地震多発の石川県へ!

一条真也です。
石川県で地震が多発しています。
6月19日に震度6弱、20日の午前中に震度5強、午後には震度4を観測する地震がありました。21日、その石川県に飛行機で向かいました。


福岡空港の前で

 

オーキッド・パープルカラーのマスク姿のわたしは、迎えの車に乗って福岡空港に向かいました。北陸に出張するためです。サンレー北陸の本部会議に参加するとともに、ブログ「加賀大観音」で紹介した巨大観音像の関係者と面談し、観音像の内部に初めて入ります。


福岡空港にて


昼食は、かき揚げうどん&ネギ

 

福岡空港は、まあまあの人の数でした。空港ロビーにある「はなまるうどん」で昼食を食べることにしました。以前きたときは、わたしの前に並んでいた若者につられて、ワカメうどんの大に野菜かき揚げをトッピングしましたが、量が多すぎて半分ぐらい残しました。昔は、この何倍もペロリと平らげたのに・・・もう、トシです! 今回は、かけうどんの中に野菜かき揚げをトッピングしました。「ネギを多めでお願いします」と言ったら、サイドメニュー(有料)で大量のネギが出てきました。(苦笑)

ANAラウンジにて


飛行機と青汁と詩集

 

その後、ANAのラウンジで青汁を飲みながら、宗教哲学者の鎌田東二先生の第四詩集『絶体絶命』(土曜美術社出版販売)を読みました。もっと早く読みたかったのですが、ずっとバタバタして時間と心の余裕がなく、ようやく落ち着いて読めます。


ようやく詩集を開くことができました

整列して並ぶ航空各社の飛行機


搭乗口からはバスで飛行機へ


小さな飛行機に乗りました

 

ふと窓の外を見ると、目の前にANA・JAL・スターフライヤースカイマーク・ピーチなどの機体が綺麗に整列して並んでいました。福岡便の種類も多いのですね。ラウンジを出ると、搭乗口からバスに乗って小さな飛行機が停まった場所まで行き、そこからANA4648便に乗り込みました。ただでさえ狭い機内は満席で、窮屈この上なかったです。(涙)

機内のようす

機内でも、読書しました

 

機内は、思ったよりも多くの乗客がいましたね。わたしは、再び『絶体絶命』を読みました。鎌田先生は、2018年から2019年にかけて続けさまに3冊の詩集を出されたので、もう詩集は出さないつもりだったそうです。しかし、2月24日にロシアによるウクライナ侵攻があって緊急出版することにしたといいます。侵攻1ヵ月後の3月24日から4月4日までの間の10日間で全詩篇を書き上げ、5月中旬に出版したのですから凄いですね。鎌田先生は、ムーンサルトレターの第205信に「これを書いたからと言って何かが大きく変わるわけでもないのですが、しかし、平和を作り上げるとはどんなことなのか、神話や歴史から深く考えていくきっかけを持つことができるとおもっています」と書かれています。わたしは、地震多発の北陸に向かう小さな飛行機の中で、息をひそめながらこの詩集を読みました。


コーヒーカップは「鬼滅の刃」!


久々に雲海を見ました


こういう雲が見たかった!


小松市が見えてきました

 

そのうち機内サービスのコーヒーが来ましたが、見るとカップが「鬼滅の刃」でした。『絶体絶命』を読み終えたわたしは、窓の外を見ました。いつものように通路側の席でしたが、この日は窓側に人がいなかったので、外がよく見えたのです。久々に雲海を見ることができました。雲を見ていると天国みたいで、安らかな気持ちになります。


小松空港に到着しました


小松空港の到着口で

 

15時50分、わたしの乗った小さな飛行機は無事に小松空港に到着。小さな飛行機から降りると、小松空港にサンレー北陸の東専務と総務課の伊藤課長が車で迎えに来てくれました。車に乗ったわたしは、金沢駅前の定宿に向かい、チェックインしました。


ホテルから見た金沢駅前のようす

 

2022年6月21日 一条真也

『墓じまい・墓じたくの作法』

一条真也です。
77冊目の「一条真也による一条本」紹介は、『墓じまい・墓じたくの作法』(青春新書インテリジェンス)です。2015年9月2日の刊行でした。

墓じまい・墓じたくの作法』(青春出版社

 

表紙の円の中の写真は木の葉と水です。樹木葬や海洋葬とも関わっているのですが、あまり重たくない雰囲気のものを選びました。落ち着いたトーンで版元の編集部でも評判だったそうです。


本書の帯

 

帯には「どうする? 実家のお墓  どうしよう? 自分のお墓」「受け継がれてきた『心のよりどころ』を守り続けるヒント」と書かれています。

また帯の裏には、以下のように書かれています。
「◎お墓が遠くて通えない」
「◎家族に負担をかけたくない」
「◎自分らしい選択をしたい」
「お墓で後悔しないために知っておきたいこと」


本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」
プロローグ お墓に向き合う「こころ」と「かたち」
      ――変えていいもの、いけないもの
お墓とともに遺したい「こころ」
お墓の三つの役割
「お墓やめますか?」
葬儀と埋葬は同じではない

第1章 どうする? 
    実家のお墓、自分のお墓
    ――お墓の現代事情

「家のお墓」から「個人のお墓」へ
お墓選びにも自分らしさを求める時代
個人墓、墓友…女性の意識がお墓を変える
終活ブームの背景にある「迷惑」というキーワード
「迷惑」は建前、「面倒」が本音?
面倒くさいことの中にこそ幸せがある
お墓参りが教えてくれること
人生の節目にご先祖様を思うこころ
お盆の本来の意味
日本人の「こころ」がお盆を必要としている
お盆はいつから「夏季休暇」になったのか
お墓、お仏壇という「かたち」があることの大切さ
お墓参りは日本人の精神を安定させる
「墓守」がいなくなる?
お墓を守りたい気持ちはあるけれど…
少子高齢化とともに無縁墓が増えている
じつは昔からあった無縁墓
昭和初期に指摘されていた「現代のお墓問題」
仏教よりも儒教と関係が深いお墓信仰
なぜ、儒教は葬礼を重んじたのか
そもそも、仏教とお墓は結びついていなかった
団塊の世代」=「終活の世代」
高齢化社会が訪れる「2025年問題」
団塊の世代の価値観とは
これまでの葬儀・埋葬を変える人々
反抗心だけを植え付けられた世代
東日本大震災と埋葬
土葬こそ最高の葬法?
いまこそ、沖縄の先祖供養に学ぶべき

第2章 「お墓を継ぐ」ということ――墓じまいの作法

墓じまい=墓の処分ではない
お墓という「終の棲家」を空き家にしないために
墓じまいとは「家」をどう継ぐか考えること
「改葬」というお墓の引っ越し
改葬にはこんな費用がかかる
お墓とお寺は切っても切れない関係
最近はやりの「永代供養墓」とは
永代供養は無縁墓になるのが前提
樹木葬で見え隠れする、墓じまいの実態
一人っ子同士の結婚、実家のお墓はどうなる?
親以外の親戚とお墓が一緒の場合
遺骨を自分の手で運べないときは

