まぼろし博覧会 

一条真也です。
8日、ブログ「怪しい少年少女博物館」で紹介したレトロ・テーマパークを訪れた後は、姉妹施設である「まぼろし博覧会」を訪れました。精神が崩壊しそうでした。

まぼろし博覧会」にやって来ました!


まぼろし駅」の前で

まぼろし博覧会」を背に


ついに、ここに来れました!

 

Wikipedia「まぼろし博覧会」には、「日本の私設テーマパーク。静岡県伊東市富戸の国道135号沿いに所在する。総合出版社のデータハウスの社長である鵜野義嗣がプロデュースすると共に、『セーラちゃん』の名で自ら館長を務めている。伊豆のB級スポットとしてインターネットやニュースサイトで話題を呼んでおり、B級スポットとしては日本国内最大級との声もある」とあります。


いきなり、こんな感じ


なるほど、なるほど・・・・・・


あ、恐竜がいました!


恐竜に頭をかじられました!

Wikipedia「まぼろし博覧会」の「沿革」には、「出版関係を中心に『ねこの博物館』『怪しい少年少女博物館』など博物館事業にも力を入れているデータハウスが、閉園した熱帯植物園『伊豆グリーンパーク』跡地で計画と整備を進め、2000年代初めから土地の所有者と交渉を重ねた。約10年の交渉の末、2011年(平成23年)2月に土地と建物を購入し、同2011年7月16日に開館した」と書かれています。「怪しい少年少女博物館」とは、姉妹館にあたります。「怪しい少年少女博物館」は敷地面積に限界があり、入り切らない展示物があった上、展示を細かく修正しても誰も気づかないため、新たに広い場所を要したことも、本館の開館の理由の1つに挙げられるとか。


まだまだ入口は遠い


なんだ、こりゃ?


ようやく入口に辿り着く


入口の前で

 

Wikipedia「まぼろし博覧会」の「特徴」には、「コンセプトは『キモ可愛い』であり、公式ウェブサイトの各ページにも『キモ可愛いパラダイス』『キモ可愛いの楽園』『アホとボケの楽園』など、怪しげな文句が並んでいる。他にも『アンポンタン共和国』『怪しい秘密基地』など、多くの異名を持つ。館長の鵜野義嗣によれば、世間には面白いものが多数あるが、いずれはすべてが無くなると考え、昭和の家具や食器、新聞の折り込み広告に至るまで、日常で目にする普遍的なものから、あまり見かけない極端な物まで、現実の社会にあったものは全部集めたいと思って始めたという」と書かれています。


中に入ると、すぐ「大仏殿入口」


メディアにもたくさん紹介されてます

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会

また、「全体のコンセプトは、先述の『怪しい少年少女博物館』と同じだが、おたくや懐古趣味を持つ客向けでコレクターの世界とされる同館に対し、本館は子供から老人まで、1人残らず笑顔にしようとの狙いがある。つまり仲間内だけに褒めてもらうのではなく、知らない人、興味のない人への挑戦であり、多くの人を楽しませることが狙いとされる。植物園跡を利用しているため、敷地面積が非常に広いことが、特徴の1つに挙げられる。その広い空間に、多数の展示が詰まっているため、密度が濃く、ゆっくり見れば3時間から4時間は余裕でかかるともいわれる。鵜野によれば、坂道や階段のある立体的な場所としての当地に魅力を感じ、自分が子供の頃の夢と実体験とを織り交ぜた世界を作り上げたかったという」と書かれています。

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす


巨大聖徳太子像のインパクト!

 

さらに、「展示物は、先述の通り閉鎖したテーマパークから譲り受けたほか、骨董品店やインターネットオークションなどで収集している。展示内容の拘りとしては、鵜野は高価なもの、経済的な価値のある物には興味は薄い。昭和の文化であっても、家具などよりむしろ、広告やゴミこそが文化であり、面白いと感じている。展示は壊れても修理せず、その方が面白いという。『何でもあり』の展示ではあるが、違法な物、危険なものは禁止としている。元が植物園のため、館内は冷房が無く、夏季は室温40度から45度以上と、非常に暑い。公式には『人間たちが豊かさだけを求めた末に見失ったものを想い、大自然の環境をリアルに味わうため、敢えて館内を自然環境に近づけてある』とされている。また、雨天には雨漏りがする。鵜野は『今どき雨漏りする施設は珍しい。こんな暑さを体験できるのはラッキー』と前向きに発言している」と書かれています」

まぼろし博覧会」の展示物

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす(モアイの後姿)

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて(白龍)

 

さらに、「鵜野は『どこにもないさまざまな展示品を用意し、「夢か、うつつか、幻か」と思ってもらえるような施設を目指している。多くの人が楽しむことができる不思議な世界をつくっていく』『自分の趣味をただ見せるだけでなく、より多くの人が楽しめるような空間をつくっていきたい』と話している。一方で館内のスタッフは、本館の経緯や内容について『ここは小難しく考えちゃダメ。何も考えずに、ただ「感じなさい」』『この施設を説明しろって言われても難しいですよ(笑)』『考えたこともなかった』などと語っている」と書かれています。

まぼろし博覧会」にて(馬頭観音

まぼろし博覧会」にて(馬頭・牛頭)

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」の展示物

 

さらに、「鵜野自身、セーラー服おじさん(安穂野香)の来館を機に、2015年頃からセーラー服の着用を開始して『セーラちゃん』を名乗っており、セーラー服に飽きた後にはボディコン、人魚姫、少女椿など、様々なコスプレで来園者を楽しませ、道路に向かってジュリアナ東京のようなダンスを踊るなど自ら名物となっている。鵜野によれば『(「まぼろし博覧会」は)「癒し」と言ってくれる人もいる。(自分が)気持ち悪いくらいかわいい格好をして、お客さんに喜んでもらえるのが最高に気持ちいい』という」と書かれています。


突然外に出て、青空が出現!

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」にて

 

館内は複数のエリアゾーンに大きく分かれています。来園者は基本的に、順路に従ってエリアを巡ります。エリアごとに非常に奇怪、過剰、シュールな展示な並んでおり、それらの深みが先に行くほどに増してゆきます。入館前の通路、つまり入館料を払う前の無料の時点でも、元祖国際秘宝館のマスコットであった「秘宝おじさん」を改造した人形、「トモダチ神社」と称する宇宙人のような人形、「美少女神社」の立札と共にセーラー服姿のゴリラの人形、2人の女を抱く男の人形「二股神社」、カビだらけの婦人警官の人形、「雨ガッパを来たカッパ」と誤字のままの看板など、奇妙な展示が多数並んでいます。入口の前の時点で来園者が唖然としていたとの声もあります。

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

 

展示物は恐竜の置物から、巨大な聖徳太子像、何らかのミイラ、SFを髣髴させる物、古代遺跡のレプリカ、意味不明な物など、非常にバラエティに富んでいます。エリアによって音楽と雰囲気は全く異なり、館内を見ている間、退屈させないことが心がけられています。また、秘宝館から譲り受けた展示物も多いため、昭和期に多数あったにもかかわらず21世紀にはほとんど閉館した秘宝館の展示物も、その一部を本館で閲覧可能です。なお館内の展示物は、すべて撮影が許可されています。

