死を乗り越える一休宗純の言葉

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世の中は食うてかせい
寝て起きて
さてその後は死ぬるばかりぞ。
一休宗純

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。今回の名言は、室町時代臨済宗大徳寺派の僧である一休宗純(1394年~1481年)の言葉。出生地は京都で、出自は後小松天皇のご落胤とする説が有力視されています。とんち話で有名で、「一休さん」の愛称で親しまれていますね。

 

一休道歌

一休道歌

  • 発売日: 2015/11/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 なんと人を食った死生観でありましょうか。ただつきつめて考えれば、人とはこんなものかもしれません。小さなことにくよくよして生きるより、人間は所詮はこんな存在と思って生きたほうがいいのかもしれません。子どもの頃、一休さんのようにありたいと思ったことがあります。それは「一休さん」というテレビアニメが大好きで、大人に対して知恵で対抗する姿が、かっこよかったからです。体力でかなわなければ知性で対抗するところが痛快でした。

 

ヘタな人生論より一休のことば (河出文庫)

ヘタな人生論より一休のことば (河出文庫)

 

 

彼は臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっています。満87歳没といわれますので、当時にすればかなりの長寿です。この「世の中は食うてかせいで寝て起きて さてその後は死ぬるばかりぞ」という言葉も一休さんらしい表現で大好きです。そんな彼が「死にとうない」といったというのですから、一休さんらしいウィットにとんだ言葉ですね。なんだかほっこりさせられます。なお、この言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。ご一読下されば、幸いです。

 

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2020/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2021年5月26日 一条真也

 

一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「義」です。

 

論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)

 

 

現在、わたしは、義によって東京五輪の開催中止を訴えています。「義」とは、正義のことです。『論語』の「為政」篇には、「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉が出てきます。ここで、孔子は「勇」を「正義を実行すること」の意味で使っています。2008年6月、東京で「秋葉原事件」が発生し、7人が死亡、10人が重軽傷を負いました。多くの人々が事件発生時に被害者の救助に協力し、警視庁は72人に感謝状を贈ったといいます。救護中に容疑者に刺されて負傷した3人には、警視総監から感謝状が贈られた。わたしは、感謝状を贈られた方々を心から尊敬し、同じ日本人として誇りに思います。中には、被害者の救護中に刺されたため命を落とした方もいました。痛ましい限りですが、この方々は本当の意味で「勇気」のあった人々ででした。

 

論語に学ぶ PHP文庫

論語に学ぶ PHP文庫

 

 

仁と義を結んで「仁義」といいます。「われらいかに為すべきか」という規範や規則が「義」です。これに対して欲望を満足させるのを「利」といいます。したがって、仁は必ず義と結びます。安岡によれば、儒教は思想の道であるとともに、仁義の教えです。この仁義と対立するのが功利であり、これは利益のことを指します。そこで儒教では、功利をいかに仁義に従わせるかということになります。仁義に背いて功利に走ると、必ず失敗や災いがあります。歴史というものは人間の大切な根本原理・原則を実証するものとして大きな意義があると、儒教では考えるのです。

 

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:渋沢 栄一
  • 発売日: 2008/10/24
  • メディア: 文庫
 

 

儒教にはまた、「利は義の和」であり、「義は利の本」であるという牢固たる信念・見識があります。いかにすることが義かということを積んでいって、はじめて本当の利を得るということです。そして「利に放って行へば怨多し」とされます。利を主たる目的として行動すれば必ず矛盾衝突が起こるというのです。 「日本資本主義の父」として知られる渋沢栄一の思想は、「論語と算盤」という一言に集約されます。それは「道徳と経済の合一」であり、「義と利の両全」です。結局、めざすところは「人間尊重」そのものであり、人間のための経済、人間のための社会を求め続けた人生でした。



特筆すべきは、渋沢栄一があれほど多くの会社を興しながらが、けっして財閥を作ろうとしなかったことです。後に三菱財閥を作った岩崎弥太郎から手を組みたいと申し入れがありましたが、渋沢はこれを厳に断っています。利益は独占すべきではなく、広く世に分配すべきだと考えたからです。渋沢は「利の元は義」と唱え、自分の仕事に対する社会的責任を感じ、社会的必要性を信じることができれば、あとはどうやってその仕事を効率的にやるかを考え、利益を出せばよいと訴えました。

 

指導者の条件

指導者の条件

 

 

「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助は「大義」というものを重んじ、「指導者はまず大義名分を明らかにしなくてはならない」としました。彼は著書『指導者の条件』において、近江の小谷城主・浅井長政の例をあげています。浅井長政織田信長の妹婿で、大いにその信頼を得ていました。しかし、信長が浅井家と旧交のある越前の朝倉氏を攻めたとき、突如兵を起こしてその背後をつこうとしたのです。そのため窮地に陥った信長は、木下藤吉郎の決死の働きなどにより辛くも京都へ戻りました。

 

浅井家には、「信長との姻戚関係は別としても、彼は常に朝廷をいただき、天下万民のためという大義名分を唱えて戦っています。それに対して、ご当家のしようとしているのは、いわば小義の戦いです。もし朝倉家との旧交を捨てるに忍びないならば、むしろ朝倉家を説いてともどもに信長の公道に従うべきではないでしょうか」と諫める重臣もいましたが、長政はそれを聞き入れませんでした。そして最後まで信長に敵対し、最後は滅亡してしまったのです。 



浅井長政は、優秀な武将であり、終始堂々と戦って立派な最期を遂げたといいます。しかし、結局は周囲の諸国から孤立し、滅亡を招きました。その大きな原因とは、家臣が指摘したように、十分な大義名分というものを持たなかったからでしょう。一方の信長は早くから、乱れた天下を統一し、朝廷を奉じて、万民を安心させることをめざしました。かつ、それを唱えていました。そうした大義名分が、戦国の世に疲れた人々の共感を呼び、家臣たちもそこに使命感を感じ、働き甲斐を持って全力を尽くしたのです。  


信長に限らず、また日本のみならず、古来より名将といわれる人物は、合戦では必ず大義名分を明らかにしました。「この戦いは決して私的な欲望のためにやるのではない。世のため人のため、大きな目的のためにやるのだ」ということを明確に示し、人々の支持を求め、部下を励ましました。何よりも、この大義というものが大事なのです。『指導者の条件』において、松下幸之助は「いかに大軍を擁しても、正義なき戦いは人々の支持を得られず、長きにわたる成果は得られないからであろう」と書いています。  



そして松下幸之助は、これは決して戦の場合だけではないと述べています。大義名分というといささか古めかしいけれども、事業の経営にしても、政治における諸政策にしても、何をめざし、何のためにやるということを自らはっきり持って、それを人々に明らかにしていかなくてはならない。それがリーダーとしての大切な務めだというのです。   

孟子 全訳注 (講談社学術文庫)

孟子 全訳注 (講談社学術文庫)

  • 発売日: 2019/03/29
  • メディア: Kindle
 

 

わたしは、冠婚葬祭互助会の社長を務めています。会員様に結婚式や葬儀を安価にあげていただくために、毎月いくらかの会費をいただいており、当然、会員を募集する営業部隊もあります。わたしが常に営業スタッフに言っていることは、この仕事は商売というより人助けであるということ。特に、葬儀においてそれが言えます。「礼」という人の道を重んじた儒教孔子によって始まりましたが、孔子の死後、約100年後に孟子が出現し、何よりも「親の葬礼」を人の道の第一に位置づけました。

 

葬式は必要! (双葉新書)

葬式は必要! (双葉新書)

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2010/04/20
  • メディア: 新書
 

 

人生で最も大切なことは、親のお葬式をきちんとあげることなのです。逆に言えば、親のお葬式をあげられなければ、人の道から外れてしまうのです。人の道から外れるほど悲惨なこと、気の毒なことはありません。世の人々が人の道から外れることを防ぎ、堂々と人の道を歩んでいただくお手伝いをすることほど、義のある行為はないと心の底から思っています。互助会の募集をすること、また解約希望者を説得して思いとどまっていただくこと、これはそのまま人助けにつながります。わたしは、当社の活動には大義があると信じています。最後に、ドラッカーが力説した「真摯さ」とは明らかに「正義」に直結していると思います。なお、「義」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2021年5月25日 一条真也

 

一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。これから、「こころの一字」の数々をお届けします。最初にご紹介する文字は、「仁」です。

 

ハートフル・ソサエティ

ハートフル・ソサエティ

 

 

 現代は、言うまでもなく高度情報社会です。世界最高の経営学ピーター・ドラッカーは、早くから社会の「情報化」を唱え、後のIT革命を予言していました。ITとは、インフォメーション・テクノロジーの略です。ITで重要なのは、I(情報)であって、T(技術)ではありません。その情報にしても、技術、つまりコンピューターから出てくるものは、過去のものにすぎません。ドラッカーは、IT革命の本当の主役はまだ現れていないと言いました。本当の主役、本当の情報とは何か。情報の「情」とは、心の働きにほかなりません。本来の情報とは、心の働きを相手に伝えることなのです。わたしは『ハートフル・ソサエティ』(三五館)で述べたように、次なる社会とは、心の社会であると考えます。それは、ポスト情報社会などではなく、新しい、かつ真の情報社会なのです。

