『王仁三郎歌集』

王仁三郎歌集

 

一条真也です。
『王仁三郎歌集』笹公人編(太陽出版)を紹介します。出口王仁三郎(1871年〜1948年)は、明治から昭和にかけて活動した日本の宗教家であり、新宗教「大本」の二大教祖の一人です。開祖である出口なおを輔佐し、強力なカリスマ性と多彩な才能で大本を全国的な一大教団へと発展させました。本書の編者である笹氏は、1975年生まれ。東京都出身。歌誌「未来」選者。歌集に『念力家族』『念力姫』『抒情の奇妙な冒険』ほか。歌書に『NHK短歌 シン・短歌入門』など。本書の存在は、ブログ『言霊の短歌史』で紹介した鎌田東二先生と笹氏の対談本で知りました。

本書の帯

 

本書の帯には「この広き海にもなげきのあるものか 磯辺に蟹のなきがら残れる」という王仁三郎の歌とともに、「生涯十五万首以上もの歌を詠んだといわれる「巨人」出口王仁三郎。その膨大な作品の中から珠玉の三二八首を精選。前田夕暮、尾上柴舟、尾山篤二郎、前川佐美雄らの王仁三郎評も収録。跋文・岡井隆」と書かれています。

本書の帯の裏

 

帯の裏には、「親猫をわすれたるらし吾が膝にこころおきなくねむる仔猫は」「山も野も眼に入らぬ夜の旅は吾が若き日の恋に似しかな」「一本の桜のかげにひとり居て初恋の日のいたましさおもふ」「包丁をぐさりとさせばほんのりと匂ふメロンの朝の楽しさ」「ころころと背すぢつたひて首の辺に爆発したり風呂の湯の屁は」といった王仁三郎の歌が掲載されています。

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
花明山
彗星
霞の奥
白童子
公孫樹
山と海
大本之道
歌碑の歌
「解説」笹公人
「『王仁三郎歌集』(笹公人編)を読んで」岡井隆
「略年譜」
「執筆者紹介」

 

 

王仁三郎の第一歌集『花明山』(昭和6年5月15日、第二天声社発行)の「序」は同年3月に書かれていますが、歌集『収穫』で自然主義歌人として牧水と並称され、の後北原白秋らと「日光」を創刊した歌人である前田夕暮が「歌のことになると、ちょっとここで私はペンをおいて、考えさせられる。畳の上からいえば恐らく独歩であろう。またその自由にして捉われざる点、東西南北、天地玄黄的なところ、これは他の人の追従を許さざるところだが、今直ちに氏の歌に対して批評の筆をくだすべく、まだ早いような気がする。と同時に私にはつかまえどころがないほどその境地は広野のように広いのである。そうだ、王仁三郎出口瑞月氏の本態は容易に捕捉出来ぬほどにまた未来があり、茫漠としている。氏は現代のスフィンクスである」と書いています。

 

第二歌集『彗星』(昭和6年7月4日、第二天声社)の「序」は同年6月15日に書かれていますが、前田夕暮の師であり、明治から昭和にかけて多大な足跡を残した日本の歌人・詩人・書家・国文学者である尾上柴舟が「出口氏は宗教家である、宗教家で文芸家を兼ねた人はもとより多い。それらは、たいてい宗教に確かに立脚している。この故に文芸的に価値があるのである。氏もこれに倣って、古来の名僧知識以外に、高い深い宗教的観念を発揮して、現世および後世人の迷を伝じ、悟を開かせる底の作を出されたならば、どうであろうか。世間の風に従って、波を追い、浪を逐うのは、意義のないことではあるまいか」と書いています。

 

第四歌集『霞の奥』(昭和6年9月30日、第二天声社発行)の中にある王仁三郎の歌のなかで、わたしは以下のものが心に残りました。

 

飛行機から飛下りて
 自殺を企てた男がある、
  五月の空はすばらしく青い

 

なげかひのあとにはかならず
 よろこびのあると思へば
  生きの楽しも

 

亡き吾子のあと悲しめど詮なければ
  忘るる癖をつけたくぞ思ふ

 

雪隠がぷんぷん匂ふ初夏の夕だ
 防臭剤に桐の若葉を
  むしつて投げこむ

 

芸術に不謹慎とは何をいふ
  時代におくれた歌作り婆婆が

 

山が崩れてきても足許に
 火が燃えついても
  びくともせない阿呆になりたい

 

第七歌集『白童子』(昭和7年5月15日、天声社発行)の中にある王仁三郎の歌のなかで、わたしは以下のものが心に残りました。

 

日に幾度鏡のぞけどわが白髪
  朝もゆふべも白髪なりけり

 

生神となり生仏となる人も
  運命にもれず死にゆく世なり

 

なやみ多き世に住みながら
 なほ足らで悲劇観にゆく
  人の愚かさ

 

なにごとも楽天主義の
 われながら歯の痛む夜は
  わびしかりけり

 

夢の間に六十年の春秋を
  夢と暮れけり夢のうき世を

 

宗教家てふレツテルの無かりせば
  ほしいままなる恋に生きなむ

 

心よわき吾は噂をおそれみて
  恋歌詠むも妻の名を借る

 

第九歌集『公孫樹』(昭和8年1月31日、天声社発行)の「序」は同年8月8日に書かれていますが、大正期から昭和期にかけての日本の国文学者・歌人である尾山篤二郎が「出口氏は1ケ年約3万首の歌を詠む。普通専門家は、下らぬ歌は何万作ったとて致し方があるまい、とよく言うのであるが、この何万という言葉の裏には出来得ない事を出来得たとしてもという意味が含まれているのだが、この人のは、事実それだけ作ってしまうのだから呆れざるを得ぬのである。もしこの調子で10年続けば30万首の歌が出来る。30万首の歌から、出来の善きと悪しきを分ち、その上で物を言うとなると、言わねばならぬ方がまずお辞儀をする」と書いています。

 

続けて、尾山は「昔三州の伊良兒に磯丸という漁夫の歌人がいて、磯丸全集なぞというものが出ているが、それを窺いた時、よくもこう拙い歌を、よくもこう沢山作ったものだと思うただけで、読む事を止めたことがある。出口氏に至ると磯丸どころの騒ぎではないのだから、2万何千首の今日すでに驚き、10年後は必ず呆れ返ることだろうと惟うている。そして只単に磯丸歌集について感じた如くであるならば、よくもかく拙い歌をよくもかく無数に作ったものだとだけで済むが、この方は時によい歌があり、またその様式も多種多様なのだから、そうはゆかぬのである」と述べるのでした。『公孫樹』の中にある王仁三郎の歌のなかで、わたしは以下のものが心に残りました。

 

人類愛にもゆる自分の懐は
  いつも氷点下だ、何といふ矛盾だ

 

日活の俳優と膝を交へて
  語る夕べは劇そのままだ

 

感情に左右され易い自分は
  言ひ過ぎたあとで後悔してゐる

 

あまり小さい事は
 考へぬがよいだらう

  広大無辺の宇宙の中で

 

包丁をぐさりとさせば
 ほんのりと匂ふ
  メロンの朝の楽しさ

 

月が空に居て自分の夜の行動を
  監視してゐるてれくさい感じ

 

感情が激して書いた手紙ポストに
  投げこんだ半日後の後悔

 

こはれやすき恋に心を悩ませし
  昔のわれは愚なりけり

 

第十歌集『山と海』(昭和8年6月25日、天声社発行)の序文「天衣無縫」は生田蝶介が書いています。歌人、小説家である生田は雑誌に初めて短歌欄を設けた人物として知られていますが、「歌は会得である。神霊がだんだんのりうつってくるのである。そして、これは多作によるより他はない。1000首作ってはじめてその形を会得し、万首つくってはじめてその格を会得するのである。ただ年功を云々して寡作を誇っている輩には遂に歌はわからぬ。年数は1年でも3年でも50年でもそんなことは問題ではない。とにかく1万首以上つくった人でなければ話にならぬ。神の如き氏は、まず最初に此真理を洞察して1年によく数万首を成している。歌壇のうえにもこの泰山を成す所以である。氏はまことにあらゆるものを超えて大空に高い」と、王仁三郎の歌に高い評価を与えています。

 

 

道歌集『大本之道』(昭和32年8月7日、天声社発行)の「序」は昭和7年6月17日に書かれていますが、第八歌集『青嵐』(昭和7年7月25日、天声社発行)に収録されたものです。ここで、明治期から昭和期の歌人であり、若山牧水の妻である若山喜志子が「王仁さんは一晩に200首300首の歌を詠まれる、それが1首1首側の者に筆記させるのだから大したことだ。といふ噂は夙うからきいていた。しかしそうした事は唯きいただけでは想像もつかず、却って誇張の多い噂だくらいに思うのが普通であろう。私もその1人であった。ところが先日湯ケ島温泉に静養に来られ、遊びに来ないかとの事に早速出かけてゆき、その詠歌される有様を目のあたりに見てはじめてその迅速な詠出ぶりの単なる噂や誇張でない事を知ると共に、その態度の厳粛さ、ゆかしさに尊敬の念の深まるのをおぼえた」と書き、「終りに。氏の歌には相当の駄作もある、それは氏自身にも承知しておられる事を私は知っている。しかし、それ故にくだらぬ歌よみだと断定する事は何の権威にもならないと思う」と述べています。『大本之道』の中にある王仁三郎の歌のなかで、わたしは以下のものが心に残りました。

 

天国は意志想念の世界なり
  心のけがれは地獄をつくる

 

世の中に死後の世界を知らぬほど
  淋しきものはあらじと思ふ

 

肉体のあるうち霊をみがきあげ
  永遠に天国の花となれ人

 

『出口王仁三郎著作集 月報2』(読売新聞社)には「歌人 出口王仁三郎」と題して、昭和期の歌人である前川佐美雄が「王仁三郎は一夜にして200以上300の歌を作ったという。それは口号である。口うつしである。うたうようにくちずさむのを側近が筆記する。興に乗じて歌うのだが、よほど心のゆたかな人である。歌はもともとそういうもので、万葉のすぐれた歌もみなそれである。西行は行道の歌人といわれたが、それは道を歩きながら幾らでも作った。王仁三郎はそういう歌い方をした。だから14、5万首も作れたのだ。しかし14、5万首は大したものだ。簡単にいうけれど、よほどの多力者である」と書いています。



続けて、前川は「明治天皇は10万8000余首、古来第一の歌人でおわすが、王仁三郎はさらに多い。数からしても尋常ではないのだ。それだけにすぐれた歌が多いが、これを人びとは歌いっぱなし、粗雑な歌だと思っている。けれども王仁三郎は違うのである。歌と自分が1つである。それは歌の方から飛んで来て王仁三郎の手にはいったというぐあいである。そういうふうにして出来る。だからあとで推敲しても意味がない。字句を工夫したり調べを考えたりしても何にもならない。それはかえって悪くなる。そういう小さい低い歌よみではないのである」と述べるのでした。



「解説」では、笹氏が「幼少期から宗教や精神世界に興味のあった私は、文豪・吉川英治が『1000年に1人出るか出ぬかという人物だ』と評し、僧侶であり小説家でもある今東光が『大怪物』と呼んだ宗教家・出口王仁三郎に強い興味を抱いていた。雑誌『ムー』(学研)などで度々特集される王仁三郎の大霊能者、大予言者としての数々の信じがたいエピソードにも子供らしく惹かれたが、短歌と出合い、その道を志してからは1日に2~300首もの歌を詠み、生涯に15万首以上の歌を残した歌人としての王仁三郎に関心を持つようになっていった」と述べています。

 

 

ちょうどそのころ、予備校時代の恩師である出口汪が王仁三郎の曾孫であったという縁で、笹氏は出口光を紹介され、王仁三郎の数々の貴重な歌集を読む機会に恵まれたそうです。分厚い歌集のページをめくったとき、「ころころと背すぢつたひて首の辺に爆発したり風呂の湯の屁は」という歌が目に飛び込んできました。笹氏は、「宗教家が詠んだとは思えないユーモア短歌に笑いつつ、王仁三郎は歌人としてもただ者ではないと直感した。そして次第に王仁三郎の短歌ワールドに魅了されていったのである」と述べています。


 

