「イン・ザ・ハイツ」

一条真也です。
オリンピックとパンデミックのカオスの中、ついに8月になりましたね。福岡県も「まん延防止等重点措置」が適用されることになり、当然ながら「緊急事態宣言」の発令も予想されます。いつまた映画館が閉鎖されるかもわからないと思い、公開されたばかりの映画「イン・ザ・ハイツ」を観ました。ニューヨークを舞台にしたブロードウェイ・ミュージカルの映画化ですが、“魂が叫ぶ”ような歌とダンスが最高に素晴らしかった!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『モアナと伝説の海』などに携ったリン=マヌエル・ミランダによるブロードウェイ舞台劇を、彼自身の製作で映画化したミュージカル。ニューヨークの一角に暮らしながら、自分の夢を追いかける青年たちの姿を映し出す。メガホンを取るのは『クレイジー・リッチ!』などのジョン・M・チュウ。『アリー/スター誕生』などのアンソニー・ラモス、『ブラック・クランズマン』などのコーリー・ホーキンズのほか、レスリー・グレイス、メリッサ・バレラなどが出演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ニューヨークの片隅にある街、ワシントン・ハイツ。祖国を離れてそこに暮らす人々は、ストリートに繰り出しては歌とダンスに興じていた。うだるような暑さだった真夏のある夜、大停電が発生。進学、仕事、恋で悩みを抱えながらも夢に向かってまい進していた若者4人の運命が、停電をきっかけに思わぬ方向へと動き出す」


冒頭のパワフルな群衆ダンスと、若者たちが人生の問題に悩みながら前向きに生きるさまは、ブログ「ラ・ラ・ランド」で紹介したミュージカル映画の名作を連想しました。2016年に公開された「ラ・ラ・ランド」は、俳優志望とピアニストの恋愛を描いたミュージカル映画で、脚本・監督はデミアン・チャゼル、主演はライアン・ゴズリングエマ・ストーンが務めました。第89回アカデミー賞では「イヴの総て」(1950年)、「タイタニック」(1997年)に並ぶ史上最多14ノミネートを受け、監督賞、主演女優賞(エマ・ストーン)、撮影賞、作曲賞 、歌曲賞、美術賞の6部門を受賞した名作です。

 

ラ・ラ・ランド」のオープニングでは、画面が横に長く広がり、「シネマスコープ55」と出るのですが、これは「略奪された七人の花嫁」「スタア誕生」「オクラホマ!」「回転木馬」「王様と私」などのハリウッド黄金時代のミュージカル大作に多く使われたワイドスクリーン方式であり、よってミュージカル・ルネッサンス宣言との見方ができます。また、「フォーリング・ダウン」「裏窓」「今晩は愛して頂戴ナ」「8½」「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」「ニューヨーク・ニューヨーク」「巴里のアメリカ人」、「雨に唄えば」という映画史上に残る数々の名作から引用されています。まるでミュージカル映画事典のような印象の作品です。一方の「イン・ザ・ハイツ」も、「ブルース・ブラザース」、「サタデー・ナイト・フィーバー」、「百万弗の人魚」、「恋愛準決勝戦」などの名作へのオマージュが感じられます。ジョン・M・チュウ監督のミュージカル映画愛が溢れていると言えるでしょう。


もっとも、「ラ・ラ・ランド」の舞台はロサンゼルスで、「イン・ザ・ハイツ」はニューヨークです。ニューヨークが舞台のミュージカル映画といえば、やはりブロードウェイ舞台劇の映画化作品として有名な「ウエスト・サイド物語」(1961年)が思い浮かびます。ジェローム・ロビンズ原案、アーサー・ローレンツ脚本、レナード・バーンスタイン音楽、スティーヴン・ソンドハイム歌詞のブロードウェイ・ミュージカルは1957年初演。シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」に着想し、当時のニューヨークの社会的背景を織り込みつつ、ポーランドアメリカ人とプエルトリコアメリカ人との2つの異なる少年非行グループの抗争の犠牲となる若い男女の2日間の恋と死までを描きました。主題歌の「トゥナイト」は名曲として知られます。


ウエスト・サイド物語」で、主演のナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーはマンハッタンのアパートの非常階段で「トゥナイト」を歌います。「イン・ザ・ハイツ」にも同じような非常階段が登場しますが、若い男女がアパートの壁面も縦横無尽に自由に歩き回りながら歌うシーンが印象的でした。「ウエスト・サイド物語」では、「トゥナイト」に加えて、「アメリカ」「マンボ」「クール」「マリア」など映画の中で歌われる曲が多くの観客を魅了し、サウンドトラック・アルバムも空前の売り上げとなりました。「イン・ザ・ハイツ」のサントラ盤も大ヒットを記録するでしょうか?


マンハッタンの片隅の街・ワシントン・ハイツでは、いたるところからいつも音楽が流れています。実際に存在する賑やかな移民の街ですが、彼らがプエルトリコ、メキシコ、ドミニカ、キューバなどの中南米の国々の国旗を掲げて激しく踊る狂う場面は圧巻できた。スクリーンから放たれる移民たちの熱気に生きるエネルギーを貰いました。「映画.com」で映画評論家の矢崎由紀子氏は、「オリジナルの舞台ミュージカルはブッシュ政権下で誕生し、トランプ政権下で映画化された。とくに、『違法に国境を越えた者は例外なく起訴する』というトランプ政権の不寛容政策が、映画に大きな影響を与えている。主人公ウスナビ(アンソニー・ラモス)の従兄弟の不法滞在がプロットに絡むのは、映画版のオリジナルだ」と書いています。


ワシントン・ハイツで育ったウスナビ、ヴァネッサ、ニーナ、ベニーはつまずきながらも自分の夢に踏み出そうとしていますが、ある時、街の住人たちに、住む場所を追われる危機が訪れます。これまでも幾度と困難に見舞われてきた彼らは今回も立ち上がります。そして突如起こった大停電の夜、夢に踏み出す4人の若者の運命が大きく動き出すのでした。4人の中でも、わたしが最も魅了されたのは美容サロンで働きながら、ファッションデザイナーを目指すヴァネッサです。メキシコ出身の女優メリッサ・バレラが演じました。彼女は演技、歌、ダンスをこなし、世界中から熱い視線を集める、アップカミングな女優であり、Netflixの新ドラマ「Breathe(原題)」で主演を務めることが発表になったばかり。


また、メリッサ・バレラは、クリニークのグローバルアンバサダーにも就任しています。彼女が演じるヴァネッサは美しいだけでなく、夢をけっしてあきらめない不屈の精神の持ち主です。わたしはヴァネッサに、ある知人の日本女性の面影を重ねました。彼女は大のニューヨーク好きで、大の映画好き。ニューヨークで撮影された映画のロケ地を紹介するブログやYouTubeを立ち上げ、さらに大きな夢に向かって羽ばたこうとしています。すべての夢に向かって頑張っている人たちに、希望と感動のミュージカル「イン・ザ・ハイツ」をぜひ観てほしいと思います。

 

2021年8月1日 一条真也拝 

東京感染者4058人!

一条真也です。
文月晦日となる31日、東京都が確認した新型コロナウイルスの新たな感染者は4058人。初めて4000人を超え、過去最多を更新しました。水疱瘡並みに非常に強い感染力を持つというデルタ株の脅威を感じます。

 

感染が確認されたのは10歳未満から100歳以上の4058人。先週の土曜日よりも2930人増えました。直近7日間の1日あたりの平均は2920人で、前の週と比べて217.0%。陽性率の高さから見て、もっと多くなるでしょう。五輪の閉会式の頃には5000人超えるのではないでしょうか。現在の絞った検査数でこの人数なのだから、もう既に5000人を超えているのではないかという推測もありますが・・・・・・。

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ヤフーニュースより 

 

この日、東京都とともに緊急事態宣言の発令が決定した沖縄県は、県内で新たに439人の新型コロナウイルス感染を確認したと発表しました。1日に発表される感染者の数が今月29日に確認された392人を超えて過去最多を更新。400人を超えたのは初めてで、これで県内の感染者数は累計で2万4761人となりました。療養中の患者の合計は2513人となり、1週間で2.36倍に増加しました。医療機関に入院している患者が509人なのに対し、療養先が決まらない待機中の患者が776人となっているほか自宅療養者は940人に上っています。

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ヤフーニュースより 

 

エコノミストで経済評論家の門倉貴史氏は、「すでに7月12日から緊急事態宣言が発令されている東京や沖縄で感染拡大に歯止めがかからないどころか急拡大しているのだから、飲食店の時短営業や酒類提供の停止を柱とした緊急事態宣言に人流抑制や感染封じ込め効果が期待できないのは明らかといえる」と述べています。沖縄県にはわが社の結婚式場がありますが、晴れの結婚披露宴で祝いの酒をお出しできないのはお客様が気の毒でなりません。わが社の主要エリアである福岡県と石川県への「まん延防止等重点措置」の適用も決まり、今日は対応に追われました。

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ヤフーニュースより 

 

新型コロナ感染大爆発と東京五輪開催はけっして無関係ではないと思いますが、なんと、無観客での開催が続く五輪を有観客に変更する動きもあるというから驚きです。丸川珠代五輪相は30日の閣議後の会見で、「競技によっては、非常に高い視聴率で見られている。ご自宅での観戦が定着してきていると受け止めもしている。引き続き、外出の自粛と、五輪はテレビで観戦、応援いただければ」と、自宅でのテレビ観戦を呼び掛けました。じつは、IOCのバッハ会長は、“有観客” での開催を、菅首相に強く要請しているといいます。「FLASH」が配信した「五輪『やっぱり有観客開催』に現実味・・・丸川五輪相、橋本会長が連日『会場視察』中」という記事の最後には、「観戦者を増やすより、感染者を減らすことが最優先のはずだ」と書かれていますが、まったくその通りです!

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朝日新聞DIGITAL」より 

 

朝日新聞DIGITAL」が配信した「政権を支配する楽観論『首相がそういうデータ出せと』」という記事では、菅首相周辺では、近く感染状況が改善するとの楽観シナリオが語られているとして、「宣言の拡大などを決めた後、首相は官邸で記者会見に臨んだ。約15分間の冒頭の発言で、ワクチン効果のアピールに多くの時間を割く一方、五輪については、交通規制やテレワークの効果で歓楽街の人の流れが減少傾向にあるとし、『自宅でテレビなどを通じて声援を送ってほしい』と短く触れただけだった。その後、記者からは五輪関係の質問が相次いだ。『国民の命と健康を守るという、五輪開催の前提は守られているか』『テレビ観戦だけで人流抑止の目標に到達できるのか』。そう問われた首相は、いずれも『人流が減少しているのは事実』などと繰り返した」と書かれています。


ちなみに、わたしは東京五輪は開会式以外はテレビで観ていません。空いた時間は、もっぱら読書と映画鑑賞に費やしています。日本人選手の金メダルラッシュは嫌でも目や耳に入ってきますが、今回の五輪はきわまて公平性に欠けると思っているので、メダルの価値も損なわれていると考えています。それでも、アスリートに罪はありません。連日、ベストを尽くしたパフォーマンスを展開している選手のみなさんには、どうかコロナ感染しないことを願っています。そして、信じられないほどの酷暑の中で、テニスなどの屋外競技に出場している選手のみなさんの生命が熱中症などで危機に瀕すことのないように願っています。


2021年7月31日 一条真也

『儒教が支えた明治維新』

儒教が支えた明治維新 犀の教室

 

一条真也です。
儒教が支えた明治維新小島毅著(晶文社)を読みました。素晴らしい名著でした。著者は、1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は中国思想史。東アジアから見た日本の歴史についての著作も数多くあります。著書に『増補 靖国史観――日本思想を読みなおす』 『朱子学陽明学』(以上、ちくま学芸文庫)、『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)、『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(以上、トランスビュー)、『「歴史」を動かす――東アジアのなかの日本史』(亜紀書房)、『足利義満――消された日本国王』(光文社新書)、『儒教の歴史』(山川出版社)など。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、孔子夏目漱石が半身ずつのイラストが描かれています。帯には、「なぜ日本は近代化に成功したのか。」と大書され、「日本に伝わった儒教武家の間に広まり、その教養の水脈は、吉田松陰西郷隆盛伊藤博文・・・・・・と受け継がれ、日本の近代化を用意した。東アジアの中の日本という視点で論じる、あたらしい明治維新」と書かれています。帯の裏には、「明治維新が近代化を達成できたのは、陽明学的な志士たちが(松陰の刑死、西郷の反乱などで)早くに退場し、朱子学的な能吏が(大久保暗殺はあったにせよ)政府中枢を占めたことにあるかもしれない。――本文より」と書かれています。

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本書の帯の裏

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「中国や韓国は儒教によって国が統治され、儒教は服装や冠婚葬祭のやり方まで、社会のすみずみに行きわたっていた。日本では、朱子学陽明学は、武家の間に広まり、その儒教的教養の水脈は、水戸光圀大塩平八郎吉田松陰西郷隆盛伊藤博文・・・・・・と受け継がれ、日本の近代化を用意した。中国哲学の専門家が、東アジアの中の日本を俯瞰して論じる、あたらしい明治維新論」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はしがき」
1 明治維新を支えた思想
朱子学陽明学の日本的受容と幕末維新
   ――現代の鑑としての歴史に学ぶ
中国生まれの志士的思想
江戸時代の儒教受容――岡山をめぐって
保科正之とその同志たち――江戸儒学の黎明期
東アジアの視点からみた靖国神社
2 朱子学、日本へ伝わる
日本的朱子学の形成――文化交渉学の視点から
日本の朱子学陽明学需要
五山文化研究への導論
夢窓疎石私論――怨親差別を超えて
3 東アジアのなかの日本
日本古代史の見直し――東アジアの視点から
日本と中国
豊臣政権の朝鮮出兵から考える日本外交の隘路
東北アジアという交流圏――王権論の視角から
中華の歴史認識――春秋学を中心に
「あとがき」

 

 

「はしがき」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
明治維新とは何だったのか? 私たち日本で暮らす者にとって、これは重要な設問のひとつである。最も流布している模範解答は、古代以来の旧体制から離脱して西洋風の近代国家を作るために行った一連の変革だったというものだろう。国民的作家とされる司馬遼太郎が『坂の上の雲』(1968年~1972年に産経新聞に連載)などで表明したのもこの見方である。折からその当時は『明治100年』ということで、自民党政権佐藤栄作内閣)が大々的なキャンペーンを張り、明治維新を賛美していた」

 

 

続いて、著者は「だが、本当にそうなのだろうか?」として、近年、学界では種々の見解が提起され、通説化しつつあることを紹介します。たとえば、「明治時代に学校制度が容易に普及浸透したのは江戸時代にその基盤ができていたから」(辻本雅史氏の見解)、「江戸時代の学問環境や手法が志士たちの政治議論の土壌になった」(前田勉氏の見解)、「明治時代になってからも儒教は社会に浸透した」(渡辺浩氏の見解)、「明治維新は偶然が重なって成功してしまった革命」(三谷博氏の見解)、「江戸幕府には西洋流の外交手腕を具えた優秀な人材がいた」(真壁仁氏の見解)、「西洋近代科学の受容は長崎の蘭学ですでに高い水準に達していた」(広瀬隆氏の見解)などです。著者は、「『江戸時代に近代思想の萌芽が見られる』という学説は、古くは丸山眞男が唱え、近くは苅部直氏が力説している。また、一般書籍としては、薩長藩閥政府の独善を非難し、『明治維新』という創られた偶像を壊すための本が陸続と出版されている」と述べています。


本書はそれらと観点を共有しつつ、少し違う角度から眺めた明治維新論だといいます。すなわち、時期を江戸時代にかぎることなく、もっと前から見ることによって、日本の歴史の中で儒教が果たしてきた役割を整理する本です。著者は、「13世紀に宋から伝わった禅宗には、教養の一環として朱子学についての知識が入り込んでいた。17世紀、江戸時代にいたって日本の朱子学禅宗寺院から自立する。すぐ引き続いて儒教の中から朱子学を批判する思潮も誕生する。教育施設(藩学など)が設立され、19世紀には儒教の教義内容が武士の間に広く浸透して国政改革への志を育んでいた。明治維新はこれを思想資源としている」と述べます。


また、著者は「思想資源」という語について、「ある思想が醸成するに際して使われた材料」という意味で使いたいとして、「その点で『源流』や『影響』という語とは異なる。前者は時間軸を上流から下流にたとえた必然的展開を、後者は既存のものにあとから外来物が付加したさまを思わせるからだ。そうではなく、思想資源とは当該思想が生成するにあたり不可欠だった材料・形質のことである。したがって、私は『明治維新儒教教義による政変だった』とまで主張するつもりはない。表向きそれはあくまで日本古来の神道による王制復古であり、実質的には西洋列強を模倣した国家の構築だった。しかし、遣唐使以来の中国からの文明移入の歴史を通観したときに見えてくるのは、『また同じようなことをしていた』という感想である。そして、いま、『世界標準(global standard)』という怪しげな用語によって進められている社会の転換もまた、いつか来た道に思えてならない」と述べるのでした。


