといいます。魔女や魔術師の疑いをかけられた人たちや、――スイスとドイツとフランスにまたがる地域からなる――いわゆる「魔術の三角形」の中で起きた超常現象を目撃した人たちに関する恐ろしい数の証言を集めました。しかしながら、そうした人たちと知り合いたいと思っていたにもかかわらず、残念ではあったけれど、本物の魔女に会うことはついにできなかった。著者は、「出会うことができたのは(驚くようなものもあれば、ゾッとするものもあったし、無理やり押し付けられた明らかなペテンが笑えるものもあったけど)、どれもこれも結局は全部単なる偶然の一致、あるいはユング共時性と呼んだものを思わせるただの逸話だった」と述べるのでした。


「すれ違い」では、ブライアン・デ・パルマファントム・オブ・パラダイス(1974年)を観て、著者はジェシカ・ハーパーに魅せられ、ミュージカル『ヘアー』の初演で舞台に立っていたことも知っていたことが明かされます。著者は、「ハーパーの事務所からは、どの映画なのかはわからないけれど、当時彼女が別の映画で動き出していると明かされた。会ってみると、私はその顔つきに心打たれた。あの大きな目に、柔らかい顔立ちは、少女のような印象だ。言ってみれば、恐怖の国の新しいアリス、あるいはディズニーのアニメ映画のヒロインという感じで、要するに役にぴったりだったのだ。彼女は『サスペリア』の脚本を読んでいて、気に入ったと言ってくれた。動き出していた別の映画については、彼女が出演を引き受けてくれた後になって知ったのだけれど、ウディ・アレンアニー・ホール(1977)だったらしい。最終的には私と一緒に仕事をすることを選んでくれた。私の作品なら主役を張れるということも要因になったと思う」と述べます。


「消えてしまいたい」では、著者がいつも恐怖に駆られていたのは、内なる悪魔と戯れたことで罰を受けた先人たちと同じような死を迎えることだと明かされます。著者が好きだった作家たち、つまりは、人が考えうる最も恐ろしい悪魔を綴ってきた作家たちは、みんな悲惨な末路をたどりました。一番有名な例を出すとするなら、エドガー・アラン・ポーです。著者は、敬愛するポーについて「アルコール依存症による幻覚に苦しんだ彼は、貧困と孤独の中で惨めに死んでいったのだ。たぶん、似たような病気があの時の私を蝕みかけていたのだろう。死を考えていたのが、その証拠だ。思うにあの頃は、私もどうかしていて、自分がコントロールできなくなっていたのだ」と述べています。ちなみに、著者は大麻を常用していました。

 

「中国は近い」では、ニューヨークでの出来事が紹介されます。著者は、誰もが「将来有望な若手小説家」と認めるその男と知り合う機会がありました。彼は30歳で、分厚いレンズと巨大なフレームの眼鏡をかけていて、ほとんど言葉を発しませんでした。彼の代理人が4番街に素敵な家を持っていて、まさにそこで著者は彼を紹介されました。握手を交わしたときでさえ、彼は小さな声で自分の名前を言っただけでした。「スティーヴン・キングです」と。著者は、「私は彼の本を読んだことはなかったけど、世界で最も売れっ子になる彼も、まだあの当時はそれほど有名ではなかった。それでも彼が私の『サスペリア』を見て、しかもとても気に入っていたということを聞いて、私の慌てぶりといったら見られたものではなかったはずだ。そのちょっとあとで、ようやく場が落ち着いてきたときに、特に衝撃を受けたのは天井からウジ虫が落ちてくるシーンだとキング自身が教えてくれた(彼が数年後に書くことになる、ホラーについての評論集『死の舞踏』の中で、このことに言及してくれるほどだったらしい)。魔女たちが天井裏に死体を隠し、ウジ虫が決定的な証拠になるという話は、私自身も特にずっと気にかけていたシーンだったから、とても嬉しくなった」と述べています。


「ゾンビと歩いた」では、ある朝、夜明け近く、カトマンズの「夢の庭」、カイザー・マハルの芝生にフランス人の友人たちと寝そべっていたエピソードが披露されます。そこは木々と水が織りなす魅惑の楽園でした。ちょうどみんなでマリファナをやったところで、感覚に変化が生じていたタイミングでした。著者は、「体は心地よく緩んだ感じで、あたりは実際よりもきれいに映ったわけだ。しばらくすると、何やら騒がしい集団に静寂がかき乱された。本当にかなりの騒ぎで、叫び声をあげる人と一緒に、大勢が同じ方向に駆け足で向かっていた。当時相当な有名人だった瞑想指導者Osho(バグワン・シュリ・ラジニーシ)がちょうど通りかかっていたのだ。彼には地球規模で信奉者がいて、ビートルズの友人ですらあった。フランス人たちは彼の見た目にとても惹かれていたが、私はそうでもなかった。それはともかく、彼とその信者が放つ強烈なエネルギーは感じ取ることができた。ラジニーシがこの世を去ってから気づいたのは、慕っていたのは西洋人ばかりで、アジアの人々はほとんどいなかったことだったけれど」と述べています。


また、ホラー映画の巨匠であるジョージ・A・ロメロが登場します。ロメロは、最良のホラー映画のひとつ、いや、間違いなく映画史において最も有名な作品のひとつでもあるナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1968年)の監督ですゾンビという存在を再評価し、現在の私たち誰もが知る枠組みを生み出した人物なのですから。ある晩、ロメロは著者たちを自宅でのディナーに招待してくれたのですが、たまたまその日はケーブルテレビで著者がメガホンを取った『歓びの毒牙』(1970年)が放送されたそうです。食事の後、全員でソファーに座って観ることになり、著者としては少々困惑したとか。映画が終わると、友人が興奮気味にロメロに「君とダリオの2人で、何か一緒に作ってみたらどうだ? アメリカとイタリアが手を結ぶ、一大国際共同製作というわけさ・・・・・・」と提案したそうです。著者は、「すぐに現実味を帯びるようなことではないとはいえ、企画には2人ともそそられるものがあった。ちょっとした冒険心が必要だったし、いくつか契約も定めないといけなかった。投資するお金も必要なら、いろんなたぐいの障害もかわしていかなければならなかった。そのうえで、ついに、何年もかけて苦労した後に、私たちは『ゾンビ』(1978)を一緒に作り上げた」と述べています。