王仁三郎は「あまり小さい事は考へぬがよいだらう広大無辺の宇宙の中で」とか、「ギヤツと生れるなり墓場に急ぐ人生だと思へば力が落ちる」といった歌も詠んでいますが、これらの歌を紹介した後で笹氏は「王仁三郎の歌を読んでいると、不思議と明るい気分になれる。『天才バカボン』ではないが、『これでいいのだ』という気持ちになって元気が湧いてくる。そんな感想を抱くのは、矛盾を矛盾のまま受け入れ、それを臆することなく開陳する王仁三郎の堂々たる姿勢によるものかもしれない」と述べます。



当時の歌壇における王仁三郎の登場に対する一種のセンセーショナルな反応、短歌に対する高い評価は、弾圧事件以後の歌壇からの抹殺によって短歌史からバッサリ切り捨てられました。例えば、本書の最後に収録した「歌碑の歌」は、主に昭和6(1931)年から10(1935)年にかけて、京都の綾部、亀岡に始まり北海道から台湾の40数基におよぶ大本関係地に建立された歌碑のものですが、第二次大本事件(昭和10年)の際に官憲弾圧によって破砕されてしまっています。笹氏は、「現代におけるこのような『歌人・出口王仁三郎』の存在感の希薄さは、短歌というジャンルにとっても大きな損失といえるだろう」と嘆いています。



王仁三郎が活躍した時代は、正岡子規らによる和歌革新運動を経て発展した近代短歌が主流となり、より写実的な短歌が定着しつつある時期でもありました。王仁三郎も初期の短歌は、万葉調、あるいは古今調、新古今調の詠風でしたが、昭和5年(1930年)に前田夕暮と出会ってからは、その詠風も自然と現代調に変わっていったそうです。特にこの頃は夕暮の影響を受け、定型短歌に基本を置きながらも、31音の定型を破った「自由律短歌」を多く作っています。笹氏は、「何ものにも縛られない生き方を貫いた王仁三郎にとって、自由律短歌は恰好の表現方法だったのだろう。とはいえ、『型破り』とは型を知っている者にしかできないことである。王仁三郎の自由律短歌は相当な字余りの歌でも不思議なリズムでスッと頭の中に入ってくる。私はそこに王仁三郎の天性のリズム感と型を知り尽くした者ならではの技術力を感じている」と述べます。



生涯に15万首ともいわれる歌から328首にしぼるとなると、当然ながら厳選に次ぐ厳選が必要となります。そこで、今回は自伝の歌、獄中歌、プロレタリア歌を割愛し、自由律の歌、特に、恋やユーモアにあふれた王仁三郎の人間的魅力を伝える歌を多く選歌したといいます。笹氏は、「王仁三郎短歌の細かい特徴については、本歌集に掲載された歌人たちによる序文・跋文に譲ろう。また、これら歌集に収録された歌のほとんどが60代に作られていることにも注目したい。年齢に関係なく恋の歌を詠めるという事実に勇気づけられる人もいるだろう」と述べています。


  

『王仁三郎歌集』(笹公人編)を読んで」では、歌人・詩人・文芸評論家で未来短歌会発行人である岡井隆氏が、王仁三郎の作歌における多作の謎について考察します。量より質。これはすべての創作活動に通じる鉄則であり、王仁三郎がこれを知らないわけはなく、それでもあえてそれを無視したのは別の考えがあったためだろうとして、岡井氏は「1つ考えられるのは、王仁三郎は、次から次へと口をついて出てくる短歌の韻律のこそばゆい感じに、魅了されていたのかもしれないということだ。たしかに、短歌韻律には、そういう魔力がある。また、フランスのシュルレアリスムにおける自動書記(オオトマチスム)にもいえることだが、人間の無意識世界(フロイト)は、意識界よりはるかに大きく、ただ韻律にまかせて言葉を発しているうちに、次々と思いもかけぬ歌が出てくることがある。王仁三郎も、無意識世界に感応する人だったのかもしれない」と述べるのでした。この岡井氏の意見に大いに同意いたします。


大本みろく会館での「かまたまつり」で口上を述べる

 

わたしも今年の秋には初の歌集である『禮の言霊』(言視舎)を上梓しますが、ぜひ霊界の出口王仁三郎に捧げたいと思っています。出口王仁三郎といえば、わが魂の義兄弟であった鎌田東二先生が深い関心を寄せた宗教家でした。ブログ「かまたまつり」で紹介したように、昨年5月30日に帰幽された鎌田先生の百日祭「かまたまつり」が王仁三郎が聖師を務めた大本の亀岡の本部にある「大本みろく会館」で開催されました。わたしは故人の遺言により葬儀委員長を務めさせていただきました。わたしはカラオケで故人が好きだった北島三郎の「まつり」を歌ったのですが、「鎌田先生、お元気ですか? わたしたちは元気です! これから、鎌田先生が大好きだった『まつり』を歌います。月まで届け、この歌・・・」と言ってから歌い始めました。

ラップで「まつり」を歌う♪

 

イントロ部分で「初宮祝に七五三、成人式に結婚式、長寿祝に葬儀を経て法事法要・・・人生は祭りの連続でございます。今日は出口王仁三郎聖師ゆかりの大本みろく会館で鎌田東二百日祭の『かまたまつり』ということで、めでたいなあ~。さあ、祭りだ、祭りだ~! 皆の衆、この世も、あの世も面白く行こうぜ!」と言うと、早くも会場が熱狂の坩堝と化しました。みんなで歌い、踊り、大いに盛り上がりました。わたしは、会場中を練り歩き、みなさんと握手をしながら歌いました♪ 間奏では、「満月交感🎵満月交遊🎵満月交心🎵満月交命🎵」と鎌田先生との往復書簡集の書名を連呼し、さらには「令和の霊界物語♪ この世もあの世も面白く♪」と即興でラップを披露しました。そんなわけで、出口王仁三郎聖師も鎌田東二先生も、わたしにとって大切な人なのです。本書『王仁三郎歌集』の歌たちは、そんなわたしの心に染み入りました。 

 

 

*よろしければ、佐久間庸和ブログもお読み下さい!

 

2026年8月8日  一条真也

『言霊の短歌史』

言霊の短歌史

 

一条真也です。
『言霊の短歌史』鎌田東二×笹公人著(KADOKAWA)を紹介します。今年の3月3日に刊行された本です。鎌田先生の著書は、単著であれ共著であれ、これまで必ず献本されてきました。しかし、本書は送られてこなかったので自分で購入しました。昨年5月30日に鎌田先生が帰幽されたからです。改めてその事実を思い知り、寂しさを感じました。共著者の笹公人氏は1975年生まれ。東京都出身。歌誌「未来」選者。歌集に『念力家族』『念力姫』『抒情の奇妙な冒険』ほか。歌書に『NHK短歌 シン・短歌入門』など。

本書の帯

 

本書のカバー装画には横尾忠則氏の作品「阿波幻想」が使われ、帯には「鎌田、笹、両氏の話を傍らで聴いているような気持ちになり、歌は念力から生まれる、ということを教えられました。 細野晴臣」「異能の宗教学者・鎌田東二と現代短歌の旗手・笹公人が歌に込められた言霊の意味を縦横無尽によみとく。歌の世界に通底する「言霊」の力を論じた画期的な対論の書」と書かれています。

本書の帯の裏

 

帯の裏には「うたには、いつも言霊が宿っていた」として、「和歌・短歌1300年の歴史を『言霊』という視点から読みなおす、刺激に充ちた挑戦。歌と言霊の考察に始まり、スサノヲ、日本神話と宗教、仏教思想、空海、最澄、良寛、源実朝、西行、『古今和歌集』、能楽、戦国武将、江戸俳諧、狂歌、まじない歌、平田篤胤、出口王仁三郎、近現代の歌人たちにみる、言霊の力、霊力の深層に迫った究極の対論」「新作短歌 鎌田東二『鎮魂列島』笹公人『いろは四十七都道府県短歌』を収録」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
作品
「鎮魂列島」鎌田東二
 奥能登鎮魂
 三島由紀夫に捧ぐ
 鎌田東行、佐藤西行に捧げる
 花折立待津軽鎮魂

「いろは四十七都道府県短歌」笹公人
対談「言霊の短歌史」
第一章 歌と言霊
 歌と言霊
 なぜ短歌は三十一音なのか
 歌と宗教
第二章 古代篇
 『古今和歌集』と歌の念
 言語遊戯と言霊思想
 仏教思想のなかの言霊
第三章 中世篇
 中世和歌と言霊
 能と言霊
 戦国武将と言霊
第四章 近世・近現代篇
 江戸時代の言霊
 俳句と言霊
 狂歌と言霊
 おみくじとまじないの歌
 出口王仁三郎と言霊
 近現代詩人と『古事記』
 言霊と前衛の交錯
 グリーフケアと言霊、そして歌
「あとがき」笹公人



本書の冒頭に置かれた「鎮魂列島」では、「奥能登鎮魂」として、鎌田先生が詠んだ以下の歌が紹介されています。

 

奥能登は島の髄なりむまれてしむで
  生まれて死んで珠洲は鈴鳴り

 

遠野なる地平も霞む奥山の
  森に埋もるいにしへごころ

 

語りとは語り得ぬもの招くわざ
  カルデラ噴火イタコ憑依

 

ガンならば往け日輪の島へすぐ
  時逆巻きて身を隠す前に

 

外れた顎をはずしたまま
  電車に飛び乗って有楽町へ行った

 



また、「鎌田東行、佐藤西行に捧げる」として、鎌田先生が詠んだ以下のような歌が紹介されています。

 

花祭り鬼さえ鬼と知らずとて
  まだ見ぬ君の天の乳房か

 

いのちはてて超えてゆくらぬ奥山を
  照らせ今宵の不死の新月

 

捨つるべき何ごとのあるや花時
  雨道なき道に拾う神あり

 

新古今 西行定家 後鳥羽院 
  言霊坂をともに転びつ

 

都から遠く離れて顕幽の
  堺を越えて星砕け散る

 

ひるめしはまだかはだかでうみにいる
  とこよはてなしかっぷくのはら

 



「いろは四十七都道府県短歌」では、笹氏が詠んだ以下のような歌が紹介されています。どれも最高に素晴らしい!

 

函館の坂道ふいにキスすれば
  街はきらめくジオラマとなる

 

坊っちゃんとマドンナきどり街ゆけば
  ホームランの音カキンと響く

 

戸来村キリスト祭のポスターの
  着物の女の直角の肘

 

鳥取の砂丘に揺れる陽炎の
  かなた砂かけ婆手招く

 

両手から青いビームを発射して
  隕石滅する牛久大仏

 

ぬるいぜよ時代も人も熱燗も 
  龍馬のまぼろし叫ぶ居酒屋

 

瑠璃色の有田焼に載る呼子イカ
  こんなにうまい透明がある

 

わちゃわちゃと
 きりたんぽ食む子どもらよ
  明日なまはげが来るとも知らず

 

ヨーグルト好みし大谷少年を
  導けり奥羽野球大神

 

雷鳴の白壁土蔵に浮かび上がる
  金田一耕助のシルエット

 

『ムー』いわく
 邪馬台国は阿波である。
  ソロモンの秘宝眠る剣山

 

尾道の坂道くだる夕間暮れ 
  さびしんぼうに会える気がして

 

福井県の地形見るたび思い出す
  ウルトラセブンのビラ星人よ

 

国民的アイドル候補とすれ違う 
  とんこつスープ香る街かど

 



対談「言霊の短歌史」の第一章「歌と言霊」の「リフレインこそが言霊の命」では、以下の対話が展開されています。
鎌田 私はリフレインこそが言霊のキーポイントだと思っています。古代の儀礼歌にも繰り返しは多くみられます。以前、私が勤めていた京都大学のすぐ隣が百万遍というところで、知恩寺というお寺があります。昔、疫病が流行ったとき、天皇から京都中の寺社に「祈禱をして疫病を鎮めよ」という命が下りました。ここで100人、1000人といった人びとが念仏を唱えたのです。念仏は多少ずれたり間違ってしまっても、繰り返しのところで合わせることができる。さらに念仏を100万回も唱えていれば、しだいに人びとは恍惚状態になる。リフレインの効用として、「記憶しやすい、感じやすい、唱えやすい、一緒に歌いやすい」といった要素があるからだと思います。
 たしかに、真言だけでなく祝詞も「ましまして」「かしこみ、かしこみ」など、繰り返しがみられます。
鎌田 リフレインが命とも言えますね。現在の口語短歌も、繰り返しによって呪文のように響き、それがみなさんの心に届いて、いつまでも忘れられない短歌になったのではないかと思います。