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」にて

Wikipedia「まぼろし博覧会」の「密林にたたずむ大仏と古代文明」では、「温室で育てられた熱帯植物が生い茂る中で、ピラミッド、ストーンヘンジ、エジプト神話の神々、モアイ、日本の城などの模型が無造作に展示されているエリアである。時代の時系列に沿っての表現がある一方で、時代も地域もバラバラになっている展示もある」と書かれています。また、「巨大聖徳太子像」では、「まぼろし博覧会の象徴的存在とされ、鵜野の最も推奨する展示物が、巨大な聖徳太子像である。全高11.5メートルにおよび、その頭頂は館の天井にまで届く。パンフレットによれば世界最大ともされる。

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」のようす


まぼろし博覧会」にて

 

巨大聖徳太子像については、「鵜野によれば、別のイベントで使われた大仏の美術品を貰い受けて聖徳太子に改造したもので、購入費は2000万円、建設費約1000万円という。館内には12個に小さく分割して運び入れたが、それでも大きすぎたために、頭頂部分が削り取られており、その削り取った頭頂部分も別の場所に無造作に展示されている。子供にトラウマを与えるようなオブジェも多く、地元民の中には『悪いことするとまぼろしに連れていくよ』と子供を躾ける親もいるという」と書かれています。

村崎百郎館」の入口にて

村崎百郎館」にて

村崎百郎館」のようす

村崎百郎館」のようす

村崎百郎館」のようす

村崎百郎館」のようす(うんこ)

村崎百郎館」の出口(ペンギン)

 

「昭和の家庭を再現したジオラマ」では、「昭和から平成までの世相を再現したエリアである。1945年(昭和20年)以降の各年のベストセラー、当時の流行のポスター、ストリップの広告、看板、レコードのジャケット、玩具、歴代の人生ゲーム、野球盤、話題の人物の人形、手打ち式のパチンコ台、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会の陳列品など、懐古趣味を感じさせる年代物の貴重な品が多数並ぶ。特に、映画の宣伝ポスターと商品広告のポスター類は掲示数が多く、細かに見ると、それだけで半日以上かかりそうな程のボリュームがある」とあります。

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

 

また、「中には、昭和時代の8ビットパソコンやファミリーコンピュータと共に、PlayStationやセガサターンやXboxが混ざっていたり、長嶋茂雄の現役野球選手時代のポスターと共に『遊戯王』やポケモンカードなど、平成の商品も時代錯誤の如く混ざっている。一般家庭、教室、引きこもり、銭湯といった昭和時代の生活を再現したジオラマも並ぶ。展示されている小物もすべて本物で、当時の本、欠けた茶碗、薄汚れた手拭いなど、細部が非常に拘られている。懐古主義のマニアはもちろん、当時を知る年代の来園者、知らない若い世代の来園者にも、昭和の生活文化と風俗を知ることができると行った側面も持ち合わせている」と書かれています。

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

 

「魔界神社 祭礼の夕べ」では、「昭和エリアのにぎやかさとは対照的に、怪しい雰囲気が漂うエリアである。新生児や動物の剥製、クジラの性器、グロテスクとエロティシズムの強い展示品が並んでいる。テレビ放送にあたっては、大部分が放送禁止である。剥製の類は、すでに製作や流通がほとんど無い物が多く、廃館となった秘宝館の展示物を引き取ったものと考えられている。妊婦の子宮内にいる胎児の状態を月齢ごとにシースルーで再現した模型、180センチメートル級の巨体の人形、理髪用の多数のマネキンなども目を引く。藁人形に五寸釘を打ち込んで人を呪い殺す丑の刻参りのリアルな展示もある。藁人形と五寸釘のセットは受付で販売されており、会社員の来館者が職場の上司を呪った形跡も多い」と書かれています。

まぼろし博覧会」にて(パチンコ屋)

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」のようす(古本屋)

まぼろし博覧会」のようす

 

「魔界神社」と「悪酔い横町」が、館内で最も変わっているともいわれるそうです。きゃりーぱみゅぱみゅは本館の大ファンで、特にこのエリアを最も好んでおり、作品ごとのタイトルが独特で、それを予想しながら見るのが楽しいことがその理由だとか。「悪酔い横町」では、「壊れたマネキンが修理されずに無造作に展示されている。2014年に設けられた、比較的新しいエリアである。こちらも、秘宝館から買い取ったらしきエロティックな人形が並ぶ。腕の壊れた人形も、修復しないまま『傷だらけの天使』と称して強引に展示されている」と書かれています。

まぼろし博覧会」にて、シュプレヒコール


きみ、大丈夫かい?

まぼろし博覧会」にて

まぼろし博覧会」にて

 

悪酔い横丁には、「排便排尿再利用機」「人糞爆弾うんこ号」「改造人間チンパン人」など、小学生の男子が考えるような人形も多いです。流血や傷があったり、手足が体から離れていたりと、ホラー映画の登場人物を髣髴させる人形もあります。中には、「基地局との接続が切れて、スマートフォンが圏外になる」と書かれたボタンを押すと本当に圏外になるという、「ハッカー寺小屋」と称したハイテク展示も混ざっています。

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

 

村崎百郎館」では、「鬼畜系ライターといわれる村崎百郎(2010年没)の世界を再現したエリアです。2014年4月27日、『悪酔い横町』内にオープンした。妻の森園みるくによれば、2011年に村崎の没後に遺品を整理していたところ、データハウスの編集者がそれらに面白味を感じ、新たな施設の開設をもちかけたことがきっかけという。展示は、村崎のライフワークだった『ゴミ漁り』、『編集者・黒田一郎(村崎の本名)』、村崎が最も大事にしていた『魔術』の3つの部屋に分かれている。また、村崎がオカルト雑誌の『ムー』などを好んでいたこともあり、様々なアーティストの不思議な作品が並ぶギャラリー『未確認生物UMA博覧会』を併設している」と書かれています。

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

まぼろし博覧会」のようす

 

この中にいるだけで精神が崩壊しそうな「まぼろし博覧会」を逃げるようにして後にしたわたしは、13時44分発の特急踊り子号10号に飛び乗って熱海を目指しました。熱海には14時28分に到着。14時43分発の新幹線こだま731号で名古屋へ。名古屋駅には16時37分に到着。16時41分発の新幹線のぞみ169号で小倉へ。小倉駅に着いたのは、19時46分でした。


逃げるように帰りました!

