全互協総会withコロナ

一条真也です。東京に来ています。
26日、東京都の新規感染者は236人でした。
この日、亀戸にある結婚式場「アンフェリシオン」で一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の総会がコロナ禍にもかかわらず開催されました。

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会場のアンフェリシオン

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アンフェリシオンの前で

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全互協総会のようす

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コロナには負けないぞ!

 

この日、午後から全互協の正副会長会議、社会貢献基金功労者表彰式、第11回総会、第57回理事会、第42回政治連盟定期大会などが開かれましたが、恒例の懇親会は行われませんでした。わたしは、正副会長会議に副会長として参加し、社会貢献基金功労者の表彰を受け、総会では「閉会の辞」を務めました。さらに、政治連盟定期大会では副議長を務めました。
コロナ禍ではありますが、なんとか一連の行事を無事に行うことができて安心しています。明日は、監査役を務める互助会保証株式会社の株主総会、取締役会、監査役会に出席します。コロナ禍でも、やるべきことはきちんとやらねば!

 

2020年8月26日 一条真也

「グッバイ、リチャード!」

一条真也です。
25日に東京入りしました。
その夜、映画「グッバイ、リチャード!」をヒューマントラストシネマ渋谷で観ました。渋谷はちょっと苦手なのですが、ここでしか上映されていないこの映画をぜひ観たかったのです。なぜなら、「死の不安」を乗り越えるためのグリーフケア映画だからです。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「余命宣告を受けた大学教授の生きざまをジョニー・デップ主演で描く人間ドラマ。『ハート・ロッカー』などのグレッグ・シャピロがプロデューサーを、『グッバイ、ケイティ』などのウェイン・ロバーツが監督を務め、人生の終わりをどう生きるかという普遍的なテーマをユーモラスにつづる。共演には『レイチェルの結婚』などのローズマリー・デウィット、『ビッグ・アイズ』などのダニー・ヒューストン、『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』などのゾーイ・ドゥイッチらがそろう」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「美しい妻、娘と共に幸せに暮らしていた大学教授のリチャード(ジョニー・デップ)は、ある日余命180日であることを告げられ、さらに妻の不倫まで発覚する。残りの人生を好きなように生きると決めた彼は遠慮なく物を言い、授業中でも酒やマリファナを楽しむように。ルールや立場にとらわれない生き方に喜びを見いだしたリチャードの型破りな言動は、周囲にも影響を与えていく」



いやあ、この映画、本当に身につまされました。主人公のリチャードを演じているジョニー・デップはわたしと同じ57歳なのですが、冒頭からいきなり肺がんのステージ4であると医師から告げられ、しかも余命は半年だというのです。リチャードは、もちろんショックを受けます。生きる気力を失って自暴自棄になり、大量の酒を飲み、肺がんなのにタバコを吸い、マリファナにまで手を出します。大学教授なので知性はあるのでしょうが、「死」という絶対の現実を前にして混乱し、怯えてしまうのです。わたしが研究・実践しているグリーフケアには「死別の悲嘆を軽減すること」と「死の不安を乗り越えること」の2つの目的があります。リチャードの場合は後者ですが、この映画がグリーフケア映画であることがわかりました。



ただでさえ余命半年の現実に押し潰されそうになっているリチャードに、妻がなんと不倫を告白します。相手は、リチャードが教鞭を取っている大学の学長でした。妻から告白されるまで、すでに夫婦の関係は冷え切っていたのですが、リチャードはさらに絶望の底に落とされます。この学長というのが、じつに嫌な男なのですが、彼から招待されたある晩餐会で、リチャードは強烈なしっぺ返しをします。そのシーンは観ていてスカッとするもので、大いにカタルシスを得ました。思うに、映画というのは、やられっぱなし、いじめられっぱなし、ハメられっぱなしでは、観客のストレスが溜まるばかりで健康に良くないです。フジテレビの「スカッとジャパン」ではありませんが、やはり最後にはカタルシスを得られるほうがいいですね!



さて、余命宣告&妻の不倫告白のダブル・ショックを受けたリチャードは、大学の英文学の講義にも身が入りません。それでも、彼は学生に教えることしか、することがないのです。自分に残された時間の少ないことを悟ったリチャードはおざなりの講義をすることを良しとせず、「この講義に本当に興味があるヤツだけが受けろ。それ以外のヤツは最低限の単位はやるから教室から出ていけ」と言って、ほとんどの学生を追い出してしまいます。わたしも大学で教鞭を取っている身なので、これは一度は言ってみたいセリフですね。しかも、少数精鋭になったリチャードの英文学講義は密度の濃い内容になります。彼が示唆深い言葉を吐くたびに、学生たちの目が輝きます。この映画の講義シーンは名言の宝庫なのですが、特に「人生とは、一瞬ごとに物語を紡いでいるようなもの。どうせなら、読んで面白い物語にしたいものだ」というリチャードのセリフが印象的でした。



また、リチャードは学生たちに「自分はこれまで何もわかっていなかった」と告白し、自身が「死すべき運命にあること」を知り、「死を抱きながら生きること」で生が充実するのだと語ります。要するに「メメント・モリ(死を想え)」ということでしょうが、さらに「ただ生きる」のではなく「善く生きる」ことの大切さを説くのですが、リチャードがまるでソクラテスに見えてきました。そんなリチャードは自暴自棄の不良性も相まって恐ろしく魅力的な中年となり、女子学生にも男子学生にもモテます。デヴォン・テレルが演じる男子学生は、リチャードにホモセクシャルな視線を向けます。「LGBT」の世界ですが、リチャードの娘もレスビアンで同性の恋人を愛するのでした。リチャードはそんな娘の生き方を認め、男子学生の自身への想いも受け止めます。「死」を前にすると、「愛」に区別はなくなるのかもしれません。



それにしても、リチャードを演じるジョニー・デップの渋いこと! そして、カッコいいこと! なんて、色気があるのでしょうか! これまで彼は、「シザーハンズ」のエドワード・シザーハンズ、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロウ、「チャーリーとチョコレート工場」のウィリー・ウォンカ、「アリス・イン・ワンダーランド」のマッドハッターといった、とにかく異形の者というか、普通の人間ではないアクの強いキャラクターを演じることが多かったですが、今回の「グッバイ、リチャード!」では等身大の役をナチュラルな感じで演じています。とはいっても、チョイ悪の大学教授なので渋くてカッコいいのですが、余命&妻の不倫というダブル・グリーフによって、その表情には常に影があります。その影がまた、そこはかとない色気を醸し出しています。しかし考えてみれば、人間とは、常に何かしらの悲しみを漂わせながら生きる存在なのかもしれませんね。

 

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わが同級生たち(日経電子版より)

 

ジョニー・デップとわたしが同い年であることはすでに述べました。わたしは、同年齢の俳優が出演している映画はなるべく観るように努めています。日経電子版のコラム「誕生日には同級生のことを考える」にも書いたように、わたしは誕生日を迎えると、いつも同級生たちのことを考えます。わたしは1963年(昭和38年)生まれです。同じ生年でまず頭に浮かぶのは、俳優の唐沢寿明さん、加藤雅也さん、お笑いコンビ「ダウンタウン」の浜田雅功さん、松本人志さん、作家の京極夏彦さん、重松清さん、イラストレーター・作家・俳優としてマルチに活躍するリリー・フランキーさん、アナウンサーの宮根誠司さん、プロ野球福岡ソフトバンクホークス監督の工藤公康さん、それからジョニー・デップブラッド・ピットといった海外の大物俳優も同じ年の生まれなのです!

死ぬまでにやっておきたい50のこと

 

なぜ、この人たちを覚えているかというと、わたしは同級生たちの活躍を励みにしているからです。現在はインターネットを使えばこうした情報が手軽に手に入ります。紳士録などをひもとくなどという手間はかかりません。有名人ではありませんが、会社を経営していたり、大企業の重役になったりした大学の同級生がいます。彼らの活躍を会社のホームページなどでときどきチェックしながら、わたしは自分の励みにしています。世の中には、同級生の成功に強いジェラシーを抱く人もいるようです。同じ年齢であるがゆえに「自分は彼のように成功していない」と、コンプレックスを刺激されるからかもしれません。しかし、それはあまりにも寂しい話ではありませんか。同級生の活躍に刺激を受けて、「あいつも頑張っているな。オレも負けないぞ」と思う。これが同級生のいいところでしょう。そのことを拙著『死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス)にも書きました。



さて、この「グッバイ、リチャード!」は、わが同級生であるジョニー・デップの主演デビュー30周年というメモリアルイヤーを飾る記念すべき作品です。メガホンを取った新鋭ウェイン・ロバーツ監督は、自身の体験からストーリーの着想を得たといいます。また、主人公リチャードのキャラクター造形には「15年後の⾃分を想像して、僕の悪い部分と良い部分を当てはめてみた」と明かしています。「なぜ彼が⼈⽣の終末にクレイジーな⾏動を始めたのかを考えるうちに、⾃分⾃⾝の⽣き⽅も改めようと思えた。⾃分で⽣み出したキャラクターに、⼈⽣は⼀度きりだと⾔うことを再認識させられました」と語っています。そう、人生は一度きりであり、わたしたちはその一度きりの人生を豊かなものにしたいものです。そもそも、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。

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いま、死を「人生の卒業」と表現しましたが、これまで多くの聖人や哲人や賢人たちが、死をさまざまにとらえ直してきました。わたしは、グリーフケアの講義で「死をとらえなおす」という話をするのですが、そこでは死を「帰天」「別の世界(天国・極楽)への移行」「苦悩からの解放」「永遠の命の獲得」「見えない存在(神・仏・祖霊)への変容」などという考えを紹介します。どの考えを選択し信じるかは、その人の自由です。要するに、「死」=「消滅」と考えず、ある意味で「陽にとらえる」ことが大切なのではないでしょうか。誤解のないように念のため言っておきますが、それは「自死」を肯定するといったような問題とはまったく別次元にあります。

人生の修め方』(日本経済新聞出版社

 

いずれにせよ、死生観というものを持つことが大事です。拙著『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)にも書きましたが、老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。わたしは、同書で「豊かに老いる」そして「美しく人生を修める」ヒントのようなものを書きました。最後に、わたしがもしリチャードのように余命宣告を受けたとしたら、少しでも若い人と話がしたいです。その意味で、学生たちと語り合えたリチャードは幸せでした。それから、友人やお世話になった方々に会いに行きたいです。それから、まだ訪れたことのない世界中の聖地や絶境にも行ってみたいです。もちろん、大好きなお酒を仲間と一緒に飲んで、カラオケも歌いたいです。でも、それらの行為はコロナ禍ですべて不可能に近くなっています。コロナ禍にあっては、人生を修める活動である「修活」も満足にできないことに気づいて、愕然としました。「いま、死ぬわけにはいかないな」というのが正直な気持ちですが、そんなことを言っても人生、何が起こるかわかりません。せめて、リチャードの言うように、「善く生きる」ことを心がけたいと思います。

 

2020年8月26日 一条真也

『龍彦親王航海記』

龍彦親王航海記:澁澤龍彦伝

 

一条真也です。
24日、東京の新規感染者は95人。じつに47日ぶりに100人を下回りました。翌25日、わたしは東京に出張。副会長を務める全互協の総会、監査役を務める互助会保証の総会などに参加するためです。
『龍彦親王航海記』磯崎純一著(白水社)を読みました。タイトルはブログ『高丘親王航海記』で紹介した澁澤龍彦の遺作にちなんでいますが、サブタイトルは「澁澤龍彦伝」です。澁澤龍彦の最晩年に編集者として謦咳に接した著者による、初の伝記です。未公開資料と知られざる逸話を交えながら、不世出の異才の生涯を克明に辿ります。著者は1959年生まれ。慶應義塾大学文学部フランス文学科卒。編集者。『書物の宇宙誌 澁澤龍彦蔵書目録』(国書刊行会)を編纂。

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本書の帯 

 

カバー表紙には、書斎で頭を掻く若き日の澁澤龍彦の写真が使われ、帯には「『伊達の薄着』の美学」「澁澤龍彦の最晩年に編集者として謦咳に接した著者による初の伝記。未公開資料と知られざる逸話を交えながら、不世出の異才の生涯を辿る」と書かれています。

 

アマゾンには、以下の内容紹介があります。
「2019年は澁澤龍彥の生誕91年目にあたる。生前に残した膨大な作品群は根強い人気を誇り、今なお若い読者を惹きつけてやまない。本書は、澁澤と交流をもった最後の世代の編集者であり、2006年に『書物の宇宙誌 澁澤龍彥蔵書目録』を編纂した著者が、知られざる逸話を交えながら不世出の異才の歩みを明らかにする初の試みである。生い立ちと幼少年期、多感な青年時代。同時代を生きた盟友、出口裕弘や松山俊太郎、種村季弘三島由紀夫、多田智満子、生田耕作加納光於野中ユリ土方巽稲垣足穂、加藤郁乎、池田満寿夫巖谷國士唐十郎高橋睦郎金子國義四谷シモンらとの出会い。澁澤が彼らと交わした書簡や関係者の証言など未公開資料を盛り込みつつ、若き日の雑誌社でのアルバイト、岩波書店の校正室で知り合った最初の妻・矢川澄子サド裁判、1960年代から80年代にかけて時代を映す出版物を次々と刊行した版元との関わり、雑誌『血と薔薇』編集長としての仕事、二度目の妻・龍子との出会い、晩年の生活にも触れられる。戦後の日本で、フランス文学の紹介者として、翻訳家、小説家、エッセイスト、アンソロジストとして、日本文学史上に唯一無二の足跡を残した澁澤の文学と人生を一望する1冊」

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本書の帯の裏 

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
第Ⅰ章 狐のだんぶくろ(1928―1945)
第Ⅱ章 大胯びらき(1946―1954)
第Ⅲ章 神聖受胎(1954―1959)
第Ⅳ章 サド復活(1960―1962)
第Ⅴ章 妖人奇人館(1963―1967)
第Ⅵ章 ホモ・エロティクス(1968―1970)
第Ⅶ章 胡桃の中の世界(1971―1975)
第Ⅷ章 記憶の遠近法(1976―1979)
第Ⅸ章 魔法のランプ(1980―1986)
第Ⅹ章 太陽王と月の王(1986―1987)
「あとがき/詳細目次/主要参考文献/索引」

 

