してみせて 言ってきかせて させてみる(上杉鷹山)

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一条真也です。
今回の名言は、上杉鷹山の言葉です。大いなる率先垂範の人であった鷹山は、「してみせて 言ってきかせて させてみる」という有名な言葉を残しています
戦国時代において、少ない布陣で大軍に向かっていったような場合、総大将が先頭になって敵陣に突っ込んでいき、勝利を収めるというようなケースがありました。桶狭間の戦いにおける信長は、まさにその代表例でしょう。総大将が後方にいて、ただ命令を下すだけでは士気があがらず、ここぞというときには総大将自らが刀や槍をふるわなければ人はついてきません。逆に言えば、ここぞという戦いで、自ら先陣となって突っ込んでいける者こそ、真のリーダーなのです。

 

上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件 (PHP文庫)

上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件 (PHP文庫)

 

わたしは、リーダーシップの真髄とは「率先垂範」という言葉に極まるように思います。部下や周りの者にやらせ、自分は何もしないでは、人は絶対についてきません。上杉鷹山は、破産寸前だった米沢藩財政再建を見事に成し遂げた名君ですが、「リストラの神様」として知られます。それまで50人もいた奥女中を9人に削減したり、大名行列の人数を半分以下にしたり、とにかく冗員の整理を徹底的にやりました。もちろん、リストラが藩における財政再建の大きな柱であったことは事実ですが、それだけで奇跡の財政再建を実現できたわけではありません。

 

鷹山の施策として注目されるものは、節倹と農村復興です。ともに目新しいものではありませんが、他藩では徹底されず失敗に終わることがほとんどでした。他藩で節倹が徹底しなかったのは、家中の侍や領民に節倹を命じておきながら、藩主やその家族は特別扱いされているケースが多かったからです。殿様やその家族だけが美食を楽しみ、贅沢三昧をしていれば節倹など実現するはずがありません。現代でも、社員にはボーナスも出さずに、自分だけ高級車に乗ってゴルフ場や高級クラブに通う社長が実在します。そんな社長がいくら節約を社員に呼びかけても効果ゼロ!

 

ところが、鷹山は自ら、食事は一汁一菜、衣服も木綿で通したのです。農村復興においては、普通は現場の責任者にすべてを任せ、藩主はタッチしません。
しかし、鷹山は違いました。自ら現場に足を運び、本人も鍬をふるっているのです。士・農・工・商の身分制度が厳格な江戸時代に、武士が農業経営に携わるということは考えられませんでした。「武士も農民と一緒に従事しろ」と命令されても、農村復興事業に本心から加わってくる者はほとんどいなかったはずです。それが、鷹山が藩主自ら鍬をふるい、全家臣に決意のほどを示したことにより、米沢藩の農村復興は成功したと言えます。


山本五十六の乾坤一擲

山本五十六の乾坤一擲


鷹山の「してみせて 言ってきかせて させてみる」に改良を加えたのが、山本五十六の「やってみて、言ってきかせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」です。この言葉を山本五十六のオリジナルだと思い込んでいる人が意外に多いですが、ぜひ上杉鷹山がルーツであることを覚えておいていただきたいと思います。もっとも、「ほめてやらねば人は動かじ」を最後に加えた山本五十六のセンスもさすがですが。なお、今回の鷹山の名言は『龍馬とカエサル』(三五館)にも登場します。

 

龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

 

 
2018年12月13日 一条真也

 

人はみな白骨 

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あなたが死んで骨になったとき、その骨の中にあなたの魂はあるのだろうか? 
死体を眺めていれば、永遠の命などないことがよくわかる。信じることができるのは、次の四つだけだ。
一、肉体は穢れているということ。
二、感覚は苦痛であること。
三、心は定まらないということ。
四、執着を捨てないと迷いから抜け出せないということ。
この四つを知っている人だけが、安らかな気持ちになれる。
(『般若心経秘鍵』)


一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 

超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。
わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介しています。

 

2018年12月12日 一条真也

「おとなの恋は、まわり道」

一条真也です。
ブログ「ボヘミアン・ラプソディ」で紹介した感動作に続いて、同じ日に映画「おとなの恋は、まわり道」を観ました。こちらのほうは、どうしようもなくショボイ作品でした。今年、わけのわからない琉球神道の映画とか、熊本の遊園地を舞台にした映画とか、「おいおい」と言いたくなる作品も観ましたが、この映画も同類でしたね。

 

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
アメリカ・カリフォルニア南部のサンルイスオビスポを舞台に、個性が強い男女の恋模様を描くラブストーリー。メガホンを取ったのは『5時から7時の恋人カンケイ』などのヴィクター・レヴィン。恋に臆病な偏屈男に『ジョン・ウィック』シリーズなどのキアヌ・リーヴス、婚約者に捨てられた過去がある毒舌女をドラマシリーズ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』などのウィノナ・ライダーが演じる。ウィノナとキアヌは本作で4度目の共演となった」

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ヤフー映画の「あらすじ」には、以下の通りです。
「縁を切った家族の結婚式に向かうフランク(キアヌ・リーヴス)と、結婚直前に自分を捨てた元婚約者の結婚式に出席するリンジー(ウィノナ・ライダー)は空港で出会い口論になるが、やがて同じ結婚式に出席することがわかる。現地でもホテルや式場で隣同士だった二人は、うんざりしながらも接しているうちに、互いの共通点に気付く」

 

いやあ、なんでこの映画を観たかといいますと、予告編でリゾート・ウエディングの物語だと知り、しかも「墓友」という言葉も予告編に登場したので、冠婚葬祭人としては「これは観なければ」と思ったのです。アメリカの冠婚葬祭最新事情がわかるかなという下心があったわけです。でも、まったく参考になりませんでしたね。

 

 

この映画、まさかの会話劇で、ほぼ全編にわたって主演の2人の会話のみ。他の人物、たとえばリンジーの元婚約者であるリゾート・ウエディングの花婿の顔もしっかり映っていない有様です。これはもう映画というより、舞台向きでは? その会話の内容も不毛な揚げ足取りの連続で、聴いていて疲れました。この会話の面白さがわからないのは、わたしが未熟だからですかね?

 

恋に臆病なフランクと恋に不器用なリンジーは、リゾート・ウエディングの帰りに、肉食獣に遭遇します。絶体絶命の2人でしたが、フランクの機転でなんとか逃げることに成功。その直後、「死」を意識したがゆえに生殖本能のスイッチが入ったのか、2人は草原の上でセックスをします。「人のセックスしている姿ほどみっともないものはない」とはよく言われることですが、まさにこの映画のラブシーンがそうで、ぎこちないというか、「なんで、こんなマヌケな行為をするの?」と言いたくなるほどのカッコ悪さでした。

 

しかし、よくもまあ、こんな役のオファーをウィノナ・ライダーキアヌ・リーブスが受けたものです。わたしは、今年で47歳になるウィノナ・ライダーが昔からけっこう好きで、「シザーハンズ」(1990年)や「ドラキュラ」(1992年)などでの彼女の可憐な姿に心をときめかせたものです。本作「おとなの恋は、まわり道」でも年齢相応の美しさを見せてくれますが、なんといっても役柄が良くない。

 

一方のキアヌ・リーブスも、あの「マトリックス」シリーズでの凛々しい彼はどこに行ってしまったのやら? 
じつは、彼はわたしと同年代ということで、ひそかに応援しています。何を隠そう、ハリウッドの大物俳優であるトム・クルーズがわたしの1つ年上で、ブラッド・ピットジョニー・デップが同い年、そして、キアヌ・リーブスが1つ年下なのであります。「それで?」と言われれば、困ってしまいますが。(苦笑)まあ、同年代のスターたちが頑張っている姿は励みになりますね。

 