 

 

そして、情報の「情」、心の働きを代表するものこそ、「思いやり」であると思います。「思いやり」こそは、人間として生きるうえで一番大切なものだと多くの人々が語っています。たとえばダライ・ラマ14世は「消えることのない幸せと喜びは、すべて思いやりから生まれます」と述べ、あのマザー・テレサは「私にとって、神と思いやりはひとつであり、同じものです。思いやりは分け与えるよろこびです」と語りました。仏教の「慈悲」、キリスト教の「隣人愛」まで含めて、すべての人類を幸福にするための思想における最大公約数とは、おそらく「思いやり」という一語に集約されるでしょう。

 

論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)

 

 

そして、儒教において、それは「仁」と表現されました。よく知られているように、仁は儒教における最高の徳目です。孔子孟子は、リーダーにとって最も必要なものは仁であると繰り返し強調しました。 孔子は『論語』の中でさまざまな仁を唱えましたが、現在における仁の一般的な解釈は、次のようなものです。まず、『論語』に「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」とあるように、「仁とは何か」という弟子の質問に対して、孔子は「人を愛することだ」と答えています。

 

世界一わかりやすい「論語」の授業 (PHP文庫)
 

 

また、「生涯それだけを実行すればよい、一言があるだろうか」と弟子が尋ねたとき、孔子は「其れ恕か。己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」と答えました。「恕」とは、まさに「思いやり」のこと。あるいは、曾参が「夫子の道は忠恕のみ」と述べた「忠恕」もこれと同じです。恕や忠恕は、仁に通じるのです。このように、孔子が唱えた仁の重要な側面として、愛とか思いやり、あるいは真心からの思いやりと表現できるものがあり、これは愛の仁=仁愛などと呼ばれています。一方、勇気を持つことや一身を犠牲にしてでも物事が成就することを求める仁もあります。自己を規制して規範を守る仁です。これは徳の仁=仁徳などと呼ばれています。つまり、孔子の唱えた仁の思想とは、主に「仁愛」と「仁徳」であったのです。

 

新装版 論語の活学 (安岡正篤人間学講話)

新装版 論語の活学 (安岡正篤人間学講話)

  • 作者:安岡正篤
  • 発売日: 2015/04/23
  • メディア: 単行本
 

 

そして、儒教とは「仁の道」「仁の教」であると言うことができます。仁は天地の・自然の生成化育の人間に現われた徳のことです。しかし、仁という言葉を誤解している人は多いのです。かつて医師会の某会長が「世の中が変わって、医は仁術などという時代ではない」と語りましたが、陽明学者の安岡正篤などは「全くその意味が解っていない」と嘆きました。「医は仁術」というのは、患者を憐れんで無料で診療してやるということではなく、患者の命を救う術ということです。いくら無料診療をしてやっても、患者を殺してしまったのでは何にもなりません。これでは「不仁」と言われても仕方ないのです。



また、「仁政」という言葉があります。仁政とは、人を生かす政=まつりごとです。景気を良くしたり、所得を多くしたり、あるいは公共の施設を充実させたり、国民が限りなく生成発展し、進歩向上してゆくように導く政治、これを仁政と呼ぶのです。江戸時代中期の傑僧として知られる白隠禅師は、甲州の武田家を絶賛していました。白隠禅師によると、甲州が強固になったのは「武力」ではなく「仁政」にありました。「仁」という字は人偏と二から成っています。これは、人は一人だけでは生きてゆけず、もう一人の他人があってはじめて人の世界は成り立つという意味です。例えば、親子、兄弟、師弟、友人同士など、すべては人と人との相互依存関係です。同様に、企業にも経営者と従業員の関係があります。また、取引先や株主といったステークホルダーとの関係がある。国も同じで、一国だけでなく、他の国があってはじめて世界が成り立つのです。



何事も1つだけでは成り立たず、2つあってはじめて成り立つのです。その2つがうまく調和し、共栄共存したときに生まれるものこそ「仁」です。よって仁政とは、為政者と民の関係が良好であることです。自らの国司という立場と武将、足軽、民との関係をきっちり作り上げていった武田信玄の根底には、仁がありました。信玄は、仁という言葉をいつも口にしていたといいます。白隠禅師はまた「乱りに他国へ兵を動かすのは、強盗武士の常にするところである」と述べています。この基準によれば、他社のシマを平気で荒らして強引な営業戦略をとる企業なども強盗武士と言えるでしょう。 



慈悲や愛にも通じる仁は、優しく、母のような徳です。高潔な義と、厳格な正義を、特に男性的であるとするならば、慈愛は女性的な性質である優しさと諭す力を備えています。リーダーというものは、仁を重んじながらも、公正さと義で物事を計ることも大切です。むやみに慈愛に心を奪われてしまってはなりません。伊達政宗は、そのことをよく引用される警句をもって「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」と的確に表現しています。
なお、「仁」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2021年5月25日 一条真也

国難としての東京五輪

一条真也です。
日本に未曾有の危機が迫っています。41年前の5月24日、日本はモスクワ五輪をボイコットしました。開催まであと2カ月を切った東京五輪ですが、日本政府は何が何でもやるつもりらしいですね。東京都などに発出されている緊急事態宣言も6月20日まで延長されそうです。

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「ヤフーニュース」より

 

国際オリンピック委員会(IOC)の“ぼったくり男爵”ことトーマス・バッハ会長は、22日の国際ホッケー連盟総会で、「誰もが五輪の夢を実現するために、何かを犠牲にしなければならない」と話したとか。この発言を知ったとき、わたしは「怒髪天を衝く」思いがしました。貴族である“ぼったくり男爵”は、日本人のことを生贄(いけにえ)とでも思っているのでしょうか? なめるなよ!(怒)

f:id:shins2m:20210525122223j:plain「ヤフーニュース」より

 

21日には、IOCのジョン・コーツ副会長が、東京オリンピックパラリンピックを緊急事態宣言が国内で発出されている場合でも、予定通り開催すると断言しました。このときも、わたしは激しい怒りを感じました。両者の発言ともに、人命を犠牲にしてでも五輪をやると受け取れる暴言であり、日本人の感情は完全に逆なでされ、ネットは大炎上しています。当然のことでしょう。

f:id:shins2m:20210524181432j:plain「ヤフーニュース」より

 

バッハ会長もコーツ副会長も、最近は何を発言しても炎上する始末。すでに日本国民の多くはIOCの正体がボッタクリの反社会的興行団体であると見抜いていますが、次から次に出てくるニュースは信じられないものばかりです。いわく、全世界でパンデミックの収束が見えない状況下、訪日する首脳たちを「おもてなし」するため、外務省は「要人接遇関係経費」として43億6100万円を確保しているとか。開催まで2カ月を切った時点で、訪日が公表されているのは、2024年にパリ五輪を控えるフランスのマクロン大統領くらいで、アメリカのバイデン大統領は招待されていますが、参加の回答は出していません。

f:id:shins2m:20210524181450j:plain「ヤフーニュース」より

 

いわく、バッハ会長をはじめとしたIOCや各競技団体の幹部は5つ星ホテルでの「貴族生活」が約束されているとか。東京都は大会期間中に「The  Okura  Tokyo」「ANAインターコンチネンタル」「ザ・プリンス パークタワー東京」「グランドハイアット東京」の4ホテルの全室を貸し切り、IOC関係者に提供することを保証しているそうです。「The Okura Tonkyo」には、国内最高額の1泊300万円のスイート(720平米)がありますが、IOC側の負担額の上限はどんな部屋でも1泊400ドル(約4万4000円)までと定められ、差額は組織委が負担します。

f:id:shins2m:20210524181518j:plain「ヤフーニュース」より 

 

ちなみに、来日する各国選手は選手村と競技会場を行き来するだけの「バブル方式」が適用され、事実上の「軟禁状態」に置かれる見通しです。しかし、中国の3000人を含めて3万人が大挙するという報道関係者はそうはいきません。選手や大会関係者は泡(バブル)で包めても、報道陣はほとんど不可能です。IOCや日本政府は報道関係者にワクチン接種を要望し、「プレーブック」(第2版)によると、入国後14日間は公共交通機関の利用を禁じ、食事も外食を禁止する方針です。しかしながら、宿泊先は組織委推奨ホテル以外でも可能であり、メディアの行動規制について不安視する声は絶えません。

f:id:shins2m:20210524181534j:plain 「ヤフーニュース」より

 

何より怖いのは、太平洋戦争の「学徒動員」ならぬ東京五輪の「学童動員」です。現時点で東京五輪の観客は入れる見込みですが、学校の引率により、児童・生徒らも観戦予定なのです。東京都教育委員会によるとコロナ前に策定された東京都内の公立小・中・高校などの生徒ら約81万人が観戦する計画について、「現時点で撤回する予定はない」とのこと。先日も教員らによる「集団下見」が実施されたばかりですが、保護者や教員からは不安の声が上がっている。しかも、無観客でもこの計画は実行するというから驚きです。感染が危険だから大人は無観客なのに、そこへ子どもたちが大挙して参加するとは!

