「楽園」

一条真也です。
20日、ラグビーW杯の決勝トーナメントで、日本は南アフリカに3-26で完敗しました。残念ですが、まあ実力ですね。日本映画「楽園」を観ました。ラグビーW杯だ、プロ野球日本シリーズだと、日本中が浮かれているので、天邪鬼なわたしは「ひとつ、重い映画でも観るか」という気になったのです。たしかに重く暗い映画でした。しかし、終始それだけで、まったく救いがなく、正直言って「こんな希望のない映画、果たして作る必要があるのか」とさえ思いました。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『悪人』『怒り』などの原作者・吉田修一の短編集『犯罪小説集』の一部を、『64―ロクヨンー』シリーズなどの瀬々敬久監督が映画化。ある村で起こった幼女誘拐事件、少女行方不明事件、養蜂家にまつわる事件を通して、人々の喪失と再生の物語が描かれる。少女行方不明事件の犯人だと疑われる主人公を演じる綾野剛をはじめ、NHKの連続テレビ小説とと姉ちゃん』などの杉咲花や『64―ロクヨンー』シリーズで主人公を演じた佐藤浩市らが共演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「12年前、青田に囲まれたY字路で幼女の誘拐事件が発生した。事件が起こる直前までその幼女といたことで心に傷を負った紡(杉咲花)は、祭りの準備中に孤独な豪士(綾野剛)と出会う。そして祭りの日、あのY字路で再び少女が行方不明になり、豪士は犯人として疑われる。1年後、Y字路へ続く集落で暮らす養蜂家の善次郎(佐藤浩市)は、ある出来事をきっかけに、村八分にされてしまう」



ブログ「悪人」ブログ「怒り」で紹介した映画も、WOWOWで観た「64―ロクヨンー」も、それなりに見応えのある映画でした。いずれも、「人間とは何か」を観客に問うような深みがありましたが、この「楽園」はちょっと期待外れでしたね。まず、原作の『犯罪小説集』の中の2つの小説を基にしているそうですが、ストーリーがぎこちなく、継ぎはぎ感が強いです。おそらくシナリオの完成度が低いと思われるので、ここは欲張らずに1つの作品のみを原作としたほうが良かったと思います。

 

犯罪小説集 (角川文庫)

犯罪小説集 (角川文庫)

 

 

この物語は、ある「村」が舞台となっています。松本へ買い出しに行くという場面があるので、おそらくは長野県にある集落なのでしょう。その場所は限界集落として、さまざまな問題を抱えています。映画では、この村に住む人々の心の闇を描いているのですが、ただでさえ日本という国家から疎外されている「村」をここまで悪く描く必要があるかなと思いました。描くなら、田舎よりも都会に住む人々の心の闇を描いてほしいです。

 

修羅ノ国 北九州怪談行 (竹書房文庫)

修羅ノ国 北九州怪談行 (竹書房文庫)

 

 

どうも、この原作者にしろ、監督にしろ、田舎に対する偏見があるような気がしました。わたしの住む北九州市政令指定都市なので、いわゆる「田舎」とは呼ばれませんが、かつて暴力団が注目を浴びたこととか馬鹿げた成人式の影響などもあって、「修羅の国」などと呼ばれています。最近、『修羅ノ国 北九州怪談行』(竹書房文庫)という本があるのをアマゾンで知り、「馬鹿にするのもいいかげんにしろ!」と腹が立ちました。

ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

映画「楽園」には、人間の恐ろしさとともに社会の恐ろしさが描かれています。特に異質な人間を排除する社会の負の面が描かれています。人の心の美しさは「ホスピタリティ」として表現されます。「楽園」の舞台となる村には、ホスピタリティというものがありません。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「ホスピタリティが世界を動かす」にも書きましたが、ホスピタリティを人類の普遍的な文化としてとらえると、その起源は古いです。実に、人類がこの地球上に誕生し、夫婦、家族、そして原始村落共同体を形成する過程で、共同体の外からの来訪者を歓待し、宿舎や食事・衣類を提供する異人歓待という風習にさかのぼります。



「ホスピタリティ」とまったく反対のものを「ネオフォビア」といいます。異邦人を嫌う感覚ですが、「楽園」に横溢しているのはこの「ネオフォビア」でした。インドネシアからの難民母子にUターンした養蜂家・・・・・・村の人々は彼らを敵視します。インドネシア難民の息子を殺人犯扱いし、養蜂家を村八分にします。このあたりは、映画を観ていても非常に不愉快になる場面でした。



インドネシア難民の息子を演じた綾野剛は素晴らしい演技でした。「怒り」でも、殺人犯ではないかと疑われるゲイの青年を演じましたが、スクリーンに映った彼は本当に挙動不審で、容疑者扱いされても仕方ないような雰囲気を持っています。ネタバレにならないように注意しながら書くと、この映画にはある人物の焼身自殺のシーンがあるのですが、わたしはブログ「グリーフケア・ソングス ベスト」で紹介したDVDで「フランシーヌの場合」という歌を最近歌ったばかりだったので、その歌のモデルになったフランシーヌ・ルコントというパリで焼身自殺を図った女性のことを連想しました。

 

世界的な「政治の年」と呼ばれた1969年(昭和44年)3月30日、日曜日の朝。パリの路上で30歳の女性が、シンナーを被って焼身自殺しました。フランシーヌ・ルコントという名前のこの女性はベトナム戦争、ナイジェリアに心を痛め、自殺した時もビアフラの飢餓の切抜きを持っていたそうです。また、ウ・タント国連事務総長などに訴えの手紙も書いたこともあるといわれますが、家族の話では精神科にかかっていたこともあるとか。いずれにせよ、この事件に心を動かされた日本人によって、「フランシーヌの場合」というフォークソング反戦歌)が作られました。いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲ですが、悲嘆の名曲として広く愛されました。わたしは子どもの頃に、この事件のことを知ったのですが、「燃えて死ぬなんて、こわい!」と思った記憶があります。



同級生が誘拐された女の子の役を演じた杉咲花も名演技でした。「なぜ、自分だけが助かったのか」「自分だけが幸せになってはいけないのではないか」という想いは、事件や事故や災害などで親しい人を亡くした人に共通する感情で、グリーフケアにとっても重要な問題です。小学生の誘拐事件といえば、どうしても最近の美咲ちゃんのことを連想してしまいますが、ブログ『神隠しと日本人』で紹介したように、子どもが忽然と姿を消すということは誘拐がその原因であることが多いでしょうが、日本には「神隠し」という物語で悲嘆に寄り添う文化がありました。映画の最後に、杉咲花演じる紡が誘拐事件の犯人を幻視しますが、その人物が罪を犯すにはあまりにも動機が弱いように思いました。



この映画にはヘイト、差別、疑心暗鬼の心が嫌というほど登場します。そして、誰かを孤立させることで結束を保つ集団社会の嫌らしさが描かれます。佐藤浩市が演じた養蚕家の善次郎は、村の未来を考えてハチミツによる村起こしを考えますが、彼を異端視する村人によって「村八分」の目に遭います。さまざまな嫌がらせをされた結果、追い詰められた彼は、ブログ「ジョーカー」で紹介した映画の主人公のように一線を越えます。このとき、ホアキン・フェニックス佐藤浩市の2人が重なって見えました。しかし、「八つ墓村」のモデルにもなった「津山事件」じゃあるまいし、善次郎が至った行動にはリアリティを感じることはできませんでした。まあ、いまどき「村八分」などを堂々と行う村など、滅ぶのも仕方ないかもしれませんね。



タイトルの「楽園」ですが、映画の内容からはまったくイメージできません。インドネシア母子が亡命するとき、母親が息子に「日本は楽園だよ」と言ったというのですが、それだけでは弱い感じがします。わたしは、「楽園」というのは善次郎に最もふさわしい言葉であると思いました。なぜなら、彼は都会から故郷に帰って自然の中で暮らします。養蚕を営んで犬を飼う生活は、彼にとって楽園のようなものだったかもしれません。



また、彼は亡き妻の樹木葬として、その遺骨を山に埋めます。それは、彼の生きる場と死者の世界をそのまま繋げることであり、「霊園」ならぬ「楽園」という印象を受けました。もっとも、その楽園も終わる日が来るのですが・・・・・・。そういえば、善次郎はマネキンに亡き妻の服を着せて屋外に飾っていました。これは故人の供養というよりも、生き残った者のグリーフケアの営みでした。善次郎の深い悲しみが胸に沁みました。

 

2019年10月20日 一条真也

『直感の経営』

直観の経営 「共感の哲学」で読み解く動態経営論

 

 一条真也です。
『直感の経営』野中郁次郎・山口一郎著(KADOKAWA)を読みました。「『共感の哲学』で読み解く動態経営論」というサブタイトルがついています。著者の1人である野中郁次郎は1935年東京都生まれ。58年早稲田大学政治経済学部卒業。富士電機製造勤務ののち、カリフォルニア大学バークレー校経営大学院にてPh.D.取得。南山大学防衛大学校一橋大学北陸先端科学技術大学院大学各教授、カリフォルニア大学バークレー校経営大学院ゼロックス知識学特別名誉教授を経て、一橋大学名誉教授、早稲田大学特任教授、日本学士院会員。ナレッジマネジメントを世界に広めた知識創造理論の権威です。もう1人の山口一郎氏は1947年宮崎県生まれ。74年上智大学大学院哲学研究科修士課程修了後、ミュンヘン大学哲学部哲学科に留学。79年ミュンヘン大学にてPh.D.(哲学博士)取得。94年ボッフム大学にて哲学教授資格(Habihtation)取得。96~2013年まで東洋大学教授、現在、東洋大学名誉教授。

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本書の帯

 

本書の帯には、「世界的経営学者と現象学の泰斗が教える、本物の教養」「分析思考の限界を超える『本質直観』とは何か」と書かれています。また、「『経営学の神様』と一流哲学者による究極の一冊! AI、デザイン思考、イノベーション・・・・・・すべての根底は本書にあるーー入山章栄(早稲田大学ビジネススクール准教授)」、「無意識の力を理論化し、実践に導く唯一無二の書――茂木健一郎脳科学者)」という推薦の言葉が寄せられています。カバー前そでには、「なぜいま経営学現象学なのか?」として、「まさに経営学で起こっているのは『フッサールの危機の再現』であるように思えてなりません。だからこそ経営学自体をいったん現象学がいう『カッコに入れる』必要がある。ーー野中郁次郎」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」

対談  経営学を「カッコ」に入れよ

   (野中郁次郎×山口一郎)

第1部 なぜ現象学はすごいのか
   (山口一郎)

第1章  現象学は欲張りな学問

第2章  本質直観という方法

第3章  先入観を「カッコ」に入れる

第4章  感覚と知覚は何が違うか

第5章  「現在」の成り立ちを問う

第6章  現象学脳科学・仏教

第7章  二重の相互主観性

対談  戦略とは「生き方」である

   (野中郁次郎×山口一郎)

第2部 現象学経営学の本質
   (野中郁次郎

第8章  SECIモデル

第9章  相互主観をどう育むか

第10章  集合本質直観の方法論

第11章  「物語」と「物語り」

第12章  本質直観の経営学

対談  日本人の集合本質直観の力  
   (野中郁次郎×山口一郎)

 

「はじめに」で、野中郁次郎氏は以下のように述べます。
「ICT(情報通信技術)やAI(人工知能)などの技術の進展によって、市場も組織も急激な変化にさらされています。そのような時代には何を根拠に生きていけばよいのでしょうか。その答えは、同じような激動の時代を何度も生き抜いてきた人類が無意識的に創造してきた『暗黙知』と、意識的に創造してきた『形式知』を両面とする『知識』にしかないと考えます」

 

知識創造の方法論

知識創造の方法論

 

 

では、「知識」とは何か。野中氏は述べます。
「知識の最大の特質は、英語で a piece of information という断片的な情報と違って、a body of knowledge という表現が示唆するような『体系性』であり、その体系性は人と人の関係性のなかでつくられます。そして、いちばん密接な関係性を結ぶのが、組織と地域という、個人と社会の中間である『小社会』です。組織と知識は決して切り離すことができず、組織の存在理由は知識創造だともいえるでしょう。知識という概念をもっとも深く考究してきた学問が、哲学の一分野で知識論あるいは認識論と訳される epistemology です。したがって、知識について理解しようと思えば、哲学を無視できません。こうして私は哲学を独学で学びはじめたのでした」

 

対談「経営学を『カッコ』に入れよ」では、「フッサールが哲学に向かった理由」として、山口氏が以下のように語っています。
「西洋文明は、ユダヤ教キリスト教というヘブライズム文化と、ギリシャのヘレニズム文化とを二大潮流にする深遠な伝統があるにもかかわらず、ヨーロッパは第一次世界大戦において、これ以上ないというほどの文明の危機に陥った。そこではお互いが自国の利益をかざして殺戮し合い、学問の進展にもかかわらず、政治も、経済も、まさに地獄絵図になったわけです。もっとも知性があるといわれていた人たちが、どうしてかくなる状況に陥ってしまったのか?」

 

現象学の理念

現象学の理念

 

 

 続けて、山口氏は以下のように語ります。
フッサールが見出した解答は、次のようなものでした。私たちが生きている『生活世界』において、すべて数式でもって解決できると思い込んでしまう人間の知性の妄信こそに問題の根源がある。理性によって人類の未来を示すはずの学問は、たんなる事実の学と化す『危機』に陥った。そしてこの『知性の妄信』の起源は、人間がその知性によって、世界を主観と客観とに分断し、主観の側から客観を説明できるとする主観主義をとるか、客観の側から主観を説明できるとする客観主義をとるかの二者択一に自分を貶めていることに気づけないことにある、と。この二項対立を根底から解消し、新たな哲学として展開したのが現象学なのです」

 

野中氏は「それはまさに、経営学がたどってきた道程と同じです」と即答し、以下のように語っています。
「一歩引いて考えればわかるように、どれだけテクノロジーが発達しても、理論が洗練されても、結局、経営を行なうのは『人間』です。しかし現代の経営学は、その「人間」を忘れてしまった。『実践しなければ無意味』である経営学の、その実践の担い手は誰かといえば、人間以外にはありえないにもかかわらずです。経営学は科学というよりも、実際には『アート・アンド・サイエンス』といったほうがよいでしょう。なぜなら身体性をもった人間は、アートの世界を生きているからです。もちろん先にも述べたように、数値化によって物事の表相がクリアになることは間違いありません。しかし、そこではまさに現象学がいうところの『意味づけ』『価値づけ』という問題が出てこない。数字の背後にある意味の本質がわからなければ、実践が起こらないのも当然ではないでしょうか」

 

第1部「なぜ現象学はすごいのか」の第1章「現象学は欲張りな学問――自然科学も精神科学も包み込む」では、「『経験のありのまま』に向かう哲学」として、山口氏は以下のように述べています。
ノーベル物理学賞や経済学賞というように、物理学にしろ、経済学にしろ、それぞれの研究領域は区別されています。専門領域を限定してこそ、それぞれの学問が学問として成立するとされるのです。物理学は、化学や天文学など、自然を研究する『自然科学』に属します。経済学は、社会学政治学、心理学など、人間の精神を研究する『精神科学(社会科学)』に属します。しかし哲学は、この『自然』と『精神』の双方を取り込んだ『世界全体』を研究対象にするといいます。哲学の欲張りな知的欲求は、それだけにとどまりません。哲学者はこの世界全体を『自然(物質)』と『精神』とに分類することに文句をつけます。『自然』と『精神』という専門領域の限定づけに対して、『なぜそう分けるのか、理由を説明しろ』というのです」

 

続けて、山口氏は以下のように述べています。
「自然科学は自然によって精神も説明でき、最終的には精神疾患さえ薬で治せる、と主張します。他方、精神科学は自然すら精神が支配する対象でしかなく、自然災害でさえ、精神活動である学問研究を通して予知可能となり、制御可能になるといいます。こうした『自然か、精神か』という二者択一に人間が陥ってしまうことには、理由があります。古来、人間に突きつけられたもっとも根本的な問いは『生死の問題』です。これは言い換えれば、『死んだら魂はどうなるのか』という問いです。それに対して『死んだら自然に帰るだけだから安心しなさい。大きな自然の懐に戻るだけです』とする答えと、『死んだら魂として宇宙大の精神に受け止められ、精神として存在し続けるから、生前は精神を磨きなさい』という答えの2つが知られています。前者はすなわち、自然科学者の『外に現実に存在する、つまり実在する自然がすべて』とする主張であり、後者はすなわち、精神科学者の『内に存在する、つまり内在する精神がすべて』とする主張です」

 

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

 

 

第2部「現象学経営学の本質」では、ハンガリー出身の社会科学者・科学哲学者であるマイケル・ポランニーの「人格的知識(persona knowledge)」としての暗黙知について説明されます。第9章「相互主観をどう育むか――経営に不可欠な『出会い』の本質」では、「知識は知識に『成る』」として、野中氏はこう述べています。
「ポランニーは、ある事物の全体を認識するためには、全体を構成する部分(近接項)の内部に『棲み込む(indwell)』ことによって、『部分―全体』の関係を自身の内部に統合する『身体化』が必要になる、と述べています。最近の脳科学の研究では、『心』は脳にあるという伝統的な考え方に対し、心は脳だけによって構成されているのではなく、身体や周囲の環境に張り出している、という見解が主流になってきています。心は、脳と脳以外の身体、意識と無意識、身体と環境の相互作用から創発するものであり、脳のなかにだけとどまっているものではありません。それこそが既述した『身体化された心(embodied mind)』あるいは『拡張された心(extended mind)』いえるのです」

 

稲盛流コンパ 最強組織をつくる究極の飲み会

稲盛流コンパ 最強組織をつくる究極の飲み会

 

 

ここで野中氏は、ブログ『稲盛流コンパ』で紹介した稲盛和夫氏が創業した京セラの企業文化を取り上げ、「京セラのコンパ」として、以下のように述べています。
「京セラで長年行なわれているコンパも、相互主観形成の場だといえます。それは、たんなるドンチャン騒ぎやガス抜きの場ではありません。経営者と従業員、上司と部下、同僚同士が酒を通して胸襟を開き、仕事の悩み、働き方、生き方について真摯に語り合う場なのです。京セラ本社ビルの12階には、畳がちょうど100枚並べられた巨大な『和室』があります。京セラでは、本社だけでなく工場でも、和室でテーブルを囲んで、肩を寄せ合い、肘をぶつけ合いながら時間をともにします。みなで1つの鍋をつつき、時間をともにするなかで心をさらけ出し、本音の対話をするのです。手酌はエゴイズムの象徴として歓迎されません。誰かに注いでやれば、自分の空のコップにも注いでくれるというわけです。そうやって呼吸や顔の赤みなど身体感覚さえも共有しながら、設定されたテーマについての議論を深く掘り下げていきます」

 

また、稲盛流コンパについて、野中氏は述べます。
「稲盛会長がもち込んだコンパによって、幹部たちが再建へのさまざまな課題について、心の殻を破って侃々諤々の議論を交わせるようになった効果はかなりのものだったそうです。そこで相互主観が成立することにより、自己中心的な意識が『我々の主観』へと昇華していったのです。主観と客観の総合により効果的に知識を創造するためには、『我-汝関係』の相互主観性を生み出すプラットフォームである場を、ダイナミックに創発させることが重要だといえます。他者との『我-汝』相互主観による共感を育む場を通じて、個人、集団、組織、そしてより大きな世界へと、主観から客観への変換プロセスがスパイラルアップしていくのです」
その他にも、野中氏は「ホンダの『新・旧』ワイガヤ」、「エーザイの『共同化』の経営」、「マイクロソフトの『共感』の経営」、「セブン・イレブンの相互主観を育む場」、「トヨタのアンドン方式」などを、相互主観形成の場として紹介しています。

 

その「トヨタのアンドン方式」を紹介した後、野中氏は以下のように述べています。
フッサールは、主観的時間意識が、相互主観性を通して他の人とともに経験して生きる時間から生じる、と論じています。ブーバーの『我』が『汝』に会うことで『時を忘れる』思いをし、『全身全霊』で向かい合った『共感の時間』から、ほんとうの時間が生まれるのです。自己と他者の感覚のズレや同じ感覚の共有を認識することによって、個々人の心に流れる時間の流れが感じられ、自分の主観的な『時間』が生まれてくるのです。現場の文脈の変化に応じて、『いま・ここ』に身体感覚や意識が集中されなければ、生産ラインの作業員や班長や職長などの過去把持が意識化されることも、未来予持が働くこともありません。問題が発生したら作業者がすぐにアンドンをつけて作業ラインを止め、班長や職長たちと相互主観をそのつど共創し、問題をともに解決していく『現場の知識創造』としての『カイゼン』が、トヨタ生産方式の本質なのです」

 