2018年12月11日 一条真也

「ボヘミアン・ラプソディ」

一条真也です。
9日の日曜日、久々に映画を2本観ました。「ボヘミアン・ラプソディ」と「おとなの恋は、まわり道」です。あまりにも両作品のクオリティが違い過ぎたのですが、「ボヘミアン・ラプソディ」は猛烈に感動。ラストでは、涙が止まりませんでした。

 

ボヘミアン・ラプソディ」ですが、ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『伝説のチャンピオン』『ウィ・ウィル・ロック・ユー』といった数々の名曲で知られるロックバンド、クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記ドラマ。華々しい軌跡の裏の知られざる真実を映す。『X-MEN』シリーズなどのブライアン・シンガーが監督を務めた。ドラマシリーズ『MR>ROBOT/ミスター・ロボット』などのラミ・マレック、『ジュラシック・パーク』シリーズなどのジョー・マッゼロらが出演。フレディにふんしたラミが熱演を見せる」

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ヤフー映画の「あらすじ」には、以下の通りです。
「1970年のロンドン。ルックスや複雑な出自に劣等感を抱くフレディ・マーキュリー(ラミ・マレック)は、ボーカルが脱退したというブライアン・メイ(グウィリム・リー)とロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)のバンドに自分を売り込む。類いまれな歌声に心を奪われた二人は彼をバンドに迎え、さらにジョン・ディーコン(ジョー・マッゼロ)も加わってクイーンとして活動する。やがて『キラー・クイーン』のヒットによってスターダムにのし上がるが、フレディはスキャンダル報道やメンバーとの衝突に苦しむ」

 

7日の金曜日、ずいぶん久々に小倉ロータリークラブの例会に出席したところ、最近、「ボヘミアン・ラプソディ」を観たという会員の方から、上映前にわが社のシネアド(映画館広告)を観たと言われました。それで「ボヘミアン・ラプソディ」の内容について感想を求めたところ、「ものすごく感動した!」というので、ネットで調べてみたら、これがまた大変高い評価を受けています。この映画の存在自体は知っていましたが、正直わたしはクイーンのファンではないので、あまり観たいとは思っていませんでした。しかし、わたしと同い年のその会員さんの話を聴いて、「ぜひ観たい!」と思いました。観た結果、わたしはボロ泣きました。

 

ボヘミアン・ラプソディ」は、イギリス・ロンドン出身の男性4人組ロックバンド「クイーン」のボーカルだったフレディ・マーキュリーに焦点を当て、バンドの結成から1985年に行われた「ライヴエイド」でのパフォーマンスまでを描いた伝記映画です。音楽プロデューサーをクイーンの現役メンバーであるブライアン・メイロジャー・テイラーがともに務めています。
わたしはクイーンの音楽をほとんど知らない人間ですが、この映画で耳にする彼らの曲はどれも魂に響き、心に沁みるものばかりでした。わたしは、「ああ、感受性の豊かだった中学とか高校のときにクイーンの曲を聴いていかえば良かった」と思いました。あの頃は、わたしが聴く洋楽といえばビートルズカーペンターズぐらいで、ロックに関してはかなりのオクテだったのです。

 

クイーン(Queen)は、どんなバンドだったのか。Wikipedia「クイーン(バンド)」には、以下のように書かれています。
「1973年にデビュー。イギリス、アメリカ、日本をはじめ、世界中で成功したバンドの1つである。これまでに15枚のスタジオ・アルバム、その他多くのライブ・アルバムやベスト・アルバムを発表。アルバムとシングルのトータルセールスは2億枚以上と言われており、『最も売れたアーティスト一覧』にも名を連ねている。1991年にリードボーカルフレディ・マーキュリーが死去してからも、残されたメンバーによるクイーン名義での活動は断続的に続いており、ギターのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの2人が、2005年から2009年までポール・ロジャースと組んで『クイーン+ポール・ロジャース』として活動を行った。その後はアダム・ランバートを迎えた『クイーン+アダム・ランバート』としての編成での活動も行なっている」

 

続いて、Wikipediaにはこう書かれています。
「2001年には、マイケル・ジャクソンエアロスミスらと共にロックの殿堂入りをした。『ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト』において第52位。 よく知られたヒット曲として炎のロックンロール、輝ける7つの海、キラー・クイーン、ナウ・アイム・ヒア、ボヘミアン・ラプソディ、タイ・ユア・マザー・ダウン、ウィ・ウィル・ロック・ユー、伝説のチャンピオン、ドント・ストップ・ミー・ナウ、バイシクル・レース、地獄へ道づれ、愛という名の欲望、レディオ・ガ・ガ、ボーン・トゥ・ラヴ・ユーなどがある」

 

映画のタイトルになった「ボヘミアン・ラプソディ」(Bohemian Rhapsody)は、クイーンが1975年10月31日に発表したフレディ・マーキュリー作の楽曲です。Wikipedia「ボヘミアン・ラプソディ」に、こう書かれています。
「クイーンの4枚目のアルバム『オペラ座の夜』に収録。演奏時間が約6分と長すぎるために、内部で議論となったが、同年にそのままシングルカットされ(B面はロジャー・テイラー作の「アイム・イン・ラヴ・ウィズ・マイ・カー」。アルバムバージョンの冒頭に、効果音が付加されたバージョン)、世界中で大ヒットした。本国イギリスの全英シングルチャートでは9週連続1位を獲得、アメリカのビルボード誌では、1976年4月24日に週間最高9位を獲得。ビルボード誌1976年年間ランキングは18位。ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では163位」

 

続いて、以下のように書かれています。
「2010年現在この曲はイギリスでは、エルトン・ジョンの『キャンドル・イン・ザ・ウインド1997』、バンドエイドの『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?』に次ぐ歴代3位のセールスを記録している。クイーンの楽曲としては珍しく、歌詞中に『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody)が一切登場しない」
「2002年にはギネスブックを発行しているギネス・ワールド・レコーズ社が3万1000人以上から取った『英国史上最高のシングル曲は?』というアンケートの結果、『イマジン』(ジョン・レノン)や『ヘイ・ジュード』『イエスタディ」』ビートルズ)を抑えて1位になった(授賞式にはロジャーとブライアンが出席)」
 
龍馬とカエサル』(三五館)

 

フレディ・マーキュリーは、自分の出自、容貌にコンプレックスを抱き、さらにはゲイであるという事実にも苦しみました。しかし、彼の過剰歯は独特の歌唱法を生み出しました。その出自やゲイであることも、彼の音楽性に多大な影響を与えました。いわば、彼は「弱み」を「強み」に変え続けた人であったと思います。
クイーンは特に日本での人気が高かったようですが、日本人にはフレディ・マーキュリーのように「弱さ」を「強み」に変えた高名な人物がいます。豊臣秀吉です。拙著『龍馬とカエサル』(三五館)にも書きましたが、秀吉は特に「気配り」に抜群のエネルギーを注ぎ、大きな効果をあげました。秀吉自身が貧しい農家の出身であり、子どものときから大変な苦労をしました。完全に社会的な弱者でした。自分が苦労した弱者でしたから、弱者の苦労がよくわかります。どこを押せば他人が痛がり、あるいは喜ぶかを熟知した稀代の「人間通」でした。その人間通は、司馬遼太郎をして「人間界の奇跡」と言わしめた成功者となったのです。信長に小便までかけられた一介の草履取りが、ついには天下人にまで上りつめたのです。

 