1「明治維新を支えた思想」の「朱子学陽明学の日本的受容と幕末維新――現代の鑑としての歴史に学ぶ」の「『理』と『気』を結びつけた世界観」では、朱子学において、世界を成り立たせる原理として「理」というものを考える(そもそも、「原理」という日本語がこの影響を受けている)ことを紹介し、著者は「理それ自体には姿形はない。世界の存在物は、理に基づき、理を内在させるようにして、できている。存在物を構成しているのは陰陽五行の多種多様な組み合わせで、その元になっているものが『気』である。気は中国古代からある考え方だったが、それを理と結びつけて説明し、精緻な世界像を描き上げたところに、朱子学の意義があった。そして、他の物と同様、人間も気の集まりであり、理を内在させていると、朱子学では考える。理の具体的な内容は、親への孝、君主への忠といった倫理的徳目であり、それらは人為的に誰かが勝手に決めたものではなく、自然界の法則と同じである。ある人物が不孝や不忠なのは、彼が邪気(欲望など)の妨げに遭って自身に内在している本来の理を見失い、そこから逸脱していることに原因があると、朱子学では説明する。したがって、朱子学の思想史的特質は、漢代の儒教よりも個々人の内面の修養を重視することにある」と述べます。


朱子学の行き詰まりと陽明学の誕生」では、紆余曲折ののち、朱子学は王朝体制を支える役割を担うようになりますが、古今東西の通弊で、思想の教案化と硬直化による活力減退が訪れました。著者は、「15世紀末には多くの心ある士大夫が、この壁にぶちあたって悩んでいた。明のなかばのことである。王守仁(号は陽明)は、はじめ篤実な朱子学者として修行し、そのことに悩んで放蕩にも走り、権力者に逆らって僻地に左遷され、そこで一つの大きな悟りを得た。『私はこれまで朱子の教えに遵って、修行により理を追い求めながらも、得られずに煩悶してきた。だが、理は私たちの心に内在しているのであり、外界にあるわけではないのだ』。朱子学自体がそもそも内面重視の教説だったはずなのだが、陽明学はさらにそれを押し進め、個々人が自分の心の本来のありかたを取り戻すことを強調する」と述べます。

 

 

「日本に朱子学を伝えた禅僧たち」では、朱子学陽明学ともに、仏教の中の禅の思想と深く関わっているとして、著者は「時に禅に学び、時に禅を批判し、また時には禅のほうが朱子学陽明学からヒントを得ながら、中国近世の思想史は展開していた(この他に道教の動向も密接に絡むのだが、日本への直接的影響は薄いので、ここでは省略する)。日本に朱子学陽明学が伝わったのは、禅仏教導入の一部としてであったのは、こうした事情に由来している。栄西禅師は2回宋を訪れているが、それはちょうど朱熹が活躍していた時期であった。もっとも、二人に面識はない。栄西によって臨済宗が移入されてからのち、13世紀から14世紀にかけて、同じように宋で禅を学び日本にそれを伝えたり、もともと宋の禅僧が来日して活躍したりすることが続いた。朱子学は彼らによって日本に伝えられる。言い換えれば、日本の儒者が栄に留学して朱子学を学び、それを持ち帰ったわけではない。ここが、中国や韓国の朱子学と日本の朱子学受容との決定的な相違点であった。本場中国でも、そしてモンゴル帝国時代に政治的な力関係もあって北京に行かざるを得なかった韓国の高麗王朝でも、朱子学の担い手は儒教を生活信条とする士大夫だった」と述べます。

 

 

「江戸時代に禅宗から独立した朱子学」では、日本では禅宗の僧侶が、留学中のいわば副専攻として朱子学を修得し、故国に伝えていたことが指摘されます。そのため、儒教の根幹をなす“礼”の実践が根付くことはありませんでした。具体的には、冠婚葬祭のやりかたです。著者は、以下のように述べています。
「禅僧は仏教式のそれを中国から伝えただけで、朱子学風の儀礼を実践することはなかった。もっとも、加地伸行氏が『儒教とは何か』(中公新書、1990年)で強調するように、中国仏教の冠婚葬祭自体、もともとは儒教流儀のものであった。江戸時代、朱子学はようやく禅宗寺院を離れて教育・研究されるようになる。藤原惺窩・林羅山山崎闇斎といった17世紀の朱子学者たちは、もともと禅宗寺院で学んだ経験を持っている。彼らが弟子を育てるようになってはじめて、朱子学禅宗から自立する。そして、すぐに伊藤仁斎荻生徂徠のように、朱子学に疑問を感じて独自の教説を唱える思想家が登場するにいたる」

 

 

「討幕運動の精神的柱となった陽明学」では、朱子学の変種である陽明学も、(学者が訪日したわけではなく)書物を通じて知識として広まったことが紹介されます。著者は、「中江藤樹は、最初は朱子学を学習していたが、やがてこれに疑問をいだき、晩年(といっても彼は40歳で亡くなっているので30代で)陽明学と出会ってこれに傾倒する。つまり、彼自身、王陽明同様に、また仁斎や徂徠と同じく(時期的には藤樹が先輩だが)まず朱子学を学び、そののちそこから離れるという道を歩んでいる。幕末の吉田松陰にしろ西郷隆盛にしろ、江戸時代の儒学が持つこうした性格の体現者であった。ふたりとも陽明学に心酔したといわれ、井上哲次郎『日本陽明学派之哲学』(1900年)以来、幕末を代表する陽明学者として語られてきた。さらに、(これも井上らの筋書きだが)陽明学が本来持っている革新的な傾向が、彼らが担った倒幕運動の精神的背景となったとされた」と説明しています。 

 

「維新を可能にした朱子学陽明学の単純図式」では、日本がアジアの中で最も早く西洋風近代国家への脱皮を果たせた背景には、たしかに陽明学的な精神の存在があったとして、著者は「“倒幕”という大それた発想、鎌倉幕府以来の武家政権の仕組みを武士自身が壊していこうとする運動は、陽明学思想に親和的であった。しかし、それは『彼らは陽明学者だから進取革新の気風に富んでいた』わけではなく、『社会改革への志を持っていた人たちだから陽明学に心酔した』というべきであろう。具体的な“礼”の世界を持たず、ただ観念的に思想を語ってきた日本の朱子学陽明学の受容が、『体制護持=朱子学、変革運動=陽明学』という単純な図式で幕末維新期を捉えることを可能にしてしまう状況を作り上げていたのだ」と述べます。


「現代の鑑としての幕末維新」では、明治国家が近代化を達成できたのは、陽明学的な志士たちが(松陰の刑死、西郷の反乱などで)早くに退場し、朱子学的な能吏が(大久保暗殺はあったにせよ)政府中枢を占めたことにあるかもしれないとして、著者は「三島由紀夫は1970年の割腹事件に際して、陽明学者の大塩中斎(平八郎)に自己投影していたふしがある。彼は東大駒場キャンパスで全共闘と対話しているが、私は、これは両者が陽明学的心性を共有していたからだと解釈している。三島には、学生たちに自分と同じ匂いを感じとる嗅覚が具わっていたのだ。事のよしあしはさておいて、全共闘とは幕末の倒幕派志士たち同様に“陽明学”だったのだと私も思う。彼らが敵とみなす体制は、“朱子学的”な官僚体制だった。そして、それは50年の時を経ても彼らの気質として持続しているのではなかろうか」と述べています。

 

 

「中国生まれの志士的思想」の「『論語』の広がり」では、著者は「志士」という言葉を取り上げ、「志士――幕末期の若者たちが、自分もそうありたいと憧れた生き方である。西暦2世紀、後漢孟子注釈者趙岐は『志士とは義を守る者』といい、それから1000年後、宋の論語注釈者朱熹朱子)は『志士とは志ある者』とする。高い志を持って義を守る人物、それが志士であった。『論語』や『孟子』は古くから日本で読まれていた。『論語』は、『古事記』に応神天皇のとき、百済からもたらされたと書かれており、それは史実ではなかろうというのが現在の歴史学界の通説だが、かなり古くから貴族たちの間で読まれていたことはたしかであった」と述べています。

 

 

また、18世紀の国学者上田秋成の『雨月物語』には、西行法師のせりふとして「『孟子』を積んだ船は神々の怒りに触れて海に沈み、日本には辿り着かない」とありますが、ブログ「『孟子』の革命思想と日本」でも紹介したように、実際には平安時代の宮廷に持ち込まれていました。著者は、「いわゆる国風文化なるものも、こうした漢籍の素養を基礎としてはじめて華開いたのである。ただ、それは京都の上流階級の間での話にすぎず、『論語』と『孟子』は日本列島に暮らす大多数の人々とは無縁の書物であった。したがって、「志士」ということばもまったく重要ではなかった」と述べています。

 

 

19世紀はじめ、頼山陽は『日本外史』に『太平記』に見える児島高徳のせりふを収録しました。著者は、「『日本外史』という本は、平安時代の源平両家興隆以来の武士の歴史を描いている。当時の武士が、自分たち武士の歴史を学習した書物である。また、このころ、朱子学の普及にともない、『論語』『孟子』も貴族(公家)や僧侶の独占物ではなく、武士や裕福な農民・町人によって読まれるようになっていた。当時の若者たちは、かくして、天皇陛下のために悪者を懲らしめる『志士』の姿に自己投影するようになる」と述べています。


「庶民の目線で中国思想を解釈」では、『春秋』の本文を解釈する学術を「春秋学」と呼ぶことが紹介され、「春秋学は、時代による変遷を経ているが、朱熹によって大成された朱子学において大義名分論が力説されるにいたる。君主は常に尊く、中華の文明は守られねばならない。春秋学の中で培われていた『尊王攘夷』という考え方が、朱子学の中で特に強調される」と説明されています。尊王攘夷の志士の一人である吉田松陰は、「草莽崛起」を説きました。それについて、著者は「上流階級の支配層に任せるのではなく、民と呼ばれてきた普通の人々が政治意識にめざめ、天皇を中心とする日本本来の国の姿(「国体」といわれる)を取り戻すために立ち上がることを力説したのである」と述べます。

 

 

松陰が『孟子』の講読会を主催していたことは有名です。上田秋成は『雨月物語』で西行法師の口を借り、日本の国柄は革命にそぐわないから、革命を是認する『孟子』は神々の意に沿わないと説いていましたが、幕末には、こうして、庶民が立ち上がって世の中を変革することが主張されるようになります。「やむにやまれぬ 大和魂」から若中暗殺計画を企て、松陰は政治犯として処刑されました。著者は、「その思いは弟子たちに受け継がれ、長州藩を中心とする討幕運動が成就する。だが、彼らはそれを『革命』とは呼ばなかった。儒教で『革命』とは王朝交替を意味する。天皇の政治復権にすぎない以上、この用語はふさわしくない。当初『御一新』といわれていた体制変革は、やがて『維新』と表現されるようになる」と述べます。

 

 

「維新」の出典は『詩経』の周の王家を讃える詩句です。「維」は発語の辞で特段の意味はありません。訓読でも「これあらたなり」と読みます。したがって、いわゆる熟語ではないのですが、この2文字が「革命」とは異なる意味、(大化)改新とか(建武)中興とかと同類の表現として、政府によって採択されたことを指摘し、著者は「出典としては『詩経』なのだが、この句を引用している『大学』という本が、朱子学における必読入門書の役割を果たしていたことが、この語が選ばれた大きな理由であろう」と述べています。


中国文明の影響」では、尊王攘夷運動の思想的淵源として、儒学儒教・漢学)と並んで国学があることが紹介されます。著者は、「国学では、日本が天照大神の神勅によって万世一系天皇を君主として上に戴く万邦無比の国体をそなえており、八百万の神々に守護された優れた国であるとする。もともとは、中国起源の儒教やインド起源の仏教に対抗して、日本の特殊性と神聖性を主張する文脈で登場した考え方であった。だが、19世紀なかばには蘭学を通じて日本でも知られるようになってきた西洋文明を敵視するものとなり、特に幕末には断固たる鎖国維持を唱える人々の間で信奉されるようになっていた」と説明します。


17~18世紀になると、契沖や荷田春満賀茂真淵といった、公家文化とは一線を画す人たちが登場しました。著者は、「真淵はそれまでの『古今和歌集』を尊重する伝統に対して『万葉集』の再評価を提唱した。その弟子を称する本居宣長は、『源氏物語』の新しい注解を著した他、『古事記』を神典とする歴史観を打ち立て、『漢意』を排除して『大和心』もしくは『和魂』を提唱した。とりわけ、宣長没後の門人と自称する平田篤胤の一派は、対外的な政治的危機に敏感に反応して、天皇を中心とする形で外国の影響をしりぞけ、日本の独自性・純粋性を守ろうと志す。尊王攘夷派の志士には、平田派国学の出身者が多い」と説明しています。

 

 

しかしながら、国学者たちの発想は決して「日本古来の伝統」ではなかったことを指摘し、著者は「そもそも、天照大神が日本を自分の子孫が永遠に統治することを宣言したという神勅(天壌無窮の神勅)は宣長が再評価した『古事記』には載っておらず、『日本書紀』にのみ見える挿話である。『日本書紀』は正規の漢文で書かれているため、宣長から『漢意』と指弾されていた。彼の評価は客観的にも正しい。『天壌無窮』という語は、その発想も、そしてまたその表現(漢字表記)も、中国文明の影響抜きにはありえないからである。『万世一系』もまた、秦の始皇帝が、子々孫々、皇帝として世界を統治しつづけることを宣言した発想に由来する。中国や韓国では王朝交替があり、万世一系が曲がりなりにも実現しているのはたしかに日本だけだった。その意味で、国学派が言うように、日本は特殊である」と述べます。かくして、幕末の志士たちを鼓舞した用語の多くが、大陸伝来の思想に根ざしていました。本居宣長吉田松陰の「やまとだましい」は精神論の次元で使われるにとどまり、志士たちは「志士」と呼ばれる時点で、実際には儒教の言説空間すなわち「漢意」に絡めとられていたのでした。

  

 

「江戸時代の儒教受容――岡山をめぐって」の「儒学大義名分を広めた明治維新」では、神武天皇が即位したとされるのは、『日本書紀』の紀年によると、西暦では紀元前660年に当たる年であることが紹介されます。著者は、「19世紀末に歴史学者那珂通世が、これは辛酉革命説という古くからの考え方に基づいて、『日本書紀』を編纂したころの学者たちが算定した虚構であると断定いたしました。そもそも紀元前7世紀には、日本にはまだ中国から文字も暦も伝来しておりません。ですから、その年の元旦に神武天皇が即位したというのは、歴史的にはまったく考えられないわけです。ところが、江戸時代に儒学大義名分思想を基に、将軍といえども天皇の臣下にすぎないとする非現実的な思想観念が発生、流行いたします。そしてこれが、教育を通じて一般的な常識となってまいります。明治維新というのは、この摩訶不思議な教説がもたらした復古的な革命運動であったというのが、私の明治維新理解です。幕末の志士たちは、この復古的な革命運動という思想にかぶれた若くて青い連中であったのです」と述べます。


池田光政が取った神儒一致」では、神道というのは江戸時代まで仏教と不可分離のものであったと指摘し、著者は「神道はそもそも日本古来存在していたものではありません。先述のように、江戸時代に生まれた考え方が幕末期に大々的に宣伝され、明治国家によって正式に採用された歴史認識によって、日本に大昔からあった信仰体系だとみなされるようになったものです。江戸時代には、仏教徒になれというお触れが全国に出ているぐらいですから、仏教が圧倒的な力を持っています。神道なるものは、その仏教と不可分離の関係を持っていました。普通それを神仏習合と言っております」と述べます。


 「習合」というと、もともと別個の二つのものがあとから一緒になったような感じがします。でも事実はそうではありません。神仏習合というのは特殊な形態ではなく、仏教伝来以来ずっと日本の宗教のあり方であったと指摘し、著者は「光政は、その神仏をあえて分離します。神道と仏教は別のものであると。ただし、いまも言いましたように、神道というのは、それまで歴史的に独立して存在しておりません。そこで、どういう形でその神道なるものを作り上げていったかというと、これが神儒一致という考え方です」と述べます。

 

 

神儒一致について、著者は「例えて言うなら、仏教という売り上げナンバーワンの企業がある。儒教神道どっちがどっちだかわかりませんが、2位と3位である。この2位と3位のものが連合して、あるいは合併して、第1位の仏教に対抗しようとした、それがこの神儒一致という動きです。これは室町時代までは原則的に見られません。ないと断言はできませんが、盛んになるのは江戸時代になってからです。江戸時代における儒学思想の受容ということで言うと、仏教から独立した形で儒教が受容されるようになる、あるいはそれが日本古来のものと考えられてきた神道と連合戦線を組む、一致すると考えられるようになる、これが大きな特徴です」と説明します。


「中国儒教の影響を受けた宗教政策」では、儒教も神様を祀ることを指摘し、著者は「いちばん尊いのが天の神で、この他に地の神や、皇帝の祖先や孔子など、もともと人であった神もいます。これらの神々を祀る施設が全国にあって、これを国家が統制しているのです。やしろという漢字(社)やほこらという漢字(祠)は、もともと、中国で儒教の施設の名称でした。日本では古来、神道の施設にもともと儒教の用語であったこれらの漢字をあてはめたのです。神儒一致という江戸時代の考え方は、こうした背景があって登場したともいえるでしょう」と述べています。


「殉死の禁止は儒教による文明開化」では、江戸時代初期の儒教の受容の中で特徴的な話が紹介されます。それは寛文三名君のあとの二人、保科正之水戸光圀にかかわる話で、殉死の禁止ということです。著者は、「殉死の禁止は、儒教による文明開化だと私は考えています」と述べ、保科正之徳川光圀はお触れを出して殉死を禁止しましたが、これは儒教を学んだからだと推測しています。儒教の本場である中国の場合、孔子が生きていた時代よりも昔、殷の王様の墓からは大量の殉死者の骨が出てきます。著者は、「骨が出てくるのでこれは殉死者だろうと考えられているわけです。つまり、王様が死ぬと、その王様に仕えていた人たちが一緒に、殺されていたのか自ら死んでいたのか、とにかく墓に埋められるという慣習がありました。それに対して、孔子の時代になりますと、そうした生身の人間ではなく、身代わりの人形として俑を埋めるようになります。秦の始皇帝陵の兵馬術もそういうものです。孔子が殷の時代の殉死のことを知っていたかどうかはわかりません。けれども、儒教の文脈では、王様の墓の中に、仕えていた人間そっくりの人形を埋めることすら孔子様は批判していました。ましてや生身の人間を殉死させるなどということは人道的にとんでもないことだというのが、この『孟子』という本が書かれて以来、儒教の中にずっとある考え方です」と述べています。


