「総理の夫」

一条真也です。
日本映画「総理の夫」を観ました。コメディタッチの政治映画ですが、ブログ「MINAMATA-ミナマター」ブログ「空白」で紹介した超ヘビーな映画の後に観たこともあり、エンターテインメントとして楽しめました。この映画は、あくまでも大人のおとぎ話です。おとぎ話ですから、王子様やお姫様が登場しますが、お姫様役の中谷美紀がとにかく美しくて、シビれました!


ヤフー映画の「解説」には、「原田マハの小説『総理の夫 First Gentleman』を原作にしたドラマ。知らぬ間に妻が史上初の女性総理大臣になっていた鳥類学者が、政治に翻弄されながらも夫婦一丸となってさまざまな障害を乗り越える。メガホンを取るのは『かぐや様は告らせたい ~天才たちの恋愛頭脳戦~』などの河合勇人。『mellow メロウ』『哀愁しんでれら』などの田中圭、『繕い裁つ人』ドラマ「ハル ~総合商社の女~」などの中谷美紀が、主人公の夫婦を演じる」と書かれています。

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「少数野党の党首を務める凛子(中谷美紀)を妻に持つ、鳥類学者の相馬日和(田中圭)。もし総理大臣になったら不都合はあるかと凛子に尋ねられた日和は、それを気に留めることもなく野鳥観察の出張に向かう。電波の届かない孤島で彼が10日にわたって野鳥観察をしている間、凛子は日本史上初の女性総理大臣に選出される。突如、総理の夫となってしまったことに戸惑いつつ、妻を全身全霊で支えようとする日和だが、夫婦の愛と絆を試されるような問題が次々と降りかかる」


現実の世界では自民党総裁選が盛り上がっており、決選投票がほぼ確実となっています。そこでは、高市早苗野田聖子という2人の女性議員も立候補しています。もしかしたら史上初めて女性が自民党総裁、そして総理大臣になるかもしれない(難しいとは思いますが)わけで、史上初の「総理の夫」が誕生する可能性も出てきました。映画公開のタイミングとしては最高だと言えます。しかし、高市候補はすでに離婚されていて、配偶者はいません。野田候補には配偶者がいますが、いろいろと過去の経歴が騒がれています。しかし、野田候補は毅然として「彼を信じます」と発言されており、その夫婦の絆の強さにわたしは感銘を受けました。また、主演の女性総理を演じた中谷美紀にちょっとだけ外見の雰囲気が似ているのは同じ自民党でも丸川珠代・五輪担当大臣です。まあ、映画では連立政権で野党の党首が総理になるわけですが・・・・・・。


映画「総理の夫」で描かれている政治の世界は、腹黒いベテラン政治家・原九郎(岸部一徳)の暗躍などもありますが、基本的にクリーンです。現実の政治は、佳境にある自民党総裁選を見てもよくわかるわけで、その意味でも「総理の夫」はおとぎ話なのです。でも、おとぎ話には夢があります。中谷美紀演じる相馬凛子は凛々しく、カッコ良く、そして、どこまでもどこまでも美しかったです。日々多くの映画を観るわたしは、スクリーンに美女が映ることには慣れていますが、この「総理の夫」の中谷美紀は本当に美しかったです。45歳にして、この圧倒的な美を発揮できる彼女はもはや「美の女神」じゃありませんか!

 

「総理の夫」の共演者たちも、中谷美紀のただならぬ美には圧倒されたようで、初日舞台挨拶で貫地谷しほりは「大階段を降りてくるシーンはすさまじく美しくて」とため息をつき、工藤阿須加は「家に帰ってすぐ母親に電話して、『あんなキレイな女性いる?』って言っちゃいました」と語っていました。一方、「美しい」「キレイ」と称賛された中谷美紀は、「『神々しく美しく』って台本に書いてあるから、しょうがないから照明をいっぱい当ててやったよ~みたいなことを仰っていて(笑)相当、苦労されたみたいです、照明さんとしては」と笑っていました。


中谷美紀は、女優デビュー前、テレビ朝日「桜っ子クラブ」内のアイドルグループ・桜っ子クラブさくら組の一員として、1991年から1993年まで音楽活動をしていました。1993年、テレビドラマ「ひとつ屋根の下」(フジテレビ)で女優デビュー。その後は、多くのテレビドラマや映画、さらに日本石油のCM出演で知られるようになります。1996年、ミュージシャン・坂本龍一のプロデュースによるシングルCD「MIND CIRCUS」をリリースし、音楽活動を再開。翌1997年3月には、“中谷美紀 with 坂本龍一”名義で発売した「砂の果実」が初のオリコンシングルチャートトップ10入りし、33万枚を売り上げています。


その後の中谷美紀は映画「リング」(1998年)「リング2」(1999年)の高野舞役で話題となり、1999年、自身初の主演テレビドラマ「ケイゾク」が放送され大ブレーク、以降は多くの映画に出演します。2004年から翌年にかけては、女性雑誌「anan」(マガジンハウス)に初の連載エッセイ 「男子禁制!?」を執筆。また、インド一人旅の旅行記、『インド旅行記』(幻冬舎文庫)も出版するなど、バラエティ豊かな才女ぶりを発揮しています。2005年には、山田孝之主演の映画「電車男」に出演し、ヒロイン「エルメス」役を演じました。この映画の原作となった小説 『電車男』には、「エルメス中谷美紀に似ている」という記述があることにより、実写化においても彼女がエルメス役を演じたといいます。


映画では、「壬生義士伝」(2003年)、「ゼロの焦点」(2009年)、ブログ「利休にたずねよ」で紹介した2013年の映画で日本アカデミー賞優秀助演女優賞ブログ「阪急電鉄~片道15分の奇跡~」で紹介した2011年の映画で同優秀主演女優賞を受賞していますが、なんといっても彼女の最高傑作は日本アカデミー最優秀主演女優賞に輝いた「嫌われ松子の一生」(2006年)でしょう。わたしは、この映画が大好きで、もう何度観たかわかりません。中谷美紀の演技力と女優魂には脱帽した記憶があります。その他、2011年には舞台「猟銃」で初舞台にして1人3役に挑み、第46回紀伊國屋演劇賞個人賞および第19回読売演劇大賞優秀女優賞を受賞しています。2014年のNHK大河ドラマ軍師官兵衛」では黒田光を、30代で10代の役から演じました。このように中谷美紀という人は、超弩級の女優なのです!

 

2018年、中谷美紀は、ドイツ出身でウィーン国立歌劇場管弦楽団ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ビオラ奏者を務めるティロ・フェヒナーと国際結婚したことを明らかにしました。こんな才色兼備の女性と結婚できるなんて羨ましい男性もいたものですが、映画「総理の夫」では、中谷美紀よりも8歳も年下の37歳の田中圭と夫婦役を演じています。映画はこの夫婦の愛と絆の物語なのですが、「日本を救う最大のポイントは結婚にあり!」とわたしは考えています。ブログ「『GoToウエディング』の実施を!」でも書いたように、昨年、菅新首相が誕生したとき、わたしは日本人が結婚式を挙げやすい政策を立てていただきたいとお願いしました。

 

 

日本は、いま最大の国難に直面しています。それは新型コロナウイルスの問題でも、中国の領土侵犯の問題でも、北朝鮮のミサイル問題でもありません。より深刻なのが人口減少問題です。国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が発表した「日本の将来推計人口」(2017年)によれば、一〇〇年も経たないうちに五〇〇〇万人ほどに減少することが予測されます。ベストセラーになった『未来の年表』の著者である大正大学客員教授の河合雅司氏は、「こんなに急激に人口が減るのは世界史において類例がない。われわれは、長い歴史にあって極めて特異な時代を生きているのである」と述べています。人口減少を食い止める最大の方法は、言うまでもなく、たくさん子どもを産むことです。そのためには、結婚するカップルがたくさん誕生しなければならないのですが、現代日本には「非婚化・晩婚化」という、「少子化」より手前の問題が潜んでいます。

儀式論』(弘文堂)

 

わたしは、『儀式論』(弘文堂)において、人間は儀式という「かたち」によって不安定な「こころ」を安定させ、幸せになれるのではないかと述べました。儀式とは人間が幸福になるためのテクノロジーであると言えるでしょう。結婚式があるから、多くの人は婚約し、結婚します。結婚するから、子どもが生まれ、結果として少子化対策となります。結婚がなくなれば、子どもの出生が少なくなり、子どもが成長して大人となり、老いていって次の世代へ繋がることもなくなります。すなわち、結婚は生命のサイクルの起点なのです。観光や外食と違って、結婚式は社会の維持のために絶対に必要です。冠婚業はけっして単なるサービス産業ではありません。日本という国を継続させていくエンジンのような存在なのです!


映画「総理の夫」の夫婦は助け合って、支え合って、本当に理想の夫婦だと言えます。この映画は政治映画であると同時に夫婦映画でもありますが、「夫婦」という摩訶不思議なモノの正体をしっかりと示していると思いました。では、夫婦の正体とは何か。ブログ『困難な結婚』で紹介した内田樹氏の著書には、「結婚しておいてよかったとしみじみ思うのは『病めるとき』と『貧しきとき』です。結婚というのは、そういう人生の危機を生き延びるための安全保障なんです。結婚は『病気ベース・貧乏ベース』で考えるものです」とあります。わたしは「安全保障」よりも「相互扶助」と呼びたいです。そう、夫婦とは「世界で一番小さな互助会」ではないでしょうか。この映画を観て、そのような考えを改めて痛感しました。

f:id:shins2m:20210926190211j:plainハフポスト日本版より

 

ハフポスト日本版が配信した「中谷美紀さんからの感謝に『なんで?』と返したパートナー。その後の言葉に『素敵な関係』と反響」という記事には、中谷美紀がTOKYO FM「ディア・フレンズ」にゲスト主演したときのコメントが紹介されています。話題が彼女のパートナーでヴィオラ奏者のティロ・フェヒナーさんとの生活について及ぶと、彼女は「どちらかが、どちらかの犠牲になるのではなくて、お互いに自由に仕事もしつつ、尊重し合って」という関係を築けていると明かしました。また、フェヒナーさんは「洗濯物も下着とかも干してくれる」といい、中谷さんがそれに対し「ありがとう」と感謝を伝えると、「なんでありがとうってお礼を言うの?これ、自分の仕事だし、一緒に暮らしてるんだから当然でしょ」との答えが返ってきたといいます。素晴らしいですね! まさに、夫婦は世界で一番小さな互助会です!