 

それにしても、まさに「気がおかしくなるテーマパーク」でした。今度は、「気の晴れる楽しいテーマパーク」に行きたいですね。具体的には、東京ディズニーランド(TDL)で「ジャンボリーミッキー」の可愛い過ぎるお姉さんのダンスが見たいなあ!(笑)



2023年12月日 一条真也

怪しい少年少女博物館 

一条真也です。
8日の朝、静岡駅前のホテルの一室で起床しました。昨夜は全互連の仲間と飲み過ぎて二日酔い気味でしたが、客室の窓から富士山を見て目が覚めました。ホテルのチェックアウト後、静岡駅から新幹線こだま704号で熱海駅へ、そこから特急踊り子3号で伊豆高原駅に向かいました。


伊豆高原駅からはタクシーを利用


これが怪しい少年少女博物館だ!


怪しい少年少女博物館」の入口にて


入口横には怪しい小学校がありました
レジ横のようす

 

伊豆高原駅には11時06分に到着しました。そこからはタクシーで「怪しい少年少女博物館」へ。静岡県伊東市にある白昼夢の世界を体験できる博物館であり、レトロ・テーマパークです。ブログ「豊後高田 昭和の町」で紹介した施設を10月23日に訪れてから、いわゆるレトロ・テーマパークというやつが大好きになって、全国的に有名な「怪しい少年少女博物館」に行きたくなりました。


館内の陳列物


館内のようす


館内にて


館内にて


館内のようす


館内にて


館内のようす


館内のようす


館内のようす


館内にて


館内にて


館内の陳列物


館内の陳列物


館内の陳列物


館内にて

静岡市での会議に参加することになり、せっかく静岡県に足を踏み入れたわけですから、伊東市まで足を延ばそうと思った次第です。怪しい少年少女博物館の1階には、昭和のファッションの展示や懐かしいレトロなおもちゃが並べられています。まさに昭和にタイムスリップして、少年時代に戻ったような気分になりました。こういうのは本当に楽しいですね!


二階のようす


二階で幽霊に話しかける


二階にて


二階のようす


マリリン・モンローと💛


二階の陳列物(これは怖い!)


二階の陳列物


フランケンシュタインの怪物と


二階の陳列物


二階の陳列物


バービー人形がたくさん!

 

2階のアーティストコーナーでは、イラストレーターの大家”空山基”のイラスト、フィギュア、グッズが展示されています。造型師として有名な韮沢靖の沢山のフィギュアも見ることができます。また、「一般にレトロテーマパークは入場無料で、施設内のレトロ展示に関する販売や使用で料金をとる所が多く、また博物館は入場料をとり、入場後は対象物の仕組みや歴史を視覚形式で紹介する、というスタイルが基本である。入場料は大人1000円(小中学生は600円)で、入場するとレトロに関する物が、説明をよそに所せましと敷き詰められている。『怪しい』と冠している通り、一種カルトやサブカルチャーな雰囲気に浸っている点が、大きな特徴であり、常時一定数の入場客がいる人気を保っている」と書かれています。


お化け屋敷の入口


お化け屋敷のようす


お化け屋敷のようす


お化け屋敷のようす


お化け屋敷のようす


お化け屋敷のようす


お化け屋敷のようす


最後は悲鳴を上げました

 

博物館の一番奥にはお化け屋敷があります。これが入場者が接近すると、センサーによって比較的複雑なからくりが動くなど、凝った作りになっています。これは、怖いと評判の別棟あやしい夜の学校では、ホラーな恐怖体験ができるのです。たまりませんね! こういう本格的なお化け屋敷はわたしの大好物なので、すっかり嬉しくなりました。


出口にある巨大ペンギン像の前で

Wikipedia「怪しい少年少女博物館」の「概要」では、「データハウスの社長を務める鵜野義嗣が設立した私設博物館である。シルクハットをかぶった怪盗風の顔を付けた、巨大なペンギン人形が、外からの目印になっている。熱海市にあった「熱海博物館村・ふしぎな町一丁目」閉館にともない、展示物の一部を閉館したペンギン博物館に移してオープンした(尚、目印のペンギン人形はペンギン博物館時から存在するもので、当時は普通のペンギンであった)」と書かれています。次は、怪しい少年少女博物館の姉妹施設である「まぼろし博覧会」に行ってみます!


2023年12月8日 一条真也

目覚めたら、富士山が見えました!

一条真也です。
今朝は、静岡駅前にある「HOTEL PRIVE」の客室で目を覚ましました。窓を開けると、なんとJR静岡駅の上に富士山がよく見えました。感動!


JR静岡駅の上に富士山の雄姿が・・・

わたしは三度の飯より富士山が好きで、富士山を見ると「今日は良いことがあるぞ」と思えます。今日は朝からいきなり富士山が拝めて幸せです。素晴らしい部屋を用意して下さった、あいネット静岡の杉山社長に感謝です。あいネット静岡さんといえば、昨日訪れた結婚式場「ロイヤルセントヨーク」も素晴らしかったです。料理も最高!


富士は日本一の山

 

今朝の静岡市の気温は7度ですが、陽射しが強くて寒くありません。
今日は、これから伊東市へ向かい、ずっと行きたかった場所を訪れます。「怪しい少年少女博物館」と「まぼろし博覧会」です。ともに白昼夢の世界を体験できる博物館であり、レトロ・テーマパークです。ブログ「豊後高田 昭和の町」で紹介した施設を10月23日に訪れてから、レトロ・テーマパークというやつが大好きになり、全国的に有名な両施設に行きたくてたまらなくなりました。



このたび静岡市での会議に参加することになり、せっかく静岡県に足を踏み入れたわけですから、伊東市まで足を延ばそうと思った次第です。両施設ともに、訪れた者は必ず精神が崩壊するという恐ろしい場所です。はてさて、どうなりますことやら? 次のブログ記事をお楽しみに!


JR静岡駅で富士山のゆるキャラを発見!


富士山のゆるキャラ


それでは、行ってきます!


新幹線から富士山が見えました


JR新富士駅のホームで富士山をバックに


バンザーイ!!

 

2023年12月8日 一条真也

『世界文学をケアで読み解く』

世界文学をケアで読み解く

 

一条真也です。
『世界文学をケアで読み解く』小川公代著(朝日新聞出版)を読みました。「小説トリッパー」2021年冬季号から2022年冬季号まで連載した内容を、書籍化にあたって加筆訂正しています。著者は1972年、和歌山県生まれ。上智大学国語学部教授。ケンブリッジ大学政治社会学部卒業。グラスゴー大学博士課程修了(Ph.D.)。専門は、ロマン主義文学、および医学史。著書にブログ『ケアの倫理とエンパワメント』で紹介した前作をはじめ、『文学とアダプテーション――ヨーロッパの文化的変容』(共編著、春風社)、『ジェイン・オースティン研究の今』(共著、彩流社)、訳書に『エアスイミング』(シャーロット・ジョーンズ著、幻戯書房)、『肥満男子の身体表象』(共訳、サンダー・L・ギルマン著、法政大学出版局)などがあります。


本書の帯

 

