『脳に棲む魔物』  

脳に棲む魔物

 

一条真也です。
東京に来ています。17日は全互協の正副会長会議と理事会に出席してから、北九州に戻ります。『脳に棲む魔物』スザンナ・キャラハン著、澁谷正子訳(KADOKAWA)を紹介します。原因不明の病と闘った1人の女性と生きる希望をつないだ家族の感動の実話で、NYタイムズ第1位の衝撃の医療ノンフィクションです。これまで多くのエクソシズム(悪魔祓い)に関する本を紹介してきましたが、最後に本書を紹介したいと思います。というのも、これまでの本は「悪魔憑き」の正体を「解離性同一性障害」に求める説を可能性として提示していましたが、本書では「抗NMDA受容体脳炎」の可能性を訴えているのです。つまり、悪魔憑きは「心の病」ではなく、「脳の病」であるというわけです。

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本書の帯

 

著者は、アメリカの女性ジャーナリスト。ニューヨーク・ポスト紙記者。高校3年でニューヨーク・ポスト紙のインターンシップで働き、ワシントン大学卒業後、同紙に入社、雑用係を経て、報道記者に。スキャンダルから犯罪まで幅広い分野をカバーして記事を書きました。ところが、2009年、24歳のときに原因不明の神経疾患にかかります。復帰後その闘病記「記憶から抜けおちた謎と錯乱の1カ月」を書いて話題となり、シルリアン優秀賞を受賞しました。現在は、ニュージャージーに在住、ポスト紙で主に書籍関連の記事を担当しています。本書は、「彼女が目覚めるその日まで」のタイトルで映画化され、クロエ・グレース・モレッツが著者の役を演じました。

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本書の帯の裏 

 

帯の裏には、「ある日スザンナが目覚めると病室に1人ぼっちで、ベッドに拘束され、動くこともしゃべることもできなかった。しかもそこにいるわけさえ記憶にない。数日前までは、大手新聞社の新進気鋭の記者として活躍していた24歳の女性が、いまは、精神を病み、凶暴で、脱走の危険のある患者というレッテルを貼られていた。いったい、何が起きたのか?」「『抗NMDA受容体脳炎』と闘った女性と支えた家族。全米ベストセラー感動の手記」と書かれています。 

 

さらに、カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「マンハッタンでひとり暮らしをする24歳の新聞記者スザンナが心身に変調を来したのは、ある朝突然のことだった。最初は虫に噛まれたものと高をくくっていたところ、徐々に左腕がしびれ、それが左半身にひろがっていった。同時に、仕事への意欲を失い、部屋の片付けさえできなくなる。幻視や幻聴を体験したすえ、口から泡を吹き、全身を痙攣させる激しい発作を起こすまでになる。医師の見立ては精神障害ないしは神経疾患。処方薬はまったく効果がなく、検査でも原因を突き止められない。症状は悪化の一途をたどり、医師たちが匙を投げかけたとき、チームに加わった新顔の医師が精神疾患の疑いを否定し、最新の医療研究が明らかにした病因を提示して…人格を奪われ、正気と狂気の境界線を行き来した日々を、患者本人が聞き取り調査や医療記録、家族の日誌などから生き生きと再現して全米に衝撃を与えた医療ノンフィクション」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「著者まえがき」
序章
PART1 クレイジー
PART2 時計
PART3 失われた時を求めて
「謝辞」
「訳者あとがき」

 

本書の扉には「診断のつかない人たちに捧げる」と書かれ、「著者まえがき」では、「忘却の実在は証明されていない。私たちにわかっているのはこれだけだ。あることを思いだしたいとき、それが頭に浮かぶことはない」という哲学者フリードリッヒ・ニーチェの言葉を紹介し、著者は「病気の性質、さらに病気が脳に及ぼした影響により、このストーリーのもととなる数カ月間に実際に起きた出来事でわたしが覚えているのは、ほんの断片的なこと――そして束の間だが鮮烈な幻覚――しかない。闘病中のほとんどが空白、もしくはおぼろげで当てにならないままだ」と述べます。

 