「『あいうえお』と共感覚」では、以下の対話が展開。
鎌田 音義説から考えると「あいうえお」のなかで一番強い音になるのは「い」です。「い」には、置かれている空間をエネルギーで満たすといった働きがあると思います。たとえば、「斎」、「五十鈴」などですね。「い」というインパクトを持った響きを祀ることによって、神聖な場所となるわけです。
 出口王仁三郎は、「一霊四魂説」で、「あ」は幸魂、「い」は奇魂、「う」は直霊、「え」は荒魂、「お」が和魂と解説しています。
鎌田 「あいうえお」の音を天地人や、五色、木火土金水に振り分けてみたり、さまざまな解釈があります。
 たとえば「か」行は「格闘」「空手」「ケンカ」など戦闘的な言葉が多いような気もします。K音にはそういった、何か原初的な意味があるのでしょうか。
鎌田 あると思いますね。「かっとなる」「きっと見る」など、「かきくけこ」は身体的な感情の発露や激発にも結びついているように思います。

 

 

笹氏は、『知っ得 短歌の謎 近代から現代まで』(国文学編集部編、1999年、学燈社)という本を読んで、「この本のなかで佐佐木幸綱先生が『短歌形式の謎』として、なぜ短歌は五句三十一拍なのか、ということに触れています。それによると『冷泉家和歌秘々口伝』という本にある説で、月の運行は30日で終わり、それからまた次の月の第一日が始まる。月が天を一回りして、また一から始まるという、『天道循環無窮』をあらわしているのではないかという「天道循環無窮説」を紹介されていました。この部分を読んで驚きとともに、ロマンも感じました」と述べています。

 

 

「なぜ短歌は三十一音なのか」の「五七五と七七」では、鎌田先生が「わが国において、声の力というものにいち早く着目し、深い考察を示したのは空海です。空海の『声字実相義』や『吽字義』『秘密曼荼羅十住心論』など、主要な著作は、言語論から意識論、身体論、さらには宇宙論までを体系的に語っています。それまでの、古代の言霊の考え方は「草木語問う」という、アニミズム的な言語意識のうえに成り立っていました。それは、「言語生命観」の核心でもあります。そうして、祝詞や和歌などの五七五七七といった定型に神秘的な力が宿るという「言語定型観」となり、『万葉集』の山上憶良の長歌「そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と」(巻5・894)に結びつきました。すなわち、初期の言霊の考え方は、アニミズム的意識と「言霊の幸はふ国」というナショナリズム的意識という、異なる2つの言語思想を含んでいるのです。この2つの言語思想を密教的な宇宙論で統合したのが空海です」と述べます。

 

 

「すべてのことはメッセージ」では、鎌田先生が、『新約聖書』「ヨハネによる福音書」の冒頭にある「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」という言葉を紹介します。いつ読んでも、この言葉は意味深長で、いろいろなことを考えさせられるとして、鎌田先生は「言葉は、人間のコミュニケーションや伝達手段の道具として捉えられていますが、逆に考えれば言葉は、人間を人間たらしめる原動力ではないかとも思います。ハイデカーは、そのあたりの消息を『言葉は存在の家』と言っていますが、その通りと思います。言葉は絶妙なる世界透視レンズなのです」と述べています。



鎌田先生は自身の神道ソングライター活動に言及し、活動を始めてから25年が経過し、これまで320曲以上の作詞作曲をしてきたと告白します。基本的に、文章や詩、曲は考えて作ったりはせず、詩集も推敲はしていないといいます。歌や言葉はすでにそこにあるからだとして、鎌田先生は「私から言えば、この世界は響きに満ちているのです。自分のなかから内発的に出てくると言うよりも、ピンポン玉のように、体内にグッと入ってきたものを打ち返すという感覚です。なので、どこから飛んでくるか、そしてどこへ返すかは自分でもわからない。出たとこ勝負です。そのメッセージによって向きもさまざまに変わります」と述べるのでした。

 

 

「その場で詠むことの重要性」では、笹氏が「僕たちは宇宙からのメッセージを歌として返しているということですね。出口王仁三郎は『神様は歌を奉るのが、海河山野種々の供物よりも一番お気に入るのである』(『玉鏡』)と言っていて、それにもつながるような気がします」と言えば、鎌田先生は「笹さんから現代短歌は意味偏重であるというお話がありましたが、意味を重視しすぎると、かえって主張やオリジナリティに乏しくなる傾向があると思います。感動のおもむくままに、その場で詠むことは、言霊的に考えても極めて大切なことだと思います。それが本居宣長の言う『もののあはれをしる道』であり『わざ』なのだと思います」と述べるのでした。

 

 

「国誉めと命令形」では、笹氏が「出口王仁三郎は、自分の教団の支部のようなものを作るとき、必ずその土地の国誉めの和歌を作って、歌碑を建てていたそうです。和歌は、その土地や自然がいかにきれいで美しいか、元は都だったというような内容だったそうです」と言えば、鎌田先生は「呪術は命令形のものが多いですね。それから土地誉めですが、『誉める』ことは日本に限らず世界でも基本です。古代インドの聖典に、一番古いと言われている『リグ・ヴェーダ』がありますが、内容は神を讃えるものです。讃えるということは、自然、神、土地、そして人を誉めることです」と述べます。

 

 

さらに鎌田先生は、「『古事記』を例に挙げると、イザナギとイザナミが国生みをするとき、『あなにやし、えをとめを』『あなにやし、えをとこを』とお互いを誉め讃え合います。そして気持ちを昂らせ、最高の状態で国生みをするために『調べ』によって讃歌をする。讃歌というものは、宇宙を一番いい状態にするためのBGMになるものです。本来、帝の仕事は、歌によって国誉めや土地誉めをすることです。祝詞と歌は同起源ですから、歌のなかにも必然的に誉めるということが出てくるのです」と述べます。



「言霊から見る和歌と占い」では「おみくじ」が取り上げられ、鎌田先生は「おみくじはすごい文化だと思います。和歌でメッセージを伝えるというのは、奥ゆかしいですね。悩みに対して、幅のある解釈がある点も良いですし、歌こそ真実が隠されていると思いますので、『こうこうこうして、気をつけよ』と命令形で、かつ道徳的に示されてしまうとあまり響いてこないかもしれません」と述べています。すると、笹氏は「江戸時代には『歌占』のカードというものもありまして、はじめに占いたいことを頭に念じて、〈ちはやふる神の子どもの集まりて作りし占はまさしかりけり〉と3回唱えてからカードを引くというものです。これは『呪歌』という、神様を占いの場に招くための呪文です」

 

鎌田先生は「呪歌」の実物を見ながら「いいですね。〈深きより深き淵にぞ入りにける 思ひの絶いぬこの身なりけり〉なんて意味深長でいいですね。〈幾山を重ね来ぬらん旅衣 花咲く春に逢ふぞうれしき〉は趣きがありますね。これを発明した人はすごいなあ」と述べます。笹氏が「もともとは和泉式部が貴船神社の貴船明神と和歌のやりとりをしたことから生まれたようです」と言えば、鎌田先生は「占いという点では、『夕占』という、辻占の民間信仰のようなものがあります」と述べるのでした。

 

 

第二章「古代篇」の「『古今和歌集』と歌の念」の「『古今和歌集』と言霊」では、紀貫之が「生類すべてが声を放ち、歌を詠んでいる」という世界観を『古今和歌集』冒頭の「仮名序」で見事に表明しているとして、鎌田先生は「人間だけが歌を歌っているというのは大間違いで、森羅万象すべてが歌を歌っているということですね」と述べます。すると、笹氏は「王仁三郎も『霊界物語』のなかで、『元来、声音は「心の柄」の義にて、心の活用の生ずる限り、之を運用する声音が無ければならぬ』と記していました」と述べます。



王仁三郎の「元来、声音は『心の柄』の義にて、心の活用の生ずる限り、之を運用する声音が無ければならぬ」という発言について、鎌田先生は「言語学的にはこの解釈はやや無理がありますが、心や精神の活動と声音との関係を鋭く切り取っていると思います。普段、私たちが頭のなかで考えているときは沈黙していますが、それは外見上のことであって、内面では、自分の声が響いていませんか。思考が意識と精神の活動とすれば、発声は身体と意志の活動です。声は、その人の生命エネルギーの表出ともいえます」と述べています。

 

「正念に戻す力」では、「家族は何によって結ばれるか」と考えてみたとき、現代ではさまざまな結びつきがあるといいます。血縁やDNAによってつながっている、いわば生物的な「血縁家族」や、養子縁組や里親制度などの「法的家族」があると紹介し、鎌田先生は「それに私は、前世からの縁によって今生で家族を営んでいる『輪廻家族』という捉え方もできると思います。家族を家族たらしめる力は、ひとつではないということをこの歌集から思いました。あそこに比叡山が見えますが、比叡山の天台宗は、天台本覚思想の3つの命題があり、第一命題が『一念三千』です。ちなみに第二命題が『諸法実相』、第三命題が『一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏』です。『一念三千』は、1つの念が三千大の世界を作っていくということで、この一念が一語になります。これは重要な意識原理です」と述べるのでした。

 

 

「『古今集』のメッセージ」では、笹氏が「『古今集』と言えば、紀貫之について正岡子規が1898(明治31)年に『再び歌よみに与ふる書』で、『貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候』と書きました」と言えば、鎌田先生が「そうでしたね。『子規さん、あんなつまらんことを書きおって』と声を大にして言いたいですよ」と述べます。さらに鎌田先生は、「私からすると、『古事記』から『万葉集』、『古今集』というわが国の歌文化の大河に、子規が言う近代の『写生』が、大きなダムを作ってしまったと思っています」と述べるのでした。このくだりは、日本の短歌史を俯瞰する非常に重要な指摘であると思いました。



「言語遊戯と言霊」では、笹氏が「子規以前の短歌は、和歌や王朝文化の流れを汲んだ、美意識の高いものが多かったのですが、近代は、石川啄木や与謝野晶子に代表される、貧困や性愛など、人間を赤裸々に詠むことにまでテーマが広がりました。子規は美意識やレトリック、言霊的なものを捨ててでも和歌を庶民のものにしたかったのでしょう」と言えば、鎌田先生は「『正岡はん、もう少しきちんと読みなはれ』と教えたいです(笑)。先ほど『仮名序』に触れましたが、『この歌、天地の開け始まりける時より出で来にけり』とあります。つまり天地開闢以来、歌は存在していたという考え方です。天地開闢そのものも歌なのであると明示しています。そして下照姫からスサノヲを経て、歌の歴史が紐解かれていくのです」と述べます。天下の正岡子規に対して、ここまで言える鎌田先生は凄いですね!

