全互連60周年記念交流会

一条真也です。
18日、ブログ「『敬老の日』の翌日に」で紹介した勉強会を終えると、わたしは待たせてあった車に乗って松柏園ホテルから北九州空港へ向かいました。空港に着くと、スターフライヤーで東京へ。

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会場の「アンフェリシオン」

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全互連60周年記念交流会のようす

 

この日の16時から、全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の60周年記念募集イベント交流会が開催されました。会場は、亀戸の結婚式場「アンフェリシオイン」です。全国の互助会のスーパースターたちが初めて会するイベントで、わが社からも、森さん、清澄さん、徳田さんという3人のスーパースターが参加しました。引率は玉中取締役と小谷課長でした。

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初の互助会営業オールスターの祭典です!

 

会場には全国から参集した互助会各社の社員さん、営業員さんが150名も集まり、熱気ムンムンでした。わたしが前会長として乾杯の音頭を取りました。
わたしは「今日は感無量です。わたしが会長時代に一番やりたかったイベントがこれです。70年前、横須賀の地で誕生した冠婚葬祭互助会は名古屋で大きく花開き、静岡を経て、全国に広がってゆきました。互助会の保守本流、それが全互連です。みなさまは、その全互連が誇るトップスター、スーパースターです。今日は、日本中のスターが一同に会した初めてのオールスターの祭典です!」と述べました。

f:id:shins2m:20180918161209j:plain互助会営業は最高の仕事です!

 

それから、わたしは「全国からお越しになられたみなさまのお顔を拝見していると、じつに『いい顔』をされています。この仕事に心からの誇りを持っておられる顔をされています。世の中には売られている色々な商品がございますが、互助会は冠婚葬祭という『人の道』を売るというこの上なく価値のある商品です。営業活動において、『自分の売っているものは正しい商品だ』という自信と誇り以上に力になるものはありません。日本人の儀式文化と相互扶助の心を守る互助会営業は最高の仕事です!」と述べました。

f:id:shins2m:20180918161227j:plainこれからも互助会の拡大を!

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カンパ~イ!

 


そして、「日本人の幸せのためにも、これからも互助会の拡大に努められて下さい。それでは、本日御参集のみなさまの御健康と互助会各社の御発展をお祈りして乾杯したいと思います。声高らかにご唱和下さい」と言ってから「カンパ~イ!」の発声をしました。各所でグラスを合わせる音がして、笑顔が見られました。

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わたしも大きな刺激を受けました

f:id:shins2m:20180918162516j:plain全互連60周年記念交流会のようす

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同志と至福の時間を過ごしました


わたし自身も、大きな刺激を受けた会でした。各互助会のみなさんと名刺交換をしたり、写真撮影をしたりしました。多くの方々から「乾杯の御挨拶に感動しました」とのお言葉をいただきました。全国には、こんなにも多くの「天下布礼」の同志がいることを実感し、わたし自身が勇気を頂戴しました。みなさん、本当にありがとうございました!

 

2018年9月18日 一条真也

「敬老の日」の翌日に

一条真也です。
18日、早朝から松柏園ホテルの神殿で月次祭が行われました。皇産霊神社の瀬津神職が神事を執り行って下さいました。祭主であるサンレーグループ佐久間進会長に続いて、わたしはサンレー社長として玉串奉奠を行いました。

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f:id:shins2m:20180918081817j:plain玉串奉奠を行う佐久間会長

f:id:shins2m:20180918081855j:plainわたしも玉串奉奠を行いました

f:id:shins2m:20180918080454j:plain一同礼!

f:id:shins2m:20180918085011j:plain天道塾のようす

f:id:shins2m:20180918083921j:plain佐久間会長が訓話をしました

神事の後は、恒例の「天道塾」を開催しました。
サンレーグループ第二創業期を拓いてゆくために従来の「佐久間塾」および「平成心学塾」を統合して新たに創設された勉強会です。まずは、佐久間会長が訓話を行いました。会長は、昨日の「敬老の日」に言及した後、卑弥呼聖徳太子、「かたち」の文化、守破離・・・・・・さまざまな話題を取り上げて、冠婚葬祭の意義について語りました。

f:id:shins2m:20180918092056j:plainわたしが登壇しました


その後、わたしが登壇しました。わたしは最初に、想定外の事態で法令試験を来月受けることになり、ここのところ勉強をしていることを話しました。他人が1年半かけてする勉強を約1ヵ月で仕上げなければなりません。毎日、字の小さい法律書と首っ引きなので、たいそう疲れます。「しかし、会社のために社長が頑張らなくてどうするか!」と述べました。それから、最近世間を賑わせている「パワハラ」「セクハラ」問題に触れ、結局は「礼」の問題であると指摘しました。「礼」とは、わが社のミッションである「人間尊重」であり、その心を忘れなければ「ハラスメント」などありえません。

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敬老の日」について話しました 


続いて、「敬老の日」の話題に移りました。
厚生労働省は毎年、敬老の日を前に、住民基本台帳をもとに100歳以上の高齢者を調査していますが、それによれば、今月1日の時点で、100歳以上の高齢者は全国で6万9785人と、去年より2014人増え、48年連続で過去最多を更新しました。男性が8331人、女性が6万1454人で、女性が全体の88.1%を占めています。

f:id:shins2m:20180918091904j:plain田中カ子さんに感動しました 


国内の最高齢は福岡市に住む田中カ子(かね)さんで、明治36年1月生まれの115歳です。福岡市東区の老人ホームで暮らす田中さんは、「老人の日」の前日、福岡市の高島市長の表敬を受けて花束をプレゼントされました。田中さんは、海外旅行などこれまでの人生で経験したことを語り、「人生楽しいです。最高です」と語りました。好奇心旺盛な田中さんですが、「何かしたいことはありますか?」と質問されると、「もう少し生きてみたい!」と言いました。この言葉に、わたしはものすごく感動しました。

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超高齢社会のこれから 


それにしても、7万人も100歳以上の老人がいる超高齢社会の日本は、これからどうなるのか。わたしは、ブログ『未来の年表2』で紹介した産経新聞論説委員の河合雅司氏の著書の内容を紹介しました。同書の「はじめに」で、河合氏は以下のように書いています。
「日本は劇的に変わっていく。例えば、25年後の2043年の社会を覗いてみよう。年間出生数は現在の4分の3の71万7000人に減る。すでに出生届ゼロという自治体が誕生しているが、地域によっては小中学校がすべて廃校となり、災害時の避難所設営に困るところが出始める。20~64歳の働き手世代は、2015年から1818万8000人も減る。社員を集められないことによる廃業が相次ぎ、ベテラン社員ばかりとなった企業ではマンネリ続きで、新たなヒット商品がなかなか生まれない。
高齢化率(総人口に占める65歳以上人口の割合)は36.4%にまで進む。高齢者の数が増えるのもさることながら、80代以上の『高齢化した高齢者』で、しかも『独り暮らし』という人が多数を占める」

 

 

こうした高齢者が街中に溢れる社会とは、一体どんな様子なのでしょうか。河合氏は以下のように述べます。
「いま、東京や大阪といった大都会では、ラッシュアワーには5分と待たずに電車やバスがやってくる。なぜ、そんな過密ダイヤで運行できるのかといえば、乗客の大多数が人の流れについていける『若い世代』だからだ。たまに、車いすを使う障害者や杖をついた高齢者が、駅員の手を借りて乗降する場面に出くわす。ただ、それはあくまで少数派であり、駅員の手際よい作業でそんなに多くの待ち時間を要するわけではない。
しかし、2043年とは、総人口の7人に1人が80歳以上という社会だ。独り暮らしであるがゆえに否応なしに外出する機会は増えるが、若い世代の『流れ』についていける人ばかりではない。こんな過密ダイヤはとても続けられない」

f:id:shins2m:20180918094326j:plain2043年の日本社会とは


同書の第1部「人口減少カタログ」の序「国民の5人に1人が、古希を超えている」では、「高齢者の3人に1人が80代以上」として、こう書かれています。
「日本の高齢社会の特徴として、(1)高齢者の『高齢化』に加え、(2)独り暮らしの高齢者、(3)女性高齢者、(4)低年金・無年金の貧しい高齢者――の増大が挙げられる。このうち、すぐに社会に影響を及ぼしそうなのが、『高齢化した高齢者』および『独り暮らしの高齢者』の増大であろうと考える」

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葬儀の笑えない話

 

「笑えない実話」として、河合氏は親の葬儀の問題を取り上げます。
「親の葬儀も大変だ。高齢社会の次には『多死社会』がやってくる。前著『未来の年表』では火葬場の不足を取り上げたのだが、足りなくなるのは火葬場だけではない。私の知人には、火葬場の予約はできたものの住職の都合がつかず、結局は10日待ちとなった人もいる。
少子化の影響は、お寺も例外ではない。跡取り不足による廃寺や、住職がいないがために、1人の住職が複数のお寺を掛け持ちする場合もあるという。今後、葬式も法事も、自分たちが思い描いたスケジュール通りには進まないというケースが増えるだろう」

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「人生の修め方」が大切


この他、『未来の年表』には気分が滅入るような未来予測がたくさん書かれています。たしかに、これから大変な時代を迎えることは確かでしょう。こんな中、「終活」に関心を持つ人が多くなってきました。そんな「終活」の国内最大イベントが東京ビッグサイトで開催される「エンディング産業展」です。ブログ「エンディング産業展講演」で紹介したように、8月24日の11時から、わたしは「人生の修め方~『終活』の新しいかたち~」という講演を行いました。開場前から講演会場前には長蛇の列ができて、おかげさまで会場は超満員となりました。中に入れない方もいたほどでした。

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老いと死があってこそ人生!


冒頭、わたしは「アンチエイジング」という言葉についての異論を唱えました。これは「『老い』を否定する考え方ですが、これは良くありませんね」と述べました。そして、わたしは「老いと死があってこそ人生!」という話をしました。サミュエル・ウルマンの「青春」という詩がありますが、その根底には「青春」「若さ」にこそ価値があり、老いていくことは人生の敗北者であるといった考え方がうかがえます。おそらく「若さ」と「老い」が二元的に対立するものであるという見方に問題があるのでしょう。「若さ」と「老い」は対立するものではなく、またそれぞれ独立したひとつの現象でもなく、人生というフレームの中でとらえる必要があります。

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「人生の五計」とは


理想の人生を過ごすということでは、南宋の朱新仲が「人生の五計」を説きました。それは「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」の5つのライフプランです。朱新仲は見識のある官吏でしたが、南宋の宰相であった秦檜に憎まれて辺地に流され、その地で悠々と自然を愛し、その地の人々に深く慕われながら人生を送ったといいます。そのときに人間として生きるための人生のグランドデザインとでも呼ぶべき「人生の五計」について考えたのでした。

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老年期は実りの秋である!


それからわたしは、「老年期は実りの秋である!」という話をしました。今年の夏は本当に暑かったですね。わたしは50代の前半ですが、若い頃と違って暑さが体にこたえます。昔は夏が好きだったのですが、今では嫌いになりました。四季の中では、秋が好きです。古代中国の思想では人生を四季にたとえ、五行説による色がそれぞれ与えられていました。すなわち、「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」です。

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インドのライフサイクルを説明 


インドにも「老い」をテーマにしたライフライクルがありました。
ヒンドゥー教の「四住期」という考え方です。これは理想的な人生の過ごし方というべきもので、人間の一生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の4つの段階に分けて考えます。最後の遊行期は、この世へのいっさいの執着を捨て去って、乞食となって巡礼して歩き、永遠の自己との同一化に生きようとしたのです。

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実りのある人生を考えよう!


こうして歴史をひもといていくと、人類は「いかに老いを豊かにするか」ということを考えてきたといえます。「老後を豊かにし、充実した時間のなかで死を迎える」ということに、人類はその英知を結集してきたわけです。人生100年時代を迎え、超高齢化社会現代日本は、人類の目標とでもいうべき「豊かな老後」の実現を目指す先進国になることができるはずです。その一員として、実りある人生を考えていきたいものです。

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死生観の確立を!


