『死の舞踏』

死の舞踏: 恐怖についての10章 (ちくま文庫)

 

一条真也です。
『死の舞踏』スティーヴン・キング著、安野玲訳(ちくま文庫)を再読しました。「恐怖についての10章」というサブタイトルがついた本書は、文庫版ながら759ページもある大著です。「ホラーの帝王」と呼ばれる著者が小説・映画・テレビドラマにおける膨大な数のホラー作品を論じています。原著は1981年に刊行されており、その後、1983年と2010年に新版が出ました。日本では1993年に福武書店から翻訳刊行された後、2004年にバジリコから改訳新版が出ましたが、長らく手に入らなくなっていました。2017年にちくま文庫で再刊されました。すでに福武書店のハードカバーで読んでいましたが、少し前にブログ『町山智浩のシネマトーク 怖い映画』で紹介した本を読んだところ、本書に何度も言及していたので、久々に読み返したくなりました。ちなみに、町山智浩氏は本書の「解説」を書いています。

 

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

  • 作者:町山 智浩
  • 発売日: 2020/06/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「40年以上にわたってモダン・ホラー界に君臨するスティーヴン・キングのノンフィクション大作、待望の復刊! 帝王キングが『フランケンシュタイン』から『エイリアン』まで、あらゆるメディアのホラー作品を縦横無尽に渡り歩き、同時代アメリカへの鋭い批評や自分史も交えながら饒舌に語りつくす。エッセイ『恐怖とは―2010年版へのまえがき』を増補した決定版」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「恐怖とは―2010年版へのまえがき」
「初版へのまえがき」
「1983年版へのまえがき」
第1章 1957年10月4日、
     あるいは舞踏への勧誘
第2章 〈フック〉の話
第3章 タロットの話
第4章 迷惑な自伝で一休み
第5章 リアリティの演出とラジオ
第6章 現代アメリカのホラー映画
    ――テキストとサブテキスト
第7章 ジャンクフードとしてのホラー映画
第8章 ガラスの乳首、または、このモンスターは
    ゲインズバーガーの提供でお送りしました
第9章 ホラー小説
第10章 ラスト・ワルツ
     ――ホラーと道徳、ホラーと魔法
「あとがき」
「訳者付記」
「解説」町山智浩
「索引/付録Ⅰ/付録Ⅱ」



「恐怖とは―2010年版へのまえがき」で、著者はホラー映画について以下のように述べています。
「われわれにとって、ホラー映画は安全弁だ。目覚めながら夢を見ているようなものだといってもいい。ふつうに暮らすふつうの人についての映画が血まみれドロドロの悪夢にねじれても、われわれはその圧力を逃がすことができる。それができないかぎり圧力は高まりつづけて、しまいには『シャイニング(The Shining)』(というのは、本のことだ。映画のほうはなにもかもガチガチに凍りついている――ありゃイケてないよな?)でオーバールック・ホテルを木っ端微塵にしたボイラーの爆発みたいにわれわれを空高く吹っ飛ばすことになりかねない」

 

新装版 シャイニング 上下巻 セット

新装版 シャイニング 上下巻 セット

  • メディア: セット買い
 

 

著者は、自身の小説を映画化したスタンリー・キューブリック監督のホラー映画史に燦然と輝く金字塔「シャイニング」(1980年)を評価しなかったことで知られています。映画「シャイニング」は大ヒットしたのですが、キューブリックによる原作からの改変が目立ったために、キングからは「エンジンが付いてないキャデラック」と忌み嫌ったのです。キングのホラー論である『死の舞踏』でも、キューブリックの「シャイニング」を散々にこき下ろしています。1997年には、キング自らテレビドラマ「シャイニング」を監修しています。ただし、キューブリックという著名な監督が自らの作品を映画化することは光栄に思っていたといいます。まあ、「シャイニング」は誰が見ても、映画が原作に勝っています。わたしは両方観ましたが、テレビドラマ版も映画版には勝てません。



話を戻します。著者はホラー映画について、「本物の恐怖に押しつぶされて、その場に凍りついたまま日々の生活のなかで機能できなくなったりしないように、われわれは作り物のホラーのなかに避難する。好きこのんで映画館の暗闇のなかへ悪い夢を見にいくのは、悪い夢が終わったとき、日常生活の世界がこのうえなくすばらしいものに見えるからだ。それを心に留めておけば、なぜいいホラー映画がおもしろくて(もっとも、それもたいていは偶然の産物だが)なぜ何百という失敗作がまったくおもしろくないのかを理解するのもたやすくなる」とも述べています。