 

駄洒落についても言及されます。笹氏が「駄洒落を連発する人は煙たがられる傾向にありますが(笑)、実は『わざをぎ』の達人であり、言霊の達人でもあるということですね」と言うと、鎌田先生は「駄洒落や『わざをぎ』は魂を揺り動かす力です。魂を揺り動かす力、すなわち『魂振り』は連打やかさねを利用しているのです。ことばの燃焼力を強め爆発もしますが、分裂や消滅、昇華もされていきます。それが『魂鎮め』です。『わざをぎ』には対極する両方の力が備わっているのです」と述べます。また、鎌田先生は「私はこうした駄洒落や語呂合わせを「言語遊戯呪術としての言霊思想」としています。これらの言語遊戯は身体言語なのです。人間の深層意識に無意識に訴えかける有効な記憶法と言えます」とも述べています。

 

 

さらに、日本語という言語は他の言語と比べて、音節数が少ないことや、漢字でも音読みと訓読みを併用するという発音上の特色があることを指摘し、鎌田先生は「言語遊戯、特に語呂合わせは『古事記』や『万葉集』の時代から使用されていることが知られています。『音』が『言』になり、『事』を呼び出すのです。先ほどお話しした『仮名序』には、(和歌は)『力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ』ると記されていますよね。『ウタ』は『歌、訴、打、撃』の力であって、すなわち『言霊の力』にほかならないのです」と述べるのでした。



「仏教思想のなかの言霊」の「『見立て』と『かさね』」では、以下のような対話が展開されています。
鎌田 言葉を交わさないノンバーバルな通信やコミュニケーションは可能だと思います。華厳宗の四法界のひとつに「事事無礙法界」というものがあります。現象すべてがお互いに融合することで、そのまま真実の世界を完成しているという世界の捉え方です。その教えは霊的にもアニミズムにつながっていると考えます。
 哲学や仏教で「ワンネス」という、すべては1つであるという感覚や世界観がありますね。それとの共通点がありそうですが、日本人には、いつからそういう感覚が生まれてきたのでしょうか。
鎌田 おそらく平安期から鎌倉時代の「一即多、多即一」という思想だと思います。1つの集合体という考え方は「見立て」でもありますが、日本人はこの「見立て」の力がきわめて発達していると思います。



「西行の言霊思想」では、以下の対話が展開されます。
 『新古今集』のなかで西行の歌は94首と最も多く入集しています。
鎌田 桜や月といった自然を詠んだ歌が多いことも特徴です。有名な〈願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ〉などを読むと、型や枠にとらわれない、ある意味での素直な歌いっぷりがいいですよね。『新古今集』は最後に神道とお釈迦様の歌が収められた「神祇歌」「釈教」の巻があることが特徴ですね。
 『古今集』の時代は国力が安定していたので、和歌も伸びやかで豊かなものが多かったのだと思います。一方で動乱の時代の『新古今集』に神道、仏教の部立てがあるというのも象徴的ですね。
鎌田 歌も救いになっていくなかで、仏教においても新しい読経の形である、念仏や題目、今様、和歌即陀羅尼も生まれました。『栂野明恵上人伝記』という注釈書に、西行が和歌即陀羅尼を提唱したことが記されています。



第三章「中世篇」の「中世和歌と言霊」の「武将・源実朝の和歌」では、以下の対話が展開されています。
 中世の歌人というと、僕は源実朝がずば抜けて歌がうまいと思います。
鎌田 実朝は頼朝の次男ですね。母は北条政子です。8歳のときに父頼朝が亡くなり、兄の頼家が2代将軍となりますが、12歳のとき朝廷から征夷大将軍に命じられます。京から正室を迎え入れたり、『吾妻鏡』には「(実朝は)歌や蹴鞠を業として」と記されていたりして、鎌倉にいながら京の貴族文化への憧れが強かった人物だとも言われています。
 幼少のころは千幡という名前でしたが、後鳥羽院が「実朝」と名付けたそうです。勅撰集にも実朝の和歌は92首入っているそうです。
鎌田 92首も入っているなんて、武将としてはきわめて多い方です。

 

 

鎌田先生が「実朝は雪の降る鶴岡八幡宮で甥である公暁に暗殺され28歳で生涯を閉じます。鎌倉幕府も3代で途絶えました。後年、賀茂真淵は『金槐集』を校訂しましたが、実朝の歌を『大空に翔ける龍の如く勢いあり』と誉め讃えています。また松尾芭蕉は、弟子の木節に『中頃の歌人は誰なるや』と聞かれ、『西行と鎌倉右大臣ならん』と断言したと『俳諧一葉集』に残されています」と述べます。すると、笹氏は「斎藤茂吉も『金槐和歌集』(岩波文庫)を校訂しました。その解説で『当時の諸家の集を読んだあとで、金槐集の歌に移ると、縦い初期の歌とおぼしきものであっても明快で、何か現実的なところがある』と記します」と紹介します。鎌田先生は、「子規も『歌よみに与ふる書』のなかで実朝のことを『あの人をして今十年も活かして置いたらどんなに名歌を沢山残したかも』と絶賛し、〈人丸の後の歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝〉〈はたちあまり八つの齢を過ぎざりし君を思へば愧ぢ死ぬわれは〉など歌として詠んでいますね」と述べるのでした。

 

 

「能と言霊」の「世阿弥と言霊」では、笹氏が「能は人間以外の神様や妖怪なども現れますよね。静かな迫力と言いますか、情念や鬼気迫る物語があって、能を見たあとに残る怖さや不思議な感覚も好きです」と言えば、鎌田先生は「私も能が好きなのですが、能を見るたびに驚きと感動を覚えます。この抽象性、アバンギャルドな感性、過激に削ぎ落とした美学など、室町文化の教養の高さに、ただただすごい、と言葉を失います」と述べます。能は大陸から渡来した「散楽」がその起源であり、変遷を重ね、平安期に「猿楽」と呼ばれるようになりました。笹氏は、「世阿弥は『風姿花伝』の序で『申楽延年の事わざ』として、猿楽には寿命延長の効用があると言っています。また『歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし』と、猿楽の道に進む者には連歌などの歌も嗜むように推奨しています」と述べます。鎌田先生は、「ここで世阿弥は『猿楽』ではなくて、あえて『申楽』と書いています。『神楽』の『神』の示偏を取れば、『申楽』となりますよね。このように、神と人間のあいだをつなぐ半神半人が『申す楽』であり、それが『申楽=能』だと世阿弥は言っているのです」と述べるのでした。



「日本文化は対話と説得の文化」では、笹氏が「念仏や護摩などを焚いて霊を強制送還するのではなくて、霊の話を聞いて、慰めたり説得したりすることで去っていきます。日本は対話と説得の文化ですね」と言うと、鎌田先生は「そういう点でも能はよくできてますよね。能の演目はシテの種類別に5つに分類されますが、初番目物は神様が主人公です。神様が登場して、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣などを願う祝儀の能ですが、元は神社の縁起や神話、和歌を題材にしていますね」と述べます。また、鎌田先生は「私は能楽というものは、舞台で演じられる演劇的修験道だと思っています。能の技はそのほとんどが武道や武術の根幹にあるので、そこには神事とつながる部分があります。一方で、静かに見えるけれど、無理を重ねた激しい体さばきもあります。能を通して、修験的な部分が様式化されているようにも見えるのです」と述べ、さらに「能は日本における鎮魂の芸能だと思いますね。そういう意味での宗教性、神事性、あるいは呪術、言霊といった儀式的な面が能にも引き継がれているのだと感じます」と述べています。



「能管と石笛」では、石笛について言及されます。能管の起源が縄文時代の石笛にあると考える鎌田先生は、「私自身の演奏経験からですが、縄文時代に用いられた石笛は、天の空鳴りの模倣であり、天から吹き降りる風が洞窟に入って鳴る現象の模倣であり、また鹿や鳥などの鳴き声の模倣で、それらと交信するために使われたのではないかと考えます」と述べ、「能の演出もよくできていて、加工を凝らした笛に、謡が重ねられることで、空間に揺らぎとゆがみを生じさせます。能は、あの世とこの世をつなぎ、交渉をして成仏させていくという世界観ですので、あの世との交信の物語を言葉と音でも表現しているのです」と語ります。それを聴いた笹氏が「『ひしぎ』は、能のすべての演目において神や霊を呼び出す音とされています」と言うと、鎌田先生は「能が、禅や密教の影響が強いためだと思います」と述べるのでした。

 

能舞台を教会に見立てて、能をミサのようだと感じる人もいるとして、鎌田先生は「戦国時代、織田信長の時代に、バテレンはイエス・キリストの受難劇を能で演じさせました。私は聴覚的な人間なので、昔から言葉や形よりも音の方に注意が向きます。比叡山でも花を観察するよりも、鳥の声を聞いたり、川のせせらぎの音を聞いたりと、音の方により好奇心が向きます。言葉は意味を伴いますが、音は響きが重要です。響きによって感じるもの、言霊の原型は石笛、音霊とも言えるでしょう」と述べます。また、足踏みは地霊を鎮めるという意味合いがあります。それと能の演者は足裏を通して、大地のエネルギーを宇宙と身体全体に循環させていることが紹介されます。



これらのことを踏まえて、鎌田先生は「私は『足裏唱法』と呼んでいますが、足の裏から吸い上げたエネルギーを身体のパイプを通して頭頂部から天空に向かって発することで、身体のエネルギーの交換場にしているのだと思います」と述べています。さらに鎌田先生は、「アメノウズメは手に笹を持っていますが、これが後に鈴となって、神社の巫女さんが振る儀礼楽器になります。アメノウズメは自らの身体を使って大地を鳴らします。つまり舞踊と音楽ですね。アフリカの伝統的なダンスも、太鼓のリズムと大地を踏む音が重要な意味を持っています」と述べるのでした。

 

 

「戦国武将と言霊」の「和歌というツール」では、以下のような対話が展開されています。
 日々戦乱のなかにいた武将たちにとって、和歌を詠むことは、束の間の安らぎだったのかもしれません。
鎌田 そうですね。もっと言えば、歌を通してお互いの考え方や物事の捉え方を知り、性格や戦術、そういったことを知るツールという側面もあったはずです。
 合戦を前に武士同士が集まり、連歌を作ったりしてますが、それは予祝の意味があったのでしょうか。
鎌田 大いにあったと思います。結束を強めたり、連帯を促す、士気を高めるという意味もあったでしょう。和歌という文芸を通して、みんなの決意や覚悟を確認したり、政治的な意味での拘束力もあったと思います。一見、遊びのようにも見えますが、非常に高度でクリエイティブなものだったと思います。

 

 

続けて、2人は「戦国武将と言霊」について語り合います。
笹 武将は戦勝祈願のために歌を奉納しますね。神社に行くと武将が奉納した和歌が紹介されていたりします。
鎌田 信仰という名のもとに家臣をまとめる意味もありました。やはりへたな歌よりはうまい歌の方がいいですよね(笑)。指南役の連歌師もこのころ現れます。
笹 こうした和歌のたしなみは、「辞世の歌」を残すためにも重要だったのでしょうか。
鎌田 先ほどの「忠度都落」もそうですが、武士は武力や力の強さだけでなく、文化的な側面での「強さ」も持っていなければいけません。多くの家臣を従えている武将たちは、家を守り、名を残し、後世に語り継がれることも重要でした。歌にも権威を求めていたと思います。辞世の歌という「言霊」は、強靭な精神性や物語性、伝説、そういったものを表すのにももってこいだったのでしょう。

 

鎌田先生は、密教と禅を宗教の2つの対極にして考えており、その2つは言語戦略として正反対であると指摘します。空海や最澄、天台宗なども基本的に言葉が大事、真言が大事と言っています。密教では言葉で象徴的な表現ができるし、秘密の世界は言語でも表現できるという哲学があります。しかし禅は「直指人心 見性成仏」です。この言葉はよく達磨図などに書かれていますが、言葉に頼らず、自分の心を直接見つめ、仏性を会得せよという意味です。「言語道断」と同じで、禅語では「不立文字」とも言います。禅は言葉を徹底的に削って削って、否定します。鎌田先生は、「最後の最後はノンバーバルコミュニケーションの世界で、極言すれば、カラスがカーと鳴いたら悟ったというような境地ですね」と述べています。



ここで鎌田先生は、折口信夫の名前を挙げます。彼は、民俗学者・国文学者として活躍する傍ら、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の筆名で近代日本を代表する歌人としても活動しました。古代の魂や旅の情景を鮮烈に詠み、代表作の歌集『海やまのあひだ』は近代短歌史の金字塔とされています。「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」という歌は特に有名です。そんな折口について、鎌田先生は「折口はよく『意味のない歌』と言いますが、象徴的なものはあってもいいし、なくてもいいというのが私の理解です。雰囲気だけ、しらべだけでもいい。細やかな情緒だけで言語的な表現を極めるということは、多くの意味を求めていることになりませんか。明恵の『あかあかや』、一遍の『南無阿弥陀仏』の繰り返しとなると、意味性は減って、より深いパッショネイトな世界、もっと言えば神話的な世界に近づいているようにも感じます」と述べるのでした。


 

第四章「近世・近現代篇」の「江戸時代の言霊」の「和歌そのものが日本文化論」では、国学者について言及され、笹氏が「契沖や真淵は和歌に『言霊』を感じていたのでしょうか」と質問すると、鎌田先生は「非常に感じていたと思いますね。特に真淵は『語意考』という著作のなかで、五十音をもとにどういう意味を持っているか、連用形、連体形などの日本語の活用形の法則などを説明しています。さらに宣長の没後弟子を名乗った平田篤胤は、真淵の著作を読んで、伏見稲荷大社の社家の出身であった荷田春満の家に五十音図の古説があって、真淵がこれを元に自説を展開していることを強くアピールし、賞賛もしています。漢語や漢詩を重視し、漢文学に支配されていた日本の教養文化に対抗するように、大和言葉や和歌に注目する。『古今集』の『仮名序』で紀貫之が唱えた『やまとうたは、人の心を種として』のように、『言霊』という言葉を使わずに言霊の精神を示し、それが『やまとうた』にあるという、言霊的思想の表出とも言えるのではないでしょうか。さらには万物が歌を歌うということも言霊の基層をなしていると考えていたと思います」と答えています。