ゾンビに魅了された著者は、ダリア夫人とアンティル諸島に旅をします。ゾンビについてもっと深く知るためでした。著者は、以下のように述べています。
「夜には、ダリアと私の泊まっていたホテルの窓から、メラメラと高く燃え上がって揺れる炎がいくつも見えた。その火の周りでブードゥー教の儀式が行われていることはわかっていた。少し寄付金を払えば、誰でも参加できる。興味深いものもある一方で、伝統的な踊りを披露するものや単に観光客向けの演目にとどまるものもあった。ただし、一度、おぞましい出来事に立ち会うことになった。ママと呼ばれる位の高い指導者が、儀式の際に若い女を蛇に変えたのだ。彼女は地面を這い回り始め、本物の爬虫類のように口から舌を出しては震わせ、身をよじらせている。ママは地面に小さな穴を掘り、そこに卵をひとつ据え付けた。蛇女は這って少しずつ近づき、たどり着くと、卵をカツカツカツと歯で叩いた。やがて卵が割れると、中身を一口ですすって飲み込んだのだ。儀式に立ち会っていた人は誰もが陶酔していた。何やら薬を飲んだことで、相当興奮した状態だ。おそらくはそれも演出だったのかもしれないが、あの炎に照らされて、ダリアと私はかなり衝撃を受けた」


「眠れる森の美女」では、インフェルノ(1980年)に言及しています。持ち得る創造力の限りを尽くし、やみくもに心配した『インフェルノ』だったのですが、今でも著者はこの作品を自分のキャリアの中でも極めて謎めいたものの1つとみなしているそうです。著者は、「自分の作品が何を描いているのか説明を試みることは、私にとっては常にとても難しいことで――他人の言うことは気にしないし、私の代わりに映像が語ってくれることをいつも祈っているのだ――、『インフェルノ』の場合はいつもに増してそれが真実だった。それはまるで、1つの出来事が別の出来事の中にずれ込み続けている入れ子構造のようなもので、物語の進行に合わせて登場人物たちは1つの方向に向かうのだが、それを見ている人たちは思いがけず主人公だと信じていた人物が実際には助演的な役であることに気づいたり、観客たちの見ている目の前で物語自体が形を変えたりするのだった。私はキース・エマーソンに、カール・オルフの声楽作品であるカルミナ・ブラーナのようなサウンドトラックの作曲を依頼した。物事が展開する中に恍惚とした雰囲気を作り上げてくれたのが、彼の仕事だった」と述べています。


サスペリア』の根底に「白雪姫」の寓話が何らかの形であるのであれば、他方『インフェルノ』では「眠れる森の美女」をはっきりヒントにしていました。著者によれば、(エレオノーラ・ジョルジが演じた)サラという登場人物の指に何かが刺さると、まさにその瞬間にある種のパラレルワールド――うっとりするような呪われた世界――に入りこみ、そこからは二度と戻って来ることはできないのだといいます。著者は、「夢が作品全体を支配する暗号であるということは、完全に水の中で繰り広げられるシークエンス――人によっては私が監督した中で一番怖いと感じる場面――を考えてみればこと足りる。1人の女性が失くしたものを取り戻すために、水で満たされた小さな穴に降りていく。実のところ、そのすっかり水に浸かった部屋の中にはすべてがそろっている。家具、絵画、ドア。これは夢とはどういうものかを典型的に示すもので、そこでの出来事は腐りかけの死体が見つかっていよいよ興味深いものになる。女が金切り声をあげようとした瞬間、口の中に水が流れ込み、暴れれば暴れるほどますます酸素は失われていく。水面に浮かび上がることはできず、頭を激しく振り、素足のままその死体を蹴りつける・・・・・・」と述べるのでした。

 

「殺人鬼に見張られて」では、著者は「日の目を見ない映画には、必ずその理由がある」と主張します。不測の事態、注意不足、不運、不安、怠慢などなど、たくさんの原因が積み重なり、何ヵ月もかけた仕事が台無しになってしまうわけです。著者は、「これまでに映像化できなかった話は本当にたくさんある。たとえば、信頼できる男ルイージ・コッツィとも、フランケンシュタインの再映画化に取り掛かっていた。1920年代のドイツを舞台に、『怪物』の誕生とナチズムの誕生が足並みを揃えていくのだ。だが、アイデアとしては、シンボリックすぎて、キャラクターの権利を保有していたハマー・フィルムに製作の許可を出してもらうことはできなかった」と述べています。

 

 

また、「政治的な」パターンの物語としては、赤い旅団についての映画もありました。モザンビークに派遣されたイタリアの兵隊についてのものや、著者のパリでの経験を一部踏まえた学校の占拠についてのものもありました(学生グループが教室に立てこもり、新しい自立した社会のために命をかけるという、『蠅の王』を少し手本にしたようなもの)。さらに、石油掘削施設を舞台にした『ファンゴ』などもありました。著者は、「もちろん、古典から現代のものまで、文学作品の映画化で日の目を見なかったものもある。ドストエフスキー『悪霊』アガサ・クリスティ『三匹の盲目のねずみ』、H・P・ラヴクラフトクトゥルフ神話、ジェームズ・オバーの『ザ・クロウ』(これは後にアレックス・プロヤスが監督した)、吉本ばなな『N・P』・・・・・・。最近だと、アメリカの製作会社にチャールズ・マンソンの物語を映画にしないかと提案されたことがあった」と述べます。

