『怖ガラセ屋サン』

怖ガラセ屋サン (幻冬舎単行本)

 

一条真也です。
『怖ガラセ屋サン』澤村伊智著(幻冬舎)を読みました。著者には、ブログ『ぼぎわんが、来る』ブログ『ずうのめ人形』ブログ『ししりばの家』ブログ『恐怖小説 キリカ』ブログ『ひとんち 澤村伊智短編集』ブログ『予言の島』ブログ『ファミリーランド』ブログ『邪教の子』で紹介した作品があります。


本書の帯

 

本書の帯には「『怖ガラセ屋サン』が、あの手この手で、恐怖をナメた者たちを闇に引きずりこむ。一話ごとに『まさか!』の戦慄が走る、連作短編集」「あなたの知らない恐怖が目を覚ます――。」と書かれています。また、帯の裏には「怪談は作りものだと笑う人、不安や恐怖に付け込む人、いじめを隠す子供、自分には恐ろしいことは起こらないと思い込んでいる人・・・・・・。こんなヤツらに、一瞬の恐怖なんて生ぬるい! 怖がらなかったこと"を、後悔させてあげる――。」「恐怖なんて下らない? ホラーなんて下らない?」「結局、“人間”がいちばん怖い?」と書かれています。 


本書の帯の裏

 

本書の構成は、以下の通りです。
第一話 人間が一番怖い人も
第二話 救済と恐怖と
第三話 子供の世界で
第四話 怪談ライブにて
第五話 恐怖とは
第六話 見知らぬ人の
第七話 怖ガラセ屋サンと

 

本書は、「怖ガラセ屋サン」という怪しげな若い女が、恐怖を引きおこす物語が7つ集められています。彼女は悪事を隠しているような人間の罪を暴くような、一種の「正義の味方」としても描かれています。彼女のアクションにとって、さまざまなタイプの登場人物が破滅の道を辿っていくのですが、いずれも「そうきたか」という一捻りある結末が用意されています。それらには、現代社会特有の不安が組み合わせており、著者の筆力には感心します。各話とも、「世にも奇妙な物語」のようなテイストだと思いました。わたしは、どれも面白く読みました。著者は、長編よりも短編の名手のような気がしています。



本書には「恐怖とは何か」という定義のような記述が多々あり、これが非常に興味深かったです。第一話「人間が一番怖い人も」では、「結局、人間が一番怖い」としたり顔で言う主婦に対して、怪談マニアの若い女性が反論する場面があります。彼女は「狂犬病」を持ち出します。狂犬病は、主に犬を媒介にして感染するウイルス性疾患です。治療薬は今現在もありません。発祥すればほぼ確実に死にます・高熱を出し全身が麻痺し、やがて呼吸することもできなくなります。アジア圏だけでも年に3万人が狂犬病で死亡しています。



しかしながら、日本国内での感染・死亡件数は60年以上ゼロです。彼女は「これはなぜかご存じですか?」と主婦に問います。「えっと・・・・・・予防注射? 飼い犬の」と答えた主婦に対して、彼女は「そうです。そして自治体による野犬の駆除も、つまり人々のたゆまぬ努力のおかげです。わたしたちから怖いモノを遠ざけてくれる、そんな人が大勢いたし今もいるんです。狂犬病だけではありません。ペスト、コレラ破傷風結核天然痘は自然界には存在しなくなりましたが、これも勝手になくなったわけではありません。多くの人の知恵と努力で根絶したんです」と言います。

 

そして、息継ぎをした彼女は「人間が一番怖いと口にする人の中で、自分がそうした恩恵に与っていると意識している人はどれほどいらっしゃるでしょう? あるいは今後、未知のウイルスや細菌といった脅威に晒される可能性に思いを馳せる人は? わたしはゼロだとしても驚きません。それどころか世の中は最初から安全で快適で、人間くらいしか怖いものがないとピュアな感性で信じ込んでいるのではないかと」と言うのでした。強引な論法ではありますが、一理あります。これを言われた主婦は黙り込みますが、その後、「やっぱり、人間が一番怖い!」と心の底から思う恐怖体験をするのでした。

 

第四話「怪談ライブにて」では、登場人物が「恐怖とは、起こってほしくないことが、起こりそうな予感」と分析しているのが印象的でした。そして、第六話では安アパートの前に駐車した車の中で1人の男と1人の女が「恐怖とは何か」について語り合います。2人の正体を明かすとネタバレになるので、発言内容だけに触れますが、男の「明日になったらひょっとして」という言葉をとらえた女が、「そうやって想像することが恐怖――怖いという感情を掻き立てる。恐怖とは何か。その最も妥当な答えです」と言います。そう、恐怖とはよくない予想をして沸き起こるもの。男の場合は「明日困窮するかもしれない」、女の場合は「次の瞬間に襲われるかもしれない」でした。


さらに、女はゴキブリを怖がる人間の例を出します。ゴキブリを怖がる人は「襟から背中に入ってくるかもしれない」「目の前に現れるかもしれない」といった予想をしてしまうから、いもしないゴキブリを恐れてしまうというのです。女が「お化け屋敷も、ホラー映画も同じですよ。あの角を曲がれば何かと鉢合わせかもしれない。登場人物の後ろから何かがいきなり襲いかかってくるかもしれない。優れた恐怖演出とはそうした予想、予感をさせる技術のことです」と言えば、男は「まさに“きっと来る”ってわけか。あの歌、ホラー映画の主題歌として正解だったんだな」と言うのでした。このホラー映画は、著者の処女作『ぼぎわんが、来る』を映画化した「来る」(2018年)ではなくて、その20年前に公開されたホラー映画史に残る金字塔的作品の「リング」(1998年)ですね。


