「西部戦線異状なし」

一条真也です。
ネットフリックス世界1位を記録し、第95回アカデミー賞で4部門獲得のドイツ映画「西部戦線異状なし」を観ました。1930年のルイス・マイルストン監督による映画版で広く知られる、ドイツの作家エリッヒ・マリア・レマルクの長編小説『西部戦線異状なし』を、原作の母国ドイツで改めて映画化した戦争ドラマです。リアルな戦場シーンと、あまりにも切ないラストシーンに胸が痛みました。



ヤフー映画の「解説」には、「[Netflix作品]第1次世界大戦のドイツ軍兵士の姿を描き、映像化もされてきたエリッヒ・マリア・レマルクによる小説を原作とする戦争ドラマ。意気揚々と出兵した17歳の若者が、戦場の現実を目の当たりにする。出演はフェリックス・カマラーや『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』などのアルブレヒト・シュッフ、『ラッシュ/プライドと友情』などのダニエル・ブリュールなど。監督を『ぼくらの家路』などのエドワード・ベルガーが務める」とあります。

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、「第1次世界大戦下のヨーロッパ。ドイツ軍に志願した17歳のパウルや仲間たちは、西部戦線で戦う部隊に配属される。最初は祖国のために戦おうと強い志を抱いていたパウルたちだったが、凄惨な戦場を目の当たりにし、戦意を失っていく」です。

 

 

わたしは高校時代に原作小説を読みました。小倉高校の世界史の教師だった大塚先生という方が、授業中にレマルクの『西部戦線異状なし』を紹介されたのですが、当時貪るようにあらゆる本を読みまくっていたわたしは、その日の帰りに小倉の金榮堂という書店に寄って文庫本を求めました。リアルな戦場の描写に圧倒されて、その日のうちに読了しました。作者のレマルクはドイツ生まれ。1916年、第一次世界大戦に出征し、戦後は小学校教員やジャーナリストなどの職に就きながら、小説を執筆。1929年、『西部戦線異状なし』を発表し、一躍世界的な人気作家となりました。1932年、反戦作家としてナチスの迫害を受け、スイスに移住。翌年国籍を剥奪され、著書は焚書の処分を受けました。1939年、アメリカに移住。主な著書に『凱旋門』『愛する時と死する時』など。


この映画、今年のアカデミー賞で作品賞や国際長編映画賞ほか9部門でノミネートされましたが、結果は国際長編映画賞・撮影賞・美術賞・作曲賞の4部門で受賞を果たしました。イギリスのアカデミー賞では作品賞を受賞しています。レマルクのあまりにも有名な小説の3度目の映像化です。この小説が世界中で大ベストセラーとなったのは、ドイツで出版された翌年の1930年にハリウッドがすぐに映画化されたからです。ルイス・マイルストン監督がメガホンを取り、アカデミー賞の作品賞と監督賞に輝きました。その後も戦争映画あるいは反戦映画の最高傑作として映画史に名前を刻んでいます。1979年には2度目の映像化が実現しましたが、これはCBSによるTVドラマでした。本国ドイツで作られるのは本作が初めてになります。そう、この映画はドイツ人監督、ドイツ人役者、そしてドイツ語による初めての映画化なのです。


舞台となるのは1917年、第1次世界大戦の西部戦線です。そこに送り込まれた兵士のほとんどは高校を卒業したばかりの初々しい青年たちでした。17歳の主人公パウルもその1人です。彼らは、母国のために戦うことがドイツ帝国の男子のあるべき姿と謳う政府と軍のプロパガンダに踊らされ、意気揚々と戦場に向ったわけですが、輝いていた瞳もあっという間、本当にあっという間に恐怖と悲しみで曇ってしまいます。彼らが連れて行かれた西部戦線塹壕は、まさに地獄そのものだったからです。映画の冒頭から、目を覆いたくなるような地獄絵が展開します。降りしきる冷たい雨、泥にまみれた死体、吹っ飛ばされる人体、飛び散る肉片。木の枝には死体がひっかかり、目の前で戦友たちが次々と倒れて行くのでした。

サン・シャモン突撃戦車登場!!(Netflix

 

西部戦線の地獄絵にひと役買うのが第一次大戦中に活躍したフランス軍の戦車でした。サン・シャモン突撃戦車です。映画ではおそらく初登場と思われる戦車で、強烈なインパクトでした。3両のサン・シャモン戦車が地響きをあげて靄の向こうから現れるシーンは、まるで怪獣映画のようでした。生まれて初めて戦車を見る若きドイツ兵たちは、75ミリ銃砲を備え、大きな鉄の塊にキャタピラを付けた戦車に恐怖心を抱きます。しかし、この戦車、塹壕戦用に開発されたにもかかわらず越壕能力が低かったことでも知られています。この映画でも、塹壕を越えることが出来ずにそのまま突っ込み、逃げそこなったドイツ兵を無残にも敷き殺してしまうのでした。

 

西部戦線異状なし』の3度目の映像化となる本作は、じつに2時間28分に及びます。その半分以上が塹壕戦です。レマルクは第1次世界大戦に出兵した自身の経験をもとに原作を書いたので、武器の扱いや塹壕等の描写は極めてリアルです。もちろん塹壕の外もリアルですし、兵士の屍もリアルです。主人公パウルの目に焼き付ける地獄を、観客が一緒に目撃する構成になっていて、まさに一瞬も気を抜けない息詰まるシーンの連続です。マイルストンが監督した1930年版が有名になったのは強烈な印象を残すラストのせいですが、2度目の映像化となったTVドラマ版もそれをほぼ踏襲しました。しかし、本作はそれとは違う表現を用いており、タイトルの『西部戦線異状なし』にさらに近い演出になっています。

 

わたしは、昔から第1次世界大戦に強い関心を抱いてきました。この戦争には、人間の「こころ」の謎を解く秘密が多く隠されていると思います。毒ガスはもちろんですが、それ以外にも、戦車・飛行機・機関銃・化学兵器・潜水艦といったあらゆる新兵器が駆使されて壮絶な戦争が行われました。「PTSD」という言葉この時に生まれたそうですが、わたしは「グリーフケア」という考え方もこの時期に生まれたように思えてなりません。それは人類の精神に最大級の負のインパクトをもたらす大惨事だったのです。21世紀を生きるわたしたちが戦争の根絶を本気で考えるなら、まずは、戦争というものが最初に異常になった第1次世界大戦に立ち返ってみる必要があるでしょう。



第1次世界大戦を舞台にした戦争ドラマといえば、ブログ「1917 命をかけた伝令」で紹介した2019年のイギリス・アメリカ合作映画を思い出します。非常に迫力のある戦争映画で、わたし自身が戦場にいるかのような臨場感を味わいました。無数の死体が地面に転がっていたり、川に浮かんだりしている様子もドキュメンタリーのようにリアルでしたね。戦地に赴いたイギリス兵士2人が重要な任務を命じられ、たった2人で最前線に赴く物語を全編を通してワンカットに見える映像で映し出します。メガホンを取るのは「アメリカン・ビューティー」などのサム・メンデス。「マローボーン家の掟」などのジョージ・マッケイ、「リピーテッド」などのディーン=チャールズ・チャップマン、「ドクター・ストレンジ」などのベネディクト・カンバーバッチらが出演しています。