本書のオリジナル版は1981年刊行なので、古い映画の話題しか書かれていませんでしたが、新版は2010年なので21世紀の映画も登場します。たとえば「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1994年)がそうで、著者は「初めて《ブレア・ウィッチ・プロジェクト》を見たのは不注意運転のミニバンに田舎道で粉砕されてからおよそ12日後で、私は病室にいた。全身が痛みに叫び、痛み止めでハイになり、ひどい画質の海賊版ビデオ(どうやって海賊版ビデオを手に入れたかって? まあ、穿鑿御免ということで)をポータブルテレビで見ていた私は、いってみれば、完璧な視聴者だった」と述べています。



続けて、著者は「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」について、こう述べています。
「映画製作者志望の3人(ヘザー・ドナヒュー、ジョシュア・レナード、マイケル・ウィリアムズの3人。演じていたのもたまたまヘザー・ドナヒュー、ジョシュア・レナード、マイケル・ウィリアムズ)がラヴクラフト風の異様なシンボルが木からぶら下がっているのを見つけるころには、私はいっしょに見ていた息子に、もういい消してくれと懇願するはめになった。ホラー映画が怖すぎて途中で見られなくなったのは生まれて初めてだった。フィルムがブツブツ途切れるせいもあったし(あるところでは8ミリの手持ちビデオカメラで、あるところでは16ミリの肩載せ型カムコーダーで撮影されている)、薬のせいもあったが、要するに、心底ビビったわけだ。そこはハリウッド映画のロケ地的な森には見えなかった。現実の人間が現実に迷いかねない現実の森に見えた」

 

第1章「1957年10月4日、あるいは舞踏への勧誘」では、「死の舞踏に少しでも真実味や価値があるとすれば、それは、ホラーを扱う小説や映画、テレビやラジオが――さらにはコミック・ブックでさえも――つねにふたつのレベルで機能するからだ」だとして、著者は「ひとつはいわば“ウゲッとなる”レベル。たとえば《エクソシスト(The Exorcist)》でリーガンが司祭の顔にゲロを吐きかけるシーンや十字架でマスターベーションするシーン、あるいは、ジョン・フランケンハイマー監督の《プロフェシー/恐怖の予言(Prophecy)》で全身赤むけのぬめぬめしたモンスターがヘリコプターのパイロットの頭をトゥッツィポップ・キャンディみたいにバリバリ噛み砕くシーンだ。芸術的完成度はさまざまでも、“ウゲッとなる”レベルはつねに存在する。いっぽうもうひとつの、もっと奥深くにあるレベルにおけるホラーは、まぎれもない舞踏――躍動的でリズミカルな探求だ。こいつは観客なり読者なりの最も根源的感情が宿る場所を探している」と述べます。



また著者は、「ホラーは芸術だろうか」と読者に問いかけた後、「このふたつめのレベルに限っていえば、ホラーは芸術以外のなにものでもない。芸術の域にまで達するのは、芸術以上のなにか、芸術以前のなにかを求めているからにほかならない。こいつが求めているのは、いってみれば〈恐怖のツボ〉だ。すぐれたホラーは踊りながら人の心の奥底に入り込み、本人しか知らないと思い込んでいるまさにその部屋の秘密の扉を見つけ出す――アルベール・カミュビリー・ジョエルが指摘するとおり、人はだれしも“異邦人”に対して不安を抱く・・・・・・そのくせ、その顔をこっそり確かめずにはいられない」と述べます。



そして、ホラーの本質を探る著者は、嫌悪・恐怖・戦慄という三層構造を指摘するのでした。
「結論。最上層には〈戦慄〉が、まんなかには〈恐怖〉が、そして、最下層にはウゲッとなる〈嫌悪〉が存在する。こうした区別は場合によっては役立つこともあるので、私のような三文ホラー小説家としてはきちんと認識しておくべきだが、あるレベルが別のレベルより読者に与える効果が大きいからといって、そればかり贔屓にするような姿勢は避けるべきだ。このような定義づけにともなう問題は、定義が評価の道具と化す傾向にあるという点だろう――しかもこの種の評価は、私にいわせれば機械的なあらさがしであって、必要以上に窮屈なばかりか、危険でさえある。私は〈戦慄〉が最も洗練された感情だと見なしているからこそ(ロバート・ワイズ監督の《たたり(The Haunting)》は〈戦慄〉の効果が凝縮された映画で、「猿の手」と同じように、ドアの向こうになにがいるかは決して明かされない)、読者にはつねに〈戦慄〉を与えようと試みる。だが、その試みがうまくいかない場合には、〈恐怖〉を与えようと試みる。それにも失敗すれば、自慢ではないが、〈嫌悪〉に走るだろう」


