「八つ墓村」

一条真也です。18日の夜、この日から公開された日本映画「八つ墓村」をローソン・ユナイテッドシネマ小倉で観ました。清水祟監督作品と知っていたので期待はしていませんでしたが、予想通りの駄作でした。つまらなくて、寝落ちするのをこらえるのが大変でした。


ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「横溝正史の小説を『呪怨』シリーズなどの清水崇が映画化し、主人公の名探偵・金田一耕助を歌舞伎や映画、ドラマなどで活動する尾上松也が演じるミステリー。名家の出身である母親を亡くしたことをきっかけに、自身のルーツである八つ墓村を訪れた大学生が、金田一と共に不可解な連続殺人事件に巻き込まれていく。奥智哉、堀田真由、高島礼子、滝藤賢一などが共演する」

 

ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「大学生の井川辰弥(奥智哉)のもとに母の訃報が届き、辰弥は一風変わった探偵の金田一耕助(尾上松也)に誘われて岡山県の山奥にある八つ墓村を訪れる。名家である田治見家の遺産相続人である辰弥の帰りを見計らっていたかのように、連続殺人事件が起こる」

 

横溝正史が生んだ名探偵・金田一耕助といえば石坂浩二や古谷一行が演じたイメージが強いですが、過去に映画化された「八つ墓村」では渥美清や豊川悦司が演じました。今回は歌舞伎役者の尾上松也が演じたわけですが、出番が少なすぎて印象が薄かったです。最初に登場するシーンも、財布を忘れてバス代が払えなくなり、バス運転手と口論するというもので、まったく締まりません。『八つ墓村』といえば『犬神家の一族』と並んで横溝正史の代表作なのに、金田一耕助の存在が霞んでしまって残念でした。

 

あと、本作の金田一耕助は帽子を被っています。石坂浩二版や古谷一行版に親しんだ者からすと、あのモジャモジャ頭を掻きむしってフケが飛び散るシーンがないと物足りません。そもそも、本作の冒頭にはスマホが登場します。令和版「八つ墓村」というわけでしょうが、横溝正史のあのドロドロしたミステリーは昭和という時代背景があってこそです。なんか、まったくピンときませんでした。唯一、滝藤憲一だけは良い仕事をしていました。あのギョロ目が最高ですね!

 

『八つ墓村』はこれまでに計4回映画化されていますが、1977年の松竹版が最高傑作だと思います。なにしろ、監督が野村芳太郎、脚本が橋本忍という黄金コンビの作品です。この2人は、日本映画史に燦然と輝く名作である「砂の器」(1974年)でもタッグを組んでいます。「砂の器」の原作者は松本清張ですが、彼の登場によって社会派ミステリーが全盛となり、探偵小説の人気作家であった横溝正史が時代遅れになったという歴史を振り返ると、興味深いですね。



野村芳太郎版「八つ墓村」は、ブログ「『犬神家の一族』4Kデジタル修復版」で紹介した1976年の市川崑監督作品と並んで、横溝正史原作映画の最高傑作です。金田一耕助を渥美清が演じました。日本中の鍾乳洞をロケしてつなぎあわせた村の地下洞シーンや落武者惨殺、村人32人殺し、寺田家炎上などおどろおどろしい映像的見所も多いですが、謎解きミステリを超えて、怨念の実在を説く映画独自のストーリー展開でした。本作と同じく、この作品もホラー寄りだったのですが、本作とは違って非常に怖かったです!

 

さて、小説『八つ墓村』のモデル(事件のモチーフ)となったのは、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡加茂町(現・津山市)の貝尾集落で発生した「津山事件(津山三十人殺し)」です。 都井睦雄という青年が夜間に集落で多数の住民を襲撃した、昭和の日本における未曾有の惨劇です。横溝正史はこの事件を冒頭の「村人32人殺し」のモチーフとしましたが、小説内の地理的な設定などは実際の事件現場から離れた場所(岡山県新見市付近)にアレンジされています。


  

 

都井睦雄は民家11軒に侵入、住民を猟銃や刃物で次々と襲い、約1時間半の間に23名を即死させ、5名に重軽傷を負わせました(そのうち12時間後までに2名が死亡)。都井は犯行後に自殺しています。その後、被疑者死亡で不起訴となりました。日本が明治維新後に西洋式の近代法制を整備して以降、戦争行為を除く犯罪としては、京都アニメーション放火殺人事件が発生する2019年までの81年という長きに渡って最多の犠牲者数でした。



この津山事件は西村望のノンフィクション小説『丑三つの村』のモチーフにもなり、1983年には同名で映画化もされました。戦時下の岡山の寒村。祖母と二人で暮らす犬丸継男(古尾谷雅人)は、村一番の秀才として名高い青年でした。ある日、村の風習である夜這いを知り、彼もこれに溺れるようになります。徴兵検査を受けた継男は、当時の医学では不治の伝染病として忌み嫌われていた結核と診断され、「名誉の出兵」が叶わなくなります。このことが村人たちに知れ渡り、女たちも彼を役立たずと馬鹿にするようになります。村八分のような状況となった彼から恋人のやすよ(田中美佐子)も離れ、次第に追い詰められた彼は村人たちに対して、復讐を決行するのでした。

 

本作「八つ墓村」は、多くのホラー映画のメガホンを取った清水祟が監督だけあって、ミステリーというよりも完全にホラーに振り切っていました。しかし悲しいことに、まったく怖くないのです。村人たちが変な面を被った神楽も、なんだかコミカルでした。清水監督といえば、ブログ「犬鳴村」ブログ「樹海村」ブログ「牛首村」で紹介した「恐怖の村」シリーズがありますが、「八つ墓村」だけあって、このシリーズの1作として作られたのかもしれませんね。笑

 

*よろしければ、佐久間庸和ブログもお読み下さい!


2026年9月19日  一条真也

 

 

すべての人に晴れの日を!

一条真也です。
18日の早朝から、松柏園ホテルの神殿で月次祭が行われました。今朝の小倉は曇りで、気温は26度でした。ずいぶん過ごしやすくなってきました。

ホテルの貴賓室には父の遺影が・・・

 

朝、ホテルに到着して貴賓室に入ったら、デスクの上に父である佐久間進名誉会長の遺影が置かれていました。わたしは遺影に向かって「お元気ですか? これから月次祭と天道塾ですよ」と話しかけました。

神事の始めは一同拝礼

月次祭のようす

厳粛な気分になります

巫女から玉串を受け取る

 

皇産霊神社の瀬津権宮司によって神事が執り行われました。サンレーを代表して、わたしが玉串奉奠を行いました。会社の発展と社員の健康・幸福、それに世界各地で行われている戦争が早く終結することを祈念しました。

玉串奉奠で拝礼する

山下常務に合わせて柏手を打つ

山下常務に合わせて拝礼する

神事の最後は一同拝礼!

 

この日は、わたしに続いて山下常務が玉串を奉奠しました。山下常務と一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。その拝礼は素晴らしく美しいものでした。わが社が「礼の社」であることを実感しました。儀式での拝礼のように「かたち」を合わせると「こころ」が1つになります。神事の後は、恒例の「天道塾」を開講しました。

最初は、もちろん一同礼!

開塾の挨拶をしました

 

神事後は恒例の「天道塾」です。この日はいつもの松柏園のメインバンケット「グランフローラ」ではなく、新館ヴィラルーチェの「ザ・テラス」で行われました。最初にわたしが登壇し、開塾の挨拶をしました。「みなさん、おはようございます! 今朝もホテル内の神殿で行われた月次祭で玉串奉奠しましたが、わたしは今月10日に日本最古の神社とされる伊弉諾神宮を参拝し、そこで全互連を代表して玉串奉奠いたしました」と報告しました。伊弉諾神宮は『古事記』や『日本書紀』にもその祭祀の起源が記され、日本で最初の夫婦神「イザナギノミコト・イザナミノミコト」の二神を祀る最古の神社です。


伊弉諾神宮の参拝を報告



伊弉諾神宮の本名孝至宮司は神社本庁が定める神職の身分の中で最高位とされる「特級」を有されています。特級は全国の神職(約2万人)の中でも120人しかいない非常に稀有な最高ランクです。昨年帰幽された鎌田東二先生とも懇意にされていました。そのような方と、わたしは二晩にわたって酒を酌み交わし、日本人の「こころ」と「かたち」について語り合いました。伊弉諾神宮が夫婦神を祀られていることから、特に「結婚」や「夫婦」について意見交換しました。わたしが、「結婚とは結魂であり、それによって産霊(むすび)が実現して息子(むすこ)や娘(むすめ)が産まれる」「結婚よりも結婚式が先にあった。結婚式を挙げていない者は夫婦になれない」といった自説を申し上げると、本名宮司は同意して下さいました。

冠婚葬祭クイズをみんなで楽しむ

 

それから、 ブログ「『こども霞が関デー』で『こども冠婚葬祭』動画配信!」で紹介した「『こども冠婚葬祭』 心をつなぐ、一生の宝もの~冠婚葬祭と年中行事~」の動画を流しました。毎年、夏休みの時期に行われる「こども霞が関見学デー」における文部科学省の「土曜学習応援団」としてオンデマンド配信されたものです。制作は株式会社サンレー、制作協力は一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会です。このクイズ、営業責任者会議の参加者は全問正解しました。(笑)この動画ですが、9月30日(水曜日)23時59分までオンデマンド公開されています。拡散希望!