第3章 人生を修めるためのお墓づくり――墓じたくの作法

「お墓を買う」とは「使用権を買う」こと
知っておきたいお墓選びの基準
お墓を建てるタイミング
墓じたくの手順と費用
お墓に刻む名前に制約はない
お墓のメンテナンスとリフォーム
「墓相」は気にしすぎなくていい
お墓は基本的に非課税
お墓不足を解消するために生まれた納骨堂
家で供養したい人のための自宅墓
現代の住宅事情に合わせたミニ仏壇
ペンダント、ブレスレットなどの手元供養
遺骨にこだわる日本人の死生観
手元供養は新しい供養のスタイル
グリーフケアとしての手元供養
永遠葬――大切な人とつながり続けるために
海がお墓になる海洋葬
海洋葬はこんなふうに実施する
樹木葬で、花や草木を墓石代わりに
桜を愛する日本人向けの桜葬
衛星ロケットに故人の遺骨を乗せる天空葬
天空葬はこうして誕生した
月をお墓にする月面葬
月への送魂で魂のエコロジーを取り戻す

第4章 後悔しないお墓選び   
    ――新しい供養のかたち

お墓は足りない? 余っている?
管理料が上がることもある
樹木葬、海洋葬の前に考えたいこと
島全体をお墓にするという新しい取り組み
自然葬後の慰霊をどうするか
無縁墓にしないための努力が必要
「終活」は子や孫とも意思統一を
お仏壇を買う人が減っている背景

第5章 お墓の「これまで」と「これから」――お墓のルーツを考える

文明のシンボルとしてのお墓
文化のシンボルとしての埋葬
日本では火葬が主流
縄文時代の「屈葬」が意味するもの
著名人が眠るパリ最大の墓地
ペール・ラシェーズ墓地に見る、お墓の未来
何かを残すことは、お墓を建てることと同じ
なぜ、日本には石のお墓が多いのか
自然から生まれた「石の宗教」
石と塔に込めた日本人のこころ
「あとがき」
《付録》お墓参りの作法
《参考文献》


「葬儀と埋葬の種類」も図にしました

 

メーテルリンクの名作『青い鳥』は、わたしの大好きな物語です。幸せの青い鳥を求めて、チルチルとミチルが訪れた「思い出の国」は、濃い霧の向こう側にありました。そこは、乳色の鈍い光が一面にただよう死者の国です。この「思い出の国」で、チルチルとミチルの二人は亡くなった祖父と祖母に再会します。そこで、おばあさんは「わたしたちのことを思い出してくれるだけでいいのだよ。そうすれば、いつでもわたしたちは目がさめて、お前たちに会うことができるのだよ」と言うのでした。わたしは、この『青い鳥』から、死者は思い出されることを何よりも望んでいるということを知りました。

 

 

そう、思い出しさえすれば、わたしたちは、今は亡きなつかしい人たちに会えるのです。なんと素敵なことでしょうか! そして、「思い出の国」をこの世では「お墓」と呼びます。そのお墓の「かたち」は非常に多様化してきています。従来の石のお墓もあれば、海や山に遺灰を撒く自然葬を求める人も増えてきています。遺骨を人工衛星に搭載して宇宙空間を周回させる天空葬もあれば、月面をお墓にする月面葬もあります。わたしは、人間とは死者とともに生きる存在であると思います。それは、人間とはお墓を必要とする存在だということでもあります。


「お墓選びチャート」も掲載されています

 

現在、血縁も地縁も希薄になってきて「無縁社会」が叫ばれ、「葬式は、要らない」という葬儀不要論に続いて、「墓は、造らない」という墓不要論も取り沙汰されているようです。でも、わたしは生き残った者が死者への想いを向ける対象物というものが必要だと思います。



以前、「千の風になって」という歌が流行したとき、「私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません」という冒頭の歌詞のインパクトから墓不要論を唱える人が多くいました。でも、新聞で名古屋かどこかの葬儀社の女性社員の方のコメントを読み、その言葉が印象に残りました。それは「風になったと言われても、やはりお墓がないと寂しいという方は多い。お墓の前で泣く人がいてもいい」といったような言葉でした。その言葉を目にしたとき、すとんと腑に落ちたような気分でした。


アマゾン「常識・マナー」新着で1位になりました

西日本新聞WEB「読書案内

 

わたしは、風になったと思うのも良ければ、お墓の前で泣くのも良いと思います。死者を偲ぶ「こころ」さえあれば、その「かたち」は何でもありだと思っています。そこで、これからは既存のスタイルにとらわれず、自分らしいお墓について考えるということが大切になってきます。先祖代々のお墓を引っ越さなければならないという「墓じまい」や、新たにお墓を造るという「墓じたく」も大切な問題です。この本では「お墓」をテーマにして、その過去、現在、未来に触れながら、「どのようにお墓と付き合うか」という作法についても紹介しました。

 

 

2022年6月21日 一条真也

『人間力のある人はなぜ陰徳を積むのか』

人間力のある人はなぜ陰徳を積むのか

 

一条真也です。
人間力のある人はなぜ陰徳を積むのか』三枝理枝子著(モラロジー道徳教育財団)を読みました。数々のVIPフライトを経験した元トップ客室乗務員が明かす、「人間力」を高める実践術が書かれています。著者は、パッションジャパン株式会社COO、作法家、裏千家茶道師範(茶名:宗理)。青山学院大学文学部英米文学科卒業。ANA(全日本空輸株式会社)入社後、国内線、国際線チーフパーサーを務める。VIP(皇室、総理、国賓)フライトの乗務など幅広く活躍。現在は「実行力」を人や組織に定着させ、接点強化で成果を出すマネジメントコンサルタントとして、大手・老舗企業からベンチャー企業まで幅広く支援。優秀な外国人を育成し、日本で就職・活躍してもらう外国人育成と就職支援を推進中。著書に、『空の上で本当にあった心温まる話』(あさ出版)、『「ありがとう」と言われる会社の心動かす物語』(日本経済新聞出版社)、『お客様の心つかむサービスを、効率的に。』(クロスメディア・パブリッシング)など多数。

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本書の帯

 

本書の帯には著者の顔写真が使われ、「仕事力UP!3%の人だけが知っている成長の法則」と書かれています。また、カバー前そでには、「『人間』が変わろうとするエネルギーが人間力の源になる。世界に誇る日本の人間力の高さ、その秘訣は『陰徳』にあります」と書かれています。アマゾンの「出版社からのコメント」には、「とかく『べき論』で片付けられがちな『人間力』のテーマを、抽象論でなく具体論で、理論第一でなく実践主眼で書き下ろした、これまでにない一冊」とあります。また、第6章には、出勤前や就寝前にページを開けばヒントが見つかる、1日1話形式の実践例「まいにち自分磨き31」を収載。よき習慣づくりに役立つチェックシート付。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 人間力の高い人は何が違うのか
第2章 外国人が日本人に学ぶ12の徳
第3章 日本人はどうやって徳を積んできたのか
第4章 ワンランク上の自分磨きとは
第5章 実践編1―人間力を高めるセルフワーク
第6章 実践編2―まいにち自分磨き31
「おわりに」

アマゾンより

 

「はじめに」では、「私の人生を変えたひと言」として、著者は「国際線ファーストクラスの客室乗務員として、日本人ならではのおもてなしの精神、作法を学び実践する中で、周囲を笑顔にすることで自分も満たされ、笑顔になる、そんな体験を何度となくしてきました。当時の私は『徳を高めよう』なんて考えもせず、ただ目の前のお客様にどうしたら喜んでいただけるか、それだけを考え、行動していたように思います」と述べています。



そんな著者が、道徳に正面から向き合うようになったのは9年前のある「ひと言」がきっかけでした。15万冊もの希書を所蔵し、その該博な教養から「知の巨人」と呼ばれた故・渡部昇一氏と会った日、渡部氏は著者に対して「あなたは心学をおやりなさい」と言ったというのです。予想もしないお言葉に、著者はきょとんとして、「心学とは、石門心学ですか?」と尋ねました。すると、渡部氏は「そうです。あなたはこれから女性として心学を柱に徳を説いていくとよい」と言ったとか。