「士道の核を成した儒学」では、著者は「鎌倉時代室町時代にももちろん儒教はありました。あるいは、もっと前の律令制度というのも吉備真備らの努力で当時の中国の儒教を受容したものでした。しかし、それは政府の中枢で学ばれるものに限られていて、鎌倉時代以降実権を握っていた武士たちの間に儒教が本格的に広がるのは江戸時代になってからです。そのときに、侍たちの生きる道である士道、さらにそれに武の字をつけて武士道と呼ばれるようになるわけです。この士道の核を成す倫理道徳として儒教が使われるようになっていくのです」と説明しています。

 

 

やがて、侍というのは殿様個人に仕えるのではなくて、もっと大きい公のもの、公共のものに仕える者、奉仕する者であるという観念が広がったとして、著者は「この日本列島の中での公的機関、つまり日本国なる国の最も中核になる存在としての天皇が浮上してくるわけです。一方で、水戸藩での『大日本史』の編纂とか、頼山陽の『日本外史』というような歴史書、その他中国の儒教の本、武市半平太のせりふで紹介した『近思録』などという本が読まれるようになると、そうしたものによって、天皇を中心にして日本を考えなければいけないという思想が出来上がってきます。これは江戸時代もかなり遅くなってからだと考えられていますが、幕末期には、侍たちのそうした素養、教養というのは儒教を中心とするものになっていくわけです」と述べます。


保科正之とその同志たち――江戸儒学の黎明期」の「好学大名と江戸儒学の黎明」では、水戸の徳川光圀、金沢の前田綱紀会津保科正之、それに岡山の池田光政の四人は、儒学を愛好した名君として後世並び称され、いまも日本史の教科書に列挙されていることが紹介され、著者は「元和偃武により大名同士の内戦が終結し、島原の乱が平定され、援明出師もしないことになって、武士は戦う機会を喪失した。軍団総師である各地の大名たちは為政者としての性格を強めていく。その際、経済や文化を振興するために積極的に学ばれたのが、朱子学であった。好学大名たちは競って優秀な儒学者を招聘する。朱舜水儒教の本場から渡来したスターとしてもてなされたのであった」と述べています。


「東アジアの視点からみた靖国神社」の「靖国神社問題は国内問題」では、わが国には「過去を水に流す、死者をムチ打たず、墓を暴かず」という文化があることを指摘し、著者は以下のように述べています。
「これに対して中国は『死者にムチ打ち、墓を暴く』文化です。かつて南宋という国がありました。その国が金という異民族に攻められたとき、秦檜という南宋の政治家が妥協し、和平を結んだ。これは売国行為だと激しく非難され、この人と夫人の銅像を造っていまなお中国人は唾を吐き続けています、これが中国の文化です」

 

 

靖国は日本古来の思想に根差しているか」では、そもそも靖国神社は日本古来の神道教義に由来しているのか。またその慰霊方式、英霊の祀り方は日本独自の伝統に根差しているのかといった問題が取り上げられ、著者は「私はそうではないと考えます。これが私の『靖国史観』という本の中で言いたかったことです。靖国神社儒教朱子学の教義を源流とする施設で、その意味では中国伝来であるということです。大原氏が言うように、中国文化とは違う日本文化、死んだらその人の生前の業績のあれこれ、マイナス面のあれこれを指摘しない、死んだら水に流すという文化が靖国神社だということではまったくないのです。むしろ真逆です」と述べています。


日本では江戸時代までは、つまり明治維新という事件が起こるまでは、「怨親平等」という考え方が重視されていました。怨親平等について、著者は「これは仏教の教理の中にあるものです。その象徴として取り上げられるのは鎌倉にあります円覚寺です。円覚寺は蒙古襲来の戦死者を敵味方の区別なく、すなわちわが祖国を守って戦死した鎌倉武士のみならず、侵略軍であった蒙古軍の人たち、といってもモンゴル人は極少数で、ほとんどが中国人、韓国人だったわけですが、そうした中国や韓国から日本列島に攻め込んできて日本で戦死した人たち、あるいは船が沈没して溺死してしまった人たちも一緒にお祀りして供養する、菩提を弔うために創建された寺院です。そして、これが、これこそが日本古来の文化なのです。その意味では死んだら水に流すわけです。侵略軍だった蒙古軍の人たちもかわいそうに亡くなってしまったんだから一緒にお祀りして供養しましょう。怨みは水に流しましょうというわけです。その意味では大原氏の言うことは正しいのかもしれません。しかし、靖国神社怨親平等ではありません。その点で、靖国神社が日本古来の文化に根ざしているとは言えないのです」と述べます。


死者を神として祀る慣習はもともと「御霊信仰」と呼ばれるもので、早良親王とか管原道真のように怨みを呑んで亡くなった人の霊、祟り神を鎮めるために神として祀りました。著者は、「やがて祟り神ではなく英雄、優れた人を神として祀るようになります。代表例が豊臣秀吉豊国大明神徳川家康東照大権現です。この人たちは徳を讃えられて神になる。怨霊ではない。そして明治維新のときには歴史上の忠臣たちも神格化します。過去にさかのぼって天皇のために尽くした忠臣たちも神になっていきます。代表が湊川神社楠木正成です。藤田東湖の『文天祥の正気の歌に和す』の詩の中にもこの正成の桜井駅での別れの故事が引かれておりましたが、正成は明治政府にとって讃えるべき武士、天皇のために忠義を尽くした武将です。そこで湊川神社を大々的に造りました。楠木正成靖国の英霊と同質です。そもそも藤田東湖が『楠木正成は英霊だ』と言ったわけですから、靖国神社に祀られる英霊の原型になった人です。天皇陛下のために戦って命を落とした軍人です」と述べます。


国賊の誕生」では、忠臣と逆臣を区別するという考え方は「怨親平等」の精神と相反し、「怨親差別」であるといいます。『夢中問答』を書いた夢窓疎石はこの言葉を使い、怨親を差別することなく、つまり敵味方を平等に扱うべきだとして、安国寺の建立を進めました。これに対して、平等に反する「怨親差別」の考え方が強くなって来るのが江戸時代のなかばぐらいからでした。著者は、「『過去を水に流す』ことを勧めて安国寺でどちらも供養しようと言ったわけですが、江戸時代に朱子学の影響でこれとは相反する考え方が主流になってしまいます。そして、明治維新後にそれを制度化したのが靖国神社なのです。つまり、これは『古事記』や『日本書紀』にはまったく見られない発想です。思想資源は朱子学です。もちろん国学も忘れることはできないわけですが、私は、国学朱子学の影響を受けて誕生したものだと思っておりますので、その意味では間接的にそちらルートでも朱子学を起源とすると言えるわけです」と述べています。

 

 

記紀、特に『日本書紀』はそもそも中国儒教思想の影響下に編纂されたとして、著者は「自分たちの歴史を漢文で書こうなどというのは日本にもともとない発想です。それから律令を日本は導入いたしますが、律令というのも『礼』に基づいて中国で作られるようになったものです。ですので、律令を支える思想も儒教に由来しています。平安時代に編纂された『延喜式』は、律令の運用法規として定められたものですが、その中に、朝廷が認めた全国の神社リストがあります。『延喜式』に載っているので、式内社と呼ばれているものです。これは神社を序列化し、国家が公認するという考え方によっているわけですが、この発想も中国の儒教の影響と考えられます。ですから、神道というのは制度的にはそもそも儒教思想が入っているということになります。また、神道の教義には道教の要素も見られます。要するに、中国思想の影響下に形成されたもので、決して日本古来の慣習がそのまま発展したものではありません」と述べます。

 

 

江戸時代までは神道は仏教と厳密な区別がなされてこなかった、いわゆる神仏習合でした。明治政府は神仏分離を行いました。つまり、儒教による仏教打倒政策の一環とでもいえるのが靖国神社だということになります。著者は、「自分の命を犠牲にして勤王することに酬いるべく、『礼記』のいう『死をもって事に動むればすなわちこれを祀る』のです。ですから、王である天皇は彼らを英霊として祀らねばならないのであります。靖国神社の教義が朱子学に由来すると、私が考えるのはそのためです」と述べるのでした。

 

 

2「朱子学、日本へ伝わる」の「朱子学の土着化と王権理論の変質」では、日本の朱子学展開史を中国や韓国と比較した場合の最大の特徴は、初期段階においてそれが禅僧を担い手としていたことであると指摘されます。それは、日本の体制宗教がこの時代においても(後の江戸時代においてさえも)仏教であり、また、政治体制が武家政権の下での世襲封建制であって科挙官僚制を採用しなかったこと等に由来しているとして、著者は「17世紀を迎え、江戸時代にはいると、この様相は一変する。徳川家康が政治顧問として林羅山を招聘したことは、かつて言われていたように朱子の体制イデオロギー化というわけではないにせよ、画期的であった。羅山は慣例に遵い僧形の道春という名で将軍家に出任していたけれども、彼自身はこの段階でもはや仏教を信奉しておらず、中身は儒者、しかも博士家の連中とは異なり、純然たる朱子学者だったからである。彼は妻帯もし、世襲で子孫にその地位を継がせている」と述べています。

 

 

地方の大名の中には、より積極的に朱子学を受け入れ、仏教に代わる教学として位置づけようとする動きもありました。著名な事例でいえば、土佐の山内家で執政をしていた野中兼山は母の葬儀と墓制を朱熹の『家礼』に遵って実施しました。著者は、「17世紀末になると、好学大名と総称される保科正之池田光政徳川光圀前田綱紀らが現れ、神儒一致を唱えて朱子学式の葬送儀礼の実践を企てた。大名レベルではないものの、他にもこのころ『家礼』を実践しようとした人たちがいた。こうした土壌の中から、将軍や大名たちと関わりながら、山崎闇斎新井白石・室鳩巣のような朱子学者たちが登場する」と説明しています。

 

 

闇斎は神儒一致論(垂加神道)でしたので、その墓はふつう神式とされていますが、発想は儒教なかんずく朱子学に基づいていました。鳩巣にいたっては、特に許しを得て、儒式の墓所を江戸郊外に与えられました(大塚先儒墓所)。朱子学が五山文化の1つの要素としてのみ存在していた16世紀以前とは異なる局面の始まりであるとして、著者は「江戸時代を通じて、朱子学はついに国民的レベルでの体制教学にはならなかった。人は死ねば菩提寺に葬られる。いかに朱熹の『四書集註』が広く読まれようと、この点に関しては如何ともしがたい。朱熹の教説は四書の注解として道徳的訓戒の役割にとどまり、その世界観、特に人の生死に関する仏教批判は江戸時代の日本で一般的な習俗の基盤とはならなかった」と述べています。

 

 

18世紀末、蒲生君平という人物が歴代天皇の墓を考証する『山陵志』を著しました。著者は、「すでに一千年来、王家の菩提は仏教が弔うことになっており、このころにはかの俊芿を中興の祖とする泉涌寺菩提寺的役割を担っていた。ところが、蒲生のこの著作などが契機となって、それまで放置されていた古代の王墓への関心が高まる。そして、ついには『天皇』号の復活とともに、旧い伝統の復興と称して神道式の葬儀や陵墓が営まれるようになる。それは神仏習合と仏法王法相依に拠ってたっていた王権理論に変質を迫り、明治維新という「近代」に接合する動きであったが、その淵源は仏教とは異なる王権理論を再構築しようとする17世紀における朱子学自立運動にあった。近代天皇制の成立は、五山文化の一要素として受容された朱子学の展開史としても捉えられる」と述べるのでした。

 

 

「日本の朱子学陽明学受容」の「漢唐訓詁学」では、著者は以下のように述べています。
儒教は、漢(紀元前202~紀元後220)の時代に教学として大成しました。そう申し上げると、『儒教孔子に始まるのではないか』と思われる方が多いと思います。もちろん、孔子儒教の開祖とされるわけですが、私の言葉遣いとして、孔子のころはまだ儒家でありまして、儒教という名にふさわしい形に整備されるのは漢代になってからと考えております。史料上も『儒教』という言葉が出て来るのはもっと後で、漢代でもまだ出て来ません。西暦5世紀ぐらいになってから『儒教』という言葉が出てまいります。道教、仏教がそのころ成立していて、そういう名称で呼ばれるようになったのと並べて『儒の教え』、すなわち『儒教』という用語が生まれます。その儒教は漢代に大成しましたが、その中身は孔子が編纂したとされる経書です。歴史的事実としてはそうではありませんが、儒教の中では孔子が編纂したことになっています。彼らは経書の解釈を通じて理想の国家像を提起し、漢の時代には、実際の国政を左右する力をもつようになっていました」

 

 

「江戸時代における朱子学の自立と陽明学」では、日本で儒者として朱子学を自立させた第一世代・第二世代の特色として、藤原惺窩や中江藤樹は、朱王折衷、つまり朱子学陽明学の両方混ざったような所説を述べていると評価されていることを紹介し、著者は「これも意図的に混ぜ合わせたというよりは、そういう形で日本では理解されていたのです。中江藤樹陽明学と出会ったのもそういう流れです。一方、林羅山朱子学一尊を説いていましたけれども、その姿は僧侶でありました。こういう状況の中で、朱子学者という立場を純粋に守ろうとしたのが山崎闇斎です。彼やその弟子たちは、『朱子家礼』という本の実践に努め、日本古来の神道を結びつけて、儒式であると同時に神道式でもあるようなお墓を造るようになります。この『朱子家礼』という本は、異説もあるのですが、朱熹が編纂したと考えられます。朱熹が編纂した家の中での礼法、家の中での礼というのは、具体的には『朱子家礼』に書かれているのは冠婚葬祭です。中でも日本で重きを持ったのは葬と祭、つまり、葬式と祖先祭祀です」と述べます。

 

 

そもそも日本には古来から仏教式ではない葬儀、仏教式ではないお墓がありました。これは律令の中で定められているやり方等に従ったものであると指摘し、著者は「そもそも律令というのは儒教の礼儀を法文化したものでして、漢唐訓詁学の影響を受けています。つまり、一言で言えば儒教式だったわけです。日本古代の制度で仏教式のものもありますが、一方で儒教式のものもあったわけですから、江戸時代における神道儒教は一致するという主張は、実はもともと源流を同じくする二つの流派が、あらためて互いに似ているということを言っていたに過ぎないのではないでしょうか。元をたどれば同じだからです。山崎闇斎たちが『神道式だ』と言っている日本古代の神道式というものは、もともと中国の儒教の影響を受けてつくられたもので、そこに朱子学の『朱子家礼』を学んで新しく儒教式という看板が持ち込まれたときに、『日本古来の神道式のものと似ている』と主張されたわけですが、似ているのは当たり前なのです。羅山や闇斎らが神儒一致を強調したのは、その当時において日本においての主流勢力は仏教だったからです。仏教への対抗意識から、いわば2、3位連合、2位と3位で一緒になって対抗しようということだったのではないかと思います」と述べています。

 

 

さらに、著者は荻生徂徠(1666~1728)という巨人を取り上げ、以下のように述べています。
「独学で身を起こした人で、彼も学んでいたのは朱子学です。そして、朱子学の知識によって綱吉の側近の柳沢吉保に召し抱えられます。彼は、晩年、朱子学を方法的に批判し、江戸儒学の一大流派と言われる古文辞学を樹立します。このようにして江戸時代の中期ともなると、朱子学は禅寺から独立し、それぞれの門流、つまり、林家はのちに正学と呼ばれる朱子学、順庵の系統は彼ら自身の系統、伊藤仁斎は仁斎学、荻生徂徠は徂徠学、中江藤樹は藤樹学というように、それぞれの門流ごとに世代間継承がはっきりすることになります。19世紀ともなりますと、もともとは中国の朱子学で使っていた尊王攘夷などという物騒な言葉が、日本でも朱子学を勉強する人たちの間に広く浸透します。吉田松陰が唱えた『草莽崛起』ということばを借りれば、まさに草莽にまで尊王攘夷という語が定着しました。尊王攘夷を主張して、幕府の大老や老中の暗殺を企てたり、西洋人を殺傷したりする物騒な連中が登場し、幕府を倒して明治維新を成就することになるわけです」

 

「五山文化新研究への導論」の「『鎌倉新仏教』と五山」では、栄西の名で臨済宗全体を代表させる語り口が学校教育の現場で浸透していくのは、「鎌倉新仏数」という観念が成立したことによるところが大きいだろうとして、著者は「周知のように、平安仏教と異質な新しい仏教の宗派として、通常次の六つが『鎌倉新仏教』としてもてはやされてきた。そして、そのそれぞれに一人ずつの開祖を割り当てる形が採られた。すなわち、浄土系新興宗派として、法然の浄土宗、親鸞浄土真宗、一遍の時宗の三つ、天台教学の脱密教化運動として生まれた日蓮法華宗(現在の呼称では日蓮宗)、そして、新来の禅仏教として栄西臨済宗道元曹洞宗とである。そもそも、この「鎌倉新仏教」なる概念自体、西欧における16世紀の宗教改革になぞらえて、鎌倉時代を仏教革新時代ととらえる一つの仮説にすぎなかった。そのため、そこではキリスト教におけるプロテスタンティズムとの比較により、『個人の魂の救済』とか『政治権力との距離』とかいったところに高い価値を賦与し、それによって、政治的・社会的に旧体制を支えていた平安仏教との差異化が図られた」と述べます。

