世界を照らす光   

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仏が発する光は、世界の隅々までを照らしてくれる。そして、その光は、あらゆる人の良い心を育ててくれる。(『雑問答』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2019年6月27日 一条真也

『新・独言』

一条真也です。
わたしは、これまで多くのブックレットを刊行してきました。それらの一覧は一条真也オフィシャル・サイト「ハートフルムーン」の「佐久間庸和著書」で見ることができます。

f:id:shins2m:20190626102356j:plain『新・独言〜互助会の意義と可能性』

 

そして、このたび、久々に新しいブックレット『新・独言』を刊行しました。「互助会の意義と可能性」というサブタイトルがついています。内容は、これまで「互助会通信」紙に連載していたコラムをまとめたものです。このブックレットには、2010年10月10日から2019年4月20日までの以下の50本のコラムが収録されています。

 

51  ご先祖さまとのつきあい方

52  互助会から互助社会へ

53  タイガーマスク運動

54  東日本大震災

55  危機について

56  杖でありたい

57  被災地にて

58  東アジアと『論語』

59  新春座談会

60  おくりびとの日

61  新藤兼人

62  いじめ

63  礼は究極の平和思想

64  無縁社会を生きる

65  互助会の役割と使命

66  老人漂流社会

67  ビルマ日本人墓地

68  儀式創新シンポジウム

69  最期の絆

70  永遠の0

71  ホー・チ・ミン廟

72  人生儀礼の世界

73  孔子の末裔

74  ニューヨークの墓地

75  日本民俗学

76  おみおくりの作法

77  基地とセレモニーホール

78  民生委員

79  戦後70年

80  週刊誌の連載

81  バリ島

82  なぜ儀式は必要か

83  インド

84  熊本地震

85  横浜フューネラル対談

86  島田裕巳氏との対話

87  不滅の業界

88  北九州の成人式

89  終活から修活へ

90  横須賀での墓参

91  『般若心経』の自由訳

92  お祝いの意味

93  礼をしない横綱

94  日本最大の国難

95  愛なき時代のグリーフケア

96  スターの葬儀

97  生活の古典

98  アップデートする仏教

99  平成最後の年を迎えて

100 令和の時代を迎えて

f:id:shins2m:20190626133847j:plain『新・独言』の目次

 

わたしは、2002年の8月より、一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)が隔月で刊行している「互助会通信」のコラム「独言」を「一条」の名で書いています。コラム執筆を引き受けたのは、当時わたしが全互協の広報委員だった関係からでした。全互協は冠婚葬祭互助会業界の全国団体です。互助会事業の法制化に伴って、1973年に誕生しましたが、わが社の佐久間進会長が全互協の初代会長を務めました。

f:id:shins2m:20190614130625j:plain「互助会通信」第444号

 

では、冠婚葬祭互助会、いわゆる互助会とは何でしょうか。
互助会はその名の通り、「相互扶助」をコンセプトとした会員制組織です。
終戦直後に横須賀市で生まれ、全国に広まっていきました。その歴史は60年ほどですが、実はきわめて日本的文化に根ざした「結」や「講」にルーツはさかのぼります。

 

「結」は、奈良時代からみられる共同労働の時代的形態で、特に農村に多くみられ、地域によっては今日でもその形態を保っているところがあります。一方、「講」は、「無尽講」や「頼母子講」のように経済的「講」集団を構成し、それらの人々が相寄って少しずつ「金子」や「穀物」を出し合い、これを講中の困窮者に融通し合うことをその源流としています。このような「結」と「講」の2つの特徴を合体させ、近代の事業として確立させたものこそ、冠婚葬祭互助会というシステムなのです。

 

日本的伝統と風習文化を継承し、「結」と「講」の相互扶助システムが人生の2大セレモニーである結婚式と葬儀に導入され、互助会は飛躍的に発展してきました。互助会は、あらゆる人々を縁でつなぐ「有縁社会」のモデルでもあります。「無縁社会」が叫ばれ、生涯非婚に孤独死や無縁死が問題となる中、冠婚葬祭互助会の持つ社会的使命はますます大きくなると思っています。

f:id:shins2m:20190626141724j:plain『独言〜互助会から互助社会へ』(2010年12月刊行)

 

「独言」は、2010年の8月25日号で、連載50回目を数えました。その際、ブログ『独言』で紹介したブックレットを発行しました。その前月の2010年7月より、全互協の広報・渉外委員長に就任することになり、これを記念に、「独言」全50回分を収録したブックレットを作成するはこびとなったのです。

f:id:shins2m:20190626133902j:plain『新・独言』の内容

 

そして今回、100回を迎えたのを機に『新・独言』を発刊した次第です。コラムの話題は多岐にわたりますが、いずれも互助会の本来の意義、そして可能性を問うたつもりです。わたし自身、互助会の本質について考える良い機会となりました。わたしは、「令和」の時代は「礼輪」でもあると考えていますが、礼の輪=儀礼のネットワークとは全国の冠婚葬祭互助会のことにほかなりません。令和の時代は冠婚葬祭互助会の時代です!

f:id:shins2m:20190626135856j:plain『独言』と『新・独言』

 

なお、このブックレットは サンレーグループの諸施設にも置いています。また、このブログを読まれた方が希望されるなら、無料でお送りいたします。ご希望の方は、わたしの公式サイト「ハートフルムーン」のメールをお使い下さい。サンレー社長室の鳥丸・織田まで御連絡を下さっても結構です。番号は以下の通りです。

TEL:093−551−3074  

FAX:093−511−2521

どうぞ、ふるってご応募下さい。お待ちしています!

 

2019年6月26日 一条真也

 

 

九州ブロック研修会

一条真也です。
25日、全互協九州ブロック研修会が行われました。
会場はブログ「立命館アジア太平洋大学」で紹介した大分県別府市のAPUです。1年半ぶりの訪問でした。

f:id:shins2m:20190625230633j:plainAPUにまた来ました

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別府湾を背景に

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APUの出口学長の講演をお聴きしました

この日の講師は、ブログ「出口治明氏」で紹介した立命館アジア太平洋大学(APU)の学長さんです。1948年三重県生まれ。三重県立上野高等学校を経て、京都大学法学部を卒業後、1972年に日本生命保険相互会社に入社。 2006年に生命保険準備会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年の生命保険業免許取得に伴い、ライフネット生命保険株式会社を開業。2013年に代表取締役会長に就任。2017年6月に取締役を退かれています。そして、2018年1月よりAPUの第4代学長に就任されたのです。新学長は公募で決められ、100名以上の候補者がいたそうです。

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冒頭、ブロック長挨拶をしました

 

この日の講演の演題は「冠婚葬祭互助会をとりまくこれからの日本」でした。講演に先立って、わたしは九州ブロック長として次のように挨拶しました。
本日は、全互協九州ブロック研修会にご参加いただきましてありがとうございます。本日のご講演を頂きます出口学長とは、昨年の3月に本校の学長室にお招きいただきまして、対談させていただきました。その時には、リベラルアーツの本質や、「理系」偏重の教育界の問題点、日本における「読書離れ」と「儀式軽視」の危険性、さらにはサービス業の人材不足、生命保険と互助会との関連性、大学と企業のコラボなど、さまざまなお話をさせていただきました。

f:id:shins2m:20190625231052j:plain九州に来て下さり心から嬉しく思いました

 

わたしは、出口学長のような超一流の経営者が大学の舵取りをされるのは本当に素晴らしいことだと思いますし、日本の国益につながることだと思っております。出口学長のような本物の教養人が九州に来て下さり、心から嬉しく思った次第です。
その後、昨年の10月に小倉で開催された北九州貿易協会の50周年記念講演で、出口学長の講演をお聴きする機会があり、その時の講演も刺激に満ちていて大変勉強になりました。その中で、「社会全体の学歴を上げなければいけない。それは、みんなが人・本・旅で学ぶことだ」という言葉は心に沁みましたし、そのあとの質疑応答も大変刺激的で、出口学長の見識の高い応答の仕方に胸がすく思いが致しました。そして、わたしは「本日の講演でも皆さんから積極的な質疑応答をお願いいたしますし、わたし自身、大変楽しみにいたしております。出口学長、どうぞよろしくお願いいたします!」と述べました。

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講演する出口学長

 

出口学長の講演は示唆に富んだ素晴らしい内容でした。
令和の時代のキーワードを①女性②多国籍(ダイバーシティ)③勉強と指摘し、今後は「飯・風呂・寝る」から「人・本・旅」に生活の中心をシフトしなければならないと喝破されました。冠婚葬祭については、世界を俯瞰しながら、「人口が増えて、経済成長すれば冠婚葬祭にお金をかける。人口が減って、経済成長しなければ冠婚葬祭にお金をかけない」というスーパー・シンプルなものでした。

文庫 死者を弔うということ: 世界の各地に葬送のかたちを訪ねる (草思社文庫)

文庫 死者を弔うということ: 世界の各地に葬送のかたちを訪ねる (草思社文庫)

 

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質問させていただきました

 

しかしながら、出口学長はブログ『死者を弔うということ』で紹介したサラ・マレーの本を紹介され、「死者を弔う行為は世界共通のものです」と言われました。わたしはそれを受けて、質疑応答の時間に「確かに死者を弔う行為は世界共通ですが、さらに最古の人類が葬送儀礼を行っていたことから、わたしは死者を弔うことは人類の本能ではないかと思います。また、相互扶助も人類の本能だと思います。助け合わなければ、人類は初期の段階で滅亡していたのではないでしょうか。その意味で、人間にとっての2つの本能に根差した冠婚葬祭互助会は人口や経済成長の問題を超越した不滅の産業ではないかと考えています。出口学長のお考えをお聞かせ願えますか?」と言いました。すると、出口学長は「その通りです。ただし、業界のパイを小さくしないためには、『飯・風呂・寝る』から『人・本・旅』に生活の中心をシフトしなければなりません」と言われました。

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講演後、謝辞を述べる柴山社長

 

質疑応答の後、ラックの柴山社長より謝辞が述べられました。出口学長のお話をわたしが拝聴したのは、ブログ「出口治明氏講演会」で紹介した昨年10月5日の小倉での北九州貿易協会(KFTA)主催の講演会以来でしたが、その内容の濃さと面白さに「出口学長は、日本一の講師ではないか」と思いました。

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APUを視察しました

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参加者全員で記念撮影

 

講演後はAPUの施設見学を行いました。
APUのコンセプトは「ダイバーシティ」です。今や時代のキーワードとも言える「ダイバーシティ」ですが、「コトバンク」によれば以下のように説明されています。
ダイバーシティとは、多様な人材を積極的に活用しようという考え方のこと。 もとは、社会的マイノリティの就業機会拡大を意図して使われることが多かったが、現在は性別や人種の違いに限らず、年齢、性格、学歴、価値観などの多様性を受け入れ、広く人材を活用することで生産性を高めようとするマネジメントについていう。 企業がダイバーシティを重視する背景には、有能な人材の発掘、斬新なアイデアの喚起、社会の多様なニーズへの対応といったねらいがある」

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懇親会の冒頭、挨拶をしました

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令和の時代は、九州の時代です!