この思いがけない出来事について、著者は「渡部先生とはご子息の玄一さんを通じて、ご一緒する機会を何度となく頂戴してきました。しかし、そんなふうに言っていただいたのは初めてでした。儒教、仏教、老荘思想神道などを取り入れた日常生活での道徳の実践。武士道からつながる商人の道。心を尽くしてどう生きるかを知る道の探究・・・・・・。尊敬する先生から有難い、もったいないお言葉をいただいたものの、自分の人間としての未熟さ、勉強不足を自覚していただけに、すぐにお応えできずにおりました」と述べています。

永遠の知的生活』(実業之日本社

 

わたしは「平成心学」というものを提唱しています。「石門心学」は神道儒教・仏教を融合した日本人の心の豊かさを追求したものでしたが、「平成心学」は神・儒・仏のハイブリッドな精神文化である日本の冠婚葬祭をふまえ、さらにはグローバル社会を生きるためにユダヤ教キリスト教イスラム教をはじめとした世界の諸宗教への理解を深めることも目的とします。いわば、総合幸福学なのです。渡部先生と対談する機会にも恵まれたわたしは、心学についても大いに語り合い、その内容は『永遠の知的生活』(実業之日本社)に収められています。そんなわけで、本書のこのくだりには非常に興味を抱きました。


また、「人や社会とともに自分も輝く」として、著者は「『徳を高める』とは、どういうことなのでしょうか。それは『自分を磨くこと』だと私は理解しています。歯を磨く、床を磨く、互いに技術を磨き合う。“磨く”は、私たち日本人の暮らしに密着した言葉です。何度もこすったり、研いだりして汚れを取り、滑らかにして、ツヤを出していく。そこには磨く側、磨かれる側という関係性が不可欠です。その関係性は『自分を磨く』場合にもあてはまります。他者という“磨き草”、砥石に自分をこすらせないと磨くことはできません。人を磨いて、輝かせて、喜ばせてこそ自分磨きができる――。自分とは磨くものではなく『磨かれるもの』であり、人は人を磨くことでしか磨かれない、そういうものなのではないでしょうか」と述べます。



さらに、著者は「道徳――徳を積む道も同じことだと私は思っています。決まった正解を上から押しつけるものでもなく、自分らしさの輝きを失わせるものでもありません。いつもの家庭や職場、地域の関わりの中で、いかに身近な人たちを笑顔にし、輝かせていけるか。その積み重ねを通じて自分らしい本来の輝きを増していくプロセス、そう捉え直してみませんか。それは周囲の人や社会とともに、自身も幸せになれる道です」とも述べます。



そして、「こんな今だからこそ」として、著者は「新型コロナウイルスという災厄によって、私たちは多くの制約を受けました。外出ができず、人とも関われない『ひとり』の時間。普段は立ち止まって考えることのない、自分の幸せ、人生の意味に思いを巡らせた方も少なくないでしょう。こんな今だからこそ、しっかりと地に足をつけ、先の見えないこれからの世の中をどう幸せに生き抜いていくのか、と考えるときではないでしょうか。コロナ禍によって生活様式、コミュニケーション、働き方など、私たちの日常は変化を続けています。変化に流されず、人や社会との関わりの中で自分を着実に成長させていく道徳の重要性が、ますます高まっています」と述べるのでした。



第1章「人間力の高い人は何が違うのか」では、「おもてなしとおせっかい」として、著者は「いかに察知して、想像して、思い切っておせっかいしてみるか。ここにおもてなしの醍醐味があり、こうしたところに世界が注目する日本人の道徳力、人間力の強みがあるように感じます。しかし、常に想像した通りに行動し、喜んでいただけたことばかりではありません。“どうしたら良いか”と考えて、考えて行動したのに、思うように喜んでもらえなかった。そんな残念な思いを、誰しも一度は経験があるのではないでしょうか」と述べています。

 

著者は、「おせっかい」と取られるのではないかと躊躇して行動を起こさないよりも、その方の思いを測り、なんとか喜んでもらいたい、笑顔にできないかと考え抜いたうえで「思い切って」「おせっかい」することを薦めます。なぜなら「もしかしたら」と相手を思い、想像力を働かせている時間は、着実にその人の「我」は薄れ、本来の自分自身とやさしさに出会っているからだといいます。そして著者は、「お客様をおもてなしする中で、私自身がお客様の笑顔や感謝の言葉によっておもてなしされていた事実に気づくことでもありました。また、そうした心の交流を傍で見ている人の心も温かくするものです」と述べます。

 

「ワンランク上の『陰徳』というステージへ」として、著者は陰徳というものを持ち出し、「太陽があれば月があり、女性がいれば男性がいる、というようにこの世のあらゆるものは陰と陽のバランスで成り立っている、と東洋では考えます。つまり陽徳があれば当然、陰徳も必要となるはずです」と述べます。また、「私がこれまで実践したり、指導してきたものは、まさに『陽徳』。目に見える形で誰かに認識される行動です。表情、目線、話し方、聴き方、身だしなみ・・・・・・。どれも相手を喜ばせる、心地よくさせるためには欠かせないものです。しかし、ともすると、“目に見える形だけ整えていけばなんとかなる”ともなりがちです。陽のあたる部分だけ伸ばしておけばいい、陰の部分なんて見なくていい。私自身、そういう認識だったのかもしれません。これに対して『陰徳』とは、目に見えない内面を掘り下げる世界です」と述べています。

 

「不完全だから磨き合う」として、人の成長とひと口に言っても「相手を変えよう、変えよう」と思っているうちは、うまくいかなかったことを告白し、著者は「不完全なのは相手、変わるべきは相手であり、自分は変わる必要がない。何事もそういうスタンスでいると、相手との関係は対立的になり、うまく事が運びません。生き方まで追及していくのですから、当然、信頼関係ができていないと、『あの人が言うなら』と思ってもらえず、『現場のこともわかっていないくせに余計なお世話』と険悪な雰囲気になってしまうのです。教える側、教えられる側という区別ではなく、相手も私も『不完全な存在』であるという認識のもと、お互いに成長していこうという『互師互弟』のスタンスが重要になってきます。『相手を変えよう』ではなく、まず『私自身を変える』ことによって『相手が変わる』のです」と述べるのでした。



第2章「外国人が日本に学ぶ12の徳」では、「ジャパニーズ・モラルの根っこは『陰徳』」として、著者は「陰徳を行うとは、わかりやすく言えば『自分を慎む』ことです。『慎』という字は、『心』を表すりっしんべんに『真』の字が組み合わさってできています。自宅謹慎などという熟語のイメージから、慎むとは、悪い行いの罰として行動を控えることだと誤解している方があるかもしれません。本当の『慎む』とは、静かに内面を掘り下げて本当の自分を知ること、気づいていなかった『新しい自分』に出会うことだと私は解釈しています」と述べています。


大リーグで大活躍の大谷翔平選手は高校時代から、自分が達成すべき目標を設定し、それを実現する具体的な方法を見える化したシートをつくり、活用していたことが知られています。その当時から、大谷選手が目標達成の具体的方法として「メンタル」「人間性」「運」を掲げ、その実践に努力していたことを指摘し、著者は「時には思うようにできない葛藤を感じたこともあったでしょう。見たくもない自分の我、陰に向き合う辛さを味わった日もあったのではないでしょうか。まだまだ発展途上かもしれませんが、それを乗り越えて『陰徳』を高め、自分を磨き抜いた結果が、今に結実しているように思います」と述べます。