「1917 命をかけた伝令」では、全編が1人の兵士の1日としてつながって見えることで、臨場感と緊張感が最後まで途切れません。わたしも、戦争を疑似体験しました。第1次世界大戦が始まってから、およそ3年が経過した1917年4月のフランス。ドイツ軍と連合国軍が西部戦線で対峙する中、イギリス軍兵士のスコフィールド(ジョージ・マッケイ)とブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)に、ドイツ軍を追撃しているマッケンジー大佐(ベネディクト・カンバーバッチ)の部隊に作戦の中止を知らせる命令が下されます。部隊の行く先には要塞化されたドイツ軍の陣地と大規模な砲兵隊が待ち構えていました。撮影は、「007 スペクター」でもメンデス監督とタッグを組んだ名手ロジャー・ディーキンス。第92回アカデミー賞では作品賞、監督賞を含む10部門でノミネートされ撮影賞、録音賞、視覚効果賞を受賞しました。

 

また、「西部戦線異状なし」を観て、ブログ「彼らは生きていた」で紹介した第1次世界大戦で撮影された映像をカラー化した2020年のイギリス映画も思い出しました。終結後、約100年たった第1次世界大戦の記録映像を、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズなどのピーター・ジャクソン監督が再構築したドキュメンタリーです。イギリスの帝国戦争博物館が所蔵する2200時間を超える映像を、最新のデジタル技術で修復・着色・3D化して、BBCが所有する退役軍人のインタビュー音声などを交えながら、戦場の生々しさと同時に兵士たちの人間性を映し出しています。第1次世界大戦中、戦車の突撃や激しい爆撃、塹ごうから飛び出す歩兵など、厳しい戦闘が続いていた。だが、死と隣り合わせの兵士たちも、時にはおだやかな様子で休息や食事を取り、笑顔を見せます。


わたしは「1917 命をかけた伝令」を非常にリアルな戦争映画であると思ったのですが、本物の戦争ドキュメンタリーである「彼らは生きていた」には到底かないませんでした。「1917 命をかけた伝令」でリアルに感じた死体の描写も、「彼らは生きていた」はさらにリアルで、人間や馬の死体にたかるハエやウジまで写り込んでいます。ただでさえ悲惨な映像に色が着くと、スクリーンの向こうから死臭が匂ってくるようでした。過酷な戦場風景のほか、食事や休息などを取る日常の兵士たちの姿も写し出しており、死と隣り合わせの戦場の中で生きた人々の人間性を見事に描いています。いくら「戦争は悪である」と頭で考え、「戦争反対!」と口で叫んでも、この映画の圧倒的な迫力の前には無力です。

 

もしも、「彼らは生きていた」が第1次世界大戦の終了直後に作られ、世界中で上映されたとしたら、第2次世界大戦は起こらなかったのではないかとさえ思いました。それぐらいの説得力があったのです。ベッドのない塹壕で寝ること、トイレのない場所で排泄すること、肥溜めに落ちても何週間も身体を洗えないこと、足が腐って壊疽となって切断すること、毒ガスで目をやられて見えなくなること、被弾して胸に穴が開いて呼吸できなくなること、前を歩いていた仲間の頭が吹っ飛ぶということ、まだ少年の敵兵を殺すということ・・・・・・わたしたちには想像もできない極限の状況が延々と続き、観客も次第に気が滅入ってきます。まさに究極の「リアル」がここにはあります。そして、ドキュメンタリーではないにしろ、「西部戦線異状なし」の超リアリズムにもそれを感じました。


それにしても、第1次世界大戦を描いた一連の映画を観ると、戦争の悲惨さを思わずにはいられません。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)で、わたしは、「20世紀は、とにかく人間がたくさん殺された時代だった」と述べました。何よりも戦争によって形づくられたのが20世紀だと言えるでしょう。もちろん、人類の歴史のどの時代もどの世紀も、戦争などの暴力行為の影響を強く受けてきました。20世紀も過去の世紀と本質的には変わりませんが、その程度には明らかな違いがあります。本当の意味で世界的規模の紛争が起こり、地球の裏側の国々まで巻きこむようになったのは、この世紀が初めてなのです。なにしろ、世界大戦が一度ならず二度も起こったのですから。

ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

20世紀に殺された人間の数は、およそ1億7000万人以上。アメリカの政治学者R・J・ルメルは、戦争および戦争の直接的な影響、または政府によって殺された人の数を推定した。戦争に関連した死者のカテゴリーは、単に戦死者のみならず、ドイツのナチスなど自国の政府や、戦時中またはその前後の占領軍の政府によって殺害された民間人も含まれます。また、1930年代の中国など国際紛争によって激化した内戦で死亡したり、戦争によって引き起こされた飢饉のために死んだりした民間人を含みます。その合計が1億7180万人であるとルメルは述べます。

心ゆたかな社会』(現代書林)

 

では、21世紀になると、人間は戦争で死ななくなったかというと、そんなことはありません。未だに世界の各地では紛争や戦争で多くの人々が死んでいます。『ハートフル・ソサエティ』のアップデート版が100冊目の一条本となる『心ゆたかな社会』(現代書林)です。同書の刊行後にロシア・ウクライナ戦争が勃発しました。コロナ終息が見えてきた今、一刻も早く戦争も終結させなければなりません。折しも17日、国連安保理事会は、ウクライナに関する公開会合を開きました。同日に国際刑事裁判所(ICC)が戦争犯罪の容疑でロシアのプーチン大統領に逮捕状を出したことをめぐり、複数の理事国が応酬しました。まさか第3次世界大戦にまで発展しないことを信じたいですが、こんな時代に作られた「西部戦線異状なし」をぜひ多くの人に観ていただきたいです。

 

2023年3月19日 一条真也

「シン・仮面ライダー」

一条真也です。
18日から公開の日本映画「シン・仮面ライダー」を公開前日の17日の夜にシネプレックス小倉で観ました。全国最速公開記念舞台挨拶のLIVE映像付きでした。ずいぶん前から、わたしはこの映画をとても楽しみにしていたのです。でも、正直、ビミョーな内容でしたね。


この映画、監督の想いがスベっているというか、やたらとお金をかけた自主映画といった印象でしたね。主演女優の浜辺美波は良かったです。彼女は橋本環奈や川口春奈とともに、かのガーシー参議院議員から「パパ活」疑惑を暴露されたことがあります。わたしは浜辺美波ファンなので、「美波ちゃん、君に嫌な思いをさせたガーシーが早く逮捕されるといいね・・・」と思いながら観ていました。

 

ヤフー映画の「解説」には、「1971年から1973年にかけて放送された石ノ森章太郎原作の『仮面ライダー』50周年プロジェクトとして、『シン・ゴジラ』などの庵野秀明が監督を務めた特撮アクション。仮面ライダーこと本郷猛を池松壮亮、ヒロインの緑川ルリ子を浜辺美波仮面ライダー第2号こと一文字隼人を柄本佑が演じ、西野七瀬塚本晋也森山未來などが共演する」とあります。


この映画、わたしは地元のシネコンで全国最速公開記念舞台挨拶を観賞したわけですが、これは初体験でした。池松壮亮浜辺美波柄本佑西野七瀬塚本晋也手塚とおるが登壇しましたが、臨場感があって、実際に役者が集結した劇場での舞台挨拶を後方席からモニターで観ている感じでした。なかなか新鮮でした。でも、舞台挨拶なら、 ブログ「シン・ゴジラ」ブログ「シン・エヴァンゲリオン劇場版」ブログ「シン・ウルトラマン」で紹介した映画に続いて本作を作った庵野秀明監督が登壇しなかったのは違和感がありましたし、残念でしたね。