平器」とは何か



わたしは、冠婚葬祭には平和を創り出す力があると思っています。人間国宝である十四代 今泉今右衛門先生との対談本「かたち」の文化論(産経新聞出版)がついに発売されました。儀礼文化が「うつわ」によって完成するとすれば、葬儀という儀礼文化が行われるセレモニーホールとは「うつわ」そのものであることに気づきます。日本初の大型セレモニーホールである小倉紫雲閣を作った佐久間進名誉会長はもともと茶人でした。名誉会長は茶器のように「礼」を完成させる器として紫雲閣を建設したのです。わが社は、「はこ」ではなく礼を完成させる「うつわ」としてのセレモニーホールを作り続けてきました。それは「礼器(らいき)」と呼べるものです。この礼器には別名があります。平器です。「平」は「平和」であり「平等」のこと。

結婚は最高の平和である



わが社が運営するホテルや結婚式場は平器です。なぜなら、「結婚は最高の平和である」という理念が実現する場だからです。戦争が起こるとき、異なるものを破壊する大いなる力が働いています。同様に、結婚には異なるものが結び合う大きな力が働いています。「戦争」が敵対の王なら、「結婚」は親愛の王なのです。まったくの赤の他人同士であるにもかかわらず、人と人とが認め合い、愛し合い、ともに人生を歩むことを誓い合う結婚とは究極の平和であるというのがわが持論です。結婚は最高に平和な「出来事」であり、「戦争」に対して唯一の反対概念になるのです。

死は最大の平等である



また、セレモニーホール(コミュニティホール)も平器です。「死は最大の平等である」の理念が実現する場だからです。箴言で知られたラ・ロシュフーコーが「太陽と死は直視することができない」と語りましたが、太陽と死には「不可視性」という共通点があります。わたしは、それに加えて「平等性」という共通点があると思っています。わが社の社名は「サンレー」ですが、万人に対して平等に冠婚葬祭を提供させていただきたいという願いを込めて、「太陽光線(SUNRAY)」の意味を持っています。「死」も平等です。「生」はけっして平等ではありませんが、「死」だけは万人に平等に訪れるのです。

茶室から紫雲閣へ!

熱心に聴く人びと

平器の原型として、茶室があります。
わたしは、「茶室」を究極の平和と平等の空間として位置づけています。かつては武士であっても刀を預けなければ入室できず、天下人であっても身分を離れ、小さな出入口である「躙口(にじりぐち)」から頭を下げて入ることで、すべての人間が平等になれます。身分や貧富の差に関係なく、誰もが同じ歩幅で飛び石を踏み、同じ目線で語り合うのです。茶道の根底にある「和」の精神により、互いを思いやり、調和を保つ平和な空気が醸成されます。この茶室の平和性・平等性を受け継いだのが紫雲閣です。

冠婚葬祭業は平器産業である!

熱心に聴く人びと
 

もうすぐ100店となるわが社のセレモニーホールは、故人や遺族の想いを受け止め、儀礼を成り立たせるための「礼器」としての役割を担うものです。そして、平和と平等を実現する「平器」です。前にこの講話の中で『「人文知」は武器になる』という本を紹介しました。同書では、人文知の結晶としての儀式の重要性を説いていました。しかし、平和と平等の「うつわ」である儀式に「武器」という言葉を使うのは矛盾ではないでしょうか。それは「平器」と呼ばれるべきです。今月の総合朝礼で、わたしは「この世には戦が絶えぬものならば われらつくらん 平和のうつは」という道歌を詠みましたが、冠婚葬祭業は平器産業なのです! 

呪いの時代に、祝いの光を!



平器産業としての冠婚葬祭業は、世の中を明るくします。わたしは、「呪いの時代に、祝いの光を!」ということを訴えています。「人の不幸は蜜の味」という言葉がありますが、現在、SNSを中心に他人を誹謗中傷したり、その存在を否定するようなメッセージが広まっています。それはネガティブな言葉による「呪い」にほかなりません。SNS全盛の現代は、「呪いの時代」という側面があります。「呪い」の反対は「祝い」です。サーブとしての「祝い」には、ものすごい力があります。ネガティブな「呪い」を解く最高の方法とは、冠婚葬祭に代表される「祝い」を行うことなのです。わたしは「祝う」という営み、特に他人の慶事を祝う心と行為が人類にとって非常に重要なものであると考えています。よく「ありがとう」は最強の言霊だなどと言われますが、「おめでとう」はそれ以上のパワーを秘めているように思えます。なぜなら、「ありがとう」はレシーブですが、「おめでとう」とはサーブだからです。

「呪い」から「祝い」へ!

 

いま、世界も日本も、「呪い」の応酬がすさまじい状況になっています。アメリカとイラン、ロシアとウクライナ、与党と野党・・・それぞれが相手を完全破壊すべく、「呪い」を掛け合っています。ネット社会での個人の誹謗中傷、学校でのいじめ、会社でのハラスメントも立派な「呪い」です。「呪い」を「祝い」によって解くことは、暗闇を太陽の光が照らすようなものだと思います。結婚披露宴をはじめ、長寿祝い、厄除け祝い、還暦祝いなどが開かれ、多くの人々が参加することが「祝い」の光を発します。これからも、「おめでとう」と「ありがとう」の声、心のサーブと心のレシーブが行き交う社会の実現をめざしたいものです。分断や対立が続く時代だからこそ、祝いの文化を絶やしてはなりません。

晴れの日は晴れ着で



「おめでとう」と「ありがとう」が自然に交わされる社会には、人を思いやり、感謝する心が育まれます。祝いの光を広げることこそ、心ゆたかな社会への第一歩なのです。そのような考えのもとに、わが社が展開しているのが、児童養護施設への晴れ着の無償レンタルです。現在、グループの各地の冠婚部門では、「晴れの日は晴れ着で」を施策の最優先としています。「すべての人が輝くことのできる儀式を提供したい」という思いから、児童養護施設に入所している、または同施設出身の子どもたちに七五三や成人式の晴れ着を無償提供し、記念写真の撮影を行うプロジェクトを2019年より実施しています。わたしはこれを、他者の痛みに寄り添い、悲しみをケアする「コンパッション(思いやり)」の具体的な実践と位置づけています。

日本映画「時には懺悔を」を紹介



さらには、ブログ「時には懺悔を」で紹介した日本映画を観て、障害のあるお子さんにも七五三を提供したいと強く願いました。同作では、柴咲コウや黒木華が重度の障害のある子を産んだ母親を演じています。その地獄のような日々の中で、彼女たちは「この子を産まなければ良かった」とか「可愛いと思ったことは一度もない」などと言います。それは疲弊しきった彼女たちの魂の叫びであり、それを聴いたとき、わたしは泣けて仕方がありませんでした。でも、障害のある子たちが周囲の大人を励まし、勇気を与える場面もあって救われた気がしました。わたしは、障害のある人々の存在は、人間社会に最も大切な「思いやり」を生み、人類の本能である「相互扶助」のスイッチを入れるものだと思います。

サンレーはすべての人に儀式を!

 

七五三や成人式はもちろん、長寿祝いも含めて、すべての通過儀礼は「あなたが生まれたことは正しい」「あなたの成長をこの世界は祝福している」という存在肯定のセレモニーです。児童養護施設のお子さんに加えて、ぜひ障害のあるお子さんの人生を肯定させていただきたいです。そして、わが社は真の意味での「コンパッショナリー・カンパニー」として、万物に光を降り注ぐ太陽のように、すべての人が輝くことのできる儀式を提供したいです。すべての人の存在を肯定することが、わが社のミッションである「人間尊重」、すなわち「」の精神だからです。これほど世のため人のためになる素晴らしい仕事はありません!


60周年を迎え、サンレーの時代が来る!

最後はもちろん一同礼!

 

ブログ「60➡30」で紹介したように、令和8年9月1日に「改正道路交通法施行令」が施行され、生活道路における自動車の法定速度が60km/hから30km/hに引き下げられました。これをわたしは陽にとらえて、「60周年を迎え、サンレーの時代が来る!」と読み替えました。こうして、わたしの社長訓話は終了しました。太陽が万物に光を降り注ぐように、サンレーは「すべての人に晴れの日を!」を目指します。最後に、「11月18日の創立60周年記念日まで、全員で『こころ』を1つにして前を向いて進みましょう!」と言ってから降壇しました。一致団結して前進あるのみ!

明後日は父の三回忌です

 

2026年9月18日 一条真也

『ヌーヴェル・ヴァーグ』

ヌーヴェル・ヴァーグ 世界の映画を変えた革命 (集英社新書)

 

一条真也です。
『ヌーヴェル・ヴァーグ』古賀太著(集英社新書)を読みました。「世界の映画を変えた革命」というサブタイトルがついています。著者は、日本大学藝術学部映画学科教授。専門は映画史。1961年生まれ。国際交流基金に勤務後、朝日新聞社文化事業部企画委員、文化部記者を経て2009年より現職。著書に『美術展の不都合な真実』『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』、訳書に『魔術師メリエス』など。フランスより国家功労勲章シュヴァリエ授与。


本書の帯

 

本書の帯には「その『新しさ』は、永遠に生き続ける」と大書され、「ゴダール、トリュフォー、シャブロル、ロメール・・・・・・。さらに、映画史の古典から21世紀の新作まで。『ヌーヴェル・ヴァーグの精神』に満ちた約800本を紹介!」と書かれています。帯の裏には「●本書の構成と、各章で紹介する主な作品」が紹介されています。

本書の帯の裏

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「ヌーヴェル・ヴァーグ(N・V=新しい波)は、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらを中心に1950年代末のフランスで生起した映画の革新運動だが、それにとどまらず、日本も含めた『世界同時多発現象』として、新しい映画表現や製作スタイルを生み出した。本書は、国境や時代を超えたN・Vの広がりとその担い手について解説。映画の創始者であるリュミエール兄弟から現代の映画作家に至るまで、『N・Vの精神』に満ちた作り手たちによる約800本の作品を紹介する」


 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「『はじめに』に代えて」
第1章 フランスのヌーヴェル・ヴァーグとは
第2章 1959年までの道のり
第3章 ヌーヴェル・ヴァーグの開花
第4章 「左岸派」たちの肖像
第5章 ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグの監督たち
第6章 日本におけるヌーヴェル・ヴァーグ
第7章 西欧に広がるヌーヴェル・ヴァーグ
第8章 旧共産圏とアメリカ大陸
第9章 映画史から現代へ
「あとがき」
「註」