第Ⅰ章「狐のだんぶくろ(1928―1945)」の1「生誕」では、澁澤龍彦の本名は澁澤龍雄、1928年、すなわち昭和3年の5月8日生まれであることが明かされます。長男で、その名は辰年生まれにちなんでいます。澁澤龍彦は「自作年譜」の冒頭で、「父は埼玉県のいわゆる澁澤一族の出」と記しています。埼玉県の榛沢郡八基村大字血洗島を本拠地とする澁澤一族は、「日本資本主義の父」と謳われる澁澤栄一をはじめ、随筆家で田園調布の開発者である澁澤秀雄、日銀総裁をつとめ民俗学者として知られる澁澤敬三らを輩出したことでとりわけ名高い家系です。

 

私の少年時代 (河出文庫)

私の少年時代 (河出文庫)

 

 

2「先祖/両親と親族」では、龍雄少年が学校では、〈相撲博士〉のあだ名で通っていたことが明かされ、「当時は下町にでも住んでいないかぎり、子どもはめったに国技館へつれて行ってもらえなかった。今とちがってテレビがないので、当時の子どもは、行司と呼び出しの区別さえろくろく知らず、横綱の土俵入りのやり方にも、四股の踏み方にも、とんと暗かった。ところで私は、父が相撲好きで、銀行の取引先に招待されることが多かったので、それに便乗して、しばしば両国の国技館に通っていたから、クラスのなかでは、いっぱしの相撲博士であった」(「なつかしき大鉄傘」)とあります。

 

今日は国技館へ行くと父から告げられた日は、嬉しくてたまらず授業もろくすっぽ耳にはいらなかったそうです。当時の無敵の大横綱双葉山の69連勝が途切れた日も(1939年1月15日)、龍雄は国技館のマス席で観戦しています。8月には、ドイツからヒトラー・ユーゲントが来日していますが、「そのかっこよさに目をみはった龍雄はユーゲントのまねをして、両手を大きく横にふり、膝を曲げずに脚を棒のように伸ばして学校を行進した。『この歩き方は後年まで、何かの拍子にひょいと出ることがあったようだ』(種村季弘澁澤龍彦・その時代」)」とあります。

 

4「幼少年期の読書/南洋一郎」として、著者は「幼少年期の自分の読書について、澁澤龍彦はかなり多くの文章を書き残している。澁澤龍彦の幼児期の記憶に残る最初の絵本は「コドモノクニ」だった。1922年(大正11)創刊された、当時としてはかなり贅沢な児童雑誌で、母の節子から買いあたえられたものだった。とりわけ深い印象を与えた画家は武井武雄初山滋の二人で、生来の傾向として、澁澤にはリアリズムふうの絵よりも、とうした様式化された、幻想的な絵の方がはるかに好ましく感じられたという」と述べています。

 

浦島太郎 (新・講談社の絵本)

浦島太郎 (新・講談社の絵本)

  • 作者:笠松 紫浪
  • 発売日: 2001/07/18
  • メディア: 単行本
 

 

澁澤の幼少年時代は講談社文化が花盛りだったとして、「講談社の『幼年倶楽部』や『講談社の絵本』などにも親しんだ。とこでもやはり夢幻的、装飾的、浪曼的、様式的なものを愛し、とくにエキゾティックな作風の蕗谷虹児、田中良などが好きだった」と書かれています。本人は、「こういう私の精神傾向が、やがて長ずるに及んで、オーブリ・ビアズレーの『サロメ』の挿絵や、ウィリアム・ブレークの『無心の歌』の銅版画挿絵などを発見するにいたる成行きは、当然すぎるけど当然であったにちがいない」(「絵本について」)と述べています。
この少年は漫画もよく読みました。とりわけお気に入りは、田河水泡の有名な「のらくろ」と、阪本牙城の「タンク・タンクロー」だったそうです。

 

 

小学校に入る頃になると講談社の少年読物にも手を出すようになります。この中では、佐藤紅緑吉川英治に代表されるようなリアリズムや理想主義の作品ではなく、山中峯太郎南洋一郎高垣眸江戸川乱歩海野十三などの、ロマンティシズムや冒険小説の類いを圧倒的に好んで読みました。龍雄少年にとって南洋一郎の存在は別格で、澁澤は南洋一郎のことを、「私に大きな影響をあたえ、私の後年の好みを決定してしまったかに見える」作家だとまで言っています。数多くあるその作品の中でも、いちばんのお気に入りとなれば、1935年(昭和10)に出た『海洋冒険物語』だった。国書刊行会から『熱血少年文学館』の1冊として復刻版が出ています。

 

高丘親王航海記 (文春文庫)

高丘親王航海記 (文春文庫)

 

 

1985年の6月から、澁澤の遺作となった小説『高丘親王航海記』の執筆が始まっています(「文學界」連載の第1回が8月)。澁澤は没年に行われた池内紀を相手にした対談で、「いまばくの書いている『高岳親王航海記』だって、南洋一郎のレミニッセンスといえばいえないことはない」と述べています。また、妹の幸子の『澁澤龍彦の少年世界』を読むと、小学生時代の澁澤龍彦の愛読書が 『アラビアン・ナイト』『ピーター・パン』、講談社〈世界名作物語〉の『巌窟王』『乞食王子』『小公女』『源平盛衰記』などであったことがわかります。

  

 

第Ⅲ章「神聖受胎(1954―1959)」の1「『大股びらき』とコクトー」では、1954年(昭和29年)の8月にジャン・コクトーの『大股びらき』が「白水社世界名作選」の1冊として刊行されたことが紹介されています。同書の訳者が澁澤でしたが、この訳書が初めての本となりました。筆名は「澁澤龍彦」でした。著者は「いま、遺された澁澤の全文業をあらためてふり返ってみるとき、処女出版という特権的とも言い得る存在の対象となったこのジャン・コクトーのもつ美学が、生涯を通じて、澁澤にとり計り知れないものを持ちつづけたことはとくに強調しておいてもよいだろう」と述べています。澁澤は初期のころから一貫して、コクトーの美学が「ただちに倫理の面につながる」点を説きました。コクトーの「軽さ、優雅さは、気どりや美学上の趣味からではなく、怠惰や無気力を拒否する苦行的な精神のあらわれ」だというのです。

 

「精神の体操は、道徳的な運動のからくりをそこに含まなければ、スノビズムにすぎないだろうし、精神のあらゆる面に同時にはたらかなくては、単なるディレッタンティズムに堕するだろう」(「ジャン・コクトオ『大胯びらき』あとがき」)とはけだし名言ですが、この『大胯びらき』を澁澤が贈呈しようとした人物名と思われるリストが、澁澤家に遺された手帖に記されていて、『翻訳全集』の解題で紹介されています。若き日の澁澤が初めての自著を誰に読んでもらいたかったかを知ることができ、興味は尽きません。

 

手帖には21名の文学者の名前があがっています。堀口大學三島由紀夫渡辺一夫、平岡昇、鈴木力衛、丸山熊雄、中村真一郎河盛好蔵伊藤整石川淳安部公房寺田透、岡田真吉、佐藤朔、今日出海久生十蘭、小牧近江、神西清川端康成福永武彦吉行淳之介です。このうち、渡辺や丸山などは東大仏文の関係で、十蘭や吉行などは当時の交友関係でした。となると、面識がなかったにもかかわらず澁澤が本を贈ろうと考えた相手は、堀口、三島、河盛、伊藤、石川、安部、神西、川端、福永の9名になります。この出版を誰よりも喜んだのは父の武だったといいます。武は親戚の者や友人に本を見せて、「せっかく龍雄という名前をつけてやったのに、勝手に龍彦なんて変えやがって」と言いながら、相好をくずしていたとか。

 

黒魔術の手帖 (文春文庫)

黒魔術の手帖 (文春文庫)

 

 

第Ⅳ章「サド復活」の2「昭和三十五年/『黒魔術の手帖』/矢貴昇司/日夏耿之介土方巽稲垣足穂推理小説月旦」では、日本に西洋のオカルティズムが紹介されるきっかけとなった『黒魔術の手帖』が取り上げられ、以下のように書かれています。「『黒魔術の手帖』が主題とした西欧のオカルティズムは、それが通俗化して同時に高度な専門書も限りなく出版されている現在と、1960年代の初頭では、一般読者の認識度には大きな差がある。当時の日本では、オカルトはほとんど未紹介の分野で、『黒魔術の手帖』は、そうした未開拓領域に挑んだ先駆的な著書だった」

 

続けて、著者は「後年、〈オカルト〉はまるで澁澤の代名詞の一つになったような感さえある。はなはだしきは、澁澤自身があたかもオカルティストであるかのように誤解しているむきさえあるようだが、しかしいわゆるオカルト主義者や神秘主義者といった人たちの著作と、1966年(昭和41)の再刊の際には「神秘と怪奇の博物館」という副題を付した『黒魔術の手帖』の間には、関心の所在の根本に決定的な違いがあるだろう。『黒魔術の手帖』の書評のなかでは、「文学としての一つの高峰をなす象徴主義文学のかぐわしさがどことなくただよっている」という指摘が、探偵小説畑の木々高太郎から出たことが注目される(「週刊朝日」)。また増谷雄高の書評に、「澁澤龍彦日夏耿之介につぐところのこの魔術的世界の探求家である」とあるのが目を引く(「読売新聞」)」と述べています。

 

 

澁澤は日夏耿之介の全集に寄せた推薦文の中で、「世紀末デカダン文学やデモノロギア、神秘主義思想や魔法に関する前人未踏の業績」を遺した日夏の仕事の先駆性を讃えているが、『黒魔術の手帖』の先に立つわが国の数少ない類縁として、埴谷のようにこの孤高の学匠詩人の存在を頭に浮かべるのはきわめて自然だろうし、また種村季弘のようにより具体的に日夏の『サバト恠異帖』(1950年)を名指しにするのも妥当だろう(『全集2』解題)と書いています。 事実、澁澤の蔵書にある『サバト恠異帖』には、多くの書き込みが認められました。

 

夢の宇宙誌 (河出文庫)

夢の宇宙誌 (河出文庫)

 

 

また、澁澤に大きな影響を与えた人物に稲垣足穂がいます。澁澤は1964年(昭和39)に出版した『夢の宇宙誌』を稲垣足穂に捧げていますが、それから20年後、同書が文庫になった際に、「あとがき」には「京都の桃山に稲垣足穂を初めて訪ねたのは昭和35年だったと思うが、それから4年後に出た『夢の宇宙誌』は稲垣さんに捧げられている。当時は政治の季節で、猫も杓子も尖鋭な政治論議に明け暮れていたから、桃山の寓居にどっしりと腰を据え、永遠を呼吸して生きている稲垣さんが私には頼もしかったのである。私は稲垣さんを『わが魔道の先達』と呼んだ」と記されています。この「わが魔道の先達」という一語にシビれたわたしは、1991年10月15日に刊行した『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)の冒頭に「わが求道の先達・鎌田東二氏に捧げる」という献辞を記したのでした。ちなみに、鎌田氏も稲垣足穂をアポなし訪問したことがあるそうです! 

ロマンティック・デス』(国書刊行会

 

第Ⅴ章「妖人奇人館(1963―1967)の3「昭和三十九年/中井英夫と塚本邦雄/『夢の宇宙誌』/矢川澄子の役目/種村季弘/『サド侯爵の生涯』」では、著者は「稲垣足穂への献辞をもった『夢の宇宙誌』は、1960年代の澁澤を代表する著作として名高いとして、「荒俣宏や、高山宏、谷川渥などの戦後まもなくに生まれたポスト・サド裁判の世代には、本書から澁澤体験が始まったとする者が多い」と述べています。澁澤自身も、文庫版(1984年)のあとがきで、「60年代に刊行した十数冊の著書のなかで、私のいちばん気に入っているのが『夢の宇宙誌』である。この作品によって、私は自分なりにエッセーを書くスタイルを発見したのだった」とあります。

 

澁澤さん家で午後五時にお茶を
 

 

また、著者は以下のように述べています。
幻想文学や幻想美術、錬金術悪魔学、人形など、澁澤と共通したテーマで厖大な著作をあらわし、1970年代には、『仏文の澁澤、独文の種村』として〈異端文学者〉の両輪のごとく扱われることになる種村季弘も、この当時はまだ一冊の著書も訳書も持たない31歳の青年である。種村は、澁澤の死後、『全集』の編纂委員の一人をつとめ、数多い自身の澁澤論を『澁澤さん家で午後五時にお茶を』という一書に纏めることになる」

 

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

  • 作者:澁澤 龍彦
  • 発売日: 1996/02/09
  • メディア: 文庫
 

 

1965年(昭和40年)3月、カッパブックスの1冊として『快楽主義者の哲学』が光文社より刊行されました。そのカバー裏には、三島由紀夫の以下の推薦文が刷り込まれています。
サド裁判で勇名をはせた澁澤氏といふと、どんな怪物かと思ふだらうが、これが見た目には優型の小柄の白晳の青年で、どこかに美少年の面影をとどめる楚々たる風情。しかし、見かけにだまされてはいけない。胆、かめのごとく、パイプを吹かして裁判所に悠々と遅刻してあらはれるのみか、一度などは、無断欠席でその日の裁判を流してしまった。酒量は無尽蔵、酔へば、支那服の裾をからげて踊り、お座敷小唄からイッツァ・ロングウェイまで、昭和維新の歌から革命歌まで、日本語、英語、フランス語、ドイツ語、どんな歌詞でもみな譜で覚えてゐるといふ怖るべき頭脳。珍書奇書に埋もれた書斎で、殺人を論じ、頽廃美術を論じ、その博識には手がつけられないが、友情に厚いことでも、愛妻家であることでも有名。この人がゐなかつたら、日本はどんなに淋しい国になるだらう」

 

エロスの解剖 (1978年)

エロスの解剖 (1978年)

 

 

同年7月、『エロスの解剖』が桃源社より刊行されました。同月14日、三島邸の増築披露パーティーに澁澤は出席しています。森茉莉高橋睦郎、堂本正樹、それに横尾忠則が同席しました。増築された3階のバルコニーに面した円い部屋で、『美しい星』の作者は丹沢の山並みの方を指さし、「ホラ、澁澤君、あの山の頂上に空飛ぶ円盤が現れたんだよ」と言ったそうです。8月、土方巽アスベスト館の一角にあった、バー・ギボンのパーティーが開かれました。浅草から皿回しと紙切り芸人が呼ばれ、丸山(美輪)明宏がヨイトマケを唄ったといいますが、澁澤はここでも三島に会っています。 三島はある日、石原慎太郎にむかい、「あいつ、怖いよなあ。ひょっとしたら、人を殺したことがあるんじゃないかしら」と、土方巽を指さしながら言ったそうです。



8月29日から9月1日にかけて、澁澤は前年に続いて軽井沢の加藤郁乎の山荘に友人たちと行きました。来られないはずだった土方が31日になって突如姿を現したそうで、「みんなで朝食に納豆めしを囲んでいると、ひとり食べ終った土方がいきなり東北弁で怒鳴りだした。澁澤をはじめとしたほかの面々はわけも分からぬまま箸を置いてポカンとなった。あとで立腹した理由を尋ねると、土方は、『納豆めしをゆっくり喰っているようでは、口のなかで舞踏が腐ってしまうではないか』と言った」と書かれています。



9月の上旬には、三島が自作自演した映画「憂国」の内輪の試写会を見に行きました。京橋の大映本社の試写会場には高橋睦郎横尾忠則、堂本正樹、雲野良平らがいました。著者は、「映画の切腹の場面、血が飛び散って腸がはみ出すことろで、澁澤は貧血を起こしそうになった。試写の後のお茶の席でそのことを聞いた三島は、澁澤のことをさんざんに笑った」と書いていますが、それにしても、なんという贅沢な交友関係でしょうか! 
わたしは1920年代のパリで花咲いたコクトー、サティ、ピカソシャガールダリウス・ミヨー、ディアギレフ、ジュール・シェレらの文化サロンを連想しました。日本の70年代にも、三島由紀夫澁澤龍彦を中心とした土方巽唐十郎高橋睦郎金子國義四谷シモン横尾忠則美輪明宏といった錚々たる面々による文化サロンが存在したのです!