 

 

この映画の原作は、原田マハさんの小説です。アマゾンの内容紹介には、「20XX年、相馬凛子は42歳にして第111代総理大臣に選出された。夫である私・日和は鳥類研究家でありながらファースト・レディならぬファースト・ジェントルマンとして、妻を支えようと決意する。凛子は美貌、誠実で正義感にあふれ、率直な物言いも共感を呼んで支持率ばつぐん。だが税制、エネルギー、子育てなど、国民目線で女性にやさしい政策には、政財界の古くさいおじさん連中からやっかみの嵐。凛子が党首を務める直進党は議席を少数しか有せず、他党と連立を組んでいたのだが、政界のライバルたちはその隙をつき、思わぬ裏切りを画策し、こともあろうに日和へもその触手を伸ばしてきた。大荒れにして権謀術数うずまく国会で、凛子の理想は実現するのか? 山本周五郎賞作家が贈る政界エンターテインメント&夫婦愛の物語」と書かれています。面白そうなので、読んでみたいです!

 

 

映画「総理の夫」の終盤近くでは、凛子の総理辞任会見の席に日和が乱入し、全国民の前で妻への愛を叫ぶシーンがあります。そのセリフは聴く者の心に響く感動的なものでした。わたしは原作小説を読んでいないのですが、おそらくその感動的なセリフは原田マハさんの書かれた言葉だと思います。ブログ『本日は、お日柄もよく』で紹介した小説でも、わたしは原田さんの書かれた言葉に感動しました。同書はスピーチライターの物語なのですが、登場人物たちのセリフが非常に練られています。読んでいるうちに自分の言語感覚まで研ぎ澄まされてくるような気がしてきます。特に、絶望の淵にある人に対しての次の言葉には感動しました。

「困難に向かい合ったとき、もうだめだ、と思ったとき、想像してみるといい。3時間後の君、涙がとまっている。24時間後の君、涙は乾いている。2日後の君、顔を上げている。3日後の君、歩きだしている」

f:id:shins2m:20200430111411j:plain死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)

 

この『本日は、お日柄もよく』に登場する言葉は、まさにグリーフケアにぴったりだと思いました。それもそのはず、この言葉はスピーチライターの久美が15歳のときに交通事故で両親を同時に失ったとき、某政治家が語りかけてくれた言葉なのでした。このグリーフケアの宝物のような言葉を、わたしは『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)の「はじめに」で紹介させていただきました。原田さんには一度だけお会いしたことがありますが、人気作家なのに気取らず、とても人間味あふれる方でした。人の心を打つ言葉を生み出すのは、結局はその人の人間性にかかっているのでしょう。

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原田マハさんと

 

2021年9月27日 一条真也

「空白」 

一条真也です。
日本映画「空白」を観ました。ブログ「MINAMATA-ミナマター」で紹介した映画も非常に重い内容でしたが、この作品も重かったです。水俣病患者以外にも、この世で生き地獄にある人々がいることを描いていました。それにしても、これほど不快感のある、やりきれない、登場人物が全員不幸で、ひたすら辛い映画もなかなかないと思います。しかし、これほど感動する映画もなかなかありません。多大なストレスを観客に与え続け、最後には少しだけカタルシスを与えるグリーフケア映画の大傑作でした。ずばり言って、今年の「一条賞」の最有力候補です!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
古田新太松坂桃李が共演を果たしたヒューマンドラマ。万引きを目撃され逃走中に車と衝突した女子中学生の死をめぐり錯綜する、被害者の父親と事故に関わる人々の姿を描写する。『新聞記者』『宮本から君へ』などを手がけてきたプロデューサーの河村光庸が企画し、河村が携った『愛しのアイリーン』などの吉田恵輔が監督と脚本を担当する。関係者全員が被害者にも加害者にもなり得る物語が映し出される」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「スーパーの化粧品売り場で万引きしようとした女子中学生は、現場を店長の青柳直人(松坂桃李)に見られたため思わず逃げ出し、そのまま国道に飛び出してトラックと乗用車にひかれて死亡してしまう。しかし、娘の父親(古田新太)はわが子の無実を信じて疑わなかった。娘の死に納得できず不信感を募らせた父親は、事故の関係者たちを次第に追い詰めていく」


人が死ぬ映画は無数にあります。また、遺された者の悲嘆や怒りを描いた作品も無数にあります。さらには、わたしが最近観る映画はどれもグリーフケア映画としての要素を発見してしまうものばかりです。しかし、この「空白」は特別です。これほど、すさまじいグリーフケア映画はありません。「空白」が大傑作になったのは、ひとえに主演の古田新太の熱演です。熱演というよりも怪演といった方がいいかもしれませんが、交通事故死した娘の遺体と対面したときの号泣と咆哮は日本映画史に残るほどの凄まじいものでした。このシーンだけで、彼がただの上手な役者を超えたモンスター俳優(劇中ではモンスター・ペアレントですが)であることがよくわかります。


古田新太は1965年生まれの55歳なので、わたしの2学年下です。でも、とても年下には見えません。えらく老けているというか、変な貫禄があります。最初に彼の存在を知ったのは、彼が所属している「劇団☆新感線」の公演DVDや「ゲキ×シネ」と呼ばれる映画においてでした。つねに彼は異形のキャラクターを演じていましたが、その存在感は圧倒的でした。その後、NHK朝の連続テレビ小説あまちゃん」(2013年)の荒巻太一役で全国区の知名度を得ますが、「いつか、ものすごい映画で、とんでもない演技をするかもしれない」と思っていました。結果、わたしの予感は見事に当たりました。そのものすごい映画こそ、この「空白」だったのです。


古田新太が気性の荒い漁師を演じれば、彼の娘を結果的に死なせてしまうスーパーの店長(松坂桃李)は気弱で優柔不断です。父親が急死したせいで、家業のスーパーを継いだものの、近くのイオンに脅かされ、日常的な万引きにも悩まされていました。そんな彼が負担に感じるほどのお節介を焼き続ける寺島しのぶ演じるスーパーの女店員、「おとなしい娘が万引きをしたのは学校でいじめに遭っていたからではないか」と疑うモンスター・ペアレントの怒りの矛先を巧妙に変えて、店長をロリコン痴漢野郎に仕立て上げた中学校の校長、取材で真摯に心中を語る店長の謝罪コメントを切り取って悪印象で視聴率を稼ぐマスコミ・・・・・・とにかくイライラする連中ばかり登場してきますが、彼らに次第に追い詰められて、店長は自ら命を絶とうとさえします。そんな彼の閉ざされた心にも、最後には「店長が作った弁当美味かったよ」って言ってくれる人が現れ、一筋の救いの光が差し込むのでした。

 

それにしても、この映画の重さはただごとではありません。ここ最近観た日本映画では、ブログ「怒り」ブログ「凪待ち」ブログ「楽園」ブログ「望み」で紹介した映画の重さにもちょっと似ています。しかし、それらには最後まで救いが感じられませんでした。最後の最後で、ささやかな希望(のようなもの)を与えてくれるという意味では、この「空白」はブログ「朝が来る」で紹介した映画に似ているかもしれません。2020年に公開された「朝が来る」は、ドラマ化もされた直木賞作家・辻村深月の小説を映画化し、河瀨直美が監督した作品です。特別養子縁組で男児を迎えた夫婦と、子供を手放す幼い母親の葛藤と人生を描いています。無縁社会と呼ばれる現代社会の中で「血縁」の意味を問うという点でも、「朝が来る」と「空白」のメッセージには通じるものがあります。

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「空白」予告編より

 

「空白」は、開始から数分後に物語の大きな発端となる女子中学生の交通事故死が描かれます。最近、映画の中で人が車に撥ねられるシーンがどんどんリアルになっていますが、この映画のそれはハンパではありません。最初の乗用車に撥ね飛ばされた後、トラックの車輪に巻き込まれて何十メートルも引きずられるのですが、アスファルトの道路にずっと血の跡がついていて、目を覆いたくなりました。水俣病に冒されるのは想定外の災難ですが、交通事故に遭うというのは想定内の災難です。現代人なら誰にでも起こりうるアクシデントです。あなたやあなたの家族が明日、水俣病に冒される危険性は限りなくゼロに近いですが、交通事故死する危険性は限りなく高いと終えます。

f:id:shins2m:20210925214907j:plain「空白」予告編より

 

そして、交通事故というものは、被害者だけでなく加害者にとっても災難です。乗用車とトラックの運転手にしてみれば、急に人が目の前に飛び出してきたわけで不慮の出来事です。それでも、交通事故の場合は100%車の方が悪いというのが現状です。乗用車を運転していたのは若い女性でした。彼女は警察の取調べでも錯乱し、母親に付き添われて亡くなった女の子の父親に会いに行って号泣しながら謝罪します。それでも、古田新太演じる父親は彼女を無視し、謝罪を受け付けませんでした。その後も何度か彼女は謝罪に来ますが、それでも追い返し続けます。

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「空白」予告編より

 