第1章「フランスのヌーヴェル・ヴァーグとは」の「(1)命名と普及」では、1959年のカンヌは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」という言葉がフランス内外に広がるのに決定的な役割を果たしたことが紹介されます。フランスからは3本が出ました。マルセル・カミュの『黒いオルフェ』がパルムドール、フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』が監督賞、アラン・レネの『二十四時間の情事』はアメリカ政府の要請でコンペ外の上映となりましたが、国際批評家連盟賞を受賞しました。著者は、「『大人は判ってくれない』も『二十四時間の情事』も第1回長編で、トリュフォーは27歳、レネは36歳。これは前年に大統領になったド・ゴールが作った文化省の初代文化大臣に任命された、小説家のアンドレ・マルローの力が大きかった。彼は事前に3本を見て強く推した」と書いています。

 

 

第2章「1959年までの道のり」の「(1)『カメラ万年筆』論」では、N・Ⅴの若者たちがシネクラブ活動を始めていた1948年、24歳にして評論家や小説家として活躍していたアレクサンドル・アストリュックが『レクラン・フランセ』144号に「新しいアヴァンギャルドの誕生――カメラ万年筆」という論考を発表したことが紹介されます。つまり、今後の映画は娯楽から抜け出して、個人が思想を表現し物語を語るものとなることです。これは、撮影カメラが万年筆のように自己表現の道具となるという意味でした。カメラ付きのスマホが筆記用具としてSNSなどでのさまざまな表現に使われる現代を予言したようにも思えますが、アストリュックは映画がそう変わることを提案したのです。



N・Ⅴの監督で、彼が想定した哲学をも映画で語りうる存在になったのはゴダールただ1人かもしれないと、著者は述べています。いずれにせよ、監督が脚本も書き、作家として個人で活動するという形は、それまでの映画作りに対峙する新たな監督像を提示したのでした。著者は、「実際にはN・Vの監督たちの多くはシャブロルがポール・ジェゴフと、トリュフォーを始めとしてリヴェット、レネが複数の作品でジャン・グリュオーと組んだように、特定の脚本家と共同で脚本を書く場合が多かったが。ともあれ、個人で簡単に動画が撮影できるスマホ万能の現代を考えると、『カメラ万年筆』論は古びることはない」と述べています。

 

 

「(2)アンドレ・バザン」では、N・Vの監督たちに最も大きな理論的影響を与えたのは批評家のアンドレ・バザンであると指摘します。アストリュックの「カメラ万年筆」という考えも、起源はバザンの文章にあるといいます。映画批評家であった彼はフランソワ・トリュフォーが少年鑑別所にいたときに身元保証人となり、さらに志願入隊をした軍隊から脱走して投獄されたときに除隊の手助けをして、まさに「父親代わり」となりました。アンドレ・バザンの映画批評の特徴は、簡単に言えば「存在論的リアリズム」の擁護であるとして、著者は「彼の映画論は邦訳の『映画とは何か』を読めばわかる。バザンは『写真映像の存在論』で、写真の独自性は『人間の創造的介在なしに』自動的に生み出されたことからくる客観性にあると説いた」と述べます。

 

 

第3章「ヌーヴェル・ヴァーグの開花」の「(1)ヌーヴェル・ヴァーグの美学」では、N・Vの映画の特徴として即興演出やロケの多用や素人の起用などが挙げられると指摘します。ミシェル・マリはその美学として脚本から仕上げまでの以下の8つの立場を挙げています。
(1)作家=監督が脚本家を兼ねる
(2)事前に決められたショット構成を用いず、即興に大きな余地を残す
(3)ロケが特権化され、スタジオ(撮影所)に依存しない
(4)数人からなる「機動性のある」撮影チームが用いられる
(5)後時録音よりは撮影時に録音する直接音
(6)過剰な追加照明は用いない、感度の高いフィルムを使用
(7)非職業俳優が用いられる
(8)職業俳優の場合は新人俳優を用いる



「(3)トリュフォーの奇跡」では、自伝的内容の多いN・V初期の作品の中でも、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959年)はとりわけその要素が強いことが指摘されます。両親の不和、学校の先生の無理解、家にも学校にも耐えられずに家出をして盗難に及んで少年鑑別所に送られるまで、すべてが実体験をベースにしたことが、彼のインタビューでわかっています。トリュフォーは「カイエ派」の中では珍しく大学に行っておらず、小学校をかろうじて卒業した。そのうえ、文字通り不幸な少年時代を送っているとして、著者は「それらすべてがこの映画の細部のリアリティの強さを生んだのである。さらにアントワーヌを演じたジャン=ピエール・レオーがトリュフォーのイメージに応えた」と述べています。レオーも家庭に不満でよく家出をした経験がありました。警察から護送車に乗せられて外を見るときの目、鑑別所で女性精神科医に答えるときの自然な表情、ラストの有名な海岸の場面のクロース・アップの静止ショットで捉えられた目など、ジャン=ピエール・レオーの視線の鮮烈な強さがこの映画を支えているといいます。


 

さらに驚くべきは、トリュフォーはレオーが演じるアントワーヌ・ドワネルを主人公として、その後20年にわたり、4本の作品を作っていることだといいます。『二十歳の恋』(1962年、オムニバスの1本)、『夜霧の恋人たち』(1968年)、『家庭』(1970年)、『逃げ去る恋』(1979年)と、主人公が俳優と同じように成長してゆく形の映画史的に見ても類いまれなシリーズとなりました。最後の『逃げ去る恋』はいわば総集編で、回想形式で過去の作品が使われています。レオーはこれらの「ドワネルもの」以外でもトリュフォーの『恋のエチュード』(1971年)や『アメリカの夜』(1973年)に出演しているほか、ゴダール作品にも『中国女』(1967年)を始めとして数本に出演しており、N・Vの代表的な顔の1人となりました。



「(4)『勝手にしやがれ』の衝撃」では、著者が現在の目でN・Vの初期長編10本ほどを見ると、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』は圧倒的に突出していると述べます。多くのショットはコマ切れでつながっておらず、時には登場人物が正面を見て話し、会話がほぼ成り立っていません。原題の「息切れ」「息もたえだえ」(英語題はBreathless)という言葉がぴったり合うほど、最初から最後まで一気に突っ走るとして、著者は「『勝手にしやがれ』という邦題は、この映画を買い付けた秦早穂子がつけたものだが、秦はわずか20分のラッシュを見ただけで買い付けを決めた。海外で最初に買ったのは日本で、日本公開はフランス公開の10日後だった」と述べます。秦は自伝的小説『影の部分』に「モノクロの画面は光輝き、ジャン=ポール・ベルモンドは自由で無造作だった。20分あまりのラウル・クタールのカメラは鮮烈だった」と書いています。

  

 

さらに、『勝手にしやがれ』には画面のあちこち「引用」が登場し、作品体をかき乱していると指摘されます。著者は、「ミシェルとパトリシアが行く映画館にハンフリー・ボガードのポスターがあるような、トリュフォーの映画でよく見る『映画愛』の表現もあるが、ゴダールの場合は、音楽(モーツァルト)、文学(フォークナー、リルケ)、絵画(ピカソ、ルノワール)など多岐にわたる。パトリシアが参加する空港での記者会見に臨む作家のパルヴュレスコをゴダールが敬愛するジャン=ピエール・メルヴィル監督が演じるのも、ゴダールらしい引用である。さらにラジオや新聞、雑誌といったメディアも混入する。セバーグの英語訛りのフランス語では時々会話が通じず、ミシェルが何度電話しても相手がいないように、言葉をめぐるコミュニケーションの問題が生じる。そしていくつもの種類の自動車が続々と登場する。こうしたゴダール特有のスタイルは、この最初の長編に始まって生涯にわたって続く」と述べています。


 

その後、ゴダールは公私にわたるパートナーとなるアンナ・カリーナと出会い『小さな兵隊』を作りましたが、アルジェリア戦争に触れたために上映禁止となり、戦争終結後の1963年1月にいくつかの台詞を削除して公開されました。ゴダールは公開直前に「人々はヌーヴェル・ヴァーグを、ベッドのなかにいる人たちしか描こうとしないと非難している、だったらぼくは、政治にかかわっていて寝る暇もないような人たちを描いてやろう、と。そして当時は、政治と言えばアルジェリアのことだった」と述べています。ゴダールはカリーナと、次に2人の幸福な気分を表した『女は女である』を撮り、微妙な関係を暗示する『気狂いピエロ』まで長編だけで6本を作りました。



「(5)ロメールの謎」では、ゴダールより10歳年上の1920年生まれで、「カイエ派」の最年長であったエリック・ロメールが取り上げられます。1983年の『海辺のポーリーヌ』は日本で初めて公開されたロメールの映画ですが、これ以降の作品はほとんどが同時代的に公開されて「お洒落な」映画として流通しました。著者は、「フランスでは1960年代後半以降の作品はおおむね当たるようになり、ロメール監督の長編25作品(『モンソーのパン屋の女の子』と『シュザンヌの生き方』を含む)を800万人以上が劇場で見たというから、結果としてはN・V一番のヒット監督である。もともと高校の教師で、小説を別名で出版していた。映画の理論的分析にすぐれて1948年には『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』に最初の評論「映画――空間の芸術」を発表し、N・Vのメンバーに大きな影響を与えた」と説明しています。



第4章「『左岸派』たちの肖像」の「(1)アラン・レネの冒険」では、「左岸派」の代表監督であるアラン・レネが取り上げられます。アラン・レネはブルターニュ地方の海に面したヴァンヌ市の薬剤師の息子として生まれて文学、映画、演劇に興味を持ち、1939年からパリに住みました。短編ドキュメンタリーで特異な才能を発揮し、彼の初長編であり初めての劇映画『二十四時間の情事』(1959年)に挑みました。短編ドキュメンタリー『夜と霧』(1955年)のナレーションは作家のジャン・ケロールが書きましたが、本作では女性作家のマルグリット・デュラスにシナリオを依頼。このような文学者との協働は、ほかのN・Vの監督には見られないとして、著者は「そもそもトリュフォーは『フランス映画のある種の傾向』で有名な文学作品をプロの脚本家が翻案して映画化することを非難していた。この作品の原題は『ヒロシマ、わが愛』だが、最初予定されていた題名は『ピカドン』だった」と述べています。



