「HOKUSAI」 

一条真也です。
28日、東京から北九州に戻りました。
その夜、この日に公開された日本映画「HOKUSAI」をシネプレックス小倉のレイトショーで観ました。ブログ「いのちの停車場」で紹介した映画に出演していた田中泯があまりにも素晴らしかったので、彼が晩年の北斎を演じるこの映画を楽しみにしていました。期待通りに、田中泯が圧倒的な存在感を放っていました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『富嶽三十六景』などで知られる江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の謎多き生涯を、柳楽優弥田中泯が演じた伝記ドラマ。貧乏絵師が北斎として江戸を席巻し、“画狂人生”をまい進する姿が描かれる。北斎の青年期を柳楽、老年期を田中が演じ、阿部寛永山瑛太玉木宏らが共演。メガホンを取るのは『相棒』シリーズや『探偵はBARにいる』シリーズなどの橋本一

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ヤフー映画の「あらすじ」は、「町人文化全盛の江戸。後の葛飾北斎である貧乏絵師の勝川春朗(柳楽優弥)は、不作法な素行で師匠に破門されたが、喜多川歌麿東洲斎写楽を世に送り出した版元の蔦屋重三郎阿部寛)に才能を認められる。北斎は次々と革新的な絵を手掛け、江戸の人気絵師となるが、幕府の反感を買ってしまう」です。

 

28日、わたしは東京出張から戻りました。東京に行ったときは、なるべく東京でしか観ることのできない映画を観るように心がけているのですが、現在は映画館に休業要請が出ており、今回は叶いませんでした。じつは、9都道府県が緊急事態宣言中ながら、5月28日公開の映画はいくつかあります。それで小倉に戻ってから映画鑑賞しようと思い、最初はラッセル・クロウ主演の「アオラレ」を観ようかなと考えていました。しかし、今朝、ある出来事があり、急遽、「HOKUSAI」を観ることに変更しました。その出来事については、ブログの最後に書きます。


この映画の主人公である葛飾北斎は、数々の名作を生み出した天才絵師です。米「LIFE」誌のミレニアム特集号「この1000年で最も重要なできごとと人物・100選」の中で唯一紹介された日本人でもあります。死後150年を経て、北斎は世界的な評価を得ているわけですが、彼はとにかく研究熱心な努力家でした。浮世絵の様式を習得するだけでは飽き足らず、さまざまな画派の技法を取り込み、中国や西洋の絵画も研究しました。多くの弟子を抱え、人気絵師の名をほしいままにし、90歳の長寿を全うしましたが、最期まで「あと5年、いや、あと10年生き長らえることができれば、真の絵描きになれたのに・・・・・・」と現状に満足せず、常に高みを目指していたことは有名です。「画狂人(または画狂老人)」の雅号で、神羅万象あらゆるものを描き、画道ひと筋、ひたすら邁進し続けた北斎の魅力がよく描かれた映画でした。


映画「HOKUSAI」で最も印象的だったのは吉原の遊郭の描写です。これまで吉原は数え切れないほどの映画で描かれてきましたが、「HOKUSAI」に登場する吉原は非常に魅力的です。性的に魅力的という意味ではなく、アートとして魅力的というか、とにかく美しくてカッコいいのです。ここで浮世絵界の大スターである喜多川歌麿東洲斎写楽、さらには江戸の出版プロデューサーである蔦屋重三郎に連れられた北斎も加わって繰り広げられた宴は夢のようでした。映画では彗星の如く登場した写楽というニュースターにオールドスターである歌麿がジェラシーを抱き、まだ世に出ていない北斎写楽に因縁をつけたものの相手にもされませんでした。もちろん架空の宴ですが、浮世絵ファンにはたまらないシーンです。また、遊郭という場所がいかに魔術的な魅力に溢れているかを再認識しました。アニメ「鬼滅の刃」の第2期も「遊郭編」ということで楽しみです。親御さんたちも、「子どもの教育上よろしくない」などと野暮なことは言わないで!


この映画では、阿部寛演じる蔦屋重三郎が重要な役どころとなっています。出版人であった彼は、朋誠堂喜三二、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られます。付き合いのあった狂歌師たちや絵師たちを集め、それまでにない斬新な企画を統括し、洒落本や狂歌本などでヒット作を次々に刊行しました。その後、一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出、洒落本、黄表紙狂歌本、絵本、錦絵を出版するようになります。浮世絵では歌麿の名作を世に送ったほか、写楽や栄松斎長喜などを育てています。また、鳥居清長、渓斎英泉、歌川広重らの錦絵を出版しています。 曲亭馬琴十返舎一九などの世話もしました。しかし、映画と違って北斎との接点は薄く、番頭出身で蔦屋の2代目になった勇助が北斎を重用しました。享和2年(1802年)に北斎狂歌本『潮来絶句集』を出版すると、装丁が華美ということで処罰されています。こちらが本物の史実ですね。


あと、永山瑛太演じる柳亭種彦も重要な役どころでした。映画では種彦と北斎がタッグを組んでいますが、実際の種彦は役者似顔絵の名人歌川国貞と提携し、戯曲風に構成された『正本製』、『偐紫田舎源氏』などによって不動の名声を得ました。映画では殺害されますが、天保の改革にあたって、『田舎源氏』が大奥を写したとの風評がたち絶版を命じられ、憂悶のあまり発病して死亡したとされています。もっとも、一説には自殺とも伝えられます。映画では、武士である種彦がお上を諷刺したり揶揄した罪で武士社会の中で抹殺されますが、最後まで筆名である「柳亭種彦」の名を捨てず、筆を絶つことを拒否しました。わたしも、「本を書くな」とか「ブログを書くな」などと言われたこともあり、最近では「経営者のくせに東京五輪中止を訴えるのはいかがなものか。自民党政権を批判するのか?」などと言う者も一部にはいるようですが、義によって自らが正しいと思うメッセージを広く伝えております。わたしも筆を折る気などは毛頭もありません。自ら反みて縮くんば、千万人と雖も、吾往かん!


それにしても、70歳以降の北斎を演じた田中泯が最高にカッコ良かったです。わたしは、彼の大ファンなのです。最初にその存在を知ったのは、 ブログ「永遠の0」で紹介した映画でした。この日本映画の名作で、田中泯が演じたのは主人公・宮部久蔵 (岡田准一)と神風特攻隊の同期だった景浦です。景浦は戦後、極道の親分になります。そして、夫・久蔵を失って生活に困窮していた未亡人の大石松乃(井上真央)を助けるのですが、これがもう最高にカッコ良く、シビレました。冒頭に書いたように、「いのちの停車場」での主人公の女医の父親役も素晴らしかったです。映画「HOKUSAI」の演技も鬼気迫る印象でしたが、公開直前ヒット祈願報告会イベントでは、北斎の人生を振り返り、「社会の常識と向き合う」ことの重要性を訴えるスピーチがとても素敵でした。


「HOKUSAI」では、田中泯だけでなく、柳楽優弥永山瑛太玉木宏瀧本美織阿部寛といった俳優陣もみんな良かったです。この映画が公開された28日は、東京都の緊急事態宣言が6月20日まで延長されることが決定した日です。東京都ではシネコンなどの大型映画館がすべて休業しており、なんと公開日であるにもかかわらず立川のミニシアターでしか上映されないという信じられない状況となりました。それで、わたしは映画砂漠の東京を離れて小倉のシネコンで鑑賞したわけです。考えてみると、これまで映画砂漠は北九州の方で、いつも東京の映画環境を羨ましく思っていました。しかし、生まれて初めて東京で体験できないことが北九州では体験できるという不思議な状況となりました。東京の映画館でも休業が緩和されるようですが、わたしは、おそらくは史上初めて映画砂漠=文化砂漠が一時的に逆転した「2021年5月28日」をずっと記憶しておこうと思います。


さて、北斎といえば、「富嶽三十六景」が有名です。
発表したのは、なんと70歳を過ぎてからというのが驚きですが、そこには半世紀の画家人生の研鑽の成果が注ぎ込まれていました。北斎は、圧倒的な画力と奇想天外なアイディアとで、全図各地から眺めたさまざまな富士山の姿を描きました。じつは、28日の朝、宿泊しているホテルの客室の窓から富士山が見えたのです。

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28日の朝、ホテル客室から見えた富士山

 

昨日の東京は雨だったので、「富士山は見えないだろうな」と期待してはいなかったのですが、28日の朝はカラリと晴れて、見事な富士山の姿を拝むことができました。ブログ「富士山さえあれば・・・」にも書いているように、わたしは「どんなことがあっても、富士山さえあれば日本は大丈夫だ!」だと考えています。たとえ、東京五輪の強行開催という未曾有の国難が迫っているとしても。ちょうど富士山の右横には新国立競技場が見えました。高名な建築家のデザインだそうですが、わたしの目にはきわめて醜悪な建造物にしか見えませんでした。なにしろ、その左横には、この世で最も美しい富士山があるのです。わたしは富士山に向かって手を合わせ、「早く、東京五輪の中止が発表されますように」と祈りました。

f:id:shins2m:20210528100219j:plain富士山を見ながら朝食を取りました 

 

それから、わたしは一心不乱に富士山を見つめながら、ルームサービスで頼んだ朝食を取りました。現在、定宿のホテルのレストランが緊急事態宣言で休業しており、朝食はルームサービスで提供されているのです。食後のコーヒーを飲みながら、わたしは「富士山といえば『富嶽三十六景』だなあ。そうだ、今夜は小倉の映画館で『HOKUSAI』を観よう!」と思ったのです。映画の中で、蔦屋重三郎が「富士は二つとあらずと書いて不二。だから美しいってな」というセリフを聞いたとき、わたしは「ああ、やっぱり『アオラレ』じゃなくて『HOKUSAI』を観て良かった!」と思ったのでありました。

 

2021年5月29日 一条真也

『人類とイノベーション』

人類とイノベーション:世界は「自由」と「失敗」で進化する (NewsPicksパブリッシング)

 

一条真也です。
28日、東京から北九州に戻ります。
どちらも緊急事態宣言下にありますが、来月20日までの延長が本日決まるようです。まったく困ったものですね。
『人類とイノベーション』マット・リドレー著、大田直子訳(PUBLISHING)を紹介します。著者の本は、これまでにもブログ『徳の起源』ブログ『繁栄』で紹介した本を読みました。著者は1958年、英国ノーザンバーランド生まれの世界的に著名な科学・経済啓蒙家。英国貴族院議員(子爵)。元ノーザンロック銀行チェアマン。オックスフォード大学で動物学の博士号を取得。「エコノミスト」誌の科学記者を経て、英国国際生命センター所長、コールド・スプリング・ハーバー研究所客員教授を歴任。オックスフォード大学モードリン・カレッジ名誉フェロー。事実と論理にもとづいてポジティブな未来を構想する「合理的楽観主義」を提唱し、ビル・ゲイツマイクロソフト創業者)、マーク・ザッカーバーグフェイスブック創業者)らビジネスリーダーの世界観に影響を与えたビジョナリーとして知られます。 

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本書の帯

 

本書の帯には。「AI、産業革命、スタートアップ、SNS、経済、医療、生命・・・」「日本の事例も多数登場」「全米最新ベストセラー」「世界は『自由』と『失敗』で進化する」「ビル・ゲイツマイクロソフト創業者)、マーク・ザッカーバーグフェイスブック創業者)が賞賛する世界的ビジョナリーが圧倒的な根拠をもとに提示するあらゆるビジネス・人間活動の最重要テーマ、『イノベーション』の法則と未来!」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、「イノベーションとは結局のところ何なのか? なぜ、どのように起きるのか? 私たちに何をもたらすのか? 世界騒然のベストセラー、待望の邦訳!」と書かれています。アマゾンには、以下のように書かれています。
・なぜ原子力発電は「斜陽産業」になったのか
・世界を変えるのは「1人の孤高の天才」ではない
・世界を変えるのは「発明家」ではなく
 「イノベーター」である
・新しいテクノロジーに携わった起業家の多くは
 「破産」する
イノベーションは圧倒的な雇用を生む
イノベーションを阻害するのは
 「規制」と「知的財産権」である
・人類史が証明する「イノベーションをはぐくむ環境」
・2050年の世界を予測する

 

また、アマゾンには以下の内容紹介があります。
「AI、SNS、起業、ブロックチェーン、経済、通信、医療、遺伝子編集・・・。あらゆるビジネスや社会活動における最大の課題『イノベーション』。それはいかにして起こるのか? その原動力とは? なぜ近年大きなイノベーションが生まれないのか? 誰も知らなかった『イノベーションの本質』を、産業革命史や人類史、Google、Amazonの実例など、圧倒的なファクトを積み重ねて解き明かす。ビル・ゲイツマーク・ザッカーバーグスティーブン・ピンカー(『21世紀の啓蒙』)、ピーター・ディアマンディス(『2030年』)らの世界観に大きな影響を与えた現代最高の科学・経済啓蒙家による、待望の最新刊にして米英ベストセラー。巻末に特別追記『コロナ後の世界とイノベーション』を収録」

 

さらに、アマゾンには以下の推薦の言葉があります。
「2020年の私のベストブックは本書だ。『1人の天才が世界を変える』という思い込みはもう捨てよう。蒸気機関もテレビも電球も、1人の天才による発明ではない。無数のイノベーションが『進化』を繰り返した結果生まれたものだ。そう、イノベーションとは『生物の進化』と同じ仕組みなのだ」
――リチャード・ドーキンス(『利己的な遺伝子』)
「本書でとくに深い洞察があるのは、失敗は成功の一部であること、試行錯誤を繰り返すことの意義、そしてイノベーションを妨げがちな『政府』についての指摘だ。さらに人類の成功に不可欠な材料は何かという点においても、私はリドレーに完全に同意する」――ジェームズ・ダイソン(ダイソン社創業者)
「名著だ。読め」――Forbes誌

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 エネルギーのイノベーション
第2章 公衆衛生のイノベーション
第3章 輸送のイノベーション  
第4章 食料のイノベーション
第5章 ローテクのイノベーション
第6章 通信&コンピュータのイノベーション
第7章 先史時代のイノベーション
第8章 イノベーションの本質
第9章 イノベーションの経済学
第10章 偽物、詐欺、流行、失敗 
第11章 イノベーションへの抵抗
第12章 イノベーション欠乏を突破する 
特別追記:コロナ後の世界とイノベーション
「謝辞」
「出典と参考文献」



「はじめに」の「イノベーションとは何なのか」では、著者はこう述べています。
「iPhoneのバッテリー内の電気とケワタガモの体の温もりは、ほぼ同じことをしている。つまり、エネルギーを消費または変換することによって、偶然にはありえない秩序(写真、子ガモ)をつくっている。そしてさらに、ケワタガモとiPhoneについてのような、たったいま私の頭に浮かんだ考えそのものも、私の脳内におけるシナプス活動のありえない配列であり、その配列も当然、私が最近食べたものからのエネルギーに支えられているが、それを可能にするのは脳に内在する秩序であり、その秩序自体が何百万年ものあいだ個体に作用している自然淘汰による進化の産物であり、個体それぞれの『ありえなさ』はエネルギー変換によって維持されてきた。生命もテクノロジーも詰まるところ、ありえない万物の配列であり、エネルギー生成の結晶なのだ」



イノベーションはさまざまなかたちで生まれますが、すべてに共通し、さらに進化によって生じた生物学的イノベーションとも共通するのは、「ありえなさ」が高められていることだとして、著者は「iPhoneであれ、考えであれ、子ガモであれ、イノベーションはすべて、原子やデジタル情報のありえない組み合わせである。iPhone内の原子が何十億というトランジスタと液晶になるよう偶然にきちんと配列されたり、子ガモ内の原子が血管やふわふわした羽毛をつくるよう偶然に配列されたり、私の脳内のニューロン発火が『熱力学の第2法則』の概念を表現できて、現に表現することもあるパターンになるよう偶然に配列されることは、天文学的なありえなさである。イノベーションは進化と同様、偶然に生じることはありえない――そしてたまたま役に立つ――かたちに、万物を再配列する方法をどんどん見いだしていくプロセスだ」と述べます。

 