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懇親会のようす

 

その後、わたしたちはバスで大分市に移動しました。
冠婚葬祭互助会のセルモさんの結婚式場「セントクレアヒルズ」を訪れ、施設見学をさせていただきました。それから懇親会です。わたしは、ここでもブロック長として冒頭に挨拶しました。わたしは「令和の出典である『万葉集』の歌は大宰府で詠まれましたが、今日のAPU視察で、いよいよ九州の時代が始まったことを実感しました」と述べました。

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二次会で熱唱しました♪

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リクエストで「まつり」を歌いました♪

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勝手にシンドバッド」まで歌ってしまった!

 

懇親会は大いに盛り上がりました。最後は、日本フェニックスの守屋社長の中締めの挨拶がありました。その後、二次会のお店に行きましたが、そこで、わたしは多くの方からのリクエストで北島三郎「まつり」とサザンオールスターズ勝手にシンドバッド」を熱唱しました。今年の新年祝賀会で歌った2曲ですが、業界のみなさんがわたしのブログを読んでおられることに驚きました。気の合った同志たちと美味しいお酒を飲み、大分の夜は更けていきました。

 

2019年6月25日 一条真也

葬祭責任者会議

一条真也です。
24日の午後から、 サンレーグループの葬祭責任者会議が行われました。わたしは、いつものように社長訓話を行いました。「コミュニティセンター」「グリーフケア」「セレモニー」をテーマに、1時間にわたって話しました。

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最初は、もちろん一同礼!

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葬祭責任者会議のようす

 

わたしは、まず、ブログ「北九州市災害時支援協定調印式&記者会見」で紹介した北九州市と株式会社サンレーの間で結んだ「災害時における施設の使用に関する協定」についてお話しました。「葬儀をする施設」から「葬儀もする施設」へ。セレモニーホールからコミュニティセンターへ。互助会の理念である『相互扶助』の実現をめざして、そして地域に不可欠な施設としてこれからも地域に貢献させていただきたいと願っています。 

f:id:shins2m:20190624163605j:plainグリーフケアについて話しました 

 

それから、グリーフケアについての基本的な話をしました。「グリーフケア」とは一般に「悲嘆からの回復」という意味で使われます。「悲嘆」といっても、さまざまな種類がありえます。上智大学グリーフケア研究所の特任前所長である髙木慶子氏は、以下のように「悲嘆を引き起こす七つの原因」というものを紹介しています。1.愛する人の喪失、2.所有物の喪失、3.環境の喪失、4.役割の喪失、5.自尊心の喪失、6.身体的喪失、7.社会生活における安全・安心の喪失。以上の7つです。

f:id:shins2m:20190624165719j:plain「悲嘆を引き起こす7つの原因」

 

わたしたちの人生とは喪失の連続であり、それによって多くの悲嘆が生まれています。東日本大震災の被災者の人々は、いくつものものを喪失した、いわば多重喪失者です。家を失い、さまざまな財産を失い、仕事を失い、家族や友人を失ってしまいました。しかし、数ある悲嘆の中でも、愛する人の喪失による悲嘆の大きさは計り知れないといえるでしょう。グリーフケアとは、この大きな悲しみを少しでも小さくする行為です。

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多重喪失者について

 

わたしたちの人生とは、ある意味で「出会い」と「別れ」の連続であり、別れに伴う「悲しみ」も影のように人生についてまわります。愛する人を亡くすか、あるいは、それを予期しなければならない立場に立たされた人は、必ずといっていいほど、「悲嘆のプロセス」と呼ばれる一連の心の働きを経験させられます。死にゆく人の家族は、愛する人の死を予期したときから、「準備的悲嘆」と呼ばれる一連の悲しみを経験します。そして、実際に死別に直面したのち、さらにいくつかの段階を経て、その衝撃から立ち直ってゆくのです。

f:id:shins2m:20190624171049j:plainグリーフ・エデュケーションについて

 

死生学の第一人者として知られる上智大学名誉教授で哲学者のアルフォンス・デーケン氏は、「悲嘆教育」と訳されるグリーフ・エデュケーションを提唱しています。愛する人を亡くしたとき、どういう状態に陥ることが多いのか、どんな段階を経て立ち直ってゆくのか、悲嘆のプロセスを十分に商家できなかった場合はどんな状態に陥る危険性があるのかなど、人間として誰もが味わう死別の悲しみについて学ぶのがグリーフ・エデュケーションです。

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デーケン氏の考えを紹介

 

デーケン氏は、欧米や日本で、たくさんの末期患者とその家族、また患者が亡くなったあとの遺族たちのカウンセリングに携わってきました。1人ひとりの人生がそれぞれかけがえのないものであるように、愛する人を亡くすという体験とそれに伴う悲しみのプロセスも、人それぞれです。しかし、風土、習慣、言語は違っていても、みな同じ人間である以上、そこにはある程度まで共通するパターンが見られるといいます。

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デーケン氏による「悲嘆のプロセス」

 

デーケン氏による「悲嘆のプロセス」の十二段階は以下の通りです。1.精神的打撃と麻痺状態、2.否認、3.パニック、4.怒りと不当惑、5.敵意とルサンチマン(うらみ)、6.罪意識、7.空想形成、幻想、8.孤独感と抑うつ、9.精神的混乱とアパシー(無関心)、10.あきらめ―受容、11.新しい希望―ユーモアと笑いの再発見、12.立ち直りの段階―新しいアイデンティテの誕生。
ただし、デーケン氏自身も述べているのですが、悲嘆の感情の変化はこのプロセス通りに推移するわけではありません。それでも悲しみというものを処理していくうえで大いに参考になる考え方だと言えます。

f:id:shins2m:20190624171657j:plain「葬儀をあげる意味」について

 

それから、「葬儀をあげる意味」について話しました。
古今東西、人間はどんどん死んでいきました。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる「こころ」に1つの「かたち」を与えることが大事であり、ここに、葬儀をあげる最大の意味があります。
では、この「かたち」はどのようにできているのか。昔の仏式葬儀をみてもわかるように、死者がこの世から離れていくことをくっきりとした「ドラマ」にして見せることによって、動揺している人間の「こころ」に安定を与えるのです。

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物語による「こころの安定」について

 

ドラマによって「かたち」が与えられると、「こころ」はその「かたち」に収まっていき、どんな悲しいことでも乗り越えていける。つまり、「物語」というものがあれば、人間の「こころ」はある程度、安定するものなのです。逆にどんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、「こころ」はいつもグラグラ揺れ動いて、愛する肉親の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。死者が遠くへ離れていくことをどうやって演出するかということが、葬儀の重要なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために葬儀というものはあるのです。

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葬儀とは何か?

 

また葬儀には、いったん儀式の力で時間と空間を断ち切ってリセットし、もう一度、新しい時間と空間を創造して生きていくという意味もあります。もし、愛する人を亡くした人が葬儀をしなかったらどうなるか。そのまま何食わぬ顔で次の日から生活しようとしても、喪失で歪んでしまった時間と空間を再創造することができず、「こころ」が悲鳴を上げてしまうのではないでしょうか。さらに一連の法要は、故人を偲び、冥福を祈るためのものです。故人に対し、「あなたは亡くなったのですよ」と現状を伝達する役割、また遺族の心にぽっかりと空いた穴を埋める役割もあります。動揺や不安を抱え込んでいる「こころ」に「かたち」を与えることが大事なのです。儀式には、人を再生する力があります。

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葬儀の5つの役割について

 

葬儀には、主に5つの役割があるとされています。それは、社会への対応、遺体への対応、霊魂への対応、悲しみへの対応、さまざまな感情への対応です。さまざまな感情とは「怒り」や「恐れ」などです。具体的には、「どうして自分を残して死んでしまったのだ」という怒り、あるいは葬儀をきちんと行わないと「死者から祟られるのではないか」という恐れなどですね。しかし、残された人々のほとんどが抱く感情とは「怒り」でも「恐れ」でもなく、やはり「悲しみ」でしょう。「悲しみへの対応」とは、遺族に代表される生者のためのもの。遺された人々の深い悲しみや愛惜の念を、どのように癒していくかという対応方法のことです。

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物語の癒しによって、世界を完全にする

 

通夜、葬儀、告別式、その後の法要などの一連の行事が、遺族に「あきらめ」と「決別」をもたらしてくれます。葬儀とは物語の力によって、遺された人々の悲しみを癒す文化装置です。わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。ある人の愛する人が亡くなるということは、その人の住む世界の一部が欠けるということ。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、必ず精神の崩壊を招きます。不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことにほかなりません。

f:id:shins2m:20190624173240j:plain葬儀=「この世」に引き戻す大きな力 

 

また、葬儀は接着剤の役目も果たします。愛する人を亡くした直後、遺された人々の悲しみに満ちた「こころ」は、ばらばらになりかけます。それを1つにつなぎとめ、結び合わせる力が葬儀にはあるのです。多くの人は、愛する人を亡くした悲しみのあまり、自分の「こころ」のうちに引きこもろうとします。葬儀は、いかに悲しみのどん底にあろうとも、その人を人前に連れ出す。引きこもろうとする強い力を、さらに強い力で引っ張り出します。葬儀の席では、参列者に挨拶をしたり、お礼の言葉を述べなければなりません。それが、遺された人を「この世」に引き戻す大きな力となっているのです。