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日本は完全にナメられてる!

 

もはや狂気の沙汰といえない東京五輪の強行開催について、大手新聞は一切ダンマリを決め込んでいます。それもそのはず、朝日新聞社毎日新聞社読売新聞社日本経済新聞社産経新聞社、北海道新聞社は東京五輪のスポンサーになっており、社説などで五輪批判ができない状況にあるのです。大手新聞社が雁首揃えてスポンサーになるなど前代未聞であり、「日本の新聞は死んだ!」とさえ思いました。これでは、国民が本当に知りたい情報、いや知るべき情報であっても、五輪主催者のマイナスになることは一切書けないではありませんか。いつも政権批判ばかりしている朝日とか毎日は大いに恥を知り、今こそ東京五輪の強行開催を全力で批判していただきたい!

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日刊ゲンダイDIGITAL」より

f:id:shins2m:20210524181823j:plain「ヤフーニュース」より

f:id:shins2m:20210524181639j:plain「ヤフーニュース」より

f:id:shins2m:20210524181724j:plain「ヤフーニュース」より

 

しかし、テレビ業界は最近、五輪批判を展開し始めました。各ニュース番組のキャスターたちは強行開催に異議を唱えていますし、芸能界からはビートたけし氏、松本人志らの大御所が強い疑問を呈しています。元東京都知事舛添要一氏、元大阪府知事橋本徹氏、元宮崎県知事の東国原英夫氏、経済界ではソフトバンクグループ代表の孫正義会長兼社長、楽天グループの三木谷浩史会長兼社長なども強行開催に疑問視しています。わたしが本物の五輪中止活動家だったら、日本国民にスポンサー企業への不買運動アメリカ国民に東京五輪の放映権を持っている米NBCの不視聴運動を働きかけると思います。


バッハ会長やコーツ副会長の発言を見ても、日本は完全にナメられています。右翼が行動を起こさないのは不思議で、昨年、没後50年を迎えた三島由紀夫が黄泉の国で嘆いていると思います。ブログ「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」で紹介したように、三島は東大全共闘と討論しましたが、現代日本の学生たちも情けない。「渋谷で路上飲みをしている暇があったら、東京五輪断固反対のデモでもやれ!」と言いたいですね。どうせ、学生運動家なんか最初からマスクしているんだし。

 

第四の国難―日本崩壊の地鳴りが聞こえる

第四の国難―日本崩壊の地鳴りが聞こえる

  • 作者:前野 徹
  • 発売日: 2001/05/01
  • メディア: 単行本
 

 

わたしの仲人で恩師の故 前野徹氏(元東急エージェンシー社長)の著書に『第四の国難』という名著があります。有史以来、わが国の国難といえば、蒙古襲来、黒船来航、第二次世界大戦敗戦の3つが上げられます。これらは、いずれも外的要因による危機でしたが、当時の人々は、見事に克服してきました。しかし、第4の国難に直面する現在の日本は、外圧というより、我々が、自ら決断する心を失ったがゆえの危機であると訴えた憂国の書です。同書は2001年に刊行されましたが、それから20年・・・・・・ついに日本に本当の国難が到来しました。

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ついに、本当の国難が来てしまう!

 

このままでは、各国の変異株が東京に集結して交配し、世界最強・最悪の「東京五輪株」が生まれる危険あります。そして、東京五輪株は人類をさらなる災厄に陥れ、日本は世界中の人々から恨まれ、蔑まれる可能性があります。それを想像すると、わたしは絶望的な気分になります。なんとか、東京五輪の強行開催を阻止しなければなりません。

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もう、中止だ中止!

 

わたしは毎朝、「今日こそは、東京五輪中止の発表がありますように」と祈り、寝る前は「明日こそは、東京五輪中止の発表がありますように」と星に願いをかけています。どうか、わたしの願いが叶いますように。最後に、ブログ「劇場版『鬼滅の刃』が空前の快挙!」で紹介したように、コロナ禍の中でも「鬼滅の刃」が世界中で大ヒットしています。鬼滅の日輪刀で、日本を襲う国難を叩き斬りたいと思うのはわたしだけではありますまい。

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国難は日輪刀で叩き斬りたい!

 

2021年5月24日 一条真也

劇場版「鬼滅の刃」が空前の快挙!

一条真也です。
新型コロナウイルスの感染拡大、ワクチン接種の大幅な遅れ、緊急事態宣言の延長、東京五輪の強行開催などなど、梅雨の季節に憂鬱な話題ばかりの毎日ですが、久々に明るいニュースが届きました。ブログ「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」で紹介したアニメ映画の大傑作がなんと国内史上初の興収400億円突破、全世界では総興収517億円になったというのです! まさに空前の快挙です!

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「ヤフーニュース」より 

 

オリコンが配信した「映画『鬼滅の刃』国内史上初の興収400億円突破 全世界で総興収517億円」という記事には、「昨年10月16日に公開されたアニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の最新の興行収入が発表され、大台となる興収400億円を突破した。日本国内では累計来場者数2896万6806人、興行収入400億1694万2050円を記録し、日本を含めた全世界(45の国と地域)での累計来場者数は約4135万人、総興行収入は約517億円を記録したことが24日、アニプレックスより発表された。400億円を超えた作品は国内史上初めて」と書かれています。これは、すごいですね!


同作品は、4月23日にアメリカでも公開されました。日本での大ヒット作品という前評判から、全米のアニメファンなどが殺到して初日などには行列も見られました。公開初週の成績は「モータルコンバット」に次いで2位でしたが、外国語映画としては史上最高というスタートでした。公開2週目の週末は、売り上げが「モータルコンバット」をわずかに上回り、アニメとしては数十年ぶりに全米興行収入1位を獲得しました。本当に、すごいですね!

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「ヤフーニュース」より

 

「現代ビジネス」が20日に配信した「全米No.1となった劇場版『鬼滅の刃』米国での『リアルな評価」」という記事には、「アニメ、しかも日本の作品が全米興行成績で首位となったのは、1999年公開の『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲(Pokémon: The First Movie)以来という。『鬼滅の刃』は6歳以下の鑑賞を禁じるR指定の映画であることから、もっと数字に悪影響が及ぶのではないかとの懸念もあったのだが、杞憂に終わったようだ』と書かれています。ワクチン接種の遅れや東京五輪の強行開催などで世界中から馬鹿にされている日本ですが、「鬼滅の刃」の快進撃に救われたような気分になるのはわたしだけではありますまい。拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)では、この映画の魅力を完全解説しています。好評発売中です。よろしくお願いいたします!

 

 

2021年5月24日 一条真也

『聖書、コーラン、仏典』  

聖書、コーラン、仏典 - 原典から宗教の本質をさぐる (中公新書)

 

一条真也です。
『聖書、コーラン、仏典』中村圭志著(中公新書)を再読しました。「原典から宗教の本質をさぐる」というサブタイトルがついています。著者は1958年、北海道生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学(宗教学・宗教史学)。宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学非常勤講師。ブログ『教養としてよむ世界の教典』で紹介した本をはじめ、著書多数。


本書の帯

 

本書の帯には、「真理とは何か、規範とは何か、修行とは何か」と書かれ、「原典に還れ」と大書されています。帯の裏およびカバー前そでには、内容紹介があります。
「宗教にはそれぞれ教典がある。開祖やその弟子たち、あるいは教団によって書かれ、編まれ、受け継がれた『教えの原点』だ。時代が変わり、教義が揺れる時に、人々が立ち返る場所としての原典ともいえよう。ユダヤ教キリスト教イスラム教、仏教から、ヒンドゥー教神道儒教道教まで。歴史を超えて受け継がれてきた教典はどのように生まれ、何を私たちに伝えようとしているのか。信仰の核心に迫る新しい宗教ガイド」


本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
    序章 小教典としての祈りと念仏
第1章 旧約聖書――イスラエル民族と神との約束
            Ⅰ 創世記
            Ⅱ 出エジプト記
            Ⅲ 「律法」の中の戒律
               Ⅳ 「預言者」と「諸書」
第2章 新約聖書――救世主の物語
               Ⅰ 共観福音書
               Ⅱ ヨハネによる福音書
               Ⅲ 受難物語
               Ⅳ パウロ書簡その他
第3章 コーラン――正しい社会の建設
第4章 パーリ仏典――ブッダの修行マニュアル
               Ⅰ 釈迦の生涯
               Ⅱ 教団の伝える教え
               Ⅲ パーリ仏典を読む
第5章 大乗仏典――諸仏の救済ビジョン
               Ⅰ 般若経典
               Ⅱ 法華経
               Ⅲ 浄土三部経
第6章 東ユーラシアの多神教の教典
               Ⅰ ヒンドゥー教
               Ⅱ 儒教道教の教典
               Ⅲ 神道祝詞と神話
    終章 教典のエコロジー
「おわりに」

