『最強の系譜』

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

 

一条真也です。
21日、東京に来ました。
22日、全互協の新年行事であるグリーフケアのパネルディスカッションにパネリストとして出演します。
『最強の系譜』那嵯涼介著(新紀元社)を読みました。「プロレス史 百花繚乱」というサブタイトルがついています。プロレス史専門ムック『Gスピリッツ』(辰巳出版)に、2008年から現在まで著者が寄稿してきた、論文や評伝、インタビューといった文章のほぼすべてを1冊にまとめたものです。著者は1965年、埼玉県出身。本名非公開。格闘技史研究家。ライター。2008年、『Gスピリッツ』誌に「Uの源流を探る―カール・ゴッチとキャッチ・アズ・キャッチ・キャン」を寄稿、ライターとしてデビューしました。 

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、左上から時計回りにルー・テーズカール・ゴッチダニー・ホッジビル・ロビンソン、ローラン・ボック、ビリー・ライリー、エド・ルイスといった最強プロレスラーたちの写真が使われ、帯には「格闘史研究家 渾身の評論集」「テーズ、ゴッチ、ホッジ、ロビンソン、そしてボック・・・・・・プロレス史を彩る強豪たちの軌跡」と書かれています。帯の裏には「欧州を中心とした、強豪レスラーたちのエピソード満載」「プロレス・ファン必携の一冊!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。
「テーズ、ゴッチ、ホッジ、ロビンソン、そしてボック・・・・・・。プロレス・ファンの間で語り継がれる伝説の強豪レスラーたち。本書は長年にわたり格闘技史研究を続けている著者が、彼らの真の強さを探求した評論集です。特に1978年にドイツ・シュツットガルトアントニオ猪木と死闘を繰り広げその後、長い間、沈黙を守り続けたローラン・ボックのロングインタビューや、1977年、78年にアントニオ猪木坂口征二異種格闘技戦を行ったザ・モンスターマンのインタビューなど、これまであまりプロレス・マスコミに登場しなかった選手の証言も収録。昭和プロレスファンには必読の内容となっています」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

第1章 ベルギーのカレル・イスタス
    ―カール・ゴッチの欧州時代―

第2章 ウィガンにあった黒い小屋
    ―‟蛇の穴“”ビリー・ライリージムの実像―

第3章 危険で野蛮なレスリン
    ―キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの起源―

第4章 JIU-JITSUは果たして敵なのか?
    ―日本柔術とキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの遭遇―

第5章 ゴッチが勝てなかった男
    ―伝説の強豪バート・アシラティ評伝―

第6章 「イスタス」から「ゴッチ」へ
    ―カール・ゴッチ アメリカ時代の足跡―

第7章 カール・ゴッチが出会ったアメリカン・キャッチの偉人たち―オールド・シューター発掘―

第8章 史上最強の三大フッカー
    ―テーズとゴッチ、ロビンソンの複雑な関係―

第9章 ふたつのリスト
    ―テーズとゴッチ、それぞれの最強レスラー論―

第10章 20世紀のパンクラティスト
     ―ダニー・ホッジ回想録―

第11章 世界各国の戦前レスリン稀覯本

第12章 恐怖のトルコ 
     ―コジャ・ユーソフとトルコレスリング―

第13章 戦前の英国プロレス盛衰記
     ―「白紙の20年」とオールイン・レスリング―

第14章 大河に抗わず―前座レスラー長沢秀幸の人生―

第15章 『ゴッチ教室』の全貌
     ―指導者カール・ゴッチの原点―

第16章 もうひとりの‟ゴッチの息子”独白
     ―ジョー・マレンコ インタビュー―

第17章 盟友アントニオ猪木とともに
     ―琴音隆裕 インタビュー―

第18章 木村政彦のプロレス洋行記
     ―知られざる戦いの足跡―

第19章 30年の沈黙を破り、あの‟墓堀人”が甦る
     ―ローラン・ボック インタビュー―

第20章 『イノキ・ヨーロッパ・ツアー』の全貌
     ―猪木のロマンとボックの野望―

第21章 ダイナマイト・キッドとシュート・レスリング―爆弾小僧の創生期―

第22章 ウィガンからのメッセージ
     ―ロイ・ウッド インタビュー―

第23章 怪物たちの述懐―ザ・モンスターマン&ザ・ランバージャック インタビュー―

「あとがき」
「参考文献一覧」



「はじめに」の冒頭には、「プロレスラーに‟強さ”を求めて何が悪い」と太字で書かれ、著者はそういう視点でこのジャンルと接してきたし、これからもそうやって生きていくだろうとして、以下のように述べています。
「『プロレスとは元来、強さを競うものではないし、ましてや‟最強”などというワードを当てはめるのは幻想にすぎない。愚の骨頂である』
格闘技ファンのみならず、プロレスを愛する者たちの間でも、そうした論調が大勢を占めるのは百も承知である。だが待て。果たして本当にそうか。我々は子どもの頃、彼らの勝ち負けや強さの優劣に一喜一憂していなかったか。ボクシングや大相撲の延長戦上に、プロレスを捉えていなかったか。『ガス灯時代の強豪』に、思いを馳せたことはないか。そして世界中のプロレスラーの中で果たして誰が一番強いのか、知りたいと思ったことはないか。少なくとも、筆者はそういう少年だった。長じて、プロレスというジャンルの‟本質”を知ったあとでも、その想いは一度も萎える事はなかった。そのことに一切の後悔はない」



また著者は、プロレスについて以下のように述べます。
「プロレスというジャンルは、決して狭義なものではない。万人の眼があれば万人の捉え方があり、いずれの想いにもプロレスは必ず応えてくれる。正解など存在しないのだ。筆者の如く、プロレスラーの強さに興味を抱き、その術理や系譜を紐解くべく歴史書を読み漁り、多くの声を聞き、悠久の歴史に想いを馳せる者にすら、プロレスは胸襟を開いてくれる。もちろん、それは、観る者に留まらない。プロレスラーの側にも、強さを飽くことなく追及し、その生涯を捧げ全うした多くの者たちが間違いなく存在し、そして、彼らが有したプロレス固有の技術も、様々な形で現存している」
最後に、「この本は、そんな‟最強”を追い求めた男たちのドキュメンタリーである」と述べるのでした。



第2章「ウィガンにあった黒い小屋―‟蛇の穴”ビリー・ライリージムの実像―」では、カール・ゴッチビル・ロビンソンといった多くの強豪を生んだ「スネークピット(蛇の穴)」ことビリー・ライリージムについて書かれています。英国北部のランカシャー地方に、ウィガンという小さな炭鉱町があります。この町には約1000カ所の炭鉱があり、人口の多くを炭鉱労働者が占めるのですが、著者はこう書いています。
「採掘作業が終わったあとの彼らの楽しみは、仲間と興じる酒盛りと賭けレスリングであった。どちらも強ければ仲間から尊敬され、レスリングに勝てば1日の稼ぎも増える。低所得者層が殆どのこの町だが、レスリングを教えるジムは無数にあった。そこで教えられるレスリングは、もちろんキャッチ・アズ・キャッチ・キャンである」



キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、英国南部の支配者階級からは「野蛮で危険である」と毛嫌いされたスタイルですが、北部労働者階級の荒くれ男たちには制約が少なく勝ち負けが分かり易いキャッチ・アズ・キャッチ・キャンはうってつけのレスリングだったのです。ビリー・ライリー・ジムは炭鉱で働くレスラーたちのために開かれましたが、「スネークピット」というジムのニックネームは現地で命名されたものではないそうです。ビル・ロビンソンによれば、「アメリカに渡るまで、ライリー・ジムがスネークピットと呼ばれていることを全く知らなかった」そうです。著者は、「この呼び名はロビンソンがこのジムに入門するずっと以前に、ライリー・ジムを訪れたアメリカのレスラーたちによって名づけられたようだが、長くて暗い炭鉱(ピット)と、相手に蛇のように絡みついて技を仕掛けるキャッチ・アズ・キャッチ・キャン独特のスタイルの両方を掛け合わせた‟ダブル・ミーイング”であることは間違いないだろう」と述べています。



ビリー・ライリー・ジムでは、純度100パーセントのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンが行われました。その最も大切な理念について、ロビンソンは「相手の動きに合わせてリアクションする。待ち構えていてはいけないんだ。同じ相手でも状況によってその動きは千差万別に変わってくるものだから、それに如何に素早く反応できるかが重要になってくる。逆にこちらの攻撃に対して、相手の逃げ道が5つあるとする。そうしたら、そのうちの4つを潰してしまうんだよ。彼には最後の1つしか逃げ道は残されていない。そこを捕まえるんだ」と語っています。