第3章「日本人はどうやって徳を積んできたのか」では、「縄文時代に始まるおかげさまの精神」として、縄文の昔から日本人は、自然を人間が征服する対象ではなく、人間が自然の一部と考えてきたことが指摘されます。「自分勝手はしない」「弱い者はみんなで守る」「人の役に立ちたい」といった思いは、互いに協力することで共同体を築き、ムラやクニを形づくった縄文時代に始まるとも言われるとして、著者は「共同生活の中で、先に生まれた者を敬う精神も培われました。長老は卓越した指導者としてチームで生活するリーダーシップを発揮し、老人は秀でたものであったといわれています。自然を愛し、共に生きる日本人の本質的な生き方、ここに日本の道徳の土台があると言ってよいでしょう。『陰があるから楊がある』のです」と述べています。



第4章「ワンランク上の自分磨きとは」では、「『わかる』と『行う』の差を埋める」として、著者は「徳の道は『知行合一』と言われます。言葉で聴き知識として理解しても、実際に行動に移さなければ知らないことと同じ、という意味です。知識としてわかったとしても、それを実行しなければ現実は変わらず、人間力も高まりません」と述べ、これまでベストセラーになった『空の上で本当にあった心温まる物語』(あさ出版)などの著作を通して、著者が伝えてきた感動のエピソードはすべて嘘偽りなく、著者自身が実践、見聞きしたリアルな経験であると訴えます。

 

 

『空の上で本当にあった心温まる物語』の感動エピソードについて、著者は「多くの人が感動してくださいました。同じようにしてみようと、真似してくださったサービス業の方もたくさんいらっしゃいました。今、思い出しても胸がいっぱいになります」としながらも、「しかし今、自分を振り返ると葛藤を覚えます。人に喜んでもらえてよかった、笑顔を見ることができてよかった。その幸せ気分を味わうのはよいにしても、もし思うように喜んでもらえなかったとき、自分はどのように振る舞えたのだろう。望むような結果が得られないときに、どう思うのかと考えると、葛藤が生まれるのです」と正直に告白します。

 

 

「おわりに」では、本書が書かれた経緯が紹介されています。数年前、以前から著書を読んでいた執行草舟氏と月刊誌『れいろう』新春号で対談をする機会があったそうです。そのとき、執行氏は「克己復禮」(己に克ちて、禮を復む)『論語』[顔淵篇]という言葉を著者に贈ったとか。この言葉を座右の銘にしたという著者は、「自己に打ち克つ人間はすべてが禮にかなってくるという意味です。人間は共存共栄するためのものとして礼を生み出しました。人間関係を円滑にするため、悪徳に陥ることなく、平和や幸福のために礼を重んじなければなりません。人間同士が調和の世界を創造していくためには礼を取り戻さなくてはならないのです」と述べるのでした。この発言は、わたしの考えと100%同じであり、わたしは感動をおぼえました。機会があれば、一度著者にお会いして「礼」について意見交換したいです。

 

 

2022年6月20日 一条真也

父の日

一条真也です。
今日は、石川県で最大震度6弱を観測する地震が発生して心配しましたが、それほどの被害はなくて安心しました。それでも、神社の鳥居が倒壊し、男女6人が怪我をされたそうです。1日も早い回復をお祈りいたします。

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6月20日(日)は、「父の日」であります。
早朝、LINEの着信音で目覚めました。何かと思ったら、東京で働いている次女から「HAPPY FATHERS DAY!」「いつまでも元気でいてね」という洒落た動画のスタンプが届きました。続けて、2週間前に結婚式を挙げた長女から「お父さん、ありがとう!」のスタンプが届きました。この「父の日」スタンプは、ブログ「ハートフル・スタンプ3できました!」で紹介した、わたしのオリジナル・スタンプ第三弾です。長女も買っていてくれたのです。これまで、わたしのいろんなシチュエーションにおけるスタンプが多種公開されてきました。

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昨年4月8日に発売された 第三弾は「年中行事篇」で、正月・節分・桃の節句端午の節句・七夕・盆踊り・ハロウィン・クリスマスなどのスタンプが勢揃いしました。これだけ年中行事がコレクションされているスタンプは初めてだそうです。また、花見・月見・雪見といった四季を愛でるスタンプ、母の日・父の日・敬老の日・バレンタインデー・ホワイトデーなどのハッピーデイのスタンプも揃えました。ぜひ、ご活用下さい。

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昨年は、実家に父を訪問しました😊

 

昨年の「父の日」、わたしと妻はプレゼントを持って実家を訪れました。いつもは午前中に訪問することが多いのですが、今日は母から指定された午後3時に行きました。「父の日」のお祝いに、LANVINの派手めのシャツを贈ったところ、父はとても喜んでくれました。妻が記念にツーショット写真を撮ってくれました。今年もLANVINのシャツを買っていたので持って行きたかったのですが、父が体調を崩しており、先日の月次祭や天道塾も休んでいたので、シャツだけを贈って訪問は遠慮しました。

今年は、長女夫妻にプレゼントを貰いました😂

 

その代わり、わたしが、結婚したばかりの長女夫妻から「父の日」を祝われました。2人に会ったのは結婚披露宴以来の2週間ぶりですが、元気そうで安心しました。2人はプレゼントとして、ワインのボトルとBOSSのベルト&マスクを贈ってくれました。ちょうど1週間前の日曜日、八幡の「THE OUTLET」を妻と訪れたわたしはBOSSのショップに入りました。そのとき、「ベルトを買おうかな?」と思ったのですが、妻が必死で止めるので、「変だな」と思いながらも購入を思いとどまりました。長女夫妻が贈ってくれた品が、まさにそのときのベルトだったので驚きました。妻は、そのことを知っていたのですね。選んだのはお婿さんだそうで、彼との趣味の一致&縁を感じました。また、ブログ「トップガン マーヴェリック」で紹介したトム・クルーズ主演映画を長女夫妻が2回も観ていたことを知って、非常に驚きました。彼は、1986年公開の「トップガン」を1歳のときにお父さんと一緒に観たそうです。つまり、生まれて初めて映画館で観た映画が「トップガン」とのこと。それは素晴らしい!

 

 

さて、「父の日」は6月の第3日曜日です。「母の日」に比べて、「父の日」はどうも盛り上がりに欠けます。拙著『決定版 年中行事入門』(PHP研究所)にも書きましたが、もともと「父の日」とは20世紀の初頭にアメリカで生まれた記念日で、ワシントン州スポケーンの女性、ソノラ・スマート・ドッドの発案によるものです。彼女の母は早く亡くなり、父は男手ひとつで6人の子どもたちを育てました。当時、すでに「母の日」は始まっていましたが、ソノラは「母の日があるなら、父に感謝する日もあるべき」と牧師協会に嘆願したといいます。


世界初の「父の日」の祝典は、1910年6月19日、スポケーンで行われました。16年、アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンは、スポケーンを訪問。そこで「父の日」の演説を行ったことにより、アメリカ国内で「父の日」が認知されるようになったそうです。また66年、第36代大統領リンドン・ジョンソンは、「父の日」を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を「父の日」に定めました。正式に「父の日」が国の記念日に制定されたのは72年のことです。


このように、「父の日」そのものは非常にアメリカ的なのですが、日本においても必要であると思います。なぜならば、「父の日」でもなければ、世のお父さんたちは子どもたちから感謝される機会がないではありませんか! 人間関係を良くする「法則」を求めた儒教においては、親の葬礼を「人の道」の第一義としました。親が亡くなったら、必ず葬式をあげて弔うことを何よりも重んじたというのも、結局は「親に感謝せよ」ということでしょう。親とは最も近い先祖です。「いのち」のつながりを何よりも重んじた儒教では、祖先崇拝を非常に重要視しました。そして、それは「孝」という大いなる生命の思想から生まれたのです。どうか、「父の日」をお忘れなく! 

