『妖怪学新考』

妖怪学新考 妖怪からみる日本人の心 (講談社学術文庫)

 

一条真也です。
『妖怪学新考』小松和彦著(講談社学術文庫)を読みました。「妖怪からみる日本人の心」というサブタイトルがついています。本書は、1994年に小学館から単行本として刊行された本を文庫化されたものです。著者は1947年東京都生まれ。東京都立大学大学院社会人類学博士課程修了。信州大学助教授、大阪大学教授を経て、現在は国際日本文化センター名誉教授(元所長)です。わたしは、異色の民俗学者である著者の本はほとんど全部を読んでいますが、ブログ『神隠しと日本人』ブログ『呪いと日本人』ブログ『異界と日本人』で紹介した本に続いて、本書を再読しました。

 

妖怪学新考―妖怪からみる日本人の心―

妖怪学新考―妖怪からみる日本人の心―

 

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「妖怪とはなにか? 科学的思考を生活の基盤とし、暗闇すら消えた世界においてなお、私たちはなぜ異界を想像せずにはいられないのか――?古代から現代にいたるまで妖怪という存在を生みだし続ける日本人の精神構造を探り、『向こう側』に託された人間の『闇』の領域を問いなおす。妖怪研究の第一人者による刺激的かつ最高の妖怪学入門書」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに――新しい妖怪学のために」
第一部 妖怪と日本人
一 妖怪とは何か
二 妖怪のいるランドスケープ
三 遠野盆地宇宙の妖怪たち
四 妖怪と都市のコスモロジー
五 変貌する都市のコスモロジー
六 妖怪と現代人
第二部 魔と妖怪
一 祭祀される妖怪、退治される神霊
二 「妖怪」の民俗的起源論
三 呪詛と憑霊
四 外法使い――民間の宗教者
五 異界・妖怪・異人
「おわりに――妖怪と現代文化」
「あとがき」
「注」
「解説――小松和彦の世界」

 

「はじめに――新しい妖怪学のために」の冒頭には、「人間文化の進歩の道程に於て発明され創作された色々の作品の中でも『化物』などは最も優れた傑作と云はなければなるまい」という寺田寅彦の言葉が紹介されています。

 

「妖怪学とはなにか」として、著者は「人間は想像する。その想像力はまた、さまざまな文化を創りだす創造力でもある。そしていま私たちはその創造力が作りだした膨大な種類の文化を所有しているわけであるが、そのなかでもっとも興味深いものの1つが『妖怪』と称されているものであろう。この『妖怪』を研究する学問が、ここでいう『妖怪学』である」と述べ、妖怪学を定義しています。

 

また、著者は「妖怪学」について、「学問としての『妖怪学』の整備の遅れの理由は、研究者の不足もあったが、『妖怪』が近代の科学において撲滅すべき『迷信』とされたことが大きかったように思われる。妖怪は近代人には必要ないものであり、妖怪研究はその妖怪撲滅・否定のための学問か、あるいは滅びゆく『迷信』を記録する学問で、近代における人間の生活にあまり積極的な意義を見いだせない研究とみなされたのである」と述べています。

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「近代の科学、物質文明の発達・浸透は現実世界から妖怪を撲滅してきた。しかし、現代においても妖怪たちは滅びていない。活動の場を、都市の、それも主としてうわさ話やフィクションの世界に移して生き続けている。その意味で、現代人も妖怪を必要としているのである。このことは、妖怪が『迷信』としてかたづけてしまうわけにはいかない、つまり人間にとってとても重要な存在なのだということを物語っている。それは人間の精神生活の根源にかかわる事柄と関係しているらしいのだ。それが何なのか。それを明らかにするための学問として、新しい『妖怪学』は整備される必要があるといえる」

 

それでは、「妖怪学」の輪郭とはどのようなものか。
著者は、以下のように述べています。
「新しい妖怪学は、人間が想像(創造)した妖怪、つまり文化現象としての妖怪を研究する学問である。妖怪存在は、動物や植物、鉱物のように、人間との関係を考えずにその形や属性を観察することができるものではなく、つねに人間との関係のなかで、人間の想像世界のなかで、生きているものである。したがって、妖怪を研究するということは、妖怪を生み出した人間を研究するということにほかならない。要するに、妖怪学は『妖怪文化学』であり、妖怪を通じて人間の理解を深める『人間学』なのである」

 

続けて、妖怪学はいろいろな問題を設定するとして、「なぜ人々は妖怪を想像するのか、そのような妖怪のイメージはどのように形成されたのか、どのような種類の妖怪(妖怪種目)があるか、あるいはそうした妖怪を創造することの利点や欠点はどこにあるのか、日本の妖怪文化と諸外国の妖怪文化との違いはどこか、現代の科学ではかつての人々が妖怪現象とみなしたことをどのように説明できるか、等々」と述べます。

 

続けて、著者は「この『妖怪学』の研究領域は大きく2つのレベルに分けられる。1つは現実世界において妖怪現象、妖怪存在を信じている人々の語る妖怪に関する研究であり、もう1つは文学や芸能、絵画などに物語られ、演じられ、描かれる、フィクションとしての妖怪についての研究である。だが、やっかいなのは、この2つの領域は互いに影響関係にあり、現実世界で語られている妖怪をめぐる話の多くが、こうした研究領域つまりフィクションとノンフィクションの境界から立ち現れていることであろう」とも述べます。

 

さらには「妖怪学」について、著者が考えている「妖怪学」は、「妖怪」に関する研究を可能なかぎり網羅するような形で構想されているとして、「したがって、いうまでもなく1人の妖怪研究者がすべての分野にかかわる必要はない。人文科学、社会科学、そして自然科学の諸分野に属する妖怪研究者が、それぞれの立場から妖怪を研究すればいいわけであるが、その成果を共有し総合していくための場として『妖怪学』の必要を提唱しているのである」と述べるのでした。


「妖怪学の3つの潮流」として、著者は「私自身の妖怪研究は、『妖怪の民俗学』『妖怪の社会学』『妖怪の口承文芸学』『妖怪の宗教学』といった分野に属している。そうした分野からみると、妖怪学の流れとして、次の3つが目立っている。その1つの研究の流れが、妖怪現象や妖怪存在を信じる人々に対して、科学的知識を動員してそれを否定していく研究である。簡単にいえば、妖怪を『迷信』としてとらえ、それを科学で撲滅し、人々を迷信から解放しようという目的での『妖怪学』である。『タヌキ囃し』と信じられていたのは、タヌキの仕業ではなく、遠くの祭り囃しが風の関係で近くで聞こえるように感じられたものだったとか、夜道で出会った大入道は、月影が作った大木の影を見誤ったものだ、といった具合に合理的に解き明かし、妖怪を信じる人々のそれまでのコスモロジー、つまり世界の認識の体系を破壊し、近代の科学的・合理的なコスモロジーを身につけさせようとするわけである」と述べています。

 

井上円了・妖怪学全集〈第1巻〉

井上円了・妖怪学全集〈第1巻〉

 

 

続けて、著者は「日本で最初に『妖怪学』という学問を提唱した井上円了の妖怪学は、このような意味での妖怪学であった。したがって、この種の妖怪学者は、この世から妖怪を信じる者が一人もいなくなるまで妖怪退治を続けることになる。この研究を支えているのは、妖怪がいなくなることが人間の幸福な生活だとする信念である。井上は明治中期から大正にかけて精力的に妖怪現象を調査し、その撲滅を続けた。井上のような妖怪を迷信とみなして撲滅する『妖怪学』と並行して、同じような妖怪撲滅・否定を行なっていたのが、黎明期の近代医学であった。人間は自然との関係や人間関係のなかで生活しており、そのなかから生じるさまざまな不安や恐怖、精神的あるいは肉体的疲れから、『妖怪』を生み出し呼び招くことがある。たとえば、幻覚や幻聴、妄想現象などのなかの『妖怪』がそれである。そして不安が高じると社会生活を送っていくことが困難な状態つまり病気になることもあった。社会学的あるいは心理学的には妖怪は存在し体験されていたのである。それはたとえば「キツネ憑き」のような現象であった。これを近代医学は『精神病』(当初は祈禱性精神病などと称された)と診断した」と述べています。

 

妖怪談義 (講談社学術文庫)

妖怪談義 (講談社学術文庫)

 

 

その一方では、妖怪を迷信とみなして撲滅すべきだといった具体的対応はとりあえず脇に置き、日常生活を送っている人間が信じている妖怪とその社会的背景を調査し、その機能や信仰生活、コスモロジーを探っていくことを目的とした社会学的「妖怪学」や、妖怪伝承を採集し、その分布から妖怪信仰の変遷の過程を復元する民俗学的「妖怪学」も存在していたといいます。こうした「妖怪学」を構想していたのが、民俗学者柳田国男でした。そして、その柳田国男の「妖怪学」の延長上に、その後の必ずしも多いとはいえない妖怪研究が展開されてきたようであると、著者は言います。そして、著者の研究もこの流れのなかに位置づけられるべきものだと考えているそうです。

 

 

柳田国男の妖怪学」として、著者はこう述べます。
「柳田の民俗学において妖怪研究はあまり強調されているとはいえない。主な仕事としては、『妖怪談義』以外には『幽霊思想の変遷』『狸とデモノロジー』などがあるにすぎないのだが、『巫女考』『一目小僧その他』を初めとして多くの民間信仰・伝説・昔話などについての著作が妖怪にも関係する研究であって、見方によっては柳田の民俗学は妖怪研究と密接な関係をもった内容になっているといっていいだろう」
「柳田は、妖怪と幽霊を次のように区別する。妖怪(お化け)は出現する場所が決まっているが、幽霊はどこにでも現れる。妖怪は相手を選ばないが、幽霊の現れる相手は決まっている。妖怪の出現する時刻は宵と暁の薄明かりの『かわたれどき』(たそがれどき)であるのに対し、幽霊は夜中の『丑満つ時』(丑三つ、まよなか)である。この分類はその後の妖怪・幽霊研究の指標となった」

 

日本の幽霊 (中公文庫)

日本の幽霊 (中公文庫)

 

 

また、柳田の研究を発展させようとした研究者も妖怪と幽霊を区別しようとしているが、柳田の分類にあてはまらない事例が多いのに苦しんでいると指摘して、著者は「たとえば、池田弥三郎は『日本の幽霊』のなかで、多くの例外のあることを認めつつ、妖怪・幽霊のたぐいを、特定の場所に出る妖怪、人を目指す幽霊、家に憑く怨霊、の3つのカテゴリーに分けており、諏訪春雄はさらに慎重に『もともと人間であったものが死んだのち人の属性をそなえて出現するものを幽霊、人以外のもの、または人が、人以外の形をとって現われるものを妖怪というように考えておく』としている」と述べています。



柳田は日本人の信仰の歴史をふまえつつ、神の零落=妖怪への人間の対応の変化を「カッパ」を例にしながら4つの段階に区分しています。
「第1段階は人間がひたすら神を信じ、神が現れれば逃げ出すという段階で、カッパ(水の神)が人間の前に出現して相撲をとろう、といっても逃げ出すことになる。その結果、出現場所はカッパの支配地となる。第2段階は神への信仰が半信半疑となる時代で、カッパを水の神として信仰する気持ちがまだある一方で、その力を疑う気持ちが生じてきたというわけである。この時期がカッパが神から妖怪へと変化する過渡期ということになる。第3段階はカッパを神として信じなくなり、知恵者や力持ちがカッパと対決し、これを退治してしまう時代である。カッパが完全な妖怪になってしまったわけで、これが現代(大正から昭和初期の時代)だという」

 

そして第4段階として、愚鈍な者がカッパにばかされる程度になり、やがて話題にもされない時代がくる、と予想しています。著者は述べます。
「その時代が私たちの現代ということになるだろう。この仮説のいちばんの問題点は、日本の信仰全体の歴史を繁栄から衰退へと変化しているということ、個々の妖怪の歴史もやはり繁栄から衰退へと向かうということ、それぞれの時代にはその時代なりの神や妖怪がいることを、はっきり把握し区別しないまま論じているために生じているように思われる」

 

日本の妖怪の歴史をたどってみると、古代に勢力をふるった妖怪、中世に勢力をふるった妖怪、近世に勢力をふるった妖怪、等々、時代によって妖怪にも盛衰があると指摘し、著者は「たとえば、天狗の盛衰史、鬼の盛衰史、幽霊の盛衰史、カッパの盛衰史、口裂け女の盛衰史などを、私たちは個別に描きだすことができるが、これは信仰盛衰史とは直接関係するものではない。実際、信仰盛衰史の最先端に位置する現代でも、あいかわらず幽霊は活躍しているのだ。つまり、中世に勢力を誇った天狗族は近世になってあまり元気でなくなるが、その一方で、中世にはみられなかったカッパ族が農村を中心に勢力を誇るようになるというわけである。さらに、妖怪一つひとつの個体史についても、その盛衰・属性変化を認めることができる。つまり、人々に害を与える妖怪が、祀られて人々に繁栄をもたらす神になったり、追放・退治されたりする。妖怪の個別史ともいうべき個体史のレベルでも、神の零落としての妖怪という仮説は、その個体史の部分的な把握にすぎないのである」と述べます。

 

水木しげるの妖怪談義

水木しげるの妖怪談義

 

 

そして、「柳田以降の妖怪学」として、著者は「妖怪学は、というか日本の妖怪文化は、近年、まったく新しい時代に入ったかにみえる。多くの人々が妖怪に関心をもちだし、かなりの数の妖怪研究書や妖怪図絵、解説書のたぐいが刊行されだしたからである。それらの著作の内容ははっきりいって玉石混交である。しかし、こうした妖怪ブームの到来は、しっかりした内容の妖怪研究が期待されていることを物語っているのである。それに対応できるような『新しい妖怪学』が構築されねばならないのである」と述べるのでした。

 

第一部「妖怪と日本人」の一「妖怪とはなにか」では、「恐怖・空間・妖怪」として、著者は「人間を取り巻く環境は、自然であれ人工物であれ、恐怖つまり『警戒心と不安』の対象に変貌する可能性を含んでいるのである。その恐怖心が人間の想像力を動員して超越的存在を生み出し、共同幻想の文化を作り上げ伝承する。恐怖に結びついた超越的現象・存在――それが『妖怪』なのである」と述べています。