続けて、著者は「当時の記憶を蘇らせるのは物理的に不可能だ。だからこの本を書くことは、失くしたものを把握する行為でもあった。ジャーナリストとして鍛えてきたスキルを発揮し、手に入る証拠を活用した。ドクターやナースたち、友人や家族らに何百回となく話を聞き、何千ページにも及ぶ医療記録に目を通した。さらに父が離婚した母と意志の疎通をはかるために当時書いていた日誌、入院中に病院のカメラで撮影されたビデオの抜粋。また覚えていること、調べたこと、感じたことについての際限のないメモ。こうしたものの力を借り、この曖昧な過去を再現した。一部の名称と、それとわかるような特徴は変えてあるが、そのことをのぞけば本書はルポルタージュ回顧録を組み合わせた完全なノンフィクションである」と述べています。

 

本書の白眉は、なんといっても、PART3「失われた時を求めて」の47「エクソシスト」です。著者が患った「抗NMDA受容体脳炎」の症状は、限りなく「悪魔憑き」に近いものでした。著者は、「現在の研究では、この病気と診断された患者のうち子どもは約40パーセント(この割合は増えている)で、大人とは違う症状を示す。癇癪発作、無言症、性行動過剰、暴力などだ。ある母親によると、娘が幼いきょうだいを窒息させようとしたという。また別の親は、いつもは愛らしい娘が低くうなるような声を発したと報告した。さらに、幼児の語彙では伝えられない内側の混乱を伝えるために、自分の目をひっかいたという女児の例もある。子どもの患者は自閉症と誤診される場合が多いが、患者の生きている場所と時代によっては超自然、悪魔じみているとさえ言われるかもしれない」と述べています。

 

続けて、著者は悪魔について述べます。
「悪魔。専門家でない者の目には、抗NMDA受容体自己免疫性脳炎の症状も、確かに敵意があるように映るかもしれない。病気の息子や娘が突如として狂気に駆られ、凶暴になってしまう。身の毛のよだつような悪夢から抜けでた未知の生き物のように。想像してみてほしい。若い娘が全身を痙攣させながらベッドから空中に浮かんだ数日後――そして妙な男の声で話したあと――体を弓なりにして階段をカニ歩きしたり、蛇のようにシューシュー声を立てたり、血を噴きだしたりするところを。この血も凍るようなシーンはもちろん、大ヒット映画『エクソシスト』のディレクターズカット版の中のもので、脚色されているものの、抗NMDA受容体自己免疫性脳炎に罹った子どもたちは似たような行動を取ることが多い。決して誇張して言っているわけではない(たとえばスティーヴンは『エクソシスト』をもう見ることができないでいる。わたしが病院で体験した奇妙な〝パニック発作″や、ソファベッドでテレビを見ているときに起きた最初のてんかん発作を思い出すからだ)」

 

また、著者は「多くの親が、自分の子が不明瞭な外国語あるいは異常な訛りで話しだしたと報告している。フィクションである『エクソシスト』の中で、リーガンが悪魔祓いに来た神父に流暢なラテン語で話しだしたときのように。同様に、このタイプの脳炎に罹った者は反響語として知られる症状を示し、他人の言ったことを繰りかえし言う特徴がある。そのことで、急に〝わけのわからないことを言える″ようになった説明がつくだろう。もっとも実際にこの病気に罹った者は、概して、理屈に合わないことをぶつぶつと言うものだが」と述べています。



そして、著者は以下のように述べるのでした。
「これまでの歴史で、〝悪魔祓い″をされ、回復しないまま死なせられた子どもたちはどれくらいいるのだろう?最近では何人の人が精神病棟や養護施設に入れられているのだろう――比較的簡単な治療法であるステロイド血漿交換、IVIg治療を拒んで? そして最悪な場合は、もっと激しい免疫治療や化学療法を拒んで?ナジャー医師の見積もりによると、2009年にわたしが治療を受けていた時期に、同じ病気に罹っていた人の90パーセントが診断未確定だったという。この病気が知られるようになるにつれ、その数字もおそらく減っているだろうが、それでも治療可能ななんらかの病気を患っていながら、適切な処置を受けていない人々がいるのだ。わたしは自分がそうした瀬戸際の一歩手前まで行ったことを、忘れることはできない」