第6章「『イスタス』から『ゴッチ』へ―カール・ゴッチ アメリカ時代の足跡―」では、「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチアメリカ・デビューについて書かれていますが、「‟鉄人”ルー・テーズとの出会い」として、本書には以下のように書かれています。
「ゴッチの記念すべきアメリカ進出第1戦は(1959年)8月1日、対戦相手は後にアンドレ・ザ・ジャイアントのマネージャーとして有名になるフランク・バロアであった。この試合で勝利を収めたゴッチは、続く9月26日に行われたシカゴ大会でもタイガー・タスカー戦に勝利する。そして、この二大会のメインイベントを務めた‟鉄人”ルー・テーズがゴッチの試合を観戦。その優れたレスリング技術を高く買い、昔からゴッチのような俗に言う‟ガチガチのシューター”を好み、重用したことで知られるオハイオ地区のプロモーター、アル・ハフトにも働きかけ、テーズ自身もゴッチのアメリカ永住権(グリーンカード)取得の保証人になる」

 

しかし、テーズとゴッチの関係は微妙に変化していきます。
第8章「史上最強の三大フッカー―テーズとゴッチ、ロビンソンの複雑な関係―」では、「ルー・テーズカール・ゴッチ」として、1964月5月2日、デトロイトでNWA世界ヘビー級王者テーズにゴッチが挑戦したエピソードが書かれています。それまでの両者の対戦成績はテーズの2勝3分。過去の対戦同様に、この試合も序盤までは両者の激しくもフェアな攻防が続きますが、テーズが‟フィニッシュ”のバクドロップを放とうとゴッチを抱え上げた瞬間から戦局がガラリと変わりました。著者は述べています。
「テーズに抱えられたゴッチが空中で咄嗟に体勢を入れ替え、全体重を預けて下になったテーズを押し潰したのだ。テーズはこの『バックドロップ潰し』でアバラを3本折り、試合後10日間の入院、1ヵ月半の長期欠場を余儀なくされた。当然、ゴッチにもテーズの‟報復”が待っていた。試合中、リング下に無理やり落とされ、生還のためにエプロンに上がりかけたゴッチを襲ったのは、テーズが痛みを堪えながらも全力で放ったドロップキックだった。この一瞬でリングサイドの記者デスクに頭を強く打ちつけたゴッチは、ついに立ち上がることができずリングアウト負けとなった」

 

59年にゴッチを見初めたテーズは、彼のアメリカ入りに大いに尽力したばかりか、その実力を高く評価し、自らが保持するNWA世界王座への挑戦の機会を何度も与えてきたとして、著者は以下のように述べます。
「『世界王座はそれに相応しい実力を持つレスラーでなければならない』という持論を持ち、各地のプロモーターが推す人気だけの‟王者候補”たちをリング上も含めて‟却下”してきたテーズは、自分の後の世界王座には、その‟政治力”を駆使してでも傑出した実力を持つゴッチを据えようとさえ思い描いていた。だが、『やはり駄目だ。こんな、あとさきをまるで考えない試合をやってしまうゴッチは王者の器じゃない。私の後釜などとても務まらない』と、この日を境にテーズのゴッチに対する思い入れは跡形もなく消えた。テーズは後日、『大変申し訳なかった。決して意図的にやったわけではないんだ』と謝罪に来たゴッチに対して、『私にだけじゃない。誰と当たっても二度とあんな試合をするなよ』という言葉しか掛けられなかった――」

 

 

第9章「ふたつのリスト―テーズとゴッチ、それぞれの最強レスラー論―」では、「中軽量級はシューターの証」として、著者は以下のような私見を披露しています。
「『プロレスリングにおける‟シュート”の技術は中軽量級のレスラーにこそ必須なもので、ヘビー級の体躯に恵まれたレスラーには基本的に不必要』だったのではないだろうか。ボクシングを例に挙げれば、肉弾相打つKOが身上のヘビー級ボクサーと比較して、卓越したテクニックとスピードを持つのは主に中軽量級ボクサーである点からも明らかだ。モハメッド・アリが偉大である最も大きな理由として、ヘビー級のボクシングにミドル級のテクニックとスピード感溢れるフットワークを導入したことが挙げられるだろう。プロレスに話を戻せば、充分なヘビー級の体躯でありながら、‟フック”の技術を高いレベルで習得したテーズやゴッチ、ロビンソンが特別な存在であるとも考えられるのだ。大きな肉体がそのまま売り物になるヘビー級と異なり、中軽量級のレスラーはプロならではの技術を身に付け、それを売り物にしなければならない。その技術とスピードさえあれば、充分ヘビー級のレスラーにも対抗することができる、そういう“プロの技術”だ」

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ちなみに、この章ではテーズとゴッチが選んだ最強レスラーのリストが紹介されています。テーズは31人を選んでいます。そのメンバーは、エド・ストラングラー・ルイス、アド・サンテル、ジョージ・トラゴス、レイ・スティール、カール・ゴッチ、ディック・ハットン、ダニー・ホッジ、ジョージ・ゴーディエンコ、ルター・リンゼイ、ビル・ミラー、ベン・シャーマン、バーン・ガニア、ティム・ウッズ、ドン・カーティス、パット・オコーナー、ジャック・ブリスコ、ビル・ロビンソン、アール・マックレディ、レイ・ガンクル、ゴードン・ネルソン、デール・ルイスヒロ・マツダ、ボブ・ループ、ファーマー・バーンズ、フランク・ゴッチジョージ・ハッケンシュミット、アール・キャドック、ジョー・ステッカー、スタニスラウス・ズビスコ、トーツ・モント、ジム・ブロウニンです。

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また、ゴッチは37人選んでいます。そのメンバーは、バート・アシラティ、ビリー・ジョイス、ジョー・ロビンソン、デヴィッド・アームストロング、ギデオン・ギダ、ベン・シャーマン、フランク・ウルフ、ジュール・ラランス、ジョニー・デムチャック、ルー・テーズ、ビル・ミラー、ドン・レオ・ジョナサン、ドン・カーティス、藤原喜明、ファーマー・バーンズ、フランク・ゴッチ、アール・キャドック、ジョー・ステッカー、エド・ストラングラー・ルイス、ジョン・ベセック、レイ・スティール、トーツ・モント、ジム・ブロウニン、マリン・プレスティナ、フレッド・グラブマイヤー、アド・サンテル、ジョージ・トラゴス、ジャック・レイノルズ、ワイノ・ケトネン、クラレンス・イークランド、チャールズ・フィッシャー、ジョニー・マイヤース、ジョー・ボナンスキー、フランク・モラッシ、トニー・モラリー、エンリケ・トルマー、ピート・ハワードです。なお、テーズとゴッチが「最強の日本人」と認めたのは力道山でもアントニオ猪木でもなく、ヒロ・マツダでした。



第19章「30年の沈黙を破り、あの‟墓堀人”が甦る―ローラン・ボック インタビュー―」では、「欧州最強の男」と呼ばれたローラン・ボックが「あなたが見た中でベストシューターは誰ですか?」という質問に対して、ボックは「よく聞いて欲しい。私のプロレスのキャリアの中で出会ったシューターはただひとり、ジョージ・ゴーディエンコだけだ。彼には本当に強烈な印象を受けた。彼はそのラフ・アンド・タフなレスリングスタイルのため、プロモーターにシューターとして使われるだけで、決してホーガンのようなステイタスを手にすることはなかったと思う。だが、ジョージはホーガンのようなビッグネームも含め、世界中のどんなプロレスラーでも打ち負かすことができた本当にただひとりのレスラーだった」と答えています。ボックと激闘を繰り広げたアントニオ猪木はシューターではないのかという質問には、「猪木はもちろんアマチュアに近いスタイルのシリアスなレスラーだったが、シューターではなかった」と答えています。

 

アントニオ猪木全集11 闘魂ロード~未知の強豪達~其ノ弐 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 東北新社
  • 発売日: 2005/03/25
  • メディア: DVD
 

f:id:shins2m:20191214213314j:plainアントニオ猪木vsローランド・ボック

 

1978年11月25日、シュツットガルト大会で猪木とボックは4000人の観衆の前で、3度目の対決を行います。この1戦は、欧州代表であるWWU世界王者のボックと、アジア代表であるWWA世界王者の猪木による「世界統一王座決定戦」の一環で、この試合の勝者で二冠王となった者は、後日アメリカ代表であるブルーノ・サンマルチノと「世界統一王座」の最終決戦を行う予定だったそうです。猪木が判定負けを喫し、「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれたこの試合について、著者はこう述べています。「これまでの試合で満身創痍となった猪木がボックの怪力を利した攻撃を、ボックより勝るサブミッションの技術で巧みに切り返していくシーンは必見であるし、9Rに疲労困憊しているはずの猪木が、それまでエゲツない攻撃を繰り返し敢行してきたボックの顔面に報復のヘッドバットを叩き込み、ボックにとっても『一生忘れられない試合』にした点は、注目に値するものである」