精神的に追い詰められた彼女は、ついに自死します。その葬儀の場で、片岡礼子演じる彼女の母親が、さすがにショックを受けて弔問に訪れた古田演じる父親に対して深々と一礼し、「最後まで責任を果たさずに、申し訳ありません。娘は心の弱い子でした。そんな弱い子に育てたのは、親であるわたしの責任です。これからは、わたしが責任を負わせていただきます。娘は心は弱かったですが、とても優しい子でした。どうか、娘を許してあげて下さいませんか」と懇願するシーンは泣けて仕方がありませんでした。そして、被害者の父親と加害者の母親の2人の間には子を失った者同士のシンパシーがありました。悲嘆の縁としての「悲縁」が生まれた瞬間でした。

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「空白」予告編より

 

それにしても、この映画は交通事故の怖さを思い知らせてくれます。まったく平凡な人間がある日、突然、殺人者になってしまう・・・・・・それが交通事故の怖さです。わたしは、数日前に読み終えたばかりの『昨日までの世界~文明の源流と人類の未来』という本の内容を思い起こしました。進化生物学や人類生態学の分野で世界的に有名なジャレド・ダイヤモンドの著書で、人生の大半をニューギニアなどの伝統的社会の研究に捧げてきた彼が、現代社会に住む人々が学ぶべき人類の叡智を紹介する本です。その日本版の下巻の冒頭の大4部「危険とそれに対する反応」として、「有益な妄想」という考え方が出てきます。

 

 

彼がニューギニアに野外視察に行き始めた頃、1週間を過ごすキャンプのために、見事な巨木を見つけた彼はニューギニア人の助手たちに「あの巨木の苔むした幹の脇のところにテントを張るので、準備にとりかかって下さい」と言いました。しかし、彼らはひどく動揺し、「あの巨木の幹の脇で寝るのは嫌だ」と言ったのです。「あの巨木はすでに枯れて、死んでいる。だから、我々がテントで夜、眠り込んでいるあいだにわれわれの上に倒れ込んできて、われわれを殺すかもしれない」というものでした。実際に巨木はすでに枯れていましたが、この1週間の間に倒壊する可能性は限りなく低いです。それでも、少しでもリスクがあれば冒さないというのが伝統的社会の知恵なのでした。


この「有益な妄想」を学んだ著者は、その後は、濡れると滑る浴室でのシャワー、電球の交換で脚立に上がるとき、階段の上り下り、つるつると滑る歩道を歩いたりするときに気をつけているそうです。著者いわく「1回あたりのリスクは低いが、生活のなかで頻度の高い行為であり、用心深く対応することに越したことはない(倉骨彰訳)」というわけですが、そんな彼が最も用心深く対応する機会こそ、車の運転なのでした。「有益な妄想」は「建設的なパラノイア」とも言い換えられていますが、想定外の出来事の連続である人生においては素晴らしい知恵であると思います。過度の心配性もストレスを溜め込みますが、つねに最悪の事態を想定して生きることは、最悪の事態を回避する最大の方策ではないでしょうか? それは車の運転においても、新型コロナウイルスの感染対策においても、すべてのリスクに対応しうる人類の叡智なのです。

 

2021年9月26日 一条真也

「MINAMATAーミナマター」

一条真也です。
映画「MINAMATA―ミナマター」を観ました。23日からの公開ですが、地元のシネプレックス小倉でも上映されました。社会派の映画は多くの観客動員が見込めないので地方では上映されないことが多いです。それで、この映画も東京で観ようかと思っていましたが、地元で観れて良かったです。もちろん感動もしましたが、企業経営者として多くのことを考えさせられました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「日本における水俣病の惨事を世界に伝えたアメリカの写真家、ユージン・スミス氏の日本での取材を描くヒューマンドラマ。1971年から1974年の3年間にわたり、水俣で暮らしながら公害に苦しむ人々の日常と、闘いの日々を撮影した写真家を描く。『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』などの製作を務めたアンドリュー・レヴィタスが監督を手掛け、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズなどのジョニー・デップが主演を務め、真田広之國村隼、美波、加瀬亮らが共演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1971年、ニューヨークに住むフォトジャーナリストのユージン・スミスジョニー・デップ)は、過去の栄光にすがり酒に溺れる日々を送っていた。そんな折、日本のカメラマンとその通訳を務めるアイリーン(美波)が彼のスタジオを訪れる。アイリーンは日本の大企業チッソが工業排水を垂れ流した結果人々が病に倒れていると語り、ユージンに病気で苦しむ彼らの取材をしてほしいと訴える」


わたしと同い年であるジョニー・デップの主演映画を観たのは、ブログ「グッバイ、リチャード!」で紹介した作品以来ですので、約1年1カ月ぶりです。ハリウッドを代表するスターである彼は、この映画「MINAMATA―ミナマター」の構想を10年前から練っていたそうです。描かれるのは、戦後日本が生んだ最悪の「社会問題」とされる水俣病です。SDGs(持続可能な開発目標)が叫ばれる現在ですが、かつての高度成長時代の日本を襲った公害を映画のテーマとすることは大きな意味があります。九州の熊本で発生した水俣病が公式に認定されてから今年で65年になります。患者らは今も認定や補償を求め裁判で戦っています。世界的人気俳優であるジョニー・デップをはじめ、國村隼真田広之浅野忠信加瀬亮といった日本を代表する名優たちが、魂のこもった映画を生み出してくれました。本当に素晴らしい俳優たちの競演でした。

 

 

水俣病に関しては、ブログ『苦海浄土』で紹介した石牟礼道子の名著がよく知られています。2018年2月10日に90歳で亡くなった彼女は熊本生まれ、1969年に『苦海浄土』を刊行。水俣病の現実を伝え、魂の文学として描き出した作品として絶賛されました。作家の池澤夏樹氏が個人編集した『世界文学全集』(全30巻、河出書房新社)には『苦海浄土』3部作が日本人作家の長編として唯一収録されています。池澤氏は「辺境から近代化に抵抗し、水俣にとっても、人類にとっても、石牟礼さんがいたことは『幸運』だったかもしれない。翻訳されても価値が減じず、訳された先でも価値が広がっていくような普遍性のある世界文学でした」と評しました。また、2014年9月に石牟礼さんへのインタビュー経験のある宗教哲学者で京都大学名誉教授の鎌田東二氏は、『古事記』『平家物語』『苦海浄土』を「日本の三大悲嘆(グリーフ)文学」と位置づけています。



たしかに石牟礼道子著『苦海浄土』は多くの日本人の魂を揺さぶりましたが、世界中に水俣病の存在を知らしめたのはアメリカの写真家ユージン・スミスでした。彼は、1918年、カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母がアメリカインディアンのポタワトミ族の血筋も引いています。ユージンの父親は小麦商を営んでいましたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺しています。ユージンはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けたといいます。第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣。1945年5月22日の26歳のとき、沖縄戦で歩兵と同行中に日本軍の迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風により全身を負傷。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けました。約2年の療養生活を送りましたが、生涯その後遺症に悩まされることになりました。


その期間を振り返って、ユージンは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐しています。戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味を向け、1947年から1954年まで、雑誌「ライフ」で「フォト・エッセイ」という形で取り組みました。1950年にイギリス労働党の党首選挙を撮りに訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱きます。しかし、ライフ誌編集部の方針と対立し、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売でした。1954年には『A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後は関係を断ち切っています。


1961年、ユージンは日立製作所のPR写真撮影のために来日。そのとき、彼は「もう一度日本を撮りたい」という願いを持っていたといいます。1970年8月、ユージンが51歳のときにニューヨークのマンハッタンにあるロフトでアイリーン・スプレイグ(のちの妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会います。富士フイルムのCMでのユージンへのインタビューで、アイリーンが通訳を務めたのです。当時20歳のアイリーンは、母親は日本人で父親はアメリカ人でした。出会って1週間後に、ユージンはアイリーンに自分のアシスタントになって同居するよう頼みます。アイリーンは承諾しそのまま大学を中退、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らし始めました。

 

ニューヨークで日本の美術関係者から来日して水俣病の取材をすることを提案されたユージンとアイリーンはこれに応じ、1971年8月16日に来日。同年8月28日に日本で婚姻届を出し、東京都内のホテルで披露宴を挙げて夫婦となりました。スミス夫妻は患者多発地域であった熊本県水俣市月ノ浦に家を借り、同年9月から1974年10月までの3年間、ともにチッソが引き起こした水俣病と、水俣で生きる患者たち、胎児性水俣病患者とその家族などの取材・撮影を行いました。


1972年1月7日、千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場を訪問した際、川本輝夫率いる水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が、チッソ社員約200人による強制排除に遭い、暴行を受ける事件が発生。ユージンもカメラを壊された上、コンクリートに激しく打ち付けられて脊椎を折られ、片目失明の重傷を負いました。ユージンの後遺症は重く、複数の医療機関に通い続けたが完治することはなく、暴行の容疑者は不起訴処分となりました。この事件でユージンは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語っています。

 

 

ユージンはチッソを告訴することも勧められましたが、それを拒みました。そして、その後も水俣市と東京都内を行き来しながら、患者らの後押しを受けて撮影を続けたました。彼の写真集『水俣』は世界に衝撃を与えましたが、彼は暴力で受けたダメージが原因で1978年にこの世を去り、『水俣』は世界的写真家であったユージン・スミスの遺作となったのです。映画の冒頭には、借金まみれになって過去の栄光にすがりつくユージンの姿が描かれます。彼は自暴自棄になって酒に溺れる日々を送ります。そんな暗闇にいた彼に光を当てたのは、アイリーンの愛であり、水俣病の取材依頼を受けることを決めたユージンの写真家としての志であり、それを支えた「ライフ」誌でした。


水俣病が公式に認定されてから65年目となった2021年5月、日本人インタビュアーに「この映画を『今』伝えたい理由は?」と質問されたジョニー・デップは、「今世界に広がっているパンデミックは悲惨な状況になっていますが、水俣も同じぐらい悲惨で、長年にわたり汚染され人の命も奪われてきました。水俣の問題は一度きりの問題ではないと気付きました。今(コロナで)多くの人が被害を受けたりたくさんの命が失われる中、医療関係者の方々はギリギリの状況で命を救おうと必死です。中には他人の命を救おうと自らの命を犠牲にする人さえいます。「自分さえよければ、私が、私が」という考え方はよくあることで、今に始まったことではありません。こんな今だからこそ私たちの欲望や願望などをもう一度考え直すべき時期ではないでしょうか」と答えています。