 

1976年、ドイツのアンネリーゼ・ミシェルという少女が、悪魔祓いの末、命を落とし、両親と2人の神父が懲役6ヵ月の有罪判決を受けました。彼女は、しばしばてんかんに似た症状を呈し、大学生になると「壁に悪魔の顔が見える」などと訴えました。さらには、虫を食べ、獣のような声で喚き散らし、十字架や聖画を粉々にするといった行為も目立ちました。5年間、アンネリーゼは精神科医から処方された薬を飲み続けましたが、これも効きませんでした。本人も自分には「ルシファー、ベリアル、ユダ、暴君ネロ、ヒットラー」などが憑依していると信じていたといいます。

 

1975年秋、ようやく両親の願いが教会に聞き入れられ、神父によるエクソシズムが週に3度、約10ヵ月続けられました。しかし、その甲斐もなく、彼女は23歳の若さで死亡。肺炎も煩い、すっかり人相も変わった彼女の死亡時の体重はわずか31キロでした。この事件以後、ドイツでは、エクソシズムは一切、行われなくなり、「エミリー・ローズ」(2005年)というアメリカ映画にもなりました。もし、アンネリーゼ・ミシェルの病気が抗NMDA受容体自己免疫性脳炎だったとしたら? そして、彼女以外の〝悪魔祓い″をされ、回復しないまま死なせられた子どもたちも同じ病気だったとしたら? これは、あくまでも1つの仮説であり確証はありませんが、ゾッとする話です。スザンナ・キャラハンには、これからも「悪魔憑きの正体」について追及してほしいものです。

 

脳に棲む魔物

脳に棲む魔物

 

 

2020年6月17日 一条真也

2カ月ぶりに東京へ!

一条真也です。
16日、わたしは北九州空港に向かい、スターフライヤーで東京に飛びました。17日の朝から開催される全互協の正副会長会議、午後からの理事会に参加するためです。東京は昨日も48人の感染者が判明したそうで、まだちょっと怖いですね。なにしろ、わが北九州市は第2波も終わって、昨日は1人しか感染者がいませんでしたから!(苦笑)

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北九州空港の前で

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北九州空港のようす


ビフォアー・コロナの頃は毎週のように東京に行っていましたが、今回は、ブログ「緊急事態宣言下の東京へ」で紹介した4月14日以来の東京出張です。前回は2泊して16日に北九州に戻ったので、ちょうど2カ月ぶりとなります。じつは、5月中旬にも正副会長会議が開催されたのですが、ギックリ腰で欠席。あとは、すべてオンライン会議に参加しました。相変わらず、北九州空港は人が少なかったです。

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機内のようす

f:id:shins2m:20200616121300j:plainコーヒーを飲みながら読書しました

 

また、北九州空港の土産物店もすべて閉まっていました。いつも利用するラウンジも休業中でした。スターフライヤーの便数も極端に減らしているので、乗客は前回よりは多かったです。わたしはSFJ80便に搭乗しました。わたしは、いつものように機内でコーヒーを飲みながら読書しました。『町山智浩のシネマトーク 怖い映画』という本です。わたしは映画評論家としての町山さんのファンであり、その映画の観方にはいつも刺激を受けています。また、わたしの一番好きな映画ジャンルは「ホラー」なので、町山さんが「怖い映画」について語る本なので、これはもうたまりません! 

 

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

  • 作者:町山 智浩
  • 発売日: 2020/06/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

同書には「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」「カリガリ博士」「アメリカン・サイコ」「へレディタリー/継承」「ポゼッション」「テナント/恐怖を借りた男」「血を吸うカメラ」「たたり」「狩人の夜」いったホラー映画史上に燦然と輝く名作たちが紹介されており、あまりの面白さに一気に読了しました。久々に飲んだスターフライヤーのブラックコーヒーも美味しかった!

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羽田空港にて

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ラーメン店が開いていました!

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麦みそラーメンが旨かった!