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「妖怪はあらゆるところに出没する可能性をもっている。『警戒心と不安』を抱かせる存在は至るところに存在しているからである。のどかな田園の風景のなかにも、自分の家の居間にも、超近代的なビルのなかにも、妖怪は出没することができるのである。もっとも、そのなかでも、妖怪が出そうな空間というものが存在している。これは人間がのっぺらな漠然とした空間を分割し、安全な空間と危険な空間に分類しているからである」

 

「不思議・災厄・妖怪」として、著者は「妖怪研究の基本的前提は、人々が『不思議だ』と思う現象が自分たちの生活世界に存在していることである。そのような現象が存在しなければ、神や妖怪たちも人々の生活世界のなかに存在する余地がない。超越(超自然)的存在や超越的力の存在を想定して、それによってその不思議な現象を説明しようとするときに、神や妖怪が発生してくる(後にくわしく説明するように、ここでいう『神』とは、人々に祀り上げられている超越的存在であり、『妖怪』とは祀り上げられていない超越的存在のことである)」と述べます。

 

また、「妖怪を定義する」として、著者は「妖怪とは、日本人の『神』観念の否定的な『半円』なのだということが明らかになってくる。つまり、伝統的神観念では『妖怪』は『神』なのである。そうだとすると、さきに疑問を投げかけた祟る道祖神は『妖怪』なのだということがはっきりしてくるであろう。東北の有名な『妖怪』であるザシキワラシも『神』であり、傘のお化けも『神』なのである。それが人間に対して多少でも否定的にふるまったとき、妖怪研究者からみれば『妖怪』になるというわけである」と述べます。

 

続けて、著者はこう述べています。
「したがって、人間に否定的に把握された不思議現象は、すべて妖怪現象であり、その説明に引き出される超越的存在も妖怪存在ということになる。ということは、極端なたとえを出せば、大日如来も人に災厄をもたらせば『妖怪』であり、アマテラスオオミカミも人に祟れば『妖怪』ということになる。逆にいえば、人を驚かす『傘のお化け』も人に幸福をもたらせば『悪神』ではなく『善神』となり祀り上げることもできるわけである。こうして、東北のザシキワラシが『神』か『妖怪』かという問題も解決することができる。すなわち、ザシキワラシはいつでも伝統的神観念に従えば『神』である。それが祟りをなしたり悪さをしたりするとき、研究者は『妖怪』というラベルをはることになる、ということなのである」



「妖怪の予防と駆除」として、人々は空間の境界、時間の境界にも注意をはらい、そこにさまざまな魔除けの仕掛けを用意するが、それでも侵入し危害をもたらすに至った妖怪に対しては、どのようにふるまえばいいのだろうかと問題提起し、著者は「儀礼的なレベルでいえば、神社仏閣にお参りしてその霊験を期待するのも1つであるが、多くは妖怪退散の儀礼を宗教者に依頼することになる。神話的なレベルでは、酒呑童子退治のような物語となるわけである。こうした妖怪退治にとくに能力を発揮したのが、密教系の僧であり、陰陽道系の宗教者であった。多くの妖怪退治の物語は、彼らが行なう妖怪退治=病気などの災厄除去の儀礼の効果を語り示すために語り出されたという側面をもっている。中世に制作された『玉藻前草紙』などは、陰陽師の安倍泰成による、上皇に取り憑いて病気にした妖怪狐祓いの儀礼の物語であり、妖怪=悪霊退治儀礼と妖怪退治物語の深い関係を如実に描き出しているといっていいだろう。つまり、妖怪に攻撃され苦しめられたときには、呪験の優れた宗教者に助けを求めるのが最良の方法であったのだ」と述べています。

 

また、「『生活社会』の三類型と妖怪」として、著者は「『マチ』は『ムラ』とは異なり、基本的な生業形態を貨幣経済を基盤にした『交換』に置いている地域社会である。『マチ』の語源が『間+路』であり、『ミチ』(道・路)や『イチ』(市)、『チマタ』(巷)の類縁語であることからもわかるように、近隣のムラやマチから人々がさまざまなものを交換するために集まってくるところである。そこで当然のことであるが、それは交通の要所に形成される。この社会は二重構造になっていて、「ムラ」とは異なり、交換する目的でやって来る人々に対して社会はつねに開放されているが、その一方では『マチ』の定住構成員は彼らの「生活社会」を形成し、その社会のレベルでは『ムラ』と同様に、強い社会的紐帯をもった排他的な地縁集団を作っている。これに対して、『都市』は『マチ』をこえたところに成立している社会である」と述べます。

 

二「妖怪のいるランドスケープ」では、「水木しげる少年の妖怪体験」として、「近年たいへんな人気を呼んだ漫画家の水木しげるの描く妖怪画の主だったものは、近代以前からの妖怪たちで、その多くはマチやムラで伝承されてきたものであった。水木しげるは、高度成長期以降、急速に衰退・消滅していったこれらの妖怪たちへの深い哀惜の思いから、まるで記念写真を撮るかのように絵筆をとって、彼の創作妖怪だけではなく、民間伝承のなかの妖怪をもカンバスに描き込んだ」と書かれています。



続けて、水木しげるについて、「彼は現在の鳥取県境港市海浜地域(港町)に生まれ育った。米山俊直の小盆地モデルでいえば、完全な小盆地宇宙ではなく、美保湾に面した『疑似半円形盆地』でしかも『盆地底』には湖に相当する『中海』が広がっていた。したがって、そこは典型的な農村とはいささか異なる、漁村とそれを背景にした町場を主体とする地域であったといっていいだろう。しかし、家々の祀りごとに関与する『のんのん』と呼ばれる巫女のたぐいの老婆が、幼少期の水木に語ったという妖怪の話は、いわゆる私たちが『田舎のコスモロジー』と呼んでいる、日本の多くの地域で伝承されていた妖怪文化とそれほど違いがあるわけではない」と書かれています。

 

のんのんばあとオレ (講談社漫画文庫)

のんのんばあとオレ (講談社漫画文庫)

 

 

最初に登場するのは「天井なめ」という妖怪で、「のんのんばあは、薄暗い台所の天井のシミを見ては、『あれは、夜、寝静まってから「天井なめ」というお化けが来てつけるのだ』と教える。水木は、それらしきシミを見つけて、『天井なめ』の存在を確信する。こうして彼の想像力が目に見えない世界を作り上げてゆくのである」と書かれています。帰り道では、カモメのような、猫のような声を聞くと、のんのんばあは、あれは「川赤子」の声だといい、どこかでゴーンと鐘の音がすると、あれは「野寺坊」という妖怪が人の住まぬ荒れ寺で鐘を鳴らしているのだと言います。桟橋のかたわらにあった廃屋をのぞこうとすると、「白うねり」という古ぞうきんのお化けがいて、首にからみつくと言うのでした。

 

水木少年とのんのんばあの地獄めぐり

水木少年とのんのんばあの地獄めぐり

 

 

こうして、このちょっとした「旅」で、水木少年は、この地方に棲む妖怪たちの幻影を、その景観のなかに見いだしたのであったとし、著者は「神ごとを行なうのんのんばあの思考は、私たち現代人とちがった形で働いている。ばあは私たちの五感がつかまえることのできる世界の事象を、目に見えない霊的な世界とたえず結びつけて理解しようとしている。彼女は、私たちよりもうひとつ次元の高い世界観から世界を見ていると、いったほうがいいかもしれない。同じ風景や事物を見ていたとしても、ばあと私たちとではずいぶんちがった読み取りをするのである」と述べるのでした。

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

 

 

また、著者は「もう1つ重要なことは、季節の折々にも妖怪や異界を体感させてくれるようなときがあったことである。正月の注連を集めて焼く『とんどさん』、この期間は海で泳いではならないとされた『お盆』と最後の日の『灯籠流し』、子どもたちが掘り出した石の地蔵を祀り上げた『地蔵祭り』、親戚の『葬式』、『モバをとらせた』(海草をとらせた)と語られた『間引き』、海での漁船の遭難除けなどの年中行事や人生儀礼、そして事件が、直接あるいは間接的に目に見えない世界と結びつき、この地方の人々の生活に陰影をもたらし、景観に奥行きを与えていたのである」とも述べています。

 

四「妖怪と都市のコスモロジー」では、「平安京の恐怖空間」として、著者は以下のように述べています。
「近世は、人間の内部の『闇』に起源を求める妖怪=幽霊と、自然の『闇』に起源を求める妖怪=キツネが活躍した時代であったが、しだいに幽霊(怨霊)のほうへと関心が向かっていったようである。というのも、都市の人々を取り囲む空間がますます人工的になり、ますます自然とは離れた人間関係を中心とする世界になっていったからである。近世の都市は、妖怪論の立場からすると、自然起源の妖怪と人間起源の妖怪たちがその存亡をかけて勢力を競いあっていた時代といっていいかもしれない」

 

五「変貌する都市のコスモロジー」では、「『闇』の喪失」として、著者は「大正童謡には、近代資本主義システム・科学文明のなかに人々が編入されて新たな文化環境を受容していく過程で消滅しつつあった『闇』や民俗社会・伝統的社会の古層からの『声』が託されているのだ。このことを見事に分析したのが朝倉喬司であった。彼もまた、『後ろの山』とか『背戸』といった大正童謡にたびたび登場する言葉には、民俗社会のわらべ唄『かごめかごめ』に歌われる『後ろの正面』とも通底する『闇』つまりは『死』の領域を想わせる不気味な響きが託されているという」と述べています。


また、「後ろの山」とか「背戸」といった空間は居住空間としての家のレベルで意識された「闇」の空間ですが、これをより抽象的に表現したものが「奥」という観念であろうと指摘し、著者は「『奥』は『表』や『前』にある程度対立する言葉であるが、『裏』や『後ろ』に対応する概念ではなく、『表』や『前』からの『深さ』ないし『距離』をともなった『裏』や『後ろ』である。『奥座敷』『奥山』『奥義』『奥宮』『奥の院』といった言葉には、神秘的で閉ざされた『闇』の空間・領域といった意味合いが暗黙のうちに含まれている。『奥』は身体的・生理的体験を通じて把握される。それは身体によって感受される空間の陰影であり、厚み・深みである」と述べています。

 

さらに「奥」について、著者は「〈奥性〉は最後に到達した極点であるが、極点そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへたどりつくプロセスにドラマと儀式性を求める。つまり高さでなく水平的な深さの演出だからである。多くの寺社に至る道が屈折し、わずかな高低差とか、樹木の存在が、見え隠れの論理に従って利用される。それは時間という次数を含めた空間体験の構築である。神社の鳥居もこうした到達の儀式のための要素にほかならない」と述べます。

 

「妖怪の近代」として、近代から現代に至る百数十年は、妖怪たちにとってまさに存亡の危機に直面した時代であったことを指摘し、著者は「危機は複合した形で襲ってきた。まず、西洋から輸入された新しい知識や科学的合理主義の考え方にしたがって、怪異・妖怪現象の類の多くが合理的に説明され、そうした現象を霊的存在や神秘的力によって説明することが否定されることになった。たとえば、幽霊は幻覚・気の迷い、『タヌキ囃し』のような怪音は遠くの祭り囃しの音が風の関係などで近くから聞こえるように感じられたもの、キツネ憑きによる病気は精神病、等々というように次々に否定されていった。妖怪博士との異名をとった哲学者の井上円了は、そうした妖怪僕滅運動の急先鋒であった。井上は驚くほど多くの妖怪談を書物や新聞・雑誌、さらには実地調査によって、採集・検討し、その正体を科学的見地から説明を加えている」と述べます。

 

そして、著者は「妖怪は人々の心が生み出す存在である。人々が心に『闇』を抱えもち、人々がさまざまなことに恐怖する心性をもっているかぎり、人々は妖怪を生み出し続けるはずである。では、いま、人々はどこにいるのだろうか。妖怪はどこにいるのだろうか。その答えははっきりしている。もちろん、それは都市である。日本の人口の大半が集中している大都市こそ、妖怪の発生しやすい空間なのである。だが、すでに見たように、大都市は、近代以降、激しい妖怪撲滅=否定の運動・教育が推進されてきたところであり、妖怪の出没しやすい『闇』も消滅してしまっている。そのような大都会にも、妖怪は出現可能なのであろうか」と述べるのでした。

 

六「妖怪と現代人」では、「現代の妖怪の特徴と現代人の不安」として、現代人はまだ人間の死後の霊魂の存在を信じている、あるいは信じようとしているのであると指摘し、著者は「このことは、さらに次のような事態をも表現している。もはや、現代人は自然との関係を断ち切り、それゆえ自然を恐れる心を失ってしまっているらしいということである。現代の都市空間で、人間を恐怖させるのは人間だけだというわけである。もし現代人の心をのぞくことができたならば、きっと人間への恐怖がうず巻いていることだろう」と述べます。

 

続けて、著者は「しかし、現代においては、この幽霊さえも衰退の一途にあることは明らかである。というのは、現代の怪談を検討してみると、幽霊の姿を見たとする話がだんだんと少なくなっていて、それに代わって、手だけ、声だけ、怪しい音だけ、といった話へと変化しつつあるかにみえるからである。将来は、それさえ話のなかに登場せず、ただ怪異・不思議現象だけがなんの説明もなく語られるようになるのかもしれない」とも述べています。

 

第二部「魔と妖怪」の一「祭祀される妖怪、退治される神霊」では、「『神』と『妖怪』の相違」として、「多くの民俗社会の妖怪たちが次第に消滅しつつあるなかにあって、突然に都市に出現した『口裂け女』の場合、現代文化に固有の出現理由があったにちがいない。しかし、『口裂け女』の属性が『山姫』や『山姥』『雪女』などの民俗社会の妖怪の属性ときわめて類似していること、最初の出没が山の中であったらしいこと、などから考えると、『口裂け女』を育てた環境は現代文化であったが、彼女を生んだ母胎は日本の民俗文化であったと思われる」と書かれています。

 