 

2022年6月19日 一条真也

「トップガン マーヴェリック」

一条真也です。
大ヒット中の映画「トップガン マーヴェリック」をシネプレックス小倉で観ました。いろんな人から「最高に感動した」という声を聞いていましたが、前作を観ていないので、スルーしていました。しかし、「映画を愛する美女」こと映画ブロガーのアキさんから「前作観ていなくても楽しめます」「絶対、一条さん好きですよ!」とのLINEが届いたので鑑賞を決意しました。観た感想は、「これは映画史に残る大傑作だ!」です。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
トム・クルーズをスターダムにのし上げた出世作トップガン』の続編。アメリカ軍のエースパイロットの主人公マーヴェリックを再びトムが演じる。『セッション』などのマイルズ・テラーをはじめ、『めぐりあう時間たち』などのエド・ハリス、『ビューティフル・マインド』などのジェニファー・コネリー、前作にも出演したヴァル・キルマーらが共演。監督は『トロン:レガシー』などのジョセフ・コシンスキー

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、「マーヴェリック(トム・クルーズ)は、かつて自身も厳しい訓練に挑んだアメリカ海軍パイロットのエリート養成学校、通称『トップガン』に教官として戻ってくる。父親と親友を空で失った過去を持つ彼の型破りな指導に、訓練生たちは反発する。彼らの中には、かつてマーヴェリックの相棒だったグースの息子ルースター(マイルズ・テラー)もいた」です。


トップガン マーヴェリック」を観る日の前の夜、前作である「トップガン」(1986年)U-NEXTで観ました。今から36年も前の作品であり、今年7月3日で60歳になるトム・クルーズが24歳の若さで主演しています。物語の舞台は、カリフォルニア州ミラマー海軍航空基地。そこにF-14トムキャットを操る世界最高のパイロットたちを養成する訓練学校、通称“トップガン”がありました。若きパイロットのマーヴェリック(トム・クルーズ)もパートナーのグース(アンソニーエドワース)とともにこのトップガン入りを果たし、自信と野望を膨らませます。日々繰り返される厳しい訓練も、マーヴェリックはグースとの絶妙なコンビネーションで次々と課題をクリアしていきます。しかしライバルのアイスマン(ヴァル・キーマー)は、彼の型破りな操縦を無謀と指摘。その一方で、マーヴェリックは新任の女性教官チャーリー(ケリー・マクギリス)に心奪われていくのでした。

 

わたしは、シリーズ最新作だけを観るというのが大嫌い。というのも、ストーリーの流れを把握しておかないと理解できない部分が多く、当然ながら映画を楽しめず、せっかくの映画鑑賞が台無しになるからです。じつは、同じトム・クルーズ主演の「ミッション・インポッシブル」のように、「トップガン」も数本のシリーズ前作があると思い込んでいました。それで最新作「トップガン マーヴェリック」の鑑賞をためらっていたのですが、前作が「トップガン」1作のみと知って、あわてて前夜に観た次第です。トム・クルーズは「トップガン」という作品を深く愛していて、安易な続編が作られないように続編の製作権を自ら買い取ったといいます。続編を「作る」ためにではなく、「作らせない」ために権利を買ったのです。彼がどれだけ「トップガン」を愛していたのかがわかります。


結論から言うと、「トップガン マーヴェリック」は前作「トップガン」を観ていた方がより楽しめると思いましたが、アキさんのように「前作観ていなくても楽しめます」という人が多いのは、シリーズではなく単独作品としてパワーを持っているのでしょう。あと、「トップガン マーヴェリック」は明らかに“男の映画”だと思うのですが、アキさんをはじめ、多くの女性たちを感動させているという事実を興味深く思いました。「トップガン」のヒロインであるチャーリーはケリー・マクギリスが演じていますが、一見、セックス・シンボルのようでいて、しっかりと自分の仕事にプライドを持った女性教官でした。「トップガン」には、グースの妻としてメグ・ライアンも出演していましたが、今回はケリーもメグも出ていません。代わりにヒロインとして、マーヴェリックの元カノのペニー役でジェニファー・コネリーが出演しています。


ジェニファー・コネリーといえば、「フェノミナ」(1985年)や「ラビリンス/魔王の迷宮」のイメージが強く、可憐な美少女といった印象でしたが、現在は51歳の美魔女(ちょっとケバイけど)になっています。「マーヴェリック」の制作時はジェニファーが49歳、トム・クルーズは57歳ですが、2人はラブシーンを演じています。それもキスシーンだけでなく、ベッドシーンまでやっているのですから、トムより1歳下のわたしは「俺も頑張らないと!」と思いました。(笑)「マーヴェリック」では海軍大将のアイスマンを前作と同じヴァル・キーマーが演じていますが、ほとんど声が出ないガン患者の役でした。実際のヴァル・キーマーもガンに冒されていたそうで、その声はAIで再生したといいます。前作をリスペクトするトムはどうしても彼に出演してほしかったのですね。


すべての映画にはグリーフケアの要素があるというのがわが持論ですが、「トップガン マーヴェリック」はまさにグリーフケア映画でした。前作では、父と親友を大空で亡くしたマーヴェリックの悲嘆からの回復が描かれましたが、今作では未だに親友グースの死をマーヴェリックが引きずっていることがわかります。もう1人、グースの死の悲嘆を抱えたまま生きている人物がいました。グースの息子ルースター(マイルズ・テラー)です。彼はマーヴェリックのことを「父を死なせた張本人」であり、「自分の未来を邪魔した悪人」と誤解しますが、共に困難なミッションに挑んだこともあってマーヴェリックへの誤解を解き、2人は固く抱き合います。そのとき、マーヴェリックの長年のグリーフはついにケアされたのでした。親友だったグースの代わりに、マーヴェリックはルースターの父親のような心境でした。もともとアメリカ映画には「父性」というメインテーマが一貫して流れているとされていますが、その意味で「トップガン マーヴェリック」はアメリカ映画の王道を行く作品であると思います。


マーヴェリックとグースの間には絆があったように、マーヴェリックとルースターの間にも絆が生まれました。「隣人愛の実践者」こと認定NPO法人抱樸の奥田知志理事長が語られていましたが、「絆」という字の中には「傷」という字が入っています。長年のホームレス支援の現場で、奥田さんが確認し続けたことは、「絆」には「傷」が含まれているという事実だったといいます。本当の絆は、傷を共有した者、すなわち辛苦を共にした者しか持ち得ないのです。その意味で、生死を共にした戦友という関係には最高の「絆」があります。だからこそ、海軍大将であるアイスマンと一介の大佐にすぎないマーヴェリックの間にも「絆」があり、ミッションの訓練時には対立していたルースターとハングマン(グレン・パウエル)の間にも単なる重要を超えた「絆」が生まれたように思います。