「シン・仮面ライダー」で仮面ライダー1号の本郷猛を池松壮亮、2号の一文字隼人を柄本佑が演じたところは良かったと思います。平成・令和の「仮面ライダー」といえば、若手男優の登竜門として、佐藤健吉沢亮瀬戸康史菅田将暉福士蒼汰竹内涼真・・・綺羅星のごとくイケメン俳優を輩出してきました。仮面ライダーファンの少年たちよりもその母親たちに人気を得ていたことは有名です。こういうチャラチャラした空気を一掃して、20代前半のイケメンではなく、32歳の池松、36歳の柄本といった30代の渋めの役者を起用したところはまさに原点回帰であり、好感が持てました。「シン・仮面ライダー」は大人の男のための映画だという感じがしました。


この映画には、グリーフケア映画の要素もありましたね。主人公である本郷猛は警察官だった父を担当事件の犯人から殺害され、緑川ルリ子は母親を暴漢から殺されています。2人は、ともに愛する肉親を不条理に奪われた悲嘆を抱えている者同士なのでした。また、この映画、とにかく公開前の情報統制が徹底していました。クモオーグやコウモリオーグが登場することは予告編で告知されていましたし、西野七瀬がハチオーグ(旧ドラマ版の「蜂女」)を演じることもわかっていましたが、サソリオーグが女性であり、長澤まさみが演じていたことには驚きました。適役とは思いませんでしたが・・・・・・。



あと、「シン・ゴジラ」で内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)の赤坂秀樹を演じた竹野内豊、「シン・ウルトラマン」で主人公・神永新二を演じた斎藤巧が脇役で出演していたのも贅沢なキャスティングでしたね。まあ、あまり意味があるとは思いませんでしたが・・・・・・。ショッカーの野望が会話だけで描かれていたのもイマイチでした。やはり、世界最悪の秘密結社の悪だくみは見える化してほしかったです。ショッカーの目的にやたらと「幸福」という言葉が登場するのは、教祖が最近亡くなった某宗教団体を連想してしまいました。


冒頭に、この映画を「お金をかけた自主映画の印象」と書きました。じつは、わたしは少年時代、「仮面ライダー」が大好きで大好きで、ドラマの放送も全話を観ていましたし、ライダーカードも全部集めていました。だから、ラストでドラマ版の主題歌が流れたときは感激しました。それぐらい思い入れのある作品が、庵野監督によってアップデートされたのは嬉しい反面、複雑な感情もありました。庵野監督も、ゴジラウルトラマンほどには仮面ライダーに思い入れがなかったのではないでしょうか。あまり仮面ライダーに対しての愛を感じなかったのです。庵野監督自身は、「シン・仮面ライダー」について「撮りたいものを撮るというより恩返しのつもりで撮った」と発言したようですが、けっして恩返しにはなっていないと思いました。



それと、「シン・ウルトラマン」ではゼットンのシーンで睡魔に襲われました。「ウルトラマン」のオリジナル・ドラマ版では最終回となる最重要の場面にもかかわらず、です。「シン・仮面ライダー」でも、蝶オーグと本郷猛&一文字隼人のWライダーと決戦シーンで、またもや睡魔に襲われました。蝶とバッタの会話は、わたしにとって強力な睡眠薬となったのです。両作とも、映画の冒頭ならまだしも、最も盛り上がるクライマックスシーンですので、結局シナリオが悪いということなのでしょう。まあ、単にわたしが寝不足だったからかもしれませんけどね。

 

蝶オーグというのは、石ノ森章太郎の原作やオリジナルのドラマ版にも登場しなかったショッカー怪人でした。蝶の他にも、この映画には、クモ、コウモリ、サソリ、ハチ、カマキリ、カメレオンの怪人が登場します。オリジナル版では、「蜘蛛男」とか「蜂女」などと呼ばれていましたが、「シン・仮面ライダー」では「男」や「女」ではなく、「オーグ」で統一されていましたね。オーグというのは「オーグメント」の略で「増強」という意味ですね。ちなみに仮面ライダーは、もともと人間とバッタの合成オーグメントとしての「バッタオーグ」でした。

ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

「シン・仮面ライダー」は、ショッカーによって肉体を改造された超人の物語です。超人というと、拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)にも書きましたが、石ノ森章太郎が生み出した数多くのキャラクターたち、サイボーグ009仮面ライダーキカイダーイナズマンロボット刑事Kなどはすべて人間を超えた存在でした。それらはサイボーグ、アンドロイド、ミュータントなど厳密には異なる存在であるけれども、人間を超えた存在としてのパワーと悲しみが十分に表現されていました。


そういえば、「シン・仮面ライダー」には、ロボット刑事Kの主人公である「K」がショッカーの使徒として登場していました。Kを演じたのは、なんと松坂桃李! それならば、わたしの好きなキカイダーも出してほしかったです。浜辺美波演じる緑川ルリ子の兄の「イチロー」は森山未來が演じましたが、彼は「蝶オーグ」に変身しました。イチローという名前ならば、本当は「キカイダー01」に変身してほしかったと思いました。そのように思った昭和特撮ヒーロー大好きおじさんは、わたしだけではありますまい。


仮面ライダーは、自らの肉体に機械を埋め込まれ、怪物のような改造人間となったことに苦悩します。今後、人間と機械の関係はさらに複雑で広範囲なものになっていくでしょう。すでに20世紀の半ばに、人間と機械を徹底的に比較しようとした研究がありました。クロード・シャノンとノーバート・ウィーナーという二人のユダヤ系研究者による「サイバネティックス人間機械論)」です。


シャノンとウィーナーは、「情報」という概念を歴史上初めて唱え、生物固有の仕組みを「情報」によって説明しようとしました。そして、シャノンの「情報理論」は、今日のコンピュータと通信技術の基礎をつくったのです。一方、ウィーナーは「人間とは何か」と問いかける学際的な「人間観」を構築していったのでした。その意味で、改造人間である仮面ライダーとは「人間とは何か?」を問う、きわめて哲学的な存在であると言えるでしょう。

 

2023年3月18日 一条真也

「あっぱれ」と「あはれ」

一条真也です。
16日の午後、東京から小倉に戻りました。
17日の早朝から、ブログ「春季例大祭」で紹介した神事が行われ、朝粥会が開かれました。その後、松柏園ホテルで恒例の天道塾が行われました。

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最初は、もちろん一同礼!