 

 

浄土系では三宗派のうち特に浄土真宗を重視することとなり、また、『歎異抄』の公開出版や、1917年(大正6)刊行の倉田百三出家とその弟子』の影響力もあって、近代社会でも意味を持ちうる教説として、親鸞が再評価されるようになりました。天台宗の改革派であった日蓮についても、幕府から弾圧された経験が反権力的でよろしいと、プラス価値で評価されるようになりました。禅系統においては、幕府権力と距離を保ち、「只管打坐」を説いた曹洞宗道元の教えが注目されました。その象徴が、和辻哲郎の「沙門道元」です。この論考は、1926年(大正15)に刊行された『日本精神史研究』に収録されることで一躍有名になりました。臨済宗では林下の大徳寺で活躍した反骨の僧侶一休が、江戸時代以来の庶民的人気もあって高く評価されることになります。


3「東アジアのなかの日本」の「日本古代史の見直し――東アジアの視点から」の「日本の源流、ヤマト」では、「天皇」という称号が使われはじめたのは、天武天皇(在位673~686)と持統天皇天武天皇の皇后で、後に即位。在位686~697)の時代であると説明されます。それまでヤマト政権の王は「大王」と呼ばれていましたが、このころから「天皇」という称号が使われるようになったと考えられているといいます。また「日本」という国号は、702年に派遣された遣唐使使節団が中国にはっきり宣言しており、中国の歴史書旧唐書』に「このたび国号を日本と改めた」と、記載されています。


年号については、大化の改新(645年)で知られる「大化」が最も古い年号とされていますが、実際には、「大宝」(701年が元年)が最初という説もあるとして、著者は「『大化』から『大宝』の間は年号のなかった期間もありましたし、『大化』は後代の人間がつけたのではないかというのです。私もそうだろうと考えています。現在に至るまで絶えることなく年号が続いているのは『大宝』からです。また、大宝律令大宝元年に完成しています。したがって、7世紀の終わりから8世紀初めまでには、『天皇』『日本』といった呼称と、年号、それに律令とがそろったと考えられるわけです。この四つのことは、ヤマト政権が当時の東アジアの国際基準で一人前の国家になったことを意味します」と述べています。


また、教科書が書き換えられた例として、著者は聖徳太子を取り上げます。「聖徳太子」とせずに、「厩戸王聖徳太子)」と表記するものが出てきましたが、著者は「どういうことかというと、『聖徳太子』は彼が亡くなった後に贈られた称号で、彼個人の名前は『厩戸』であると。したがって、『厩戸王』という、より正確な表記を、という判断ですね。『聖徳太子』という一人の人物の功績として語られてきた事業も、彼一人によるわけではないので、この時のヤマト政権全体の事業として記載されています。遣隋使の派遣、憲法十七条と冠位十二階の制定などです。さらに、聖徳太子が『三経義疏』(仏教経典の注釈書)を著したとされていたことも、実際には別の人たち、ことによるとこれらは中国伝来の書物かもしれないともいわれています。とはいえ、聖徳太子は日本に仏教を広めた偉大な人として信仰の対象となっている存在です。信仰は信仰として、史実とは別の次元で仏教信者さんたちの間では大事にされていいのではないでしょうか」と述べています。

「日本と中国」の冒頭を、著者こう書きだしています。
「西暦1世紀に後漢光武帝からもらったとされる『漢委奴国王』の金印、3世紀の邪馬台国女王・卑弥呼と魏との外交、5世紀のいわゆる倭の五王による中国の南朝への遣使、そして7世紀初頭の遣隋使。これら古い時代については、いまもその具体相はよくわからないことが多い。遣唐使時代になると、両国の文献に見える記録も増えてくる。ただ、彼我の記述を比べると、日本では国内向けに対等外交を標榜していたが、現地中国では朝貢使節団として扱われていたことがわかる」


日宋貿易の規模は遣唐使を上回る」では、1368年に明朝が成立すると、儒教原理主義的な国際秩序観に基づき、日本に対しても「貿易したいなら朝貢せよ」と要求してきたことが紹介されます。著者は、「当時、日本は南北朝時代。最初は南朝方の懐良親王が、つづいて北朝方の足利義満が、明に朝貢して『日本国王』の称号を許された。これは後世とやかく言われる『国辱行為』ではなく、新しい国際秩序に対処した政治判断による『開国』とみなすべきである。以後、中断することもあったが、16世紀なかばまで、室町幕府(のちには中国地方の大名・大内氏)と明との間には、朝貢使節団の派遣という形式をとる勘合貿易(政治的には「遺明使」)が行われ、見方によっては遣唐使以上に大きな役割を果たした」と説明しています。

 

三国史記

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東北アジアという交流圏――王権論の視角から」の「儒教的王権論による歴史認識」では、中国で発明された漢字が、東北アジアの文化交流圏に広まり、それぞれの国家の歴史を記録する手段となったとして、著者は「朝鮮半島では新羅による統一後、高句麗百済と鼎立した三国時代の歴史書がいくつも編まれたが散逸し、現存する最古のまとまった歴史書は『三国史記』(1145年完成)である。日本では、『帝紀』『旧辞』と呼ばれる記録(文字で書かれていたなら当然漢字表記)を基に、8世紀はじめに編纂された二つの歴史書が現存している。いわゆる記紀である。このうち『古事記』(712年完成)は、稗田阿礼が暗記していた内容を太安万侶が漢字を用いて表現したとされている。ところが、この書物には中国が登場しない。朝鮮半島の国々が出てくるにすぎない。そもそも、推古天皇以降は具体的な記事内容がなくなる。一方、『日本書紀』(720年完成)には、推古天皇の時の遣隋使派遣のことがきちんと記載されている。しかし、本章冒頭で紹介した、それより600年前の倭国朝献のことは載っていない」と述べています。


それだけではありません。3世紀の卑弥呼も5世紀の倭の五王も、記紀には現れません。著者は、「現在でも彼らの対中外交を中国側の文献史料に基づいて研究しているのは、そうした事情による。ただ、倭の五王記紀記載の天皇と同定する研究は古くからあり、倭王武雄略天皇だというのは、考古学的な証拠もあっていまでは定説となっている。実は、卑弥呼については『日本書紀』編纂者たち自身が、ある人物のことであると考え、記録上の操作を行っていた。神功皇后である。神功皇后応神天皇の母で、彼を妊娠中に夫の仲哀天皇崩御したため、70年間(!)にわたって政務を取り仕切っていた。『日本書紀』がこう記録した一つの理由は、彼女の活躍時期を『三国志』に載る卑弥呼およびその後継者の壱与が魏に遣使した年代に合わせるためだった。そして、神功皇后新羅征討の主役として描き、海外との交流を切り拓いた人物に造形したのである」と述べます。

 

唐律疏义新注(精)

 

「中華の歴史認識――春秋学を中心に」の「中華の歴史的形成」では、中華の類義語に中夏・華夏・中国などがあることが紹介されます。現存する古典籍の中で最初に登場するのは「中国」で、『詩経』生民篇や『書経』梓材篇といった経書にも見えます。著者は、「これらの中で唐代には中国という語が最も一般的で、同義であることを示す場合の述語として他の語を説明するための語として使われていたということである。『中華』の場合にも、唐初に編纂された律におけるこの語について、『唐律疏義』に『中華とは中国である』という。ここでも説明対象(中華)に対する説明用語として「中国」が用いられている。『唐律疏義』はさらに続けて、『親しく王の化を被って自ら中国に属し、衣冠や威儀のありさまが整い、孝や悌が習俗として根づき、礼や義が個々人に浸透している状態をもって、中華という』と解説している。すなわち、領域的に『中国』の中にあり、かつ儒教が重んじる倫理道徳が実現している社会を『中華』と称するというのだ」と述べます。すなわち、「中華」とは礼治社会=ハートフル・ソサエティのことだったのです!

f:id:shins2m:20210614164108j:plain礼を求めて』(三五館)

 

続けて、著者は「日本では、高校で教えられる日本古代史の事情等によって、唐という王朝国家が律令体制であったと見なす傾向がある。しかし、厳密にいえば、律令よりも重要なのは礼であった。すなわち、律や令という法典には、それらの背景をなす理念として、当時の儒教が構想していた礼による統治という考え方が存在しており、律の刑罰体系もこれに即して定められていたのである。律における『華』語は、前掲の疏義が礼という語を用いて説明しているように、単に領土の範囲を示す空間的・量的な概念ではなく、そこに暮らす人々の生活規範のありようを含意する、価値的・質的な語彙なのであった」とも述べています。このように、中華とはどこまでも「礼」を求める社会のことだったのです!


「あとがき」で、著者は「儒教というものは、日本国内で広く知られているようでいながら、偏った見方・誤解が蔓延している。教科書レベルの『孔子孟子が説いた教え』とする理解は、まちがいとは言いきれないのでまだよい。しかし、『中国・韓国の哀れな現状を見れば明らかなように、近代社会にそぐわない封建的な思想』という、明治の福沢諭吉が唱え、昭和の司馬遼太郎らが継承した説は、事実誤認も甚だしい。近年もさる米国人がこれと同類の本を出版して大変な人気となったのは、嘆かわしいとともに、私たち儒教研究者の非力を思い知らされるできごとだった。これではいけない・・・・・・。それが本書出版を思い立った動機である」と書いています。


2018年は「明治維新150年」の年でした。しかし著者は、2018年は618年の唐建国から1400周年、1268年の明建国から650周年でもあるとして、「中国の歴代王朝のなかでも唐と明の二つが正規の外交関係(朝貢)によって日本と深く関わり、文化的に大きな影響を与えたことは本書で述べたとおり。明治の脱亜入欧はそれまでの中国との長い交際の性格を変えるものだったが、それが容易に可能になったのは日本が唐や明から受容した儒教の考え方のおかげだった。遣唐使時代の留学生や遭明使時代の禅僧たちは、仏教や儒教を伝えることで日本の伝統文化を作り上げてきた。中国だけではなく、韓国からも文化の伝来があった。このことをきちんと認識していない人たちが唱える嫌中論・嫌韓論は、ことわざにいう『天に向かって唾を吐く』ものである。本書の内容は専門家の間では基礎知識のレベルにすぎないが、広く社会で認知されることを希望する」と述べるのでした。本書は「日本人にとって儒教とは何か」を知る上でまことに参考になる名著でした。何よりもスリリングで面白かったです。

 

 

2021年7月31日 一条真也

秋松紫雲閣竣工式  

一条真也です。
昨日、東京から北九州に戻りました。
30日、ブログ「秋松紫雲閣起工式」で紹介した施設が完成し、竣工清祓神事が行われました。真夏の竣工式です。

f:id:shins2m:20210730102735j:plain秋松紫雲閣の外観

f:id:shins2m:20210730102008j:plainこの日も晴天、32度を超す猛暑

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津田支配人と

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ロビーには多くの胡蝶蘭が・・・

秋松紫雲閣の場所は、福岡県飯塚市秋松315-3です。サンレーグループとしては、福岡県内で48番目、全国で90番目(いずれも完成分)のセレモニーホール(コミュニティホール)です。

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控室のようす

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休憩室のようす

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バスルームのようす

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ブックレット・コーナー

 

秋松紫雲閣は、まるで自宅のリビングルームのような、ゆったりとした最新の控室を完備しています。大切な人との最後の時間を心安らかに過ごせるよう、経験豊富なスタッフが真心込めてお手伝いいたします。

f:id:shins2m:20210730135559j:plainさあ、儀式の場へ!

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本日の神饌

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本日の式次第

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神事のようす

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一同礼!

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ソーシャルディスタンスに配慮

f:id:shins2m:20210730104634j:plain清祓之儀のようす

 

竣工神事の進行は、サンレー総務部の國行部長が担当。竣工神事は、地元を代表する神社である椿八幡宮の秀村長利禰宜にお願いいたしました。開式の後、修祓之儀、降神之儀、献饌、祝詞奏上、清祓之儀を行いました。

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玉串奉奠しました

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拝礼をしました

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柏手を打ちました

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松田常務の玉串奉奠

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神官の祝辞を拝聴

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神酒拝戴しました

それから、玉串奉奠です。最初に サンレー社長であるわたしが玉串を奉奠。その後、松田常務が玉串奉奠し、社員が従いました。その後、撤饌、昇神之儀、神酒拝戴、そして閉式と、滞りなく竣工清祓神事を終えました。

f:id:shins2m:20210730105743j:plain感謝状贈呈式のようす

f:id:shins2m:20210730105911j:plain感謝状贈呈式のようす

 

それから、感謝状贈呈式を行いました。設計を担当して下さった株式会社森崎建築設計事務所の森崎社長、施工を担当して下さった大東建託株式会社小倉支店の橋口支店長に心からの感謝の気持ちと金一封を添えて、感謝状を贈呈させていただきました。

f:id:shins2m:20210730135127j:plainマスク着用で主催者挨拶 

 

次は、いよいよ主催者挨拶です。わたしは、夏模様の不織布マスクを着用したまま次のように挨拶しました。本日、このように立派な施設を建設できて、本当に嬉しく思います。関係者のみなさまに心より感謝いたします。これで、会員様に満足のゆくサービスを提供することができます。ぜひ、新施設で最高の心のサービスやケアを提供させていただき、この地の方々が心ゆたかな人生を送り、人生を卒業されるお手伝いをさせていただきたいと願っています。

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マスクを外しました 

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コミュニティホールについて

 

また、わたしはマスクを外して、以下のような話をしました。最近、「葬祭業はエッセンシャル・ワークですね」とよく言われます。しかし、わたしは葬祭業はハートフル・エッセンシャル・ワークであると思っています。これまでのパンデミックでも証明されてきたことでした。何が何でも葬儀に関わる仕事は続けなければならないのです。

f:id:shins2m:20210730135841j:plainサービス業からケア業へ!

 

紫雲閣は「セレモニーホール」から「コミュニティホール」へと進化を遂げています。最近のセレモニーホールの中には家族葬専門会館などもあるようですが、わが社の紫雲閣は「葬儀を行うだけの施設」ではなく、「葬儀も行える施設」です。冠婚葬祭業は、単なるサービス業ではありません。それは社会を安定させ、人類を存続させる重要な文化装置としてのケア業なのです。

f:id:shins2m:20210730110157j:plain「飯塚」という地名について

 

「飯塚」という地名の由来については、2つの説があります。1つは、神功皇后がこの地方をお通りになったとき、従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが兵士たちはなお皇后の徳を慕って飯塚まで従い「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、名づけてイヅカ(飯塚)の里と伝えられたといわれます。

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神功皇后と聖光上人の伝説について

 

もう1つは聖光上人が、この地の太養院において旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって小山をつくり、それがあたかも塚のようであったので「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになったとも伝えられています。いずれにしても、宗教的な伝統のある土地ですね。

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最後に道歌を披露しました 

 

日本人の「こころ」は神道儒教・仏教の三本柱によって支えられているのがわたしの持論ですが、いずれも先祖供養というものを重んじています。今日も猛暑ですが、8月になれば、日本人にとって最大の先祖供養の儀礼である「お盆」がやってきます。盆踊り、精霊流し、花火・・・・・・日本人は、死者を供養するさまざまな文化によって、「こころ」を豊かにしてきました。そして、暑い夏を無事に乗り切って秋を心待ちにしてきました。この秋松紫雲閣は、そんな「こころの館」としてのコミュニティホールを目指したいと述べ、道歌を披露しました。

 

暑き夏 御霊迎へてまた送る

    秋まつ人の こころの館 

 

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決意表明のようす

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決意を受け取りました

f:id:shins2m:20210731190212j:plain神事の最後は一同礼!

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記念の集合写真を撮影しました

 

その後、秋松紫雲閣の津田支配人より、この地の方々の人生の卒業式を心をこめてお世話させていただき、地域に愛されるコミュニティホールをめざしますという力強い決意を受け取りました。決意表明の後は、参加者全員で集合写真を撮影しました。この日、直会は行われませんでした。その代わりに、松柏園ホテル謹製のお弁当が参加者にふるまわれ、わたしも持ち帰りました。美味しかったです。

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朝日・毎日・読売・西日本新聞7月30日朝刊

 

オープニング見学会は、 令和3年8月6日(金)~8日(日)の3日間を予定していますが、「3密」を避けるため万全の対策を行っています。なお、朝日・毎日・読売・西日本の各紙に竣工記念広告が掲載されました。サンレーグループのイメージキャラクターである前川清さんがサンレーマークを手にして、「皆様のまちに、紫雲閣誕生です!!」と微笑んでいます。

f:id:shins2m:20210730122033j:plain心ゆたかな読書』(現代書林)

 

今回は、拙著『心ゆたかな読書』(現代書林)のプレゼントも告知しました。同書は、125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」に連載中の「ハートフル・ブックス」で取り上げた至高の150冊を紹介したブックガイドです。抽選で30名様に進呈します。ハガキでご応募下さい!

 

<応募方法>

郵便ハガキに郵便番号・住所・氏名・電話番号・書籍名をご記入の上、下記宛へお送り下さい。当選者の発表は商品の発送をもって代えさせていただきます。

〒802-0022
北九州市小倉北区上富野3-2-8
サンレー話題の本進呈NP係   
2021年7月9日(金)消印有効

 

2021年7月30日 一条真也

感染者3865人の東京を脱出!