マーヴェリックをはじめとしたトップガンの精鋭たちは、自らの生命の危険も顧みず、まさに「ミッション・インポッシブル」ともいうべき任務に向かいます。出撃する直前に、マーヴェリックが世話になった黒人の同僚に「今のうちに『ありがとう』と言っておくよ」と言った場面は感動的でしたが、わたしは神風特攻隊のことを連想しました。この「トップガン マーヴェリック」という映画は明らかにアメリカの軍事力を礼賛している内容ですが、その米軍が心底怖れたのが日本の神風特攻隊の“カミカゼ・アタック”でした。若い特攻隊員たちの恐怖、未練、葛藤は言葉に尽くせないものだったでしょう。しかし、「自分の一撃が故郷を救い、家族を救う」と考え、自らを奮い立たせたのでしょう。彼らの間には、強い強い「絆」があったと思います。 ブログ「知覧特攻平和会館」にも書いたように、2013年6月13日、久々に知覧特攻平和会館を訪れ、わたしは涙を流しました。そして、英霊たちに心からの鎮魂の祈りを捧げました。「この方々に恥じないような人生を送りたい」「少しでも世のため人のために尽くしたい」という想いが心の底から強く湧いてきました。


さて、「トップガン マーヴェリック」の冒頭で、主人公のピート・“マーヴェリック”・ミッチェル海軍大佐は米海軍の過去40年間において空中戦で3機の敵機撃墜記録を持つ唯一のパイロットであることが明かされます。正直、わたしは「たったの3機かい!」と思いました。なぜなら、わたしがかつて愛読した『大空のサムライ』の著者である日本の海軍軍人・坂井三郎の公認撃墜数は28機だからです。もちろん、時代も戦闘機の性能も違うことは理解しています。太平洋戦争におけるエースパイロットだった坂井ですが、1942年8月7日、ガダルカナル島上空で空母エンタープライズから発艦したF4Fワイルドキャット群との空中戦になりました。坂井はワイルドキャット機と見誤ってドーントレス機の後方に接近したため、後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びました。集中砲火の1発が坂井の頭部に命中、失神して海面に急降下途中でなんとか意識を戻し水平飛行に立て直し、出血状態で意識喪失を繰り返しながら、ラバウルまでたどり着いて生還を果たしたといいます。このエピソードが「トップガン マーヴェリック」の〝第3の奇跡“に重なりました。坂井三郎にしろ、マーヴェリックにしろ、エースパイロットというのは必ず生還する能力を持っているのです。


ドラマも素晴らしいし、アクションシーンも最高の「トップガン マーヴェリック」ですが、唯一のツッコミどころは、敵の存在です。とあるならず者国家NATO条約に違反するウラン濃縮プラントを建設し稼働させようとしていたため、それを破壊すべく特殊作戦が計画されました。マーヴェリックは、同作戦に参加させるためにトップガン卒業生から選りすぐられた若き精鋭パイロット達に対し、特殊対地攻撃作戦の訓練を施す教官として抜擢されました。この任務は、基地周辺の強力な防空網を避けるために険しい渓谷を超低空・超高速で飛行しなければならず、電磁波妨害も行われているため、GPSを用いる最新鋭機のF-35は役に立たないという極めて困難な任務であった・・・・・・というわけですが、その「ならず者国家」とは一体どこなのか? 映画では敵の顔は一切見えません。一説ではイランではないかとも言われていますが、多くの観客は時節柄、ロシアか中国を連想したのではないでしょうか? ちょっとこのへんにリアリティがないというか、「敵が不明でもアメリカの強さを誇示するのは凄いな!」と思ってしまいました。


最後に、パイロットという職業に対するマーヴェリックの愛情とプライドに感じるものが多かったです。無人機が主流となる戦闘機の世界で、今やパイロットという淑行が絶滅しつつあると、サイクロン海軍中将(ジョン・ハム)は冷徹にマーヴェリックに告げます。しかし、マーヴェリック「まだ、今は存在している」と言って、任務に就くのでした。わたしは、ブログ「ニューシネマ・パラダイス」で紹介した1989年のイタリア映画に登場する映写技師のアルフレードのことを思い浮かべました。一般に名作とされている「ニューシネマ・パラダイス」という映画をわたしはまったく認めていないのですが、その理由の1つは、「ぼくは映写技師になりたい」というトトに向かって、アルフレード老人は「やめたほうがいい。こんな孤独な仕事はない。たった一人ぼっちで一日を過ごす。同じ映画を100回も観る。仕方ないから、ついついグレタ・ガルボタイロン・パワーに話しかけてしまう。夏は焼けるように暑いし、冬は凍えるほど寒い。こんな仕事に就くものじゃない」と言って、自身の仕事を卑下するからです。


じつは、わたしに「トップガン マーヴェリック」を薦めてくれた人の1人に「ニューシネマ・パラダイス」の信奉者もいました。その人は、「ニューシネマ・パラダイス」を認めないわたしのブログ記事を読んで激怒しました。いま、わたしはその人に「自分の仕事への愛とプライドが、マーヴェリックとアルフレードとでは天と地ほども違いますね」と言いたいです。パイロットだけでなく、社会のIT化で消える職業というのはたくさんあると思います。また、今回のコロナ禍で消えつつある職業も多いでしょう。しかしながら、大衆食堂の店主から高級クラブのホステス嬢まで・・・・・・自分の仕事に誇りを持って、その仕事を残そうと懸命に奮闘している人たちもたくさんいます。自分の仕事を心から愛し、誇りを持っているすべての人のために、この「トップガン マーヴェリック」という奇跡のような名作は作られたような気がしてなりません。


何より、「トップガン マーヴェリック」という映画そのものが、トム・クルーズの映画俳優という仕事への愛情とプライドを示しています。この作品のキャッチコピーは「誇りをかけて、飛ぶ」ですが、トムはにとっては「誇りをかけて、演じる」だったのです。この作品は2019年に製作されました。直後に新型コロナウイルスの感染拡大が起こり、何度も公開が延期されています。ついにはネット配信に入れるという案も何度も出たそうですが、トムは「この映画は、どうしても劇場で観てほしい」と譲らなかったそうです。結果は、映画館での映画鑑賞という営みがこの上なく素晴らしいものだということを世界中で証明しました。トムは配信系オリジナル作品に1度も出演してない最後のスクリーン俳優です。「トム・クルーズがいる限り “映画体験” は絶滅しない」といった声も多く、「トップガン マーヴェリック」は「ニューシネマ・パラダイス」などよりも遥かに映画というものの価値を高めたと思います。最後に、わたしの1歳年長であるトムの見事な肉体美には唸りました。俺も、明日からは、朝の腕立て伏せの回数を200回に増やそうかな?

 

2022年6月19日 一条真也

「峠 最後のサムライ」

一条真也です。
日本映画「峠 最後のサムライ」をシネプレックス小倉で観ました。累計発行部数386万部超の司馬遼太郎の小説『峠』初の映画化です。コロナ禍によって何度も公開が延期された作品ですが、残念ながら映画は原作の良さがまったく出ていない駄作でした。主人公の河井継之助は、陽明学者として「志」についての素晴らしい思想の持ち主でした。もっと、そのへんを描いてほしかったです。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『蜩ノ記』などの小泉堯史司馬遼太郎の『峠』を映画化した時代劇。越後長岡藩の筆頭家老である主人公が激動の時代を生きた姿を、スクリーンに焼き付ける。主人公を数々の主演作を誇る役所広司、その妻を『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』などの松たか子、主人公の父をダンサーで『蜃気楼の舟』などに出演した田中泯が演じる」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
大政奉還が行われた1867年、260年余り続いた江戸幕府が倒れて諸藩は東軍(旧幕府軍)と西軍(新政府軍)に分裂する。翌年には鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争へとなだれ込むが、越後の小藩である長岡藩の家老・河井継之助(役所広司)は冷静に事態を見守っていた。彼は東軍と西軍いずれにも属さない武装中立を目指し、和平を願い談判に挑むが・・・・・・」


河井継之助は、文政10年1月1日(1827年1月27日) 生まれで、慶応4年8月16日(1868年10月1日)没。江戸時代末期(幕末)の武士で、越後長岡藩牧野家の家臣です。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」としますが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としています。禄高は120石。妻は「すが」。戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られます。敵軍50000人に、たった690人で挑んだ行為が「最後のサムライ」という言葉が映画タイトルに付けられた理由でしょうか?