それから、女が「もちろん安易に既存のパターンをなぞれば、今度は『お約束だ』と笑われてしまう。わたしも笑うでしょう。『そうなるかもしれない』という予想は、『そうはならないで欲しい』という願望とセットでなければ恐怖には至らないんです。作り話でも、現実でも」と言えば、男は「なるほどな。つまり――恐怖とは嫌な予感である」と言うのでした。この「恐怖問答」のくだりは、なかなか興味深かったです。つねに「恐怖とは何か」について考え続けている著者だからこそ、次から次に怖い話が書けるのでしょうね。

 

 

2023年3月27日 一条真也

「呪詛」

一条真也です。
ネットフリックスで映画「呪詛」を観ました。2022年に作られた台湾製ホラーです。わたしは「映画com. 」という映画情報サイトを愛読しているのですが、ここに突然「呪詛」の特集が組まれ、「最恐ホラー」「観たことを後悔する映画」として紹介。存在をまったく知らなかったホラーマニアのわたしは慌てて、ネットフリックスで視聴した次第です。怖さは、まあまあでした。


「呪詛」は「台湾史上最も怖い」と称され、台湾のホラー映画としては興収が歴代1位。ネットフリックスの日本ランキング1位にもなったそうです。映画com. の「解説」には、「台湾で実際に起きた事件をモチーフに、恐ろしい呪いから娘を守ろうとする母親の運命を、ファウンドフッテージの手法を盛り込みながら描いたホラー映画。かつて山奥の村で仲間たちとともに宗教的禁忌を破り、恐ろしい呪いを受けた女性ルオナン。関わった者は全員が不幸に見舞われ、ルオナンも精神に異常をきたし、幼い娘ドゥオドゥオは施設に引き取られた。6年後、ようやく回復したルオナンはドゥオドゥオを引き取って2人きりの新生活をスタートさせる。しかし新居で奇妙な出来事が続発し、ドゥオドゥオにも異変が起こり始める。6年前の呪いが娘にまで降りかかったことを知ったルオナンは、どうにか呪いから逃れるべく奔走するが・・・・・・。主演は『百日告別』のツァイ・ガンユエン。『ハクション!』のケビン・コーが監督・脚本を手がけ、本国台湾で大ヒットを記録した」と書かれています。

 

映画com. には、「最恐ホラー『呪詛』はどう生まれた? ケビン・コー監督が徹底解説 製作時の“怪現象”も明かす」というインタビュー記事が掲載されています。それによれば、子どもの頃からホラーが大好きだったというケビン監督は、2005年2月に台湾・高雄市鼓山区に住む家族に起こった“怪事件”からインスパイアを受けて「呪詛」を作ったとして、「当初『呪詛』は短編で作ろうとしていました。まず初めに考えたのは『見た後、必ず呪いにかかってしまう』というもの。そして『怖くて見たくない。しかし、見ずにはいられない。それでも見ることができない』といった中毒性がある作品にしようと思っていました。こういう作品を作るためには、どういうものを参考にしたらよいのか。そんなことを考えながら、新聞記事などで、実在の事件を探り始めました。その時、高雄(台湾・高雄市)で起こった事件を知りました」と述べます。


その事件のニュースに触れた際、ケビン監督の胸に芽生えたのは「これ以上追求したくない」という感覚だったそうです。彼は、「台湾人であれば、同じような感覚を抱くと思います。私は題材を探し続ける映画人です。そんな仕事をしているにもかかわらず『これ以上深入りしてはいけない』と思ってしまう。この感覚こそが、求めていた中毒性のポイントだなと思いました。ですから『呪詛』には、この感覚といくつかの要素を取り入れようとしました。映画をご覧になってみればわかるのですが、実際の事件とはそこまで似ている部分はありません。あくまで、深入りしたくないという感覚、それを生んだ要素の一部(宗教、神の存在)をオマージュとして取り入れています。実際の事件はあまりにもシリアスすぎて、そのまま使うことはできなかったんです」と語ります。



「呪詛」には、大黒仏母を信仰する宗教が登場しますが、これは創作であるとして、ケビン監督は「台湾を代表する宗教として、仏教と道教があります。これが人々にとっての“身近なもの”。もちろん実際の信仰対象を使うことはできません。ですが、あまりにもかけ離れたものになってしまうと、台湾の観客が“身近なもの”として感じることができない。身近に感じつつも、実際のものには抵触しないものとはなんだろうと考えていました。その時、中国・雲南省バラモン教の存在を知りました。そこでの信仰対象の色使い、造形が参考になり、そこに道教のいくつかの要素をミックスする形で宗教を創り上げたんです。最終的に目指したのは、古い宗教の神様。身近に感じつつも、実際には存在しない。しかし、それほど遠い存在ではない・・・・・・というものにしました」と語っています。



当初、「呪詛」は、母娘のストーリーではなかったそうです。また、大黒仏母も女性ではありませんでした。そこから母娘の話に決まったことで、ケビン監督は大黒仏母に「妊娠をしている母親のイメージ」を重ね合わせることにしたそうです。大黒仏母には夥しい数の文字が書かれていますが、これもかなり後半になってから設計したものだとか。「呪詛」には、大黒仏母を信仰する邪教の儀式が登場します。「儀式」といえば、ホラー映画の素材と思われるのは儀式バカ一代のわたしとしては心外ですが、奇妙な儀式を登場させることによって宗教学的あるいは民俗学的興味というスパイスが加味され、物語に深みが出ることも事実です。この映画では、「ホーホッシオンイー シーセンウーマ」という呪文が重要な役割を果たしますが、この設定は良かったと思います。