このとき、欧州遠征した猪木は23日間で21試合という「殺人的なスケジュール」を課せられました。また、ボック自身の攻撃で猪木は負傷を負いながら試合を続けていたことについて、プロモーターでもあったボックはこのように語っています。
「我々はプロモーターとして間違いなく重大な過ちをいろいろとやってしまったんだが、とりわけ猪木をほぼ毎日メインイベンターとしてリングに上がらせたのは問題だった。彼の出場はもっと減らした方がよかっただろう。現在、私はそのことをこの上なく後悔している。そして、本当に申し訳ないことだが、数多くの試合によって猪木を酷使し過ぎたことを認めねばならない。何と言っても彼だって人間なのだから、他のレスラーと同様、疲労回復の時間を充分に取るべきだったろう。猪木がデュセルドルフで重傷を負ったというのを、私は今まで知らなかった。遅ればせながら、心から彼に謝罪したいと思う」
そして、猪木というレスラーについて、ボックは「私にとって猪木は最高のアマチュア精神を充分過ぎるほど持っていたプロフェッショナルのレスラーであり、練習熱心にして純然たる挑戦と勝利の意志を持ち合わせていた」と語りました。

 

最後に「猪木の述懐」として、過酷過ぎた欧州遠征について、猪木は「プロモーターでもあったローランド・ボックはヨーロッパのプロレス界では異端児だったんだけど、俺と目指している方向は一致していて、理想の点では意気投合してたんだ。それで、まあとにかく行ってみたんだけど、行ってみたら行く先々で地元の英雄と呼ばれる選手たちが待ちかまえていて・・・・・・いつもそうなんだけど、相手の話をうかつに信じたら、話が違うというやつで(笑)。ヤツも本当のところは俺をうまく利用して、金儲けしようという気持ちのほうが強かったみたいだんだよね」



また、「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれたボックとの対決について、猪木はこのように語っています。
「俺とボックとはね、‟本当のストロング・スタイルのプロレスを世界に広めよう”という、ある意味で同じ理想を持っていたんだ。シュツットガルトでの試合は、いままで誰も観たことのない試合をやろうという2人の実験的な意味も本当はあったんだよ。あんな試合ができるレスラーは世界に何人もいなかったから、ボックの存在は貴重だったんだがね。なにしろ野心家のくせに見かけによらず気が小さかったんだ。冷酷なところもあったしね。レスラーになったら実力はみんな紙一重だから、本当のトップを取るには‟こいつなら万が一負けても納得できる”というように、相手に人間性を認めさせるモノがなければいけないんだよ。そういう人格的な部分がボックには欠けていたのが、非常に残念だった」


わたしは、この猪木のコメントを読んで、「やはり猪木は器が大きいなあ!」と感心しました。何度自殺してもおかしくないぐらいの苦労や借金を抱えながら生きてきた男の凄みのようなものさえ感じます。猪木とボックの試合は当時のテレビ朝日「ワールド・プロレスリング」でも録画中継され、わたしも観ましたが、暗い照明の会場の中でオールド・クラシックなプロレスが延々と続いていたという印象です。後年、旧UWFが旗揚げして行われた前田vsマンテル、その後の前田vs藤原の試合をビデオで観たとき、「猪木vsボック戦みたいだな」と思ったことを思い出しました。猪木vsボックは、UWFの原点だったのかもしれません。

 

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

 

 

2020年1月22日 一条真也

成人式に思うこと  

一条真也です。
21日、スターフライヤーで東京に飛びます。
22日には、業界団体の新年行事であるグリーフケアのパネルディスカッションにパネリストとして出演します。「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第19回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは「成人式に思うこと」です。

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西日本新聞」2020年1月21日朝刊

 

「成人の日」の前日、北九州市の成人式が行われました。あいにくの雨でしたが、来賓として招待されたわたしは、会場の北九州メディアドームを訪れました。冠婚葬祭業であるわが社にとって、成人式はビッグイベントです。各地で運営するホテルや結婚式場でも振袖のレンタルを行っており、数多くの新成人のお手伝いをさせていただきました。当日は早朝からヘアメークや着付けを行うため、現場のスタッフたちはほぼ徹夜で準備からお見送りまでを行います。

 

ただし気になることもあります。わが社が本拠をおいている北九州市の成人式が「派手すぎる」と注目を浴びているのです。派手なカラーのはかまで拡声器をもって練り歩く男性たち。花魁のように肩を出した女性たち・・・。その異様な姿が多くのメディアで取り上げられ、あろうことかインターネット上では「安定のヤンキー文化」「修羅の国」などと正月の風物詩(?)として拡散しているとか。情けないかぎりです。

 

はっきりと言わせてもらいます。わたしたちがお手伝いをさせていただいているお客様に「修羅の国」のようなスタイルをした方は一人もいません。早朝、眠い目をこすりながら家族とともに来館され、着付け後は晴れやかな笑顔で家族や友人たちと語らい、記念撮影をする姿はとてもすがすがしく、ほほ笑ましいです。

 

修羅の国」化は新成人たちだけのせいではありません。ずばり言いますが、「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」という成人式の趣旨を無視し、「稼ぐこと」にだけ特化した一部の業者による「間違えた差別化」がこのような現象を起こしています。また一部の事象のみを面白おかしく報道するマスメディアの姿勢にも問題があります。いずれにせよ、大人たちの商売の都合で、一生に一度の晴れの日を「修羅の日」にしてはなりません。

 

数年前、初めて成人式に招かれたわたしは、式典後すぐに市の青少年課に連絡し、成人式の正常化への全面協力を訴えました。この背景には、かつて沖縄の「荒れる成人式」を、わが社の新成人が清掃活動によって変えた実績がありました。そして北九州でも、会場周辺で取り組む「おそうじ大作戦」を開始。オリジナルデザインのゴミ袋も作成して市に寄贈しました。

 

今年の「おそうじ大作戦」は、雨天のため中止となりました。まことに残念でしたが、奇抜な衣装も減り、明らかに北九州の成人式が変わってきました。儀式に関わる者として、嬉しい限りです。ちなみに、北九州メディアドームには、わたしの次女の姿もありました。東京の大学に通っているのですが、今年、新成人となったのです。娘の晴れ着姿は、やはり眩しく、感慨深かったです。

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次女の晴れ着姿が眩しかったです! 

 

2020年1月21日 一条真也

『鉄人ルー・テーズ自伝』

鉄人ルー・テーズ自伝 (講談社+α文庫)

 

一条真也です。
『鉄人ルー・テーズ自伝』ルー・テーズ著、流智美訳(講談社+α文庫)を読みました。力道山がどうしても勝てなかった20世紀最大のレスラーの自伝です。貴重な秘蔵写真200点が収められています。1995年3月、ベースボール・マガジン社から刊行されたものを文庫化にあたり加筆・訂正、新たに未公開写真の口絵を加えています。

 

 著者のルー・テーズは 1916年、米国ミシガン州に生まれ。17歳でプロレス・デビュー以来、74歳で現役を引退するまで、誰もが認める史上最強のレスラーとして世界各国で活躍。獲得したタイトルは数知れず、1948年からは7年越しで936連勝という不滅の記録を達成。日本では「鉄人」の異名を取り、アントニオ猪木ら数々のレスラーに影響を与えました。まさに空前絶後、不世出の大レスラーでした。2002年、心臓疾患により死去。享年86歳 。訳者の流智美氏は1957年、茨城県に生まれ。1980年、一橋大学経済学部卒業。1981年よりベースボール・マガジン社専属のプロレス・ライターとなる。テーズとは公私ともに親密な間柄でした。

 

本書のカバー表紙には、著者と力道山が握手している写真が使われ、裏表紙には以下の「内容紹介」があります。
「テーズの前にテーズなし、テーズの後にテーズなし。史上最高、史上最強のプロレスラー、ルー・テーズを超える格闘家が現れることは、今後も絶対にあり得ない。本物の実力とは? プロレス、格闘技の本当の魅力とは?――伝説の“鉄人”が自らの驚異の足跡とともにその真実を初めて語り尽くす!『一番強いのは誰なのか』――長年の最強論争についに終止符を打つ。超レアな秘蔵写真満載の完全保存版!!」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「文庫版まえがき」

「世界ヘビー級歴代チャンピオン」

第一章 鉄人誕生からプロ・デビューまで

第二章 ルイス、サンテルとの遭遇、そして世界王者前夜

第三章 二十一歳での世界王座獲得と屈辱の転落

第四章 二度目の王座と負傷・・・太平洋戦争での召集

第五章 プロレス黄金期に全米統一

第六章 東洋の虎・力道山との邂逅

第七章 六度目の王座返り咲きとルイスの死

第八章 世界王座カムバックへの執念と
              アントニオ猪木の登場

第九章 七十四歳で引退後、「最強」に託した夢

「文庫版あとがき」
ルー・テーズ栄光の軌跡」

 

この文庫版が出版されたのは2008年5月20日ですが、時あたかもPRIDEなどの総合格闘技が全盛でした。多くのプロレスラーも総合に挑戦しましたが、そのほとんどは敗北を喫しています。そんな時期に、13年前の95年に初版が出た本書が突如、文庫化されたのです。そこには、「真の強さとは何か」というテーマがあり、「今こそテーズに刮目せよ! ヒョードル、クロコップ、サップ・・・・・・現代の格闘界の猛者たちもかなわないであろう真の強さの秘密とは何か?」というメッセージがありました。