 

 

「平田篤胤の和歌」では、平田篤胤(1776-1843)が取り上げられます。江戸後期に言霊学の基礎を作り、文字と音と言霊について論じた人です。篤胤は言霊の起源、根拠、生成、展開などのプロセスを繰り返し繰り返し問い続けてきました。篤胤は妻の織瀬が屑屋から買った反故のなかから本居宣長の『古事記伝』を渡され感銘を受け、宣長に入門を請う手紙を出したそうです。しかし、その手紙が届く前に宣長は亡くなってしまいました。鎌田先生は、「ある日、篤胤の夢に宣長が出てきて、入門を認められたという話が残されています。これが没後弟子を名乗るきっかけとなりました。この夢中入門の様子を絵に描いてもらい、宣長の長男・春庭が讃を添えた『夢中対面の図』というものが東京代々木の平田神社に残されています」と説明します。

 

「俳句と言霊」の「松竹梅と花」では、「松竹梅」という言葉は、平安時代に中国伝来の「歳寒三友」の画題が元であると紹介し、鎌田先生が「松が一番上になっているのは、それだけの神聖な力を松が宿しているということなのでしょう。能舞台にも松が依代として描かれていますよね。竹も『猛々しい』という言葉につながっているように、ちはやぶる神の力を持っています。松も竹も神聖なエネルギーに満ちた優位性を表しているのではないでしょうか」と述べると、笹氏は「松は暑さに強く、冬でも葉が青々として寿命が長いので、神が宿る木ともされています。それから『松』が『待つ』に転じて、恋愛の歌にも用いられることが多いです」と述べます。また、「祀る」「奉る」といった、「捧げる」という行為にも結びつくのではないかと推測しています。鎌田先生によれば、「松」が待っている象徴的な構造は、日本文化では祭りの根幹と関わっていて重要だといいます。



笹氏は「『梅』は花ですから、カテゴリーが違いますね」と言うのですが、それに対して鎌田先生は「梅が持つ小ぶりで優しげな姿は、桜とは違う情緒がありますよね。梅はその香りを愛でるものですから、空間を支配していると思います。梅の花が持つ楽園性や、天上世界へのイマージュなども含んでいるように思います」と述べます。「『俳諧』という言葉」では、「俳諧」の漢字を語釈すると、まず「俳」は「わざをぎ」、つまり身振りや動作で神様を招くという意味であることが指摘されます。対して「諧」はみんなで神に祈って神を迎え、神が降りてくることです。しかし、鎌田先生なりの言霊的解釈では、「俳」は「人だけではない」、「諧」は「皆、言う」だといいます。なので「俳諧」という言葉は「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」の近世版だと鎌田先生は考えるそうです。

 

「俳諧の精神は縄文スピリット」では、「言霊」という言葉が生まれてくる以前、古代の言霊の考え方に「草木語問う」というものがあったことを指摘し、鎌田先生は「俳諧は、まず『草木語問う』を明確な定型としました。さらに紀貫之が春夏秋冬に分けた『古今集』の精神を季語として定着させました。続いて切れ字によって『もののあはれ』という感動をこめる。俳諧は17音という短いことばのなかに日本文化の情趣というものをつないだと思いますね」と述べています。また、鎌田先生は「私は縄文時代か、あるいはもっと前には、草木が語問うていたと思うのです。なので、俳諧の精神は縄文スピリットのよみがえりだと思いますね。そういった『草木語問う』という世界が連綿とあって、さらには言葉のなかに『霊』が宿るという、言語アニミズムを生み、『万葉集』の時代には『言霊』という概念になったと考えます」と述べています。



「地面の文学」では、鎌田先生が「詩歌には挨拶性が多分に含まれていることはご存じのことと思います。ご当地ソングもそうですし、和歌も歌枕があったりします。これは30年来の私の持論なのですが、俳諧は「徘徊=吟行」によって、地霊を呼び出す「地面の文学」だと考えます。森羅万象の声を拾い、地霊を呼び出すワザとも言えると思います。子規は後半「写生」にもつなげていきますが、俳諧に叙景が多いということにも関連があります。人間に焦点を当てているのではなくて、雲や葉っぱ、山や空など、自然や景色のなかにはさまざまな情がこもってくる。つまり『草木語問う』ですね。近世では『五七五』という最も短い文学形式に様式化し、完成させました」と述べると、笹氏は「俳句は、もともと連歌の五七五の発句のみを取り出したものですよね」と述べるのでした。

 

続けて、2人は以下のように語り合っています。
鎌田 言葉を少なくすればするほど、その言葉のなかの宇宙は拡大するという方程式を俳諧は証明していると思います。言葉が短い分、スピード感や飛躍も出てきます。短歌がより人間的な側面を持つとするならば、俳諧はより大自然的な物の声を拾っているのです。私は、歌が生まれてくる以前の日本人の言語観、アニミズム的な自然感覚、世界感覚、生命感覚を呼び込んで再生し、完成させたのが芭蕉の業績だととらえています。そういう意味で芭蕉の仕事というのは大変重要です。
 俳句が五七五で、短歌が五七五七七という長さは関係があるのでしょうか。
鎌田 大いにありますね。下の句の七七によって、短歌の言葉は人の心理に向かうベクトルを持ち、俳句は自然の理に向かうベクトルを持ったと思います。
 そういう日本人ならではのミニマム感覚と言いますか、小さくしたり凝縮したりする発想や技術は、日本人のある種の特性で、文化とも言えそうですね。



鎌田先生は俳諧の方が好きだそうですが、自分で作るときは七七がつくことが多いそうです。本を書いて「あとがき」の最後に添えるのもほとんどが短歌でした。鎌田先生は、「やはり、長い年月をかけて1冊の本に仕上げたという思いや情がくっつきますね。日本人にとっても、ある種の心情吐露の原型は短歌ですから、思いの深さを表現するには短歌がふさわしいと思いますね」と述べています。「狂歌と言霊」の「『笑い』という精神力」では、笹氏が「狂歌は忘れ去られていますけれど、復活するものでしょうか」と質問します。すると、鎌田先生は「復活というよりも『出てくるもの』だと思いますよ。現状を嘆くばかりでなく、笑い飛ばしたり、批判し尽くしたりすることで活力をもたらすことは日常のなかの言霊力でもありますので」と答えています。

 

笹氏が「それが川柳や狂歌のなかに仕込まれているということでしょうか」と質問すると、鎌田先生は「そうです。それと、駄洒落のようなダブルミーニングには強い言霊の力があります。日本文化の伝統のなかで、掛詞や縁語が宗教や文学などの詞章で醸成されてきたことは、これまでも見てきました。狂歌のなかに、庶民の言霊の力を見てとれるのです。言霊のなかには、社会批判や風刺という観点もあります。時代を風刺したり、揚げ足を取りながら、時代を撃つ。そういった言葉が、人びとの生きる力を活性化させていく。言語がもつ社会活性や救済の力の1つの側面ですね」と答えます。さらに剣と歌について、鎌田先生が「剣と歌は別々のものですが、根幹は1つであると私は考えます。外的世界を安定させるものとしての象徴が剣であり、内的世界を安定させ、心を鎮める役割を果すものが歌になると思います」と述べると、笹氏は「なるほど。剣と歌、似て非なるものですが、どちらも清めや鎮めの力をもたらしているのですね」と述べます。



「まじないの歌」では、笹氏が「まじない歌についても伺いたいのですが、まじない歌は古来から呪術的な力を持つものと信じられていて、病気の治癒や敵の撃退、恋愛成就など、さまざまに歌われてきました。特に平安貴族たちは日常的にまじない歌を詠んでいて、その力を借りながらさまざまな困難に立ち向かってきました」と述べます。鎌田先生は、「もともと、呪歌は陰陽師や祈禱師など、ある特定の人が行うものでしたが、しだいに民衆にも降りて、民衆歌となったと言えます。今でこそ科学的根拠に基づき対応することができますが、昔はそうはいきません。病気や災害から身を守るため、口にしたり書いたりすることで言霊の力を引き出し、さまざまな現象をどのように考え対処しようとしたか、ある種の日本文化の一面がこめられているようにも感じますね」と述べます。わたしは、柳宗悦が説いた民衆的工芸としての「民藝」や、わたしが説く民衆的儀礼としての「民禮」と同じ文脈で「民歌」という言葉を思い浮かべました。



「出口王仁三郎と言霊」の「鬼は内、福は内」では、笹氏が「大本の節分は『鬼は内、福は内』と、鬼も福も『内』と唱え、豆まきをしているのが印象的でした。また普通は豆まきの豆は煎り豆を使いますが、ここでは生の豆でしたね」と述べます。鎌田先生は、「鬼は『古事記』の神世七代の最初の神である国之常立神を指しています。名前の通り、『国』は国土、『常』は永久を示していて、国土の守護神という説があります。この神を『内』に入れるのです。また一般の豆まきは鬼に『煎り豆に花の咲くまで入るべからず』という意味で撒きますが、煎り豆では花が咲くはずがない。つまり鬼に『絶対に入ってくるな』という意味をこめた風習です。大本では生の豆を撒くことで花を咲かせ、『一粒万倍』の恵みを授かるという意味がこめられているのです」と述べます。



鎌田先生は、天河の宮司が前鬼の子孫ということを知り、たびたび天河大弁財天社を訪れるようになったそうです。ここの神社も「鬼は内、福は内」と唱えながら福豆を撒きます。鎌田先生は、「ここには前鬼・後鬼という2人の鬼様がいて、役行者の供に祀られています。節分祭の宵の晩、すなわち2月2日に『鬼の宿』という節分祭を行います。天河の拝殿で祈りを捧げたあと、松明を携えた人や法螺貝を吹く人とともに宮司の自宅に伺います。ここの一番座敷に布団を敷いて、枕元におにぎり2個と梅干しを供えます。布団は鬼様が入りやすいように片面をはいでおきます。縁側には天河の聖水を汲んだ桶を一晩置いておきます。締め切った部屋には宮司だけが残され、寝ずの番をします。翌朝、節分の朝ですね、この桶の水を白い布で濾します。濾したところに小石や砂があれば、鬼が訪れたという証になるそうです」と説明。

 

 

「出口王仁三郎という人」では、以下の対話が展開。
鎌田 王仁三郎は生涯に60万首を超える短歌や狂句、冠句などがあり、口述筆記をまとめた全81巻83冊に及ぶ『霊界物語』などもあります。
 ちょうど東日本大震災のときでして、今、自分ができることはないかと考えたとき、歌人として、王仁三郎の短歌をまとめてみようと考えるようになりました。
鎌田 この『王仁三郎歌集』は、よくぞやったり! と思います。大仕事だったと思いますし、心からの敬意と御礼を申しあげます。
 ありがとうございます。僕は、王仁三郎の予言や超常現象にも惹かれましたが、やはり一番は短歌です。王仁三郎の短歌は、宗教家でありながら、自由度が高く、庶民的でユーモアもあります。鎌田先生は王仁三郎のどういったところにご関心がおありですか。



「スサノヲノミコトと王仁三郎」では、鎌田先生は「王仁三郎は、自分の立場や霊性をスサノヲに重ね合わせていたことがわかります。著作によると、スサノヲはすべての罪をわが身に引き受け、『天地の罪人の救い主』である神で、王仁三郎自身はスサノヲノミコトの霊の『宮』と記しています。神に祈りを捧げるためには、神に通じる言葉、すなわち『歌』が必要だったのです。けれど大事なのは、歌のクオリティや面白さではなく、『祈りのクオリティ』なのです。神がすべき行為は『まつりごと』ですが、文字通り『政と祭』です。両方要となって関わるのは『国誉め』です」と述べます。すると、笹氏が「王仁三郎もその土地を誉めた歌を作って、歌碑を建てています。京都府綾部市には〈盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほととぎす昼夜を啼く〉と詠んでいます」と言うのですが、鎌田先生は「祈りはその地域に住む住人の健康や生業を豊かにしていくためのものですから、これがいわゆるガバナンスになるわけです。スサノヲにとってのガバナンスは『古事記』の〈八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を〉の歌となります」と述べます。