 

 

70年代にまでさかのぼることですが、著者が唯一本当に残念だったのは、若きスティーヴン・キングを紹介されたときのことでした。彼は、著者が知り合った中で一番気難しい人物だったそうですが、イタリアでは当時まだ訳されていなかった小説呪われた町(1975年)を映画化してくれる監督を探していたのです。著者は、「ニュー・イングランドを舞台にした、感動的で心を揺さぶる吸血鬼の物語だったが、私はそこから何ひとつうまく引き出すことができなかった。思い返すと、今でも当時の自分に腹が立つくらいだ。それから数年後のこと。ある日、キングのエージェントから再び連絡があった。彼は本当に好人物で、新しい提案をしてくれたのだ。その時に動き出していたのは、登場人物がかなり多い『ザ・スタンド』(1978)で、残念ながら、私はまたもや失敗を犯してしまった。原案をまとめるには、アメリカ人の作家の支えが必要だと、わざわざひとりそのためにローマまで来て滞在してもらったのだが、私たちは数ヵ月にわたって懸命に働いたものの、物語のスピリットは本の中に閉じこもったままで、うまく引き出すことはできなかった」と述べます。


著者は、「殺人鬼に見張られて」というタイトルの物語を書き始めました。主人公ピーター・ニールは、犯罪小説のアメリカ人作家で、新作プロモーションのためにローマへやって来ました。すると、サイコパスから立て続けにかかってくる脅迫電話に悩まされるようになります。ニールのことを「大いなる堕落者」と呼ぶ男は、苦しめる度が過ぎるようになり、作家の最新作につながるような連続殺人を実行していくのでした。著者は、「不道徳で女性蔑視的な物語の作り手だとか、暴力描写を大画面で見せるというだけで怪物だと私を批判する人々に対して、私としてはこの新作で雪辱を果たしたかったのだ。『シャドー』(これが結局は正式なタイトルになった。昼日中に起こる出来事を描いてはいても、私の好奇心をくすぐる心の闇についての物語だったからだ)において、私のフィルモグラフィの中でも屈指の数の殺人が起こるのは偶然ではない」と述べるのでした。


オペラ座の夜」では、著者がランベルト・バーヴァの新作『デモンズ』(1985年)をプロデュースし、そこにフィオーレが出演することになったエピソードが語れられます。このプロジェクトを動かしている最中に、著者は刑務所に入れられたのですが、当時のランベルトは本当に才気煥発でした。著者は、「映画館の中で感染が起きるというこの物語は、ホラー映画史の最重要作品のひとつと言える彼の父マリオの『血塗られた墓標』(1960)へのオマージュであることを超えて、映像的な発明と優れたストーリーテリングの勝利だ。あそこにはすべてがある。映画館に落下するヘリコプター。劇場内を走り回るバイク。怪物への変身と、文字通りバラバラにされる肉体。80年代の消費主義を見事に反映した作品で、ロメロのゾンビ同様、私たちのデーモンは理想など待ち合わせていないのだ」と述べています。


「キラー・アイ」では、オペラ座 血の喝采(1987年)について語られます。著者がそれまで監督したどの映画よりも絶対的に苦労の多い、思い悩んだ作品で、同時に制作費も一番かさんだといいます。主人公の女性ベティは自分がよく見る夢(フードをかぶった男や叫ぶ女)に苦しんでいて、それが実は記憶に由来するものであることに、その辛い経験から気づくことになります。やはりオペラ歌手であった母親が、愛人との情事の前に、哀れな人々を自分の目の前で虐待させていたのです。少女だったベティは、死の宴の最中に彼らに遭遇していたことがあり、意識下にあるその記憶を消し去ろうとしていました。著者は、「彼女も今や大人になり、母親はもうおらず(まさに愛人に殺されたのだが、ベティはそれを知らない)、殺人鬼は彼女を求めている。殺すためではなく、愛するために。彼はあえて彼女のそばで人々を虐待して死なせ、母親と同じように、彼女もまた血を見ることで興奮するに違いないと、毎度その場に立ち会わせているのだ。親の罪が子供に降りかかっていく典型的なケースだ」と述べます。


「オーラの謎」では、セイラムの町を訪れた著者がナサニエル・ホーソーンの生家を博物館にしたところを訪ねたことが明かされます。著者は、「この作家に――不穏さを愛することを恐れなかった人だ――私は長らく暗い魅力を感じ続けていた。その夜、まだセイラムにいるうちから、私は『オーラの謎』という題名の物語を書き始めた。拒食症に苦しむアメリカ人の少女が、夢と現実の間のような奇妙な体験をするというストーリーだ。イタリアに戻るとすぐに、私はその物語を手直しして、フランコ・フェッリーニとジャンニ・ロモリと一緒に『トラウマ/鮮血の叫び』(1993)のあらすじを書き上げた」と述べています。著者の狙いのひとつは、思春期特有の精神的な不安定に声を与えてみるというものでした。著者のとても身近な人間が拒食症で苦しんだことがありました。著者は、「当時この疾患についてはほとんどが知られていなかったから、そのことを語るのはとても重要であるように思えた。加えて、私自身にも過去に摂食障害があったことも認めないわけにはいかなかった」と述べています。

 

 

パルテノン神殿フロイト」では、イタリアの女性精神科医グラツィエッラ・マゲリーニの書いたスタンダール症候群 La sindrome di Stendhal』という本が紹介されます。著者は、「あまりの美しさや威容、芸術作品に隠されたメッセージを目の前にしたときに、観光客がめまいや失神などに襲われる心因性の症状があることを知ったのは、それが初めてだった。この名前は、フランスの偉大な作家であるスタンダールが初めて言及したことに由来する。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂を訪れたときに、彼自身が気分の悪くなるめくるめく感覚の渦に見舞われたのだ」と述べています。この本について書かれた新聞の書評記事を読んだ著者は、自分の少年時代を思い出したといいます。14歳になろうかという頃のこと。著者は両親に連れられてギリシャでバカンスを過ごしていました。パルテノン神殿を訪問したとき、あの芸術作品を前にした著者は、催眠術でもかけられたみたいになったのでした。