 

異端の肖像 (河出文庫)

異端の肖像 (河出文庫)

 

 

5「昭和四十一年/皿屋敷事件と暴風雨の一夜/『異端の肖像』/唐十郎/世界異端の文学/古典文庫/北鎌倉の新居/高橋たか子」では、1966年(昭和41年)の1月から「文藝」で「異端の肖像」の連載が始まり、澁澤はルードヴィヒ2世、グルジェフ、ロベール・ド・モンテスキウ、ウィリアム・ベックフォード、ジル・ド・レ、サン・ジュストヘリオガバルスといった人々の評伝が書かれました。著者は、「『異端』という言葉は1970年代までは澁澤の代名詞になっていた感があるが、『異端の肖像』を、『夢の宇宙誌』についで澁澤の1960年代を代表する作とみるむきも多いだろう。70年代以降と較べると、このころの澁澤の文体はある種の『型の美学』に近いところがあり、本書はそうした文体のピークをかたちづくっていると言えるかもしれない」と述べています。

よくわかる「世界の怪人」事典』(廣済堂文庫)

 

この『異端の肖像』は、わたしが監修した『よくわかる「世界の怪人」事典』(廣済堂文庫)のモデルとなりました。『異端の肖像』を論じて、種村季弘は「今日になって読み直してみると、これらの肖像のモデルになったのは異端者というより、むしろ生物学にいうネオテニー幼形成熟)のまま生き、かつ死んだ人物たちであったという気がする」。そして種村はとうもつづける。「いつまでも子供のまま幼児固着を引き延ばして生きなければならなかった、例外的人物の栄光と悲惨の劇を肖像化した珍品蒐集室。それがどこかで著者自身の自画像と二重写しになっている、とまではいえそうだ」(『全集7』解題)と論じています。

 

 

第Ⅵ章「 ホモ・エロティクス(1968―1970)」の1「矢川澄子との離婚」では、1968年3月31日に澁澤龍彦と妻の矢川澄子が協議離婚をしたことが書かれています。1965年(昭和40)2月に、澁澤と矢川は石井恭二の誘いで谷川雁と一緒に旅行をしていますが、谷川雁は矢川に思いを寄せました。矢川もいつしか谷川に惹かれていき、関係ができたようです。その事実が澁澤の知ることころとなり、この年の2月、3月にさまざまにごたついた結果、澁澤と矢川は別れることになったのです。ちなみに、澁澤自身も高橋和己の夫人である高橋たか子と不倫関係にありました。澄子は澁澤の原稿の清書はおろか、代筆までしていたと言われていますが、そんな澄子に対して澁澤は優しく接することはなかったようです。この協議離婚には財産分与もなく、白石かずこ野中ユリといった澄子の友人たちは激怒したそうです。また、澁澤の盟友ともいえる三島由紀夫も「無倫理」とコメントしました。

 

おにいちゃん―回想の澁澤龍彦
 

 

「言いようもないことのうちの、一言」で、高橋たか子は「たぶん1968年の春だったと思うが、澄子さんが、突然、不意打ちに、澁澤家を出て行かれ、私はびっくり仰天した。澁澤龍彦は、びっくり仰天というより、ショックで大声をたてて泣いた。『澄子がいなくなった』と。その一場を知っているのは私だけなので、ここに記しておこう」と書いています。矢川澄子は「およそ子供であることの美点と欠点のすべてを少年は十分にのこしてもいました」と澁澤について語りましたが、澁澤の妹の幸子は著書『澁澤龍彦の少年世界』で、「実生活ではほとんどバカと言っていい部分」が澁澤にはあったと証言します。母の節子は、長男だったから家の手伝いをさせず、それで何もできない大人になってしまったと言っていたものの、そうではなくて「あれは資質の問題である」と幸子は断言するのでした。

 

山吹

山吹

 

 

2「和四十三年/日本文学へのアプローチ/『美神の館』/アスベスト館」では、澁澤の日本文学への眼力を証明する仕事が紹介されていますが、その1つに1968年(昭和43年)11月に行われた、泉鏡花をめぐる三島由紀夫との対談があります。これは当時、中央公論社が刊行していた文学全集『日本の文学』の月報のための仕事でした。対談の冒頭、三島は「いわゆる鏡花ファンというのは、ちょっといやらしさを感じるんで、いやらしくない鏡花を理解してくれるであろう澁澤さんを引っ張り出した」と述べていますが、当時まったく等閑視されていた戯曲「山吹」を絶賛したりしました。対談相手の三島は、「山吹」を読んでいる人に会ったのは澁澤が初めてだと驚いていることでも、鏡花作品について澁澤の造詣の深さは大したものでした。この三島と澁澤の対談は、1970年以降の鏡花復権への口火を切った、画期的な意味をもつ対談ともなりました。ちなみに、『日本の文学』はわたしの実家に全巻揃っていました。まだ小学生だったわたしは『泉鏡花』の巻の月報を見て、サングラス姿の澁澤に魔法使いのような印象を持って、心をときめかせたものでした。



同年10月23日、澁澤は六本木の小料理屋で三島由紀夫に会います。「血と薔薇」の口絵グラビアの打ち合わせのためでしたが、三島は2日前の国際反戦デーの新左翼系学生の動きに備えて、カーキ色の戦闘服に身を固め、ヘルメットに長靴といった姿でやって来ました。三島は前年に「楯の会」を組織していたのですが、澁澤はそんな三島に会うたびに、「近ごろ、兵隊ごっこはいかがですか」と、冷やかしていたといいます。三島はいつも、「はい、相変らず、ラクロのように軍務にはげんでおります」と答えたとか。11月4日、くだんの三島由紀夫との対談「泉鏡花の魅力」が、赤坂のフランス料理店シドで行われました。対談終了後、澁澤は三島と一緒に、この年にオープンしたばかりの有名なディスコ「ムゲン」に行きました。「ムゲン」はブログ「浜野安宏さん」で紹介した日本を代表するライフスタイル・プロデューサーが手掛けた店でしたが、三島と澁澤が夜の街を二人だけで歩いたのは、後にも先にもこの時だけでした。

 

目黒のアスベスト館というのも、よく本書に登場します。澁澤を中心とした文化サロンのアジト的な場所でしたが、著者は「閑静な住宅街にあったアスベスト館は、公演の音漏れや劇場周辺にたむろする観客が迷惑を及ぼすだけでなく、こうした夜を徹しての酒宴の軍歌高唱や喧嘩などの騒音から、近所の住民とのトラブルが絶えなかった。そうしたトラブルのことは、右の吉岡の文からもうかがえるが、ある時、激怒して怒鳴り込んできた近隣住民から『頭から水ぶっかけてやるぞ』と言われた澁澤は、『かけてもいいから盥もってこい!』『敷くものもってこい!!』と言い返した。そのあと松山俊太郎が小用に立ち、外に出て行くと、赤い文字で、『あんたがたは人か鬼か、隣では5歳の男の子が熱にうなされて、目に涙を浮かべているのに・・・・・・』と書いた貼り紙がしてあった」と書いています。どうやら澁澤もその仲間たちも5歳児以下の幼児性を持っていたいたようですね。まあ、芸術家というのはみんな「人間失格」的な存在ではありますが・・・・・・。

 

血と薔薇―全3号復原

血と薔薇―全3号復原

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澁澤は、伝説の雑誌「血と薔薇」の編集長も務めました。残念ながら3号で休刊となる、いわゆる「3号雑誌」となってしまいましたが、著者は「『血と薔薇』の3冊は、まさに『60年代最後に打ち上げられた「異端の花火」とも言うべき華やかな暗黒趣味の開陳』(高原英理)という趣きだった。 中心メンバーの一人だった種村季弘が、21世紀になって面白いことを語っている。『血と薔薇』はエロティシズムの雑誌とはいえ、米国由来のヒッピー文化に絡んだ性解放論のごとき、その頃流行していた時代思潮とはむしろ対極的な方向をも打ちだしていたのではないかというのだ。今にして思うと、それは永遠の少年の世界、『コドモノクニ』の世界だった、と種村は述べている」と書いています。

 

 

4「和四十四年/美学校/『怪奇小説傑作集4』/サド裁判最高裁判決/再婚/薔薇十字社」では、1960年代の終りから70年代の初めにかけて、出版界に怪奇幻想ブームが巻き起こったことが紹介されます。稲垣足穂、先にもふれた小栗虫太郎、それに江戸川乱歩夢野久作久生十蘭、橋外男といった「幻想文学作家」「異端作家」の復権復活が盛んになりました。澁澤はそれらの出版にいろいろなかたちで関わり、ブームを牽引する1人を務めましたが、「図書新聞」1969年12月22日号で、「私の一九六九年」と題された文章に、「私の1969年は、10年がかりのサド裁判のようやく決着のついた年として、長く記憶に残るであろうが、これは要するに公的な事件であり、年表に書きこまれるための事件のようなもので、私の内面生活が、それによって昂揚したり、影響されたりするというようなことは全くなかったのである。[・・・]いずれにせよ、観念こそ武器だと思っていた私たちの60年代は、いま、ようやく終ろうとしているような気がする」と書いています。

f:id:shins2m:20200810005338j:plainわが書斎の『澁澤龍彦集成』

 

5「昭和四十五年/澁澤龍彥集成/初のヨーロッパ旅行/三島の死」では、1070年(昭和45年)の2月より『澁澤龍彦集成』の刊行が桃源社で始まったことが書かれています。当初は全6巻の予定でしたが、好評のため増巻して全7巻となりました。配本は順調に進み、完結はこの年の9月でした。内容見本には、石川淳稲垣足穂埴谷雄高三島由紀夫という錚々たる顔ぶれの懇ろな推薦文が並び、まことに圧巻でした。澁澤は「日本中の人がおれを認めてくれなくても、この4人が認めてくれればいいんだ」と語っていたといいます。

 

桃源社の中興の祖で、創業者・矢貴東司の息子である昇司が以下の「刊行のことば」を書いています。
「現下の混沌とした文学界に在って、唯ひとり悠然と壮大な夢の宇宙を創る稀有の人に澁澤龍彦氏があります。 人類の夜の思想の博大な探究者である澁澤氏は、西欧中世魔道の奥義に通暁し、サド侯爵の巨大な哲理に沈潜する。真個の魔術師と申せましょう。痩身瀟洒、左手に把るパイプの紫煙と共に、泰西異端の肖像を談り、世紀末の緑の色調を愛で、しかも今日の危機的情況を透徹せる眼で裁断する氏は、サド作品の美事な日本語への移入の仕事を端緒として、研究・評論に、創作に、典雅にして尖鋭なる魔筆を自在に揮っております」
この矢貴昇司の文には、当時の澁澤が読者や世間から抱かれていたイメージが集約されています。まさに、澁澤は「時代の寵児」になっていたのです。

 

同年5月8日、赤坂のシドで、三島由紀夫との対談「タルホの世界」が行われました。1968年(昭和43年)の鏡花をめぐる対談と同様に、中央公論社『日本の文学』の月報のための仕事でしたが、三島は澁澤に向かって、「僕はこれからの人生でなにか愚行を演ずるかもしれない。そして日本じゅうの人がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。[・・・]もしそういうことをして、日本じゅうが笑った場合に、たった1人わかってくれる人が稲垣さんだという確信が、僕はあるんだ」と発言しました。

 

対談といえば、第Ⅶ章「胡桃の中の世界(1971―1975)」の4「昭和四十九年/イタリア旅行/『胡桃の中の世界』/吉田健一」では、1974年(昭和49年)に行われた作家の野坂昭如との対談も紹介されています。
対談の際、澁澤のこの異様なまでに若い風貌に驚いた野坂昭如は、「澁澤さんは、ぼくより二つ年上なのに、ずいぶんお若く見えますね。フランスに行かれた時なんか、いくつに見られましたか」と問いかけました。澁澤は「高校生に思われたらしいですね」と返答しています。じつは澁澤は同窓会が好きで、よく中学校や高校の同窓会に出席していました。

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57歳のときの高校同窓会の集合写真

 

著者は、「中年のオヤジになったクラスメートたちから寄ってたかって、『なんでお前だけがそんなに若いんだよ!』と、嫉妬まじりの冷やかしをやんやと受けたことだろう。澁澤が57歳の時に撮られた、旧制浦和高校の同窓会写真がある。そこに、頭が禿げ上がったり、でっぷり太って貫禄がついたりした同級生たちといっしょに写っている澁澤の姿は、まるで異星から来た生物が1人紛れこんだみたいに見える」と書いています。澁澤自身は、「この若いということは、私に生活らしい生活がないためであろう。そのために、いつまでも青二才のような、極楽とんぼのようなつらつきをしているのであろう」(「ビブリオテカ澁澤龍彦Ⅳあとがき」)と述べています。わたしも、その通りだと思います。ちなみに、57歳というのは、わたしの現在の年齢ではありませんか!