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懇親会の冒頭で挨拶しました

f:id:shins2m:20190624182807j:plain懇親会のようす

 

今後、葬儀のスタイルもさまざまに変わっていくでしょうが、原点、すなわち「初期設定」を再確認したうえで、時代に合わせた改善、いわば「アップデート」を心がける努力が必要です。もともと、約7万年前にネアンデルタール人が死者に花を手向けた瞬間からサルがヒトになったともいわれるほど、葬儀は「人類の精神的存在基盤」とも呼べるものなのです。最後に、わたしは「葬儀なくして人類なし」と大きな声で言いました。なお、社長訓話後はサンレー本社から松柏園ホテルに移動して、懇親会が開催されました。その後は、同ホテルのラウンジで二次会も開催され、大いに情報交換、意見交換し、親睦を深めました。

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最後は「末広がりの五本締め」で

f:id:shins2m:20190624192654j:plainラウンジでの二次会のようす

 

2019年6月24日日 一条真也

『証言「プロレス」死の真相』

証言「プロレス」死の真相

 

 一条真也です。
『証言「プロレス」死の真相』アントニオ猪木前田日明川田利明丸藤正道ほか著(河出書房新社)を読みました。これまで、ブログ『証言UWF』ブログ『証言UWF最終章』ブログ『『証言UWF完全崩壊の真実』ブログ『証言1・4橋本vs.小川 20年目の真実』ブログ『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』ブログ『証言 長州力「革命戦士」の虚と実』といった一連の「証言」シリーズを当ブログで取り上げてきましたが、いずれも宝島社の本でした。しかしながら、本書の版元は河出書房新社です。版元が違うのに「はじめに」もターザン山本が書いているし、構成のスタイルもまったく同じ。ほとんど「掟破り」といった感じの出版物です。河出書房新社といえば、ブログ『猪木流』で紹介したアントニオ猪木の共著を刊行していますので、どうもこの掟破りには、猪木という稀代のフィクサーが絡んでいるようですね。猪木自身も本書の冒頭に登場して、恩師である力道山について語っていますし。

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本書の帯

 

本書の帯にはアントニオ猪木前田日明の顔写真が使われ、「猪木、前田・・・・・・16人の遺族、関係者が明かすレスラー14人の真実の晩年と死の謎」と書かれています。16人の遺族、関係者が明かすレスラー14人の真実の晩年と死の謎」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

力道山――(証言)アントニオ猪木

「非常識で生き抜いた親父に出会って、俺の人生は変わった」

山本小鉄――(証言)前田日明

「父のように優しい心で俺たちを育ててくれました」

ジャイアント馬場――(証言)和田京平

「生命維持装置を外しても、馬場さんはすごい生命力だった」

三沢光晴――(証言)丸藤正道

「三沢さんの遺体を見て、こらえきれない涙があふれ出した」

マサ斎藤――(証言)斎藤倫子

「ファンのみなさん、どうかマサ斎藤を忘れないでください」

ジャンボ鶴田――(証言)川田利明

「鶴田さんは、どんなスポーツをやっても成功する化け物」

ジャンボ鶴田――(証言)鶴田保子

「全日本に入れて、いい会社に就職できて、僕は幸せだった」

橋本真也――(証言)関係者X

「死の直前、もう一度、故郷の新日本でやり直したかった橋本」

橋本真也――(証言)黒田哲広

「亡くなる前から、何回も死にかけたと聞いていました・・・・・・」

ラッシャー木村――(証言)百田光雄

「昔気質の木村さんは、入院中でも人に弱みを見せなかった」

上田馬之助――(証言)トシ倉森

「2人で自殺することばかり考えていたんです」(恵美子夫人)

阿修羅・原――(証言)小佐野景浩

棺と一緒に焼いたレボリューションジャケットの思い出」

永源遥――(証言)柴田惣一

「亡くなる当日も永源さんはノアの事務所に出社していた」

冬木弘道――(証言)金村キンタロー

「ああ、俺はやっぱり死ぬんだな」とボスはニヤリと笑った

ブルーザー・ブロディ――(証言)斎藤文彦

溺死、放火・・・・・・ブロディ刺殺犯に続いた不幸のスパイラル

ザ・デストロイヤー――(証言)束田時雄

最後の来日で会った猪木と和田アキ子からのリスペクト

プロレスラー「訃報年表」

 

本書のタイトルには「死の真相」という言葉が入っていますが、基本的に亡くなったプロレスラーの弟子や後輩、あるいは遺族や関係者が生前の思い出を語るといった内容でした。もともと「プロレスラー」と「死」という言葉は似合いません。プロレスラーには「不死身」といったイメージがあるからです。また、「不死身」のイメージを観客に与えるのがプロレスラーの仕事だからです。ですから、現役で活躍中だった力道山がチンピラからナイフで刺された傷が原因で亡くなった際の当時のプロレスファンたちが受けた衝撃の大きさは想像するに余りあります。力道山はプロレス界の無敵のスーパースターだったからです。

 

そのあたりをターザン山本も、「はじめに」の冒頭で以下のように書いています。
「昔、プロレスラーは怪物幻想が大きな魅力だった。圧倒的存在感、際立つ身体表現、問答無用な圧力。とくに外国人レスラーにはそれがあった。怖い、ヤバい、ビビった。だからレスラーの最期は人知れず消えていく。フェイドアウトしていくのが理想的だった。異形の人に死は似合わない。見せてはいけない。それが怪物たちの宿命。大原則。
しかしSNS全盛時代、あらゆる情報は即座に世界に発信される。そのため、我々プロレスファンは仕方なくレスラーの死と向かい合う形になってしまった。その現実はあまりにも切なすぎる。怪物も人の子だったのかという思い。耐えられない」

 

また、ターザンは以下のようにも述べています。
「問題は生き残った者がなにを受け継いでいくのか。死という事実を見つめることよりも死者のメッセージを感じる感性。それを語れる者は幸せだ。それが猪木にとっての力道山であり、前田日明にとっての山本小鉄だった。その瞬間、力道山は猪木の中で、山本小鉄は前田の中で蘇ることになるのだ。死者から生者への目に見えないメッセージの伝達。これほど美しい関係はない。死者が他者の中で復活。生き返る。ただそれは死者にとっては及びもつかないこと。だからいいのだ。プロレスラーほど死してなおプロレスファンの記憶の中で生きている人たちはいない。その意味でもプロレスは比類なきジャンルだ」

 

本書の目玉は、「証言」シリーズ初登場となる超大物・猪木が恩師・力道山のことを「親父」と呼び、その思い出を語るところでしょう。「怒り、怨念こそが力道山のエネルギー」として、猪木は以下のように語っています。
「戦後のスーパーヒーローは何人も生まれたと思いますけど、力道山という存在はそんな比じゃないというね。非常識で生き抜いたあの価値観がいいか悪いかを別にして、俺は親父に出会ってなければ違った人生を送っていたんでしょう。興行とはなにか?――を親父から教わったわけではないんですけど、興行にとって必要な絶対的な派手さ、パフォーマンスのうまさ、池に石を投げてポチャンと沈んでしまうのか、それとも大きな波紋を起こしてどんどん広がっていくのか。親父のあの生き方から、そういうメッセージを受け取りました」

 

続けて、猪木は以下のように述べています。
「もちろん力道山がどう思っていたのかはわかりません。でも、多くの国民はリングで闘う力道山の姿や、あの空手チョップから元気をもらっていたわけです。再び立ち上がっていく自分たちと重なり合わせてね。
では、あの力道山のエネルギーとはなんだったんだろう? と。相撲時代には、その出自から差別を受けたことで髷を切って廃業したという話があり、そうやって虐げられてきたなか、思いもよらない形で戦後日本のスーパースターになってしまった。親父も非常識、矛盾のなかで生きてきたんです。その怒り、怨念こそが親父のエネルギーだったんでしょう」

 

力道山について語った猪木の若手時代を語ったのが、本書の最後に登場する「白覆面の魔王」ことザ・デストロイヤーです。デストロイヤーは猪木とは試合もしていますが、力道山のジムで猪木の若手時代にスパーリングをやったこともあるそうです。デストロイヤーは「きわめて卓越したテクニックの持ち主。アマレス出身かと思った」と述べています。猪木にはアマレスの経験はありませんから、いかに強いレスラーだったのかがわかります。「強さ」だけではありません。デストロイヤーは猪木のことを「表情も、表現力も素晴らしい」と絶賛しました。力道山が亡くなる直前、猪木は道場でスパーリングする機会がありましたが、簡単に力道山のバックを取れてしまったことで、英雄の衰えを感じたといいます。

 

猪木と違って、「スパーリングが弱かった」と言われているのが、新日本プロレスのナンバー2としてエース・猪木を支えた「世界の荒鷲」こと坂口征二でした。若手時代から坂口とそりが合わなかったという前田日明が、恩師である山本小鉄が坂口と仲が悪かったことについて以下のように語っています。
「小沢(正志)さん(=キラーカン)から言わせれば、坂口(征二)さんってアメリカでレスラーとしてまったく通用しなかったらしいんだよね。食えないぐらいで。そんな人間が新日本に帰ってきたら、『世界の坂口』って言われて猪木さんに次いでナンバー2でしょ。で、山本さんはアメリカでチャンピオンになったりしてたし、そういうレスラーとしての格があるんじゃないのかな」

 

続いて、前田は以下のようにも述べています。
「山本さんは坂口(征二)さんと仲が悪くてね、その根本には妙なところで柔道的なプライドを出すところがあって、プロレスを見下したようなところがあったからですよ。坂口さんはたしかに柔道の実績はすごいけど、スパーリングとか弱くてね。北沢(幹之)さんが面白いことを言ってたよ。『昔はあのデカい新人は弱いなぁって、また極められてたよ』って。そりゃ道着を着たら強いよ。もうバンバン投げてね。ただ、あの当時の日本柔道は寝技が全然ダメだったから神永(昭夫)代表が(アントン・)ヘーシンクに抑えられたりするわけで」