第2章「〈フック〉の話」では、著者はホラー・ブームについて言及し、「ホラー映画とホラー小説はいつの世でも人気があるが、10年から20年の周期でいわゆるブームがやってくる傾向にあるようだ。この周期は、申し合わせたように深刻な経済的危機や政治的危機(両方いっしょの場合もあるし、どちらか一方の場合もある)の時期と一致する。映画も小説も、こうした深刻だが致命的ではない混乱にともなう大衆の漠然とした不安(もっと適当な言葉が欲しいところだが)を反映するものらしい。現実に人々の生命を脅かすような危機に直面している時期には、概してホラーの勢いはふるわない。1930年代、ホラーは一大ブームを迎えた。大恐慌に打ちのめされ、「ウィー・アー・イン・ザ・マネー」にあわせて踊る100人のバズビー・バークレー・ダンサーズを見るためにチケット売場で入場料を払う気になれなかった人々が、おそらく別の手立てで不安を解消しようとしたのだろう――それが《フランケンシュタイン(Frankenstein)》で荒れ地をさまようボリス・カーロフを見ることであり、《魔人ドラキュラ(Dracula)》で口元をマントで隠し闇に紛れて忍び寄るベラ・ルゴシを見ることだった。また、30年代には〈ウィアード・テールズ〉や〈ブラック・マスク〉を始めとする、いわゆる“シャダー・パルプ”が全盛を迎える。1940年代のホラーは、映画にも小説にもこれといって見るべきものはない」と述べています。



続けて、著者は以下のように述べています。
「不景気時代のユニバーサル・スタジオお抱えのモンスターたち――フランケンシュタインの怪物、狼男、ミイラ、ドラキュラ伯爵――は、映画が末期患者のために用意しておくようにも思えるあの目を覆いたくなるほど破茶滅茶な形の死を迎えようとしていた。栄光のなかで引退させてヨーロッパの墓地のカビくさい土にきちんと埋葬するかわりに、ハリウッドはモンスターたちを笑いの種にして、老いた哀れな怪物たちを解放する前に入館料を最後の35セントまで絞りとることにしたのだ。そんなわけで、モンスターたちはアボットコステロやバワリー・ボーイズのお相手を命じられた。三ばか大将の愛すべきドタバタ喜劇につきあわされたことはいうまでもない。40年代には、モンスター自身がボケ役になったわけだ」



また、戦中および戦後しばらくはホラー小説は衰退の一途をたどったと著者は指摘し、「時代がホラーを受けつけなかった。当時は急速な技術革新と合理主義の時代であり――おかげさまで、どちらも戦争という空気を吸ってすくすく成長した――それと共に、現在のSFファンと作家が一様に“SF黄金期”と見なす時代がやってきた。〈ウィアード・テールズ〉がどんなにがんばっても売り上げを伸ばせないかつかつの状況にあるいっぽうで(発刊時の華やかなオリジナル・パルプサイズから小型のダイジェストサイズに変更するが、部数の伸び悩みは解消できず、50年代半ばにはついに廃刊となる)、SF市場は隆盛をきわめ、歴史に残る名雑誌が星の数ほど生まれ、ハインラインアシモフ、ジョン・W・キャンベル、レスター・デル・レイといった有名作家が輩出した。これらの名前はだれでも知っているとはいわないまでも、宇宙船や宇宙ステーション、もっとポピュラーなところで殺人光線などに夢中になるファンは増加の一途をたどっており、少なくともそういうファンのあいだではいずれも馴染み深くて胸躍る名前だった」と述べています。


次に、著者は「モンスターとは何か?」と問いかけ、「手始めに、ホラーはどんなに素朴な形であっても本質的に寓意性を帯びている、象徴性を帯びている、と仮定する。精神分析医のカウチに横たわる患者の話のように、ホラーが語ることには別の意味が含まれていると仮定するのだ。ホラーの寓意性や象徴性が意識的なものだといっているわけではない。それは技巧の問題になるが、そこを目指すホラー小説家やホラー映画監督はほとんどいないだろう」と述べます。また、寓意的要素が存在するのは、それがあらかじめ組み込まれていて、避けようがないからにすぎないとして、「ホラーがわれわれを魅了するのは、普通ならとても率直にはいえないことを象徴的な方法で、荒々しく語るからだ」とも述べています。