究極の「修活」とは死生観を確立することではないでしょうか。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。ブログ『響~小説家になる方法~』で紹介したマンガが大きな注目を集めています。女子高生の鮎喰響が15歳の史上最年少で芥川賞直木賞をW受賞するというストーリーですが、彼女が書いた小説は「お伽の庭」といって死生観を描いたものでした。今後の展開で、彼女の小説は日本人の死生観に大きな革命を起こすことが予想されますが、まさに現在の日本人が最も求めているのが死生観だと思います。

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さあ、互助会の出番だ!


そして、ここで冠婚葬祭互助会の役割が大きくなってきます。互助会の会員さんは、そのほとんどが葬儀を前提とした高齢者の方々です。互助会は日本人の葬送文化を支えているわけですが、わたしは「亡くなったら葬儀をします」だけでは互助会の未来はないと思っています。会員さんがお元気なうちにお役に立てる互助会でなければなりません。そこで重要になってくるのが死生観です。高齢の会員様に「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を自然に抱いていただけるようなお手伝いができれば、互助会の役割はさらに大きくなるでしょう。

f:id:shins2m:20180918095036j:plain最後は、もちろん一同礼!


その冠婚葬祭互助会の保守本流が全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)ですが、今日の夕方、全互連60周年記念募集イベント交流会が東京で開催されます。わが社からも、森さん、清澄さん、徳田さんという3人のスーパースターを連れていきます。全国の互助会のスーパースターたちが初めて会するわけですが、わたしが全互連会長時代に発案・提案したこともあり、感無量です。交流会では乾杯の音頭を取らせていただきますが、わたしは「日本人の儀式文化と相互扶助の心を守る互助会営業は最高の仕事です!」と訴えたいと思っています。最後に、「ぜひ、高い志を持って頑張りましょう!」と言って、降壇しました。その後、待たせてあった車に乗って北九州空港へと向かいました。

 

 

2018年9月18日 一条真也

『読書という荒野』

読書という荒野 (NewsPicks Book)


一条真也です。
『読書という荒野』見城徹著(幻冬舎)を読みました。
著者は幻冬舎の社長です。わたしは著者の考え方や生き方に違和感を覚えることも多いのですが、著者がこれまでに書いた『編集者という病』や『たった一人の熱狂』と同様に、本書は非常に興味深く読めました。アマゾンの「内容紹介」には、【出版界の革命児による圧倒的読書論がここに誕生!】「実践しなければ読書じゃない。暗闇の中のジャンプ! 天使から人間へ。認識者から実践者へ」と書かれています。



本書の帯


 

本書のカバー表紙には、(おそらくは)幻冬舎の社長室で本のページを開く著者の写真が使われています。また帯には「見城徹の読書は血の匂いがする。ただ、文字を追って『読了』と悦に入っている輩など、足下にも及ばない。書を貪り喰ったものだけが知る恍惚の表情を浮かべている。著者の内臓を喰らい、口から真っ赤な血を滴らせている」という作詞家の秋元康氏の言葉が書かれています。


本書の帯の裏


 

帯の裏には、「読書によって正確な言葉と自己検証はもたらされ、正確な言葉と自己検証によって深い思考が可能になる。そして深い思考こそが、その人の人生を決める唯一のバックボーンになるのだ」「血で血を洗う読書という荒野を突き進め!」とあります。
さらにカバー前そでには、「読書の量が人生を決める。本を貪り読んで苦しい現実を切り拓け。苦しくなければ読書じゃない!」と血のような赤字で書かれています。

 

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
はじめに「読書とは『何が書かれているか』ではなく『自分がどう感じるか』だ」
第1章 血肉化した言葉を獲得せよ
第2章 現実を戦う「武器」を手に入れろ
第3章 極端になれ!ミドルは何も生み出さない
第4章 編集者という病い
第5章 旅に出て外部に晒され、恋に堕ちて他者を知る
第6章 血で血を洗う読書という荒野を突き進め
おわりに「絶望から苛酷へ。認識者から実践者へ」
「参考文献」

 

はじめに「読書とは『何が書かれているか』ではなく『自分がどう感じるか』だ」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「人間と動物を分けるものは何か。それは『言葉を持っている』という点に尽きる。人間は言葉で思考する。言葉を使って自らの生や死について考え、相手に想いを伝える。人を説得し、交渉し、関係を切り結ぶ。そして人生を前に進めていく。
一方、動物は言葉を持たない。本能に従って餌を食べ、交尾をし、死んでいく。彼らは生や死について考えることもない代わりに、他者と心が通じ合う喜びも感じない。
言葉を持たない人間は、たとえ人の形をしていても、動物と何ら変わりはないと僕は考える。赤ん坊は言葉を持たない。だから赤ん坊には人生や世界がない。人間を人間たらしめるのは言葉だ。では、人間としての言葉を獲得するにはどうすればいいのか。それは、『読書』をすることにほかならない」
この著者の考え方に、わたしは100%同意します。

 

「読書を通じて、一生で経験できないことを学ぶ」として、著者は以下のように述べます。
「読書で学べることに比べたら、1人の人間が一生で経験することなど高が知れている。読書をすることは、実生活では経験できない『別の世界』の経験をし、他者への想像力を磨くことを意味する。本のページをめくればめくるほど、人間の美しさや醜さ、葛藤や悩みが見えてくる。そこには、自分の人生だけでは決して味わえない、豊穣な世界が広がっている。そのなかで人は言葉を獲得していくのだ」

 

「自己検証、自己嫌悪、自己否定」として、著者は以下のようにも述べています。
「僕はかねがね『自己検証、自己嫌悪、自己否定の3つがなければ、人間は進歩しない』と言っている。自己検証とは、自分の思考や行動を客観的に見直し、修正すること。自己嫌悪とは、自意識過剰さや自己顕示欲を恥じ、自分の狡さや狭量さ、怠惰さに苛立つこと。そして自己否定とは、自己満足を排し、成長していない自分や、自分が拠って立つ場所を否定し、新たな自分を手に入れることだ」
「本を読めば、自分の人生が生ぬるく感じるほど、苛酷な環境で戦う登場人物に出会える。そのなかで我が身を振り返り、きちんと自己検証、自己嫌悪、自己否定を繰り返すことができる。読書を通じ、情けない自分と向き合ってこそ、現実世界で戦う自己を確立できるのだ」

 

また、「左翼に傾倒しなかった人はもろい」として、著者は述べます。
「読書体験を重ねた人は、必然的に一度は左翼思想に傾倒すると僕は考える。人間や社会に対する理想が鈍化され、現実が汚れて見えて仕方がなくなるからだ。しかし現実は、左翼的な理想主義者には辛い世界だ。左翼的な思想だけでは世の中は動かない。多くの人が現実の壁に直面する。社会の不条理さはもちろん、理想を貫徹できない自分の弱さ、卑怯さを知ることになる。読書で鈍化した理想が現実に踏みにじられ、破壊される。しかし、それが大人になるということだ。現実世界を生きるということだ」

 

そうした矛盾に苦しむからこそ、その先に新たな視界が開けるとして、著者は以下のように述べます。
「ドイツの哲学者、ヘーゲルの言う『アウフヘーベン』のように、両極を揺れ動くからこそ、一段高いところに登ることができる。だから僕は、読書体験を通じて、左翼的な理想主義に一度も傾倒していない人を信用できない。そうした人間は、人としての厚みがない。特に経営者はそうだ。左翼的な理想主義とはつまり、世の中の矛盾や差別に対してアクションを起こそうとする姿勢だ。『この間違った世界を変えなくては生きていかれない』というピュアな感情は、それが実業の世界に入ったときに、イノベーションを起こす源泉になる。左翼でなくてもいい。そうした思索を経ずに、金銭的に成功した経営者は、言葉に重みがない。だから、その企業が掲げている『ビジョン』にも深みがない。一時のブームに乗って成功しても、環境が変化した瞬間に衰えていく」

 

さらに、「知識を積み重ねてもしょうがない」として、著者は以下のように述べます。
「経営者やビジネスパーソンのなかには、『自分は読書家だ』と自負していても、話にまったく深みのない人がいる。読書を単なる『情報取得の手段』として捉え、ビジネス書や実用書ばかりを読んでいると、こうした状況に陥りがちだ。ビジネス書や実用書には『結論』しか書かれていない。本来、優れたビジネス戦略の裏には、当事者が胸をかきむしりながら思考し、汗と血を流しながら実行するプロセスがある。理論やノウハウではない人間の格闘がある。しかし多くの場合、そうしたプロセスは十分には表現されず、成功体験だけが、方法論の形をとって描かれている。そのままなぞっても、自分が同じに再現できることなどないだろう」

 

もちろん、仕事のために必要な情報を本から取得するのは悪いことではありません。しかし、著者が考える読書とは、実生活では経験できない「別の世界」の経験をし、他者への想像力を磨くことだといいます。重要なのは、「何が書かれているか」ではなく、「自分がどう感じるか」だそうです
「弁護士と医師には魅力を感じられない」として、著者は「僕が個人的にあまり魅力を感じられない職業は、1に弁護士、2に医師である。もちろん人はさまざまであり、職業に規定されないが、この2つは、人間の幅を広げるには役立たない知識を、丸暗記で身につける職業だからだ」と述べます。
著者の言うことは極論ではありますが、言いたいことは理解できます。

 

第1章「血肉化した言葉を獲得せよ」では、「苦しいほうに身をよじり、自己検証能力を磨け」として、著者が高校までの読書体験で実感したのは、人間が何かを達成するには地獄の道を通らなければならないということであると告白し、さらに以下のように述べています。
「どんな美しい理想を掲げても、実際に成し遂げるためには数多の苦しみ、困難がある。何かを得るためには、必ず何かを失う。代償を払わずして何かを得ることは不可能だ。この考え方は、現在に至るまで僕の根本に位置している。そしてこれに気づくまでに、僕は猛烈な量の読書をした。人間は1つの人生しか生きられないが、読書をすれば無数の人生を体感できる。理想を掲げ散っていく主人公に心を通わせる。そうすることで社会の中での自分を客観的に見ることができる。自分はなんて生ぬるいんだ、と現実を叩き付けられる。つまり『自己検証能力』が高まるのだ」


燃える秋 (角川文庫)

燃える秋 (角川文庫)


第3章「極端になれ!ミドルは何も生み出さない」では、「憧れ続けた五木寛之との仕事」として、著者は五木寛之が書いた本への感想を記した手紙を送り続けたことによって、角川書店の編集者時代に文芸界のビッグネームであった五木寛之との仕事が実現したことを紹介します。そして、以下のように述べています。
「僕は常々言っているのだが、感想こそ人間関係の最初の1歩である。結局、相手と関係を切り結ぼうと思ったら、その人のやっている仕事に対して、感想を言わなければ駄目なのだ。しかも『よかったですよ』『面白かった』程度では感想とは言えない。その感想が、仕事をしている本人も気づいていないことを気づかせたり、次の仕事の示唆となるような刺激を与えたりしなければいけない」


弟 (幻冬舎文庫)

弟 (幻冬舎文庫)


だからこそ「言葉」は武器なのだ、と著者は言います。豊富な読書体験を経なければ、武器となる言葉は獲得できません。人を動かすには、1にも2にも頭がちぎれるほど考えて、言葉を選択するしかないというのです。
さて、五木寛之とともに著者が憧れ続けた作家が石原慎太郎でした。「ミリオンセラーを生んだ3枚のカード」として、著者は述べています。
「作家本人も書きたいというテーマなら、いつでも好きなときに切り出せばいい。しかし作家にとって書きたくないテーマだからこそ価値がある。小説に限らず、作品というのは、その人がいちばん書きたくないものを書かせたときにいちばんいいものができるし、売れるのである。実は昔殺人を犯したことがあるけれど、まったく発覚せずに、善良な市民として生きている人がいるとする。その人にかつて犯した殺人の小説を書かせたら、面白いに決まっている。オーバーにいえばそういうことだ」
その結果、著者は『弟』『老いてこそ人生』『天才』という石原慎太郎による3冊のミリオンセラーを世に送り出したのでした。


編集者という病い (集英社文庫)

編集者という病い (集英社文庫)