デュラスの文学の力を最大限に生かしたレネは、次の『去年マリエンバートで』(1961年)では、「ヌーヴォー・ロマン」の旗手、アラン・ロブ=グリエと組んでさらに抽象性の高い世界を構築。前作と同じく登場人物の名前はなく、男は「去年フレデリクスバート庭園で会った」と言い、その公園を思い浮かべます。画面にはその公園を歩く女が写ります。女の夫らしき男が、追いかける男に銃を放ちます。男は時おりモノローグで女との出会いを語り、その場面を思い浮かべるのでした。ロブ=グリエは、この映画のシナリオのみならず絵コンテまで描いてレネに渡したといいます。著者は、「3人の主要人物以外は台詞も少なくまるで人形のようで、全体として絵画のように(例えばルネ・マグリットの)、造形的に完成された場面が次々に続く。廊下を走り回るカメラは、『世界のすべての記憶』を思わせる。前作のような政治性や歴史性ははぎ取られ、純粋に人間の記憶と愛を追いかける画面と言葉がせめぎ合う」と述べます。



「(3)ジャック・ドゥミのファンタジー」では、『シェルブールの雨傘』(1964年)が取り上げられます。同作は、すべての台詞を歌で綴るという映画史でも初めての試みのなされたミュージカル映画です。著者は、「ドゥミ初めてのカラー作品でもあり、美術のエヴァンの力を借りて冒頭の色とりどりの傘に始まって赤や黄や青の原色を使った人工的な世界を作りあげた。この二重に人工的な世界で語られるのは自動車整備工の青年ギイと傘屋の娘ジュヌヴィエーブの悲恋だが、その背景にはアルジェリア戦争という現実がある」と説明します。同作は1957年11月の「旅立ち」、58年1月の「不在」、59年3月の「帰還」、そして63年12月の「エピローグ」と進みますが、ギイは「旅立ち」のときにジュヌヴィエーブに「今のアルジェリア戦争では、いつ帰ることができるかわからない」と語ります。『シェルブールの雨傘』はカンヌでパルムドールを受賞し、世界中でヒットして主演のカトリーヌ・ドヌーヴを一挙にスターに押しあげました。



第6章「日本におけるヌーヴェル・ヴァーグ」の「(2)日本のN・V」では、大島渚(1932年生まれ)、吉田喜重(1933年生まれ)、篠田正浩(1931年生まれ)がフランスのN・Vとほぼ同世代で、現代では彼らを指す「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」という言葉が知られていると紹介されます。1961年、大島渚は結婚したばかりの女優・小山明子、脚本家の田村孟や石堂淑朗らと共に松竹を辞めて創造社を設立。吉田喜重は1964年、篠田正浩は1966年に松竹を退社しました。フランスの場合はもともと監督が大手映画会社の社員であることはないので状況は全く異なりますが、とりあえず松竹の3人は60年半ばまでにフリーとなりました。日本のN・Vはフランスからの影響は受けており、特に『勝手にしやがれ』の影響を感じます。しかし、著者は「日本の監督たちの方が明らかに政治性が強く、体制への反抗や虚無感を濃厚に表している」と分析しています。中でもそれが最も激しいのがブログ「儀式」で紹介した大島渚でした。



「(5)増村保造と中平康」では、1960年代後半に日本の映画産業が壊滅的な不況に陥るまで、増村保造は大映に、中平康は日活に所属し、あくまで商業映画の枠の中で新しい映画を作っていったことが紹介されます。日本映画を変えることにより意識的だったのは増村保造でした。大映に入社後イタリアの国立映画実験センターに留学。帰国後、溝口健二らの助監督を経験して『くちづけ』(1957年)でデビュー。同じ年の『青空娘』『暖流』を通して感じられるのは、登場人物の異様なほどのスピード感溢れる台詞回しと率直で性急な感情表現だと指摘し、著者は「『くちづけ』のラストシーンで川口浩は野添ひとみに突然キスをして『これで理由ができたろう』と叫ぶ。『青空娘』で若尾文子は訪れた父の家で女中扱いされても全くめげず、ミヤコ蝶々に『女中の仕事教えてよ』と微笑む。『暖流』の左幸子は東京駅で改札を過ぎた根上淳に『情婦でも二号でもいいんだから、待ってます!』と叫ぶ」と述べています。



日活の中平康は増村のデビューの1年前にあたる1956年に『狂った果実』を監督しました。原作は石原慎太郎です。彼が芥川賞を受賞した『太陽の季節』が56年3月に出てベストセラーとなり、5月に公開された同名の映画作品(日活、古川卓巳監督)もヒットしました。そこで石原作品から6月に『処刑の部屋』(大映、市川崑監督)、7月に『狂った果実』が公開されたのです。脚本は石原慎太郎が手がけ、『太陽の季節』に脇役で出ていた弟の石原裕次郎を売り出すために作られた作品ですが、軽快なテンポとアップを多用した直接的な感情表現、人妻を奪い合う兄弟という不道徳な内容、兄と恋人のいるヨットにボートを衝突させる衝撃的なラストによって、「太陽族映画」と呼ばれた石原原作ものの中でも高い評価を得ました。それにして原作の出版と同年に映画が公開されるとは凄いですね!



「(6)その他の監督たち」では、まず川島雄三が取り上げられます。彼は戦時中の松竹で助監督から監督になり、20本以上を残しています。日活に移って彼の本領が発揮されるのは『洲崎パラダイス 赤信号』(1956年)からで、さびれた遊郭に集う貧しい男女を雨や川の流れと共に描きながら、同時に明るいジャズやラテン音楽、チンドン屋や巡業芝居、異様なノリの小沢昭一を組み合わせました。『幕末太陽傳』(1957年)ではさらにこのアクの強い構成を突き進め、品川の遊郭で代金が払えないために働くフランキー堺が絶えず話しながら室内を走り回り、石原裕次郎演じる高杉晋作らの襲撃計画も左幸子と南田洋子のケンカも小沢昭一の飛び込み心中も巻き込んでゆきます。著者は、「あちこちに動物や死のイメージが遍在する強烈な作品である」と評しています。


 

次に、今村昌平が取り上げられます。彼は戦後松竹で小津安二郎や川島雄三などの助監督を経て、1954年に日活に移籍しました。『幕末太陽傅』の脚本に参加した後、デビュー作の『盗まれた欲情』(1958年)を発表。同作について、著者は「旅芸人一座の長門裕之を中心にした庶民の欲望や活力を肯定する視点は明確である。そこに政治性が加わり、また独自の土俗的な世界を表現するようになるのは『豚と軍艦』(1960年)からだろう」と述べています。同年に作られた大島渚の『日本の夜と霧』と増村保造の『偽大学生』は日米新安保条約(=アメリカの支配)に反対する学生を描きましたが、今村の『豚と軍艦』はアメリカ軍に寄生するヤクザたちを描き、終盤にその象徴として豚の群れを登場させたのです。



日本のN・Vについては、邦画大手が展開したシリーズものやジャンル映画を挙げる人もいるだろうとして、著者は「ジャンル映画は繰り返すうちに型だけが残ってジャンルそのものを問うようなメタ映画が生まれ、自由な表現が可能となる」と述べます。その典型が鈴木清順で、日活でギャング映画を作りながら『関東無宿』(1963年)あたりから次第に人工的でキッチュな映像を生み出し、『東京流れ者』(1966年)や『殺しの烙印』(1967年)で「清順美学」と呼ばれる色彩感覚溢れる独自のシュールな作品を残しました。著者は、「1960年代に松竹を退社した大島渚、吉田喜重、篠田正浩たちに加えて、その前の世代で1950年代に松竹から日活に移籍した川島雄三、今村昌平、鈴木清順を考えると、小津安二郎や木下惠介という巨匠を抱えた松竹という会社が、映画界における旧世代の抑圧する制度として機能し、その反動としてN・Vを生んだと言えるかもしれない」と述べるのでした。



第7章「西欧に広がるヌーヴェル・ヴァーグ」の「(1)イタリア」の冒頭を、著者は「ヌーヴェル・ヴァーグという呼称はフランス語だが、日本の場合がそうであるように、戦後社会の急激な変化を背景に世界各地で自然発生的に生まれている。つまりフランスの影響とは関係なく、各地で同時代的に生まれた現象である。しかしその世界的な動きに最初に刺激を与えたのが、イタリアのネオレアリズモであることは間違いない」と書きだしています。すでにファシズム政権下の1940年代に先駆的作品が何本か現れ、戦後はロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』(1945年)やヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948年)などが世界各地で上映され、全編ロケで素人を中心とした即興的な演出が話題となりました。

 

「(3)ドイツ」では、時期的にフランスに先んじたイギリスとは逆に、ドイツでは「ニュー・ジャーマン・シネマ」と呼ばれた新しい波は数年遅れたことが紹介されます。1962年のオーバーハウゼン短編映画祭における「オーバーハウゼン宣言」で、若手小説家や映画監督が「古き映画は死んだ。われわれは新しい映画を信ずる」と発表。それに参加したアレクサンダー・クルーゲ(1932年生まれ)は、初長編『昨日からの別れ』(1966年)がヴェネツィアで銀獅子賞を得て評価されました。これは東側から西側に移った20代女性の放浪を通じて、戦後のドイツ社会の問題や過去を浮き彫りにしました。



 『昨日からの別れ』が高い評価を受けた1966年、フランスのIDHECを出てアラン・レネやルイ・マルの助監督を務めたフォルカー・シューレンドルフ(1939年生まれ)は、『テルレスの青春』(1966年)がカンヌで国際批評家連盟賞を取りました。著者は、「こちらは20世紀初頭のオーストリアの高校の寄宿舎におけるいじめを描く。その暴力的な描写や無関心を装う周囲の反応はナチス時代を思わせるが、この監督はそのような象徴的な場面の造形に才能を発揮し、『ブリキの太鼓』(1979年)ではカンヌでパルムドールを獲得して世界的な巨匠となった」と説明します。第2陣は1970年前後に始まります。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(1945年生まれ)、ヴェルナー・ヘルツォーク(1942年生まれ)、ヴィム・ヴェンダース(1945年生まれ)などの1940年代生まれが20代で次々と作品を発表しました。