本書のカバー表紙には、長髪の2人の人物の後ろ姿のイラストが描かれ、帯には「現代人が失いつつある〈ケアの倫理〉は、世界の文学にあふれている。」「『ケアの倫理とエンパワメント』で注目される英文学者が、弱者と暴力と共生、SF的想像力、新しい男性性、死者の魂を手がかりに、ケアの思想的な源をさぐり、世界の文学を読み直す画期的な5つの問いかけ」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「目次」が紹介されています。
今こそ〈ケアの倫理〉について考える――序論にかえて 
第一章 現代人が失いつつあるものとしての〈ケア〉 
第二章 弱者の視点から見る――暴力と共生の物語 
第三章 SF的想像力が生み出すサバイバルの物語 
第四章 「有害な男らしさ
     (トキシック・マスキュリニティ)」

             に抗する文学を読む 
第五章 死者(ビラヴド)の魂に思いを馳せる
    ――想像力のいつくしみ 
口をつぐむこと、弱くあることについて
    ――あとがきにかえて

 

アマゾンの内容紹介には、以下のように書かれています。
「マン・ブッカー国際賞受賞作家の韓国のハン・ガンが描く『菜食主義者』、光州事件をあつかった『少年が来る』。欲望や怒り、憎悪などの暴力に振り回されながらも、どのようにその世界から抜け出せるのか。ブッカー賞受賞作家、カナダのアトウッドがSF的想像力で生み出した『侍女の物語』と『誓願』でのサバイバルとは? このディストピア小説の舞台である「ギレアデ」共和国は不可視の世界で、キリスト教原理主義と家父長制が支配する。そして一人の女性の苦悩が女性たちの連帯(シスターフッド)と結ばれ、「他者」の言葉の力、生存する力がしめされる。差別により死にいたらしめられる者とその過酷さを知らぬ者、老いを経験する者と年若い者、病に臥す者と健康な体を持つ者、はたしてこのような差異を乗り越えて他者の傷つきや死を、私たちは凝視できるだろうか。死者へのケアをテーマにした、トニ・モリソン『ビラヴド』、平野啓一郎『ある男』、石牟礼道子苦海浄土』、ドリス・レッシング『よき隣人の日記』をもとに、他者への想像力を働かせることがどのようにケア実践につながるのかを考える。冷たい墓碑や硬い土に埋葬されている死者。かつては生命力に満ちていた身体と内面世界が、作品のなかで豊かな言葉によって回復されている」

 

 

「今こそ〈ケアの倫理〉について考える――序論にかえて」の1「シャーロット・ブロンテの場合」では、ジェイン・エアの作者シャーロット・ブロンテが、時間をかけて考えた物語を実際に「坐って書き記す暇を得られるように、家事や子の義務を果たそうと大いに気を遣っていた」ことが紹介されます。なぜなら、家事や家族の世話というケア実践のために、小説は「毎日書けるわけではなく、ときには何週間も、あるいは何か月も経って初めて、物語のすでに書かれた部分に何か書き加える」ことが多かったからです。シャーロットは、どれほど執筆にとり憑かれた状態になっていても、「彼女が何かしなければならないことがあったり、また他の人から助けを求められた時は決して一瞬の間もそれを無視したことはない」と周りの人々がはっきりと証言したといいます。

 

 

『もうひとつの声で――心理学の理論とケアの倫理』(邦訳は風行社)を書いたアメリカの心理学者キャロル・ギリガンは、〈ケアの倫理〉について熟考を重ねたことで、他者を「ケア」することと自己を他者から「分離」することとの間で葛藤していたであろうシャーロットの内面を想像することができるようになったといいます。著者は、「ギリガンが強調したように、人間は『自律モデル』か『依存モデル』かいずれかひとつで言い表されるほど単純な生き物ではない。とりわけ家事全般を担いながら、外で働こうとする女性にとっては、より複雑なモデルが必要だ。家族を養うために、年老いた父親を支え稼がなくてはならない責任を背負う長姉シャーロットも、家庭内における義務に目配りをするケア実践者シャーロットもいずれも彼女の本当の姿なのだ」と述べています。

 

 

2「ケアの価値とは何か」では、ケアがじつは互恵性を帯びることをギリガンは主張していることが紹介されます。つまり、「身勝手」なだけでもなく、「無私無欲」というわけでもない。「互恵性によって自律性を守り、自己を考慮に入れることと同じように他者のことも考慮するもの」、それが〈ケアの倫理〉であるというのです。シャーロットの妹で嵐ヶ丘の作者として知られているエミリー・ブロンテは「料理の主な部分を引き受け、家族のアイロンかけを全部担当していました。使用人が老衰してからは、彼女が家族のパンを全部作っていたそうです。勉強がどれほど面白くても、パン作りに失敗することはなかったそうです。

 

 

3「子育て・介護をする男たち」では、〈ケアの倫理〉を実践するのは女性だけに限らないことが指摘されます。近年、家事や育児を積極的に担うことが男性の望ましいあり方になりつつありますが、日本でいうとメンズリブ運動の嚆矢である1978年結成の「男の子育てを考える会」は男性が育児をすることが出発点でした。英文学者の河野真太郎氏によれば、近年の風潮は「第二波フェミニズムが、女性が無償の家事労働やケア労働(「再生産労働」)とも呼ばれます」を圧倒的に受け持たされている状況を問題にしたことへの応答」であったと、著書『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)で述べています。


ブログ「ジョーカー」で紹介した2019年に公開されたアメリカの映画(トッド・フィリップス監督)では、派遣ピエロとして働きながら、年老いた母親を介護する息子アーサーが自分の能力を発揮することができず、一人前になれないことで社会の「規範」に苦しめられる「弱者男性」として描かれていることが指摘されます。アーサーは、不随意の笑いを止められないという障害のために、コメディアンを夢見るも、それがかなえられない傷を持つ男性です。河野氏によれば、この映画で表象されるのは「新たな男性主体に対する嫌悪もしくは反感」であるといいます。


また、河野氏によれば、アーサーが及ぶ暴力的な行為は「女性や有色人種などに向かうことは巧みに避けられ」てはいるが、代わりに「資本主義にまみれた富裕層」に向けられることで、この支配層にいる白人男性たちとアーサーが属する「アンダークラス」の間に分断があることが示されているという興味深い仮説を立てています。つまり、「ジョーカー」は珍しく「介護する息子」の物語であり、そこに埋め込まれた傷と憤懣の捌け口としての暴力が、男性の生きづらさを物語だというのです。著者は、「幸いこのようなケアをめぐる物語や男性性についての物語は、世界中の文学作品に見出すことができる。私も文学研究者の端くれとして、『個人』と『社会』の両方が変容するための、その紐帯として機能する「文化」が文学や映画の豊かな土壌に埋まっていることを確認したい。

 

 

第一章「現代人が失いつつあるものとしての〈ケア〉――思想史」の2「苦悩する魂――オスカー・ワイルド『獄中記』『幸福な王子』」では、耽美主義者として知られるワイルドの「美」の観念が、その先入観のせいで誤解されてきたことは作品を読めば分かるとして、著者は「ワイルドが『幸福な王子』(The Happy Prince,1888)で描いた金箔に包まれた彫像は決して外見的な『美』を具現しているのではない。ワイルドが恋人のダグラスに贈ったカフスボタンの『美』もその物自体に内在しているのではなく、2人の友情、あるいは互いへの『ケア』にあった。つまり、『美』は観念ではなく他者の『生』に関わり合うという実践でもある」と述べています。