「文庫版まえがき」で、訳者の流氏は述べています。
「やはり、『K-1』や『PRIDE』や『アルティメット』といった、この13年に多くのプロレスファン層を奪い取った新しいジャンルのスターとの対比において、単純に『テーズの超人的なスピードで、ヒョードルの強打をどうさばいただろう?』とか『テーズはミルコ・クロコップのヒザ蹴り、回し蹴りを寸前でキャッチしただろうなあ』といった『史上最強プロレスラーが現役トップ格闘技者といかに戦うか? そして勝てるのか?』というのが最も強い動機であるべきだと思う」



続いて、流氏は以下のように述べています。
「まずは肉体的な資質である。12年8ヵ月に及ぶNWA世界ヘビー級チャンピオン時代に『鋼のような筋肉と猫のような身のこなし』と評されたテーズが明らかにヒョードルやクロコップを上回っていると思うポイントが『反射神経とスタミナ』である。彼らと対峙したテーズが試合開始の5分から10分くらいの間に多少の戸惑いを見せることはあるかもしれないが、テーズの本領が発揮されるのは10分以降だ。試合が長引けば長引くほど、テーズ魔術は冴えを見せる。奥様が『ゴリラのような』と表現した2メートルのリーチとスパン31センチの両手も、長期戦となった場合の主戦武器だ。最後はダブル・リストロック(キムラ・ロックという呼称もある)でテーズが勝つ。これは1968年1月3日、テーズは試合を初めて見てから40年、現役格闘家の誰が相手であっても確信を持って断言できる『試合予想』だ」



第一章「鉄人誕生からプロ・デビューまで」では、少年時代に吃音で悩んでいたテーズが17歳にして教会の大聖堂でプロレスラーとしてデビューしたことが紹介されます。若いテーズには、ジョージ・トラゴスという専任コーチがつくのですが、彼はとんでもない危険な男でした。「専任コーチはプロレス界の‟闇の帝王”ジョージ・トラゴス」として、著者は以下のように述べています。
「1930年代のプロレス界において、トラゴスの存在を知らぬ者はいなかった。こう言っては失礼ではあるが、私を見出してくれたジョン・ザストローやジョー・サンダースンとはまったくレベルの違うレスラーであり、一口に言えば、シュートの中のシュートと呼ばれるプロレス界の闇の帝王的な存在であった」

f:id:shins2m:20191216164629j:plain(本書より)

 

ラゴスはレスラーの間で‟アイスウォーター(氷水)”と呼ばれており、数多くのレスラーが「ルー、やめておいたほうがいい。いつかトラゴスは君をクリプル(腕や足の骨を折って使いものにならなくすること)するに違いない。彼がコーチについたレスラーは皆そうなったんだから!」と注意するのでした。「世の中には上には上がいる」として、著者は以下のように述べます。
「トラゴスにコーチを受けたのは約2年間だったが、私がプロレスラーとしてのベーシックを学んだのが、まさしくこの期間であった。1つだけ技を挙げろと言われればダブル・リストロック・・・・・・私はこの技に何度助けられたかわからない。私は幸いにして一度も相手の左肩を破壊するほどの状況に追い込まれたことはないが、寸前まで締め上げたことは数百度に及ぶ。あと1インチ手前に引けば腕が折れるという加減をわきまえたうえでこの技を使っているのは、たぶん私だけであるという自信があるが、すべてトラゴスのおかげである」

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プロレス初代世界ヘビー級チャンピオンのフランク・ゴッチ

 

第二章「ルイス、サンテルとの遭遇、そして世界王者前夜」では、著者はプロレス史上に燦然と輝く伝説のシューターたちについて言及します。まずは、フランク・ゴッチです。
「1908年、プロレスの初代世界ヘビー級チャンピオンだったフランク・ゴッチは、私が生まれた翌年の17年に尿毒症で亡くなっている。私はゴッチが本当に実力者であったか否かについて大変興味があったので、師のファーマー・バーンズにその件について聞いてみたことがあるが、どうも勝つためには相手の目を突こうが髪の毛を引っ張ろうが、肛門に指を差し込もうが指の骨を折ろうが、とにっかう何でもやるタイプ・・・・・・いわゆる我々レスラー間でいう‟ダーティー・レスラー”の典型だったようだ。ゴッチの弟子で、のちにゴッチ引退後に世界王者となったチャーリー・カトラーからも同じような意見を聞いた。どうもゴッチというレスラーを“偉大なるプロレスラー”としてランクするには、若干議論が必要となりそうだ。少なくともジョー・ステッカーのレベルではないというのが私の意見だ」

f:id:shins2m:20191216164827j:plain(本書より) 

 

そのジョー・ステッカーとは、第5代、7代、13代の世界ヘビー級チャンピオンで、“胴締め王”の異名を持っていました。実兄のトニー・ステッカーはプロレスの大プロモーターで、彼のテリトリーに著者は1935年9月から36年1月までの5ヵ月間世話になりました。著者は述べます。
「この間、私にとって最も印象深いのは、ジョー・ステッカーとスパーリングができたということであった。ステッカーは当時、精神病院に収容されていた。アメリカのプロレス史には、このステッカーの精神障害はルイスのヘッドロックで何時間も締めつけられたために起きたものだと書いてある。が、これはまったくのつくり話で、ステッカーはトップ・レスラーとして貯えた2万9000ドル(現在の貨幣価値にしたら、たぶん2億円以上)もの大金を、親友の画商にすべて持ち逃げされてしまったという事件のショックから、極度の人間不信に陥ってしまったのである。だから、病院に収容されてからは、兄のトニー以外の人間とは誰とも言葉をかわさなくなっていた」

f:id:shins2m:20191217105759j:plain(本書より) 

 

ジョー・ステッカーをヘッドロックで精神病院送りにしたと噂されたルイスとは、第8代、10代、14代の世界ヘビー級チャンピオンで、後にテーズのコーチやマネージャーも務めたエド・ストラングラー・ルイスです。著者は以下のように述べています。「数多くのオールド・タイマーに出会ってきた中で、やはり群を抜いて強かったのが、エド・ストラングラー・ルイスであった。私が世界王座を6度奪取したことで、アメリカと日本のプロレス・マスコミが、‟ルー・テーズこそ20世紀最大のレスラー”と称えてくれているのは大変名誉なことだが、その称号はルイスに与えられるのが正解だと思う。ルイスは第二次世界大戦後のテレビ・プロレス全盛時にはすでに引退して私のマネージャーになっていたから、実際の試合はビデオとしてほとんど残っていないが、その強さは人間離れしたものだった」

f:id:shins2m:20191216165018j:plain(本書より) 

 

また、ルイスだけでなく、著者はアド・サンテルにもコーチを受けています。サンテルといえば、大正10年に日本上陸し、講道館柔道に挑戦して異種格闘技の死闘を演じた伝説のプロレスラーです。サンテルの裏投げは、テーズのバックドロップに受け継がれました。著者は、サンテルについて以下のように述べています。
アド・サンテル・・・・・・ジョージ・トラゴスと並び、1910年代から20年代のライト・ヘビー級で無敗を誇った伝説的な強豪だ。関節技の技術にかけては、たぶんトラゴスと互角、いやそれ以上の評価を得ていた選手である。日本に柔道という強い格闘技があると聞けば、わざわざ日本にまで出向き、柔道選手を実力で制圧してきたことは今でも日本柔道界の語り草になっている」

f:id:shins2m:20191216164923j:plain(本書より) 

 

さらに、著者はサンテルについて述べます。
「ジョージ・トラゴスに教えてもらったテクニックがプロレスのすべてだと思っていた私に、プロレスの奥に底はないということを教えてくれたのがサンテルだった。サンテルに教えてもらったのは主として‟フック”(Hook)と呼ばれる関節技の中でも最も高度で危険なものであった。のちに世界チャンピオンとなったとき、何度このサンテル教室に感謝したかわからない・・・・・・それほどサンテルのフックは実戦で役に立った」
ちなみに、「第二章の時代背景と解説」で、流氏は「1年8ヵ月の間にジョー・ステッカーとエド・ストラングラー・ルイスの2人とスパーリングを経験し、そしてアド・サンテルのコーチを5ヵ月間受けたというのだから、これは“世界チャンピオン育成最短コース”と言えよう」と述べています。

 

その後、著者は不動のNWA王者として、また、後にWWWFの牙城となるニューヨークのマジソン・スクェア・ガーデン(MSG)に乗り込んで、アントニオ・ロッカ、バディ・ロジャースといった人気レスラーと試合をしましたが、基本的にショーマンである彼らは著者の敵ではありませんでした。第六章「東洋の虎・力道山との邂逅」では、「ガ二ア・オコーナー・ゴーディエンコ・・・・・・新星誕生」として、著者は以下のように述べます。
「曲芸師や流血王の出現はさておき、1950年代のテレビによるプロレス・ブームは次々と新しい人材をプロレス界に送り込んでくれた。私の好きな、いわゆる本物のレスリングができるタイプはバーン・ガニア、ビッグ・ビル・ミラー、マイク・デビアスパット・オコーナー、ラフィ・シルバースタイン、ディック・ハットン、ジョージ・ゴーディエンコ、ルター・リンゼイ、レオ・ノメリーニらだ。そしてアマレスの経験こそないが、巨体と運動神経を兼ね備えた新しいタイプのパワー・レスラーとしてはキラー・コワルスキー、ドン・レオ・ジョナサン、ジョニー・バレンタイン、ジン・キニスキー、ウィルバー・スナイダーといった新星が次々と誕生し、私をずいぶん苦しめてくれたものである」