第10章「集合本質直観の方法論――個人・集団・組織・社会の相互作用」では、「現象学と志向性」として、野中氏は以下のように述べています。
「真理とは、つねに動きのなかにあります。現象学は、ただ主観的体験だけを分析しているのでも、客観的なものを自然科学的に分析しているのでもありません。現象学は、主観と客観がいつ、どこから発生したり、交わったりするのか、そして、人はなぜ無数の『共通性』と『差異性』の本質を瞬時に洞察することができるのかを探索しています。つまり現象学とは、新たな意味づけ・価値づけのプロセスを概念化する、人の創造力の源泉に深く迫る学問なのです」

 

また、「現場・現物・現実」として、著者は述べています。
「英語には『現実』という意味の言葉が2つあります。『アクチュアリティ(actuality)』と『リアリティ(reality)』です。絶えず変化する世界において、『いま・ここ』の文脈そのものに入り込み、進行している出来事の只中に身を置き、全人的に何かに焦点を置いて、主客未分の境地で感じ取るのがアクチュアリティです。アクチュアリティは、つねに変化し続ける『コト的』現象であり、動詞的に現在進行形で体験している現実です。一方でリアリティは、物事から距離をとって傍観者的に観察することで見えてくる『モノ』です。基本的にそのときどきの状態を切り取って固定化された現実なので、対象化しやすく、化学的分析に適した現実であるといえます。したがって、アクチュアリティは『ダイナミックな主観的現実』、リアリティは『静止している客観的現実』です。生き生きとした『コト』としてのアクチュアリティは、目の前にある『モノ』を一緒に見て感じることによって他者と共有されるでしょう。そして、このアクチュアリティをもっともよく直観するためには、志向性を鍛えることが重要になってくるのです」

 

さらに、「概念とは新たな観点」として、野中氏は以下のように述べています。
暗黙知から形式知への変換は、容易なプロセスではありません。西欧では古代ギリシャ以来、プラトンの『対話篇』やアリストテレスの『弁論術』など言語化能力を磨き上げる方法論が確立されてきました。一方で日本人は感性を磨き上げてきましたが、暗黙的意味を論理的に言語化することは得意ではありませんでした。しかし我々日本人は、松尾芭蕉のように自然に『棲み込み』、その経験の意味と本質を俳句に詠む素晴らしい本質直観力を併せ持っています。たとえば『古池や 蛙飛び込む 水の音』という芭蕉の俳句において、彼の意識の志向性は古池に向けられ、そこに蛙が飛び込む水の音が現れています。その音を聞く俳人の体験の本質的な意味とは何でしょうか。芭蕉にとってそれは『その水の音の他には、何も聞こえないまわりの静寂さ』であったのです。知識創造理論で豊かな暗黙知を重視しているのは、それを現実に根づいた知を生み出す必要条件として認識しているからです。SECIプロセスは、世界がそこに客観的に存在するという信念をとりあえずカッコに入れて純粋意識に立ち戻り、私や他者と環境との生き生きとした共感を行なう『共同化』から始まります」

 

アメーバ経営 (日経ビジネス人文庫)

アメーバ経営 (日経ビジネス人文庫)

 

 

意味・身体感覚・価値観など、論理だけでは説明しにくい暗黙知をうまく相手に伝える手段として比喩表現が重要視されます。比喩のなかで代表的なものは、メタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)とシネクドキ(提喩)です。メタファーとは、「類似」による思考や表現の方法です。野中氏は以下のように実例をしまします。
「京セラの稲盛名誉会長は、『孫悟空が自分の毛を抜き、ひと吹きすると分身がたくさん出てくる。私も分身を育てたいと痛烈に思った』と述べています。当時の京セラは、従業員100人を超える規模の企業になっており、経営、研究開発、製造、営業など何役もこなす多忙な日々を送っていた稲盛は、1人での経営に限界を感じはじめていました。悩み抜いたすえにたどり着いた解決策は、会社を小さな組織に分けてリーダーに独立採算で運営させる、現在の『アメーバ経営』の原型となる経営方法だったのです。ここから多くの『ミニ稲盛』が育ちました。稲盛の分身術といえる新しい組織経営のあり方を、『孫悟空』の逸話を使って見事に発想し、実践したのです。アメーバ経営の小集団を『アメーバ』と名づけたのも、市場の動きに応じて微生物のように変化する、自律的・機動的かつ有機的な小集団をめざしたからで、これもメタファーの好例といえます」

 

戦争論 レクラム版

戦争論 レクラム版

 

 

野中氏はまた、「戦略」の重要性を説きます。「戦略における本質直観」として、以下のように述べています。
「『戦略』という言葉は、古代ギリシャ語で将軍の地位や知識、技能を意味するstrategiaに由来し、それが2000年以上の時を経てフランス語のstrategieとなり、英語のstrategyになったのは1810年でした。1810年という年は、軍事戦略論の古典である『戦争論』の著者カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780~1831年)がプロイセンの陸軍大学教官になり、当時のヨーロッパを席捲していたフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(1769~1821年)の勝因の秘密を明らかにするために、軍事戦略の研究を始めた年でした。それから20年をかけてナポレオンの戦略の本質を明らかにしたクラウゼヴィッツは、『戦争論』の第6章『戦争の天才』のなかで、coup d′oeil(クーデュイ)という、文字どおり『一瞥』を意味するフランス語がナポレオンの秘密であり、それは『長い試みと熟考の末にのみ得ることのできる瞬時に真実を見抜く直観』だと論じました」

 

H. ミンツバーグ経営論

H. ミンツバーグ経営論

 

 

さらに野中氏は以下のように述べています。
マギル大学のヘンリー・ミンツバーグが指摘するように、マネジメントとは本来、『クラフト(経験)』『アート(芸術)』『サイエンス(分析)』の3つが適度にブレンドされたものです。戦略の構想と実行の総合においては、『何を成し遂げたいか』という個人の信念とコミットメントが重要となります。これは、実際の企業の現場に身を置いているビジネスマンには肌感覚で当然のように認識されていることでしょう。しかしながら昨今の日本企業は、欧米流経営モデルへの過剰適応もあり、グローバルな存在感が薄れています。論理分析過多(オーバーアナリシス)、経営計画過多(オーバープランニング)、コンプライアンス過多(オーバーコンプライアンス)などにより、企業の経営から現場まで、創造力や活力を失っているのです」

 

競争の戦略

競争の戦略

 

 

第11章「『物語(ストーリー)』と『物語り(ナラティブ)』――戦略はオープンエンドの連続ドラマだ」では、「戦略とは未来創造の連続ドラマ」として、野中氏は以下のように述べています。
「モノ的視点、分析思考の経営学、いわゆる科学的アプローチは、これまで一定の成果を収めてきました。しかしその偏重により、経営の主体である人間の主観や、『どう生きるか』という価値観を軽視してきたことは否定できないでしょう。すでに古典になったマイケル・ポーターの競争優位性の理論は、市場や外部環境などの『産業構造』が『企業行動』を、さらには『業績結果』を導き出すという、ハーバード派経済学の産業組織論をルーツにしています。ポーターは産業構造を分析して、市場での最適なポジションを選択し、参入障壁や交渉力を活用して不完全競争を創出しながら、利潤最大化を図る競争優位性獲得のための明確な手順を導き出しました。ポジショニング理論は、このように市場の構造分析から平均利潤のより高い事業分野に自社を『位置づける』ことで競争優位を確保する、という考え方のことです」

 

続けて、野中氏は以下のように述べています。
「この理論の欠点は、経済学の完全情報・完全競争で合理的選択を行なう主体による市場均衡という、非現実的な考え方が基礎にあり、静態的分析にとどまっていること、人間の認知や行動を理論体系に組み込めないことにあります。つまり、ポーターは『戦略とは競争に勝つための方法』という前提を置いていて、そこで企業は『何のために競い合うのか』『なぜ企業が存在するのか』といった問いは、戦略そのものとの関連が薄いと考えています。このような前提に基づくポーターの世界観では、企業は利己的なゼロサムゲームで市場の取り合いをすることを意味します。しかし『ビジネスの唯一の目的は顧客の創造である』とドラッカーも語っているように、企業の目的は顧客のため、社会のために付加価値を創造することです。革新的であれば、利益はついてくるのです。一方、ポジショニング理論に対して、組織内部から戦略を見るのが、Resource‐Based View(RBV、資源ベース理論)です。RBVは、社内にある有形無形の資産(人的・物的・財的・知的資産など)が企業の競争力をいかにつくり出すかを考える経営戦略論です」

 

「戦略」について、野中氏は以下のように述べています。
「戦略とは、環境決定的(外部的条件)に環境に適応するものでも、能力や現有の資源(内部的条件)に制約されるものでもありません。ドラッカーがかつて語ったように、経営(戦略)とは「単に受動的、適応的行動」ではなく、『望んだ結果が生み出されるような活動を行なうこと』であり、『行為の自由(freedom of action)に基づいて、経済的状況の限界を継続的に押し返すような経済環境の形成を試みる』創造の行為なのです」
「戦略の最大の目的は、目前の矛盾や対立関係を着実に克服し、組織のビジョンを実現することにあります。そのためには、単純な因果関係で物事をとらえるのではなく、そのときどきにせり出してくる出来事をダイナミックに紡いでいくパターン認識が必要です。予期せぬ状況が起きて環境が急激に変化しても、現在の矛盾を克服することが未来創造につながっていくのです。このプロセスを繰り返すかぎり、究極的な目標に向かう新しいステージへのステップが次々と続いていきます。戦略とは、現在を起点とした未来への挑戦の連続ドラマだといえるでしょう」

 

また、「戦略論への物語りアプローチ」として、野中氏は以下のように述べます。
「『物語』アプローチは『物語(ストーリー)』と『物語り(ナラティブ)』という2つの側面をもっています。物語(ストーリー)は、とある出来事を説明・表現する創作物で、始まりと終わりをもち、それ自体で完結するモノ的性質(名詞)をもちます。物語(ストーリー)は、登場人物と複数の出来事で構成される骨組み、さらに出来事の意味や背景、つまり『What(何)』と『Why(なぜ)』を提示します。一方で、物語り(ナラティブ)とは、『どのようにストーリーを伝えるか』というプロセス、つまり『How(どのように)』を提示し、コト的性質(動詞)をもちます。つまりナラティブは、実際に視聴者がストーリーをどのように受け取るかに直接、影響を与えるものです。同じストーリーでも、語る人によってまったく面白さが違うということが起こる理由は、この語りの能力の差によって生じます」

 

それでは、物語りと戦略の親和性はどうか。「物語りによる人間中心の戦略」として、野中氏は述べます。
「物語りは、登場人物の主観的感情、感覚などの豊かさを失うことなしに、個人や集団の経験や思い、『場』や状況なども含めて、人にわかりやすく伝達できる知識の表現行為です。古代から存在する神話や民族伝承の寓話や童話、現代でいえば小説や映画も、ある意味では物語りというかたちをとった知識共有、伝達の手段として考えることができます。現代でも、途上国開発援助の各種プロジェクトで得られた教訓(知識)を共有するために、読まれることの少ない報告書に加えて、物語りを手法とするナレッジマネジメント世界銀行を中心に進められています。物語りは、その臨場感と迫真性で感性や価値観に強く訴える力をもっているので、組織成員の意識を変え、組織を変革する手法としても使われているのです。『戦略』も、物語りに類似する活動として理解されることが望ましいでしょう。『物語る』手法を用いれば、もともと説明しづらい戦略も、組織のメンバーが納得できるように表現することができます」

 

「なぜ物語りはアイデアよりも強力なのか」として、野中氏は以下のように述べています。
「物語りは、出来事や登場人物の関係性の動的変化を表現できます。人間の経験は、時間の流れのなかにおける『いま・ここ』の積み重ねであり、つねに新たなものをつくり出し、変化していきます。そうしたプロセスを深く理解するためにこそ、物語りが有効なのです。国際政治学者であるローレンス・フリードマンは、『戦略』とはいわば、ソープオペラ(主婦向けの昼帯メロドラマ)のような物語りだと主張しています。ソープオペラは、番組が進むにつれて登場人物が頻繁に入れ替わり、プロットも大きく変化します。何よりそもそも物語りのエンディングが決まっていません。演劇や映画とは異なり、ある定まった終わりに達することを前提に構成されていないのです。その意味において我々が提示した『物語り(ナラティブ)』と同義です」

 

また、戦略について、野中氏はこうも述べます。
「戦略を戦略たらしめるものは、それが状況の不安定性を考慮したものであるかどうかです。戦略は『次のステージ』に発展することはあっても、決定的で恒常的な結末があるわけではありません。刻一刻と変化していく状況のなかで、『対立』と『協調』のどちらに焦点を置くのかを認識し、状況の変化に応じて柔軟にそれらの配分を変えながら、ダイナミックにバランスをとっていくことが『相対的な優位性』を獲得・維持するためには必要なのです。つまり戦略のプロット自体には、突然で予想できない変化を許容する自由度が欠かせません。したがって、現実の文脈の変化に応じてプロットが変化します。そこでは主体(主人公、つまりトップやフロントライン社員)が『場』を共有しつつ、そのつど、独自の判断をしなければならない局面に迫られるでしょう。そこで物語りの半ばでの『(変化の)法則やパターンの発見』が重要になります。この法則やパターンとは、アリストテレスがいう高質の暗黙知、つまり『賢慮(実践知)』の推論過程と同質です」

 

「物語り」については、野中氏は以下のように述べます。
「聴き手にとってまったく新しい概念や文脈を提供するように物語れば、聴き手は日々の活動のなかに『新たな意味』を発見します。その新しい意味をもとに、彼ら彼女らは、さまざまな活動や仕事の取り組み方を新たに始め、そして、ゆくゆくはイノベーションへと発展していく可能性を開拓するのです。このようなスクリプトを土台にした物語りは、暗黙知として、実践のなかに埋め込まれて組織に共有され、強化されます。このプロセスは、日々の絶え間ない実践と内省のほか、それぞれの組織のもつ背景や物語りがメンバーに共有されることによって進みます。共有された物語りから愛、信頼、安心感が生まれ、個人や組織の情熱やエネルギーとなります。そこからまた新たな物語が生まれます。こうした物語と物語りの相互作用のスパイラルを経て、戦略としての物語りは進化していくのです」

 

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

 

 

第12章「本質直感の経営学――現象学経営学が共創する動態経営論」では、「実践知(実践的賢慮)のリーダーと日本企業」として、野中氏は、知識経営の根幹を支える実践知(実践的賢慮)リーダーシップ論を紹介します。
「フロネシスとは、社会における『善いこと(共通善)』の実現に向かって、現実における複雑な関係性や文脈を鑑みながら、適時かつ適切な判断と行動をとれる能力のことです。これは身体知を伴った実践的な知恵のことを指し、実践的賢慮とも呼ばれています。フロネシスは、もともと哲学者アリストテレスが分類した知識のうちの1つとして提唱された概念です。フロネシスは、『実践知(practical wisdom)』『賢慮(prudence)』『実践理性(practical reason)』などと訳されます。『ニコマコス倫理学』第6巻には、フロネシスとは『人間にとって善または悪である物事に対して行動する能力の、真の理性的な状態』とあります。アリストテレスにとってフロネシスを備えたリーダー、つまりフロニモスの代表格は、古代ギリシャアテナイの政治家、ペリクレス時代と呼ばれる黄金時代を築いた政治家ペリクレス(紀元前495?~紀元前429年)でした。アリストテレスは、フロネシスのほかにエピステーメ(普遍妥当な科学的知識)とテクネ(スキルベースの技術的知識)を提唱しました。前者が物事の理由に関する知識、後者がやり方に関する知識だとすれば、フロネシスは『何をすべきか』の意味や価値に関する知識だといえます」

 

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

 

 

アリストテレスのフロネシスの考え方をベースに、古今東西、多くの優れた政治家や企業リーダー、軍人などの事例をつぶさに考察したところ、実践知のリーダーは、6つの能力を備えていることがわかってきたといいます。野中氏は「フロネシスの6つの能力」として、以下のように紹介します。
①「善い」目的をつくる能力――何が善いことか知っている
②ありのままの現実を直観する能力――アクチュアルな現象の背景やつながりなどの本質的要因を察知する
③場をタイムリーにつくる能力――他者とコンテクストを共有し、相互主観性を育み、共通感覚を醸成する
④直観の本質を物語る能力――特殊と普遍を往還/相互作用する、察知した気づきを大局観から概念・物語化する
⑤物語を実現する政治力――概念を善に向かって実現する、交渉・調整・実行する
⑥実践知(実践的賢慮)を組織化する能力――賢慮を育成・配分する

 

「①『善い』目的をつくる能力」について、野中氏は以下のように述べています。
「企業理念の要諦は、我が社は『何のために存在するか』の意味を世界に宣言することにあります。たとえば、『3つの喜び:買う喜び、売る喜び、創る喜び(ホンダ)』『善の循環(YKK)』『服を変え、常識を変え、世界を変えていく(ファーストリテイリング)』『もっといいクルマづくり(トヨタ)』などです。日本企業のミッションの特色は、とりわけアメリカ企業と比較すると、『世のため人のため』といわれるように、株主志向の言葉がほとんど出てこないという点にあります。ファーストリテイリング柳井正会長兼社長は、『本当に優秀な会社の使命感というのは、単なる経済的目的を超えたもの』であり、『会社の最終目的は「人間を幸せにするために存在している」』であり、『会社が見ているものがお金だけであって、お客様の幸せがなければ、結局商品やサービスにあらわれてしまうのです。それを、お客様は敏感に気づいて見過ごさない』と述べています。社会における共通善の実現をめざした使命を掲げ、それを具現化した商品やサービスであれば、顧客、取引先などのステークホルダーや社会は共感してくれるはずなのです」

 

「②ありのままの現実を直観する能力」については、以下のように述べられています。「本質を摑むということは、具体的な細部から普遍的な真実を摑むことであり、細部への目配りや粘り強さが必要です。ファーストリテイリングでは、『リアルなモノを前に、リアルな場所で、リアルな人たちと、最後は売り切るところまでリアルに商売をまわしていく』ことを大切にしています。『机上で考えるだけでなく、現場・現物を実際に見て現実を確かめたり、あるいは実際に自分も一緒に作業をやってみたら、一発でわかることが多い』し、「こうした体験を積んでいくと、数値を見た時でも『だいたいこういうことが起きているのではないか』という勘が働き、実際の問題解決に役に立つアイデアが出てくるようになる」からなのです」

 

「③場をタイムリーにつくる能力」については、以下のように述べられています。
「実践知のリーダーは、互いに対話し、学び合う機会を絶えず創出します。そして、第9章でも紹介した、全人的に向き合い、相互主観性を育む場をつくります。日本語の『場』とは、関係が築かれ、相互作用が生じるダイナミックなコンテクストを意味します。場の参加者は情報を共有し、『いま・ここ』の関係を築き、新たな意味を生み出そうとするのです。ホンダのワイガヤや京セラのコンパについてはすでに紹介しましたが、企業はさまざまな方法で場を設定しています。タスクフォース、プロジェクト会議、研修プログラム、特別な研究会、非公式な趣味の会、カンファレンス、会社主催の運動会、社員旅行、ファミリーイベントや喫煙室、カフェテリア、バーチャル会議、社内SNS、ブログなどです。場はトップダウンでもボトムアップでもよいのです」

 

「④直観の本質を物語る能力」については、以下のように述べられています。
「実践知のリーダーは、わかりやすく、かつ共感を呼び起こすようなコミュニケーションを心がけなければなりません。状況の本質は表現しにくいことが多々あるので、リーダーは物語やレトリックなどを駆使しながら伝えていく必要があります。これがうまくできると、通常の対話のベースとなる状況の文脈や基本的体験を共有していない人々に対しても、物事を直観的に訴えることができます。伝え方1つで相手の心を動かせるのです。メタファーやストーリーを効果的に使うには、リーダーは1つの物事と他の物事、自分と他者、あるいは過去と現在、現在と未来との関係を見抜けなければなりません。そういった能力を鍛えるためには、ロマンス、風刺、喜劇、悲劇など、あらゆるジャンルの小説をできるだけ多く読み、映画や演劇を鑑賞することも重要です」

 

「⑤物語を実現する政治力」については、以下のように述べられています。
「実践知のリーダーは、他者に物事の本質を伝えた次のステップとして、人々を結束させ、行動に駆り立て、目標を達成するための行動へと導かなければなりません。1人ひとりの知識と実践をまとめ上げ、全員で共有しているビジョンを実現していくのです。人材を動員するためには、リーダーは状況に応じて、すべての手段、ときにはマキャベリ的な権謀術数さえも駆使しなければならない場面も出てきます。新しくてよいものを創造するためには、往々にして狡猾であったり、頑迷であったりすることも必要です」

 