 

 

アメリカの医療人類学者アーサー・クラインマンは、著書『病いの語り――慢性の病いをめぐる臨床人類学』(邦訳は誠信書房)において、『ドライブ・マイ・カー』の家福にしても、『リア王』のリアにしても、そして獄中のワイルドにしても、徹底的な弱さや不幸を経験することに光が当てられていることを指摘します。著者は、「自分のために、という利己的な目的が失効するところに、人間らしいケアがある。新自由主義的な社会で、競争を強いられ、保身や利潤のために日々精神をすり減らしているような人々が、このような文学に触れるとき、まさに砂漠のなかにオアシスを見つけたような気持ちになる」と述べます。


3「ケア思想――カール・マルクスマックス・ヴェーバーミシェル・フーコー」では、著者は「今ではほとんどのモノやサービスが市場価値を持つ。ケアも例外ではない。〈ケアの倫理〉論者であるジョアン・トロント(Joan Claire Tronto,1952-)がイギリスのテレビドラマ『ダウントン・アビー』(Downton Abbey,2010-2015)を例に挙げているのはまだに慧眼である」と述べます。ブログ「ダウントン・アビー」で紹介した物語の舞台は1912年から1925年のイギリス、ヨークシャーの架空のカントリー・ハウスダウントン・アビー」で繰り広げられる物語。グランサム伯爵クローリー家とそこで働く使用人たちの生活を描いている。かつてはイギリスの貴族階級が多くの使用人を従えていたように、今では「富裕層」は誰かに労働の対価を払ってケアしてもらうことができる。つまり、ケアは「愛するひとから感謝の愛撫を受け取ったりするといった、幸せなときばかりに満ちたもの」というわけでは必ずしもないのだ(「ケアするのは誰か?」)。みさきが家福に対して行うケアもまた新自由主義的な文脈や階級の序列関係を踏まえると、より複雑な構造が見えてくるだろう。

 

 

著者によれば、ケアの問題を解きほぐすために参照できるのが、 ブログ『人新世の「資本論」』で紹介した経済思想家の斎藤幸平氏のベストセラーだといいます。今の新自由主義的な風潮では、売れればなんだって構わないという資本の価値増殖を優先しすぎる「交換価値」至上主義が横行し、ケア実践を含む「使用価値」(人の役に立つという有用性)を犠牲にしてしまっています。ケア労働の「交換価値」が低いために、人々のケアに対する評価も下がっているのではないだろうか。資本蓄積と経済成長を主眼とする資本主義社会では、「感情労働」であるケア労働は、労働集約的であるため、生産性が「低く」、高コストと見なされがちです。 ブログ『ブルシット・ジョブ』で紹介した名著を書いた人類学者のデヴィッド・グレーバーや斎藤氏によれば、「『使用価値』をほとんど生み出さないような労働が高給のため、そちらに人が集まってしまっている」のです。反対に、社会の再生産に不可欠な「エッセンシャル・ワーク」は使用価値が高いものを生み出す労働であるにもかかわらず、「低賃金で、恒常的な人手不足になっている」と、斎藤氏は指摘します。

 

 

何が有用で、何が有用ではないという基準が「資本」や「経済」に縮約されてしまう状況に疑問を投げかけてきた思想家はこれまでにもいました。カール・マルクスマックス・ヴェーバー、そしてミシェル・フーコーです。著者は、「育児、介護、看護などのケアは尊い営為である。しかし、資本主義社会において、家庭内の労働と見なされるケアは、経済的な価値によって評価されない。ケアを、『善きもの』として評価した上で、ケアが新自由主義的な、あるいは資本主義のシステムのなかに組み込まれるときに、さまざまな問題を孕んでしまうことを批判的に捉えることも重要である。カール・マルクス(Karl Marx,1818-1883)の思想にはケアの精神が内在している」と述べています。

 

 

また、マックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)による『宗教社会学論集』では、専門分野がますます分化され、合理化されていく現代社会で価値が貶められるケア精神(=無差別主義的な愛)が、資本主義と西洋におけるプロテスタンティズムとの関連で論じられています。ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、合理性を追求する資本主義の精神の根幹を「プロテスタンティズムの倫理」にさかのぼって見出していましたが、『宗教社会学編集』では「われわれの全存在が、専門的訓練をうけた官僚組織の枠組のなかに逃れるすべもなくがんじがらめになってい」る問題を指摘しています。

 

 

ミシェル・フーコーによれば、新自由主義の特異性は「社会的なものを経済化する」点にありました。労働が分業化されると、人は自分に押し付けられる一定の排他的な活動領域を持つようになり、そこから抜け出せなくなります。著者は、「フーコーは、そのような社会において個人の身体に働きかけるものとして重要なのは空間であると考えた。たとえば、学校や教会、病院、監獄、工場など、人間の身体をひとつの空間に囲い込み、その行動を監視するシステムが確立するのである。そのような空間のなかで規則的な行動が反復される。このようなシステムに呑み込まれている人間に対する包括的な『ケア』を考えていたのがフーコーといえよう」と述べます。

 

 

ケア精神を置き去りにしたビジネスの資本主義的な精神に傾倒することに反旗を翻している思想家、社会学者たちは他にもいます。インドの経済学者、哲学者のアマルティア・セン(Amartya Sen,1933-)は、「効用」情報への一元化という功利主義を批判しています。著者は、「センの思想には、物質的な豊かさや人々が満足しているかどうかという観点から人間の幸福を分析しようとする単純化された人間像を排し、新しい人間像を創造しようとする視点がある。セン以前の経済学では、人間は個人的な満足や利得や効用だけを目的に行動するという前提があったが、経済学の分野でも少しずつケアの視点を取り込むような思想が着目されるようになっているのだろう」と述べます。

 

 

人間は自分の利得にならなくても、他人の窮状をみかねて行動することもあるということでいうと、フランスの哲学者メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty,1908-1961)やカナダの政治学者チャールズ・テイラー(Charles Taylor,1931-)らも重要な議論を提供しているといいます。著者は、「心理学には、幼児期に自己と他者が一体化した状態になることを表す『幼児の癒合性』という概念がある。メルロ=ポンティは、この自他未分化性を乗り越えたはずの成人が再び他者との混淆状態に投げ込まれ、自他が『癒合』することがあると考えた。それは苦しみを共有したいと思うほどの他者への献身愛が発現するときだという」と述べます。

 

 

また、チャールズ・テイラーによれば、孤立する近代的な自己は、〈緩衝材に覆われた自己〉(buffered self)であり、精神の外部にあるすべてのものから自分自身を分離することが可能であると見なしています。著者は、「つまり、他者と分離された〈自律的な個〉と、他者に開かれた〈多孔的な自己〉(porous self)が対比されている。後者は近代ではより希薄になりつつある存在で、内的世界と外的世界とを行き来するようなケアの精神に満ちた自己である。数々の文学作品にも『多孔的』な主体は描かれてきた」と述べています。