一条真也です。
29日の朝、東京の日比谷にあるホテルの客室で目覚めました。朝食後、2件の打ち合わせを済ませてから12時前にチェックアウト。羽田空港に向かいました。そこから、スターフライヤー81便で北九州に戻りました。

f:id:shins2m:20210729190027j:plainヤフーニュースより 

 

スターフライヤーはほぼ満席でした。コロナ禍の中で便数自体が減っているため、必然的にいつも満席に近い状況になります。昨日の東京の感染者は過去最多の3177人でしたが、こういう時こそ飛行機は1席づつ空けてほしいのですが。北九州空港に到着してしばらくすると、29日の東京の感染者が新たに3865人確認されたというニュースが入ってきました。2日連続の3000人以上、3日連続の過去最多更新です。

f:id:shins2m:20210729190212j:plainヤフーニュースより 

感染が確認されたのは10歳未満から100歳以上の3865人で、直近7日間の1日あたりの平均は2224.1人と、前週(1373.4人)に対して161.9%となりました。また、全国の感染者数は1万693人で、初の1万人超えとなりました。この日、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は、参院内閣委員会の閉会中審査で、首都圏を中心とした全国的な感染拡大について「今の最大の危機は社会一般の中で危機感が共有されてないことだ。危機感が共有されなければ、さらに感染拡大する。いずれ医療逼迫が深刻化する」と警告しました。

f:id:shins2m:20210729190317j:plainヤフーニュースより 

東京で開催中の五輪も無縁ではありません。この日、東京五輪パラリンピック組織委員会は、大会関連で選手3人を含む24人が新たに新型コロナウイルス検査で陽性になったと発表。組織委が取りまとめた大会関連の陽性者数としては1日当たりで最多。陽性者ですが、今月1日以降で累計198人となりました。陽性者の内訳は、選手3人をはじめ、業務委託スタッフ15人、大会関係者6人。海外在住者が7人、国内在住者が17人でした。選手3人と大会関係者1人の4人が選手村(東京・晴海)に滞在していたそうです。なお、27日時点で大会関連の海外からの入国者は3万9209人に上ったとか。

f:id:shins2m:20210729190303j:plainヤフーニュースより 

 

国際オリンピック委員会(IOC)のマーク・アダムス広報部長は29日の定例記者会見で、東京で新型コロナウイルスの感染者が急拡大していることについて「パラレルワールド(並行世界)みたいなものだ。私たちから東京で感染を広げていることはない」と五輪開催と東京の感染再拡大は無関係との認識を示しました。記者会見でアダムス氏は「私たちは最も検査が行われたコミュニティーだ。一番厳しいロックダウンの制限が選手村で行われている」と強調したとのことです。それなら選手村から感染者が出ないはずだと思いますが、IOCの強弁には困ったものです。それにしても、「パラレルワールド」とは言ってくれますね。コーツ副会長の「アルマゲドン」発言といい、IOCではSFが流行っているのか?

f:id:shins2m:20210729190352j:plainヤフーニュースより 
 

五輪といえば、「日刊ゲンダイDIGITAL」が29日に配信した記事に「メダルラッシュでも広告入らず・・・東京五輪スポンサー大手紙の誤算」というものがありました。柔道の高藤直寿選手の金メダル第1号に続き、日本人アスリートの金メダルラッシュがテレビを賑わせていますが、創業以来最大の赤字を出した「朝日新聞」をはじめ厳しい経営が続く新聞業界は、期待したスポンサー企業の広告が入らず困惑していることを伝えています。東京オリンピックの最高位スポンサーを務めるトヨタ自動車は、すでに大会期間中のCMの見送りを明らかにしましたが、このトヨタの対応に同調するように他のスポンサー企業も一斉に広告の出稿を控えています。


電通社員で江戸川大学名誉教授の濱田逸郎氏は、「トヨタ自動車がCMを見送ったことが、他のスポンサー企業の横並びを決定付けました。新聞各社が予定していたスポンサー企業の協賛広告は全滅状態で、もはや新聞社にとって五輪は不吉な言葉になってきています」「新聞社は当然見返りを考えて五輪のスポンサーになっています。しかし、今大会はスポンサーとして出資しただけで、スポンサー企業からの見返りの広告収入が入ってきません。今後、社内でスポンサーになったことへの批判が出てくるでしょう」と述べています。大手広告代理店も、新聞などのメディアも、完全にアテが外れてしまいましたね。

f:id:shins2m:20210728181849j:plainどうなる東京? どうする東京五輪

 

巨額のスポンサー料を払ったにもかかわらず、日本人選手の金メダル獲得の際にも広告を打たないことは、従来の大手広告代理店のビジネスモデルを完全に崩壊させました。今後、広告ビジネスそのものが厳しい状況になっていくような気がします。あと、東京五輪といえば、テニスのジョコビッチをはじめ、参加している選手たちから猛暑に悲鳴が上がっていますね。2013年の五輪招致の立候補ファイルには、「(東京の)この時期の天候は晴れることが多く、かつ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」と記されていました。しかし、このたびの五輪序盤は猛暑続きで、特に屋外競技の選手を中心にクレームが殺到。海外メディアからは「東京はウソをついた」「世界は謝罪が欲しい」などの痛烈な批判が寄せられていますね。猛暑は全国共通ですが、感染大爆発の東京にはしばらく行きたくありません!



2021年7月29日 一条真也

『「孟子」の革命思想と日本』

「孟子」の革命思想と日本―天皇家にはなぜ姓がないのか

 

一条真也です。
『「孟子」の革命思想と日本』松本健一著(昌平黌出版会)を紹介します。「天皇家にはなぜ姓がないのか」というサブタイトルがついており、2014年6月に刊行された本です。著者は思想家。麗澤大学教授、東日本国際大学客員教授。1946年群馬県生まれ。東京大学経済学部卒業。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞司馬遼太郎賞)など多数。

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本書の帯

 

本書の帯には、「日本国家の成り立ち、天皇制のかたちに『孟子』はどのようにかかわっているのか」「古代より現代に至る政治思想史を〈革命〉の視点から読み解く驚異の書!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
 序章 天皇家にはなぜ姓がないのか
第一話 日本国の成り立ちと『孟子
第二話 革命のない天皇制国家へ
第三話 『孟子』は日本に入らなかったか?
第四話 国学思想と『孟子
第五話 吉田松陰の「国体」論
第六話 西郷隆盛の「至誠」
第七話 北一輝の「民主革命」
第八話 近代日本のなかでの教養
    ――新渡戸稲造福沢諭吉丸山眞男
第九話 『孟子』は忘却されたか
    ――三島由紀夫司馬遼太郎河上徹太郎
「あとがきに代えて」



序章「天皇家にはなぜ姓がないのか」の「天皇家には姓がない」で、著者は「現在、日本の皇室、天皇家には姓がありません。姓は、もともと古代豪族の私的な尊称、姓でした。天皇家はいつからか、その姓を持たないのです。その結果、いまでも名字がないのです」と書いています。なぜか。著者は、「ひと言でいえば、天皇家は姓を持たないで、姓を与える役なのです。蘇我、物部、藤原、そうして源家、平家といった氏族の姓、それにたとえば、下野(栃木県)の佐野出身の藤原が佐藤とか、そういう経緯で日本人は、『百姓』という言葉があるように、たくさんの姓を持つようになりました。実際には30万あまりの姓があるといわれています。よく使われる姓は1万ほど。中国では総数1万弱、多く使われる姓は100ほどしかないのですが、とにかく日本人はたくさんの姓を持っている。ですから、われわれのことは『百姓』というのですね、たくさんの姓を持っているという意味です。『百姓』は農民という意味ではありません」と説明しています。


江戸時代の官学となった朱子学においては「四書五経」が基本的古典、テキストでした。儒学などを学ぶ足利学校ができた時代には、まだ「四書五経」の定義づけはされていませんでしたが、江戸時代になって、『論語』『孟子』『大学』『中庸』という四つの書が「四書」といわれ、ほとんどの武士はこれを勉強しました。著者は、「『論語』と『孟子』は対等の役割を持っている、そういう重いものでした」と述べています。

 

 

「『孟子』の思想の核心にあるもの」では、『孟子』が江戸時代なかごろまで日本に伝わってこなかったという有名な話を取り上げ、著者は「そんな事実はないのです。実際には伝わっている。ですから、『論語』と『孟子』は江戸時代の武士はみんな必ず勉強していたのです。勉強をするのにテキストの四書の『孟子』がなければいけないわけですから、伝わっていたはずですが、伝わらなかったという説が大きく立ちはだかっているのです。それはなぜかと言ったら、『孟子』は革命思想を説いている」と述べます。

 

 

われわれが『論語』という書を読むときには、一番の徳は何かというと君子にとっては仁であり、人間としては「中庸」という精神であるとして、著者は「人間が心を平安に、社会の調和を保って生きていくためには、中庸という精神が必要です。右に走らず、左に寄らず。上に阿らず、下を蔑まずという中庸の精神を持っていれば、心は平安に保たれ、社会には調和が訪れる、そういう秩序思想が儒学の根本の『論語』の中にあり、『論語』の中核思想はこの『中庸』にあります。これに対して補完をする役割をしたのが『孟子』なのです。『孟子』は上者(君)の『仁』に対して、下者(臣)の『義』を強調します。しかし、『孟子』の中には『論語』の秩序思想になかったような新しい思想があります。それが革命思想と呼ばれるものです」と述べています。

 

 

孟子』の思想の核心は「民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す。是の故に丘民(衆民)に得られて天子となり・・・」とあります。すなわち、一番尊いのは民であるとして、著者は「今日の言葉で言うと民主思想、一応、日本には天皇=君主がおられるから、デモクラシーも明治時代は民権思想、大正時代には民本主義というかたちで広められましたが、その民本主義に近い考え方ですね。デモクラシーの江戸時代の訳は、『下克上』でした」と述べます。また、「天子がその民を愛し慈しむ仁という徳を失って、民衆の信頼を得ることができなくなれば、天子は天子でいられないのです」とも述べています。

 

現在の体制では、中国共産党習近平国家主席は選挙で選ばれていないから非民主的だと欧米が批判したりします。中国は一党独裁支配の国家です。しかし、その国家指導者である国家主席は、民衆の、「丘民(衆民)」の信を得られなくなれば、その瞬間に地位を追われるという国柄です。選挙で大統領などが選ばれるのではなく、民衆の信があることによって、まさに天子は天子でいられる、つまり国家指導者は国家指導者でいられるという思想です。これは『孟子』の中に2000年以上前から書かれている言葉であるとして、著者は「そうだとすると、『孟子』の思想は現在の民主主義に近いのだなと思われるでしょう。そのとおりです。儒教では、天子や国家指導者は仁という徳をもって、国家指導者でいられるのです」と述べます。

 

 

しかし、その『孟子』が、平安時代から江戸時代、日本には入ってこなかったという説があるのです。宋代の朱子の規定した四書には『孟子』は当然入っているわけです。孔孟、つまり孔子孟子というふうに並称されていました。しかし、その『孟子』が、江戸時代なかばまで日本には入ってこなかったという説があるとして、そのことをはっきりと書いているのが、上田秋成(1734~1809)の『雨月物語』(1776年)だといいます。怪異物語集である『雨月物語』の最初に置かれた「白峯」の中に、日本に『孟子』という本が入ってこなかったとはっきり書かれているのです。


国学者上田秋成の『孟子』像」では、天子と皇帝の差を簡単に言えば、天子とは天の声を聞く人(多く女)、皇帝とはその声を受け取って地上に政治を行なう人ですから、本当は二つの、別な存在であると示されます。これを一人にしてしまったのが日本であるとして、著者は「天子の天と皇帝の皇の字を合わせて、天皇という字、称号をつくったのです。中国の場合には、本当は二つあったのです。二つの役割を一人で天子=皇帝がするという形をとっていたが、もともと別のものであったと言えます」と述べています。


君子、皇帝はそのように、民に対する憐れみの心を含めた仁という徳を持って政治を行なわなければなりません。ところが、殷の紂王は勝手なことをして、庶民に対する憐れみどころか暴君として振舞っている。それでは君子、国王とは言えません。天子とは言えません。単なる「匹夫」であり、無謀な普通の男です。「だから殺してもいいのだ、それは臣下が主君を討ったことにはならない」と孟子が答える場面があります。著者は、「そうすると、孟子という思想家は、仁という徳を持っていない皇帝は『民』を貴しとしないので、殺していい、という革命思想を言っている。そういう王や皇帝は弑される、つまり殺されるわけですから、そこで王や皇帝の姓が変わり、別の姓を持った王朝が建てられる」と述べます。


殷という王朝に対して、姫の姓を持つ周という王朝が建てられるということで、まさに易姓革命、易世革命が起きます。皇帝の姓が変わり、中国の国の名前が変わります。王朝の名前が変わるときは、必ず中国に革命が起こっているわけです。けれども、日本は国の名前が変わったことはないと指摘して、著者は「ということは、革命がない。日本を革命のない国にするためにはどうしたらいいかということを、考えに考え抜いた人が日本史の中で誰か、いたのですね。どこにも書いていないから誰か、いつからか分からない。つまり、中国の易姓革命、革命で天子の姓が変わるような、その姓それ自体を持たなくしたら、皇帝が殺されることもないし、革命が起きることもないと考えた人が、日本で誰かいるのですね。そこから日本の皇室、天皇家には姓がなくなっている、と私は考えているのです」と述べるのでした。

 

 

「『孟子』を愛読した日本の革命家」では、江戸時代の武士はほとんど、「四書」の1つである『孟子』を、『論語』と同じように読んでいたことを指摘し、著者は「私が『孟子』の愛読者を幕末から明治期においてとくに三人挙げよと言われたら、日本の革命家2人が出てくるのです。1人は吉田松陰(1830~59)、松陰寅次郎です。彼は革命家です。この人が何の書を一番大切にしていたのか、どういう思想を一番頼りに自己形成していったのか。吉田松陰の主著、思想的な中心を占めた著作は『講孟餘話』です」と延べています。『孟子』が吉田松陰の国体論・討幕思想の中核を形づくり、それについての講義録が主著となりました。その結果、自分たち「草莽」は、もしも君子が仁を持たなくなったら、その首を切ってもよい、幕府が間違った政治をしたら放伐してもよい、という革命思想になります。その考え方が、吉田松陰そしてその弟子の松下村塾生の中には根付いていきました。そしてそれが、革命家松陰の「忠義」だったのです。

 

 

もう1人は西郷隆盛(1827~77)です。西郷隆盛が残した『南洲翁遺訓』の中には『論語』とともに『孟子』の言葉が出てきます。さらにもう1人は北一輝です。著者が40数年間、大学生のときから研究している二・二六事件(1936年)の思想的指導者といわれたロマン主義的革命家です。北一輝が一番好きだったのが孟子で、「孟子は『東洋のプラトン』である」という言葉を残しています。プラトン古代ギリシャで「国家論」、それも「理想国家論」を書いた哲学者です。つまり、北一輝は、東洋における「民主主義」の「理想国家」について書いたのが『孟子』であると言いたいわけです。

 

 

姓を持たない天皇家が日本の中でずっと文化的な永続性を保ってきたのは、実は、日本を易姓革命のない国にしようとしていたということではないか。北一輝は「日本では易姓革命が起こせない」と断念していましたが、その理由がこれです。著者は、「若い人たちは、日本に革命がないなんて寂しい国だなと思うかもしれません。私も若いときにはそう思いました。しかし、日本人がどこかで、自分の国を革命の国にしない、中国のような革命のない国にしようと考えたために、皇帝が永遠に仁という徳を持てばよいのだと思い付いたのですね。もっと具体的に言えば、姓が変わるような革命が起きないように、天皇家から姓を取ってしまえばよいという考え方が、いつからか誰の手によってか、生まれてきているわけです」と述べています。

 

 

「日本人が考え出した『維新』という方法」では、革命のない国に生きる日本人が考え出したのが、「維新」という変革方法でした。もともと中国の五経の1つ『詩経』は古代の詩や歌謡を集めた本ですが、この中に、「維新」という言葉があります。「周は旧邦なりといえども、その命維れ新たなり」と書かれています。殷という国の紂王が武王によって殺されて、周という国ができました。周という国は、その後、600年、700年と続く、長い歴史を持った国(旧邦)です。ずっと姫姓の王が支配して、続いてきました。著者は、「それは孔子理想社会だともいわれます。もともと孔子が編集したといわれている、当時の言葉(歌)を集めた『詩経』、『四書五経』のうちの一つですけれども、そこにこの旧邦の周が長くつづいたのは、その命を『維れ新た』にしたからだ、と『維新』という言葉が出てくる」と述べます。


また、著者は「明治維新だって、江戸時代は士農工商といって、四つの身分制度があったわけです。しかし、それを全部、同等の、四民平等の『国民』にしていく。それまで『国民』という概念、その母体としての『国民国家』は存在しなかったのです。ですから、その国民国家の前提としての四民平等は、これはまさに革命ですね。しかし、そのときに革命(レボリューション)という言葉を使わずに、維新(レストレーション)という言葉を使う。これが日本の、革命のない国の変革という文化(民族の生きる形)である、と言えます」と述べています。


しかし、『孟子』はそういった日本の文化である「維新」と大きく異なる「革命」、その変革の方法を見事に表現しました。もし紂王のような暴君が存在したら、三つの方法をとってよいのです。1つは「そういう国にはいたくない」と言って「去」ってもよい。2つ目は「君主あるいは皇帝、そんなことをしてはいけませんよ」と言って、諫め、諫め、諫めて、そしてそれでも君主や皇帝や殿様が改めてくれなければ、「私は三度諫めました、ですからこれ以上は諫めませんから」と言って死んでいきます。これを「諫」と言います。諫死する、諫めて自ら死んでいく、この2つ目の方法があります。これでも改まらない暴君が現れた場合は殺しても構いません。中国には皇帝や主君を殺すという意味の「弑す」という言葉があります。