 

羽田空港に到着すると、さすがに北九州空港よりは人はいたものの、それでも普段より少なかったです。ここでも土産物店や飲食店が閉まっています。手荷物受取場の出口の前に、いつも利用しているラーメン店があるのですが、4月14日に来たときは臨時休業していました。ところが、今日は開いています。迷わず入店して、850円の麦みそラーメンを食しました。久々に食べるお店のラーメンは最高に旨かった! ここ数カ月、ランチといえば弁当ばかりだったので、格別の味わいでした。やはり、外食っていいですね!

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モノレール内のようす

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浜松町へ到着後、いつもの書店へ・・・・・・

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ええっ、まさか!!

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大好きな書店だったのに!。゚(゚´ω`゚)゚。

 

食後はモノレールで浜松町に向かいましたが、モノレールの車内も人は少なかったです。浜松町駅に到着すると、いつものように文教堂という大型書店を訪れましたが、なんと入口のところに「感謝を込めて」「22年間のご愛顧ありがとうございました。」「またいつか皆様とお会いできる日を楽しみにしております。」と書かれた看板があるではないですか! ええっ、この書店、閉店するの! 驚いて店員さんに尋ねると、7月6日(月)に閉店することが決まっているとか。書店冬の時代が叫ばれて久しいですが、まさか東京の超一等地の大型書店まで閉まるとは! このお店、昔は「ブックストア談」という名前でした。わたしの本もたくさん平積みで売ってくれたし、ベストセラー入りした『最短で一流のビジネスマンになる!ドラッカー思考』(フォレスト出版)などはワゴンで販売してくれた思い出があるので、とても寂しいです。

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東京は30度以上の暑さ!(写真は増上寺

 

浜松町からはタクシーで定宿のある赤坂見附に向かいましたが、東京の気温は30度以上もあって暑かったです。途中、芝の増上寺の向こうに東京タワーが見えました。ホテルにチェックインしたら、東京に来ないあいだに出版した新著2冊のプロモーションの打ち合わせなどを行います。

 

2020年6月16日 一条真也

『エクソシストは語る』

エクソシストは語る

 

一条真也です。
エクソシストは語る』ガブリエル・アモース著(エンデルレ書店)を紹介します。これまで、ブログ『エクソシストとの対話』、ブログ『エクソシスト急募』、ブログ『ザ・ライト――エクソシストの真実――』、ブログ『バチカンエクソシスト』で紹介した本を読んできましたが、そのすべてにカンディード・アマンティー二神父という人物が登場しました。カンディード神父は20世紀に活躍した「史上最高のエクソシスト」と呼ばれた人物です。本書は、弟子筋であり、バチカン公認エクソシストでもある著者のアモース神父がカンディード神父に取材した上で書かれています。なお、版元のエンデルレ書店は、キリスト教の専門出版社です。

 

本書のカバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
ローマ法王庁公認の祓魔師(エクソシスト)による、貴重な著書。国際祓魔師協会の創立者であり、1994年から2001年まで同協会会長を務めておられたアモース師は、本人ご自身もローマ教区直属の公認祓魔師(エクソシスト)であり、長年にわたって、悪魔の力との闘いに貴重な体験を積んでこられました。本書を、こうして日本の読者の皆さまにお薦めできることに、わたしはこの上ない喜びを感じています。【ローマ法王庁大使館大使 推薦文より】」

 

本書の「もくじ」は、以下のようになっています。
ローマ法王庁大使館大使 推薦文」
「著者の序文」
「イタリア版への序文」カンディード・アマンティー二神父
アメリカ版への序文」ベネディクト・J・グローシェル神父
エクソシストは語る
キリストが万物の中心
サタンの力
付録1 教皇レオ13世が目にされた悪魔のまぼろし
付録2 サタンの贈りもの

祓魔式(エクソシズム
悪魔の標的
付録 悪魔を恐れますか?
アビラの聖テレジアの答え
祓魔式の出発点
まず「祝福」
悪魔の習性
悪魔にとりつかれた犠牲者の証言
祓魔式の効果
水・油・塩
家から悪魔を追い出すこと
呪い
さらに魔法について
悪魔を追い出せるのはだれか?
儀式の「シンデレラ」
付録1 聖イレネウスの思考
付録2 悪魔学に関するバチカンの文書
作り直される司教上の指令
付録1 信仰の教義に対する教理省からの文書
付録2 専門家でないものが悪魔を攻撃するのは危険であること
「結びに」
「種々の救済の祈り」