第4章「編集者という病」では、「現在の出版シーンで、書けば必ず売れる作家といえば、百田尚樹東野圭吾宮部みゆき北方謙三、そして高村薫である」という一文が最も心に残りました。まあ、納得ですね。
著者はさまざまな天才と交流してきましが、彼らと密接に関係して、思い知らされたことがあるそうです。本物の表現者は例外なく「表現がなければ、生きてはいられない」という強烈な衝動を抱えていることだそうです。

 

著者は、以下のように述べています。
中上健次が抱えてしまった血の蠢き、村上龍が抱えてしまった性の喘ぎ、村上春樹が見てしまった虚無。宮本輝を動かす宇宙的不条理。そうしたものがあるからこそ、彼らは一心不乱に小説を書き、人々の心を動かしているのだ。一方、僕にはそうした情念がない。だからはっきりと、自分が小説家になるのは無理だと悟った。僕にできることは、彼らの情念を客観的に捉え、それを作品に落とし込むのをアシストすることだけだ。文学において、所詮編集者は偽物の存在だ」


深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)


第5章「旅に出て外部に晒され、恋に堕ちて他者を知る」では、著者は沢木耕太郎の名著を取り上げ、「『深夜特急』・人生からの脱獄」として、以下のように旅について語ります。
「旅の本質とは『自分の貨幣と言語が通用しない場所に行く』という点にある。貨幣と言語は、これまでの自分が築き上げてきたものにほかならない。それが通じない場所に行くということは、すべてが『外部』の環境に晒されることを意味する。そうした環境では自己愛は成立し得ず、裸形の自分がさらけ出される。必然的に自分と向き合わざるを得ない。つまり自己検証、自己嫌悪、自己否定を余儀なくされるのだ。だから僕は、旅ほど人生を改変することに作用するものはないと思う」


地獄の季節 (岩波文庫)

地獄の季節 (岩波文庫)


著者は「村上龍との放蕩」として、作家と編集者との関係性について以下のように述べます。
中上健次林真理子坂本龍一尾崎豊もそうだが、僕は才能を認めた作家・アーティストとは、一定期間とんでもなく深く付き合った。睡眠もろくにとらず、文字どおり365日飲み明かす。これ以上ないほど深く付き合うと、その人物の人間性を骨の髄から理解することができ、その後関係が希薄になっても、再び深い関係を構築できる。結局、作家と編集者は浄瑠璃でいう『道行き』のような関係なのだ。行き着く先は地獄でも、最後の最後まで一緒に道を進むことでしか、新たなものは生まれない。アルチュール・ランボーの『地獄の季節』のなかの『別れ』のように『俺たちの舟は、動かぬ霧の中を、纜を解いて、悲惨の港を目指』す関係なのである」
「道行き」という言葉は、わたしにとって、とても説得力がありましたね。

 

また、「恋愛小説こそ読書の王道」として、著者は以下のように述べます。
「旅と同じくらい人間を成長させるのは恋愛だ。恋愛ほど、他者への想像力を磨くものはない。想う相手にどのように声をかければ、自分に振り向いてくれるか。決して答えが出ない問いを四六時中考え続け、勇気を振り絞って声をかける。運良く交際することができても、良好な関係を続けるためには再び多大な努力を要する。いくら自分が心を尽くしても、その気持ちが相手に届くとは限らない。むしろ届かないことのほうが多い」

 

著者は「恋愛」について、以下のように述べます。
「恋愛とはこれほど理不尽なものである。恋愛のなかで他者への想像力を磨き、相手を振り向かせるための圧倒的努力を重ねた経験は、必ずビジネスにも生きると僕は考えている。恋愛の理不尽さに比べれば、仕事のそれなど甘いものだ」
そして、著者は「僕は恋愛小説こそが、読書の王道だと考えている。恋愛小説には、人間の感情のすべてが含まれているからだ。人を想う気持ちもそうだし、その過程で見つめざるを得ないエゴイズムもそうだ。その点でいえば、文学を最も純粋な形で味わおうと思ったら、恋愛がテーマになっているものを選ぶといい」とまで言い切るのでした。

 

さらに、「困難は読書でしか突破できない」として、著者は述べます。
「困難に陥ったときには、人は藁にもすがろうとする。そのときに心のよすがをどこから得るかといえば、やはり読書しかない。困難を突破する答えは、スマートフォンで検索すると出てくるように錯覚しがちだ。しかしそうして出てきた答えが、自分の人生を前に進めることはない。
テクノロジーが発達した現代でも、本というローテクなものの価値は失われていない。一心不乱に本を読み、自分の情念に耳を澄ます時期は、必ず自分の財産になる。だから、手軽に情報が取れるようになっただけになおさら、意識して読書の時間を捻出すべきだと僕は考えている」


死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド

死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド


第6章「血で血を洗う読書という荒野を突き進め」では、「死の瞬間しか人生の答えは出ない」として、著者は以下のような死生観を示します。
「現実の我々は、死に向かって一方通行に進んでいる。明確な期限が定められているからこそ、限られた時間の生産性を高める必要が生じ、貨幣や法律といった社会システムができた。同時に、死の恐怖はさまざまな作品や思想をもたらした。我々が生きている世界は、死によって規定されていると僕は考える」
さらには、「死について考えることができるのは、人間だけである」として、著者は「人間だけが言葉によって死の概念を捉えることができるからである。人間と同じく、動物もいつか死ぬ。しかし言葉を持たない動物は、自分の時間が有限であることを理解しない。本能に沿って毎日を過ごし、徐々に身体が衰えていって一生を終えるだけだ。だから、死を思わない人間は、動物と変わらない。言葉を持たない赤ん坊が動物と変わらないのと同じである」と述べています。このあたりは、拙著『死が怖くなくなる読書』(現代書林)にも詳しく書かれています。


死を乗り越える映画ガイド あなたの死生観が変わる究極の50本

死を乗り越える映画ガイド あなたの死生観が変わる究極の50本


「死」について、著者は以下のようにも述べています。
「頭で考えれば、死をそんなに怖がる必要もないのかもしれない。死ぬことは、自分が生まれる前の状態に戻ることを意味する。時間という概念自体、人間が勝手に言葉で決めたものだからだ。本来、世界はどこから始まってどこで終わりを迎えるというものでもない。単に連続するフィルムのように、場面が移り変わっているだけなのかもしれない。そのなかで僕は、映画の登場場面みたいに、一瞬何かの役で出演し、再びいなくなるだけだ。奈良時代にも、大正時代にも、自分はいなかった。そのときに何の苦しみも感じなかったと考えると、自分がいない時代に戻っても、実は苦しむことなど何もないのかもしれない」

このフィルムのイメージは非常に興味深いと思いました。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)にも通じる世界です。

 

「死の瞬間」についても、著者は言及しています。
「死の瞬間を迎えるとき、僕は何もかも失っているかもしれない。信じていた人に裏切られているかもしれない。しかしどんなに貧乏で、どんなに孤独だったとしても、僕が〇だと思えば〇だ。人が決めることではない。会社には役員や社員がいるので、会社は彼らのために残したい。しかし僕自身の死後のことはまるでどうでもいい。葬儀もやってもらわなくてもいいし、墓もいらない。むしろ遺骨は清水とハワイの海に撒いてほしいぐらいだ。生きている間は毎日を生き切り、死後は風や波になりたいと本気で思っている」

 

「『夢』や『希望』など豚に食われろ」というショッキングな見出しで、三島由紀夫の檄文を紹介した後で、著者は自分が選びとった言葉を突き詰めることはこれほどまでに苛酷なものだと述べます。そして、「夢」「希望」「理想」「情熱」「野心」「野望」について熱っぽく語る人間は嫌いだと言い、「これほど安直な言葉はない」と言い放って、以下のように述べます。
「僕のところにはいろんな若者が会いに来るが、『社会や人の役に立つのが夢だ。だから起業したい』と言う人がいる。結果が1つも出ていないで語るそんな言葉は豚の餌にでもなればいい。悪戦苦闘して匍匐前進している人たちは決してそんな言葉を口にしない。何かを目指す者は『地獄』と『悪夢』を身をもって生きたらいい。結果はそこからしか出てこない」
このあたりの著者の発言には、違和感を覚えました。どうして、「社会や人の役に立つのが夢だ。だから起業したい」がダメなのでしょうか。何かを目指す者は「地獄」と「悪夢」を身をもって生きたらいいと言いますが、そこまで偽悪的になる必要があるのでしょうか。


法則の法則―成功は「引き寄せ」られるか

法則の法則―成功は「引き寄せ」られるか


著者は「成功」という言葉も大嫌いだそうで、その理由を述べます。
「『成功』とはプロセスとして、そのときの1つの結果にすぎない。『成功』かどうかは自分の死の瞬間に自分で決めるものだ。それまでは全部途中経過だ。貧しくても惨めに見えてもいい。自分が最期の瞬間、微かにでも笑えるならその人の人生は『成功』なのだ。
『僕は成功したい』と言う人に対しては『君は成功をどういう概念で捉えているのか。何が成功なのか、君の言葉でちゃんと説明してごらん』と言うと、大体の人は答えられない。言葉はそれほどまでに重いものである。夢や希望や成功という言葉を使えるだけ、自分は考え抜いているか。そのことを問い直し、もし考え抜いていないと思ったら、思考する言葉を手に入れてほしい。それは読書を通じて手に入れられるはずだ」
この「成功」についての発言は、わたしも同意見です。
「成功」については、拙著『法則の法則~「成功」は引き寄せられるか』(三五館)で詳しく書きました。

 

「血で血を洗う読書という荒野を突き進め」として、著者は、1987年にフランスで公開された映画である「ベルリン・天使の詩」を紹介します。「映画としては凡作だが、メッセージは面白い。この作品では、天使は『認識者』、人間は『実践者』として描かれている」と述べます。
「認識者」について、著者は以下のように述べます。
「読書によって他者への想像力や生きるための教養を磨き、まずは認識者になる。つまり世の中の事象と原理を理解する。その上で、覚悟を決めて実践者になる。いったん実践者になれば、暗闇のなかでジャンプし、圧倒的努力を以て、目の前の現実を生き切るのみだ」

 

続いて、読書と認識者について、著者は述べます。
「読書とは自己検証、自己嫌悪、自己否定を経て、究極の自己肯定へと至る。最も重要な武器なのである。生きて行くということは矛盾や葛藤を抱えて、それをどうにかしてねじ伏せるということだ。認識者でいるうちは理想や夢や希望を語っていれば、それでいい。しかし、読書で得た認識者への道筋は、矛盾や葛藤をアウフヘーベンしなくては意味がない。それが『生きる』ということだ。認識者から実践者へ。天使から人間へ。読書から始まった長大な旅は、認識者を経て、人間へとジャンプする。共同体のルールを突破して個体の掟で現実を切り開く、地獄の前進へ。血を流し、風圧に耐えながら、自己表現の荒野へ」

 

そして、おわりに「絶望から苛酷へ。認識者から実践者へ」の最後で、著者は「何度でも書くが、正確な言葉がなければ、深い思考はできない。深い思考がなければ、人生は動かない。自己検証する。自己否定する。それを、繰り返し、繰り返し、自己嫌悪との葛藤の末に自分の言葉を獲得する。その言葉で、思考して、思考して、思考し切る。その格闘の末に、最後の最後、自己肯定して救いのない世界から立ち上がる。認識者から実践者になる。暗闇の中でジャンプする。人生を切り開く。読書はそのための最も有効な武器だ」と述べるのでした。
本書は、ページを切れば、そこから赤い血が流れ出すような生々しい読書論でした。ある意味で、これほど切実な読書論は初めて書かれたのかもしれません。それはやはり、ひとつの事件ではないでしょうか。

 

読書という荒野 (NewsPicks Book)

読書という荒野 (NewsPicks Book)

 

 
2018年9月18日 一条真也

家族に送られた名女優

一条真也です。
女優の樹木希林さんが、9月15日に75歳で逝去されました。
言うまでもなく日本映画を代表する役者さんであり、その独特の演技や人生観には多くの人々が魅了されました。わたしもその1人です。全身をがんに冒された樹木さんは、常に「死ぬ覚悟」を持って生き抜かれた方でした。その生き様は、超高齢社会、多死社会を生きる日本人の1つの模範になるのではないでしょうか。

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「デイリースポーツ」より 

 