皇帝や王を弑すような革命は、日本にはありません。つまり、易姓革命のない国です。そのために日本は維新という変革をするのです。著者は、「これが日本の、天皇家が姓を持たず、天皇制という国家統治システムをつくってきた国の国柄だ、ということだろうと思います。そうすると、たぶん日本の天皇制をつくった人びとは、『孟子』の思想、その革命の思想は十分に知りながら、そのことを反面教師にして、革命をつづけてきた中国とは違う、非革命の国づくりをしていこうとした。中国の王朝の皇帝には、周には姫、秦には嬴・・・・・・と歴代全部姓がある。日本の王朝の天皇家はその姓をなくしてしまう。そのことによって、易姓革命、易世革命の起こらない国づくりをした。中国では革命を何回でも起こして易姓革命を行なってきた。それに対して、日本には革命自体がないという国柄にするために、天皇家から姓をなくしたり、弑という字の音読みだけにして、訓読みをなくしてしまう、という文化の方向性をとってきた、ということです」と述べます。

 

 

吉田松陰西郷隆盛北一輝という近代日本の革命家は、いずれも『孟子』の愛読者であり、圧倒的な支持者でした。日本近代の革命思想を代表する三人の人物は、孟子の説く革命思想の熱心な信奉者であったのです。しかし、その易姓革命のない日本は「維新」という形で国をつねに変革していく、「維れ、新たに」していく方向性をとってきました。著者は、「孟子はどういう思想を持っていたのか、どういうことが『孟子』には書かれているのかを十分に知らないと、社会を安寧に導き、人の心を平安に保つ『中庸』という精神も、また活きないのです。人心を安定させて社会を調和させる、『中庸』という精神を尊ぶ秩序思想の孔子が、なぜ現代中国の共産党一党支配の下で国家統治者に用いられるのか。そのことは、『孟子』の革命思想という補助線を引くことによって、その革命思想の光を当てることによって分かってくる」と述べるのでした。


第一話「日本国の成り立ちと『孟子』」の「日本という国号の確立」では、豪族はみんな一族の姓をもらい氏族の名も持っていたことを指摘し、著者は「たぶん皇室もはじめは豪族の一つであって、その諸氏族のリーダーを『大君』という形で呼ぶまえには、天皇家も実は、姓があったという気がしますね。聖徳太子だって母親は蘇我氏の出であり、その当時は蘇我氏が最大の豪族の1つだったのです。蘇我馬子は側近の東漢直駒に命じて、崇峻天皇を弑殺しています。しかし、「大化の改新」のクーデターによってその蘇我(大臣)家が滅ぼされ、その後、天皇家が中心になった古代中央集権制が形づくられます」と述べています。

 

 

大君がひとり、諸豪族のなかで覇権を握った天皇のことだけを言うようになりますが、そのとき天皇号を使い始めたようです。これは上田正昭の新潮選書の『私の日本古代史』(2012年)という本に書かれているとのことですが、その中に、蘇我氏がいちじ覇権を握ったということが書かれています。どうやって権力を握っていったのかというと、大王家、すなわち天皇家の宗教儀式、先祖をまつる儀式と、それによってどういう形で自分たちを位置づけるかということでした。たとえば、必ず古墳がつくられます。神武天皇陵みたいなのがつくられるのですが、そういうものを全部取り仕切るのが蘇我氏になっていったといいます。お墓に関するものの式典、礼典は蘇我氏の指導のもとに行なわれました。

 

 

大化の改新」には藤原鎌足が宮廷クーデターに関わるのですが、その時点での名前は中臣鎌足でした。中臣というのは官職名です。つまり天皇という支配する側と、支配される側の間にいて、中の臣下ですから、つなぎ役だったのです。中臣が宮廷クーデターによって蘇我氏を倒していき、天皇から藤原の姓をもらうという構図になります。著者は、「その構図をつくったのが、藤原鎌足不比等(次男)でしょう。ともかく、蘇我氏が会葬典礼を取り仕切っているのですが、それを国の歴史として編集したのが『天皇記』という書なのです。『天皇記』という書名自体は後から付けられたのですが、その天皇号は『天皇記』という書籍がつくられたことによって明らかにされます。これは7世紀後半なのです。その時点で、天皇という称号は確立したことになります」と述べます。


「宮廷神話体系化の始まり」では、大和朝廷は、日本国内の豪族たちを広範囲に序列化するために、氏や地名をもとにした姓を与える官僚組織として、治部省をつくったことを紹介し、著者は「この治部省は、姓を与える役をつかさどるばかりでなく、その姓氏を正し、五位以上の継嗣(後継ぎ)、婚姻、祥瑞、喪葬、外交などもつかさどりました。また、被官として雅楽寮、玄蕃寮、諸陵司、喪儀司がこれに所属しました。なお、玄蕃寮とは『皇室事典』(角川学芸出版・2009年)によれば、玄=僧、蕃=外蕃を意味し、仏寺や僧侶の名籍、外国使節の接待などにあたる官庁でした」と述べています。では、天皇制国家はなぜ、姓を与えるための治部省までつくるシステムを考えたのか。著者は、「それは、――天皇は人民=大衆ではなく、神の子孫である。もっといえば『現神』である。神は要するに、私有の土地を持って『一所懸命』に働く臣下であるわけではない。神の子孫なのだから姓はいらない、と」と推測します。


天皇が神そのもの、あるいは神の子孫と位置づけられるのは、どの時期だったのでしょうか。それは、まさに天武天皇の時代でした。著者は、「天武天皇が自分で天皇と名乗り始めるのは、それはなぜなのかといったら、それは神の子孫であると。あるいは天つ神であり、現神、現人神であると、自分で言うようになるわけです。天武天皇の14年(685年)、その11月24日には天皇のための招魂(みたまふり)の祭りがなされています。招魂祭とは、魂が遊離していかないように、魂を体の中に鎮め長寿を祈る行事です。これによって、天皇が人間ではなく現人神であることが明らかにされているわけです。そのことが『日本書紀』に載っているのです。そういう宮廷の鎮魂祭がなされるしきたりというものが『大宝令』、あるいは『養老令』に載っているのです。なお、律とは刑法のことで、令は民法行政法にあたります。そして、この律令制度ができると同時に、その制度の中で宮廷の鎮魂祭儀が正式に位置づけられたのです」と述べます。

 

 

第二話「革命のない天皇制国家へ」の「『十七条憲法』の統治思想」では、最初に「十七条憲法」の第一条「一に曰く、和を以て貴しと為し、忤らうこと無きを宗とせよ」が紹介されます。この第一条の「和を以て貴しと為し」は、『論語』の学而篇の一節であると同時に、「四書五経」の五経の一つの『礼記』の儒行篇、これは孔子学派から別れた紀元前の儒者一派の行動に関する記録です。著者は、「それは『礼記』を重要視するということです。『礼記』には、まさに『和を以て貴しと為す』という言葉が出てくるのです。ところが、『論語』の中の、同じ『和を以て貴しと為す』という言葉は、もっと正確に言うと、『礼の用は和を以て貴しと為す』。つまり、『十七条憲法』は『礼の用』という条をすっと取ってしまっているのです。

 

 

論語』では、孔子が「徳によって世の中を治めていくのですね」と問われたとき、「徳といっても形がないのでなかなか分からないから、『礼記』に定めてあるような礼で治めていく、これが大切なのだ」と言っています。著者は、「『礼記』のみならず、儒教の中の『論語』の位置づけとすると、礼を非常に重んじる。ところが、『礼の用は和を以て貴しとする』、その『礼の用』を取り外してしまう。ということは、これは、儒教の教え自体は入れるけれども、儒教そのものの導入ではない。聖徳太子が国家統治のために、『論語』なり、儒教なりを使っていく、という国家意思の表明ですね」と述べます。余談ですが、わたしは「令和」という元号は「礼和」であるべきであったと今も思っています。



 

聖徳太子は日本に仏教を入れた人であるとして、著者は「一番中心になって入れた蘇我氏の一族で、その結果、第二条として、『二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり』という条文にも明らかなように、三宝、つまり仏・法・僧を三つの宝として敬え、そういうふうに仏教を取り入れている。儒教の教えも当然、入れるけれども、仏教も入れて国家統治の心得とする。第三条の『天は覆い、地は載す』は『老子』ですね。これが天=君、地=臣の概念規定になります」と説明し、「このように『十七条憲法』は、儒家も、法家も、道家も、仏教も入れて、国家統治をする支配者の思想が表れています」「聖徳太子天皇になりませんでしたが、推古天皇の摂政として天皇中心の国家統治をしていく役割を担いました。その、国家統治の方法として、儒家も、法家も、道家も、仏教も入れ、場合によっては『孟子』さえも採用していった、ということが分かります」と述べるのでした。


天皇は神であるという意識の確立」では、社会秩序が保たれ王朝が続くためには、仁という徳を君主や皇帝は持っていなければいけないけれども、君子がもし仁という徳を持っていなかったらどうするかという仮説、あるいはその論理設定は『論語』の中にはないと指摘し、著者は「君子は仁という徳を持つべきだ、またそれによって国家統治をすべきである、ということは書かれている。しかし、もし君主や皇帝に仁徳がなかったらどうするのか、王朝は倒れ易えられることがある、というふうに書かれているのが『孟子』なのです」と述べています。


中国の王朝は、王の姓がありますから、そこで姓が変わります。そして国の名前が変わります。ゆえに、易姓革命というのは姓が変わるとして、「こういう革命の論理が書かれているのが、『孟子』です。もちろん聖徳太子の時代には、もうすでに『孟子』という本はできている。あるいは律令制度の国家体制が日本で始まっているときには、『孟子』もできているのです。これはしかし、どちらかというと、国家統治のための密教であって、国民に開示して教え諭すべき顕教ではない。もしこれを表に出していったら、先ほどの毛沢東文化大革命ではないけれども、国家統治者を倒して革命を起こしてよろしいという論理が、人民の側に出てくるわけですね。仁を持たず間違っている国家指導者、あるいは王朝ができたら、それを倒してよろしいという革命のすすめになってしまう。そこで、革命が起きないような国づくり、秩序形成をするためには、『孟子』は表に出さないという密かな合意が、律令国家の中でできあがっていたのだろう、ということです」と述べます。


「代表的日本人としての天武天皇」では、著者は、実際に国家統一を完成させ、国内を律令によって統治するという国家意思を明確にし、もう一回大きく法律制度から、位階まで、そしてまた日本のアイデンティティーとしての歴史を書かせること、皇室の私的伝承としての『古事記』をつくらせ、天皇制国家の歴史としての『日本書紀』を編纂させるという仕事をしたのは天武天皇であると推測し、「天武天皇は、天智天皇の第一皇子の大友皇子を倒して、即位する。世襲制に対する革命ともいえます。近江朝廷に対して壬申の乱(672年)を起こしていくわけですから、後継ぎではなく、最初から国家支配者の天皇という意識を明確に持って、国内統治をしていった、ということです。飛鳥に都を移し、飛鳥浄御原令で『日本』という国号を使う。もちろん、そのときに突然、日本という国号を使うわけにはいかないから、それ以前に長い、ある程度の前提というか、聖徳太子以来の中華文明からの自立の伏線があるのですね。壬申の乱に勝利した天武天皇が即位したのが、672年です。ですから、7世紀の終わりごろに『日本』という国号も確立し、天皇号も確立し、日本の来歴を『神』の子孫としての天皇のもとに語る『古事記』も、王朝の歴史の『日本書紀』も編纂され、そうして、国家統治のための律令も整えられていったわけですね」

 

 

さらに著者は、「天皇制国家を、革命のない国にしてゆく。そのためには、革命思想を肯定する『孟子』をいわば密教とし、『論語』をはじめとする儒教顕教にしていった、ということです。『論語』と『孟子』が、古代国家の顕教密教、統治思想の表と裏の関係にあるという考え方は、この辺にもうすでにできあがっていたのだろうと思います。だから律令国家の官吏などを養成する大学で、『孟子』だけは表のテキストとして取り上げられることはなかった。しかし、たぶん読んでいたろうということは分かります」と述べるのでした。


第三話「『孟子』は日本に入らなかったか?」の「巧妙に排除された『孟子』」では、日本に儒教が入り始めるのは応神天皇のころ、4世紀の終わりぐらいであるとして、著者は「そのあたりから、わが国には中国のみならず、東洋の文物がたくさん入ってくる。とくに、聖徳太子の時代になると、儒教や法家の思想が入っている、仏教も入っている。物部氏は姓は連で、饒速日命の子孫と称していることもあって、神道を超えるかもしれない仏教を脅威と感じ、その導入に反対した。その仏教を、幼少の応神天皇を助け偉功があったといわれる武内宿禰を祖とした、蘇我氏の一族が導入しようとした。蘇我氏の系類で、母親が蘇我氏の出である聖徳太子が、仏教を日本に積極的に入れました。太子は『十七条憲法』をつくりましたけれども、その中には儒教の言葉も、仏教の言葉も出てくる。つまり、それら進んだ外来文化を積極的に受け入れるという、日本文化の型がここに出てくるわけですね」と述べています。

 

 

秩序の安定的持続のためには『孟子』は排除していくという方法で、そのまま江戸時代まで『孟子』の影響は、道徳的な「義」の強調以外に日本にはほとんどありませんでした。もちろん、戦国時代に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」などという『孟子』のエピグラム(警句)は、武田家(信玄)の『甲陽軍鑑』(成立は江戸時代)に採り入れられた形跡があります。それに、戦国時代も終らんとする関ヶ原の戦い(1600年)で、石田三成の西軍に加わった敦賀城主の大谷刑部吉継は、その戦いを『孟子』の『義』と捉えていました。しかし、著者は「いずれも江戸時代がま近に迫っている時期である」と述べます。徳川時代が安定した秩序になると、『孟子』ではなく、『論語』が儒学の代表になります。まだ乱世が終わったばかりで、家康が新しい権力を握り、その革命的権力の正当性を主張するためには、『孟子』が一番役に立つという思考が家康の心理にはあったのでしょう。


第四話「国学思想と『孟子』」の「賀茂真淵本居宣長の『孟子』批判」では、真淵は儒教に対する徹底的批判を展開しているけれども、実は、これは儒教といっても最大の批判の対象はやはり『孟子』の易姓革命論であると指摘し、著者は「わが国にはそういう、王室の転覆とか天皇家内の権力闘争とか親兄弟で殺し合うとか、それによって皇位を奪ったりするみたいなことはない、歴史上も壬申の乱以外にない、という主張になっているわけです。崇峻天皇の弑逆や、崇徳院保元の乱もあるのですがね・・・・・・。ともあれ、賀茂真淵が批判していた漢意は易姓革命論そのものと置き換えてもいいのです。つまり、わが国古来の直き心、大和心は易姓革命の論理=漢意が到来したことによって失われたのだと批判しているわけです。それはしかし、『四書五経』のうちの『孟子』だけが言及していることです。ですから、真淵というより国学者の直接の排撃の対象は、『孟子』、そして批判の対象は『孟子』になっている」と述べています。


一方、宣長は、中国文明にはこの、君を殺したり父を殺したりした類いの歴史はいっぱいある、唐土の国の文明は本来そうなのだ、と批判しました。これは、『孟子』の中の革命論理に対する批判でした。一方、『論語』については本居宣長はそれほど批判していません。宣長の著書『玉勝間』には、「論語にもまた」とあり、「論語の中にも堯、舜、禹、泰伯、文王をばいみじくほめたれども、湯王、武王をほめたることは一言もなし。意あるにや」と、湯武の易姓革命がただ『孟子』によって代表されています。著者は、「ですから、上田秋成だけが『孟子』を否定的に捉えているというのではなく、当時の国学者は、そういう意味ではみんな儒教批判、もっと言えば『孟子』批判をやっていたわけです」と述べています。


これが荻生徂徠になると、徂徠は道(=政治の正しいあり方)というものは天がつくったのではなく、「先王」がつくったのだといいます。のちに聖人と神聖化されますが、「先王」は堯、舜、禹、そしてせいぜい孔子の時代までであるというのです。著者は、「徂徠はそういう形で、その歴史的な現実と、それを言葉で表すという学問・イデオロギーの違いを峻別しました。そして、事と言葉、これを学べと。古代に行なわれたことと、それを言葉で表したことを学べ、と言うのです。ですから、『四書五経』という、それから1000年も後の儒教イデオロギーの言葉で語られた学問ではなくて、せいぜい孔子が編纂したといわれる『書経』や『詩経』とか、そういう古代の事実と言葉から学べ、と言っているわけです」と述べます。


吉良邸への討ち入り、つまり「忠臣蔵」事件のときに、徳川の武士までを含めて世の中の人々は拍手喝采をしましたが、徂徠は違いました。彼は、それでは「理」や「義」のためなら、国の法律(=法度)を破ってもいいということになると考えたのです。つまり、城中で刀を抜き、刃傷に及んだ主君・浅野内匠頭のかたきを討つのだといって吉良家に討ち入る「義士」を称賛するのは、法や掟を破った行為を肯定することであり、また敵を殺すということであるから、それを認めて温情を与えなどしたら、「義」のために徳川幕府の「法度」は破ってもよろしいということになってしまうと考えたのです。著者は、「徳川幕府が元和元年(1615年)につくった『武家諸法度』には、『理をもって法を破』ってはいけない、とあります。破っていいのなら、私情で動いていいのだということになるではないかと、断罪したのが徂徠です」と説明します。


徂徠は中国の歴史書である『資治通鑑』を愛読しました。文化大革命を指令した毛沢東が生涯で一番読んだ本が何かといったら、『資治通鑑』だといいます。17回読んだそうです。著者は、「そうだとすれば、政治をやろうという人は、具体的に目の前に生起してくる課題に対処して、どちらかというとそういう判例集みたいなもの、歴史的事件例というもの、政治的な事態に対してどういう対処の仕方をしようかと考えるばあいは、『資治通鑑』を使ってきた。こういう歴史書を材料にしながら目の前の政治をやっていたわけですが、道すなわち理想の政治は何かといったら、原則は『六経』のうちに書かれている、というのが徂徠の考え方でした」と述べます。