そして、著者は「東洋の虎」力道山と出会います。
「‟危険な奴”力道山」として、著者は1953年12月6日、力道山とハワイで戦ったエピソードを披露しています。このときは著者がリバース・スラム(パワー・ボム)でノックアウト勝ちしましたが、「さすが相撲出身ということで立ち技でのバランスが抜群によく、私が力道山に対して優位に立とうとすれば寝技に持ち込むしかなかった」「この試合を終えたとき、力道山に対して私が持ったイメージは‟何を仕掛けてくるか予想のつかない危険な奴”というのが正直なところだった」と述懐しています。



それから4年後、著者は日本で力道山と世界王座を賭けて戦います。そのときのことを、以下のように述べています。
「その力道山が待ち構える敵地日本に乗り込んでの防衛線とあって、さすがに私もナーバスになっていた。だが、日本で再び相まみえた力道山は堂々とした世界レベルのトップ・レスラーに成長しており、東京・大阪に合計6万人近い大観衆を集めて納得いく闘いができたことは、日本・アメリカ両国のプロレス発展に大きく寄与できたものと自負している、私と力道山の戦いは、彼がギャングスタ―に刺されて亡くなるまでの6年間続いたが、私のキャリアの中でこれほど短期間に、しかし壮絶にライバル関係でいられたのは力道山をおいてほかにいなかった」


第七章「六度目の王座返り咲きとルイスの死」では、バディ・ロジャースを破って47歳にして6度目の世界王座に返り咲いた当時のことが書かれています。「王座奪還後、若いパワーを次々粉砕」として、以下のように述べられています。
「この期間、私に挑戦してきたのは、まさにニュー・ジェネレーションの旗頭ばかり、その若いパワーを跳ね返していくことが私自身に課したテーマでもあった。ダニー・ホッジマーク・ルーインベアキャット・ライト、ディック・ザ・ブルーザーアーニー・ラッドヒロ・マツダ、ドリー・ファンク・ジュニア、ドン・カーチス、ボブ・エリス、カール・ゴッチビル・ワットザ・デストロイヤー、ウィルバー・スナイダー、ジョニー・バレンタイン、ティム・ウッズ、キラー・カール・コックス、ジョン・トロス、ザ・ストンパー、フレッド・ブラッシー、ジョニー・パワーズ、ネルソン・ロイヤル・・・・・・私より10歳も20歳も若い連中のパワーに圧倒されることはあったが、まだまだ“ここ一番”の技術で私を王座から追い落とす存在は現れてこなかった」

f:id:shins2m:20191216165323j:plain(本書より) 

 

1966年、著者はNWA世界王座と師であるエド・ストラングラー・ルイスを失いますが、その年の12月2日、フロリダ州ジャクソンビルで、元プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのジョー・ウォルコットとミックスド・マッチ(異種格闘技戦)を行います。じつに、アントニオ猪木モハメド・アリが戦う10年目でした。「ボクシング世界チャンプに快勝」として、著者は以下のように述べます。
「試合は1ラウンドにウォルコットの右ストレートで私は左目を切られたが、4ラウンドに片脚タックルからのハーフ・クラブ(逆エビ固め)を極めて勝利を収めた。試合後にウォルコットは私の控え室を訪れ、『サンキュー・ノット・ハーティンぐ・ミー(私にケガをさせずに試合を終えてくれて、ありがとう)』と言った。私はこのとき、プロレスラーと戦い終えたプロボクサーの‟本音”を聞いた。そしていかなるプロボクサーでも一流のレスラーには勝てないことを確信した」



第八章「世界王座カムバックへの執念とアントニオ猪木の登場」では、1976年6月26日に東京の日本武道館で行われたアントニオ猪木とプロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ戦について書かれています。じつは著者はこの試合のレフェリーを務めることになっていたのですが、直前になってアリ側のチーフ・トレーナーであるアンジェロ・ダンディからのクレームで白紙になりました。著者は述べます。「猪木は最後の最後まで‟テーズをレフェリーに”という線で粘ってくれたのだが、ダンディが‟キャンセル“”をチラつかせるという卑怯な手段に出たため、やむなくラベールで手を打たざるを得なかった。結果論ではあるが、私がレフェリーであったなら、あの試合はまったく違う展開、結果となっていただろう。少なくとも15ラウンドをフルに戦い抜くという試合にはならなかったと断言できる」



続けて、著者は猪木対アリ戦について述べます。
「猪木にとって、あまりにも不利なルールを呑まされてしまったことは、返す返す気の毒だったとしか言い様がない。プロレスリングの技を完封されて、あそこまでレスラーの強さを発揮できたのだから、猪木は本当に立派だった。ただ、ウォルコット戦で私が得た“プロレスラー最強”の再認識ができなかったことだけが心残りだった。それが15年後、髙田vsバービック戦まで尾を引くことになるのだから、私もよくよく執念深い男である」



第九章「七十四歳で引退後、『最強』に託した夢」では、1980年9月8日、ケンタッキー州ルイビル・ガーデンでビル・ロビンソンの持つCWA世界王座に挑戦したことが書かれています。1975年12月11日 、蔵前国技館での猪木とロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合の立会人を務めた著者は、「現役でいる間にロビンソンと一戦交えたい」と思ったそうです。

f:id:shins2m:20191216164730j:plain(本書より) 

 

念願のロビンソン戦の結果は、41分戦ってローリング・クラッチ(回転エビ固め)でフォール負けします。しかし、内容的には悔いのない試合であり、1万人の大観衆の反応も上々だったとして、著者は以下のように述べます。
「思えば、このロビンソンとの戦いが私にとって最後のタイトルマッチとなったが、最後のタイトルマッチを戦った相手がロビンソンであったことは幸運であったと思う。願わくば、私が統一世界王者にあった頃に出会いたかった実力者であったが、22歳の年齢差を考えれば仕方のないことだ。同様のことは27歳の年齢差がある猪木との戦いにも言えた」



それにしても、親子ほど年齢の離れたロビンソンや猪木と激闘を繰り広げた著者の「強さ」には驚くばかりです。若い頃の「強さ」は想像を絶するものだったでしょう。「文庫版あとがき」の最後に、流氏は「『ルー・テーズは史上最高、史上最強のプロレスラーであり、テーズを超えるプロレスラー、格闘競技選手が現れることは、これからも絶対にない』『ないと思う』ではなく、『ない』――断言だ」と書いています。この「断言」には心底シビレました。

 

鉄人ルー・テーズ自伝 (講談社+α文庫)

鉄人ルー・テーズ自伝 (講談社+α文庫)

 

 

2019年1月20日 一条真也

「ラストレター」  

一条真也です。
今年最初に劇場で観た日本映画は、岩井俊二監督の最新作「ラストレター」でした。岩井監督は1963年生まれで、わたしと同い年ですが、彼の映画が大好きで、ほとんどの作品を観ています。本作の予告編の最後に新海誠監督が「岩井俊二ほどロマンティックな作家を、僕は知らない」と述べていますが、わたしも同感です。今回も岩井美学を堪能しました。グリーフケア映画としても興味深かったです。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
岩井俊二監督が体験した出来事を基にした物語で、松たか子広瀬すず神木隆之介福山雅治らが共演するラブストーリー。初恋の人と再会したヒロイン、ヒロインを彼女の姉と誤解した小説家、母に送られる小説家からの手紙に返信を書く娘の、心の再生と成長が描かれる。岩井監督の出身地である宮城県で撮影が行われ、音楽を『スワロウテイル』などで岩井と組んだ小林武史が担当する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「夫と子供と暮らす岸辺野裕里(松たか子)は、姉の未咲の葬儀で未咲の娘・鮎美(広瀬すず)と再会する。鮎美は心の整理がついておらず、母が残した手紙を読むことができなかった。裕里は未咲の同窓会で姉の死を伝えようとするが、未咲の同級生たちに未咲本人と勘違いされる。そして裕里は、初恋の相手である小説家の乙坂鏡史郎(福山雅治)と連絡先を交換し、彼に手紙を送る」



この映画、岩井監督が初めて出身地である宮城を舞台にしています。手紙の行き違いをきっかけに始まったふたつの世代の男女の恋愛と、それぞれの心の再生と成長を描いているのですが、最初はちょっと違和感をおぼえました。「岩井俊二監督が体験した出来事を基にした物語」ということですが、姉になりすまして高校の同窓会でスピーチしたり、娘が亡き母になりすまして手紙を書くなどの行為にリアリティを感じなかったからです。特に、どんなに年齢を重ねても、人は高校時代の面影を持っているもので、同級生たちが間違えるというのは考えにくいですね。でも、物語が進むにつれ、「まあ、お伽噺として楽しもう」という気になってきました。そもそも、いまどきメールやLINEではなく、手紙のやりとりをするところが「お伽噺」のイメージを強くさせます。