 

 

4「〈多孔的な自己〉――ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』「病気になるということ」」では、リベラル・フェミニストシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir,1908-1986)が取り上げられます。同志社大学グローバル・スタディーズ研究科教授(西洋政治思想史・現代政治理論)の岡野八代氏は、著書『フェミニズム政治学――ケアの倫理をグローバル社会へ』(みすず書房)において、ボーヴォワールが家を維持する仕事を単なる「ルーティンワーク」と見なし、人間的な価値を認めてこなかったことを「人類の活動」という広範な営みとして評価しています。著者は、「〈ケアの倫理〉論者であるジョアン・トロントも、イギリスの哲学者アダム・スミススコットランドの哲学者デヴィッド・ヒュームの道徳感情などの感受性の概念を採用しつつ、〈ケアの倫理〉が私的であるからこそ、普遍的な倫理より優れていると考えた」と述べます。

 

 

第二章「弱者の視点から見る――暴力と共生の物語」の2「〈妹の力〉――柳田国男『妹の力』、アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』」では、柳田国男フォークロア論に言及します。著書『妹の力』において、柳田は「妹の力」が「改めて痛切に要望せられる時代はきている」として、「過去の精神文化のあらゆる部面にわたって、日本の女性は実によく働いている。あるいは無意識にであったかも知れぬが、時あって指導をさえしている」と述べました。柳田によれば、女性は「精神作用に強く影響し」、「天然と戦い異部落と戦う者にとっては、女子の予言の中から方法の指導を求むる必要が多い」といいます。


この「女の力を忌み恐れたのも、本来はまったく女の力を信じた結果であって、あらゆる神聖なる物を平日の生活から別置するのと同じ意味で、実は本来は敬して遠ざけていた」ともいわれています。また、柳田は、彼が「精微なる感受性」と呼ぶこのケアの力を現代人が「迷信などと軽く見てしまって考えてみようともしなかった」ことに対して、疑義を唱えているといいます。さらには、沖縄の「御嶽の神々」が男女の二柱であるなど、「かくのごとき兄妹の宗教上の提携の、いかに自然のものであったかは、遠近多種の民族の類例を比べてみてもわかる」ということを著者は紹介しています。

 

 

第三章「SF的想像力が生み出すサバイバルの物語」の3「創造力の軽視/経済学の重視――ダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー』」では、アメリカの女流SF作家であるル=グウィンは、著書『夜の言葉――ファンタジー・SF論』(邦訳は岩波現代文庫)において、大多数のアメリカ人男性が、「知的感覚的な精神の自由なあそび」である想像力を「抑圧」することを学んできたと指摘していることを紹介します。彼らがいかに想像力を、何か「女々しい、子どもじみた、益のない、そしておそらくは罪なこととして拒絶することを学んできた」かについて語っているとして、著者は「男らしくないという理由から『フィクション』や想像力の産物であるファンタジーやSF小説を避けるタイプの読者は、スポーツやポルノグラフィーといった『まやかしのリアリズム』に逃避するのだという」と説明します。

 

 

ル=グウィンは、「ル=グウィンの法則」、つまり「ファンタジーとお金は反比例する」という事実を指摘しながら、ファンタジーやSF小説を含む「日常意識と狂気のはざまに位置する作品群における想像力の効用」について強調しています。トールキンのSFファンタジーに描かれるホビットの世界は「社会的地位や物質的成功、収入」とは関係ないと言いそうな世の男性たちに対抗するため、彼女は「ちょっと経済学をはなれて、もうひとおし考えてみてください」と提案しています。相手が自分とは完全に異なる存在――すなわち他者――であると認識した場合の問題点をル=グウィンは物象化、あるいは「“物”にしてしまった」こととして批判しているというのです。

 

 

アダム・スミスは『道徳感情論』と『国富論』という大著を残していますが、後者では、利己心こそが経済を動かしていると確信していました。スミス自身もその経済活動に参加し、財産も相続していたわけですが、生涯独身であった彼の生活の一切合切を世話したのは母親のマーガレット・ダグラスでした。マルサルは、アダム・スミスのような白人男性が経済人の完璧なモデルであると述べています。そしてもう1人、忘れてはならないフィクションの登場人物がいるとマルサルは指摘します。それは、イギリスの作家ダニエル・デフォー(Daniel Defoe,1660-1731)が『ロビンソン・クルーソー』(Robinson Crusoe,1719)で描いた経済人です。

 

 

船に乗るたびに災難に見舞われるロビンソン。無人島漂着でさすがに悪運尽きたかと思えましたが、住居建設、家畜の飼育、麦の栽培、パン焼きなど、試行錯誤しながらも限られた資源を活用して28年も暮らすことになります。創意工夫と不屈の精神で生き抜いた男の波瀾の人生を描いた傑作です。このロビンソン・クルーソーの物語を介して、人間はモノに対してだけでなく、人間に対しても「所有」という関係を持ちうる、あるいは道具化しうることを確認できます。そしてその場合、その人間は「超越者」(「所有と固有」)と呼ぶべき存在であるという哲学者・鷲田清一氏の指摘は示唆に富んでいるといいます。著者は、「ロビンソン・クルーソーは、単なる経済人なのではなく、近代的自己に特徴的な『固有性』という幻想を見続ける『超越者』なのかもしれない」と述べるのでした。

 

 

第五章「死者の魂に思いを馳せる――想像力のいつくしみ」の1「生のかけがえのなさ」では、墓碑銘について語られます。墓碑銘は、古来より愛されし者の死を悼む「哀歌」の一部とされてきました。英文学者の友田奈津子氏は、墓碑銘は「その小さな墓石の上に人生すべてを描くことのできる」ものであり、「『喪失した過去についての瞑想』を促すもの」ともされているといいます。ノーベル文学賞者のアメリカの作家トーニ・モリスン(Toni Morrison,1931-2019)による『ビラヴド』は、南北戦争前後の時代を背景に語られる逃亡奴隷セサと彼女が自らの手で生を奪うしかなかった娘の悲劇の物語ですが、そのタイトルはセサが墓碑銘を刻んだ「ビラヴド」からきています。著者は、「幽霊となって蘇る娘をめぐるこの物語は母親セサの愛しい我が子への全身全霊の哀歌だといえる」と述べています。

 

 

死者に思いを馳せる近代文学の系譜は、18世紀イギリスの前ロマン派詩人トマス・グレイの「墓畔の哀歌」までたどれるそうです。友田奈津子氏によれば、グレイの想像力が生み出すこの詩において、墓の崇高さ、美しさは言葉1つひとつに凝縮されています。そして、その「墓」とは、かつては生を得て、日々の暮らしを送りながら千々の悲しみや喜びを抱いていた無名の人たちの比喩でもあり、この文脈における「墓」とは「そこに眠る人その人自身」であるといいます。彼らは地位や名声を得た人間ではなく、ハムデン、ミルトン、クロムウェルといった時代の寵児になりえたかもしれない、しかし生を終えてみれば、無名の誰かとして埋葬された死者であり、だからこそ、墓石はその人たちの記憶を探り当てる場所でもあるのです。