今年5月にはブログ「万引き家族」で紹介した日本映画でカンヌ映画祭に参加されていました。この作品は同映画祭の最高賞である「パルムドール」を受賞しましたが、わたしは失望しました。というのも、樹木さん扮する老婆の初枝が亡くなったとき、彼女の家に居候をしている疑似家族たちはきちんと葬儀をあげるどころか、彼らは初枝の遺体を遺棄し、最初からいないことにしてしまったからです。このシーンを観て、わたしは巨大な心の闇を感じました。 

 

1人の人間が亡くなったのに弔わず、「最初からいないことにする」ことは実存主義的不安にも通じる、本当に怖ろしいことです。初枝亡き後、信代(安藤サクラ)が年金を不正受給して嬉々としてするシーンにも恐怖を感じました。
葬儀の意義と重要性を見事に表現したのがブログ「おくりびと」で紹介した日本映画です。アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」は、ブログ「おみおくりの作法」ブログ「サウルの息子」で紹介した映画とともに、世界三大「葬儀映画」と呼んでもいいのではないかと思います。 

 

ある意味で、「おくりびと」と「万引き家族」は対極に位置する作品ではないでしょうか。「おくりびと」で主役の納棺師を演じたのが本木雅弘さんです。樹木さんの娘婿ですが、取材などで樹木さんはいつも「わが家には『おくりびと』がいますから、死んでも安心ですよ」などと冗談を言われていました。でも、「おくる」心を知っておられる本木さんは、実際に心を込めて義母を見送られました。樹木さんは、本木さんの奥様である長女の内田也哉子さんに看取られ、30日に東京・南麻布の光林寺で本葬儀が営まれるそうです。

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「スポーツ報知」より

 

 

17日、樹木さんのご遺体は東京都内の自宅から出棺されました。午後1時32分に霊柩車が到着。家族らが見送った後、本木さんが集まった報道陣に一礼されました。わたしは、「万引き家族」の初枝さんは疑似家族から送ってもらえなかったけれど、樹木さんは本物の家族から送ってもらえて良かったと思いました。人は誰でも「おくりびと」、そして、いつかは「おくられびと」です。1人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人生の豊かさにつながると確信します。

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「デイリースポーツ」より 

 

女優は死しても映画を遺します。10月13日公開予定の「日日是好日」という茶道教室を舞台にした映画で、樹木さんは「タダモノじゃない」と噂のお茶の先生を演じます。2人の教え子には、黒木華さんと多部未華子さんが扮します。原作はエッセイストの森下典子さんが茶道教室に通う20年間の日々をつづった『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』ですが、わたしはかなり前から観るのを楽しみにしています。これはわたしの口癖ですが、映画とは故人と会えるメディアです。スクリーンの中で、樹木さんに再会できることが楽しみです。名女優・樹木希林さんの御冥福を心よりお祈りいたします。

 

2018年9月17日 一条真也

『響~小説家になる方法~』

一条真也です。
『響~小説家になる方法~』柳本光晴著(小学館)1~9巻を読みました。
ブログ「響  -HIBIKI-」で紹介した映画をチャチャタウン小倉内のシネコンで観た後、同施設内にあるTSUTAYAで原作コミック既刊全巻を大人買い、その日のうちに一気に読了。コミックをまとめ読みしたのは久々ですが、面白かった!

響?小説家になる方法? コミック 1-9巻セット

 

『響~小説家になる方法~』は、「ビッグコミックスペリオール」(小学館)で2014年18号から連載されているマンガです。 2017年、「マンガ大賞2017大賞」を受賞。2018年9月14日、 2018年9月14日、「響  -HIBIKI-」のタイトルで実写映画が公開されました。

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大人買いして、一気読みしました 

 

作者の柳本氏については徳島県出身で、誕生日が8月25日の男性である以外は、年齢や出身校、デビューまでの経歴など、何から何まで非公開にされています。ツイッターフェイスブックなどもやっておらず、山本氏に関する情報は流通していらず、プロフィールは不明だらけです。こういった傾向は同人作家出身の漫画家によく見られるそうで、柳本氏自身も同人作家の出身であることが自身のブログでわかっています。まさに覆面作家・響の秘密主義を地で行くような印象ですね。

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各巻の帯の裏

 

映画化にともなって新しくされた帯の裏には、各巻共通で「芥川賞直木賞にWノミネートされた弱冠15歳の天才。鮎喰響。何があっても揺るがないその信念は、文芸界を超え世の中全てに衝撃を与えていく――」「2017年にマンガ大賞2017を受賞した『響~小説家になる方法~』が待望の実写映画化! かつて見たことのない映画がここに誕生する・・・・・・!!」と書かれています。各巻には、主人公・響に欅坂46の平手友梨奈が扮したオリジナルの栞が付いていました。ファンには、たまらないでしょうね。

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各巻のオリジナル栞 

 

『響~小説家になる方法~』のストーリーですが、出版不況に苦しむ文芸業界。現状の厳しさを嘆く文芸雑誌「木蓮」編集部に、応募要項を一切無視した新人賞応募作が届きます。編集部員の花井ふみは、応募条件を満たさず、ゴミ箱に捨てられていたその原稿を偶然見つけます。封を開けると、そこには「お伽の庭」という直筆で書かれた小説が入っていました。それは花井がこれまで出会ったことのない革新的な内容の小説であり、そこから世界は変わり始めます。

 

1巻の冒頭では、出版不況にあえぐ業界と、その中でもさらに苦境に陥っている文芸誌の編集部の苦闘が描かれます。編集長もベテラン編集者もみんな、あまりやる気がありません。誰もが「純文学など誰も読まず、文芸誌は時代遅れである」と諦めきっているのです。しかし、入社3年目、25歳の花井だけは「やる気があってもなくても部数は下がり続ける。業界自体どうしようもなく末期に近い」と思いつつも、「時代を変えるのはいつも1人の天才だ」と信じて、新しい才能の発掘にベストを尽くすのでした。

 

わたしは、このくだりを読んで、わが冠婚葬祭業界のことを考えました。社会の無縁化を背景にして、結婚式や葬儀がどんどん軽視されています。わたしなどは「冠婚葬祭は人生を肯定することである」とか「儀式なくして人生なし」と訴え、そのような風潮に警鐘を鳴らしてきました。果ては600ページの『儀式論』(弘文堂)まで書いたわけですが、どうも社会の儀式軽視の流れは止まりそうにありません。残念なのは、一般の人々はともかく、冠婚葬祭業界の経営者にも「儀式軽視は仕方ない」と考えている者が多いことです。わたしより若い世代にもそのような経営者がいます。

 

このままでは、日本人はますます結婚式や葬儀を行わなくなり、業界そのものが衰退していくでしょう。わたしは、これからもドン・キホーテのように孤軍奮闘してゆくつもりですが、この業界にも「文芸の時代をもう一度創る!」と息巻く花井ふみのように、「儀式の時代をもう一度創る!」という志を持った若い人が何人か現れれば流れは変わると思います。そういう高い志を持った人たちのことを「志士」と呼ぶのです。そこに男女の性別など関係ありません。

 

現在、出版業界や新聞業界が衰退の一途をたどり、大学の文系学部が解体されていることは、儀式の軽視化と根は同じだと思います。表面上の経済とか科学技術ばかりに注目が集まり、目に見えるものしか重視しない社会。しかし、サン=テグジュペリの『星の王子様』にも出てくるように、本当に大切なものは目には見えません。本当に大切なものとは、人間の「こころ」です。「こころ」は不安定なものであり、「ころころ」と不安に揺れ動きます。それを安定させたり、また感動させたりする力が文学や儀式といった文化にはあるのです。そう、文学も儀式も、つまるところは「人間を幸せにする」ためにある文化装置なのです。


サンデー毎日」2018年4月1日号

 

「こころ」にとって最も重要な問題は「死生観」です。ブログ「死生観は究極の教養である」にも書きましたが、現在の日本は、未知の超高齢社会に突入しています。それは、そのまま多死社会でもあります。日本の歴史の中で、今ほど「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められる時代はありません。特に「死」は、人間にとって最大の問題です。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようと努力してきました。それでも、今でも人間は死に続けています。死の正体もよくわかっていません。

 

実際に死を体験することは一度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だと言えます。まさに死こそは、人類最大のミステリーなのです。なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はありません。しかし、その不条理に対して、わたしたちは死生観というものを持つ必要があります。高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人がいますが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸でしょう。まさに、死生観は究極の教養である。そのように、わたしは考えます。

 

死の不安を解消するには、自分自身の葬儀について具体的に思い描くのが一番いいでしょう。親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日頃から連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝する習慣を付けたいものです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。自身の葬儀の想像とは、死を直視して覚悟すること。覚悟してしまえば、生きている実感が湧いてきて、心も豊かになるでしょう。

 

死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド

死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド

 

  

そして、読書も死生観に多大な影響を与えます。
ブログ「エンディング産業展講演」でも紹介しましたが、究極の「修活」とは死生観を確立することだと思います。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。一般の人が、そのような死生観を持てるようにするには、どのようにしたらよいでしょうか。わたしがお勧めしているのは、読書と映画鑑賞です。読書に関しては、わたしは、『死が怖くなくなる読書』(現代書林)という本を上梓しました。自分が死ぬことの「おそれ」と、自分が愛する人が亡くなったときの「悲しみ」が少しずつ溶けて、最後には消えてゆくような本を選んだブックガイドです。

 

例えば、人はガンで余命1年との告知を受けたとすると、「世界でこんなに悲惨な目にあっているのは自分しかいない」とか、「なぜ自分だけが不幸な目にあうのだ」などと考えがちです。しかし、本を読めば、この地上には、自分と同じガンで亡くなった人がたくさんいることや、自分より余命が短かった人がいることも知ります。これまでは、自分こそこの世における最大の悲劇の主人公と考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟ることができます。また、死を前にして、どのように生きたかを書いた本もたくさんあります。『死が怖くなくなる読書』には、小説もたくさん取り上げています。

 

 

特に、アンデルセン童話に代表されるファンタジーを死生観の豊かな宝庫として紹介しました。宇宙の叡智が込められた「メルヘン」と人間の創造的産物である「ファンタジー」は似て非なるものです。そして、ファンタジーでありながらメルヘンの要素を持ったものこそ「ハートフル・ファンタジー」です。わたしは、かつて『涙は世界で一番小さな海』(三五館)という本を書きました。そこで、『人魚姫』『マッチ売りの少女』『青い鳥』『銀河鉄道の夜』『星の王子さま』の5つの物語は、じつは1つにつながっていたと述べました。

 

アンデルセン童話集 (挿絵=クラーク)

アンデルセン童話集 (挿絵=クラーク)

 

 

ファンタジーの世界にアンデルセンは初めて「死」を持ち込みました。アンデルセンの影響を強く受けたメーテルリンクや賢治は「死後」を持ち込みました。そして、サン=テグジュペリは死後の「再会」を持ち込んだのです。一度、関係をもち、つながった人間同士は、たとえ死が2人を分かつことがあろうとも、必ず再会できるのだという希望が、そして祈りが、この物語には込められています。

 

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

 

 

『響~小説家になる方法』に話を戻しましょう。
鮎喰響が史上初の芥川賞直木賞W受賞という快挙を達成し、社会現象まで巻き起こした作品は、『お伽の庭』というファンタジー小説です。その内容がコミック1巻に簡単に説明されているのですが、それには「舞台は山あいの寒村。描写されている風習、しきたりから百年ほど前の日本を思わせる。ただ、具体的な時代、場所が明記されてるわけではなく、生から死までが小さな社会の中で完結している。作者が描きたかったのは、この世界観と死生観・・・」とあります。

 

また、初めて作者の響と電話で話した花井ふみは、『お伽の庭』について「いつの時代のどこの国かもわからないのに、懐かしい風景が眼前に広がって、この世界で人が人として生きるって、こういうことなんだなって。生き方の正解を感じたの。業界に新風なんてレベルじゃない。世界を変えられるような、見たこともない何かを私はずっと探してて。鮎喰さんの『お伽の庭』を読んで、私はこれを探してたんだって思えたの。面白かったです」と話しています。

 

あと、ラストで主人公が初雪の中で美しく死んでいくという描写があり、多くの読者がこれに感動したようです。『お伽の庭』の内容については、これくらいしか情報が開示されていませんが、どうも作者の「死生観」が示され、美しい「死に方」が描かれていることは間違いないようですね。雪の中でこの世を卒業するというのはアンデルセンの「マッチ売りの少女」を連想しますが、いずれにしても『お伽の庭』は、読者に「死の不安」を乗り越えさせるハートフル・ファンタジーの可能性が高いように思えます。

 

 

作者の柳本氏も「死」に関心が深いようで、『女の子が死ぬ話』というコミックを刊行しています。まあ、「愛」と「死」は感動の物語には不可欠のテーマですが。 
『お伽の庭』の後、響はひょんなことから『漆黒のヴァンパイアと眠る月』というライトノベルを書きますが、これは吸血鬼を扱っているだけあって、「死」や「不死」というテーマが描かれていることが予想されます。

 

さらには、文芸部の方針で全国高校文芸コンクールに「11月誰そ彼」という小説を応募し、最優秀賞の文部科学大臣賞に輝きます。この「「11月誰そ彼」の内容について、審査委員長の言葉で「黄昏時に色んな死者と出会い話をする。ドラマティックな死の話はあまりなく、ただ11月という秋の匂いと死者の思い出と恐ろしく綺麗な文章だった」と紹介されています。これも、ハートフル・ファンタジーの匂いがプンプンするではありませんか!