「ラストレター」は非常にロマンティックな映画ですが、そのロマンティックである最大のゆえんは、主人公たちが高校時代の初恋を現在にまで引きずっているところでしょう。とにかく、初恋ほどロマンティックなものはありません。世界が急に輝いて見えてきます。初恋の相手を中心に地球が回っているような感覚に陥ります、まさに「魔法」にかかったような状態です。もうひとつロマンティック要素が、この映画には登場します。「卒業」です。感動のラストシーンにも関係するのですが、この物語において、高校の卒業式の場面はとても重要です。かつて、わたしが大ファンだった斉藤由貴は「初恋」と「卒業」というタイトルの歌を歌いましたが、わたしにとって「初恋」と「卒業」は二大ロマンティック・ワードなのです。



「初恋」と「卒業」は、岩井監督の長編デビュー作である「Love Letter」(1995年)のテーマでもありました。この映画、日本や中国でも好評でしたが、韓国では特に爆発的な人気を呼びました。物語は、婚約者を亡くした渡辺博子(中山美穂)は、忘れられない彼への思いから、彼が昔住んでいた小樽へと手紙を出すところから始まります。すると、来るはずのない返事が返って来ました。それをきっかけにして、彼と同姓同名で中学時代、彼と同級生だった女性と知り合うことになるという物語です。愛する人を亡くした人の再生を描くグリーフケア映画の名作でした。



かつて、わたしは20世紀の終わりの日に「私の20世紀」を振り返りましたが、「20本の邦画」の中の1本に「Love Letter」を選びました。それほど、この映画はわたしにとっての重要な作品なのです。もう25年、じつに四半世紀も前の作品ですが、この映画の中山美穂は本当に美しかった。わたしは歌手・中山美穂のファンではありませんでしたが、この映画の冒頭の雪のシーンを見た瞬間から、一発でミポリンの魅力の虜になりました。そのミポリン、今回の「ラストレター」にも出演しています。それがちょっと悲しいくらい、25年という歳月の長さを感じさせるのです。けっして「劣化」などという下品な言葉を使いたくはありませんが、「ああ、あのときの君は美しかった」と思ってしまったことは事実です。「Love Letter」でミポリンと共演した豊川悦司も「ラストレター」に出演しています。彼はクズのような男の役なのですが、渋みのある名演技であったと思います。



「ラストレター」の主演は、松たか子です。
彼女も岩井映画の名作である「四月物語」(1998年)に出演しています。上京したばかりの女子学生の日常を優しく瑞々しいタッチで描いた中篇です。桜の花びら舞う4月、楡野卯月(松たか子)は大学進学のため、生まれ故郷の北海道・旭川を離れて東京でひとり暮らしを始めます。彼女にとっては毎日が新鮮な驚きであり、冒険でしたが、彼女がこの大学を選んだのには人に言えない“不純な動機”がありました。まるで印象派の絵画のように美しい映画で、松たか子の女優としての可能性を大いに示した作品でした。



四月物語」から22年後の「ラストレター」でも、彼女は凛とした美しさを見せてくれています。ミポリンと違って、「あのときの君は・・・」と思わなくても済みましたね。わたしは、HPの「プロフィール」にも「好きなタレント」として松たか子の名前を挙げています。ブログ「告白」で取り上げた映画を観たときから、彼女こそ日本映画界におけるナンバーワン女優ではないかと思っていましたが、ブログ「小さいおうち」で紹介した映画を観たとき、その思いは確信となりました。それほどまでに松たか子を推していたわたしですが、最近、「彼女こそ日本映画最強の女優では?」と思える存在ができました。広瀬すずです。



「ラストレター」のキャストは豪華です。というか、広瀬すず神木隆之介コンビ、松たか子福山雅治コンビといえば、現在の日本映画界では最強の配役ではないですか! 
福山雅治広瀬すずブログ「三度目の殺人」で紹介した映画(斉藤由貴広瀬すずの母親役で出演!)でも共演していますが、あのような殺伐とした映画よりも、「ラストレター」のようなロマンティックな映画のほうが美形の2人には似合います。この映画での福山雅治はイケメンぶりを隠しているというか、地味で冴えない小説家に徹していましたが、広瀬すずの美しさは眩しいほどに輝いていました。彼女が演じる未咲はずっと風邪を引いてマスクをしていましたが、初めて鏡史郎に会ったとき、挨拶をするためにマスクを取ります。その瞬間、鏡史郎は恋に落ちたのでした。そりゃあ、マスクを外して広瀬すずの顔が出てきたら、男なら誰だって恋に落ちるでしょう。それほど、彼女は美しい!



ブログ「海街diary」で紹介した映画で初めて彼女を見たのですが、整った顔立ちの中に凛とした「強さ」のようなものを感じさせました。女優としてのデビュー作でありながら、広瀬すずの存在感はハンパではなく、綾瀬はるか長澤まさみといった旬の共演女優たちに勝るとも劣りませんでした。今回の「ラストレター」では、中山美穂はもちろん、松たか子さえも完全に圧倒していました。気づいてみれば、彼女はNHKの朝ドラの100回記念番組の主演を務めるほどの女優に成長していたのです。

 

「若さには勝てない」と言えばそれまでですが、若さに持ち前の美貌、それに確かな演技力が加われば、女優としては無敵です。「ラストレター」で広瀬すずに次いで輝いていたのは、松たか子演じる裕里の高校時代を演じた森七菜です。ブログ「天気の子」で紹介したアニメ映画でヒロイン・天野陽菜の声を担当した女の子です。ブログ「最初の晩餐」で紹介した映画で、戸田恵梨香演じる美也子の少女時代を演じましたが、素晴らしい演技力でした。まだ18歳だそうですが、これからが非常に楽しみな女優さんですね。岩井監督も彼女のことを絶賛しています。「ラストレター」の中で、ノースリーブのワンピース姿で森七菜と広瀬すずの2人が並んで傘を差しているシーンは透明感があり、あまりにも儚く切なく美しく、ため息が出ました。



大ヒット・アニメで主役の声優をやるくらいですから、とにかく彼女は声がいいです。現在、NHKの朝ドラ「スカーレット」で主演を務めている戸田恵梨香は、「最初の晩餐」の公開記念舞台挨拶で、森七菜を「なんてキラキラ輝いているんだろう、私はなんでこんなに声が低いんだろうと思い、うらやましかった」と自虐を交えて絶賛していました。
声がいいから歌もうまいわけではないでしょうが、彼女の歌う「カエルノウタ」は不思議な魅力の名曲です。「ラストレター」の主題歌に使われています。



さて、「ラストレター」という映画は、葬儀のシーンから始まります。不幸な結婚生活の末に自死した未咲の葬儀です。彼女の瓜二つの娘である鮎美の悲しみがスクリーンから静かに伝わってきます。この映画には、もうひとつ儀式が登場します。未咲の高校の卒業式です。生徒会長だった未咲は卒業生を代表して、全校生徒の前で感動的なスピーチを行います。その卒業スピーチの内容は、映画のラストシーンと重要な関係があるのでした。ですから、「ラストレター」という映画は、「葬儀に始まり、卒業式に終わる」と言えるでしょう。わたしは「葬儀」の本質とは「卒業式」であると考えています。ここ数年、「終活」についての講演依頼が多いですが、お受けする場合、「人生の卒業式入門」というタイトルで講演させていただくようにしています。わたしは「死」とは「人生の卒業」であり、「葬儀」とは「人生の卒業式」であると考えているからです。

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2010年10月4日「読売新聞」夕刊より

 

かつて「読売新聞」夕刊の「この人、この一言」(2010年10月4日)に登場させていただきました。一面の掲載で、タイトルは「葬儀は、人生の卒業式」。「書店に積まれた一冊の本が気になって仕方なかった」との書き出しで、島田裕巳著『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対抗して、わたしが『葬式は必要!』(双葉新書)を短期間に書き上げた経緯などが紹介されています。

葬式は必要!』(双葉新書

 

わたしは、人の死を「不幸」と表現しているうちは、日本人は幸福になれないと思います。わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。そんな馬鹿な話はありません。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。死は不幸な出来事ではありません。そして、葬儀は人生の卒業式です。これからも、本当の意味で日本人が幸福になれる「人生の卒業式」のお手伝いをさせていただきたいと願っています。

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卒業式というものは、深い感動を与えてくれます。それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからでしょう。わたしは、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式であると思っています。七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式。結婚式も、やはり卒業式だと思います。なぜ、昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのか。それは、結婚式とは卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業してゆく娘を愛しく感じるからです。

 

未咲は大学時代に知り合った男と駆け落ち同然に結婚しますが、とんでもないDV夫で、その後は苦労の連続でした。そして、人生に疲れ果てた未咲は自らの命を絶つのです。わたしにも2人の娘がいますが、「もし、結婚した相手がDVとかアルコール依存症とかギャンブル依存症とかだったら、どうしよう」と無性に不安になることがあります。
何があっても守ってやれる父親や母親から巣立っていく結婚式とは、その意味で親という「庇護者」からの卒業式なのです。映画「ラストレター」の冒頭の葬儀のシーンで、44歳の若さで自死した娘の未咲のことを「とても出来の良い子だった」とつぶやく父親の姿に深い悲しみを感じました。