イノベーションとは、エネルギーを利用してありえないものをつくり、つくられたものが広まるのを確かめるための、新たな方法を見つけることを意味します。それは「発明」よりはるかに大きな意味をもつと指摘し、著者は「なぜならイノベーションという言葉には、使う価値があるほど実用的で、手ごろな価格で、信頼できて、どこにでもあるおかげで、その発明が定着するところまで発展させるという含みがあるからだ。ノーベル賞経済学者のエドマンド・フェルプスは、イノベーションを『世界のどこかで新たな慣行になる新しい手法や新しい製品』と定義している。本書では、通常ひとつのアイデアをほかのアイデアと結びつけることによって広めようという長い奮闘のすえに、発明がイノベーションへとつながるアイデアの道をたどるつもりだ」と述べています。

 

イノベーションは現代世界にまつわる最も重要な事実だが、きちんと理解されていない事実でもあります著者は、以下のように述べています。
イノベーションは、ほとんどの現代人が祖先とくらべて繁栄し、賢明な生活を送っている理由であり、ここ数世紀の大富裕化の確かな原因であり、極貧率が史上初めて世界的に急落した――私が生まれてからこれまでに世界人口の50パーセントから9パーセントに下がっている――ことの簡潔な説明である。経済史学者のディアドラ・マクロスキーが言うように、欧米だけでなく中国やブラジルも含めて、ほとんどの人が先例のないほど豊かになったのは、『イノベーション主義』のおかげだった。つまり、生活水準の向上に新しいアイデアを応用する習慣だ」

 

イノベーションは科学より『先』に生まれる」では、人びとの生活を変えたイノベーションのほとんどは、少なくとも最初は、新しい科学知識に負うところは少なく、変化を促したイノベーターのほとんどは、教育を受けた科学者ではなかったとして、著者は「それどころか、蒸気機関を発明したトーマス・ニューコメンや、織物革命を起こしたリチャード・アークライト、鉄道の父ジョージ・スティーヴンソンのように、多くのイノベーターは出自が低く、ろくな教育を受けていなかった。多くのイノベーションは、それを支える科学より先に生まれている。したがってフェルプスが論じているように、産業革命はじつのところ、内部で進行するイノベーションを製品そのものとして生みだす、新手の経済システムの出現だったのである。いくつかの機械そのものがこれを可能にしたのだと、私は主張したい。蒸気機関は『自己触媒的』だったとわかっている。具体的には、蒸気機関は炭坑の排水を行ない、それが石炭のコストを削減し、そのおかげで次の機械をより安く、より容易につくることが可能になった」と述べています。

 

イノベーションと人類の繁栄」では、人類史の主要テーマは、生産するものが着実に専門化し、消費するものが着実に多様化していくことであると指摘し、「不安定な自給自足から、より安定した相互依存に移っている。週に40時間、他人のニーズを満たすこと――それは『仕事』と呼ばれる――に専念することにより、そのほかの(寝ている56時間は除いて)72時間を、他人によって提供されるサービスに頼ってすごすことができる。イノベーションのおかげで、ほんの一瞬の労働で、電灯を1時間つけることができるようになった。その量の明かりを、もしもゴマ油やヒツジの脂を集めて精製し、それを単純なランプで燃やすことによって自分でつくらなくてはいけないとしたら、まる1日働く必要がある。人類の多くがそう遠くない過去に、それをやっていたのだ」と述べるのでした。


第1章「エネルギーのイノベーション」の「蒸気機関の『起源』はあいまいだ」の冒頭を、著者は「私が思うに、おそらく人類史上最も重要な出来事は、1700年ごろに北西ヨーロッパのどこかで起こり、それを達成したのは1人または複数の誰か(おそらくフランス人かイギリス人)だ。しかし、それが誰なのかを知ることはできない」と書きだしています。その出来事とは、初めて制御下で熱が仕事に変換されたことであり、産業革命を不可避ではないにしても可能にした、ひいては現代世界の繁栄と今日見られるテクノロジーの驚くべき隆盛につながった、重大な進歩であるといいます。ちなみに、ここでいう「仕事」とは、物理学者が定義する広い意味ではなく、制御された活動的な動きという口語的な意味だとか。


この文章を、電気で動く電車に乗って、電灯の助けを借り、電気で作動するノートパソコンで書いているという著者は、「その電気のほとんどは電線を伝って発電所から届いており、その発電所ではガスの燃焼や核分裂の熱によって水を沸かし、生成された蒸気の力で巨大なタービンが高速回転している。発電所の目的は、燃焼の熱で水を蒸気に膨張させて圧力を発生させ、さらにその力をタービンの翼の運動に変え、それが電磁石内で動くことで電線内の電子の動きをつくり出すことである。同じようなことが車や飛行機のエンジン内部でも起こる。燃焼が圧力を生み、圧力が動きを引き起こすのだ。私やあなたが送っている生活を実現する膨大な量のエネルギーはほぼすべて、熱から仕事への変換によってもたらされる」と述べます。


「なぜ原子力は斜陽産業になり果てたのか」では、20世紀に現われた革新的なエネルギー源はただひとつ、原子力だと示されます。風力と太陽光もはるかに改良され、将来的に有望だが、まだ世界的なエネルギー源としての割合は2パーセントに満たないとして、著者は述べます。
「エネルギー密度の点からすると、原子力に並ぶものはない。スーツケースサイズの物体が、適切に配管されれば、ひとつの町や空母にほぼ永久に電力を供給できる。原子力の民間開発は応用科学の勝利だった。その道は核分裂とその連鎖反応の発見から始まり、マンハッタン計画での理論から爆弾への変換を経て、制御された核分裂反応とそれを水の沸騰に応用する段階的な工学設計へとつながった」


2011年の福島の大惨事を考えると、福島原発の設計には安全性に大きな欠陥がありました。ポンプが高波で浸水しやすい地下にあったのです。著者は、「もっと新しい設計では繰り返されそうもない、単純な設計ミスだ。それは古い原子炉であり、もし日本がまだ新しい原子炉を建設していたら、ずっと前に廃止されていただろう。コストの高い過剰規制によって核の普及とイノベーションが抑制されていたせいで、福島原発は稼働時間が長すぎたために、システムの安全性が低下したのだ」と述べるのでした。


第2章「公衆衛生のイノベーション」の「『タバコ』という人類最悪のイノベーション」では、現代の最も恐ろしい殺し屋は、もはや病原菌ではなく習慣、すなわち喫煙だと指摘し、著者は「600万人以上を直接早死にさせ、さらに100万人の死に間接的に関与している可能性がある。1500年代にアメリカ大陸から日世界にもち込まれた喫煙というイノベーションは、人類最大の過ちのひとつだ」と述べています。喫煙は他のほぼどんな原因よりも若年死の原因になっています。がんや心臓病を引き起こすと知っても、その世界的な人気は驚くほど落ちません。喫煙で人が死ぬことはかなり前に合理的な疑いの余地なく立証されているのに、意外にもその習慣を止めるのに役立っていないのです。

 

第3章「輸送のイノベーション」の冒頭を、「無数の試行錯誤の産物としての機関車」として、著者は「人類誕生から1810年代まで、疾走するウマより速く進める人間はいなかった。そのあと1世代のうちに、その3倍も速く、しかも1度に何時間も移動するのが当たり前になった。これほど具体的でドラマチックなイノベーションがあっただろうか? その一方、私が生きてきた時代には、輸送のスピードはあまり変わっていない」と書きだしています。


輸送のイノベーションを代表するものは、何と言っても自動車です。「贅沢品だった自動車を庶民のものにしたフォード」では、著者は「自動車を贅沢な発明からみんなのイノベーション、つまり一般人のための手ごろな実用品に変えるには、デトロイト出身の農民の息子が不可欠な存在だった。ヘンリー・フォードは1908年以降に業界に革命を起こし、蒸気自動車と電気自動車を過去に追いやり、自動車を大衆の手の届くものにしたのだ。そのおかげで人間の行動が非常に広範囲にいろいろと変わったので、蒸気機関が19世紀を代表するテクノロジーだったように、20世紀の代表は飛行機ではなく自動車である」と述べます。


飛行機というイノベーションは、かのライト兄弟によって実現されました。「ライト兄弟にあってラングレー教授になかったもの」では、1903年12月17日午前10時35分、ライト兄弟の弟のオーヴィル・ライトが操縦装置をコントロールするために2枚のうち下側の翼の上で腹ばいになり、兄のウィルバー・ライトが助走中の飛行機を安定させるために並んで走るあいだに、「フライヤー」は木製の軌道からやっかいな向かい風へとなめらかに浮き上がったことが紹介されています。著者は、「ガソリンエンジンが推力を、複葉の翼が揚力を与える。12秒後、36メートル進んだところで、飛行機はスキー板を使って着陸した。見守っていたのはたった5人。その日そのあとウィルバーがほぼ1分間、250メートル以上もフライヤーを飛ばした」と書いています。


「なぜ飛行機事故による死者がゼロになったのか」では、2017年、商用旅客ジェット機の墜落による死者は、初めてゼロを記録したことが紹介されます。著者は、「貨物機、自家用機、プロペラ機による死亡墜落事故はあったが、商用旅客ジェット機のものはなかった。それでもその年、商用飛行は3700万回という記録を出している。世界の飛行機事故による死者数は、1990年代の年間1000人超えから2017年のわずか19人まで、着実に減少した。しかも飛行機に乗る人の数は大幅に増えている。2件の事故が2018年にインドネシアで(死者189人)、2019年にエチオピアで(死者157人)、どちらもボーイング737-MAX8機にコンピュータのエラーが原因で起こっているが、それでも一般的な傾向は変わっていない。この2件の例外的な悲劇で、そうした事故がどれだけまれになったかが浮き彫りになり、結果としてその機種すべてが飛行禁止になった。半世紀前との比較はさらに鮮明だ。現在、1970年とくらべて10倍の人が飛行機に乗っているが、航空安全ネットワークによると、死者数は以前のほうが10倍多かったという」と述べます。


第4章「食料のイノベーション」の冒頭を、「ジャガイモというイノベーション」として、著者は「ジャガイモはかつて旧世界におけるイノベーションだった。スペイン人征服者がアンデス山脈から故国に持ち帰ったのだ。新しいアイデアと成果が社会に広がっていくのは、容易であり困難でもあることを示す好例である。ジャガイモは主要農作物のなかで最も生産性が高く、単位面積あたりのエネルギーは穀物の3倍だ。約8000年前、標高3000メートル以上のアンデス高地で、塊茎が硬くて有毒な野生植物から栽培品種化された。なぜ、どうやって、そんな危険な先祖を栄養になる植物に改良することができたのかは、長い歳月に覆い隠されているが、おそらくチチカカ湖に近いどこかで起こったのだろう」と書きだしています。


第5章「ローテクのイノベーション」の冒頭を、「ヨーロッパ人を感激させた『インド数字』」として、著者は「9、8、7、6、5、4、3、2、1。これがインド人の使う9つの数字だ。この9つの数字と、アラビア語でゼフィラムと呼ばれる0という符号を使って、どんな数でも表わすことができる。それをこれから証明する」。こうして1202年(ローマ数字で表わすとMCCⅡ年)ごろ、ひとりのイタリアの商人がヨーロッパに、近代的な数字、近代的な算術、そしてとくに重要なゼロの使用を紹介した」と書きだしています。イギリスの数学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、「ゼロについて重要なのは、日常の営みで使う必要がないことだ。ゼロ匹の魚を買いに出かける人はいない」と述べました。ゼロは数を形容詞から名詞に変え、そしてそれ自体が数になります。これは広範囲に影響をおよぼしたイノベーションでしたが、テクノロジーはいっさい関与していません。


「なぜ街中で下水の臭いがしないのか」では、イギリス議会科学技術部によると、ロンドンで出される下水の量は、1日10億リットル以上だということが紹介されます。つまり年間4000億リットル、標準的なプール100万杯なのですが、著者は「その臭いがまったくしない。なぜだろう?」と問い、「これは新しい現象であり、イノベーションである。過去には、都市にはつねに下水の臭いが漂っていて、通りを歩いていれば、その臭いを嗅がずにいるのはもちろん、汚水を見かけたり、そこに足を突っ込んだりせずにいるのは至難の業だった。現在、下水は相変わらずあちらこちらにあるが、私たちから完全に切り離されているので、見かけることはもちろん、臭いを嗅ぐこともない。流され、処理され、消え去るので、ほぼ完全に見えない。考えてみると、これは私たちの文明のすばらしい成果であり、最高の部類に入る」と述べています。


「なぜキャスターは70年代まで発明されなかったのか」では、著者が「私は若いころ、重いカバンを引きずって鉄道駅や空港を移動していたので、キャスター付きスーツケースは文明の最高峰に入ると思っていることが示されます。しかしこれほどローテクなものにしては登場したのが意外なほど遅く、人類が初めて月面に着陸したあとのことだ」と述べています。それから、「1970年のある日、マサチューセッツ州の旅行用カバンメーカーの重役だったバーナード・サドウは、休暇で家族と一緒にアルバ島に出かけた。帰路にアメリカの税関で列に並び、前に進むたびに2個の重いカバンを持ち上げる。ちょうどそのとき、空港職員が重い機械を載せた台車を押しながら通りすぎた。『なあ、あれこそ僕たちの荷物に必要なものだ』と、サドウは妻に言った。帰宅したあと、衣装トランクからキャスターを4個はずし、スーツケースに取りつけた。そしてスーツケースにひもをつけて、家中を楽々と引きずった」と紹介しています。


マクドナルドを変えたセールスマン」では、食のイノベーションとしてのマクドナルドが登場します。著者は、「簡単な食事は皿やフォークなしで食べられる形式を標準にして用意できるというレイ・クロックの認識と、世界中に広まった――マクドナルドという――その手法のことを思うと、変化を起こすのは発明ではなく商業化だとあらためて思い知る」と述べます。マクドナルド兄弟は、メニューがシンプルであれば手軽で確かな食事を用意できる、組立ライン手法のようなものを開発していたことを指摘し、著者は「クロックは兄弟と提携を結んで、統一性と値ごろ感を強調しながら、彼が規格を厳しくコントロールできる、フランチャイズ方式でマクドナルドを大きくした。当時のファストフードが信用できなかったのとは大ちがいだ。ほどなく、マクドナルドに張り合ってまねする店が、アメリカだけでなく世界中に次々と生まれ、やがてその人気に対し、文化評論家がえらそうに怒りを示すようになった。これほどすばらしい栄誉はないだろう」と述べるのでした。

 

第6章「通信とコンピュータのイノベーション」の「マルコーニの奇跡と理想」では、半世紀前の電信の先駆者と同じように、マルコーニはグローバルな通信を解放することで諸国民どうしの平和と調和が深まるいっぽうだと信じていたことが紹介され、著者は「この理想郷を思い描く考えは魅力的だった。物理学者のウィリアム・クルックス卿もまた、情報を伝えるのにヘルツ波を使うことを予測しており、それを用いて『収穫を増やし、寄生虫を殺し、下水を浄化し、病気を撲滅し、天候を制御する』ことについて書いていた」と述べます。また、「もしマルコーニがいなくても、無線通信は1890年代に生まれていただろう。インドのジャガディッシュ・チャンドラ・ボーズ、イギリスのオリヴァー・ロッジ、ロシアのアレクサンドル・ポポフが、電磁波を使って、通信とは限らないにしても、離れた場所に作用を引き起こす実験を行ない、発表していた。フランスのエドゥアール・ブランリーやボローニャのアウグスト・リーギのように、そうした波を送受信する、もっとすぐれた装置を発明している者もいた。そして次にニコラ・テスラが現われた。じっとしていられない天才であり、電気モーター、交流電流、無線通信に関係するさまざまなアイデアの発案者である。


「『放送』の可能性をいちはやく見抜いたナチスドイツ」では、「ラジオがなければ、私たちが権力を握ることも、それを現在のように使うことも不可能だっただろう」というナチスの宣伝部長だったヨーゼフ・ゲッベルスが1933年8月に述べた言葉が紹介され、著者は「2013年の経済学者チームによる詳細な分析は、1930年9月の選挙でのナチスの得票率が、ラジオの普及している地域ではあまり上がらなかったことを示している。放送が一般にやや反ナチの傾向があったからだ。1933年1月、アドルフ・ヒトラーが首相になるとすぐに、ラジオで強烈な親ナチのプロパガンダが始まり、わずか5週間後、最後の適正な選挙ではラジオの影響が逆転した。ナチスの得票率が、ラジオを利用できる人が多い場所で増えたのだ(似たようなパターンが1993年のルワンダ虐殺でも見られた。『ヘイトラジオ局』RTLMを聴取できる人が多い地域ほど、ツチ族に対する暴力が激しかった)」と述べています。