 

 

精神科医木村敏氏は、著書『関係としての自己』みすず書房)において、「死者とは究極の他者である」と述べました。そして「他人とは、自分でない人、自分と別の人のことである。他人を見たとき、私はそこに人間以外の生物でもロボットでもなく、私と同類の人間を見ている」とも述べました。「同類の人間を見ている」とはどういうことか。著者は、「とりわけ分断が深刻化している今日、他者を自分と同類の人間として見ることは困難になってきているのかもしれない。それは、近代人が個の自立や自己責任に重きを置きすぎるあまり、潜在的に懐疑心と攻撃性を抱え込んでしまっているからだ」と述べています。

 

 

4「ひきさかれた魂――石牟礼道子苦海浄土』」では、 ブログ『苦海浄土』で紹介したグリーフ文学の最高傑作が取り上げられます。で紹介した石牟礼道子の名著がよく知られています。2018年2月10日に90歳で亡くなった石牟礼は水俣病の現実を伝え、魂の文学として描き出した作品として絶賛されました。作家の池澤夏樹氏が個人編集した『世界文学全集』(全30巻、河出書房新社)には『苦海浄土』3部作が日本人作家の長編として唯一収録されています。池澤氏は「辺境から近代化に抵抗し、水俣にとっても、人類にとっても、石牟礼さんがいたことは『幸運』だったかもしれない。翻訳されても価値が減じず、訳された先でも価値が広がっていくような普遍性のある世界文学でした」と評しました。最後に、本書の著者である小川公代氏は「文学作品を読むとき、私たちはけっしてその作品だけを読むわけではない。その読書体験に促されて、かつて読んだ本はもちろん、それにまつわるさまざまな文化的、歴史的コンテクストをはじめ、無意識のうちに呼び起こされる他者の記憶やイメージの断片をも想像しながら読むのである」と述べるのでした。「ケア」というキーワードに惹かれて手に取った本書ですが、フェミニズムをはじめ、多くの学びを得ることができました。

 

 

2023年12月8日  一条真也

東京から静岡へ 

一条真也です。
7日の朝、銀座のホテルの客室で目を覚ましました。気温は14度。昨夜は、芥川賞作家で臨済宗妙心寺派福聚寺住職の玄侑宗久先生と数時間にわたってメールのやりとりをしました。玄侑先生とは来年、「仏教と日本人」をテーマに対談させていただくことになりました。これまで「儒教と日本人」について加地伸行先生と、「神道と日本人」について鎌田東二先生と対談させていただきましたが、一連の対談シリーズの総仕上げとなります。楽しみです!


JR東京駅の前で


東海道新幹線


新幹線ひかり509号で静岡へ


ひかり509号の車内で

 

朝食を済ませたわたしは、JR東京駅へ向かいました。ここから新幹線ひかり509号に乗って静岡へ。この日は、全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の中部ブロック研修会に参加するのです。静岡を訪れるのは久しぶりです。


車内では読書しました

 

ひかり車内では、読書をしました。この日は、『2020年代の想像力』宇野常寛著(ハヤカワ新書)を読みました。著者は気鋭の評論家ですが、同書は現代を代表する作品群を網羅した最新文化批評集です。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』『すずめの戸締まり』『機動戦士ガンダム 水星の魔女』『怪物』『街とその不確かな壁』『鎌倉殿の13人』など、この時代を代表する作品の分析を通じて強大な「現実」に抗うための想像力を提示しています。わたしもレビューを書いた作品も多く、「こういう見方もあるのか」と刺激を受けました。


JR静岡駅のホームで


JR静岡駅の前で

 

JR静岡駅には12時02分に着きました。静岡の気温は18度で、暖かかったです。駅のホームでサンレー北陸の郡事業部長と待ち合わせ、そのまま駅前のホテルに行って荷物を預けました。それからまた駅に戻って、バスで研修会の会場に向かいました。会場は、あいネット静岡さんの結婚式場「ロイヤルセントヨーク」です。13時30分から理事会、14時から研修会、17時30分から懇親会、20時30分から二次会となっています。しっかり学び、楽しく仲間と懇親を図りたいと思います。

ロイヤルセントヨークにて


昼食でいただいた魚介のトマト・スパゲッティ

 

2023年12月7日 一条真也

「ショータイム!」

一条真也です。東京に来ています。6日の午後、銀座でいくつかの打ち合わせをした後、夜はヒューマントラストシネマ有楽町でフランス映画「ショータイム!」を観ました。コメディ要素の強いヒューマンドラマです。実話に基づいているそうですが、たいへん面白かったです。なお、この記事は、今年150本目の映画レビューとなります。


ヒューマントラストシネマ有楽町の公式サイトには、この映画について以下のように書かれています。
「祖父が始め父から受け継いだ農場を守るため田舎の農場にキャバレーを開いた農夫の奇想天外なサクセスストーリー3代続いていた農場を自分の代で終わらせられない。民事裁判所の判事から与えられた猶予はたったの2か月。まさに背水の陣。ここまで追いつめられて俄然力を発揮する人とそのまま沈んでしまう人がいる。人生の転機はほんのささいな偶然とひらめきから生まれるもの。潰れかけている農場の納屋を改装してそこにキャバレーを作ろうと奔走し、反対する人たちを納得させ、パフォーマーを集め、喧嘩を制裁して華やかなショーを演出する、そんなフランスの田舎であった実話をもとにしたこの作品は、笑いあり涙ありの娯楽映画である」

 

ヒューマントラストシネマ有楽町の公式サイトの「STORY」は、以下の通りです。
「フランス中南部の農場。農場主のダヴィットは地方裁判所の判事の元へ出頭する。差し押さえを何とか2か月待ってもらったものの、成すすべもなく途方に暮れたその街からの帰り道、道端に明るく輝くネオンサインを見つける。『キャバレー』だった。虫が明るい所に引き寄せられるように店内に入っていくダヴィット。そこで思いもかけないことを思いつく。農場の"納屋"をキャバレーにしてお客さんを呼べば一石二鳥ではないか! それから前代未聞の"農場キャバレー"作りが始まった・・・」

 

ヒューマントラストシネマ有楽町を訪れるのはブログ「『グリーフケアの時代に』公開!」で紹介した12月1日以来です。 ブログ「グリーフケアの時代に」で紹介したドキュメンタリー映画の公開初日の初回上映が秋篠宮皇嗣妃殿下の臨席(ご行啓)の宮内庁の正式行事となり、同劇場のシアター1は満席でした。この日もシアター2がほぼ満席だったのですが、高齢の観客が多かったのか印象的でした。わたしは、なんとなく「NHK朝ドラの『ブギウギ』の影響では?」などと思いました。その高齢のお客さんたちはすごくノリが良くて、何度も大笑いしていました。ブログ「『笑いの会』100回!」にも書きましたが、笑える年長者というのは本当に幸せだと思います。


たしかに、この映画は笑えます。牛やニワトリの形態模写をする農夫、「眠くな~る」と言いながら自分が寝てしまう老催眠術師をはじめ、キャバレー出演者オーディションに参加した面々の姿にはわたしも爆笑しました。わたしはカーニバルとかサーカスが大好きなのですが、この映画を観て、キャバレーにもそれらと同じ祝祭的要素があると思いました。日本でいえば梅沢富美男さんなどの大衆演劇にも通じると思いますが、祝祭は退屈な日常に亀裂を入れ、新しい時間と空間を創造します。その中で、人々は生きる活力を得るのでしょう。すべてのショーは、さまざまな悩みや苦しみを持つ人々への応援歌ではないでしょうか?