パルテノン神殿は教科書の写真で馴染みがありましたし、近くでつぶさに観察できる機会とあって、著者は興奮していました。ただし、あんな驚異的なものを目の前にするというのは、それまでの経験をはるかに凌駕するものだったのです。著者は、「少しずつ見ていくと、大理石のフリーズに彫り込まれた人間や神々の像は、まるで私に話しかけてくるようだ。いや、そのまま飛び出してきて私をとっ捕まえそうな雰囲気もあるじゃないか。同じように、巨人族とアマゾン族が・・・・・・。どこを見ても、巨大で威嚇的な生き物がいて、彼らもまさに私をじっと見ているような感覚に陥った。たぶん、私はあの世界に吸い込まれ、レリーフ彫刻の罠にまんまとはまっていたのだろう。あるいは、時空の旅人となってトロイア戦争を目撃していたのかもしれない。大地を駆ける馬の足音やギリシャ軍の叫び声が聞こえ、鉄や燃え盛る炎の匂いも漂っていた・・・・・・。あれは強烈なめまいで、ほとんど意識を失いかけていた」と述べるのでした。


「怪人、再び」では、『肉の蝋人形』(1997年)に言及します。『オペラ座の怪人』を書いたフランスの作家ガストン・ルルーの『盗まれた心臓』(1920年)にインスピレーションを得た映画です。アーサー・ルービンが40年代に同じタイトルで映画化しており、著者も子供の頃、兄弟や祖母のラウドミアと一緒にドロミティ渓谷の野外上映で観たそうです。著者は、「ルルーの作品については、すでに『サスペリア』の後ぐらいから、いつか映画化したいと温めていた。登場人物にラスプーチンが混じっているような、ロシア革命の時代を舞台にした映画を作りたいと思っていたのだ。モスクワでロケハンも少ししてみたのだけれど、物語の雰囲気に見合うような場所に出会うこともできなかったうえに、地元の当局ともぶつかってしまった。あの物語は何度となく映画化されているのだからと自分を慰めつつ、よっぽど斬新な何かがないと形にするのは難しいなと感じていた。ところが、こうも思っていた。怪人は私を探しに戻ってきた、と。とてもじゃないが、もう無視できない段階に入っていたのだ」と述べます。


また、オペラ座の怪人(1998年)も言及されます。怪人役にはジュリアン・サンズを抜擢しましたが、著者は「醜い存在にしたくはなくて、むしろ魅力ある男で音楽にも造詣の深い男にしたかったのだ。女たらしで、ヒロインが本気で惚れてしまいかねないような男だ。怪人はネズミに囲まれて育ったことにした。これは、資料集めの段階で思いついたことだ。ある日、オペラ座の図書室を大きなネズミがウロウロしているのを見ていたのだ。怪人の身体にネズミたちがわんさと群がっているシーンを撮影するとき(例によって、撮影現場にいたのはすべて本物の動物だ)、ジュリアンはヨガの師匠の教えを実践して、一種のトランス状態に入っていた。彼は最初から最後まで完全なる沈黙を守っていて、あれは本当に不気味だった」と述べるのでした。


「過去からの声」では、著者と死の関係は変わっていて、それが「魔女三部作」の最終章であるサスペリア・テルザ/最後の魔女』(2007年)の要素が優勢になっている理由のひとつに違いないと述べます。構想段階では、主人公は考古学者で、アフリカでの発掘の途中に、女性をかたどった小さな像を発見します後、ローマへ戻ると、彼は具合が悪くなってしまいます。その頃、ある秘密結社の会員たち(永遠の都ローマに陣取る、「涙の母」を崇拝する集団)は、人類が自滅してしまうようなウイルスをばらまこうと準備をするのでした。著者は、「こんなアイデアを提案してくれたのは、アダム・ギーラッシュとジェイス・アンダーソンだった。『マスターズ・オブ・ホラー』をきっかけに知り合った、才能ある脚本家コンビにして、実生活では夫婦のふたりだ。私とコラボレーションしたいと向こうから持ちかけてくれたので、それなら『サスペリア・テルザ/最後の魔女』の草稿を練ってみてくれないかと頼んだのだ」と述べています。

 

「彼女について」では、『サスペリア・テルザ/最後の魔女』のおかげで、著者は二度目の青春時代を生きたことが紹介されます。この作品は2007年10月31日に封切られ、その前の週に著者はローマ国際映画祭に招待されました。著者だけのために用意されたその夜、三部作すべてが一気に上映されました。伝統的なレッドカーペットではなく、この時のために著者との足元には黒のカーペットが敷かれ、著者をぐるっと囲む人々は狂喜していたそうです。著者は、「観客がそんなに集まってくれたのを目の当たりにするというのは心震えることだったし、みんなが私の映画に期待しているのはわかっていたけれど、そんなファンをがっかりさせるんじゃないかというドキドキは、眠気もふっとんでしまうほどのインパクトがあった」と述べています。

 

 