ユージン・スミスを演じたジョニー・デップは、よく本人に似ていました。ジョニーはユージンに長年憧れていたそうです。水俣病は、熊本県水俣市チッソ工場の廃水を原因とし、現在まで補償や救済をめぐる問題が続く日本における「四大公害病」のひとつです。その存在を世界に知らしめたのが、ユージンが1975年に発表した写真集『MINAMATA』です。彼の遺作となったこの写真集を基に、ジョニー自身の製作・主演で待望の映画化が実現しました。ユージンは今でいうインフルエンサーでしたが、ジョニーも現代におけるトップクラスのインフルエンサーです。65年前に、ユージンが「これが水俣病だ!」と世界に衝撃を与え、今またデップが「水俣病を忘れるな!」と訴えました。2人の新旧インフルエンサーによる魂のリレーに、わたしは感動しました。そして、その魂は「義を見てせざるは勇なきなり」という『論語』の言葉に通じると思えてなりません。


豪華な男優陣の中で、紅一点といえるアイリーンを演じた美波がすごく良かったです。オーデションで選ばれたという彼女は1986年東京都出身、現在35歳で既婚。ロサンゼルス 、パリと日本を行き来しながら役者として活動中。演技も堂々としていて、ジョニー・デップとの息もバッチリ合っていました。その美波が演じたアイリーンが「自分も写真を撮影します」と言ったとき、ユージンは「写真家は写真を撮るときに自分の魂を削って撮っている。だからまっすぐ向き合って撮って欲しい」と語りますが、至言だと思いました。ユージンもそうですが、戦場カメラマンのロバート・キャパ沢田教一の写真からも「魂を削って撮っている」ということを感じます。また、ユージンは「1枚の写真は千の言葉より雄弁である」と述べ、水俣病の患者を抱える人々に「家族とのかけがえのない大切な瞬間。それを共有させてもらえませんか」と懇願しますが、そのシーンには感銘を受けました。その結果、歴史に残る写真集『MINAMATA』が生まれたのです。


残念だったのは、この映画は水俣で撮影されていないのはもちろん、日本国内でも撮影されていないことです。1970年代の熊本・水俣が舞台なのですが、現在の水俣は当時から大きく変化していたため、セルビアベオグラード港の倉庫でのセット撮影と、モンテネグロのティヴァトという海岸沿いの街でロケ撮影が行われたそうです。そのために、風景も家屋も家具も突っ込みどころ満載で、時代考証もおかしい点が多かったです。水俣病の映画なのに水俣で撮影できなかったのは、水俣市からの協力が得られなかったからです。それは地元には地元の人間にしかわからない根深い問題があり、現在の水俣市水俣病についての特定の立場を明確にする事は難しいようです。また、水俣市民の中には、この映画を観て古傷に塩をすり込まれたように感じる人もいるでしょう。事態は複雑なのですが、苦海の中を生きた人々の悲嘆はこの映画よりもはるかに大きかったことは間違いありません。


ジョニー・デップユージン・スミスになり切っていましたが、被害者たちのリーダーであるヤマザキ・ミツオを熱演した真田広之も素晴らしかったです。彼はチッソの工場の前で、「水俣病は遺伝でもなければ偶然でもない。原因を作った相手ははっきりしているし、原因を作った相手は責任を取らなければならない」と訴えます。わたしは、それを聴いて胸が熱くなりました。彼の言葉はその通りですし、まったく反論の余地はありません。そして、わたしは新型コロナウイルスのことを思いました。新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった犠牲者は多いですが、コロナも遺伝でもなければ偶然でもありません。もちろん原因を作った相手があるわけですが、ブログ「千葉真一さん、逝く!」に書いたように、今年8月19日に世界的アクションスターの千葉真一さんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなりましたが、千葉さんは真田広之の師匠でした。


映画「MINAMATAーミナマター」をよく思わない人の中には、この映画の製作に多くの中国資本が入っていることを指摘します。つまり、今さら65年前の公害病の映画を作るのは日本に対する嫌がらせではないかというのです。現在の中国は日本どころではない環境汚染大国ですが、そのことを隠蔽するためにも日本を悪役にした映画を作りたかったというわけです。中国といえば、新型コロナウイルス武漢研究所から漏洩したという説が今でも強いです。WHOのテドロス事務局長は中国よりで「武漢研究所漏洩説」に否定的であると思われてきましたが、最近になって流れは大きく変わっています。

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zakzakより

 

テドロス氏『反中』へ“寝返った”!? WHO『親中』から一転…コロナ『武漢研究所漏洩説』を否定せず、起源調査で米と蜜月 医師・村中璃子氏緊急寄稿」というネット記事によれば、新型コロナウイルスの起源をめぐる米国の調査報告書は、確定的な結論を導けないとした一方、バイデン米大統領は中国の「隠蔽」を批判したと指摘しています。そして、中国をじわじわと締め上げる手法の裏には、これまで親中だった世界保健機関(WHO)が米国側に「寝返った」構図が浮かぶと書かれています。新型コロナウイルスによる肺炎は遺伝でもなければ偶然でもありません。原因を作った相手があり、その相手は世界中に対して責任を取らなければならないのです!


そして、ジョニー・デップ真田広之に負けず劣らず、素晴らしい演技を見せてくれたのが國村隼でした。彼は熊本出身ですので、この映画に出演したことは感慨無量だったと思います。彼が演じたチッソ社長は、 ユージンに対して「ppmを知っているか、ごく微量な単位で、私達はそれしか排出していない。また、苦しむ漁民も社会からしたらppmだ」と語ります。これはまさに水俣病の構図なわけですが、この「ppm」を撮ろうという熱意がユージン・スミスの志であり、本来のジャーナリズムが目指すものです。東京五輪のスポンサーになり下がってしまった日本の大新聞はジャーナリズム失格ですが、ユージンが命がけで撮った写真を掲載する「ライフ」こそはジャーナリズムの鑑です。それにしても、國村隼の社長役はあまりにもよく似合っていました。黒ブチ眼鏡にヘルメットをかぶると、トヨタ自動車豊田章男社長にソックリで驚きましたが、同社長はわたしの最も尊敬する経済人の1人です。


当時の被害者側の弁護団長が「この映画には事実でないことも混ぜ込まれている。なぜ今、ハリウッドはこの映画を作ろうとしたのか」と疑問を呈しているという動画を観ましたが、先頭に立ってチッソと闘いながらも、この弁護士さんは「それでもチッソや社長は立派だった」と語り、この問題は映画のような善悪二元論で語れないと述べていました。映画の中の國村隼演じるチッソ社長の苦悩の姿は、観ていて辛かったです。もちろん、人として被害者に膨大な賠償金を払ってやりたいのは山々だったのでしょうが、彼にはチッソという会社とその従業員の生活も守らなければいけなかったのです。その経営者としての彼の苦悩と悲嘆を思うと、涙が出てきます。

 

そして、交渉の場でテーブルの上に土足で上がって胡坐をかくという非礼な行為をした被害者側のリーダーの振る舞いは許せませんでした。振る舞いといえば、ユージンが水俣の人々に日本式のお辞儀をしたり、水俣病の少年とハグしたりするシーンには胸が熱くなりました。まさに、「礼」とは「人間尊重」そのものです!  しかし、いくらチッソの社長が立派だったとしても、暴力団のような輩を使ってユージン・スミスに暴行を働いたことも事実です。水俣病で見られた「事実の隠蔽」「告発者への圧力」などは、福島第一原発事故やコロナ禍でも見受けられます。映画に登場するチッソ株主総会は1971年ですから、今年で50年経っています。しかし、日本社会が半世紀の間変わっていないとしたら怖いことです。今も昔も、大企業と政府や行政は結託するのが常なのでしょうか?

f:id:shins2m:20210924135412j:plainLearnig for All」ディスプレイ広告より

 

また、映画の中のセリフにあるように、弱いものが強いものに略取されるのがこの世の常なのでしょうか? いや、わたしはそうは思いたくありません。むしろ、本当に世直しができるのは政府でも行政でもなく、企業ではないかと考えます。SDGsやCSR(企業の社会的責任)は当然ですが、人も資本も志本(想い)も集中した企業こそは、社会を良くできると信じています。最近、わたしのPCには「小学3年生みずきちゃんは、お風呂に入る習慣を知らない」とか「歯磨きも入浴もせず、毎日同じ服を着ている小学生がいます」といったディスプレイ広告がよく出てきますが、そのたびに泣けて仕方がありません。「なんとかしてあげなければ!」と心から思います。映画「MINAMATAーミナマター」は環境問題に焦点を当てていますが、人権問題も貧困問題も児童虐待・・・・・・すべての問題は根が繋がっています。そういう考え方に立つのがSDGsであるわけですが、その意味で入浴ができなかったり、1日に1回しか食事ができないようなお子さんに対して、見て見ぬふりはできません。

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子どもたちをお風呂に入れてあげたい!