柳田国男は「妖怪」を「神霊」の零落したものとして把握しました。すなわち、前代の信仰の末期現象として現れたのが「妖怪」なのであって、カッパは水神の、山姥は山の神の零落したものだと理解したわけです。柳田国男は、こうした考え方を「我々の妖怪学の初歩の原理」と述べています。著者は、「柳田の妖怪論の『初歩の原理」には、多くの問題点が含まれているように思われるのだ』と述べます。柳田の説に従って妖怪を考えようとすると、いろいろと不都合なことが生じてしまうからだとして、「たとえば『妖怪』が『神霊』の零落したものだと仮定すると、日本文化や人類文化の発展の一段階において、『妖怪』が存在せず、『神霊』のみが信じられた時期があったと仮定しなければならない。なぜならば、『妖怪』が最初から『妖怪』として人々の前に登場しえないからである。善良な人々とそうした人々に富をもたらす善なる神々と善なる自然のみからなる社会・文化が、人類文化の発展過程のある時期に存在したとは、とうてい考えられないことである。それはあまりにも現実離れした夢物語であろう」と述べます。

 

さらに、著者は以下のように述べています。
「人類は自分たちの合理的知識では統御しえないものを彼らの環境のなかに認め、それを概念化したとき、私たちが『超自然的力』とか『超自然的存在』とか呼ぶもの、つまり『神霊』や『妖怪』たちが生み出されたのではなかっただろうか。人類の長い歴史のなかで、それがいつ生じたのかは定かではない。しかし、人類が直立歩行し、火を管理し、道具を創り、言語を用いるようになったときには、『神霊』や『妖怪』たちも生まれていたにちがいない。そうした時代にあっては、柳田説とは逆に、未知のことが多いがために、自然の脅威にさらされていたがために、『妖怪』たちの活動領域は多岐にわたっていたと思われる。したがって、遠い昔、日本列島に人が住むようになったとき、彼らの文化のなかにすでに『神霊』や『妖怪』たちも棲んでいた、とみなすのが妥当のように思われるのである」

 

著者は、「超自然的存在」を「妖怪」とか「魔」として記述する場合の定義について、
「『妖怪』とは、世界に生起するあらゆる現象・事物を理解し秩序づけようと望んでいる人々がもつ説明体系の前に、その体系では十分に説明しえない現象や事物が出現したとき、そのような理解しがたいもの、秩序づけできないものを、とりあえず指示するために用いる語であるということができる。古代人は、これを『もの』と呼び、その出現の徴候を『もののけ』と呼んでいた(かつては、『もの』『化け物』などと並んで『百鬼夜行』『妖物』『魑魅魍魎』などといった言葉も用いられていた)」と述べています。

 

つまり、「妖怪」とは、正体が不明のものであり、正体不明であるがゆえに遭遇者に不思議の念、不安の念をいだかせ、恐怖心を生じさせ、その結果「超自然」の働きをそこに認めさせることになる現象・事物を広く意味しているのです。「いいかえれば、民俗社会がもつ2つの説明体系、つまり『超自然』を介入させない説明体系と『超自然』を介入させた説明体系、のあいだをゆれ動いている正体不明のものが、人々の認識過程の第一段階の『妖怪』なのである。そして、正体不明であるがゆえに、人々に不安や恐怖心を起こさせるので、この段階の『妖怪』も、人々にとって好ましいものではないといえるであろう。しかし、この段階では、まだ人に対して危害を加える邪悪なもの、といった明確な判断を下すまでには至っていない」と、著者は述べます。

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「それでは、こうした2つの異なった説明体系の裂け目に立ち現れてきた正体不明の『妖怪』を、民俗的思考はどう処理し秩序づけようとしたのであろうか。それは、結局、人々が所有する思考体系が、『超自然』(超越的なもの)の介入に頼らずに『妖怪』の正体を究めることができるか、それとも、それができないために『超自然』の領域に組み入れて説明しようとするか、2つのうちのいずれかを選ぶことによって決まることになる」

 

さらに、著者は「『超自然的力』や『超自然的存在』もしくは『霊的存在』は、大きく2つに分類することができる。1つは、人々に富や幸いをもたらすもの、いま1つは人々に災厄をもたらすもので、前者は『神』と呼ぶことができ、後者は『妖怪』とか『魔』と呼ぶことができるはずである。すでに述べたように、『魔』という語は、もともとは『仏』とその一党に敵対するものであったが、日本では、本来の意味よりも広い意味で用いられるようになっていたようである」と述べています。

 

わたしたちはこれまで、民俗社会の「神」や「妖怪」あるいは「魔」を規定するために、人々の思考のプロセスに着目してきたと指摘されますが、日本の「神」や「妖怪」は、キリスト教などの神や悪魔といったものと大きく異なっているとして、著者は「キリスト教にあっては、神はつねに神であり、けっして悪魔となることはなく、悪魔はつねに悪魔であって神になることはない。悪魔はつねに神に対立して存在し続けているのである。映画の『ドラキュラ』や『エクソシスト』などを思い出していただければ、そのことがすぐに理解できるはずである。ところが、日本人の神観念では『神』とされていたものが『妖怪』となったり、『妖怪』であったものが『神』になったりする。日本の『霊的存在』はたいへん可変性に富んだ性格を示しているのである」と述べます。

 

さらに、「マイナスかプラスかを知る指標としてもっとも適切なものと思われる一連の行為が浮かび上がってくるとして、著者は「それが『祀り上げ』と『祀り棄て』という行為である。人々は『妖怪』を『神』に変換するために祭祀を行なう。また、人々の祭祀が不足すると、『神』は『妖怪』に変貌することになるのだ。『神』とは人々によって祀られた『超自然的存在』であり、『妖怪』とは人々に祀られていない『超自然的存在』なのである。別のいい方をすれば、祭祀された『妖怪』が『神』であり、祭祀されない『神』が『妖怪』ということになるのである」と述べます。

 

二「妖怪の民俗学的起源論」では、「怨霊と御霊」として、「怨霊の示現の仕方には、可視的なつまり直接的な仕方と、不可視的つまり間接的な仕方の2つのタイプがあるが、通常、社会的な問題となるのは、不可視的な示現である。これは『祟り』として理解される。たとえば、社会に疫病が流行したり、天変地異が続いたり、次々と死人が出たりしたとき、その原因を怨霊の祟りと判断するような場合である。9世紀以降、宮廷の史書などに『御霊』という文字が記され始めるが、この御霊とは一言でいえば、こうした怨霊の祟りを鎮めるために祭儀を催して、『神』に祀り上げた霊を意味している」と書かれています。

 

三「呪詛と憑霊」では、「呪詛――魔に身を任せた人々」として、反社会的行為には、殺人、放火、食人などさまざまな行為があるが、そのなかでももっとも邪悪で恐ろしいのは、人目を忍んで行なわれる、「呪詛」つまり「呪い」であったとして、著者は「呪詛とは、一定の所作や言葉によって超自然的な力や存在に働きかけ、憎むべき敵を殺したり病気にしたりしようとする行為で、文化人類学では『邪術』と呼びならわしている。呪詛の記述は、早くも『古事記』や『日本書紀』にみえている」と述べています。



四「外法使い――民間の宗教者」では、「陰陽師式神」として、「妖怪」や「魔」の類を操作する呪術師としての宗教者の思想は、平安時代にはすでに形成されていました。そしてその中でも最も重要な宗教者が、「式神」を操るという陰陽師であり、「護法」を操る祈禱僧(験者・山伏)であったと指摘し、著者は「陰陽師とは、陰陽五行思想に基づいて占いや祭儀を執り行なう宗教者で、律令体制下にあっては、政府内の陰陽寮という役所に依拠して、さまざまな祭儀の教育と研究を行なっていた。しかも、大陸からこの思想が輸入された当初は、科学・技術的側面が強かったようであるが、しだいに呪術的色彩を強め、王朝時代には、鬼神を操り呪いをかけたりする恐ろしい存在とみなされるようになっていたのであった。この背景には、奈良時代に廃止された呪禁道の思想が陰陽道のなかに吸収されたということが関係していたように思われる」と述べます。



また、陰陽師について、著者は「陰陽師は、物を覆い隠してそのなかにあるものを占い当て、『もののけ』の正体を見破り、十二神将陰陽道で占いに用いる占盤を守護している、十二の方位に配置された神格)や三十六禽(一昼夜十二辰の神で、一辰にそれぞれ3つの動物が配置される)を動かし、『式神』を操り、符法によって鬼神の目を意のままに開閉し、男や女の魂魄を自由に出し入れできるというのである。なんとも恐ろしい存在である。まさに身は人間の姿をしているが、その能力は神や鬼に近く、この世にあるが、心は天地のものである、と評されるのもうなずけるというものである」と述べています。



さらに、「外法神」として、「護法」にしろ「式神」にしろ、それは修験道陰陽道の秘事にかかわる神霊の総称であったとして、著者は「平安末期から鎌倉初期の動乱期には、祈禱や祭儀を行なう修験者や陰陽師たちは、貴族や武士をはじめとする多くの人々に自分たちの法力が秀れていることを誇示する一方、多くの神秘的な法術や祭式を編み出し、それが人々のあいだに浸透していったのであった。現世の利益を追求する民衆、アニミズム的な世界観を基調とする民衆・民俗社会に浸透するためには、それにみあった信仰に仕立てなおしたり、新しい内容を作り出したりする必要があったにちがいない。また、修験道陰陽道との混淆も宗教者たちの手によって徐々に行なわれていったようである」と述べます。

 

五「異界・妖怪・異人」では、「秩序・災厄・異人(妖怪)」として、著者は「生理的不安が、人々に『妖怪』を見させることもある。しかし、それにもまして、『私』や社会に恨みを抱いている人々がいるという信念もまた『妖怪』を生み出す。したがって、そうした信念を抱いている人々に災厄が生じたとき、その原因は、『我々』に恨みを抱いている『妖怪』、あるいはそれと深い関係をもつ『彼ら』に求められることになる。『彼ら』は共同幻想の内部にあっては、まぎれもなく『妖怪』なのである」と述べています。

 

続けて、著者は「しかし、真に問題となるのは、『魔』や『妖怪』を必要としている『我々』のほうなのではないだろうか。そして、そう問うとき、妖怪や魔の問題は、怨み・憎しみ・妬みといった人間の心の問題に置きかえられるはずである。冒頭において、『妖怪』を論ずることは、古代から現代に至る日本人の生き方に触れる問題と述べたのは、このような意味からであった。妖怪研究とは人間の心の研究であり、人間の社会の研究というべきなのである」と述べるのでした。



「おわりに――妖怪と現代文化」では、著者は「口裂け女」に言及し、著者は「『口裂け女』はほぼ全国を駆けめぐって立ち去っていった。いまはもう過去の妖怪である。私たちはこの妖怪について、猛威をふるっていた当時からその理由をあれこれ推測してきた。はっきりしているのは、こうしたうわさを語った人々の心の内部にある『闇』(=恐怖)がこのような妖怪を生み出したということである。しかし、その『恐怖』とは具体的になんなのだろうか。たしか『教育ママ』の象徴的表現だとする説もあった。私は女性を支配する『美』の価値観に対する『恐怖』がこの『口裂け女』を生み出したとの説を唱えた」と述べています。



続けて、著者は「いずれにしても、現代の妖怪は現代の都市生活・環境に適応した形で登場してくる。そして現代人が心に『闇』を抱えるかぎり、妖怪撲滅をはかる『科学者』たちの目をくらますようにして、絶えず出没するのである。柳田国男が予見したように、100年後、200年後も妖怪たちはその時代にふさわしい姿にばけて出現することだろう。出現しないような時代が到来したとしたら、その時代は人間がいないか、人間が人間でなくなってしまった時代ではないかと私には思われてならないのだ」と述べています。



また、妖怪への関心は現代文化においてけっして孤立した現象ではありません。人間の心・内面にかかわるさまざまな社会現象、たとえば、密教、新々宗教、神秘主義、占い、予言、臨死、怪獣、バーチャルリアリティ体験といった事柄への関心の高まりとも通底する現象であるとして、著者は「こうした社会現象の背景にあるのは、いうまでもなく現代の閉塞状況である。ここ数十年の間に、私たちの時代は大きく変わった。科学文明・物質文化の浸透によって都市空間から『闇』が消滅し、明るいそして均質化された世界が私たちの日常生活の環境となり、そこで単調だともいえる毎日を繰り返してきた。ところが、私たちはこの日常生活をしだいに苦痛に思うようになってきたのである」と述べています。



さらに、人々の心の中の「闇」が広がりつつあるとして、著者は「『妖怪・不思議』は、科学主義・合理主義が生み出した便利さや物質的豊かさを享受しつつ、その世界を支配している価値観に疑問をもったり、それにしたがって生きることに疲れた人々の前に立ち現れてくる。『妖怪・不思議』は現代社会を支配している価値観、つまり人々の生きている『現実』世界をこえたものである。人々はそうした『妖怪・不思議』を、フィクションを通じてであれ、うわさ話としてであれ、自分たちの世界に導き入れることで、自分たちの『現実』にゆさぶりをかけたり、そこからの離脱を試みているのである」とも述べています。そして、最後に著者は「『妖怪・不思議』は、私たちに『もう1つの現実』の世界を用意し、そこで遊ぶことを、そして、それが人間にとってどれほど大切なことかを教えてくれるのである。妖怪学が必要な理由の1つはここにあるといえよう」と述べるのでした。



本書は、妖怪研究の第一人者である著者が、井上円了柳田国男といった妖怪研究の先達たちを乗り越えて、まさに「現代人にとって妖怪とは何か」ということを考え尽くした名著であると思います。国学や日本民俗学の系譜を受け継いだ「妖怪学」とは、そのままでも「人間学」であることを痛感しました。新型コロナウイルスが感染拡大すると、疫病を防ぐとされるアマビエという妖怪の話題で持ち切りになりましたが、日本人の「こころ」には今でも妖怪が生きています。

 

 

2020年8月31日 一条真也拝 

「海辺の映画館―キネマの玉手箱」

一条真也です。
日本映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」を鑑賞。ブログ「映像の魔術師、死す!」で紹介しましたが、今年4月10日に逝去した大林宣彦監督の遺作です。新型コロナウイルスの感染拡大のために公開が延期され、ずっと待ち望んできましたが、ようやく観ることができました。上映時間が3時間以上の大作で、大林監督の映画への想いが強く伝わってきました。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
尾道三部作などで知られる大林宣彦監督作。戦争の歴史を、さまざまな映画表現で描く。大林監督作『その日のまえに』に出演した厚木拓郎、『ボクの、おじさん THE CROSSING』などの細山田隆人のほか、細田善彦成海璃子常盤貴子小林稔侍、南原清隆片岡鶴太郎柄本時生稲垣吾郎浅野忠信らが共演している」 