 

というわけで、鮎喰響は日本人の死生観を変える小説家になる可能性を持っています。それは、彼女がカリスマとして扱われれば扱われるほど、その舞台は文学から宗教へと近づいていくかもしれません。今後、響とカルト宗教の教祖との戦いなどにも期待してしまいます。カルト宗教といえば、オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

死の事実を露骨に突き付けることによってオウムは多くの信者を獲得したが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできなかった。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)でも述べたように、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、言挙げする必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。日本人の死生観を変える可能性を持った小説家・鮎喰響きには、ぜひ「葬」のあり方についても書いてほしいと思います。

 

響~小説家になる方法~ 9 (9) (BIG COMIC SUPERIOR)

響~小説家になる方法~ 9 (9) (BIG COMIC SUPERIOR)

 

 

最後に、響の父親は厳格な公務員です。父は高校生である響が『お伽の庭』がベストセラーになったことによって莫大な印税を手にすることを良しとしません。高校生の身で大金を手にしては、今後の娘の人生に悪影響を及ぼすと思っているのです。それで、父は版元と掛け合って『お伽の庭』の印税を通常の本体価格×発行部数の10%ではなく0.001%にしてもらったのでした。そんな堅物の父が驚いたことがあります。その場面は9巻に登場するのですが、それは響の2作目となる『漆黒のヴァンパイアと眠る月』が出版契約書も交わさないで刊行されたことでした。

 

実直な公務員である父は「契約書交わしてないのに本が出てるの!?」「商品が出たあとに契約書・・・・・・?出版ていうのはそういうものか・・・・・・?」と仰天するのですが、100冊近く本を出しているわたしからすれば、こんなことは日常茶飯事ですね。でも、響のお父さんがいうように、契約書を交わしてから商品を発売するのが社会のルールとしては正しいです。ぜひ、出版業界の方々は正しいやり方で本を出版していただきたいものです。はい。

 

響?小説家になる方法? コミック 1-9巻セット

響?小説家になる方法? コミック 1-9巻セット

 

 

2018年9月17日 一条真也

 

「響 -HIBIKI-」

一条真也です。
社員旅行から戻って、15日はまた法令試験の勉強をしました。朝からぶっ通しで過去問をやっていたらだんだん気分が滅入ってきて、「このままでは心が悲鳴を上げてしまう」と思い、14日から公開されたばかりの日本映画「響 -HIBIKI-」をレイトショーで観ました。予想以上に大変面白かったです!

 

ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
マンガ大賞2017で大賞に輝いた、柳本光晴のコミック『響~小説家になる方法~』を実写化したドラマ。突如として文壇に現れた10代の作家が、さまざまな人たちに影響を与えるさまが描かれる。監督は『となりの怪物くん』などの月川翔。欅坂46の平手友梨奈がヒロインにふんし、北川景子アヤカ・ウィルソン高嶋政伸柳楽優弥らが共演する。平手は映画初主演」

 

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また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「突如として文学界に現れた、鮎喰響(平手友梨奈)という15歳の少女。彼女から作品を送られた出版社の文芸編集部の編集者・花井ふみ(北川景子)は、彼女の名を知らしめようと奔走する。やがて響の作品や言動が、有名作家を父に持ち自身も小説家を目指す高校生の祖父江凛夏(アヤカ・ウィルソン)、栄光にすがる作家、スクープ獲得に固執する記者に、自身を見つめ直すきっかけを与えていくようになる」

 

響?小説家になる方法? コミック 1-9巻セット

響?小説家になる方法? コミック 1-9巻セット

 

 

原作は大変有名で売れたマンガだそうですが、わたしは知りませんでした。映画の鑑賞後は早速、映画館と同じ商業施設に入っている書店で原作コミックの『響~小説家になる方法~』(小学館)1~9巻を購入しましたけどね。正確には、以前から『響』というタイトルだけは耳にしたことがありましたが、わたしの好きなウイスキーの銘柄と同じであり、「最近、品薄で入手しにくくて困るな」と思った程度でした。
主演の欅坂46の平手友梨奈も、「紅白で倒れた子だよな」くらいの認識しかありませんでしたが、映画「響 -HIBIKI-」を観て、その存在感の大きさと演技力の素晴らしさに魅了されました。すごい才能が出てきたものです。そう、「響 -HIBIKI-」は才能の物語。この作品の場合は、小説を書くという才能の物語が描かれています。

  

この作品で、小説とは「人の心を動かすもの」と定義されていますが、優れた小説はこの世界を変えることもできる・・・そのような可能性を信じたものたちが小説を書き、文芸誌の新人賞に応募し、さらには芥川賞の受賞を夢見ます。夢破れた者は勝者にジェラシーを抱き、世を恨みます。「響 -HIBIKI-」では、そんな残酷な才能の物語が展開されていきます。物語の冒頭で、ヤンキーの高校2年生男子が新入生の女子・鮎喰響に「殺すぞ」とすごんで、逆に手の指を折られてしまいますが、このときから男たちは響に屈辱を与えられるのです。大の男が女の子に負ける、高校生に負ける・・・そんな屈辱と怨恨にまみれた「才能」の残酷な物語。それが「響 -HIBIKI-」です。


映画『響-HIBIKI-』を914倍楽しむためのメイキング、平手友梨奈の魅力満載

 

それにしても、高校の文芸部という設定がなつかしかったです。
何を隠そう、このわたしも小倉高校時代は文芸部に所属して、小説などを書いていました。ブログ「高校の同窓会」で紹介した先月11日に開催した小倉高校の同期会では、同じ文芸部員だった木田君(生徒会長でもありました)となつかしい部活の思い出を語り合いました。木田君は今でも小説を書いているそうです。わたしの本もよく読んでいてくれているそうで、嬉しかったです。

 

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

 

 

「響 -HIBIKI-」では主人公の鮎喰響が15歳という史上最年少で芥川賞を受賞しますが、高校時代のわたしは18歳で史上最年少の芥川賞作家になることを夢見ていました。その後、受験勉強で小説を書くことは中断し、大学に入ってからは六本木に住んだことからディスコ通いにハマり、すっかり小説とは縁遠い生活になってしまいました。その後、『蹴りたい背中』で綿矢りさ氏が19歳で芥川賞を史上最年少受賞したことを知り、自身の高校時代をなつかしく思い出したものでした。

 

 

わたしも高校1年のときに幻想小説風の短編は書いたことがありますが、鮎喰響のように200枚の長編を書き上げるというような経験はありませんでした。わたしの長女は中学生のときに14歳くらいでアニメ映画「ファインディング・ニモ」の後日談となる小説を100枚以上書いたことがありました。彼女は最近も600枚ぐらいのファンタジー長編を書いて、わたしを驚かせました。わたしの知り合いの編集者に娘の原稿を読んでもらったところ、「大変な力作です。登場人物も多く、話も複雑です」「言葉選びは自信をもってください。また、文章も読みやすく、可能性を感じます」などのコメントをいただきました。長女の小説はまだ未完成なので、まずは完成させることが先決ですね。まあ、あまり親馬鹿になってもいけませんので、この話題はくれくらいにしておきます。

 

 

映画「響 -HIBIKI-」には、明らかに村上春樹氏をモデルにしたと思われる世界的人気作家・祖父江秋人(吉田栄作)が登場します。彼の高校2年生の娘・リカ(アヤカ・ウィルソン)も小説家を目指しており、処女作は25万部のベストセラーになります。最初に彼女が「わたし、小説を出版するよ」と報告したとき、父親は「大変だよ」とだけ言います。実際、小説家で食べていくのは大変です。もし、わたしの長女が「小説家になりたい」と言ったら、その可能性は大事にしてあげたいですが、やはり親として「やめておきなさい」と言うと思います。

 

読書という荒野 (NewsPicks Book)

読書という荒野 (NewsPicks Book)

 

  

少し前に幻冬舎社長の見城徹氏が書いた『読書という荒野』を読みました。その第4章「編集者という病」には、「現在の出版シーンで、書けば必ず売れる作家といえば、百田尚樹東野圭吾宮部みゆき北方謙三、そして高村薫である」と書かれてありました。「書けば必ず売れる」どころか「小説だけで生活していける」作家の数も日本では数人にすぎないと「サンデー毎日」の編集長に教えられたことがあります。それほど厳しい世界なのです。しかしながら、作家の中には本物の表現者がいます。見城氏はさまざまな天才と交流してきましが、彼らと密接に関係して、思い知らされたことがあるそうです。本物の表現者は例外なく「表現がなければ、生きてはいられない」という強烈な衝動を抱えていることだそうです。

 

映画「響 -HIBIKI-」には、さまざまな小説家が登場しますが、大人である彼らはみな少女・鮎喰響の才能に嫉妬します。何よりも15歳という若さに嫉妬します。自分より若い人間に成功されることは、自分の過去つまり人生が全否定されるような感覚に陥り、人は不安になることが多いようです。ましてや、小説家などという自意識の塊のような連中はなおさらその不安は大きく、それが敵意に変わるのでしょう。

 

わたしも本を書く人間ですが、若い書き手の登場を喜びこそすれ嫉妬した経験はありません。というのも、わたしは小説などの文芸作品を創造する者ではなく、冠婚葬祭や年中行事といった儀礼文化の意義や重要性を説くような本を書いてきたため、あまり部数とか売上げなどは意識してきませんでした。正直、わたしが本を書くときは「必ず売れる本を書くぞ」という意識はなく、それよりも「自らの使命を果たすぞ」というミッション意識のほうが強いです。これが、わたしも小説やビジネス書などで生計を立てている職業作家だったら、若き才能の出現に心穏やかではいられなかったかもしれません。

世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)

 
 
若い才人に出会ったとき、わたしはいつも『論語』の「子罕篇」にある「子曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや」という言葉を思い出します。「後生畏るべし」はしばしば「後世畏るべし」と書き誤られます。しかし、本来は「後生」です。文字通り「後から生まれたもの」で、年少の後輩を言う言葉ですね。「先生」といえば、日本語では学校の教師、医者、弁護士、議員など特別の資格を持つ人をいう敬語ですが、中国語では単に先に生まれた人のことであり、その反対が後から生まれた人、すなわち「後生」なのです。ですから「後生畏るべし」とは、「若い人を侮ってはいけない。今と比べて将来どれほど伸びるか分からない(可能性を持っている)のだから」という意味になります。わたしは、いつも自分より年少者に対しても敬意を持つことのできる人間でありたいと願っています。

 

さて、鮎喰響を演じた平手友梨奈は、まさにハマリ役といった印象でした。鑑賞前には「ただのアイドル映画じゃないだろうな」と少し危惧していたのですが、まったくの杞憂でした。平手友梨奈は「撮影中は響として生きた」と語っていますが、納得しました。演技をしているという感じではなくて、本当にそのまま鮎喰響になり切ってしまったようでした。平手友梨奈がもともと持っているある種の「危うさ」が響の「危うさ」にシンクロしたのかもしれません。ということは、このキャスティングを実現させた月川翔監督をはじめとする関係者の勝利ですね。
映画のユーザー・レビューの中には「平手ちゃんの平手打ち!指折り!椅子殴り!飛び蹴り!サイコーっす! 痛快っす! 好きやわ〜」といったコメントもありました。欅坂46の平出ファンにはたまらないシーンが満載だったのでしょうね。

 

ただし、平手友梨奈演じる鮎喰響は、他人に無関心のようでいて、じつは思いやりの心を持っています。人生最後の勝負を賭けた芥川賞に落選して世をはかなんだ小説家・山本(小栗旬)が列車に飛び込んで自殺しようとしたとき、その場に居合わせた響は彼に向かって「死ぬつもり?」「駄作した書けないから死ぬ? バカじゃないの?」「太宰も言ってるでしょ。小説家なら、傑作1本書いて死になさい」と声をかけます。大変なリスクまで冒して(それに伴う映画のエンディングには笑ってしまいましたが)、彼の命を必死に救おうとしたのです。
わたしはこのシーンを観て、タレントで元モーニング娘。吉澤ひとみ容疑者が、今月6日、酒に酔ってひき逃げ事件を起こした瞬間の映像を連想しました。吉澤容疑者は、午前7時頃、東京都中野区東中野の路上で酒に酔った状態で乗用車を運転中に自転車に乗った女性に衝突し、そのまま逃走した疑いが持たれています。猛スピードの衝突された女性は転倒し、付近を歩いていた男性にぶつかりました。

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義を見てせざるは勇なきなり! 