 

ブログ「日王の湯で湯縁社会を!」で紹介したように、福岡県田川郡福智町にある「ふるさと交流館 日王の湯」をわが社が運営することになりました。コロナが落ち着いたら、日王の湯を解放して、子どもたちに風呂に入ってもらい、その後、食堂でカレーライスをお腹いっぱい食べてもらうイベントを開催したいと考えています。それは、新しい互助会の在り方だとも思います。七五三のような通過儀礼を挙げてもらえない子どもたちには、合同七五三なども考えてみたいと思います。いずれはイベントでなく持続性のある活動も視野に入れています。この考えに賛同して下さる方々には、ぜひ、わがサンレーの互助会に入会していただきたいと思います。つまり、その事業の志と継続性を支援するクラウド・ファンディング的な意味での互助会募集です。わが社は、他者の幸せを願う志を持ったアンビショナリー・カンパニーでありたい・・・・・・この映画を観て、わたしは、その想いをさらに強くしました。

 

2021年9月25日 一条真也

小倉ロータリー観月会

一条真也です。
今夜は、松柏園ホテルで、小倉ロータリークラブの「夫人同伴観月会」が開かれました。昨年はコロナで中止でしたので、2年ぶりの開催です。でも、福岡県が今月末まで緊急事態宣言につき、アルコール提供ができませんでした。北九州市のこの日の新規感染者数は10名だったのに!

f:id:shins2m:20210924201750j:plain会場前のようす

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2年ぶりの開催でした

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夫人同伴の観月会でした

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会場内のようす

 

わたしは妻と訪れましたが、ロータリアンの方々と久々にお会いすることができ、妻も嬉しそうでした。わたしも、ここのところずっとオンライン例会だったので、みなさんと直接お会いできて嬉しかったです。妻はイエローのワンピースと靴、わたしはイエローのネクタイの装いでした。会場は松柏園ホテルの新館「VILLA LUCE(ヴィラルーチェ)」のザ・テラスで、奥様方から「素敵ですね」とのお声をたくさん頂戴しました。もちろん、感染対策には万全の配慮をしました。

f:id:shins2m:20210924183355j:plain指揮をする二村ソング・リーダー

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挨拶をする杣会長

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ノンアルコールで乾杯!

f:id:shins2m:20210924182310j:plain本日のメニュー

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秋の満月をイメージしたオードブル

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キノコのオニオングラタンスープ

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甘鯛のうろこ焼きソースヴェール

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国産黒毛和牛のローストビーフ

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デザートは熱々キャラメルソースで

 

最初に、二村ソング・リーダーの指揮でロータリー・ソングがマスクをしたまま小声で歌われ、杣会長の挨拶の後、原田元ガバナーによる乾杯が行われました。ノンアルコールのスパークリングワインでの乾杯と同時に、月に見立てたクス玉が開いて、大きな歓声が起こりました。乾杯後は、松柏園の戸川シェフ入魂のフルコースを味わいながら、みなさんと楽しい時間を過ごさせていただきました。今夜は20時までに終了しなければならないため、料理の配膳もスピードアップしました。

f:id:shins2m:20210924192045j:plain北九州グランフィルハーモニー管弦楽団

f:id:shins2m:20210924192148j:plain弦楽四重奏の生演奏♪

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素敵な音楽に酔いました♪

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満月のクス玉が割れました!

 

途中、北九州グランフィル交響楽団の方々による弦楽四重奏の生演奏がありました。「うさぎ」「朧月夜」といった童謡から始まり、坂本九の「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」と続き、さらにはホルストの「惑星」から「木星」が演奏され、最後はディズニー映画「ピノキオ」の主題歌である「星に願いを」が流れました。それを聴きながら、わたしは「早くコロナが終息しますように」との願いを星にかけました。盛大な拍手の後はアンコールが起こり、映画「ティファニーで朝食を」の主題歌「ムーン・リヴァー」がロマンティックに演奏されました。アルコールが出なくても、みなさん、素敵な音楽の酔われたようです♪ その後、満月のクス玉が割れて大抽選会が開かれましたが、なんとわたしが1等賞を取りました。どうも、すみません!

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プールサイドで記念撮影

f:id:shins2m:20210925090934j:plain閉会後にマスクを取って妻と

 

そして最後は、プールサイドで全員で集合写真を撮影しました。撮影する直前までマスクを着用し、写す瞬間に外しました。酔っ払いがいればプールに落下する心配をしなければなりませんが、今夜は全員シラフなので安心でした。(笑)というわけで、残念ながらお酒は提供できませんでしたが、多くの方々から「満足しました!」「今夜は最高!」「やっぱり松柏園の料理は美味しいですね」などのお言葉を頂戴し、恐縮しました。来年は、美味しいお酒を飲みながら観月会が開けますように!

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2021年9月24日 一条真也

『アメリカン・ブッダ』

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

 

一条真也です。
アメリカン・ブッダ柴田勝家著(ハヤカワ文庫)を読みました。ブログ『ヒト夜の永い夢』ブログ『ニルヤの島』で著者の長編小説を紹介しましたが、本書は短編集。著者は1987年東京生まれのSF作家。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程前期修了。在学中の2014年、『ニルヤの島』で第2回ハヤカワSFコンテストの大賞を受賞し、デビュー。2018年、「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」で第49回星雲賞日本短編部門受賞。戦国武将・柴田勝家を敬愛しているとか。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、ネイティブ・アメリカンと思われる青年の顔や、狼に咥えられた赤ちゃんのイラストが描かれています。帯には、「人類の未来を問う・・・・・・民俗学×SF!」「星雲賞受賞作を含む著者初の短篇集」「『SFが読みたい! 2021年版』が選ぶ ベストSF2020国内篇 第2位」と書かれています。

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「未曾有の災害と暴動により大混乱に陥り、国民の多くが現実世界を見放したアメリカ大陸で、仏教を信じ続けたインディアンの青年が救済を語る書下ろし表題作のほか、VR世界で一生を過ごす少数民族を描く星雲賞受賞作『雲南省スー族におけるVR技術の使用例』、『ヒト夜の永い夢』前日譚にして南方熊楠の英国留学物語の『一八九七年:龍動幕の内』など、民俗学とSFを鮮やかに交えた全6篇を収録する、柴田勝家初の短篇集」

 

本書には、以下の6つの短編小説が収められています。
雲南省スー族における
 VR技術の使用例」

「鏡石異譚」
「邪義の壁」
「一八九七年:龍動幕の内」
「検疫官」
アメリカン・ブッダ

 

表題作「アメリカン・ブッダ」が書き下ろしで、他は他誌・他媒体に発表済みとなっています。いずれも民俗学とSFが融合した奇妙な味わいの物語です。これまでも民俗学とホラーの融合というのはありましたが、民俗学×SFというのは珍しく、はなかなか新鮮でした。「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」は、一生VR(バーチャル・リアリティ)ヘッドセットをつけて暮らす少数民族の物語です。彼らは生まれた直後に、ヘッドセットをつけられ、仮想のVR世界の中で人生を送ります。「彼らの見ている世界は、どんな世界なのか?」「彼らの見ている景色は、わたしたちの見ている景色とどのように違うのか?」などと興味は尽きません。

 

スー族の長老が拙い英語で語る話は、古くから中国で「邯鄲(かんたん)の夢」として知られているものと同じでした。スー族を研究する主人公は、「彼らにとってVR上の世界こそが本当の世界であり、それを取り去ったからといって、この現実世界に順応するわけではない。我々にとっての現実がいつか、ただの夢であると告げられて、それを信じられる人間が果たしているだろうか」と考えますが、長老は「私は今、貴方に向けて話しているが、私の主体は常に私達の世界にある。貴方は今、私には1つの点として見えている。点とは貴方達の世界では点を指すが、私達の世界では個人の情報を指している。そこに差異があるのは確かだが、だからといって、それがどう違って見えるかを伝える術を持たない」と言うのでした。彼らにとってはVR空間こそが現実であり、現実世界というものは夢と同様のものに過ぎないのです。

 

興味深いのは、結婚式についての描写です。結婚式もVR空間の中で執り行われるのです。普通の格好で村に訪れた花嫁は、花婿の肉体と出会います。VR空間上では何度となく、両者はアバターを通じて触れ合っていましたが、ここに至って初めて互いの肉体を知ります。しかしながら、彼らにとっての肉体とは単なる外部化された装置に過ぎず、顔の美醜や体型の好みなどは一切関係ありません。

 

 そもそも配偶者が婚姻によって村を訪れるのは、ひとえに子供を作るという即物的な目的の為であり、それを目的としないで、VR空間上のみで結婚を果たしたカップルも多く存在するという。そして、そういった何組かのカップルは、実は同性であることが後から判明し、顔を合わせたくても合わせられない事情があると、端童の男性が面白おかしく語っていた。
 そういった複雑な恋愛関係の中で、無事に婚姻を果たしたカップルは次に子供を作る――当然、セックスの最中も互いのヘッドセットを外すことはない。そうして生まれた子供は、長老の次に権力を持つ産婆の元で、人生最初の儀礼を受ける。
 つまり、ヘッドセットの装着である。(P.14)

 

雲南省スー族におけるVR技術の使用例」には、葬儀についても書かれています。これは、『ニルヤの島』に登場した生体受像のデータが記録された石板(タブレット)と同様に、未来における葬儀のイメージをインスパイアされました。主人公がスー族の村に滞在している間、一度だけ葬礼の場を経験したのです。彼は、「この地で最も興味深いものが結婚と出産ならば、最も意義深いものが葬儀になるだろう」と書いています。その日、村の広場で、とある老人の死体が焼かれました。老人の葬礼には、介添人の女性以外は誰一人として参加していませんでした。しかし、そう見えたのはこちらの世界の話であり、端童の話によれば、VR空間の中では老人の葬儀が盛大に執り行われているということでした。

 

 老人の肉体は焼かれて灰に変わり、タッシブという白檀製の小さな櫃に入れられて、山沿いにある共同墓地の一角に埋められるという。これら一連の儀礼で最も重要なものは、老人がつけていたヘッドセットが外される瞬間であり、介添人の女性が死体からそれを外すのを見られたのは幸運だった。なんといっても数十年間にわたって装着し続けたものであり、それを外すのにも相当の手順が必要になってくる。
 まず、既に後頭部でヘッドセットを結ぶベルトと髪が複雑に絡んでいる為に、それらを丁寧に鋏で切り離す必要がある。ついで、綺麗な水で目の周りを濯いでいく。積み重なった垢と硬質化した皮膚によって癒着したヘッドセットを外すのは、並大抵の苦労ではないように思えた。
 ようやくそれが取り外された時、そこにあったのは厚い眼鏡のように盛り上がった眼鏡筋と、小さくすぼまった瞼だった。まるでモグラか地中の蛇のようだった。この身体的特徴が見られるのも、ヘッドセットを取り外し、火葬に処されるまでのごく短い間だ。 
 積み上げられた薪の上に寝かされた老人は、そのまま凄まじい火力によって焼かれる。灰と煙が強い風に乗って、集落全体へと渡っていく。この間も、VR空間では、彼のために村人達が祈っているのだという。
(P.19~20)