 

高校の卒業式のスピーチで未咲は「わたしたちには無限の可能性がある」と高らかに宣言しましたが、その可能性が無残な形で消滅してしまったのは、まことに無念なことです。しかし、それでも「死は不幸」ではありません。誤解を恐れずに言うなら、「人生は思い通りにならないもの」ということを教えてくれる死にも意味はあると思います。通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことですが、葬儀こそは「人生の卒業式」です。最期のセレモニーを卒業式ととらえる考え方が広まり、いつか「死」が不幸でなくなる日が来ることを心から願っています。葬儀の場面で、卒業式で歌う「蛍の光」の歌詞のように「今こそ別れめ いざ さらば」と堂々と言えたら素敵ですね。

 

弔辞 劇的な人生を送る言葉 (文春新書)

弔辞 劇的な人生を送る言葉 (文春新書)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2011/07/20
  • メディア: 単行本
 

 

映画「ラストレター」での最後の手紙とは、未咲が鮎美に宛てたものでした。いわば、死者から生者へのメッセージですが、生者から死者へのメッセージもあります。告別式における弔辞がその代表例であると思います。ブログ『弔辞 劇的な人生を送る言葉』で紹介した本では、わずか数分に凝縮された万感の思いがたくさん掲載されています。故人との濃密な関係があったからこそ語られる、かけがえのない思い出、知られざるエピソード、感謝の気持ちが弔辞であり、まさに故人へのラストレターと言えるでしょう。日々、接する葬儀でさまざまな弔辞を聴くと、弔辞もまた文学、いや弔辞こそ文学であると思います。わたしの弔辞=ラストレターは誰が読んでくれるのでしょうか?

 

2020年1月19日 一条真也

『力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』

力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか

 

一条真也です。
力道山木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』石田順一著(北國新聞社)を読みました。著者は、1952(昭和27)年、石川県金沢市生まれの力道山史研究家です。子どもの頃にテレビで観たプロレスの力道山体験から、伝説と謎に包まれた力道山に惹かれ、力道山の研究に取り組む。著書に『プロレス発「加賀☆能登」行きエキスプレス』『私だけの「力道山伝説」』などがあります。



アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
力道山研究の第一人者が、戦後70年の節目の年に、解明されずに残されてきた力道山の謎の数々を解き明かす。中でも最大の謎となってきた1954年の力道山木村政彦戦については、2011年に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が柔道側の視点で取り上げて定説化しているが、本書はプロレスの側から当時の新聞記事などを渉猟し反論する。ほかに世界タイトル戦の勝敗やチャンピオンベルトの謎解きなども楽しい。巻末の『力道山国内試合記録』は貴重」

 

本書のカバー前そでには、「謎の表裏を検証・解読」として、作家の村松友視氏が以下のように書いています。
「戦後の日本に彗星のごとく出現し、疾風怒濤の大活躍で希代のヒーローの座にのぼりつめ、一方で毀誉褒貶の噂につつまれたまま、突如としてその〈生〉の幕を閉じた力道山――この本は、長年にわたり熱病のごとき執念を燃やし、力道山の遺した謎の表裏を検証・解読しつづけた著者ならではの、力道山研究の壮大な〈卒業論文〉である」

 

本書は「力道山全史」と「力道山国内試合記録」の二部構成で、「力道山全史」のほうは26本の論考が収められています。そのほとんどは、力道山のチャンピオンベルトの製作秘話とか、マルベル堂のブロマイドの裏話などマニアックな内容で、よくいえば「力道山マニア」、悪くいえば「力道山オタク」のトリビア的な書籍になっています。「はじめに」には、「力道山のプロレスは、戦後混乱期が高度成長期へと向かう時代の中でひときわ異彩を放ち、人々の魂を揺り動かし、社会現象を巻き起こして、日本全国を席巻しました。まさにヒーローと呼ぶにふさわしい、他の追随を許さない、それもとびっきりのスーパーヒーローでした」と書かれています。

 

戦後70年となる2015年(平成27年)に出版された本ですが、「あとがき」の冒頭にはこう書かれています。
「一昨年の12月、50回忌を迎えた力道山を追悼する企画で、石川県のFMラジオ局『ラジオかなざわ』で毎週金曜夜8時から放送されている『プロレス発 加賀・能登越中行きエキスプレス』の番組に出演して、力道山特集を全10回にわたってしゃべったところ、リスナーからこれらを1冊の本にしてほしいといった声が寄せられました。そこで、これまでに週刊プロレスなどで力道山について書いた何本かあった原稿を加筆補正し、新たに書下ろしも加えて、私の力道山研究の集大成にすることにしました」



26本の論考の中で、興味深く読んだのは、1「伝説のセメントマッチ 力道山対木村戦 プロレスの運命を決めた謎の一戦」です。すでにブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介したベストセラーをはじめ、多くの本で語られていますが、著者は以下のように述べています。
「試合の映像を見て気付いたのは、力道山と木村の体格差です。パンフレットによると、力道山の身長・体重そして年齢は五尺九寸、三十貫(178・8センチ、112・5キロ)で30歳、木村の身長・体重・年齢は五尺五寸、二十四貫八百(166・7センチ、93キロ)で37歳、その差は身長で約12センチ、体重では約20キロの力道山の方が大きく、年齢は力道山が7歳下ということになっています(木村の年齢は新聞では36歳、パンフレットでは37歳と書かれています)。組み合ったり持ち上げたりすると、木村の体が意外と小さく見えるのですが、力道山はヘビー級、木村はジュニアヘビー級の体重だったのです」

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

  • 作者:増田俊也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/07/01
  • メディア: Kindle
 

 

だから、力道山のほうがセメントでは木村よりも圧倒的に強かったのだと言いたいのでしょうが、2人の体格差や年齢差など、当時の観客ならば誰でも知っていたことです。また、著者は木村の確約書のエピソードなども持ち出していますが、これも『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で、著者の増田俊也氏が詳しく紹介しており、新鮮味はありません。ブログ『VTJ前夜の中井祐樹』で紹介した本で、増田氏は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にまとめられた連載は、最強の柔道家でありながら世間に忘れられた木村政彦の魂を救うために書いたと述べています。フェイクにまみれた世間を引っ繰り返すという目標のために著者は必死に書き続けたわけですが、しかしとんでもない方向へ進んでいきました。

 

VTJ前夜の中井祐樹

VTJ前夜の中井祐樹

 

 

増田氏は、『VTJ前夜の中井祐樹』で述べています。
「真剣勝負なら木村が勝っていた――。その結論へ向けてすでに書き上げていた原稿が、ほかならぬ中井祐樹によって引っ繰り返されてしまったのだ。中井は連載開始前に木村vs力道山の試合動画を分析して、私に『はじめから真剣勝負なら木村政彦が勝っていた』と私に言ったのだ。だから私も草稿ではそう書いていた。それが連載途中で会ったときに、迷いに迷った末、『すみません。あのとき増田さんがあまりにも真剣な表情で「真剣勝負なら木村先生が力道山に勝っただろ」と言うので、つい肯いてしまったんですが・・・・・・』と前言を翻してしまった。この証言によって連載はまったく予期せぬ方向へ進んでいくのである。他の人間の証言なら私は書き直さなかったかもしれない。しかし中井祐樹が言ったのだ。あれだけのことをやった中井祐樹が言ったのだ。連載はそこから、木村政彦力道山に負けたことを証明してしまう辛い改稿作業になっていく」
これはまた、実際に行われた力道山対木村戦、中井対ゴルドー戦とは違った意味での人生のセメントマッチであると思いました。こんなショックを受けながら、あれだけの大著を完成させた増田氏に心より敬意を表します。



話を本書に戻しましょう。次に興味深かった論考は、4「プロレスブームと力道山景気論」です。「力道山のプロレスがテレビ普及の原動力」として、著者はこう述べます。
「昭和29、30年といえば、時あたかも日本列島は力道山の‟プロレスブーム”の真っ只中にありました。この神武景気の牽引役を果たしたのは、実はプロレスの力道山だったと考えるのです。力道山の登場が昭和29年2月、テレビの出現が前年の28年で、2月にNHK,8月には日本テレビが放送を開始しました。街角に設置された街頭テレビの前には、力道山のプロレス中継が始まると黒山の人だかりができました」



また、著者は以下のようにも述べています。
「日本におけるテレビの普及率は、諸外国に比較してとても高い数値を示したそうですが、それは力道山のプロレスが要因だったと言われています。力道山からエネルギーを、パワーをもらった人々は一生懸命働いて、家庭にテレビを購入し、そして力道山のプロレスを見てさらに労働に勤しんだ――つまり力道山のプロレスは、戦後の国民に心理的、経済的効果を与えたのです。プロ野球読売巨人軍が優勝すると、大きな経済波及効果が生まれるといわれますが、プロレスの力道山の場合は、なんと景気自体を引き寄せたのです。神武景気の牽引役を果たしたのは、プロレスの力道山であったという、これがどんな経済書にも出てこない私独自の『力道山景気論』であります」
この「力道山景気論」には、思わず膝を打ちました。本書は、詳細な力道山研究の数々も素晴らしいですが、何よりも力道山への愛情に溢れた本です。