「コンピュータの発明者はいない」では、著者は「蒸気機関の起源が、1700年代初期、無名の貧乏人たちがさしたる見返りもなく取り組み、誰も彼らの冒険を記録していなかった時代のかなたに消え去っているとしたら、コンピュータを発明したのが誰かを決着させるほうが、はるかに容易だろう。それは20世紀半ばのイノベーションであり、主役は全員、自分の仕事を後世に残すために記録される機会に恵まれており、誰もが自分は歴史をつくっているのだと気づいている。ところが、そううまくはいかない。コンピュータの始まりは、もっとはるか昔の確かめられないイノベーションのそれと同じくらい、はっきりしないし混沌としている」と述べています。


コンピュータをただの計算機と区別するとても大切な要素が4つあります。デジタル(とくに2進法)方式で、電子式で、プログラム可能で、汎用でなくてはならないということです。つまり、少なくとも原理的にはどんな論理タスクも実行できなくてはならないとして、著者は「歴史家のウォルター・アイザックソンは、多くの主張を徹底的に調査したすえ、この基準をすべて満たす最初のマシンは、1945年の終わりごろにペンシルヴェニア大学で運用が始まった、ENIAC(エニアック、Electronic Numerical Integrator and Computer)だと結論づけた。重さは30トン、大きさは小さい家くらいあり、1万7000本以上の真空管が搭載されているENIACは、長年にわたってうまく機能し、その設計を直後のほとんどのコンピュータがまねた。ENIACを考案したのは、著名な物理学者ジョン・モークリー、完璧主義エンジニアのプレスパー・エッカート、そして有能な兵士ハーマン・ゴールドスタインである」と述べます。


ナチスの暗号を解読したコンピュータとチューリング」では、数学者アラン・チューリングが取り上げられ、著者は以下のように述べています。
「私たちが称賛すべきなのは、汎用コンピュータの実機より、むしろその概念かもしれないということだ。1937年に発表されたチューリングの著名な数学論文『計算可能な数について』は、どんな論理タスクも実行できる万能コンピュータが存在しうることを、初めて論理的に実証した。現在、私たちはそういうものを『チューリングマシン』と呼ぶ。1937年、チューリングプリンストン大学で実際に、電気リレースイッチを使って文字を符号化のために2進数にするマシンをつくった。たとえそれが完成されたわけでも、コンピュータだったわけでもないにせよ、発見の瞬間と呼ばれるに値するかもしれない」


「世界のコンピュータ需要は5台くらいだろう」では、業界が揺るがされそうなとき、それがいちばん見えていなかったのは、業界に最も近い人たちだったことが多いと指摘し、著者は「1943年、IBM社長のトーマス・ワトソンが、『世界のコンピュータ市場の規模は5台くらいだろう』と言った。1961年、連邦通信委員会の委員だったチュニス・クレイヴンは「通信宇宙衛星がアメリカ国内で、電話、電報、テレビ、またはラジオのサービスを向上させるのに使われる可能性は事実上ゼロだ」と言った。1981年、携帯電話を発明したと誰よりも主張できるマーティー・クーパーが、モトローラの研究部長だったとき、「携帯電話は地域の有線システムに取って代わることは絶対にない。私たちが死んだあとに実現するものとして計画しても、価格が十分に下がらない」と言った。経済ジャーナリストのティム・ハーフォードが指摘しているように、1982年に制作された未来を描いた映画『ブレード・ランナー』のなかで、ロボットはまるで生きているかのようで、主人公が恋に落ちるほどだが、彼がデートに誘うために使うのは携帯電話ではなく公衆電話だ」

 

ソーシャルメディアの台頭と『フィルターバブル』」では、印刷の発明は西洋社会に政治的・社会的大変動を引き起こし、それが社会を二極化し、多くの人びとを死なせたとして、著者は「その原因はおもに、キリストの体は聖餐式に文字どおりあるのか、それとも比喩的にあるのか、そしてローマ教皇は不可謬であるかどうかについての争いだった。印刷はさらに、かつてないほど広く深い知識と理性の啓蒙活動でも、先導役を務めた。1450年ごろ、ヨハン・グーテンベルクによって引き合わされた印刷機と紙と組み換え可能な活字の組み合わせは、大きな社会変化を引き起こした情報イノベーションであり、そのほとんどは予測されなかったし、すべてが良いものだったわけでもない。スティーヴンソン・ジョンソンが言っているように、グーテンベルク印刷機は『典型的な組み合わせイノベーションであって、飛躍的進歩というより寄せ集め細工であり』、その要素はそれぞれすでに、ブドウ圧搾機のオペレータなど、ほかの人たちによって発明されていた。しかし、たとえあなたがグーテンベルクを発明者と呼ぶとしても、真のイノベーターはマルティン・ルターである。印刷の用途を、おもにエリート聖職者に限られた目立たない仕事から、一般人向けの大衆市場ビジネスに変えたのだ。彼はラテン語ではなくドイツ語の簡潔で読みやすいパンフレットを作成した。1519年までに45作300版近く発行しており、ヨーロッパでもとりわけ多作の著者だった。アマゾンのジェフ・ベゾスフェイスブックマーク・ザッカーバーグのように、新技術の非常に大きな可能性に気づいていたのだ」と述べます。


人工知能の未来」では、いまのところ、人工知能は人に取って代わるよりむしろ人を補強するのであって、数世紀にわたってオートメーションが行なってきたのと同じだ、というのがいちばん無難な意見であるとし、チェスの試合の場合も、現在最も成功しているチームは「ケンタウルス」、つまりアルゴリズムと人の結合体なのだと分析します。そして、著者は「車の運転についても同じことが言えるのはまちがいない。私はすでに、車が車線をはずれたときや、駐車スペースからバックで出るのに車が近づいているとき、自分の車が警告してくれると信頼している。将来、そのような『インテリジェントな』技がもっとたくさん好きなように使えるようになるにしても、私が車に乗り込み、目的地を教え、ハンドルを握りながら眠りにつける日は、私が思うにかなり先のことだ」と述べるのでした。


第7章「先史時代のイノベーション」では、最初に「火から飛行機まで、神への冒涜として迎えられたことのない偉大な発明はない」というJ・B・S・ホールデンの言葉が引用されています。同章の冒頭を、「人類最古のイノベーションは『農業』である」として、著者は「紀元前2世紀より前、イノベーションはめったになかった。人は新しいテクノロジーを1度も経験することなく、生涯を終えることもありえた。荷車、鋤、斧、ロウソク、宗教、トウモロコシ、どれも人が生まれてから死ぬまで見た目が変わらない。イノベーションは起こったが、散発的でゆっくりだ。さらに過去にさかのぼると、変化のテンポはもっとゆっくりになる。タイムマシンのダイアルをいまから1万年前に合わせると、降りたところに広がる世界では、変化が1世代どころか10世代でも気づかないほどゆっくりだ。とはいえ、あらゆるイノベーションのなかでもとりわけ重大なイノベーションのまっただなかに着地することになる。それは農業の導入だ」と書きだしています。


農業によって人類は、捕食者と採集者のまばらな集団から、土地の景観も生態系も変える高密度集団へと変わったと指摘し、著者は「ナイル川インダス川、ユーフラテス川、ガンジス川、長江などの流域は、おもに人為的な生態系になり、そこでは特殊化した草の世話や植えつけをする仕事を人間が行なうようになった。一方、アジアのステップと丘陵では、人間に守られ世話されるウシやヒツジやウマが主役になった。遊牧民は定住し、人口密度は飛躍的に上昇し、それを抑えられるのは、新しい病気か飢饉が突然発生するときだけ。ほどなく、王や神、戦争のような、それまでなかった新しい文化イノベーションが情勢を牛耳るようになる。農業は蒸気機関やコンピュータと同じくらい影響力の大きなイノベーションだったのだ」と述べます。


「なぜ農業は世界中で『同時に』始まったのか」では、電球が1870年代の同じころに世界中のあちこちで別々に出現したように、農業にも同じことが起こっていると指摘し、著者は「農業の場合の『同じころ』は1000年か2000年のあいだのことだが、要は、人類が50万年以上も狩猟採集を行なっていたのにくらべれば、2、3000年は一瞬にすぎないということである。当時、人間は少なくとも7カ所――近東、中国、アフリカ、南米、北米、中米、そしてニューギニア――で、それぞれまったく無関係に農業を始めた。互いから農業のアイデアをもらったという証拠はなく、作物と栽培法の細かい部分は異なる。メソポタミアのコムギ農家はアンデスのジャガイモ農家やニューギニアのヤム農家はもちろん、中国のキビ農家にさえ影響を与えていない。この同時発生から推測されるのは、ヒトの脳が農業のアイデアを思いつく能力に向かって進化していたということ――これはありそうにない――か、あるいは、当時の状況に農業を可能にする何か新しいものがあったということだ。実際、特別なことがあった。それは『気候』である」と述べます。


1万2000年前より昔、世界は厳しい氷河時代にありました。著者は、「ということは、南方の山岳地帯だけでなく、ヨーロッパも北アメリカも、厚い氷床に覆われてはるかに寒かったということだ。しかし世界はもっとはるかに乾燥していたということでもある。なぜなら、冷たい海からは水分が蒸発しにくいので、降雨は頻度も量も少なかったからだ」と分析します。2001年、文化の進化に関する研究の先駆者であるピート・リチャーソンとロバート・ボイドが、農業は「更新世氷河時代]には不可能だったが、完新世[現在の間氷期]には必須だった」と、初めて論じる画期的な論文を発表しました。気候が温暖に、湿潤に、そして安定した状況になって、二酸化炭素濃度が高くなるとほぼ同時に、人びとは植物の多い食事に移行し始め、人間の食べ物を集中的に生産するように生態系を変えていったというのです。農業は必然であり不可避だったからこそ、多くの異なる場所で発生したのです。


「『人類革命』?」では、10万年以上前の旧石器時代後半における高度な道具の発明に言及。これは「人類革命」と呼ばれているとして、著者は「とはいえ、それもまたイノベーションの展開であって、はるかにゆっくりではあるが、コンテナ船や携帯電話を実現したのと同じような力によって推進された。人類革命の前に、すでに猿人には道具があった。200万年前、私たちのヒト科の祖先はその大きな脳に見合うテクノロジーを身につけていた。燧石を打ち砕いて、縁のとがった『斧』をつくり、それを使って獣肉をばらしたり、素材を加工したりしたのだ」と述べています。スタンリー・キューブリック監督のSF映画史に残る名作「2001年宇宙の旅」の冒頭で、ヒトザルたちが使う道具が宇宙船に変わったシーンが思い出されますね。


「人口密度が高いほどイノベーションが起きやすい」では、著者は「イノベーションは現在富裕なシリコンヴァレーで盛んであり、ルネサンス時代の裕福なイタリア都市国家や、古代のギリシアと中国の都市国家で盛んだったように、そして農業は肥沃な川の流域で発明されたように、石器時代イノベーションも、魚介類が豊富な場所のそばで始まった。マーク・トーマスとユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの同僚が2009年に書いた論文は、上部旧石器時代イノベーションはすべて人口統計学の問題だと論じている。高い人口密度は人びとが専門化できる環境をつくり出すので、必然的に人間のテクノロジーの変化に拍車をかける」と述べています。


「私たちの脳は『加熱調理』によって大きくなった」では、蒸気機関ソーシャルメディアのようなイノベーションは文化を変えるとして、著者は「火は1歩先を行って、人間の生体構造を変えたイノベーションだ。いつどこで火が発明されたのか、まだ誰にも確実なことはわからない。考古学的証拠に見られる手がかりによると、50万年前だったかもしれないし、200万年前だったかもしれず、起こったのは1度かもしれないし、何度もあったかもしれない。しかし解剖学的証拠はかなり強力だ。ヒトは生ものを常食とすることはできず、その体は加熱した食べ物に適応していて、おそらくそうなってから200万年近く経過している。それが暗示するのは火の制御だ」と述べます。


「究極のイノベーションとは『生命』である」では、地球上の生命の始まりこそが最初のイノベーションだとして、著者は「原子とバイトが、エネルギーを利用して目的を達成できる、ありえない構造に初めて再配列されたのだ。エネルギーを利用した目的達成とは、車や会議にも当てはまる表現だ。それが起こったのが、知的なものはおろか生きものがまったくいなかった40億年前だったことも、どこでどうして起こったのかについて、あまりよくわかっていないことも、そのイノベーションとしての地位を損ねることはない。要はエネルギーとありえなさであることはわかっており、どちらも現在のイノベーションにとって不可欠である。そして誰も生命の起源を『計画』しなかったという事実も、大事な教訓である」と述べるのでした。


第8章「イノベーションの本質」の「イノベーションセレンディピティであることが多い」では、1754年にホレス・ウォルポールが、行方不明だった絵画を見つけ出した経緯を説明するために生み出した「セレンディピティ」という言葉が取り上げられます。彼はそれをペルシアの童話「セレンディップの3人の王子」から引きました。ウォルポールが手紙に書いているように、その童話のなかで賢い王子たちは「もともと探していなかったものを、偶然に深い洞察力によって発見するのがつねだった」といいます。それはよく知られたイノベーションの特性、すなわち偶然の発見です。著者は、「ヤフーの創立者もグーグルの創立者も、検索エンジンを求めて起業したわけではない。インスタグラムの創立者はゲームアプリをつくろうとしていた。ツイッター創立者は人びとがポッドキャストを見つける方法を考案しようとしていた」と述べます。

 

 

 「イノベーションとは『アイデアの生殖(セックス)』である」では、あらゆるテクノロジーはほかのテクノロジーの組み合わせであり、あらゆるアイデアはほかのアイデアの組み合わせであると述べられています。エリック・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィーは「グーグルの自動運転車、カーナビアプリのWaze、ウェブ、フェイスブック、インスタグラムは、既存のテクノロジーの単純な組み合わせである」と言いました。しかし要点はもっと一般に当てはまるとして、ブライアン・アーサーは2009年の著書『テクノロジーイノベーション』(みすず書房)で、この点を初めて主張し、「新しいテクノロジーは既存のテクノロジーの組み合わせで生まれ、(したがって)既存のテクノロジーはさらなるテクノロジーを生み出す」と述べました。


イノベーションには試行錯誤が不可欠」では、たいていの発明家は、物事を「とにかく試すこと」を続ける必要があると知るとして、著者は「だから誤りへの寛容がきわめて重要だ。たとえば鉄道やインターネットなどの新しいテクノロジーができたばかりの数年は、財をなすより破産した起業家のほうがはるかに多いことは注目に値する」と述べます。また、「遊び」の要素も役立つのかもしれないとして、「遊ぶことが好きなイノベーターのほうが、予想外のものを見つける可能性が高い。アレクサンダー・フレミングいわく、『私は微生物で遊ぶのが好きだ』。二重螺旋の共同発見者であるジェームズ・ワトソンは、模型を使った自分の研究を『遊び』だと表現した。グラフェンを発明したアンドリュー・ガイムは『遊び心がつねに私の研究のトレードマークだ』と言っている」と先人たちの言葉を紹介しています。


イノベーションは『協力』と『共有』を必要とする」では、「孤独な発明家」「一匹狼の天才」という誤った通念をぬぐうのは難しいとして、著者は「きわめて単純な物やプロセスでも、独りの人間だけでは理解できないことなどからもわかるように、イノベーションはつねに『協力』と『共有』を必要とする。経済学者のレナード・リードは『私は鉛筆』という有名なエッセイで、単純な鉛筆も大勢のさまざまな人によってつくられることを指摘している。木を切り倒す人、黒鉛を採掘する人、鉛筆工場で働く人、マーケティングや経営をする人、さらには木こりや経営者が飲むコーヒーの栽培をする人もいる。この膨大な数の協力する人びとのチームのなかに、どうすれば鉛筆をつくることができるか、すべてを知っている人はいない。知識は頭のなかではなく、頭と頭のあいだに蓄えられているのだ。イノベーションにも同じことが言える」と述べます。