 

アマレス界の強豪としてプロレス入りしたのが、ジャンボ鶴田でした。現役時代は圧倒的な強さを示し、現在でも「鶴田最強説」は根強いですが、「鶴田のような選手は今後、プロレス界に現れるだろうか」という質問に対して、「デンジャラスK」こと川田利明がこう述べています。
「現れない。仮にもし、いたとしても、別のメジャーなスポーツに行っていると思う。最近のプロレスラーは細くて小さい選手が多い。もし、あんな人がいたらメジャーなスポーツでお金を稼ぐはず。あれだけ才能、体力、身体、プロレスラーとしてのものを全部持っている人はプロレス界に出てこない。それぐらいリング上では化け物だった」

 

川田と同じことを語ったのが、ジャンボ鶴田の未亡人である鶴田保子さんです。「レスラーとしての御主人について思い出をお聞かせください」との言葉に対して、鶴田保子さんは「華のある人でした。ジャイアント馬場さんは『レスラーは一般の人たちの中にいても、レスラーとしてわかる人じゃないと大成しない』と考えていたそうです。馬場さんもそうですし、レスラーとしての主人はオーラがありました。レスラーだけになれる人ではなく、どんなスポーツ選手にもなれる。これは本人も言っていました。『僕は体が柔らかいから』って」と語っています。

 

鶴田はプロレスラーにならなかったほうが幸せだったのでしょうか。「鶴田さんはプロレスを選んで幸せだったでしょうか」という問いに対して、保子さんはこう語っています。
「『自分の長所を生かせる仕事に就けてうれしかった』と言っていました。息子たちにも『長所を生かせる仕事をしなさい。自分の強みを自分で見つけて、それを生かす仕事をしなさい。だから、引き出しは多く持っておくんだよ』と。三沢(光晴)くんにもよく言っていました。『レスラーを辞めてからの人生のほうが長い。だから、その時に人から後ろ指をさされないような人生を送らないといけないよ』って」

 

そして、保子さんは亡き夫について、「レスラーとしては、本当に恵まれた人生で、感謝だけだったと思います。『全日本に入れて、僕は幸せだった。いい会社に就職できて、幸せだった』と話していました。全日本で始まって、全日本で終われて、幸せだったと思います」と述べるのでした。
ジャンボ鶴田が「いい会社」と呼んだ全日本プロレス創始者で、鶴田をプロレス入りさせたのはジャイアント馬場です。保子さんは、「馬場さんは、主人からしたら神のような人でした。試合後、毎回コメントをもらっていたそうです。その時に『しょっぱい試合しやがって』と言われたこともあり、なかなか評価されないと、つらい思いもしたようです。馬場さんから電話がかかってくると、目の前にいるわけでもないのに、パッと立ち上がって直立不動で話すくらいでした」と語っています。

 

ジャンボ鶴田の最大のライバルは天龍源一郎でしたが、その天龍の最高のパートナーといえば阿修羅・原でした。両者のコンビは「龍原砲」と呼ばれました。盟友の原が亡くなったとき、天龍は、原の死について多くを語らずノーコメントを貫きました。「週刊ゴング」元編集長の小佐野景浩が以下のように述べています。
「当時、天龍さんは、たまたま別の記者会見があって、原さんについても聞かれたんだけど、ノーコメントだった。やっぱり天龍さんからしてみたら、自分と阿修羅・原のことはひと言で語れないし、ましてや、その関係を知らない人間に聞かれたって答えようがないってことだと思う。龍原砲の絆は、簡単に語れるものではないほど熱く深いものだったと思うしね」

 

また、龍原砲について、小佐野はこうも語ります。
天龍同盟の頃は、それこそ家族よりも多くの時間を二人は一緒に過ごしていた。移動も一緒、試合も一緒、終わったら一緒に飲みにいって、その間ずーっとプロレスの話をしている。あの二人はつくられたチームじゃないんだよね。大相撲で前頭筆頭までいった嶋田源一郎という男と、ラグビーで日本のトップまでいった原進という男が、お互いにプライドを持ってプロレスに取り組んで、どこに見せても恥ずかしくないプロレスをしようという気持ちだったんだと思う」

 

本書には、多くの名レスラーの生き様が語られています。タイトルにある「死の真実」についてはそれほど詳しく語られていませんが、2005年7月11日に40歳という若さで急逝した橋本真也だけは、病状がかなり詳しく書かれています。冬木弘道の未亡人であった薫さんと交際し、亡くなったときも彼女と一緒だったそうですが、橋本の訃報を聞いたときの心境を黒田哲広が以下のように語っています。
「ショックというよりは、やっぱり亡くなっちゃったかな・・・・・・でした。その前に何回も死にかけたっていう話は聞いたんで。橋本さん、不整脈だったらしいんです。不整脈で何回も緊急で病院に担ぎ込まれたとか、そういう倒れ方をしていたと聞いてたんで。僕が一緒の時に具合が悪くなったことはなかったですけど。でも、薫さんから『この前も倒れてさ』という話は聞いていたので。亡くなった話を聞いた時は、ああ・・・・・・っていう感じでした」


あの無類の強さを誇った「破壊王」が不整脈に苦しんでいたとは驚きです。それにしても、不整脈の人間がプロレスを続けなければいけなかったというのはあまりにも過酷であり、無性に悲しいですね。本書を読めば、「死なない人間はいない」「万人に等しく死は訪れる」という真実が改めてわかります。亡くなったプロレスラーの方々のご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

 

2019年6月24日 一条真也

『夜の虹を架ける』

夜の虹を架ける 四天王プロレス「リングに捧げた過剰な純真」

 

 一条真也です。
『夜の虹を架ける』市瀬英俊著(双葉社)を読みました。「四天王プロレス『リングに捧げた過剰な純真』」というサブタイトルがついています。著者は1963年、東京都生まれ。千葉大学法経学部卒。ターザン山本編集長時代、「週刊プロレス」で全日本プロレス担当記者を務める。「週刊プロレス」「週刊ベースボール」編集部を経て、現在、フリーのスポーツライターとして活動中。

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この分厚さを見よ!

 

この本、なんと832ページもあります。しかも活字が二段組。ブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介した名著が同じく二段組で約700ページでしたので、同書を上回る分厚さです。さすがのわたしでも、読み始めるのに躊躇しましたが、ブログ『さよならムーンサルトレター』で紹介した本で新日本プロレスの「闘魂三銃士」のことを懐かしく思い出したので、本書を読んで全日本プロレスの「四天王」のことも思い出してみたいと思いました。

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本書の帯

 

カバー表紙には、川田利明三沢光晴をジャーマン・スープレックスで投げている写真が使われ、帯には「痛み、耐える、痛み、倒れる。立ち上がる――“今を生きる覚悟”は死への恐怖をも超えた」「ノンフィクション」「三沢、川田、田上、小橋。命懸けの日常がそこにあった―元週プロ全日本番が記す『明るく、楽しく、激しいプロレス』の真実」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 また帯の裏には、以下のように書かれています。
「〈ひと通り、取材陣からの質問が終わったあと、三沢にたずねてみた。『確実に寿命が縮まってる、そんな感じはしませんか』と。こちらとしては、レスラー人生の寿命、というつもりで聞いてみたのだが、三沢はしばし考えて、そしてニヤリとしながら・・・・・・。『ポックリ、いっちゃうかもね』衝撃的なひとことだった。顔は笑っていたが、ズシリと胸に響いた。〉」「山の頂の向こう側、愚直なまでに前へ前へと突き進む男たち。すべては、観客の心を揺り動かすためにーー」

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「家族が寝静まった日曜日の深夜。眠い目をこすりながら、チャンネルを合わせるとテレビ画面に映し出されるあの男たち。キック、逆水平、エルボー・・・痛みがダイレクトに伝わる打撃。パワーボムノド輪落とし、ジャーマン…見ている自分の息が詰まる投げ技。倒れても倒れても、何度も立ち上がる男たち。繰り返される2・9の攻防。 頑張る、あきらめない、手を抜かない。そんな言葉は口にせずとも、そのすべてをリング上で体現する闘い。最後の力を振り絞って放たれた急角度のスープレックス。3回叩かれるマット。乱打されるゴング。鳴り止まない拍手。妙に冴えた目のまま、布団にもぐり込む。明日、僕も頑張ろう。今日よりちょっとだけ。前を向いて――」

 

アマゾンの「内容紹介」には、こうも書かれています。
「90年代、リングに熱狂を呼び込んだ『四天王プロレス』。そこにいた4人の男――三沢光晴川田利明田上明、小橋健太。投げっ放しジャーマンやエプロンでの攻防に象徴される激しい闘いは、多くのファンを魅了し、海外を含めたのちのプロレスシーンにも大きな影響を与えた。その一方で、2009年6月の三沢の死を境に、「やり過ぎ」だったとする四天王プロレス批判があがったのは事実だ。あの時代、闘いの当事者たちはどのような思いを胸にリングに上がり、そして今、どのように考えているのか。元週刊プロレス全日本番として日々、王道マットの取材を続け、またジャイアント馬場からの信頼も厚かった『一休』こと市瀬英俊記者が記す、『明るく、楽しく、激しいプロレス』の真実――」

 