 

力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか

力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか

 

 

2020年1月18日 一条真也

「学ぶ」ことの意味

一条真也です。
「月刊リトル・ママ」2020年2月号が刊行されました。朝日新聞社系の「ママと子どもの明日を応援!!」するフリーペーパーで、各幼稚園などに配布されます。わたしは同紙で「一条真也のはじめての論語」というコラムを連載しています。拙著『はじめての「論語」 しあわせに生きる知恵』(三冬社)の内容をベースに、毎月、『論語』の言葉を紹介していきます。

f:id:shins2m:20200116104306j:plain「リトル・ママ」2020年2月号

 

第2回目は「子曰く、学びて時にこれを習う、亦説ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや」という言葉を紹介。
勉強する。と聞くと、みなさんはどう思われますか。試験のために知識をつめこむなど、誰かにやらされる大変なことと思っている人も多いのではないでしょうか。でも本来、「学ぶ」ことは、とても楽しいことなのです。

 

今回、テーマに取り上げた『論語』の言葉は以下のような意味となります。先生から勉強を習っても、そのままにせず、自分自身で改めて考えることで正しい知識が身につきます。これはとても喜ばしいことです。でも、自分一人で勉強していても面白くないですね。そんな時、友達が集まって一緒に勉強をすると楽しく学べ、お互いが刺激し合うことでより深い知識を得たいという気持ちになります。

 

友達より勉強ができても、いばってはいけません。いばる気持ちがあると、友達や先生の言葉も素直に入ってきません。いばる気持ちを抑えられると、人に信用され、慕われる立派な人になることができるのです。こういう人を「君子」といいます。孔子が弟子たちに伝えたかった大切なこと、それは、学び続けることによって世界を知り、いろんな人と心から仲良くすることです。

 

それができれば「人生は喜びと楽しみに満ちている」というのが孔子の教えです。ぜひ、お子様にも「楽しく学ぶ」方法を伝えてみてください。友達と一緒に笑顔で勉強に励むお子様は、きっと立派な大人となることでしょう。

 

2020年1月17日 一条真也

北陸祝賀会  

一条真也です。
サンレー北陸の新年祝賀式典の後は、新年祝賀会です。
東常務の挨拶の後、山下部長の乾杯の音頭で、お待ちかねの祝賀会がスタートしました。

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入場しました

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挨拶する東常務

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乾杯の音頭を取る山下部長

f:id:shins2m:20200116121449j:plainカンパ〜イ!

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祝賀会のようす

f:id:shins2m:20200116131028j:plain料理が美味しかった!

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ビーフカレー・ピラフが激うま!

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みなさんから新年の挨拶を受けました

 

しばらくは料理や飲み物を味わいながらの歓談タイム。日頃はなかなか話せない社員との絶好のコミュニケーションの機会です。わたしも、多くの社員との会話を楽しみました。

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随行者の2人

f:id:shins2m:20200116122104j:plain挨拶する津田支配人

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挨拶する中尾支配人

f:id:shins2m:20200116122637j:plain祝賀会のようす

 

それから、「入社予定者紹介」の時間となりました。
まだ学生らしさを残した若者が立派に自己紹介をしました。自己紹介が終ると、会場から大きな拍手が起きました。それから、北九州からの随行スタッフが紹介されました。田川紫雲閣の津田支配人、松柏園ホテルの中尾支配人です。2人とも、誠実な人柄がにじみ出るような良いスピーチでした。

f:id:shins2m:20200116124005j:plain余興&カラオケ大会のようす

f:id:shins2m:20200116124305j:plainワンチームで行こう!

f:id:shins2m:20200116124443j:plain余興&カラオケ大会のようす

f:id:shins2m:20200116124946j:plain余興&カラオケ大会のようす

 

それから余興&カラオケ大会です。最初は、営業推進部による「兵、走る」(B’z)、続いて、紫雲閣事業部による「Choo Choo TRAIN」(EXILE)、さらには冠婚事業部による「パプリカ」(Foorin)。みなさんダンスもキレキレで、歌も上手でした。本当に、わが社は芸達者が多いです。いいことです!

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わたしがステージに上がりました

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太陽の衣装が到着!

f:id:shins2m:20200116125559j:plain太陽の衣装に着替えました

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いきなり大盛り上がり!(後方にリーチ・マイケル?)

 

最後は、社長であるわたしの番が来ました。わたしはカラオケが苦手なので固辞したのですが、みなさんが「どうしても社長の歌が聴きたい」と言うので、ステージに上がりました。昨年は北島三郎の「まつり」とサザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」の2曲で馬鹿みたいに盛り上がりましたが、今年はブログ「下呂温泉の大宴会」ブログ「平戸温泉の大宴会」で紹介したカラオケ大会のときと同じく、THE YELLOW MONKYの「太陽が燃えている」を歌うことにしました。

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金沢でも熱唱しました♪

f:id:shins2m:20200116125816j:plain太陽が~燃えている~♪

f:id:shins2m:20200116125826j:plainイエ~イ!!

 

太陽の歌ということで、昨年末に購入した赤のレザージャケットを羽織り、白のハットを被りました。まるで64年の東京五輪の日本選手のユニフォームのような「日の丸」スタイルになりました。わたしは「東京で買った服と帽子ですが、派手すぎて着られずに困っていました。ふと、2つを組み合わせれば『日の丸』スタイルになることになることに気づき、新年祝賀会で試してみることにしました」と述べ、「日本は日の本、太陽の国。サンレーは日の光、太陽の会社。さあ、令和2年の始まりに太陽の歌を歌うぜ!」と前口上を言いました。さらに畳みかけるように「おそれずに 死を受け容れて 美に生きる そこに開けり サムライの道」と叫ぶと、会場が熱狂の坩堝と化しました。よし、つかみはOK牧場!(笑)

f:id:shins2m:20200116125900j:plainステージ下へ!

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サンレーが~燃えている~♪

f:id:shins2m:20200116130046j:plainエアギターが炸裂!!

f:id:shins2m:20200116130052j:plain怒涛のフィナーレ!

 

「太陽が燃えている」はジャパニーズ・ロックの名曲ですが、メッセージ性が豊かで、大いに盛り上げりました。わたしは渾身の力でエアギターのパフォーマンスを繰り広げました。最後は「太陽が燃えている」の歌詞を「サンレーが燃えている」に替えて歌い上げると、またもや興奮が最高潮に達しました。あまりにも激しいパフォーマンスで、NHK紅白の欅坂46ではありませんが、過呼吸で卒倒しそうになりました。

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アンコールで再登場!

f:id:shins2m:20200116130214j:plain「真っ赤な太陽」を歌いました♪

f:id:shins2m:20200116130347j:plainここでもエアギターが炸裂!!



 その後、アンコールの拍手が鳴り止みませんでした。わたしは基本的にアンコールは固辞する方針なのですが、あまりにも拍手と「アンコール!」の声が止まないので、仕方なくもう1曲歌うことにしました。曲目は、「太陽が燃えている」と太陽つながりで美空ひばりの「真っ赤な太陽」を選びました。ちょうど赤いジャケットを着ているし、ぴったりだと思ったのです。もともとノリの良い営業スタッフのみなさんが親の仇のように盛り上げてくれました。

f:id:shins2m:20200116130326j:plain力の限り熱唱しました♪

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熱狂のフィナーレ!

 

わたしは、「真っ赤に燃えた太陽だから~♪」と歌いました。2番は「真っ赤に燃えるサンレーだから~♪」と歌詞を替え唄にすると、もう最高に盛り上がりました。歌い終わった後は、「令和2年も、燃えるような情熱で頑張りましょう! ワンチームで行きましょう!」と絶叫すると、興奮のルツボとなりました。

f:id:shins2m:20200116130916j:plain抽選会の豪華賞品

f:id:shins2m:20200116131844j:plain社長賞を選びました!

 

カラオケ&余興大会の後は、恒例の豪華賞品が当たる「お年玉抽選会」です。賞品が当たるたびに大きな歓声が巻き起こりました。わたしの社長賞はダイソンの超高級コードレスクリーナーでした。当った人はあまりの嬉しさに茫然自失としていました。

f:id:shins2m:20200116132112j:plain中締めの挨拶をする岸部長

f:id:shins2m:20200116132144j:plain最後は「末広がりの五本締め」で 

f:id:shins2m:20200116132216j:plain退場のようす

 

最後は、営業推進部の岸部長の音頭によるサンレー名物の「末広がりの五本締め」で宴を閉じました。サンレー北陸のみなさん、今日は楽しかったですね。今年も、天下布礼をめざして、ともに頑張りましょう!

 

2020年1月16日 一条真也