 

ローマ法王庁大使館大使 推薦文」には、ローマ法王庁大使館の大使であるアルベルト・ボッタリーニ・カステッロ大司教が、「国際祓魔師協会(インターナショナル・アソシエーション・オブ・エクソシスト)の創立者であり、1994年から2001年まで同協会会長を務めておられたアモース師は、本人ご自身もローマ教区直属の公認祓魔師(エクソシスト)であり、長年にわたって、悪魔の力との闘いに貴重な体験を積んでこられました」と述べています。

 

「祓魔式(エクソシズム)」では、著者は「教会によって制定された準秘跡だけが祓魔式と呼ばれています。その名を他に使用することは誤った印象を与えやすく誤解を招きます。カトリック教会のカテキズムによると祓魔式には二つのタイプしかありません。1つは洗礼の秘跡で、これは『簡単な祓魔式』の唯一の形式です。それと祓魔師のために指定された準秘跡があり、これは『大祓魔』と呼ばれる盛儀祓魔式です。(カトリック教会のカテキズム1673)破魔式を個人または共同の祈りの形と呼ぶのは間違いです。それは実際のところ単なる解放を求める祈りにすぎません」と述べています。

 

続けて、著者は「祓魔師は悪魔祓いの儀式どおりの祈りに従わなければなりません。祓魔式とその他すべての準秘跡との根本的な違いは、祓魔式は数分で終わることもあれば、何時間もかかることもあるところです。したがって、悪魔祓いの儀式の祈り全部を唱える必要がないこともあるでしょうし、もしくは、その同じ儀式のうちにそれとなく示されているその他の数多くの祈りを付け加える必要があるかもしれません」と述べます。

 

また、著者は「祓魔式の第一の主要な目的は診断をするためであるとわたしは申し上げました。すなわち、その症状が悪魔の働きが原因で起きたものか、自然の成り行きで起きたものかどうかを確かめなければなりません。日付順の配列によって、これはわたしたちが求め、たどり着く第1の目的です。しかし、重要性という点からいうならば、祓魔式の明確な目的は、悪魔憑きもしくは、病気からの救済です。できごとの、この論理的な順序(第一は診断、その次に治癒)を頭に入れておくことが非常に重要です。祓魔式の前、式のあいだ、また式のあと、そして式の最中に起こる徴候の推移に気づくことも大変重要です」と述べています。

 

また、著者は儀式について、こう述べています。
「儀式は、次に、悪魔が自分たちの存在を隠すのに使う多くの策略に対抗するよう、祓魔師に警告するもう1つの規準を課しています。わたしたち祓魔師は、精神を病んでいる人たち、あるいは悪魔の影響を受けていないためにまったくわたしたちを必要としていない人たちに騙されないように当然警戒しなければなりません」

 

著者は、悪魔憑きの徴候として、儀式が挙げている3つのしるしは、知らない言語を話し、超人的な力を発揮し、隠されていることを知っていることであると指摘し、「このしるしは祓魔式のあいだに必ずおもてに現れてくるもので、けっして式の前ではないのがわたしの重要な体験であり、また、わたしが質問した祓魔師全員の体験したことでした。祓魔式を続けて行う前に、それらのしるしがはっきりと現れないかと期待することは非現実的というものでしょう」と述べています。

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「悪魔を追い払う水、もしくは少なくとも聖水、聖香油、塩のような適切な準秘跡が救済の祈りによって示された目標とともに使用されるときには非常に有益です。司祭はだれでも水と香油と塩を清めることができ、祓魔師はそれをする必要がありません。とはいっても、司祭は祓魔式のはっきりと限定された祝福を信じ、それを熟知している必要があります。これらの準秘跡を認識している司祭は非常にまれなのです。大多数の司祭がこれらの存在を知らず、祓魔式を依頼する人を笑うのです。この本の後のほうで、その主題に戻ることにいたします」

 