映画では、小千谷会談が描かれました。新政府軍が陸奥会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、世襲家老の首座・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張しました。こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めました。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとしました。新政府軍監だった土佐藩岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談。継之助は新政府軍を批判し、長岡領内への進入と戦闘の拒否を通告したのでした。


わたしは、役所広司松たか子も好きな役者なのですが、この映画には他にも仲代達矢田中泯、榎本孝明、井川比佐志、山本學吉岡秀隆東出昌大香川京子芳根京子といった信じられないような豪華俳優陣が出演しています。「それなのに、なぜ、これほどまでに面白くない映画になったのか?」と思わざるを得ません。役所広司と言えば、ブログ「聯合艦隊司令長官 山本五十六」で主役の山本五十六を演じましたが、彼も河井継之助と同じ長岡藩の出身です。史実として、河井継之助山本五十六が最後に置かれた状況が似ていることは役所広司も気づいていたのではないかと思います。しかしながら、司馬遼太郎の原作を読んでいる者ならば、「最後のサムライ」などという安易なコピーは出てこないと思います。

 

同じ小泉堯史監督、役所広司主演の映画でも、ブログ「蜩ノ記」で紹介した映画は名作でした。この映画を観て、死生観について考えさせられました。役所は、無実の罪で3年後に切腹を控える武士・秋谷を見事に演じました。この映画で最もわたしの心に響いたセリフは「死ぬことを自分のものとしたい」という秋谷の言葉でした。予告編には「日本人の美しき礼節と愛」を描いた映画という説明がなされ、最後は「残された人生、あなたならどう生きますか?」というナレーションが流れます。切腹を控えた日々を送る武士の物語ですが、ある意味でドラマティックな「修活」映画と言えるでしょう。「峠 最後のサムライ」でも、主人公の継之助が「死ぬことを自分のものとする」ことを訴えるシーンが登場しますが、シナリオが悪いため説得力がありませんでした。ブログ「PLAN75」で紹介した同日公開の作品ともども、尻切れトンボで残念なエンディングでしたね。

 

2022年6月18日 一条真也

「PLAN75」

一条真也です。
17日から公開された日本映画「PLAN75」をシネプレックス小倉で観ました。超高齢化社会である日本の近未来を描いた作品ですが、とにかく暗く、悲しい物語でした。観る人によっては恐怖も感じたかもしれません。現在の日本はこの映画の一歩手前にあるようにも思えました。尻切れトンボ感があって完成度は低いとも思いましたが、高齢会員を多く抱える冠婚葬祭互助会の関係者は必見!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「オムニバス『十年 Ten Years Japan』の一編『PLAN75』を、監督の早川千絵が新たに構成したヒューマンドラマ。75歳以上の高齢者に自ら死を選ぶ権利を保障・支援する制度『プラン75』の施行された社会が、その制度に振り回される。職を失い、『プラン75』の申請を考え始める主人公を倍賞千恵子が演じ、『ビリーバーズ』などの磯村勇斗、『燃えよ剣』などのたかお鷹、『由宇子の天秤』などの河合優実らが出演する」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「超高齢化社会を迎えた日本では、75歳以上の高齢者が自ら死を選ぶ『プラン75』という制度が施行される。それから3年、自分たちが早く死を迎えることで国に貢献すべきという風潮が高齢者たちの間に広がっていた。78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)は夫と死別後、ホテルの客室清掃員をしながら一人で暮らしてきたが、高齢を理由に退職を余儀なくされたため、『プラン75』の申請を考える」


早川監督は、「2000年代半ば以降、日本では自己責任という言葉が幅をきかせるようになり、社会的に弱い立場の人を叩く社会の空気が徐々に広がっていったように思います。そして2016年、障害者施設殺傷事件が起こりました。人の命を生産性で語り、社会の役に立たない人間は生きている価値がないとする考え方は、すでに社会に蔓延しており、この事件の犯人特有のものではないと感じました。政治家や著名人による差別的な発言も相次いで問題になっていましたし、人々の不寛容がこのまま加速していけば、<プラン75>のような制度は生まれ得るのではないかという危機感がありました」と振り返ります。また、「そんな未来は迎えたくないという想いが、この映画を作る原動力となりました」と制作意図を明かしています。



映画「PLAN75」は、年齢による命の線引きというセンセーショナルなモチーフです。しかし、75歳以上が自らの生死を選択できる<プラン75>を言語道断、荒唐無稽などと否定することはできないでしょう。身よりもなく、お金もなく、老後生きるのが辛すぎる場合、安楽死が選択できるということになったら、安心して年を重ねることができる人もいるように思います。また、75歳で死を選択するよりも回復の見込みのないまま延命治療をされることの方が怖い人もいると思います。もし、<プラン75>が実在したら、申し込みたいという人はけっして少なくないでしょう。その正体は、高齢者が政府によって薬品による殺処分・遺体焼却・葬儀式なし・遺灰を合同墓に埋葬されるという制度なのですが・・・・・・。


<プラン75>の実施機関は行政です。あくまで本人の意思決定のもと、書類管理、死後処理は事務処理のように淡々と行われます。もし、遺族が「国が殺人幇助をしていた」と言って国を訴えたとしても「本人の意思決定」を前面に出されるだけでしょう。磯村勇斗が演じる市役所職員の岡部ヒロムが<プラン75>制度の利便さを明るく老女に伝えるシーンがあります。10万円の支度金について「何に使ってもいいの?」と訊く老女に対して、ヒロムは「旅行されたり、美味しいものを食べたり、何にでも使われて結構ですよ。中にはお葬式代に充てられる方もいらっしゃいますけど」と言います。すると老女は「それじゃあ、つまらないわねえ」と答えます。死後は火葬された後、合同で埋葬されることになっていますが、一種の無縁墓のようなものです。まあ、「無縁の縁」というのもありますが。それをヒロムは「かえって、みなさんと一緒で寂しくないという方も多いんですよ」と言うのでした。


主人公の角谷ミチは78歳で、現在80歳の倍賞千恵子が演じています。彼女にとっては、じつに9年ぶりの主演作ですが、「最初はひどい話だと思ったが、ある選択をするミチに心惹かれ、出演を即決した」と語っています。ホテルの客室清掃係として働いているミチの夫はすでになく、子供もいません。この年齢になってまで働かなくては生きていけないことは辛いようにも見えますが、自分ができる仕事があって、自立して生きていることに満足しているのかもしれません。ミチは、同年代の仲間たちと働き、時にはおいしいものを食べに行き、公民館でカラオケを楽しんだりすますが、ある出来事が起こって事態が一変します。ミチの同僚がホテルの部屋の清掃中に倒れたのです。それをきっかけに、ミチたちは解雇され職を失います。なかなか職が見つけらず、ついには深夜の交通誘導員となったミチの身体中に赤いランプが付けられ、それがチカチカするシーンがあるのですが、わたしにはウルトラマンのカラータイマー、命の赤信号が点滅しているように思えました。