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
広島県尾道の海辺にある映画館・瀬戸内キネマが閉館を迎え、その最終日に日本の戦争映画大特集と題したオールナイト興行が行われる。3人の若者が映画を観ていると劇場に稲妻が走り、閃光が彼らを包むと同時にスクリーンの世界に押し込んでしまう。戊辰戦争日中戦争沖縄戦、原爆投下前夜の広島と上映作品の劇中で描かれる戦争をめぐる中で、三人は桜隊という移動劇団の面々と出会い、史実では原爆の犠牲になってしまう劇団員たちを救おうと手を尽くす」



3時間以上あるこの映画を、わたしは最初、「冗長な作品だな」と思いました。しかも、冒頭の高橋幸宏の登場する宇宙船のシーンを観て、「大林宣彦の一番悪いところが見事に出てるな」と落胆しました。アクの強さを通り越して、独りよがりの印象しか持てなかったのです。もともと、わたしが最初に大林監督の作品を観たのは「HOUSE ハウス」(1977年)でした。当時のわたしは中学2年生でしたが、正直、この作品を好きになれませんでした。その色使いがあまりにも大胆すぎて「毒々しい」と感じたからです。その後に観た「ねらわれた学園」(1981年)も相変わらずの毒々しさに加えて過剰な演出に嫌悪感さえ抱きました。



あるとき、映画館で上映前に流れたCMで、大林監督と恭子夫人が一緒に登場して、「大林宣彦と大林恭子は夫婦恋人です」というものがあったのですが、それを観たわたしは、「なんだ、この夫婦、気持ち悪いな」と思いました。ナルシストのようでもありましたし、今なら「お花畑」といったイメージを大林監督に抱いた思い出があります。11歳の長女を「HOUSE ハウス」の原案者にするぐらいですから、常識を超えた家族愛の持ち主だったのでしょう。思い返せば、大林宣彦の映画を観るたびに、いつもイライラしている自分がいました。その毒々しい映像も、過剰な演出も多大なストレスを感じました。


また、大林監督は新人女優を発掘する名人だと言われたようですが、「転校生」の小林聡美と「さびしんぼう」の富田靖子あたりはまだしも、「ねらわれた学園」の薬師丸ひろ子にしろ、「時をかける少女」の原田知世にしろ、彼女たちのキャラクターが映画のヒロインに合っているとは到底思えませんでした。このたびの「海辺の映画館-キネマの玉手箱」では、大林宣彦監督が見初めた“令和の尾道ヒロイン”新人女優・吉田玲が話題になっていますが、最初に彼女がスクリーンに登場したとき、「うーん」と思ってしまいました。失礼ながら、吉田玲ちゃんは美人ではないし、まったく華がないと感じたのです。



ところが、その吉田玲演じる少女が映画が進むにつれて次第に魅力的に見えてきたので驚きました。これも「映像の魔術師」の仕業かもしれませんが、ネタバレに注意しながら書きますが、生者だと思っていた登場人物がじつは死者だったので、意表を衝かれました。冗漫な反戦映画だとばっかり思っていたこの作品の正体は、優しい幽霊としての「優霊」が出てくるジェントル・ゴースト・ストーリーだったのです。そういえば、大林監督の「ふたり」「あした」「異人たちとの夏」といった名作群はいずれもジェントル・ゴースト・ストーリーであったことに気づきました。



さらには、「さびしんぼう」のように、2人の登場人物が年齢を隔てた同一人物であるというサプライズもありました。まさに「海辺の映画館―キネマの玉手箱」は大林映画の集大成のような作品でしたが、出演している俳優陣の豪華さは類を見ません。ブログ「笹野高史講演会」で紹介した「日本一の名脇役」である笹野高史さんなどは人間の醜さの権化のような日本兵から優しい車掌さんまで何役もこなしておられます。主演の3人組の青年を演じた厚木拓郎、細山田隆人細田善彦も良かったです。彼らは大林宣彦の遺作に出演したという経験をバネにして、これからも活躍してほしいものです。

 

さて、「海辺の映画館—キネマの玉手箱」を観て、わたしは映画の本質というものを改めて思い起こしました。わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。それは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。

死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)にも書いたように、写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのです。「海辺の映画館―キネマの玉手箱」では、高橋幸宏が「映画こそタイムマシンなのです!」と高らかに言い放ちますが、実際その通りです。そして、目の前にタイムマシンがあるなら、「昭和20年8月6日の広島に行って、原爆から人々を救いたい!」と思うのは、わたしたち日本人の最大の願いの1つではないでしょうか。まさに、そのために映画というタイムマシンが使われるというストレートなストーリーに猛烈に感動したわたしは、涙が止まりませんでした。


唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないでしょうか。わたしには『唯葬論』(三五館)という著書があるのですが、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思っています。「海辺の映画館―キネマの玉手箱」では、西郷隆盛坂本龍馬会津の白虎隊や娘子隊、そして移動劇団の桜隊の人々といった死者たちへの想いが感じられました。さらに、この映画には中原中也の詩がたくさん登場します。彼はすでに亡くなった詩人ですので、その言葉はすべて故人の遺言ととらえることができます。これまでの大林映画には作家・福永武彦へのオマージュ的要素が強かったですが、今回は中原中也という死者への想いを強く感じました。

 

何よりも、この映画には、一貫して大林監督の平和への願いが込められています。ブログ「母と暮せば」で紹介した映画は、名匠・山田洋次監督が、原爆で亡くなった家族が優霊となって舞い戻る姿を描いた人間ドラマでしたが、ラスト近くで母と息子が映画の話をする場面が出てきます。ともに映画好きの親子の会話を楽しんだ後で、息子は「アメリカちゅう国はおかしな国やねぇ。あんな素晴らしい映画も作れば、原爆も作る・・・」と言いますが、この言葉はアメリカのみならず、文明社会そのものへの警鐘でもありました。この言葉を、「海辺の映画館―キネマの玉手箱」を観て思い出しました。「海辺の映画館―キネマの玉手箱」でも、「恋人を選ぶ心で、平和を手繰りなさい」という言葉に出合いました。観客の人生を変えるような名言だと思います。

恋人を自ら選ぶ心で平和を手繰りなさいという言葉も心に残りました。



人間は、映画も作れば戦争もする。映画で過去の戦争の歴史を消すことはできないけれど、未来の戦争をなくすことはできるかもしれない・・・・・・大林監督の想いはその一点に集約されると思いました。そして、この映画には、なんと坂東妻三郎主演の映画「無法松の一生」が日本映画史を代表する名作として、また反戦映画の最高傑作として登場します。実際に丸山定夫が率いた桜隊が「無法松の一生」を上演していた史実が再現され、劇中劇として、細田善彦が富島松五郎、常盤貴子が吉岡夫人を演じます。もちろん桜隊の悲劇を描く上で登場したのでしょうが、「無法松の一生」という作品に対する大林監督のリスペクトが感じられて、小倉生まれで玄海育ちであるわたしの胸は熱くなりました。



この映画には小津安二郎山中貞雄といった名監督も登場しますが、日本映画最高の巨匠といえば、やはり黒澤明の名が浮かびます。その黒澤監督は「もし何百年も生きられるのなら、俺の映画で戦争をなくしてみせる。でも、そんなに生きられない」と語っていたそうです。その黒澤監督から大林監督は「君は若い。俺の続きをやって、平和な世の中を作ってくれたまえ」と託されたとか。「海辺の映画館-キネマの玉手箱」は、大林宜彦テイストで黒澤監督との約束を果たした作品だと思いました。この「海辺の映画館-キネマの玉手箱」は、まさに大林監督が亡くなった4月10日が本来の公開日でした。このあたりに「映像の魔術師」の匂いをプンプン感じるのですが、新藤兼人監督の遺作である「一枚のハガキ」などもそうですが、このような強い想いを込めた大作を最後に遺せるなんて、なんと幸福な人生でしょうか! 



大林監督の想いが込められた「海辺の映画館-キネマの玉手箱」は、残念ながら新型コロナウイルスの影響で公開が延期されました。でも、7月31日からついに公開され、小倉のシネコンでも上映されるようになったので、8月末になってようやく鑑賞することができました。この映画は記憶の貯蔵庫、すなわち「墓」のようなものですから、大林監督の御霊はこのフィルムの中で眠っていると思います。映画は死者のためにある、そして生者のためにあることを再確認しました。それにしても、先の戦争から75年目、それも「死者を想う月」である8月の最後に、巨匠入魂の反戦映画を観ることができて感無量です。最後に、大林宣彦監督の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

 

2020年8月30日 一条真也拝 

結魂

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わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「結魂」という言葉を取り上げることにします。

 

日本人の離婚が1年間で30万件を超え、なお増え続ける一方です。さらに最近では、「コロナ離婚」まで登場しました。そのネガティブ・トレンドを食い止めるキーワードこそ、「結魂」です。
そもそも縁があって結婚するわけですが、「浜の真砂」という言葉があるように、数十万、数百万人を超える結婚可能な異性の中からたった1人と結ばれるとは、何たる縁でしょうか!


饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)


かつて、古代ギリシャの哲学者プラトンは、元来が1個の球体であった男女が、離れて半球体になりつつも、元のもう半分を求めて結婚するものだという「人間球体説」を唱えました。元が1つの球であったがゆえに湧き起こる、溶け合いたい、1つになりたいという気持ちこそ、世界中の恋人たちが昔から経験してきた感情です。プラトンはこれを病気とは見なさず、正しい結婚の障害になるとも考えませんでした。

 

人間が本当に自分にふさわしい相手をさがし、認め、応えるための非常に精密なメカニズムだととらえていたのです。そういう相手がさがせないなら、あるいは間違った相手と一緒になってしまったのなら、それは私たちが何か義務を怠っているからだとプラトンはほのめかしました。
そして、精力的に自分の片割れをさがし、幸運にも恵まれ、そういう相手とめぐり合えたならば、言うに言われぬ喜びが得られることをプラトンは教えてくれたのです。そして、彼のいう球体とは「魂」のメタファーであったと、わたしは確信しています。


結婚愛

結婚愛


また、17世紀のスウェーデンに生まれた神秘思想家スウェデンボルグは、「真の結婚は神的なものであり、聖なるものであり、純潔なものである」と述べました。天国においては、夫は心の「知性」と呼ばれる部分を代表し、妻は「意思」と呼ばれる部分を代表している。この和合はもともと人の内心に起こるもので、それが身体の低い部分に下ってくるときに知覚され、愛として感じられるのです。

 

そして、この愛は「婚姻の愛」と呼ばれます。両性は身体的にも結ばれて1つになり、そこに1人の天使が誕生する。つまり、天国にあっては、夫婦は2人ではなくて一人の天使となるのです。プラトンとスウェデンボルグをこよなく敬愛する私は、結婚とは男女の魂の結びつき、つまり「結魂」であると信じています。



「結魂」は、拙著『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)で初めて提唱した言葉です。「サンレー」というわが社の社名は、「産霊(むすひ)」に由来します。産霊とは、新郎新婦の魂が合体して新しい生命力(子ども)を生み出すこと。つまり、「産霊」とは「結魂」ということなのです。コロナ禍にあっても、1人でも多くの日本人が縁を結び、魂を結ばれることを願っています。

 

2020年8月29日 一条真也

死を乗り越える荘子の言葉

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気が集まればそれは生命である。
気が拡散すればすなわち死である。
荘子

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、荘子(紀元前369年~紀元前286年頃)の言葉です。老子の後には荘子が出ました。よく「老荘思想」といわれ、二人の思想には共通項が多いように語られますが、二人の間には明らかな相違があります。老子が政治的関心から出発して形而上の世界へ入っていったのに対して、荘子は最初から永遠の世界に入ろうとしています。それだけに荘子のほうが、より哲学的であり、宗教的だと言えるでしょう。

 

荘子 内篇 (講談社学術文庫)

荘子 内篇 (講談社学術文庫)

 

 

二人が道家思想の巨人として並び称せられるようになったのは、前漢、紀元前139年にできた『淮南子』という百科思想書に「老荘」として初めて登場してからであり、魏晋南北朝時代の頃には『易経』『老子』『荘子』「三玄の書」と呼ばれこれらを基にした玄学が隆興しました。

 

 

老荘思想」は「道家思想」とほぼ同じ意味に用いられています。これは前漢の頃には信頼できる道家思想書が『老子』と『荘子』くらいしか残っていなかったからです。

 

老子 全訳注 (講談社学術文庫)

老子 全訳注 (講談社学術文庫)

  • 発売日: 2019/01/11
  • メディア: Kindle
 

 

「気が集まればそれは生命である。気が拡散すればすなわち死である」とは、ギリシア哲学を思わせるような表現です。生命と死を対比させることで、それぞれを際立たせています。なお、この言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。

 

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2020/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年8月29日 一条真也拝 

安倍首相の辞任表明に思う

一条真也です。
28日、東京から北九州に戻りました。
その日の17時から首相官邸で行われた会見で、安倍晋三首相は辞任を表明しました。



安倍首相は、「8月上旬に(持病の)潰瘍性大腸炎の再発が確認された。病気の治療を抱え、体力が万全でない中、大切な政治判断を誤ること、結果を出せないことがあってはならない。総理大臣の職を辞することとした」と述べています。じつは、今日の夕方に記者会見が開かれると分かった時点で、わたしは「安倍首相は辞任を表明するだろうな」と思っていました。

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健康上の理由で辞意を表明

 

「一度ならず二度までも、途中で政権を投げ出すのか」という批判の声もあるようですが、健康に不安があるわけですから仕方がありません。誰もがいつ病気になるかもしれません。ブログ「グッバイ、リチャード!」で紹介したジョニー・デップの主演映画のように、いきなり末期がんで余命半年の宣告を受けるかもしれません。健康上の理由で辞める人を責める資格など、誰にもありません。「首相たるもの、いくら病気になっても、死んでも職責をまっとうしろ!」などというのは単なるブラック国民です。健康が優れなければ仕事を休めばいいし、続けるのが辛いのなら辞めればいいのです。