そして、アマゾンの「内容紹介」には、以下のレスラーや関係者たちの言葉が紹介されています。
「投げっ放しジャーマンの受け身なんて、どう考えたって取れるわけがない。そんなの試合でやらない限り・・・・・・。誰もそんなケガするようなこと、教えてくれるわけがないし。そんな受け身、ないからさ。試合が終わって生きていることに感謝っていうぐらい、ホント、何回もこれ死んだかなと思うことがあったよ」(川田利明
「せっかくプロレスを見に来てもらったんだから、喜んで帰ってもらおうと。それは常に思ってたよね、プロとして。なーんだ、っていう思いで帰らせるわけにはいかない。でも、セミの試合がワーッと沸くじゃない。オイオイ、と思ったよ。どうすっか、やばいなあって」(田上明
「三沢さんとプロレス観について話し合ったことはないですけど、お互いに覚悟を持って前の試合を乗り越えようとする気持ちがぶつかり合った結果なんですよね。無謀なことをしようとか、そういうのはまったくなかった」(小橋建太
「日々、何か違う自分を見せていこうというのは三沢さんたちであって、 俺はその場を必死に頑張るだけだから。ああしよう、こうしようではなく頑張ってつなごう、最後まで残ろう。攻めじゃなくて、受けが俺のスタイルだから」(菊地毅
「カウント2・9の攻防だけが四天王プロレスのように言われますけど、そうじゃないんですよ。皆さんがテレビで見ていたのはスゴイところばかりですけど、地方の会場ではそうじゃない細かいところをやってましたから」(秋山準
「思っていた以上に凄かったです。ひとことで言えば、体を張ってるな、と。怖いぐらいですね。攻めててもね、よくここまで受け切るな、と」(馳浩
「他団体のレスラーからやり過ぎの声が挙がるのだとすれば、それはできないことのジェラシーだよ」(和田京平

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「序」

第一章   4粒の種

1 右腕の膨らみ

2 「カワダ」の帰国

3 角界玉三郎

4 フェンスの外の目力

5 全日本プロレス再生計画

6 悲しみの虎

7 シークレットサロン

8 雨の東京体育館

9 格を壊す

第二章    新芽の生命力

10 三沢組

11 新・激しいプロレス

12 火の玉小僧

13 ゼンニッポンコール

14 自分超え

15 ガラスのエース

16 闘う者の距離感

17 非常ベル 

第三章      陽の光を求めて

18 3年周期

19 四天王の誕生

20 非情という名の感情

21 価値観の衝突

22 あすなろのもがき

23 暗い影

24 一夜の夢

第四章      全日本の森

25 全力の今

26 取材拒否

27 イラ立ち

28 摩耗するタイヤ

29 樹木の根

30 三沢革命

31 4色の虹

「おわりに」

 

第一章「春 4粒の種」の1「右腕の膨らみ」では、「四天王プロレスの起点」として、以下のように書かれています。
「とりわけ激しさを極めたのが、93年の夏以降に全日本マットで繰り広げられた闘いだった。中心的な登場人物は川田のほかに三沢、小橋、田上明の計4選手。彼らは同年5月21日の北海道・札幌大会を境に『四天王』と呼ばれるようになり、彼らが織り成すプロレスはまもなく『四天王プロレス』と称されるようになった」

 

四天王プロレスについて、著者は述べます。
四天王プロレスを語るうえでのキーワード。たとえば『カウント2.9の攻防』というフレーズがそれに該当する。通常、プロレスの試合においては一方のレスラーが相手のレスラーの両肩をマットにつけ、それを確認したレフェリーがマットを3回たたけば決着がつく。
だが、四天王プロレスにおいては決着の瞬間が容易には訪れない。見守る観客が『これはもうダメだ』と観念するような大技を食らってもなお彼らは、覆いかぶさってきた相手の体をハネのける。カウント3寸前の、カウント2.9と呼ぶべき瞬間にレフェリーの手が空中で止まる。観客はあきらめのため息を早く飲み込み、0.1の差でなおも闘い続ける意志を示した彼らに対して全力の腹式呼吸で声援を送る。
四天王プロレスにおいてはこうしたシーンが何度も出現する。この『何度も』が重要なポイントだ。1試合のうちに何度も。そういう試合がシリーズ中は日々繰り返される。年間8シリーズ、トータルでは150試合前後、そして、そういう1年が数年にわたって続いた。その結果、四天王プロレスという過去に類を見ない潮流が生まれた」

 

そんな苦しい闘いを続ける四天王たちは、どう考えていたのでしょうか。第二章「夏 新芽の生命力」の16「闘う者の距離感」では、「『負けちゃおうかな』との闘い」として、三沢の試合後のコメントを紹介しています。
「『自分との闘いが苦しかったね。「負けちゃおうかな・・・・・・」っていう気持ちとの闘いだよね。しょっちゅう、頭の中で呟いているわけ。ハンセンが上に乗っかってきたときなんかね』
負けちゃおうかな。もう楽になっていいんじゃないか。もうひとりの自分が悪魔のささやきを投げかける。しかし、三沢は悪魔の横っ面にもエルボーをぶち込んだ。自分との戦いに打ち克つ。それがプロレスという世界においてトップに立つための必須条件。自分との闘いに打ち克ち続ける。それがプロレスというジャンルにおいてトップに立ち続けるための絶対条件」

 

第三章「秋 陽の光を求めて」の「価値観の衝突」では、「鶴田の警告」として、四天王たちの前に強大な壁として立ちふさがったジャンボ鶴田の言葉が紹介されています。鶴田の死後に保子夫人が書いた『つぅさん、またね。』(ベースボール・マガジン社)には、鶴田の本音が綴られています。
「後輩たちの試合について、彼はこんな感想を渕さんに漏らしていました。『三沢はよくやってると思うよ。でも、頭から落とすような危ないプロレスは、俺はやりたくない』ひとつ間違ったら命に関わるようなプロレスはスポーツじゃない、というのが彼の持論です。『見ていてハラハラする。きれいじゃないんだよ』とも言っていました」

 

著者は、鶴田のプロレス観について述べています。
「ケンカやつぶし合いなどではない、スポーツとしてのプロレスを鶴田は追求していた。その中で90年の夏、目の前に超世代軍が現れ、鶴田は急角度のバックドロップを頻繁に放つようになった。確かな受け身の技術を備えていた若者たちによって、鶴田の強さが引き出された面は否定できない。それでも鶴田の足は常にブレーキペダルにかかっていた。本人にしてみれば無秩序な強さではなく、あくまでも制御を利かせた強さの表現。そんな意識だったのだろう。だが、四天王の試合はブレーキを踏むことのない、アクセル全開のプロレス。鶴田の目にはそう映った。きれいじゃない。美しくない。そう感じた」

 

レフェリーとして鶴田軍対超世代軍、さらには四天王の試合を裁き続けた和田京平は、四天王がブレーキを捨てた理由について、「やりたいことをやっても誰も文句を言わなくなった。ガタガタ言う人間がいなくなったということだよね。天龍さんがいなくなったというのもあるし、ジャンボがいなくなったというのもある」と解説しています。また、和田は次のようにも語ります。
「そこにジャンボがいたら、『あれはないよなあ』と。試合が終わったあとにちゃちゃを入れられるのがイヤだと言ったら変だけど、対等な4人のグループ、文句を言わないグループだから何をやってもオッケーなんですよ。そこに天龍さんや輪島さんがいたら試合は成立しないわけで、4人が台頭だったからいろんあんことが出来上がった。投げっ放しジャーマンとかエプロンからのノド輪落としとか、やられた側は苦しいかもしれないけど、それに耐えて文句ひとつ言わずリングに残って試合をこなすという意味で、4人全員が対等だったんじゃないかな」

 

23「暗い影」では、「馬場が予見していた小川直也の暴走」として、新日本プロレスに入門した小川についての馬場のが興味深かったです。著者が聞き手を務めた単独インタビューで、馬場は小川について次のように言及しました。
「例えば柔道の小川(直也)が入ってきた。でも、この世界だけは、1からやらんことには全然勝負になりませんよ。1からやらなきゃならん人に、お金なんか出してられない、ということです。どれくらいのお金か聞いてないけど、半端じゃないお金ですよ。小川が試合するのに、相手に柔道着を着せればなんとかなるだろうけど、相手が裸だったらどうにもならない。レスラーはそんなに甘くないですよ。そんなに甘くされたら、困るよ。新日本に言わなきゃいかん」

 

続けて馬場は、「柔道の(アントン・)ヘーシンクを見て、俺はようわかっとる。そんなに甘くされたら、新日本の選手も怒ると思う。なんだこの野郎って、思うんじゃないの。1からやらないならね。人の団体のことだけどな。ヘーシンクにもレスリングを教えたけど、ダメだったということなんだよ。裸になったら、何もできなかった。1からやらないんだから。小川も、1からやるならそれでいい。他の選手も納得するだろうけどな」と語っています。のちに小川の暴走により新日本再度との大乱闘という事件も発生(99年1月4日、東京ドームしましたが、「甘くされたら、新日本の選手も怒ると思う。なんだこの野郎って、思うんじゃないの」と馬場がトラブルを予見したのは、さすがの慧眼でした。

 

その馬場あっての超世代軍であり、四天王プロレスだったのではないかというのが和田京平です。和田いわく、「ケガをしても、馬場さんはちゃんとしてくれるだろうと。だからあそこまでできたのかもしれない。公傷制度? ずっとありましたよ。ケガをしたら、最初の3カ月は会社で面倒を見る。それ以降は会社との話し合い。だから肝炎で休んでいたジャンボ(鶴田)にも給料を払っていた。ギャランティよりは落ちるけど、生活に困らない程度のものは渡してた。普通、試合ができない選手は契約更改のときに切っちゃうんだけど、それを切らないのが馬場さんだから」といいます。

 

ジャイアント馬場のプロレス観も凌駕。 四天王に『こいつらはすごい』」という6月3日配信のweb「Sportiva」の記事では、和田京平の発言が紹介されています。
「馬場さんは、体が大きい人を優遇してきたんです。体が大きければリングに上がっただけでも説得力が生まれますから。でも、天龍さんたちが出て行ったあとに彼らが激しくやりあっている姿を見て、『こいつらすごいな』と驚いていました。馬場さんが考えていた最高のプロレスは、自分もやってきた観客に"魅せる"アメリカンプロレス。しかし四天王の4人は、受け身が取れない頭から落とす技もしますし、エルボーや蹴りも、頭や顔面にバチバチ入れる。その想像を超えた試合に馬場さんのプロレス観が覆ってしまったんです。彼らの試合は本当に認めていましたよ。日本武道館の試合が終わった後なんて、涙を流しながら『今日の試合は本当によかった。あいつら最高にすごいな』と言って、レフェリーを務めた僕にも"ボーナス"を渡してくれました。その時に『僕だけもらったら悪いです』と言ったんですが、馬場さんは『バカヤロー。あいつらにもちゃんとやってるよ』と笑っていました。馬場さんの中で、四天王プロレスアメリカンプロレスを完全に超えたんですね」