ヘルツォークは1968年に最初の長編『生の証明』を発表。第二次世界大戦中に負傷してギリシャの島で療養するうちに暑さと孤独で精神を病んでゆく青年を描き、異郷と狂気という生涯続く彼のテーマを見せています。続く『小人の饗宴』(1970年)では小人症の施設での反乱劇を描いて賛否両論を呼びました。『アギーレ/神の怒り』(1972年)は16世紀の南米で黄金の地を目指すスペイン人たちを描きましたが、主演のクラウス・キンスキーの狂気の姿が強い印象を残しました。ヘルツォークはその後も彼を主演に『ノスフェラトゥ』『ヴォイツェク』(共に1979年)、『フィツカラルド』(1982年)、『コブラ・ヴェルデ』(1987年)と4作品を作っています。著者は、「世界各地の辺境まで出かけ、あるいは歴史上の奇矯な人間を見つけてカメラに収めるヘルツォークの手法はほかの同時期のドイツ映画とは異なるが、明らかに映画の新しい地平を開いたと言えるだろう」と述べます。



「(5)スペイン」では、1940年生まれのビクトル・エリセは寡作ながら重要人物であると紹介されます。1969年にオムニバス『挑戦』(1969年)でデビューし、1973年に初長編『ミツバチのささやき』でサン・セバスチャン国際映画祭で金の貝殻賞を得ました。著者は、「幼い姉妹が見る不可思議な世界を、六角形の格子の入った窓を通した黄色い光や黒をバックにした室内に描き、バロック絵画を思わせた。スペイン内戦終結直後の1940年を描きながらも、フランコ政権末期の映画制作時を想起させ、さらに映画『フランケンシュタイン』を重ねた。主演のアナ・トレントは日本で人気を呼び、彼女が主演の映画が何本も公開された」と述べています。その後は1983年に『エル・スール』、1992年に画家、アントニオ・ロペス・ガルシアのドキュメンタリー『マルメロの陽光』ブログ「瞳をとじて」で紹介した2023年の長編と、これまでに4作しか作っていませんが、世界の映画ファンに愛されています。



「(7)ギリシャ」では、テオ・アンゲロプロスが国際的な名声を得たことが紹介されます。彼は1935年にアテネに生まれ、1961年からパリのソルボンヌ大学やIDHECに学びながらシネマテーク・フランセーズで多くの映画を見た後、ギリシャに戻って1970年に初長編『再現』を発表しました。同作について、著者は「ドイツでの出稼ぎからギリシャの山村に帰った男が殺される事件を描きながら、まるで古代ギリシ悲劇のような格調高い映像を見せた。ロングショットを多用し、終盤にはカメラを360度パンさせて妻を見る住民たちを写すなど、彼ならではの手法も見ることができる」と述べています。次の『1936年の日々』(1972年)からは「ギリシャ現代史三部作」が始まり、『旅芸人の記録』(1975年)、『狩人』(1977年)と続きました。



第8章「旧共産圏とアメリカ大陸」の「(1)ポーランド」では、フランスのN・Vに先んじたのが「ポーランド派」であったことが紹介されます。彼らはN・Vよりも少しだけ年上の世代に属します。その先陣を切ったのが1926年生まれのアンジェイ・ワイダ監督でした。『世代』(1955年)は、1943年のドイツ占領下におけるポーランド人の若者のレジスタンスを描きますが、著者は「その描き方はあくまで等身大だし、ほとんどがロケの撮影である」と述べます。その後ワイダは1944年9月のワルシャワ蜂起の終焉を『地下水道』(1957年)で描いてカンヌで審査員特別賞を取り、『灰とダイヤモンド』(1958年)では45年5月の終戦の1日を見せてヴェネツィアで国際批評家連盟賞を得ました。著者は、「この3本を見ると、スターリンが1956年に没してからポーランドでも『雪解け』が進み、共産党批判が現れると同時に社会主義リアリズムから自由で詩的な表現が広がってゆくさまがよくわかる」と述べています。



「(5)旧ソ連」では、アンドレイ・タルコフスキー(1932年生まれ)が取り上げられます。国立映画大学の卒業制作『ローラーとバイオリン』(1960年)からすでに水や鏡への豊かな感受性を見せ、次の『僕の村は戦場だった』(1962年)では目の前で起こる戦争に少年の記憶やニュース・リールを混在させて、心象風景を浮かびあがらせ、ヴェネツィアで金獅子賞を得ました。以降、彼の作品は『アンドレイ・ルブリョフ』(1966年)、『惑星ソラリス』(1972年)、『鏡』(1975年)、『ストーカー』(1979年)と国際映画祭の常連となりました。『ノスタルジア』(1983年)はイタリアで、遺作『サクリファイス』(1986年)はスウェーデンで撮影。著者は、「人間存在の根源を自然や記憶と共に描こうとする映像は後期になるにしたがって純化され、『魂の叫び』としか言いようのない作品群を残した。『ノスタルジア』以降はソ連に戻ることなく、政府からの帰国要請も拒否して86年にパリで客死した」と述べます。



「(8)アメリカ」では、日本で「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれた1960年末から70年代の映画は、本国では「ニュー・ハリウッド」や「アメリカン・ニュー・ウェイヴ」(つまりアメリカのヌーヴェル・ヴァーグ)などと呼ばれることが紹介されます。1967年のアーサー・ペン『俺たちに明日はない』、マイク・ニコルズ『卒業』、69年のデニス・ホッパー『イージー・ライダー』、ジョージ・ロイ・ヒル『明日に向って撃て!』などがそれに当たります。著者は、「果たしてこれらがN・Vに当たるかどうかは人によって考えが異なるだろうが、私にはベトナム戦争や公民権運動、ウーマンリブなどの激動の時代を経た世代に向けたハリウッドの新しい展開に思えるし、すでに文献も多いのでここでは論じない」と述べるのでした。



第9章「映画史から現代へ」の「(1)ヌーヴェル・ヴァーグの再定義」では、各国のN・Vの根源にはイタリアのネオレアリズモがあり、その奥には第二次世界大戦の経験がありましたが、それは国によって大きく異なったと述べられます。また大戦後の独裁政権や社会主義政権による支配に対する反抗が契機となった国も多かったです。ただ確かなことは、いわゆる撮影所=スタジオで物語を作る映画から、ロケを中心にそれぞれの抱える現実を表現する映画に変わっていったことだとして、著者は「それまでの映画では表現されなかった自分の周囲の現実を知らせることが、映画を作る最大の契機となった。その意味では、どんな国でも、どんな時代でも、新しい現実を見せようとする試みは行われてきたのではないか。これまでは50年代半ばから70年代前半までの欧州、アメリカ大陸と日本を取りあげてきたが、この最終章ではそれを取っ払って自由に、見る人が『新しい現実だ』と思うような映画がN・Vだと定義してみたい」と述べています。



「(2)初期映画から」では、通常、リュミエール兄弟はドキュメンタリーで、『月世界旅行』(1902年)で知られるジョルジュ・メリエスからフィクションが始まったと言われますが、著者はメリエスにも彼なりのリアリズムの追求があると思うと述べます。それは自らのパフォーマンスで画面を満たすことでした。著者は、「その後の映画史は、チャールズ・チャップリンやオーソン・ウェルズ、ジャック・タチ、クリント・イーストウッド、北野武など監督兼主演の天才を何人か生み出すが、奇術師出身のメリエスはわずか3分ほどの映像を完全に支配し、パフォーマンスとしてのリアリズムを表現した」と述べるのでした。本書は、ヌーヴェル・ヴァーグという主題がありながらも、読者に「映画とは何か」という本質的な問いを抱かせてくれる名著です。

 

 

*よろしければ、佐久間庸和ブログもお読み下さい!

 

2026年9月18日  一条真也

『トム・クルーズの真髄』

トム・クルーズの真髄 40年間トップに立ち続ける理由 (星海社 e-SHINSHO)

 

一条真也です。
『トム・クルーズの真髄』メラニー著(星海社新書)を読みました。「40年間トップに立ち続ける理由」というサブタイトルがついています。著者は、アカデミー賞ウォッチャー。映画会社に29年勤務しながら、1989年から35年にわたりアカデミー賞を見続けている会社員。アカデミー賞受賞予想がライフワーク。2017年2月にTBSラジオの人気カルチャー番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」(現在は「アフター6ジャンクション2」)に“オスカー予想屋”として初登場。以来、アカデミー賞シーズンの風物詩ゲストとなっている。以降、映画関連の寄稿記事やトークイベントに多数掲載及び出演。

本書の帯

 

本書のカバー表紙にはトム・クルーズの顔写真が使われ、帯には「映画界の至宝、トム・クルーズはいかに不可能(インポッシブル)を可能(ポッシブル)にしてきたか」「トム・クルーズ、自身初のオスカー 第98回アカデミー賞名誉賞受賞」「映画評論家・町山智浩、推薦!『誰よりもアカデミー賞に詳しいメラニーさんが誰よりも詳しく、熱くトムクルを論じた!』」と書かれています。

本書の帯の裏

 

帯の裏には、「トム・クルーズの功績を4分で話せと言われたが、それはこの街で言うところの“ミッション:インポッシブル”だ――アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(『レヴェナント:蘇えりし者』『バベル』など)」と書かれています。



カバー前そでには「トム・クルーズを超えるものは、トム・クルーズしかいない」として、「数々の一流監督を魅了して止まない俳優としての格、命懸けのスタントに宿る身体表現の極致、天才的なセルフプロデュース力、『ミッション:インポッシブル』を世界規模のフランチャイズに育て上げたプロデューサーとしての手腕、そして誰よりも強い映画への愛ーー世界を惹きつけて止まない唯一無二の映画人、トム・クルーズ。本書は、トム・クルーズの『俳優としての卓越性』『ビジネスマンとしてのプロフェッショナリズム』『人間性』という3つを軸として、29年間映画業界に従事し、片時も目が離せない対象としてその存在を追い続けてきた著者が、40年間トップの座に君臨し続けるトム・クルーズの真髄に迫ります』とあります。