「悪魔の標的」では、著者は映画「エクソシスト」に言及し、「悪魔憑きというものへの関心が再び取り戻されたのは、映画『エクソシスト』のおかげです。1975年2月2日、バチカン放送局は映画『エクソシスト』の監督、ウィリアム・フリードキンと彼の「専属アドバイザーである神学者イエズス会のトマス・ハミンガム神父にインタビューを行いました。監督は1949年に実際に起きたと本に記されている事件を映画にしたいと申し出ました。映画は悪魔憑きに関して、なんの結論も引き出してはいません。監督によると、これは神学者たちの問題だったのです。イエズス会の司祭は『エクソシスト』はたくさんのホラー映画の1つなのかもしくは、まったく異なった類のものなのかと訊かれたとき、断固として後者であることを主張しました」と述べています。

 

また、著者はサタンについて、「わたしたちはどういうわけで途方もないサタンの活動の餌食となるのでしようか? わたしがいおうとしているのは、誘惑のような通常の活動、だれにでも当てはまる活動以外のもののことです。わたしたちは自らの罪によってか、それともまったく気づかずに悪魔の餌食になります。その理由を4つに分類することができます。(1)神の許可で(2)悪魔の魔力の支配下にあるとき(3)頑なな大罪の状態のため(4)悪い仲間との交流や、悪い場所への出入りを通じて」と述べています。

 

まず、「(1)神の許可で」について、著者は「神は常にサタンの働き誘惑をお許しになり、わたしたちの霊的生活を強めて益となるよう、それに抵抗するのに必要な恵みをすべて与えてくださいます。それと同じように、神は時に悪魔が人間に取り憑くという途方もないサタンの活動を、わたしたちの謙虚さ、忍耐、屈辱に耐える力を増すためにお許しになるのです」と述べます。

 

「祓魔式を始める要点」では、著者は「悪魔祓いの儀式は祓魔師が従わなければならない21の規範を聞くことで始まります。これらの規範が1614年に書かれていてもかまいません。これらの指示――発展させることが可能――は知恵に満ちており、こんにちでもまだ有効です。儀式は悪魔の存在を簡単に信じることに反対する祓魔師に警告し、悪魔憑きが本当に存在することを認めることと、祓魔師の心構えを教えることの両方に役立つ一連の規則を読み上げることで始めます」と述べています。

 

「まず『祝福』」では、著者は「悪魔たちは実に用心深く話します。そういうふうに強いられているのにちがいありません。それだけではなく、完全に取り憑いているもっとも難しい場合にしか話しません。彼らの言葉数が自発的に多くなるのは尋問されるとき祓魔師の集中力をそらして、相手に役立つ答えをするのを避けるための策略です。わたしたちの質問については次の規則を固く守らなければなりません。それは好奇心から来る無駄な質問は一切しないということです。訊くのは悪魔の名前、他にも仲間がいるかどうか、いるとしたら何匹か、そして、いつ、どのようにして特定の人間の体に入ったのか、また、いつ出ていくつもりか、ということです」と述べます。

 

続いて、著者は「わたしたちはまた、その悪魔の取り憑いたのは呪文によるものかどうかを見極め、そして、その呪文を破る特殊な方法を見つけださなければなりません。もし悪魔に憑かれた人が、よくないものを食べたり飲んだりしたとしたら、それを吐き出さなくてはなりません。なにかの妖術が隠されているとしたら、それが隠されているところを話させることが重要です。そうすれば適切に慎重を期して消滅させることができます」と述べています。

 

また、著者は「祓魔式のあいだに完全な失神状態(トランス)に入るようなら、その患者の口をとおして話すのは悪魔です。患者が動くなら、その人の手足を使って動くのは悪魔です。そして、式が終わったとき、患者が何も憶えていないなら、わたしたちは悪魔憑きの症例を取り扱っているということになります。つまり、悪魔が一個人のうちに入っており、時どき取り憑いたものの体をとおして行動するのです。祓魔式の間には悪魔が――儀式の力によって――外に出てくるように強いられることに注目するとよいでしょう。悪魔はそれでも、別のときに、その人を攻撃できますが、通常攻撃の仕方が弱まります」と述べています。

 