秀吉と並ぶ「人間界の奇跡」が、一代で世界の松下電器をつくり上げた松下幸之助です。世界企業の創業者は他にもいますが、彼はとにかく度外れた社会的弱者でした。それまでは素封家でしたが、小学4年生のときに父親が米相場に手を出して失敗、10人いた家族は離散し、極貧ゆえに次々に死んでゆきます。とにかく貧乏で、病気がちで、小学校さえ中退しました。この「金ない、健康にめぐまれない、学歴ない」の「三ない」人間が巨大な成功を収めることができたのは、自分の「弱さからの出発」という境遇をはっきりと見つめ、容認したからではないでしょうか。貧乏なゆえに商売に励みました。体が弱いゆえに世界的にも早く事業部制を導入しました。学歴がないゆえに誰にでも何でも尋ねて衆知を集めました。彼は、自分の弱さを認識し、その弱さに徹したところから近代日本における最大の成功者となったのです。松下幸之助のように、フレディ・マーキュリーその人も、「弱さ」や「孤独」をエネルギーに変えて素晴らしい音楽を生み出しました。「ボヘミアン・ラプソディ」の観客たちは、闇を光に転じるドラマに涙するのかもしれません。

 

あらゆる差別と闘ってきたフレディ・マーキュリーの情念は名曲「伝説のチャンピオン」に最もよく表現されているように思います。この曲のシングルが発売された当時は「歌詞のチャンピオンというのは自分たちのことを指し、自分たちが世界一だと思い上がっているのではないか」と批判されたそうですが、後にブライアン・メイは「この曲は自分たちをチャンピオンだと歌っているのではなく、世界中の1人ひとりがチャンピオンなのだと歌っている」と反論しています。
どんな差別や迫害を受けても、「自分たちこそ勝者である」と高らかに歌い上げるこの曲は、まさに人類讃歌そのものであると思います。 


世界をつくった八大聖人』(PHP新書

 

あらゆる差別を否定した人物といえば、ブッダやイエスなどの聖人が思い浮かびます。拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)では、、人類にとっての教師と呼べる存在である「聖人」たちを紹介しました。グローバル社会において、わたしたちは地球的な視野ですべての問題を発想しなければならないことは言うまでもありません。結局は、わたしたち1人ひとりが、自分は「地球」に住んでおり、「人類」という生物種に所属しているという意識を強く持つことが大切でしょう。そして、人類に広く普遍的なメッセージを発信し、人類を良き方向に導いた人々が「聖人」なわけですが、フレディ・マーキュリーをはじめとする高名なロック・スターなどにもその要素があったと思います。

 

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

 

 

 映画のなかで、彼がクイーンの音楽を「人類への挑戦」ととらえていたことが紹介されています。同書では、ブッダ孔子老子ソクラテスモーセ、イエスムハンマド聖徳太子の8人が取り上げられていますが、世界にはこの他にも偉大な聖人がいます、その1人がゾロアスターです。前10世紀から前11世紀にかけて活躍したといわれますが、諸説があり、パーシー教では前6000年より以前ともされます。彼の開いたゾロアスター教は「拝火教」とも呼ばれ、一神教を最初に提唱したともいわれます。その教えは、ユダヤ教キリスト教に影響を及ぼしました。
ちなみに、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』の「ツァラトゥストラ」はゾロアスターをドイツ語読みしたものです。

 

銀河鉄道の父 第158回直木賞受賞

銀河鉄道の父 第158回直木賞受賞

 

 

フレディ・マーキュリーの父親は熱心なゾロアスター教徒でした。その父のはからいで、フレディは死後に火葬されています。アフリカ難民救済のためでノーギャラで「ライヴエイド」に出演しようとする息子フレディに対して、それまでずっと対立していた父が「善き言葉、善き想い、善き行い」に適う素晴らしい息子だと彼を初めて認めてハグするシーンでは、無性に感動して涙が出てきました。かの宮沢賢治が死の直前に「えらいやつだ、お前は」と褒められたことを思い出しました。そのことは、ブログ『銀河鉄道の父』で紹介した本に詳しく書かれていますが、わたしもフレディや賢治と同じく、実の父親からなかなか認めてもらえません。もし、わたしがフレディや賢治と同じく父よりも先に逝くとしたら、最後は認めてほしいものだと思いました。

 

 

さて、わたしには、フレディが「現代のツァラトゥストラ」として、数々の託宣を人類に伝えたような気もします。実際、哲学とロックには共通性が多いことが最近読んだ本に書かれていました。その本とは『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』山口周著(光文社新書)で、ビジネス書大賞2018準大賞を受賞したベストセラーです。同書で、著者の山口氏は、哲学で真に重要なのは「その哲学者が生きた時代において支配的だった考え方について、その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考えたかというプロセスや態度」であり、「その時代に支配的だったモノの見方や考え方に対して、批判的に疑いの目を差し向ける。誤解を恐れずに言えば、これはつまりロックンロールだということです。『哲学』と『ロック』というと、何か真逆のモノとして対置されるイメージがありますが、『知的反逆』という点において、両者は地下で同じマグマを共有している」と述べています。
この山口氏の意見、全面的に賛同します。ならば、フレディ・マーキュリーは「20世紀の聖人」であると同時に、「20世紀の哲人」でもあったのかもしれません。

 

映画「ボヘミアン・ラプソディ」の白眉は、ラスト21分におよぶライヴエイド(LIVE AID)でのクイーンのパフォーマンス・シーンです。ライヴエイドは「1億人の飢餓を救う」というスローガンの下、「アフリカ難民救済」を目的として、1985年7月13日に行われた、20世紀最大のチャリティーコンサートです。「1980年代のウッドストック」とも一部でいわれていましたが、その規模をはるかに超越したものとなりました。「バンド・エイド」を提唱した、「ブームタウン・ラッツ」のリーダーであったボブ・ゲルドフが中心となって開催されることとなり、その呼びかけに賛同した、多くのミュージシャンが、国とジャンルを越えて参加したスーパー・イベントが「ライヴエイド」です。


ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー

 

わたしは「ライヴエイド」の開催当時は22歳でしたが、非常に大きなインパクトを受けました。1988年に上梓した処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)で、わたしは理想のライフスタイルを「はあとぴあん」という言葉で表現しましたが、同書に次のように書いています。
「1985年は音楽において世界的なチャリティープロジェクトが2つ組まれた。1つは、イギリスのバンド・エイドであり、もう1つはアメリカのUSAフォー・アフリカである。さらに両者は合体してライヴエイドというスーパー・イベントを実現した。若者にとってミュージシャンこそは現代の神であり、ミュージシャンが彼らのオピニオン・リーダーになることも珍しくない。その意味で、これらのチャリティーが若者に与える影響の大きさは測り知れないはずである。バンド・エイドに参加したカルチャー・クラブのボーカル、ボーイ・ジョージはこう言った。『大切なのは政治をこえた思いやりの心なんだ』。思いやりの心、奉仕する心・・・・・・心こそ、『はあとぴあん』の追い求めてきたものだ。第五世代コンピューターさえも持ちえないもの、それが心である。教育も躾も心からだ。はあとぴあんは、心の理想郷はあとぴあの住人なのである」
 ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

いま、ライヴエイドの映像を観直すと、10万人もの大観衆が生み出す異様な熱気に圧倒されます。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「共感から心の共同体へ」にも書きましたが、ロック・コンサートなどの会場には共感のエネルギーがたびたび生まれます。いまや、カリスマ的なロック・ミュージシャンなどは「現代の神」とさえ言えますが、何度も繰り返されるリズミカルな刺激をともなう音楽には、大脳辺縁系や自律神経系を活性化させる効果があることが分かっています。こうした変化は、脳が現実を解釈したり、感じたり、思考したりする方法を根本的に変化させ、自己の境界を規定する能力に大きな影響を及ぼします。これによって共感のエネルギーが生まれるわけです」

 

儀礼の過程

儀礼の過程

 

 