 

ただ、この映画にも登場した「SHOW MUST GO ON」という言葉は、故ジャニー喜多川の口癖だったことを思い出しました。ブログ「ジャニーズ事務所の社長交代に思う」で紹介した9月7日のジャニーズ事務所の記者会見の直後、木村拓哉がジャニー氏を連想させる「SHOW MUST GO ON」と記したインスタを投稿して大炎上。キムタクはすぐに削除しました。この映画を観た夜に放送されたフジテレビの「FNS歌謡祭」には多くのジャニーズ・タレントが出演していましたが、史上最悪の性犯罪者の被害者への補償もまだ済んでいないのに「SHOW MUST GO ON」は許されることではありません。「ショータイム!」にはゲイの歌手も登場しますが、ジャニー喜多川の蛮行は日本のLGBTQ運動を何年も遅らせてしまいました。


ところで、この日のヒューマントラストシネマ有楽町では、新作映画「マエストロ:その音楽と愛と」の予告編が流れ、目を奪われました。NETFLIX作品なのですが、8日から同劇場で上映されるそうです。「ウエスト・サイド物語」の音楽を手がけるなど指揮者・作曲家として世界的に知られたレナード・バーンスタインフェリシア・モンテアレグレ・コーン・バーンスタインがともに歩いた生涯を振り返る、大胆かつ情熱的な類まれなる愛の物語です。監督のブラッドリー・クーパーが主演も務め、バーンスタインを演じます。プロデューサーはスティーヴン・スピルバーグマーティン・スコセッシというから、これはもう必ず観なければ!・・・・・・と思っていたら、劇場受付では「マエストロ:その音楽と愛と」と「グリーフケアの時代に」のポスターが並んでいるではありませんか! ブラッドリー・クーパーの大きな顔写真のすぐ近くに、わたしの小さな顔写真がありました。(笑)


ヒューマントラストシネマ有楽町の受付


左上にわたしの小さな顔写真が・・・(笑)

 

2023年12月7日 一条真也

師走の東京へ 

一条真也です。
5日の夜、小倉ロータリークラブのテーブル会合があり、松柏園ホテルで飲みました。みなさんから「松柏園の料理は本当に美味しい」と言われ、嬉しかったです。翌6日
の朝は少し二日酔い気味でしたが、わたしは迎えの社用車に乗って、北九州空港に向かいました。そこから、スターフライヤー78便で東京に飛ぶのです。北九州は気温9度と寒かったので、マフラーを首に巻いていきました。

北九州空港の前で

本日の北九州空港のようす

いつも見送り、ありがとう💛

それでは、行ってきます💛

 

今回の出張の最大の目的は、東京で宗教学者島薗進先生との対談本『今ここにある宗教~現代日本人の死生観を問う』(仮題、弘文堂)の内容に関する打ち合わせ、次回作『ロマンティック・デス』『リメンバー・フェス』のR&Rブックスオリーブの木)の打ち合わせを行います。それから静岡市に移動して、全互連の中部ブロック研修会への参加。さらに伊東市に移動して、話題の施設を見学したいと考えています。

スターフライヤーの機内で

機内ではマスクを着けました

 

この日は、10時10分発のスターフライヤー78便に搭乗。ブログ「マスクを楽しむ!」で紹介したように、わたしは多彩な色のマスクを着用しますが、常に「悪目立ちしない」ことを意識します。飛行機では、必ず不織布マスクを着用します。現在、インフルエンザも流行していますしね。コロナが5類に移行した後も、わたしはしばらく着用するつもりです。第一、大量のカラフル・マスクのストックがありますから、使わないともったいない!(笑)

機内で、読書しました

 

機内では、いつものようにコーヒーを飲みながら読書をしました。この日は、『プロレスラー夜明け前』瑞佐富郎著(standards)を読みました。ジャイアント馬場アントニオ猪木ジャイアント馬場ケンドー・ナガサキ天龍源一郎三沢光晴、初代ブラックタイガー橋本真也武藤敬司ザ・ロード・ウォリアーズスティーブ・ウィリアムス小橋建太大谷晋二郎永田裕志本間朋晃柴田勝頼、タイチ、オカダ・カズチカ鷹木信悟内藤哲也高橋ヒロム力道山・・・・・・。どんな偉大なレスラーにもリングに上がる「夜明け前」があります。ブログ『プロレス鎮魂曲』ブログ『さよなら、プロレス』で紹介した本に続く、プロレスラーの「デビュー」をめぐる<真実>の物語でした。 

窓から富士山が見えました

富士は日本一の山

途中、機内の窓から富士山が見えました。久々に日本一の山を拝みましたが、やはり風格があります。富士山を見ると、「よし、きっといいことがあるぞ。すべて、うまくいくぞ!」と思えてきます。生きる勇気を与えられます。


東京が見えてきました


機内から見た東京湾

 

富士山だけではなく、この日は東京湾もよく見えました。わたしは通路側の席に座っていたのですが、窓側の席の方に「すみません、写真を撮らせていただきます」と断ってからスマホで撮影しました。新型iPhone15の望遠レンズは性能が素晴らしいです!


羽田空港に到着

羽田空港にて

久々に銀座ライオン羽田空港


本日のランチ

 

羽田空港には11時45分に到着しました。北九州の気温は9度でしたが、東京は気温が15度もあって暖かく、マフラーはおろかコートも要らないぐらいでした。ちょうどランチタイムだたので、空港出口近くの銀座ライオンに入って、日替わりハンバーグランチにミニ・サラダとスープとアイスコーヒーを一緒に注文しました。ライオンに入ったのは本当に久しぶりですが、注文がすべてタブレットのみになっていて不便でした。おじさん、タブレットは苦手です😭味はまあまあでしたね。その後、今回初めて宿泊する銀座のホテルに向かいました。その後は打ち合わせラッシュです。連日の飲み会でちょっと疲れ気味ですが、「天下布礼」のために気合を入れて頑張ります!

さあ、行動開始です!

 

2023年12月6日 一条真也