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もう一度、首相になると信じていました

 

わたしは、もともと父が安倍晋太郎先生を応援していた関係で、安倍ファミリーのシンパでした。安倍晋三首相が父上の秘書をしていた31年前、わたしの結婚披露宴にも参列していただきました。ですから、首相になられたときは本当に嬉しかったです。最初に辞任されて、しばらくしてから小倉に来られたとき、わたしがメンバーである勉強会にお呼びして、お話をお聴きました。そのとき、一緒に記念写真も撮影したのですが、非常にお元気な様子で、わたしは「これなら、もう1回、首相になってくれるのでは?」と思ったことを記憶しています。

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歴史的大勝から二度目の政権誕生へ

 

ブログ「取り戻す!」に書いたように、2012年12月16日、自民党は歴史的大勝を果たし、安倍首相の返り咲きが決定的になりました。わたしは、安倍首相のことを「石原慎太郎氏と並んで、わたしが最も尊敬する政治家です。日本をダメにした民主党政権が終りを告げ、この日が来るのを待っていました。じつに、かの吉田茂以来の再登板が現実のものとなります。安倍新首相が元気な日本を取り戻してくれることに心から期待しています」とブログに書きました。わたしが一番期待していたのは、憲法改正でしたが、これは実現しませんでした。まことに残念です。安倍首相自身は、今日の記者会見で拉致問題、日露平和条約、憲法改正を挙げて「残念ながらそれぞれの課題は残った。痛恨の極みだ」と述べた上で「政権としてだけでなく、党として強力な態勢で取り組んでいただくことを期待したい」と強調しました。



安倍首相の連続在任日数は、2012年12月の第2次安倍政権発足以降、今月24日で2799日となり、佐藤栄作元首相を抜いて歴代1位となりました。第1次政権と合わせた通算在任日数は、19年11月に戦前の桂太郎元首相(2886日)を超えて最長記録を更新しています。志半ばでの辞意表明は残念ではありますが、 連続在任日数が歴代1位になったことで、ご本人も気持ちに区切りがついたのではないでしょうか。この記録は、文字通りの前人未到です。マスコミは「安倍一強」などと揶揄しましたが、野党もだらしなく、また自民党内にも強力なライバルがいなかったこと自体が、政治家としての安倍晋三氏の実力ではないでしょうか。

 

しかし、今年に入ってからは新型コロナウイルスで政権の対応への批判が増し、マスコミ各社の世論調査では内閣支持率が低迷していました。
さらには、コロナ対策などによる疲労の蓄積が側近から指摘されていたことも周知の事実です。たしかに、わたしもアベノマスクは不要だと思いましたし、全国一斉休校のタイミングにも疑問を感じました。
それでも、実際に自分が一国の指導者になったと仮定したとき、前代未聞の非常時にどれだけのことが出来たのかと思います。誰でも評論家になって、人がやったことにケチをつけるのは簡単ですが、「それなら、おまえがやってみろ!」という話ですね。

 

 

いま、わたしは『コロナ後の世界を生きる』村上陽一郎編(岩波新書)という本の書評を書いているのですが、さまざまな分野の論客が寄稿している同書で、同書の編者でもある東京大学名誉教授(科学思想史)の村上陽一郎氏は、以下のように述べています。
「今日の社会に必要な理念の1つ、それも重要なそれは『寛容』ではないか。例えば為政者の場合、こうした非常時の事後評価に常に付きまとうディレンマがある。それは『あのときなすべきでなかったことをした』と『あのときなすべきであったことをしなかった』という肢の間に起こるディレンマである。それに対して、私たちは、厳しい批判をぶつけがちである。正当な吟味による批判がなければ、社会は前に進めないが、しかし、そこには『寛容』が求められるのでもある。為政者は上のディレンマに基づくいわれのない非難をも受け入れる寛容さが必要である」

f:id:shins2m:20200828174839j:plain長い間、お疲れ様でした !

 

また、村上氏は「評価する側にも、人間は常に『ベスト』の選択肢を選ぶことのできる存在ではないことへの理解が必要とされるだろう。その意味で、私は、『寛容』の定義の1つとして、人間が判断し行動するとき、『ベター』と思われる選択肢を探すべきであって、『ベスト』のそれを求めるべきではない、というルールを認めることである、と書いておきたい。今回のウィルス禍によって、社会のなかに少しでも、こうした『寛容』を受け容れる余地が広がるとすれば、不幸中の幸いではなかろうか」とも述べておられます。
わたしも、まったく同感です。最後に、安倍首相には「長い間、本当にお疲れ様でした。どうか、ゆっくりお休み下さい」と言いたいです。

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29日の各紙朝刊 

 

2020年8月28日 一条真也

「真夏の夜のジャズ」

一条真也です。東京に来ています。
27日は、社外監査役を務める互助会保証株式会社の株主総会が新橋の航空会館で開かれました。その後は取締役会と監査役会にも出席。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて懇親会は中止でしたので、そのまま銀座に出て、「出版寅さん」こと内海準二さんと合流。打合せをした後、一緒に角川シネマ有楽町で映画「真夏の夜のジャズ」を観ました。アメリカ最大級の夏フェスで伝説のミュージシャンたちが魅せる奇跡の音楽ドキュメンタリーです。1959年のベネチア国際映画祭で招待上映。翌60年に劇場公開された作品ですが、今回は4Kでのリバイバル上映です。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「音楽を扱ったドキュメンタリーの中でも、映像的には最高水準にある第5回ニューポートJAZZフェスティバルを追ったドキュメンタリー作品で、幾度のリバイバル上映に耐え、新たなジャズファンを開拓している秀作。アニタ・オディの粋で軽快なスキャット、ダイナ・ワシントンのコクのある“オール・オブ・ミー”、そして最後のマヘリア・ジャクソンのゴスペルが白眉」 

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この映画は、1958年に開催された第5回「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」を記録したドキュメンタリー映画です。コロナ禍のいま、全国の映画館は新作を上映せず、旧作をリバイバル上映する劇場が多いです。たいていはジブリの大ヒット・アニメ映画などの確実に集客が見込める映画が多いのですが、この角川シネマの「真夏の夜のジャズ」は異色でした。なにしろ、60年も前の映画です。しかし、わずか80分ちょっとのこの映画を観て、わたしは非常に感動しました。現在、世界中が新型コロナウイルスによって大変な状況にあるわけですが、映画に出てくる60年前の人々が「良い音楽を聴いて、良い映画を観て、心ゆたかになりなさい」、「コロナ禍でも、人生を楽しみなさい」、ひいては「人類よ、コロナなんかに負けるな!」と、飛沫をバンバン飛ばしながら言っているような気がして、なんだか泣けてきました。



この映画の素晴らしさを説明するために、映画公式HPの「作品情報」を参考にしたいと思いますが、まずは、「伝説のミュージシャンが続々登場!!」「圧巻のパフォーマンスをたっぷり堪能」として、第5回「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に主演した伝説のアーティストたちが紹介されています。最初は、ルイ・アームストロングで、「愛称サッチモ。『ポップ』『ジャズの父』とも呼ばれる、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャン。スキャットの第一人者としても有名。代表曲のひとつ『この素晴らしき世界』(67)は映画『グットモーニング、ベトナム』(87)、様々なCMやミュージシャンにもカバーされた名曲」と紹介されています。



次に、セロニアス・モンク。「ジャズ界有数の作曲家として、本作の中で演奏される『ブルー・モンク』や『ラウンド・ミッドナイト』など多くの名曲を生み、モダン・ジャズ・ミュージシャンに多大な影響を与えた。長く不遇の時代を過ごしたが50年代以降に大ブレイク、即興演奏による独自のスタイルが有名で、熱狂的なファンが多いカリスマ」と紹介されています。



続いて、チャック・ベリー。「『ロック界の伝説』『ロックンロールの創造者』と敬われる伝説のミュージシャン。ザ・ビートルズザ・ローリング・ストーンズなど多くのミュージシャンが彼の曲をカバーした。本作で演奏された『スウィート・リトル・シックスティーン』もザ・ビーチ・ボーイズが『サーフィンUSA』としてカバーした名曲」と紹介されています。彼がステージに登場したとたん、若者たちがノリノリで踊っていたのが印象的でした。ジャズ・フェスティバルの中にあっても「これがロックだ!」的なパフォーマンスがカッコ良かったです。印象としては、日本のスーパースターである矢沢永吉みたいでした。そういえば、永ちゃんの「トラベリン・バス」などは完全にチャック・ベリーの世界観ですね。



続いて、アニタ・オデイ。「チャーミングなルックスと圧倒的なリズム感の良さ、魅力的な独特のハスキー・ヴォイスでスターとなったシンガー。一般的なビブラートはほとんど使用しないなど独特の歌唱方法も特徴のひとつ。本作でのパフォーマンスは彼女の評価を決定づけた絶頂期のステージとして有名」と紹介されています。たしかに彼女のパフォーマンスは完璧でした。とにかく歌っている姿が魅力的です。ビブラートを使用しない歌唱法という点では、日本では園まり、ちあきなおみなどを連想しましたね。



その他、スケールの大きな力強い歌唱で「ブルースの女王」と呼ばれたダイナ・ワシントン、「世界最高のゴスペル・シンガー」と呼ばれ、本作では圧倒的な迫力でトリを飾ったマヘリア・ジャクソンなど、伝説のミュージシャンたちが次々と登場します。ダイナ・ワシントンの「オール・オブ・ミー」も最高に素晴らしかったし、マヘリア・ジャクソンのゴスペルは聴いているうちに泣けて仕方なかったです。彼女の歌う「主の祈り」が、新型コロナウイルスに苦しむ全人類への救済の祈りに聴こえたからです。



ちょうど、この日、女子テニスの大坂なおみ選手が、ニューヨークで開催中のウエスタン・アンド・サザン・オープンで27日に予定されていた準決勝を棄権すると明らかにしました。大坂選手はツイッターで黒人男性銃撃への抗議に同調する声明を出しています。大リーグ、NBA、MLBなどもボイコットを表明し、スポーツ界が大きく揺れています。いわゆる「BLM(ブラック・ライヴズ・マター運動」が加速していますね。



この映画でサッチモルイ・アームストロング)が白人の司会者とにこやかに語り合い、白人歌手とデュエットし、ダイナ・ワシントンも白人と一緒に木琴を叩き、最後のマヘリア・ジャクソンのゴスペルで白人たちが感動の涙を流している姿を見ると、今でもアメリカに黒人差別が存在することが信じられない思いです。1950年代後半から、アメリカの黒人の基本的人権を要求する「公民権運動」が活発となり、1964年には「公民権法」も成立しているのに、それから半世紀も経過して「何をやっているんだ!」と言いたくなります。

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映画的にも高評価!(映画公式HPより )

 

さて、映画の紹介に戻りたいと思います。この映画は「映画的にも高評価」として、公式HPの「作品情報」には、「本作は1958年7月3日から7月6日まで開催された『ニューポート・ジャズ・フェスティバル』を中心に撮影が行われ、それを1日の夏の夜の出来事としてわずか83分の作品にまとめられました。翌1959年ヴェネチア国際映画祭で招待上映されるや、その大胆な撮影手法や映像の美しさが関係者に衝撃を与えました。音楽と直接関係のないイメージを作品の随所に使用、観客にフォーカスしたシーン(映画全体の半分ほど)やアメリカズカップのヨットシーンなど、まるでビデオクリップのような映像は50年代のアメリカ文化を鮮烈に伝える、単なる音楽ドキュメンタリーにはとどまらない魅力に溢れています」



また、「今回上映される4K版は国立フィルム保存委員会が修復をサポートのもと、監督の夫人であるシャナ・スターンと共に制作されました。また、本作は国立フィルム保存委員会により、1999年アメリカ国立フィルム登録簿に登録されています」と紹介されています。アメリカ国立フィルム登録簿は、文化的・歴史的・芸術的に極めて高い価値を持つ作品が選出されるもので、これまで「國民の創生」(1915)、「ベン・ハー」(25)、「街の灯」(31)、「市民ケーン」(41)、「カサブランカ」(42)、「ローマの休日」(53)、「サウンド・オブ・ミュージック」(65)、「2001年宇宙の旅」(68)、「エクソシスト」(73)、「未知との遭遇」(77)、「地獄の黙示録」(79)、「ブレードランナー」(82)、「タイタニック」(97)などジャンルを問わず、歴史に残る選ばれた名作が登録されています。ちなみに、最近、くだんのBLM運動の影響で黒人差別の表現が指摘され、米動画サービス「HBOマックス」が配信を停止した「風と共に去りぬ」(39)も登録されています。ブログ「『風と共に去りぬ』再鑑賞」でも書いたように、わたしは同作を映画史上最高の名作だと思います。まあ、作品の時代背景などを説明することは必要かもしれませんね。

f:id:shins2m:20200828005444j:plainバート・スターン(映画公式HPより)
 

さらに、映画「真夏の夜のジャズ」のバート・スターン監督は著名な写真家です。1929年、アメリカ・ニューヨーク州ブルックリン出身なのですが、。撮影時は弱冠28歳でした。一流企業の広告や有名雑誌の特集など広い分野で活躍する当時ニューヨークで最も人気のある写真家として活躍していました。スタンリー・キューブリック監督の映画「ロリータ」(62)のポスターやオードリー・ヘプバーンブリジット・バルドー、マドンナのほか、 死去6週間前のマリリン・モンローを撮影した写真集で大きな話題を呼び、大御所写真家として多くの作品を残しました。「作品情報」には、「撮影当時新進気鋭の写真家で、映画は未知の分野だったバート・スターンに白羽の矢を立てたのが、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの発起人であるロリラードの夫人・エレインでした。熱狂的なジャズファンであったスターン監督はこれを快諾した、と言われています。本作は新進気鋭の写真家らしい、どこを切り取っても美しい写真のような場面が大きな見どころのひとつです」と紹介されています。

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観客たちもオシャレ!(映画公式HPより) 

 