 

「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「宗教が真理と規範の典拠としている文献が教典であるが、その性格も形態も使い方もさまざまである。聖書やコーランは『天地創造の神』からの倫理的なメッセージだとされるが、仏典は人間釈迦が到達したという『悟り』に人々を導き入れるための修行マニュアルだ。聖書やコーランは小型六法全書くらいの大きさにまとまっているが、東南アジアの仏典も漢訳の大乗仏典も、それぞれ百科事典並みの分量がある。紀元前からの歴史的背景をもつ聖書も仏典も1000年以上にわたって編纂され続けたものだが、大宗教の中では最も新しく成立したコーラン短時日に一挙に編集されたものである。コーランアラビア語の原典で読むべきものとされているが、聖書や仏典は翻訳に対して鷹揚であった。日本仏教は漢訳仏典を典拠としており、明治になるまでインドの原典まで遡って論じることは基本的に無かった」

 

また、「注意していただきたいことがある」として、著者は「昔の社会は識字率が低かった。だからほとんどの信者は教典に直接接することができなかった。昔の人は信心深かったから、みな聖なるテキストを読んでいたと思うのは、現代人の抱きがちな誤解である。聖書を持ち歩いている新宗教の勧誘者なども勘違いしている気配がある。昔の宗教で重視されたのは、儀礼であり、社会生活上の戒律であり、集団で行なう修行であった。教典はそうした共同体的な営みを運営するための指導員向けツールのような性格を持っていた。そういう社会的な実体抜きで、教典のデキストの中に神秘的な『霊性』を探そうとしてもあまり意味はないだろう。誰でも教典にアプローチできるようになった個人主義の現代、もはや昔の人のような教典の使い方はできないのかもしれない。文化遺産としての教典に対するニュートラルで批判的なアプローチが、ますます必要になっていくだろう」と述べます。

 

序章「小教典としての祈りと念仏」で、著者は「聖職者や修行者、あるいは神学者はともかく、一般信徒が教典をきちんと読み込むことは、そう多いことではない。昔は識字率が低いのでまして稀であった。一般信徒の多くは、教典のエッセンスとされる部分や、教典のパワーが込められているとされる聖句を唱えて済ます場合が多い。それがいわゆる祈りであり、読経であり、また呪文のような念仏や題目である」と述べています。

 

雨ニモマケズ (宮沢賢治の絵本シリーズ)

雨ニモマケズ (宮沢賢治の絵本シリーズ)

 

 

序章の最後では、「賢治の『雨ニモマケズ』」として、著者は「『雨ニモマケズ』は、仏教教理の重要ポイントを分かりやすい言葉で整理した信仰箇条、さらには一種の祈りのような性格をもっている。賢治は学生時代にキリスト教会にも通っていたので、主の祈りのことを知っていただろう。もしかしたら、賢治はこれを真似て、分かりやすい言葉で説かれた仏教式の祈りの言葉を私的に案出してみたのかもしれない」と述べます。

 

続けて、著者は「雨ニモマケズ」について述べます。
「『雨ニモマケズ』が日本人の心に強く訴えるところがあるのは、単に『デクノボー』のあたりが日本人好みの自虐的表現になっているからというだけではなく、この短かい宣誓の文句が、仏教の深い教えを分かりやすく、ほとんどキリスト教の『主の祈り』に似た形でクリアにシンプルに提示している点にあると思う。このように文芸と信仰が交錯し、伝統の教えと西洋の影響がハイブリッドに融合している点に、現代日本人のスピリチュアリティの本質的な部分が現われているように、私には思われてならない。無数にある長い長い仏典も、現代風にアレンジすると、結局は『雨ニモマケズ』のようなものに結晶化するのではないだろうか」

 

 

 第1章「旧約聖書――イスラエル民族と神との約束」のⅢ「『律法』の中の戒律」では、「穢れの意識と掟の不合理性」として、著者は「今日のユダヤ教徒は戒律のすべてを守っているわけではない。613もある戒律のうち、古代の神殿儀礼などに関するものは現代では行ないたくても行なえない。また、正統派、保守派、改革派とある3つの主流宗派のうち、改革派は戒律に関しては緩やかに解釈している。正統派はなるべく守ろうとする。保守派はその中間である。ユダヤ人の全人口1500万人のうち500万人はアメリカに、500万人はイスラエル国に住んでいるが、アメリカには改革派が多く、イスラエルには正統派が多いという。ちなみに近年欧米諸国で合法化されるようになった同性婚であるが、ユダヤ教の保守派と改革派はOK、正統派は駄目という見解をとっている」と述べます。

 

また、「預言の例――イザヤ書から」では、「本来、孤児や寡婦などの社会的弱者は社会のリーダーが守るべき存在であったのだが、社会が不安定化した時代には打ち捨てられていたようである。一神教の神の掟の要点はこうした弱者を守るところにある。後世、キリスト教の開祖(キリスト)の説いた『神の国』も、イスラム教の開祖(ムハンマド)が告げたアッラーの教えの要点も、やはり社会的弱者の保護にあった」と述べています。

 

さらに、「キリストを予告するもの」として、「後世にキリストが出現して、裁判にかけられ十字架刑死したとき、イザヤの預言通りのことが起きたとイエスの信奉者たちは解釈した。イザヤがキリストを予言したのか、キリストがイザヤの言葉に添うように行動したのか、福音書の書き手がイザヤにあわせて伝記の内容を調整したのかは分からないが、しかし、世の常識に逆らっても世のための正義を貫いて犠牲となる英雄というのは、物語パターンとしてはどこにでも現われ得ると言えるだろう」と述べています。

 

 

 第2章「新約聖書――救世主の物語」では、著者は「パウロ書簡」として、イエス・キリストについて、「キリストの伝記映画を見ると、ナザレのイエスが生前から有名人であったかのような印象を受けるが、実際には極めてマイナーで超ローカルな存在であっただろう。イエス信仰は死後の復活の噂を契機として人々の間に広まり、パウロの意味づけによって安定軌道に入ったのだ。そういう意味で、キリスト教を造ったのはパウロだと言われることがある」と述べています。

 

また、「正典に含まれなかった文書」として、著者は「外典の中には『グノーシス主義』と呼ばれる思想に属するものが多く含まれている。グノーシス主義については、1945年にエジプトのナグ・ハマディという町の近くで古代の数十点の文書が発見されたことによって大きく研究が進んだ。これは、当時ローマ帝国から中東にかけて流行した宗教思想で、一部のキリスト教もこの思想を取り込んでいたのだが、正統派教会からは『異端』とされるに至った。さまざまな形態をもち、神話なども種々雑多なものを含んでいるのだが、概ね共通しているのは、この世界を偽りの神が創造した悪しき世界と捉え、個人の魂の本質部分が世界の外部にある真の神とつながっているという世界観である。個人は世界の外部から啓示される正しい認識(グノーシス)を得ることで救済される。キリスト教バージョンでは、世界を創造した旧約の神が悪しき神、キリストは善なる救済者ということになる」と述べています。

 

クルアーン:やさしい和訳

クルアーン:やさしい和訳

 

 

第3章「コーラン――正しい社会の建設」では、「ユダヤ教キリスト教イスラム教」として、著者は「イスラム教は、ユダヤ教キリスト教の影響下に生まれた一神教である。イスラム教徒(ムスリムという)自身の理解では、これはアブラハムアラビア語でイブラーヒーム)に啓示された一神教を今日純粋な形で伝える宗教である。つまり――ムスリムの理解によれば――天地創造の神は、メッカの交易商人ムハンマドの口を通じて、最終的な啓示を人類に下したのであった。その神の言葉を記録した書がコーランアラビア語の発音はむしろクルアーン)なのである」と述べています。ちなみに、わたしはユダヤ・キリスト・イスラムの三大一神教を「三姉妹宗教」としてとらえ、『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ書房)を書きました。


ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教
(だいわ書房)

 

また、「平等の正義と信仰の基本」として、著者はイスラム教について、「一神教は、神の高みから人間世界を見下ろすような思考であるから、人間どうしの地位や身分のでこぼこは相対化される。イスラム教では、あらゆる人間を神の奴隷(アブド)と見なす。奴隷どうしだと思えば人類はみな兄弟だと思えるだろう。(中略)地上のいかなるものも礼拝してはいけないのであるから、国王、大統領、映画スターやスポーツ選手などのセレブやアイドルを崇拝してはいけない。地上に崇拝の対象がないというからには、人類はみな兄弟として助け合わなければならない。というわけで、弱者に手を差し伸べることが一神教、そしてイスラム教の基本的な教えとなっている」と述べています。

 