ミチが終のすみかだと思っていた団地も、建て替えのため立ち退かなくてはいけなくなりました。不動産業者は、高齢者は家賃2年分を先払いしなくては部屋も借りられないことを告げます。あっという間に、ミチは社会での居場所さえもなくなっていくのでした。結果、彼女は<プラン75>に申し込みせざるをえなくなるのですが、家族もなく、頼れる親族もいない彼女は無縁社会の只中にいるのでした。本当は、血縁に期待できない場合は地縁の出番です。冠婚葬祭互助会であるわが社は、一人暮らしの高齢者の食事会である「隣人祭り」を開催してきました。コロナ前には、日本一の高齢化都市である北九州市だけで年間700回もの「隣人祭り」を開きましたが、その目的は孤独死を防ぐことです。わたしは「死は最大の平等である」と考えていますが、死に方は平等ではありません。それで、孤独死をなくすために「隣人祭り」を開催し、自死をなくすために「グリーフケア」を推進しているのです。


2025年には国民のおよそ5人に1人が75歳以上になるといいます。超高齢化社会を迎える日本にとって、長生きする老人たちをどう支えていくのかは、本当に大きな問題です。拙著『老福論』(成甲書房)で、わたしは「高齢化社会ディストピア」というネガティブ・シンキングを食い止める「老福」というキーワードを提唱しました。自殺者の多くは高齢者ですが、わたしたちは何よりもまず、「人は老いるほど豊かになる」ということを知らなければならないと訴えました。現代の日本は、工業社会の名残りで「老い」を嫌う「嫌老社会」です。でも、かつての古代エジプトや古代中国や江戸などは「老い」を好む「好老社会」でした。前代未聞の超高齢化社会を迎えるわたしたちに今、もっとも必要なのは「老い」に価値を置く好老社会の思想であることは言うまでもありません。そして、それは具体的な政策として実現されなければなりません。

老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)

 

世界に先駆けて超高齢化社会に突入する現代の日本こそ、世界のどこよりも好老社会であることが求められます。日本が嫌老社会で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になります。逆に好老社会になれば、世界一幸福な国になれるのです。まさに「天国か地獄か」であり、わたしたちは天国の道、すなわち人間が老いるほど幸福になるという思想を待たなければならないのです。日本の神道は、「老い」というものを神に近づく状態としてとらえています。神への最短距離にいる人間のことを「翁」と呼びます。また七歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。つまり、人生の両端にたる高齢者と子どもが神に近く、それゆえに神に近づく「老い」は価値を持っているのです。だから、高齢者はいつでも尊敬される存在であると言えます。


とはいえ、超高齢化社会を迎えた日本がさまざまな難問を抱えているのは事実です。その解決策として<プラン75>が生まれたわけですが、高齢者を最終的に処分する施設が映画に登場しますが、それはあまりにも管理も杜撰でリアリティに欠けたものでした。この作品は一応、SFです。SFやファンタジーやホラーといった非日常を描く物語ほど細部のリアリティが求められますが、その点、この映画は残念でした。その施設は、まさに現代の“姥捨て山”です。高齢者が社会からはじき出され、自ら死を選ぶ、選ばざるを得なくなるという「PLAN75」に通じるのが、深沢七郎の小説を原作とする日本映画「楢山節考」(1983年)です。老人は70歳になったら山に捨てられるという寒村の風習を描いています。今村昌平がメガホンを取り、山に捨てられる老女を当時47歳の坂本スミ子が鬼気迫る演技で主演。1983年のカンヌ国際映画祭パルム・ドールに輝きました。

死ぬまでにやっておきたい50のこと

 

映画「PLAN75」には、この制度に携わる若者たちが登場します。彼らは、それまでは何の疑いや迷いもなく、それぞれの職務を淡々とこなしていました。しかし、申し込みをした高齢者と生身の人間同士として触れ合う中で、やがて「年齢で命の線引きをする」という制度が、人間の尊厳を踏みにじるものであると悟るのでした。この映画を観て、なかなか自分の死をデザインするのは難しいと痛感します。拙著『死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス)の帯には「新しい『終活』と『葬送』の形を提案してきた著者が発見した、『満足のいく人生』を全うするためのヒント」と書かれています。また、人生の師であった故・渡部昇一先生が「死への恐怖から解放される最善の法は、『生』を知り、幸福な晩年をイメージすること。一条さんの『死生観』は『教養』そのものだ」という推薦文をお寄せ下さいました。ここで渡部先生が書かれているように、「死生観」とは「教養」そのものであると思います。さらに言えば、「死生観は究極の教養である」と考えます。現在の日本は、未知の超高齢社会に突入しています。それは、そのまま多死社会でもあります。日本の歴史の中で、今ほど「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められる時代はありません。

サンデー毎日」2018年4月1日号

 

「死」は、人間にとって最大の問題です。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようと努力してきました。それでも、今でも人間は死に続けています。死の正体もよくわかっていません。実際に死を体験することは一度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だと言えます。まさに死こそは、人類最大のミステリーなのです。なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はありません。しかし、その不条理に対して、わたしたちは死生観というものを持つ必要があるのではないでしょうか。高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人がいますが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸でしょう。まさに「死生観は究極の教養である」と、わたしは考えます。

人生の修め方』(日本経済新聞出版社

 

この「PLAN75」に登場する高齢者たちは、葬儀について関心のない人が多いです。しかし、拙著『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)などにも書きましたが、死の不安を解消するには、自分自身の葬儀について具体的に思い描くのが一番いいと思います。親戚や友人や知人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日頃から連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝する習慣を付けたいものです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算です。自身の葬儀の想像とは、死を直視して覚悟すること。覚悟してしまえば、生きている実感が湧いてきて、心も豊かになります。葬儀は故人の「人となり」を確認すると同時に、そのことに気づく場になりえます。葬儀は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現の場であり、最大の自己表現の場であると思うのです。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

映画「PLAN75」の終盤で、ヒロムは殺処分された叔父の遺体を連れ出して、せめて自分で火葬しようとします。このシーンなどは拙著『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館、サンガ文庫)で唱えた、人間が本能で儀式を必要とする真実を表現していたと思います。ナチスやオウムは、かつて葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。いま世界から非難を浴びている過激派集団イスラム国しかりですが、わたしは葬儀を行わずに遺体を焼くという行為を絶対に認めません。それは「人間の尊厳」を最も損なうものだからです。いま流行しつつある儀式を伴わない「直葬」などというものは単なる遺体焼却にほからならず、本来は「葬」という言葉を冠するべきではないと考えます。


最後に、「PLAN75」のラストシーンには朝日が登場しました。ブログ「いのちの停車場」で紹介した日本映画でもラストシーンで朝日が登場したことを思い出しました。「いのちの停車場」の主人公である女医の咲和子(吉永小百合)の父親の達郎(田中泯)はアーティスト、それも画家でした。彼は人生の最期をアートのように美しく修めたいと願います。ここから尊厳死安楽死の問題に立ち入り、映画は一気に深刻になっていくのですが、当然ながら「いのちを救うこと」が仕事である咲和子は苦しみます。その苦しみを抱えたまま映画が終わるのかと思いましたが、最後に朝日を見て、達郎が「きれいだなあ」とつぶやき、咲和子は泣き崩れるのでした。「太陽と死は最大の平等である」というのはわが持論ですが、最後にSUNRAYが苦しむ人々を救ったことに、わたしは、猛烈に感動しました。「PLAN75」でも、倍賞千恵子演じるミチが呆然と朝日を見つめるラストシーンに、未来へのかすかな希望を感じました。太陽光線という意味の社名のわが社は、1人でも多くの高齢者の方々が「生きがい」と「死にがい」の両方を手にするお手伝いができれば幸いです。

 

2022年6月18日 一条真也