 

「鏡石異譚」は、主人公の女の子の成長を追いながら、未来の彼女が過去の彼女の前に出現してアドバイスするというタイムトラベルSFです。なぜ、未来の自分がアドバイスに来るのか。その理由を、彼女は「1つの出来事が、未来には様々な形で影響してくる。ドミノ倒しみたいに、些細なつまずきが連鎖して大きな不幸になる。それを防ぐには、最初のドミノが倒されないようにするしかない。きっと、未来の私はそのために、過去かの私にアドバイスをくれているのだ」と考えるのでした。

 

「鏡石異譚」には、記憶子という新粒子が登場します。これは全ての過去を再現するものです。鏡のように常に過去に進む世界に人間は干渉できませんが、唯一、過去の世界を観測できる部分があり、それが記憶だというのです。主人公が「先生さん」と呼ぶ物理学者は、「人間は過去を知っている。それは肉体が経験したからではなく、この新粒子が、時間軸を反転した世界と我々の世界を繋いでいるからではないか、そう考えたんだ」と言います。また、「記憶というのは脳にあるものではなくて、この宇宙に存在していると考えられるというわけさ。つまり君が出会っていた過去の自分というのも、その新粒子が見せる現象だと考えたらどうかな」とも言います。

 

記憶が宇宙に存在しているなんて、まるで全宇宙のデータベースとしての「アーカシック・レコード」を連想させます。さらに、先生さんは、「記憶子を制御するような技術が発見されれば、いずれ事実というものに意味はなくなる。物理的な痕跡や残された記録すら、人間にとって都合の良い意味に書き換えられる。今現在でさえ、僕らは自分の意識に従って正しいと思う記録を信じる。それ以外は全て不都合なもので、何かの誤りであると思い込む。九十九個ある玉を、世界全ての人が百個あると言うのなら、それは百個の玉になるんだ」と言うのでした。こんな物理学的関心に満ち溢れた時間SFが「迷い家」「座敷わらし」「オシラサマ」といった民俗学的ワードに沿った物語として展開していくのですから、たまりません。わたしは、この「鏡石異譚」が一番好きでした。

 

「邪義の壁」は、昔から増改築を繰り返してきた迷路のような家の白壁から白骨死体が発見され、その後もいろいろと禍々しいものが発見されるというホラー風味のSFです。隠れキリシタンとか、隠し念仏などの宗教的テーマを含んでいますが、これはちょっと踏み込みが浅い感じでしたね。この話は、長編で書くと、また面白いのではないかと思いました。

 

 

「一八九七年:龍動幕の内」は、『ヒト夜の永い夜』の前日譚で、人間の言葉を解析し、人間の望む答えを提示するITロボットが「天使」として登場するくだりがスリリングでした。また、この物語ではロンドンに留学している南方熊楠孫文大英博物館で待ち合わせるのですが、冒頭に書かれた博物館の描写が素晴らしいです。 

 

 ここは世界の全てがある場所、つまり大英博物館である。
 大英帝国の威光も燦然たり。七つの海を渡り、世界のあらゆる地域を踏破した帝国だ。この国の冒険家達は、それぞれの地域から貴重な資料を持ち帰り――略奪したと言ってもいいだろう――それを巨大な博物館に収めた。言ってしまえば、子供の頃に綺麗な石や奇妙な虫を拾い集め、家に帰って玩具箱に詰め込んだことの、全世界規模のものなのだ。 
 かのロゼッタストーンはもとより、無数のミイラにラムセス二世の胸像やらの古代エジプト美術、翻って地中海ギリシアの神殿遺物にエトルリア美術、古代ローマの花瓶が並び、アッシリアの彫像が出迎え、輝くのは古代ウルの金杯、または大陸先史時代の石器に青銅器、鉄器が時代ごとに分けられ、アフリカの投げナイフ、あるいはアメリカ先住民のレリーフが掲げられている。
(P.137~138)

 

「検疫官」は、人間の思想に影響を及ぼすもの、すなわち「物語」を疫病のウイルスのようにみなし、検疫する男の物語です。コロナ禍の現在、わたしのハートにヒット! 面白いのは、「キリスト」という名前を聞いただけで検疫官が卒倒するほどのショックを受ける場面です。知らない者は「キリストってよく聞くけど、なんだ?」「もしかしてアメリカのコミックのヒーローとか?」などと訊ね、知っている者は「もっとも怖いものだ」と答えるのでした。

 

 

拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)に書いたように、宗教とはまさに物語そのものであり、キリスト教や仏教といった世界宗教は「大きな物語」です。共産主義とかファシズムなどの政治思想の正体も「物語」です。最後には、「物語というものは人間が抱えた不治の病だ。どれだけ防疫を施そうとも、脳の奥では物語の腫瘍が膨れ続ける。それが破裂したら最後、人は何かを想像することを止められないのだ」と書かれています。

 

最後の「アメリカン・ブッダ」は、仮想世界である「Mアメリカ」に住む主人公と、彼に向かって現実のアメリカから語りかけるミラクルマンの物語です。「Mアメリカ」では、あらゆる物質に満たされ人々が永遠に近く生きることができます。人類が切望し続けてきた「天国」そのもののように思えますが、その天国に行っても人間は苦しみ争い続けるのでした。主人公に対して、仏陀について語るミラクルマンは、ネイティブ・アメリカン(本人は自身を「インディアン」と呼んでいます)です。彼が断片的に語る仏教の教義が、この奇妙な味わいの物語によくマッチしていました。6つの異色短編小説が詰まった『アメリカン・ブッダ』は、読んで絶対に後悔しない名作揃いです。こんな面白い短篇集は久々に読みました。おススメです!

 

 

2021年9月24日 一条真也

『ニルヤの島』

ニルヤの島 (ハヤカワ文庫JA)

 

一条真也です。
『ニルヤの島』柴田勝家著(ハヤカワ文庫)を読みました。著者は、1987年東京都生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻所属。外来の民間信仰の伝播と信仰の変容を研究。本作『ニルヤの島』が第2回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作となり、ハヤカワSFシリーズJコレクションより単行本化されデビュー。ブログ『ヒト夜の永い夢』で紹介した気鋭のSF作家のデビュー作ですが、ものすごい密度で書かれています。非常に読みにくい小説でしたが、「死後の世界」と「葬儀」について書かれた物語なので、わたしにとっては興味深かったです。

 

カバー裏表紙には、「人生のすべてを記録し再生できる生体受像(ビオヴィス)の発明により、死後の世界という概念が否定された未来。ミクロネシア経済連合体(ECM)を訪れた文化人類学イリアス・ノヴァクは、浜辺で死出の船を作る老人と出会う。この南洋に残る『世界最後の宗教』によれば、人は死ぬと『ニルヤの島』へ行くという――生と死の相克の果てにノヴァクが知る、人類の魂を導く実験とは? 新鋭が圧倒的な筆致で叙述する、第2回SFコンテスト大賞受賞作」と書かれています。



タイトルの「ニルヤの島」というのは、奄美沖縄諸島方面における海の彼方にあるという死後の世界です。そこから年ごとに神々が人間のもとに訪れ、祝福を与えるという信仰もあります。神々が来訪してこの世の人々を祝福する儀礼や伝承は南島各地に見られ、稲や粟の種子も元来ここからもたらされたとされます。奄美では「ニルヤ」「ネリヤ」、八重山では「ニーラ」「ニール」「ニライスク」といい、よく知られている「ニライカナイ」という語は死語となっている地域もあります。



しかし、本作『ニルヤの島』の舞台は奄美沖縄諸島方面ではなく、ミクロネシアということになっています。ここで4つのチャプターが入り乱れて話が進んでいき、最後にそれらが統合されるという形式ですが、そのチャプター内で一人称で語る主人公がぐるぐると変わり、時間も場面も変わります。それぞれのチャプターも時間軸が合っておらず、読んでいて困惑します。つまり、時間も空間も時間も登場人物もばらばらに配置されて物語が進んでいくわけで、とにかく読みにくい小説です。



4つのパートの内訳ですが、イリアス・ノヴァクという日本国籍文化人類学について書かれたパート、ヨハンナ・マルムクヴィストというスウェーデン人の模倣子行動学者について書かれたパート、ポンペイ島でアコーマンという架空の盤上遊戯を続ける二人組についてのパート、タヤという橋上島で働く潜水技師と彼に付き従う黒い髪のニイルという娘についてのパートです。本書を最後まで読むと、バラバラだった彼らの行動が収斂されて、その意味がはっきりとしてきます。しかし、そこに行くまでが大変で、ちょっと油断すると、ストーリーがまったくわからなくなり、最初に戻って読み直す羽目になります。

 

それでも、この小説を読むのを途中で止めることができなかったのは、「死」「死後の世界」「葬儀」といった、わたしのメインテーマを扱っているからでした。まず、この世界では「死後の世界」がありません。「〈GIFT 1〉-贈与―」には、「誰もが知っていた。誰もがどこかでそれを認識していた。死後の世界という概念は人類にとって最も偉大な儀礼だった。死生観は倫理観であり、社会を安定させる為に必要なものだった。しかし、今や社会の平穏は科学という新たな倫理によって担保されている。だから死後の世界の非実在は新時代の地動説になり得なかった。やがて複雑な予定説と終末論の妄言の果てに、信仰と魂の救済という大分滑稽な題目だけを残して、宗教の世界から死後の世界は消えた」(P.26)とあります。