 

 

5「昭和五十年/ユリイカ特集号」では、ベトナム戦争終結した1975年(昭和50年)に白水社の全12巻のシリーズ『小説のシュルレアリスム』が刊行開始されますが、その第1回配本はアルフレッド・ジャリの『超男性』で、翻訳者は澁澤でした。著者は、「1975年は、この『小説のシュルレアリスム』だけでなく、紀田順一郎荒俣宏が編纂した『世界幻想文学大系』が国書刊行会から刊行が始まっている。そうした『従来では考えられないような突拍子もない企画』の実現について澁澤は、『十年前に、私が「世界異端の文学」なんてのを企画したとろとは、まさに隔世の感がありますなあ。何で私のやることは十年早いんでして』」と述べています。

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わが書斎の幻想文学の叢書群

また、著者は「実際、1970年の初めより、いま名前が出た国書刊行会や、薔薇十字社を引き継いだ出帆社生田耕作プライヴェート・プレスの奢灞都館、それに牧神社、創土社、森開社、南柯書局、青銅社等々、1950年代の昔より澁澤が営々孜々として渉猟し紹介につとめて来た〈異端文学〉や〈幻想文学〉を手がける小出版社が陸続と現れていた」とも述べています。それらの叢書群は、ほとんどすべて、わたしの書斎に置いてあります。

 

 

同年9月、「ユリイカ」の「特集・澁澤龍彦――ユートピアの精神」が刊行されました。この特集号で、澁澤は心理学者の馬場禮子のロールシャハ・テストを受けています。澁澤のテストについて、馬場は、「生々しい情感のふれ合いを避ける特徴と、同時に知的観念的な世界を愛し、実に敏捷に自動的に、その世界に入りこんでしまう特徴とが、鮮やかに示されていた」、「これほど観念を愛し、観念にエネルギーを注ぎながら、なお現実を歪めないでおく能力は稀有のものといえよう」と結論づけています(「観念的エロスの夢」)。 4年後に、このテストのことをふり返った澁澤は、「私は生まれてから一度も本当のことはしゃべったことがないような気もする」、「簡単にいえば、裸になることができない人間なのである」と述べています。また、「心理学というのは一種のオカルティズムではないかという疑いが、どうしても私の心底から消えないのである」とも言っています(「テストのあとで」)。


わが実家書庫の『群書類従』の書棚

 

第Ⅷ章「 記憶の遠近法(1976―1979)」の3「昭和五十三年/『玩物草紙』/『記憶の遠近法』/蔵書/日本の古典」では、「全集年譜」に「この年、『唐草物語』の執筆に先だって、日本、東洋の古典の研究はいよいよ本格化していた」とあることが紹介されています。 澁澤は、『群書類従』『続群書類従』『続々群書類従』『廣文庫』『大語園』『古事類苑』『日本随筆大成』といった日本の古典に関する膨大な叢書類を、この時期に軒並み揃えています。


わが実家書庫の『古事類苑』の書棚

 

ちなみに、これらの叢書はすべてブログ「実家の書庫」に書いたプライベート・ライブラリーである「気楽亭」に収められています。本書には、「これらの本のほとんどは、最終的には2階の寝室に侵入して、その狭い部屋のベッドの脇の本棚にまとまって収められている。本屋への支払いが、ある時期からは洋書より和書の方が多くなった事実を、龍子も証言している」と書かれています。

 

書物の宇宙誌―澁澤龍彦蔵書目録

書物の宇宙誌―澁澤龍彦蔵書目録

  • 発売日: 2006/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

著者は澁澤の蔵書目録『書物の宇宙誌』を作った人ですが、澁澤の本棚をつぶさに見てなによりも印象深かったのは、いわゆる雑書の類が皆無に近いことだったそうです。「本の扱いは丁寧だが、べつだんコレクターや愛書家というわけではまったくなく、豪華本とか稀覯初版本の類はほとんど所有していない。雑誌は、洋雑誌を含めてあまりない。 近代の日本の作家で大部の全集が架蔵されているのは、森鴎外幸田露伴泉鏡花永井荷風谷崎潤一郎芥川龍之介、木下杢太郎、岡本かの子小林秀雄石川淳花田清輝堀辰雄といったところで、それに、柳田國男折口信夫南方熊楠という学者が加わる」と書いています。澁澤自身も、最晩年の池内紀との対談で、中国や日本の方に関心が移った理由を問われて、「やはり三島さんが亡くなってからですね。ヨーロッパ的な二元論にいや気がさしたのかもしれない。もう絶対主義はうんざりですね。老荘思想のほうがずっといいです」と答えています。

 

第Ⅸ章「魔法のランプ(1980―1986)」の1「澁澤の日常/昭和五十五年」では、1970年代から80年代における、澁澤の静かな日常が以下のように紹介されています。
「澁澤は、昼夜逆転の生活が基本だった。夜起きて昼間に寝る。起床は午後の2時頃が多い。ただし規則正しくそうだというわけではなく、締め切り間際の仕事に集中している時は、30時間でも40時間くらいでも起きっぱなしで続けて執筆をしていた。そのかわりに、物も食べずにまる2日間くらい寝続けている日もあった。 起床したあとはふつうパンで軽く食事をとる。来客があれば人と会い、庭に出たりする。夜の8時くらいになって2回目の食事。そのあと紅茶を飲みながら読書をする。紅茶はリプトンをポットで淹れて、砂糖もミルクやレモンも入れない。家ではいつも楽なパジャマを愛用し、寒ければガウンをはおる。新聞は5紙ほどとって隅々まで読んでいたが、テレビはまったくといっていいほど見ない」

 

また、「読書は、応接間のソファに寝そべったりしてすることが多かった。原稿の執筆は、必ず家の書斎の大きな机でおとなった。机の上には地球儀と、クラウン、大修館の仏和辞典がある。いちばん古い白水社の『模範仏和大辞典』は1948年(昭和23)から使いつづけているもので、革表紙がボロボロになっている。原稿はどこでも書けるというタイプではなくて、自分の机以外の場所で執筆することはまずなかった。本の置き方一つにしても気になるので、仕事部屋の掃除は年に4、5回しかさせなかった。自分の蔵書だけをもちい、図書館や人から借りて本を読むことは、皆無といってよかった」とも書かれています。



2「昭和五十六年/オスカル/ギリシア・イタリア旅行/澁澤の旅/『唐草物語』と泉鏡花賞」では、パリ人肉事件が起きた1981年(昭和56年)の3月4日、澁澤がギュンター・グラスの小説を原作とした、映画「ブリキの太鼓」の試写を見たことが紹介されています。退行の意志を持った少年オスカルが、町の塔のてっぺんに登り太鼓を叩きながら叫び声を発すると、建物の大窓が次々に割れ落ちる。映画のこの場面を見て、澁澤は、「オスカルは私だ。私にそっくりだ」と思ってあやうく涙をこぼしそうになったそうです。「永遠の子ども」であった澁澤の魂に響くものがあったと推察されます。

 

 

さて、澁澤は「書斎の人」でした。著者は、「本から離れたら手も足も出ないという意味のことを、パリを歩きながら彼が述懐したのを憶えている。日々、たゆみなく、飽きることなく、好きな本を読み、その本から想を得て、自分の本を作る。その循環で59年の生涯を終えた彼は、パリを歩こうがプラハを歩こうが、実はいつも書物の中を歩いていたにすぎないのかもしれない」と述べています。そんな澁澤が生涯を通じてしんそこ好きだった仕事は翻訳でした。残された翻訳は、400字詰め原稿換算で1万3000枚あまりにのぼります。死後に刊行された『翻訳全集』は全16冊にもおよび、一作家の翻訳を全集化するのは鷗外以来だと驚かれましたが、著者は「量質ともに、それだけの価値を十二分にもった仕事だったと言えるだろう」と述べます。

 

訳詩集 月下の一群 (岩波文庫)

訳詩集 月下の一群 (岩波文庫)

  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: 文庫
 

 

一度、著者が澁澤に「誰の翻訳がいちばん好きか」と訊いたところ、「そりゃ、やっぱり堀口大學だね」という答えで、「あんなに艶のある翻訳をできる人はそうはいない」とつけ加えたそうです。旧制高校か浪人の時代に、澁澤は『月下の一群』をはじめとした堀口大學の訳詩集から、好みの作品を抜粋して筆写したノートを作っていました。著者いわく、澁澤が翻訳を貶す時には、「そっけない翻訳だね、なんであんなにそっけなく訳すのかね」とよく言っていたそうなので、この「艶のある」と「そっけない」は、澁澤が翻訳の良し悪しを評価する際の1つの物差しとなっていたようです。

 

5「澤龍彥批判」では、澁澤の文業に対して頻繁に向けられる批判があったことが明かされます。澁澤の文章に〈下敷き〉が多いという事実に絡む批判です。それから、もう1つ、ぜひ採りあげておきたい批判があるとして、著者は「澁澤の文学が、人間の内面という深遠なものを欠落させた文学であることに対する批判である」と指摘します。いわく、「ディレッタントの文学」、「軽い遊びの文学」、「おぼっちゃまの文学」、「たんなるメルヘン」、「現実遊離の芸術」等々。山下武は「もとより澁澤龍彦に深刻味など期待すべくもないが、そこが生得のディレッタントの哀しさで」などと揶揄しましたが、そうした批判の典型といえるケースの文章と言えます。

 

 

澁澤を強烈に批判したのが、浅田彰です。彼は島田雅彦との連続対談集『天使が通る』の第四章「ミシマ 模造を模造する」の脚注において、澁澤の三島追悼エッセイである「絶対を垣間見んとして・・・・・・」に触れ、「信じがたく単純なこのエッセイを読んで感じるのは、澁澤龍彦というのがたかだか高度成長期までの文学者だったということだ。近代社会のタテマエがそれなりにしっかりしていたから、それにちょっと背を向けてみせれば『異端の文学者』を気取ることができた。それに、ヨーロッパがまだまだ遠く、洋書を手に入れるのも難しかったから、あの程度でも素人は眩惑できたという事情もある」とまで酷評しています。さらに浅田は、柄谷行人蓮實重彦三浦雅士との共同討議『近代日本の批評Ⅱ』(1991年)でも、ひとり澁澤に言及し、「いちばんひどいのは密室にこもってユング的な原型を弄ぶだけの澁澤龍彦。だいたい、ちょっと拗ねてみせれば異端の文学者を気取れるなんて思ってるヤツは徹底的に軽蔑すべきだよ」と発言しています。

 

 

澁澤龍彦と並び称されることの多かったのがドイツ文学者の種村季弘です。「仏文の澁澤、独文の種村」として、日本の幻想文学ブームを牽引した両者ですが、思想家の浅羽通明は著書『澁澤龍彦の時代』で、「少年皇帝」である澁澤がその数々の奇人伝のなかで、「彼ら奇人たちを全能で玲瓏な彼自身の鏡像として」描き、その結果、「そこには、相互に鏡像である彼らと澁澤龍彦のみが星と瞬き、いかなる他者も存在を許されない」と指摘しました。それに対して、種村の方は「妖人奇人たちをどこまでもいかがわしい人物として追いかけ、そのいかがわしさを賞翫しようとする」のだと浅羽は言います。著者も、「そもそも、マニエリスムのわが国への紹介者として知られる澁澤は、種村自身がいみじくも指摘するように、本質的には古典主義者的な側面が色濃い。いっぽう種村は、骨がらみのマニエリストである」と述べています。

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わが書斎の種村季弘コーナー
 

2017年(平成29)になって、高橋睦郎がちょっと驚くような三島由紀夫の発言を公開しました。最後の頃に三島は、高橋に「自分が認めているのは澁澤龍彦ではない」とそっと洩らしたというのです。「澁澤は出典とかネタの出所が全部わかる、そういう意味では出所がわからないだけに俺は種村の方が好きだと、三島は語った」といいます。1968年(昭和43)に「週刊読書人」紙上で、種村は、三島由紀夫磯田光一と3人で座談会をやっています。たぶんその際のことだと思われますが、三島は種村に「澁澤君は面白いんだけれども、彼はエロチックじゃないからね」と語ったそうです。

 

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

 

6「昭和五十九年/バルチュス展/澁澤龍彥コレクション/ボルヘス/サイン会」では、澁澤の仕事がアルゼンチンの大作家であるボルヘスの仕事に対応していることが指摘されます。「無限の文学世界が、1人の人間のなかにある」とボルヘスは書きましたが、澁澤はボルヘスの追悼文のなかで、「ボルヘスを読む楽しさの1つは、ボルヘスこともに古今東西の文学作品を読むという楽しさである」と語っています。著者は、「この2人にはもちろん違った側面も数多くあり、正反対のところさえみうけられる。けれども、ボルヘスの『文学とは幸福というものの数ある多様な形態のうちの1つである』という名言は、澁澤龍彦が残した言葉だとしても、ちっともふしぎはないだろう」と述べています。

 

 

また、澁澤にとっては古代ローマの軍人で、『博物誌』の作者プリニウスという存在が大きかったとされます。7「昭和六十年/『私のプリニウス』/富士川義之幻想文学新人賞」では、1970年以降の澁澤にとって最も重要だった作家の1人として、プリニウスが取り上げられます。「澁澤龍彦の全著作活動において、その前半にはサド侯爵、後半にはプリニウスが守護神の役割を務めたのだった」と、種村季弘は述べています。

 

ねむり姫 澁澤龍彦コレクション (河出文庫)
 

 

澁澤はたびたび「剽窃家」「翻案家」と非難を受けました。こうした問題への澁澤からの貴重な回答として、重要な書きものが残っています。2008年(平成20)、生誕80年を記念して、神奈川近代文学館で開かれた澁澤の大回顧展の際に展示された、1通の手紙です。これは、澁澤の『ねむり姫』の中の「狐媚記」と、フランス19世紀末の作家ジャン・ロランが書いた短篇小説「マンドラゴラ」の類似を指摘した一読者への返事として書かれた澁澤の書簡で、日付は1984年(昭和59)2月3日です。

 