 これは、かつてイギリスの人類学者ヴィクター・ターナーが「コミュニタス」と名づけたものに通じていると言えます。コミュニタスとは、身分や地位や財産、さらには男女の性別など、ありとあらゆるものを超えた自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方です。簡潔に言えば、「心の共同体」ということになるでしょう。
ターナーは、ブログ『儀礼の過程』で紹介した主著において、マルティン・ブーバーの「我と汝」という思想、アンリ・ベルグソンの「開かれた道徳」「閉ざされた道徳」という考え方を援用してコミュニタスを説明しています。ターナーによれば、コミュニタスは、まず宗教儀式において発生します。

 

一般に儀式とは、参加者の精神を孤独な自己から解放し、より高く、より大きなリアリティーと融合させることを目的にしています。特に、宗教儀式においては、一般の信者には達し得ないような宗教的な高みを彼らに垣間見させるという意味合いが大きいです。カトリックの神秘家の目的は「神秘的合一」の状態に達すること、すなわち、神の存在を実感し、1つになるという神秘体験をすることにありますし、熱心な仏教徒が瞑想をする目的は、自我がつくり出す自己の限界を打ち破り、万物が究極的には1つであると悟ることにあります。けれども、稀代の高僧ならいざしらず、誰もが独力でこうした高みに到達できるわけではありません。そこで、一般の信者にも参加できる効果的な宗教儀式というものを考案して、彼らにもおだやかな超越体験をさせ、その信仰を深めさせようとしたのでしょう。

 

これは、キリスト教や仏教などの大宗教に限りません。これまで地球上に登場した人類文明のほとんどすべてが、何らかの宗教儀式を生み出してきました。そのスタイルは無限といってよいほど多様ですが、1つだけ共通点がある。それは、宗教儀式が成功した場合には(当然のことながら常に成功するわけではない)、脳による自己の認知や情動に関わる知覚に、ある共通の変化が起きるという点です。そして、あらゆる宗教人たちは、この変化を「自己と神との距離が縮まった経験」として理解します。もちろん、すべての儀式が宗教的であるわけではありません。政治集会から、裁判、祝日、求愛、スポーツ競技、そしてロック・コンサートや個人の冠婚葬祭に至るまで、いずれも立派な社会的・市民的な「儀式」です。
 儀式論』(弘文堂)

 

こうした世俗的な儀式にも、個人をより大きな集団や大義の一部として定義しなおすという意義があるのです。拙著『儀式論』(弘文堂)にも書いたように、個人的な利益を犠牲にして公益に奉仕することを奨励し、社会の団結を強めるための機構としては、世俗的な儀式は、宗教的な儀式よりもはるかに実践的です。この機能を軽視してはなりません。そもそも、社会に利益をもたらすからこそ、儀式的行動が進化してきたとも考えられるのです。ターナーも、コミュニタスは何より宗教儀式において発生するとしながらも、それを大きく超えて、広く歴史・社会・文化の諸現象の理解を試みています。そしてターナーは、この「心の共同体」としてのコミュニタスに気づくことにより、「社会とは、ひとつの事物ではなく、ひとつのプロセスである」という進化論的な社会観に到達したのです。「ライヴエイド」は、オリンピックの閉会式などと同じく、巨大なコミュニタスが発生した場にほかなりませんでした。

 

 

クイーンの名曲の中に「レディオ・ガ・ガ」というのがありますが、この曲名から生まれた実在の歌姫がレディ・ガガです。彼女が主演した「アリー/スター誕生」が12月21日に公開されますが、この映画も非常に楽しみです。音楽をテーマにした映画というのは、映画館がコンサート会場になったような感覚で、ライヴ感を味わうことができますね。レディ・ガガといえば、「アメリカン・ホラー・ストーリー/ホテル」で披露した卓越した演技力に驚かされました。「アリー/スター誕生」で、彼女はアカデミー賞の主演女優賞の有力候補になっているそうです。

 

 最後に、「ボヘミアン・ラプソディ」を観たとき、わたしは少々落ち込んでいたのですが、この映画を観て、生きる勇気のようなものが湧いてきました。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)の第5章は「生きる力を得る」で、ブログ「シュガーマン 奇跡に愛された男」で紹介した映画などを取り上げましたが、「ボヘミアン・ラプソディ」こそはまさに「生きる力を得る映画」です。同書の続編を刊行する機会があれば、ぜひ取り上げたいと思います。「ボヘミアン・ラプソディ」を観るまで、わたしはクイーンやフレディ・マーキュリーについて無知でしたが、考えてみれば、伝記映画というのはそれを観て、初めてその人物を知ればいいのです。

死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

 

2018年12月10日 一条真也

『法則の法則』 

一条真也です。
26冊目の「一条真也による一条本」は、『法則の法則』(三五館)を紹介したいと思います。「成功は『引き寄せ』られるか」というサブタイトルがついており、2008年7月8日に刊行されました。


法則の法則』(2008年7月8日刊行)

 

帯には、『聖書』『論語』『般若心経』『天球の回転について』『道徳感情論』『国富論』『人口論』『資本論』『種の起源』『人を動かす』など、本書で取り上げられる多くの書籍のタイトルの上に「本物はどれだ」と大書されています。


本書の帯

 

帯の裏には「本物の法則とは何だろう?」「この不思議に答えられますか?」「『思いは実現する』『強い願いは、対象を引き寄せる』のであれば、世の中にガンで死ぬ人も、無実の罪で死刑になる人も、会社が倒産して自殺する経営者もいないはずです。(本書第13章より)」と書かれています。


本書の帯の裏

 

本書のカバー前そでには、こう書かれています。
「なぜ、『法則』などというものが存在するのか?
そして、いったいどんな『法則』があるのか?
『法則』を知った者は、本当に仕事がうまくいき、
成功して、愛を得て、幸せになれるのか?」

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに――法則って何だろう?」
第1部 法則への招待
第1章  法則本ブーム
第2章  引き寄せの法則
第3章  マーフィーからマーフィーまで
第4章  経済も社会も法則で動く
第5章  歴史や文明にも法則があった
第2部 法則の正体
第6章  人間は法則を求める動物である
第7章  月と占星術錬金術
第8章  法則の追求が科学を生んだ
第9章  法則王ニュートン
第10章 ニュートンからニューソート
第3部 法則の法則
第11章 キリスト教と無限なる欲望
第12章 仏教に近づく現代物理学
第13章 幸福になる法則
第14章 究極の成功法則
「おわりに――自分の法則を見つけよう」
「主要参考文献」

 

わたしが本書を書くきっかけになったのは、世界的ベストセラーの『ザ・シークレット』に登場した「引き寄せの法則」というものに興味を抱いたからでした。これは、他の言葉を使えば、「思考は現実化する」ということです。 
引き寄せの法則」の他にも、「法則」という言葉をよく目にしたり、耳にしたりします。書店に行っても「法則」の本がたくさん置かれていますし、どれもよく売れているようです。

 

原因と結果の法則、正負の法則、鏡の法則、そ・わ・かの法則、幸せの法則、愛の法則、繁栄の法則、お金の法則、ツキの法則、成功の法則、仕事の法則、人間関係の法則・・・・・・などなど、雑誌を開いても、テレビをつけても、とにかく「法則」がよく出てきます。どうやら、この世は「法則」にあふれているようです。いや、宇宙は「法則」に満ちているといったほうがよいのでしょうか。

 

では、「法則」とはいったい何でしょうか。
では、「法則」とは何でしょうか。それは、いつでも、またどこででも、一定の条件のもとに成立するところの普遍的・必然的関係です。ニュートンの「万有引力の法則」、ダーウィンの「適者生存の法則」、メンデルの「遺伝の法則」などがすぐに思い浮かぶ代表的な「法則」でしょうか。

 

広辞苑 第六版』で「法則」の項を引くと、「(1)必ず守らなければならない規範。おきて。(2)いつでも、またどこででも、一定の条件のもとに成立するところの普遍的・必然的関係。また、それを言い表したもの」と出ています。もちろん、本書では(2)の意味で、「法則」をとらえたいと思います。でも、これだけでは「法則」について何もわかりません。