カバー後そでには、「映画は私を世界へと連れて行ってくれます。違いを認め、尊重することを教えてくれるとともに、私たちが共有する人間性、私たちがどれほど多くの点で似ているかを見せてくれる。そして映画館では、出自にかかわらず、共に笑い、共に感じ、共に希望を抱きます。それがこの芸術の力です。だからこそ、私にとって映画は大切なのです。映画製作は私の仕事ではなく、私そのものです――トム・クルーズ(第16回ガバナーズ賞授賞式 2025年開催/アカデミー賞名誉賞受賞スピーチより抜粋)」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 俳優 トム・クルーズ
第2章 プロデューサー
               トム・クルーズ
第3章 人間 トム・クルーズ
「参考文献及びウェブサイト一覧」
「おわりに」



「はじめに」で、著者は「トム・クルーズ――唯一無二、前代未聞、世界一のスター、最後の映画スター――トム・クルーズは様々な形容詞で賞賛されるスーパースターである。私たちが彼に惹かれてやまないのはなぜか。私は、それは彼が、私達が理想とする生き方を体現し、目標を掲げ、それを有言実行し続けているからではないかと思う。40年の間、進化し続け、常に新しいハードルに挑戦し克服し続ける彼は、私たちに夢と希望を与えてくれる。次に期待する私たちを、トム・クルーズは絶対に裏切らない。そんな超人的な魅力を持つ彼はいかにして出来たのか。果たしてトム・クルーズの何が、どう凄いのか」と述べています。

 

「リドリー&トニー・スコットの邂逅」では、『トップガン』(1986年)も『デイズ・オブ・サンダー』(1990年)も、いかにトム・クルーズをかっこよく見せるか、という演出に命を懸けているとして、著者は「レースラック彼方から、バイクで颯爽と登場する主人公など、他の俳優では恥ずかしくて出来ないような演出を用意し、危険なアクションの末に必ず生還するヒーローという、世界中が憧れるトム・クルーズを創り出したのは、トニー・スコットなのだ」と述べています。



「巨匠スタンリー・キューブリックとの挑戦」では、キューブリック監督の『アイズ ワイド シャット』(1999年)に当時夫婦であったトム・クルーズとニコール・キッドマンが共演したときのエピソードが語られます。キューブリックは撮影時、納得が行くまでとことん何度も繰り返し撮る監督らしく、クルーズは場面によっては70回もテイクを要求されたことがあるといいます。クルーズはそれに対し、文句も言わずに従ったそうです。



自身も映画監督であり、この作品の共演者であるシドニー・ポラックは、何度も同じ演技を要求されるクルーズに同情したとか。もっとも、同じ作品でキッドマンは「300テイクくらいした」と語り、ジャック・ニコルソン、マシュー・モディーンなど過去のキューブリック作品主演俳優もみな、キューブリック監督の多数テイクを受け入れた逸話が伝えられています。著者は、「技術のみならず忍耐力や強い精神力など、一流の俳優でなくては成立しないのがキューブリックの現場という事だろう」と述べます。


 

「スピルバーグとの運命の出会い――スター同士の化学反応」では、スティーヴン・スピルバーグとトム・クルーズは、80年代前半から既に友好関係を築いていたらしく、長年にわたり一緒に出来るプロジェクトを探していたということが紹介されます。2人はそのプロジェクトとして、近未来に起こる犯罪を未然に防ぐ機関の優秀なオフィサーが、次の犯人として予言された自分を守るために逃げ惑う複雑な話である『マイノリティ・リポート』を選びました。



映画『マイノリティ・リポート』(2002年)の製作発表記者会見で、スピルバーグはクルーズについて「最も過小評価されている自然体の俳優」と評しました。スピルバーグは80年代から、クルーズの俳優としての才能に注目し続けていたのです。著者は、「世界一の監督が世界一の俳優と組んだ作品は、それまでに見た事もない、画期的な映像満載の、スリラーともSFともドラマとも呼べる盛沢山な傑作となった」と述べています。



「名優の引き立て役――共演俳優をオスカーに導く」では、クルーズとダスティン・ホフマンが共演した『レインマン』(1988年)で、ホフマンがアカデミー賞主演男優賞を受賞したことが紹介されます。著者は、「私の本音を言うなら、『レインマン』でトム・クルーズがノミネートされなかったのは、罪だとさえ思う。確かにホフマンの演技は見事だが、この作品で一番スクリーンタイムが長く、物語を進めて行く主人公はクルーズである。私達はクルーズに共感し、涙する。実際、冒頭は過剰なくらい嫌な奴が、次第に兄を思いやる優しい弟に変わっていく彼の演技は見事である」と述べています。



この年、主要部門をいくつも押さえて最多受賞、作品賞受賞となった作品で一番大きな役を演じた主演俳優がノミネートされなかったことについて、バリー・レヴィンソンは「美しすぎる俳優は、実力を認められにくい」と述べました。著者も、「アカデミー賞の汚点ともいえる出来事である」と言っています。クルーズは、「憧れの存在」と聞かれてほぼ毎回必ず真っ先にポール・ニューマンとダスティン・ホフマンの名前を挙げてきました。ポール・ニューマンとは『ハスラー2』(1986年)で共演しましたが、ニューマンはアカデミー賞主演男優賞を受賞しています。この年は、クルーズの主演作『トップガン』が大ヒットした年でしたが、クルーズは無冠でした。

 

「大ヒット作と並行して訪れるアカデミー賞へのジレンマ」では、クルーズがアカデミー賞と無縁であることについて、著者は「これはドル箱スターに対するアカデミー協会員たちのやっかみが原因ではないか、とささやかれるようになった。そもそも見た目がチャーミングでカリスマがあり、どんな作品でもヒットさせて大金を稼ぐ大スター達に、称号まで与えてなるものか、とくだらないエゴが投票を邪魔したのかもしれない。パチーノもニューマンも、全盛期をとうに過ぎた50代、60代になってからの、ようやくの受賞だった。同様に90年代以降でも、レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、ジョニー・デップは、初ノミネーションから受賞までに長時間を要することになる」と述べます。



「不動のスーパースター、オスカー冷遇でも輝く」では、人気者がオスカーを獲れないというジンクスを抱えた俳優はクルーズだけではありませんが、これらの俳優と比べても明らかにクルーズが異なる点は、クルーズは1981年のデビューから、一度も低迷していないことです。著者は、「常に第一線を走り続け、興行収入で実力を証明してきたクルーズだが、俳優としてのオスカーノミネーションは、『マグノリア』以降ない。2000年代、彼は『マイノリティ・リポート』『ラスト サムライ』『コラテラル』といった作品で、共演者やスタッフをオスカーノミネートに導きながらも、彼自身はノミネートされずに20年以上が経った。しかしそんな仕打ちを受けているにもかかわらず、当時のクルーズは誠実にオスカーと向き合っていた」と述べています。



「『トップガン マーヴェリック』というゲームチェンジャー」では、2025年11月16日、63歳にしてクルーズは初めてオスカー像を手に入れたことが紹介されます。名誉賞を受け取った彼は「映画製作は私の仕事ではなく、私の存在そのものです」と、映画に対するあまりある情熱と愛を12分かけて語りました。著者は、「自分の周りの特定の誰かではなく、自分と関わった人全てのおかげで今があると、彼と働いたことのある人全てにその場で立ち上がるように要請し、それらの人々を讃えた。偉大なスターの遅すぎる受賞に、SNSでは『授賞式で授与すべき』との声が上がった」と述べます。イーサン・ホークは、「彼はここからの20年であと4つくらい受賞するさ」と語ったといいます。



「ジョセフ・コジンスキーが掛けた魔法――『トップガン マーヴェリック』」では、著者は「『トップガン マーヴェリック』は、奇跡の映画である。アクション・エンターテインメント映画に軸足を移したクルーズは、この作品でもう一段階上のレベルに行くことになった。言うまでもなく『トップガン』はクルーズをスーパースターにした映画そのものであり、彼のフィルモグラフィーの中で最も重要な作品である。驚くべきことに『トップガン マーヴェリック』のトム・クルーズは、『トップガン』の時よりもかっこいい。60歳を目前にして、少し枯れた演技をするクルーズは今までとは一味違う魅力にあふれている。正直、誰も期待していなかったこの続編で、トム・クルーズがキャリア何度目かのピークを迎えると思っていた人間はいないだろう。『トップガン マーヴェリック』は存在そのものが奇跡なのである」と述べています。



「パンデミックを打破したクルーズの信念」では、通常、映画には賞味期限があると指摘されます。撮影の時に仕込んだ話題性は古くなり、遅れて公開された映画はたいてい成功しません。『トップガン マーヴェリック』もその運命をたどるかの様に見えました。しかし、長いこと劇場で映画を観ることが出来なかった世界中の観客は、大型エンターテインメントに飢えていたのです。そして2022年、カンヌ映画祭での初お披露目に続き、クルーズやキャストが精力的に「絶対に劇場で!」とプロモーションすると、満を持して観客は劇場に戻ってきました。そこで彼等が目にしたのが、傑作『トップガン マーヴェリック』でした。著者は、「この作品は、その年の世界興収1位の作品となり、アカデミー賞作品賞にノミネートされるほどの評価を受けた。スピルバーグは『映画を救ってくれてありがとう』とクルーズを讃えた。『トップガン マーヴェリック』は世界中で、まさに社会現象となった」と述べます。



第2章「プロデューサー トム・クルーズ」の「芸術とビジネスを融合した才覚」では、著者は「俳優とはそもそもクリエイティブな人種であって、ビジネスパーソンではないわけで、作品制作において才能を発揮することはあっても、配給まで研究、ましてや全米公開のみならず世界中の配給についてコントロールする俳優はトム・クルーズ以外にいないだろう」と述べています。俳優のみならず監督やプロデューサーにおいても、自分は芸術家であって、作ることが仕事ですから、宣伝活動は一切したくない、という人も少なくありません。クルーズ出演作が遺作となったスタンリー・キューブリックは良い例だとして、著者は「彼は、記者会見も取材も嫌った。作品の作り方においても、100回近いテイクや1年以上の撮影期間に疑問を持たないほど、自己実現のみで創作する映画作家だった」と説明します。