 

「死後の世界」については、こうも書かれています。
「死後の世界という概念は、そのままあらゆる宗教の信仰に直結する。生きている間の賞罰は死後に決し、悪人は裁かれ苦役を得て、善人は幸福の国へ誘われる。そうした観念は古くは法律として機能し、近代法が発展してからも倫理的なるものに姿を変えて生き延びた。だから今世紀に入ってからも、機能はしていたかもしれない。しかし、明確に死後に別の世界へ行くのだと信じる人間の数は減っていったのだ。また一部に残る、宗教に倫理と精神の充足を求める人々も、やがて登場した精神的に安定した人生(ESL)の概念に宗旨替えした」(P.27)



本書には、ロビン・ザッパという架空の人物が書いた『天国のゆくえ』という本が登場します。ここには「トパ・カタストロフ理論」というものが説かれています。それによれば、今から7万年前にスマトラのトパ火山の破局噴火で、現生人類の大半が死滅するという事象がありました。そのときに人類は成層圏に届く噴煙と、次いで訪れた冬の時代を経験します。そして現実としての地獄を経験することで、脳の奥にその模倣子(ミーム)を飼い始めます。種としての絶滅から身を守る本能として、そのときの記憶を、死後の世界の光景として受け継ぐ道を選びました。よって、人類はまず地獄を獲得し、その派生形として天国を想像したというのです。

「天国」と「地獄」がよくわかる本

 

わたしは多くの著書で死後の世界について書いてきましたが、その中に『「天国」と「地獄」がよくわかる本』(PHP文庫)という監修書があります。この本には、これまで人類が想像した、あらゆる天国と地獄が紹介されています。いま、天国や地獄を信じる人は少なくなりました。昔の人々は信じていました。心の底から天国に憧れ、震えあがるほど地獄を恐れていました。天国や地獄を信じなくなった結果、人間の心は自由になり、社会は良くなったのでしょうか。いや、反対に人間の心の闇は大きくなり、社会は悪くなったのではないでしょうか。犯罪はさらに残虐になっています。また、親が子を殺し、子が親を殺すような事件も多くなっています。同書が刊行された2009年当時、日本は未曾有の不況による貧困社会を迎えていました。日本人の心はますます荒廃するばかりであると憂えたわたしは、「良いことをすれば天国や極楽に行ける」「悪いことをすれば地獄に堕ちる」という素朴な人生観が再び必要なのかもしれないと訴えました。そして、「まえがき」の最後に、「何はともあれ、天国と地獄を信じよ!そして、限りある生を精一杯に人間らしく生きようではないか!」と書いたのでした。

 

『ニルヤの島』に描かれる死後の世界が亡くなった世界では、個人の意識は生体受像とかいうものを使って保存されて、死後も生前のログを引き出すことができます。「〈GIFT 2〉-贈与-」には、「死後の世界は、存在しない。今や、生体受像に残ったログと、それを並べ替えた主観時刻とで個人の人生は完全に叙述される。単純な話だ。生物としての死を迎えた個人は、その生前の記録が全て残され、様々な媒体を通して引用される。それだけではない。故人を偲ぼうと思えば、人は自らの生体受像をいじって自身の記憶の中の故人とつでも会える。何度でも記憶を再現し――そこに埋没するような人間が出るのは問題だが――自らの脳の中で死者と再会する。そこにいるのだから、死んだ人間がどこか別の世界に行くことなどない。馬鹿げた思想だ。そうして完全なる叙述は、死後の世界の喪失を招いた」(P.73)と書かれています。

f:id:shins2m:20210901000523j:plain紫雲閣オンライン 

 

この生体受像を使って個人の意識を保存し、死後も生前のログを引き出すというアイデアはSF的なセンス・オブ・ワンダーではありますが、わたしは現実の葬儀において大きなヒントになると思いました。さらに言うと、わたしはオンライン葬儀の進化についてのインスパイアを得ました。コロナ禍の中で、わが社サンレーは、昨年11月1日より、福岡県エリアの紫雲閣にて、「紫雲閣オンライン」のサービスをスタートさせました。紫雲閣オンラインは、これまで主流であった電話での訃報連絡をスマートフォンからのメールやLINEで簡単に共有いただけるサービスです。最初は共有された故人ごとの専用訃報ページから供物のご注文や弔電、さらには香典も送ることができるといったサービスにとどまっていますが、いずれは故人の生前情報のデータベース化することも夢ではありません。

f:id:shins2m:20210901164513j:plain手元供養の進化形とは?

 

『ニルヤの島』の生体受像に保存されたデータは機械端末に転送することもできます。それは小さな石板(タブレット)なのですが(巻物タイプもあります)、生前の生体受像の全データが刻まれて亡くなった方の全データが刻まれたタブレットは、そのまま故人の墓碑銘にして戒名となります。望めば、いくらでも生前の言葉をログとして引き出せるのです。本書には、「生体受像は人間の肉体を機械に見立てて、あらゆる感覚を数で表す。音や景色だけじゃない。味覚も触覚も、感情すらも数値化する。数にさえできれば、あとはそれを取り出せば良い。人間の記憶そのものが自由にアクセス可能なデータになるんだ」という登場人物のセリフが登場します。これなど、現在のさまざまな手元供養品の進化形と言えないでしょうか?

f:id:shins2m:20210901135801j:plainブログは記憶のログである! 

 

また、本書のアマゾンレビューに興味深い投稿を見つけました。「二次元世界の調教師」という方のレビューに、「生体ログを記録しておくことにより、死後もログを読み込んで『復活』出来るとアイディアを読んでいて、実は私のブログも同じようなものか、と考えた。このブログは強制閉鎖と言う『死』を4回も経験しているが、その度に残されていた『ログ』を元に復活を遂げている。こんな状態だと『死後の世界などない』と言うのは説得力があるな」と書かれています。ブログが個人記憶のログになるというのは、毎日ブログを書いているわたしには納得できます。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

しかしながら、『ニルヤの島』には、バーチャルではないリアルな葬儀の描写も登場します。それも、驚くほどたくさん登場します。まるで「葬儀小説」のようですが、拙著『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館・サンガ文庫)の内容を物語化したような印象も受けました。「〈Transcription 3〉-転写―」には、ミクロネシア経済連合体(ECM)の葬儀について、「ECMでの葬儀は長いのだという。特にパラオは母系社会の名残りなのだろうか、親族集団が多く、それぞれが数多くの島に散っている。そうして各地にいる親族が、次に地域の氏族(リネージ)の有力者が、ぞろぞろと揃うのを待つ。彼らは彼らで供物を持ち寄り、それを調理しては振る舞い、振る舞っては新しく人が来るのを待つ。そういった祭事とも言えない日常の風景を繰り返し、ある程度揃ったところで再び全員で盛大に食べ歌い悼む。そんなことをひたすら繰り返すので、とても一日で終わるようなものじゃない」(P.123)と書かれています。

儀式論』(弘文堂)

 

この物語に登場するのは葬儀だけではありません。結婚式の場面も出てきます。「〈Gift 5〉―贈与―」に、「振水灯の灯りは人々を静かにさせるというが、やはり結婚という祝福の場にあっては、抗い難いエネルギーのようなものがあるのだろう。この場に集った誰もが、熱に浮かされたように歓声をあげている。それは大教父によって祈りの言葉が捧げられ、新郎と神父がいつまでも変わらない愛を誓い合う段で最高潮となった。どれだけ時代を経ても、こうした古式の結婚の在り方を求める心は働くのだろう。人は儀式によって他者と集団から認められることを希求する。恋人から夫婦へと移り替わる瞬間に」と書かれていますが、まさにわたしが『儀式論』(弘文堂)で訴えた儀式の力を見事に表現しています。

 

 

生体受像さえあれば死後も、今は亡き愛する人と何度でも再会することができますし、主観時刻も制御できるので、自分の人生を何度でもやりなおすことができます。結婚式で「わが人生最高の瞬間」と思えば、その瞬間を何度も再生して楽しむこともできるわけです。この技術によって人間の存在は永遠のものとなり、結果として死が希薄化します。当然ながら死生観の変化が起こり、この世界に生きる人々は死後の世界に救いを求めなくなるわけです。それでも、人々は葬儀や結婚式を行い続けているというのが興味深かったです。本書でも紹介されていますが、イギリスの進化生物学者・動物行動学者であるリチャード・ドーキンスは、「模倣子学(ミーム)」というものを提唱しました。いわゆる文化的遺伝子のことですが、儀式とはまさにミームそのものです。いくら社会がIT化し、宗教が無力化しようとも、ミームがある限り人間は儀式をやめない。本書を読んで、そのことを再確認しました。

 

 

2021年9月日 一条真也

『ヒト夜の永い夢』

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

 

一条真也です。
9月21日は満月、それも十五夜中秋の名月でした。
小倉の夜空は雲が懸っており、名月を愛でることができずに残念でした。その日の夜、わたしは、「シンとトニーのムーンサルトレター」第198信を投稿しました。
『ヒト夜の永い夢』柴田勝家著(ハヤカワ文庫)を紹介します。文庫本で573ページのボリュームですが、一気に読了。こんなに面白い長編小説を読んだのは久々ですね。著者は気鋭のSF作家ですが、もちろんペンネームです。1987年東京都生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程前期修了。在学中の2014年、『ニルヤの島』で第2回ハヤカワSFコンテストの大賞を受賞し、デビュー。2018年、「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」で第49回星雲賞日本短編部門受賞。

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「昭和2年。稀代の博物学者である南方熊楠のもとへ、超心理学者の福来友吉が訪れる。福来の誘いで学者たちの秘密団体『昭和考幽学会』へと加わった熊楠は、そこで新天皇即位の記念行事のため思考する自動人形を作ることに。粘菌コンピュータにより完成したその少女は天皇機関と名付けられるが――時代を築いた名士たちの知と因果が二・二六の帝都大混乱へと導かれていく、夢と現実の交わる日本を描いた一大昭和伝奇ロマン」