 

いろいろと「法則」の謎について考えたり、調べたりしていたら、本書が生まれました。マーフィーの法則とかランチェスターの法則などの個別の法則についてではなく、「法則」そのものについて書かれた、世界でもきわめて珍しい「法則」の本、それが本書です。「引き寄せの法則」のルーツが「ニューソート」というアメリカの新興宗教にあることも初めて明らかにした本です。

 

「法則」本ブームには気になることがありました。それは、どうも「成功したい」とか「お金持ちになりたい」とか「異性にモテたい」といったような露骨な欲望をかなえる法則が流行していることです。いくら欲望を追求しても、人間は絶対に幸福にはなれません。なぜなら、欲望とは今の状態に満足していない「現状否定」であり、この宇宙を呪うことに他ならないからです。

 

ならば、どうすれば良いのか。「現状肯定」して、さらには「感謝」の心を持つことです。そうすれば、心は落ち着きます。コップに半分入っている水を見て、「もう半分しかない」と思うのではなく、「まだ半分ある」と思うのです。さらには、そもそも水が与えられたこと自体に感謝するのです。  
それでは、何に感謝すればよいか。それは、自分をこの世に生んでくれた両親に感謝することが最初のスタートでしょう。親に感謝すれば幸福になる!意外にも超シンプルなところに、「幸福になる法則」は隠れていたのですね。

 

また、本書では「究極の成功法則」についても紹介しました。「成功したい」という「夢」を多くの人が持っています。また、「夢」を持つことの大切さを、いろんな人が説いています。しかし、真の成功者はみな、世のため人のためという「志」という名の最終目標を持っていました。とにかく、「志」のある人物ほど、真の成功を収めやすい。なぜでしょうか。
「夢」とは何よりも「欲望のかたち」です。「夢」だと、その本人だけの問題であり、他の人々は無関係です。でも、「志」とは他人を幸せにしたいわけですから、無関係ではすみません。自然と周囲の人々は応援者にならざるをえないわけです。

 

「幸せになりたい」ではなく、「幸せにしたい」が大切なのです。いったん「志」を立てれば、それは必ず周囲に伝わり、社会を巻き込んでいき、結果としての成功につながるのではないでしょうか。企業もしかり。もっとこの商品を買ってほしいとか、もっと売上げを伸ばしたいとか、株式を上場したいなどというのは、すべて私的利益に向いた「夢」にすぎません。そこに公的利益はないのです。真の「志」は、あくまで世のため人のために立てるもの。そのとき、消費者という周囲の人々がその「志」に共鳴して、事を成せるように応援してくれるように思います。

 

わたしは、古今東西のありとあらゆる法則を集め、それらの法則を貫くメタ法則を求めました。この世には数多くの「法則」が存在するとされています。あるアイデアが、とりあえず「仮説」として立てられる。その「仮説」から具体的・個別的な「命題」を導き出す。そして、その「命題」を観察および実験で検証し、有効性が検証されれば、ようやく「法則」に格上げされる。そのようにしてできた複数の「法則」を体系化したものが「理論」と呼ばれるものなのです。

 

そうであれば、プロの科学者ならともかく、わたしのような素人には一生、「法則」など発見できそうにありません。でも、わたしにはいくつか自分なりの「法則」のようなものがあります。たとえば、本書の最後で、わたしは2つの究極の法則を示しました。それは、夢ではなく志を抱けば成功できるという「成功の法則」であり、親に感謝すれば幸福になれるという「幸福の法則」です。

 

また、仕事においても「法則」らしきものが存在します。わたしの会社は冠婚葬祭互助会なのですが、「互助会募集の営業の成果は2年後に現れる」とか、「葬儀の発生は多い月も少ない月もあるが、3カ月平均でならすと同じになる」などの「法則」です。もちろん、業界的に何らかの意味はあっても、それ以外の人にはまったく縁のない「法則」です。それに、この2つだって「法則」というより、おそらく「経験則」の類でしょう。

 

でも、わたしは、それでいいと思います。
なぜなら、他の人々には意味がなくても、わたしには意味があるからです。ましてや、わが会社の社員たちがそれを信じてくれるなら、わたし1人の幻想を超えて、少しだけ市民権を得た「プチ法則」ということです。それを思うと、なんだか楽しくなって、幸せな気分になってきます。これらの「プチ法則」は、わたしが生きていく上で大切な支えとなっています。結局、「法則」は人間が生きていくために役に立つものでなければならないと、わたしは考えます。人間を幸せにするもの、人間を元気にするもの、人間を励ますもの、そんな「プチ法則」たちをこれからも見つけていきたいと思います。

 

この世界に存在する数多くの「法則」は、たとえ本物の科学的法則であろうとも、それ単独では宇宙の全体像を明らかにすることはできません。「群盲象を撫でる」という言葉がありますが、これは、生まれつき目の不自由な人々がはじめて象に触れたときの様子を描いたインドの寓話に由来するそうです。象の頭に触れたものは「象は瓶のようだ」と感想を述べ、鼻に触れた者は「竿のようだ」、耳に触れた者は「団扇のようだ」、胴に触れた者は「穀倉のようだ」、脚に触れた者は「柱のようだ」、そして尾に触れた者は「箒のようだ」と語ったというのです。

 

古代インド人が考えていた宇宙像では本当に象が出てきて宇宙を支えていますが、まさに宇宙そのものが一匹の巨大な象ではないかと、わたしは思います。その姿は、ある人にとっては象の鼻だったり、耳だったり、または脚や尾だったりするわけです。でも、象の身体の各部分は当然ながら象そのものではありません。この世に存在する多くの「法則」も、しょせんは宇宙という象の鼻や耳をとらえるのがやっとだと思います。

 

ジグソーパズルのように、または児玉清のパネルクイズのように、それらをつなぎあわせていけば、少しずつ、その全体像が見えてくるのではないでしょうか。本書で紹介された数々の「法則」たちは、使えるジグソーのピースやパネルだと思います。本書を読めば、宇宙の真の姿を覗くパズルやクイズを楽しむことができます。もしかすると、最終的に宇宙の正体を明らかにする「アタック・チャンス」となる最後のピースやパネルは、あなたの「プチ法則」かもしれません。

 

最後に、本書の企画は版元の三五館にもともと存在していました。同社の星山佳須也社長が「博覧強記の一条さんなら、法則の本を書くことができるでしょう」と、わたしを指名して下さったのです。担当編集者である中野長武さんが「世界の法則一覧」という資料ペーパーを渡してくれたことを記憶しています。最初は「法則」についてのガイドブックを作ろうという話だったのですが、わたしが「どうせなら、すべての法則に通じるメタ法則を示しませんか?」と提案したのです。それを星山社長と中野さんは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていましたが、2人とも「それは面白い!」と言ってくれました。あの数々のベストセラーを生み続けた三五館も今では存在しません。「栄枯盛衰」も世の法則ですね。


法則の法則―成功は「引き寄せ」られるか

法則の法則―成功は「引き寄せ」られるか

2018年12月9日 一条真也

「来る」   

一条真也です。
7日、この日公開されたばかりの日本映画「来る」を観ました。北九州で撮影されたそうです。「こわいけど、面白いから、観てください。最恐エンターテインメントが、来るぅぅぅ~!!」とのコピーに惹かれましたが、正直あまり「恐い」とは思いませんでした。かなり興味深い内容ではありましたけどね・・・・・・。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「第22回日本ホラー小説大賞に輝いた澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』を、『告白』などの中島哲也監督が映画化。謎の訪問者をきっかけに起こる奇妙な出来事を描く。主演を岡田准一が務めるほか、黒木華小松菜奈松たか子妻夫木聡らが共演。劇作家・岩井秀人が共同脚本、『君の名は。』などの川村元気が企画・プロデュースを担当した」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「幸せな新婚生活を送る田原秀樹(妻夫木聡)は、勤務先に自分を訪ねて来客があったと聞かされる。取り次いだ後輩によると『チサさんの件で』と話していたというが、それはこれから生まれてくる娘の名前で、自分と妻の香奈(黒木華)しか知らないはずだった。そして訪問者と応対した後輩が亡くなってしまう。2年後、秀樹の周囲でミステリアスな出来事が起こり始め・・・・・・」