この映画は、ファウンドフッテージ、すなわち「フェイク・ドキュメンタリー」の手法を用いています。「モキュメンタリー」とも呼ばれます。代表的な作品に「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」(1999年)があります。ビデオを使った最恐ホラーとして大きな話題になりましたが、超低予算(6万ドル)・少人数で製作されながらも、全米興行収入1億4000万ドル、全世界興行収入2億4050万ドルを記録したインディペンデント作品です。「魔女伝説を題材としたドキュメンタリー映画を撮影するために、森に入った3人の学生が消息を絶ち、1年後に彼らの撮影したスチルが発見されました。彼らが撮影したビデオをそのまま編集して映画化した」という設定ですが、実際は脚本も用意された劇映画です。


モキュメンタリーの手法が使われたホラー映画といえば、「パラノーマル・アクティビィティ」(2007年)を忘れることができません。タイトルの意味は“超常現象”。この映画は実話に基づいて作られているそうですが、家族設定や怪奇現象等、異なる点もいくつかあるとか。同棲中のカップル、ミカとケイティーは夜な夜な怪奇音に悩まされていました。その正体を暴くべくミカは高性能ハンディーカメラを購入、昼間の生活風景や夜の寝室を撮影することにしました。そこに記録されていたものは彼らの想像を超えるものでした。これもかなり怖い映画でした。


「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」や「パラノーマル・アクティビィティ」などに強い影響を受けたと思われる作品に、ブログ「女神の継承」で紹介したタイを舞台にした2022年のホラー映画があります。原題は「THE MEDIUM」で、ホラー映画史に残る名作のエッセンスが詰まった内容です。タイ東北部、イサーン地方。その小さな村に暮らす女性ミンが突如体調不良に陥り、それまでの彼女からは想像できない凶暴な言動を繰り返す。ミンの豹変になす術もない母親は、祈祷師をしている妹ニムに救いを求める。ニムは、ミンが祈祷師を受け継いできた一族の新たな後継者として何者かに目され、取りつかれたために苦しんでいるとにらむ。ミンを救おうと祈祷を始めるニムだが、憑依している何者かの力は強大で次々と恐ろしい現象が起きるのでした。


同じく2022年に作られたブログ「哭悲/THE SADNESS」で紹介した作品は、「呪詛」と同じ台湾映画です。制作年も「呪詛」や「女神の継承」と同じ2022年です。この年は、アジアンホラーの当たり年だったと言えます。ただし、「哭悲/THE SADNESS」は宗教ホラーでも心霊ホラーでもなく、ゾンビ映画です。謎の感染症“アルヴィン”に対処してきた台湾。感染しても風邪に似た軽い症状しか現れないことからアルヴィンに対する警戒心が緩んできましたが、突如ウイルスが変異する。感染者たちは凶暴性を増大させ、罪悪感を抱きながらも殺人や拷問といった残虐な行為を行い始めるのでした。



「呪詛」はゾンビ映画ではありませんが、グロテスクな演出には共通するものがありました。皮膚に穴が開くシーンなどは視覚的に辛いものがありますし、痛さを想像すると気分が滅入ります。また、虫がたくさん出てくるシーンがありますが、これも個人的に嫌でしたね。心霊シーンは怖いといえば怖いですが、何か既視感があるというか、過去の名作の寄せ集めの印象がありました。あと、恐ろしい呪いから最愛の娘ドゥオドゥオを守ろうとする母親ルオナンの運命が描かれるわけですが、呪いによって母娘が恐怖体験をするだけでも気の毒なのに、ルオナンは精神病歴のあるシングルマザーなのです。頼る夫もおらず、家族も隣人もおらず、あまりにも可哀そうで胸が痛みました。


儀式の場に立ち入る(Netflix)

 

とはいえ、ルナオンがここまで怖い目に遭うのは自業自得とも言えます。彼女は探検系YouTuberのグループの一員でしたが、このグループは「迷信なんか信じないというノリで、禁忌を破る」という動画を売り物にしていました。メンバーの1人である男性の故郷で行われている儀式があるのですが、その場所には入ってはいけない地下道があります。彼らは本来なら関係者以外立ち入り禁止の結界に乗り込み、隠しカメラで撮影を始めます。そして、禁忌を片っ端から破りまくります。封印の扉を蹴破り、触れてはいけないものに触れ、食べてはいけない供物を食べます。儀式の備品も壊しまくります。しまいには「XX参上!」の文字と男性器の絵を儀式場の入り口に彫るという暴挙ぶり。これはもう別に邪教でなくとも、儒教とか道教とか仏教とかのまともな宗教でもバチが当たるでしょう。

儀式論』(弘文堂)

 

拙著『儀式論』(弘文堂)でも指摘したように、儀式には人々のさまざまな祈りや願いが込められています。それを部外者が非礼な行為で破壊しようとすれば、そこに「呪い」が発動するのは当然です。そして、それは大黒仏母の呪いというよりも、「大切な儀式の場を汚してしまった」というYouTuberたちの自責の念から来る自家発電的「呪い」かもしれません。人間は儀式を行う本能を持った儀式的動物であり、他人の信じる儀式といえども破壊した場合には、その行為を行った者に無意識の底に強い罪悪感が生まれます。その罪悪感がリアリティをもって現実化することが、この映画における「呪い」の本質ではないかと思いました。「触らぬ神に祟りなし」ですね。