さらに著者は、社会生活を営むうえで抑え込まなくてはならない感情を発散する(誤植ではない。ここは祓うではなく発散するが正しい)チャンスを、ホラーは与えてくれるとして、「ホラー映画は『ルールを逸脱した反社会的行為に代行者を通じて耽ろうぜ』という招待状だ――意味もなく暴力をふるっても、パワーに対して子供じみた夢を抱いても、臆面もなく恐怖に屈してもかまわない。なによりも、ホラー小説やホラー映画は、『群集心理に身を任せて完全に無責任な存在としてアウトサイダーをやっつけていいんだよ』といってくれる」と述べています。

 

著者いわく、ホラーが鉱山の竪穴にまっすぐ転げ落ちるようなO・ヘンリー的な意外な結末を迎えることが多いのも、偶然ではありません。ぞっとするような映画や本に取りかかるときは、“なんとかなるさ”とは思っていません。むしろ、「つねづね不安に感じていることが語られるのを――“最悪の結果になるぞ”と語られるのを――待っている。そのとおりだという証拠は、ホラー作品のなかにたいてい山ほど転がっている」というのです。



著者は、フリーク(奇形)の問題にも言及し、「フリークはたしかに好奇心をそそる。だが、同時に呪われた忌まわしいものでもある。だからこそ、ホラー映画の原動力としてフリークというテーマを用いた挑戦は、映画公開早々の上映禁止という結果に終わった。その映画を《怪物團(Freaks)》〔リバイバル上映時《フリークス/怪物團》〕という。1932年のMGM製作のトッド・ブラウニング監督作品だ」と述べます。



ブラウニングは映画に本物のフリークを起用するという過ちを犯したと指摘する著者は、「観客が本当にホラーを楽しめるのは、あくまでもモンスターの背中にジッパーがついているという条件のもとでのことで、真剣勝負でないことがわかっていなくてはならない。《怪物團》のラストで、胴体男や腕なし女やシャム双生児ヒルトン姉妹が悲鳴をあげるクレオパトラを追いかけて泥のなかを這い進むシーンなどは、少々やりすぎだった。MGMお抱えの劇場主でさえも、こればかりは上映を拒否したという」と述べています。

 

フリークスとモンスターの相違について語ることはある意味で危険なことですが、著者は「事実、ほとんどすべての身体的および精神的な人間の異常は、歴史のどこかの時点で(それどころか現在でも)モンスターと見なされる――一覧表を作れば、そのなかには額のV字型の生えぎわも(男性の場合、かつてはこれが妖術師の確かな証拠と見なされた時代がある)、女性の体のほくろも(魔女の乳首と見なされた)、重度の統合失調症も含まれるだろう。最後のケースは、患者が教会によって聖人の列に加えられることもあった」と述べます。

 

そして、著者はモンスターについて、「人がモンスターに魅了されるのは、だれの心にも住んでいる三つ揃いを着込んだ保守的な共和党員に訴えるものがあるからだ。モンスターという概念が愛され必要とされるのも、人間としてのわれわれみんなが望んでやまない秩序を再認識させてくれるからにほかならない・・・・・・さらにいえば、人がモンスターを恐れるのは、肉体が異常だったり精神が異常だったりするからではなく、異常な状態が無秩序を暗示しているような気がするからだ」と述べるのでした。

 

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

 

 

第3章「タロットの話」では、歴史に残るホラー小説の名作たちが登場します。
「『ジキルとハイド(The Strange Case of Dr.Jekyll and Mr.Hyde)』は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンが取り憑かれたようになってわずか3日で書きあげた。妻がこの物語を怖がったので、スティーヴンソンは原稿を暖炉にくべて燃やした・・・・・・そして、一から書き直してまたもや3日で書きあげた。『吸血鬼ドラキュラ』は臆面もない赤面もののメロドラマで、書簡小説の体裁をとっている――この手法は『吸血鬼ドラキュラ』より20年前、ウィルキー・コリンズが最後にして最良のミステリー・サスペンス小説を書いていたときすでにすたれかけていた。3冊のうちでいちばん有名な『ブランケンシュタイン(Frankenstein or The Modern Prometheus)』は19歳の娘の手になるもので、小説としての出来もいちばんいいが、いちばん読まれていないし、この著者がこれほど早く、これほど巧妙に、これほど首尾よく・・・・・・つまり、これほど独創的に書けたことは、これ以降二度とない」

 