 

中島哲也監督の作品はけっこう好きで、「下妻物語」や「嫌われ松子の一生」は素晴らしい名作でした。ブログ「告白」ブログ「渇き。」で紹介した映画も異色作といった印象で、インパクト大でした。さすが、80年代から気鋭のCMディレクターとして名を馳せただけあって、中島監督には豊かな才能を感じます。
なによりも、岡田准一妻夫木聡黒木華松たか子小松菜奈・・・・・・よくぞここまで演技派にして個性派の俳優を集めたものです。特に、松たか子小松菜奈の霊能者姉妹の強烈なキャラクター設定や黒木華の妖艶さには驚かされました。彼女たちをこんなふうに使うとは、やはり中島哲也はタダ者ではありません。

 

この映画、わたしには、けっこう不愉快でした。
イクメン・パパを気取って、「泣き虫パパの子育て日記」というくだらない妄想ブログを書く妻夫木聡演じる田原秀樹が気持ち悪いということもありますが、それよりも映画の中に出てくる冠婚葬祭の描写に悪意を感じたからです。
冒頭から、地方の旧家の十三回忌のシーンが登場するのですが、年忌法要を旧・有縁社会の負の産物のように醜悪に描いていました。その旧家は田原秀樹の実家で、彼は妻の香奈(黒木華)を連れて帰るのですが、香奈は非常に窮屈で嫌な思いをします。
また、彼らの結婚披露宴のシーンも登場しますが、これも「結婚披露宴に何かトラウマでも?」と中島監督に訊ねたくなるほどに不快指数の高い描き方をしていました。

決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社

 

拙著『決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社)にも書きましたが、わたしは、人間が幸せに生きていくうえで冠婚葬祭ほど大事なものはないと思っています。現在の日本社会は「無縁社会」などと呼ばれていますが、この世に無縁の人などいません。どんな人だって、必ず血縁や地縁があります。「縁」という目に見えないものを実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭だと思います。結婚式や葬儀、七五三や成人式や法事・法要のときほど、縁というものが強く意識されることはありません。冠婚葬祭が行われるとき、「縁」という抽象的概念が実体化され、可視化されるのではないでしょうか。

儀式論』(弘文堂)

 

しかし、この「来る」という映画、冠婚葬祭の描き方はひどかったですが、儀式そのものは違いました。「これほど儀式のダイナミズムを表現した映画がこれまで存在したか!」と思えるほど、空前の儀式エンターテインメント映画だったのです。「儀式バカ一代」を自認するわたしは狂喜しましたね。拙著『儀式論』(弘文堂)にも書きましたが、日本には、茶の湯・生け花・能・歌舞伎・相撲といった、さまざまな伝統文化があります。そして、それらの根幹にはいずれも「儀式」というものが厳然として存在します。すなわち、儀式なくして文化はありえないのです。儀式とは「文化の核」と言えるでしょう。儀式は、地域や民族や国家や宗教を超えて、人類が、あらゆる時代において行ってきた文化です。哲学者のウィトゲンシュタインが語ったように、人間とは「儀式的動物」であり、社会を再生産するもの「儀式的なもの」であると思います。

 

その儀式とは、何か邪悪なものが来るのを迎える儀式です。松たか子演じる最強の霊能者・比嘉琴子が「あれ」を迎えて祓うための儀式です。彼女は沖縄のユタの出身であり、その意味では琉球神道、さらには内地の神道の儀式なのですが、観客はどうしてもエクソシストを連想してしまいます。
わたしは今春から上智大学グリーフケア研究所客員教授に就任しましたが、上智といえば日本におけるカトリックの総本山です。カトリックの文化の中でも、わたしは、エクソシズム(悪魔祓い)に強い関心を抱いています。なぜなら、エクソシズムグリーフケアの間には多くの共通点があると考えているからです。エクソシズムは憑依された人間から「魔」を除去することですが、グリーフケアは悲嘆の淵にある人間から「悲」を除去すること。両者とも非常に似た構造を持つ儀式といえるのです。

 

また、来年4月いっぱいで、平成は終わります。
その後、「大嘗祭」という儀式によって新天皇が誕生します(最近、この大嘗祭についていろいろと異議を唱える方がいるので困ったものですが)。この神道の秘儀である大嘗祭と、キリスト教の秘儀であるエクソシズムは正反対の構造をしています。大嘗祭とは「聖」を付着させること、エクソシズムとは「魔」を除去することだからです。いつか、わたしは『大嘗祭エクソシズム~儀式の秘密をさぐる』という本を書きたいと思っています。それで、カトリックの悪魔祓いに関心を抱いたわたしは、関連書を固め読みしました。いずれ、それらは当ブログでも紹介したいと思います。

 

エクソシズム」という言葉を日本人が知ったのは、何といっても映画「エクソシスト」(1973年)が公開されてからでしょう。この映画はホラー映画の歴史そのものを変えたとされています。中島監督はホラー映画をほとんど観ておらず、「エクソシスト」と「シャイニング」(1980年)の2本くらいしか記憶に残っていないとコメントしているそうですが、映画「来る」には、このホラー映画史に残る二大名作を連想させるシーンが登場します。

 

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

 

 

さて、比嘉琴子は何を祓おうとしているのか。一体、何が「来る」のか。この映画の原作は澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫)ですが、「ぼぎわん」とは何なのか。結論から言うと、「ぼぎわん」とは来訪神のような存在であると思われます。それは限りなく魔物とか妖怪に近いのですが、あくまでも神であり、だからこそ丁重な儀式を行うことによって恭しく迎え入れる必要があるのです。

 
来訪神といえば、今年の11月29日、ユネスコの政府間委員会は29日、無形文化遺産に「男鹿のナマハゲ」(秋田県)など8県の10行事で構成される「来訪神 仮面・仮装の神々」を登録することを決定しました。2009年に単独で登録された「甑島(こしきじま)のトシドン」(鹿児島県)に、新たに9行事を加えて1つの遺産として申請していたそうです。来訪神は、季節の変わり目に異世界からの神に扮した住民が家々を巡り、災厄を払う民俗行事です。集落全体で伝承し、地域の絆を強める役割を果たします。

 

じつは、その起源は分かっておらず、何世代も受け継ぐ間に鬼のイメージが定着した地域もあります。ユネスコ無形文化遺産に登録された10行事はいずれも国の重要無形民俗文化財に指定されており、保護が図られてきました。今回は、アワビの殻を吊り下げた「吉浜のスネカ」(岩手県)や渦巻き模様の耳を持つ「薩摩硫黄島メンドン」(鹿児島県)、他にも「米川(よねかわ)の水かぶり」(宮城県)「遊佐(ゆざ)の小正月行事」(山形県)「能登のアマメハギ」(石川県)「見島(みしま)のカセドリ」(佐賀県)「悪石島(あくせきじま)のボゼ」(鹿児島県)「宮古島パーントゥ」(沖縄県)が登録されました。

 