「芸術は宗教の母」では、王仁三郎について、鎌田先生は「おそらく王仁三郎は、歌人である前に、神主や宗教家、言霊研究家という意識の方が強かったと思いますね。『言霊の大要』という論文では『言霊の妙用を解して之を実地に応用する時は、天地万物を自在に動かす事を得可く』とあります。これまでの言霊学者は異端の研究者や学者が多かったのですが、王仁三郎は実践者でもあったわけです。折口信夫は、国文学の発生点には『呪言』があって、それを発する者を『まれびと』と考えました。その観点で言えば、芸術や芸能の根本には呪術—宗教があるとも言えます。王仁三郎は著作のなかでも『芸術は宗教の母』と言っています」と述べます。



「平田篤胤と『妹の力』」では、大本の祝詞について言及されます。鎌田先生は、「大本の祝詞を最終的に編集して歌ったのは王仁三郎だと思いますが、元は江戸時代の国学者・平田篤胤の『毎朝神拝詞記』を参考にしていると思います。『祝詞』は先例主義ですので、『古事記』などを参考に、先例としてあるものを生かしつつ上書きし、その時代の祝詞を作っていきます。江戸時代の国学四大人にはほかに荷田春満・賀茂真淵・本居宣長がいますが、篤胤ほど祝詞に対して厳粛な気持ちを持っていた人はいないと思います。私が平田篤胤に興味を抱いたのは、出口王仁三郎の提唱した霊学思想の源泉が平田国学であることや、出身の國學院大学で折口信夫が平田篤胤を高く評価していることを知ったからです。篤胤は、漢字渡来以前から伝わる『神代文字』の存在を実証しようと試みたり、五十音のもとは『宇字(音)』であると主張したり、さらには霊学と民俗学の成立などその功績は広範に及びます」と述べています。



「むすひの力・なおひの力」では、鎌田先生が『古事記』のなかで大切なことばと思っているものに「むすひ(むすび)」があることが示されます。これは根源的な生成力で、創造もしますが、破壊も含まれます。一方、『古事記』には神直毘神と大直毘神という禍や穢れをなおす神がいます。こちらは鎌田先生は「なほひ(なほび)」です、私はこれを「むすひの力・なほひの力」と考えるといいます。「王仁三郎の短歌」では、『王仁三郎歌集』の編者である笹氏が「王仁三郎は道歌、相聞歌、風刺の歌などさまざまなタイプの歌を残しています。僕は王仁三郎の歌を詠んでいると、不思議と明るい気持ちになるとして、たとえば「あまり小さい事は考へぬがよいだらう広大無辺の宇宙の中で」「腹いつぱい五月の風を吞みながら空をおよげる鯉のぼりかな」という歌を紹介します。笹氏によれば、王仁三郎の短歌の根底にあるのは対象物への深い愛情だといいます。



「ご当地ソングは言霊」では、以下の対話が展開されます。
鎌田 ご当地ソングは大事ですよ。おととい、森進一の「港町ブルース」を思い出していました。あの歌は、函館から始まり気仙沼へ行き、次は三崎から焼津、最後は歌い手の森進一の出身地である鹿児島までたどります。哀感を誘うメロディーと相まっていい歌です。
 この歌は、東日本大震災のあった2011年の紅白歌合戦でも歌われました。地元を歌う(詠う)ということは、その土地にいる神様を喜ばせることになります。ご当地ソングは言霊だったのです。
鎌田 国誉め・土地誉めは祭祀の基本ですからね。
 そういう意味では、内山田洋とクールファイブなどは観光誘致効果だけではなく、国誉めの使命を帯びたグループだったのかもしれませんね。

 

「近現代歌人と『古事記』では、『古事記』はもともと言霊の凝縮点でもあるので、地名のなかに敬虔さがあると指摘し、鎌田先生は「地名というものは土地のかたち、生態系、コミュニティの経験知を含めて名付けられているので、そこに生きる人たちは土地からインスピレーションを受けて歌を発信してきました。では、誰に向かって、何に向かって歌を歌うのか。近現代歌人たちは、神秘古代を引き継ぎつつ、主体や自我の葛藤のなかで、いわゆる難解歌も残しています」と述べます。「言霊と前衛の交錯」の「トポスとエロス」では、鎌田先生が「近代には聖地や歌枕と絡めた日本の言霊思想の新たな復活点があるように思います。現代でも『聖地巡礼』と称して、小説や映画、ゲームなどの舞台となった場所を訪れることが一般化していますよね」と述べます。また、鎌田先生にしてみると、現代の聖地巡礼ブームは不思議でも何でもなくて、日本人がこうした修辞学的メタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)を繰り返し、楽しみながら「見立て」のアイコンとして洗練させてきたことによるそうです。歌枕が名所旧跡として、ご当地ソングとして、もっと言えば場所の記憶の増幅装置として機能してきたといいます。

 

 

「グリーフケアと言霊、そして歌」では、宮沢賢治の『注文の多い料理店』が取り上げられます。同作の序では三種類の食べ物について語っています。第一に食品としての食べ物、第二に風や朝の日光のような自然現象としての食べ物、第三に童話や物語のような言葉や作品としての食べ物です。この三つ目が魂の食べ物で、言葉こそがわれわれの栄養になる。鎌田先生は、「賢治は『すきとほつたほんたうのたべもの』と言っていますが、言葉が人びとの生きる糧となるような、真実の魂を持った食べ物になることを願っていたと思うのです」と述べます。笹氏が「賢治の言う『すきとほつたほんたうのたべもの』が言霊ですね」と言うと、鎌田先生は「そうです。言葉というものは、これからますます人を生かしめていくために重要な意味合いを持っていくと思います。特にインターネットが発達した現代では、即時性や匿名性といったものも加味されますから、魂を込めた言葉の粒をどう発信し、どう受信するか、キャッチボールですね。命の言葉、言霊。言葉には未来を開く力がある。そういった言葉を発する作家、歌人、詩人、俳人など、たくさん出てきてほしいと思います。待ってますよ。アンテナは無数に開いてますので、どんどん発信していきましょう、ということですね」と述べるのでした。

唯葬論』(サンガ文庫)
カバー裏表紙の内容紹介

 

この「すきとほつたほんたうのたべもの」という言葉に、わたしは忘れられない思い出があります。拙著唯葬論(サンガ文庫)の「解説」を鎌田先生が書いて下さったのですが、同書のカバー裏表紙には、そこから抜粋された「『唯葬論』は、〈宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論〉全18章の構成。「宇宙論」から「葬儀論」まで、自然学(形而下学)から形而上学までの全領域を網羅した優れた問題提起作である。柳田國男が戦後社会の心と家族と共同体の荒廃を予見し、それを何とか防ぐために警世・警醒にして経世の書である『先祖の話』を出したように、直葬や0葬に向かいつつある世の風潮に、『唯葬論』は、この書を『すきとほつたほんたうのたべもの』としてこの時代にお供えし供養したのである」という文章が掲載されています。拙著を鎌田先生が「すきとほつたほんたうのたべもの」と表現して下さったことに、わたしが大感激したことは言うまでもありません。

 

 

「あとがき」では、笹氏が ブログ『言霊の思想』で紹介した鎌田先生の名著に出会い、短歌の言霊に特化した話を直接お聞きしたいという思いが募ったことが記されています。数年後、雑誌『短歌』から笹氏に連載の依頼が舞い込みましたが、心に響かず返事をできずにいたそうです。そんなある日、笹氏が高幡不動で護摩の火を浴び、空海の像の前で手を合わせていると、「連載は鎌田東二とやれ」という啓示が頭の中を光のように貫いたそうです。後に、先生の生家が空海の修行した洞窟のそばだったと知り、これは弘法大師からの啓示だと確信したとして、笹氏は「すぐに北田編集長に連絡し、快諾を得てZOOMで先生と最初の打ち合わせを行いました。画面に映る先生はお元気そうでしたが、口から出たのは『私はステージⅣの癌なので、もしかしたら連載中に死ぬかもしれません』という衝撃的な言葉でした。その瞬間、私は先生から聞けることはすべて聞き出そうと強く決意しました」と述べています。



笹氏は、言霊学で世界で唯一博士号を取得された鎌田先生に、自身の抱くすべての問いをぶつけようと決意したそうです。対談に臨む先生は、博覧強記にして自由闊達。1つの問いを投げかければ、100もの答えが返ってくるようだったとか。しかも、ユーモアを交え、誰にでもわかるように、そして何より楽しげに話してくださる「おもしろ仙人」のような存在だったそうです。それと同時に、自らの知識と想いのすべてを余すところなく伝えようとする、鬼気迫るものも感じたとして、笹氏は「仏教、そして密教をも織り交ぜながら、多角的な視点から言霊の深淵を説いてくださる時間は、なんと贅沢なひとときだったことでしょう。鎌田先生との時間は、対談の場を離れても、公私にわたり恵まれました。気さくで、決して偉ぶることなく、温かく包み込んでくださる先生との語らいは、かけがえのない喜びでした。言霊学の奥深さだけでなく、神仏への敬意、歴史や聖地、そしてスピリチュアルなものに対する真摯な姿勢など、多くのことを教えていただきました。その1つひとつの教えが、いま改めて胸に迫ります」と述べます。



そして、対談連載「言霊の短歌史」の最終回が掲載された『短歌』の発売から僅か5日後の5月30日、鎌田先生は静かに旅立たれました。笹氏は、「覚悟していたはずなのに、いざ現実となると、心のどこかで奇跡を信じていた自分に気づかされ、茫然自失となりました。もう二度と会えないという悲しみと、一番見てほしかった人に作品を見せられなかった悔しさが、とめどなく胸に溢れました。最後の入院の直前だったため、お互いの短歌の感想を言い合うことは叶いませんでしたが、本当は先生の短歌を目の前で絶賛したかったし、私の歌の感想も聞きたかった。その思いは今も残念でなりませんが、きっと先生は天から読んでくださっていると信じています。いつの日か霊界で再会した折には、心ゆくまで『感想戦』を楽しもうと、今は静かに心に誓っています」と述べるのでした。わたしは「庸軒」の雅号で道歌を詠んできましたが、今年の11月に初の歌集を言視舎より上梓する運びとなりました。本当は真っ先に「魂の義兄弟」である鎌田先生にお贈りしたかったのですが、先生が帰幽された今、それは叶わなくなりました。誠に不遜ではありますが、鎌田先生とのご縁で現代短歌の第一人者である笹公人氏に献本させていただきたいと思っております。

 

 

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2026年8月7日  一条真也

広島原爆の日

一条真也です。
8月6日になりました。「広島原爆の日」です。
世界で初めて核兵器が使用されてから、81年目を迎えました。広島の原爆では、1945年12月末までに約14万人もの方々が亡くなられたと推計されています。その事実に改めて心が凍りつく思いです。犠牲者の方々の御冥福を心よりお祈りいたします。今朝の各紙の一面を見ると、「朝日新聞」と「毎日新聞」にのみ記事が小さく載っています。昨年は投下から80年目ということで大きな扱いでしたが、まことに残念です。人類最大の愚行である原爆投下をけっして風化させてはなりません。


広島原爆死没者慰霊碑の前で


 

広島原爆といえば、ブログ「この世界の片隅に」で紹介した日本のアニメ映画を思い出します。テレビドラマ化もされましたが、わたしは2016年の11月にシネプレックス小倉でこの名作を観ました。もう、泣きっぱなしでした。主人公すずが船に乗って中島本町に海苔を届けに行く冒頭のシーンから泣けました。優しくて、なつかしくて、とにかく泣きたい気分になります。きっと、日本人としての心の琴線に触れたのだと思います。

 

「この世界の片隅に」の舞台は広島と呉ですが、わたしの妻の実家が広島です。映画に登場する広島の人々の方言が亡くなった妻の父親の口調と同じで、わたしは義父のことをしみじみと思い出しました。この映画は本当に人間の「悲しみ」というものを見事に表現していました。玉音放送を聴いた後、すずが取り乱し、地面に突っ伏して慟哭するシーンがあるのですが、その悲しみの熱量のあまりの大きさに圧倒されました。エンドロールでグリーフケアが描かれたことにも感動しました。



映画といえば、ブログ「オッペンハイマー」で紹介したクリストファー・ノーラン監督の最新作がアカデミー賞で7冠に輝きました。この作品、全世界での公開から約8ヵ月後に日本で公開されました。内容は、アメリカ陸軍による原子爆弾開発計画「マンハッタン・プロジェクト」のリーダーを務めた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描いたものです。「マンハッタン・プロジェクト」を中心に据え、特に試作された核弾頭「トリニティ」の臨界実験を映像的なクライマックスに据えていました。原爆というのは世界史上で2回しか使われていません。その土地は日本の広島と長崎です。ですから、被爆国である日本の人々は、当事者として、映画「オッペンハイマー」をどこの国の国民よりも早く観る権利、また評価する権利があったと思います。


実際、わたしは「オッペンハイマー」が日米同時公開されるとばかり思っていました。それが、日本だけ公開が8ヵ月も遅れたのは何故なのか。実際に鑑賞するまで、わたしは「原爆開発の倫理的責任はどう描かれているのか」と考えていました。試作弾頭「トリニティ」の臨界実験の描写は凝りに凝ったCGと音響で圧倒的なインパクトがありましたが、それが、原爆の恐怖を表現しているというよりも、開発成功を称える高揚シーンになっているように思えました。いずれにせよ、日本人のグリーフを無視した映画がアカデミー作品賞を受賞した事実によって、日本人はセカンド・グリーフを負ったように思えてなりません。アカデミー賞の審査員たちには、「ポリコレとか多様性とか言う前に、もっと大事なことがあるだろう!」と叫びたかったです!