2023年3月26日 一条真也

「ロストケア」

一条真也です。
24日の夜、この日から公開の日本映画「ロストケア」をシネプレックス小倉で観ました。わが社は「隣人館」という高齢者介護施設を運営していますので、介護殺人をテーマにしたこの映画は観ていて辛かったです。介護職という、この上なく尊い仕事への冒涜ではないかとも思いましたが、「ケア」の本質を問う素晴らしい力作でした。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『凍てつく太陽』などで知られる作家・葉真中顕の日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作を映画化。老人介護の現場で起きた連続殺人事件をめぐり、検事が事件の真相に迫る。『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』などの前田哲がメガホンを取り、『ストロベリーナイト』などの龍居由佳里が脚本を担当。殺人を犯した心優しい介護士を『聖の青春』などの松山ケンイチ、彼と向き合う検事を『MOTHER マザー』などの長澤まさみが演じる」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、「ある民家で老人と介護士の死体が発見され、死亡した介護士と同じ訪問介護センターで働く斯波宗典(松山ケンイチ)が捜査線上に浮かぶ。彼は献身的な介護士として利用者家族からの評判も良かったが、検事の大友秀美(長澤まさみ)は斯波が勤める施設で老人の死亡率が異様に高いことに気付く。そこで何が起きているのか、真相を明らかにすべく奔走する彼女に、斯波は老人たちを殺したのではなく救ったのだと主張する。彼の言説を前に、大友は動揺する」となっています。

 

 

映画と同名の原作小説は、2013年に葉真中顕によって書かれました。戦後犯罪史に残る凶悪犯に降された死刑判決。その報を知ったとき、正義を信じる検察官・大友の耳の奥に「悔い改めろ!」という痛ましい叫び声が響きました。介護現場に溢れる悲鳴、社会システムがもたらす歪み、善悪の意味・・・・・・。現代を生きる誰しもが逃れられないテーマに、圧倒的リアリティと緻密な構成力で迫る!全選考委員絶賛のもと放たれた、日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作です。


この映画、何よりも主演の松山ケンイチの演技力が圧倒的でした。彼の代表作である「デスノート」のエルを連想させるような妖気漂う表情は凄みがありましたね。彼が演じる介護士・斯波宗典が42人の老人を殺害したことは冒頭で明かされています。よって、この映画ミステリーとしての犯人探しの要素はなく、しまうため、ポイントはその動機となります。「なぜ、献身的な介護士だった斯波が大量殺人を犯したのか」という問いから、介護をめぐる現代日本社会の実情と生死を超えた「人間の尊厳」という深いテーマが浮かび上がります。取り調べ中に「自分は殺したのではない。救ったのだ」と一貫して喪失の介護(ロストケア)を主張する斯波には一切の迷いはなく、後悔もなく、その佇まいは殺人鬼というよりまるで聖者のようでした。

 

その斯波と白熱の取り調べを繰り広げる検事の大友秀美を演じた長澤まさみも熱演でした。彼女自身、母親を老人ホームに預けているという自責の念、離婚して20年前に別れた父親が孤独死するのに助けの手を差し伸べす、見殺しにしたというトラウマを抱えていました。そんな彼女は、「殺したのではない。救ったのだ」とロストケアを主張する斯波に感情の昂ぶりを抑えきれず、声を荒げてしまうこともしばしばでした。その超シリアスな演技は、ブログ「シン・仮面ライダー」で紹介した同時上映映画で「レッツ・パーティー!」と能天気な奇声をあげるサソリオーグを怪演した女優と同一人物とは思えないほどでした。「役者って凄いなあ!」と思った次第です。


その松山ケンイチ長澤まさみが初共演を果たした映画「ロストケア」は、観る者の魂を揺さぶる問題作であり、大変な傑作でした。とにかく、これほど観て嫌な気分になる映画もそうそうありません。わたしにも老親がいますので、「もし、自分が斯波のような状況に置かれたら?」と考えると、暗澹たる気分になりました。重い認知症の親を抱えて、働きにも出ることができず、かといって生活保護を受けることもかなわず、絶望の淵にある方は多いと思います。そんな方が親御さんを亡くした場合、きちんと葬儀をあげることも難しいケースがあるなと思いました。

 

「ロストケア」を観て、「この嫌な感じ、前にも感じたな」と思いました。それは、ブログ「PLAN75」で紹介した日本映画を観たときの感じでした。日本の近未来を描いた作品ですが、暗く、悲しい物語でした。観る人によっては恐怖も感じたかもしれません。75歳以上の高齢者に自ら死を選ぶ権利を保障・支援する制度「プラン75」の施行された社会が、その制度に振り回される物語です。超高齢社会を迎えた日本で、75歳以上の高齢者が自ら死を選ぶ制度「プラン75」が施行されてから3年、自分たちが早く死を迎えることで国に貢献すべきという風潮が高齢者たちの間に広がります。78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)は夫と死別後、ホテルの客室清掃員をしながら一人で暮らしてきましたが、高齢を理由に退職を余儀なくされたため、「プラン75」の申請を考えるのでした。



「PLAN75」も「ロストケア」も、わたしは同じ映画館で鑑賞しましたが、ともに普段はあまり映画館を訪れないような雰囲気の高齢者の観客が多かったのが印象的でした。ともに映画がエンドロールを迎えて物語が終わっても、現代日本の高齢者問題の深刻さは変わらない事実を前に呆然とし、憂鬱になる点も似ています。倍賞千恵子が演じた「PLAN75」の主人公ミチは、家族もなく、頼れる親族もいません。いわば彼女は無縁社会の只中にいます。その意味では、「ロストケア」の老人たちは家族がいるだけでも幸せだとも言えますが、その家族が地獄のような思いをしているのでは、「何のために長生きするのか?」という根源的な問題に辿り着きます。

老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)

 

日本では、2025年には国民のおよそ5人に1人が75歳以上になるといいます。超高齢化社会を迎える日本にとって、長生きする老人たちをどう支えていくのかは、本当に大きな問題です。拙著『老福論』(成甲書房)で、わたしは「高齢化社会ディストピア」というネガティブ・シンキングを食い止める「老福」というキーワードを提唱しました。現代日本における自死者の多くは高齢者ですが、わたしたちは何よりもまず、「人は老いるほど豊かになる」ということを知らなければならないと訴えました。世界に先駆けて超高齢社会に突入した現代の日本こそ、世界のどこよりも老いを好む「好老社会」であることが求められます。日本が「嫌老社会」で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になります。逆に好老社会になれば、世界一幸福な国になれるのです。まさに「天国か地獄か」であり、わたしたちは天国の道、すなわち人間が老いるほど幸福になるという思想を待つべきです。