「スタントを“自分でこなす”究極の理由」では、クルーズのスタントの中で、現時点でおそらく一番アイコニックで魅惑的なスタントは、『M:I-7』で見せた崖からバイクで飛ぶスタントだろうと述べています。言うまでもなく命がけですが、それまでのスタントレベルをはるかに超えたこのスタントは、第1日目の撮影シーンに設定されました。初日に6回、翌日に2回飛んだそうですが、成功するかもわからない、死ぬかも知れないスタントを最初に持ってきたのは、万が一失敗した場合に、残りの撮影を中止し、周りのスタッフの時間と製作費を無駄にすることがないための配慮でした。著者は、「まさにプロデューサーとしてのクルーズが、現場全体への影響を考えて下した決断だ。この撮影は、クルーズ本人しか出演しないシーンだが、共演者たちは現場でこの映画史に残る名スタントの撮影を見守った」と述べます。



「“バッド・ボーイ”ブラッド・ピットの存在」では、クルーズの1歳下で共にハリウッドを代表するスターであるブラッド・ピットが、2001年にPlanBという製作会社を設立し、プロデューサー業に乗り出したことが紹介されます。PlanBは大小さまざまな作品を手掛け、アカデミー賞作品賞を3回受賞する製作会社にまで成長しました。アンジェリーナ・ジョリーとの結婚で影響を受けたのか、2000年代以降のブラッド・ピットは社会福祉や慈善活動など多くの社会的活動に貢献しており、製作する作品も社会派のものが数多くあります。著者は、「トム・クルーズの映画製作の目的が、映画製作そのものやエンターテインメントにあるのに対し、ピットの製作は、より政治的、社会的な貢献を目指しているものが多い。ジョリーとの結婚生活が続いていた間、2人はブランジェリーナと呼ばれ、アフリカやアジアの途上国、ハリケーン・カトリーナ被災後のニューオーリンズをはじめとする、困難な場所に頻繁に現れ、慈善活動をする姿が見られた」と述べます。

 

かつてマイケル・ジャクソンが「世界中の困った人たちと触れ合いに行こうとは思わないのか」と問われ、「自分は音楽で彼等と触れ合っている」と答えたことがありましたが、クルーズの姿勢はこれに近いといいます。結果として、ピットは既にプロデューサーとしても、俳優としてもオスカー受賞を経験している一方、クルーズは2025年の名誉賞が初受賞となるので、ピットの方が凄いスターだと思う人もいるかもしれません。しかし、著者は「ファンが望むハリウッドの超大作のみを作り、その主演を張り続けることが、果たしてピットに出来るだろうか。現在、ハリウッドスターと呼べるアメリカの俳優はクルーズ、ピット、ディカプリオの3人だが、ハリウッドのブロックバスター製作を続ける道のみで存在意義を保つことは一番難しく、これを実現できるのは、トム・クルーズしかいない」と述べるのでした。



「すべての作品を劇場で!」では、クルーズは制作現場においても、常に誰よりも早く現場に入り、誰よりも遅く帰ることが紹介されます。それは、俳優よりも必ず先に来なくてはならないスタッフへの気遣いからくるものだといいます。クルーズは別にスターらしく振る舞わないというわけではありません。彼はトレーラーに自分用のシェフを帯同していたといいますし、移動は常に自家用ジェットやヘリコプターを使います。撮影場所の近くに借りる家は何億円もする豪邸ですし、撮影に必要な機材や設備など、お金には糸目もつけずに使います。しかし、著者は「だからと言って、一緒に働く仲間に失礼な態度を取ったり、自分だけ楽をするようなことはしない。誰よりも一生懸命働き、周りの声に耳を傾け、努力を続けることを身をもって見せるからこそ、周りはそれに従うのだ」と述べます。



第3章「人間 トム・クルーズ」の「『ディスレクシア』との闘い」では、トム・クルーズの幼少期から俳優初期の話をする時に必ず出てくる耳慣れない言葉が1つあることが紹介されます。それは、「ディスレクシア」という障害で、これは読み書きに困難を感じる障害です。著者は、「誤解されやすいのだが、ディスレクシアを持っている人は知的障害があるわけではなく、むしろ知的レベルの高い人に多い神経発達障害のひとつで、トム・クルーズは若い頃からこの診断を受けていた」と説明します。ディスレクシアの克服について話す時、クルーズはいつも「サイエントロジーによって克服できた」と言います。ということは、デビュー当時のクルーズはまだ、ディスレクシアと闘いながら俳優業をやっていたことになります。常に脚本を読み、覚える必要がある俳優という職業にとって、ディスレクシアを持ちながら続けることは容易ではなかったはずです。著者は、「その状況の中、実質3番手で台詞の多い役柄を『タップス』で得たり、『卒業白書』の主役を射止めたりした事実からも、クルーズがいかに真面目で努力家かが窺える」と述べます。



「『弱さは言い訳にならない』というマインド」では、クルーズにとっては珍しく、パブリックな諍いがかつての共演者であるブルック・シールズとの間に起こったことが紹介されます。それは、サイエントロジーの教えに従い、精神科医の存在や薬の利用を否定するクルーズが、産後性鬱の症状から抗うつ剤を使用していたブルック・シールズを公共の番組で批判したことが発端でした。個人的な見解で、自身の行動を一方的に非難されたシールズは激怒し、「学のない男の勝手な言い分」とクルーズ発言一蹴のエッセイを発表するに至ります。この論争は一時期、テレビや紙面を賑わすことになります。著者は、「この件についてはクルーズが、さすがに出過ぎた発言をしたと思ったらしく、1年後に本人がシールズの家を訪れて謝罪した事で終わりを迎える。そして、次第にクルーズは自分の宗教について発言を控えるようになり、最近ではそれについて聞かれると『ホームページに全部載っているから興味があったら見てほしい』と言うようになった」と述べています。


 

「クルーズの恋愛事情」では、クルーズが24歳でミミ・ロジャースと結婚し、数年後に離婚した後、彼はニコール・キッドマン、ケイティ・ホームズという2人の女性と結婚し、離婚していることが紹介されます。その他にも、キッドマンとの離婚の直後にはペネロペ・クルスと数年間交際していましたし、2025年はじめから10月までは26歳年下のアナ・デ・アルマスと交際していました。著者は、「彼が交際する相手は常に、一般的に言う美人であり、トムは『いい女』に目がない一般的な男性だと思う」と述べます。彼は10代の頃に一度、修道院に興味を持ち入所したことがあるのですが、1年でやめてしまった理由を『聖職者になるには女性が好きすぎた』と語っています。ロジャースとの離婚は、『デイズ・オブ・サンダー』でキッドマンと知り合った直後にクルーズ側が申し出ました。キッドマンとの離婚は『バニラ・スカイ』でクルスと共演した直後に、やはりクルーズの方から切り出しています。著者は、「世の女性がトム・クルーズを放っておかないのは当たり前といえど、クルーズの妻たちはフラれた上に直後相手がゴージャスな別の女性と関係を始めているのを目の当たりにするという、想像しただけで胸が痛む思いを強いられている」と述べます。



「世界を駆け巡る“クルーズ・ケーキ”」では、トム・クルーズについて、ショーン・ペンのような難しい俳優ですら、「彼とは良好な関係を続けているし、スタントにおいては世界一だと思う」と賞賛の言葉を向けていることが紹介されます。誰よりも彼に傷つけられた経験を持つ前妻ニコール・キッドマンも、トム・クルーズの事を悪く言いません。離婚後に自身のキャリアが花開き、一流スターになった彼女は、クルーズとの結婚や離婚について触れることはほとんどありませんが、約11年間の結婚生活を否定することもしません。著者は、「2人はお互いから距離を置きつつ、お互いに対する敬意を忘れない関係を保ってきているからこそ、それを見ている私達は2人に対し、良い印象のみが残る。クルーズもキッドマンに関しては『幸せでいてほしい』とたびたび発言しており、お互いに大人として思いやりを持って対応しているのが伝わってくる」と述べるのでした。わたしはもともとトム・クルーズの大ファンですが、クルーズ愛に溢れた本書を読んで、ますます彼が好きになりました。

 

 

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2026年9月17日  一条真也

『「かたち」の文化論』が「西日本新聞」に広告掲載

一条真也です。
金沢に来ています。北陸本部会議の終了後に小倉に戻りますが、今朝の「西日本新聞」1面に『「かたち」の文化論』(産経新聞出版)の書籍広告が掲載されました。サブタイトルは「工芸と儀礼から考える」です。

2026年9月16日付「西日本新聞」

 

広告には、陶芸家として最年少で人間国宝となられた十四代今泉今右衛門氏と株式会社サンレー代表取締役社長の小生の写真が使われ、わたしは「礼の求道者」と表現されています。そして、今右衛門氏の「伝統的な技術を継承しつつ、新たな表現方法を追求すること」、わたしの「文化の防人として、冠婚葬祭を通じて儀式をアップデートすること」という言葉が紹介されています。

2026年9月16日付「西日本新聞」(1面)

 

「工芸」と「儀礼」という、一見異なる2つの世界から、日本文化を貫く「かたち」と「こころ」について語り合った本です。この広告掲載を機に、1人でも多くの方に同書を読んでいただくことを願うばかりです。ぜひ、ご一読を!   