 

その「オッペンハイマー」とアメリカで同時公開された映画が、ブログ「バービー」で紹介した2023年の作品です。この2作を二本立てで見ることがブームになり、ファン達が関連画像をSNSに投稿。その画像は、バービー役の女優マーゴット・ロビーの髪型に原爆を連想させるキノコ雲が合成されています。さらに、爆発を背景に2作品の登場人物が合成された画像もあります。 日本人には見過ごせない画像ですが、さらに問題なのがバービーの公式アカウントが「忘れられない夏になりそうですね」とハートマークをつけて投稿した点です。また、キノコ雲の画像にもウインクのマークをつけて返信しています。公式が好意的に受け止めているかのような返信に見えます。アメリカの一部の人々がいまだに「原爆は栄光の兵器」「ウィニング・ウェポン」という考え方があることを知り、呆然としました。岸田首相が開催した「広島G7サミット」はいったい何だったのでしょうか?

広島平和記念資料館の前で

 

ブログ「広島で祈る」で紹介したように、わたしは昨年の8月5日に広島平和記念資料館を訪れました。多くの来場者の間を縫い、わたしは館内をくまなく見学しました。そこで、わたしは人類の「業」について考えました。人類はどこから来たのか。人類とは何なのか。人類はどこに行くのか。そんなことを考えました。アメリカが原爆を日本に投下した時点で、人類は1回終わったのではないのか。そんなことも考えました。館内には英語で話している白人もたくさんいました。彼らは、ここで何を感じたのでしょうか。出来るものなら、彼らの本音を聞いてみたかったです。

原爆ドームの前で

 

また、ブログ「広島で祈る」で紹介したように、昨年の8月5日は猛暑で放心状態になりながら、わたしは原爆ドームを眺め、手を合わせて祈りました。もちろん人類史を代表する愚行の象徴なのですが、このような建物が当時の状態のままで保存されていることは、本当に凄いと思います。なんだか神々しく思えてきました。もはや神殿の雰囲気さえ醸し出しています。


そう、ブログ「伊勢神宮」に書いた日本最高の神社にも似て、人間の愚かさとサムシング・グレートの実在というべきものを感じさせてくれるのです。戦後、どれほど多くの人々が原爆ドームを訪れ、写真を撮影し、スケッチをし、眺め、何かを考えたことでしょう。その想念の巨大さを思うだけで、眩暈がしてしまいます。そのような思いを、わたしは昨年上梓した死者とともに生きる(産経新聞出版)に書きました。ご一読下されば幸いです。

 

 

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2026年8月6日 一条真也

さらば、ドリー・ファンク・ジュニア

一条真也です。
米国の偉大なプロレスラーが亡くなりました。WWEが4日(日本時間5日)、WWE殿堂入りレスラーのドリー・ファンク・ジュニアが亡くなったと発表。85歳でした。

ヤフーニュースより

 

WWEは公式サイトで「WWE殿堂入りを果たし、影響力のあるレスリングトレーナーであったドリー・ファンク・ジュニア氏が逝去されたことを知り、深い悲しみに包まれています」「伝説的なファンク・レスリング一家の一員であるドリー・ファンク・ジュニアは誰よりも、タフで尊敬を集めたレスラーだった」と、その死を悼んでいます。



ドリーは弟のテリーとともにタッグチームを結成し、数々の功績を挙げました。WWEによると、「特筆すべきはNWA世界ヘビー級チャンピオンとして4年間君臨していたことであり、これは同タイトル史上、ルー・テーズに次ぐ2番目の最長在位記録である」とコメント。また、「米国と日本各地で定期的に試合に出場し、両国でプロモーターとしても活動した」と伝えました。



ルー・テーズに次ぐ世界王者というのは、ドリー・ファンク・ジュニアの本質をよく表しています。彼はアメリカン・プロレスに多いショーマン・スタイルではなく、いわゆるストロング・スタイルのレスラーでした。わたしが中学生の頃、プロレス雑誌の「月刊ゴング」で「プロレスラー実力世界ランキング」なる企画があったのですが、そこでは1位がドリー・ファンク・ジュニア、2位がアンドレ・ザ・ジャイアント、3位がアントニオ猪木、4位がジャイアント馬場でした。それを読んだわたしは、「あの大巨人より強いのか!」と驚いた記憶があります。



1969年12月2日、アントニオ猪木が大阪府立体育会館で王者ドリーに挑戦するNWA世界ヘビー級選手権試合が行われました。この一戦はルー・テーズvs力道山以来12年ぶりのNWA世界戦であり、猪木にとっては初の挑戦でした。しかも、翌3日にはドリーvs猪木の勝者に馬場が挑戦することが決まっていたのです。テクニカルなレスリングを身上とするドリー相手の王座戦において、猪木はなんと前日の試合で指を骨折していました。物をつかむ手の指の骨折は致命的に思われ、猪木ファンは絶望的な気分でした。


猪木を苦しめるドリー・ファンク・ジュニア

 

NWA世界戦当日、猪木は痛み止めの麻酔薬を打って、指にテーピングをして出場。試合は猪木とドリーが一進一退、息つく間もないスピーディかつテクニカルな攻防を展開。3本勝負にもかかわらず、両者ともノーフォールのまま60分闘い切って引き分けるという、日本プロレス史上に残る名勝負となりました。生涯に数えきれないほど多くの激闘を繰り広げた猪木でしたが、この試合を自身のベストバウトに挙げています。日本でも人気を集めたドリーは、マーティ夫人がホスピスケアをしている最中に亡くなったそうです。その魂が安らかであることをお祈りいたします。



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2026年8月5日  一条真也

「大統領のケーキ」

一条真也です。
4日、ブログ「ヒトラーの毒見役」で紹介したイタリア・スイス・ベルギー合作映画をKBCシネマで観た後、続いてアメリカ・イラク・カタールの合作映画「大統領のケーキ」を観ました。さまざまな社会の矛盾が凝縮されたような内容で重い気分になりましたが、主人公の少女ラミアを務めたバニーン・アフマド・ナイエフの可憐さに救われました。

 

ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「ハサン・ハーディ監督が自身の体験を基に、1990年代の独裁政権下のイラクを舞台に少女の奮闘を描くヒューマンドラマ。フセイン大統領の誕生日を祝うケーキ係に選出されたある少女がクラスメートの協力を得て、ケーキの材料を集めるために町を飛び回る。バニーン・アフマド・ナイエフ、サジャード・モハマド・カーセムをはじめ、出演者全員が演技未経験者で構成されている」

 

ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「フセイン大統領の誕生日祝いのケーキを準備する係に、祖母と二人暮らしの9歳のラミアがくじ引きで選ばれる。翌朝祖母に伴われ、父の形見の時計と友だちの雄鶏ヒンディと一緒にラミアは町に出るが、そこで祖母の狙いが自分を養子に出すことだと知る。逃げ出したラミアは、同級生のサイードと協力してケーキの材料を必死に集めようとする」

 

1990年代、戦争と食糧不足に苦しむイラク。フセイン大統領の誕生日を祝うケーキを作るよう各学校に命令が下り、9歳の少女ラミアがくじ引きで「ケーキ係」に指名されます。なんだか名誉な役目のように思えますが、まったく逆の罰に等しい指名でした。というのも、当時のイラクはクウェート侵攻によって国際社会から経済制裁を受けており、砂糖をはじめとするケーキの原材料が調達できないからです。加えて、ラミアは祖母と極貧の二人暮らしをしていたのです。ケーキを用意できないと重い罰が待つ中、食材すら満足にない祖母と暮らすラミアは、サイードと協力して自ら材料を集めるため町を駆け巡るのでした。サイード以外でラミアを助ける親切な登場人物はなんと1人だけ。あとは自分たちのことだけを考える利己的な人物しか登場しません。彼らはみんなイスラム教徒ですが、開祖ムハンマドは他人への「思いやり」を説いたはずですが・・・・・・。

 

この映画は基本的に重くて暗い内容なのですが、冒頭に途方もなく美しい映像が流れます。イラク南部に広がるアフワール(イラク湖沼地帯)の光景です。アフワールは、チグリス川とユーフラテス川の下流に形成された世界最大級の内陸デルタ湿地帯です。2016年に「南イラクのアフワール:生物の避難所と古代メソポタミア都市景観の残影」として、自然と文化の両方の価値が認められた世界複合遺産に登録されました。極度に乾燥した砂漠気候の中にありながら豊かな水環境を持ち、数千年にわたり独自の文明と生態系を育んできた奇跡的な場所です。本作では、今ではかなり失われてしまったとされるアフワールの水上生活が描かれており、素晴らしい映像美を見せてくれます。

 

それにしても自分が起こした戦争によって国民が食料不足に苦しんでいるというのに、フセイン大統領が自身の誕生日を祝うケーキを作るよう、国内の各学校に命じたというのが信じられません。本作の鑑賞前に「ヒトラーの毒見役」を観ましたが、あのヒトラーだって自国民をさらに苦しめる命令など下さないはずです。クラスのくじ引きでは、極貧の少女ラミアがケーキ係に指名されます。障害のある父親と二人暮らしで、同じく極貧生活を送る同級生サイードは「大統領の誕生日を祝う果物」を調達することになります。もし、用意できなければ重い罰が待っていますが、用意できたとしても、ケーキや果物を食べるのは大統領ではなく学校の担任教師なのです。あまりにも馬鹿げた話ですが、これはハサン・ハーディ監督が自らの体験をもとに描き出しているのです。

 

長引く戦争によって映画産業の発展が遅れたイラクでしたが、本作は第98回アカデミー賞・国際長編映画賞のショートリストに選出され、第78回カンヌ国際映画祭で新人監督賞(カメラ・ドール)、監督週間観客賞の2冠を果たすという、イラク映画史上初の快挙を次々と達成。ハーディ監督は、キャストに演技未経験者を起用し、監督自身の体験をもとに当時の過酷な現実と子供たちのたくましさをリアルに描きました。監督は、「映画の多くの部分は、私自身の個人的なストーリーや私自身に起きたこと、あるいは家族、友人、親戚の身に起きたことです。ですから、大半は実際の出来事から着想を得ています。そのため、多くのことをゼロから作り出す必要はありませんでした。ただ、それらをいかに正しい方法で表現するかを知る必要がありました。インパクトがあり、人々の記憶に残り、かつ芸術的な方法で表現することが重要でした」とインタビューで語っています。

 

本作では、巨大な理不尽に立ち向かうラミアを演じたバニーン・アハマド・ナーイフの存在感が素晴らしかったです。本作の公式HPで、ゲームクリエイターの小島秀夫氏は子どもの頃にイタリア映画「自転車泥棒」(1948年)を観た時の衝撃を思い出したと告白しています。小島氏は、「独裁者の誕生日を祝うまでの2日間。少女を追い込む時代、社会、貧困、政治、盲目状態の大人たち。無謀な“ケーキ創り”に奔走し、追い込まれる少女の無垢な姿に、胸が潰されそうになる。『そんな事はしなくてもいいんだよ』。何度、スクリーンの彼女に向かって叫んだろうか」と述べます。小島氏が挙げた「自転車泥棒」をはじめ、「禁じられた遊び」(1952年)、「ミツバチのささやき」(1973年)、「パンズ・ラビリンス」(2006年)・・・・・・子どもの目を通して世界の歪みを描いた一連の作品群に本作「大統領のケーキ」が加わりました。

 

本作で誕生日を祝われる大統領とは、サダム・フセインです。1979年から2003年までイラク共和国の第5代大統領を務めました。1937年、イラク生まれ。政治家としてはバアス党の有力者として頭角を現し、1979年に大統領に就任。強力な独裁体制を敷きました。イラン・イラク戦争(1980年〜1988年)を開始。1990年にクウェートへ侵攻し、翌年の湾岸戦争を引き起こしました。2003年のイラク戦争によってバアス党政権が崩壊。自身は逃亡の末に米軍に拘束されました。イラク高等法廷による裁判で、1982年にドゥジャイルでシーア派住民148人を殺害した罪(人道に対する罪)などで死刑判決を受け、2006年12月に絞首刑が執行されました。本作の最後にフセインのバースデー・パーティーの映像が流れますが、巨大なケーキには「50」という数字が見えます。権力の絶頂期にあったこの年、彼は50歳になったのですね。その19年後、69歳で絞首刑になったわけです。ヒトラーもフセインもそうですが、まさに驕れる者は久しからず。現在継続中の戦争指導者たちはこれからどうなるのでしょうか?