 

 

しかし、「ロストケア」は「老い」というよりも「痴呆症」の深刻さを描いています。一般に痴呆症は不幸なことであるとされますが、記憶を失うことは不幸なことではないという見方もあります。ブログ『解放老人』で紹介した本には、「認知症の豊かな体験世界」というサブタイトルがつけられていますが、認知症を“救い”の視点から見直した内容になっています。著者の野村進氏は、「重度認知症のお年寄りたちには、いわゆる“悪知恵”がまるでない。相手を出し抜いたり陥れたりは、決してしないのである。単に病気のせいでそうできないのだと言う向きもあろうが、私は違うと思う。魂の無垢さが、そんなまねをさせないのである。言い換えれば、俗世の汚れやら体面やらしがらみやらを削ぎ落として純化されつつある魂が、悪知恵を寄せ付けないのだ。こうしたありようにおいては、われらのいわば“成れの果て”が彼らではなく、逆に、われらの本来あるべき姿こそ彼らではないか」と述べています。


さらには、痴呆老人について、野村氏は「人生を魂の長い旅とするなら、彼らはわれらが将来『ああはなりたくない』とか『あんなふうになったらおしまい』と忌避する者たちでは決してなく、実はその対極にいる旅の案内役、そう、まさしく人生の先達たちなのである」と述べるのでした。このように、一般的に良くない現状を「陽にとらえる」発想は、とても大切ですね。わたしたちは、認知症の人との心の断絶、あるいは心の距離の遠さを感じます。親から顔と名前を忘れられた子は、誰でも深い悲嘆を抱きますし、絶望することも多いことと思います。

グリーフケアの時代』(弘文堂)

 

しかし、別に認知症でなくとも心の距離が遠い人は現実にたくさんいます。「ロストケア」に登場する斯波も大友は、生き方も考え方もまったく嚙み合っていません。しかし、この映画のラストシーンで2人は涙を流します。その涙を流すという行為において、2人の心は初めて通じたように思います。「涙は世界で一番小さい海」という言葉がありますが、人が涙を流すのは悲しいとき、嬉しいとき、感動したときなのです。つまり、心が共振したときに初めて共に涙を流すのです。そして、涙からは「共感」が生まれ、共感からは「慈悲」の心が生まれます。その意味で、「ロストケア」はコンパッション映画の名作であり、グリーフケア映画の傑作であると思いました。

 

2023年3月25日 一条真也

『邪教の子』

邪教の子 (文春e-book)


一条真也です。
邪教の子』澤村伊智著(文藝春秋)を読みました。
現代日本において社会問題になっているカルト宗教をテーマにした小説ということで楽しみにしていましたが、面白くなくことはないのですが、どんでん返しで読者を驚かせようという著者の想いが強すぎて、少々スベっている感もありました。著者には、ブログ『ぼぎわんが、来る』ブログ『ずうのめ人形』ブログ『ししりばの家』ブログ『恐怖小説 キリカ』ブログ『ひとんち 澤村伊智短編集』ブログ『予言の島』ブログ『ファミリーランド』で紹介した作品があります。


本書の帯

 

本書のカバー表紙には、ピラミッドのような構想のマンションのような建造物の写真が使われ、帯には「まずは驚愕 やがて戦慄」「平凡なニュータウンで起きる異常な事件」「新興宗教にハマった家族から囚われの少女を救い出すのは――?」「CAUTION!」「最後の最後まで気を抜かないでください。」と書かれています。帯の裏には、「わたしたちは知らなかった。まもなく或る家族が越してくること。そして彼らによって、わたしたちの幸福な日常が脅かされることを」と書かれています。


本書の帯の裏

 

アマゾンには、「『ぼぎわんが、来る』(『来る』とタイトルを変えて映画化)で衝撃のデビューをした澤村伊智さん。次々とホラー、ミステリーの力作を発表し続ける澤村さんの、新たな代表作が誕生しました。舞台はどこにでもある平凡なニュータウン。そこにカルト教団の信者の家族が引っ越してきます。その家族は明らかにご近所から浮き上がっていて、しかも娘の茜はどうやら虐待を受けているらしい。主人公の慧斗は、茜の現状を見かねて救出に乗り出すが……こう書くと悪の組織から『お姫様』を救い出す子どもたちの冒険物語が展開されるのかと思いきや、そこが一筋縄でいかないのが澤村伊智さんの魅力です。どんな風に『一筋縄でいかない』のかは是非ご自身の目で確かめてみてください」と書かれています。

 

新興宗教という重いテーマを扱っていながら、ライトノベルのようにすらすらと読みやすい小説です。でも、慧斗(けいと)という主人公の性別がなかなかわからなかったり、家族構成も謎というか矛盾点が多かったりして、最初、読者は大きな違和感をおぼえながら読み進むことになります。わたしは、「この違和感はきっと、こういうことでは?」と想像していましたが、ほとんど当たっていました。でも、わたしが予想できるレベルの内容が「どんでん返し」扱いされていることが、少し残念でしたね。視点の切り替えによって物語が一変するというのは、処女作『ぼぎわんが、来る』以来の得意技ですね。『予言の島』でもこの手法が使われています。

 