パーリ語仏典『ダンマパダ』―こころの清流を求めて

パーリ語仏典『ダンマパダ』―こころの清流を求めて

  • 作者: ウ.ヴィッジャーナンダ,北嶋泰観
  • 出版社/メーカー: ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
  • 発売日: 2000/08
  • メディア: ペーパーバック
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第4章「パーリ仏典――ブッダの修行マニュアル」では、「悟り中心の宗教」として、著者は「仏教の歴史は長い。そして非常に多様な宗派を派生させた。今日、東南アジアのテーラワーダ仏教では、出家者が戒律を厳格に守ることで自己を律する毎日を送っている。日本・中国・チベットなどの大乗仏教の場合、たとえば密教系の宗派では、マジカルな儀礼を通じて修行者自身が象徴的にブッダと合一できるのだという。禅宗では、ひたすら坐禅することで自らの根底にあるブッダの本性を表わす。浄土信仰では、ひたすら念仏(「南無阿弥陀仏」)を唱えるうちに絶対者である阿弥陀ブッダに救われている自己を発見する。法華信仰では、題目(「南無妙法蓮華経」)を唱えることで、地獄の亡者から悟りのブッダまでの全生命との連帯の世界への扉を開く。こうした宗派ごとの方法論の差は非常に大きく、見ようによっては、宗派と宗派の違いはユダヤ教キリスト教イスラム教との差に近いとも言えるだろう。それにもかかわらず、仏教が同一の宗教だと認定できるのは、いずれの宗派も悟りや安心といった人間の心の状態に焦点を当てており、いずれの宗派の信者も自らは開祖釈迦以来の伝統を守っていると考えているからである」と述べています。

 

また、Ⅰ「釈迦の生涯」では、「誕生から出家まで」として、「釈迦は紀元前463年頃に北インドの王家に生まれた。生まれてすぐの王子が7歩歩んで右手を上げて『天上天下唯我独尊(私は世界で一番すぐれている)』と言ったとよく言われているが、これは釈迦よりも過去に出現したとされる別のブッダについての神話が伝承の過程で紛れ込んだものである(仏教では究極の悟りを得ればブッダになれるので、原理的にはブッダは釈迦人とは限らない)」と書かれています。

 

「教団の繁栄と釈迦の入滅」として、著者は「釈迦の教団は、当時のガンジス川流域の二大国、マガダ国とコーサラ国のそれぞれの首都において、竹林精舎と祇園精舎という2つの修行キャンプを寄進される。これが寺院の始まりである。修行者たちは無一物のまま村々をゆるやかに歩き回っていたようだが、初夏の雨期には精舎に定住して集中コースに入るという習慣が生まれた。これを雨安居という。なお、教団すなわち修行者の集まりをサンガ(僧伽、僧)という」と述べています。

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

 

Ⅲ「パーリ仏典を読む」では、「スッタニパータから」として、釈迦はマジカルな儀礼を否定し、心の修行に目標を切り替えたことが紹介されます。階級制度を無意味と見なし、心を修めた者をこそ「婆羅門」と呼ぶべきだと言いました。

 

大乗仏典〈1〉般若部経典―金剛般若経・善勇猛般若経 (中公文庫)

大乗仏典〈1〉般若部経典―金剛般若経・善勇猛般若経 (中公文庫)

 

 

第5章「大乗仏典――諸仏の救済マニュアル」では、「大乗仏教の誕生」として、著者は「仏教は本来、たくさんの戒律によって身を律する修行の宗教であった。釈迦より5世紀ほど後の時代に台頭してきた大乗仏教は、この禁欲的な出家宗教に対する『応用編』であり、大衆性をもち、教えは多様化と複雑化によって彩られている。『大乗』とは広く民衆を救済できる『大きな乗り物』を意味している。同じ頃、中東・地中海地方ではキリスト教が誕生している。キリスト教もまたその母体となったユダヤ教に比べて、教済の間口が広く、かつ神学的な複雑度の高い宗教である。キリスト教では従来の律法に代えて生きて世に出現した神であるキリストを信仰する。大乗仏教では、釈迦の他に阿弥陀大日如来など、さまざまなブッダに対する信仰が説かれ、神学の多様化が進んでいる。初期仏教であろうが、大乗仏教であろうが、仏教の基本的な世界観は、輪廻と解脱とを対照するものだ」と述べています。

 

また、「密教経典と曼荼羅」として、著者は「仏教は出家修行を中心とするかなりエリート性の高い宗教であり、農村の民衆の多くは古来の神々を信仰し婆羅門の儀礼や呪術を頼りとする土俗的な宗教を奉じていた。婆羅門教などと呼ばれるこの宗教を再組織化して5世紀以降大々的に復興を遂げた民族的な宗教体系がヒンドゥー教である。大乗仏教は輪廻世界を肯定的に捉え、自利の悟りよりも利他の救いを重んじたとはいえ、民衆的に分かりやすいヒンドゥー教の前には衰退を余儀なくされた。そうした中でヒンドゥー教的な儀礼や呪術の力を取り込んで、壮麗な諸仏諸菩薩のパンテオン(万神廟)的な瞑想のビジョンを打ち立てたのが、5世紀以降台頭した密教だ。これは大乗仏教としては後期ということになる」と述べます。

 

続けて、著者は「宗教というのは人生哲学のようなものでもあるが、本質的なところにマジックと儀礼がある。慈悲や愛の実践だけでは宗教の実態を尽くせるものではない。キリスト教でも正教会カトリックは壮麗なる教会の儀礼を信仰の鍵としており、ルルドの泉のような病気治しの奇跡の伝承もたっぷりとある。インド仏教の歴史的発展の最終形が呪術的儀礼に彩られた密教であったことは、それほど不思議なことではないだろう」と述べています。

 

全品現代語訳 法華経 (角川ソフィア文庫)

全品現代語訳 法華経 (角川ソフィア文庫)

 

 

 Ⅱ「法華経」では、「結局、法華経のメッセージは、次の3つに要約できる。第1はあらゆる衆生の成仏可能性、第2はそれを応援する久遠の釈迦の存在、第3は釈迦の恩義に応えて菩薩道を歩むべきこと、である。キリスト教になぞらえれば、万人が潜在的に天国に行けること、それを神キリストが応援していること、そしてキリストの恩義に応えて神に忠実であるべきこと、となるだろう」と書かれています。

 

リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫)

リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫)

 

 

 第6章「東ユーラシアの多神教の教典」のⅠ「ヒンドゥー教典」では、「最重要の教典ヴェーダ」として、「ヴェーダは紀元前1200年頃から漸次的に成立した文献群である。ヴェーダというサンスクリット語は『(宗教的な)知識』を意味する。ヴェーダは総称であり、祭場に神々を招く際に誦する1000首あまりの讃歌を集めたものがリグ・ヴェーダ、祭儀において旋律をつけて歌う讃歌を集めたもの(多くはリグ・ヴェーダと同じ)がサーマ・ヴェダ、さらに供物を捧げるなど祭儀の際に唱える祭詞を集めたものがヤジュル・ヴェーダ、そして招福除災の呪文を集めたのがアタルヴァ・ヴェーダである。この4種のヴェーダのそれぞれがサンヒター(本集)、祭儀の具体的方法を記したブラーフマナ(祭儀書)、森林の中で伝えられるべき秘義を記したアーラニヤカ(森林書)、神秘哲学的な文献であるウパニシャッド(奥義書)の4つのパートに分かれている」と書かれています。

 

ウパニシャッドの思想 (中村元選集)

ウパニシャッドの思想 (中村元選集)

 

 

また、「ウパニシャッドと梵我一如」として、著者は「ウパニシャッドの哲学において重要な概念はブラフマンアートマンである。もともと呪力のようなものを意味していたブラフマンは、神々をも支配する宇宙の根本原理にまで高められた。他方、もともと気息を意味していたアートマンは、個人の自己の本体の意味にまで高められた。この2つは大宇宙と小宇宙、世界と個人という2つの極限を表わす本質概念だ。どちらも日常的な表層の次元を飛び越えた霊的な概念であるが、この両者を『同一』と見なすのが、ウパニシャッド哲学の中核的思想であるとされる」と述べています。

 

さらには、「二元的な教典・準教典」として、著者は「インドの古典期にはヴェーダないしウパニシャッド哲学からの展開として、サーンキヤ学派(精神的原理と物質的原理の二元論を説く)、ヨーガ学派(サーンキヤに準じ、最高神を認め、ヨーガを実践する)、ニヤーヤ学派(認識論と論理学を展開)、ヴァイシェーシカ学派(宇宙を6つの原理で説明する)、ミーマーンサー学派(ヴェーダの体系的研究から展開)、ヴェーダーンタ学派(梵我一如による解脱を説く正統派学派)の六派哲学が開花し、それぞれが基本の教典をもっている」と述べます。

 

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

 

 