 

 

「『同時発明』はめずらしくない」では、たいていの発明は、競合する申立人どうしの優先権論争につながると指摘し、著者は「人びとは同時に同じアイデアを思いつくようだ。ケヴィン・ケリーはこの現象について著書『テクニウム―テクノロジーはどこへ向かうのか』(みすず書房)で探り、発明または発見した人は温度計が6人、電信が5人、小数が4人、皮下注射が3人、自然淘汰が2人いるとしている。1992年、コロンビア大学のウィリアム・オグバーンとドロシー・トマスは、2人以上でほぼ同時に発明が行なわれた148の事例を列挙しており、そこには写真、望遠鏡、タイプライターも入っている」と述べています。最も驚きの例は電球で、その発明を21人がそれぞれ無関係に行ないました。同様に、1990年代にはたくさんの異なる検索エンジンが市場に参入しました。著者は、「1990年代に検索エンジンが発明されないことはありえず、1870年代に電球が発明されないこともありえなかった。それは必然だった。基本的なテクノロジーは、誰が活動していたにせよ、必ず世に出る状態に到達していた」と述べています。


「グーグル創業者が車に轢かれても検索エンジンは登場していた」では、少し手厳しく聞こえるかもしれないが、これは古今東西あらゆる科学者と発明家に紛れもなく言えることだとして、著者は「ニューコメンがいなくても、1730年までに蒸気機関はまちがいなく発明されていた。ダーウィンがいなくても、ウォレスが1850年代に自然淘汰を理解していた。アインシュタインがいなくても、ヘンドリック・ローレンスが数年以内に相対性原理を導いていただろう。シラードがいなくても、20世紀のいつか、連鎖反応と原子爆弾は発明されていただろう。ワトソンとクリックがいなくても、モーリス・ウィルキンスとレイモンド・ゴスリングが数カ月以内にDNAの構造を把握していただろう――ウィリアム・アストベリーとエルウィン・バイトンは1年前にすでに主要な証拠を見つけていたが、それに気づいていなかった」と述べています。イノベーションは必然であり、個人は重要ではないというわけです。


第9章「イノベーションの経済学」の「イノベーションは科学の娘であるのと同じくらい科学の母である」では、科学がテクノロジーにつながり、それがイノベーションにつながるという考えは、政治家、ジャーナリスト、そして世間一般に広く受け入れられているとして、著者は「この『線形』モデルはほとんどすべての政策当局を支配しており、イノベーションの究極の促進剤として科学への公金支出を正当化するのに使われている。そうなることもありえるが、発明から科学が生まれる例も、同じくらい頻繁に見られる。うまく機能するテクニックやプロセスが開発され、それに対する理解があとからついてくるのだ。蒸気機関が熱力学の理解につながったのであって、その逆ではない。動力飛行はほぼあらゆる航空力学に先行していた。動植物の育種は遺伝学に先行していた。ハト好きがダーウィン自然淘汰に対する理解の基礎を築いた。金属加工が化学の誕生を助けた。ワクチン接種の先駆者は、どうして、なぜ、それがうまくいくのか、まったくわかっていなかった。抗生物質の作用機序が理解されたのは、実用化のずっとあとだった」と述べています。


「大企業はイノベーションが下手」では、イノベーションはしばしば門外漢からもたらされるとして、著者は「これは組織だけでなく個人にも言える。ヨークシャーの一介の時計職人だったジョン・ハリソンが、船上で使える正確で安定した時計を製作することによって、経度をはっきり知る問題を解決したとき、経度委員会は長いあいだ真剣に取り合おうとしなかった。なぜなら、彼は科学界の重鎮ではなかったし、彼の解決法は先進の天文学を使うものではなかったからだ。トーマス・ニューコメンからスティーヴ・ジョブズまで、何人もの偉大なイノベーターはもともと家庭環境に恵まれず、時代に乗り遅れた田舎で育ち、豊富な人脈も輝かしい学歴もない人物だった。規模という意味では真逆の巨大組織もまた、より革新的なスタートアップに破滅させられることが多い。IBMはマイクロソフトに、そしてマイクロソフトはグーグルとアップルに、不意を突かれた」と述べています。


なぜ大企業はイノベーションが下手なのか。この問いについて、著者は「官療的で、現状での既得権が大きく、顧客の関心や実態や可能性に注意を払うのをやめるからだ。したがって、イノベーションが盛んになるためには、門外漢、挑戦者、そして破壊者が足場を築くことを促すか、少なくとも許すような経済活動を行なうことが、きわめて重要である。それは競争への寛容さを意味し、歴史的にはほとんどの社会で驚くほどめったに見られない。歴史上つねに君主は、貿易会社に、手工業のギルドに、または国営事業に、独占権を認めることに終始してきた」と答えます。


オープンソース運動」では、大企業にイノベーションを起こさせるきっかけのひとつが競争であると指摘し、著者は「ウォルマート、テスコ、アルディのような企業が経営するスーパーは、この数十年、次々とイノベーションを顧客に提供してきた。バーコード、スキャナ、トラックからトラックへの直接積み降ろし、洗わないでいいサラダ、調理済み食品、自社ブランド製品、ポイントカード、等々。こうした企業が国営独占企業だったとしたら、イノベーションはもっと遅かったか、まったく起きなかったことはまちがいない。そして小売業界のイノベーションの多くは、業界の外から取り入れられている。企業は活用できる新しいテクノロジーに敏感なのだ」と述べます。

 

「消費者自身による究極のオープンソースイノベーション」では、究極のオープンソースイノベーションは、消費者自身によって行なわれるものだとして、著者は「マサチューセッツ工科大学のエリック・フォン・ヒッペルは、消費者によるフリーイノベーシンは無視されている経済領域であり、イノベーションは生産者イノベーションによって動かされているという前提は誤解を招く、と主張する。彼の計算によると、何千万という消費者が、自分で使うために製品を開発したり修正したりするのに、年間何百億ドルも費やしているという。ほとんどがそれを自由時間に行ない、自由に他人と共有する」と述べています。


第10章「偽物のイノベーション」では、「ノキアの誤算」が言及されます。イノベーションの失敗のほとんどは悪だくみではなく、多くは世界を良くしようという誠実な試みから始まり、その目標を達成しきれないのだと指摘する著者は、「例として、携帯電話市場の歴史を検討してみよう。携帯電話は、1990年代にとても小さく安くなって人気が出た瞬間から、たえまないイノベーションを経験してきた。電話機本体は小さくなり、バッテリーは薄くなり、信頼性は向上し、新しい機能が爆発的に増えている。2000年、ノキアによって文字が表示される。2005年、モトローラがカメラを組み込む。2006年、ブラックベリーが携帯電話のメールを実現。2007年、iPhoneがタッチスクリーンと音楽とアプリソフトをもたらす。スマートフォンのおかげで人は、カメラ、懐中電灯、方位磁石、電卓、ノート、地図、アドレス帳、ファイルキャビネット、テレビ、さらにはトランプまでも、所有する必要がほとんど、またはまったくなくなった。2016年には、私たちはサムスンのギャラクシーやiPhone6sで映画を鑑賞し、自撮り写真を共有し、ソーシャルメディアを見ていた。黒くて機能中心のものから、カラフルでおしゃれになった」と述べています。

 

「アマゾンの失敗の歴史」では、ジェフ・ベゾスがよく誇らしげに言い張るとおり、アマゾンは成功に向かう途中で失敗する良い手本だとして、著者は「アマゾンでのわれわれの成功は、年に、月に、週に、どれだけ実験するかの関数だ。まちがうと少し傷つくかもしれないが、遅れれば命がない」「試す実験の数を100から1000に増やせれば、生み出すイノベーションの数は劇的に増える」というベゾスの発言を紹介します。ベゾスは本がネット販売の有力候補だと目ざとく気づき、彼を鎮圧するための大手書店によるネット販売の試みを撃退し、1997年に会社の株式を公開したあと、インターネットのあらゆることに首を突っ込む総合テクノロジー会社のトップになり、どんどん大物になっていったのでした。


「携帯電話は実際より数十年早く実現していた」では、ほとんどのテクノロジーはだいたい適時に生まれるものであり、もっとずっと早く導入されることはありえなかったけれども、考えられる例外は携帯電話かもしれないとして、著者は以下のように述べています。
「携帯電話通信の歴史は、トム・ハズレットが2017年の著書『政治のスペクトル(The Political Spectrum)』で明かしているように、さまざまなロビー活動の強い要請により、政府に官僚的先延ばしを強要されたとんでもない物語である。携帯電話は実際より数十年早く実現していた可能性がある」

 

第12章「現代のイノベーション欠乏を突破する」の「イノベーションは自由から生まれる」では、著者は「イノベーションは自由から生まれる。なぜなら、それは自由に表現された人間の願望を満足させようとする、自由で独創的な試みだからである。革新的な社会は自由な社会であり、そこでは人びとは自由に自分の望みを表現し、その望みの実現を求める。そしてそうした要求を満たす方法を見つけるために、創造力にあふれる人たちが自由に実験する――他人を傷つけないかぎりは。私が言っているのは、極端に自由を主張する無法という意味の自由ではなく、何かが具体的に禁止されていないなら、それは許されるはずだと想定すべきであるという、一般的な考えである。その想定は、現在、あなたのできないことだけでなく、できることも政府が決定しようとする世界では、驚くほどまれな現象である」と述べています。


イノベーションの不可能性ドライブ」では、誰かがイノベーションを起こし続けることを望むと述べます。なぜなら、イノベーションがなければ生活水準の停滞という暗い見通しに直面し、それが政治的分裂と文化的幻滅につながるからだとして、著者は「イノベーションがあれば、長寿と健康の明るい未来が開け、より多くの人がより充実した生活を送り、驚くような技術的偉業がなし遂げられ、地球の生態系への影響が軽減される。本書で語られた物語が伝える教訓すべてのうち、私が最も有意義だと思うのはトーマス・エジソンのそれである。彼は電球のアイデアを思いついた大勢のひとりにすぎないが、それを実用的な現実に変えた人物だった。彼はそれを天賦の才能ではなく実験によって行なった。いくつかの取材で彼が語っているように、天才は1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である(2パーセントと98パーセントと言ったこともある)。そして「思うに天才とは勤勉であり、根気強さであり、常識である」と言い足した」と述べるのでした。


特別追記「コロナ後の世界とイノベーション」では、「ウイルスでイノベーションの価値をあらためて思い知る」として、本書の最終稿を仕上げたのは2019年11月、コロナウイルスが世界的なCOVID-19パンデミックを引き起こす前だったこと、著者はこれほどひどいパンデミックになりそうだとは思っていなかったことを告白しています。なにしろパンデミックの警告は何度も無駄に終わっているからですが、著者は「イソップ寓話で『オオカミだ!』と叫んだ少年は、うその警告を発しすぎたために、とうとう実際にオオカミが現われたときには信じてもらえなかった。うその警告は、起こらなかったパンデミックだけではない。私はこれまでに、人口爆発、石油枯渇、核の冬、酸性雨、オゾンホール、殺虫剤、種の絶滅率、遺伝子組み換え作物精子数、海洋の酸性化、そしてとくに2000年問題について、大げさな主張が現われては消えるのを見てきた。これらは現実の問題だが、メディアでひどく誇張されがちである」と述べています。


「ワクチンと診断法におけるイノベーションの怠慢」では、世界はまさに最も必要とされる分野のイノベーションを怠っていたとして、著者は「たとえばワクチン開発は、オーファン(孤児)テクノロジー〔訳注:市場規模が小さく利益が上がらないために開発が進まない技術〕として21世紀には活気を失った。政府とWHOは、食生活や気候変動について対象者に講演することに公衆衛生予算を使うことを選び、ワクチン開発を十分に奨励してこなかった。民間部門も、新しいワクチンは製造しても儲からないので、ないがしろにしていた。新しい伝染病のために開発し終えたころには、その流行が終わっている可能性があり、もし終わっていなくても、緊急事態ではワクチンを無料で提供するよう強い圧力がかかる。おまけに効き目がある場合、必要なのは1人1回だけで、たとえば血中コレステロール値を下げるためのスタチンとちがって、すぐに商売が成り立たなくなる」と述べます。


「デジタルイノベーションが隔離の孤立感を和らげる」では、ウイルスの直接的影響のひとつは世界経済を停止させたことだとして、著者は「2020年3月にヨーロッパその他の大陸に広がると、各国政府は都市のロックダウンという苦渋の決断をして、生活に必要不可欠な仕事をする人以外は自宅にとどまるように命じた。その影響は甚大だが、20年前、孫とのビデオ通話がほとんどの人の選択肢になく、オンライン会議は不可能で、ネット通販はほとんど存在しなかった時代だったら、どれだけひどいことになっていたか、考えてみる価値がある。ブロードバンド通信の存在のおかげで、ロックダウンによって生産性が以前より大幅に上がった人もいて、おそらく多くの人びとが自分の通勤習慣について考え直すことになっただろう」と述べています。


助成金ではなく『懸賞金』を導入する」では、2020年3月、経済学者のタイラー・コーエンが、ソーシャルディスタンスの確保、オンライン礼拝、楽な在宅勤務のやり方、COVID―19の治療法に関するイノベーションに報いる一連の懸賞を発表したことが紹介されます。著者は、「誰が突破口を開きそうかわからないとき、プロセスより最終結果が大事なとき、解決策がすぐに必要なとき(人材開発はあまりに遅い)、成功の定義が比較的しやすいとき、努力と投資への報酬が十分でなさそうなとき」、懸賞は理想的だと彼は言いました。著者は、「しかしそのようなリストは、今回のパンデミックだけでなく、人間が努力するほぼあらゆる分野に当てはまる。なぜ私たちはもっと懸賞を行なわないのだろう? ノーベル賞を受賞した経済学者のマイケル・クレーマーは、イノベーションを起こすインセンティブとして賞金を微調整する、『事前買取制度』の概念を考案した。結局、ワクチンを考案した会社が、賞金をもらっても製造コストを回収できないので製造しないと判断するなら、その会社に賞金を与えても意味がない」と述べています。

f:id:shins2m:20210517152830j:plain紫雲閣オンライン

 

そして最後に、著者は「私はいつになく著書を悲観的な雰囲気で終えた。しだいに高じているように思えるイノベーション欠乏や、現状に甘んじている大企業の黙認、官僚主義大きな政府、新しいもの嫌いの大規模な抗議団体を嘆いている。デジタルの世界を中心にいくつか例外はあるが、イノベーションのエンジンは止まりかけており、社会には必要なだけの価値ある新しい製品やサービスがない。COVID-19はそのメッセージを強烈なかたちで痛感させている。いまこそイノベーションを働かせるべきときだ」と述べるのでした。この著者の主張には大賛成です。コロナ禍の中で、わが社サンレーも、昨年11月1日より、福岡県エリアの紫雲閣にて、「紫雲閣オンライン」のサービスをスタートさせました。紫雲閣オンラインは、これまで主流であった電話での訃報連絡をスマートフォンからのメールやLINEで簡単に共有いただけるサービスです。共有された故人ごとの専用訃報ページから供物のご注文や弔電、さらには香典もることができるサービスです。もともと、冠婚葬祭互助会そのものがビジネス界における一大イノベーションでしたが、わが社は「ピンチはチャンス」ととらえて、これからもさまざまなイノベーションに挑戦していきたいと思います。

 

 

2021年5月28日 一条真也

お疲れさま、カール!