「⑥実践知(実践的賢慮)を組織化する能力」については、以下のように述べられています。
「フロネシスは、CEOや経営陣など一般的にリーダーと呼ばれる人たちだけに属する能力であるかのように取り扱うべきではありません。フロネシスは、あらゆる層の社員が訓練や実践によって身につけ、組織のすみずみにまで分散していなければ、組織全体の能力を伸ばすことになりません。したがって、この実践的賢慮の育成はリーダーの重要な責務といえます。とりわけトップマネジメントにとって、後継者や次世代リーダーの育成は重要な経営課題の1つです。フロネシスが企業のさまざまな層で育まれていれば、組織はいかなる状況にも柔軟かつ創造的に対応できるようになります」

 

野中氏は「AIと人間との共創」として、人間との関係性から見て、AIをどうとらえるか、という点を整理します。まず、AIは生命体ではなく機械であると指摘し、以下のように述べています。
「生きていないから、AIの記憶はリアルな感覚を感じさせる物語をつくり出せません。また、生きていないAIにはインプットされたデータの計算結果しか判断の基準がありません。フロネシスは、これまで生きてきた人生からつくられた知であり、これからよりよく生きるための知ですので、AIにフロネシスをつくり出すことはできません。その意味では、AIはあくまで人間の補助的な立場のツールでしかないのです」

 

続けて、野中氏は、AIと人間について述べます。
「AIやIoT(Internet of Things=モノのインターネット)がもてはやされる時代こそ、人間の倫理観や責任感、美意識、やり抜く力、根性などの『生き方』が経営の基盤になるでしょう。AIはおおいに活用すべき手段ですが、自ら目的をもち、状況に即応し、新たな意味や物語りを紡ぎ出してやり抜く主体は我々人間であり続けるでしょう。『世のため人のため』という理想を掲げ、現場の只中で新しい価値を生み出す『理想主義的プラグマティズム』を実践するリーダーが必要なのです」

 

さらに、野中氏は以下のように述べています。
「冷静な頭脳と温かい心が、我々が日々直面する理想と現実、アートとサイエンス、変化と安定、感情と知性など、両極間のジレンマを動的にバランスをとりながら両立する原動力になります。『たんなる金儲け』を超えて、志を高くもちながら現実的に価値創造を実践する姿勢は日本的経営が元来持ち合わせていたものであり、それを再評価することがAIと共創する時代の鍵となるでしょう」

 

 

 

「人間のもつ優れた能力」として、野中氏は「身体と心をもつ人間、一方で身体と心をもたず人間の脳の機能を模倣するAIにどんな差があるのでしょうか」と読者に問い、この点に関して、情報学者の西垣通氏の以下の発言を紹介します。
「『脳』とは外側から客観的に分析把握するものであり、『心』とは内側から主観的に分析把握するものである。人間の主観世界を形づくるのはイメージの連鎖であるが、そのなかにはクオリア(感覚質)が宿っているが、それは『私』の心の内側から観察しないとわからない。脳だけに着目し、機械的に分析しても、心は再現できない。心と脳は、観察の仕方や視点に伴ってそれぞれ出現する。人工知能が人間の心をシミュレートするには、脳だけでなく、心にも着目しなければならない」
この西垣氏の指摘を踏まえて、野中氏は「一般的に『心』とは人間の脳内に収まっており、身体や環境からは独立して存在するものとして考えられていますが、先述の『身体化された心』は、自らの身体や行動、そして周りの環境との関係性のなかから即時に創発されてくるものです。それは脳内だけにとどまっているのではなく、身体や環境との関係性のなかから初めて『心』というものが生まれる、という理解に基づいています」と述べています。

 

理性への回帰 (叢書・ウニベルシタス)

理性への回帰 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

また、「善き生の社会の実現に向かって」として、野中氏は以下のように述べています。
「哲学者スティーヴン・トゥルーミン(1922~2009年)は、近年主流になってきている数学的な理論経済学が金融資本主義を先導し、現実と人間を軽視した結果、理論偏重のアカデミズムの袋小路に直面していると警鐘を鳴らしています。歴史と伝統を重んじ、個別具体の文脈で『理に適った(reasonable)』実践を講じた道理性が中心であった第1期の『人間味のある時代』を経て、第2期の『科学的合理主義の時代』が到来しました。そこでは『合理的(rational)』であることが『理性的』であるとされ、数学的厳密性や行きすぎた理論偏重の考え方が台頭し、個別具体の現実に基づく理性が軽視された結果、現代の閉塞状況がつくり出されてしまったと論じています。そのうえで、これからは第3期『合理性』と『道理性』が共存する時代であり、この閉塞状況を打破する唯一の手段は道徳的ルネッサンスヒューマニズムの復活だと主張しています。つまり、世界は根源的に不確実性を孕んでいることを理解したうえで、歴史と経験を重視し、つねに知的活動の根拠を問う個別具体の現実に則った道理性、つまりフロネシスへの回帰こそがいま求められているというのです」

 

最後の対談「日本人の集合本質直観の力」では、山口氏が以下のように語っています。「身の回りの家族愛、それを土台にした人類愛というような実践理性でもって、さまざまな具体的な諸問題について、哲学的な議論を積み重ねることでそれは解決できるという、根本的な理性に向かっての目的論を現象学は主張しているわけです。それが日本人のみならず、『真・善・美』を無限に追求しようとする人間のなす営為である企業活動にとっても大いなる示唆になることは、考えてみれば自然なことかもしれません」

 

また、野中氏は以下のように語っています。
「対話を通じて相互主観性を生み出すとき、鍵となるのはやはり『共感』です。そこではたんに「そうだよね」と相手に同意するのではなく、『自分であればこうだよ』という『同感』が求められるわけです。そして心の底から他者に『同感』するためには、ハウツーで賛意を集めるのではなく『人間の生き方』までもが問われているのは明らかでしょう。そのレベルの同感がもたらされたときに初めて、集合本質直観が生み出され、新しいイノベーションが起こる、と考えています」

 

「おわりに」では、山口が以下のように述べるのでした。
「もともと現象学は、現代哲学として成立した当初から、論理学、言語学精神病理学社会学発達心理学、スポーツ運動学などに多大な影響を与えており、とりわけヴァレラの『神経現象学』における脳神経科学と現象学との相補的共創研究の実現は、諸学問の学際的研究の指針となっているといえるでしょう。このようなグローバル化された世界の学際的研究の進展において、現象学の相互主観的本質直観を知識創造経営学へと統合し、世界で初めて現象学経営学の学際的共創研究を実現された野中さんに最大限の敬意を表すものです」

 

本書は経営書としてはかなり難解な内容の本であり、非常に読みごたえがありました。経営学現象学の親和性という視点は「目から鱗」でしたし、アリストテレスのフロネシスの考え方を改めて知ったことも大きな収穫でした。たしかに、わたしの唱える「ハートフル・ソサエティ」や「ハートフル・マネジメント」、そして「ハートフル・リーダーシップ」を実現する上で、「フロネシス」は重要なキーワードになると思います。あとは、本書で学んだ「共感の哲学」を現実の経営にどう反映させていくか・・・・・・ここが、経営者としてのわたしの最大の仕事であります。

 

直観の経営 「共感の哲学」で読み解く動態経営論

直観の経営 「共感の哲学」で読み解く動態経営論

 

 

2019年10月20日 一条真也

『レオナルド・ダ・ヴィンチ』

レオナルド・ダ・ヴィンチ 上

 

一条真也です。
レオナルド・ダ・ヴィンチ』上下巻、ウォルター・アイザックソン著、土方奈美訳(文藝春秋)を読みました。著者は1952年生まれ。ハーバード大学で歴史と文学の学位を取得。オックスフォード大学にて哲学、政治学、経済学の修士号を取得。米「TIME」誌編集長を経て、2001年にCNNのCEOに就任。アスペン研究所CEOへと転じる一方、作家としてベンジャミン・フランクリンの評伝を出版。2004年に、スティーブ・ジョブズから直々に依頼され、ジョブズが亡くなった直後の2011年に刊行されたブログ『スティーブ・ジョブズ』で紹介した本は、世界的な大ベストセラーとなりました。現在、トゥレーン大学の歴史学教授を務めています。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ』上下巻 

 

 本書の表紙カバーには上下巻ともに「モナリザ」の絵が使われ、2冊合わせてモナリザの顔になります。また帯には上下巻ともに「ニューヨークタイムズ ベストセラー第1位 ビル・ゲイツ推薦」とあり、さらには上巻の帯には「遺された全自筆ノートに基くダ・ヴィンチ伝の最終決定版。」「世界的ベストセラー『スティーブ・ジョブズ』作家の最新作」と書かれています。

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上巻の帯

 

上巻のカバー前袖そでには「『芸術』と『科学』を結び『創造性』を生み出した。」として、「科学者であり、軍事顧問であり、舞台演出家だった。光学、幾何学、解剖学などの、点と点を結ぶ芸術家であり人類史上はじめて現れたイノベーターだった。同性愛者であり、美少年の巻き毛の虜となった。遺された7200枚のダ・ヴィンチ全自筆ノートを基にその生涯と天才性を描き切った、空前絶後の決定版」という内容紹介があります。

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下巻の帯

 

また下巻の帯には「『モナリザ』『最後の晩餐』最難関の謎が、ついに解かれる。」「レオナルド・ディカプリオ主演映画化決定!」と書かれています。下巻のカバー前そでには「人類の、自然の、宇宙の秘密を、いつも知りたかった。」として、以下の内容紹介があります。
「死者の顔の皮膚を切り取り、筋肉を研究したことであのえもいわれぬ『モナリザ』の微笑みを生み出した。『最後の晩餐』で試みたのは、単純な遠近法だけではない。彼の真髄を理解するには、『科学』が絶対に必要なのだ。没後五百年の歳月を経て、初めて明かされる制作意図。誰も知らなかったダ・ヴィンチのすべてがここに」 

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上巻の帯の裏

 

【上巻目次】

  序章 「絵も書けます」

第一章  非嫡出子に生まれた幸運

第二章  師に就き、師を超える

第三章  才能あふれる画家として

第四章  レオナルド、ミラノへ”寄贈”される

第五章  生涯を通じて、記録魔だった

第六章  宮廷付きの演劇プロデューサーとして

第七章  同性愛者であり、その人生を楽しむ

第八章  ウィトルウィウス的人体図

第九章  未完の騎馬像

第一〇章  科学者レオナルド

第一一章  人間が鳥のように空を飛ぶ方法

第一二章  機械工学の研究者

第一三章  すべては数学であらわせる

第一四章  解剖学に熱中する

第一五章  岩窟の聖母

第一六章  白貂を抱く貴婦人

第一七章  芸術と科学を結びつける

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下巻の帯の裏

 

【下巻目次】

第一八章  最後の晩餐

第一九章  母の死、そして苦難

第二〇章  フィレンツェへ舞い戻る

第二一章  聖アンナと聖母子

第二二章  失われた作品、発見された作品

第二三章  殺戮王チェーザレ・ボルジアに仕える

第二四章  水力工学

第二五章  ミケランジェロとの対決

第二六章  またもや、ミラノへ

第二七章  解剖学への情熱、ふたたび

第二八章  地球と人体を満たすもの、その名は水

第二九章  法王の弟に呼ばれ、新天地ローマへ

第三〇章  人間の姿をした天使の秘密

第三一章  モナリザ、解けない微笑の謎

第三二章  最期の地、フランスへ

第三三章  ダ・ヴィンチとは何者だったのか

結び   キツツキの舌を描写せよ

「謝辞」
「訳者あとがき」
「ソースノート」
「図版クレジット」

 

上巻の序章「絵も描けます」の冒頭を、「科学と芸術をつなげる」として、著者は以下のように書きだしています。
レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ公に宛てて、自分を売り込む手紙を書いている。30歳になったころの話だ。すでにフィレンツェで画家としてそれなりの成功を収めてはいたものの、与えられた仕事をやり遂げることが不得手で、新天地を求めていた。手紙のはじめの10段落では、橋梁、水路、大砲、戦車、さらには公共建築物の設計といった技術者としての力量を誇示している。画家でもあると述べたのはようやく11段落目の終わりになってからだ。『どんな絵でも描いてみせます』と」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「たしかに、そのとおりであった。のちに『最後の晩餐』と『モナリザ』という絵画史に残る2つの傑作を描くことになるのだから。ただ本人の意識のうえでは、科学者、技術者としての自負も同じように強かった。レオナルドは嬉々として、そしてとり憑かれたように、解剖、化石、鳥類、心臓、飛行装置、光学、植物学、地質学、水の流れや兵器といった分野で独創的な研究に打ち込んだ。こうして『ルネサンス的教養人』の代表格となり、また『自然界のありとあらゆる現象』には規則性があり、1つの調和した世界を織りなしていると信じる人々の教祖となった。芸術と科学を結びつける能力は、円と正方形の中で両手両足を広げて完全な調和を体現する男性像『ウィトルウィウス的人体図』に端的に示されている。芸術と科学を結びつけたからこそ、彼は史上最も独創的な天才となったのだ」

 

また、「彼の才能は常人が学べる」として、著者は以下のように述べます。
アルバート・アインシュタイン相対性理論の研究で行き詰まるたびに、バイオリンを引っ張り出してモーツァルトを弾いた。そうすることで宇宙の調和を感じ取ろうとしたのだ。イノベーターに関する本で取り上げたエイダ・ラブレスは、父バイロン男爵譲りの詩的感性と、母親譲りの数学的美しさへの憧れをもとに、汎用コンピュータの構想を描いた。そしてスティーブ・ジョブズは製品発表会のクライマックスで、リベラルアーツとテクノロジーの交差点を示す道路標識のイラストを見せた。レオナルド・ダ・ヴィンチはそんなジョブズのヒーローだった。『レオナルドは芸術とテクノロジーの両方に美を見いだし、2つを結びつける能力によって天才となった』」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「レオナルドの非凡な才能は神からの贈り物ではない。彼自身の意思と野心の産物だ。ニュートンアインシュタインのように、ふつうの人間には想像もできないような頭脳を持って生まれたわけではない。レオナルドは学校教育をほとんど受けておらず、ラテン語や複雑な計算はできなかった。彼の才能は常人にも理解し、学びうるものだ。たとえば好奇心や徹底的な観察力は、われわれも努力すれば伸ばせる。またレオナルドはちょっとしたことに感動し、想像の翼を広げた。意識的にそうしようとすること、そして子供のそういう部分を伸ばしてやることは誰にでもできる」

 

さらに続けて、著者は以下のように述べます。
「レオナルドの空想は、あらゆる対象に及んだ。舞台作品、河川の改修計画、理想都市の設計、飛行装置の図案、さらにはその芸術や技術まで。ミラノ公への手紙もある意味では空想と言える。軍事技術に強いと書いてはいたものの、実際には彼の頭の中にしかなかったからだ。ミラノ公国で当初与えられた仕事は、兵器の建造ではなく、祝祭やパレードなどの企画であった。キャリアの最盛期においてすら、レオナルドの考案する兵器や飛行装置はアイデア先行で実用性に欠けていた」

 

そして、「積極的に疑問をいだくことの大切さ」として、著者は以下のように述べるのでした。
「レオナルド、コロンブスグーテンベルクの生きた15世紀は、発明、探究、そして新たな技術によって知識が拡散する時代だった。つまり今日われわれが生きている時代にそっくりなのだ。だからこそレオナルドから学ぶべきことは多い。当時も今も、芸術、科学、技術、人文学、そして想像力を融合させる能力がクリエイティビティに欠かせないものであるのに変わりはない。社会のはみ出し者であることを、まるで意に介さないところもそうだ。レオナルドは非嫡出子で、同性愛者で、菜食主義者で、左利きで、注意散漫で、ときに異端であった。15世紀のフィレンツェが栄えたのは、そのような人々に寛容だったためだ。なによりレオナルドのとどまるところを知らない好奇心や進取の気性は、与えられた知識を受け入れるだけでなく、積極的に疑問を抱くことの重要性を教えてくれる。想像力を働かせること、そしてあらゆる時代のはみ出し者や反逆児がそうであるように、人と違った発想をすること(Think Different)の大切さを」

 

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1952年4月15日、公証人の父とヴィンチ村の田舎娘だった母との間に非嫡出子として生まれました。第一章「非嫡出子に生まれた幸運」では、著者は、その冒頭を「レオナルド・ダ・ヴィンチが非嫡出子として生まれたのは、幸運としか言いようがない。さもなければ少なくとも五代前までの一族の嫡男がすべてそうであったように、公証人になることが期待されていたはずだ」と書きだしています。著者はまた、「野心や才能を持った子供が生まれ落ちるには良い時代だった。1452年はヨハネス・グーテンベルクが印刷所を開設した直後である。その活版印刷技術はまたたくまに広がり、レオナルドのような学校には行っていなくても知性あふれる人々は大いに恩恵を受けた」とも述べています。

 

さらにレオナルドが生まれた15世紀半ばのイタリアについて、著者は以下のように述べています。
「イタリアでは40年にわたって都市国家間の戦争がないという、歴史上稀にみる平穏な時期が始まろうとしていた。大地主から都市の商人や銀行家へと権力が移行するのにともない、識字率、計算能力、所得は劇的に上昇した。この新たな支配階級は法律、会計、信用、保険の発達によってますます栄えた。またオスマントルコによるコンスタンティノープルの陥落で、ユークリッドプトレマイオスプラトンアリストテレスら古代の英知が詰まった大量の文献を抱えた学者が大挙してイタリアへ流れ込んだ。レオナルドの誕生に前後してクリストファー・コロンブスアメリゴ・ヴェスプッチが生まれ、探検の時代が幕を開けた。成長著しい商人階級がパトロンとして社会的地位を獲得しようとしたフィレンツェでは、ルネサンス美術や人文学が花開いた」

 

第二章「師に就き、師を超える」では、当時有名だった芸術家ヴェロッキオに弟子入りしたレオナルドのノートについて、以下のように書かれています。
「ノートにスケッチされた歯車、クランク、機械装置には、レオナルドが目にした、あるいは考案した舞台装置と思われるものが散見する。フィレンツェの演出家たちは、背景を変化させ、小道具を動かし、舞台を動く絵のように見せるための独創的な装置を次々と生み出した。ヴァザーリはある祝祭の出し物のクライマックスで、『キリストの身体が山から浮きあがり、天使たちの囲む雲に乗って空へと昇っていく場面』を創りあげた大工や技術者を称賛している」

 

第三章「才能あふれる画家として」では、レオナルドが17歳の少年との性的関係を告発されたことが紹介され、「同性愛者であることを隠さなかった」として、以下のように書かれています。
「レオナルドは恋愛対象として、また性的対象として、男性に惹かれた。そしてミケランジェロとは違い、それをまったく気に病んでいなかった。同性愛者であることを公言はしていなかったが、隠しもしていなかった。ただ、それは自らが異端であり、公証人という一族の伝統的職業を継ぐような人物ではないという意識につながっていたのかもしれない。生涯にわたりレオナルドは、工房や自宅に多くの美しい若者を住まわせている」

 

また、「性的な欲求は恥ずかしいものではない」として、著者は以下のようにも述べています。
「同性愛はフィレンツェの芸術界において、またヴェロッキオの仲間うちでも珍しくはなかった。ヴェロッキオ自身一度も結婚したことはない。ボッティチェリも同じで、何度か男色で有罪判決を受けている。ほかにもドナテッロ、ミケランジェロ、ベンヴェヌート・チェリーニ(男色で2度の有罪判決)などの例がある。レオナルドが『アモーレ・マスキュリーノ(男の恋愛)』と呼んだ男色が当時のフィレンツェであまりにも盛んだったことから、『フロレンツァー』がドイツ語で『ゲイ』を意味する俗語になったほどだ。レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた頃、ルネサンス人文主義者のあいだでは熱烈なプラトン信者が多く、美少年に対する性愛を理想化する風潮があった。高尚な詩でも流行り歌でも、同性愛がもてはやされていた」

 

第五章「生涯を通じて、記録魔だった」では、「人間とその感情をひたすら記す」として、著者は以下のように述べています。
「何世代も続く公証人の家系に生まれたためか、レオナルドには事細かに記録を残そうとする習性があった。観察したもの、さまざまなリスト、アイデア、スケッチを日常的にノートに書き込む習慣は、ミラノに到着してまもなく1480年代初頭に始まり、生涯にわたって続いた。タブロイド紙ほどの大きさの紙に書いたものもあれば、ペーパーバック本ほどの大きさの革表紙のついたノートを使うこともあった。後者は常に持ち歩き、見聞きしたことを書き留めた」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「ベルトに付けた小さなノートと、工房で使った大判の紙は、多種多様な興味やこだわりを映す鏡である。1枚の紙に雑多なアイデアが無秩序に詰め込まれている。技術者として知識を磨くため、偶然見かけた、あるいは頭に浮かんだ装置を描く。芸術家として、アイデアをスケッチしたり下絵を描いたりする。宮廷の余興の演出家として、衣装、舞台装置、上演する物語、気の利いたセリフなどを書き留める。余白にはやることリスト、出費の記録、興味を引かれた人々のスケッチなどの走り書きがある。科学の研究に熱が入るにつれて、飛行、水、解剖、芸術、馬、機械、地質といったテーマに関する論文の構想や文案も増えていく。ただ1つ抜け落ちているのは、個人的な心情や色恋にかかわる記述である。つまり、レオナルドのノートはアウグスティヌスの『告白』とは違う、おそろしく好奇心旺盛な探究者が、自らをとりまく世界の魅力を書き綴った記録である」