 続けて、著者は「インドでは5世紀頃に現在の形になったとされる『マハーバーラタ』と3世紀頃に成立した『ラーマーヤナ』の2つの叙事詩も、教典的な扱いを受けている。前者は、はるか太古に起きたバラダ族の王位継承戦争を歌ったものであり、その一部に組み込まれた『バガヴァッド・ギーター』という哲学詩には、自らの本分を尽くすこと(王族階級であれば戦うこと)が解脱の道であると説く神クリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)の教えが記されている。後者は、やはりヴィシュヌ神の化身である王子ラーマが、魔王によってランカー島に幽閉された妻シータを救い出す物語である。ここには猿の将軍ハヌマーンが登場するが、これは中国の『西遊記』の孫悟空の元ネタなのだそうだ。ヴィシュヌ神に10の化身があることなどが書かれている『プラーナ聖典』は『ブラフマ・プラーナ』『バーガヴァタ・プラーナ』など5世紀以降に作られた教典群の総称である」と述べています。

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 

Ⅱ「儒教道教の教典」では、『論語』について、著者は「中国第一の書と言えば、何といっても『論語』だ。紀元前6~5世紀の孔子の言葉を死後に弟子たちが集めたものだが、編纂が完了したのは漢代であるという。ともあれ、成立の出発点の時期はスッタニパータやダンマパダなどの初期仏典に近く、重要度においてはキリスト教世界の福音書に相当する」と述べています。

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

Ⅲ「神道祝詞と神話」では、『古事記』について、「冒頭は世界の始まりの描写である。いわば日本神話版創世記だ。天地の創生は最初の神々の発生プロセスと同時である。つまり神が天地を創造したのではない。アメノミナカヌシ(天之御中主)、タカミムスヒ(高御産巣日)、カムムスヒ(神産巣日)という三神が自然に『成』ったのである。ムスヒ(ムスビ)は産霊などとも書かれるが、生成の原理のようなものだ。後世これが縁結びなどの『結び』と合流した。アニメ『君の名は。』で神秘な働きをムスビと呼んでいるが、生命パワーと縁結びのイメージが交錯したもののようである」と述べます。なお、各種の仏典や『論語』『古事記』については、わたしも

神道&仏教&儒教」の副題を持つ『知ってビックリ! 日本三大宗教のご利益』(だいわ文庫)で詳しく紹介しました。


神道&仏教&儒教』(だいわ文庫)

 

終章「教典のエコロジー」では、「聖書・コーラン・仏典は並び立つか」として、著者は「聖書とコーラン、と我々は並べて呼ぶが、そもそもこの二書は地位的に異なる位置にあると言うこともできる。イスラム教のコーランに相当するのはキリスト教ではむしろキリストそのものであり、コーランを告げた媒体としてのムハンマドに相当するのが、キリストについて証言している聖書である、という見方もあるくらいだ」と述べています。

 

また、著者は「聖書などは物語性・歴史性が豊富で、しばしば楽しい読み物の様相を呈しているが、仏典の中核部分はたくさんの概念の抽象的列挙であり、歌のリフレーンのように類似の長い表現を幾度も幾度も繰り返している。『聖書を読もう』という感じで『お経を読もう』と人々に勧めることがなかなかできない所以である。もっとも、仏典にも物語性の強い部分はある。釈迦の成道のプロセスや前世の説話(ジャータカ、本生譚)、法華経の『三車火宅』『長者窮子』の譬喩などである。それでもルカ福音書の放蕩息子の物語に比べたら、長者窮子の譬喩は冗長すぎて今日の読者にはなかなか趣意がつかめないだろう」とも述べています。

 

さらに、「教典の曖昧な外延」として、著者は「そもそもユダヤ教典=旧約聖書古代イスラエル民族の文学全集とでもいった性格をもっており、歴史書、教訓詩、恋愛詩、説話の類を取り込んでいる。旧約でも新約でも『外典』や『偽典』と呼ばれる周辺文書があるし、キリスト教では古代の哲学的な指導者が記した書物――アウグスティヌスの『神の国』など――や戒律書――修道院の開祖聖ベネディクトゥスの書など――もある。ユダヤ教では、『律法』(旧約の中のモーセ五書)やそれに付加されたさまざまな口伝の訓戒や規則について、古代の学者たちがさまざまに論じた結果をとりまとめた百科事典並みに大きいタルムードと呼ばれる書物があり、ラビたちはこれをひもといて聖書を解釈し、人々の指導に役立てている」と述べます。

 

最後に、著者は「教典・準教典のこうした広がりを見ていると、『聖書』『コーラン』『仏典』『ヴェーダ』といった教典と名指された文書はただそれだけで成立しているものではなく、周辺の文脈込みで機能してきたことが分かってくる。そうした文脈の中には教団組織もあれば歴史的環境もある。生物が周辺環境から切り離せないというエコロジー生態学)に例えて、『教典のエコロジー』のようなものを語ることもできるだろう」と述べるのでした。


サンデー毎日」2017年10月8日号

 

わたしは、世界の聖典や教典とは「こころの世界遺産」であると考えています。2017年の7月9日、福岡県宗像市沖ノ島が「神宿る島、宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成資産の1つとして、ユネスコにより世界遺産に登録されました。地元ではかなり盛り上がりました。地元といえば、わたしは、北九州市門司港にある日本唯一のミャンマー式寺院「世界平和パゴダ」が世界遺産になることを願っています。今年、国の登録有形文化財(建造物)にはなりましたが、本当は世界遺産に登録されるべきだと考えています。世界遺産には、遺蹟や聖地などの「場所」、寺院や神殿などの「建物」のイメージが強いですが、わたしは「こころの世界遺産」というものがあってもいいのではないかと思っています。というのも、人類の歴史において、多くの人々の「こころ」に対して大きな影響を与え、現在も続けている人物や書物に深い関心があるのです。


世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

 

以前、『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という本を書いた。同書ではブッダ孔子老子ソクラテスモーセ、イエスムハンマド聖徳太子の8人を取り上げ、その生き様、考え方、そして共通点などについて詳しく述べました。人類に影響を与えた人物には、8人の聖人以外にも、古今東西の英雄がいます。しかし、彼らの築いた帝国や王国や王朝や幕府は今では存在しません。彼ら英雄の影響力は現在進行形ではないのです。聖人たちの教えは、仏典、『旧約聖書』『新約聖書』『コーラン』『論語』『老子』などに残され、世界中の人々の「こころ」に良き影響を与え続けます。


儀式論』(弘文堂)

 

これらの書物は「こころの世界遺産」と呼べる人類の宝であり、世界平和に通じる「教養」を育みます。「こころの世界遺産」を読むことは大切です。わたしは、これからも「こころの世界遺産」に広く目配りすることを心掛け、いずれは『儀式論』(弘文堂)の姉妹本となる大著『聖典論』を書きたいです。その意味でも、本書『聖書、コーラン、仏典』は非常に参考になりました。著者は上智大学グリーフケア研究所島薗進所長とも懇意であり、『はじめて学ぶ宗教』(有斐閣)という共著も出されているそうですので、ぜひ一度お会いして、聖典や教典について語り合ってみたいです。

 

 

 2021年5月24日 一条真也

『教養としてよむ世界の教典』  

教養としてよむ世界の教典

 

一条真也です。
『教養としてよむ世界の教典』中村圭志著(三省堂)を再読しました。仏典、聖書、コーランなど、世界の主な宗教の「教典」を概観する一冊です。教典をニュートラルな視点で眺め、現代人に必須な「教養」として読み解いています。著者は1958年、北海道小樽市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。宗教学者・編集者・翻訳家。昭和女子大学非常勤講師。著書多数。


本書の帯

 

本書のカバー表紙には、取り上げている世界の聖典や経典の名が並べられ、帯には「お経、聖書、コーランヴェーダ・・・・・・。ナカムラ先生の『日本一わかりやすい宗教の授業』開講!!」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「・・・・・・こうした時代には、経典を文献学や歴史学の成果をふまえたニュートラルな視点で眺め、それを論理的に分析・批判しながら読むことが、文献学者や歴史学者ならざる人々にも、必然的に要求される。・・・・・・比較や批判の視点から「人類の知的遺産」として、つまり宗教をすっかり相対化した立場で読むという心構えがますます妥当なものになっていくだろう。(本書「はじめに」より)」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一部 仏典の世界
【第1章】ダンマパダ*苦と因果
[コラム]釈迦の生涯
【第2章】般若心経*とらわれない心
[コラム]哲学と空
【第3章】法華経*菩薩の道
[コラム]救済宗教の誕生
【第4章】浄土三部経*他力の救い
[コラム]東アジアの大乗仏教
第二部 聖書とコーランの世界
【第5章】旧約聖書*神の共同体
[コラム]ユダヤ教の歴史
【第6章】福音書*愛と犠牲
[コラム]四福音書の構成
【第7章】パウロ書簡*救済の神学
[コラム]キリスト教の歴史
【第8章】コーラン一神教の再構築
[コラム]六信五行とイスラム法
第三部 世界のさまざまな経典
【第9章】ヴェーダ*梵我一如と神々
【第10章】論語と道徳教*儀礼とタオ
【第11章】神道と日本の民俗的世界
【第12章】西洋の神話と哲学
教典ガイド
■原始仏典
■大乗仏典
旧約聖書
新約聖書
コーラン
ヒンドゥー教
■中国の教典
「注釈」
「あとがき」