冒頭、挨拶をしました

 

神事の後は、恒例の「天道塾」です。この日は佐久間会長が欠席でしたので、最初にわたしが登壇して開塾の挨拶をしました。その後、わが社の社員教育を担当していただいている新井弘代先生の講演がありました。

講師の新井先生を紹介しました


マナー指導について講演する新井先生


講演を受講する人びと

わたしも聴きました

 

わたしが紹介をした後、新井先生が「管理職が知っておきたい部下のマナー指導」という講演を行いました。「こうせ・・ああせ・・教育」から「気づき教育」への転換ということで、管理職が最低限指導してほしいマナー教育についての話がありました。具体的には、「第一印象のポイント せめて足服くせ」や「マナーの良い人が浮かない職場風土 マナーの悪い人が居づらい職場風土醸成」「指導教育の原則」「教育のPDCAを回す」といった内容でした。目新しい最新情報ではなく、マナー教育の基本の復習といった印象でした。

桜模様の不織布マスク姿で登壇

続いて、わたしが、「春」を意識した桜模様の不織布マスク姿で登壇しました。わたしは、まず「いま、マナー教育についての話がありましたが、総じてわが社の社員はマナーへの意識は高いと思っています。礼儀正しい社員は、冠婚葬祭業にとって宝です。最近、会計の本をよく読むのですが、非常に感銘を受けた記述がありました。それは、ライオンや象は動物園の固定資産であり、ペンギンやイルカは水族館にとっての固定資産であるということです。ならば、わが社のような『礼の社』にとって、社員のみなさんこそは資産であると思いました。旧来の経済学では『人件費』として従業員を『コスト』として見る伝統がありますが、これに異を唱えて『社員はコストではなく資産である!』と喝破したのが経営学者のドラッカーでした。このドラッカーの考えのように、わたしは社員のみなさんを資産であると考えています」と言いました。

「WBC2023」の話をしました

 

それから、「昨日、東京から戻ってきました。13日から脱マスクの日常が始まりましたが、北九州はもちろん、東京でもノーマスクの人は少ないです。5月にコロナが5類に移行するまでは少ないような気がします」と言いました。それから、「WBC2023」の話をしました。昨夜は、侍ジャパンがイタリア代表に完勝しました。今日の夜、アメリカに出発するそうですが、本当に史上最強のチームですね。特に、大谷翔平選手は正真正銘のスーパースターです。十頭身のイケメンだし! 

マスクを外しました

大谷選手は、ベーブ・ルース以来の「二刀流」プレーヤーとして、メジャーリーグに大旋風を起こしました。これまでメジャーリーグで活躍した日本人としては、野茂英雄イチロー、村上正則、松井秀喜、上原浩二、田中将大岩隈久志ダルビッシュ有・・・・・・数々の名選手がいましたが、大谷翔平は史上最高のスーパースターではないでしょうか? 明日13日からマスクの着用も自由化されますし、「WBC2023」は春の訪れそのものであり、それに加えて長かったコロナ禍が明ける祝祭のイメージです。そして、その祝祭のシンボルこそ大谷翔平なのです。

ウェルビーイング」について



先月の天道塾では、「ウェルビーイング」と「コンパッション」について話しました。「ウェルビーイング」という考え方が生まれたのは1948年ですが、そこには明らかに戦争の影響があったと思います。また、ビートルズの「LET IT BE」のメッセージをアップデートしたものがジョン・レノンの「IMAGINE」であることに気づきました。つまり、ウェルビーイングには「平和」への志向があるのだと思います。実際、ベトナム戦争に反対する対抗文化(カウンターカルチャー)として「ウェルビーイング」は注目されました。現在、ロシア・ウクライナ戦争が行われていますが、このような戦争の時代に「ウェルビーイング」は再注目されました。

「コンパッション」について



一方、「コンパッション」の原点は、『慈経』の中にあります。ブッダが最初に発したメッセージであり、「慈悲」の心を説いています。その背景には悲惨なカースト制度があったと思います。ブッダは、あらゆる人々の平等、さらには、すべての生きとし生けるものへの慈しみの心を訴えました。つまり、コンパッションには「平等」への志向があるのだと思います。現在、新型コロナウイルスによるパンデミックによって、世界中の人々の格差はさらに拡大し、差別や偏見も強まったような気がします。このような分断の時代に、また超高齢社会および多死社会において、「コンパッション」は求められます。地球環境の問題は別にして、人類の普遍的な二大テーマは「平和」と「平等」です。その「平和」「平等」を実現するコンセプトが、「ウェルビーイング」「コンパッション」なのです。


CSHWのハートフル・サイクルについて


熱心に聴く人びと

 

CSHWのハートフル・サイクルは、かつて孔子ブッダやイエスが求めた人類救済のための処方箋となる可能性があるのではないかと思います。「平和」と「平等」といえば、「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生と18年間も意見交換し続けているテーマです。3月7日の夜は満月でした。この夜、わたしは「シンとトニーのムーンサルトレター第216信がUPされました。2005年10月18日の夜にわたしが第1信を投稿して以来、ムーンサルトレターはなんと18年目。翌8日、鎌田先生が 松柏園ホテルにお越しになられました。

鎌田東二先生との対談について

 

このたび、鎌田東二先生とわたしは「神道と日本人」をテーマに対談し、その内容は単行本化されることになっています。これまでにも鎌田先生とは何度か対談やトークショーやパネルディスカッションなどで御一緒しています。最初は、『魂をデザインする』に収録されている1990年11月でした。そのときに初めて鎌田先生にお会いしたので、わたしたちの親交も33年になります。わたしたちは大いに意気投合し、義兄弟の契りを結びました。今回の対談は、三分の一世紀を共に生きてきたわたしたち魂の義兄弟の1つの総決算となりました。対談は、松柏園ホテルの貴賓室で行われました。

「陰陽の宇宙」について

 

対談は5部構成で、1「神道とは何か」、2「神道と冠婚葬祭」、3「現代社会と神道」、4「神話と儀礼」、5「注目すべき人々との出会い」となっています。じつに多様なテーマで自由自在、縦横無尽に思考を巡らせ、言葉を紡ぎましたが、、現在のわたしのメインテーマである「ウェルビーイング」と「コンパッション」についても意見交換をしました。わたしは「陰陽の宇宙」について話しました。ブログ「大川隆法氏、死す!」で紹介したように、「幸福の科学」の大川総裁の逝去には驚きました。故人とわたしの間には多くの共通テーマがありました。でも、そのテーマの追求方法と実現方法がまったく異なりました。わたしは今、幸福を追求するキーワードとして「ウェルビーイング」と「コンパッション」に注目しています。


「太極図」を使って説明しました

 

幸福の正体は、ウェルビーイングだけでは解き明かせません。また、コンパッションだけでも解き明かせません。陰陽の2本の光線を交互に投射したとき、初めて幸福の姿が立体的に浮かび上ってくるように思います。それは、「死」があるからこそ「生」が輝くことにも通じています。太極図では、陰と陽が1つの円を作っています。陰陽は相反するものでなく1つのものが見せる異なったように見える姿です。陰と陽の光があたり、1つの円が見えてくるという感覚です。言い換えると、陰と陽がないと円は見えてきません。そして陰陽が繋がることによって神道でいう「産霊」が起動するように思います。わたしは、喜びと悲しみ、冠婚と葬祭、平和と平等、そしてウェルビーイングとコンパッションを繋ぎ、産霊の力によって「幸福」というものを実現したいと思いました。