 

第六章「宮廷付きの演劇プロデューサーに」では、その冒頭を「スフォルツァ宮の余興を手掛ける」として、著者は以下のように書きだしています。
レオナルド・ダ・ヴィンチはめでたくルドヴィーコスフォルツァの宮廷から声がかかるようになったが、それは建築家や技術者としてではなく、余興のプロデューサーとしてであった。フィレンツェのヴェロッキオの工房でショーの準備にかかわり、空想を舞台で表現する喜びに目覚めたことはすでに述べた。ミラノのスフォルツァ宮でも演劇をはじめとする催しが盛んであったので、この才能は大いに役立った。舞台のデザイン、衣装、背景、音楽、舞台装置、舞踊の振付け、シナリオ、自動機械や小道具の制作など、芸術と技術の両面においてさまざまなスキルが求められる仕事だが、レオナルドはそのすべてに創造力を刺激された」

 

また、「空間を具現化する能力を養う」として、「1496年1月、レオナルドは再び技術的才能と芸術的才能を融合させる機会に恵まれた。ルドヴィーコスフォルツァの書記官で宮廷詩人のバルダッサーレ・タコーネによる喜劇『ラ・ダナエ』を上演した」ことが紹介され、さらには「芝居のなかではレオナルドが設計した特殊効果や機械装置が次々と登場する。ヘルメスはロープや滑車を使った複雑な装置を使って空から舞い降りる。ゼウスは金色の花吹雪となってダナエのもとを訪れる。『空が星のような無数のランプに照らされる』場面もあった」ことが述べられています。

 

続いて、著者は以下のように述べています。
「最も複雑な機械装置は、『ハデスの冥界』と題した場面で使われた回転舞台だ。山が真っ二つに割れて冥界の王ハデスが登場する。『冥界が開くと、地獄の入り口のような12個の壺のなかで悪魔が躍っており、地獄の喧噪が聞こえる。死神や復讐の女神、骸骨、すすり泣く裸の子供達。さまざまな色の火が燃えている』。そして『次は舞踏』と簡潔な指示がある。可動式の回転舞台は、半円ずつに分かれた円形劇場のようだ。最初は2つの半円が向き合い、1つの球のように閉じている。それが一気に開くと、回転して背中合わせになる仕組みだ」

 

舞台装置は科学的研究にのめり込むきっかけとなったことを指摘し、著者は「機械仕掛けの鳥や、舞台の上に宙づりになった役者用の羽が最たる例で、鳥の観察や本物の飛行装置の探究はここから始まった。また役者のしぐさに強く惹かれていたことは、物語絵画に表れている。演劇に携わった経験は、レオナルドの芸術と技術の探究の両方を刺激することになった」と述べています。

 

 

第八章「ウィトルウィルス的人体図」では、「壮大な宇宙における人間の存在とは」として、著者は以下のように述べています。
「自分は何者なのか、壮大な宇宙の秩序においてどのような存在なのか。レオナルドは芸術と科学を融合させた『ウィトルウィウス的人体図』によって、この永遠の問いに対するひとつの答えを提示したと言える。この図はまた、個人の尊厳、価値、合理的主体性を重んじる人文主義の理想を表現している。円と正方形のなかの裸の男性像は、地上の世界と天上の世界の交点に立つレオナルド・ダ・ヴィンチの、そしてわれわれ自身の真の姿を見せてくれる」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
ウィトルウィウス的人体図を制作していたとき、レオナルドの頭のなかにはたくさんのアイデアが渦巻いていた。円積問題、人間の小宇宙と地球の大宇宙のアナロジー、解剖学研究にもとづく人体比例の発見、教会建築における正方形や円形の幾何学的配置、そして「黄金比」「黄金分割」と呼ばれる数学と芸術を融合させた概念などで、それぞれが互いに絡みあっていた」

 

さらに、著者は以下のように述べています。
「こうしたアイデアは、自らの経験や読書を通じてのみ発展してきたわけではない。友人や仕事仲間との対話も重要な役割を果たした。歴史を振り返ると、分野横断的に活躍する思想家というものは、たいてい他者と協力しながらアイデアを練る。レオナルドも同じだ。ミケランジェロのような孤高の芸術家もいるが、レオナルドは友人、恋人、弟子、助手、宮廷の仲間や思想家とともに過ごすのを楽しんだ。ノートを見ると、議論をしたい相手として大勢の名が挙がっている。一番親しくつきあったのは、知的な友人たちだった」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「アイデアはたいがい、異なる関心を持つ人々が偶然出会うような場で生まれる。スティーブ・ジョブズが自らの会社の中心にアトリウムをつくったのも、若き日のベンジャミン・フランクリンが毎週金曜日にフィラデルフィアで最もおもしろい人々が集まる社交クラブを主催したのもそのためだ。ルドヴィーコスフォルツァの宮廷で、レオナルドはあふれる好奇心をぶつけ合い、新たなアイデアを生み出す友を見つけた」

 

第一〇章「科学者レオナルド」では、「膨大な科学的知識を、本から独学する」として、著者は以下のように述べています。
「レオナルドは良い時代に生まれたと言えるだろう。1452年にヨハネス・グーテンベルクが自ら発明した活版印刷技術を使って聖書を売り出した。ほぼ同時期に、衣料に使用されていた木綿くずを処理する技術が発達し、紙の供給も増えた。レオナルドがフィレンツェでヴェロッキオに弟子入りする頃には、グーテンベルクの技術はアルプス山脈を越えてイタリアに入っていた」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「アルベルティは1466年に『ドイツの発明家は文字を印刷する技術によって、原書の写し200部を、たった3人で100日もかけずに作ってしまった』と驚きを綴っている。1469年にはグーテンベルクの地元マインツから、ヨハネス・デ・スピラ(ドイツ名はシュパイヤー)という金細工師がヴェネツィアにやってきて、イタリア初の本格的な印刷所を開業した。キケロの書簡や大プリニウスの『博物誌』をはじめとする多くの古典を出版し、レオナルドも購入している」

 

プリニウスの博物誌〈第1巻~第6巻〉

プリニウスの博物誌〈第1巻~第6巻〉

 

 

当時、印刷技術の発明・発展によって、多くの書籍が世に送り出されましたが、レオナルドはどのような本を読んでいたのでしょうか。非常に気になるところですが、著者は以下のように述べています。
「ノートには、レオナルドが買った本のリストや、抜き書きした文章がたくさん残っている。1480年代末には所有していた5冊の本を箇条書きにしている。プリニウスの『博物誌』、ラテン語の文法書、鉱物や宝石に関する教科書、算術の教科書、そしてルイジ・プルチの書いたユーモア叙事詩『モルガンテ』だ。モルガンテは1人の騎士と彼がクリスチャンに改宗させた巨人との冒険譚で、メディチ宮廷でよく上演されていたものだった」

 

続けて、レオナルドの蔵書について、著者は述べます。
「1492年には蔵書は40冊近くに膨らんでいる。その内容は多岐にわたり、レオナルドの関心の幅広さを映している。軍事設備、農業、音楽、外科、健康、アリストテレスの自然学、アラビアの物理学、手相占い、有名な哲学者の伝記のほか、オウィディウスやペトラルカの詩、イソップ寓話集、下品な狂詩や笑劇、そして自ら動物寓話集を書く参考にした14世紀のオペレッタまである。1504年には蔵書はさらに70冊以上増えた。内訳は科学書が40冊、詩や文学が50冊弱、美術や建築書が10冊、宗教書が8冊、そして数学書が3冊である」

 

「自然界のパターンを見抜き、アナロジーで理論構築」として、著者は以下のように述べています。
「後世のコペルニクスガリレオニュートンが抽象的な数学的思考能力を駆使して自然界の法則を導き出したのに対し、レオナルドの用いた手法はもっと原始的だった。レオナルドには自然界のパターンを見抜く才能があり、アナロジーによって理論を構築した。さまざまな領域を横断的に観察するなかで、繰り返し出現するパターンを見つけていったのだ。哲学者のミシェル・フーコーは『レオナルドの時代の原始科学は、類似性と類推をよりどころとしていた』と指摘する」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「レオナルドは自然の調和を直観的に感じ取っており、その意識や目やペンはさまざまな領域の垣根を超えてつながりを見いだしていった。『レオナルドは基本的な、自然発生的に繰り返し出現する形を探しつづけた。だから心臓から静脈網が広がっていくのを見て、その隣に種から発芽して茎や葉が伸びていく様子を描いたのだ。美しい女性の頭部を飾る巻き毛を見るときは、渦巻く水の流れを思い浮かべていた』とアダム・ゴプニックは書いている。子宮の中の胎児のスケッチからは、殻の中の種子との類似性を見ていたことが感じられる」

 

さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「さまざまな領域のつながりを発見することで、レオナルドの探究に新たな方向性が拓けることもあった。たとえば水の渦と乱気流とのアナロジーは、鳥の飛翔を研究する手がかりとなった。『空中における鳥の動きを理解するには、まず風を理解する必要がある。それは水の動きから解明できる』と書いている。ただレオナルドにとって、発見したパターンは単なる研究に役立つ材料ではなかった。それはこの世界の本質的真実、自然の美しい調和の表れととらえていた」

 

第一二章「機械工学の研究者」の最後には、以下のように書かれています。
「機械の研究を通じてレオナルドは、やがてニュートンが提唱するものに似た機械論的世界観を身につけた。人間の四肢や機械の歯車の動き、人間の血液や川の流れなど、宇宙のあらゆる動きは同じ法則に従っている、と。この法則には分野を超えた類似性がある。1つの分野の動きは別の分野のそれに対比させることができ、そこにはパターンが存在する。『人間は機械であり、鳥は機械であり、世界全体が機械である』。レオナルドの機械装置を分析したマルコ・チャンキはこう書いている。同時代の仲間とともにヨーロッパに新たな科学の時代をもたらしたレオナルドは、占星術師や錬金術師など物事の因果を非機械論的に説明しようとする人々を嘲笑し、宗教上の奇跡は聖職者の管轄として距離を置いた」


法則の法則』(三五館)

 

拙著『法則の法則』(三五館)で、わたしは「法則とは何か」を追求し、アイザック・ニュートンのことを人類を代表する「法則ハンター」と呼びましたが、先人としてレオナルド・ダ・ヴィンチがいたのです。同書で詳しく述べましたが、法則は数学と密接な関係があります。本書の第一三章「すべては数学であらわせる」では、その冒頭を、「代数より幾何学が得意だった」として、著者は以下のように書きだしています。
「レオナルドは次第に、観察結果を理論化するうえでカギとなるのは数学だという確信を深めていった。自然の法則は、数学という言語で書かれている。『数学を応用できない科学に確実性はない』とまで言い切っている。まさにそのとおりだ。幾何学を使って遠近法を理解した経験から、レオナルドは数学によって自然の美しさの背後にある法則を、さらにはその法則の美しさを明らかにできることを学んだ」

 

第一七章「芸術と科学を結びつける」では、「芸術における最高位は科学である」として、著者はこう述べています。
「レオナルドは、絵画を光学という科学的探究や遠近法という数学的概念と結びつけ、画家という仕事やその社会的地位への評価を高めようとしていた。芸術と科学がいかに密接に結びついているかを訴えるその主張は、彼の才能を理解する重要な手がかりとなる。真のクリエイティビティには観察と想像を結びつけ、現実と空想の境界をぼかしていく能力が必要である。その両方を描くのが偉大な画家である、とレオナルドは語っている」

 

レオナルドの主張の前提となっていたのが、五感のなかで視覚が最も優れているという考えでした。「目は心の鏡と言われるとおり、脳の感覚受容器が、自然のさまざまな作品をしっかりとらえ、吟味するための主要な手段である」「音は発生してもすぐに消えてしまうため、聴覚は視覚ほど役に立たない」「聴覚は視覚ほど優れてはいない。音は誕生したとたんに死に絶え、その生と死は同じぐらいあっけない。視覚は違う。われわれの目の前に均整の取れた美しい人体が存在するとき、そこには不変性があり、ずっと見ていることができる」といったものです。レオナルドは、詩歌も絵画ほど優れてはいないとも主張しました。なぜなら絵画が一瞬で伝えられることを、多くの文字を連ねて描写しなければならないからです。

 

また、著者は以下のように述べています。
「創造的営みは古来より、技術と高尚な芸術の2つに分類されてきた。絵画は手を動かす作業であるため、金細工師やタペストリーの織り手と同じように技術とされてきた。レオナルドはこれに異を唱えた。絵画は芸術であるだけでなく科学である、と。三次元の物体を平面で表現するためには、画家は遠近法や光学を理解する必要がある。これらは数学に基づく科学であり、それゆえに絵画は手を動かす作業であると同時に知的営みである」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「そこからさらに一歩踏み込んだ。絵画には知性だけでなく、想像力も必要とされる。この空想という要素によって、絵画は称賛に値する創造的活動となる。現実を写し取るだけでなく、それを龍、怪物、すばらしい翼を持った天使などの想像上の存在や、現実よりも魅力的な風景と組み合わせることができる。『物書きたちよ、それゆえに絵画を芸術から外したのは過ちだ。絵画は自然の創造物のみならず、自然が生み出すことのできなかったすべてを描き出すのだから』」

 

そして、著者は「空想と現実はお互いを助け合い、融合すると創造性が生まれる」として、こう述べるのでした。
「歴史上、レオナルドほど体系的に自然を観察した者は珍しいが、その観察力は想像力と干渉するどころか、むしろ互いを助長した。芸術と科学への関心がそうであったように、観察力と想像力はその創造的才能を織りなす縦糸と横糸であった。その創造力は『融合』を特徴としていた。ちょっとしたおふざけや空想的な絵を描くために、本物のトカゲに他の動物の体の一部をくっつけて龍のような怪物を生み出したのと同じように、自然の細部やパターンを観察し、それを融合させて空想上の存在を生み出した。当然、レオナルドはこの能力を科学的に解明しようとした。解剖学的調査で人間の脳内地図を作ったときには、合理的思考能力と密接に連携できそうな位置にある空洞を、空想力の所在地と判断した」

 

本書の下巻の第一八章「最後の晩餐」では、画家レオナルドの代表作の1つである「最後の晩餐」について、「静止画に見えるが、じつは動きは止まってはいない」として、著者は、イエスが集まった弟子たちに「あなたがたのうちの1人が、わたしを裏切ろうとしている」と告げる場面を描いたこの作品は一見すると、一時停止させた画面のように見えるが、じつはそうではないことを指摘します。さらに著者は、「自然のなかにはっきりとした境界が存在しないように、独立した、自己完結的な時間というものもない。凍てついた、輪郭のはっきりした瞬間というものは存在しないというレオナルドの考えがここには表れている。川の流れと同じように、時間の流れにおいても1つひとつの瞬間は過去と未来の一部なのだ。これはレオナルドの芸術の最も重要な特徴の1つと言える。『東方三博士の礼拝』から『白貂を抱く貴婦人』、『最後の晩餐』、そして『モナリザ』に到るまで、どの場面も独立した瞬間ではなく、物語の一部を成している」と述べています。

 

第二〇章「フィレンチェへ舞い戻る」では、再びレオナルドの蔵書が紹介されます。「五〇代のレオナルド」として、著者は以下のように述べています。
「レオナルドが衣服だけでなく本にもお金をかけていたというのは、少しほっとする話だ。1504年に作成した蔵書目録には116冊が並んでいる。そこにはのちに人間の血管や呼吸器系を宇宙の縮図であると主張する際に引用した、プトレマイオスの『天地学』も含まれている。数学書も増えており、3巻から成るユークリッドの翻訳本のほか、アルキメデスの著作と思われる『円の正方形化に関するもの』もある。外科、内科、建築に関する本も多い。一方、娯楽本もある。3種類のイソップ童話のほか、下品な詩集も何冊も所有していた。ともにウィトルウィウス的人体図の作成に取り組んだミラノ時代の友人、フランチェスコ・ディ・ジョルジョの書いた建築書も入手している。そこにはたくさんの書き込みが見られ、ノートには文章や挿絵を書き写している」

 

第二四章「水力工学」では、レオナルドの多くの発明の多くは空想的で現実的ではなかった点を指摘し、著者は以下のように述べています。
「飛行装置が最たる例だが、いずれも現実離れしていて実行不可能だった。この空想を現実に落とし込む能力の欠如は、レオナルドの大きな弱点と見なされてきた。しかし真のビジョナリー(先見性のある人物)には、無理を承知で挑戦し、ときに失敗することもいとわない姿勢が欠かせない。イノベーションは現実歪曲フィールドから生まれる。レオナルドが思い描いたものの多くは、ときに数世紀の時間を要することもあったが、結局実現した。潜水用具、飛行装置、ヘリコプターは今、存在する。湿地の水はけには吸い上げポンプが使われている。レオナルドが運河を引こうとしたルートには、高速道路が走っている。空想はときとして新たな現実の糸口となる」

 

第二五章「ミケランジェロとの対決」では、「気難しいミケランジェロ、社交的なレオナルド」として、著者は以下のように述べています。
「レオナルドは信仰心は厚くなかったが、ミケランジェロは敬虔なクリスチャンで、信仰の苦しみと喜びを味わっていた。2人とも同性愛者で、ミケランジェロはそれを思い悩み、自らに禁欲を課していたようだが、レオナルドは堂々と男性の恋人を持ち、それを隠そうともしなかった。レオナルドは着飾るのが好きで、色鮮やかな短いチュニックや毛皮の付いたマントを身にまとった。一方、ミケランジェロは服装もふるまいも禁欲的だった。ほこりっぽい工房に寝泊まりし、入浴することも、そもそも犬革の靴を脱ぐこともめったになく、パンの皮のみで食事を済ませることもあった。『自然な魅力、優雅さ、洗練、親しみやすい物腰、美しいものを愛する心を持ち、そしてなにより無宗教であったレオナルドを、ミケランジェロが嫉妬し、嫌悪するのは当然であった。レオナルドはミケランジェロとは世代も違い、信仰心はなく、周囲には鼻持ちならないサライを筆頭に美しい弟子が大勢いた』と作家のセルジュ・ブランリは書いている」

 

レオナルドとミケランジェロの対決について、著者は以下のように述べています。
「両者の対決には、パラゴーネ(絵画と彫刻の優越論争)とは比較にならないほど芸術家の地位を高める効果があった。レオナルドとミケランジェロは巨匠として名をはせ、それまで作品に署名すらしなかった芸術家たちに目指すべき道を示した。ローマ法王ミケランジェロを呼び寄せたり、ミラノ政府がフィレンツェ政府と競うようにレオナルドを獲得したりしたのは、傑出した芸術家には固有の作風、芸術的個性、かけがえのない才能があることを認めた証にほかならない。こうして傑出した芸術家は、誰とでも置き換え可能な職人ではなく、唯一無二のスターとして扱われるようになった」

 

第三一章「モナリザ、解けない微笑の謎」では、画家レオナルドの代表作として名高い「モナリザ」について考察されます。「見つめられた気分になり、しかも微笑が揺れ動くのはなぜか」として、著者は以下のように述べます。
「唇を閉じる筋肉は、下唇の形を作る筋肉と同じであることをレオナルドは発見した。自分の下唇をすぼめてみると、それが事実であることがわかる。下唇は上唇とは無関係にすぼめることができるが、上唇だけをすぼめることは不可能だ。ささやかな発見ではあったが、解剖学者であると同時に芸術家であり、しかも『モナリザ』を制作中であったレオナルドには重要な気づきだった」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「唇の別の動きには、別の筋肉がかかわっている。たとえば『唇を尖らせる筋肉、開く筋肉、そらせる筋肉、まっすぐ伸ばす筋肉、横向きにねじる筋肉、そして元の場所に戻す筋肉』だ。続いて皮膚を剥いだ唇の絵をいくつも描いている。このページの一番上に、魅力的なものがある。黒いチョークを使った穏やかな微笑のスケッチだ。口の端はわずかに下がっているものの、唇は微笑んでいるような印象を与える。この解剖図がぎっしり詰まったページの片隅で、『モナリザ』の微笑は生まれたのだ」

 