しかしながら、わたしは日本を代表する来訪神は、「アカマタ・クロマタ」であると考えています。アカマタ・クロマタは、沖縄県八重山諸島西表島東部の古見を発祥とし、小浜島石垣島宮良、上地島に伝わる来訪神です。アカマタ・クロマタ男女二神は、旧七月の「プール」または「プーリ」と呼ばれる豊年祭に出現します。これは、その年の作柄を感謝し、来期の豊作を予祝するための祭りです。拙著『儀式論』(弘文堂)の「祭祀と儀式」でも「アカマタ・クロマタ祭祀」について詳しく書きましたが、この祭祀をテーマにしたホラーが荒俣宏氏の『二色人の夜』(角川ホラー文庫)です。その物語は、『ぼぎわんが、来る』の世界観と通じています。

 

 

アカマタ・クロマタの男女二神は、旧七月の壬・癸の日に出現しますが、神々は太陽が没して夜の世界になって初めて、集落の外にある「ナビンドゥ」と呼ばれる洞穴から出現します。神々は暗い洞穴の世界から、夜の世界に現れてくるのです。出現した男女二神は村人の歓喜と畏敬に迎えられて集落に入ります。それから、アカマタ祭祀集団とクロマタ祭祀集団のそれぞれの宗家を訪れ、神詞を唱えます。そしてアカマタ神はアカマタ組の家々を、クロマタ神はクロマタ組の家々を訪れ、「世」を授けるのです。

 

しかしこの1年、共同体の掟を犯したり、秩序を乱したものは、神々の怒りに触れ、神々が右手にたずさえている杖で打たれます。神の杖に打たれた者は、1年以内に死亡したり不幸な目に遭うとされています。神々による家回りが終ると、日の出前に集落のはずれで両神が落ち合います。そして、村人の感謝と別れの悲しみの中を両神は再び洞穴の中へ去っていきます。やがて日の出を迎えると、共同体は新生し、新しい秩序を回復して新しい生活が始まるのです。

 

この「アカマタ・クロマタ祭祀」は秘祭であり、写真・ビデオ撮影や口外も厳しく禁じられています。沖縄の祭祀を研究し続けた社会人類学者の村武精一氏は著書『祭祀空間の構造』で「なぜ〈アカマタ・クロマタ〉祭祀が研究者や観光客を拒否して、その儀礼生活の完全性を追求するか」という問いを立てています。その答えは、祭りを担う人々は、自分たち共同体の始源的世界に回帰することによって、来たるべき1年の「活力」を真に獲得できることを体得しているから。つまり、真の「力」は、自分たちの「この世」をもたらしてくれた祖型世界への回帰を、何びとにも邪魔されたり犯されたりすることなく遂行することによって得られるというのです。



当然ながら、祭りはもともと、「よそもの」のためにあるものではなく、真に連帯できる人間のためにあるものです。そのことをはっきり知っている人々が、研究者や観光客を拒否して、祭祀の完全性を追求するのだというわけです。祭祀の対象となる超越的な存在は「この世」に幸と豊穣の「力」を授けてくれるものとして、ときには来訪神として、ときには「この世」の人の目にはみえない霊的存在として現れてきます。村武氏は同書で「このような広義の神々の訪れによって人びとは祝福をうけ、豊穣を授かる。こうして共同体祭祀においては、《祝祭》の性格が強調される」と述べています。
ならば、「来る」の来訪者も人びとに祝福を与え、豊穣を授けるのでしょうか。いずれにせよ、この前代未聞の儀式映画、非常に興味深く観ました。

 

2018年12月8日 一条真也

『世界をつくった八大聖人』

一条真也です。
わたしは「グリーフケア」や「隣人祭り」などに取り組んでいますが、その真の目的は自死孤独死をなくすことです。そして、それらの活動はブッダやイエス孔子の思想に基づいています。もし現在、ブッダやイエスが生きていたら、自死をなくす活動をするでしょうし、孔子が生きていたら隣人との交流を推進して孤独死をなくす活動をするのではないかと思います。わたしの心の中には、いつも聖人たちが生きています。


世界をつくった八大聖人』(2008年4月30日刊行)

 

ということで、25冊目の「一条真也による一条本」は、『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)をご紹介いたします。「人類の教師たちのメッセージ」というサブタイトルがついており、2008年4月30日に刊行されました。


本書の帯(新バージョン)

 

わたしが2012年に「孔子文化賞」を受賞したときに新たに作成した帯には「孔子文化賞 受賞」「人類の普遍思想を求めて」「ブッダソクラテス孔子老子聖徳太子モーセ、イエスムハンマド」「今こそ知っておきたい 彼らは何を伝え、何を残したのか?」と書かれています。


本書の帯の裏(新バージョン)


本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」

第1部 人類の教師たちのミステリー
【1】人類を導いた八人
 人類の「こころ」をつくった先人たち
 なぜ、この八人か
 日本人の宗教観
【2】聖人のライバルたち
 ブッダと六師外道
 孔子諸子百家
 老子と謎の道家思想家
 ソクラテス以前の哲学者たち
 イエスにもライバルがいた
 モーセムハンマド預言者の系譜
 聖徳太子も歴史から選ばれた
【3】人類の教師の誕生
 四大聖人とは何か
 孔子は聖人か哲学者か
 人類の教師たち
 ヤスパースによる『大哲学者たち』
 宗教や哲学をもった文明
 歴史の4段階と枢軸時代
 四大聖人の考案者は日本人?
 ソクラテスと日本
 イエスを外した「妖怪博士」
 新渡戸稲造の『武士道』
   内村鑑三の『代表的日本人』
   岡倉天心の『東洋の思想』
   四聖を通しての日本理解
   四聖を決定づけた修養ブーム
【4】すべては心学から始まった
   心学とは何か
  「啓蒙」が心学のキーワード
   憲法十七条に見る啓蒙精神
  「啓蒙」から「修養」へ
   心学の伝統に立つ松下幸之助
   神道・仏教・儒教が融合した日本
   日本人独特の宗教感覚
  「アンドフル・ワールド」に向かって

第2部 人類の教師たちのプロフィール
【1】ブッダ
   仏教の開祖
   ブッダの悟り
   4つの真理「四諦説」
   八正道の教え
   大乗仏教と上座仏教
【2】孔子
   不遇の生涯
   孔子の政治的思想
   礼によって君子をめざす
   五倫と五常
   礼とは何か
   親の葬儀が最も大切
【3】老子
   謎に満ちた人物
   道の思想
   無為自然の道に徹する
   儒家道家
   老荘道家道教
【4】ソクラテス
   神託の謎を解き明かす
   無知の知
   ソクラテスの死
   哲学は死の予行演習
   魂の世話をする
【5】モーセ
   『旧約聖書』の最重要人物
   モーセが生まれるまで
   モーセの生涯
   モーセ十戒
   モーセ預言者たちの原像
【6】イエス
   イエスの生涯
   処刑されたイエス
   キリストとは何か
   「山上の垂訓」に見るイエスの教え
【7】ムハンマド
   預言者ムハンマド
   メディナからメッカへ
   平等主義者ムハンマド
【8】聖徳太子
   儒教と仏教の伝来
   宗教対立を超えて憲法17条へ
   大いなる宗教編集者
   神道は根、儒教は枝葉、仏教は花実
   聖徳太子はいなかった?