「銭湯の宇宙」について

「会計の宇宙」について


男湯と女湯は別世界ですが、両者を繋ぐものとして「番台」の存在があります。BS(貸借対照表)とPL(損益計算書)も別世界の指標ですが、両者を繋ぐものとして「利益」があります。同様に、ウェルビーイングとコンパッションを繋ぐものは「ケア」であると気づきました。ケアの中でもグリーフケアは、闇に光を射すことであり、天の岩戸開きに通じます。岩戸開きは「天晴(あっぱれ)」という言葉を生みました。鎌田先生いわく、この「天晴(あっぱれ)」こそは神道ウェルビーイングだそうです。また、「天晴(あっぱれ)」と同じ語源を持つものに「あはれ」があります。「もののあはれ」の「あはれ」です。鎌田先生いわく、この「あはれ」こそは神道的コンパッションだそうです。コンパッションは、キリスト教では「隣人愛」、仏教では「慈悲」、儒教では「仁」、そして神道では「あはれ」だというのです。これを聴いて、わたしは非常に感動しました。

「あっぱれ」と「あはれ」について

最後に、近刊著書の告知をしました

 

そして、ウェルビーングとコンパッションが神道的視点では同源だという事実には衝撃を受けました。ウェルビーイングが「天晴れ(あっぱれ)」で、コンパッションが「あはれ」、そのどちらも太陽光(SUNRAY)と深く関わっている・・・・・・すべてがサンレーの理念や活動と一糸の矛盾もなく繋がっていると悟りました。鎌田東二先生との対談は『古事記と冠婚葬祭~神道と日本人』のタイトルで今秋刊行予定です。また、『ウェルビーイング?』と『コンパッション!』の2冊が5月に同時刊行されます。さらには、『供養には意味がある』(産経新聞出版社)が4月に刊行されます。それから、詩人でもある鎌田先生の「春だ 春だよ 春だから 身も心も魂も 軽くなるのだよ」という最新の詩を紹介し、最後に「今日、春季例大祭も行いました。みなさん、春は近いです。わが社の春も近いです!」と笑顔で述べてから、わたしは降壇しました。

わが社の春も近いです!

最後は、もちろん一同礼!

 

2023年3月17日 一条真也

春季例大祭

一条真也です。
16日の午後、東京から小倉に戻りました。
17日の早朝から、松柏園ホテルの神殿で恒例の月次祭が行われ、わたしは桜模様の淡いピンクのネクタイに同色の春コーデで参加しました。皇産霊神社の瀬津神職が執り行って下さいました。わが社は「礼の社」なので、こういった祭りや儀式はきちんと行うのです。もちろん、コロナ感染防止完全対応です。


神事の最初は一同礼!


春を呼ぶ神事です

コロナ完全対応スタイルです

やはり季節の神事をきちんと行うと、安心します。「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生は「『古事記』には、日本人の生存戦略が書かれている。それは『まつり』と『うた』である」と言われましたが、会社の生存戦略においても「まつり」と「うた」が最重要であると思いました。


玉串を受け取りました


柏手を打ちました


拝礼しました


神事の最後は一同礼!

 

この日は祭主であるサンレーグループ佐久間進会長が欠席でしたので、わたしが玉串を奉奠しました。わたしは、社員とその家族の健康・幸福、わが社の発展を祈願しました。それから、新型コロナウイルス感染の終息、ロシアによるウクライナ侵攻の終結と世界の平和を祈願しました。春季例大祭によって、いよいよ本格的に春になります。

朝粥会のようす

朝粥会で挨拶しました


春の訪れを寿ぎました


瀬津神職の音頭で神酒拝戴


神酒拝戴の前に柏手を打ちました

神酒を拝戴しました

松柏園の朝粥

朝粥会のようす

 

それから、参列者全員で朝粥会を開きました。これは、春季例大祭直会に当たります。佐久間会長の代わりに、最初にわたしが挨拶しました。続いて、皇産霊神社の瀬津神職による音頭で神酒を拝戴しました。その後、全員で「いただきます」を唱和し、食事がスタートしました。みんなで、松柏園の美味しいお粥を食べました。

朝粥会IN北陸

朝粥会IN大分

朝粥会IN宮崎

朝粥会IN沖縄

 

北陸、大分、宮崎、沖縄の各事業部でも朝粥会が開かれました。「共食信仰」という言葉がありますが、共に食事をしてこそ「こころ」は1つになります。たとえ、場所は離れていても、サンレーグループ は1つです!
朝粥会の後は、恒例の「天道塾」が開催されました。

 

2023年3月17日 一条真也

侍ジャパン、アメリカへ!

一条真也です。
16日の午後、東京から北九州に戻りました。
その夜、翌日の天道塾での講話の準備をしながら、東京ドームで開催された「WBC2023」の準々決勝(日本対イタリア)をアマゾン・プライムビデオで観戦しました。


WBC2023(prime video)


先発は大谷翔平(prime video)

 

1次ラウンドを4連勝、全ての試合で5点以上を差をつけるなど、侍ジャパンは「史上最強メンバー」の名に恥じない戦いぶりで決勝ラウンドに進出。16日、準々決勝でイタリア代表に9-3で勝利し、準決勝進出を果たしました。侍ジャパンの先発は3番・投手での二刀流出場の大谷翔平です。大谷は初回から雄叫びをあげる気合いの入った投球を見せました。2回には自己最速にあと1キロに迫る164キロの直球で空振り三振に仕留めるなど無失点に抑えました。まさに千両役者です!


大谷がセーフティバント!(prime video)


まさに千両役者!(prime video)

 

3回は5球で三者凡退に仕留めた大谷は、その裏の攻撃で1死一塁の第2打席、自らセーフティバントを決め好プレーでチャンスを広げました。その後、この日4番に入った吉田正尚のショートゴロの間に侍ジャパンが先制点を奪います。その後2死一、二塁として6番・岡本和真(巨人)が本拠地東京ドームでWBC1号となる左翼スタンドにスリーランホームランを放ち、この回一挙に4得点。


村上に復活の気配(prime video)


村上、WBC初のタイムリー安打!(prime video)

 

大谷は4回を無失点に抑えますが、5回に2死満塁のピンチでイタリア3番のDo.フレッチャーにライトへ2点タイムリーを許して降板。大谷は4回2/3失点2奪三振5被安打4の力投を見せました。後続は2番手の伊藤大海がシャットアウトして4-2で切り抜けます。直後の5回裏に無死一、二塁のチャンスで5番・村上宗隆がWBC初となるタイムリ二塁打を放ちます。さらに岡本が2点二塁打を放ち、侍ジャパンが7-2とリードを広げました。


ダルビッシュ、登板!(prime video)


日本への感謝を込めて・・・(prime video)

 

6回は3番手の今永昇太が無安打2三振で三者凡退に抑え、7回にはダルビッシュ有が4番手で登板。36歳の彼はこのマウンドが日本での最後の登板となる可能性が高いですが、「日本への感謝の気持ちを込めて」投げた結果、2回1失点で凌ぎました。7回に2点を追加した侍ジャパンは9-3で9回に突入。最後は、巨人の抑えのエース・大勢が無失点でしめて2009年以来、14年ぶりのWBC優勝を目指す侍ジャパンが5大会連続の準決勝へ駒を進めました。侍ジャパンは日本時間21日8時に米フロリダ州マイアミ ローンデポ・パークで行われる準決勝でプエルトリコ代表とメキシコ代表の勝者と激突します。


日本、イタリアに完勝!(prime video)


1次ラウンドMVPは大谷!(prime video)