澁澤は、手紙に以下のように記しています。
「お手紙ありがたく拝見しました。拙作『狐媚記』とジャン・ロランの『マンドラゴラ』との類似を御指摘くださったのは、あなたが最初です。私の書くものは、ほとんどすべて原形があります。『犬狼都市』がマンディアルグの『ダイヤモンド』を下敷にしたものであることは、よく知られています。『唐草物語』にふくまれる諸作も、 ほとんどすべて下敷があって、自分で公開してもよいのですが、かくしておいて、読者に見つけてもらうのも一興かと存じます。久生十蘭スタンダールの『チェンチ一族』を下敷にして傑作『無月物語』を書いたように、あるいはボルヘスH・G・ウェルズの『水晶の卵』を下敷にして傑作『アレフ』を書いたように、私もジャン・ロランを下敷にして良い作品を書きたかったのですが、残念ながら、貴兄の目でごらんになると、あまり良い出来ではなかったようです。反省しなければならないと思います。『狐媚記』は必ずしもジャン・ロランだけではなく、そのほかにも、いくつかネタがあります。私の場合、オリジナルなものは、おそらく日本語の文体だけでしょう」

 

第Ⅹ章「太陽王と月の王(1986―1987)」の1「素顔」では、詩人の平出隆の興味深いエピソードが紹介されます。ものにこだわらない澁澤には差別ということがまったくなかったという平出は、ある対談で「いつだったか、ちょうどなにか差別問題が起っていて、内藤君[河出の編集者の内藤憲吾]と二人で澁澤さんの前で差別問題について話したことがあったんですが、僕は北九州で被差別部落がかなりあって、小さいころに忘れられない経験があるんですね。内藤君の出身地がちょうどそのとき起っていた事件の場所に近くて、そんな話になった。そうしたら、澁澤さんはほんとにきょとんとされて、それからめずらしく、だんだん不機嫌になって、『わからんな。みんな仲よくすればいいじゃないか!』と(笑)。『でも、そういう現実があるんですよ』とこちらがいくら言っても・・・・・・」と回想しています。この澁澤の発言にも「永遠の子ども」らしい無邪気さを感じます。

 

2「昭和六十一年/土方巽の葬儀/『うつろ舟』」では、1986年(昭和61年)4月15日、ジャン・ジュネが死んだことが紹介されます。澁澤は18日の「朝日新聞」に追悼文を書きました。同月26日、ボルヘスが死にました。澁澤は「新潮」の8月号に、次のように始まる追悼文を書いた。
「つい二ヵ月前にジャン・ジュネ道陣の一文を草したと思ったら、このたびはボルヘスである。愛惜の作家が次々に幽明境を異にしてゆくのを見るのはつらいが、しかしボルヘスの死には奇妙な明るさがある。かつて稲垣足穂さんが亡くなったとき、すでに生きているうちから、とっくに永遠の世界へ入ってしまった感のある稲垣さんが亡くなっても、それほど悲しみの気持は湧かないと書いたことがあるが、86歳のボルヘスの死に接しても、それと似たような気持を私はおぼえる」

 

3「入院、手術、死」では、同年4月8日、毎年恒例になっていた澁澤家の庭の牡丹桜の花見が開かれ、出口夫妻、種村夫妻、巖谷夫妻、それに堀内夫妻が招かれたことが紹介されています。堀内誠一は、澁澤の死の12日後に同じように他界しますが、その病名までが澁澤と同じでした。著者は、「澁澤は左頸から肩までが腫れて、首も回らないような状態だったが、この日は機嫌がとてもよくて、みんなからの見舞いの品であるカシミアの紺色のガウンを着てみせたりした。 花見の席で前に座っていた出口に、『胎児で死んでも、八十で死んでも、おんなじだ。おんなじなんだ』と書いた紙を澁澤は手渡した」と書かれています。

 

この月の20日、『高丘親王航海記』の最終章「頻伽」が脱稿。澁澤はもう起き上がることもできないほど体が弱っており、妻の龍子は何度も「文學界」編集部に断りの電話をしようと思ったそうです。しかし、澁澤は机にかじり付くようにして書き続けました。その時のようすを、龍子は「なにか、鶴が身を細っても自分の羽で織るみたいにして」と語っています。20日の深夜、澁澤が「できたよ」と言ったときには、龍子は嬉しくて思わず抱きついたそうです。でも、「これが最後なのだとも感じた」といいます。

 

8月5日の朝、息子が生涯同居をしていた母の節子が、北鎌倉の家の自室に座って庭を見ていると、黒い蝶が一羽あらわれて、自分の前をひらひらと行きつ戻りつしました。母はそれを見て息子が死ぬことを直感したそうです。そして、その日の午後3時35分、都内の病室で頸動脈瘤が破裂し、澁澤龍彦は死にました。享年59でしたが、真珠のような大粒の涙がひとつ左の目からこぼれて、一瞬の死だったといいます。その死は読書中の出来事でした。1973年(昭和48年)、女子高生たちがつくる同人誌のアンケートで、「あと1日で死ぬとしたら」という質問に対して、澁澤は「いつものように本を読みます」と書きましたが、その通りになったわけです。

 

4「葬儀」では、以下のように書かれています。
「澁澤の遺体は、慈恵医科大学病院から車で北鎌倉の自宅に運ばれた。龍子のほかに金子國義四谷シモンが同乗した。車内でシモンが、澁澤から教わったという歌を子守唄のようにずっとうたった。 自宅では、池田満寿夫野中ユリたちがすでに待っていた。車が家の近くに着くと、金子とシモン、それに池田や運転手らで棺を家まで運んだが、その重さに金子はびっくりした。「二人はいってるんじゃないの」と、金子は思った。帽の異様な重さは、真夏の運搬のために入れられた大量のドライアイスのせいだった。その棺は、澁澤が大好きだった画家たちの絵がいっぱい掛かった応接間に置かれた。その夜、北鎌倉は地を突き刺すような稲妻と激しい雷鳴があった」

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わが書斎の澁澤龍彦コーナー 

 

「あとがき」では、著者が澁澤龍彦の生涯と作品について書かれ、語られた、膨大な文章(もちろんそこには澁澤本人のものがもっとも多い)に、あたうかぎり目を通し、それらを選択して、編集配列することによって、本書『龍彦親王航海記』を書き上げたことが述べられています。クラシック音楽についての著書も多い著者は、「あえてバッハの受難曲に喩えれば、ここでは曲の中核となるアリア、アリオーソ、コラールはもう作曲されて筆者の前に揃っていた。だから、本書の筆者が新たに書き下ろしたのは、すでに存在するそうした美しいアリアやコラールのあいだとあいだを語り繋いでいく〈福音史家〉のレチタティーヴォのパートと、それに少しばかりの序曲やら間奏曲だけにすぎないとも言えるだろう。役目は〈福音史家〉なのだから、福音史家がみずから朗々と歌う愚は厳につつんだつもりであるし、いわんや、ロマネスクな想像力などといったものは、本書の叙述にはいっさいもちいられていない」と述べています。これは、まことに素晴らしい達意の比喩であり、天竺へと旅立った龍彦親王もさぞ喜んでいることと思います。

 

龍彦親王航海記:澁澤龍彦伝

龍彦親王航海記:澁澤龍彦伝

  • 作者:礒崎 純一
  • 発売日: 2019/10/31
  • メディア: 単行本
 

 

2020年8月25日 一条真也

『高丘親王航海記』

高丘親王航海記 (文春文庫)

 

一条真也です。
お盆休みに、『高丘親王航海記』澁澤龍彦著(文春文庫)を再読しました。1985年(昭和60年)から87年にかけて雑誌「文学界」に掲載され、同年の10月に単行本化された幻想小説で、著者の遺作にして唯一の長篇小説です。最初はハードカバーの単行本で読みましたが、今回、約30年ぶりに文庫本で読み直しました。というのも、最近、澁澤龍彦の伝記本である磯崎純一氏の大著『龍彦親王航海記』(白水社)を読み、同書のタイトルの由来となった『高丘親王航海記』をもう一度読みたくなったのです。

 

龍彦親王航海記:澁澤龍彦伝

龍彦親王航海記:澁澤龍彦伝

  • 作者:礒崎 純一
  • 発売日: 2019/10/31
  • メディア: 単行本
 

 

本書のカバー表紙には朱華氏の装画が使われ、カバー裏表紙には内容紹介があります。
貞観七(865)年正月、高丘親王は唐の広州から海路天竺へ向った。幼時から父・平城帝の寵姫・藤原薬子に天竺への夢を吹きこまれた親王は、エクゾティシズムの徒と化していたのだ。占城、真臘、魔海を経て一路天竺へ。鳥の下半身をした女、良い夢を食すると芳香を放つ糞をたれる獏、塔ほど高い蟻塚、蜜人、犬頭人の国など、怪奇と幻想の世界を遍歴した親王が、旅に病んで考えたことは。著者の遺作となった読売文学賞受賞作」

 

本書は、「儒良」「蘭房」「獏園」「蜜人」「鏡湖」「真珠」「頻伽」の7つの章と高橋克彦氏の「解説」から構成されています。著者は、もともと第一章を「蟻塚」として書きましたが、単行本化に当たって「儒良(じゅごん)」と改題しています。久々に読み返した『高丘親王航海記』は、まことに幻想的で、登場する不思議な人間たちや奇怪な動物たちがすべて魅力的に思えました。

 

幻獣辞典 (河出文庫)

幻獣辞典 (河出文庫)

 

 

天竺に向かう物語なので『西遊記』へのオマージュともいえますが、著者がよく生前比較されたアルゼンチンの幻想作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』も連想させます。「解説」を書いた作家の高橋克彦氏は、「奇跡としか表現のできない大傑作なのだ。今世紀どころか、これまでの日本文学の中でも、これほどの水準に達した物語を私は読んだ記憶がない。高丘親王の日本から天竺に至る七つの夢幻譚は、読者である自分の垢染みた心の殻を一枚ずつ剥がしていく怖さと喜びに満たしてくれた」と絶賛しています。

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高岳親王Wikipedia
 

高丘親王は実在の人物ですが、正しくは「高岳親王」といいます。延暦18年(799年)に生まれ、貞観7年(865年)に亡くなったとされています。平安時代初期の皇族・僧侶であり、法名は真如。平城天皇の第三皇子。異母兄に阿保親王、甥に『伊勢物語』で知られる在原業平がいます。品位は四品。Wikipedia「高岳親王」の「経歴」には、「大同4年(809年)に父・平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位すると皇太子に立てられるが、翌大同5年(810年)の薬子の変に伴い皇太子を廃される。弘仁13年(822年)、四品に叙せられ名誉回復がなされるが、出家し真如と名乗った」と書かれています。

 

西院流 胎蔵界次第

西院流 胎蔵界次第

  • 作者:禅遍
  • 発売日: 2020/07/08
  • メディア: Kindle
 

 

また、「奈良の宗叡・修円、また空海弘法大師)の弟子として修行した。弘法大師十大弟子の1人となり、高野山親王院を開いた。阿闍梨の位をうけ、また『胎蔵次第』を著した。承和2年(835年)に空海が入定すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会っている。斉衡2年(855年)、地震により東大寺大仏の仏頭が落ちたとき、東大寺大仏司検校に任じられ修理を行う。老年になり入唐求法を志して朝廷に願い出、貞観3年(861年)に親王や宗叡らの一行23人は奈良より九州に入り、翌貞観4年(862年)に大宰府を出帆して明州(現在の寧波)に到着する」とも書かれています。

 

 

さらに、「貞観6年(864年)、長安に到着。在唐30余年になる留学僧円載の手配により西明寺に迎えられる。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあったことから、親王長安で優れた師を得られなかった。このため天竺行きを決意。貞観7年(865年)、皇帝の勅許を得て従者3人とともに広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶った。16年後の元慶5年(881年)、在唐の留学僧・中瓘らの報告で親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられている。虎の害に遭ったという説もある。現在、マレーシアのジョホール・バルの日本人墓地には、親王院が日本から御影石を運んだ親王の供養塔が建立されている」と書かれています。

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わが書斎の澁澤龍彦コーナー
 

天皇の子として生まれ、空海の高弟となり、長安から天竺へ旅をし、最後は虎に食われたとされているなんて、なんとファンタスティックな人生でしょうか! 澁澤龍彦が小説の主人公にしたことによって、高岳親王の存在を初めて知った人は多いと思います。著者も、よくぞ、このような興味深い人物に目を付けたものです。思えば、著者ほど「幻想」や「奇想」を日本人に与え続けた人はいませんでした。高橋氏の「解説」には、「私がこうして物書きになれたのも、その大半は澁澤さんのお陰だと思っている。黒魔術、毒薬、ホムンクルス、地下世界、人形愛、ブランヴィリエ伯爵夫人、ユートピア、畸形、ノストラダムス、秘密結社、空中庭園、澁澤さんの本で触れて魅せられた事柄をここに並べればそれだけでこの文章のすべてが埋まる。これはなにも私に限ったことではなく、今の時代にSFやオカルト小説、幻想小説、そして伝奇小説を書いているほとんどの小説家に言えるのではなかろうか。皆それぞれがなんらかの形で澁澤さんの世界をコピーしている」と書かれています。かく言うこのわたしも、澁澤龍彦のエッセイに多大な影響を受け、『遊びの神話』(東急エージェンシー、PHP文庫)ではたくさん引用させてもらいました。

 

遊びの神話

遊びの神話

 

 

この『高丘親王航海記』という物語は、まず、エクゾティズムに満ちています。第一章「儒良」で、著者は「けだし、親王の仏教についての観念には、ことばの本来の意味でのエクゾティズムが凝縮していたにちがいないからだ。エクゾティズム、つまり直訳すれば外部からのものに反応するという傾向である。なるほど、古く飛鳥時代よりこのかた、新しい舶載文化の別称といってもよかったほどの仏教が、そのまわりにエクゾティズムの後光をはなっていたのはいうまでもあるまいが、親王にとっての仏教は、単に後光というにとどまらず、その内部まで金無垢のようにぎっしりつまったエクゾティズムのかたまりだった。たまねぎのように、むいてもむいても切りがないエクゾティズム。その中心に天竺の核があるという構造」と書いています。

 

また、本書はアナクロニズムの物語です。
アナクロニズムとは「時代錯誤」という意味ですが、とにかく本書の中の時間の流れはデタラメで、鼻の長い奇怪な獣が親王一行の前に出現して、「おれは大蟻食い(オオアリクイ)というものだ」と名乗ったとき、従者の円覚という僧は「ふざけるな、まじめに答えろ。こんなところに大蟻食いがいてよいものか。いるはずがないぞ」と、いまにも相手につかみかからんばかりの剣幕で怒るので、親王は見るに見かねて、「おいおい円覚、なにもそう赤くなって怒ることはあるまい、ここに大蟻食いがいたとしても、べつだん、かまわないではないか」と言うのです。

 

 