著者の映画について、吉本ばななは「子供の頃から、自分が普通ではないという強迫観念に苛まれてきたが、あの映像を見て初めて、私もこの世界で生きていてもいいんだと認められた気がした」と書いています。また、彼女は「1人の人間が自身の才能の証しを立てると、そのことを深く受け入れてくれる誰かが世界のどこかに必ずいる。だからその人の輝きは永遠にまぶしいままなのだ」とも書いています。著者にこの言葉はとてもよく響いたそうです。著者は、「吉本ばななに対する愛情と、彼女が私に対して持っている愛情は、かけがえのない財産だ。映画祭のあの夜、彼女はわざわざ私のためだけに日本からイタリアまで来てくれて、息子を家政婦と2人きりで置き去りにしなくて済むように、まだ小さかったその愛息マナチンコも一緒に連れてきたのだった。上映後私たちは、一緒に食事に出かけた。彼女は極めて上品で愛想が良く丁寧な人だけれど、それでいて度が過ぎるようなことはまったくない。私たちはときどき手紙のやり取りをし、福島の震災のときにも私がすぐに彼女に連絡をすると、彼女は被災した人たちのことを思ってとても心を痛めていた。かつて宣言したとおり、彼女の小説を映画化すべきだったのかもしれないけれど、今のところそれが具体化することはなかった。最近では『彼女について』という本の中に、私への献辞を入れてくれていたから、いかに私のことを好いてくれているのかを、そうした彼女の振る舞いからも感じ取ることができた」と述べています。


「ウィンズイン・ザ・ウッズ」では、2010年、著者はロンドンにいて、ちょうどそのときマーティン・スコセッシブログ「ヒューゴの不思議な発明」で紹介した2011公開の映画を撮っていたことが紹介されます。ある日、著者はその撮影現場をたまたま訪ねて、3D映像が持つ可能性にすっかり魅了されることになりました。著者は、「それまで考えてみることさえしなかった技術だったけれど、素晴らしいお手本は――過去の映画作品の中にも――いくらでもあった。シネフィルなら誰でも知っていることで、ヒッチコックは50年代にワーナー社の意向に従って、彼自身が不本意ながら「小品」とみなしている作品のうちの1本、すなわち『ダイヤルMを廻せ』(1954)をまさに3Dで撮っていた。あの当時、ステレオスコピック立体視映像)として撮影されたシーンは、多くの場合一作品のうちのわずか数分であることがほとんどだった。しかも、そのシーンになるとスクリーンに「3Dメガネをかけてください」というお知らせが現れ、シーンの終わりには観客にそのメガネを外すことを指示する別のお知らせが映されるというものだった」と述べています。


グレース・ケリーが彼女を殺そうと襲いかかる暴漢の背中にハサミを突き刺して危機を免れるという『ダイヤルMを廻せ』の素晴らしいシーンは、信じられないほど生々しかったという著者は、「電話のダイヤルや、犯人を釘付けにする鍵といったあらゆる細部を――それまではありえなかった3Dという技術のおかげで強調することができた――、ヒッチコックは物語に対して影響を及ぼし得るものにすることができた。遠近法、すなわち奥行きを最大限に活用したのだ。私はこの映画をしっかり記憶していると思っていたけれど、まるで初めて見たような印象を受けた。このことが私に、あらゆる時代を通じて最も有名なホラーの1つ、つまりドラキュラの伝説に挑戦してみようという気にさせる原動力となった。ブラム・ストーカーの小説から映画的変容は数限りなく多岐にわたるが、その中に吸血鬼伯爵の物語を3Dで語ろうとしたものはなかった。険しい道のりではあったものの、そんなことはもちろんわかっていたし、だからこそやってみる価値があった」と述べるのでした。


「恐怖」の最後では、著者は「私にはひとつだけ確信していることがある。世の中に怖がらせるべき人がいる限り、私は幸せなのだと」と書いています。また「幸運な男」では、「結局のところ私のどの映画でも、こうした予測不可能な出来事がほとんどの割合を占める。理解のできないエピソードが、時として人間の運命をめちゃくちゃにしてしまうのだ。スリラー、ホラー、ファンタジー、サスペンス、ジャッロ、ノワール・・・・・・。私たちは自分の夢を定義するために、こうした言葉を使っているに過ぎない」と書いています。わたしは、著書のこの言葉に深い感動をおぼえました。まさに名言です。


「訳者あとがき」で、翻訳者の野村雅夫氏は「多くのジャンル映画がそうであるように、ホラーもサブカルチャーとして消費されてきた経緯があり、本来ならその功績をもっと評価されて然るべき監督や作品であっても、かつては軽んじられてきた。潮目が大きく変わったのは、ビデオテープで映画を繰り返し大量に観る若者たちが登場した80年代だろうか。その頃に青春を映画に捧げた。たとえばクエンティン・タランティーノのような監督は、ジャンルによって優劣をつけることに否定的で、ヒップホップにおけるDJ的な感覚で自分にとってのベストな表現をサンプリングすることで新たな優れたタペストリーを編み上げてきた。その中でも重要な参照元としてアルジェント作品を挙げていることはよく知られている。その流れの先に、ルカ・グアダニーノによる『サスペリア』のリメイクもあるのだろうし、もっと視点をワイドに取れば、ゾンビものの『現代化』やA24スタジオの一連の作品といったホラーの世界的なリバイバル、いや、もはや定着において、アルジェントが果たしてきた役割の再定義が行われているのが2020年代の状況なのだろう」と述べますが、まったく同感です。本書には多くの映画や映画人が登場し、ワクワクしながら読みました。映画好き、特にホラー映画好きのわたしにとって、至福の読書体験となりました。

 

 

2024年4月15日  一条真也

「貴公子」 

一条真也です。
韓国映画「貴公子」を小倉コロナワールドシネマで鑑賞。土曜日夕方の2番スクリーンの観客数は、わたしを入れて5人でした。ブログ「ビニールハウス」ブログ「パストライブス/再会」で紹介した作品のように、最近面白い韓国映画を続けて観たので期待していましたが、やはり面白かったです。韓国映画は、脚本が日本人に合いますね。


ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「巨額の遺産を巡って繰り広げられる壮絶な攻防戦を描くアクションノワール。監督・脚本を務めたのは『THE WITCH/魔女』シリーズなどのパク・フンジョン。周囲を翻弄する謎の男・貴公子をドラマ『海街チャチャチャ』などのキム・ソンホ、予想もしなかった事態に巻き込まれる青年をドラマ『こんにちは? 私だよ!』などのカン・テジュが演じ、『死体が消えた夜』などのキム・ガンウ、『朝鮮魔術師』などのコ・アラらが共演する」

 

ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「フィリピンで病気の母と暮らすマルコ(カン・テジュ)は、アンダーグラウンドのボクサーとして日銭を稼いでいた。ある日、父の使いを名乗る男が現れ、一度も会ったことのない韓国人の父が自分を捜していることを知る。韓国へ向かう飛行機の中で、彼は自らを友達と呼ぶ見知らぬ男・貴公子(キム・ソンホ)と出会う。薄気味悪さを感じて逃げ出すマルコだったが、どこまでも執拗に追いかけてくる貴公子の狂気に追い詰められていく」


キム・ソンホという俳優は初めて知ったのですが、笑顔の似合うなかなかのイケメンです。国際弁護士の小室圭さんにちょっと雰囲気が似ていると思いました。昔の別所哲也にも似ているかも。カン・テジュ演じるマルコが逃亡中に車に跳ね飛ばされたとき、運転していた謎の女性ユンジュを演じたコ・アラという女優も初めて見ましたが、こちらは白石麻衣に似ていると思いました。白石麻衣は韓国女優のク・ヘソンにも似ていると言われるそうなので、彼女は韓国の美人顔なのかもしれませんね。それとも、整形大国である韓国でモデルとすべき整った顔が白石麻衣に似ているのかも・・・・・・。よく知りませんけど。


映画「貴公子」はアクションノワールということですが、やはりアクションシーンは見応えがありました。冒頭、フィリピンのアンダーグラウンドのボクシング試合が描かれますが、マルコを演じたカン・テジュの動きなかなかのもので、運動神経の良さを感じさせました。貴公子役のキム・ソンホも運動神経では負けていません。逃げるマルコを追う貴公子・・・2人が全速力で疾走するシーンのスピード感は他に類を見ないレベルです。格闘シーンもリアルで良かったです。韓国の男性には兵役があるせいか、みんな細マッチョな印象がありますね。


アクションシーンといえば、カー・チェイスも迫力がありました。メルセデス・ベンツをはじめ、登場する車がすべて黒塗りの高級車なのですが、急転回のUターンなど、かなりのドライブ・テクを持ったスタントマンを起用したと見ました。そして、なんといっても、銃撃戦がド迫力でした。貴公子とユンジュの銃撃戦がYouTubeで公開されていますが、ラスト近くの手術室での銃撃戦も緊迫感に溢れていました。命のやりとりをしている場面でニヤリと笑う貴公子の表情が印象的でしたね。


映画「貴公子」には、「コピノ」という言葉が何度か登場しました。最初は意味がわからなかったのですが、韓国の男性とフィリピンの現地女性の間で生まれた2世をフィリピンで言う言葉なのですね。 コリアンとフィリピーノの合成語ということです。コピノとしてフィリピンで生まれたマルコは病気の母親とともにアンダーグラウンドで最底辺の暮らしを送っています。そこに、さまざまな人物が彼の前に現われ、彼は韓国の大富豪の息子であることが明かされます。その遺産争いに巻き込まれたわけですが、物語は後半で意外な展開を見せます。いずれにせよ、遺産相続をめぐっての争いというものは嫌なものですし、相続のために親族が「争族」となるのは避けたいもの。「貴公子」を観終わって、そんなことを感じました。最後まで、キム・ソンホが爽やかだったのが救いでした。

 

2024年4月14日  一条真也

町田そのこ氏と対談します

一条真也です。
町田そのこ氏といえば、現代日本を代表する人気作家の1人です。映画化もされたブログ『52ヘルツのクジラたち』で紹介した名作で本屋大賞を受賞。その他、ブログ『ぎょらん』ブログ『夜明けのはざま』で紹介した葬儀小説の大傑作をはじめ多くのベストセラーがありますね。その町田氏と対談することが決定しました。

 

ブログ『夜明けのはざま』に書いたわたしの書評を町田氏がとても喜んで下さり、最後にわたしが書いた「願わくば、わたしは町田そのこさんと『生』や『死』や『葬儀』や『グリーフケア』について対談をさせていただきたいです。そして、そのタイトルは『夜明けの迎え方』などはいかがでしょうか?」というリクエストに応じていただいくことになりました。対談は、ちょうど1ヵ月後の5月13日(月)16時から、小倉紫雲閣の大ホールで行われます。この日は、サンレーグループの葬祭責任者会議で各地から紫雲閣の支配人たちも全員集合しており、彼らにも聴いていただきます。その他、サンレーグループの各部門から希望者を募ります。「どうしても対談を聴きたい」という方は、サンレー本社までお問合せ下さい。諸般の事情から必ず参加していただくお約束はできませんが、きちんと検討させていただきます。

ロマンティック・デス』&『リメンバー・フェス

 

5月は29日にも、芥川賞作家で福聚寺住職の玄侑宗久氏と「仏教と日本人」をテーマに対談します。その玄侑氏が推薦の言葉を寄せて下さった次回作『ロマンティック・デス』と、東京大学名誉教授の矢作直樹氏が推薦の言葉を寄せて下さった『リメンバー・フェス』のR&R本がアマゾンにアップされました。発売日は4月23日ですが、両書ともZ世代を中心とした若い読書に向けて書いた本です。冠婚葬祭文化の継承と創新をめざして、わたしは今後も「天下布礼」に努めます!