わたしは、大谷選手の二刀流をリアルタイムで初めて観ました。ブログ「大谷翔平の『リアル二刀流』に思うこと」にも書きましたが、大谷の「前代未聞」の二刀流での大活躍は、アメリカでも大きな話題になりました。大谷選手に比べては申し訳ないですが、わたしもよく「一条さんは作家と経営者の二刀流ですね」などと言われます。日本では「この道一筋」が重んじられる風潮があり、二刀流というのは受け入れられにくい部分があります。それゆえ、わたしもさまざまな心理的プレッシャーを受けていますが、めげません。なぜなら、自分のことを二刀流だとは思っていないからです。


でも、よくそのように言われることは事実で、二刀流どころか、大学の客員教授も務めていることから「三刀流」、さらにはブロガー活動を加えて「四刀流」などと表現する人もいます。しかし、わたしの本業はあくまでも冠婚葬祭業です。もともと書くことが好きだったのですが、作家業も仕事にすることができました。さらには、大学の客員教授として研究や講義をしたりすることも仕事にできました。ブログも、おかげさまで多くの方々から読まれています。その意味では、わたしは非常に恵まれている人生を歩んでいると思います。本当に、ありがたいことです。

f:id:shins2m:20131003121512j:plainあらゆる本が面白く読める方法』(三五館)

 

拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)の帯には、「経営者、作家、客員教授・・・・・・一人三役を可能にする驚くべき読み方!本邦初公開」と書かれています。でも、わたしは「一人三役」だとは思っていません。経営者、作家、客員教授もそれぞれが分かちがたく結び付き合っていると思っています。どんな本を読んでも、またどんな研究活動をしても、そこで得た知識やヒントやアイデアを必ず本業で活かしたい、また本業のミッションを再確認する一助としたいと考えるのは事実です。

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世界孔子協会の孔健会長と

 

今年で創立57周年となるサンレーのミッションは「人間尊重」。そして、2500年前に孔子が説いた「礼」の精神こそ「人間尊重」そのものです。わたしは、「天下布礼」の幟を立てています。かつて織田信長は、武力によって天下を制圧する「天下布武」の旗を掲げました。しかし、わたしたちは「天下布礼」です。武力で天下を制圧するのではなく、「人間尊重」思想で世の中を良くしたい!

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冠婚葬祭ほど、人間関係を良くするものはありません。太陽の光が万物に降り注ぐごとく、この世のすべての人々を尊重すること、それが「礼」の究極の精神です。天下、つまり社会に広く人間尊重思想を広めることがサンレーの使命です。その延長線上に日本人の「こころの未来」にとって最重要といえる「グリーフケア」もあります。わたしたちは、この世で最も大切な仕事をさせていただいていると思っています。これからも、わたしは「天下布礼」の道を突き進んでいきたいものです。



2023年3月16日 一条真也

「オットーという男」

一条真也です。東京に来ています。
15日、一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会の理事会と一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の理事会に参加した後、TOHOシネマズシャンテで映画「オットーという男」を観ました。ネットでも高評価ですし、その前評判は聞いていましたが、素晴らしいグリーフケア映画でした。同時に、最高の隣人映画でもありました。名作です!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「フレドリック・バックマンの小説を原作にしたスウェーデン映画『幸せなひとりぼっち』を、『幸せへのまわり道』などのトム・ハンクス主演でリメイク。町で一番の嫌われ者だった男の人生が、向かいに暮らす一家との交流を通じて変化する姿を描く。監督は『プーと大人になった僕』などのマーク・フォースター。ドラマシリーズ「クラブ・デ・クエルボス」などのマリアナ・トレビーニョ、『スイートガール』などのマヌエル・ガルシア=ルルフォのほか、レイチェル・ケラーらが共演する」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「オットー(トム・ハンクス)は、近所を散策して少しでもルールを破った者を見つければ説教するなど、不機嫌な態度や厳格すぎる言動で町の人々に嫌われていた。しかし実はオットーは、妻に先立たれ、仕事も失い、孤独と絶望にさいなまれていたのだった。自ら命を絶とうとするオットーだが、そのたびに向かいの家に越してきたマリソル一家の邪魔が入り、思いを遂げることができない。マリソルから小さい娘たちの子守や車の運転を頼まれたオットーは、彼らとのやりとりを通してある変化を感じる」


「オットーという男」の予告編では、「トム・ハンクス初の嫌われ者の役」といった説明が入っています。実際、トム・ハンクスが演じるオットーは近所の皆から嫌われ、煙たがられています。それは自治会長だった彼が「地域の風紀委員長」よろしく厳しくルールを取り締まったり、「寄らば斬る」ではありませんが、周囲の人々に手当たり次第に毒舌を吐いていくからです。本当に「嫌な爺さん」なのです。こういう心が荒んだような爺さんは世界各国に存在するような気がします。それぐらい、この映画の中のオットーはリアリティがありました。


そんなオットーは、向かいの家に越してきたメキシコ人一家に振り回されながらも、彼らの温かさで少しづつ人間らしい感情を取り戻していきます。最愛の妻を亡くした絶望感と孤独感から、オットーは何度も自死を試みます。しかし、メキシコ人女性マリソルの必死の訴えを受け止めて、そのような「馬鹿な行為」は考えないようになるのでした。マリソルはけっこうお節介な女性なのですが、この「お節介」がオットーを救ったのでした。わたしは、地域社会には「お節介」というものも、ある程度は必要であると思います。無縁社会を乗り越えるためには、「お節介」の復活が求められると言えるでしょう。

隣人の時代』(三五館)

 

無縁社会」などと呼ばれるようになるまで、日本人の人間関係は希薄化しました。その原因のひとつには個人化の行き過ぎがあり、また「プライバシー」というものを過剰に重視したことがあります。そのため、善なる心を持った親切な人の行為を「お節介」のひと言で切り捨て、一種の迷惑行為扱いしてきたのです。しかし、「お節介」を排除した結果、日本の社会は良くなるどころか、悪くなりました。拙著『隣人の時代』(三五館)で、わたしは、高齢者の孤独死や児童の虐待死といった悲惨な出来事を防ぐには、挨拶とともに、日本社会に「お節介」という行為を復活させる必要があると訴えました。また、同書では「隣人祭り」というものを提唱し、大きな反響を得ました。「隣人祭り」とは、地域の隣人たちが食べ物や飲み物を持ち寄って集い、食事をしながら語り合うことです。都会に暮らす隣人たちが年に数回、顔を合わせて、同じ時間を過ごします。誰もが気軽に開催し参加できる活動です。


隣人祭り」といえば、20世紀末にパリで生まれましたが、2003年にはヨーロッパ全域に広がり、2008年には日本にも上陸しました。同年10月、北九州市で開かれた九州初の「隣人祭り」をわが社はサポートさせていただきました。日本で最も高齢化が進行し、孤独死も増えている北九州市での「隣人祭り」開催とあって、マスコミの取材もたくさん受け、大きな話題となりました。冠婚葬祭互助会であり、高齢者の会員さんが多いわが社はNPO法人と連動しながら、「隣人祭り」を中心とした隣人交流イベントのお手伝いを各地で行ってきました。コロナ禍前の2019年(令和元年)まで、毎年750回以上の開催をサポートしましたが、最も多い開催地は北九州市でした。コロナが5類に移行する5月以降はまた積極的に開催したいと思っています。

 