すると、円覚は食ってかかるように、「みこはなにも御存じないから、平気でそんな無責任なことをおっします。それなら、わたしもあえてアナクロニズムの非を犯す覚悟で申しあげますが、そもそも大蟻食いという生きものは、いまから約六百年後、コロンブスの船が行きついた新大陸とやらで初めて発見されるべき生きものです。そんな生きものが、どうして現在ここにいるのですか。いまここに存在していること自体が時間的にも空間的にも背理ではありませぬか。考えてもごらんなさい、みこ」と言うのです。こんな変てこな会話が展開される小説が他にあるでしょうか。しかも、この物語には他にも、時間的にも空間的にも背理となるアナクロニズムが存在するのです。ちなみに、澁澤龍彦の盟友であったドイツ文学者の種村季弘には『アナクロニズム』という名著があります。もしかして、著者はこの本を意識していたのでしょうか。

 

さて、1985年に『高丘親王航海記』の執筆を開始したときから、著者にはすでにのどの痛みが起きていました。翌86年になってもそれは治らず、悪くなる一方で、9月に慈恵医大病院で検査したところ悪性と判明し、ただちに入院。気管支切開で声を失い、下咽頭癌と診断されました。病状の進行と並行して『高丘親王航海記』は書き継がれ、「文学界」に第六章の「真珠」を渡したのは手術後の87年1月のことでした。この章で、主人公の親王は大きな真珠が獲れる獅子国(セイロン)に至り、海にもぐる真珠採りからとりわけ大粒なるものをさし出されます。その美しさは死の結晶かもしれないと思いながら、結局、親王はその真珠を呑み込みます。そして意識を失い、その場に倒れてしまいます。

 

長い昏睡状態から覚めると、親王はのどに痛みと異物感を覚えました。呑みこんだ真珠のせいなのか、自分の声も変わってしまいます。のどの痛みは本物で、その上、息苦しさも加わりました。本物の病気に違いありません。親王は、これで自分は一年以内に死ぬと考え、なぜかほっと肩の荷をおろしたような気分になりました。著者は、「死はげんに真珠のかたちに凝って、私ののどの奥にあるのではないか。私は死の珠を呑みこんだようなものではないか。そして死の珠とともに天竺へ向う。天竺へついたとたん、名状すべからざる香気とともに死の珠はぱちんとはじけて、わたしはうっとり酔ったように死ぬだろう。いや、わたしの死ぬところが天竺だといってよいかもしれない。死の珠がはじければ、いつでも天竺の香気を立ちのぼらせるはずだから」と書いています。

 

この「真珠」は「文学界」1987年3月号に掲載され、続いて4月に最終章「頻伽」が脱稿され、『高丘親王航海記』は完結に至りました。そして、著者は6月にその決定稿を渡しますが、8月に頸動脈瘤が破裂して死去します。まさに澁澤龍彦は高丘親王のように死んだのでした。奇妙なことですが、わたしは「のどの痛み」と「息苦しさ」という症状から、わたしは高丘親王新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったのではないかと思いました。もちろん、9世紀の人である高丘親王が、2019年末に中国の武漢で発生したという新型コロナウイルスに感染するはずはないのですが、そんなアナクロニズムもこの物語なら「あり」ではないかと思ったのです。この小説には、「死」の香りが濃くたちこめているという感想をもつ読者も多いようですが、わたしはそうは思いません。親王は虎に食われて天竺へ行くというビジョンを持っていました。親王にとっての天竺とは「極楽」そのものです。そう、この『高丘親王航海記』という物語は、極楽への憧れに満ちたユートピア小説なのです。

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わが書斎のアストロラーベ
 

最後に、この小説は航海記といいながら、実際はほとんどが高丘親王が見た夢の内容が綴られています。それでも航海の場面があるのですが、そこにはアストロラーベ(Astrolabe)という器具を操る船乗りが登場します。アストロラーベは、古代の天文学者占星術者が用いた天体観測用の機器であり、ある種のアナログ計算機と言えます。用途は多岐にわたり、太陽、月、惑星、恒星の位置測定および予測、ある経度と現地時刻の変換、測量、三角測量に使われました。また、イスラムとヨーロッパの天文学では天宮図を作成するのに用いられました。じつは、わが書斎には2種類のアストロラーベのレプリカが鎮座しています。これらを眺めていたら、わたしはどこまでも空想の翼を広げることができます。『高丘親王航海記』を再読したとき、日本はGoToトラベルの最中でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大も第2波を迎え、旅行に出かける人は少なかったです。わたしも、今年のお盆休みはどこにも行かず、本書のような幻想航海記を読み、アストロラーベを眺めながら、夢の天竺へと心を遊ばせました。いくら新型コロナウイルスの影響で海外旅行が夢のまた夢となろうとも、読書による「心の外遊」は自由です!

 

高丘親王航海記 (文春文庫)

高丘親王航海記 (文春文庫)

 

 

2020年8月24日 一条真也

『一人称単数』

一人称単数 (文春e-book)

 

一条真也です。
75回目の「終戦の日」に、『一人称単数』村上春樹著(文藝春秋)を読みました。今や世界的にも有名な国民的作家である著者がブログ『女のいない男たち』で紹介した本から6年ぶりに発表した短篇小説集です。8つの作品すべてに幻想小説の味わいがあり、わたしの好みでした。たくさんの音楽も登場するので、本書は音楽小説でもあります。わたしは音楽の作品名が出てくるたびに、YouTubeで演奏の動画を流しながら読書を愉しみました。 

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、ベンチのある公園を女性が横切るイラストが描かれ、帯には「短篇小説は、ひとつの世界のたくさんの切り口だ。6年ぶりに放たれる、8作からなる短篇小説集」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

また、帯の裏には、「『一人称単数』とは世界のひとかけらを切り取る『単眼』のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、『単眼』はきりなく絡み合った『複眼』となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか 『一人称単数』の世界にようこそ」と書かれています。

 

本書には、「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「『ヤクルト・スワローズ詩集』」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」「一人称単数」の8つの短篇小説が収録されていますが、最後の「一人称単数」のみが書き下ろしで、あとは「文學界」に随時発表された作品です。

 

最初の「石のまくら」には、主人公である大学2年生の男の子がアルバイト先で一緒に働いていた20代半ばの年上の女性とふとした成り行きで一夜を共にするエピソードから始まります。その後、二度と会うことはなかったのですが、彼女は短歌をつくっており、私家版の歌集まで出していました。彼女の歌のいくつかが「石のまくら」に登場しますが、これがじつにいい感じです。たとえば、「あなたと/わたしって遠いの/でしたっけ?/木星乗り継ぎ/でよかったかしら?」「今のとき/ときが今なら/この今を/ぬきさしならぬ/今とするしか」「また二度と/逢うことはないと/おもいつつ/逢えないわけは/ないともおもい」という歌など、すっかり気に入りました。

 

万葉集(現代語訳付)

万葉集(現代語訳付)

 

 

主人公は「彼女のつくる短歌のほとんどは、男女の愛と、そして人の死に関するものだった。まるで愛と死が、互いとの分離・分断を断固として拒むものたちであることを示すかのように」と思います。愛と死の歌が多いというのは『万葉集』の相聞歌や挽歌から続いている伝統ともいえますが、亡き人を追悼する挽歌というよりも、彼女の「死」の歌は自身の死に関わるものでした。たとえば、「石のまくら」のタイトルの由来となった2つの短歌がそうです。「石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは/流される血の/音のなさ、なさ」、そして「たち切るも/たち切られるも/石のまくら/うなじつければ/ほら、塵となる」というものです。

 

 

「石のまくら」を詠った2首は斬首のイメージがありますが、彼女は、「やまかぜに/首刎ねられて/ことばなく/あじさいの根もとに/六月の水」「午後をとおし/この降りしきる/雨にまぎれ/名もなき斧が/たそがれを斬首」といった、そのものズバリの歌もあります。石の上での斬首というのは、ブログ『呪われた部分』で紹介したジョルジュ・バタイユの著書で詳しく言及されているアステカ族の供儀を連想させます。二度と会うことのなかった彼女のことを思うとき、主人公は「もう彼女は生きていないかもしれない」と考えます。「彼女はどこかの地点で自らの命を絶ってしまったのではないかという気がしてならないのだ。詠まれた歌の多くを追い求めていたからだ。それもなぜか刃物で首を刎ねられることを、それが彼女にとっての死のあり方だったのかもしれない」と考えるのでした。

 

 

彼女の詠んだ歌から「死」の匂いを感じ、「もう彼女は生きていないかもしれない」と考えることは自然であると思います。詩歌でも小説でも、自死する人間の作品にはやはりその兆候があることが多いからです。小説ならば、本書に収録された「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」に登場する芥川龍之介の『歯車』とか、三島由紀夫が自決する朝に入稿した『豊饒の海』などがその代表かもしれません。「石のまくら」は、死の香りが漂う短歌を詠んでいた女性と一夜を共にしたというだけの話なのですが、なんとも奇妙な味わいがあります。彼女が主人公に語った「人を好きになるというのはね、医療保険のきかない精神の病にかかったみたいなものなの」というセリフは、いかにも著者らしいなと思いました。

 

「クリーム」は、主人公が18歳のときに経験した奇妙な出来事を回想する話です。高校を卒業して浪人生活を送っていた彼は、かつて同じピアノ教室に通っていた女の子からピアノ演奏会の招待状を受け取ります。彼は花束を買って、バスに乗り、神戸の山の上にある会場を訪れるのですが、会場とされている場所は無人の建物でした。招待状に書かれた日時も場所も違っていません。彼は途方に暮れて、近くの公園のベンチに座ります。この約束の場所に訪れたら、相手がいなかったというパターンは、「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」でも繰り返されます。わたしにも経験がありますが、これはとても不安になります。まるで時間と空間が歪んだかのような、さらには「自分は本当にこの世に存在しているのか」と疑問を抱くような実存的不安です。多くの村上作品にも見られるこの実存的不安を描くのが著者は抜群にうまいですね。



チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、著者が大学生の時に書いた架空のレコードの批評から話が始まります。それは、1955年に34歳で死んだ伝説的ジャズミュージシャンのチャーリー・パーカーが、じつは生き延びていて、1963年に再びアルトサックスを手に取り、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」というアルバムを収録したというものでした。もちろん、こんなレコードはどこにも存在しないのですが、社会に出た後、著者がニューヨーク市内の中古レコード店でこのアルバムを見つけてしまうのです。ここから先はチャーリー・パーカーの幽霊らしき存在が現れて、著者ひとりのために幻のアルバムに収録された「コルコヴァド」を演奏してくれたりして、バリバリの幻想小説となっていきます。この作品には、「あなたにはそれが信じられるだろうか? 信じたほうがいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから」という言葉が2回登場しますが、これは良いフレーズだと思いました。都市伝説を語った後に使われる「信じるも信じないも、あなた次第です」などより、ずっといい!

 

ザ・ビートルズの実在のアルバムを題名にした「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」の冒頭は、本書の中でも特に素晴らしいです。
「歳をとって奇妙に感じるのは、自分が歳をとったということではない。かつては少年であった自分が、いつの間にか老齢といわれる年代になってしまったことではない。驚かされるのはむしろ、自分と同年代であった人々が、もうすっかり老人になってしまっている・・・・・・とりわけ、僕の周りにいた美しく溌溂とした女の子たちが、今ではおそらく孫の二、三人もいるであろう年齢になっているという事実だ。そのことを考えると、ずいぶん不思議な気がするし、ときとして悲しい気持ちにもなる。自分自身が歳をとったことについて、悲しい気持ちになるようなことはまずないのだけれど」
これは「歳をとる」ということの違和感や奇妙さを的確に文章化していると思いました。これほど「老い」を見事に表現している文章を他に知りません。



この作品の中で、主人公の男子高校生は名曲「All  My Loving」が収められた「ウィズ・ザ・ビートルズ」の英国オリジナル盤をとても大事そうに抱えて古い校舎の長く薄暗い廊下を早足で歩く1人の美しい少女とすれ違います。彼はそのとき彼女に強く心を惹かれ、以下のような経験をします。
「心臓が堅く素速く脈打ち、うまく呼吸ができなくなり、プールの底まで沈んだときのようにまわりの音がすっと遠のき、耳の奥で小さく鳴っている鈴の音だけが聞こえた。誰かが僕に急いで、重要な意味を持つ何かを知らせようとしているみたいに。でもすべては十秒か十五秒か、そんな短い時間の出来事だった。それは唐突に持ち上がり、気がついてときには既に終了していた。そしてそこにあったはずの大事なメッセージは、すべての夢の核心と同じく、迷路の中に見失われていた。人生における大事な出来事がおおかたそうであるように」



「ウィズ・ザ・ビートルズ  With the Beatles」の主人公は、LPを抱えていた美しい少女と、その後会うことはありませんでした。著者は、「彼女はまだ、一九六四年のあの薄暗い高校の廊下を、スカートの裾を翻しながら歩き続けているのだろうか? 今でも十六歳のまま、ジョンとポールとジョージとリンゴの、ハーフシャドウの写真をあしらった素敵なジャケットを、しっかり大事に抱きしめたまま」と書いています。その少女には二度と会うことのなかった彼には恋人ができました。パーシー・フェイス楽団の奏でる「夏の日の恋」を彼女の家の応接間で流しながら、彼らはキスをし、不器用に体に触れ合います。この「夏の日の恋」は、アメリカ映画「避暑地の出来事」のテーマ音楽をアレンジしたものです。著者が6年前に刊行した『女のいない男たち』に収められた短編小説「女のいない男たち」にも登場します。やはりラブシーンのBGMであり、著者の小説では性欲を高める効果がある音楽として使われることが多いようです。

 

女のいない男たち (文春文庫)

女のいない男たち (文春文庫)

 

 

「女のいない男たち」では、著者は「夏の日の恋」を「エレベーター音楽」と表現しました。「よくエレベーターの中で流れているような音楽――つまりパーシー・フェイスだとか、マントヴァ―ニだとか、レイモンド・ルフェーベルだとか、フランク・チャックスフィールドだとか、フランシス・レイだとか、101ストリングスだとか、ポール・モーリアだとか、ビリー・ヴォ―ンだとかその手の音楽だ」そうです。「流麗きわまりない弦楽器群、心地よく浮かび上がる木管楽器、ミュートをつけた金管楽器、心を優しく撫でるハープの響き。絶対に崩されることのないチャーミングなメロディー、砂糖菓子のように口当たりの良いハーモニー、ほどよくエコーをきかせた録音」とも書いていますが、エレベーター音楽は天国へと向かう死出の旅路の曲のようにも思えます。「夏の日の恋」を聴きながら愛し合った彼女もは、その後、彼とは別れ、勤め先の同僚男性と結婚して2人の子どもを得ましたが、謎の自死を遂げたのでした。