この映画は、演奏シーンだけでなく、それを楽しむ観客たちの姿が大きくクローズアップされているのも大きな特徴です。服装だけでなく、帽子やサングラスもオシャレなのですが、1958年というのが信じられません。「どこまで豊かなんだ、アメリカ!」と言いたくなりますね。本作の舞台となったアメリカのニューポート市もオシャレです。「作品情報」には、「トラディショナルなボストンの街があるマサチューセッツ州の隣、ロードアイランド州に位置する港町。19世紀に入り夏の避暑地や保養地として栄え、街の風光明媚な海岸に豪邸が建ち並んでいます。国際ヨットレースのアメリカズカップも開催されており、本作でもその模様がカメラに収められています。また、全米オープンゴルフや全米アマチュアゴルフ、テニスの全米シングルス選手権(現:全米オープンテニス)の第1回大会が開かれたのもここニューポート市です。セレブの多いこの地域では従来クラシックコンサートが行われていましたが、ルイスの妻・エレインがジャズファンだった為、彼女の提案によりジャズ・フェスが行われることになったと言われています」と紹介されています。たしかに、映画に写っている観客は白人が多く、裕福そうな感じですね。



さて、この映画を観て、わたしはジャズの魅力を再認識しました。Wikipedia「ジャズの歴史」によれば、ジャズは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国南部の都市を中心に派生した音楽ジャンルです。 西洋楽器を用いた高度なヨーロッパ音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と民俗音楽とが融合して生まれました。演奏の中にブルー・ノート、シンコペーション、スウィング、コールアンドレスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション(即興演奏)、ポリリズム(複合リズム)などの要素を組み込んでいることが、大きな特徴とされています。その表現形式は変奏的で自由なものでした。



ジャズの歴史を振り返ると、初期からポール・ホワイトマンビックス・バイダーベックらの白人ミュージシャンも深く関わり、黒人音楽であると同時に人種混合音楽でもありました。演奏技法なども急速に発展し、20世紀後半には世界の多くの国々でジャズが演奏されるようになり、後のポピュラー音楽に多大な影響を及ぼしました。つまり、ジャズという音楽ジャンルは黒人と白人が平和的コラボレーションを展開して発展させてきたジャンルであり、その意味でも、黒人銃撃に抗議した大坂なおみのボイコットのニュースを知った当日に、この映画を観たことに運命的なものを感じました。黒人と白人が協力して作り上げてきたジャズの意は平和的なエートスがあり、聴く人を幸せにする力があるように思います。1958年のニューポートの観客たちも幸福そうな笑顔を浮かべ、2020年の東京・有楽町で映画鑑賞したわたしも幸せな気分になりました。

f:id:shins2m:20200828012109j:plain心ゆたかな社会』(現代書林)

 

この映画を観てつくづく思ったのは、ジャズもそうですが、「音楽」というものを発明した人類の偉大さです。拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)の「哲学・芸術・宗教の時代」にも書きましたが、人類が最初に発明した芸術とは、おそらく音楽であったとされています。人類がこの地球上に誕生してから現在に至るまで、人間が追い求めてきたものは「私とはいったい何者か」という自己の存在確認と意味の追求だったということができます。そして、それは近代文明の発達とともに「私の幸福とはいったい何か」という自己の存在の目的を追求することに少しずつ変わっていったのです。有史以前の音楽には、豊かな意味性があったといいます。自分たちの集落の音楽と他の集落の音楽を区別して、戦闘のときにそれを自分たちの戦意を鼓舞するために使いました。あるいは、誕生の祝いの歌、死者を弔う歌というふうに、目的に合わせて音楽に意味を持たせていたのでしょう。

 

ジャズでは、トランペット、サックス、ピアノ、ウッドベース、ドラムといった楽器を使用します。
わたしは、楽器についても考えました。人類最古の楽器が何だったのかということを調べていくと、それは人間の身体だったのではないかという説に行き着きます。なにしろ、身近に音を出すモノといえば、自分の身体が一番手っ取り早いです。手を叩くだけで十分リズムは出せます。音の高さは変わりませんが、音の強弱は十分つきます。これだけでもう立派な楽器です。実際、この「楽器」は、現在でもハンドクラップ(まさに手拍子である)として、フラメンコなどの民族音楽ラテン音楽、そしてヒップホップ音楽などを中心に世界中の音楽のなかで日常的に使われています。そして、人間の身体のなかで手の次に使えるのは骨です。人間の身体はたくさんの堅い骨から出来ています。この堅い物質が最古の楽器として音楽に利用されたことは想像に難くありません。自分の手で胸を叩きながら、足を踏みならしながら、リズムを作り、歌を歌う。おそらく、こうしたことが人類にとっての音楽の発生の起源なのだと思われます。

 

そして、人類が最初に楽器を作ろうとした動機は、自然の音のコピー模倣だったのではないでしょうか。赤ん坊が言葉を覚えるために周りの音をすべて模倣しようとするのと同様に、古代人たちが、波の音を、風の音を、小鳥たちの声を、その意味をさぐるために、あらゆる道具を使ってそれらを模倣しようとしたはずです。彼らは、自然界に聞こえてくるさまざまな音の「複雑さ」に何らかの「意味」を見出していたのではないでしょうか。だからこそ、その「音」を作り出そうと、楽器を作りはじめたのだと思います。楽器が自然界の音の模倣のために作られたとすれば、そうした楽器を使って作る音楽とは、まさしく、自然との同化、自然への畏敬、そして目に見えぬ神や霊への恐れだったに違いありません。そして、その楽器が現在のような西洋音楽のルールのなかで高度に洗練された楽器へと変化しはじめたのは、まさしく人間が「文明」というものを作り出した時期からなのです。

死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

「音楽」は人類の大発明でしたが、「映画」も大発明です。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)のテーマは「映画で死を乗り越える」というものですが、わたしは映画という文化が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。それは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないでしょうか。わたしには『唯葬論』(サンガ文庫)という著書がありますが、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思っています。映画を観れば、わたしは大好きなヴィヴィアン・リーオードリー・ヘップバーングレース・ケリーにだって、三船敏郎高倉健菅原文太にだって会えるのです。「真夏の夜のジャズ」は60年前の映画です。スクリーンには赤ちゃんや幼児も登場していますが、その子たちだって現在は60代になっているはず。出演者も観客も、ほとんどはこの世の人ではありません。そう、この映画には多くの死者たちが生前の姿を残しているのです。



スクリーンの中の死者たちは素晴らしいジャズの演奏に感動し、歓喜し、躍動しています。一瞬の「生」を輝かせるものが「音楽」なら、それを記録するものが「映画」です。「真夏の夜のジャズ」こそは、「音楽」と「映画」という人類が生んだ二大発明の幸福な結婚式のような作品であると思います。そして、「音楽」も「映画」も、その究極の目的とは、人間を「心ゆたか」にすること、すなわち幸福にすることにほかなりません。現在、人類は新型コロナウイルスに翻弄されています。音楽コンサートは開催されず、映画館も来場者が少ないです。この映画に出てくるようなジャズのフェスティバルを開催することなど、とうてい夢物語になってしまいました。しかし、それでも人類は、わたしたちは生まれてきたからには生を謳歌し、心ゆたかになる権利があります。

f:id:shins2m:20200826204644j:plainコロナ禍でも人生を楽しまねば!

 

コロナ禍にあって、わたしは「どうすれば、人々をハートフルにできるのか」ということを、60年前の人々から問われたような気がしました。2020年の真夏の夜に、東京の有楽町で「真夏の夜のジャズ」を観たことを、わたしはけっして忘れないでしょう。
それは本当に何もイベントがなかったこの夏で、わたしにとって唯一の「祭」でした。この映画から、わたしは「コロナ禍でも、人生を楽しめ!」というメッセージを受け取りました。明日から、また生きるぞ!

 

2020年8月28日 一条真也

『死の舞踏』

死の舞踏: 恐怖についての10章 (ちくま文庫)

 

一条真也です。
『死の舞踏』スティーヴン・キング著、安野玲訳(ちくま文庫)を再読しました。「恐怖についての10章」というサブタイトルがついた本書は、文庫版ながら759ページもある大著です。「ホラーの帝王」と呼ばれる著者が小説・映画・テレビドラマにおける膨大な数のホラー作品を論じています。原著は1981年に刊行されており、その後、1983年と2010年に新版が出ました。日本では1993年に福武書店から翻訳刊行された後、2004年にバジリコから改訳新版が出ましたが、長らく手に入らなくなっていました。2017年にちくま文庫で再刊されました。すでに福武書店のハードカバーで読んでいましたが、少し前にブログ『町山智浩のシネマトーク 怖い映画』で紹介した本を読んだところ、本書に何度も言及していたので、久々に読み返したくなりました。ちなみに、町山智浩氏は本書の「解説」を書いています。

 

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

  • 作者:町山 智浩
  • 発売日: 2020/06/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「40年以上にわたってモダン・ホラー界に君臨するスティーヴン・キングのノンフィクション大作、待望の復刊! 帝王キングが『フランケンシュタイン』から『エイリアン』まで、あらゆるメディアのホラー作品を縦横無尽に渡り歩き、同時代アメリカへの鋭い批評や自分史も交えながら饒舌に語りつくす。エッセイ『恐怖とは―2010年版へのまえがき』を増補した決定版」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「恐怖とは―2010年版へのまえがき」
「初版へのまえがき」
「1983年版へのまえがき」
第1章 1957年10月4日、
     あるいは舞踏への勧誘
第2章 〈フック〉の話
第3章 タロットの話
第4章 迷惑な自伝で一休み
第5章 リアリティの演出とラジオ
第6章 現代アメリカのホラー映画
    ――テキストとサブテキスト
第7章 ジャンクフードとしてのホラー映画
第8章 ガラスの乳首、または、このモンスターは
    ゲインズバーガーの提供でお送りしました
第9章 ホラー小説
第10章 ラスト・ワルツ
     ――ホラーと道徳、ホラーと魔法
「あとがき」
「訳者付記」
「解説」町山智浩
「索引/付録Ⅰ/付録Ⅱ」



「恐怖とは―2010年版へのまえがき」で、著者はホラー映画について以下のように述べています。
「われわれにとって、ホラー映画は安全弁だ。目覚めながら夢を見ているようなものだといってもいい。ふつうに暮らすふつうの人についての映画が血まみれドロドロの悪夢にねじれても、われわれはその圧力を逃がすことができる。それができないかぎり圧力は高まりつづけて、しまいには『シャイニング(The Shining)』(というのは、本のことだ。映画のほうはなにもかもガチガチに凍りついている――ありゃイケてないよな?)でオーバールック・ホテルを木っ端微塵にしたボイラーの爆発みたいにわれわれを空高く吹っ飛ばすことになりかねない」

 

新装版 シャイニング 上下巻 セット

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著者は、自身の小説を映画化したスタンリー・キューブリック監督のホラー映画史に燦然と輝く金字塔「シャイニング」(1980年)を評価しなかったことで知られています。映画「シャイニング」は大ヒットしたのですが、キューブリックによる原作からの改変が目立ったために、キングからは「エンジンが付いてないキャデラック」と忌み嫌ったのです。キングのホラー論である『死の舞踏』でも、キューブリックの「シャイニング」を散々にこき下ろしています。1997年には、キング自らテレビドラマ「シャイニング」を監修しています。ただし、キューブリックという著名な監督が自らの作品を映画化することは光栄に思っていたといいます。まあ、「シャイニング」は誰が見ても、映画が原作に勝っています。わたしは両方観ましたが、テレビドラマ版も映画版には勝てません。



話を戻します。著者はホラー映画について、「本物の恐怖に押しつぶされて、その場に凍りついたまま日々の生活のなかで機能できなくなったりしないように、われわれは作り物のホラーのなかに避難する。好きこのんで映画館の暗闇のなかへ悪い夢を見にいくのは、悪い夢が終わったとき、日常生活の世界がこのうえなくすばらしいものに見えるからだ。それを心に留めておけば、なぜいいホラー映画がおもしろくて(もっとも、それもたいていは偶然の産物だが)なぜ何百という失敗作がまったくおもしろくないのかを理解するのもたやすくなる」とも述べています。



本書のオリジナル版は1981年刊行なので、古い映画の話題しか書かれていませんでしたが、新版は2010年なので21世紀の映画も登場します。たとえば「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1994年)がそうで、著者は「初めて《ブレア・ウィッチ・プロジェクト》を見たのは不注意運転のミニバンに田舎道で粉砕されてからおよそ12日後で、私は病室にいた。全身が痛みに叫び、痛み止めでハイになり、ひどい画質の海賊版ビデオ(どうやって海賊版ビデオを手に入れたかって? まあ、穿鑿御免ということで)をポータブルテレビで見ていた私は、いってみれば、完璧な視聴者だった」と述べています。



続けて、著者は「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」について、こう述べています。
「映画製作者志望の3人(ヘザー・ドナヒュー、ジョシュア・レナード、マイケル・ウィリアムズの3人。演じていたのもたまたまヘザー・ドナヒュー、ジョシュア・レナード、マイケル・ウィリアムズ)がラヴクラフト風の異様なシンボルが木からぶら下がっているのを見つけるころには、私はいっしょに見ていた息子に、もういい消してくれと懇願するはめになった。ホラー映画が怖すぎて途中で見られなくなったのは生まれて初めてだった。フィルムがブツブツ途切れるせいもあったし(あるところでは8ミリの手持ちビデオカメラで、あるところでは16ミリの肩載せ型カムコーダーで撮影されている)、薬のせいもあったが、要するに、心底ビビったわけだ。そこはハリウッド映画のロケ地的な森には見えなかった。現実の人間が現実に迷いかねない現実の森に見えた」

 

第1章「1957年10月4日、あるいは舞踏への勧誘」では、「死の舞踏に少しでも真実味や価値があるとすれば、それは、ホラーを扱う小説や映画、テレビやラジオが――さらにはコミック・ブックでさえも――つねにふたつのレベルで機能するからだ」だとして、著者は「ひとつはいわば“ウゲッとなる”レベル。たとえば《エクソシスト(The Exorcist)》でリーガンが司祭の顔にゲロを吐きかけるシーンや十字架でマスターベーションするシーン、あるいは、ジョン・フランケンハイマー監督の《プロフェシー/恐怖の予言(Prophecy)》で全身赤むけのぬめぬめしたモンスターがヘリコプターのパイロットの頭をトゥッツィポップ・キャンディみたいにバリバリ噛み砕くシーンだ。芸術的完成度はさまざまでも、“ウゲッとなる”レベルはつねに存在する。いっぽうもうひとつの、もっと奥深くにあるレベルにおけるホラーは、まぎれもない舞踏――躍動的でリズミカルな探求だ。こいつは観客なり読者なりの最も根源的感情が宿る場所を探している」と述べます。