隣人祭り」が登場する映画といえば、クリント・イーストウッドが監督・主演した「グラン・トリノ」(2009年)を思い出します。イーストウッドの監督作品の中でも最高傑作と呼び声の高い作品です。妻に先立たれ、息子たちとも疎遠な元軍人のウォルト(クリント・イーストウッド)は、自動車工の仕事を引退して以来単調な生活を送っていました。そんなある日、愛車グラン・トリノが盗まれそうになったことをきっかけに、アジア系移民の少年タオ(ビー・ヴァン)と知り合います。やがて2人の間に芽生えた友情は、それぞれの人生を大きく変えていきます。



グラン・トリノ」では、朝鮮戦争従軍経験を持つ気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流する姿が感動的でした。そして、その舞台が「隣人祭り」だったのです。民族や国籍が違っても、一堂に会して、食べて飲んで、歌って踊る。「隣人祭り」には、あらゆる差異を無化して、人々を一体化させる力があります。頑固な老人な隣人の存在によって善き人となること、トヨタ車よりもフォード車を愛していること、機械の修理に強いこと・・・「グラン・トリノ」と「オットーという男」の間には多くの共通点があります。なんだか、トム・ハンクスの顔がクリント・イーストウッドに見えてきました。


「オットー」は、スウェーデンのコメディドラマ映画である「幸せなひとりぼっち」(2015年)のハリウッド・リメイク版です。 監督はハンネス・ホルム、出演はロルフ・ラッスゴードとバハール・パルスなど。愛妻に先立たれ失意のどん底にあったオーヴェ(ロルフ・ラッスゴード)の日常は、パルヴァネ一家が隣に引っ越してきたことで一変する。車のバック駐車や病院への送迎、娘たちの子守など、迷惑な彼らをののしるオーヴェだったが、パルヴァネは動じない。その存在は、いつしか頑なな彼の心を解かしていくのでした。フレドリック・バックマンのベストセラー小説を基にした、愛妻を亡くし人生に絶望した老人が、隣人一家との交流を通して徐々に心を開いていく人間ドラマです。主人公の心の変化を追いながら、「人は一人で生きられるのか」「人生とは何か」を問い掛ける内容となっています。


「幸せなひとりぼっち」の主人公オーヴェの年齢は59歳という設定です。なんと、現在のわたしの年齢ではありませんか! 60歳前にして絶望した老人というのは少々違和感をおぼえますが、リメイクされた「オットー」では、主人公オットーは67歳という設定になっています。これなら納得できますね。59歳のオーヴェにしろ、67歳のオットーにしろ、最愛の妻を亡くした悲嘆の大きさに変わりはありません。配偶者を亡くした人は、立ち直るのに3年はかかるといわれています。幼い子どもを亡くした人は10年かかるとされています。この世にこんな苦しみが、他にあるでしょうか。「オットー」は隣人との良好な関係を描いた隣人映画であると同時に、死別の悲嘆の深さ、そこからの回復を描いたグリーフケア映画でもあります。

愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

 

映画化が決定している拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)はグリーフケアの書ですが、冒頭には最愛の人と死別した悲嘆者に向かって、「あなたは、いま、この宇宙の中で1人ぼっちになってしまったような孤独感と絶望感を感じているかもしれません。誰にもあなたの姿は見えず、あなたの声は聞こえない。亡くなった人と同じように、あなたの存在もこの世から消えてなくなったのでしょうか。フランスには『別れは小さな死』ということわざがあります。愛する人を亡くすとは、死別ということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすと言われています」と書かれています。

 

 

もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、あなた自身の死に直面することであり、あなたの愛する人を亡くすことなのです。ユダヤ教の聖職者でありグリーフケア・カウンセラーでもあるアール・A・グロルマンは、著者『愛する人を亡くした時』(春秋社)で「愛児を失うと親は人生の希望を奪われる。配偶者が亡くなると、共に生きていくべき現在を失う。友人が亡くなると、人は自分の一部を失う。親が亡くなると、人は過去を失う」と述べました。


グロルマンの言葉をアレンジして、わたしは『愛する人を亡くした人へ』で、「親を亡くした人は、過去を失う。配偶者を亡くした人は、現在を失う。子を亡くした人は、未来を失う。恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う」と書きました。バスの事故で妻のお腹の中にいたわが子を失い、続いて妻をガンで亡くしたオットーは「未来」と「自分の一部」を失ったわけですが、自死の危機にあった彼を再生させたのは「隣人」の存在でした。「オットーという男」は、『愛する人を亡くした人へ』と『隣人の時代』という2冊の「一条本」のメッセージが込められた素晴らしいコンパッション映画でした。


まさに、「オットーという男」はわたしのための映画であると言えますが、「心」や「葬式」というわがメインテーマにも深く関わった作品でした。父親からの遺伝で心臓肥大症だった彼は、マリソルの前で倒れて救急車で病院に運ばれます。ようやく意識を取り戻したオットーですが、看護師の「彼は、HEARTが大きすぎるんです」という一言にマリソルは笑ってしまいます。英語の「HEART」には「心臓」と「心」のダブル・ミーイングがありますが、「心臓が大きすぎる」といった看護師の言葉を「心が大きすぎる」という意味に聞き取ったマリソルは大笑いするのでした。人の生き死にが関わっているときに笑うなんて不謹慎なようにも思えますが、この映画では「やれやれ」といったオットーの表情も味があって、良質なユーモアを表現していました。もっとも、妊婦だったマリソルは笑いすぎで産気づいてしまうのですが・・・・・・。

唯葬論』(三五館)

 

この映画のストーリーはもう多くの人が知っていると思うのでネタバレ覚悟で書きますが、最後にオットーは「葬式はあげてほしい」とマリソルへの遺書に書き残していました。「ただし、盛大な葬儀をあげる必要はない。この地域の人々の中で『オットーは、地域社会に良い働きをした』と思ってくれた人たちだけに参列してほしい」とも書き遺していました。その言葉は、アリストテレスの「人間は社会的存在である」とヴィトゲンシュタインの「人間は儀式的動物である」という2人の偉大な哲学者の言葉を集約したものでした。葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえます。葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場ではないでしょうか。「葬式をしない」という選択は、その意味で自分を表現していないことになります。

葬式は必要!』(双葉新書) 

 

「死んだときの話を口にするなど縁起でもない」と、忌み嫌う人もいます。果たしてそうでしょうか。わたしは、葬式を考えることは、いかに今を生きるかを考えることだと思っています。ぜひ、みなさんもご自分の葬義をイメージしてみてください。そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像してください。そして、その弔辞の内容を具体的に想像してください。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像してください。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」、子どもたちからは「心から尊敬していました」と言われたいものです。

葬式不滅』(オリーブの木

 

このように、自分の葬儀の場面というのは「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そんな理想の葬式を実現するためには、残りの人生において、あなたはそのように生きざるをえなくなるのです。つまり、理想の葬式のイメージが「現在の生」にフィードバックしてくるのです。「オットーという男」のラストに今は亡きオットーのために集った近所の人々の姿を見て、わたしは「そう、葬儀こそは最大の隣人祭りなんだ!」という事実を再確認したのでした。本当に、わたしのために、そして、地域社会で生きているすべての人々のために作られたような映画でした。

 

2023年3月16日 一条真也

「ベネデッタ」

一条真也です。
東京に来ています。14日、ブログ「オマージュ」で紹介した韓国映画新宿武蔵野館で観ましたが、同館では、観たかった異色の宗教映画「ベネデッタ」も上映されていました。上映時間もうまく合ったので、そのまま連続鑑賞。想像の斜め上を行く宗教映画の大傑作でした。