さらに、著者は「どんな場合にもその治癒は同じです。祈り、断食、秘跡キリスト教的生き方、愛徳、そして祓魔式です。ありうる悪の源を確認するためには、きわめて簡単とは言いがたいある一般的な指針を使います。なぜなら「反対するもの」すなわち悪魔たちは、5つの領域から人間を襲う傾向があるからです。これらの攻撃は、それらの出所に応じて多かれ少なかれ激しいものです。その5つの領域とは、健康、愛情、仕事、生きる喜びそして、自殺志向です」と述べます。

 

「悪魔の習性」では、著者はこう述べます。
「一般に、悪魔というものはできるかぎり気づかれないように行動します。祓魔師と、自分たちが取り憑いた人たちの両方を落胆させるようなことを、すっかり話したり試みたりするのを嫌がります。この習性は4つの段階をとることを体験がわたしに教えてくれました。4段階とは、気づかれる前、祓魔式のあいだ、救済の始まるとき、救済後の4つです。ひとつとして等しい例はないことに注意するべきでしょう。悪魔の習性はまったく予知のできないもので、多くの異なった形をとります。わたしが説明しようとしているのは、もっともよく出くわす習性です」

 

また、悪魔について、著者は「悪魔たちは話すのをとても嫌がります。当然のことですが、儀式は好奇心から質問をすることなく、救済に必要なことだけを訊くように勧告しています。訊かなければならない第一のことは悪魔の名前です。というのも、悪魔は自らを顕すことは敗北だと考えていますから自分を明かしたがりません。自分の名を伝えるときでさえ、祓魔式のあいだであっても、それをくり返すのを嫌がります。次に、わたしたちは悪魔に、1人の特定の人間の体の中に何匹の悪魔が巣くっているかを白状するように命令します。たくさんのこともあれば、少ないこともありますが、必ず首領がいて、彼がいつも第1に名前を名乗らなければなりません。聖書に出ている名前、もしくは伝統的に与えられた名前(たとえばサタン、ベルゼべル、ルシフェル、ゼブルン、メリディアン、アシュマイダ)であるときには、負かすのが難しい「ヘビー級選手」と関わっているわけです。困難さの程度は、悪魔がある人に取り憑いている強烈さに比例しています。5、6匹の悪魔が取り憑いているとき、1番最後までねばって離れないのは必ずその首領です」と述べています。

 

さらに、著者は以下のように述べています。
「祓魔師は、いつも相手の一番の弱点を見つけることができます。ある悪魔はストラに描かれた十字架の印を体の一部に押し当てられると、ずきずきするその痛みに我慢できません。また、あるものは顔に息を吹きかけられるのに耐えられません。その他にも、あらんかぎりの力で聖水を使った祝福に抵抗するものがいます。祓魔式の祈りの中には、悪魔が激しく反応したり、あるいはそれによって力を失ってしまうある言葉があります。この祈りの点ですが、儀式が提案するように、祓魔師はこの祈りの文をくり返すようにします。儀式の長さは司祭の判断によって異なります。たびたび初めに診断を下すだけではなく、祓魔式の長さを定める目安にもなるため、医師の列席が役に立ちます。悪魔に取り憑かれたもの、もしくは祓魔師の具合がすぐれないときには、医師が儀式をいつやめたらいいかを助言します。祓魔師も、それ以上、続けても無駄だと判断したときには中止を決めることができます」

 

「悪魔にとりつかれた犠牲者の証言」では、著者は「サタンの真の目標は、苦しめたり、害を加えることではないのです。彼が人間に求めているのは苦痛ではなく、もっと重大なことです。つまり、彼はわたしたちの敗北した霊魂が「もう止めてください。わたしは負けました。わたしは悪の手に握られたひと塊りの粘土です。神はわたしを解放なさることができません。そんな苦しみをわたしたちに許されるのなら、神は子どもたちのことを忘れておられるのです。神はわたしのことなど愛してはおられません。悪は神よりも偉大です」というのを待っているのです。これでは完全に悪の勝利です。わたしたちの苦痛が信仰を鈍らせ、もはや信仰するのが無理になっても、「わたしたちは信仰を求めなければならないのだ」と、自分をきびしく叱らなければなりません」と述べます。