 

 

2024年4月13日  一条真也

サンレー新入社員歓迎会

一条真也です。4月12日の夜、サンレーの新入社員の歓迎会が松柏園ホテルで5年ぶりに開かれました。コロナ前は北九州本社以外のグループ各社合同の新入社員歓迎会を行っていましたが、諸般の都合で今回は北九州本社のみの開催となりました。新入社員研修の講師などを務める先輩社員たちも参加しました。


歓迎会の開催前のようす

冒頭に挨拶しました

 

わたしが最初に歓迎の挨拶をしました。
わたしは、まず、「改めて、入社おめでとうございます! これから、みなさんが冠婚葬祭業という仕事を通じて有縁社会を再生してくれることを大いに期待しています。仕事を通して人を幸せにするという高い志をもって頑張って下さい。今日は5年ぶりの歓迎会が開けて、本当に良かったです!」と述べました。


新入社員に贐の言葉を贈りました


庸軒道歌を二首披露しました

 

また、「まだ松柏園の庭園には桜が花を咲かせていますが、わたしはかつて『花は咲き やがて散りぬる 人もまた婚と葬にて 咲いて散りぬる』という歌を詠みました。結婚式とは人生の満開であり、散った後の別れが葬儀です。まさに、儀式なくして人生なし。そして、みなさんはそのお世話をするのが仕事です。『日の本の 良き人々の 魂を結んで送れ 若き桜よ』という歌をみなさんに贈ります。今夜は、楽しくやりましょう!」と述べました。


乾杯前に挨拶する東専務

東専務の発声でカンパ〜イ!


テーブルでカンパイ!


Z世代にお酌をしました😊

 

次に、東専務の音頭で乾杯しました。44年前に入社したという東専務は新入社員たちへの深い愛情をもって乾杯の挨拶を述べました。乾杯後は、各テーブルで会話の花が咲き、懇親を深めました。わたしも、わが子のような若い人たちと話すと若返る気がします。

先輩社員による歌


最後は、新入社員へのメッセージが・・・


歌う前に自己紹介する新入社員

新入社員による歌

 

その後は、お待ちかねのカラオケタイムです。まずは、先輩社員たちがDJ  OZMAのアゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士を完コピしました。社長のわたしが言うのも何ですが、わが社の社員は歌とダンスが上手です。何かというとカラオケを歌う企業文化もあるとは思いますが、本当に歌のうまい社員が多いと思います。そんな伝統を踏襲して、今年の新入社員たちもMONGOL800の「小さな恋のうた」を熱唱してくれました♪

謎の怪人に着替えさせられました


桜色のコーデになりました🌸

 

そして、最後にわたしがステージに上がりました。わたしは、コロナ前の歓迎会ではいつもオレンジレンジ「花」を歌っていましたが、この日は森山直太朗の「さくら 独唱」を歌おうと思いました。すると、「ちょっと待った!」の声と共にサングラスをかけた怪しい東洋人が乱入してきました。その正体は松柏園の中田支配人で、「さくらの歌なら、これをお召し下さい!」と言って、桜色のジャケットとハットを持ってきてくれたのでした。


「さくら 独唱」を歌いました🌸


心を込めて歌いました♪

 

わたしは、桜色のジャケットとハット姿で森山直太朗「さくら 独唱」を歌いました。なぜ、この曲を歌おうと思ったかというと、ブログ「サンレーグループ入社式」で紹介した歓迎昼食会で流れた新入社員たちのメッセージ動画に「友人」への感謝を述べた内容が多かったので、友情ソングである「さくら 独唱」をチョイスしたのです。


「さくら 独唱」のサビを熱唱♪


アンコールで「まつり」を歌う♪

 

わたしの好きなナンバーではあるものに、「さくら 独唱」を人前で歌うのは初めてではなかったかと思いますが、キーの高い難曲をなんとか歌い切りました。歌い終わると、盛大な拍手に続いてアンコールが起こりました。わたしは固辞しましたが、アンコールが止まないので、みんなが大好きな北島三郎「まつり」を歌いました。


みんな、「まつり」が大好物♪

 

サンレーの社員は「まつり」が大好物です。みんな、新入社員以上に盛り上がって、会場全体が盛り上がりました。会場を練り歩いてみなさんと握手をしながら、わたしは「ああ、コロナは遠くなりにけり」としみじみと思いました。最後の「これが日本の祭りだよ~♪」を「これが小倉の祭りだよ~♪」にアレンジした替え歌を歌い上げました♪ 歌の合間に「わっしょい!」という合いの手を入れましたが、「わっしょい」は「和(を)背負う」から転じた言葉だそうです。和合の言葉であり、歓迎会にぴったりでした。わっしょい!

最後は「末広がりの五本締め」で

 

最後は、山下常務によるサンレー・オリジナルの「末広がりの五本締め」で締めました。わが社のオリジナル文化は色々とありますが、この「末広がりの五本締め」もそのひとつです。これをやると、みんなの心が本当にひとつになるような気がします。やはり、「かたち」には「ちから」があるのだと強く実感させてくれます。


二次会は松柏園のラウンジで


二次会でカンパイ!


加藤唐九郎の大陶壁「万朶」の前でハイボールを飲む


最後は「一本締め」で

その後、新入社員のみなさんを見送ってから、先輩社員たちで二次会を行いました。会場は松柏園ホテルのラウンジですが、加藤唐九郎の大陶壁「万朶」の前でハイボールを飲むという最高に贅沢な二次会となりました。サンレーの石田取締役総務部長が乾杯の発生をし、最後は岸取締役営業副本部長による「一本締め」でお開きとなりました。短い時間でしたが、これからのサンレーを担う役員や社員の「こころ」が1つになりました。わっしょい!


ロマンティック・デス』と『リメンバー・フェス

 

この日、帰宅して書斎のPCを開いたら、次回作であるロマンティック・デスリメンバー・フェス(ともに、オリーブの木)のR&R本がアマゾンにアップされていました。発売日は4月23日ですが、作家・福聚寺住職の玄侑宗久先生と東京大学名誉教授の矢作直樹先生からの過分な推薦の言葉も寄せられ、とても光栄でした。両書ともZ世代を中心とした若い読書に向けて書いた本ですが、今夜、一緒に飲んだ新入社員のみなさんこそがZ世代だということに気づきました。志を同じくする彼らがいれば、「天下布礼」の火は消えないと信じています。

 

2024年4月13日 一条真也

大谷翔平は死なず!