 

全日本には「四天王」がいたように、新日本には武藤敬司蝶野正洋橋本真也の「闘魂三銃士」がいました。脂が乗り切っていた時代の闘魂三銃士と四天王、それぞれと対戦した馳浩は次のように「闘魂三銃士プロレス」と「四天王プロレス」を定義しています。
「三銃士のプロレスは、ザ・新日本プロレス。四天王のプロレスは、ザ・全日本プロレス。そんなに難しいことじゃないです。猪木さんの体格や運動神経、闘う姿勢があって闘魂三銃士がいる。でも、三銃士は猪木さんとは違う。三銃士のような体格、特異性で猪木さん的な世界を表現しようとすれば三銃士になる。
一方、馬場さんの体格、カリスマ性というベースがあってこその四天王であって。でも、四天王は馬場さんとは違う。馬場さんは体格で見せられるけど、四天王はそうじゃない。自分の体格と技術の中で、馬場さん的なプロレス観を提供しようとすれば、それが四天王プロレスになる。こう考えれば簡単ですよ」

 

そんな闘魂三銃士と四天王が初めてニアミスしたのが、1995年4月2日、東京ドームで行われたベースボール・マガジン社主催のオールスター戦「夢の架け橋~憧夢春爛漫~」でした。全13団体が参加しましたが、対抗戦ではなく各団体がカードを提供するスタイルでした。ここで第12試合として、全日本プロレスの三沢&小橋&ハンセン対川田&田上&エースの試合が行われ、熱熱闘の末に30分時間切れとなりました。続く最終第13試合で蝶野正洋との一騎打ちを制した当時のIWGPヘビー級王者、橋本真也は試合後に、「全日本さんの試合のときにオーロラビジョンを見ていて、もうこの辺でいくんじゃないかというときにどんどんどんどんまだ続いていって、お客さんのハートっていうのをつかんで、ものすごく噛み合った、いい試合をしてた。自分がやはりプロである以上、それ以上のものを見せなきゃいけないとは思っているうちに、どんどんプレッシャーが掛かってきて、体ががちがちに動かなくなってきたような感じだったんですけどね」と語りました。
今は亡き「破壊王」も四天王プロレスを認めたのです!

 

第四章「冬 全日本の森」の31「4色の虹」では、今では馬場のそれをはるかにしのぐ、40年超のキャリアを誇る渕正信四天王プロレスのエッセンスを説明しています。
「俺自身、クラシックなプロレスが好きでね。技っていうのは、もちろんやったら凄いけど、ある程度有名な技になると、その技をかける前にお客さんはわかるよ。格好をするだけでわかる。たとえばデストロイヤーの足4の字固め、フリッツ・フォン・エリックのアイアンクロー、その技に入る格好をするだけで、お客さんはワーッとなる。相手がその技を防いで決まらなくても沸く。そこがプロレスのロマン。この技が決まったらおしまいだと。そういうのが俺自身、好きだったのよ。三沢が川田のバックを取って、投げっ放しジャーマンを狙う。川田が防いで、背中へのキックで逃げるとか。小橋だったらローリング・チョップを後頭部にやるとか。エプロンで田上がノド輪落とすをやろうとする。それを防ごうとする。危ない! 危ない! その時点でお客さんは熱狂するわけよ。昔の必殺技に近づいてきたなと。見ていて嬉しかったね」

 

最後に、著者は、この823ページにおよぶ本書を以下の言葉で終えるのでした。
「試合終了のゴングが鳴る。今日もリングですべてを出し尽くし、背中で熱を感じる男たちに向かって、観客は力の限りの拍手を奏でる。手のひらの汗が飛沫となって、男たちに降りそそぐ。四方八方からの飛沫が照明の下で虹を作る。
三沢光晴の緑。川田利明の黄。田上明の赤。小橋建太のオレンジ。4色の虹。大地に根っこを下した一瞬の夜の虹。夜の虹を見た人は幸せになれる。ジャイアント馬場が愛したハワイには、そんな言い伝えがあるという」

 

ここで読者は初めて「夜の虹」という本書のタイトルの意味を知るのですが、なんというロマンティックな表現でしょうか。プロレスそのものがロマンの結晶のようなジャンルであると言えますが、本書の著者は筋金入りのロマンティストなのでしょう。本書のサブタイトルには「リングに捧げた過剰な純真」とありますが、本書もまた「四天王プロレスに捧げた過剰な愛情」と呼べるのではないでしょうか。わたしは昭和の新日本プロレスをこよなく愛する者ですが、本書を読んで、平成の全日本プロレスも好きになりそうです。

 

夜の虹を架ける 四天王プロレス「リングに捧げた過剰な純真」

夜の虹を架ける 四天王プロレス「リングに捧げた過剰な純真」

 

 

 2019年6月23日 一条真也

『さよならムーンサルトプレス』

さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録

 

一条真也です。
『さよならムーンサルトプレス』福留祟広著(イースト・プレス)を読みました。「武藤敬司35年の全記録」というサブタイトルがついています。著者は1968年、愛知県生まれ。國學院大学文学部哲学科卒。92年、報知新聞社入社。現在、メディア局コンテンツ編集部所属。プロレス、格闘技、大相撲、ボクシング、サッカーなど取材。ブログ『クーデター 80年代新日本プロレス秘史』で紹介した本に書かれているように、引退したタイガーマスクにはじまって、長州力維新軍団前田日明らUWF勢の離脱といった「大量選手離脱」の荒波が新日本プロレスを襲いました。しかし、その大量離脱によって新時代のスターである「闘魂三銃士」が誕生。本書の主役である武藤敬司もその1人です。武藤は、後に「プロレスリング・マスター」とまで呼ばれました。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、タイトルにもある必殺技ムーンサルトプレスを行う若き日の武藤の写真が使われ、帯には現在の武藤の顔写真とともに、「これはオレの性分、どうしても飛ばずにはいられなかったーー。」「いま明かされる『プロレスリング・マスター』の素顔」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「その必殺技『月面水爆』は、両刃の剣だったーー。」と書かれ、カバー前そでには、「膝はボロボロになっちまったけど、プロレスラーで良かったな、ムーンサルトプレスをやって良かったなって」という武藤の言葉が紹介されています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「平成のプロレス界を牽引し、つねにファンを熱狂させた武藤敬司。長年の膝の酷使から、必殺技『ムーンサルト・プレス』の封印を余儀なくされる。デビューからスペースローン・ウルフの衝撃、闘魂三銃士結成、グレート・ムタの覚醒を経てnWoの席巻。そして全日本プロレス社長就任、WRESTLE-1の旗揚げまで。WEBで話題を呼んだ、スポーツ報知記者による同名連載を書籍化、200ページの大幅加筆。武藤敬司をはじめ、坂口征二前田日明佐山サトル蝶野正洋獣神サンダーライガー船木誠勝和田京平桜田一男、若松市政エリック・ビショフらおよそ30名を総力取材。『ムーンサルト・プレス』を基軸に語りあげた、武藤35年の全記録」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

序章  最後のムーンサルトプレス

1章  入門、そしてデビューへ

2章  ムーンサルトプレスの誕生

3章 スペースローンウルフ
                           VS「UWF」

4章 ムタ誕生と幻の「SWS」移籍

5章 ムタVS猪木、武藤VS高田

6章 nWo

7章 全日本プロレス移籍

8章 社長の苦悩

終章 決別と決意

「あとがき」

 

2018年3月30日、武藤敬司は都内の病院で両膝の人工関節置手術を行いました。今後のプロレス人生を続けるために一大決意でしたが、一方で1984年10月のデビュー間もないころから繰り出してきた必殺技「ムーンサルトプレス」はドクターストップがかかり完全に封印となりました。武藤は言います。
「今は、昔の信用だけでやっている。進化していることは何ひとつないよ。その中でもムーンサルトはお客様の信用を勝ち取った技だった。言えることは、どっかしらムーンサルトプレスってはかないんだよ。膝が悪いってお客様も分かっているから、若干、見ている側もそんなはかなさも感じたりとかね。そうなると気持ちが食い込んでくる。ここ数年はそんな思いを感じていたよ」

 

WEB連載「さよならムーンサルトプレス」の最終回で、著者は「デビューからわずか1年での海外遠征。スペース・ローンウルフ時代の苦闘。グレート・ムタで全米を席巻したWCW。鮮烈な凱旋帰国。高田延彦との伝説マッチ。空前のブームを作ったnWo。スキンヘッドへの変貌。全日本プロレス…。そして、今。武藤が残したすべての作品にムーンサルトプレスがあった」と述べています。
武藤は「ムーンサルトプレスがあるから自分がある。まさしくそう思う。最初から4の字固めとシャイニングウィザードだったらプロレスラーとしてここまで来なかった」と語っていますが、一方でムーンサルトプレスの代償で膝は、日常生活にも支障を来すほど壊れてしまったのでした。

 

序章「最後のムーンサルトプレス」で、著者は以下のように述べています。
「1954年2月19日に、蔵前国技館力道山木村政彦と組んでシャープ兄弟と対戦し、日本初の本格的なプロレスがスタート、ジャイアント馬場アントニオ猪木が昭和のプロレスを発展させた。武藤は、1984年のデビュー直後から将来を嘱望され、新日本プロレス、WCW,全日本プロレス、WRESTLE-1と日米で主戦場を渡り歩き、さらには化身のグレート・ムタに姿を変え、常に鮮やかで変幻自在に平成のプロレス界を駆け抜けた。平成のプロレスは、武藤敬司の時代だったと表現しても過言ではないだろう。そこには常に『ムーンサルトプレス』があった」

 

高校時代の武藤は、柔道に打ち込んでいました。ここで、なんと木村政彦と遭遇しています著者は、以下のように書いています。
「山梨の高校柔道界で名をはせていた武藤は、県の連盟が主催する、社会人の猛者が集まる強化合宿に何度か参加していた。そこには拓殖大学柔道部も練習に訪れていた。当時、拓大の監督は、戦前から戦後にかけ15年間不敗の記録を持ち、『木村の前に木村なく、木村の後に木村なし』とうたわれた伝説の柔道家木村政彦だった。武藤が愛読していた梶原一騎原作の漫画『空手バカ一代』には、『木村政彦』が『柔道の鬼』として登場していたため『漫画に出てくる人が本当に実在するのかって思ってね。眺めているだけで感動門だったよ』と伝説の人物との遭遇に心が躍った。練習では木村と打ち込みの受けをやり『体がごっつくて力も強かった』と感じたという」