ヤフー映画の「解説」には、「『ルネサンス修道女物語 聖と性のミクロストリア』を原案に、17世紀に実在した修道女ベネデッタ・カルリーニを描くサスペンス。幼くしてカトリック教会の修道女となった女性が、聖痕や奇跡によって人々にあがめられる一方、同性愛の罪で裁判にかけられる。監督などを務めるのは『エル ELLE』などのポール・ヴァーホーべン。『ドン・ジュアン』などのヴィルジニー・エフィラ、『メルテム - 夏の嵐』などのダフネ・パタキアのほか、シャーロット・ランプリングランベール・ウィルソンらが出演する」と書かれています。

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「17世紀、現在のイタリア・トスカーナ地方にあたるペシアの町。幼いころから聖母マリアと対話し、奇跡を起こすとうわさされていたベネデッタは、6歳でテアティノ修道院に入る。ある日、彼女は修道院に逃げてきた若い女性バルトロメアを助け、やがて二人は秘密の関係を結ぶようになるが、ベネデッタが新しい修道院長に就任したことで波紋が広がっていく」


この映画は、17世紀にレズビアン主義で告発された実在の修道女ベネデッタ・カルリーニの姿を描く伝記映画です。ベネデッタは幼い頃から聖母マリアやキリストのビジョンを見続け、聖痕が浮かび上がりイエスの花嫁になったと報告した女性とされています。民衆の支持を得て修道院長に就任しながら告発された女性の人生を、ヴァーホーヴェンはR18+指定の過激なサスペンスとして描きました。物語の舞台は、現在のイタリア・トスカーナ地方に位置するペシアです。6歳で修道院に入り純粋無垢なまま成人したベネデッタの数奇な人生が描かれます。


わたしも、これまで多くの宗教映画を観てきましたが、「ベネデッタ」は正直言って大変な傑作でした。ここだけの話ですが、わたしはカトリックの修道女という存在が苦手です。あまりにもストイックな生活を送っているので、「普通の人間の心情がわからないのでは?」と思うこともしばしば。ましてや、中世ヨーロッパの修道院ならいざしらず、21世紀の日本でも修道院に入る際は多額の持参金が必要と聞いては気持ちが引いてしまいます。「ベネデッタ」では、聖女と崇められたベネデッタにキリストが憑依するシーンが迫力満点でした。まあ、本当の奇跡というよりはベネデッタの無意識の発露であるとは思いますが。



「ベネデッタ」における非常に重要な登場人物に、ベネデッタの前の修道院長がいます。なんと、伝説の大女優・シャーロット・ランプリングが演じていています。ブログ「すべてうまくいきますように」で紹介したフランス映画でも、彼女はソフィー・マルソー演じるエマニュエルの母親役を演じていました。彼女は、ルキノ・ビスコンティ監督の「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)を経て、リリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐(The  Night  Porter)」(1974年)で世界中の映画ファンにその存在を広く知られました。「愛の嵐」は元ナチス親衛隊員とゲットーに収容された美少女の愛欲を見事に表現しました。全裸同然のエロティックなコスチュームも大きな話題になりましたが、「ベネデッタ」も「愛の嵐」に負けずに官能的な作品となっています。ちなみに、新宿武蔵野館では「すべてうまくいきますように」も上映されていましたので、シャーロット・ランプリング作品の2本が同時上映されていたことになります。


それにしても、ポール・ヴァーホーヴェン監督は、非常に冴えていました。彼はオランダ・アムステルダム出身。ライデン大学で数学と物理を学び、1971年に長編映画監督デビュー。第2作「ルトガー・ハウアー 危険な愛」(1973年)でオランダ国内の話題を集め、「4番目の男」(1983年)などで国際的にも知られるようになりました。「グレート・ウォリアーズ 欲望の剣」(1985年)でハリウッドデビューを果たし、続くSFアクション大作「ロボコップ」(1987年)で一躍、知名度を高めました。アーノルド・シュワルツェネッガー主演のSFアクション「トータル・リコール」(1990年)は大ヒットを収めるとともに、アカデミー視覚効果賞を受賞。


ヴァーホーべンは、シャロン・ストーン主演のエロティック・サスペンス「氷の微笑」(1992)でも反響を呼びました。以降の監督作に「スターシップ・トゥルーパーズ」(1997年)、「インビジブル」(2000年)、「エル ELLE」(2016年)などがあります。「エル ELLE」は、ゲーム会社の社長を務めるミシェル(イザベル・ユペール)がある日、自宅で覆面の男性に暴行されてしまう物語です。ところがミシェルは警察に通報もせず、訪ねてきた息子ヴァンサン(ジョナ・ブロケ)に平然と応対します。翌日、いつも通りに出社したミシェルは、共同経営者で親友のアンナ(アンヌ・コンシニ)と新しいゲームのプレビューに出席するのでした。ヴァーホーべンの一連の作品は、過剰な暴力描写などでたびたび物議を醸しながらも、鬼才として作品を世に問い続けています。


わたしは修道女は苦手ですが、修道女が登場する映画は好きです。一番好きなのは、イエジー・カヴァレロヴィッチ監督のポーランド映画「尼僧ヨアンナ」(1961年)です。辺境の地。スーリン神父(ミェチスワフ・ヴォイト)が到着したばかりの宿屋で、馬丁や女将、中年男たちが悪魔憑きの噂をしています。修道院の中では、悪魔に憑かれた尼僧たちが大声でわめき、みだらなことをしているといいます。悪魔祓い師としてやってきたスーリンは早速修道院へと向かいます。尼僧マウゴジャータ(アンナ・チェピェレフスカ)に出迎えられ、修道院の中へ招じ入れられた彼の前に、尼僧ヨアンナ(ルツィーナ・ヴィンニツカ)が姿を現わします。ヨアンナは、自分には8つの悪魔が取り憑いていると告げるのでした。宿屋・原野・教会という密閉された小宇宙を舞台に、押し付けられた教義に反抗する人間の本性を描いた神秘的傑作でした。


映画「ベンデッタ」を鑑賞した前日、日本では新型コロナウイルス対策のマスク着用ルールが緩和され、脱マスクの日常が始まりました。いよいよコロナ禍も終息に向かう気配です。「ベンデッタ」では、コロナではなくて、ペストがまん蔓延する社会が描かれています。ペストは多くの死者を出し、遺体は大きな穴に投げ込まれていました。これまでに世界史を変えたパンデミックでは、遺体の扱われ方も悲惨でした。14世紀のペストでは、死体に近寄れず、穴を掘って遺体を埋めて燃やしていたのです。



15世紀にコロンブスが新大陸を発見した後、インカ文明やアステカ文明が滅びたのは天然痘の爆発的な広がりで、遺体は放置されたままでした。20世紀のスペイン風邪でも、大戦が同時進行中だったこともあり、遺体がぞんざいな扱いを受ける光景が、欧州の各地で見られました。もう人間尊重からかけ離れた行いです。その反動で、感染が収まると葬儀というものが重要視されていきます。人々の後悔や悲しみ、罪悪感が高まっていったのだと推測されます。コロナ禍が収まれば、もう一度心ゆたかに儀式を行う時代が必ず来ると思います。

 

2023年3月16日 一条真也