さらに、「モナリザ」の微笑について、著者は述べます。
「このように世界で最も有名な微笑は、意図的にどこまでもとらえがたいようにできている。そこには人間の本質について、レオナルドがたどり着いた結論がそこに表れている。レオナルドは内なる感情が外面に表れた瞬間をとらえることに長けていた。しかし『モナリザ』では、もっと深い認識を示している。外面からは決して真の感情を理解することはできない。他者の感情には、常にスフマート的な要素があり、ベールがかかっている、と」

 

「人類史上最高の創作物になりえた理由」として、著者は以下のように述べています。「『モナリザ』が世界で最も有名な絵画となったのは、偶然あるいは誇大な宣伝のためではない。見る者が彼女と感情的つながりを感じるからだ。モナリザは見る者に複雑な心理的反応を引き起こし、自らも同じように複雑な感情を見せる。なにより不思議なのは、われわれ鑑賞者と自分自身を意識しているように見えることだ。モナリザがこれまで描かれたどんな肖像画よりも生き生きとして見えるのはそのためだ。モナリザが唯一無二の存在であり、人類史上最高の創造物である理由もそこにある。ヴァザーリの言うとおり『モナリザを見れば、どんな鼻っ柱の強い画家でも打ち震え、意欲を失う』」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「『モナリザ』の前に立てば、誰がどのような経緯で依頼したのかといった歴史的議論はどうでもよくなる。レオナルド人生最後の16年の大半を通じて制作に取り組むなかで、それは単なる個人の肖像画ではなくなった。われわれの内なる営みの外面への現れについて、またわれわれと宇宙とのつながりについて、レオナルドが蓄積した英知が凝縮された普遍的存在となったのだ。大地を表す四角形と天を表す円のなかに立つ『ウィトルウィウス的人体図』と同じように、何億年という歳月を背景にロッジアに佇むリザの姿は、人間とは何かというレオナルドの深い洞察を体現している。そしてレオナルドは光学や解剖学、宇宙のパターンの研究にあまりにも多くの時間を浪費したと嘆くあまたの学者や批評家の見解については、『モナリザ』の微笑みがその答えと言えるだろう」

 

第三二章「最期の地、フランスへ」では、レオナルドの死が描かれています。「王の腕の中で息を引き取る」として、著者は以下のように書いています。
「レオナルドはアンボワーズ城の教会に埋葬されたが、その遺体の現在の所在地もまた謎に包まれている。この教会は19世紀初頭に破壊された。その6年後に発掘され、レオナルドのものの可能性がある遺骨が回収された。遺骨はアンボワーズ城にほど近いサン・テュベール礼拝堂に埋葬され、設置された墓標には『レオナルドの遺骨と推定される』と書かれている」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「レオナルドの芸術と人生は、その誕生地から死に至るまで、謎のベールに包まれている。その生涯をくっきりとした線で描くことはできないし、その必要もないだろう。レオナルドも『モナリザ』をそんなふうには描かなかった。想像の余地があるのは悪くない。現実の輪郭というのは本来ぼんやりとしたものであり、われわれはちょっとした不確かさを受け入れなければならない。それをレオナルドはわかっていた。レオナルドの生涯に迫る最善の方法は、彼が世界に迫った方法を踏襲することだ。旺盛な好奇心を持ち、果てしない驚きと向き合うのである」

 

第三三章「ダ・ヴィンチとは何者だったのか」では、「ゼロから1を生み出す天才」として、著者はこう述べています。
「レオナルドが天才となった理由、すばらしく優秀というだけの人々との違いは、その創造力だ。それは想像力を知性に応用する能力である。創造的天才の常として、レオナルドには観察と空想を難なく結びつける能力があり、それが『見えているもの』と『見えていないもの』とを結びつける、思いがけない発想の飛躍につながった。『有能な人は、誰にも撃てない的を撃つ。天才は誰にも見えない的を撃つ』と書いたのはドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウアーだ。創造的天才は『他者と違った考え方をする』ため、ときには社会のはみ出し者と見なされる。しかしスティーブ・ジョブズが作らせたアップルの広告に、こんな言葉がある。『彼らをいかれた連中と見る者もいるかもしれないが、われわれは天才と見る。なぜなら、世界を変えられると思うほどいかれた人々だけが、世界を変えるからだ』」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「レオナルドの才能の際立った特徴は、その普遍性だ。歴史を振り返れば、レオナルドより深みのある、あるいは論理的な思想家は存在したし、はるかに有益な実績も残した者も多い。しかしこれほど多くの分野で創造性を発揮した者はいなかった。音楽におけるモーツァルト、数学におけるオイラーなど特定の分野の天才はいる。しかしレオナルドの才能は多数の分野にまたがっており、それが自然界に存在するさまざまなパターンや相反する力を見抜く能力につながった。好奇心に突き動かされ、この世界の知りうることすべてを知り尽くそうとした人物は、人類史上数えるほどしかいない」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「もちろん飽くなき探究心を持った博識家はたくさんおり、ルネサンス期だけでもルネサンス人と呼ぶにふさわしい人材は他にも輩出された。しかし『モナリザ』という傑作を描くかたわら、多数の解剖に基づいて比類なき解剖図を制作し、川の流れを変える方法を考案し、地球から月への光の反射を説明し、まだ動いている豚の心臓を切開して心室の仕組みを解明し、楽器をデザインし、ショーを演出し、化石を使って聖書の大洪水を否定し、その大洪水を描いてみせた者はいない。レオナルドは天才だったが、それだけではなかった。万物を理解し、そこにおける人間の意義を確かめようとした、普遍的知性の体現者である」

 

「訳者あとがき」では、訳者の土方奈美氏が、以下のように述べています。
「レオナルドはスティーブ・ジョブズのヒーローだった。時代を超えるイノベーションを生み出す条件は、レオナルドが生きた500年前も今も、実はさほど変わらない。自分の専門分野というサイロにとらわれず、失敗を恐れず、好奇心の赴くままに境界を超えていくことだ。それが『天才』と呼ばれる人々を追い続けたアイザックソンの結論ではないか」

 

土方氏は、次の興味深いエピソードも披露しています。
「本書はハリウッドの大物スター、レオナルド・ディカプリオ主演で映画化されることが決まっている。そもそもディカプリオがレオナルドと命名されたのは、母親が妊娠中にフィレンツェウフィツィ美術館ダ・ヴィンチの絵を鑑賞していたときに、赤ん坊がお腹を蹴ったからだという。自らの名前の由来となった人物を演じるのだから、さぞ気合いが入ることだろう。『レオ様』演じるレオナルド、大いに楽しみである」
最後の一文が効いていますね。ディカプリオといえば、ブログ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」で存在感満点の演技を見せてくれましたが、彼がダ・ヴィンチ役をやるとは、これは最高に楽しみです!

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ 上

レオナルド・ダ・ヴィンチ 上

 
レオナルド・ダ・ヴィンチ 下

レオナルド・ダ・ヴィンチ 下

 

 

2019年10月19日 一条真也

ラグビーと互助会

一条真也です。
17日の午後、東京から北九州に戻りました。
18日、早朝から松柏園ホテルの神殿で月次祭が行われました。

f:id:shins2m:20191018080405j:plain月次祭のようす

f:id:shins2m:20191018081523j:plain玉串奉奠を行う佐久間会長

f:id:shins2m:20191018081605j:plain
わたしも玉串奉奠を行いました

f:id:shins2m:20191018081827j:plain一同礼!

 

皇産霊神社の瀬津神職が神事を執り行って下さいました。
祭主であるサンレーグループ佐久間進会長に続いて、わたしも玉串奉奠を行いました。わたしは、社業の発展と社員のみなさんの健康を祈願しました。

f:id:shins2m:20191018083203j:plain天道塾のようす

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神事の後は、恒例の「天道塾」を開催しました。
最初に佐久間会長が訓話を行いました。会長は、冒頭で台風の話題に触れ、故郷である千葉県の被害について語りました。それから「神の草」と呼ばれるマコモ、日本民俗学や心身医学の志がわが社に受け継がれているとして、「サンレー哲学」というものを提唱しました。そして、その大きなヒントとして茶道の存在を挙げました。

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わたしが登壇しました 


続いて、わたしが登壇して、講話を行いました。わたしはまず、全互連のクアラルンプール研修についての報告を行いました。特に、アジア最大の葬儀会館とされる「富貴生命館」について詳しく話しました。

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東京五輪ラグビーW杯について

 

それから、東京オリンピックのマラソンの札幌移転問題についての私見を述べ、ブログ「ラグビーのような社会へ」で紹介したように、ラグビーワールドカップの話をしました。日本中が、ラグビーW杯の話題で持ちきりです。今後も11月2日まで熱い戦いが繰り広げられます。開催前は「サッカーならいいけど、ラグビーのW杯ねぇ」と今一つ興味が湧かなかったわたしも、世界の強豪チーム同士の熱い闘いに、「ラグビーとは、これほど面白いスポーツだったのか!」と見方が一変しました。

f:id:shins2m:20191018092155j:plain北九州市の「おもてなし」について 

 

強豪ウェールズ北九州市で事前キャンプを行い、地元の子供たちがウェールズ聖歌を歌うなどして歓迎しました。この粋な演出による北九州市の「おもてなし」に、ウェールズの選手や関係者は深い感銘を受けたといいます。9月28日には、日本は世界ランク2位(当時)のアイルランドから大金星を挙げました。ラグビーは番狂わせが起きにくいとされていますが、日本は前回大会で南アフリカを破ったのに続き、再び優勝候補からの金星です。

f:id:shins2m:20191018092203j:plainワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン! 

 

ラグビーという競技は、「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」という思想に支えられています。「一人は全員のために、全員は一人のために」と訳されることが多いです。由来は古代ゲルマン人の言い伝えなど諸説あります。19世紀半ばのアレクサンドル・デュマ著『三銃士』で、青年ダルタニアンと意気投合した三銃士が結束を誓う言葉として出てくるのが有名です。同時期の空想的社会主義者、エティエンヌ・カベーのベストセラー『イカリア旅行記』の表紙にも登場しますが、この言葉は、相互扶助の思想として社会にも影響を与えました。

f:id:shins2m:20191018093251j:plain「相互扶助」は人類の本能です!

 

「相互扶助」は人類の本能です。ダーウインは1859年に『種の起源』を発表して有名な自然選択理論を唱えましたが、そこでは人類の問題はほとんど扱っていませんでした。進化論が広く知れわたった12年後の1871年、人間の進化を真正面から論じた『人間の由来』を発表します。この本でダーウインは、道徳感情の萌芽が動物にも見られること、しかもそのような利他性が社会性の高い生物でよく発達していることから、人間の道徳感情も祖先が高度に発達した社会を形成して暮らしていたことに由来するとしたのです。そのような環境下では、お互いに助け合うほうが適応的であり、相互の利他性を好むような感情、すなわち道徳感情が進化してきたのだというわけです。

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クロポトキンの『相互扶助論』について

 

ロシアのヒョードルクロポトキンは一般にはアナキストとして知られていますが、ロシアで革命家活動を終えたのち、亡命先のイギリスで1902年に『相互扶助論』を書きました。クロポトキンによれば、きわめて長い進化の行程のあいだに、人類の社会には互いに助け合うという本能が発達してきたといいます。近所に火事があったとき、人々が手桶に水を汲んでその家に駈けつけるのは、隣人しかも見知らぬ人に対する愛からではありません。愛よりは漠然としていますが、しかしはるかに広い互助の本能が人間を動かすというのです。

f:id:shins2m:20191018092527j:plain互助会から互助社会へ!

 

「相互扶助」という考え方は、多くの人々が少額を出し合って万一に備える保険業や、わが社・サンレーのような冠婚葬祭互助会業の根本理念にもなっています。そもそも互助会の「互助」とは「相互扶助」を縮めたものなのです。日本的伝統と風習文化を継承し、「結」と「講」の相互扶助システムが人生の二大セレモニーである結婚式と葬儀に導入され、互助会を飛躍的に発展させる要因となりました。そして、これからは「互助会から互助社会へ」の時代です。

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グリーフケアの現代性について

 

「相互扶助」という人類普遍のコンセプトを形にし、「人間尊重」の思想を実現することが、わが社をはじめとした、すべての互助会のミッションであると思います。ラグビーチームのような社会が本当に実現したら、これ以上に素晴らしいことはありません。そして、それにはグリーフケアという営みが深く関わってきます。

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グリーフケアの時代へ!

 

グリーフケアこそは、日本民俗学や心身医学の志を現代的な形で実現するものであり、そこには哲学もサイエンスも信仰も人間愛も道も、すべてが含まれています。さらに、わが社ではそこに「楽しみ」の要素を加えるべく、「笑い」や「歌」といった新しいグリーフケアの形を提唱しています。「これからも、グリーフケアの実践と普及を目指す集団として前進しましょう!」と述べてから、わたしは降壇しました。

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最後は、もちろん一同礼!

 

2019年10月18日 一条真也

『教養としての世界史の読み方』

教養としての「世界史」の読み方

 

一条真也です。
17日の午後、東京から北九州に戻りました。
『教養としての世界史の読み方』本村凌二著(PHP研究所)を読みました。著者は、早稲田大学国際教養学部特任教授、東京大学名誉教授。博士(文学)。1947年、熊本県に生まれる。1973年、一橋大学社会学部卒業。1980年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。東京大学教養学部教授、同大学院総合文化研究科教授を経て、現職。専門は古代ローマ史。『薄闇のローマ世界』でサントリー学芸賞、『馬の世界史』でJRA賞馬事文化賞、一連の業績にて地中海学会賞を受賞。


本書の帯

 

本書の帯には「養老孟司氏、推薦!」と大書され、「我々が積み重ねてきた『歴史』が、『現在』とどうかかわりあうのか。新しい読み方を教えてくれる」「古代ローマ史研究の第一人者による、はじめての世界史講義」と書かれています。


本書の帯の裏

 

 

帯の裏には、以下のように書かれています。
「文字が開発され、人類の文明史が始まって5000年が経ちました。しかし、その期間の4000年は古代だったのです。とくにローマ帝国に流れこむ地中海世界の歴史は人類にとって計り知れない意味をもっています。この地中海世界の文明史を基軸にしながら世界史を見渡せば、たんなる鳥瞰図とは異なる『世界史の読み方』ができるはずです。(「はじめに」より)」

 

カバー前そでには、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と大書され、「経験というのは、個人の体験でしかないので、自ずとその範囲も規模も限定されてしまうが、歴史は、少なくとも過去五千年にわたる文明史の、あらゆる人々の経験の集大成なので、故人の経験より遥かに多くのことを学ぶことができる」という「序章」の言葉が引用されています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。
「『混迷の現代』を読み解くカギは『歴史』の中にある。古代ローマ史研究の第一人者によるはじめての世界史講義。教養としての『世界史』の読み方とは、『歴史に学ぶ』ということ、『過去と現在との関わり合いを知る』ということ。東京大学教養学部で28年間、教鞭をとった著者が教養として世界史をどう読むかを教える1冊。文明の発祥、古代ローマとの比較史、同時代史、民族移動、宗教、共和思想・・・・・・、世界史を読み解く上で大切な視点を新説や持論を織り交ぜて、わかりやすく、面白く講義する」 

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

序章  「歴史に学ぶ」とは何か?
――愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

第1章 文明はなぜ大河の畔から発祥したのか
――文明の発達から都市国家と民主政の誕生まで

第2章 ローマとの比較で見えてくる世界
――ローマはなぜ興隆し、そして滅びたのか

第3章 世界では同じことが「同時」に起こる
――漢帝国ローマ帝国孔子と釈迦

第4章 なぜ人は大移動するのか
――ゲルマン民族モンゴル帝国大航海時代から難民問題まで

第5章 宗教を抜きに歴史は語れない 
――一神教はなぜ生まれたのか

第6章 共和制から日本と世界の違いがわかる
――なぜローマは「共和制」を目指したのか

第7章 すべての歴史は「現代史」である
――「今」を知るために歴史を学ぶ

「おわりに」序章

 

序章「『歴史に学ぶ』とは何か?」では、「グローバルスタンダードの『教養』とは何か」として、著者は以下のように述べています。
「国際人として、いえ、それ以前に社会人として、教養は語学力以上に大切です。国際社会でも通用する教養を身につけたい。そう思ったときに問題になるのが、国際社会における『教養』とは何か、つまりグローバルスタンダードの『教養』とは何か、ということです。これについては、異なる意見をお持ちの方もいるかもしれませんが、私はグローバルスタンダードの『教養』は、『古典』と『世界史』だと思っています。長い年月にわたって、多くの人に読み継がれてきた文芸や思想の作品である『古典』には、時代が大きく変化してもなお変わることのない、人間社会の普遍的な真理が詰まっています」

 

また、「なぜ人は『歴史に学ぶ』ことができないのか」として、著者は述べます。
「なぜ人は歴史に学ぶことが難しいのか、ということについても深く考えました。そして気づいたのが、『人間は見たいものを見るのであって、現実そのものを直視する人は少ない』ということでした。いくら知識を詰め込んでも『歴史に学ぶ』ことができないのは、現実から『意味』を見いだすことができていないからです。歴史から『意味』を汲み出すことができれば、それがいい意味であれ、悪い意味であれ、人は学びを得ることができるのだと思います」

 

さらに、著者は以下のように述べます。
「歴史の中に潜む意味や教訓は、わかりやすいところにばかりあるわけではありません。よくよく考えたときに初めて見えてくるものがとても重要なこともあるのです。そして、そうした隠れた意味や教訓は、事実そのものを直視して、真摯に歴史と向き合わないと見えてこないものなのです。これが、人々が歴史に学ぶことがなかなかできない理由なのだと私は思います」

 

戦争と平和 完全版

戦争と平和 完全版

 

 

歴史を学ぶことについて、著者は「トルストイが『戦争と平和』を書き上げたのは、彼を批判した歴史家に対するアンチテーゼとしてであり、この作品を通して、歴史家に『どうだ、読んでもらえる歴史というのは、こうやって書くものなんだ!』と言いたかったのでしょう」と指摘し、さらには「トルストイの痛烈な歴史家批判」として、「トルストイの『戦争と平和』は、確かに読んで面白いものです。しかし、大まかな歴史の流れは押さえているものの、やはりあれは小説、面白く作られたフィクションです。フィクションと比べれば、歴史家が書くものは面白くないかもしれません。それでも歴史家が書いたものには、彼らが真摯に向き合った人類の経験が、最も史実に近い形で詰まっているのです。その価値は、フィクションとはまったく違ったところにあるものだと思います」と述べています。

 

「『教養』を身につけるための7つの視点」として、著者は、歴史哲学を味わう7つのポイントを提示します。「この7つの視点は日本人が苦手とする内容です。なぜなら学校であまり教えてくれないものだからです。しかし、グローバルスタンダードの『教養』を身につけるには必須のことだと思います」と述べます。「7つの視点」は以下の通り。
(1)文明はなぜ大河の畔から発祥したのか
(2)ローマとの比較で見えてくる世界
(3)世界では同じことが「同時」に起こる
(4)なぜ人は大移動するのか
(5)宗教を抜きに歴史は語れない
(6)共和政から日本と西洋の違いがわかる
(7)すべての歴史は「現代史」である

 

第1章「文明はなぜ大河の畔から発祥したのか」では、アフリカ大陸を流れるナイル川流域に栄えた「古代エジプト文明」、西アジアのティグリス・ユーフラテス川流域で発展した「「メソポタミア文明」、インドのインダス川流域で興った「インダス文明」、東アジアの黄河流域の「黄河文明」の4つ、いわゆる「四大文明」を取り上げます。「『四大文明』が通用するのは日本人だけ」として、著者は以下のように述べます。「最近、『四大文明』という言い方はあまりされなくなっています。なぜなら、四大文明のほぼ同時期や、もっと古い時代に、ほかにいくつもの文明があったことが明らかになり、最近ではそれが常識的な知識として広く認知されるようになっているからです。それに、この『四大文明』という歴史用語を使うのは、実は日本だけなのです。日本が近代化し、世界史という学問が成立していったとき、世界の文明発祥時期に大きな文明が4つあることがわかっていたことから、当時の学者がそれらを『四大文明』という形で総称するようになったのです。そのため、『四大文明』という言い方は世界ではほとんど通用しません」

 

では、そもそも文明とは何か。「文明発祥に必須な条件は?」として、著者は以下のように述べています。
「文明発祥に必要な条件とは? 何をもって文明というのか、いわゆる文明の定義には、いろいろな意見があると思いますが、よく言われるものの1つに『文字の発明と使用』があります。先ほどの四大文明でも、メソポタミアでは楔形文字古代エジプトではヒエログリフインダス文明ではインダス文字、そして黄河文明では漢字のもととなった甲骨文字が、それぞれ発明・使用されています。でも日本は、大陸から漢字が伝来するまで文字を持たなかったためか、太古の歴史区分に土器の名称が用いられているためか、日本人は文明の発祥と聞くと土器の使用を思い出します。もし文明と土器がそれほど密接に結びついているのなら、世界最古の土器が出土したところが世界最古の文明が生まれた場所だということになります。では、その世界最古の土器が出土した場所とはどこなのか。実は日本がその1つなのです」