 

続けて、著者は以下のように書いています。
「木村は伝説の柔道家である一方で、プロレスラーの先駆者でもあった。1954年2月19日に蔵前国技館で行われた日本初の本格的なプロレス試合で、力道山とタッグを組んでシャープ兄弟と戦った。その後、同じ年の12月22日に蔵前で力道山と戦ったが、顔面を蹴られKO負けを喫した。武藤と日本プロレス史の礎を築いた木村の遭遇は、不思議な因縁を感じさせるが、周囲からは『木村先生の前では、力道山の話は絶対にするな』と釘をさされていた。プロレスの話題はタブーだったが、柔道に熱中していた高校生の武藤にとってあくまで『木村政彦』は、伝説の柔道家で、そんなことは気にもならなかった。それよりももっと木村を知りたかった」

 

夢中になって練習した柔道について、武藤はどう考えていたのか。
「当時の日本柔道界は、のちの五輪金メダリストの山下泰裕斉藤仁の全盛期で、日本柔道が世界の頂点を極めていた時代だった。
『本当、柔道って強い人はとてつもなくすげぇんだよ。だって、本当に組んだ瞬間に岩みたいに動かない人がいたからね。そんな人と対戦した時は組んだ瞬間に負けたって思ったからね。だから、山下さんとか斉藤さんなんて、オレから見れば果てしのない宇宙にいるような方たちですよ』
自分の実力では、世界はもちろん、日本でも一番になれないことが分かっていた武藤にとって、強さを追求することは専門学校を卒業する20歳で終わっていたのだ」

 

新日本プロレスに入門した武藤には、道場での厳しいトレーニングの日々が待っていました。「関節技の鬼」と呼ばれた藤原喜明をはじめ、若手レスラーたちは真剣勝負で関節技を決め合っていました。練習生だった武藤は、当時を振り返って、「あのスパーリングというか、決めっこって、猪木さんが自分の思想を下の者に伝えるためのものだよな。あの狭い世界で関節技を決めた、決めなかったとか強い、強くないっていうのは猪木さんの思想であってさ。オレから言わせれば、何て言うかさ、幕末の山口県にあった小さな塾、そう松下村塾みたいなもんだよ」と語っています。

 

これについて、著者は以下のように書いています。
「武藤は、この閉ざされた中で思想を教えた私塾と新日本道場をだぶらせた。松陰が志ある者へ学問を教えたように、猪木が絶対君主として存在し強くなりたいと燃える若者には、藤原が分け隔てなく技術を教えていた。昭和の新日本は、確かに松下村塾と重なるところはあった。さらに、吉田松陰の門下生が『倒幕』に走ったように、新日本の道場で強さを追求した佐山、前田、船木らは後に『UWF』で格闘技スタイルを築いた。UWFでの活動が、平成に入り総合格闘技を発展させ、プロレスの牙城を揺るがした。そういう意味でも、確かに『新日本道場』と『松下村塾』は重なるところがある」

 

しかし、柔道で己の限界を悟っていた武藤は「強さ」にまったく興味がありませんでした。彼は、「よくよく考えてみれば坂口さんとかマサさんとか長州さんとかは、絶対にそういう思想に走らなかったよ。それは競技というものの厳しさをめちゃくちゃ知っているからさ。絶対に競技としてプロレスを捉えることをあの人たちは一言も言わなかったし、そういうところに色目も向けなかったし求めなかった」と語っています。強さの追求は柔道で終わったと考えた武藤は、坂口征二マサ斎藤長州力などアマチュアでオリンピック代表や日本一を極めた選手も同じ考えだと主張したわけです。

 

ところが、前田日明が以下のように異論を述べています。
「武藤はアマチュアで実績を残した選手は、道場で強さを求めないと言っているけど、まったくお門違いなんです。それは、吉田さん(光雄=長州力の本名)ってミュンヘンオリンピックに出ているんですけど、同じミュンヘンに出たジャンボ鶴田さんより強かったんですよ。アマレスでそこまで極めた人が新日本に入って初めてスパーリングをやったのが小沢さん(正志=後のキラー・カーン)でね。吉田さん、小沢さんに決められたんですよ。小沢さんの方が全然強かったんですよ。だから、強さという意味でアマの方が上にあるみたいな考えはまったく間違っているんですよ」

 

2章「ムーンサルトプレスの誕生」の「月面水爆のひらめき」では、武藤の最初のムーンサルトプレスがバック転の縦回転ではなく旋回式になった理由として、タイガーマスクの影響があったことが明かされます。タイガーマスクこと佐山はケガのリスクを避けるために旋回式を選択したのですが、武藤は初公開こそ旋回式でしたが、すぐにバック転へ変えました。そのほうが華やかだったからです。空中を回転するときに、武藤は鳥が翼を広げるように両手を水平に伸ばして舞っていました。「技を繰り出すコツはどこにあるのか?」と質問する著者に対して、武藤は「そんなもんねぇよ。ただ、バック転をするだけだよ。バック転できる人なら誰でも出来るんじゃないの」と答えています。

 

著者は、以下のように述べています。
「佐山と武藤。卓越した運動神経を持つ2人だからこそ言える無意識の必殺技、それがムーンサルトプレスだった。ただ佐山は、ケガのリスクを恐れバック転を選ばなかった。しかし、武藤は観客の歓声と拍手に背中を押されるように、バック転を選択した。その結果、四度手術し、55歳で人工関節手術をするほどまで両膝が傷ついた」
「もしかしたら、旋回式を選択していれば、そこまで両膝は傷つかなかったかもしれない。ただ、タイガーマスクを超える派手で華麗なバック転のムーンサルトプレスだったからこそ、武藤の栄光はあった。すべてはプロレスラーとしての宿命だった」

 

「強さ」よりも「華やかさ」を追求した武藤は、弱いプロレスラーだったのでしょうか。そんなことはありません。獣神サンダーライガーこと山田恵一は武藤のことを「道場で強いから誰も怒れないですよね」と証言しています。武藤はスパーリングでも圧倒的な強さを発揮したのです。山田はデビューしてすぐ武藤の「華」に気がつき、プロレスラーとしての天賦の才能を感じたそうです。彼は、「プロレスラーになって努力すれば、ある程度のところまで行けるかもしれないですよ。ただ、天賦の素質を持っているヤツが練習したらもう誰も勝てない。それが武藤敬司です」と語っています。

 

山田が明かしたプロレスラーとしての天賦を「勘」と表現したのが船木誠勝です。彼は、「武藤さんは、デビューしてすぐにプロレスラーとしての勘をもってました。自分は、プロレスには競技に近い戦いの感覚しかないんで、自分の方向に持っていく試合しかできないんです。だから、いまだに、この勘が分からないですね。だけど、武藤さんはデビューした直後から不通に相手に合わせてやってました。ボクが武藤さんと初めて対戦した時は、武藤さんの手のひらの上で転がされているような感じで、同じ時期に入ったのに、凄いベテランとやっているようなイメージでした。実際、武藤さんは小僧をあしらっているみたいな感覚だったと思いますよ」と語っています。

 

3章「スペース・ローンウルフvs『UWF』」では、アメリカ修業時代の武藤が「狂乱の貴公子」と呼ばれたリック・フレアーに憧れたことが明かされます。観客を呼び、仲間のレスラーの給料を上げてくれるフレアーのブロンドヘアーが武藤にはまぶしく映りました。そして、自分もフレアーの試合を間近で見て考え続けたといいます。武藤は、「オレとフレアーを比べて何が違うんだろう、どこが彼より劣っているんだろうって考えたよ。フレアーは、体がデカイわけではない。決して運動神経がいいわけでもない。でも、あれだけ観客を惹きつけるからね。その中で思ったのは、オレと違うのは、試合運びだった。例えて言うならフレアーは、ほうきとでもプロレスができる深さがあった。誰が相手でも、アベレージを残せるプロレスができた。そこを目指してオレのスタイルを追求していったよな」と語っています。

 

「ほうきとでもプロレスができる」と言われたプロレスラーはもう1人います。アントニオ猪木です。猪木とフレアーといえば、1995年4月28日と29日に平壌の綾羅島メーデー・スタジアムで行われた「平和の祭典」のメインイベントで対戦しました。両者は、なんと19万人という史上最大の観客の前で熱戦を繰り広げ、大観衆を熱狂させました。そんな猪木について、武藤はこう評しています。
「猪木さんてオレは根っからのプロレスラーだと思うよ。しかも根っからのアメリカンスタイルだよね。自己流にアレンジしているけどね。だけど異種格闘技戦だけはアメリカンスタイルじゃないか・・・・・・? あっ、わかんねぇな・・・・・・やっぱ、異種格闘技戦アメリカンスタイルだよな。だけど、異種格闘技戦ってすげぇんだよ。だってどこの馬の骨だかわからないヤツとプロレスしなきゃならないんだよ。それで沸かすことができるって猪木さんしかいないよな。あんな芸当は、他のヤツらじゃ絶対にできないよ。だから、常に攻める姿勢を見せてくれたっていう意味でやっぱりオレの師匠ですよ」

 

武藤敬司が米国から凱旋帰国した1986年秋、新日本プロレスには前田日明率いるUWFが参戦していました。新日本とUWFの激突は、それぞれが持つプロレス観のぶつかり合いでもありました。前田、高田延彦らがロープワークを拒否しキックを主体とするスタイルを主張すればするほど、武藤は意地でもムーンサルトプレスにこだわりました。それでも互いの選手間の中では不満が充満しており、鬱積した思想の違いが爆発する時が来ました。著者は以下のように書いています。
「87年1月の熊本巡業だった。猪木が音頭を取って、新日本とUWFの選手の親睦の飲み会が開かれた。場所は熊本県内の旅館。ここで事件が起きた。酔っ払った両団体の選手が殴り合いのケンカに発展。さらに旅館の壁、便所などを破壊。この事件は、同席した古舘伊知郎アナウンサーがフジテレビの『人志松本のすべらない話』で暴露するなど『旅館破壊事件』として今ではあまりにも有名となった」