一条真也です。
3度目の緊急事態宣言下の東京に来ています。
九州が豪雨だそうで心配ですが、27日の東京も雨で、いよいよ梅雨入りかという感じです。朝、「『はらぺこあおむし』の作家死去 エリック・カールさん、91歳」というネット記事が目にとまりました。

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「ヤフーニュース」より 

 

「まだ生きてたのか!」という驚きとともに、わたしの頭の中に彼の絵本の表紙がたくさん浮かんできました。わが家には、彼の絵本はすべて揃えてあるからです。エリック・カールアメリカの絵本作家で、23日に死去。91歳でした。1929年アメリカのニューヨーク州に生まれ、ドイツで育ちました。グラフィックデザイナーとして活躍後、1968年に『1,2,3どうぶつえんへ』を発表し、ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞を受賞。以来、世界的な絵本作家として創作を続けました。


ニスを下塗りした薄紙に指や筆で色をつけた色紙を切抜き、貼りつけていくコラージュの手法が特徴でした。鮮やかな色彩感覚によって「絵本の魔術師」と呼ばれました。カールが発表した絵本は40作以上にのぼり、39か国語に翻訳され、出版部数は2500万部を超えています。2003年、ローラ・インガルス・ワイルダー賞受賞。

 

 

カールの代表作といえば、なんといっても『はらぺこあおむし』(1969年)です。絵本が伸びていく仕掛けのボードブックです。アマゾンの「出版社より」には、「日曜日の朝、ぽん! とたまごから、ちいさなあおむしが生まれました。あおむしはおなかがぺこぺこです。月曜日には、りんごをひとつ。火曜日には、なしをふたつ。水曜日には、すももをみっつ食べました。あおむしは毎日たくさんたくさん食べ、気づけば、おおきくふとっちょになっていました。さなぎになり、何日もねむったあおむしは、最後はうつくしいちょうちょになります」とのストーリーが紹介されています。


わたしは2人の娘たちが小さいころ、よく絵本の読み聞かせをしましたが、特にカールの本が多かったです。長女は『はらぺこあおむし』が大好きで、一時は頭の中に「はらぺこあおむし」が棲みついているようでした。一度、東京・渋谷のプラネタリムに行ったとき、真っ暗になって天井に星空が投影された瞬間、幼い長女が「はらぺこあおむし!」と大声で叫び、場内が大爆笑となって冷や汗をかいたことがあります。(笑)

f:id:shins2m:20201103114427j:plainわわが家の絵本コーナー

 

 また、『パパ、お月さまとって! 』(1986年)も大好きな絵本でした。うさぎ年生まれにして月狂いであるわたしは、「うさぎ」と「月」に関する絵本をすべて自宅にコレクションしています。それらは子ども部屋の本棚に納められており、2人の娘たちは「うさぎ」と「月」の絵本を読みながら、育ってきました。その中でも、特に人気があったのが『パパ、お月さまとって! 』です。

 

 

『パパ、お月さまとって! 』もボードブックで、高い夜空にある月をめがけて、本がどんどん伸びていく仕掛けでした。父親が娘のために大活躍するという設定で、『はらぺこあおむし』に続いてこの本にも強い影響を受けた長女は、月夜の晩などによく「パパ、お月さまとって!」と言い、わたしは「うん、いいよ」と答えたものでした。いやあ、なつかしい思い出ですね。


ブログ「スーパームーン皆既月食」に書いたように、昨夜は満月で、しかも1年のうち最も大きく見えるスーパームーンでした。さらには皆既月食というオマケ付きで、日本中の人たちが夜空を見上げたことと思います。わたしも東京のホテルの庭園でスーパームーンを見上げました。そのとき、昔、長女と「パパ、お月さまとって!」「うん、いいよ」という掛け合いをしたことを思い出しました。

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昨夜のスーパームーンを背に

 

その翌朝、『パパ、お月さまとって! 』の作者の死を知ったというのは不思議な縁というか、シンクロニシティというものを感じてしまいます。「絵本の魔術師」エリック・カールは、わたしたち父娘にたくさんの思い出を与えてくれました。感謝の気持ちでいっぱいですが、今朝わたしは、カールの訃報を長女にLINEしました。長女から返ってきたのは、以下のLINEスタンプでした。

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2021年5月27日 一条真也

『ブルシット・ジョブ』

ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論

 

一条真也です。
3度目の緊急事態宣言下の東京に来ています。
27日は、社外監査役を務める互助会保証の監査役会および取締役会に参加します。
『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史&芳賀達彦&森田和樹訳(岩波書店)をご紹介します。424ページの大冊ですが、仕事の「価値」を再考させてくれる名著でした。帯の背には「生産する経済からケアする経済へ」と書かれていますが、まさにわたしの考えていることを的確に言い表していると思いました。著者は、1961年ニューヨーク生まれ。文化人類学者・アクティヴィスト。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。著書に『アナーキスト人類学のための断章』『資本主義後の世界のために――新しいアナーキズムの視座』『負債論――貨幣と暴力の5000年』『官僚制のユートピア――テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』『民主主義の非西洋起源について――「あいだ」の空間の民主主義』(すべて以文社)、『デモクラシー・プロジェクト――オキュパイ運動・直接民主主義・集合的想像力』(航思社)など。 

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本書の帯

 

本書の帯には、「なぜ、やりがいを感じずに働くひとが多いのか。なぜ、ムダで無意味な仕事が増えているのか。なぜ、社会のためになる職業ほど給与が低いのか」「労働とは『生産』というより『ケア』だ。そして『経済』とは私たちが互いにケアし、生存を支えあうための方法だ。グレーバーが遺した願いを胸に、仕事で傷つき傷つけることのない経済につくり直そう」「ビジネスと人文を横断し、世界のカラクリを解き明かす今世紀最大の問題作!各所で話題沸騰!!」「コロナ禍を体験した私たちに『思索のタネ』を与える福音の書。(ブレイディみかこさん)」「現代社会最大のタブーは晒された。こんな痛快な本はまたとない。(若林恵さん)」「人間らしく働き、ケアしあいながら社会を作るとはどういうことか。(伊藤亜紗さん)」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下の推薦の言葉が並んでいます。
みんなが自分の仕事について真面目に考えたら世界は変わるかもしれない。グレーバーの提議がこれほど切実に聞こえるときはない。コロナ禍を体験した私たちに「思索のタネ」を与える福音の書。
ブレイディみかこさん(ライター・コラムニスト)
現代社会最大のタブーは晒された。「クソどうでもいい仕事」はあなたの錯覚ではないし、誰がどれだけ言い繕おうとそこに意義はない。だから大手を振って中指を立ててやろう。こんな痛快な本はまたとない。何もせず威張ってるだけの上司や同僚のまぬけづらを思い浮かべて、大爆笑しながら読もう。
若林恵さん(編集者)
本書のエピソードの数々に誰もが共感を覚えるはずだ。でも「辞めてやる!」とは言えない。他に選択肢はないと思い込んでいる。それが個人や社会を蝕んできた。なぜこうなってしまったのか?これは「働き方」の問題ではない。グレーバーは、そこに何重にも絡まる歴史的な政治・経済・宗教の問いを解き明かしてくれる。ケア労働が見直されている今だからこそ、ポスト・コロナの世界を考えるためにも。必読です。
松村圭一郎さん(文化人類学者)
かつて惑星の99%を勝手に味方につけたグレーバーは、「勝ち組」ホワイトカラーの内心の苦しみをケアするこの著作で、改めて階級横断的な「人間」一般の秘密をわたしたちに伝えながら自由な未来を開こうとする。
片岡大右さん(批評家)
ハッとさせられたのは、あらゆる労働は本質的にケアリングだ、という指摘である。橋を作る仕事だって、その根本にあるのは川を横断したい人へのケアだ。ケアは数値化できず、生産性には結びつかない。私たちがコロナ禍で学んだのは、このケアの部分こそ機械によって代替することができず、また休むことも許されないという事実だった。人間らしく働き、ケアしあいながら社会を作るとはどういうことか。日常が完全に元に戻る前に、立ち止まって考えたい。(9/12『毎日新聞』より)
伊藤亜紗さん(美学者)
「いかに会議の時間を短くするか」というお題の会議を長時間やったことがある。あれには意味があったらしい。会議がなくなると困っちゃう人たちの仕事を守っていたのだ。武田砂鉄さん(ライター)

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「やりがいを感じずに働いているのはなぜか。ムダで無意味な仕事が増えているのはなぜか。社会の役に立つ仕事ほどどうして低賃金なのか。これらの謎を解く鍵はすべて、ブルシット・ジョブにあった――。ひとのためにならない、なくなっても差し支えない仕事。その際限のない増殖が社会に深刻な精神的暴力を加えている。証言・データ・人類学的知見を駆使しながら、現代の労働のあり方を鋭く分析批判、『仕事』と『価値』の関係を根底から問いなおし、経済学者ケインズが1930年に予言した『週15時間労働』への道筋をつける。ブルシット・ジョブに巻き込まれてしまった私たちの現代社会を解きほぐす、『負債論』の著者による解放の書」

 

また、アマゾンには「『ブルシット・ジョブ』とは?」として、「ブルシット・ジョブの最終的な実用的定義」が以下のように書かれています。
「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」



本書の「目次」は、以下の通りです。
 序章 ブルシット・ジョブ現象について
第1章 ブルシット・ジョブとはなにか?
第2章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?
第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしている人間は、
    きまって自分が不幸だと述べるのか?

    (精神的暴力について、第一部)
第4章 ブルシット・ジョブに就いているとは
    どのようなことか?

    (精神的暴力について、第二部)
第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?
第6章 なぜ、ひとつの社会としてのわたしたちは、
    無意味な雇用の増大に反対しないのか?

第7章 ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?
「謝辞」
「原注」
「訳者あとがき」
「参考文献」

 

序章「ブルシット・ジョブ現象について」で、はた目からは、あまりすることのなさそうでおなじみの仕事があるとして、著者はこう書いています。
「つまりは、人材コンサルタント、コミュニケーション・コーディネーター、広報調査員、財務戦略担当、企業の顧問弁護士といった仕事である。あるいは、ある委員会が不必要であるかどうかを議論するための委員会に大いに時間を捧げているような人びとがいる(これは大学という環境ではとてもなじみがあるものだ)。そのような仕事の一覧表は、際限なくつづくようにみえた。わたしにとって気がかりだったのは、もし、これらの仕事がほんとうに無益なものであるならば、この手の仕事に携わる人たちは、そのことに気づいているのではないか?ということだった」



また、自分の仕事が無意味で不必要なものだと感じている人間に、だれもがしばしば出くわしているのはまちがいないとして、著者は「こんな陰鬱なことがほかにあるだろうか? 成人期の1週間のうちの5日間は、内心では必要などない――たんに時間と資源の浪費であるばかりか、世の中をいっそう悲惨なものにさえしている――と考えている仕事に取り組むために目覚めなくてはならないのだから。この問題は、わたしたちの社会に深刻な精神的傷痕を刻みこんでいるのではないだろうか? だが、もしそうだとしても、この問題についてはだれひとりとして語ってこなかったようにみえる。仕事にひとが満足しているかどうかについての調査は豊富にあった。〔けれども〕自分の仕事が存在に値すると感じているか否かという調査は、わたしの知るかぎり皆無であった」と述べます。


「ブルシット・ジョブ現象について」として、労働時間が大幅に削減されることによって、世界中の人びとが、それぞれに抱く計画や楽しみ、あるいは展望や理想を自由に追求することが可能となることはなかったと指摘し、著者は「それどころか、わたしたちが目の当たりにしてきたのは、『サービス』部門というよりは管理部門の膨張である。そのことは、金融サービスやテレマーケティング〔電話勧誘業、電話を使って顧客に直接販売する〕といったあたらしい産業まるごとの創出や、企業法務や学校管理・健康管理、人材管理、広報といった諸部門の前例なき拡張によって示されている。さらに、先の数字は、こうしたあたらしい産業に対して管理業務や技術支援やセキュリティ・サポートを提供することがその仕事であるような人びとをすべて反映するものではない。ついでにいうと、多数の人間がその時間の大半を仕事に費やしているがゆえに存在しているにすぎない数々の付随的な産業(飼犬のシャンプー業者、24時間営業のピザ屋の宅配人)も反映されていない。これらは、わたしが『ブルシット・ジョブ』と呼ぶことを提案する仕事である」と述べています。



また、著者は以下のように述べています。
「自分の仕事が存在しないほうがましだとひそかに感じているようなとき、かりそめにも労働の尊厳について語ることなど、どうしてできようか。深い怒りと反感の感覚を生みださずに、どうしていられようか。とはいえ、その支配者たちが、人びとの怒りの矛先をまさしく意味のある仕事をする人たちへと仕向けることでうやむやにしてきた――魚を揚げる者たちの事例におけるように――というのは、わたしたちの社会の奇妙な風潮である。たとえば、わたしたちの社会では、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が存在するようである。くり返せば、客観的な尺度をみつけることは困難である。しかし、なんとなく感じとるためのかんたんな方法はある。ある職種の人間すべてがすっかり消えてしまったらいったいどうなるだろうか、と、問うてみることである」と述べます。

 

続けて、著者は「かりに看護師やゴミ収集人、あるいは整備工であれば、もしも、かれらが煙のごとく消えてしまったなら、だれがなんといおうが、その結果はただちに壊滅的なものとしてあらわれるであろう。教師や港湾労働者のいない世の中はただちにトラブルだらけになるだろうし、SF作家やスカ・ミュージシャンのいない世界がつまらないものになるのはあきらかだ。ただ、プライベート・エクイティ〔特定の企業の株を取得し、その企業の経営に深く関与して、人員削減などによって企業価値を高めた後、売却をすることで収益を得る〕CEOやロビイスト、広報調査員、保険数理士、テレマーケター、裁判所の廷吏、リーガル・コンサルタントが同じように消え去ったとして、わたしたちの人間性がどのような影響をこうむるのかは、わたしにはあまりはっきりしない(いちじるしく改善するのではないかと疑っている人間は数多い)。にもかかわらず、もてはやされる一握りの例外(医師)を除いて、その原則はおどろくほど当てはまっている」と述べるのでした。

 

第1章「ブルシット・ジョブとはなにか?」の「マフィアの殺し屋がブルシット・ジョブの好例とならないのはなぜか」では、「ブルシット・ジョブ」と著者の呼んでいるものは、「その仕事にあたる本人が、無意味であり、不必要であり、有害でもあると考える業務から、主要ないし完全に構成せれた仕事である」と述べています。また、「それらが消え去ったとしてもなんの影響もないような仕事であり、なにより、その仕事に就業している本人が存在しないほうがましだと感じている仕事なのだ」とも述べます。イギリスのYouGovによる世論調査では、自分の仕事が世の中に意味のある貢献をしていると確信している人間は、フルタイムの仕事にある人びとの50%しかおらず、37%の人びとは貢献していないとはっきり感じていたといいます。スコーテン&ネリッセンによって実施されたオランダの世論調査では、後者の数値は40%まで高まりました。

 

この数字について、著者は「考えてみれば、これは驚異的な統計である。なにしろ、すべての仕事のうちの相当部分が、だれも無意味だとはいえないようなものであるから。たとえば、看護師、バス運転手、歯科医、道路清掃員、農家、音楽教師、修理工、庭師、消防士、舞台美術、配管工、ジャーナリスト、保安検査員、ミュージシャン、仕立て屋、子どもの登下校の交通指導員といった人びとのうち、『あなたの仕事は世の中に意味のある影響を与えていますか』という質問に対し『いいえ』にチェックする者は、およそゼロである。こういった人びとの割合を考えてみなければならない。わたし自身が調査したところでは、ショップ店員、レストラン従業員、下級サービス提供者もまた、自身がブルシット・ジョブをしていると考える者はまれであった。サービス労働者の多くは自分たちの仕事を嫌悪している。けれども、そういった者たちですら、自分のしていることは世の中に意味あるなにがしかの影響を与えていると自覚している」と述べています。

 

ブルシット・ジョブは、たんに無益だとか有害だとかいうだけではありません。一般的に、そこにはある程度の欺瞞と詭弁もまた関わっていなければならないのだと指摘し、著者は「その仕事に就く人間は、内心ばかばかしいとおもっていても、その仕事の存在するたしかな理由があるかのように取り繕わねばならない。取り繕いと現実とのあいだに、ある種のギャップがなくてはならないのである」「最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」と述べています。

 