 

また、文明の発祥について、著者はこうも述べています。
「乾燥化と、それに伴う人々の水辺への集中が、なぜ文明発祥に繋がるのかというと、少ない水資源をどのようにして活用するか、ということに知恵を絞るからです。つまり、環境的に恵まれなくなったから文明が生まれた、と言っても過言ではないのです。
まず、人の生存に欠かすことのできない『水』が非常に大きなファクターとなり、人口が一カ所に集中することで、それまで小さな村ぐらいでしかなかった集落が都市的な規模になる。その結果、水争いを防ぐための水活用システムが生まれ、そうしたことを記録する必要から文字が生まれたのです。実際、古代の記録は、取引記録など実務的なものが多く見られます。文字は必要だから生まれてきたのですから、なぜ必要になったのか、ということを追究するには、何が記録されているのかを見るのが一番です」

 

さらに、「恵まれた環境に文明は生じない」として、著者は述べます。
「乾燥化が文明発祥の大本にあったということがわかれば、なぜいち早く土器を生み出した日本が、なかなか『文明』と言える段階に至らなかったのかが見えてきます。それは、日本では乾燥化が起きなかったからです。大きな文明が生まれたところというのは、大河があるものの、その周りは乾燥化が進んでいます。しかし、日本は島国であるにもかかわらず、水がとても豊かです。自然環境に恵まれ、乾燥化が起こらなかった日本では、人口の集中も起きず、少人数の集落で安定した社会が長く営まれていたと考えられます。実際、縄文時代は1万年もの長きにわたっています。日本がなかなか『文明』という段階に至らなかったのは、水が豊かすぎて水活用すステムを作る必要がなかったから、そして、人口の集中が起きなかったからだと考えられます」

 

第2章「ローマとの比較で見えてくる世界」では、その冒頭を、著者は「『ローマの歴史の中には、人類の経験のすべてが詰まっている』そう語ったのは、政治思想史学者の丸山眞男氏でした。これはローマの歴史が、興隆、発展、安定、衰退という、いわゆる文明の起承転結の過程が非常にはっきりしているからだと思います。しかもその起承転結は、人の一生になぞらえられるほどドラマチックなのです。長大な『ローマ人の物語』で名高い作家の塩野七生さんは『ローマ史は世界史のブランド品』と語っています」

 

ポリュビオス 歴史〈1〉 (西洋古典叢書)

ポリュビオス 歴史〈1〉 (西洋古典叢書)

 

 

「ローマは、なぜ帝国になりえたのか――ギリシアとローマの違い」として、ポリュビオスの『歴史』を取り上げます。この本にはローマ貴族の葬礼について述べた文章があるのですが、そこで彼は以下のように、とても面白い考察をしています。
「偉業を成し名を上げた人々の肖像が一堂に並び、まるで生命を吹き込まれたかのような姿を見せているそのありさまを見て、恍惚としない者がいるだろうか。これに勝る光景がいったいどこにあり得よう(『歴史』より)」

 

これは、葬礼の場で、親族が死者そっくりの仮面をつけて現れたのを見たときの驚きを述べたものですが、ポリュビオスがこれほどまでに驚き、「これに勝る光景はない」とまで言った理由について、著者(本村氏)はこう述べます。
「この光景を目にしたときポリュビオスは、ギリシア人は公よりも個を大切にするが、ローマ人は個よりも公共の安泰を重んじる。なぜ、ローマ人はこれほどまでに公共を重んじることができるのか、という謎の答えに気づいたからなのです。ポリュビオスは、ローマ人が公共を重んじるのは、若者の頃からこうした感動的な葬儀を経験することで、『たとえ死んだとしても、その英雄的功績はこうして永遠に語り継がれるのだ』という思想的刷り込みが行われているからだ、と考察しています」
ローマにおける「感動的な葬儀」には心を動かされました。これからも、可能な限り、調べてみたいと思います。

 

第3章「世界では同じことが『同時』に起こる」では、「『ザマの戦い』と『垓下の戦い』は、同じ前202年に起きた」として、著者は以下のように述べています。
始皇帝(前239~前210)の建てた秦帝国は彼一代で崩壊しています。アレクサンドロス大王の帝国も、彼の死と共に分裂してしまいました。ですから永続的な世界帝国という意味では、やはり世界史の中では、ローマ帝国漢帝国が冠たるものなのです。そして、その世界史初の世界帝国の誕生が、期せずして前202年に、西と東で同時に起きているのです」

 

しかし著者は、ローマが帝国としての条件を整えたのは、第二次ポエニ戦争の勝敗を決定づけたザマの戦い(前202)において、ローマがカルタゴに勝利したときだと考えているそうです。その理由について、「なぜならザマの戦いこそが、ローマのその後の運命を決めた、まさにターニングポイントだからです。そういう意味で、私はローマ帝国が誕生したのは、ザマの戦いに勝利した前202年だと考えています」と述べています。

 

さらに著者は、「西でローマが、その覇権を確定したのとちょうど同じ前202年、ユーラシアの東、現在の中国で、似たような事件が起こっています。垓下の戦いです。これは四面楚歌のエピソードで知られる項羽(前232~前202)と劉邦(前256~前195)の決戦です」と述べるのでした。これが垓下の戦いですが、項羽の死という決定的な勝利が、漢帝国の誕生を決定づけたのです。つまり前202年は、漢帝国ローマ帝国という、東西ユーラシアにおける世界帝国が、ほとんど同時に出現するという、非常に珍しいことが起こった年なのです。この共時性は、とても興味深いですね。

 

ローマ帝国漢帝国を襲った『三世紀の危機』」として、著者はローマ帝国で皇帝が乱立すると、民衆のあいだには、もう誰がなっても変わらない、という投げやりな空気が漂ったと指摘し、こう述べます。
「人々が政治に期待しなくなった中、社会的不安を抱えた民衆が心の拠り所としたのがキリスト教でした。イエスが磔になったのが紀元30年頃、それから五賢帝の時代まではローマのキリスト教徒はほとんど増えていません。いなかったわけではありませんが、その数は人口の僅か1%以下。それが230年頃から、急激に増えているのです。つまり、ローマにキリスト教が普及したのは、軍人皇帝の時代における社会的不安の増大が大きく関係していたのです」

 

著者は、時代の共時性について、もう1つの例を挙げます。
ソクラテスゾロアスターウパニシャッド、釈迦、孔子の枢軸時代」として、以下のように述べています。
「前1000年紀にも、非常に興味深い同時代性が見られます。それは、思想の誕生です。当時の文明先進地域であるギリシア、オリエント、インド、中国で、ほぼ同時に思想や哲学が生まれているのです。ギリシアではホメロスからイオニア自然哲学を経て、ソクラテスプラトンに代表されるギリシア哲学が生まれ、オリエントでは、エレミヤなど旧約聖書に登場する多くの預言者が輩出され、現在のイラン辺りでは拝火教の始祖ゾロアスターが生まれています。インドではウパニシャッド哲学が出現し、少し遅れて仏教の開祖・釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が誕生しています。そして中国では、孔子老子を筆頭に諸子百家と称されるほど多くの思想家が輩出されています」

 

 

 また、著者は以下のようにも述べています。
「20世紀のドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883~1969)は、この時代に着目し、それを『Achsenzeit/枢軸時代』と呼びました。彼が『軸』と称したのは、この時代に花開いた思想が、どれもその後の人類の思想の基本となるものだからです。私は、このことは前2000年紀に起きた文字と一神教と貨幣の誕生と切り離して考えられるものではないと思っています」
ヤスパースの唱えた「枢軸時代」については、拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)でも詳しく紹介しました。

 

さらに、著者は以下のように興味深い発言をしています。
「現在の歴史学では、アルファベットと一神教の登場と貨幣の誕生というのは、それぞれ別々に取り上げられているので気がつかないのですが、私には、これらはどれも、当時の人間の考え方の同じところに根ざしているものと思えてなりません。そして、この前2千年紀後半からのシンプリフィケーションの動きがあったからこその、枢軸時代の到来なのではないかと思うのです」
わたしも、著者の考えとまったく同じであることを告白します。

 

教養としての「ローマ史」の読み方

教養としての「ローマ史」の読み方

 

 

第4章「なぜ人は大移動するのか」では、「民族移動がもたらす価値観の対立が国家を揺るがす」として、著者は以下のように述べます。
「ローマ人というと、キリスト教を弾圧したというイメージがありますが、実はローマは信仰に対して非常に寛容で、征服地でも『おまえたちがおまえたちの神を信じるのは自由だ』と常に認めてきました。これはキリスト教に対しても同じだったのです。私はこのことについては、これまでもいろいろな著書で述べているのですが、寛容なローマがキリスト教を弾圧するようになった最大の理由は、キリスト教徒たちが『キリスト教以外の神々はニセモノだ。そんなものを信じてはいけない』と主張したからなのです」

 

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

 

 

第5章「宗教を抜きに歴史は語れない」では、ブログ『神々の沈黙』で紹介した名著を取り上げ、「かつて人は神々の声に従って行動していた」として、著者はこう述べます。
プリンストン大学の心理学教授ジュリアン・ジェインズは、著書『神々の沈黙――意識の誕生と文明の興亡』(『The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind』/紀伊國屋書店)で、3千年前の人類は、実際に神々の声を聞き、その通りに行動していたということを、ホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』の記述をひもときながら検証しました。そしてジェインズは、こうした神々の声が聞こえていた時代を『二分心/Bicameral Mind』の時代と称しました」

 

「神」について、著者は以下のように述べます。
「人間は「文明」と呼べるものができる以前から、宗教的習慣を持っていたことが考古学的研究によって明らかになっています。でも、人間以外の動物には神も宗教もありません。そう考えると、神は人間が脳を発達させた結果、手にしたものの1つだと考えることができるわけです。
では、人間にとって神とは何なのでしょう。
私は、人間にとって神とは一種の『理想』だと思っています。人間というのは、理想に近づこうとする宿命のようなものを背負っています。行動するときに、実際その通りにできるかどうかは別として、理想的な行動をしようとするのもそのためです。つまり宗教とは、人間が神という理想に近づくための方法を示すものだといえるのです」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「宗教は迷信として片づけられるものではなく、脳を発達させた人類の宿命のようなものなのではないか、そう考えていた私には、ジェインズの二分心はまさに古典の文献に即してしっくりくるものだったのです。神々を心の中で身近に感じていたので、古代人の作品には神々が生き生きと描かれているのです。彼らにとって神々は神話や空想ではなく、もっと肌身に迫ってくるものだったのです」

 

さらに、著者は「人はなぜ唯一神を必要としたのか」として、こう述べています。
「私は、この『神々の声が聞こえなくなった』ことが、同時期に起きた一神教の登場と深く関わっているのではないかと考えています。つまり、神々の声が聞こえなくなってきたことで、人間は自ら考えて、指針を持たなければならない状況に陥ったのです。そこで人間が生きる指針としてつくり出したのが全知全能の唯一神なのではないか、ということです。そう考えると、同時代性のところでも触れましたが、ヤスパースが枢軸時代と名づけたこの時期に、優れた思想家が世界各地で登場した謎も解けるのです」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「神々の声が聞こえていたとき、人間は『生きる指針』など必要ありませんでした。聞こえてくる神々の声に従えばよかったからです。神々の声が聞こえなくなったからこそ、人は絶対的な神を必要とし、物事を判断するために思想を必要としたのではないでしょうか。つまり、神託や占いと同じように、唯一神も、思想も、聞こえなくなってしまった『神々の声』の代用品だった、ということです」

 

ユダヤ教VSキリスト教VSイスラム教―「宗教衝突」の深層 (だいわ文庫)

ユダヤ教VSキリスト教VSイスラム教―「宗教衝突」の深層 (だいわ文庫)

 

 

神や宗教というと、すぐ「対立」や「戦争」を連想する人がいますが、著者は「イスラム教対キリスト教という構図の嘘」として、以下のように述べます。
イスラム原理主義者のせいで、イスラム教は怖いというイメージが蔓延してしまいましたが、イスラム教の聖典である『コーラン』を読むと、その教えが決して恐ろしいものではないことが分かります。イスラム教は弱者救済的な面が強く、有名な一夫多妻にしても、その背景にはお金持ちが孤児や父無し子を救済するためのものという一面もあると言われています。弱者救済は、『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、『コーラン』にもある、3つの一神教すべてに共通する倫理的な教えです。3つの一神教は、そういう親近性と言えるものを持っているのですから、本来なら相互に対決すべきものではないはずなのです」
このあたりは、拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)で詳しく述べています。よろしければ、お読みください。

 

キリスト教のトップは、カトリックの総本山と言われるバチカンローマ教皇です。「ローマは欧米人の自負心の源である」として、著者は以下のように述べています。
ローマ教皇がなぜ広く尊敬を集めているのか、不思議に感じる日本人もいるようですが、実は欧米人にとって、『ローマ』は今も特別な存在なのです。ローマは、あれほど広大な地域を、あれほど長いあいだ平和に治めた大国であるだけでなく、欧米人にとってはルーツなのです。そのためローマは、欧米人の自負心の源であると同時に理想でもあるのです。欧米ではこうした意識を『ローム・イディ(Rom idee)』と言います」

 

ローム・イディ」と言う言葉は、日本ではほとんど知られていません。敢えて訳すとすれば、「ローマ的理念」あるいは「ローマ的理想」と言えるとして、著者は、「要するに、キリスト教世界の精神的な拠り所になっている、その根底にローマがあるのです。ローマ帝国が滅んでから今に至るまで、欧米、特にヨーロッパ人の心にはこうした思いが根強く生きているのです。極端な言い方をすれば、ヨーロッパ人の心の奥底には、今もローマの再現、つまり『ローマによる世界統合を目指す』という意識があるのかもしれません」と述べています。

 

第7章「すべての歴史は『現代史』である」では、「すでに第三次世界大戦は始まっている」として、著者は以下のように述べています。
「今、世界で何が起きているのか?
これは非常にショッキングな表現ですが、私はすでに第三次世界大戦は始まっていると見ています。これまで『第三次世界大戦』というと、核兵器保有する国同士が周囲の国々を巻き込みながら敵対し、互いに原爆や水爆を打ち合うような戦争がイメージされていました。これは、1962年に起きたキューバ危機が影響しています。しかし、キューバ危機から半世紀以上経った今、そんなことをしてしまったら人類が滅亡しかねないことを多くの人が知っています。そのため、人々が自覚しないうちに世界における『戦争の形』が変わってきているのではないかと思うのです。世界各地で多くの犠牲者を出しているゲリラ戦やテロ、これこそが、第三次世界戦争の形のような気がします」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「興味深いのは、モラルが低下していくとともに、人々が優しくなっていく傾向が見られることです。これは見方を変えれば厳しさの欠如であったり、優柔不断とも言えるのですが、退廃にむかう社会では人は自分にも他人にも優しくなっていくのです。今の日本も、必要以上に優しい社会になってきているような気がします。でも、これは本当の意味での優しさではありません。本当の優しさは、自分というものをきちんと持った人が、周りに対して示す寛容さです。人間社会は繁栄すると必ず退廃していく。歴史はそのことを物語っていますが、われわれ人類は、まだどうすればこの問題を解決できるのかという学びは得られていません」
世界史研究の第一人者が書いた本でかって、本書は説得力に富んでおり、「世界史」と言葉がいかに「教養」や「リベラルアーツ」に近いがよく理解できました。歴史の奥深さ、面白さを教えてくれる一冊です。

 

教養としての「世界史」の読み方

教養としての「世界史」の読み方

 

 

 2019年10月18日 一条真也

『江戸の読書会』

江戸の読書会 (平凡社ライブラリー)

 

一条真也です。
『江戸の読書会』前田勉著(平凡社ライブラリー)を読みました。「会読の思想史」というサブタイトルがついています。著者は1956年、埼玉県生まれ。東北大学大学院博士後期課程単位取得退学。現在、愛知教育大学教授。博士(文学)。専攻、日本思想史。 

f:id:shins2m:20190922173706j:plain本書の帯

 

カバー表紙には、「聖堂講釈図・寺子屋図」(東京大学史料編纂所所蔵模写)のうち、会読の様子の部分が使われています。帯には「読書会が日本近代化のタネ!」と大書され、続いて「読書会=会読は、身分制社会のなかではきわめて特別な、対等で自由なディべートの場だった。そこに、近代国家を成り立たせる政治的公共性の揺籃をみる思想史の傑作!」と書かれています。

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
儒学の学習のために始まった読書会=会読は、すぐに全国にひろがり、蘭学国学塾でも採用された。それは身分制社会のなかではきわめて特異な、自由で平等なディベートの場、対等な他者を受け入れ競い合う喜びに満ちた『遊び』の時空でもあった。そこで培われた経験と精神は、幕末の処士横議を、民権運動の学習結社を、近代国家を成り立たせる政治的な公共性を、準備するものでもあった―。具体的な事例をたどり、会読の思想史を紡ぐ傑作!」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第一章 会読の形態と原理

第二章 会読の創始

第三章 蘭学国学

第四章 藩校と私塾

第五章 会読の変貌

第六章 会読の終焉

「おわりに」

付論 江戸期の漢文教育法の思想的可能性

   ――会読と訓読をめぐって

平凡社ライブラリー版 あとがき」

 

自由民権 (岩波新書 黄版 152)

自由民権 (岩波新書 黄版 152)

 

 

「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「明治の自由民権運動の時代は『学習熱の時代』であった、と評したのは、民衆思想史のパイオニア色川大吉である。1880年代、現在、名前が判明しているだけでも、2000社を超えるという全国各地の民権結社では、演説会や討論会が催され、国会開設の政治的な活動をするばかりか、定期的な読書会も開かれ、政治・法律・経済などの西欧近代思想の翻訳書を読み合い、議論を闘わせた。この時代の民権結社のほとんどは「学習結社的な性格」を備えていたのである(色川大吉『自由民権』、岩波新書、1981年)。断髪して間もない武士や町人・農民たちは、演説会や読書会のなかで西欧近代の自由や平等の思想を学び、自らの頭で新しい国家のあるべき姿を考え、その組みとなる憲法の草案をも作っていった」

 

また、著者は以下のように述べています。
「西欧の法律学や経済学の書物を読んだり、政治的な演説や討論をしたりすることは、江戸時代以来の共同読書=会読の場での経験を抜きにしては考えられないだろう。むしろ、そうした経験・伝統があったからこそ、西欧の新しい学問や演説などのパフォーマンスを受けいれることができたのではないか。本書では、この会読する共同読書会が江戸時代のいつごろ生まれたのか、そして、その後、私塾や藩校のなかでどのように展開し、水戸藩藤田東湖長州藩吉田松陰らの志士たちが、尊王攘夷や公議輿論を唱え、藩や身分の枠を飛び越えて横議・横行する幕末にいたったのか、さらに、明治の新しい「学制」のもとで全国各地に建てられた小学校や、自由民権期の学習結社にどのように受け継がれていったのか、を明らかにする」

 

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

 

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「換言すれば、儒学の書物の読書会のなかから政治的な討論の場が現れてくる過程を明らかにすることをめざしている。その意味で、本書は会読という観点からする、江戸から明治への政治・教育思想史の試みである。このような共同読書会から政治的な討論の場への変化は、よく知られたドイツの政治哲学者ユルゲン・ハーバーマスの公共性の問題ともつながっている。ハーバーマスは、18世紀ヨーロッパ世界に、サロンやコーヒーハウスのなかで文芸作品について議論し合う文芸的公共性がうちたてられ、そのなかから、政治的論議を通して、国家と対抗する政治的公共性が現れてくると論じていたからである」

 

市民結社と民主主義 1750‐1914 (ヨーロッパ史入門)

市民結社と民主主義 1750‐1914 (ヨーロッパ史入門)

 

 

さらに、著者は以下のように述べています。
「このハーバーマスのテーゼをうけて、読書会の役割を強調しているのは、シュテファン=ルートヴィヒ・ホフマンである(『市民社会と民主主義』、山本秀行訳、岩波書店、2009年)。ホフマンによれば、18世紀から19世紀にかけて、西欧世界には読書サークルが生まれてくるという。絶対王政の時代、自由と平等を求めた人々が、読書サークルという自発的な結社を作るのである。ホフマンによれば、『ロジェ・シャルチエが強調するように、ヨーロッパのどこでも、そうした読書サークルや協会の会員たちは、たとえ身分が違っていたとしても、おたがいに平等であった。彼らは、より文明化されたふるまいの高いレヴェルに到達しようと、お互いに協力しあうことを望み、国家の枠をこえる新しい社会空間を創りだした。そうした新しい社会空間では、ヨーロッパの啓蒙思想のテクストや理念が流通し、批判的に論議された』という。こうした空間は、読書協会やフリーメイソンの会所のようなネットワークばかりか、コーヒーハウスやサロンのような非公式の形態の社交として、ヨーロッパ世界全体に広がっていた」