 

警視庁は吉澤容疑者を過失運転致傷と酒気帯び運転、ひき逃げの疑いで逮捕しましたが、わたしは映像に映っている周囲の人々の反応に驚きました。車に跳ねられて怪我をしている人がいるのに、隣にいた女子学生たちは何事もなく通り過ぎていったのです。ちょうど響と同い年くらいの女の子たちでしょうか。このシーンを観て、わたしは呆然としました。YouTubeのコメントには「おいおい、なんて周り冷たいねん。これが東京? 吉澤ひとみの悪質さにも驚いたけど、周りのヤツら血通ってんのか?」というものもありました。わたしは、通り過ぎた彼女たちに『論語』の「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉を贈りたいです。


ハートフル・ソサエティ』(三五館) 

 

一方、鮎喰響には熱い血が通っています。
そう、彼女は「義を見てせざるは勇なきなり」を地で行く女の子です。自分への中傷は許せても、友人や知人がいじめられると我慢できません。
彼女が書いた『お伽の庭』という処女作の内容が原作コミックの1巻に簡単に説明されているのですが、それには「舞台は山あいの寒村。描写されている風習、しきたりから百年ほど前の日本を思わせる。ただ、具体的な時代、場所が明記されてるわけではなく、生から死までが小さな社会の中で完結している。作者が描きたかったのは、この世界観と死生観・・・」とあります。
なんとなく、そこで暮らす人々が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を自然に持つハートフル・ソサエティの物語のような気がしてなりません。

 

そんな響が魂を込めて書く小説を初めて読み、初めて評価し、彼女を必死で守ろうとしたのが北川景子演じる女性編集者・花井ふみでした。編集者とは何か。
ブログ「編集者 パーキンズに捧ぐ」で紹介した映画には「編集者」という職業のすべてが描かれていましたが、見城徹氏は『読書という荒野』でこう述べています。
中上健次が抱えてしまった血の蠢き、村上龍が抱えてしまった性の喘ぎ、村上春樹が見てしまった虚無。宮本輝を動かす宇宙的不条理。そうしたものがあるからこそ、彼らは一心不乱に小説を書き、人々の心を動かしているのだ。一方、僕にはそうした情念がない。だからはっきりと、自分が小説家になるのは無理だと悟った。僕にできることは、彼らの情念を客観的に捉え、それを作品に落とし込むのをアシストすることだけだ。文学において、所詮編集者は偽物の存在だ」

 

見城氏は「結局、作家と編集者は浄瑠璃でいう『道行き』のような関係なのだ。行き着く先は地獄でも、最後の最後まで一緒に道を進むことでしか、新たなものは生まれない。アルチュール・ランボーの『地獄の季節』のなかの『別れ』のように『俺たちの舟は、動かぬ霧の中を、纜を解いて、悲惨の港を目指』す関係なのである」とも書いています。すさまじい表現ですが、その通りであると思います。「響 -HIBIKI-」の中で、デビュー前の響を必死で口説き、デビュー後の響を必死で守ろうとする花井ふみは、作家との「道行き」を覚悟した編集者そのものだったと思います。

 

 

それにしても、北川景子は良い女優になりましたね。「パコと魔法の絵本」(2008年)以来、10年ぶりにスクリーンで見たアヤカ・ウィルソンも悪くなかったですが、何よりも平手友梨奈の映画デビューをさらに輝かせた北川景子の熱演が光りました。「響 -HIBIKI-」では、ときどき北川景子の顔が吉永小百合に重なって見えたのですが、彼女は日本映画を代表する大女優になるかもしれませんね。彼女の新作「スマホを落としただけなのに」の予告編が劇場で流れていましたが、これは面白そうですね。わたしはスマホを落としたことはありませんが、運転免許証を落として(盗まれて)、いろいろ大変な目に遭いました。11月2日公開の「スマホを落としただけなのに」はぜひ観たいと思います。

 

2018年9月16日 一条真也

『田原俊彦論』

田原俊彦論

 


一条真也です。
タッキー&翼が解散しました。タッキーは芸能界を引退し、裏方に転向して後進の育成やプロデュース業に挑戦するとか。ジャニーズ事務所ジャニー喜多川社長は、噂されていた近藤真彦東山紀之ではなく、自身の後継者に滝沢秀明を選びました。
ところで、現在のジャニーズ帝国の礎を築いたタレントは誰だか知っていますか? それは、ずばり、「トシちゃん」こと田原俊彦であります。ということで、『田原俊彦論』岡野誠著(青弓社)を紹介いたします。「芸能界アイドル戦記1979-2018」というサブタイトルがついています。タイトル通り、歌手・田原俊彦を正面から論じた本です。著者は1978年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。テレビ番組制作会社を経てライターに。その後、「FLASH」(光文社)、「週刊ポスト」(小学館)の記者を務め、2017年フリーに。研究分野は視聴率、プロ野球選手名鑑、松木安太郎生島ヒロシなど。

本書の表紙の一部

 

カバー表紙には右足を高く上げた田原俊彦(らしき人物)のシルエットが赤く描かれ、「ジャニ―喜多川との製作過程……『哀愁でいと』作詞家が明かす」「『ザ・ベストテン』伝説の生中継・・・・・・担当ディレクターが語る」「『ビッグ発言』・・・・・・たった1週間で扱い方が急変していた」「田原俊彦とジャニーズ共演NG・・・・・・プロデューサーの証言」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。
田原俊彦は、芸能界で常に戦い続けてきた。
アイドルに対する偏見、長女誕生記者会見時の『ビッグ発言』で誤解をもたれた一方で、ジャニーズ事務所を再生し、ドラマ主演の道を切り開いた功績が過小評価されているのではないか。過去取材における田原本人の言葉、『教師びんびん物語』の盟友・野村宏伸、作曲家・都志見隆、『夜のヒットスタジオ』元プロデューサー、元CHA-CHAの木野正人など複数人へのインタビューで、初公開のエピソードを随所に盛り込む。
『哀愁でいと』『グッドラックLOVE』誕生の瞬間、『ザ・ベストテン』年間1位獲得秘話、独立の際に『ジャニー喜多川のお墨つきを得ていた』という証言、SMAP中居正広との邂逅・・・・・・。『ジャニーズ事務所との共演NG説』も徹底検証。1982年、88年のほぼ全出演番組(視聴率、内容、テレビ欄など記載)、『ザ・ベストテン』の全ランクイン曲の思い出のシーンを振り返る巻末資料も充実」

 

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」

第1章 時代を変えた芸能界デビューとアイドルへの偏見との戦い――1979~85年
1 『3年B組金八先生』でつかんだ大チャンス
2 ジャニーズ事務所を救った――1980年の大爆発
3 『ザ・ベストテン』の時代
4 なぜ、田原俊彦はトップアイドルの地位を継続できたのか

第2章 低迷期から一転、アイドルの寿命を延ばした大復活劇――1986~93年
1 『びんびん』シリーズ開始と『紅白歌合戦』落選
2 「抱きしめてTONIGHT」で第二次黄金時代突入と『紅白』辞退
3 『教師びんびん物語2』で「月9」発の視聴率31.0%
4 勝ち続けられない――スターの葛藤と人間らしさへの渇望

第3章 ジャニーズ事務所独立と「ビッグ発言」による誤解――1993~96年
1 当初は問題視されなかった「ビッグ発言」
2 なぜ、ジャニーズ事務所を辞めたのか
――1994年のジャニーズ事務所
3 突然蒸し返され始めた「ビッグ発言」
4 不透明な投票方法「an・an」
  「嫌いな男1位・田原俊彦」への疑問
5 大いなる謎――俳優業から遠ざかった理由とは
6 特別検証:田原俊彦とジャニーズ共演NG説を追う

第4章 テレビから消えた逆境をどう生き抜くか
――1997~2009年6月
1 「田原俊彦の生きざま」を体現した
『Dynamite Survival』
2 本人取材で投げかけた厳しい質問
3 寄り添い続ける人たち

第5章 払拭された誤解と人気復活への序章
――2009年7月~18年
1 継続と出会いが流れを変えた
2 ステージに懸ける思いとファンへの感謝
3 もう一度、大ヒット曲を出すために
「おわりに――こんなものじゃないよ、田原俊彦は」
「本書で言及しているコンテンツの情報一覧」
「本文中に記述がない参考文献一覧」
巻末資料1「田原俊彦の1982年出演番組表」
巻末資料2「田原俊彦の1988年出演番組表」
巻末資料3「田原俊彦の『ザ・ベストテン
      ランクイン曲と回数、視聴率
巻末資料4「『ザ・ベストテン』歌手別ランクイン総数ベスト50」

 

「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「芸能界には、いつの時代も毀誉褒貶が飛び交っている。
そのなかでも、田原俊彦ほど周囲の評価が変化してきた男は珍しい。普通の人間であれば精神状態がおかしくなっても不思議ではないほどの絶賛とバッシングを浴びてきた。頂上も高かったが、谷底も深かった。落差は、類を見ないほど大きかった。
田原俊彦の気持ちをわかる人は田原俊彦しかいない。デビュー直後からトップアイドルに君臨し、『教師びんびん物語』で俳優として頂点を極めた1980年代。ジャニーズ事務所独立と『ビッグ発言』に対するマスコミのバッシングでどん底を味わった1990年代。テレビ出演は年に数本、CDがTSUTAYA限定発売の年もあり、先が見えなかった2000年代。『爆報!THEフライデー』の『ビッグ発言』検証回で誤解が解け、光明が差し始めた2010年代。どんな状況になろうとも、田原俊彦はステージで歌って踊り続け、いつだってファンを満足させてくれた。ブレなかった。人気とは何か。時代とは何か。彼を見ていると、いつも考えさせられる」

 

また、著者は以下のようにも書いています。
田原俊彦はあまりに過小評価されてきた。
アイドル出身だからなのか、ジャニーズ事務所を退所したからなのかはわからない。一時、田原がまるで芸能界に存在しなかったような扱いを受けていたことは事実だ。燦然と輝いていたはずの功績は、芸能史やテレビ史から抹消されていた。周囲の評価が豹変しようとも、田原俊彦は変わらずに歌って踊り続けてきた。どんなに逆風が吹いても、それが微風に変わっても、スタンスは何ら変わらなかった。還暦になって、古稀を迎えて、米寿を迎えても、田原俊彦田原俊彦のままだろう。どんな風が吹こうとも、何もいうことなく、自分を信じて踊り続ける――」