この小説には「大地の子」という邪教が登場するのですが、教団が行う葬儀の描写が詳しくて興味深かったです。信者たちは通夜のことを「支度」、告別式のことを「還りの儀」と呼びます。「支度」は、教団のゲストルームとして使われているニュータウンのマンションの一室で行われますが、午前11時に開始されます。
 「支度」の儀礼そのものは至ってシンプルで、格式ばったところは少しもない。作法としては神式に近いだろうか。リビングの壁には三段の祭壇が用意されている。祭壇には白い布が敷かれ、果物や乾物が供えられている。弔問後、と言っていいのかは分からないが、訪れた人々は祭壇の前に正座して手を合わせ、傍らの信者たちと二言三言、言葉を交わす。あるいは無言で礼をする。すぐに帰る者もいれば、ダイニングで語り合う者もいる。
(『邪教の子』P.282)

 

 

祭壇には亡くなった元信者の顔写真が質素な額縁に入れられて飾られていました。さらに、支度について以下のように書かれています。
 感覚的に奇妙なものではなかった。大枠では一般的な通夜だが、それより簡単で受け入れやすいとさえ思った。供え物に肉じゃがと焼き魚、パイナップルがあるのは引っ掛かるが、これは仏式の感覚が無意識レベルにまで沁みついているせいだろう。こうした場に肉や魚を置くな、大衆的な料理を置くな、南国の果物はダメだ――どれにも科学的根拠はない。仏教に厳密な取り決めがあるか、確かめたこともない。だが、いつの間にか『通夜や葬儀はそういう者だろう』と漠然と信じてしまっていたのだ。自分は無宗教だと思っていた。宗教そのものを嫌悪しているつもりだったが、完全に切り離せてはいないらしい。
(『邪教の子』P.282~283)

 

還りの儀は、支度の翌日の午前11時から、マンションの前にある公園で行われます。その様子は以下のように書かれています。なお、「ウキヨ」というのは信者以外の人間という意味です。
 公園には大勢が集まり、芋を洗うような有様だった。信者はもちろん、ウキヨの人間もひしめき合っている。全部で二百人近くはいるだろうか。ウキヨの大多数は高齢者で、数珠を手に神妙な顔で、公園の中央を見上げていた。信者たちは皆、生成りのローブのような服を着ていた。
 通夜で見たものより少し大きな祭壇が組まれ、その奥に棺が置かれていた。これだけでも異様といえば異様だが、その隣には高さ3メートルほどの櫓が建っているのが、ますます儀式を――葬儀を奇怪なものに見せていた。
(『邪教の子』P.323)

唯葬論』(三五館)

 

櫓に設置された数台のスピーカーからは、安っぽいアンビエントミュージックが流れ、邪教の葬儀がしめやかに執り行われます。信者たちは仮面を着けて立っていました。彼らが信仰する「阿蝦摩神」という来訪神の衣裳です。彼らは葬儀でも来訪神を使うのですが、それは借り物の来訪神でした。そもそも、「大地の子」という新興宗教スピリチュアリズムニューエイジを適当に継ぎはぎした宗教もどきでしかなかったのです。わたしは、葬儀がきちんとしていない宗教はダメだと思います。なぜなら、宗教の真髄は葬儀にあるからです。拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)にも書きましたが、オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。

 

 

邪教の子』の著者である澤村伊智氏は、短編集『ファミリーランド』の最後に「愛を語るより左記のとおり行おう」という異色であり出色の家族小説を置きましたが、この中には未来の葬儀がじつにリアルに描かれています。この作品には、日本人にとっての葬儀の初期設定とアップデートがともに書かれており、わたしも驚きました。もともと処女作の『ぼぎわんが、来る』は来訪神を迎える儀式についての小説でしたし、澤村氏が儀式、特に葬儀に造詣が深いことがよくわかりました。今度は、ぜひ、本格的な葬儀小説を読んでみたいです!

 

 

2023年3月24日 一条真也

営業責任者会議

一条真也です。
23日、サンレーグループの営業責任者会議を開催。オンラインではない久しぶりのリアル会議です。各地から営業の責任者たちが集いました。会場は、松柏園ホテルです。


松柏園ホテルの桜をバックに


マスクを外して、ニッコリ!

 

16時過ぎに、松柏園ホテルを訪れました。すると、庭園の桜が六分咲きくらいになっていました。ちょうど霧雨が降っていたのですが、わたしは迷わず庭に出て、桜の花を眺めました。この日の午前中、人の生き死にを想う機会があったので、日本人の死生観に多大な影響を与えてきた桜の花を感慨深く見上げました。


冒頭、各種表彰を行いました


表彰者に拍手を送りました

16時半から、社長訓話を行いました。
訓話に先立って、営業部門の各種表彰を行いました。わたしは感謝の念を込めて、表彰状や金一封を表彰の対象者の方々にお渡ししました。表彰式が終わると、わたしは60分ほどの社長訓話をしました。


ピンクのマスク姿で登壇


ピンクのマスクを外しました

 

冒頭、わたしは「昨日はWBCで侍ジャパンが優勝。各選手の活躍というか、生き様にも感銘を受けました。史上最年少の三冠王として多大な期待を背負った村上選手は不振をきわめましたが、準決勝では逆転サヨナラ打を放ち、決勝ではホームランを打ちました。彼には「レジリエンス」の神髄を見せてもらいました。最後はダルビッシュ有投手&大谷翔平投手の黄金リレーが実現しましたが、2人とも苦境にありながらも、見事に持ち前の実力を発揮し、最後は「世界一」の栄光を掴んだのです」と言いました。


WBCと大谷選手の話をしました

 

大谷選手は、岩手・花巻東高3年生のとき、野球部で配られた「人生設計シート」の27歳の欄に「WBC MVP」と書き込んだそうです。彼は、自らの能力を信じ、二刀流という誰も歩んでいない道を切り開きました。人生設計から1つ歳を重ねた28歳のスーパースターは、本当にそのシート通りに目標を達成したのです。あまりにも偉大ではありませんか! 営業のみなさんにも目標があります。その目標を果たすことは人生の目的であり、大きな喜びであり、偉大な行為のはずです。どうか、それぞれの目標を果たしていただきたいと思います。


「コンパッション営業」とは何か?