また著者は、「ホラーは芸術だろうか」と読者に問いかけた後、「このふたつめのレベルに限っていえば、ホラーは芸術以外のなにものでもない。芸術の域にまで達するのは、芸術以上のなにか、芸術以前のなにかを求めているからにほかならない。こいつが求めているのは、いってみれば〈恐怖のツボ〉だ。すぐれたホラーは踊りながら人の心の奥底に入り込み、本人しか知らないと思い込んでいるまさにその部屋の秘密の扉を見つけ出す――アルベール・カミュビリー・ジョエルが指摘するとおり、人はだれしも“異邦人”に対して不安を抱く・・・・・・そのくせ、その顔をこっそり確かめずにはいられない」と述べます。



そして、ホラーの本質を探る著者は、嫌悪・恐怖・戦慄という三層構造を指摘するのでした。
「結論。最上層には〈戦慄〉が、まんなかには〈恐怖〉が、そして、最下層にはウゲッとなる〈嫌悪〉が存在する。こうした区別は場合によっては役立つこともあるので、私のような三文ホラー小説家としてはきちんと認識しておくべきだが、あるレベルが別のレベルより読者に与える効果が大きいからといって、そればかり贔屓にするような姿勢は避けるべきだ。このような定義づけにともなう問題は、定義が評価の道具と化す傾向にあるという点だろう――しかもこの種の評価は、私にいわせれば機械的なあらさがしであって、必要以上に窮屈なばかりか、危険でさえある。私は〈戦慄〉が最も洗練された感情だと見なしているからこそ(ロバート・ワイズ監督の《たたり(The Haunting)》は〈戦慄〉の効果が凝縮された映画で、「猿の手」と同じように、ドアの向こうになにがいるかは決して明かされない)、読者にはつねに〈戦慄〉を与えようと試みる。だが、その試みがうまくいかない場合には、〈恐怖〉を与えようと試みる。それにも失敗すれば、自慢ではないが、〈嫌悪〉に走るだろう」


第2章「〈フック〉の話」では、著者はホラー・ブームについて言及し、「ホラー映画とホラー小説はいつの世でも人気があるが、10年から20年の周期でいわゆるブームがやってくる傾向にあるようだ。この周期は、申し合わせたように深刻な経済的危機や政治的危機(両方いっしょの場合もあるし、どちらか一方の場合もある)の時期と一致する。映画も小説も、こうした深刻だが致命的ではない混乱にともなう大衆の漠然とした不安(もっと適当な言葉が欲しいところだが)を反映するものらしい。現実に人々の生命を脅かすような危機に直面している時期には、概してホラーの勢いはふるわない。1930年代、ホラーは一大ブームを迎えた。大恐慌に打ちのめされ、「ウィー・アー・イン・ザ・マネー」にあわせて踊る100人のバズビー・バークレー・ダンサーズを見るためにチケット売場で入場料を払う気になれなかった人々が、おそらく別の手立てで不安を解消しようとしたのだろう――それが《フランケンシュタイン(Frankenstein)》で荒れ地をさまようボリス・カーロフを見ることであり、《魔人ドラキュラ(Dracula)》で口元をマントで隠し闇に紛れて忍び寄るベラ・ルゴシを見ることだった。また、30年代には〈ウィアード・テールズ〉や〈ブラック・マスク〉を始めとする、いわゆる“シャダー・パルプ”が全盛を迎える。1940年代のホラーは、映画にも小説にもこれといって見るべきものはない」と述べています。



続けて、著者は以下のように述べています。
「不景気時代のユニバーサル・スタジオお抱えのモンスターたち――フランケンシュタインの怪物、狼男、ミイラ、ドラキュラ伯爵――は、映画が末期患者のために用意しておくようにも思えるあの目を覆いたくなるほど破茶滅茶な形の死を迎えようとしていた。栄光のなかで引退させてヨーロッパの墓地のカビくさい土にきちんと埋葬するかわりに、ハリウッドはモンスターたちを笑いの種にして、老いた哀れな怪物たちを解放する前に入館料を最後の35セントまで絞りとることにしたのだ。そんなわけで、モンスターたちはアボットコステロやバワリー・ボーイズのお相手を命じられた。三ばか大将の愛すべきドタバタ喜劇につきあわされたことはいうまでもない。40年代には、モンスター自身がボケ役になったわけだ」



また、戦中および戦後しばらくはホラー小説は衰退の一途をたどったと著者は指摘し、「時代がホラーを受けつけなかった。当時は急速な技術革新と合理主義の時代であり――おかげさまで、どちらも戦争という空気を吸ってすくすく成長した――それと共に、現在のSFファンと作家が一様に“SF黄金期”と見なす時代がやってきた。〈ウィアード・テールズ〉がどんなにがんばっても売り上げを伸ばせないかつかつの状況にあるいっぽうで(発刊時の華やかなオリジナル・パルプサイズから小型のダイジェストサイズに変更するが、部数の伸び悩みは解消できず、50年代半ばにはついに廃刊となる)、SF市場は隆盛をきわめ、歴史に残る名雑誌が星の数ほど生まれ、ハインラインアシモフ、ジョン・W・キャンベル、レスター・デル・レイといった有名作家が輩出した。これらの名前はだれでも知っているとはいわないまでも、宇宙船や宇宙ステーション、もっとポピュラーなところで殺人光線などに夢中になるファンは増加の一途をたどっており、少なくともそういうファンのあいだではいずれも馴染み深くて胸躍る名前だった」と述べています。


次に、著者は「モンスターとは何か?」と問いかけ、「手始めに、ホラーはどんなに素朴な形であっても本質的に寓意性を帯びている、象徴性を帯びている、と仮定する。精神分析医のカウチに横たわる患者の話のように、ホラーが語ることには別の意味が含まれていると仮定するのだ。ホラーの寓意性や象徴性が意識的なものだといっているわけではない。それは技巧の問題になるが、そこを目指すホラー小説家やホラー映画監督はほとんどいないだろう」と述べます。また、寓意的要素が存在するのは、それがあらかじめ組み込まれていて、避けようがないからにすぎないとして、「ホラーがわれわれを魅了するのは、普通ならとても率直にはいえないことを象徴的な方法で、荒々しく語るからだ」とも述べています。



さらに著者は、社会生活を営むうえで抑え込まなくてはならない感情を発散する(誤植ではない。ここは祓うではなく発散するが正しい)チャンスを、ホラーは与えてくれるとして、「ホラー映画は『ルールを逸脱した反社会的行為に代行者を通じて耽ろうぜ』という招待状だ――意味もなく暴力をふるっても、パワーに対して子供じみた夢を抱いても、臆面もなく恐怖に屈してもかまわない。なによりも、ホラー小説やホラー映画は、『群集心理に身を任せて完全に無責任な存在としてアウトサイダーをやっつけていいんだよ』といってくれる」と述べています。

 

著者いわく、ホラーが鉱山の竪穴にまっすぐ転げ落ちるようなO・ヘンリー的な意外な結末を迎えることが多いのも、偶然ではありません。ぞっとするような映画や本に取りかかるときは、“なんとかなるさ”とは思っていません。むしろ、「つねづね不安に感じていることが語られるのを――“最悪の結果になるぞ”と語られるのを――待っている。そのとおりだという証拠は、ホラー作品のなかにたいてい山ほど転がっている」というのです。



著者は、フリーク(奇形)の問題にも言及し、「フリークはたしかに好奇心をそそる。だが、同時に呪われた忌まわしいものでもある。だからこそ、ホラー映画の原動力としてフリークというテーマを用いた挑戦は、映画公開早々の上映禁止という結果に終わった。その映画を《怪物團(Freaks)》〔リバイバル上映時《フリークス/怪物團》〕という。1932年のMGM製作のトッド・ブラウニング監督作品だ」と述べます。



ブラウニングは映画に本物のフリークを起用するという過ちを犯したと指摘する著者は、「観客が本当にホラーを楽しめるのは、あくまでもモンスターの背中にジッパーがついているという条件のもとでのことで、真剣勝負でないことがわかっていなくてはならない。《怪物團》のラストで、胴体男や腕なし女やシャム双生児ヒルトン姉妹が悲鳴をあげるクレオパトラを追いかけて泥のなかを這い進むシーンなどは、少々やりすぎだった。MGMお抱えの劇場主でさえも、こればかりは上映を拒否したという」と述べています。

 

フリークスとモンスターの相違について語ることはある意味で危険なことですが、著者は「事実、ほとんどすべての身体的および精神的な人間の異常は、歴史のどこかの時点で(それどころか現在でも)モンスターと見なされる――一覧表を作れば、そのなかには額のV字型の生えぎわも(男性の場合、かつてはこれが妖術師の確かな証拠と見なされた時代がある)、女性の体のほくろも(魔女の乳首と見なされた)、重度の統合失調症も含まれるだろう。最後のケースは、患者が教会によって聖人の列に加えられることもあった」と述べます。

 

そして、著者はモンスターについて、「人がモンスターに魅了されるのは、だれの心にも住んでいる三つ揃いを着込んだ保守的な共和党員に訴えるものがあるからだ。モンスターという概念が愛され必要とされるのも、人間としてのわれわれみんなが望んでやまない秩序を再認識させてくれるからにほかならない・・・・・・さらにいえば、人がモンスターを恐れるのは、肉体が異常だったり精神が異常だったりするからではなく、異常な状態が無秩序を暗示しているような気がするからだ」と述べるのでした。

 

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

 

 

第3章「タロットの話」では、歴史に残るホラー小説の名作たちが登場します。
「『ジキルとハイド(The Strange Case of Dr.Jekyll and Mr.Hyde)』は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンが取り憑かれたようになってわずか3日で書きあげた。妻がこの物語を怖がったので、スティーヴンソンは原稿を暖炉にくべて燃やした・・・・・・そして、一から書き直してまたもや3日で書きあげた。『吸血鬼ドラキュラ』は臆面もない赤面もののメロドラマで、書簡小説の体裁をとっている――この手法は『吸血鬼ドラキュラ』より20年前、ウィルキー・コリンズが最後にして最良のミステリー・サスペンス小説を書いていたときすでにすたれかけていた。3冊のうちでいちばん有名な『ブランケンシュタイン(Frankenstein or The Modern Prometheus)』は19歳の娘の手になるもので、小説としての出来もいちばんいいが、いちばん読まれていないし、この著者がこれほど早く、これほど巧妙に、これほど首尾よく・・・・・・つまり、これほど独創的に書けたことは、これ以降二度とない」

 

著者は「意地の悪い書評家的な観点に立つならば、この三作品は当時の大衆小説の域を出ないと見なすことができる」と低評価を下していますが、「この三作品だけは特別扱いするにふさわしい」とも述べています。というのは、三作品とも無数の本や映画の――“モダン・ホラー”として知られるようになる20世紀の無数のゴシック作品の――巨大な摩天楼の礎石だからです。著者は、「それだけではない。三作品の中心にはそれぞれモンスターがいて(うずくまっていて、というべきか)、バートン・ハトレンいうところの“神話の溜池”――小説を読まない人や映画を見ない人さえも、みんな創作文学というその水を浴びた経験がある――に入って大きくすることになった。悪という魅力的な概念を象徴する完璧なタロット・カードのように、このモンスターたちはきれいに並べることができる。〈吸血鬼〉、〈人狼〉、そして、〈名前のないもの〉だ」とも述べています。

 

ねじの回転 (新潮文庫)

ねじの回転 (新潮文庫)

 

 

続けて、著者は怪奇小説の名作として名高い『ねじの回転』に言及し、以下のように述べています。
ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転(The Turn of the Screw)』も怪奇現象の恐怖を扱った傑作小説だが、このタロットのカードから除外した。『ねじの回転』が扱うのは超自然的な存在としてはいちばんポピュラーな〈幽霊〉なのだから、本来なら仲間に入れてもおかしくない。それをあえて除外する理由はふたつある。第一に、『ねじの回転』はエレガントかつ上品な散文で登場人物の心理を論理的に繊密に編み上げてあるものの、アメリカ大衆文化のメインストリームに与えた影響はゼロに近い。幽霊だったら、テレビアニメの〈優しいオバケのキャスパー〉を原型として論じるほうがいいだろう。第二に、〈幽霊〉は確かに原型としては重要だが、いかんせん(フランケンシュタインの怪物やドラキュラ伯爵やエドワード・ハイドが象徴するものと違って)出没する範囲が広すぎて、一作品に的をしぼることができない。〈幽霊〉という原型は、いってみれば怪奇現象を素材にした小説のミシシッピ川のようなもの、いずれふさわしい箇所で論じることになるだろうが、1冊の本に限定するつもりはない」

 

 

さて、著者は「すべてのホラーはふたつのグループに分けられる」と断言します。意識的な自由意志――悪を為そうという意識的な決断――による行動の結果として生じる恐怖を描くものと、稲妻の一撃のように外から襲いかかる運命としての恐怖を描くものです。著者は、「後者に属するホラーで最も古典的なものはといえば、神と悪魔の超自然的スーパーボウルがおこなわれるグラウンドの人間人工芝にされた、旧約聖書のヨブの物語だろう。人間の心の領域を掘り下げていくサイコロジカル・ホラーは、たいてい自由意志という概念――お望みなら“内なる悪”といってもいいが、要するに人間には父なる神になりかわる資格はないという概念だ――をめぐって展開する。これに当たるのが、ヴィクトル・フランケンシュタインだ」

 

新訳 ジキル博士とハイド氏 (角川文庫)

新訳 ジキル博士とハイド氏 (角川文庫)

 

 