著者は「意地の悪い書評家的な観点に立つならば、この三作品は当時の大衆小説の域を出ないと見なすことができる」と低評価を下していますが、「この三作品だけは特別扱いするにふさわしい」とも述べています。というのは、三作品とも無数の本や映画の――“モダン・ホラー”として知られるようになる20世紀の無数のゴシック作品の――巨大な摩天楼の礎石だからです。著者は、「それだけではない。三作品の中心にはそれぞれモンスターがいて(うずくまっていて、というべきか)、バートン・ハトレンいうところの“神話の溜池”――小説を読まない人や映画を見ない人さえも、みんな創作文学というその水を浴びた経験がある――に入って大きくすることになった。悪という魅力的な概念を象徴する完璧なタロット・カードのように、このモンスターたちはきれいに並べることができる。〈吸血鬼〉、〈人狼〉、そして、〈名前のないもの〉だ」とも述べています。

 

ねじの回転 (新潮文庫)

ねじの回転 (新潮文庫)

 

 

続けて、著者は怪奇小説の名作として名高い『ねじの回転』に言及し、以下のように述べています。
ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転(The Turn of the Screw)』も怪奇現象の恐怖を扱った傑作小説だが、このタロットのカードから除外した。『ねじの回転』が扱うのは超自然的な存在としてはいちばんポピュラーな〈幽霊〉なのだから、本来なら仲間に入れてもおかしくない。それをあえて除外する理由はふたつある。第一に、『ねじの回転』はエレガントかつ上品な散文で登場人物の心理を論理的に繊密に編み上げてあるものの、アメリカ大衆文化のメインストリームに与えた影響はゼロに近い。幽霊だったら、テレビアニメの〈優しいオバケのキャスパー〉を原型として論じるほうがいいだろう。第二に、〈幽霊〉は確かに原型としては重要だが、いかんせん(フランケンシュタインの怪物やドラキュラ伯爵やエドワード・ハイドが象徴するものと違って)出没する範囲が広すぎて、一作品に的をしぼることができない。〈幽霊〉という原型は、いってみれば怪奇現象を素材にした小説のミシシッピ川のようなもの、いずれふさわしい箇所で論じることになるだろうが、1冊の本に限定するつもりはない」

 

 

さて、著者は「すべてのホラーはふたつのグループに分けられる」と断言します。意識的な自由意志――悪を為そうという意識的な決断――による行動の結果として生じる恐怖を描くものと、稲妻の一撃のように外から襲いかかる運命としての恐怖を描くものです。著者は、「後者に属するホラーで最も古典的なものはといえば、神と悪魔の超自然的スーパーボウルがおこなわれるグラウンドの人間人工芝にされた、旧約聖書のヨブの物語だろう。人間の心の領域を掘り下げていくサイコロジカル・ホラーは、たいてい自由意志という概念――お望みなら“内なる悪”といってもいいが、要するに人間には父なる神になりかわる資格はないという概念だ――をめぐって展開する。これに当たるのが、ヴィクトル・フランケンシュタインだ」

 

新訳 ジキル博士とハイド氏 (角川文庫)

新訳 ジキル博士とハイド氏 (角川文庫)

 

 

また、『ジキルとハイド』について、著者は「ここで最も基本的なレベルで論じようとしているのは、お馴染みのイドと超自我との対立、悪を為す自由意志とそれを拒む自由意志との対立・・・・・・あるいは、スティーヴンソン流にいえば禁欲と満足の対立についてだということを思い出してほしい。このお馴染みの対立はキリスト教の土台でもあるが、これを神話として読み解くと、ジキルとハイドの二面性から別の二面性が浮かんでくる――前述のアポロン(知的で、道徳的で、気高くて、「いつも登り坂を歩いて」いる存在)とディオニュソス(乱痴気騒ぎと肉欲の神で、人間性の堕落した部分)との対立だ。神話以外の解釈がお好みなら、肉体と精神の分離といい換えてもいい・・・・・・ジキルは友人たちにまさにこういう印象を――自分は純粋に精神的な存在で、人間くさい嗜好や需要とは無縁だという印象を、与えようとした。この男が新聞を読みながら便座に腰かける姿を想像するのは難しい。人間のなかのアポロン的資質とディオニュソス的欲望という異教的な対立としてジキルとハイドの物語をとらえると、〈人狼〉――名ばかりの変装――の神話は、小説と映画とを問わず、じつに多くのモダン・ホラーに行き渡っている」と述べます。