 

わが社は、「コンパッション営業」を目指しています。事前にコンパッション営業についての考えを募ったところ、赤松相談役、岸事業部長、小谷部長らからレポートが届きました。まずは、それらのレポートを紹介しながら、わたしの意見を述べました。赤松相談役は、元北九州市議です。じつに5期連続でトップ当選された方なのですが、コンパッション営業とは「利他営業」であるとして、お客様にとっての利益を考えることがキーとなるといいます。利己、己の利益先行の考えではありません。利他営業が結果として利己になります。利他と利己の好循環です。


「コンパッション営業」について話しました


熱心に聴く人びと

お客様から見て自分にとって利する、いいと思うから契約するのです。利己、自分の利益先行、利己営業は即売ろうとする、種を植えると同時に即刈り取ろうとする、追い込み、焦り、お客様への思いやりではなくて、自分への思い入れとなってしまいます。赤松相談役いわく、あくまでお客様に、いいと思っていただくためにどうするかを考えることが大事です。互助会加入は、お客様が決めるんです。こちらから決めようとすると利己営業になって敬遠される、決まらない、逃げられるのです。赤松相談役は、「わたしたちだって、物を買うとき、いいと思うから買いますよね。押し込まれて(売り手の利己)は買いません、契約しません、それと一緒です。お客にとっていいと思っていただく『思いやりアプローチ(利他営業)』がとても大事なところです」と述べています。


コンパッションで行こう!

     

利他で進めると、必然的に利己自分の利益になって返ってきます。コンパッション=利他のアプローチはどうあるべきか考えてみましょう。利己前面のアプローチでは関係性が構築されていない段階で刈り取ろうとするからなかなかクロージングまでいかないのです。コンパッション営業とは、利他精神のアクションです。互助会はお客にとって利する商品ですから、思いやりと自信をもって営業を進めていただければと思います。


現場からの提言を紹介しました

 

次に、北陸の岸事業部長は「コンパッション=おもいやり」を営業推進部全社員が根本理念とし、お客様の人生に寄り添い、利他の精神で快適・満足・安心を提供し、幸福を一番に考えた営業活動を行うという考えです。具体的には、「おもいやり訪問活動」「認知症サポーター登録」「葬儀施行後訪問」「振袖営業訪問」「長寿訪問」「館内見学会」などを展開していきます。さらに、北九州の小谷部長は、「社員教育への取り組み」「利他の精神の普及」「社員の職場環境、雇用に対しての取り組み」「地域貢献活動への取り組み」などを展開する考えです。


「CSHW」のハートフル・サイクルとは?

 

マネジメント品質あるいは業務品質を高める「PDCA」のサイクルは有名ですが、サンレーにおいては「CSHW」というハートフル・サイクルをお客様、そして社員にも提供していきたいと思います。マネジメントのサイクル「PDCA」は、Plan(計画)⇒Do(実行)⇒Check(評価)⇒Act(改善)ですが、「CSHW」は、Compassion(思いやり)⇒Smile(笑顔)⇒Happy(幸せ)⇒Well-being(持続的幸福)を意味しています。


ハートフル・サイクルを回せ!


熱心に聴く人びと

 

コンパッションは、「思いやり」や「慈悲」「隣人愛」「仁」「利他」などを包括する言葉です。これは サンレーが提供するケアやサービスに必要不可欠なものです。真の思いやりをもったケアやサービスは、必ずお客様を笑顔にしていきます。そして、笑顔となったお客様は当然、幸せな気持ちになります。同時にお客様を笑顔にすることができた社員自身も幸せを享受することができると思います。幸せの場である婚礼のシーンではもちろんのこと、ご葬儀においても「大切なあの人をきちんとお見送りすることができた」と、笑顔になり、スタッフへ感謝の言葉をかけてくださるご遺族が多くいらっしゃいます。つまり、コンパッション・ケア、コンパッション・サービスはお客様にも提供者にも笑顔と幸せを広げていくことができるのです。


結婚の持続的幸福について

 

婚礼においても、ご葬儀においても、セレモニーが終わればすべて終わりいうわけではありません。婚礼においては、夫婦としての幸せな結婚生活が続いていきます。時には、ケンカしたり上手くいかないこともあるでしょう。こうした時に、思い出されるのは、結婚式や披露宴のシーンではないでしょうか。神様の前で愛を誓い、親族をはじめ、たくさんのお友だちや会社の方々に祝福された“あの時”を思い出し、「自分が悪かった。仲直りしよう」とか「あの時の気持ちを思い出して二人でこれからも歩んでいこう」など、お互いに思いやりを持って歩み寄ることができます。そうすれば、きっと仲直りをすることができると思います。こうして、二人の間には持続的幸福が続いていくことでしょう。わたしは、そう信じています。

グリーフケア活動の意味とは?

 

一方、ご葬儀においては、どうでしょうか?
「故人を故人らしく、しっかりとお見送りできた」このこと自体が持続的な幸福につながってきます。なぜならば、ご葬儀をすること自体がグリーフケアの側面をもっているからです。加えて、わが社では、グリーフケア士によるご遺族の悲嘆ケアにも注力しています。また、ご遺族の会である「月あかりの会」や、同じ悲嘆をもつ自助グループ「うさぎの会」など様々な角度から、持続的な心の安定(幸福)をサポートさせていただいています。

「互助共生社会」の実現を!


最後は、もちろん一同礼!