「主観的要素の重要性について、あるいは、ブルシット・ジョブをおこなっていると考えている人びとは基本的に正しいと想定できるのはなぜか」では、ブルシット・ジョブにあたる人間は、たいてい名誉と威信に囲まれていると指摘し、著者は「かれらは専門職として敬われるし、高収入のいちじるしい成功者――自分の仕事にまっとうな誇りをもちうるたぐいの人間――として扱われている。にもかかわらず、かれらは、自身がなんの功績もはたしていないことに、ひそかに気づいている。たいしたこともしていないのに、その稼ぎで消費者むけのおもちゃを買い込んでは、人生を埋め合わせてきたと感じている。つまり、それはみな嘘っぱちのうえに成り立っていると感じている――そして、実際、その通りなのである」と述べるのでした。

 

第2章「どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?」の「脅し屋の仕事」では、大半のロビイスト、広報専門家、テレマーケター、企業の顧問弁護士などの職種を挙げ、「文字通りの脅し屋と同様、かれらが社会に対して与えるのは、排してマイナスの影響である」として、さらに「脅し屋が自らの仕事を不愉快におもっているのは、その仕事がただポジティヴな価値を欠いているだけでなく、他人を操ろうとしたり脅しをかけるものだとみなしているからである」とも述べます。この後、著者は広告業界マーケティング業界も脅し屋の仲間に加えます。ここで、著者は、ロンドンに設置されたアメリカ人所有の巨大な映像制作会社で仕事をするトムという人物を紹介します。トムの仕事には、とても楽しく、やりがいにあふれたところもあります。たとえば、映画スタジオのために自動車を宙に飛ばし、ビルを爆破し、エイリアンの宇宙船を恐竜に攻撃させたりして、世界中の観客にエンターテインメントを提供するところです。

 

しかし、トムは以下のように語っています。
「価値のある仕事とは、あらかじめ存在している必要性に応えたり、ひとが考えたこともない製品やサービスをつくりだして、生活の向上や改善に資するような仕事ではないでしょうか。わたしは、ずっと昔の仕事はほとんどがこういう種類の仕事で、われわれが暮らしてきたのはそういう世の中だったはずだと信じています。いまとなっては、ほとんどの産業では供給が需要をはるかに上回っていて、それゆえ、いまや需要が人工的につくりだされるのです。わたしの仕事は、需要を捏造し、そして商品の効能を誇張してその需要にうってつけであるようみせることです。実際、それこそが、広告産業になんらのかたちでかかわるすべての人間の仕事なのだといえるでしょう。商品を売るためには、なによりもまず、ひとを欺き、その商品を必要としていると錯覚させなければならない。もしも、そんなことにわれわれが携わっているのだとすれば、こうした仕事がブルシットでないとはとてもいえませんよね」

 

「書類穴埋め人の仕事」では、経営者の衰えぬ名声の指標となるものが、部下の人間の数だとすれば、経営者の権力や威信を物質的に表現するものは、そのプレゼンテーションや報告書の見かけ上のクオリティにほかならないと指摘し、著者は「このような象徴の誇示される会議とは、企業世界における高等儀式だとみなせるかもしれない。封建領主のお供たちのなかには、馬上試合や行進の前に、馬の甲冑を磨いたりその毛並みを揃えることだけが唯一の役目である召使いがいた。それと同じように、現代のお偉方は、プレゼンでパワーポイントを準備したり図表やマンガ、イラストや写真を作成しては報告書にまとめることだけがただひとつの存在意義であるような従業員を囲っているといえるのだ。これらの報告書のほとんどは、芝居じみた企業という劇場の小道具にすぎない。実際に最後まで目を通す者などひとりもいないのだから。しかし、だからといって、野心あふれるお偉方が上機嫌で大枚はたくことをやめるわけではない。『おお、そうだ、それについては報告書の作成を依頼しよう』といいたいがだけのために、社員ひとりの半年分の賃金にあたる金額が会社から支払われている」と述べるのでした。

 

第3章「なぜ、ブルシット・ジョブをしている人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか?(精神的暴力について、第一部)」の「人間の動機にかんする基本的想定の多くが正しくないようにみえるのはなぜか」では、ドストエフスキーが書いていたように、監獄労働にもある救いは、少なくともその仕事が有益とみなされているということにある(たとえ囚人自身にとっては有益ではなかったとしても)と指摘し、著者は「囚人を6ヶ月以上、独房に閉じ込めつづけたばあい、物理的に観察可能なかたちで脳に損傷をこうむることが、いまでは判明している。人間とはたんに社会的な動物であるだけではない。もしも、他の人間との関係から切り離されたならば肉体的な崩壊がはじまるほどに、本質的に社会的〔な存在〕なのだ。労働にかんしても、類似の観点から理解されるのではないだろうか。人間は、規則正しい9時5時の労働規律にむいているかもしれないし、むいていないかもしれない――確固たる証拠はむいていないことを示唆しているようにもおもえるのだが――、とはいえ札つきの犯罪者たちでさえも、なにもせずただじっと座っているとなると、概して、ふるえ上がってしまうものなのだ」と述べています。

 

1901年、ドイツの心理学者カール・グロースは、幼児はみずからが世界に対して予測可能な影響を与えられることにはじめて気づいたとき、並々ならぬ幸福感を表現することを発見しました。著者は、「その影響の具体的内容も、自分になにか得があるかも、なにも関係がない。幼児の発見とは、いわば自由に腕を動かせば鉛筆が転がるといった事態である。さらに、同じパターンの動作をくり返すことで、同様の結果が得られることにも気がつく。すると、歓喜の表情があらわれるのだ。グロースは『原因となる悦び(the pleasure at being the cause)』という表現を考案し、それこそが遊びの基礎なのだと主張した。かれは、〔権〕力(powers)の行使とは、その行使それ自体が目的なのだと考えたのである」と述べています。

 

「雇用目的仕事、とりわけ他者の時間を買うという概念の歴史についての若干の追記」では、著者は以下のように述べています。
「14世紀までに、ヨーロッパのほとんどの町は時計塔を建造していた。それらはたいてい、地元の商人ギルド出資し、支援していたのだった。死のリマインダーとして人間の頭蓋骨を机上に置くことを習慣にしはじめたのも、これらの同じ商人たちであった。そのねらいは、われわれはチャイムが鳴るたびに刻一刻と死に近づいているのだから、時間を有効に使わねばならないと、おのれを戒めることにあった。家庭用の時計と懐中時計の登場は、18世紀後半の産業革命の到来とほぼ一致している。その普及にはかなり長い時間を要しているが、ひとたび普及したとなると、同じような態度が中産階級のあいだでかなり浸透していった。天空の絶対的時間である星座の時間が地上に降りてきて、最もささいな日常さえも規制しはじめたのである。さらに、時間は固定した解読格子となり、それと同時に、所有物となったのだった。だれもが中世の商人のごとく、時間を気にするよう奨励された。貨幣と同じように、慎重に計画し、慎重に使用すべき、有形の財産であるかのようにである。さらに、あたらしいテクノロジーによって、だれもが地上の一定の時間を一律の単位に切り刻み、貨幣と引き換えに売買できるようになった」

 

第4章「ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか?(精神的暴力について、第二部)」の「終結部(コーダ)=人間の創造性に対するブルシット・ジョブの影響と、無意味な仕事に対して創造的または政治的に自分を主張しようとする試みがなぜ精神的な戦争の一形態と考えられるかについて」では、みずからの遺志に反して恣意的な官僚制的虐待行為を強いられること以上に、魂に破壊的に作用するものを想像するのはむずかしいと指摘し、著者は「軽蔑する機械の顔と化してしまうこと。怪物と化してしまうこと。たとえば、大衆小説において、最も恐ろしい怪物とは、たんに人間を脅して、八つ裂きにしようとしたり、拷問しようとしたり、殺害しようとしたりするだけでなく、わたしたちをも怪物に変貌させてしまう怪物である。吸血鬼やゾンビ、狼男を想起せよ。それらが恐ろしいのは、わたしたちの肉体のみならず魂まで脅かすからなのである」と述べています。

 

また、著者は「おそらくこれが、なぜとくに青年期にわたしたちが怪物に惹かれてしまうのかの理由である。つまり、青年期とは、まさにわたしたちのほとんどが、嫌悪する怪物と化すことをどうしたら回避できるかという試練にはじめて直面する年代だからである。公共サービスであると見せかけることをふくむ無益なあるいは狡猾な仕事は、おそらく最強である。だが本意で言及された仕事のほとんどすべてが、さまざまな仕方で魂に破壊的に作用していると考えられる。ブルシット・ジョブは、ひんぱんに、絶望、抑うつ、自己嫌悪の感覚を惹き起こしている。それらは、人間であることの意味の本質にむけられた精神的暴力のとる諸形態なのである。人間精神の統合性、あるいは人間の肉体の統合性ですら(これらの2つが完全に区別可能であるとして)、他者との関係のなかに囚われており、世界に影響を与えることのできる能力の感覚とむすびついていた。もしそうだとすれば、ブルシットな仕事は精神的暴力以外のなにものでもないはずである」とも述べるのでした。

 

第5章「なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?」では、ブルシット・ジョブが増えるという事態がほとんど認識されていない理由のひとつは、現行の経済システムのもとでこのようなことが起こるなど、だれも考えてもみないからであると指摘し、著者は「なにもしていないのに報酬が与えられることに多くの人びとがとても居心地悪く感じているという事実は、人間の本性にかかわる常識に反している。それと同じように、なにもしていないのに報酬を与えられているという事実そのものが、そもそも市場経済にかんするわたしたちの前提的認識すべてに反しているのである」と述べています。

 

アメリカ合衆国労働省長官ロバート・ライシュのような人びとは、テクノロジーに精通したあたらしい中産階級の台頭について語っていましたが、そうした人びとは、そのあたらしい中産階級を「シンボリック・アナリスト」と呼んでいました。「シンボリック・アナリスト」たちは、貧困に沈んでいく旧式の労働者階級を置き去りにしながら、成長の果実を総取りするであろうという展望が語られました。「知識労働者」や「情報社会」について語る人びともいましたが、著者は「一部のマルクス主義者すらも、『非物質的労働』と呼ばれるもののあたらしい形態(それはマーケティング、エンターテインメント、デジタル・エコノミーに基礎をおいているが、ますますその外部へとあふれだし、ブランド品でいっぱいの「iPhoneハッピー」な日常生活に浸透しているとされる)が、価値形成のあらたな領域となったという確信をもちはじめている」と述べています。

 

そしてそれは、ついにデジタル・プロレタリアートによる反乱を招くであろうという予言につながっていると指摘し、著者は「いずれにしても、ほとんどだれもが共通して想定しているのは、そのような仕事の増大は金融資本の増大と関係しているということである。それがどのように関係しているのかについては意見はさまざまであるにしても。ウォールストリートの利潤が、貿易や製造業関連企業からではなく、負債や投機そして複雑な金融商品の創造から得られるようになるにつれ、労働者も抽象物を操作することで生計を立てるようになりつつある。このような見方は、たしかに正しいようにおもわれた」として、「投資家たちは、大衆に――のみならず社会理論家たちにも(わたしはこのことを強調しておきたい)――以下のごときことを信じ込ませようとした。投資家とは、債務担保証券天文学的に複雑でハイスピードなアルゴリズム取引をもってして、現代の錬金術師よろしく、外部者の理解の範疇を超えた手段を駆使しながら、無から価値を生み出してみせる方法に精通した者であるということ。これである」と述べています。

 

もちろん、それからクラッシュがやってきて、その商品のほとんどがせこい詐欺であることが判明しました。しかも、その多くがとくに洗練されてもいなかったのですが、著者は「ある意味で金融部門全体がある種の詐欺であるといえるかもしれない。なぜなら利益獲得の機会を求めて、貿易や産業に投資することが主要な活動であるかのように、自己をイメージさせているからである。これは実状とはほとんどかけ離れている。実際は、その利益の圧倒的部分が、政府と結託してさまざまな形態の負債をつくりだし、それからその負債を取引したり操作することから生まれている」と述べます。

 

「現在の経営封建制の形態が古典的封建制と似ている点と異なっている点」では、古典的な意味での資本主義のもとでは、生産の管理によって利潤が獲得されることを指摘し、著者は「資本家はモノをつくったり、建てたり、修繕したり、維持したりするためにひとを雇い上げるわけだが、もし顧客や消費者から受け取る報酬よりも、必要経費の総額――そのなかには労働者や請負業者などに支払う費用もふくまれている――が高ければ、利潤を確保することができない。この種の古典的な資本主義体制のもとでは、不必要な労働者を雇う意味がない。利潤を最大化することは、できるだけ少数の労働者に、できるだけ少額の賃金を支払うことを意味しているからである」と述べています。

 

続けて、著者は「競争の激しい市場においては、不必要な労働者を雇い入れる資本家たちは生き残りの見込みがないのだ。もちろん、教条的なリバタリアンや、ついでにいうと、正統派マルクス主義者たちが、わたしたちのこの経済がブルシット・ジョブだらけになる可能性を決して認めないのはそのためである。それは〔ブルシット化など〕すべて幻想であるというわけだ。しかし、経済的思惑と政治的思惑が重なり合う封建制の論理にしたがえば、そのような事態も完全に理解可能である」と述べます。

 

過去数十年間にわたって科学が停滞している主要な原因のひとつについて、著者は以下のように指摘しています。
「科学者たちも、膨大な時間を使って、たがいに競い合いながら助成者を納得させようとしている。なにをかというと、成果のあがる見込みが確実であるということである。民間企業にもそれに対応するものがある。はてしのない社内ミーティングという儀式である。ダイナミック・ブランド・コーディネーターとかイースト・コースト・ヴィジョン・マネジャーといった肩書きの人物が、パワーポイントやマインドマップ、図や絵でキラキラに盛ったレポートを披露する場所がそこである。この社内ミーティングという儀式も、すべてまた、インターナル・マーケティング〔社外へのマーケティング活動の効果的実行のためには社内全体のマーケティングに対する意識を高めることが重要であるという発想から、経営者から一般社員まで、社内の人たちにむけておこなうマーケティングのこと〕の実践なのである」

 

第6章「なぜ、ひとつの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?」では、著者は「人類史の大部分にわたって――そしてこれは依然として今日の世界の大半にもあてはまる――、貧しい人びとが地域の金貸しに多大な借金を負うようなばあい、その背景には、お金を借りてまでも、親のために立派な葬式をあげたい、子どものために立派な結婚式をあげたいという強い感情がある。そうだとして、かれらにはそうする『必要』があったのか? そうする『必要』があるとかれらが強く感じていたのはあきらかである。実際には、肉体の最低限のカロリーとか栄養といった必要条件を超えたところにある『人間の必要』がなんであるのかについて、科学的定義は存在しない。だからそうした問いは、つねに主観的たらざるをえないのだ」と述べています。

 

また、かなりの程度、ニーズとは他者の期待にすぎないとして、著者は「たとえば、もし娘のためにちゃんとした結婚祝いを準備しなければ、それは家族の恥となるだろうといった具合に。したがって、経済学者の大半は、ひとがなにを欲求するべきかということについて判断しても無駄であると結論する。それよりも人びとが欲求していることを受け入れ、その欲求の追求にあたって、どれだけ効果的に(「合理的に」)ふるまっているかを判断するほうがよいというのである。ほとんどの労働者は、〔この見解に〕同意するであろう」と述べます。

 

CHOOSE CIVILITY 結局うまくいくのは、礼儀正しい人である

CHOOSE CIVILITY 結局うまくいくのは、礼儀正しい人である

 

 

「ひとが一人前の大人とみなされるにあたって必要なものとしての支払い労働(ペイドレイバー)の観念の北部ヨーロッパ起源について」では、中世そして初期近代において、「マナー」という言葉が「エチケット」をはるかに超えた意味をもっていたと指摘し、著者は「この言葉は、世界のなかでひとがふるまったり存在したりするその様式、より一般的には、人びとの習慣や趣味、そして感性を意味していた。若い人びとが、他人の世帯で賃金のため仕事をするものとされていたのは――聖職の道に入ったり学者になろうとしないかぎり――、いま支払い労働とみなされているものと教育とみなされているものが、ほとんど同一視されていたがゆえなのである。つまり、支払い労働も教育も、ともに『あさましい欲望の統御法を獲得』するべく自己規律を学ぶ過程であり、しっかりと自立した大人のようにふるまう術を学ぶ過程とみなされていたのである」と述べています。