第3部 人類の教師たちのメッセージ
【1】人類の教師とは何者か
   「ソクラテス問題」から「聖人問題」へ
   影響し合う聖人のイメージ
   ブッダとイエスの類似点
   モーセに影響されたイエス
   ギリシャ思想とヘブライ思想の合体
   モーセに由来する古代神学
   普遍宗教を追求したフィチーノ
   ソクラテスと結びついたイエス
   「大いなる和合」を求めて
   孔子老子をめぐって
【2】龍と聖人の暗号
   聖徳太子とイエス
   聖徳太子老子
   聖徳太子孔子
   聖徳太子ブッダ
   玄聖の徳とは何か
   聖徳太子は龍である
   森が水を守ってきた
   火と水をめぐって
【3】人類の品格を考える
   戦争と平和
   普遍思想をよみがえらせる
   地球にも公共マナーがある
   直観主義的倫理の発想
   「人の道」から「人類の道」へ
   人類は地球のマネジャー
   すべては水を大切にするこころから
   聖徳太子集合的無意識
   「水に流す」という思想
   思いやりが世界を動かす
   思いやりと水の共通点
   人類を信じる
「おわりに」
「主な参考文献」

 

わたしたちが生きる21世紀は、どうやら大変な時代のようです。先の20世紀は、とにかく人間がたくさん殺された時代でした。何よりも戦争によって形づくられたのが20世紀と言えるでしょう。
なにしろ、世界大戦が一度ならず二度も起こったのです。「戦争のない世紀」という希望とともに21世紀を迎えた人類を待ち受けていたのは、あの9・11同時多発テロからイラク戦争に至る相変わらずの一連の「憎悪」の連鎖、そして絶望でした。
一方、地球環境の危機が叫ばれていますが、事態は深刻さを増すばかりです。毎年のように、世界中から異常気象が報告されています。極地の氷は溶け出し、世界中の珊瑚礁は激減し、台風やハリケーンが頻発しています。そして、熱波、寒波の襲来。これらは、いずれも地球温暖化の影響といいます。

 

その他にも差別や病気や貧困などなど、人類はさまざまな難問に直面していますが、結局は「戦争」と「環境破壊」という2つの最大の難問が残ります。本当に厄介な難問です。難問に直面したとき、そしてどうしてもその解決策が思い浮かばないとき、どうすればよいでしょうか。わたしという個人レベルの問題なら、子どものときに先生から教わった教えを思い出すことにしています。幼稚園の先生にしろ小学校の先生にしろ、「挨拶をきちんとする」とか「人に迷惑をかけない」とか「ウソをついてはいけない」とか、とにかく人間としての基本を教えてくれました。

 

そして、それらの教えは大人になって何かで悩んでいるときに思い出すと、意外に解決策を与えてくれました。おそらくは、人間が本当に追い詰められて悩んでいるときというのは「人の道」から外れている、あるいは外れかけているためでしょう。先生たちが教えてくれたことは「人の道」のイロハなのです。ならば、難問に直面し、大いに悩んでいる人類も、同じことをすればよいのではないでしょうか。つまり、かつて先生から教わったことを思い出すべきなのです。
本書では、人類にとっての教師と呼べる存在を八人紹介します。ブッダ孔子老子ソクラテスモーセ、イエスムハンマド聖徳太子です。なぜ、この八人が「人類の教師」として選ばれたのか、また、この八人はどのようなメッセージを人類に残したのか。それを知りたい方は、ぜひ本書をお読みいただきたいと思います。

 

グローバル社会において、わたしたちは地球的な視野ですべての問題を発想しなければならないことは言うまでもありません。結局は、わたしたち1人ひとりが、自分は「地球」に住んでおり、「人類」という生物種に所属しているという意識を強く持つことが大切でしょう。そして、人類の一員ならば、人類の心というものを広く知る必要があります。そのために、ぜひ、飛び切りの「代表的人類」にして、偉大な「人類の教師たち」について知っていただきたいです。彼らは決して古臭い歴史上の人物などではありません。彼らの思想は今でも生きています。彼らの心は生きているのです。

 

わたしは、いつも『般若心経』でも『論語』でも『老子』でも、または『旧約聖書』や『新約聖書』や『コーラン』でも古典としては読みません。つねに未知の書物として、それらに接し、おそるおそるそのページを開きます。ですから、そこに書かれていることは新鮮であり続けます。読むたびに、新しい発見も多いです。 当然ながら、その内容には共感できなかったり、納得のいかない部分もあります。それぞれに一長一短があり、どれかを一つ選べば難問も解決するといった単純なものではないのです。 

 

八人の教師たちは、生まれた時代も地域も違いますが、人間を幸福にしたいと願った強い想いは共通しています。ぜひ、彼らの生涯や思想にふれ、彼らのスピリチュアリティを感じていただきたいです。未知の八人の未知の声を聞いていただきたいです。そこから、人類が戦争という「業」と環境破壊という「病」から救われる道、そのわずかなヒントが見えてくることを願って、わたしは本書を書きました。

 

本書はもともとブッダ孔子ソクラテス、イエスの「四大聖人」について書く予定でした。じつは、わたしは昔から「四大聖人」に強く心を惹かれていました。父の影響です。今では絶版となっている新渡戸の『修養』も、『修養全集』も、わたしの父の書斎に昔から置いてありました。しかも、そこには世界各地の観光地で買い求めた、ブッダ孔子、イエスソクラテスの像も置いてあったのです。わたしが幼少の頃から、父はよく「心の中に四大聖人がいれば、世界は平和になれる」と語っていたのを思い出します。

 

縁あって「四大聖人」についての本をPHP新書から書き下ろすことになり、わたしは構成案を作成して、編集部に打診しました。「四大聖人の謎」をさぐる第一章にはじまり、それぞれの生涯や思想を紹介した後に「四大聖人とは何か」という最終章で終わる構成でしたが、その中に惜しくも四大聖人に選ばれなかったけれども同じく人類の偉大な教師を紹介する「四大聖人のリザーバーたち」という章を設け、そこでモーセ老子聖徳太子ムハンマドをリストアップしました。すると、PHP新書編集部の丹所千佳さんは「この4人のリザーバー(ライバル?)も対等に加えることにして、4人ではなく8人の聖人を扱う本にしませんか」と言われたのです。

 

わたしも最初はとまどいましたが、よく考えてみたら「渡りに舟」だとも思いました。なぜなら、敬愛する石田梅岩の「心学」は神道、仏教、儒教を「ええとこどり」したものでした。わたしの唱える新時代の心学は神仏儒にさらに道教はもちろん、ユダヤ、キリスト、イスラームまで加えて「ええとこどり」した心学であるべきだと思い至ったからです。いわば、「日本心学から世界心学へ!」です。そして、「聖人の龍」としての聖徳太子が人類共存と世界平和のシンボルとして加わったわけです。

 

聖徳太子が用意した神道・仏教・儒教を一体とした習合思想は、新渡戸稲造が指摘したように武士道へと流れ、あるいは心学へと流れ、さらには冠婚葬祭という日本人の慣習に結実しました。わたしは現在、冠婚葬祭を業とする会社を経営しています。そして、平成心学塾という塾を主宰しながら梅岩の説いた商人道を追求しています。さらには、日本人の美意識の基本となる武士道というものを常に意識して生きています。わたしは日々、神仏儒にどっぷり浸かっているのです。これから世界心学をめざすわたしは、哲学、道教ユダヤ教キリスト教イスラム教、その他にもありとあらゆる思想に接し、いいところをどんどん「ええとこどり」してゆくつもりです。

 

本書を書くに当たり、多くの方々にお世話になりました。まずはPHP研究所の応接で直接わたしの話を興味深く聞いて下さり、本書を書く機会を与えていただいたPHP総合研究所社長(当時)の江口克彦氏、次にPHP研究所第一出版局局長(当時)の安藤卓氏、そして新書編集部(当時)の丹所千佳氏。また、私淑する故・渡部昇一氏は「四大聖人」についての小生の質問に対して、わざわざお手紙で教えて下さいました。毎月、満月ごとの文通を交わしている鎌田東二氏も、いろいろな意味でのインスピレーションを与えて下さいました。多くの方々のお力添えによって生まれた本書は、わたしは「こころの宝物」です。いつか、わたしは本書の内容をベースとして、さらに進化・充実させた大著『聖人論』を書きたいと願っています。


2018年12月7日 一条真也