 

論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)

 

 

第一章「会読の形態と原理」では、1「江戸時代になぜ儒学は学ばれたのか」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「江戸時代には、『論語』や『孟子』などの儒学経書を読むこと、すなわち読書することがイコール学問だった。この時代、儒学関係の書物のほかにも、仏教書・神道書・兵学書などの硬派の書物から、商売・農業などのハウツーものの実用書、さらに浮世草子黄表紙・読本などの軟派の書物まで、多種多様の書物が木版出版された。もちろん、軟派のほうは、もっぱら娯楽のために読むのであって、学問するとはいわない。やはり、学問は高尚なものである。その点、天下国家を治める政治と自己一身を修める道徳を教える儒学書の読解は、文句なく学問そのものだった。江戸時代、そんな堅苦しい儒学書を、武士ばかりか、町人や百姓までもが熱心に読み、学問に励んだという現象は注目されてよい」

 

孝経 全訳注 (講談社学術文庫)

孝経 全訳注 (講談社学術文庫)

 

 

また、「立身出世のための学問――中国・朝鮮」として、中国や朝鮮では儒学を学ぶことによって立身出世ができたことを指摘し、著者は以下のように述べています。
「もともと儒学では、「身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終りなり」(『孝経』)とあるように、立身出世は自分の名誉ばかりか、立派な息子を生み育てた両親の名誉として世間に広く光りかがやき、親孝行を成し遂げるものだ、と称揚されていた。中国や朝鮮では、高級官僚になることがその立身出世の最終の目標だった。基本的には万人に開かれた官吏登用試験である科挙が、これを制度的に保障していたのである。つまり、儒学を学び、全国統一試験である科挙に合格することによって、めでたく高級官僚となり、社会的名誉と富を得ることができたのである。これが中国や朝鮮における儒学普及の最大の理由である」

 

科挙のない国の学問」として、著者は述べます。
「江戸時代の儒学を考えるにあたって、まず押さえておかねばならないことは、江戸幕府が、学問することを名誉や利益から動機づける科挙を実施しなかったという点である。後に述べるように、18世紀終わりごろ、寛政年間に、幕府でも素読吟味や学問吟味を行い、科挙に似た制度を作るが、それは官吏登用のためというよりは、学問奨励のための便法にすぎなかった。これに合格したからといって、ある程度の名誉は得られたかもしれないが、栄達の道が一挙に開かれたわけではない。家老の息子は家老、下級武士の子は下級武士であって、いくら勉強して学問に励んでも、中国や朝鮮のように、高級官吏になるチャンスが訪れるわけではなかった。そのため、江戸後期になっても、たとえば、京都の町儒者猪飼敬所(1761-1845、宝暦 11-弘化2)は、次のような切実な質問を弟子から受けざるを得なかった」

 

江戸時代、儒学を学んでも何の物質的利益もあるわけではありませんでした。しかし、だからこそ、純粋に朱子学陽明学を学び、聖人を目指したともいえるとして、著者は以下のように述べます。
儒学を学んだからといって、経済的・社会的なメリットはなかったにもかかわらず、儒学を学ぼうとしたのは、それだけ、聖人への希求が強かったといえるだろう。それは、厳格なタテの身分秩序のなかでの平等への願望だと言い換えてもよい。しかし、それゆえに『矛盾・軋轢・衝突』を引き起こさざるをえなかったのである。儒学を学んだ、もう1つの理由は、いつの日か、政治を担うチャンスが訪れることを夢見て、経世済民の事業を練り上げることを自己の使命と考えていたからだろう。もともと儒学には、修己(道徳)と治人(政治)の2つの焦点があるが、聖人になることを目指した藤樹や梅岩が、前者に傾いていたとすれば、聖人になることを否定し、朱子学の『自信過剰の説』を木端微塵に粉砕した荻生徂徠(1666―1728、寛文6―享保13)は、後者の側面を強調したといえる」

 

よく知られているように、江戸時代には藩校をはじめ、私塾や寺子屋といった教育機関がありました。それらの違いについて、著者は「私塾・藩校と寺子屋」として、「もともと江戸時代、武士教育の藩校と百姓・町人たち庶民教育の寺子屋とは、別系統の機関だった」と述べています。寺子屋では会読が行われていませんでした。寺子屋においても、読みの場合、儒学のテキストの素読が行われるような場合はありましたが、主なテキストは、商売往来、百姓往来などの往来物でした。そのうえ、上級者向けの学習方法である会読まで行うことは、6~8歳に入学して、2、3年間の短い就学期間では、ほとんど不可能だったと、著者は指摘しています。

 

日本の学校 (1964年) (岩波新書)

日本の学校 (1964年) (岩波新書)

 

 

では、藩校の場合はどうだったか。藩校教育は、明治になって西欧の学校体系を受け容れる際の基盤として、著者は日本教育史研究者が「啓蒙学者たちによって西洋各国の「学校」という教育機関が明治の日本人に新しく紹介されたとき、それを理解し、まがりなりにもこれをこなすことができたのは、この藩立の武士の学校の伝統があったからといっても過言」ではなく、後に述べるように、一斉授業、試験や日常成績によって進級を決定する等級制、学校体系を初等から高等へと序列をつけて編成する考え方、固定した小教場で授業をするという形態などは、すでに藩校のなかで行われていて、「幕末の藩校は、多くの点で欧米近代国家の学校のそれと大差のないところまできていた」のである(勝田守一・中内敏夫『日本の学校』、岩波新書、1964年)と指摘していることを紹介します。

 

近代日本の学校の起点となった明治5年(1872)の「学制」もまた、その教育方法という点からいえば、会読=輪講を採用しています。同じく『日本の学校』では、「同時代の日本人が輸入された西洋の近代学校のなかに藩校を読みとり、後者の精神で前者を同化するようになっていったのは、しごく当然のなりゆきであった」と述べられています。

 

童子問 (岩波文庫 青 9-1)

童子問 (岩波文庫 青 9-1)

 

 

第二章「会読の創始」では、1「他者と議論する自己修養の場――伊藤仁斎の会読」として、著者は以下のように述べています。
「日本に限っても、いつごろから会読が行われるようになったのであろうか。すでに戸時代以前に、孔子を祀る釈奠の後に、儀礼的に行われた『講論』あるいは『論議』が、会読(ことに輪講)の淵源であるといえるかもしれない。もしそうだとすれば、平安時代にその起源を求めねばならないだろう。ほかにも、仏教寺院のなかでも、教義に関する『講論』が行われていた。しかし、これらは、会読のいわば前史ともいうべきものである」

 

また、「五経の会読――同志会」として、著者は伊藤仁斎の会読について述べています。
「欲望を否定して『世俗』から離脱するのは、山林にこもる禅宗のような異端に陥ってしまうことではないか。そう考えて、仁斎は「世俗」に舞い戻り、『論語』『孟子』を徹底的に読みぬくことで、自己の学問を模索しはじめるのである。その成果が、死ぬまで改定し続けた『論語古義』『孟子古義』である。この模索の初めごろ、仁斎は同志たちと『会読』をしていた。仁斎の『古学先生文集』のなかには、五経の『会読』をしたと自ら述べている箇所がある。『嘗て同志と五経を会読す』(『古学先生文集』巻三、詩説、寛文三年五月)。それによれば、仁斎は『同志』とともに、『詩経』から始めて、『書経』『易経』『春秋』『周礼』『儀礼』『大戴礼』の順で、読んでいった。仁斎は、徂徠よりも前に、寛文年間(1660年代)すでに『会読』を行っていたのである」

 

 

『古学先生文集』巻一に収録されている別の書簡「片岡宗純に与ふる書」によれば、当時、「五経の会読」は、すでに『詩経』『書経』を終えて、『易経』まで進んでいたこと、少なくとも仁斎のほかに2人、しばしば会をもって「討論」していたこと、さらに、仁斎がみなから推されて「進講」していたことが知られることを紹介し、著者は以下のように述べます。
「『世俗』に戻った仁斎が、『同志』とともに『五経の会読』を行ったのは、儒学の根本テキストを読み直して、儒学の根源的な理解を目指そうということだろう。ただ、この時点では、自己のよるべき経書として『論語』『孟子』に行き着く確信がなかったので五経を読んだという面もあったろう。しかし、それ以上に注目すべきは、『世俗』に立ち帰ってきた仁斎が、独り部屋に閉じこもってする孤独な読書ではなく、『同志』とともに共同の読書=『会読』を行うようになった点である」

 

 

もともと、孔子の弟子會子は、「君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔く」(『論語』顏淵篇)と、文事によって朋友を集め、朋友によって仁の徳を助け合いました。著者は、「朋友は五倫の1つであるが、他の四つ、君臣、父子、夫婦、兄弟がタテの関係であるのにたいして、唯一、ヨコの関係である。同志会の目的は、朋友お互い同士が道徳的修養を目的として集まり、書物を読み合う会であった。議論し合って善に導く会であり、そのために、経書を学び合うものであったといえる」と述べています。

 

フランス文学者の清水徹氏によれば、「最上至極宇宙第一の書」(『童子問』巻上)と位置づけた『論語』の注釈書『論語古義』、仁斎が何度も書き換えたこの書について、その稿本作業については単独で行っていたと思われるが、その中身、発想は書生との輪講のなかで培われたものなのではないか、と指摘しています。かつて仁斎研究者の石田一良氏も、仁斎はそうした同志会による研究と著作の態度を一生持ち続けていたと指摘しました。

 

仁斎は、自己と異なる他者と「議論」する「会読」=輪講という共同読書のなかに、自己修養をするという積極的な意義を見出していたとして、著者はこう述べています。
「これを可能にするのは、もともと同志的なつながりが、『一切の世俗の利害』とは異なる関係であったからである。お互い同士が『善有れば之れを勧め、過ちあれば之れを規し、患難相恤れみ、憂苦相愍れむ、務めて衆人の心を以て心と為し、各々一家同仁の徳を尽くさんと欲す』る(「同志会籍申約」)、このような聖賢を志す『同志』の結びつきは、『一切の世俗の利害』とは別の、思いやりに満ちた『仁』の世界だった。その意味で、同志会のつながりは、『人と我と、体を異にし気を殊にす』る人々が、お互い思いやりながら、『己が意見と異なる者に従ひ、己を全てて心を平かにし、切劘講磨』し合う、仁斎にとって『畢竟愛に止まる』『仁』(『童子問』巻上、四五章)の理想態だったのである」

 

 

 伊藤仁斎に続いて荻生徂徠を取り上げた著者は、2「諸君子の共同翻訳――荻生徂徠の会読」として、以下のように述べます。
「会読問題においても、徂徠が大きな転換点であったことは間違いない。後の時代、『本邦にても会読之初めは、徂徠より始候と承り及申候』と見なされるほど、徂徠以後、会読は流行現象となったからである。徂徠以後の江戸後期には、さまざまな場所でさまざまな人々によって、会読の形をとった読書会が叢生する。この点については後に見ることにして、ここでは、徂徠がなぜ会読という形式の読書会を推奨したのかについて考えてみよう。それはまた、前節の仁斎学同様に、会読を焦点として徂徠学を読み直す試みでもある」

 

徂徠は「東を言われて、西について納得する」という言葉を残しました。一見、わかりにくい言葉です。東を言われて、東を納得するというのであれば、当たり前ですが、徂徠によれば、東を言われて反対側の西がわかるというのです。ここには、徂徠の2つの考えが内包されているとして、著者は述べます。
「1つは、他者の異論によってはじめて自己を認識できるという考えである。逆にいえば、自己自身を認識するためには、西を『合点』するためには、異質な他者、東に接しなくてはならないというのである。朋友との会読による討論は、そうした機会を与えてくれる絶好の場となるだろう」

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「徂徠によれば、人それぞれは生来の性質にしたがって、顔が異なるように、所見を異にしている。自己の見解は多様な意見の1つにすぎない。『聖人之道は甚深広大にして、中々学者之見識にてかく有べき筈の道理と見ゆる事にてはなき事』『徂徠先生答問書』巻下)だからである。だが、自己の意見をかたくなに信じるだけで、他者の意見と接しなければ、自分がわからないということさえわからない。それゆえに、他者に問うことが大事であり、朋友との切磋琢磨が求められるのである」

 

もう1つの「西の合点」に含意する内容は、自分自身で納得することの重要性です。著者は、「われと合点すること」として、「徂徠は、疑いを持ち、自らで考え、『自身ニわれと合点』することを強調した。異論と接する会読は、『合点』する前提となる疑いを抱く機会を与えてくれるのである。徂徠が講釈を批判したのも、この点にかかわっている」と述べています。経書を読む場合も同じです。わかりやすくしようとして、返り点や送り仮名をつけた訓読法で読むべきではなく、漢字がずらずら並んだ無点本で読むべきだというのです。

 

書物について、著者は以下のように述べます。
「無数の書物は何も説明しない。われわれの前に投げ出されている。疑問を持ち、こちらから問いかけなければ、何も語らない。もともと、聖人の道とは『物』(『弁名』巻下)であった。徂徠にとって、『物』とは六経であった。易・書・詩・春秋・礼・楽の六経を読むということは、『物』と格闘することを意味していたのである。『物』は、こちらから問いかけ、考えることによって、はじめてその意味を見出すことができる。『論語』の『憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず』(述而篇)の重要性もここにあるという」

 

著者は、別な観点からも徂徠の会読について考えます。
「翻訳のための読書会」として、以下のように述べています。
「何のための読書=学問かという問題である。『聖人学んで至るべし』をスローガンにする朱子学にとって、読書は聖人になるための『格物窮理』のもっとも重要な方法だった。ところが、徂徠は『聖人は学んで至るべからず』(『弁道』)と断じる。徂徠にとって聖人は、治国平天下のために道を作為した、堯・舜・禹などの古代中国の先王たちであって、人々が学んで到達できるような道徳的な完璧者ではなかった。徂徠は、『普通の俗人でも聖人になれるとする自信過剰の説』(ドーア)の思い上がりを粉微塵にしてしまうのである」

 

さらに、著者は以下のように述べています。
「徂徠によれば、『世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る』(『学則』)のであって、言語は時代とともに変遷し、しかも、経書は異国の言語、中国語で書かれている。この時間的・空間的な差異を無視して、日本では、奈良時代吉備真備以来、レ点や一二点などの返り点や送り仮名をつけて『和訓廻環』(『訳文筌蹄初編』巻首)する訓読法によって古代中国のテキストを読んできた。そのため、テキストの異質性を意識しないまま、自分勝手に解釈してきた。そう考える徂徠は、中国語のテキストを中国語の原音(口語)によって読んで、それを異質な言語である日本語に翻訳することを目指した。その意味で、徂徠において読書とは『訳』であった」

 

徂徠は「訳社」という名前のグループを結成しましたが、これは翻訳することを目的とする結社でした。著者は述べています。
「この訳社の参加者には、太宰春台、安藤東野、荻生北渓らのほかにも、肥前滝津寺の大潮、宮城大年寺の香国らの僧侶も混じっていた。この点、仏教を『異端』として排斥し、佐藤直方のように、僧侶と書簡を交わす事さえ嫌った闇斎学派とは対照的である。訳社の参加者は、儒学とか仏教とかの学問・宗教(信条)の違いを超えて、翻訳するという一点で結ばれていたのである。その意味で、訳社は、道徳的な修養とは無関係の、あくまでも翻訳のための結社であった。それは、『聖人の道』を志し、立派な聖人になるために皆が励むような道徳的な修養団体ではなく、中国語を翻訳し、文章を学び合うために会読する自発的な結社だったのである」

 

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

 

 

3「遊びとしての会読」として、著者は会読という活動の中に「遊び」の要素を見出し、「ルールと異次元空間」として、以下のように述べています。
「仁斎の同志会では、はじめ『先聖・先師の位前』に跪き、拝礼して、『会約』を読んだという。われわれから見れば、こうした仰々しい行為は、『日常生活の流れの外にあるものを作り出そうとする』(ホイジンガ)試みであったといえるだろう。そのため、『講論の間』、以下のような事柄が禁じられていた。嬉笑遊談、人の聴聞を駭かすこと、大いに扇を揮い、座中を騒がすこと、それに加えて、『一切の世俗の利害、人家の短長、及び富貴利達、飲味服章の語」は、もっとも厳しく戒めるべきこととされていた』」

 

著者は、「この「先生・先師の位前」への拝礼は、「世俗」の利害関心から切り離された異次元の空間を作り出さすための儀式だったと指摘し、「仁斎をはじめとする同志たちは、これを真面目に仰々しく行ったのであろうが、これを第三者の立場から見れば、なんとも不思議な光景だったろう。孔子などという異国の人を尊崇し、『論語』は『最上至極宇宙第一の書物』だと評価する仁斎とその仲間たちの行為は、まわりの人々から見れば、尋常ではなかったろう」と述べています。

 

会読とはつまるところ人が集まる行為であり、寄合に似ています。しかし、「寄合と会読」として、著者は以下のように述べます。
「寄合は村落共同体の話し合いであるのにたいして、会読は自発的な任意の結社のなかでの討論であったことは重要である。寄合参加者は、村から抜け出ることはできないが、会議であれば、やめることができる。仁斎の堀川塾(古義堂)でも、徂徠の蘐園塾にしても、嫌になれば、行かない自由もあった。ところが、地縁・血縁が複雑に絡み合っていた村ではそうはいかない。この点でも、会読と寄合との違いは明らかである。ちなみに、福沢諭吉が『本にては昔の時代より、物事の相談に付き人の集りで話をするとき、其談話に体裁なくして兎角何事もまとまりかね』ると批判して『会議弁』を著した時、そこで変革すべきものとして想定しているのは、村の寄合であった」

 

孔子家語 (岩波文庫)

孔子家語 (岩波文庫)

 

 

第三章「蘭学国学」の1「会読の流行」では、「江戸・上方での流行と地方への普及」として、大坂の学問所懐徳堂の周辺でも、後に寛政異学の禁に際して主導的な役割をはたすことになる、尾藤二洲、頼春水、古賀精里らの若き朱子学者たちが、「風俗の漸く靡薄なる」のことを慨嘆し、「俱に時学の為むるに足らざるを悟り、奮然として志を立て、力めて正学を講ずる」ために、朱子学関係のテキストを会読していたことが紹介されます。江戸・大坂の大都市だけでなく、地方にも会読は普及していました。豊後国東の地で独創的な条理哲学を樹立した三浦梅園が、明和3年(1766)正月に作った「塾制」にも、毎月1・5日には会読をすることが記されています。この梅園の教えを受けた杵築城下の富商たちは、『孔子家語』の会読をしていました。

 

徂徠学派の会読は読む会読でした。読む会読は難解な書物を共同で読むことをめざしています。衆知を集めて、難解な書物を共同研究(共同翻訳)するわけですが、『文会雑記』には、徂徠学派のなかの代表的詩人である服部南郭が記されており、そこには「屠竜の技」という言葉を使われています。「屠竜の技」とは『荘子』の語(列禦寇)、世に用のない名技を意味する。著者は述べます。
「もともと『儀礼』は、冠婚喪祭の儀礼の細かい所作を記述するだけに、儒学経書のなかでも、とりわけ難解な書物である。かりにそれを読解したとしても、世の中に何の役にも立たない。しかし、『誠ニ竜ヲ屠ル伎ナレドモ、好古ノクセニテ』、『儀礼』注釈を試みるのだという。すでに、古注(鄭玄注・賈公彦疏)や朱子儀礼経伝通解』はあるが、明代の科挙でもなお、『礼記』は古注を使っているなかで、あえて注釈を行うのだという」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「ここには、『儀礼』という難解なテキストだからこそ、そして、本家本元の中国でも蔑ろにされている、『外ノ方ニナキコト』だからこそ挑戦しようとする、並々ならぬ意欲が認められるだろう。『文会雑記』にはまた、『儀礼』の会読のなかで、人形を使ったと記している(巻一上)。もともと書物の記述のみでは、儀礼の所作について具体的なイメージをつかむことは難しい。そのために、儀礼の場面を人形によって再現して、その立ち位置や歩く順序などを検証したのであろう。大の大人が、人形を囲んで、『儀礼』テキストにはこうあるからこう動いたのだ、いや違う、ここはこうだ、と侃々諤々と討論している様子は、なんとも異様な、ほほえましい光景だったろう」
ここに書かれていることはあまりにも興味深いので、わたしも今後、「屠竜の技」としての『儀礼』について、いろいろ調べてみたいと思います。