一条真也です。
米連邦当局が、ドジャース大谷翔平投手の通訳をエンゼルス時代の2018年から務めていた水原一平氏を、大谷選手の銀行口座から1600万ドル(約24億5000万円)以上を盗んだとして訴追したと、複数の米メディアが報じました。大谷選手の無罪確定です!

ヤフーニュースより

 

企業ならまだしも、個人からこれほど多額の金を盗んだという話はあまり聞いたことがありません。同騒動は、水原通訳が21年頃から違法スポーツ賭博に関与し、抱えきれなくなった借金を、大谷の口座から胴元へ大谷の了承なしに多額の金を送金したとされています。水原氏は3月20日に韓国・ソウルで行われた開幕戦後に自らの過ちをチームに告白し、即刻解雇。その後は、大谷がどれだけ関与していたのかなどが注目の的になっていました。わたしも、高い関心を抱いていました。

ヤフーニュースより

 

フロント・オフィス・スポーツ社によると、水原氏の賭博は、21年12月から24年1月までの約2年間で約1万9000件だったそうです。平均掛け金は約1万2800万ドル(約196万円)、最大掛け金は約16万ドル(約2450万円)、賭博で負けた総額は1億8290万ドル(約280億円)、勝った額を差し引いた純損失は4070万ドル(約62億円)とされた。野球に関する賭博はなかったといいます。ここで明らかにされたすべての数字や金額は常識外れであり、ただただ驚くばかり。大谷選手から大金を盗んだ水原氏は、メジャー級の詐欺師ですね!

ヤフーニュースより

 

イギリスの有力経済紙・フィナンシャル・タイムズ(電子版)は3月30日、「大谷翔平、野球界のスーパースターにのしかかる重圧」との記事を配信。大谷がドジャースと10年7億ドル(約1015億円)の巨額契約を結び、野球界を代表する“顔”であることを後、「どのようにして金が盗まれ、どのようにして大谷の銀行口座の管理権は水原氏に譲られたのだろうか?」「もし大谷が友人に嘘をつかれていたと実際に気づいたのなら、水原氏と職業上における他の関係についても調査を開始しているのだろうか?」「大谷がドジャースと契約交渉を行っている間、水原氏はメインのパイプ役だったのだろうか?」「もしそうなら、7億ドルの大半が後払いになるという契約で、水原氏が条件を提示したことはなかったのだろうか? あの後払いの契約は大谷のアイディアだったのだろうか?」と書いています。この記事には、わたしたちが見過ごしてしまっていた点を突いた重要な指摘がされています。たしかに、大谷がドジャース側との意思疎通を全面的に水原氏へ委ねていたとしたら、彼はやりたい放題、どんな契約でも勝手に結べたという疑惑が浮上するわけです。

ヤフーニュースより

 

水原氏の“送金手口”が明らかになりつつあり、SNSでは、「大谷翔平を信じてた!」などと喜ぶ声が集まりましたが、一方で非難の目が向けられているのが実業家のひろゆき氏です。ひろゆき氏は、水原氏の騒動後に「大谷さんは嘘をついている」という主張を続けてきました。3月26日の生配信で、ひろゆき氏は「銀行の口座ってログインから送金までめんどくさいんですよ。水原さんが悪さをしようと思ってログインしようとしても、パスワードを知っていたとしても、大谷さんの目を盗むか携帯を盗むかしないとまずできない。水原さんが稀代のハッカーであるか、大谷さんが手伝ったということでないと無理がある」「大谷さんもとうとう嘘をつく大人になってしまったんじゃないかと思うんですよね。誰かをかばうために嘘をついているのだとしても、嘘をつくのを許容する文化って、アメリカにはあんまりない」と語っています。


さらに、ひろゆき氏は自身のXで「おいらは大谷翔平・水原氏の信頼関係は崩れてない派です。大谷氏は水原氏の違法賭博の借金を男気で肩代わりし大谷氏自ら送金↓だが、違法賭博に送金すると大リーグの規約違反と気づく↓水原氏が窃盗した事にして回避しようと言い分が変わる↓実際には水原氏は大谷氏を騙して送金してはいない」と主張していました。疑惑段階で「嘘をつく大人になった」とまで断じたことに、ひろゆき氏に憤りを覚えた人は多かったようで、SNSでは改めてひろゆき氏を非難する声が相次いでいます。常に逆張りの発言で注目を集めて、動画の再生数を稼ぎ、著書を売ってきたひろゆき氏ですが、ついに化けの皮が剥がれたという声が大きくなっています。


そういえば、経営者の愛読書といえば、以前は安岡正篤中村天風松下幸之助、稲森和夫といった著者が人気でしたが、最近の若い経営者たちはこれらの著者の本を読まず、ひろゆき氏、あるいは堀江文貴氏(ホリエモン)の著書などを愛読している人が多いそうです。そういった人々には、ぜひ今回の一件で目を覚ましてほしいものですね。ホリエモンといえば、彼も自身の動画で「大谷翔平完全終了」などと断言していましたね。最後に、これだけの大騒動の中で、自身にも疑惑が向けられているにも関わらず、素晴らしい成績を残している大谷選手のメンタルの強さには心から敬服しました。本当に凄いことです。彼は結婚発表のグッドニュースから一転して違法賭博疑惑のバッドニュースの当事者となったわけです。今回の一件で学んだことは「好事魔多し」「禍福は糾える縄の如し」、そして「人事を尽くして天命を待つ」です。勉強になりました。ということで、これからも、がんばれ大谷翔平


2024年4月12日 一条真也