天武天皇の国家統治と『孟子』」では、水戸学の『大日本史』のみならず、賀茂真淵をはじめとして上田秋成をふくむ当時の国学者は、だいたい壬申の乱天武元年=672年)、つまり天武天皇の時代から世の中は乱れはじめたと言っていることが紹介されます。そこでは、「皇位簒奪」とか「弑逆」のようなことが行なわれました。しかし、著者は「国学者たちはそれを見ないようにして、ひたすら天皇家の存在を天つ神の子孫で『万世一系』であるがゆえに尊いとみなし、日本の天皇家は天つ神の子孫であるから革命は起きない、と言うのです。そういうために、『孟子』の易姓革命論=儒教批判を行ない、神道の『神』の権威を認めない仏教の批判を行ないます」と述べるのでした。


第五話「吉田松陰の『国体』論」の「松陰の行動指針としての『至誠』」では、明治国家が安定してくると、『孟子』の革命思想や、幕末の変革者たちの勇気を表現する「浩然之気」に対しての評価が低くなったとして、著者は「この『浩然之気』という言葉は、『孟子』の中に出てくる大丈夫=志士の根本的精神で、武士たちを変革へと立ち向かわせた気概です。この精神は、天地の間に充満している『至大至剛』の気で、これを身につければ自分の行動が正しく天地に恥じるところがなくなり、どんな困難にも屈しない。武士的『大丈夫』の精神といってもいいでしょう。『論語』にはそのような武士的『大丈夫』の気概にあたる精神(エートス)はありません。君子が秩序を維持するための『仁慈』の徳のほうが、におい立ってくる。そういう孔子孟子の違いは一応みんな知っていながら、国家統治の思想としての『徳』の孔子のほうを重要視するようになるのです。保守的な秩序思想の『中庸』の精神(エートス)を重要視する方向になって、それは新渡戸稲造(1862~1933)の『武士道』や、渋沢栄一(1840~1931)の『論語と算盤』でも、ともかく革命よりも保守が重要になるのです」と述べています。

 

 

吉田松陰の精神形成と行動規範の中で、『孟子』が果たした役割は非常に大きいです。著者は、「観念論的な『知行合一』の陽明学よりも大きいかもしれない。なぜなら、松陰の国体論の独創にも関わっているからです」と述べ、さらに「安政6年(1859年)10月27日、松陰は安政の大獄で死罪になるのです。死罪になるまえ、10月26日に、1日をかけて『留魂録』を書き終えました。死刑の予感があったのでしょう。1500字ですからそんなに長くはないですが、遺言書のようなものを書いています。冒頭に、『身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂』という、吉田松陰の意志的な生涯を象徴するような歌が書かれます。この場合の『大和魂』という魂と、死のまえに彼が一人自ら崛起していった『草莽崛起』の精神、それから『孟子』の中に初めて出てくるともいえる『至誠』というエートス、これはほとんど全部同一の意味をもっています。『大和魂』にしても、『草莽崛起』の精神にしても、『至誠』というエートスにしても、ほとんど吉田松陰の生き方を象徴するような言葉になりますが、三つはほぼ同じ意味だと考えていいと思います」と述べます。


自分の志は、この「至誠にして動かざるものは、未だ之れあらざるなり」という『孟子』の言葉にある。つまり、孟子のいうように「至誠をもって行動すればその心は必ず天に通じる」という意味です。松陰は死地に臨んでも、それぐらいこの孟子の思想、ひと言で言えば「至誠」を自らの行動の指針にしていったということであろうとし、さらに「至誠」という言葉が『孟子』の離婁章句上の第十二章、「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざる也。誠ならずして未だよく動かす者は有らざる也」によっていると指摘して、著者は「松陰の行動の中核的なエートスは、この『至誠』である。これは『孟子』の中で、一番のキーワードになって出てきていたものです」と述べます。


論語』の中に「至誠」という言葉は出てきません。なぜかと言うと、自らの真実の心で世の中を動かし、社会を変えていくというのが『孟子』の行動規範だとすると、『論語』における孔子の場合には、「天の命に従う」という精神のあり方、エートスであるから、みずから社会を変えようとは考えない。そこが、孔子孟子の大きな違いであるということになると指摘して、著者は「『孟子』の精神の一番中核にあるのは、『至誠』という精神(エートス)、あるいは『誠』という言葉で、その誠の心によって世の中を動かし、社会を変えていく、という思想です」と述べます。


「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」という精神は、これまで陽明学によって形成されているといわれてきたとして、著者は「とくに、三島由紀夫事件(1970年)直後の司馬遼太郎などは、三島由紀夫にも吉田松陰にも共通する批判として、あれは陽明学の観念主義的な『知行合一』という考え方で、おおいに間違っている。つまり、自分が正しいと思ったら、それは直ちに行なわなければ、知ったことにはならないのだ、という陽明学の『狂』的な考え方に対する批判です。『知行合一』、あるいは『知行一致』という精神で、これが人を誤らせるのだというふうに、司馬は批判していました」と述べるのでした。


第六話「西郷隆盛の『至誠』」の「西郷隆盛と『孟子』の精神」では、『西郷南洲遺訓』(死後の明治23年=1890年にまとめられた)の中に一番多く出てくるのは、『論語』と『孟子』であることを指摘し、著者は「二つとも出てきますけれども、西郷隆盛が自分の生き方の指針として大事にしているのは、『至誠」という言葉です。中国古代思想史の中で『孟子』に初めて出てくるというか、一番大きなキーワードとして出てくると言いましたけれども、『西郷南洲遺訓』の中に『至誠』という言葉が何回出てくるか。たとえば、『事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用可からず』とあります。まさに自分の生き方は『至誠』をモットーとしている、ということでしょう』と述べています。ただ、注意すべきことに、西郷隆盛の中では、孔子孟子はそれほど区別されていません。彼は朱子学の「四書五経」を教養としていたわけですが、『論語』の中で西郷が一番好んだ言葉は、「敬天愛人」でした。

 

 

西郷南洲遺訓』(岩波文庫)の21番目に、「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ」というものがあります。私を超えるということ、私に克つということをもって始終せよというのです。「己に克つの極功は『毋意毋必毋固毋我(意なく、必なく、固なく、我なし)」、これは『論語』です。私意、私欲をいだいてはいけない。私を捨てていけ、私心に克っていけ、ということです。それを『論語』から引用しています。「総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るゝぞ」、近代の自己実現の弊害ともいえる自己愛ではいけない、ということです。「敬天愛人」、天を敬い人を愛する、という道を究めることが人生の、そして文明の目的である、ということです。

 

著者は、幕末の開国・維新期のような「常ならざる時」つまり「非常の時」には3種類の「常ならざる人」つまり「非常の人」が現れてくるとして、「最初は、いま世界はどうなっているのか、そして日本はどのような変革をすべきかを『よく見る人』、つまり予言的な思想家が現れる。この代表は、幕末・明治の開国・維新期にあっては、佐久間象山(1811~64)と横井小楠(1809~69)が代表です。吉田松陰もいくぶんかはその要素を持っていますが、松陰のばあいは、次の『行動的な志士』の要素をより大きく持っている。この『行動的な志士』は、松陰もふくめて、ほとんどすべて佐久間象山横井小楠の弟子です。あるいは坂本龍馬のように双方の弟子なのです」と述べています。


開国・維新の「非常の時」に現れる第2の「非常の人」は行動的な志士であると指摘し、著者は「象山や小楠のような予言的な思想家が『よく見る人』だったのに対し、『見て、すぐに行う人』です。師の言葉=思想を聞いて、よし分かった、その変革はじぶんがやる、というタイプです。下田踏海をあえてする吉田松陰をはじめとして、その弟子で奇兵隊をつくる高杉晋作蛤御門の変で戦死する久坂玄瑞、それに海援隊をつくる坂本龍馬などが、これです」と述べます。

 

そして、第3のタイプの「非常の人」が、行なうときは「果決」する人。つまり変革が後戻りしないために果断に実行し、その責任を負ってゆく、いわば政治的人間であると指摘し、著者は「廃藩置県を行なう西郷隆盛や、武士制度に代えて徴兵制を導入する木戸孝允や、近代的な国家経営のために内務省をつくり、それを中心に官僚制度を整備していった大久保利通らです。江戸無血開城をして、徳川幕府から明治政府に海軍など国家財産を譲り渡していった勝海舟を、ここに加えてもいいでしょう」と述べるのでした。

 

明治天皇の『広き』心へ」では、明治国家にあって、天皇は「万世一系」(憲法第一条)の「天つ日嗣」であるとともに、近代国家の「元首」(憲法第四条)として位置づけられていたことが紹介されます。それに、天皇は統治大権をもつ君主であるとともに、統帥権をもつ大元帥でもあったとして、著者は「しかし、その天皇の帝王教育は、それまでの京都御所内での国学的な教養に代えて、江戸城内での儒教的な天子=皇帝たれ、というものでした。そのために西郷隆盛は、天皇の侍従(番長)として、旧幕臣山岡鉄舟や、薩摩藩村田新八と高島鞆之助、そうして熊本藩の米田虎雄などを選び、侍講に熊本藩士の元田永孚(のち『教育勅語』の草案を作成)を据えたのです」と述べています。

 

もっとも、明治天皇は侍講の元田永孚によって、『論語』や『史記』などは講義されていますが、『孟子』の講義は受けていないとして、著者は「少なくとも、元田永学の『進講録』を見るかぎりにおいては、そう理解せざるを得ない。しかし、美子皇后のほうは、当時12歳の岸田俊子からちゃんと『孟子』の講釈を聞いています。岸田俊子が講義しているぐらいだから、明治天皇も『孟子』について聞いているのではないかと思います。それは、誰から聞いているか、誰から受け継いでいるかといったら、これが西郷ではないかというのが、私の推測なのです」と述べます。

 

 

西郷隆盛から明治という時代の中に、『孟子』の精神が着実に伝わっていったろうと考える著者は、「それは西郷が倒幕を行なったけれども、それを“革命”と呼ばずに、どちらかというと“維新”という言葉で、『維新革命』という言葉も当時は使いますが、その維新革命という形で考えていたと思われます」と述べます。そのことは、内村鑑三の『代表的日本人』(明治41年=1908年)の「西郷の維新革命は」という言葉に受け継がれているだろうと推測しています。たとえば『代表的日本人』には、『西郷南洲遺訓』の「天を相手にせよ」などを引いたあとで、「ある意味で1868年の日本の維新革命は、西郷の革命であったと称してよいと思われます」と記されているからです。

 

しかし、明治維新という、実質的には革命を行なってしまった後では、できるだけ革命というものがないような国をつくっていきたいと考える天皇制国家とすれば、やはり、“維新”と主張したわけだとして、著者は「日本の形を『維れ、新たに』していくということで、天皇を上に戴いた国民国家が西洋近代文明を受け入れて国家統治する構造に作られたわけです。それは、一般的には『王政復古』したということで、記紀に書かれているような神の子孫である天皇が、もう一度国家権力を取り戻し、天の下をしろしめしたというたてまえでした。そこで、日本の国家体制を『万世一系』の天皇の下に『維れ、新たに』していったというのが、明治国家の顕教、国体論というイデオロギーになっているのです。明治国家を作った権力中枢の人びとの密教は、改めていうまでもなく、天皇を近代的国家統治の“機関”として使ってゆく『天皇機関説』でした」と述べるのでした。

 


第七話「北一輝の民主革命」の「北一輝の独創性」では、明治の半ばになると、西郷隆盛の「維新革命」はまだ未完だったと考える北一輝(1883~1937)のような革命思想家が出てきたとして、著者は「北は、じつは青年時代内村鑑三を崇拝していたのですが、北にとって維新革命は国民国家を志向する『民主革命』であり、西郷隆盛西南戦争(明治10年=1877年)はいわばその『第二の維新』の試みであり、未完の維新革命を完遂しようとするものであったと捉えるのです。そのさい、北が考える『民主革命』とは西洋のデモクラシーである以上に、『孟子』の『民主』的革命思想を全面的に受け継ぐものでした。明治時代、『孟子』を一番高く評価したのは、たぶん北一輝だろうとおもわれます」と述べています。

 

 

北一輝の大正8年(1919年)の『日本改造法案大綱』は、「二・二六事件」(昭和11年=1936年)の革命バイブルとも呼ばれましたが、そこには、孟子の名前は直接的には出てきません。著者は、「出てきませんけれども、ここには北一輝がどのように『孟子』を読んだか、『孟子』をどのように受容して民主革命を志向したのか、という思想の痕跡がうかがえます」として、「私の考えるところでは、北一輝の思想の独創性は『万世一系』の国体論、つまり天皇制神話への徹底した批判であり、これはまさに北一輝の独創性であると考えられます。幕末・明治時代につくられた国体論からは、屹然と自立していると思います。北のこの、万世一系天皇制神話への批判というものは、それに重ねられる北の『孟子』評価というものにありました。そこに、北の、もう一つの独創性があるといえます」と述べます。


北一輝によれば、昭和維新運動も、「近代的な民主国」をもう一度つくりなおそうという革命思想でした。これは、儒教というより『孟子』にある民主思想というものが、一度儒教的な「公民国家」という理念として言い直されていたのであり、そのうえで、日本が維新革命によって「近代的民主国」になったのだと指摘し、著者は「それは、北によれば明治維新が『孟子』の思想にもとづく『民主革命』だったということであり、べつに『欧米のデモクラシーを直訳して』、日本に導入しようとしたものではない、ということになります」と述べます。

 

 

その後、北は『孟子』の革命思想を駆使して、『国体論及び純正社会主義』を書きました。北にとって、孟子は「東洋のプラトー」であるという言葉が出てきます。著者は、「プラトンであるということですけれども、それは、孔子ソクラテスに当たるからなのです。つまり、孔子は認識論で、世界はどうなっているか、そしてまた、何が正義なのかという弁証法で、これらを語るソクラテスであると。ところが、孟子は東洋のプラトンであると。なぜならば、孟子には理想国家論があるからなのです。進化論者で、近代主義者でもある北は、『維新革命を以て王政復古と云うことよりしてすでに野蛮人なり』と言っていますが、これは孟子にある民主主義国家の理想を実現したのが『維新革命』だ、という意味ですね」と述べています。

 

 

北一輝の独創性とは、『孟子』の革命思想を利用しながら、「万世一系」神話を形づくった日本もじつは中国と同じように朝廷内で宮廷クーデターや王権をめぐっての権力闘争が行なわれていたと看破したところであると指摘し、著者は「ただ、日本のばあいは、まず天皇家が姓をなくすことによって易姓革命の可能性を封じたのです。それゆえ、後の覇権者たちは王朝を倒すのではなく、天皇=朝廷をみずからの『権威』として利用するために残しつづけたのです。その、易姓革命を不可能にした日本の支配原理をふまえると、北のばあいも、『天皇ヲ奉ジテ』の軍事クーデターによる『民主革命』方式にならざるをえない、と考えたところに『日本改造法案大綱』の独創性が生まれたわけです。ともあれ、『国体論及び純正社会主義』の時点で、北は明治維新も『王政復古』ではなく、『孟子』の理想国家論に立脚した『民主革命』の実現を図ろうとしたものである、というところに踏み込んでいったわけです」と述べるのでした。

 

 

第八話「近代日本のなかでの教養――新渡戸稲造福沢諭吉丸山眞男」の「新渡戸稲造『武士道』に見る『義』」では、明治国家が、西洋文明に範をとりつつ、西洋近代の国民国家を形成しようとしていたわけだから、そこで学ぶべき哲学、あるいは学問も、当然西洋の学問を主に、とくに日本では実務的な法学と工学の科目を重んじることになり、必然的に、孔子孟子などの東洋哲学、孔孟の思想、あるいは儒学は、だんだん学問的価値を下げていったとして、著者は「ただ、それは若干おかしいのではないかというか、いやいやもっと日本人の、徳川時代だけではなくて、日本人の思想・精神の土壌は、実は儒学老荘、あるいはインド哲学などによって形成された部分が多いのだという反省が生まれてくる。それらにはまだ学ぶべき価値がある、あるいは自分たちが保守すべき道徳であるという考え方を明確に打ち出していったのが、新渡戸稲造(1862~1933)の『武士道』であろうと思います」


『武士道』では、神道についても言及されています。
神道の中に、神道の教義に――いや神道にはもともと教義はなく、仏教から学んだのですが――主君に対する忠誠などがあるのかと言ったら、これはちょっと怪しい。神道は本来、祖先崇拝と自然崇拝だけでしょう。むしろ、主君に対する忠誠は、儒教からの導入でしょうね。それにどちらかというと、明治になってからの国家神道は、確かに主君に対する『忠』の性格を持ちましたけれども、それ以前の神道、とくに神社神道は、神(本居宣長によれば「畏きもの」)に対する崇拝と恐れの感情が主であり、主君に対する忠誠なんていう道徳規範はなかったと言っていいと思います。ちなみに、これは小泉八雲ラフカディオ・ハーン)が言っていることですけれども、神道とは何かといったら、一つは、祖先崇拝。もう一つは、自然に対する愛というか、アニミズムですね。この二つが神道の根幹であると言っています」