  

「ヤクルト・スワローズ詩集」は、1982年に著者が自費出版で500部刷った幻の「ヤクルトスワローズ詩集」を題材に、自身の人生観を重ねながらスワローズ愛を告白する短編です。なぜ、著者がスワローズの前身であるサンケイ・アトムズを応援するようになったかというと、熱烈な阪神ファンだった父親への反発もあったのでしょうが、もっと重要な理由がありました。著者は「一九七八年の初優勝の年、僕は千駄ヶ谷に住んでいて、十分も歩けば神宮球場に行けた。だから暇さえあれば試合を見に行った。その年、ヤクルト・諏訪ロースは(その頃にはもうヤクルト・スワローズというチーム名に変わっていたわけだけど)球団創設二十九年目にして初めてリーグ優勝を遂げ、余勢を駆って日本シリーズまで制覇してしまった。まさに奇跡的な年だった」と書いています。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

続けて、著者は「そしてその年、僕はやはり二十九歳にして初めて小説らしきものを書き上げた。『風の歌を聴け』という作品で、それは『群像』の新人賞をとり、僕はそのときからとりあえず小説家と呼ばれるようになった。もちろんただの偶然の一致に過ぎないけれど、それでも僕としては、そういうところにささやかな縁のようなものを感じないわけにはいかなかった」と書いています。これは、ブログ『シンクロニシティ』で紹介した本の中に詳しく書かれている「奇妙な偶然の一致」そのものです。シンクロニシティを、心理学者カール・ユングは「宇宙からのミッション」ととらえ、作家コリン・ウィルソンは「物事が順調に行っているサイン」ととらえましたが、わたしは「縁の証」であると考えています。そう、著者とヤクルト・スワローズには「縁」があったのでしょう。たぶん。


「謝肉祭(Carnaval)」は、著者とおぼしき主人公がクラシックのコンサートで知り合いになった醜い人妻と、シューマンの「謝肉祭」をひたすら聴くという話です。彼らは多くのコンサートを一緒に訪れ、膨大な数のCDを聴きます。それについて意見を交換し、それを記録しました。42枚ものディスクを聴いた時点で、彼女のベストワンはアルトゥーロ・ベネディティッティ・ミケランジェロの演奏(エンジェル盤)で、主人公のベストワンはアルトゥ―ル・ルビンシュタインの演奏(RCA盤)でした。その後、その不美人の人妻はあることでTVニュースに登場するのですが、一緒に映った彼女の夫が尋常でないほどの美形であったことに主人公は驚くのでした。

 

最後に登場する、主人公が醜いとまではいえないまでも容姿がぱっとしない女の子とデートし、内面に惹かれるものがあったので、もう一度会おうとしたのですが、どうしても会えなかったエピソードがリアルで切なかったです。この2人の女性との出会いと別れを、著者は最後にこうまとめます。
「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠い長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。森の木の葉を巻き上げ、薄の野原を一様にひれ伏せさせ、家々の扉を激しく叩いてまわる、秋の終わりの夜の風のように」

 

品川猿の告白」は、群馬県の温泉宿で働く人間の言葉をしゃべる猿が登場する完全なファンタジー作品です。主人公は、温泉に入った後、部屋で猿とビールを飲みます。そこで猿は身の上話を始めるのですが、「猿の雌では心がときめかない。人間の女性にしか恋ができない」と告白し、さらには「恋した女性の名前を盗む」という仰天発言が飛び出します。名前を盗む方法は、その女性のIDとなるもの、たとえば免許証に書かれた名前をじっと凝視し、脳にインプットするというのです。名前を盗まれた女性は、自分の名前を思い出せなくなるのですが、これは非常に新鮮というか、初めて接する恋愛の在り方であると思いました。まあ、羊男の猿バージョンという印象もありますが、物語のオチも含めて、著者の書いた短篇小説の中でも最も幻想的な作品だと思いました。

 

最後の「一人称単数」も、これまた奇妙な話です。これまた著者とおぼしき主人公の作家が、ポール・スミスのダーク・ブルーのスーツを着て、エルメネジルド・ゼニアのペイズリー柄のネクタイを締め、満月の夜に散歩に出かけ、ビルの地下にあるバーに入ります。バーのカウンターに座った主人公は、ウオッカギムレットを注文し、読みかけのミステリー小説を広げて、1人で飲んでいました。すると、見ず知らずの女がやってきて「洒落たかっこうをして、1人でバーのカウンターに座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていることが愉しいか?」と因縁をつけます。主人公は困惑しますが、しばらく会話をした最後に、女は自分は主人公の友人の友人であると告白します。

 

そして、彼女は「あなたのその親しいお友だちは、というかかつて親しかったお友だちは、今ではあなたのことをとても不愉快に思っているし、私も彼女と同じくらいあなたのことを不愉快に思っている。思い当たることはあるはずよ。よくよく考えてごらんなさい。3年前に、どこかの水辺であったことを。そこでご自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい」と言い放つのでした。主人公はもう限界と悟り、読み終えるまであと数ページを残した本を手に取り、手早く現金で勘定を払って店を出ました。彼女の言ったことは、彼には身に覚えのないことでした。彼女は「思い当たることはあるはずよ」と言いましたが、本当に思い当たることがなかったのです。こんな恐ろしいことがあるでしょうか。これもまた、一種の実存的不安を呼び起こす恐怖です。

 

こんな感じで本書に収められた8つの短編小説はいずれも奇妙な味わいを持った幻想小説であり、人間の内面を覗き込むような感覚にとらわれました。そして、最後の「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」「一人称単数」の3編は、ブログ『MISSING 失われているもの』で紹介した村上龍氏の小説を連想させました。もともと、わたしは『MISSING 失われているもの』を読んだとき、著者名を知らされずに「これは村上春樹の新作ですよ」と言われても信じてしまうほど、村上春樹っぽい作品だと思いました。よく「春樹は内を向き、龍は外を向く」などと言われますが、この作品は徹底的に人間の内面に向かっていたからです。そして、今回の村上春樹氏の『一人称単数』は『MISSING 失われているもの』に似ています。

 

MISSING 失われているもの

MISSING 失われているもの

  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2020/03/18
  • メディア: 単行本
 

 

「謝肉祭(Carnaval)」で見つからなくなってしまう女の子の連絡先も、品川猿が盗む女性の名前も「失われているもの」であり、さらには品川猿は『MISSING 失われているもの』に登場する人語を話す猫にも通じます。そして、「一人称単数」では、主人公の記憶や人生までも「失われているもの」になりつつある・・・・・・ヒッピー文化の影響を強く受けた作家として、村上春樹氏と著者は共に時代を代表する作家と目され、「W村上」などと呼ばれてきましたが、ここにきて2人の作風が似てきたことには何か深い意味があるのでしょうか?

 

一人称単数 (文春e-book)

一人称単数 (文春e-book)

 

 

2020年8月23日 一条真也

「糸」

一条真也です。毎日、酷暑が続きますね。
21日に公開されたばかりの日本映画「糸」を観ました。4月に公開予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、この日にようやく封切りを迎えた作品です。いやあ、ものすごく良かったです! 
正直、わたしは4回泣きました。結婚式のシーンも、葬儀のシーンも両方あるのですが、どちらも感動的で、素晴らしい冠婚葬祭映画でした。コロナ禍であまり映画を観ることができない状況が続きますが、この映画は今年の「一条賞」の最有力候補です!



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
中島みゆきの楽曲『糸』を基に描くラブストーリー。『アルキメデスの大戦』などの菅田将暉と『さよならくちびる』などの小松菜奈が主演し、日本やシンガポールを舞台に、平成元年生まれの男女の18年を映し出す。『ヘヴンズ ストーリー』などの瀬々敬久が監督を務める。『スマホを落としただけなのに』などの平野隆が原案と企画プロデュース、『永遠の0』などの林民夫が脚本を担当した」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「北海道で暮らす13歳の高橋漣(菅田将暉)と園田葵(小松菜奈)は、互いに初めての恋に落ちるが、ある日突然葵の行方がわからなくなる。彼女が養父の虐待から逃れるために町を出たことを知った漣は、夢中で葵を捜し出し駆け落ちしようとする。だがすぐに警察に保護され、葵は母親と一緒に北海道から出て行ってしまう。それから8年、漣は地元のチーズ工房に勤務していた」



ともに旬の俳優である菅田将暉小松菜奈のW共演で、主題歌が中島みゆきの「糸」とくれば、これはもうヒット間違いなしでしょう。しかも、脇を固める俳優陣の顔ぶれも豪華でした。観る前から、ある程度どんな映画かは想像がつきます。よもや泣くことはあるまいと高を括っていましたが、想定外に感動の津波が何度も襲ってきて、わたしの涙腺は崩壊してしまいました。最初の涙は、榮倉奈々が演じる香の葬儀のシーンです。香は漣が働くチーズ工場の先輩で、2人は職場結婚するのですが、香は子宮がんに冒され、若くして亡くなります。役作りのために、榮倉奈々は1ヵ月で7キロも減量したそうです。香には、自らの生命の危険を冒してまで生んだ娘がいました。香は娘に「泣いている人や、悲しんでいる人が抱きしめてあげるんだよ」という教えを残して旅立って行ったのですが、香の葬儀で棺にすがって亡き崩れている香の父の姿を見た幼い娘は、とことこと祖父のところまで行って、その背中を抱きしめてあげるのでした。このシーンで、わたしは最初にハンカチを濡らしました。ちなみに香の両親は、永島敏行と田中美佐子が演じています。あの名作映画「サード」と「ダイアモンドは傷つかない」に、それぞれ主演した2人が老夫婦を演じるなんて!

f:id:shins2m:20200821214245j:plain葵を演じた小松奈々(映画公式サイトより) 

 

2回目と3回目の涙は、ともに小松奈々演じる葵が食事をするシーンです。シンガポールに行ってネイルサロンの会社を立ち上げた葵は成功を収めますが、共同経営者だった親友の高木玲子(山本美月)に裏切られ、一文なしになります。ボロボロになってシンガポールの夜の街をさまよう葵は、ある日本料理店でカツ丼を注文し、それをモリモリ食べ始め明日。食べているうちに涙が出てくるのですが、葵は「大丈夫、大丈夫」とつぶやきながら、カツ丼を食べ続けるのでした。このシーンを見て、わたしは2回目の涙を流しました。3回目は、彼女が北海道の美瑛にある子ども食堂で食事をするシーンです。同居する母親の恋人から虐待を受けていた葵は、いつもこの子ども食堂で食事をさせてもらっていたのです。食堂を営む村田節子(賠償美津子)に久々に再会し、節子の作ってくれた食事を食べながら、「ここの御飯が一番美味しい」「わたしにも帰る場所があったんだ」と言って泣きながら食べる葵。このシーンで、わたしの涙腺は3回目の崩壊を起こします。それにしても、小松奈々は泣きながら飯を食う演技が抜群にうまい! かつて「ジョゼと虎と魚たち」や「涙そうそう」で妻夫木聡が素晴らしい「泣き」の名人芸を見せてくれましたが、「糸」の小松奈々も「泣き名人」の仲間入りです!

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漣を演じた菅田将暉(公式サイトより) 

 

子ども食堂で泣いている葵の背中を、たまたまそこに居合わせた、今は亡き香の娘が見つけます。彼女は、葵の背中をぎゅっと抱きしめてあげます。「泣いている人がいたら、抱きしめてあげなさいって、お母さんが言ったの」という娘に、葵は「いいお母さんね」と言うのですが、その後、葵は娘を迎えに来た父親が漣であることを知るのでした。漣を演じた菅田将暉も良い俳優になりましたね。ブログ「アルキメデスの大戦」で紹介した映画でも感じましたが、そこに居るだけで、何とも言えない色気を放つ役者です。この映画、斎藤巧とか高杉真宙とか片寄亮太とか、やたらに色っぽい男優がたくさん出ているのですが、誰も菅田将暉の色気には敵いません。いま、菅田将暉と小松奈々は実際に交際中とのことですが、この2人ならお似合いだと思います。

 

菅田将暉と小松奈々のW主演作といえば、「溺れるナイフ」(2016年)がありますが、個性的な美を感じさせる2人は、これからも日本映画界を牽引してくれると思います。ちなみに、4回目にわたしが泣いたのはエンドロールでの結婚式のシーンでした。やはり、結婚式は最高のハッピーエンドなのです。
この映画にはもう1つ結婚式が登場します。漣と葵の中学の同級生同士が結婚し、東京のゲストハウスウエディング会場で披露宴を挙げるのですが、そこで2人は8年ぶりに再会し、いったん止まっていた物語が再び動き始めるのです。結婚式だけでなく葬儀もそうですが、冠婚葬祭というのは思わぬ人に再会して縁を繋ぎ直す、つまり「出会い直し」の場でもあるのです。

f:id:shins2m:20200821214303j:plain節子を演じた倍賞美津子(映画公式サイトより)
 

あと、子ども食堂を営む老婆役の賠償美津子が良かったです。彼女は1946年生まれで御年73歳ですが、じつにいい感じの「お節介ばあさん」を演じていました。かつては、‟燃える闘魂アントニオ猪木の妻として、創立間もない新日本プロレスを支え、新宿伊勢丹前で猪木と一緒に買い物をしているときに ‟狂えるインドの虎”タイガー・ジェット・シンに襲撃され、負傷した猪木を気丈に介抱した倍賞美津子新日本プロレスパキスタン遠征に帯同したとき、試合で猪木がアクラム・ペールワンに勝利し、相手の肩を折ったことで暴動が起きかねなかった状況下で、猪木のマネージャーだった‟過激な仕掛人新間寿に「新間さん、私はいいからアントンを頼むわ」と冷静な対応をした倍賞美津子ブログ「前田日明のトークがいい!」で紹介した ‟新格闘王”が新弟子時代に猪木の自宅を初めて訪問したとき、ノーブラで応対し、前田に「目のやり場に困った」と言わしめた倍賞美津子


そんな数々の伝説を持つ、あの倍賞美津子サンが73歳になったとは信じられない思いです。倍賞サンと猪木は1971年に結婚しましたが、当時、「1億円の結婚式」で話題になりました。1988年に離婚。原因は猪木の不倫騒動でしたが、倍賞サン自身もその後萩原健一との熱愛が囁かれたことがあります。それでも、猪木と離婚後は独身を貫かれています。夫人に先立たれた猪木が最近めっきり弱っているそうですが、2人がまた仲良くなってくれれば、ずっと2人のファンだった自分として嬉しいですけどね。一度切れた「糸」がまた繋がるというのは、この映画のテーマそのものではないですか。

 

この映画のもとになった中島みゆきの名曲「糸」には、「縦の糸はあなた、横の糸はわたし」という歌詞が登場します。結ばれる男女を縦横の糸に例えているわけですが、わたしはよく縦の糸を「先祖」、横の糸を「隣人」に例えます。現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。そして、凧が安定して空に浮かぶためには糸が必要です。さらに安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要です。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」であり、「血縁」です。映画「糸」では、沖縄の人々が先祖の墓の前で宴会を行い、カチャーシーを舞うシーンがありました。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」であり、「地縁」です。映画に登場する北海道の子ども食堂はまさに隣人愛の場所でした。


ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書

隣人の時代』 

 

この2つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての真の「幸福」の正体ではないかと思います。冠婚葬祭業とは、まさに先祖と隣人を大切にし、血縁と地縁を強化するお手伝いをする仕事です。人間が心安らかに生きていくための縦糸と横糸を張る仕事であり、それは人間の「幸福」そのものに直結しているのです。なお、わたしは、縦糸の張り方については『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)で、横糸の張り方については『隣人の時代』(三五館)で詳しく書きました。

f:id:shins2m:20111031164048j:plainこの世には縁がある! 