 

「はじめに」では、本書の特徴として諸宗教を横断して眺める点、および宗教や教典を「信仰」から離れた視点で眺めている点を挙げ、著者は「現代人が『信仰』抜きで教典に接するときに注意しておかなければならないことがある。教典は概ね古代の書物である。多くは口承から始まったものであり、現代の『本』のような形で読者本位に編纂されたものではない。いずれも現代人になじみのない古代の風習を前提としているから、歴史的文脈の解説抜きには読めない」と述べています。

 

 

本書では多くの世界の教典がポイントを押さえて解説されていますが、まずは、法華経の解説が優れていると思いました。第一部「仏典の世界」の第3章「法華経*菩薩の道」では、著者は法華経について、「法華経は、仏教になぜ大乗と小乗があるのかを、開祖釈迦に説明させた経典である。開祖が後世の大乗のことを知っているはずもないので、これはあくまでも神話だ。一種の思想劇である。法華経を書いた人々は大乗グループに属するので、当然、大乗に有利な発想で書いているわけだが、大乗・小乗という方法論の違いへのこだわりを超えて、より大きな視点で宇宙全体を見ようという意欲に満ちている。法華経を読んでいると『世界はさまざまな境遇のさまざまな性質の人々に満ちている』という実感がわいてくるだろう」と述べます。

 

全品現代語訳 法華経 (角川ソフィア文庫)

全品現代語訳 法華経 (角川ソフィア文庫)

 

 

また、「基本の構図――小乗vs大乗」として、著者は法華経について、「ガンジス川流域の大平原の真ん中にある小さな山、霊鷲山の上で、80歳頃の、そろそろ涅槃入りが近づいている釈迦が、出家修行者たち、大乗の菩薩たち、その他、国王など一般会衆やさまざまな霊的生物たちを前に、遺言のような『世紀の重大発表』を行なう。これが法華経の基本プロットだ。この重大発表の中で、万人成仏や永遠のブッダなどの福音が説かれるのである。ここで、釈迦の2種類の弟子たちが対比的に描かれていることを押さえておいてほしい。それは『小乗』の弟子たちと『大乗』の弟子たちである」と説明しています。


この法華経の構図について、著者は「この構図は基本的に時代錯誤(アナクロニズム)であり、かつ現実と神話が入り混じっている。そもそも古代インド人には「時代」という発想はなかった。彼らは時間とともに変化するものには興味がなく、おかげで歴史上の人物や出来事の年代の記録をいっさい残さなかった。中国史と異なってインド史の年表には確実な年代表記がほとんどない。しかも古代人は一般に、歴史上の実在と神話的フィクションとを区別しない。それは聖書の世界でもコーランの世界でも同様である」と述べます。

 

また、「『南無妙法蓮華経』の誕生」として、著者は「日本では昔から法華経に人気がある。伝説的なプリンス、聖徳太子が注釈書を書いたのもこの法華経だし(法華義疏、他に維摩経義疏勝鬘経義疏がある)、中世に日本仏教の総合大学のようになった比叡山延暦寺の宗旨、天台宗法華経を奉じる宗派だ。日蓮法華経の行者の第一人者を自任し、近代になってからは法華系の国家主義が流行し、また法華系新宗教が大躍進した。今日、欧米で知られている日本系の仏教は、戦後まもなくに鈴木大拙が広めたゼン・ブディズムでないとしたら、法華系の在家団体の1つである創価学会なのである」と述べています。

 

哲学入門 (新潮文庫)

哲学入門 (新潮文庫)

 

 

そして、コラム「救済宗教の誕生」で、著者は「紀元前5世紀の前後数百年の間に、孔子は仁を説き、老子は玄妙な道を説き、釈迦は苦からの解脱を説き、旧約聖書預言者たちは「孤児」や「寡婦」つまり社会的弱者を守れと説き、ギリシャの哲人は世の思いなしを超えて深く考える道を説いた。この時代を人類精神史上の革新の時代と考えて「軸の時代」という概念を提唱したのは、実存哲学で有名なカール・ヤズパースだ(1949年)。中国、インド、地中海沿岸で同時並行的に、人生と宇宙を深く考える知識人たちが輩出したわけだが、それから数世紀遅れて、やはり世界各地で同時並行的に、人々の全体を救済し、社会全体に新たな秩序を与えることをもくろむ大型の宗教が成立した。漢帝国儒教、唐代に国教化された道教クシャーナ朝の頃から発展を遂げた大乗仏教グプタ朝ヒンドゥー教ローマ帝国で流行したミトラス教、キリスト教グノーシス主義の諸宗教、そして遅れてアラビア半島に出現し自前で国際的国家(サラセン帝国)をつくったイスラム教である」と述べるのでした。

 

観無量寿経 (ちくま学芸文庫)

観無量寿経 (ちくま学芸文庫)

  • 発売日: 2015/01/07
  • メディア: 文庫
 

 

第4章「浄土三部経*他力の救い」では、著者は「もともとインドではさまざまなブッダのさまざまな浄士が考えられていたが、中国においては、阿弥陀仏の極楽浄土の人気が他を圧倒した。また、浄土に往生するための観想の方法は、観無量寿経に説かれているようにさまざまなバリエーションがあったのだが、中国の善導が『南無阿弥陀仏』と口に出して唱えることを重視し、日本の法然がこれを称名念仏と名付け、末法時代の凡夫はもっぱらこれによって救われると説いた(専修念仏)」と述べています。

 

 

第二部「聖書とコーランの世界」の第5章「旧約聖書*神の共同体」では、「無数の規定とアイデンティティ」として、著者は「無数の規則の中には合理的に理解できるものもあるが(殺人の禁止など)、食物規定などを自然科学的な意味で合理化することは不可能だろう。中にはツァーラアトという皮膚疾患の類に対する忌避的な規定は、従来これを『らい』あるいは『ハンセン氏病』と解釈することで、ハンセン氏病患者に対するいわれなき差別を助長してきた。そもそもツァーラアトに相当する単一の皮膚疾患は存在しないそうで、概念そのものが極めてあやふやである。古代人のタブーの類がテキスト上に書き込まれ、そのテキストが『聖典』と規定されることで、社会的差別を促進してきたわけであり、宗教というものの両義的な性格がよく表れていると言える。これはどの宗教でも同じで、ヒンドゥー教にはカースト制度という階級差別があったし、仏教もまた女性差別階級差別と結びついていた(日本の部落問題のように)。今日でも、レビ記の規定に同性愛への忌避があるがゆえに、同性愛者を差別する善意の宗教家がいる」と述べています。

 

第8章「コーラン一神教の再構築」では、「開端章と神の唯一性」として、著者は「たいていの救済宗教は教典をもっている。民族の違いを超えたメッセージの伝播には翻訳の問題がつきまとう。聖書もお経も幾度も翻訳が繰り返されているが、決定訳といったものにたどり着くことはないだろう。東アジアでは、般若心経でも法華経でも浄土三部経でも基本的に漢訳のものを使い、これをいわば『原典』としている。テキストが出発点のインドから遊離してしまうのは、仏教という思考にとって決定的損失ではない。悟りの要点は言語を超えた瞑想にあり、それは神の言う不立文字(テキストにたよらない)という形でさえ伝授し得るからである」と述べています。

 

 

続けて、著者は以下のように述べています。
一神教の場合、唯一神が何よりも重要なポイントであり、この神について証言するテキストの純粋性へのこだわりが強い。神について記した言葉は、ヘブライ語であったり(旧約聖書)、ギリシャ語であったり(新約聖書)、アラビア語であったり(コーラン)する。それぞれに癖があり、時代的・地域的制約もある。キリスト教は、翻訳してもメッセージの本質は変わらないとの立場だが、イスラム教は逆に、翻訳すると何か肝心なものが失われるとの立場である。だから各国語のコーランの翻訳は、すべて解説書との建前で訳されたものである」

 

クルアーン:やさしい和訳

クルアーン:やさしい和訳

  • 発売日: 2019/02/07
  • メディア: 単行本
 

 

また、「神の支配する共同体のジレンマ」として、著者は「ムハンマドの提示した神の下の平等の原理に基づく共同体は、中世イスラム帝国の時代にはたしかに世界でも先進的な、活発な社会であったようだが、近現代においては大きなジレンマを抱えるようになった。近代のアジア社会は、イスラム社会であれ、ヒンドゥー社会であれ、儒教の社会であれ、概ねヨーロッパ(およびヨーロッパの真似をした日本など)の政治的・軍事的支配下に置かれてきた。どうやら宗教優位のアジア社会は、戦略や安全保障という点で呑気すぎたようで、宗教と政治を切り離した宗教改革以降のヨーロッパの戦略的な抜け目の無さにまったくかなわなかった。そしてヨーロッパの効率よいシステムの前に、地元の宗教の威信も低下し続けた」と述べます。