「19世紀に浸透した労働価値説の重大な欠陥とその欠陥に資本の所有者がいかにつけこんだのかについて」では、実際には、労働者がもっぱら工場で働いていた時代など存在しないとして、著者は「カール・マルクスやチャールズ・ディケンズの時代においてさえ、労働者階級の居住区には、炭鉱や織物工場、鉄工所で働く人びとよりも、はるかに多くの女中や靴磨き、ゴミ収集人、料理人、看護師、運転手、学校教師、売春婦、管理人、行商人たちが住んでいた。このような人びとの仕事は『生産的』であろうか? どのような意味において、だれにとってそうなのだろうか? スフレを『生産する』のはだれなのだろうか?」と述べています。

 

続けて、著者は「こうしたあいまいさのゆえに、そうした問題は価値が論じられるさいには一般的に脇に追いやられている。しかしそれによって、つぎのような現実がみえなくなってしまっている。すなわち、ほとんどの労働者階級による労働が、それをやるのが男性であれ女性であれ、実際には女性の仕事と基本的にみなされるものに類似しているという現実がみえなくなっているのである。つまり、労働とは、槌で叩いたり、掘削したり、滑車を巻き上げたり、刈り取ったりする以上に、ひとの世話をする、ひとの欲求や必要に配慮する、上司の望むことや考えていることを説明する、確認する、予想することである。植物、動物、機械などなどを配慮し、監視し、保守する作業についてはいうまでもない」と述べます。これらの仕事を「ケアリング労働」といいます。

 

 

「ケアリング労働」は、一般的に他者にむけられた労働とみなされており、そこにはつねにある種の解釈労働や共感、理解がふくまれています。それは仕事などではなく、たんなる生活、まっとうな生活にすぎないということも、ある程度は可能であると指摘し、著者は「人間は元来、共感する存在であり他者とコミュニケーションし合うものであるがゆえに、わたしたちは、たえずたがいの立場を想像してそこに身を置き、他者がなにを考え、なにを感じているか、理解しようと努めなければならない。たいてい、こうしたことは、少なくともいくぶんかは他者に対するケアをふくんでいる――ところが、共感や想像的同一化が総じて一方の側に偏しているようなとき、それは多分に仕事となる。商品としてのケアリング労働の核心は、一方だけがケアをして、一方はしないという点にあるのだ。『サービス』(古い封建制に由来するこの語がいまも残存していることに注意せよ)に対価を支払う人びとは、みずからは解釈労働に従事する必要がないと感じている。このことは、だれか別の人間のために働いているようなときは、レンガ職人にすらあてはまる」と述べます。

 

ケアその思想と実践 〈1〉 ケアという思想

ケアその思想と実践 〈1〉 ケアという思想

  • 発売日: 2008/04/10
  • メディア: 単行本
 

 

もしいまある世界が好きではないとしても、生産的かどうかにかかわらず、わたしたちのほとんどの行為の意識された目的が、他者――たいていは具体的な他者――をおもいやることにあることに変わりはないとして、著者は「わたしたちの行為は、ケアリングの諸関係に絡め取られているのである。10代のときに理想主義者だった人間が、まさに結婚し子どもをもつそのときに、よりよい世界をつくりたいという夢を放棄し、大人の生活に妥協するようになるのと同様に、他者に対するケアリング――とくに長期にわたるケアリング――は、ケアリングを可能にする土台として、相対的に予測可能な世界を保守することを必要とするのである。20年後もなお大学が――さらにいえばお金が――あると確信していれば、自分の子どもに大学教育を受けさせることすら心もとなくなる。逆にいえば、他者――人間、動物、風景など――への愛は、たいてい、みずからが嫌悪しているかもしれない制度的構造が保守されることを必要としているのである」と述べるのでした。

 

「20世紀の過程で仕事がいかにして主に規律と自己犠牲の形態としてますます価値づけられるようになってきたのか」では、ヨーロッパやアメリカの人びとが、いざ永遠という視点に立たされて、みずからの職務をおのれの生きた証とすることはなかったとして、著者は「墓地を訪ねてみればわかる。『蒸気管取付工』とか『エグゼクティヴ・バイス・プレジデント』、『公園管理者』、『事務員』といった文言の刻まれた墓を探しても無駄である。死にさいして魂の地上における本質をしるすとみなされるのは、夫や妻、子ども、あるいはときに戦時に所属した部隊〔の仲間〕に対して、死者の感じた愛や、かれらから死者が受け取った愛である。これらのなかには、親密な感情的関係と人生において与え受け取ったものの双方がふくまれているのである。ところが、それとは対照的に、生きているあいだであれば、こうした人びとに会ったさいに放たれる最初の質問は、たいてい『お仕事は何をされているんですか?』となる」と述べています。

 

ブルシット・ジョブがいま増殖しているのは、なぜか。それは、大部分、富裕国の経済――とはいえますますあらゆる国の経済――を支配するようになっている経営封建制の特異な性質のゆえであると指摘し、著者は「ブルシット・ジョブが惨めさを生みだしているのは、世界に影響を与えているという感覚のうちにつねに人間の幸福が織り込まれているがゆえである。この感覚は、仕事について語るさいには、たいてい社会的価値の語彙を通して表現されている。しかしながら、それと同時に、仕事によって生みだされる社会的価値が大きければ大きいほど、受け取る対価は少なくなるだろうということにも、たいていのひとが気づいている」と述べるのでした。

 

第7章「ブルシット・ジョブの政治的形態はどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?」の「ブルシット化の政治的細分化おびその結果しての惹き起こされるケアリング部門の生産性の低下、そしてそれとケアリング諸階級の反乱の可能性との関係について」では、産業革命以前、ほとんどの人びとは家で働いていたことを指摘し、著者は「今日、一般的に社会とみなされているものがその意味を獲得するのは、おそらく1750年、あるいは1800年以降である。かたや工場や事務所(「職場」)などからなる領域、かたや家や学校、教会、親水公園などからなる領域――おそらくその狭間のどこかに巨大ショッピングモールが位置している――、この両者によって形成される社会である。労働が『生産』の領域だとすれば、家は『消費』の領域であり、『消費』の領域はまた『諸価値』の領域でもある(ということは、この領域でなんらかの仕事をする人間は、ほぼ無償でそれをおこなっているということである)。しかし、すべてを反転させて社会を正反対の視点からみることもできるだろう」と述べています。

 

マルクス 資本論 1 (岩波文庫)

マルクス 資本論 1 (岩波文庫)

 

 

さらに、著者は「カール・マルクスは、かつてつぎのように指摘した。産業革命以前には、最大の富はどのような条件においてつくりだされるのかという問題について本を書こうなどという発想は、だれの頭にも浮かぶことはなかった。しかし、最良の人間がどのような条件においてつくられるのか――すなわち、友人や恋人、仲間や市民として共にありたいという気持ちを抱かせるような人間をつくりだすために社会はどのようにあるべきなのか、については多数の書物が著されてきた。アリストテレス孔子イブン・ハルドゥーンが関心をよせた問題はまさにこれであり、つまるところいまだ真に重要なただひとつの問題がこれなのである」と述べます。人間の生活とは、人間としてのわたしたちがたがいに形成し合うプロセスです。極端な個人主義者でさえ、ただ同胞たちからのケアとサポートを通してのみ、個人となります。最後に、著者は「そしてつきつめていえば、『経済』とは、まさに人間の相互形成のために必要な物質的供給を組織する方法なのである」と述べるのでした。

 

「訳者あとがき」の「ブルシット・ジョブとシット・ジョブ」で、大阪府立大学教授(社会思想、都市史)の酒井隆史氏は、「ブルシット・ジョブが話題にのぼったとして、そこで想起されているのは、しばしば骨の折れる仕事であったり、他人から軽んじられる仕事であったり、劣悪な労働条件で実入りの少ない仕事などなど、です。しかし皮肉なことに、実際は、そうした仕事はブルシットなものではまるでないのです。もしも、だれかが骨の折れる仕事しているとすれば、その仕事はおそらく、世の中の役に立っている可能性が高いのではないでしょうか。事実、だれかの仕事が他者に寄与するものであるほど、当人に支払われるものはより少なくなる傾向にあり、その意味においても、よりきつい仕事となっていく傾向にあるのです。つまり両者は、まさに正反対のものとして、おおよそ理解することができます」と述べています。

 

一方では、たいへん役に立つ仕事ではあるが、きつい仕事をしている人たちがいるとして、酒井氏は「かりに、トイレの清掃とか、そういった仕事をしているとしましょうか。トイレというものは清掃を必要としています。だとすれば、その仕事にあたる人間は、すくなくとも、その仕事が他者に利する行為だと自覚することによってもたらされる自尊心をもっています――たとえ、それ以外に得るものが多くなかったとしても、他方で、他人から尊敬と敬意の払われる仕事をする人たちがいます。その仕事に就いた人間は、高い収入を得て、大きな利益を受け取っています。しかし内心では、みずからの職業や仕事がまったく無益なものだと自覚しながら労働しているのです」と述べます。この酒井氏の言葉に、わたしは強く共感しました。

 

また、「市場原理とブルシット・ジョブ増殖の矛盾」として、大きな会議で重役が提出する報告書を作成することだけを仕事にしている人たちからなるチームが存在することを指摘し、酒井氏は「大きな会議は封建時代の馬上槍試合に該当する、会社世界の高度な儀式です。重役は、そこにでむき、身支度をし、そしてスタッフやパワー・ポイント、報告書などを従えます。そしてそのチームは、その人物のレポートについて、『わたしが図表を作成しました』、『わたしはグラフ作成の担当です』、『わたしはデータ集計をおこない、データベース保持をやっています』というためだけに、存在しているのです。だれもそうした報告書を読まないし、チームの人々はただ誇示のためにそこにいるにすぎません。封建領主とおなじです――口ひげを抜かせたり鎧を磨かせるだけが仕事である配下を従えていることを誇示しているのです。じぶんはそのような力をもっているのだ、というわけです」と述べます。

 

「不要な仕事と必要な仕事――パンデミックとブルシット・ジョブ」として、非ブルシット・ジョブとしてのケア労働について、著者は「グレーバーはおおよそ、非ブルシット・ジョブに伝統的な生産労働とケア労働をふくめ、伝統的な生産労働の衰退(自動化によるところも大きい)とケア労働の比重と意義の増大をみている。おそらくそれは、ケア領域の市場化ともかかわっているが、それをふまえたうえで、これまでの生産概念の神学的フレーム(無からなにかをこの世に登場させるものとしての生産のイメージ)を批判し、生産をより広く、ケア的活動をふくめたものとしてとらえ返し、それによって現在の労働にかかわる状況をより適切に把握できる概念的作業をおこなっている」と分析しています。



「ブルシット・エコノミーとケア労働」として、パンデミックによる経済の停止は、もっとも冷遇されている働き手たちが巨大な力を有していることをあらわにしたと指摘し、酒井氏は「ところが、かれらの力の行使は、世界の維持にかかわっているという根本的次元で制約されている。つまり、こういうことだ。『エッセンシャル・ワーカー』はいま、さかんにもてはやされている。しかし、かれらの劣悪な労働条件は変わらないだろうし、今後も同じであろう。その理由のひとつは、かれらがその力を行使して、みずからの待遇の改善を求めるべくストライキをおこなってしまえば、世界そのものが維持できなくなるからである。ブルシットな高給取りはいくらでも休もうがなんの変化もないわけだが」と述べます。他者をケアするというふるまいそのものがこの世界の保守に本質をおいており、それがケア階級の反乱の起きにくさのひとつの理由であることも否定できません。

 

さらに酒井氏は、「もしも『経済』なるものに何か実質的な意味があるのだとしたら、それは当然、人間が――命を守るためにも、活気ある生活のためにも――互いをケアする手段を指し示すものであるはずだ。こうした観点に立って経済を定義し直すなら、どういうことが生じるだろうか。どんな指標が求められるのだろう。あるいはそもそも、指標なるものの存在すべてと縁を切ることになるのか。そうして、もしも再定義など不可能で、経済というコンセプト自体があれこれの間違った仮定に塗れ、汚れすぎていることが明らかになるようなら、わたしたちは思い出すべきなのだろう――そう遠くない昔には、『経済』などというものは存在していなかったということを。たぶん経済とは、もはやその役割を終えたアイディアなのだ」と述べます。

 

「経済」とは近年の発明物です。政治経済学ですら、当初は、地球的物質代謝を対象とするエコロジーに近い発想のものだったとかれは指摘しているとして、著者は「グレーバーによれば、人間が生活するということ、豊かな生活を送るということと、『経済』とそれにつきまとうさまざまな観念――成長や発展、生産性――とは異なることを、パンデミック状況はあきらかにした。もし『経済』に実質的な核心があるとしたら、わたしたちが相互にケアし健康で豊かで、不安や恐怖にさいなまれることのない、ストレスからも解放された生活を送ることであるはずだ。ところが、それがわたしたちの生活そのものを可能にする条件であると観念され、そこに経済=余剰の確保という資本主義的観念がかぶさったとき、『生活のために生活を犠牲にする』といった転倒した論理が発動し、現代ではそれこそ惑星的ブルシット機械ががらがらと作動しはじめ、その結果、本書にふんだんに記録された、ありとあらゆる倒錯がわたしたちにつきまとうことになる」と述べます。

 

贈与論 他二篇 (岩波文庫)

贈与論 他二篇 (岩波文庫)

 

 

最後に、酒井氏は本書の著者であるグレーバーについて、「人類学者」であることと「アクティヴィスト」であることによって形成された態度こそが「ブルシット・ジョブ」という、暗黙の日常領域を切りわけることを可能にしたものだろうと推測します。グレーバーはこのような立ち位置を、独特の仕方で社会主義であった人類学者マルセル・モースの系譜上においています。酒井氏は、「グレーバーも自負するように、本書は、この現代資本主義社会においてはありうるはずもないという深いおもいこみゆえに、これまでほとんどいわれてなかったこと――少なくともこれほどまでの分量をもって正面切って論じられなかったこと――を、ほとんどはじめて言説にのせ、分析するといった試みであった」と述べるのでした。

 

本書を読み終えて、その内容はわたしの考えと非常に近いと思いました。人類はこれまで、農業化、工業化、情報化という三度の大きな変革を経験してきました。それらの変革は、それぞれ農業革命、産業革命、情報革命と呼ばれます。第三の情報革命とは、情報処理と情報通信の分野で の化学技術の飛躍が引き金となった工業社会から情報社会への社会構造の革命で、そのスピードはインターネットの登場によって加速する一方です。そして、「情報化」からは「ソフト化」という社会のトレンドを表す新しいキーワードも 生まれました。しかし、わたしは1988年に上梓した『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)において、時代はすでに「ソフト化」から「ハート化」 へと移行しているのではないかと述べました。 ハート化社会とは、人間の心というものが最大の価値を持ち、人々が私的幸福である「ハートフル」になろうとし、公的幸福である「ハートピア」の創造を目指す社会のことです。


「心の社会」を論じた『ハートフル・ソサエティ』 

 

わたしたちの直接の祖先をクロマニョン人などの後期石器時代の狩猟や採集中心の生活をしていた人類とすれば 、狩猟採集社会は数万年という単位で農業社会に移行したことになります。そして、農業社会は数千年という単位で工業社会に転換し、さらに工業社会は数百年という単位で 20世紀の中頃に情報社会へ転進したわけです。それぞれの社会革命ごとに持続する期間が一桁ずつ短縮 しているわけで、すでに数十年を経過した情報社会が第四の社会革命を迎えようとしていると想定することは自然であると言えるでしょう。現代社会はまさに、情報社会がさらに高度な心の社会に変化しつつある「ハート化社会」なのではないでしょうか。そして、ハート化社会の行き着く先には「心の社会」があり、さらにその先には「心ゆたかな社会」としてのハートフル・ソサエティがあります。


真の「情報」を考察した『孔子とドラッカー

 

もう何十年も前から「情報化社会」が叫ばれてきましたが、疑いもなく、現代は高度情報社会そのものです。経営学ピーター・ドラッカー(1909〜2005)は、早くから社会の「情報化」を唱え、後のIT革命を予言していました。ITとは、インフォメーション・テクノロジーの略です。ITで重要なのは、もちろんI(情報)であって、T(技術)ではありません。その情報にしても、技術、つまりコンピュータから出てくるものは、過去のものにすぎません。ドラッカーは、IT革命の本当の主役はまだ現われていないと言いました。