 

中島みゆきさんの解釈にせよ、わたしの解釈にせよ、「糸」というのは「縁」のメタファーであることは同じです。この世には「縁」というものがあります。すべての物事や現象は、みなそれぞれ孤立したり、単独であるものは1つもありません。他と無関係では何も存在できないのです。すべてはバラバラであるのではなく、緻密な関わり合いをしています。この緻密な関わり合いを「縁」と言うのです。冠婚葬祭業というのは、結婚式にしろ、葬儀にしろ、人の縁がなければ成り立たない仕事です。わたしの口癖ですが、この仕事にもしインフラというものがあるとしたら、それは人の縁にほかなりません。「縁」の不思議さ、大切さを誰よりも説いたのが、かのブッダです。



ブッダは生涯にわたって「苦」について考えました。そして行き着いたのが、「縁起の法」です。縁起とは「すべてのものは依存しあっている。しかもその関係はうつろいゆく」というものです。 モノでも現象でも、単独で存在しているものはないと、ブッダは位置づけました。わたしたちはすべて関わり合っています。つまり、「縁」によって結ばれているのです。そもそも、社会とは縁ある者どものネットワークであり、すなわち「有縁」です。「無縁社会」という言葉がありますが、これまでにも何度も言ってきたように、これは言葉としておかしいのです。なぜなら、社会とは最初から「有縁」だからです。最初から「無縁社会」など、ありえないのです。



さて、この「糸」という映画は平成の物語です。主人公の漣も葵も平成元年に生まれ、平成が終わる年に2人の人生は大きな転機を迎えます。リーマンショック東日本大震災など、平成の大事件も次から次に登場します。わたしは平成元年に結婚し、平成5年に長女が生まれ、平成11年に次女が生まれました。そして、平成13年に社長に就任しました。わたしにとっても思い出深い平成ですが、映画に出てくる大学の入学式、サークルによる新入生の勧誘、飲み会、カラオケ、結婚式・・・・・・この映画に登場するさまざまなシーンが、コロナ禍の今、すべてが「過去のもの」となっていることに愕然としました。


平成の日常の光景が、令和2年の現在、あり得ない光景と化しているのです。思えば、令和に改元してから何も良いことがありません。奈良時代平安時代には疫病が流行するたびに改元したので、コロナ禍の今、もう一度改元すべしという声もあります。天皇陛下はそのまま在位されて、元号だけ「令和」から改めるというのです。まあ、新型コロナウイルスの感染拡大は日本だけでなく世界的な問題なので、改元すれば良しとはならないでしょうが・・・・・・。



いろんな思いが胸によぎりますが、糸が「縁」のメタファーならば、最大の「縁」とは結婚にほかなりません。わたしはいつも、「結婚というのは、なんという驚異か」と思います。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「哲学は驚きから始まる」という言葉を残していますが、結婚ほど驚くべき出来事はないのではないでしょうか。「浜の真砂」という言葉がありますが、数万、数十万、数百万人を超える結婚可能な異性の中からたった1人と結ばれるとは、何たる驚異か! わたしには2人の娘がいます。名曲「糸」は、「逢うべき糸に出逢えることを人は仕合わせと呼びます」という歌詞で結ばれますが、2人の娘たちにも「逢うべき糸に出逢えること」ができて、「仕合わせ」になってほしいと心から思います。

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函館にて、平成元年に結婚した妻と

 

最後に、映画「糸」の感動のラストシーンの舞台は函館でした。平成元年に結婚したわたしたち夫婦は、ちょうど結婚30年目の年に函館を訪れました。ラストシーンを見ながら、そのことを思い出しました。その函館は、冠婚葬祭互助会業界の総会で訪れたのですが、現在、日本中の同業者のみなさんが新型コロナで将来に不安を感じておられると思います。しかし、冠婚葬祭が変わることがあっても、冠婚葬祭がなくなることは絶対にありません。この素晴らしい冠婚葬祭映画を観終わって、そのことを強く感じました。
冠婚葬祭に関わるすべての方々に、そして、幸せになりたいと願っているすべての日本人に、ぜひ、映画「糸」を観ていただきたいです。

 

2020年8月22日 一条真也拝 

前田日明のトークがいい!

一条真也です。
最近、当ブログの記事の中で、プロレス関連記事のアクセスが多くなっています。コロナ禍で人に会う機会も減っていますが、たまに人に会うと、「プロレスや格闘技のブログ、いつも読んでます。楽しみにしています!」などと言われることも多くなりました。プロレスといっても、最近の人気レスラーのことは知らず、もっぱら昭和のプロレスをこよなく愛するわたしです。昭和のプロレスは、スルメみたいに噛めば噛むほど味があります。いま一番わたしが気に入っているのが、YouTubeでの前田日明の対談動画です。

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前田日明



前田日明といえば、アントニオ猪木の後継者的存在として「新格闘王」と呼ばれ、新日本プロレス、第1次UWF、第2次UWF、RINGSを舞台に圧倒的な存在感を示し続け、不良たちを集めたケンカ大会としてのアウトサイダーを成功させた人物です。若い頃から読書家だったという彼は含蓄のある言葉を使う人で、わたしは彼のファイトスタイルとともに言葉のファンでした。かのターザン山本は、「プロレスラーは肉体だけでなく、言葉でも戦うのだ」と述べ、その代表例として長州力前田日明の2人を挙げています。その長州と前田が対談したことがあります。2007年のことでしたが、先輩の長州が「アキラはギスギスしてた」とか「アキラは別の匂いを放っていた」とか一方的に喋るばかりで、後輩の前田はほとんど口を開くことができませんでした。なんと、キラー長州によって、前田のトーク力が完全に封殺されてしまったのです!





それから13年もの時間が経過し、前田はYouTuberになりました。自身のチャンネルでいろんなプロレスラーや格闘家と対談しましたが、今年の5月に「炎の飛龍」こと藤波辰爾との対談が実現。新日本プロレスの先輩・後輩である藤波と前田ですが、1986年6月12日、新日本プロレス大阪城ホールで激突した一戦は今も語り草になっています。前田は藤波をコーナーに追い詰め、ここで放った大車輪キックで藤波は大流血します。さらに、前田は掟破りの逆ドラゴンスープレックスで藤波を攻めます。最後は、前田のニールキックに藤波がレッグラリアートで切り返しを狙ったところ、相打ちダブルノックダウンで決着。藤波との凄絶な死闘を終えた前田は、「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた」と口にしました。思い出すだけで今でも胸が熱くなる名勝負を繰り広げた2人ですが、2020年になって実現した対談では、前田が藤波をプロフェッショナルとしてリスペクトしていることがよくわかりました。最後に、前田が長州のことをちょっとディスったのもクスッと笑えました。





長州や藤波は前田の先輩に当たりますが、前田は後輩相手だとじつに素晴らしいトークを展開します。2000年に実現した武藤敬司や最近の蝶野正洋との対談もいいのですが、なんといっても今年7月に実現した船木誠勝との対談が最高! 前田と船木は新日本プロレスの先輩・後輩の関係ですが、第2次UWFで合流し、社会現象とまで呼ばれた爆発的ブームを起こしました。第2次UWF解散後は、前田がリングス、船木がパンクラスを旗揚げしますが、残念なことに両団体は犬猿の仲になってしまいます。ついには絶縁宣言まで出て、2人のファンとしても凄く辛い時期でした。二人が和解して、こうしてトークしている姿を見るだけで幸せな気分になります。レジェンド同士の対談というより、船木の質問がプロレスオタクのインタビューみたいにマニアックすぎて、前田の困る顔が微笑ましいですね。船木が大の前田ファンだということがわかりました。また、前田が「猪木が考える理想のプロレスを具現化したのがUWFなんだよな」と言う場面には、猪木へのリスペクトの強さが感じられました。船木が語る「スーパーUWF構想」には大興奮!そして、最後に船木が「これまで、色々とありがとうございました」と前田に感謝の言葉を述べるシーンには、グッときました。それを受けた前田は黙って頷いていましたが、胸にこみ上げるものがあったはずです。





現在、「格闘技界のカリスマ」として絶大な人気を誇っているのがRIZINのフェザー級王者である朝倉未来です。彼はアウトサイダーの出身であることは有名ですが、そのアウトサイダーを創設したのが前田です。つまり、未来は前田の弟子なのです。最初は単なるヤンチャな腕自慢だった未来が総合格闘技とYouTubeの2つのジャンルで才能を開花させたわけですが、そんな彼を前田は優しい視線で見つめます。また、久々に会った弟子と対談できることが嬉しくて仕方がないといった感じで、見ているこちらにまでその嬉しさ、喜びが伝わってきます。「水抜きは腎臓を悪くするぞ」とか「これからの総合は投げ技が危険になる」などのアドバイスも的確です。ただ、対談のタイトルが前田チャンネルでは「愛弟子・朝倉未来との対談が遂に実現!」となっているのに、未来のチャンネルでは「前田日明と対談してみた」となっているのは良くないですね。ここは、「前田日明」ではなくて「前田日明さん」でしょう! こんな「礼」の基本もわからないのでは、彼の未来も先が見えているように思います。YouTubeに熱を入れるのも結構ですが、プロが素人の喧嘩自慢を挑発してスパーリングでボコボコにしたり、あの逮捕された迷惑系YouTuberの「へずまりゅう」とまで絡んでいるのには失望しました。彼はもう一度、人としての基本をアキラ兄さんに教えてもらうべきです!





最後に紹介する対談は、「永島オヤジ」こと永島勝司です。元新日本プロレスリング株式会社取締役企画宣伝部長。1943年生まれ。島根県出身。専修大学卒業後、東京スポーツ新聞社に入社。同社勤務時代には、上司との衝突により、整理部長から平社員へという「8階級降格」の経験を持つ。プロレス担当記者時代にアントニオ猪木と出会い、1988年に新日本プロレスリングに入社。渉外・企画チーフプロデューサーとして、旧ソ連北朝鮮でのプロレス興行や、「UWFインターナショナル全面戦争」などといった数々のヒット企画を生み出し、長州力をエースとする団体「WJ」を旗揚げした経験も持ちます。WJの崩壊によって莫大な借金を背負っているとされており、今年になってYouTuberになりました。わたしも初めて知ったのですが、新日時代は前田と特に親しかったそうです。さて、8月に実現したばかりの両者の対談では、高齢ゆえに記憶違いや事実誤認も多い永島オヤジを前田がそっとフォローする姿が印象的です。前田の本性が優しい人間であることがよくわかります。そして、新日本プロレス入門からUWFでの活躍、長州蹴撃事件、リングス旗揚げ、アウトサイダー開催まで、前田が自身の半生を時系列で語っているのが貴重な証言となっています。一時、猪木の差し金で新日本のプロレスラーたちが総合格闘技に挑戦して惨敗し続けましたが、それに対して「負けて当然」と語る前田のコメントも味わい深いです。



これからも、前田にはいろんなプロレスラーや格闘家と対談してほしいものです。特にリクエストしたいのは、アントニオ猪木と髙田延彦の2人です。UWF戦士として新日参戦自の前田は執拗に猪木に対戦を迫っていました。結局、両者の対戦は実現せず、多くのファンは「前田を怖れて、猪木が逃げた」と思ったものです。しかし、船木や永島オヤジとの対談で、前田が「あのとき、猪木さんと闘わなくて良かった。猪木さんもただ者じゃないから」と語ったのには驚きました。そして、さらに前田を見直しました。近い将来、YouTuber同士のコラボとして猪木との対談は実現するかもしれませんが、因縁の深い髙田の場合は難しいかもしれません。でも、あれだけ因縁のあった長州とも和解した前田ですから、なんとか髙田とも和解してほしいものです。もしかしたら、船木が間に入って、「スーパーUWF」をテーマに3人で鼎談するといいかもしれませんね。あるいは、髙田はRIZINの大幹部なので、同団体のエースである朝倉未来が間に入るとか。いずれにしろ、夢が膨らみます!



ところで、前田は一部では「滑舌が悪い」などと言われ、藤波や船木との対談では字幕を入れられたりしていますが、わたしは特に滑舌が悪いとは思えません。前田の言葉はすべて聞き取れますし、少々聞こえにくいときでも、言いたいことはわかります。プロレス界の「滑舌三銃士」(?)である長州・藤波・天龍の3人に比べれば(もっとも、前田を加えて「滑舌四天王」などと言う人もいるようですが)、大したことはありません。発音だけでなく、前田の言葉にはじつに含蓄があります。やはり、『論語』や小林秀雄の著作などをはじめ、たくさん本を読んでいて教養があるのだと思います。相手を思いやることができるのもトーク名人には不可欠ですが、前田は合格です。最後に、現在の前田は140キロぐらいあるような体格をしていますが、健康のためにも少し体重を落としたほうがいいですね。長生きして、これからも楽しい対談動画をたくさん見せていただきたいです!



 



2020年8月21日 一条真也