 

この事件の引き金を引いたのは武藤で、こう語っています。
「正確には酔っ払って覚えてないんだけど、オレが前田さんに、『あんたらのプロレス面白くねぇんだよ』って言って口火切ったと思う。そしたら、前田さんが『じゃんけんで勝った方が一発殴れる』って言ってきて、それに乗ったら、オレは全部、負けて殴られるわけ。酔っ払っていたから、分からなかったんだけど、前田さんは、全部、後出しして殴っていたらしいんだよ。それを高田さんが見ていて、前田さんに『ズルい』ってなって、高田さんが前田さんを羽交い締めにして『武藤、殴り直せ』って言って、思いっきり殴ったよ。その後にどういうわけがオレと前田さんと高田さんが素っ裸になっていた。それで高田さんと一升瓶抱えて、旅館の前の道路にあぐらかいて語り合っていた印象はあるよ(笑)。道路の真ん中だったけど、通った車がオレらの姿を見て、逆に逃げていったからね(笑)」
現場はまさに修羅場と化し、旅館への弁償額は900万円だったそうです。なお、武藤も前田も泥酔していたため記憶が正しかったかどうかは定かではありませんが、唯一、若手として酔っていなかった船木誠勝の証言が最も信頼できると思われます。

 

「『UWF』という思想」として、著者は以下のように述べています。
「今、武藤はUWFを『思想』と表現する。
『入門してすぐにUWFができたとき、傍から見ていてあの思想はイヤだなって思っていたし、理解できなかったよね』
柔道という競技の中で強さを追求することを卒業し、エンターテイナーになるためにプロレスラーになった武藤にとって、佐山サトルが掲げた『格闘技へ移行するための段階』というUWFの目論見は、自身と異なる『思想』だった」
「UWFの思想は時を経て、髙田延彦がヒクソン・グレイシーにと対戦し、1997年10月11日に東京ドームでスタートした総合格闘技イベント『PRIDE』に変化を遂げたと、武藤は考えている」

 

1987年、武藤は映画に出演します。相米慎二監督の「光る女」という作品でした。本書には、こう書かれています。
「映画の撮影を終えた時、感じたのはプロレスで味わう快感だった。『映画やって、やっぱりプロレスの方が面白いなって思った。だって役者は監督の駒であって、言いなりだからね。映画って監督と役者の戦いなんだよ。撮影現場に観客なんていないもん。だけどレスラーは、マッチメイクはあるけど、リング上の表現は自分がディレクターで、カメラワークも全部決められるし、自分を中心にすべてを見せていく主演俳優だからね』
そして、映画とプロレスの違いを明かした。
『何が決定的に違うかといえば、プロレスはライブ、映画ってあれだけハードな撮影をやって、感動するのはクランクアップして作品になって公開された時なんだよ。でも、こっちは、もうその時には冷めているからね。だけど、プロレスは観客を前にしてライブで感じる感動がある。これってたまらないものがあってね。だからこそ今もリングに上がっているっていうのがあるからね』」

 

1995年10月9日、東京ドームでプロレス史に燦然と輝く大ヒット興行が開催されました。新日本プロレスとUWFインターナショナルの全面対抗戦です。メインイベントの大将戦で、武藤はUインターのエースだった高田延彦に完勝しました。馳浩は、あのとき高田の相手は武藤しかいなかったと力説します。
「長州さんの考えの中で、UWFを潰すためには武藤じゃなきゃダメだったんですね。橋本じゃ全然ダメですね。橋本だったら逆にUWFが上がっていたでしょうね。新日本がUWFを叩きつぶすには武藤じゃなきゃダメだった。武藤しかいなかった。事実その通りになりましたね」
週刊プロレス」の編集長として、UWFブームの一翼を担ったターザン山本もこのように語っています。
「高田は、道場で努力した経験を積み上げて、シューティングと呼ばれたUWFの技術を勉強してきたんです。高田の技術は言ってみれば、毎日のように積み重ねて意識的に努力して身につけ磨いた経験主義なんです。それと同じことをやってきたヤツは負けるんです。絶対的な才能がある武藤はそうじゃないんです。UWFの技術を武藤の才能が超えているわけです。技術とは関係のないム石井の才能を持っているんです。それが分かっていたから高田とやらせたんです。もし高田が仕掛けてきても対応できるんです。仕掛けることは意識的だから、無意識はその上を行きますからね」

 

7章「全日本プロレス移籍」の「『格闘技の呪縛』の中『プロレスLOVE』を叫び続ける」では、長年活躍した新日本プロレスに別れを告げた武藤について、著者は述べます。
「『プロレスLOVE』を掲げた武藤は、とことんプロレスを追求したかった。一方の猪木にとってプロレスは、格闘技でありレスラーはまず『強さ』を追求するという根本的な思想があった。相反する猪木と武藤の思想は、もしかすると入門当初、道場でのスパーリングで、武藤がガードポジションから腕十字を取ろうとした時に猪木に注意をされ、疑問を抱いた時から始まっていたのかもしれない。ただ、スペース・ローンウルフ時代、世代闘争で無理やりナウリーダーに組み込まれ、海賊男、たけしプロレス軍団、そして、ムタとして戦った福岡ドーム、節目節目で猪木の姿を間近で見てきた武藤にとって、猪木こそが『プロレスラーの中のプロレスラー』だった。にもかかわらず、『プロレス』を『格闘技』で染める猪木の思想は、理解ができなかった。心おきなく『プロレス』を謳歌するため、全日本移籍を決断した」

 

8章「社長の苦悩」では、全日本プロレスの社長となってから苦労続きだった武藤について、著者は述べています。
「プロレスラーとして輝くことだけを考えれば良かった新日本時代。社長となった全日本では興行と経営の現実を目の当たりにした。
『無責任って言われるかもしれないけど、オレ自身はやっぱり全日本に移籍したのは、一国一城の主になりたいっていう野心しかなかったんだよ。最初から経営は興味もなかった』
全日本時代は、苦しいことばかりの日々だったと映る。そう尋ねると武藤は『ただ』と強調し胸の内を吐き出した。
『いろいろあったけど、後悔はないよ。なぜなら、今、オレは生きているからね。死んでたらダメだけどさ、崖っぷちで踏み外して落ちてたら、すげえ後悔の塊だけど、オレは生き残っているから。それで満足だよ。だいたいさ、人生だから色々あるよ。今、インタビューを受けているこの本だってさ、栄光ばかりだったら本にならねぇじゃん。いいことも悪いことも色々あるから、読む方も面白いんだよ。それでいいじゃない』」
「すべては命があればこそ」と著者は書いていますが、武藤はおそらく志半ばにして亡くなった三沢光晴橋本真也といった同世代のレスラーたちの無念さを胸に抱いているのでしょう。

 

終章「決別と決意」では、「武藤敬司前」と「武藤敬司後」で世間がプロレスを見つめる視線が劇的に変わったことを指摘し、著者はこう述べます。
「かつて武藤は、新日本を退団する直前に、猪木の功績と人気が高まり、過去と今の自分たちのプロレスを比較される風潮が押し寄せた渦中で『思い出と戦ったって勝てないんだよ。そんな意味のない戦いはオレはやらねぇよ』と発した。思い出と戦っても勝てないといった武藤だが、今、『思い出』と戦う道を選んだ。
『今はオレ自身が思い出になっている自覚はあるよ。だけど、思い出って誰でもなれねぇよ。そこには積み重ねてきた信頼感ってものがあるからさ。あと、オレのひとつの自慢は、おそらく世界中のどのレスラーよりもいろんな選手とメインを張ってきたことだよ。猪木さん、ホーガン、藤波さん、フレアー、長州さん、スティング、天龍さん、前田さん・・・・・・ってこれだけのレスラーと戦ってきたのは、プロレスの歴史を振り返っても、世界広しといえどオレぐらいだよ。そんなオレの中にある財産を、みなさんと共有したいんです』」

 

2018年3月14日、W-1の後楽園ホール大会で武藤は、プロレス人生最後のムーンサルトプレスを放ちました。ファイナルの8人タッグマッチで、浜亮太、SUSHI、宮本和志と組んだ武藤は、教え子の河野真幸大和ヒロシ中之上靖文(大日本)KAI組と対戦。中之上にフラッシングエルボーを決め、KAIにはドラゴンスクリューから足四の字固めを披露。終盤、河野を捕まえムーンサルトプレスにいこうとするが、邪魔が入りなかなか決まらない。大技前のバックブリーカーでは、足がもつれ崩れ落ちる場面も。それでも、最後はシャイニングウィザード3連発で河野の動きを止め、コーナーによじ登り、ムーンサルトを決めました。満員の会場は大歓声に包まれました。

 

1985年、デビュー1年の新人時代に繰り出したムーンサルトプレス。依頼、33年間に渡って、この大技は武藤の代名詞と言われましたが、この日を最後に封印されました。武藤は「正直、なかなか苦しい戦いだった。バックブリーカーでは自分の足がもつれて崩れてしまうし、かろうじて最後のムーンサルトができた。昔と比べて跳躍力はないが、気持ちがこもったムーンサルトだった。武藤敬司、悔いなしです」と晴れ晴れとした表情で話しました。長年、慣れ親しんだ技との別れには「この技なくして、オレははい上がれなかった。若くて、大きい体でムーンサルトができるということで、海外に出してもらった。海外でも、この技でトップになることができた。水戸黄門で言えば、助さん、格さんの格さんを失ったようなものだけど、また新しいものを考えていきたい。オレもまだまだ頑張っていきたい。今日、もらった元気を必ずプロレスで返します」と復活を誓いました。手術後の武藤の復帰戦は、今年6月26日の後楽園ホール。なんと、長州力引退試合で1年3カ月ぶりにリングに帰ってきます。今から楽しみです!

 

さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録

さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録

 

 

 2019年6月22日 一条真也