 

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

 

 

第三部「世界のさまざまな教典」の第9章「ヴェーダ:梵我一如と神々」では、「バガヴァッド・ギーター――神信仰による包括的解決」として、「バガヴァッド・ギーターはさまざまな教理をコンパクトにまとめたテキストだ。ここには世俗の義務による救済があり、悟りの解脱がある。ヨーガも語られ、神への信愛も語られる。永生も語られ、神は永遠の姿を見せる」と書かれてます。

 

論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)

 

 

第10章「論語と道徳教*儀礼とタオ」では、「儒教道教、仏教のミックス」として、「中国の多神教的伝統は、儒教道教・仏教の三教の混合である。歴史の中で3つの伝統は批判しあうこともあったが、結局のところ影響しあい、依存しあい、画然とわけられない混合的な宗教文化を形成してきた。中国人の宗教の倫理的な柱となっているのは祖先祭祀である。『孝』とは、ご先祖さまをお祭りし、両親の言うことを聞き、そして子孫を増やして先祖の祭りが絶えないようにすることを意味する。孝を中心として展開している宗教が儒教であり、この祭りの秩序を、個人倫理的な徳目によって引き締めたのが、孔子に始まる儒学の伝統である」と書かれています。

 

また、「儀礼と仁」として、著者は孔子について、「孔子の世界の興味深いところは、知識人どうしの交わりのこうしたオープンな性格が、伝統の儀礼を重んじる秩序志向と共存している点にある。そもそも孔子の学園における勉強なるものも、抽象的な理論的考察ではなく、儀礼など具体的な制度の研究であった。我々は宗教のメッセージといえば『慈悲』とか『平和』とかの観念に注目しがちだが、実際のところ宗教において重要なのは、集団の中で行う具体的な動作としての儀礼だ。祈りひとつとっても、それなりのしぐさのパターンがある。イスラム教の日に5回の礼拝は、立ったり座ったり、やることがいちいち定まっている」と述べています。この著者の意見に、わたしは全面賛成です。

 

教行信証 (岩波文庫)

教行信証 (岩波文庫)

  • 作者:親鸞
  • 発売日: 1957/10/07
  • メディア: 文庫
 

 

教典ガイドの「大乗仏典」では、日本仏教における教典・聖典について、著者は「日本仏教においては、各宗派の開祖や禅僧などの著書もほとんど『教典』『聖典』のような地位を得ていると言っていいだろう。著名なものとしては、最澄の『山家学生式』(819年)、空海の『秘密曼荼羅十住心論』(830年)、法然の『選択本願念仏集』(1198年)、親鸞の『教行信証』(『顕浄土真実教行証文類』)(1224年から)、道元の『正法眼蔵』(1231年から)、日蓮の『立正安国論』(1260年)などがある」と述べています。

 

 

そして、教典ガイドの「新約聖書」には、「『正典』から外されたグノーシス的傾向のある文書の中には、通常は裏切り者とされているユダにイエスが秘密を伝えたとするもの(ユダ福音書)や、男ばかりからなる弟子集団からはじかれている女性のマリア(マグダラのマリア)にイエスが教えを垂れたというもの(マリア福音書)なども含まれている。正統主義から外れていることから、今日、グノーシス文書がマイノリティーや女性の復権の視点から脚光を浴びている」と書かれています。

 

原典 ユダの福音書

原典 ユダの福音書

  • 発売日: 2006/06/02
  • メディア: 単行本
 

 

本書を読み終えてみて、「はじめに」で明言されているように、宗教や教典を「信仰」から離れた視点で眺めている点が長所となっていると感じました。各宗教の経典を比較し、レトリック的技法などに対して批判も交えて説明していますが、読者が理解しにくい部分も「これは教典」だからと押しつけることをせず、そのテキストからどんなメッセージが読み取れるかを解説してくれます。各宗教についても説明もわかりやすいですし、巻末にはオーソドックスな教典ガイドもあって、便利です。異文化理解に大いに役立つ一冊だと思います。


世界の聖典・経典』(光文社知恵の森文庫)

 

わたしも聖典や教典には強く関心を抱いています。一昨年は、『知れば知るほど面白い 世界の聖典・経典』(光文社知恵の森文庫)という著書を上梓したほどです。同書は、読者にとっての「真の国際人になるためのガイドブック」を目指して書きました。

 

21世紀は、9・11米国同時多発テロから幕を開いたように思います。この世紀が宗教、特にイスラム教の存在を抜きには語れないことを誰もが思い知りました。世界における総信者数で1位、2位のキリスト教イスラム教は、ともにユダヤ教から分かれた宗教です。つまり、この3つの宗教の源は1つ。ヤーヴェとかアッラーとか呼び名は違っても、3つとも人格を持つ唯一神を崇拝する「一神教」であり、啓典を持つ「啓典宗教」です。啓典とは、絶対なる教えが書かれた最高教典のことです。おおざっぱに言えば、ユダヤ教は『旧約聖書』、キリスト教は『新約聖書』、イスラム教は『コーラン』を教典とします。『旧約聖書』は三つの宗教に共通した教典です。


イスラム教について

 

キリスト教イスラム教と並んで三大「世界宗教」とされる仏教は啓典宗教ではありません。仏教の中には経典はたくさんあっても啓典はないのです。経典の中の経典とされる『般若心経』でさえ啓典ではありません。「汗牛充棟」なる言葉があるほど、仏教の経典は膨大である。「如是我聞」すなわち、「このように私は釈尊から聞いたのだが」と最初に書けば何でも経典になります。『法華経』でさえ釈迦入滅後1000年以上も後に作られたといいますが、その後も多くの教典が続々と作られました。


ヒンドゥー教について

 

仏教だけでなく、ヒンドウー教にも、儒教道教にも、日本の神道にも啓典はありません。ない。啓典宗教は、ユダヤ教キリスト教イスラム教の三姉妹宗教だけなのですが、ヒンドゥー教には『ヴェーダ』が、儒教には『論語』をはじめとする四書五経が、道教には『老子』や『荘子』が、神道には『古事記』や『日本書紀』があります。それらの書物を、「聖典」のジャンルに入れても間違いではないでしょう。


死者の書』や『アヴェスター』も紹介

 

実際、大正時代に出版された『世界聖典全集』という世界中の宗教や哲学における聖典を網羅した稀有壮大な叢書には、『聖書』や『コーラン』、『般若心経』などの各種仏典はもちろん、『論語』などの四書五経、『老子』、『ウパニシャッド』、ゾロアスター教の『アヴェスタ』、エジプトの『死者の書』、そして『日本書紀』までが収められていました。

これが『世界聖典全集』全30巻だ!

 

ブログ「『世界聖典全集』を全巻購入しました」に書いたように、この『世界聖典全集』をわたしは全巻購入し、通読しました。それまでも各宗教の聖典や『論語』などは何度も読み返していましたが、大正時代に出版された革張りのハードカバーで聖なる言葉を読むのは格別でした。聖典や経典の魅力に取りつかれたわたしは、『慈経 自由訳』(三五館)、『般若心経 自由訳』(現代書林)、『世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)、『はじめての「論語」』(三冬社)などを書きました。

 

慈経 自由訳般若心経 自由訳世界一わかりやすい「論語」の授業 (PHP文庫)はじめての「論語」 しあわせに生きる知恵

 

宗教を知らずして、「世界は1つである」とか「人間はみな同じである」などと能天気に叫んでも、国際社会においては戯言にすぎません。たしかに、肌の色や民族や言語が違っても、人間は人間です。でも、人類という生物種としての肉体、つまりハードは同じでも、ソフトとしての精神が違っていれば、果たして同じ人間であると言い切れるでしょうか。大事なのはソフトとしての精神ではないでしょうか。その精神に最も影響を与えるものこそ宗教であり、その内容を知るには聖典や経典を読むのが一番です。


世界中の人の「こころ」を知るために

 

知れば知るほど面白い 世界の聖典・経典』には、それぞれの聖典・経典の興味深いエピソードも多く集めました。2020年に開催される東京オリンピックもいよいよ近づいてきましたが、同書を読まれたみなさんが世界中の人の「こころ」を知り、真の国際人になられることを願っています。なお、同書の内容をさらに拡大・深化させ、いずれは『儀式論』(弘文堂)の姉妹本となる大著『聖典論』を書きたいです。その意味でも、本書『教養としてよむ世界の教典』は参考になりました。著者は上智大学グリーフケア研究所島薗進所長とも懇意であり、『はじめて学ぶ宗教』(有斐閣)という共著も出されているそうですので、ぜひ一度お会いして、聖典や教典について語り合ってみたいです。

 

教養としてよむ世界の教典

教養としてよむ世界の教典

 

 

2021年5月23日 一条真也拝