また、『ジキルとハイド』について、著者は「ここで最も基本的なレベルで論じようとしているのは、お馴染みのイドと超自我との対立、悪を為す自由意志とそれを拒む自由意志との対立・・・・・・あるいは、スティーヴンソン流にいえば禁欲と満足の対立についてだということを思い出してほしい。このお馴染みの対立はキリスト教の土台でもあるが、これを神話として読み解くと、ジキルとハイドの二面性から別の二面性が浮かんでくる――前述のアポロン(知的で、道徳的で、気高くて、「いつも登り坂を歩いて」いる存在)とディオニュソス(乱痴気騒ぎと肉欲の神で、人間性の堕落した部分)との対立だ。神話以外の解釈がお好みなら、肉体と精神の分離といい換えてもいい・・・・・・ジキルは友人たちにまさにこういう印象を――自分は純粋に精神的な存在で、人間くさい嗜好や需要とは無縁だという印象を、与えようとした。この男が新聞を読みながら便座に腰かける姿を想像するのは難しい。人間のなかのアポロン的資質とディオニュソス的欲望という異教的な対立としてジキルとハイドの物語をとらえると、〈人狼〉――名ばかりの変装――の神話は、小説と映画とを問わず、じつに多くのモダン・ホラーに行き渡っている」と述べます。



その一番いい例として、著者は、アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』を挙げます。「巨匠には敬意を表すが、この映画のアイデアの元はロバート・ブロックの小説だ」と述べた後、『サイコ』の主人公ノーマン・ベイツは〈人狼〉であると指摘します。毛が生えないかわりに、死んだ母親のパンティとスリップとドレスを身につけると一変する――そして噛みつきこそしないものの、モーテルの客を切り刻むからです。著者は、「『サイコ』が効果的なのは、〈人狼〉の神話を人間の心のなかに持ち込んだからだ。それは宿命的な“外なる悪”ではない。罪は遠い星の上ではなく自分自身にある。われわれは、ノーマンが外側も〈人狼〉になるのはママの下着をつけてママの声で話すときだけだと知っている。だが、内側はつねに〈人狼〉なのではないかという不安な疑念を抱かされる」とも述べています。



第4章「迷惑な自伝で一休み」では、自身の少年時代を振り返って、著者は以下のように述べています。
「子供時代にある程度ファンタジーやホラーに親しんでおくのはいっこうに問題がないし、役立つことのように思える。想像力の容量が大きいおかげで、子供はそれらに対応できるし、特殊な社会的立場のおかげで、怖いという感情を活用できる。また、子供は自分の立場についてきちんと理解してもいる。アメリカのような比較的秩序正しい社会においてさえ、自分の生死は自分ではどうにもならないものだとわかっているのだ。子供の生活は8歳ごろまではあらゆる意味で“依存”している。依存の対象は父親であり母親(あるいはだいたいそういう役割を担っている人)だ。衣食住の世話はもちろんのこと、車が橋台につっこまないように気をつけてくれるのも親なら、時間どおりにスクールバスの停留所に迎えにきてくれるのも、カブスカウトやブラウニーの活動のとき送り迎えしてくれるのも、薬を買うとき安全キャップ付きのを選んでくれるのも、トースターをいじくり回したりバスタブのなかでバービーちゃんのビューティーサロンで遊んだりしているとき感電しないように気を配ってくれるのも親である」

 

第6章「現代アメリカのホラー映画――テキストとサブテキスト」では、著者は「死」について言及し、「人間なら例外なく純粋に個人として折り合いをつけなくてはならない恐怖のひとつに“死”があることは、だれもが認めるところだろう。死はまさに頼みの綱だ。これなくしてはホラー映画は恰好のつかないものになってしまう。当然ながら、死には“よい死”と“悪い死”がある。たいていの人間は、80歳になってからベッドで安らかに息をひきとりたい(できることなら、美味なる晩餐と極上のイタリア・ワインと最高のセックスのあとで)と願う。自動車にじわじわと押しつぶされ、額にクランクケースからぽたりぽたりとオイルがたれてくるという状況のなかで死にたいと思う物好きは、まずいない。大部分のホラー映画は、この悪い死に対する恐怖から最大の効果を引き出す」と述べています。



他には、死という事実そのものと、それにともなう腐敗という現象から恐怖を引き出す映画もあると指摘して、著者は「若さ、健康、美(たいていの場合、美は若さと健康によって定義されるようだが)といった儚いものを重視する社会では、死や腐敗は必然的に恐怖の対象となり、必然的にタブーの対象となる」と述べています。そして、「当然ながら葬儀場もタブーである。葬儀屋は、“立入禁止”と明示された部屋にこもって死化粧や防腐処置という得体の知れない魔術を使う現代の神官だ」などと述べています。


「遺体の髪はだれが洗う? 愛する故人の手足の爪は最後にもう一度切るのだろうか? 死者は靴なしで棺に納められるというのは本当か? 霊安室で最後の出番を待つ遺体に服を着せるのはだれだろう? 弾痕はどうやってふさいで隠す? 首の索状痕はどうやって消す?」と立て続けに疑問を呈した後、「こういう疑問の答えは調べればわかるものばかりだが、一般的な知識ではない。しかも、答えを知るべく調査に乗り出せば、こいつちょっとおかしいぞ、という目で見られることになる。嘘ではない。死んだ息子をよみがえらせようとする父親の話を書こうとして、私は下調べのために埋葬についての文献を山ほど集めた――すると、「どうしてあいつは『The Funeral:Vestige or Value?(葬儀――形式か救済か)』なんて本を読んでるんだ?」という訝しげな視線まで集めるはめになった。とはいえ、人は遺体安置所の地下にある鍵のかかった扉にときどきある種の興味を抱かないわけではないし、葬儀の参列者が立ち去ったあとの墓地ではなにが起きるのだろうか・・・・・・ことによると新月の夜には・・・・・・などと考えないわけではない」などと述べています。

 

そして著者は、「ホラー映画の究極の真実」について以下のように述べます。
「それは、ホラー映画は死を愛していないということだ。そう見えるものもある。だが、愛しているのはじつは生だ。ホラー映画は醜さを讃えているわけではない。醜さについて繰り返し語ることで健康と生命力を賛美する。呪われた者たちの苦悩を見せることで、日々の生活に潜む小さな(だが、けっして価値がないわけではない)喜びを再発見させる。いってみれば精神の瀉血をする床屋のヒルのようなもので、悪血のかわりに不安を取り除いてくれるのだ・・・・・・とにもかくにも、しばらくのあいだは」



ホラー映画の名手と呼ばれる監督のほとんどは、恐怖を最初に持ってくることを選んでいるといいます。まず恐怖の大きなかたまりを息ができないくらいぐいぐいと観客の喉に詰め込んでから、今度はじらしにじらし、最初にかき立てた恐怖をとことん利用して最後まで引っ張っていくのだと指摘し、著者は「この手法を学びとろうとするホラー映画監督志望者のお手本といえば、いうまでもなく、本書で扱う時期における金字塔的名作――そう、アルフレッド・ヒッチコックの《サイコ》である。最小限の血から最大限の恐怖を引き出す映画といえば、これしかない。あの有名なシャワーのシーンで、われわれはジャネット・リーの姿を見る。ナイフを見る。だが、ジャネット・リーに刺さったナイフを見ることはない。そういうシーンを見たと思っている方がいるかもしれないが、それは記憶違いだ。想像力がそう思わせた。ヒッチコックの大勝利である。このシーンでわれわれが見る血は、渦を巻いて排水孔に吸い込まれていく血だけだ」と述べるのでした。



第9章「ホラー小説」では、ホラーのメジャー・テーマの1つである「幽霊屋敷」が取り上げられ、著者は「幽霊屋敷が超自然的神話というタロット・カードの正統な1枚だとはいわないが、探求の範囲をもう少しだけ広げれば、これが神話の溜池に水を供給するもうひとつの源泉だということに気づくだろう。もっとふさわしい名称があればいいのだが、とりあえずはこの原型を〈よくない場所〉とでも呼ぶことにしよう。この呼び名なら、メイプル通りの突き当たりにある『売家』の文字もわびしい窓の壊れた雑草だらけの荒屋よりも、ずっと多くを網羅できる」と述べています。



また、著者が読んだという突拍子もない論文の内容がじつに興味深かったです。以下のような内容です。
「いわゆる“幽霊屋敷”は実質的には霊のバッテリーで、車のバッテリーが電気を蓄えるように、そこで暮らした人間の感情を吸い取って蓄える、というのだ。論文はさらにこう続く。“幽霊”と呼ばれる心霊現象は、本質的には一種の超自然的ロードショー――つまり、昔の出来事の一部である音声や映像を再生したものだ。幽霊屋敷が嫌われて〈よくない場所〉だという噂をたてられるのは、怒りや憎しみや恐怖といった根源的感情こそが人間の最も強い感情だという事実ゆえではあるまいか・・・・・・」

 

この論文の主張を、著者は絶対的真実として受け入れたわけではないそうです。心霊現象が出てくるような小説を書く人間は、そういう現象に敬意を払う義務こそあれ、無条件に崇めたてまつる必要はないように思えますが、この主張が興味深いのはたしかだったとして、著者は「着想そのものはもちろん、私自身の体験から導き出した結論とわずかながら似通った部分があったからだ。要するに過去とは、われわれの日常生活に絶えずつきまとう幽霊である」と述べています。


「解説」で、映画評論家の町山智浩氏は「キングはいつものように饒舌に、横道に逸れたり、行ったり来たり、試行錯誤しながら、意識の流れに逆らわずに進んでいく。このジェットコースターはいったいどこに向かってるんだ? と戸惑いもするが、話しかけるような口調と頻繁にはさまれるジョークのおかげで楽しく読み続けられる。そして、読み進むうちに、この『死の舞踏』は、評論でもあり、自伝でもあり、社会史であって哲学書でもあると気づく」と述べています。キングは、ホラーの傑作は「恐怖のツボを突く」ことだといいます。そして、ツボには社会的な恐怖と心理的な恐怖の2種類があるといいます。各作品の社会的な恐怖のツボを探り当てることで、生々しいアメリカ社会史になっています。また、心理的な恐怖のツボを考えることは、人間とは何かを知ること、つまり哲学になるのです。


『SF教室』筒井康隆編(ポプラ社)の函と本体 

 

また、町山氏は本書『死の舞踏』と似ている本として、筒井康隆著『SF教室』(1971年)を挙げ、「ポプラ社から小学生向けの入門書として出版されたが、まず『SFとはサイエンス・フィクションの略』という定義から破壊してしまう。なぜ、科学的にはいいかげんなレイ・ブラッドベリがSFで、科学小説がSFとは呼ばれないのか? 『SF教室』といいながら、答えるよりも逆に問いを増やしていく。そして、サイエンスには社会学政治学も文学も精神医学も哲学もある、と戦線を拡大して、さらに読者を混乱させる。筒井康隆は時をかけ、宇宙をかける思考実験の果てに、この『もしも』こそがSFではないか、と提言する。当時、この『SF教室』は多くの学校図書館にあり、筆者のような1960年前後に生まれたSFファンに、H・G・ウェルズやロバート・A・ハインラインよりも大きな影響を与えた1冊だ」と述べています。この一文を読んで、わたしは涙が出るほど懐かしかったです。じつは、この『SF教室』はわたしの小学生時代からの大の愛読書で、もう100回くらい読んでいるのです。今でも、わが書斎に鎮座しています。町山氏はわたしに1歳年上なので、完全に同年代であることを再認識しました。

 

町山氏は、本書『死の舞踏』の要点を述べます。
「まず、本書全体を貫く、キングの大きなテーゼは「ホラーには寓意性がある」ということだ。意図しようとしまいと、怪物は怪物そのものではなく、現実に我々が恐れている何かのメタファーなのだ、と。だから怖いのだ。人々が恐れている弱点を「武道で敵の不意を突く」ように狙う。それがキング曰く「恐怖のツボを突く」ことになる。恐怖には3段階があるとキングはいう。(1)嫌悪(リヴァルジョン)、(2)恐怖(ホラー)、(3)戦慄(テラー)だ」

 

また、キングはホラーとは秩序の崩壊を恐れる気持ちだと繰り返し強調することを指摘し、町山氏は「つまり日常に亀裂が入ること。キングは秩序をアポロン的、それを破壊する混沌をディオニュソス的と呼ぶ。これはニーチェの理論に基づいている。ニーチェは、ギリシアの太陽神アポロンに秩序や調和を求める衝動を、酒の神ディオニュソスに祝祭や陶酔を求める衝動を象徴させたが、キングは、ディオニュソス的混沌は恐怖の根源だとする。これと関係することになるが、キングは恐怖を、その原因によってふたつに分ける。ひとつは主人公の意志による行動の報いを受けるもの。墓を暴いた者が呪われたり、殺人犯が幽霊に呪い殺されたり、因果応報、バチが当たるの類。これには教育的効果がある。これは怖いようで怖くない。防御策として悪いことをしなければいい。ここには秩序がある」と述べます。

 

もうひとつはまったく逆に、主人公に責任のない外部から突然襲われるもので、「キングは旧約聖書ヨブ記がこれだという。ヨブは信心深い真面目な男なのに次々に不幸にあい、どん底で神に不平を訴えると、神から『神の考えは人間には計り知れないのだ』と叱られる。聖書ではこの後、ヨブは幸福になるのだが、現実はどうだろうか? 天災や病気や事故や殺人は、何の罪もない人々を滅ぼし続ける。秩序はない。キング曰く『実存主義的恐怖』だ。こちらのほうが恐ろしい。秩序はないから防御策もない」と述べています。

 

さらに町山氏は、「キングの分類は続く。ホラーが突く『恐怖のツボ』には社会的恐怖と個人的恐怖がある。前者は社会派ドキュメンタリー的で、後者はおとぎ話的になる。この社会派ホラーの解説は本書の見せ場のひとつだ」と述べ、最後に「死の舞踏」について。中世ヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行した時、誰にでも襲い掛かる死の恐怖を忘れようとして人々は半狂乱で踊り続けた。それが「死の舞踏」と呼ばれた歴史を説明しつつも、「それとは逆に、当時の教会はメメント・モリ(死を忘れるな)と唱えた。それもホラー文化の役割だ。キングは、『死のリハーサル』だという。死に近づくことで人は生を実感する。人々がお金を払ってまでホラーを求める理由はたぶんそれだろう」と述べるのでした。まことに要点を得た本書の「解説」であり、750ページ超える大著の「読み方」を教えられたような気になりました。

 

 

2020年8月27日 一条真也