その一番いい例として、著者は、アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』を挙げます。「巨匠には敬意を表すが、この映画のアイデアの元はロバート・ブロックの小説だ」と述べた後、『サイコ』の主人公ノーマン・ベイツは〈人狼〉であると指摘します。毛が生えないかわりに、死んだ母親のパンティとスリップとドレスを身につけると一変する――そして噛みつきこそしないものの、モーテルの客を切り刻むからです。著者は、「『サイコ』が効果的なのは、〈人狼〉の神話を人間の心のなかに持ち込んだからだ。それは宿命的な“外なる悪”ではない。罪は遠い星の上ではなく自分自身にある。われわれは、ノーマンが外側も〈人狼〉になるのはママの下着をつけてママの声で話すときだけだと知っている。だが、内側はつねに〈人狼〉なのではないかという不安な疑念を抱かされる」とも述べています。



第4章「迷惑な自伝で一休み」では、自身の少年時代を振り返って、著者は以下のように述べています。
「子供時代にある程度ファンタジーやホラーに親しんでおくのはいっこうに問題がないし、役立つことのように思える。想像力の容量が大きいおかげで、子供はそれらに対応できるし、特殊な社会的立場のおかげで、怖いという感情を活用できる。また、子供は自分の立場についてきちんと理解してもいる。アメリカのような比較的秩序正しい社会においてさえ、自分の生死は自分ではどうにもならないものだとわかっているのだ。子供の生活は8歳ごろまではあらゆる意味で“依存”している。依存の対象は父親であり母親(あるいはだいたいそういう役割を担っている人)だ。衣食住の世話はもちろんのこと、車が橋台につっこまないように気をつけてくれるのも親なら、時間どおりにスクールバスの停留所に迎えにきてくれるのも、カブスカウトやブラウニーの活動のとき送り迎えしてくれるのも、薬を買うとき安全キャップ付きのを選んでくれるのも、トースターをいじくり回したりバスタブのなかでバービーちゃんのビューティーサロンで遊んだりしているとき感電しないように気を配ってくれるのも親である」

 

第6章「現代アメリカのホラー映画――テキストとサブテキスト」では、著者は「死」について言及し、「人間なら例外なく純粋に個人として折り合いをつけなくてはならない恐怖のひとつに“死”があることは、だれもが認めるところだろう。死はまさに頼みの綱だ。これなくしてはホラー映画は恰好のつかないものになってしまう。当然ながら、死には“よい死”と“悪い死”がある。たいていの人間は、80歳になってからベッドで安らかに息をひきとりたい(できることなら、美味なる晩餐と極上のイタリア・ワインと最高のセックスのあとで)と願う。自動車にじわじわと押しつぶされ、額にクランクケースからぽたりぽたりとオイルがたれてくるという状況のなかで死にたいと思う物好きは、まずいない。大部分のホラー映画は、この悪い死に対する恐怖から最大の効果を引き出す」と述べています。



他には、死という事実そのものと、それにともなう腐敗という現象から恐怖を引き出す映画もあると指摘して、著者は「若さ、健康、美(たいていの場合、美は若さと健康によって定義されるようだが)といった儚いものを重視する社会では、死や腐敗は必然的に恐怖の対象となり、必然的にタブーの対象となる」と述べています。そして、「当然ながら葬儀場もタブーである。葬儀屋は、“立入禁止”と明示された部屋にこもって死化粧や防腐処置という得体の知れない魔術を使う現代の神官だ」などと述べています。


「遺体の髪はだれが洗う? 愛する故人の手足の爪は最後にもう一度切るのだろうか? 死者は靴なしで棺に納められるというのは本当か? 霊安室で最後の出番を待つ遺体に服を着せるのはだれだろう? 弾痕はどうやってふさいで隠す? 首の索状痕はどうやって消す?」と立て続けに疑問を呈した後、「こういう疑問の答えは調べればわかるものばかりだが、一般的な知識ではない。しかも、答えを知るべく調査に乗り出せば、こいつちょっとおかしいぞ、という目で見られることになる。嘘ではない。死んだ息子をよみがえらせようとする父親の話を書こうとして、私は下調べのために埋葬についての文献を山ほど集めた――すると、「どうしてあいつは『The Funeral:Vestige or Value?(葬儀――形式か救済か)』なんて本を読んでるんだ?」という訝しげな視線まで集めるはめになった。とはいえ、人は遺体安置所の地下にある鍵のかかった扉にときどきある種の興味を抱かないわけではないし、葬儀の参列者が立ち去ったあとの墓地ではなにが起きるのだろうか・・・・・・ことによると新月の夜には・・・・・・などと考えないわけではない」などと述べています。