新渡戸稲造の『武士道』には、孔子の言う、君子=統治者の持つべき「仁」よりも、治者階級ではあるけれども、どちらかというと、臣下=武士のほうの「義」を重んじる趣があると指摘し、著者は「総論の第一章『道徳体系としての武士道』、第二章『武士道の淵源』につづいて、本論がまず第三章は『義』というタイトルになっています。『義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲りたる振舞いほど忌むべきものはない』というように、武士道がまさしく『武士』の道徳規範であり、その第一が『義』だ、と言っています。その義という観念を明確にしたのはやはり『孟子』ですね。孔子も、『義を見てせざるは勇なきなり』というように義を問題にしないわけではないけれども、孔子はどちらかというと、君子=統治者の道徳である『仁』を非常に重んじて、これを第一にしたわけです。しかし、これを受け継いだ孟子のほうは、どちらかというと臣下=武士の義という道徳、こちらを重んじています」と述べます。



「義士」などという概念は、孔子の時代には存在しませんでした。日本にも戦国時代にはほとんどありません。中国では、義を重んじた孟子の時代になって生まれるし、『孟子』を非常に重んじるような江戸時代の武士道で、初めて「義士」という概念が出てきます。『論語』の中にも、「義を見てせざるは勇無きなり」という言葉が出てきますが、著者は「そこは強調されるわけではなくて、仁という治者の、それも君子の『徳』ということが一番重要視され、その仁が生かされる『王道』の政治を説きつづけました。『政を為すに徳を以てす』と。しかし、それを生かす為政者は、春秋という時代にはいなかった。孔子が編集したともいわれている『春秋』は魯の国(紀元前722年から242年間)の編年体の歴史書ですが、ここには『義戦』はない、と孟子が言っています。「春秋に義戦なし」とはそういう意味で、だから、孟子は社会秩序維持のためにことさらに『義』を強調したという評価になってくるわけです」と述べます。

 

 「福沢諭吉丸山眞男」では、新渡戸が『武士道』を書いた明治中期には、革命の時代はもう終わっており、むしろ、近代国家の建設のためには西洋の文明を積極的に入れなければならないという時代が始まっていたと指摘し、著者は「その嚆矢ともいうべき福沢諭吉の『文明論之概略』(明治8年=1875年)では、独立を保つには西洋に学ぶべしというテーゼでした。そこでは、孟子の言葉も出てくるけれど、東洋の儒教それじたいに否定的になり、やはり教養科目にしかすぎなくなっています」と述べています。

 

 

また、丸山眞男の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書・全3巻・1986年)でも、孟子は何度も出てきます。著者は、「その引用の仕方は孔子とそれほど変わらない。つまり、孔子孟子も出てくるけれども、その秩序思想である『中庸』の精神が強調されていて、たとえば、『文明論之概略』では、儒学と、孔孟の学を基本的に批判していますね。これは、中国、韓国、日本、当時の言葉で言うと、支那、朝鮮、日本という東洋が西洋列強に比べて文明が遅れたのは儒学のせいである。儒学五行説のような“迷信”に『惑溺』したからだ、としてすべて批判の対象になっています」と述べます。

 

福沢にとってみれば、孔子の思想はただ道学、つまり道徳の教えであって、合理主義的な学問、現実に即した実学ではないという考えでした。著者は、福沢の「畢竟孔子も未だ人の天性を究るの道を知らず、唯其時代に行はるゝ事物の有様に眼を遮られ、其時代に生々する人民の気風に心を奪はれ、知らず識らず其中に籠絡せられて、国を立るには君臣の外に手段なきものと臆断して教を遺したるもののみ」という言葉を取り上げ、「つまり、儒学の最高道徳は父子の『孝』で、これにつづくのは君臣の『忠』ですが、日本では徳川幕府儒学を官学とした江戸時代も、明治の『教育勅語』も、最高道徳は『忠』でした。しかし、『忠』を君臣間の道徳として考えるのは、世の始めから君と臣の序列関係があった、と設定しているからですね」と述べます。


第九話「『孟子』は忘却されたか――三島由紀夫司馬遼太郎河上徹太郎」の「三島由紀夫司馬遼太郎」では、三島由紀夫は「行動哲学」「革命哲学としての陽明学」という観点から、「知行合一」の陽明学を非常に高く評価したので、『孟子』についても、ある種直接行動をうながすような、武士は「義士」でなければならないとか、そして「浩然之気」をもって、千万人といえども音往かんというような、実銭や行動の原理をうながすものでありながら、やはり認識論であり、行動哲学ではないと考えるようになったと指摘し、著者は「三島は、その末期は陽明学のことをとくに強調しましたけれども、『孟子』については特に言及していません。三島の最後の本になったのは、『革命哲学としての陽明学』でした。この『革命哲学としての陽明学』に立脚した三島に対して、徹底的な批判をしたのが、司馬遼太郎でした」と述べています。

 

 

三島由紀夫が1970年11月25日に、自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、「天皇陛下万歳」と叫んで自決する行動を起こしましたが、それはまさに陽明学徒としてなされていたのでした。司馬遼太郎もそのように受け取って、「三島をふくむ陽明学徒は嫌いである」と激しく批判しています。その代表例が吉田松陰であり、もともとは大塩平八郎から始まるような、陽明学の系譜があるわけです。著者は「陽明学徒というのは、どちらかというと、『孟子』の革命思想の実践に近いことを考える人であった」と考えます。また、三島は、陽明学は大好きだけれども、革命思想の『孟子』についてはひと言も言及していません。この点においては司馬遼太郎も同じで、彼は陽明学は嫌いだと言っていますが、『孟子』も同じように嫌いでした。革命を肯定するからです。著者が『三島由紀夫司馬遼太郎』(新潮社・2010年)の中で書いていますが、三島も司馬も、北一輝が大嫌いでした。北一輝が大嫌いという理由は、北一輝が革命思想の『孟子』を肯定していたからでしょう。

 

 

三島が傾倒した陽明学の「知行合一」という考え方は、知ったら、それを直ちに行なわなければ本当に知ったことにならないという観念主義です。それは主知主義者で、現実主義的な保守家だった司馬にとっては、容認できないものでした。著者は、「金閣寺は、あれは美ではないのだから、滅ぼしてもいいのだ、放火してもよいのだという認識を持ったら、放火という行為をしようがしまいが、同じである、というのです。その、真実の美は私の観念の中にあるという考え方に立つならば、それはもう放火という行為をしたも同然である、認識が一番重要である、ということです。この時点では、三島だってまさに、認識の徒なのですね。ということは、司馬と同じような形での、認識が重要であると、そういう主知主義的な朱子学の徒です。『知先行後』という考え方に立っている。この時点までは、三島と司馬はいささかも敵対関係ではないし、当時の三島の『午後の曳航』という作品など、司馬は芸術至上主義的な『名作である』と評していますね」と述べています。

 

 

認識が先であるという意味では、三島と司馬は、純文学と大衆文学の分野の違いはありながら、戦後の一時期、並行して歩いていたということになるとして、著者は「しかし、三島が11月25日のような行動をとった時点では、それは三島が『知行合一』という考え方、陽明学徒になっていたということです。それは、司馬によれば、三島が『狂』を発したという理解になります。その『狂』を発したという言葉は、すでにふれたように吉田松陰の中に出てくるわけです。『狂』を発して、行動に移さなければいけないというのが、陽明学的な考え方になります。この吉田松陰の考え方は、司馬は毛虫ほどに嫌いだ、と言っています」と述べます。

 

 

石田三成の『義』」では、著者は「三島事件は1970年ですけれども、司馬がそのあたりから陽明学批判を始めたのかなと思っていたら、実は、かなり早いところから、『義』によって行動するという人物、つまりイデオロギーのように『しんこ細工』を頭の中でこね上げて、そのイデオロギーに殉じていく人々というのに対して、きわめて批判的だったのです。たとえば、司馬は『関ヶ原』という1966年刊の作品の中で、義に殉じる石田三成への批判をかなり明確に打ち出していました」と述べます。


関ケ原』で、司馬は、孔子の思想はとどのつまり仁であり、孟子は義である、と明確な規定をしているとして、著者は「秀吉の縁戚であり、養子にもなった小早川秀秋――その後、毛利の小早川隆景の養子となった――などは、関ヶ原の合戦の最後のところで家康側に寝返るわけです。豊臣家を守るというのが義の戦いであるならば、小早川秀秋などは、本来的に言うと、その『義』を守って三成に協力しなければならない。にもかかわらず秀秋は、隆景から受け継いだじぶんの領地を『安堵』する『利』のために、家康に内通して裏切るわけです。戦国時代には所詮、義がないと三成も悟らざるを得ない」と述べます。


けれど、家康にとってみれば、われわれは孔子と同じように末世=乱世を生きているのだ、「春秋に義戦なし」というのと同じ乱世を生きているのだということだから、孟子の中の革命思想、革命して覇権を握った、覇王になった自分の権力を肯定してくれるものとすれば、『孟子』しかないという形で、家康は孟子の革命思想を使っていくとして、著者は「その結果、関ヶ原の戦い小早川秀秋などが寝返ったために敗れた石田三成は、義で戦えば勝つと思っていたけれども、義なんて戦いには役に立たなかったと悟る」と述べるのでした。

 

 

孟子思想の研究というよりも、吉田松陰孟子をどう読んでいたのかを書いたのが、河上徹太郎の『吉田松陰 武と儒による人間像』(文藝春秋・1968年)でです。この本には、吉田松陰の思想の根幹はこの『孟子』によってつくられているという考察が書かれています。吉田松陰の著作の主著も、実は、『講孟餘話』が一番まとまった、松陰の思想形成に関わる本として指摘されています。河上徹太郎は、吉田松陰の革命的イデオロギーの根底に陽明学ではなく、『孟子』があると看破したとして、著者は「松陰には私心がない。尊王家であり、天子に対して忠義をするつもりである。ただ松陰は、日本ではこの孟子の湯武放伐の革命論理は成り立たないと考えている。なぜなら、天子はまさに天、神の子孫であるという国体なのであるから、という考えですね。そこに、易姓革命論を反面教師にしながら、松陰の尊王論が出てくる、あるいは国体論が出てくるということです。そして、実質的には幕府放伐の革命をするのだけれども、それは天皇に対して忠義をすることなのだ、という考え方で、松陰は天皇は神であるという国体論にのっとって革命を遂行する。それが、国体論=革命論という松陰の独特な思想を生むわけです」と述べます。



中国でも今、『孟子』を教えなくなっているとして、著者は「中国は今、孔子学院をつくって世界に孔子の国であることを発信しています。40年まえに『批林批孔』といって孔子(=儒教)を批判していた共産党が、いまは孔子学院で文明の中国をアピールしようとしている。これは今、中国共産党孟子の革命思想より、孔子の秩序思想を重んじている、ということでしょうね。なぜならば、中国は今、国家秩序はこのようにできあがっている。世界はこのような仕組みになっている。だから、その現実の中で中国国民はこのように行動しなさい。こういう道徳を守りなさいという教えを尊ぶべきであって、仁義の徳をもたないような国家指導者が出てきたら、これを倒してもよろしいとか、民主革命を肯定するような思想を教えてはまずい、と考えているからでしょう。今の中国の指導者は、そう考えている。だから、中国の大学生なども、孟子の名は知っていても、その思想についてはほとんど教えられていないのです」と述べます。



「あとがきに代えて」では、日本に中国のような「易姓革命」を起こさないためにはどうしたらよいかという問題について、著者は「日本の皇室、つまり天皇家から姓をなくしてしまえば、『易姓革命』はついに起こらない。そのように考えた誰かがいたことは、たしかである。そのことと、日本という国号を考え、その国の統治者に天皇という、秦の始皇帝が使いはじめた皇帝と天子(天の声をきく人)とを一体化した称号をつくり出した誰かとは、同じ人物のような気がする。これが、『日出づる国』の天子、という名乗りを考えだした聖徳太子なのか、それとも公式に天皇と名乗りはじめ、『日本書紀』の編さんを命じた天武天皇なのか、そのあたりの誰かなのか、それが分からない。分からないけれど、日本の古代国家において、そういう虚構をつくりあげた人物(もしくは組織)があったことは、たしかである(現在の私は、その人物が天武であり、その協力者が藤原不比等――藤原鎌足の次男――だったのではないか、と考えている)と述べるのでした。


本書を読んで、わたしは、日本の天皇制がいかに儒教の影響、それも『孟子』の影響を大きく受けているかが理解できました。本書には、ミステリーのような謎解きの楽しみがあります。それにしても、「天皇=天子+皇帝」というのはインパクトがありました。限りなくイマジネーションが拡がってゆきます。だから、読書はやめられませんね。

 

 

2021年7月29日 一条真也

東京感染者3177人!

一条真也です。東京に来ています。
28日の朝、いつもより早く目覚めました。テレビをつけると、昨日の東京の感染者は過去最多の2848人でしたが、そのことにはほとんど触れずにオリンピックの金メダルラッシュの報道ばかり流れていました。最悪の感染状況の中にあるにもかかわらず、多くの日本国民はその現実を忘れているようで怖くなりました。

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昼食にいただいた今半のお弁当

 

この日は業界関係の会議ラッシュで、スケジュールはかなりハードでした。午前9時からの冠婚葬祭文化振興財団の委員会会議に始まって、11時から全互協の正副会長会議、13時から同理事会、15時から冠婚葬祭文化振興財団の理事会、15時40分から冠婚葬祭互助会政治連盟役員会、そして16時からポストコロナ研究会の報告会が行われ、修了したのは17時半過ぎでした。わたしは財団の副理事長、協会と政治連盟の副会長ですので、逃げ場はありませんでした。正副会長には昼食に今半のお弁当が支給されましたが、わたしは「そういえば、東京五輪の会場では、大量の弁当が廃棄されたそうな」と思いながら、いただきました。空腹だったので、うまかったです!

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ヤフーニュースより

 

この日の会議ラッシュは、休憩時間ほどんど無しの超ハードなものでした。最後のポストコロナ研究会の報告会で「アフターコロナのブライダル戦略」について聴いていた最中、衝撃的なニュースがLINEに飛び込んできました。28日の東京の感染者数がついに3000人を超えて、3177人だったというのです!

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西新橋にて 

 

この日に感染が確認されたのは10歳未満から100歳以上の3177人で、直近7日間の1日あたりの平均は1954.7人と、前週(1277.6人)に対して153.0%となりました。これは大変なことになってきました。しかし、現在は東京五輪真っ最中。まだまだ感染者は増加することが予想されます。何より銀座も日比谷も新橋もかなりの人の多さで、とても緊急事態宣言中とは思えません。東京都民は完全に自粛を放棄したかのようです。

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ヤフーニュースより

 

このままでは五輪の途中中止もあるのでしょうか? 昨日、菅首相首相官邸で開いた関係閣僚会合後、記者団に「国民の皆さんにおかれましては、不要不急の外出は避け、オリンピック・パラリンピックはテレビ等で観戦をしてほしい」と述べました。

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どうなる東京五輪?!

 

さらに菅首相は、東京オリンピックパラリンピック中止について、「人流(人の流れ)も減っていますし、ありません」と否定しています。しかしながら、たとえオリンピックの競技は継続したとしても、閉会式だけはバーチャルで開催すべきなどの意見も出ています。また、有観客が検討されていたパラリンピックは、開催そのものが危ぶまれる気配になってきました。

f:id:shins2m:20210728193953j:plainヤフーニュースより

 

こうなると、心配なのが医療崩壊です。
この日、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は、衆院内閣委員会の閉会中審査で、東京都の感染拡大に関し「医療の逼迫が既に起き始めているというのがわれわれの認識だ」と語りました。政府に求められる対応については、「人々にしっかりと危機感を共有してもらえるメッセージの出し方と、感染状況にふさわしい効果的な対策を打つということだ」と指摘しました。

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ヤフーニュースより

 

このままの感染者増大の伸び率で行けば、東京五輪が終わる頃には感染者1万人超えの可能性もあります。東京だけでなく、全国各地の感染者数も過去最多を記録しています。全国で9583人確認され、第3波の7958人(1月8日)を上回って過去最多を更新しました。わが社の営業エリアである石川県も、1日あたりで過去最多の119人の感染が新たに確認されました。石川は来月3日から訪れる予定です。

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暑さと疲れで行き倒れになりそうに・・・

 

五輪開催中は東京の交通事情がまったく読めないので、今回の出張では早め早めの行動を心掛けています。それで、朝は日比谷のホテルを午前8時に出発し、全互協の本部がある西新橋まで歩いていきました。到着したのは8時20分ぐらいで、わたしが一番乗りでした。帰りも歩いて帰りました。夕方とはいえ真夏にスーツを着て歩き続けたので、ヘトヘトになりました。そのときは飲み物も持っておらず、道にへたり込みそうになりましたが、こんな所で行き倒れになるわけにはいきません。ふと見ると、目の前に大衆向けステーキ店があったので飛び込みました。

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サーロインステーキで元気回復! 

 

ステーキ店に入るや席に着いて「とりあえずビール!」と言ったのですが、緊急事態宣言中につきアルコールは出せないとのこと。仕方なくノンアルコール・ビールを注文して一気飲みしました。それから、300グラムのサーロインステーキを注文し、夢中で食らいつきました。この日は土用の丑の日でしたが、わたしにとっては「丑の日」ではなく「牛の日」となりました。鉄板プレートが牛の姿をしており、まるで牛を丸ごと食べている気がしました。でも、おかげさまで元気回復しました。やはり、疲れたときは肉でも食わねば!

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東京・日比谷の夕暮れ

 

その後、換気設備が世界一優れているTOHOシネマズ日比谷のBOXシート(最強の感染対策席)でアクション映画「ファイナル・プラン」のレイトショーでも観ようかなと思ったのですが、さすがに東京3000人超えの日に映画館に行くと家族や社員が心配すると思ったので、今日は途中のコンビニで缶チューハイを買って、そのままホテルに帰りました。これから、東京はどうなるのでしょうか?



2021年7月28日 一条真也