 

「CSHW」は、Compassion(思いやり)⇒Smile(笑顔)⇒Happy(幸せ)⇒Well-being(持続的幸福)と進んでいきます。そして、Well-being(持続的幸福)を感じている人は、Compassion(思いやり)をまわりの人に提供・拡大していくことができます。これが「CSHW」ハートフル・サイクルです。すなわち、ハートフル・サイクルはそこで回り続けるのではなく、周囲を巻き込みながら拡大し「思いやり」を社会に拡散をしていくサイクルなのです。このハートフル・サイクルが社会に浸透した状態が「ハートフル・ソサエティ」であり「心ゆたかな社会」であり「互助共生社会」なのです。サンレーは、その起点となるべく「CSHW」ハートフル・サイクルを回していきます!

懇親会の冒頭で挨拶しました


東専務によるカンパイ!

 

社長訓話が終わった後は、松柏園ホテルの「松柏の間」で懇親会が開かれました。じつに4年ぶりの懇親会となります。最初にわたしが「営業のみなさんはよく頑張っていますが、WBCの侍ジャパンを見習って高い目標を持って前進していただきたい。これらのコンパッション時代を先取りして、業界のフロントランナーになりましょう!」と述べました。それから、東常務の音頭で乾杯しました。


久々の懇親会でした

大いに盛り上がりました


中締めの時間が来ました


最後は、「末広がりの五本締め」で!

 

各地から参集したみなさんは、お酒や料理を楽しみながら会話の花を咲かせました。最後は、小久保取締役による中締めの挨拶でした。サンレー・オリジナルの「末広がりの五本締め」で締めました。これをやると、みんなの心が本当にひとつになる気がします。やはり、リアル・コンパはいいものですね! これからも大いに飲もう!

 

2023年3月24日 一条真也

茶縁

 

一条真也です。
無縁社会」などと呼ばれ、血縁と地縁の希薄化が目立つ昨今です。人間は1人では生きていけません。「無縁社会」を超えて「有縁社会」を再生させるためには、血縁や地縁以外のさまざまな縁を見つけ、育てていく必要があります。そこで注目されるのが趣味に基づく「好縁」です。この中には、ともにお茶を楽しむ「茶縁」があります。


お茶には、茶室で客人を「もてなす」茶道があります。茶で「もてなす」とは何か。それは、最高の美味しい茶を提供し、最高の礼儀をつくして相手を尊重し、心から最高の敬意を表することに尽きます。そして、そこには「一期一会」という究極の人間関係が浮かび上がってきます。人との出会いを一生に一度のものと思い、相手に対して最善を尽くしながら茶を点てることを「一期一会」と最初に呼んだのは、利休の弟子である山上宗二です。「一期一会」は、利休が生み出した「和敬清寂」の精神とともに、日本が世界に誇るべきハートフル・フィロソフィーです。



一方で、茶の間で家族や気のおけない仲間と「つながる」茶というものもあります。茶の間でお茶を飲みながら、互いを思いやり、気づかい、いたわり、共に笑い合う。そこには、つながり合う空間が生まれます。最近は茶の間が消え、リビングルームが増えてきています。時代は移り変わり、お部屋のかたちは変わってきていますが、家族のだんらん、友人同士の楽しい空間はお茶を中心に広がっています。いわば、ヒューマン・コミュニケーションのシンボルがお茶なのです。

 

 

このように、茶室における客人を「もてなす」茶にしろ、茶の間における家族や友人と「つながる」茶にしろ、茶とは良い人間関係づくりというものに徹底的に関わっているのです。 サンレーが目指すハートフル・ソサエティ=心ゆたかな社会=互助共生社会の実現には、社業である冠婚葬祭が重要になってくるのは間違いありません。これと同様に茶が育む「縁」も素晴らしい社会の実現には必要不可欠になるのではないでしょうか! 茶を中心に人間関係が構築される「茶縁」。みなさんも、ぜひ、「茶縁」を大切にされて下さい!

 

2023年3月23日 一条真也

死を乗り越える稲盛和夫の言葉

 

波乱万丈の人生、どんな苦難や逆境に遭遇しようと、恨まず、嘆かず、腐らず、明るくポジティブに人生を受け止め、素直に努力すればよい。
稲盛和夫

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。今回の名言は、故稲盛和夫氏(1932年~2022年)の言葉です。稲盛氏は京セラ創業者、KDDI創業者。日本航空元会長。鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業。1959年、京都セラミック(現・京セラ)を設立、社長、会長、名誉会長。『生き方』『働き方』『心。』など著書多数。2012年、第2回「孔子文化賞」を受賞。



松下幸之助というスーパースター亡きあと、まさに一隅を照らすが如く現れたのが京セラを創業した稲盛和夫氏でした。その活躍は経済界にとどまらず、松下幸之助同様、多くの著書でその思想を後世に語り継いでいます。京セラという製品を作る会社を創設したこともすごいことですが、1984年、第二電電(現・KDDI)を設立し、会長、最高顧問に就任します。通信事業を手掛け、現在のIT産業を支えています。



その後も、サービス業ともいえる日本航空の再生も実現します。まさに経営の天才です。さらには、稲盛財団を設立し「京都賞」を創設します。若手経営者育成のための経営塾「盛和塾」の塾長として後進の育成にも力を入れるなど、後進の育成も忘れません。松下幸之助松下政経塾とは一線を画す活動です。稲盛氏の言葉を読むとき、「人生は難しく考える必要はない」ということにいつも気づかされます。



「すべては心に始まり、心を終わる」というシンプルな真実を、多くの著書で訴えてこられました。わたしが最も影響を受けたのは「利他」の心の大切さです。わたしは、第2回「孔子文化賞」を稲盛氏と同時受賞させていただきました。孫子の代まで語り継ぎたい栄誉であると思っています。なお、この稲盛和夫氏の言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。

 

 

 2023年3月23日 一条真也