 

 

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2026年9月16日  一条真也

「顔 -かお-」

一条真也です。
金沢に来ています。15日の夜、韓国映画「顔 -かお-」をユナイテッドシネマ金沢で観ました。わが社の新しい北陸版シネアドの確認をかねて同劇場を訪問したのですが、ブログ「ヒンド・ラジャブの声」で紹介したチュニジア・フランス合作映画に続き、連日の超ヘビーな内容でした。

 

ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「『新感染 ファイナル・エクスプレス』などのヨン・サンホ監督が、自身のグラフィックノベルを映画化したサスペンスミステリー。目が見えないながらも韓国随一の篆刻家となった父をサポートする主人公が、40年前に消息を絶った母親にまつわる意外な真実にたどり着く。主人公とその父を、ヨン・サンホ監督によるドラマシリーズ『地獄が呼んでいる』などのパク・ジョンミンと『新感染半島 ファイナル・ステージ』などのクォン・ヘヒョが演じる」

 

ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「イム・ヨンギュ(クォン・ヘヒョ)は生まれつき目の見えないハンディキャップを克服し、韓国で著名な篆刻家となる。ある日、ヨンギュの事業を支える息子のドンファン(パク・ジョンミン)のもとに、40年前に消息不明になった彼の母チョン・ヨンヒの遺体が見つかったとの知らせが届く。何者かに殺害された可能性があると知ったドンファンは調査を進め、衝撃の真実を知る」

 

本作「顔 -かお-」を観て、わたしは怒りを感じました。前日に「ヒンド・ラジャブの声」を観たときも怒りを感じたので2日連続です。原題は”THE  UGLY”で、「醜い」という意味ですが、本作には顔の醜い女性が登場します。彼女は「化け物みたいな顔」と職場で罵られ、便意を訴えているのにトイレにも行かせてもらえず、結果的に漏らしてしまった後は「便所紙」という仇名をつけられます。まるで小学生のいじめのような信じられない状態が日常化しているのは、ひとえにこの職場である工場の社長が人間のクズだからです。わたしは企業とは経営者の気が社員に乗り移る一個の生命体としての「気業」であると唱えていますが、まさに本作の舞台となる工場はクズ社長の邪気を反映していました。わたしは「本当に醜いのは、この社長だ!」と思いました。

 

容姿の優れない女性だけではなく、本作には目の不自由な男性も登場します。彼は生まれたときから目が見えず、それゆえに過酷ないじめに遭ってきました。2人は結婚して男の子をもうけるのですが、社会の片隅でひっそりと、本当にひっそりと生きていきます。そんなささやかな幸せさえも彼らには許されず、想像を絶する悲劇が待っているのでした。わたしは鑑賞しながら、「ここまで身体障害者を悲惨に描く必要があるのか?」「韓国は儒教国のはずだが、仁という思いやりの心はどこに行ったのか?」「現在、韓国では美容整形が全盛だというが、40年前からルッキズムの国なのか?」などと思いました。わたしは「ヒンド・ラジャブの声」では平和を想いましたが、本作では平等を想いました。なぜ、人間は顔の美醜や目の不自由などで差別されなければいけないのでしょうか? これほどの不条理が他にあるでしょうか?



わたしは「死は最大の平等である」という信条を持っています。太陽はあらゆる地上の存在に対して平等です。太陽光線は美人の顔にも降り注げば、犬の糞をも照らすのです。わが社の社名は、「サンレー」ですが、万人に対して平等に冠婚葬祭を提供させていただきたいという願いを込めて、「太陽光線(SUNRAY)」の意味を持っています。「死」も平等です。「生」は平等ではありません。生まれつき健康な人、ハンディキャップを持つ人、裕福な人、貧しい人・・・「生」は差別に満ち満ちています。しかし、どんな人にでも、「死」だけは平等に訪れるのです。しかし、本作には40年前に亡くなった母親の葬儀シーンがありましたが、そこには遺影がありませんでした。なんと、写真立ての中は空白だったのです! それを見たとき、「葬儀でさえも差別されるとは!」と重い気分になりました。ちなみに、遺影とはその人の顔の肯定であり、印章とはその人の名前の肯定に通じるのではないかなどと思いました。

 

本作で主演を務めたパク・ジョンミンは素晴らしかったです。若き日の父と息子を一人二役で見事に演じ分け、その高い演技力で第62回百想芸術大賞の主演男優賞を受賞しました。彼はシリアスからコミカルな役どころまで変幻自在に演じ、韓国映画界では「次世代の演技の神」と言われているそうです。1987年3月24日生まれのジョンミンは高麗大学に進学するが自主退学して、韓国芸術総合学校映像院映画科へ。さらに演技科に転科し、劇団活動などを経て俳優の道へと踏み出しました。2011年、「狩りの時間」(2020年)で知られるユン・ソンヒョン監督の「BLEAK  NIGHT 番人」(2010年)で長編映画デビューを果たし、以後、映画、ドラマ、舞台などで着実にキャリアを重ねていきます。 スポットライトを浴び始めたのは、2015年にイ・ジュニク監督の「空と風と星の詩人 尹東柱の生涯」(2016年)に出演してからです。



「空と風と星の詩人 尹東柱の生涯」は、韓国の国民的詩人・尹東柱(ユンドンジュ)と、彼に大きな影響を与えた独立運動家の宋夢奎(ソンモンギュ)との青春を描いた作品で、ジョンミンは宋夢奎役を務めました。この役は彼にとっても大役であり、実在の人物を演じるうえでもかなりプレッシャーがあったとのちに述懐しています。特に収監中の宋夢奎が面会に来た父親と顔を合わせるシーンでは、1か月で約12kgも体重を落とし、撮影3日前からは水もいっさい飲まずに臨んだといいます。そうして生まれた真に迫る感情演技は高く評価され、青龍映画賞をはじめ多くの新人賞を独占しました。映画「顔 -かお-」はとても辛い作品でしたが、主演のパク・ジョンミンの演技には輝きのようなものを感じました。これからも注目したい俳優です!



最後に、ユナイテッドシネマ金沢の2番シアターでサンレー北陸CM「ありがとう」篇(60周年記念バージョン)が流れてたのを観たときは感動しました。ちょうど、スクリーンに映っているサンレー北陸の幹部たちが一緒だったので、喜びもひとしおでした。わが社は、平器産業である冠婚葬祭業を通じて、「平和」と「平等」の実現を目指して前進し続けていきたいと思います!



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2026年9月16日  一条真也

渡辺詔治氏お別れの会

一条真也です。
15日の朝、金沢の定宿で目を覚ましました。朝食を済ますと、迎えの車に乗って福井へ。この日、福井市に本社を置く冠婚葬祭互助会である(株)アスピカの渡辺詔治相談役の「お別れの会」に参加するのです。


「コートヤード・バイ・マリオット福井」の前で


「お別れの会」の看板の前で

 

渡辺相談役は、アスピカの渡辺恒治社長の父上ですが、同じ全互連のお仲間として、わたしは若い頃から故人には大変お世話になりました。右も左もわからなかったわたしに業界のことを親切に教えて下さいました。海外研修にもご一緒しました。とても穏やかで上品な方でした。

いきなりバスで昼食会場へ

ミステリー・ツアーに参加した気分でした

 

会場の「コートヤード・バイ・マリオット福井」に11時半頃に到着すると、そこからバスで昼食会場へ向かうとのこと。事前に知らされていなかったので、ちょっと驚きました。昼食会場の場所も知らされずに出発したので、ミステリー・ツアーに参加した気分でした。

互助会関係者の昼食会場


昼食会場のようす

美味しいお弁当をいただきました

昼食会場の故人の遺影の前で

昼食会場は、福井市内にあるアスピカさんの結婚式場でした。バンケット内には巨大な故人の遺影が飾られていました。そこで美味しいお弁当をいただきました。食事を終えると、またバスに乗って「コートヤード・バイ・マリオット福井」に向かいます。

供花の芳名板


メモリアル・コーナー(第一会場)

メモリアル・コーナー(第一会場)にて

わたしの若い頃の写真を発見


故人とのツーショット写真も発見

「コートヤード・バイ・マリオット福井」には、2つのメモリアル・コーナーのお部屋が用意されていました。1つめには故人の思い出の写真が所狭しと飾られており、若い頃の私が写ったなつかしいものもありました。その後に渡辺社長にお聞きしたところ、故人とわたしのツーショット写真がたくさんあったそうです。

メモリアル・コーナー(第二会場)

故人が愛用した釣り関連の遺品

故人の似顔絵がたくさん・・・

なつかしい写真が映し出されました

2つめのメモリアル・コーナーには故人の思い出の品、ロータリークラブの感謝状、似顔絵などが飾られていました。思い出の写真もビデオで流されており、若い頃のわたしが写ったものもありました。とても、なつかしかったです。故人はハンサムな方でしたので、写真も似顔絵も映えますね!


式典会場の祭壇


冒頭、ムービーが流れました

故人の人生を振り返りました

アスピカさんの歴史も振り返りました

 

式典会場では、最前列に席が用意されていました。右隣は、117グループの山下社長で、左隣は互助会保証株式会社の横田社長でした。見事な祭壇でしたが、その左右の端には、故人ゆかりの山が模されていました。中央には、アスピカ・マークが花でデザインされています。冒頭、故人の人生とアスピカ・グループの歴史を振り返るムービーが流されました。改めて、故人の偉大さを知りました。

オープニングは三味線の音色で♪


葬儀委員長による弔辞


全互協の杉山会長による弔辞

AIで蘇った故人が謝辞を述べました

 

その後、オープニングで三味線の演奏と歌が披露されました。それから、葬儀委員長や全互協会長、取引会社の社長さん、社員の方々などが弔辞を読まれました。どれも心のこもった素晴らしい内容でした。故人がいかにみなさんから慕われていたかがよくわかりました。するとAIで再現された故人が映像に登場して、参列者にお礼の言葉を述べました。故人のご子息である渡辺社長は先進性のある方なので予想はしていましたが、実際に故人の挨拶動画が流れて驚きました。


謝辞を述べる喪主の渡辺社長


「アメージング・グレース」の歌唱♪

献花のようす


わたしも献花して一礼しました

 

それから、喪主である渡辺社長が謝辞を述べられ、「アメージング・グレース」の歌声に乗って献花が行われました。わたしも献花させていただいた後、遺影に向かって一礼しました。そして、「渡辺相談役、お疲れ様でした。いろいろと、ありがとうございました」と心の中で故人に語りかけました。故渡辺詔治様のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。


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2026年9月15日  一条真也