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では、本当の主役、本当の情報とは何でしょうか。
日本語で「情報」とは、「情」を「報(しら)」せるということ。「情」は現在では「なさけ」と読むのが一般的ですが、『万葉集』などでは「こころ」と読まれています。わが国の古代人たちは、こころという平仮名に「心」ではなく「情」という漢字を当てたのです。求愛の歌、死者を悼む歌などで、自らのこころを報せたもの、それが『万葉集』だったのです。すなわち、情報の情とは、心の働きにほかなりません。本来の意味の情報とは、心の働きを相手に報せることなのです。

 

では、心の働きとは何か。それは、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったものです。そして、真の情報産業とは、けっしてIT産業のことではなく、ポジティブな心の働きをお客様に伝える産業、つまりは冠婚葬祭業に代表されるホスピタリティ・サービス業のことなのです。『ハートフル・ソサエティ』(三五館)で述べたように、わたしは、次なる社会は人間の心が最大の価値をもつ「ハートフル・ソサエティ」だと思います。

f:id:shins2m:20200516165530j:plainハートフル・ソサエティを描いた『心ゆたかな社会

 

ハートフル・ソサエティは「ポスト情報社会」などではなく、新しい、かつ本当の意味での「リアル情報社会」です。そこでは、特に「思いやり」が最重要情報となります。仏教の「慈悲」、儒教の「仁」、キリスト教の「隣人愛」をはじめ、すべての人類を幸福にするための思想における最大公約数とは、おそらく「思いやり」という一語に集約されるでしょう。「心ゆたかな社会」としてのハートフル・ソサエティとは「思いやり社会」の別名です。そして、「思いやり」を形にしたものこそ東洋の「礼」であり西洋の「ホスピタリティ」なのです。さらには、今後は新たな「思いやり」の形としての「グリーフケア」が重要な存在になっていきます。

f:id:shins2m:20210517010927j:plain「ヤフーニュース」より

 

ブログ「心のサポーター」で紹介したように、厚生労働省が、今年度から「心のサポーター(ここサポ)」の養成を開始します。これは、うつ病などの精神疾患や心の不調に悩む人を支える存在で、精神疾患への偏見や差別を解消し、地域で安心して暮らせる社会の実現につなげる狙いです。近年は業務上のストレスなどで、うつ病と診断される人も増えている。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う生活苦や孤独などから、心の不調に陥る人が増える懸念も出ている。わが社では、この「心のサポーター」も積極的に取得していきたいと思います。地域社会における心のケアを目指すということなら、人と人とをつなぐ互助会との相性も良いように思います。それにしても、いよいよ心のケアの時代が到来したと実感します。

f:id:shins2m:20210517010949j:plain「ふくおか経済」2020年12月号

 

わたしが座長を務める全互協のグリーフケア・プロジェクトチームでは、いよいよ6月から「グリーフケア資格認定制度」を開始しますが、全国の冠婚葬祭互助会の社員を中心に「グリーフケア士」の養成を目指します。これは、死別をはじめとしたさまざまな悲嘆に寄り添い、うつ病や心の不調を予防するプロフェッショナルであり、同じく今年度から始動する「心のサポーター」との関係性は高いと思います。全国で100万人も養成するなら、各地の互助会との連動も視野に入れるべきでしょう。わたしとしては、「グリーフケア士」が、プロの「ここサポ」と位置付けられるようになればと願っています。そして、グリーフケア士を含む冠婚葬祭業こそは心のエッセンシャルワーク、そう、「ハートフル・エッセンシャルワーク」と呼ばれる日も近いでしょう。

 

 

2021年5月27日 一条真也

スーパームーン皆既月食

一条真也です。
東京に来ています。本日26日は満月、しかも1年のうち最も大きく見えるスーパームーンです。しかも皆既月食であります。スーパームーン皆既月食が日本で観測されるのは1997年9月以来、24年ぶりだそうです。

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今夜は、スーパームーン皆既月食


国立天文台によると、「18時45分頃から月が欠け始め、20時9分から28分までが皆既月食。地球の影に完全に隠れて全体が『赤銅色』に。21時50分頃には満月に戻る」とのこと。次に皆既月食が日本で見られるのは12年後とのことでわたしは非常に楽しみにしていました。

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夕焼けは綺麗だったのですが・・・

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皆既月食は観測できず・・・

 

わたしは千代田区のホテルの客室の窓から外を眺めました。新宿副都心に沈んだ夕焼けはとても綺麗だったのですが、夜になると曇り空なのか皆既月食は見えませんでした。すっかり日本人の愚行のシンボルとなった新国立競技場の隣にある神宮球場のナイターの照明ばかりが輝いていましたね。新国立競技場といえば、1日も早く東京五輪の開催中止が発表されることを願っています。

f:id:shins2m:20210527085653j:plainシンとトニーのムーンサルトレター第194信

 

なんでも、仙台などでは皆既月食がよく観測できたようですね。今夜は満月ということで、「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生と満月の夜ごとに交わしているWEB上の往復書簡「シンとトニーのムーンサルトレター」の第194信を投稿しました。

f:id:shins2m:20210526211703j:plain満月交心 ムーンサルトレター』(現代書林)

 

鎌田先生とは昨年10月、共著である『満月交心 ムーンサルトレター』(現代書林)を出させていただきました。同書は「シンとトニーのムーンサルトレター」の第121信から第180信までが収められ、約580ページのボリュームです。まだ未読の方は、満月の魔力に操られたルナティックな2人の心の交流記録をぜひお読み下さい!

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月旅行への応募完了画面

 

ちなみに、ブログ「月旅行に応募しました!」で紹介したように、鎌田先生とわたしは、スタートトゥデイの前澤友作社長が企画する月周回旅行「dearMoonミッション」に応募しましたが、その後何の音沙汰もありません。なんでも、世界中から100万人以上の応募があったそうです。きっと落選したのかも。とほほのほ。

 

客室の窓から夜の首都高を眺めながら、夜空に満月の気配を感じたら、桑田佳祐の「月光の聖者達(ミスター・ムーンライト)」が聴きたくなりました。満月に幸せを投影する人間を歌った名曲です。この歌の歌詞にもあるように、「今がどんなにやるせなくても、明日は今日より素晴らしい♪」ことを願っています。

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ホテルの庭園に上るスーパームーンを背に

 

その後、満月が戻る予定の22時過ぎにホテルの庭園に出てみると、ビルの合間から見事な満月が見えました。iPhoneから流れる「月光の聖者達(ミスター・ムーンライト)」をイヤホンで聴きながら、わたしは満月を見上げました。「時代(とき)は移ろう この日本(くに)も変わったよ 知らぬ間に♪」という歌詞が流れてきたときは、たまらなく悲しくなりました。

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明日は今日より素晴らしい!!

 

スーパームーンを見上げながら、わたしは、全国の医療従事者の方々、東京五輪開催の可否に心を揺らすアスリートのみなさん、絶望的な状況のまま本土決戦に臨むような心境であろう東京五輪組織委員会のみなさん、緊急事態宣言でご苦労されている飲食店のみなさん・・・やるせない今を送っているすべての人たちのことを想い、「明日は今日より素晴らしい!」という魔法の呪文を口にしました。

 

2021年5月26日 一条真也

五輪中止間近?の東京へ!

一条真也です。
強行開催まであと2ヵ月を切った東京五輪ですが、最大の選手団を送り込む予定の米国の国務省が、日本の新型コロナウイルスの感染状況を「極めて危険」と断定、「日本への渡航中止」を勧告すると発表。そんな極めて危険な日本国内で、26日に北九州から東京に移動しました。

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北九州空港の前で

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メーテルが見送ってくれました

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北九州空港の搭乗口前で

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機内ではスーパー・ストロング・マスクを

 

東京都も福岡県もともに緊急事態宣言中であり、あまり出張したくはなかったのですが、社外監査役を務める互助会保証株式会社の監査役会および取締役会が翌27日に開催され、今回はどうしてもリモート参加というわけにはいかないのです。この日の北九州空港は、人が少なかったです。わたしは、スターフライヤー80便に乗り込みました。機内では、黒のウレタンマスクから白の不織布マスクに替えました。いつも通っている「サンキュードラッグ小倉富野店」で購入した超強力な不織布マスクであります。プロレスの「スーパー・ストロング・マシン」にあやかったわけではありませんが、この「スーパー・ストロング・マスク」で変異株の感染を防ぎたい!

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機内で読書しました

 

機内では、いつものように読書をしました。読んだのは、『天皇儒教思想』小島穀著(光文社新書)という本です。8世紀の日本で、律令制定や歴史書編纂が行われたのは、中国を模倣したからでした。中国でそうしていたのは儒教思想によるものでした。江戸時代末期から明治の初期、いわゆる幕末維新期には、天皇という存在の意味やそのありかたについて、従来とは異なる見解が提起され、それらが採用されて天皇制が変化しています。そして、ここでも儒教が思想資源として大きく作用したのです。本書は、その諸相を取り上げていく内容ですが、非常にスリリングで面白く、夢中になって読みました。

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スターフライヤー機が羽田に到着

f:id:shins2m:20210526130852j:plain閑散とした羽田空港にて

 

天皇といえば、ブログ「東京五輪を中止するのは誰か?」でも書いたように、感染大爆発が必至で国難ともいえる東京五輪を中止するためには、最後は天皇陛下の御聖断を仰ぐしかないと思います。現実では難しいでしょうが、また畏れ多いことですが、東日本大震災後の上皇陛下(平成天皇)のメッセージのように、今上陛下がコロナ禍に苦しむ日本国民へのメッセージとして、「国民の健康を阻害する一切の行事を控えることを希望します」と一言でも口にして下さればと願わずにはいられません。そんなことを考えていたら、搭乗した飛行機は順調に飛び、なんと到着予定時間よりも15分も早く羽田空港に着きました。フライト時間が55分ぐらいでしたが、こんなに早く東京に着いたのは初めてです。これから何かが起こる予感が!

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朝日新聞DIGITAL」より

 

荷物をピックアップするとき、何気にスマホでネットニュースを見たのですが、「(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」という朝日新聞DIGITALの記事を見つけてビックリ! 朝日が社説で、東京五輪について「人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む政府、都、五輪関係者らに対する不信と反発は広がるばかりだ。冷静に、客観的に周囲の状況を見極め、今夏の開催の中止を決断するよう菅首相に求める」とはっきり書いています。大手新聞社は東京五輪のスポンサーであり、社説で中止を主張できないと思っていたので驚きました。

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朝日新聞」2021年5月26日朝刊

 

わたしは、荷物をピックアップするとすぐに空港の売店に走り、「朝日新聞」の朝刊を買いました。ちゃんと今日の朝刊の社説にも書かれています。ブログ「国難としての東京五輪」で、わたしは「大手新聞社が雁首揃えてスポンサーになるなど前代未聞であり、『日本の新聞は死んだ!』とさえ思いました。これでは、国民が本当に知りたい情報、いや知るべき情報であっても、五輪主催者のマイナスになることは一切書けないではありませんか。いつも政権批判ばかりしている朝日とか毎日は大いに恥を知り、今こそ東京五輪の強行開催を全力で批判していただきたい!」と書きました。まさか、わたしのブログに触発されたわけではないでしょうが、朝日がついに立ち上がってくれました。わたしは朝日という新聞があまり好きではありませんが、今回はよくやった! えらいぞ、朝日新聞! 毎日新聞も頑張れ! 天皇陛下が御聖断を下さずとも、どうやらIOCのバッハ会長やコーツ副会長の日本人の感情を逆なでする発言、アメリカの日本への渡航禁止などがトリガーになって、一気に流れが変わった印象ですね。まさに、「正義は勝つ!」といった感じです。 

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いつもの店に入りました

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ネギ味噌ラーメンを食べました

 

ちょうど昼時だったので、空港出口近くのいつものラーメン店に入りました。昨年の第1回目の緊急事態宣言のときはこの店も閉まっていましたが、今度の緊急事態宣言では営業しているので助かります。今日は、ネギ味噌ラーメンを食べました。美味しかったです。食後は、そのまま赤坂見附の定宿に向かいました。チェックインして部屋に入ると、窓から落日の新国立競技場が見えました。

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落日の新国立競技場

 

ここで世界最強・最悪のハイブリッド変異株である「東京五輪株」が誕生すれば、人類全体に大きな災厄をもたらします。そうなれば、「スペイン風邪」どころではなく「東京五輪ウイルス」として、その悪名は人類史に長く語り継がれることでしょう。それだけは、何としてでも避けなければなりません。夕方から、次回作『心ゆたかな読書』(現代書林)の最終チェックをはじめ、各種の出版企画について編集者と打合せします。明日は、互助会保証の監査役会および取締役会に参加した後、日本初のグリーフケア映画である「愛する人へ」の製作関係者と打合せする予定です。東京の変異株は怖いですが、感染予防に最大の注意を払いながら、「天下布礼」のために頑張ります!

 

2021年5月26日 一条真也

M&A

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一条真也です。
わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「M&A」という言葉を取り上げることにします。この「M&A」という言葉は、「ハートフル・リーダーシップの研究」というサブタイトルを持つ『龍馬とカエサル』(三五館)で初めて提唱しました。

龍馬とカエサル』(三五館)

 

「人の心はお金で買える」といった露骨な拝金主義が崩壊し、心あるマネジメントの時代が訪れようとしています。人の心はお金では買えません。人の心を動かすことができるのは、人の心だけです。「心ゆたかな社会は、心ゆたかな会社から!」ということで、ハートフル・ソサエティを実現するには、ハートフル・カンパニーの存在が必要とされます。そして、ハートフル・カンパニーに求められるものは「M&A」です。


サンレーの「M&A」は企業の合併・買収ではない!

 

M&Aといっても、企業の合併・買収のことではありません。M&Aの「M」とは「Mission(ミッション)」のことです。そして、「A」とは「Ambition(アンビション)」のことです。すなわち、サンレーの「M&A]は「使命」と「志」のことなのです。会社人として仕事をしていくうえで「ミッション」が非常に大切です。「ミッション」は、もともとキリスト教の布教を任務として外国に派遣される人々を意味する言葉でしたが、現在はより一般的に「社会的使命」や「使命感」を意味するようになってきています。ミッション経営とは、社会について考えながら仕事をすることであると同時に、お客様のための仕事を通して社会に貢献することです。要するに、お客様の背後には社会があるという意識を待たなくてはなりません。


サンデー毎日」2016年12月4日号

 

経営学ピーター・ドラッカーは、「仕事に価値を与えよ」と力説しましたが、これはとりもなおさず、その仕事の持つミッションに気づくということに他ならないでしょう。ミッションを明確に成文化して述べることを「ミッション・ステートメント」といいます。ミッション・ステートメントなき会社は、使命なき会社だとされても仕方ありません。そして、ミッションと並んで会社人に必要なものが、アンビション、つまり「志」です。

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わたしは、志というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値すると思っています。吉田松陰の言葉に「志なき者は、虫(無志)である」というのがありますが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」と言えるでしょう。よく混同されますが、夢と志は違います。「自分が幸せになりたい」というのは夢であり「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志です。夢は私、志は公に通じているのです。自分ではなく、世の多くの人々です。「幸せになりたい」ではなく、「幸せにしたい」です。この違いが重要なのです。

f:id:shins2m:20161108144316j:plainミッショナリー・カンパニー』(三五館)

 

今後の会社経営において、はミッション(使命)とアンビション(志)による「M&A」戦略が必要とされます。特に「ホスピタリティ」を提供するあらゆるサービス業において、施設の展開競争に代表されるハード戦略は、もう終わりです。今後は、ますます「ハード」よりも「ハート」、つまりその会社の「想い」や「願い」を見て、お客様が選別する時代に入ります。そのときに、最大の武器であり宝物となるものこそ、「M&A」なのです。2016年11月18日、株式会社サンレー創立50周年の日、わたしは『ミッショナリー・カンパニー』(三五館)を上梓しました。次は、来る2021年11月18日、サンレー創立55周年の日に『アンビショナリー・カンパニー』(現代書林)を上梓する予定です。

 

2021年5月26日 一条真也