 

具体的に、読む会読は、徂徠学派以後、どのように展開したのでしょうか。大きく言えば、2つの方向があったとして、著者は以下のように述べています。
「1つは蘭学、もう1つは国学の方向である。この2つは、文献実証主義という点で重なり合うところがあるが、前者はオランダ語原書を会読したのにたいして、後者は『古事記』『日本書紀』『万葉集』といった古代日本のテキストを会読した点で異なっているし、テキストにたいする態度・スタンスにおいても差異があった。蘭学の場合、徂徠が『鳥鳴獣叫の如く、人情に近からざる者』であって『解し難き語』(『訳文筌蹄初編』巻首)であるとしたオランダ語に挑戦し、翻訳することを目指している。蘭学者たちは、徂徠が先鞭をつけた外国書翻訳のための読書会のなかで、より難しい書物に挑戦してゆくことになるのである。これにたいして、国学の場合、古代日本のテキストの読解、たとえば、全編漢字で書かれた『古事記』を大和言葉に翻訳する本居宣長の『古事記伝』の試みが難事業であったことは疑いないが、たんにそれのみにとどまらず、国学者たちはそこで明らかにされた古代日本の人々の生き方を学び、真似て、そこに自己の生きる拠り所を求めた」

 

古事記伝 1 (岩波文庫 黄 219-6)

古事記伝 1 (岩波文庫 黄 219-6)

 

 

 3「自由討究の精神――国学の会読」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
蘭学と並ぶ、18世紀の新思潮、国学もまた会読の場のなかで生まれてくる。国学の大成者である本居宣長(1730―1801、享保15―享和1)もまた、会読を経験していた。伊勢国松坂の商人小津家の子であった本居宣長は、生まれつき商売の才能がなく、優雅な王朝世界を憧憬する文学青年であった。母かつはそうした宣長の性向を見極めて、漢方医の修業のため京都に遊学させたのだが、その遊学中、徂徠とも親しかった堀景山の塾で、宣長は会読を行っていたのである」

 

また、「宣長の会読論」として、著者は述べます。
「当時の『在京日記』を見ると、宣長は、『易経』から始めて五経素読をするとともに、宝暦2年(1752)5月に、『史記』と『晋書』の会読にも出席している。これ以後も、宣長は堀塾では、『春秋左氏伝』や『漢書』の会読に参加するとともに、医学の師武川幸順のもとで、『本草綱目』や『千金方』の会読をし、さらに宝暦5年(1755)9月からは5と10の日に、岩崎栄良、田中允斎、塩野元立、清水吉太郎らの友人と、自主的に『荘子』の会読をしている。京都時代の宣長は、ほぼ会読によって勉学しているのである。景山のような儒者ばかりか、江戸の国学者賀茂真淵(1697―1769、元禄10―明和6)の県居門でも、会読を行っていた。たとえば、江戸十八大通の一人で歌人でもあった村田春海(1746―1811、延享3―文化8)は、師の真淵の会読に参加していた」

 

そして、「共同で検証される『発明』=真理の歓び」として、こう述べるのでした。
「読む会読の場は自己の『発明』を出し合い、生きた痕跡を残すことのできる創造的な場であったといえるだろう。蘭学者にしても、国学者にしても、民間で自主的な会読をしたのは、こうした場が身分制度の社会とは異なる、知的刺激に充ちた空間だったからである。そもそも、生きた痕跡を残したいという思いは、身分制度のもとで自己の才能を伸張させることのできない者たちのものであった。生まれたときから生き方が決まっていた彼らは、『草木とともに朽ちる』ことを拒否して、日常性のマンネリズムから飛び出し、知的創造を遂げることのできる会読の場に集まってきたのである」

 

第五章「会読の変貌」の4「吉田松陰と横議・横行」では、「松陰の会読修業」として、著者は「松陰の松下村塾の教育が生徒1人1人の個性を伸ばすものであったことは、よく知られている。会読はそのなかで中心的な位置をしめていた。しかもそれは、堅苦しい藩校の会読=輪講とはずいぶん様相を異にする自由闊達な会読だった」と述べています。また、久坂玄瑞が師の松陰に宛てた書簡を引用し、「車座どころか、米を搗きながらの会読とは、なんとも破天荒である。松陰はこうした会読を、松下村塾のなかで、はじめて行ったわけではない。萩郊外に松下村塾を開くずっと以前から、同志を集めて自発的・自主的な読書会を開き、切磋琢磨し合っていたのである」と述べます。

 

吉田松陰 (岩波文庫)

吉田松陰 (岩波文庫)

 

 

松陰の会読について、著者は以下のように述べています。
「松陰は会読における勝負を求めるからこそ、読まねばならない書物の多さに圧倒されたのである。さすがの松陰もこのような状況で、読書意欲の減退を嘆かざるをえなかった。嘉永4年(1851)12月に藩の許可なく決行した東北旅行は、国防の見地から日本全国を実地調査するという目的があったにせよ、こうした『僅かに字を識り候迄』の読書の壁を一挙に越えようとする行動であったといえるだろう。各地の名士に会い、議論することで、文字の経索に汲々とする読書以上の何かを期待したのではなかったかと思われる。実際、松陰は東北旅行のなかで水戸藩の会沢正志斎や豊田天功らと交流し、文字の読書では得られないものを学んでいった。徳富蘇峰によれば、『旅行は、実に彼[松陰]の活ける学問』だった(『吉田松陰』初版、1893年)」

 

 

近世私塾の研究

近世私塾の研究

 

 

 また、「獄中の輪講――『講孟余話』」として、著者は述べます。
嘉永7年(1854)2月、松陰は、下田沖に停泊していたペリーの乗船するポーハタン号(外輪フリゲート艦)に密行しようとして失敗し、獄中の人となった。ところが、この困難な状況のなかでも、松陰は数多くの書物の抜録をしながら(『野山獄読書記』によれば、総計618冊余)、独りで読む看書ばかりか、共同読書である会読を積極的に行っていった。安政2年(1855)、萩城下の野山獄の獄中で、『孟子』の講義とともに、交代に講義し合う会読である輪講の形式で『孟子』を読みはじめたのである。野山獄は1室3畳ほどの小部屋が左右に6室ずつ、合計12室並んでいたが、1室に集まって、自由に議論を闘わせたらしい(海原徹『近世私塾の研究』)。松陰の代表的著作『講孟余話』はこの輪講の成果であった」

 

あらゆる本が面白く読める方法: 万能の読書術

あらゆる本が面白く読める方法: 万能の読書術

 

 

 この野山獄での会読については拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)の中でも詳しく紹介しましたが、著者は以下のように述べています。
「野山獄での会読は、江戸遊学中で経験した、文字の穿鑿に汲々とする会読とは全く異なっていた。そのことは、次にあげる当代の読書人にたいする批判からもうかがわれる。今の読書人は、朱子の集注から逸脱すれば『異端雑学』だ、天下国家を憂慮し、攘夷を論ずれば『麤豪』だ、と非難する。しかし、結局は小心翼々たる人物に過ぎない(『講孟余話』巻四中)。松陰の求める人物は、たんなる本の虫ではなく、ましてや粗暴な野人でもない。『孟子』テキストを眼前の政治と人心に引きつけ、主体的に学んでゆく読書であり、そのための会読だった」

 

第六章「会読の終焉」の1「明治初期の会読」では、「対等性原理の実現」として、著者は以下のように述べています。
「『学制』実施時に、それまで藩校内で行われていた会読=輪講の学習方法が、新設された小学校に採用されたことは、思想史的にみて画期的な意義をもっている。というのは、会読の対等性の原理が、ここにいたって、ようやく実現できたからである。もともと、会読は対等性を原理にしていたとはいえ、江戸後期に会読=輪講が採用された藩校では、会読の範囲は武士に限定されていた。藩校入学は、百姓・町人には許されていなかった(道徳的な教化のために講釈を聴聞することはできたが、武士と対等に討論することなどできなかった)。ところが、明治の四民平等の理念のもとに、『邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期』され義務教育化した小学校では、『華士族農工商及婦女子』の『一般人民』の子弟は平等に輪講の授業を受け、学力を競争し合うようになった。それが国家の教育政策として実行されたのである」

 

増補 試験の社会史 (平凡社ライブラリー)

増補 試験の社会史 (平凡社ライブラリー)

 

 

もちろん、輪講の制度化は、また一方で、生徒間の競争を導入することであった点は留意すべきであるとして、著者は以下のように述べます。
「『学制』の規定『生徒及試業』によれば、生徒は必ず等級を踏んで進級することが必要であり、一級(6ヶ月)ごとに試験をうけ、合格書が渡され、これがなければ進級できないとしている。逆にいえば、試験に合格しなければ、いつまでも原級に留まらなくてはならなかった。『学制』のもとでは、ただぼんやり在学しただけで自動的に進級できるわけではなかったのである。しかし、そうだとしても、『自分の能力をためす、開かれた実力競争の場』でめった試験によって、『昨日まで机をならべて勉強することのできなかった農民や町人の子どもが、武士の子弟と対等に学力を競いあい、かれらを打ち負かすこともできる』学校はまさに、『四民平等』の理念が、最初に実現されたところであった」(天野郁夫『増補試験の社会史』)ことは間違いない」

 

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

 

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「競争と試験を導入した『学制』は、先に見た金沢藩明倫堂のような身分制度のもとでの藩校では、抑えられ、ゆがめられ、妥協せざるをえなかった会読=輪講の場での『実力』原理を徹底し、会読の対等性の原理を実現したという意味で、大きな飛躍だったのである。ちなみに、明治初期の大ベストセラー、福沢諭吉の『学問のすゝめ』(初編、1872年刊)と、サミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ』を翻訳した中村敬宇の『西国立志編』(第一冊、1870年刊)の2冊は、こうした『実力競争』に飛び込み、立身出世をめざす人々を動機づけるものであった。この2人が、これまで見てきたように、幕末期の会読のなかで鍛えられたことは偶然ではない」

 

西国立志編 (講談社学術文庫)

西国立志編 (講談社学術文庫)

 

 

付論「江戸期の漢文教育法の思想的可能性――会読と訓読をめぐって」では、「漢文教育の方法」として、著者は以下のように述べています。
「江戸時代、漢文教育の方法には3つありました。素読、講釈、会読です。このうち、素読と講釈については、ご存じかと思いますので省きます。江戸時代には、素読と講釈のほかに、会読という日本独特の読書方法がありました。会読は、15歳ごろから講釈と併行して、あるいは、その後に行われた上級者の教育方法です。素読を終了し、ある同程度の学力のついた上級者が、『一室に集って、所定の経典の、所定の章句を中心として、互いに問題を持ち出したり、意見を闘わせたりして、集団研究をする共同学習の方式』(石川謙『学校の発達』)です」

 

 

また、論講について、以下のように述べています。
輪講は7、8人、多くて10人弱の生徒が1グループとなり、籤などで、その日の順番を決めて、前から決められていたテキストの当該箇所を読んで、講義をします。その後に、他の者がその読みや講述について疑問をだしたり、問題点を質問したりします。講者はそれらに答えて、積極的な討論を行う。これを順次、講義する箇所と人を代えて繰り返していくもので、先生は討論の間、終始、黙っていて、意見が対立したり、疑問がどうしても解決しなかったりしたときに、判定をくだすにすぎません。基本的に生徒同士の切磋琢磨が求められているのです。この会読は、いわば車座の討論会でした」

 

会読には、3つの原理がありました。第1の原理は、加賀藩の規則に見られるような、参加者お互いの「討論」を積極的に奨励するという相互コミュニケーション性です。第2の原理は、「討論」においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとで行うという対等性です。第3の原理は、読書を目的として、期日を定め、一定の場所で、複数の人々が自発的に集会するという結社性です。このような3つの原理(相互ミュニケーション性・対等性・結社性)をもつ会読が、江戸時代、広く行われるようになった理由として、著者は「会読の場が『門閥制度』の身分制社会のなかで異空間であったからだ」と述べています。

 

続けて、著者は会読について、「そこは、凡庸な生を拒否して、何かこの世の中に生きた痕跡を残そうとした者たちが、車座になって、対等な関係のもとで、『討論』し合い、同志的なつながりを持てる場だったのです。もう1つ、会読流行の理由として強調しておきたいことは、会読の場が一種の遊びの場だったという点です。1冊のテキストを共同して討論しながら読むということ自体、大人の遊びではなかったかと思われます」とも述べています。

 

会読における「遊び」の要素について、著者は述べます。
「この遊びという点でいえば、会読が日本独特だったことが重要です。科挙の国である中国や朝鮮には、こうした討論し合いながら共同で書物を読み合う、会読の方法はありませんでした。江戸時代の日本は、読書が立身出世につながる中国や朝鮮と異なって、立身出世の望めない身分制社会だったからこそ、成果とはかかわらずに、あたかもスポーツのゲームのように楽しむことができたのです。物質的・社会的な利益がなかったからこそ、逆説的ですが、会読は成立できたのです。そして、遊びの会読だったからこそ、朱子学一尊主義の中国や朝鮮と異なって、この会読の場から個性的で多様な学問も生まれることができたといえるのではないでしょうか」

 

そして、著者は以下のようにまとめるのでした。
「江戸時代の漢文教育方法である会読と訓読法は、幕末から明治にかけて、身分制社会を超える可能性をもっていた、革新的で、清新なものだったという点です。漢文教育というと、忌憚なく申しますと、どこか古めかしいイメージがつきまといます。ところが、今日、お話ししてきたように、福沢諭吉のいう親の仇だと非難された『門閥制度』の江戸時代のなかで、儒学、広く漢文を学ぶことは、『草木と同じく朽ち』たくはないと願う、強い意志をもった者たちの生きがいであり、対等な立場で討論し合う会読の場は、そうした者たちの才能を発揮する、遊びの場でした。遊びというと少し語弊があるかもしれませんが、物質的・社会的な利益とは無縁な場で、自らを高める自己啓発の場だったと言い換えることができるでしょう。身分の違い、地域の違いを超えて、対等な立場で学び合う会読と、身分の尊卑を意識させる敬語を排除した訓読文体は、幕末から明治にかけて四民平等の理念を体現する、きわめて清新で革新的なものだったのです」

 

平凡社ライブラリー版 あとがき」で、本書に国内外からの反響があったことを紹介し、著者は「思うに現代社会に生きる人々が職場や地域・家族とは異なる場で、人と人とのつながりを求めているからなのだろう」と推測し、さらには以下のように述べています。
「書物を媒介にした交流の場である読書会が、そうした期待に応える場であることは間違いない。もし本書に、メリットがあるとすれば、それは、江戸時代に、この読書会が会読という共同読書法によって盛んに行われていた事実を再発見したことである。本書で縷々論じたように、江戸時代は上下のタテの身分制社会だった。そのなかで、身分や年齢を不問にして、対等な立場で討論し合いながら共同読書する読書会が、18世紀以降、全国各地、至る所で行われていた。会読による読書会は、身分制社会のなかにあって、自由で平等な空間だったからである」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「しかし、会読は身分制社会のなかに生まれたがゆえに、四民平等を標榜し、学問による立身出世が可能となった明治時代になると、自由民権運動の学習結社の最後の輝きはあったが、急速に滅びていった。明治以降の近代日本社会は立身出世主義のはびこる競争社会であり、現代もなおそこから逃れることはできない。だが、競争社会に息苦しさを感ずる現代人にとって、参加者が自由に語り合える読書会は、日常生活とは別次元の社交の場であることで、積極的な意味を持っている。江戸時代の会読がこの現代の読書会に蘇ることになれば、私にとって、これ以上の喜びはない」

 

愛読の方法 (ちくま新書)

愛読の方法 (ちくま新書)

 

 

本書には、わたしが知らなかったことが多く書かれており、大変勉強になりました。儒学の学習のために始まった読書会=会読が全国にひろがり、その対等で自由なディベイトの経験と精神が明治維新を準備した史実は感動的ですらありました。何よりも、『論語』に対する伊藤仁斎、『古事記』に対する本居宣長の姿勢に深い感銘を受けました。ブログ『愛読の方法』で紹介した本とともに、新しい読書論のアイデアが浮かんできました。仁斎の『論語』、宣長の『古事記』に加えて、真淵の『万葉集』、松陰の『孟子』を取り上げ、彼らを江戸時代における四大「愛読者」として論じてみたいと思います。

 

江戸の読書会 (平凡社ライブラリー)

江戸の読書会 (平凡社ライブラリー)

 

 

2019年10月17日 一条真也

「1939年映画祭」のお知らせ

一条真也です。
昨日から、東京に来ています。
今朝、寒くて震えながら目覚めました。
16日は10時から全互協の正副会長会議、12時から理事会、14時から「消費者契約法改正に向けた説明会」に参加しました。その後は出版関係の打ち合わせをしました。そんな中、「1939年映画祭」のポスターができました。ブログ「友引映画館」で紹介したように、わが社では互助会の会員様や高齢者の方向けに無料の映画上映会を行っていますが、ついに映画史に残る三大名作を上映いたします。

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1939年は映画史における奇跡の年でした。西部劇の最高傑作「駅馬車」、ラブロマンスの最高傑作「風と共に去りぬ」、そしてミュージカルおよびファンタジー映画の最高傑作「オズの魔法使い」の3本が誕生したからです。その3つは、すべて、その年のアカデミー賞を受賞しています。そして、それぞれが現代作品にも多大な影響を与え続ける、名作中の名作たちが今年で製作80周年を迎えました。この3作を愛してやまないわたしは、わが社のコミュニティセンターの施設数がこのたび80となったことを機に、「1939年映画祭」を開催することにいたしました。ぜひ、名作中の名作たちをお近くの紫雲閣の大スクリーンでご鑑賞下さい!

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駅馬車

個性豊かな9人の乗客を乗せた駅馬車が走る中で繰り広げられる西部劇。乗客それぞれのエピソードを盛り込みながら、ダイナミックなアクションと圧倒的なスピード感で圧巻のストーリーを展開。音楽、カメラワーク、キャスト、どれを取っても大変素晴らしく、アメリカの西部劇映画を語る上で欠かせない名作であり、映画史を代表する傑作です。1939年2月15日に公開し、批評家から大絶賛され、興行的にも大成功しており、この年のアカデミー賞には7部門にノミネートされ、助演男優賞(飲兵衛医者を演じたトーマス・ミッチェルに)と音楽賞をそれぞれ受賞しています。本作のクライマックスとなるシーンは、アクション映画史上不朽の名場面となっていて、1995年にアメリカ国立フィルム登録簿にも登録されています。現在も高い評価を受け続けており、映画史上に残る不朽の名作として知られています。映画批評家らを対象にした過去の作品のランキングや投票では必ずと言っていいほど上位にランキングされています。

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風と共に去りぬ

南北戦争前後のアメリカ南部を舞台に、戦争によって社会制度が崩壊していく激動の時代、貴族の生まれであるスカーレット・オハラの半生を、彼女を取り巻く人々とともに描いたドラマです。1936年6月に出版されたマーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』が世界的ベストセラーとなり、そして、出版の翌月には映画製作者のデヴィッド・O・セルズニックが映画化権を獲得し、その後3年の歳月と当時の金額で390万ドルの製作費をかけて全編で3時間42分という大長編映画を完成させ、1939年12月15日にワールドプレミアとして初公開して空前の大ヒットとなりました。1940年のアカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)、助演女優賞ハティ・マクダニエル・黒人俳優初)、脚色賞ほか特別賞を含め9部門を受賞しています。

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オズの魔法使

知らない人はいないという程知名度が高く、日本でも馴染みのある本タイトル。カカシ、ライオン、ブリキの木こり、愛犬のトト、そして主人公であるドロシーが共に旅をする成長物語。大人から子どもまで楽しむことができ、奥行きのあるストーリー展開が魅力です。1939年のアカデミー賞で作品賞を含む5部門にノミネートされ、作曲賞(ハーバート・ストサート)、歌曲賞(「虹の彼方に」)、特別賞(ジュディ・ガーランド)を受賞している童話ミュージカルの代表作です。そして、驚くことに監督のヴィクター・フレミングは今回の上映ラインナップにある「風と共に去りぬ」で監督賞・作品賞を受賞しています。 


死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

わたしは、この三大名作が同時期に生まれたことから、1939年を映画の全盛時代と考えています。また、これだけの名作の80周年を祝う記念上映をどこの映画館も行わないことから、わが社のコミュニティセンターでブルーレイ上映することを決意した次第です。もちろん、各作品の上映許可は正式に取っております。なお、「風と共に去りぬ」と「オズの魔法使」についての熱い想いを『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)に書きました。未読の方は、ぜひ、ご一読下さい。いや~、映画って本当にいいもんですね!

 

2019年10月16日 一条真也