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2026年8月5日  一条真也

「ヒトラーの毒見役」

一条真也です。
4日、建設中の東郷紫雲閣の工事現場を視察後、福岡市周辺の紫雲閣を回りました。夜は、イタリア・スイス・ベルギーの合作映画「ヒトラーの毒見役」をKBCシネマで鑑賞。同劇場を訪れるのは久しぶりですが、ほぼ満員でした。

 

ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「ヒトラーの毒見役を務めていたというドイツ人女性の証言を基にした小説を映画化。第2次世界大戦末期、ナチスドイツからヒトラーの食事を毒見する任務を命じられた女性たちの運命を描く。『エマの瞳』などのシルヴィオ・ソルディーニが監督、『さよなら子供たち』などのレナート・ベルタが撮影を担当。ドラマ『皇妃エリザベート』などのエリーザ・シュロット、『ベルリン・シンドローム』などのマックス・リーメルトのほか、アルマ・ハズン、エマ・ファルク、オルガ・フォン・ルクヴァルトらが出演する」

 

ヤフーの「あらすじ」は、「第2次世界大戦末期の1943年、出征中の夫の帰りを待つローザ(エリーザ・シュロット)はベルリンを離れ、ポーランドの田舎町で暮らしていた。そこはヒトラーが総統大本営を置く森の近所で、あるとき彼女はナチスドイツから奇妙な任務を命じられる。それは親衛隊による監視のもと、ほかの女性たちと共にヒトラーのために用意された料理を毒見するというものだった。死と隣り合わせの状況で苦悩に満ちた日々を過ごす中、総統大本営でヒトラー暗殺を謀るクーデターが起こる」です。

 

本作は実話に基づいているそうですが、わたしは「本当かな?」と思ってしまいました。いろいろと不自然な点があります。まず、ヒトラーの居場所に7人の女性を“通い”で毒見をさせたという点です。そんなことをすれば、彼女たちは家に帰って家人や隣人に話し、総統の居場所が筒抜けになってしまうではないですか。それから、なぜ女性でなければならないのか? ヒトラー自身は男性なのだから毒見役も男性でいいではないですか。そして、なぜドイツ人の同胞に危険な役目をさせるのか? なぜ、その役目がユダヤ人でなかったのか? そんなことを考えると、95歳のドイツ人女性が語った「ナチスに命じられヒトラーの毒見役を務めていたという事実」そのものが疑わしくなります。



アドルフ・ヒトラーの56年の生涯の中で、42回の暗殺未遂があったといいます。逆に言えば、それだけの危機を乗り越えてきたのは厳重なセキュリティ体制があったはずで、その意味では毒見役もいたかもしれません。第二次世界大戦勃発後、ヒトラーは暗殺防止のため、パレードすることが減りました。公衆の面前に姿を現す回数も減り、特に戦局が悪化した末期は、総統大本営に引きこもることが多くなったことから、一般人の接触自体がほぼ不可能となりました。実行可能なのは現役の軍人、しかもヒトラーに接近できる立場にある少数の者に限られていきました。また、1944年の「フォックスレイ作戦」など連合軍側による暗殺計画も企てられましたが、全て実行に移されなかったか失敗しています。



ヒトラーの暗殺未遂事件で有名なものが2つあります。「1939年ゲオルク・エルザーによる計画」と「1944年7月20日事件(ワルキューレ作戦)」です。まず、1939年に家具職人のゲオルグ・エルザーがミュンヘンのビアホール演説会場に自作の柱時計つき時限爆弾を長期間かけて設置し、ヒトラーの暗殺を企てました。しかし、ヒトラーが予定より早く演説を切り上げて13分前に会場を去ったため、爆破の直前に生存を許す結果となりました。この事件を映画化したのがブログ「ヒトラー暗殺、13分の誤算」で紹介した2015年のドイツ映画です。監督は、名作「ヒトラー ~最期の12日間~」(2005年)のオリヴァー・ヒルシュビーゲル。ゲオルグ・エルザーをクリスティアン・フリーデルが演じました。

 

次に「1944年7月20日事件(ワルキューレ作戦)」です。この事件は本作「ヒトラーの毒見役」でも登場しますが、これを描いた作品が、2008年のアメリカ映画「ワルキューレ」です。第二次世界大戦下のドイツ。戦地で左目を負傷した将校・シュタウフェンベルク大佐(トム・クルーズ)は、純粋に祖国を愛するが故にヒトラー独裁政権へ反感を抱きます。彼は、やがて軍内部で秘密裏に活動しているレジスタンスメンバーたちの会合に参加。そんなある日、自宅でワーグナーの「ワルキューレの騎行」を耳にしたシュタウフェンベルクは、ある壮大な計画を思いつくのでした。過去に40回以上の暗殺計画をくぐり抜けてきたヒトラー(デヴィッド・バンバー)とその護衛たちを前に、大佐たちの計画は成功できるのか?

 

 

それにしても、毎年毎年ナチス関連の映画が次々に作られますね。しかも、本作のようにタイトルに「ヒトラー」が入る作品が多いです。ブログ『ナチス映画史』で紹介した馬庭教二氏の著書によれば、近年、ヒトラーやナチスを題材とする映画が多数製作、公開されています。2015年から2021年の7年間に日本で劇場公開された外国映画のうち、ヒトラー、ナチスを直接的テーマとするものや、第2次大戦欧州戦線、戦後東西ドイツ等を題材にした作品は筆者がざっと数えただけで70本ほどありました。この間毎年10本、ほぼ月に1本のペースでこうした映画が封切られていたことになるわけで、その異常なまでの数の多さに驚かされます。さすがにネタ切れになってきたため、新手のネタとして「毒見役」が選ばれたのではないでしょうか?

 

本作のメガホンを取ったシルヴィオ・ソルディーニ監督は、「エマの瞳」(2017年)などで知られ、これまで数々の映画祭で高い評価を受けてきたイタリアを代表する名匠です。インタビュー動画では本作の日本公開への喜びを述べ、「過去の物語だけれど、現在にも通じる映画なのです」と、本作で描かれるナチスの脅威が現代の世界情勢や戦後81年を迎える日本にも共通していることを強調しました。ヒトラーの毒見役の食事シーンという、これまでのナチス映画にないシチュエーションは緊迫感を生みましたが、毒見の場面はほんの少しで、あとは登場人物たちの不倫とか堕胎とか、タイトルからは予想もできない人生ドラマがほとんどで、ちょっと肩透かしを食った思いです。


エリーザ・シュロットのファンになりました!

 

主人公ローザを演じたエリーザ・シュロットはとても美しく、その気品ある美貌に魅了されました。1994年ベルリン生まれのドイツ人女優で、現在32歳です。10代の頃にテレビデビューを果たし、ドイツ映画奨励賞を受賞しています。高校卒業後の2012年にベルリンからロンドンに移り、演技を学びました。2015年に麻薬中毒者を演じたことで広く知られるようになり、2017年に「Fremde Tochter」に主演。同作はビーベラッハ映画祭でゴールデン・ビーバー賞を受賞。2016年から2018年にかけて、シャウシュピールケルンのアンサンブルのメンバーを務めました。NETFLIXドラマ「皇妃エリザベート」にも出演しており、これからが楽しみな女優さんです!

 

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2026年8月5日  一条真也

「新・三茶のポルターガイスト」

一条真也です。
ドキュメンタリー映画の「新・三茶のポルターガイスト」(2024年)をU-NEXTで観ました。ブログ「三茶のポルターガイスト」で紹介した映画の続編ですが、とても面白かったです。また、前作以上に心霊現象に対して科学のメスを入れており、その誠実な姿勢には好感が持てました。

 

ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「東京・三軒茶屋の心霊スポットに潜入するシリーズの第2弾で、監督を『怪談新耳袋』シリーズや『ヒーローマニア -生活-』などの豊島圭介が務めるドキュメンタリー。三軒茶屋の雑居ビルで起こる怪奇現象とともに、それらの現象を科学的に検証しようとする人々を映し出す。出演はオカルト編集者の角由紀子や、『TENET テネット』の字幕科学監修を手掛けた物理学者の山崎詩郎、超心理学者の小久保秀之など。ナレーションを俳優の東出昌大が担当する」

 

ヤフーの「あらすじ」は、「数々の超常現象が起こる、東京・三軒茶屋の雑居ビルにあるヨコザワ・プロダクション。天井や床から現れる白い手や、降霊術中に現れる黒い手、激しく揺れ動くホワイトボードなどの不思議な現象を、学者らが科学的な観点から解明しようとする」となっています。

 

東京・三軒茶屋にある芸能事務所「ヨコザワ・プロダクション」が入居する雑居ビルで多発する心霊現象を収めた前作「三茶のポルターガイスト」。同作が公開された後も、同所で怪現象は続いていました。数々のYouTuberやテレビの取材がやってきたものの、某テレビ番組では放送不可能とされ、その真相を突き止められなかった場所にオカルト編集者・角由紀子が再び潜入します。定点カメラや降霊術、サーモグラフィ、物理学者・超心理学者らの意見も交えて心霊現象を徹底検証していきます。

 

前作では「コックリさん」が実演されましたが、本作では「スクエア」という珍しい降霊術が実演されます。“儀式バカ一代”と呼ばれるわたしにとって未見の儀式ほど魅力的なものはありません。夢中になって画面を見入りました。「スクエア」は、4人の参加者が真っ暗な部屋の四隅で行う降霊術です。別名「隅の婆様」とも呼ばれ、誰もいないはずの部屋で人数を数えると、いつの間にか「5人目」が現れるという大変恐ろしい都市伝説として知られています。この「スクエア」は、本来の意味合いや亜種として、雪山で遭難した際に眠らないためのアイデアとして語られることもあります。ただし、この場合4人では人数が合わないため、死者が5人目として加わるというバリエーションになります。

 

「スクエア」の最中に、オカルト編集者の角由紀子の足元には黒い手が出現します。前作では白い手でしたが、今度は黒です。また、「親方」と呼ばれる霊が「犬神家の一族」に登場する助清のような頭部を出現させる様子も映っています。さらには、本作の最後にとんでもないものが深夜のヨコザワ・プロダクションの天井からぶら下がっている衝撃映像も登場しました。この映像を観たとき、さすがにわたしも「ああ、これは、モキュメンタリーをも超えたホラー映画なんだな」と思い至りました。

 

わたしは、この映画は「プロレス」、それもUWFのようなリアル幻想をまとった格闘プロレスとして楽しめばいいのではないかと思います。それでも、角由紀子は「ガチの心霊現象です!」と言い切ります。彼女はキュートなので、その意見に賛成してあげたいのは山々なのですが、やはりこれをそのまま妄信してしまうことはできません。それでも、この映画に登場する数々の心霊現象がフェイクでないとしたら、これはもうアメリカの「UFOディスクロージャー」もぶっ飛ぶ「心霊ディスクロージャー」と言うしかありません!

 

 

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2026年8月4日  一条真也