第1章「時代を変えた芸能界デビューとアイドルへの偏見との戦い――1979-85年」の1「『3年B組金八先生』でつかんだ大チャンス」では、「ジャニー喜多川に与えた第一印象」として、1976年8月24日、山梨県甲府市に住む高校1年生の田原俊彦が、夏休みを利用して上京し、ジャニーズ事務所を訪ねる様子が描かれています。彼は履歴書を送ったのですが、反応がなかったので、直談判しに行ったのです。そこにはジャニ―喜多川はおらず、田原は日本劇場へと向かいました。ジャニー喜多川は、日劇の事務所で田原と初めて会ったときの印象を次のように語りました。
「窓口のところにひとりのかわいい少年がやってきて、『ジャニー喜多川さん、いらっしゃいますか?』といっているんです。ふりむくと、マーク・レスターのようなヘアスタイルをした少年が、立ってましてね。おどろくほど、あかぬけてまして、思わず、事務所の人たちが、『かわいいね、ジャニーさん。だれなの?』と、色めきたったほどです」
その少年は、後にTBS系列で放送されたドラマ「3年B組金八先生」で鮮烈な芸能界デビューを果たしました。



ジャニーズ事務所に入所はしたものの、田原の歌手デビューは1980年まで待たなくてはなりませんでした。その間、彼は甲府から東京までレッスンに通い続けます。そして、満を持して発売したデビュー曲「哀愁でいと」が大ヒットします。
2「ジャニーズ事務所を救った――1980年の大爆発」では、「歴史を塗り替えたオリコン初登場トップテン入り」として、以下のように書かれています。
「当時、デビュー曲がオリコントップテンを飾ることはなかった。1980年の主な新人の初登場順位を見ると、岩崎良美57位、松田聖子130位、柏原よしえ113位、河合奈保子182位と伸びていない。
しかし、6月21日発売の『哀愁でいと』は数日で売り切れ、6月30日付のオリコンで8位を記録。他の初登場曲には、25位のオフコース『Yes,No』、43位のイエロー・マジック・オーケストラライディーン』、46位のサザンオールスターズ『ジャズマン』など錚々たる面々が並んでいるが、トップテン入りは『哀愁でいと』だけ。売れっ子歌手でさえも初登場の順位は高くなく、徐々に上昇していく時代だった」

 

3「『ザ・ベストテン』の時代」では、田原がデビューする2年前の1978年1月19日に伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』がTBSで放送開始されました。これまでの音楽ランキング番組とは違って、『ザ・ベストテン』は厳正なランキングを打ち出し、一大ブームを巻き起こします。この番組は演出もじつに凝っていて、毎週のように視聴者を驚かせました。デビューを果たした田原も公道をオープンカーで走りながら歌ったり、新幹線の中で歌ったりもしました。著者はこう書いています。
「『ザ・ベストテン』は同じ曲が何週間もランクインし続けるため、奇想天外なセットや演出で視聴者を飽きさせないように工夫した。田原は『君に薔薇薔薇・・・という感じ』で、体がバラバラになるマジックに挑んだこともあれば、『シャワーな気分』で、空中にマイクを高く放り投げて服を脱ぎ捨て、一回転してキャッチするという離れ業を演じたこともあった」
原宿の街に出て行って歌ったときは、ファンの女の子たちが殺到して大騒ぎになりました。とにかく田原は一発勝負に強いアイドルでした。

 

 

4「なぜ、田原俊彦はトップアイドルの地位を継続できたのか」では、「『歌が下手』と揶揄されたのに、なぜ売れたのか」として、著者はこう述べています。
「田原はさんざん、歌が下手だと叩かれてきた。それでも、デビュー曲からオリコンで37作連続トップテン入りという大記録を樹立し、『ザ・ベストテン』の最多ランクイン歌手としても歴史に名を残している。歌は下手だけど、レコードは売れる――その一見矛盾した現象に、明確な答えは出されていない」しかし、著者は田原に数曲を提供している作詞家の秋元康の言葉を紹介しています。それは、「僕自身は、音程がきっちり合っているよりも、もうちょっとあやふやだったり、ピッチが良くなかったりする歌声の方が、むしろ味があるような気がします。『歌の上手さ』、あるいは『人の心を打つもの』は決してきっちりしたものではなく、どこか弱さがあったり、ぼやけていたりする部分を含むのではないかと思います」というものでした。
著者は、「『ブギ浮きI LOVE YOU』のような明るい歌は能天気にどこまでも楽しく、『グッドラックLOVE』のような悲しい歌は切ない感情を込める。常に一生懸命な田原の歌い方は見る者を引き付けた」と書いています。

 

 

また、著者は「コンプレックスとも対峙の仕方も、その人気維持の大きな要素だったのではないか。下手だと言われて喜ぶ人間などいない。田原は歌手として致命的と思って落ち込んでしまいがちな欠点を、発想の転換で乗り越えた」として、以下の田原の発言を紹介します。
「だって自分でもわかっていたからね、ヘタだって(笑い)。でも、あのときは自分なりに精いっぱい歌って・・・その結果だから。もちろんそれから、歌をうまく歌おうっていう努力はしてきたよ。テクニックみたいなものは、努力で向上すると思うから。でも、声帯の違いは変えられない。だけどそれって、考え方を変えれば、この声帯はオレしか持ってないってことでしょ。だったら、それをオレの味にしなきゃいけないと思うわけ」


そんな田原について、著者は以下のように述べています。
「どんなに揶揄されようとも、現実を把握したうえで持前の負けん気と努力で克服しようとポジティブに奮闘し、嘲笑するようなものまねをいやがることもなかった。社会にはバカなんじゃないかと笑われても、声高に否定することなく、真面目なことを考えているなんてみじんも感じさせず、ただただ明るく天真爛漫に振る舞っていた。ピエロになりきれるだけのタフな精神と柔軟な思考、状況把握力が田原を売れっ子歌手にしたのである」
わたしは、田原の歌は決して下手とは思いません。『ザ・ベストテン』で演歌の「浪速恋しぐれ」を披露したことがありましたが、なかなか味のある歌いっぷりでした。

 

それと、田原の歌唱については、多くの人が重要なことを忘れています。それは、彼は常に当時の日本のダンスシーンにおいてトップレベルのダンスを踊りながら、口パクなどせずに、自分の声で生歌を歌っていたという事実です。これは、口パクを当然だと思っている昨今のジャニーズ事務所のアイドルたちなどには真似ができない偉業であると言えるでしょう。
そのジャニーズ事務所が快進撃を開始した最大の立役者こそ田原俊彦でした。著者は以下のように書いています。
「1980年代に『男性アイドル=ジャニーズ事務所』という観念が生まれたのである。オリコンの所属事務所別の年間売上げ枚数ランキングを参照すると、たのきんジャニーズ事務所を救ったと明確になる。1979年、ジャニーズ事務所は年間売上げ52位だったが、田原デビューの80年に17位まで上昇すると、81年から83年まで3年連続で1位を獲得。80年の田原俊彦から近藤真彦、シブがき隊、The Good-Byeと4年連続で日本レコード大賞の最優秀新人賞を輩出し、田原と近藤がヒット曲を出し続けて一大勢力となった。たのきんトリオなくして現在のジャニーズ事務所は存在しえない」

1984年の歌謡曲 (イースト新書)

1984年の歌謡曲 (イースト新書)


第2章「低迷期から一転、アイドルの寿命を延ばした大復活劇――1986-93年」の1「『びんびん』シリーズ開始と『紅白歌合戦』落選」の冒頭に、著者は以下のように書いています。
「1984年、とうとう田原俊彦近藤真彦に強力なライバルたちが現れた。『ザ・ベストテン』ではチェッカーズが5月17日から4週連続で『ギザギザハートの子守唄』『涙のリクエスト』『哀しくてジェラシー』の3曲同時ベストテン入りを果たし、時代の寵児となる。渡辺プロダクションからの久々の新星となった吉川晃司は『モニカ』など3曲で21回ランクイン。同年にはアルフィー31回、翌年には安全地帯36回とバンド勢も急伸する」
このあたりは、ブログ『1984年の歌謡曲』で紹介したスージー鈴木氏の著書に詳しく書かれています。

 

「視聴率低下の波にさらわれた『紅白歌合戦』落選」として、1987年にデビュー以来7年連続出場を果たしていたNHK『紅白歌合戦』に落選したことが紹介されています。85年から『ザ・ベストテン』など歌番組の視聴率が下落。怪物番組『紅白歌合戦』も同様で、84年の78.1%から、85年66.0%に落ち込み、86年は59.4%と初めて60%台を割りました。そのため、87年は大幅に選考内容を見直すことになりました。その理由について、著者は「リモコン普及率が大きく関係していたと思われる」と指摘し、以下のように述べています。
「リモコンは1985年の31.2%から、86年42.0%、87年53.8%、88年67.5%、89年75.2%、90年82.9%と毎年10%前後の割合で急増。それまではチャンネルをわざわざ回しにいく煩わしさもあって興味がない歌手の曲も続けて視聴していたと思われるが、手軽にチャンネルを切り替えられる便利な機器の登場で、自分が好きな歌手だけを見る体制が整った」
わたしはこの事実を知って、ブログ『闘う商人 中内㓛』で紹介した本の内容を連想しました。そこには、軽自動車の普及という主婦層のモータリゼーションが、駅前などの好立地にあったダイエーなどのGMSの多くを衰退させたと書いてあったのです。いつの世でも、どんな業界でも、リモコンや軽自動車などの機械の技術革新が思わぬ生活上の変化をもたらすものなのですね。

 

また、著者は家庭のテレビ保有台数にも注目します。
「各家庭のテレビ保有台数は、高度経済成長の末期である1972年にはすでに『一家に一台』は41%だけで、2台以上の保有が58%に達していたが、87年には『一家に一台』がわずか27%になり、2台以上が72%に。そのうち『一家に三台以上』が32%にまでのぼっていた(JNNデータバンクの「テレビ保有台数調査」)。つまり、1つの番組であらゆる世代の欲求を満たす必要性は80年代後半になって急速に減少していき、ターゲットに特化した制作が求められるようになっていったのだ。
この2つの要因によって演歌、アイドル、ロックなど幅広い好みに1番組で対応しようとする歌番組の視聴率は下落し、ターゲットを十代に絞ったお笑い番組、F1層(女性20-35歳)向けのトレンディードラマが隆盛を誇るようになった」

 

『紅白』の視聴率下落は、クオリティーの低下というよりも、技術進歩がもたらした逆らえない時代の流れだったわけですが、それでもNHKのスタッフは視聴率回復に躍起になりました。1987年を「改革『紅白』3年計画」の初年度と位置づけ、「歌唱力」「今年の活躍」「大衆の指示」の三大ポイントを選考基準にしたのです。その結果、どうなったか。
「紅組司会者を4度務め、1965年から22回連続出場中だった水前寺清子は『流行歌手なのにヒット曲がなかった』、68年の初出場から計14回も名を連ねた千昌夫も『歌手活動が目立たなかった』という理由で落選(*当時は不動産業の話題、ジョーン・シェパード婦人との離婚騒動でワイドショーを賑わせていた)。58年から29回連続出場中だった三波春夫は、流れを察して発表前に辞退を公表していた。この視聴率不振を取り返すための“革する『紅白』”の象徴の1つに、田原の落選もあったのだ」
しかし、1987年の視聴率はさらに4.2%も下落して、55.2%という惨憺たる結果に終わりました。リモコンが普及し、一家のテレビ台数も増えた世の中では、「幅広いジャンルからの選出」などという小手先だけの改革では視聴者のニーズを満たすどころか、完全に逆効果だったのです。



ジャニー喜多川は、田原俊彦をもう一度、派手に躍らせ、本格的なダンスを披露させることを決意します。そして、1988年4月21日に発売されたのが、フジテレビ系ドラマ「教師びんびん物語」の主題歌である「抱きしめてTONIGHT」でした。この頃の田原のダンスはキレを増し、歌唱力もデビュー当時と比べてずいぶんと安定していました。田原のバックで躍った乃生佳之は「あれだけ踊りながら歌うって、相当しんどいはずですよ。(中略)あの曲は体をものすごく使うので、アスリートに近い。歌っているときは少しセーブされるとはいえ、トシちゃんは全力疾走しながら歌っているようなもの。(中略)本人は何も言わないし、そぶりも見せないけど、相当努力したんだと思いますよ」と語っています。


 