 

そして著者は、「ホラー映画の究極の真実」について以下のように述べます。
「それは、ホラー映画は死を愛していないということだ。そう見えるものもある。だが、愛しているのはじつは生だ。ホラー映画は醜さを讃えているわけではない。醜さについて繰り返し語ることで健康と生命力を賛美する。呪われた者たちの苦悩を見せることで、日々の生活に潜む小さな(だが、けっして価値がないわけではない)喜びを再発見させる。いってみれば精神の瀉血をする床屋のヒルのようなもので、悪血のかわりに不安を取り除いてくれるのだ・・・・・・とにもかくにも、しばらくのあいだは」



ホラー映画の名手と呼ばれる監督のほとんどは、恐怖を最初に持ってくることを選んでいるといいます。まず恐怖の大きなかたまりを息ができないくらいぐいぐいと観客の喉に詰め込んでから、今度はじらしにじらし、最初にかき立てた恐怖をとことん利用して最後まで引っ張っていくのだと指摘し、著者は「この手法を学びとろうとするホラー映画監督志望者のお手本といえば、いうまでもなく、本書で扱う時期における金字塔的名作――そう、アルフレッド・ヒッチコックの《サイコ》である。最小限の血から最大限の恐怖を引き出す映画といえば、これしかない。あの有名なシャワーのシーンで、われわれはジャネット・リーの姿を見る。ナイフを見る。だが、ジャネット・リーに刺さったナイフを見ることはない。そういうシーンを見たと思っている方がいるかもしれないが、それは記憶違いだ。想像力がそう思わせた。ヒッチコックの大勝利である。このシーンでわれわれが見る血は、渦を巻いて排水孔に吸い込まれていく血だけだ」と述べるのでした。



第9章「ホラー小説」では、ホラーのメジャー・テーマの1つである「幽霊屋敷」が取り上げられ、著者は「幽霊屋敷が超自然的神話というタロット・カードの正統な1枚だとはいわないが、探求の範囲をもう少しだけ広げれば、これが神話の溜池に水を供給するもうひとつの源泉だということに気づくだろう。もっとふさわしい名称があればいいのだが、とりあえずはこの原型を〈よくない場所〉とでも呼ぶことにしよう。この呼び名なら、メイプル通りの突き当たりにある『売家』の文字もわびしい窓の壊れた雑草だらけの荒屋よりも、ずっと多くを網羅できる」と述べています。



また、著者が読んだという突拍子もない論文の内容がじつに興味深かったです。以下のような内容です。
「いわゆる“幽霊屋敷”は実質的には霊のバッテリーで、車のバッテリーが電気を蓄えるように、そこで暮らした人間の感情を吸い取って蓄える、というのだ。論文はさらにこう続く。“幽霊”と呼ばれる心霊現象は、本質的には一種の超自然的ロードショー――つまり、昔の出来事の一部である音声や映像を再生したものだ。幽霊屋敷が嫌われて〈よくない場所〉だという噂をたてられるのは、怒りや憎しみや恐怖といった根源的感情こそが人間の最も強い感情だという事実ゆえではあるまいか・・・・・・」

 

この論文の主張を、著者は絶対的真実として受け入れたわけではないそうです。心霊現象が出てくるような小説を書く人間は、そういう現象に敬意を払う義務こそあれ、無条件に崇めたてまつる必要はないように思えますが、この主張が興味深いのはたしかだったとして、著者は「着想そのものはもちろん、私自身の体験から導き出した結論とわずかながら似通った部分があったからだ。要するに過去とは、われわれの日常生活に絶えずつきまとう幽霊である」と述べています。


「解説」で、映画評論家の町山智浩氏は「キングはいつものように饒舌に、横道に逸れたり、行ったり来たり、試行錯誤しながら、意識の流れに逆らわずに進んでいく。このジェットコースターはいったいどこに向かってるんだ? と戸惑いもするが、話しかけるような口調と頻繁にはさまれるジョークのおかげで楽しく読み続けられる。そして、読み進むうちに、この『死の舞踏』は、評論でもあり、自伝でもあり、社会史であって哲学書でもあると気づく」と述べています。キングは、ホラーの傑作は「恐怖のツボを突く」ことだといいます。そして、ツボには社会的な恐怖と心理的な恐怖の2種類があるといいます。各作品の社会的な恐怖のツボを探り当てることで、生々しいアメリカ社会史になっています。また、心理的な恐怖のツボを考えることは、人間とは何かを知ること、つまり哲学になるのです。