 

 

この小説を読んだ人は、誰でも荒俣宏氏の『帝都物語』を連想するでしょう。『帝都物語』とは、平将門の怨霊により帝都破壊を目論む魔人・加藤保憲とその野望を阻止すべく立ち向う人々との攻防を描いた作品です。明治末期から昭和73年まで約100年に亘る壮大な物語であり、史実や実在の人物が物語に絡んでいるのが特徴です。著者の荒俣氏が精通している博物学や神秘学の知識を総動員しており、陰陽道、風水、奇門遁甲などの用語を定着させた作品でもあります。この『ヒト夜の永い夢』は明らかに『帝都物語』の影響の下に書かれています。『帝都物語』へのオマージュ的作品といってもいいでしょう。



映画化もされた『帝都物語』には、渋沢栄一幸田露伴森鷗外泉鏡花大谷光瑞森田正馬甘粕正彦大川周明三島由紀夫角川源義角川春樹といった実在の人物たちが登場します。一方、主人公の帝都東京破壊を目論む魔人・加藤保憲など架空の人物も多く登場し、虚構と現実が入り混じった「虚実皮膜」の物語でした。『ヒト夜の永い夢』もまさに虚実皮膜小説であり、主人公の南方熊楠をはじめとして、福来友吉江戸川乱歩佐藤春夫宮沢賢治植芝盛平孫文といった実在の人物たちが活躍。注目すべきは『帝都物語』『ヒト夜の永い夢』に共通して、西村真琴北一輝石原莞爾といった人々が登場することでしょう。特に、革命家である北一輝は主人公・南方熊楠の敵役として非常に重要な役割を果たしています。



また、西村真琴の存在感も大きいです。彼は1883年(明治16年)に生まれ、1956年(昭和31年)に没した生物学者で、北海道帝国大学教授を務めました。人間型ロボット「學天則」の制作などで知られています。次男は二代目水戸黄門で知られる俳優の西村晃。彼は映画版「帝都物語」で実父である西村真琴を演じました。『帝都物語』では地下鉄工事現場に巣食う鬼を學天則で退治しますが、『ヒト夜の永い夢』にも學天則二号が「天皇機関」という少女の姿をしたロボットと闘うシーンが登場。わたしを含む『帝都物語』ファンにはたまらないシーンで、『ヒト夜の永い夢』もぜひ映画化していただきたい!



人間型ロボット、すなわち人造人間をつくるなどというと、『フランケンシュタイン』のようなマッドサイエンティストものを連想しますが、この『ヒト夜の永い夢』には確かにその要素があります。なにしろ、思考する粘菌を結晶化し、計算機のCPUに用い、AIロボットを作るわけですから。その中心にいる南方熊楠は粘菌学者にして民俗学者でもあるという「知」のスーパースターで、破天荒なキャラクターとあいまって。とにかく魅力的です。それにしても、南方熊楠が主人公の小説なんて初めて読みました。折口信夫が主人公の小説なら井沢元彦氏の『猿丸幻視行』がありますし、柳田國男が主人公の小説なら大塚英志氏の『くもはち』などがありますが、いずれ柳田國男折口信夫南方熊楠の日本民俗学ビッグ3が総登場する伝奇小説が読みたいです。

 

 

南方熊楠は粘菌や民俗学だけでなく、仏教にも精通していました。それらの関心の延長線上には心霊学もありました。ブログ『熊楠と幽霊』で紹介した本には、熊楠が心霊現象の体験者だったことが詳しく書かれています。熊野の山中での幽体離脱や、夢で父親に珍種のキノコが生えている場所を教わるなど、奇妙な体験をくりかえしては日記に綴っています。また、彼の論考や雑誌記事には、世界各地の妖怪の比較、幽霊について、魂の入れ替わりなどの文章が多数あります。若い頃の熊楠は、むしろオカルト的なものに否定的な態度をとっており、ロンドン遊学時代には「オッカルチズムごとき腐ったもの」と罵倒していますし、降霊術や行者の秘術といったものも信じていませんでした。ところが、帰国後に採集・研究活動にうちこむなかで神秘体験をくりかえした熊楠は、態度を一変させ、「魂の入れ替わり」や「幽霊の足跡」についての論考を量産していくのでした。

 

 

そんな熊楠のもとを、福来友吉が訪ねてくるところから物語は始まります。福来については、ブログ『透視も念写も事実である』で紹介した本が彼の生涯を詳しく描いています。千里眼と呼ばれた御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子らに超能力(透視と念写)の実験を行い、その科学的解明に一生を捧げた心理学者・福来博士の数奇な運命をたどった本です。実験をインチキよばわりされた福来は教授を務めていた東京帝国大学を追われますが、56歳のとき、高野山大学の教授に迎えられました。そして、これまでの考察を総合的にまとめた『心霊と神秘世界』を昭和7年(1932年)に上梓します。彼は、明治43(1910年)以来の心霊的現象の研究実験によって、「神通力」の存在を実験的に証明できたと考えました。高野山には真言宗の管長を務めた高僧・土宜法龍がいました。彼は南方の友人であり、そこから福来が南方を訪ねる流れになるわけです。



南方熊楠福来友吉は「夢」と「心霊」の関係に注目しましたが、夢で故人に会うというのは誰にでも経験があることです。『ヒト夜の永い夢』の冒頭には、熊楠の考えとして、「夢の世界で死者に会うというのは、向こうの世界では彼らが生きているだけなのではないか。こっちでは何気ない歴史の流れ、ちょっとした不運で命を落とした者も、別の世界では平然として生きているのかもしれない。奇妙奇天烈に折り重なる世界があって、夢はその中の一場面を覗き見ているだけなのではないか」と書かれています。



「夢」について深い関心を寄せる人物は他にもいました。江戸川乱歩です。彼は、「色砂の入った瓶を一振りするごとに、世界は別の形になります。一秒ごと、一瞬ごとと言ってもいいでしょう。それが時として、全く同じではないけれど、いつかと似た色が現れるのです。色砂の並びは完全に無作為なものではなく、結びつきやすい物や現れやすい色などに偏りがあるのです」「この完全に同じではないが、いつかと似た世界というのは、つまり僕の言う夢の世界なのです。以前、僕が初めて南方先生にお会いした時にも話したでしょう。現実とは異なる空想の世界は、この宇宙のどこかに存在しているのではないか、と。この話は空想を夢と言い換えたものです」などと語るのでした。

 

 

この小説には、宮沢賢治も登場します。人工宝石を作る賢治は、南方に向かって「先生、法華経にこんな話があります。ある貧乏な人が親友の家を訪ねる。そこで彼は寝ている間に、裕福な親友の善意によって着物の裏に宝石を縫い込まれます。その後も彼は苦労の多い人生を重ねますが、数年後に親友と再会して初めて、自分の着物の裏に宝石があることに気づくという話です」と言います。それを聞いた南方が「衣裏繋珠の喩えだな。親友とは仏陀の象徴であり、貧乏な人とは我々衆生だ。誰もが仏になれる仏性を持っているが、それは仏陀の教えと出会わなければ気づけないという」と言えば、賢治は穏やかな笑みを浮かべながら「僕の宝石は、その喩えのように、目に見えない着物の裏に縫い付けられた魂の輝きです。僕はそれを、誰もが手に取れるようにしたい」と言うのでした。同時代を生きた2人のM・Kの魂の対話に、わたしはブログ『南方熊楠と宮沢賢治』の濃厚な内容を思い出しました。



さらに、若き昭和天皇と熊楠の対話が興味深いです。生物学者でもあった昭和天皇が「ぜひ、粘菌の秘密を聞かせて欲しい。命とは何か、精神とは何か」と熊楠に問えば、熊楠は必死に思考をまとめながら、「粘菌は、いわば皮膚のない人間です。剥き出しの脳の塊です。その中には、人間の脳に似た働きをすることもあるでしょう。脳神経の束に電気が流れることで我々は思考をしますが、もし粘菌も同じような働きをすれば、思考をすることでしょう。しかし、我々は粘菌の言語を読み取れませんから、真に思考しているかどうかは把握できぬのです」と答えます。それ聞いた昭和天皇は、自らの興味が満たされたことで一笑し、「粘菌の声が聞こえたのなら、それは楽しいでしょうね」とおっしゃるのでした。こんな会話が実際に交わされていたとしたら、なんと愉快なことでしょうか!



この物語の根底には、「この世界は己が見ている、意識しているところだけの存在なのか?」「それとも、この世は他者との因果で成り立っているのか?」「あるいは、夢の中での出来事なのか?」という問題意識がありますが、終盤で福来が「人は、この因縁から離れれば、別の世界を見ることができるのでしょうか」と南方に質問します。南方は福来に笑顔を向けながら、「人が夢で別の世界を見るというのは、寝ているときは因縁から離れているからだ。そして、永遠に因縁から離れることができるのは、つまり死んだ時だけだ。僕のこの胡乱な考えは、死んで初めて正解かどうか解るぞ」と言うのでした。

 

さらに、乱歩が「この世というのは、南方さんの言うところの“心”の見方一つな訳で、言い換えれば脳の中で結びついたニューロンの順番だけがあるのです」と言うと、南方は「その通りだな。世界認識は“物”と“心”の交わりによって生まれる“事”の結果だ。人間の“心”が違う限り、我々が見ている世界は常に別物なのだ」と言います。現実などというものは、人々が共有している夢の重なり合った部分なのです。そして、西村真琴が「ここには死者も生者もないんだ」「別の世界で死者は生きているし、生者は他の世界では死んでいる。生も死もない。ここは死者の楽園、エリゼの園(シャンゼリゼ)なんですよ」と言い放つくだりになって、やっとわたしは、この永い夢のような長編小説がグリーフケアの物語であることに気づいたのでした。

 

 

2021年9月22日 一条真也