「抱きしめてTONIGHT」は大ヒットし、『ザ・ベストテン』に14回ランクインしました。「夢であいましょう」「かっこつかないね」と合わせて、1988年は年間24回もベストテンに名を連ねました。約12年間におよぶ同番組で、ランクインが20回以上から1ケタに転落後、再び20回以上を記録したのはサザンオールスターズ五木ひろし田原俊彦の3人だけだそうです。まさに、アイドルとしては過去に例のない見事な返り咲きでした。
12月29日には、「抱きしめてTONIGHT」が『ザ・ベストテン』の年軒ランキングで1位に輝きました。これは、近藤真彦松田聖子中森明菜も成し遂げられなかったアイドル出身者で唯一の偉業でした。



「抱きしめてTONIGHT」の大ヒットによって、田原は2年ぶりに『紅白歌合戦』に選ばれますが、これを男の意地で辞退します。NHKはもちろん、世間も驚きました。世の中全体に「アイドルは何でも言うことを聞く人種」だという思い込みがありましたが、それを田原が打ち破ったのです。田原は「アイドルのくせに」という世間の偏見と戦ったのでした。
『紅白』を辞退しても、田原の快進撃は止まらず、「教師びんびん物語2」の主題歌「ごめんよ涙」も大ヒット。『ザ・ベストテン』で初登場から4週連続で1位の座につきました。それから3ヵ月間、12週にわたって登場し、番組最多ランクインの記録を247回に伸ばしたのです。まさに、歌手・田原俊彦の絶頂期だったと言えます。



第3章「ジャニーズ事務所独立と『ビッグ発言』による誤解――1993-96年」では、田原の人生を大きく狂わせた出来事について書かれています。1「当初は問題視されなかった『ビッグ発言』」の冒頭に、著者は以下のように書いています。
「1994月2月17日(木曜)午後0時30分、芸能史に残る記者会見が始まった。前年7月の交際発覚から入籍、長女誕生に至るまで無言を貫いていた田原俊彦が報道陣に口を開いたのだ。無視され続けたという感覚を持つマスコミは、『何事も隠密にやりたかったんだけど、僕くらいビッグになっちゃうと、そうはいきませんというのがよくわかりました、ハイ』と田原がポロッと発した『ビッグ』という言葉を拾い、容赦ないバッシングを開始した――」

 

このときの田原は記者会見の冒頭に「マスコミ嫌いの僕が・・・」という言葉を使って芸能リポーターたちを挑発しています。しかし、当時、日本一マスコミに追いかけられてきたといっても過言ではない彼にとっての正直な言葉でした。
著者は、以下のように述べています。
「芸能マスコミによるプライベート監視がもっとも厳しい時代に、田原俊彦はいちばん狙われたアイドルだった。いまのタレントと比べても意味がないし、田原俊彦の気持ちは田原俊彦にしかわからない。誰も同じ時代に同じポジションでの経験をしていないわけだから、理解できるはずもない。
いつの時代も、社会は結果だけで判断し、過程を見ようとはしない。いやみを言いたくなるような状況を作ったのはマスコミだが、そこに目を向ける意見はごく少数に限られた。現在のように一般人が発信するソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)はまだ生まれていないのだ」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
芸能レポーターが自分たちの都合に合わせろといわんばかりに、『おめでたいことなんだから会見したっていいじゃないか』というのは傲慢だ。十年以上も四六時中追いかけ回され、いやな目にもたくさん遭わされている相手に、結婚したときだけ笑顔で対応できるだろうか。好きなものは好き、いやなことは誰が何と言おうといや。それが田原俊彦の一面だ。だが一方、結婚となれば、社会は『おめでたいことなのに、なぜノーコメントなの?』という気持ちを抱くにちがいない。
あまりに自分に正直すぎたのだと思う。上手にマスコミを使って、自分の価値を上げ、ドラマの宣伝もして、丸く収める芸能人もいるだろう。田原俊彦は良くも悪くも、嘘をつけない男なのだ。その性格がバッシングにつながっていく」



この理不尽なバッシングは17年間に及びました。
芸能人としての田原の真価を認めた爆笑問題による「爆報!THEフライデー」が2011年10月21日、金曜17時台に始まります。その初回で「波瀾爆報ヒストリー 田原俊彦」として、1994年の長女誕生記者会見が検証されました。著書は以下のように書いています。
「当時、会見から日数があっつとマスコミは横柄な部分だけを切り出して放送していたが、会見全体を見ると、いやみを言った後にもきちんと質問に答える姿があった。『何事も隠密にやりたかったんだけど、僕くらいビッグになっちゃうとそうはいきませんというのが、よくわかりました、はい』という言葉も、ギャグだとわかるものだった。この放送によって、17年間も消え去ることがなかった『傲慢』というイメージは一気に吹っ飛んだ」
また、著者はこうも述べています。
「要するに、『人気』とは、ふわっとした空気をいかに自分のモノにするかにかかっている。実態が見えない空気、本質を見ない人たちの評価を味方につけることが『人気』につながる。だから、イメージが大切なのだ。そのおめーじは主にテレビで形成されるから、1日に何度も繰り返し放送されるワイドショーにはきちんと対応しなければならなかったわけだ」

 

第3章の2「なぜ、ジャニーズ事務所を辞めたのか――1994年のジャニーズ事務所」では、「ジャニーズ事務所の歴史的転換点となる1994年」として、著者は「なぜ、田原俊彦ジャニーズ事務所を辞めたのか」という問いを立て、「芸能史に残る巨大な謎といったら大げさだろうか。少なくとも、残っていれば田原自身の芸能人生は全く異なるものになっていたはずだ」として、以下のように述べています。
「独立直前の1994年2月当時、年齢や実績からして、ジャニーズ事務所のトップは田原俊彦だった。近藤真彦はドラマを当てているわけでもなかったし、93年11月発売の「北街角」では5年ぶりとなる売上10万枚を突破したが、94年はデビュー以来初めてシングルを発売しない年になる。
光GENJIもシングル最高売り上げである1988年3月発売『パラダイス銀河』の約88万9000枚と比べて、93年10月発売の『この秋・・・ひとりじゃない』は約9万4000枚と約10分の1にまで下落。少年隊は90年12月から93年4月まで2年4カ月もシングル発売のブランクがあり、グループとしての活動は縮小していた」

 

そんな中で、ジャニーズ事務所の中から飛び出したのはSMAPでした。
著者は、SMAPについて以下のように述べています。
SMAPは土曜深夜の『夢がMORI MORI』(フジテレビ系)に出演していたが、中居正広香取慎吾が『森田一義アワー 笑っていいとも』のレギュラーに抜擢されるのは1994年4月からである。むろん、『SMAP×SMAP』の開始はまだ2年も先のことにあんる。TOKIOのデビューは、この年の9月まで待たなければならない。ちょうど世代交代の谷間であるエアポケットの1994年3月1日、田原は独立した。べつに狙ったわけではなく、もともと33歳までを人生の区切りと考えていて、偶然にも時期が重なっただけである」



田原俊彦SMAPの人気曲線は1994年3月を境に一方は下降し、もう一方は上昇し続けるというコントラストを描いていったということが言えます。著者は、以下のように述べます。
「1994年はSMAPが大躍進を遂げた年でもあった。デビュー当初は少年隊や光GENJI、男闘呼組という先輩グループと比べれば、SMAPは苦戦していた。1991年9月の『Can’t Stop!!――Loving』はオリコン最高2位止まり。歴代7位の売り上げを誇るCHAGE&ASKAの『SAY YES』が1位だったためだが、2曲目の『正義の味方はあてにならない』は10位にまでランクダウン。その後も、人口に膾炙するようなヒット曲は生まれない。思うような人気が出なかった背景には、1989年に『ザ・ベストテン』、90年に『歌のトップテン』『夜のヒットスタジオ』が終了し、“歌番組冬の時代”に突入していたからだろう」



第5章「払拭された誤解と人気復活への序章――2009年7月―18年」の2「ステージに懸ける思いとファンへの感謝」では、「いまの田原俊彦のステージこそ、ジャニー喜多川の理想である」として、著者は以下のように述べています。
ジャニー喜多川は1962年に飯野おさみ真家ひろみ中谷良あおい輝彦の4人で初代グループのジャニーズを結成し、東京五輪終了直後の64年12月に『若い娘』でデビューさせた。<私は世界に通用するミュージカルを完成させたい、というのが生涯の夢だ。そのために男性版宝塚をつくろう、と決心したのが、そもそもの出発点だった>(フォーリーブスフォーリーブスの伝説』)。当時、10代のタレントが踊りながら歌う姿は批判された。そのスタイルは、宝塚歌劇団の専売特許で『男が踊るなんて・・・・・・』という風潮さえあり、歌手は微動だにせずに歌うことがよしとされていた」



ジャニー喜多川と長年の親交があるTVプロデュ-サーの渡邉光男は、「日本のエンターテインメントを作りたかったジャニーさんがアメリカで学んだ踊りには、当然タップもあるし、ジャズもあるし、バレエもある。いろんなダンスを習得して、ジャニーさんの思いどおりの形に育ってくれたのが田原だったと僕は思いますね」と述べ、さらには演出側の視点から田原俊彦について次のようにも語っています。
「アイツのパフォーマンスは、どこを撮っても絵になる。足元から手先まで飽きさせない。踊りに繊細さがある。形は違うけど、矢沢永吉と一緒ですよ。矢沢も一挙手一投足、走り方や歩き方にまで自分の演出が入っている。矢沢と田原はステージ上にプロンプターを置かないし、イヤモニも着けない。これも2人の共通点です。天性の素質もあるけど、自分の動きだけに集中するから、より絵になるよ」



そして、「おわりに――こんなものじゃないよ、田原俊彦は」の最後に、著者は以下のように述べるのでした。
「実感値として、2009年、100人いたら98人は田原俊彦に冷たい視線を浴びせていた。2018年、100人いたら58人は田原俊彦に応援の眼差しを向けている。情勢は整いつつある。ドラマに出演して、主題歌を歌ってヒットさせる。もう一度、その姿を見たい。『わかる人だけわかればいい』と言ってから24年が経過した。わかる人は確実に増えている。ブレない男の力が引き寄せたことだ。さあ、これからどうするか。まだまだ、こんなもんじゃないよ、田原俊彦は――」
わたしは、この著者の田原俊彦に対する愛情溢れるエールに感動しました。そして、かつて、わたしも田原俊彦の大ファンだったことを思い出しました。


ブログ「トシちゃんはビッグ!」に書いたように、じつは、わたしは昔からトシちゃんの大ファンだったのです。最初に「哀愁でいと」で彼を見たときの衝撃は忘れられません。けっしてホモではありませんが、わたしは「カッコいい男」が大好きです。沢田研二郷ひろみ東山紀之及川光博といった人々も好きですが、なんといってもトシちゃんが一番好きでした。高校時代はTVで「ザ・ベストテン」に出てくるトシちゃんの登場シーンを録画しては、歌の振り付けを真似したものです。その頃のトシちゃんのライブ映像が残っていますが、バックダンサーは少年隊が務めています。たしか、このライブ映像は「Toshi Foever」というタイトルでビデオが発売され、わたしも購入しました。それも、Betamaxで!(泣笑)


ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー

 

予備校時代、わたしは休み時間に「原宿キッス」や「NINJIN娘」を踊って、受験勉強で荒んだ友人たちの笑いを取って癒してあげていました。早稲田大学に入学すると、「たのきん研究会」に入ってトシちゃんのダンスを本格的にマスターし、六本木のディスコで披露したりしました。そのことは1988年に上梓した処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)にも書きました。社会人になってからは、北九州市八幡の「松柏園グランドホテル」でトシちゃんのディナーショーを開催し、生の「抱きしめてTONIGHT」にシビれました。とにかく、わたしはトシちゃんが好きで好きでたまりませんでした。今でもトシちゃんのダンスはすごすぎます。よく比較される郷ひろみ東山紀之のダンスもたしかにエレガントでしょう。しかし、彼らのレベルは根本的にトシちゃんとは違います。おそらく、日本の歌手では田原俊彦は最高のダンサーだと思います。本書を読んで、それを再確認しました。

 

田原俊彦論

田原俊彦論

 

 

2018年9月15日 一条真也