『SF教室』筒井康隆編(ポプラ社)の函と本体 

 

また、町山氏は本書『死の舞踏』と似ている本として、筒井康隆著『SF教室』(1971年)を挙げ、「ポプラ社から小学生向けの入門書として出版されたが、まず『SFとはサイエンス・フィクションの略』という定義から破壊してしまう。なぜ、科学的にはいいかげんなレイ・ブラッドベリがSFで、科学小説がSFとは呼ばれないのか? 『SF教室』といいながら、答えるよりも逆に問いを増やしていく。そして、サイエンスには社会学政治学も文学も精神医学も哲学もある、と戦線を拡大して、さらに読者を混乱させる。筒井康隆は時をかけ、宇宙をかける思考実験の果てに、この『もしも』こそがSFではないか、と提言する。当時、この『SF教室』は多くの学校図書館にあり、筆者のような1960年前後に生まれたSFファンに、H・G・ウェルズやロバート・A・ハインラインよりも大きな影響を与えた1冊だ」と述べています。この一文を読んで、わたしは涙が出るほど懐かしかったです。じつは、この『SF教室』はわたしの小学生時代からの大の愛読書で、もう100回くらい読んでいるのです。今でも、わが書斎に鎮座しています。町山氏はわたしに1歳年上なので、完全に同年代であることを再認識しました。

 

町山氏は、本書『死の舞踏』の要点を述べます。
「まず、本書全体を貫く、キングの大きなテーゼは「ホラーには寓意性がある」ということだ。意図しようとしまいと、怪物は怪物そのものではなく、現実に我々が恐れている何かのメタファーなのだ、と。だから怖いのだ。人々が恐れている弱点を「武道で敵の不意を突く」ように狙う。それがキング曰く「恐怖のツボを突く」ことになる。恐怖には3段階があるとキングはいう。(1)嫌悪(リヴァルジョン)、(2)恐怖(ホラー)、(3)戦慄(テラー)だ」

 

また、キングはホラーとは秩序の崩壊を恐れる気持ちだと繰り返し強調することを指摘し、町山氏は「つまり日常に亀裂が入ること。キングは秩序をアポロン的、それを破壊する混沌をディオニュソス的と呼ぶ。これはニーチェの理論に基づいている。ニーチェは、ギリシアの太陽神アポロンに秩序や調和を求める衝動を、酒の神ディオニュソスに祝祭や陶酔を求める衝動を象徴させたが、キングは、ディオニュソス的混沌は恐怖の根源だとする。これと関係することになるが、キングは恐怖を、その原因によってふたつに分ける。ひとつは主人公の意志による行動の報いを受けるもの。墓を暴いた者が呪われたり、殺人犯が幽霊に呪い殺されたり、因果応報、バチが当たるの類。これには教育的効果がある。これは怖いようで怖くない。防御策として悪いことをしなければいい。ここには秩序がある」と述べます。

 

もうひとつはまったく逆に、主人公に責任のない外部から突然襲われるもので、「キングは旧約聖書ヨブ記がこれだという。ヨブは信心深い真面目な男なのに次々に不幸にあい、どん底で神に不平を訴えると、神から『神の考えは人間には計り知れないのだ』と叱られる。聖書ではこの後、ヨブは幸福になるのだが、現実はどうだろうか? 天災や病気や事故や殺人は、何の罪もない人々を滅ぼし続ける。秩序はない。キング曰く『実存主義的恐怖』だ。こちらのほうが恐ろしい。秩序はないから防御策もない」と述べています。

 

さらに町山氏は、「キングの分類は続く。ホラーが突く『恐怖のツボ』には社会的恐怖と個人的恐怖がある。前者は社会派ドキュメンタリー的で、後者はおとぎ話的になる。この社会派ホラーの解説は本書の見せ場のひとつだ」と述べ、最後に「死の舞踏」について。中世ヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行した時、誰にでも襲い掛かる死の恐怖を忘れようとして人々は半狂乱で踊り続けた。それが「死の舞踏」と呼ばれた歴史を説明しつつも、「それとは逆に、当時の教会はメメント・モリ(死を忘れるな)と唱えた。それもホラー文化の役割だ。キングは、『死のリハーサル』だという。死に近づくことで人は生を実感する。人々がお金を払ってまでホラーを求める理由はたぶんそれだろう」と述べるのでした。まことに要点を得た本書の「解説」であり、750ページ超える大著の「読み方」を教えられたような気になりました。

 

 

2020年8月27日 一条真也