 

続けて、著者は「悪魔はわたしたちの意志には手を出すことができません。わたしたちの意志は神のものでもなければ、悪魔のものでもありません。わたしたちを造られるとき、神はそれをわたしたちに与えてくださいましたから、それはただわたしたち自身のものです。ですから、それをなくさせようとするものには、いつでも「だめだ」といってやらなければいけません。聖パウロのように『天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスのみ名にひざまずかなければならない』ことをわたしたちは信じなければならないのです」と述べています。

 

「家から悪魔を追い出すこと」では、著者は、「猫は『霊を身につける』動物で、悪霊は見破られないために猫の外観をとると、よくいわれます。ある魔術師や、魔術のある形式にとって、猫を使うことは基本的なことです。それはこの魅力的なペットの責任ではないことをわたしははっきりしたいのです」と述べます。また、「呪い」では、著者は「呪いは災いを呼び起こします。そして、すべての災いの源は悪魔的なものです。呪いの言葉が本当に真剣に口にされるとき、特に呪いをかけるものと、かけられるものとのあいだに血のつながりがあると、結果は恐ろしいものとなります。わたしの出会ったとても一般的な例では、子どもたちや孫の上に呪いがかかるように願った両親や祖父母が関わっていました。もっとも容易ならぬ結果は、災いが起こるようにとの呪いが、だれかを亡きものにしたいとか、結婚式のような特別の出来事にかけられるときに起こります。両親を子どもたちにつなぐ権威ときずなは他人のだれよりも強いのです」と述べています。

 

「さらに魔法について」では、著者は「聖書が、旧約と新約の両方の中で、どれほどたびたび魔法や妖術師に注意するよう警告しているかは驚くばかりです。聖書は、魔法というのは人間を自分に縛り付けて人間性を失わせるよう悪魔が使うもっとも一般的な方法の1つだと警告しています。直接あるいは、間接的に、魔法はサタンの信仰(カルト)です。なんらかの種類の魔法を行うものは、自分たちはすぐれた力を操ることができると信じています。しかし、実際には、操られているのは彼らのほうです」と述べます。

 

魔法には模倣性のものと、伝染性のものの2種類があるとして、著者は「模倣性の魔法は、形式と慣習とが似通っている概念に基づいています――すべてのものが似たものを発生するという原理に基礎をおいているのです。例えば、操り人形が標的を演じます。そして、人形の体をピンで突き刺しているあいだに適切な『儀式の祈り』が唱えられたあと、犠牲者も突き刺されている感じがして、人形の体の突き刺されたのと同じ部分が痛み出したり、そこに病気が起きたりします。伝染性の魔法は体の接触や、接触伝染の原理に基づいています。標的を支配する力を得るために、妖術師は、犠牲者の髪の毛や、切った爪、衣類などに近づかなければなりません。写真でも構いませんが、その場合、全身が写ったものがよく、顔が必ずはっきり分かるものでなければなりません。この種の魔法では、1つの部分が全体を代表します。言い換えれば、1つの部分になされることが、その人全体に影響します」と説明しています。

 

また、最悪の呪術について、著者は述べます。
「最悪の呪術は、アフリカ起源のもので、人に害を与えることを目的とする魔術が根本となっており、また亡くなった人たちの霊や、優れた霊と接触することを目的とする交霊術(口寄せ)に基づいています。交霊術は、どこの国でも、またどの民族のあいだでも行われています。その手段は自己を明らかにしたいと求めている霊魂に、自分の活動力(声、身振り、書いたものなど等)を貸すことで霊と人間との仲介をすることです。これらの霊は――いつも、悪魔にすぎませんが――交霊術の会に参加する人たちのだれかに取り憑きます。教会はかならず、交霊術の会に出席する人たちを咎めています。サタンに相談することで役に立つことはけっして得られはしません。死者を呼び出すなど本当に不可能でしょうか?」

 

さらに、悪魔について、著者は「悪魔たちは1人の人間を使って実に大きな団体――ここでいうのは一国を引き継いだり、それ以上の国ぐにに影響を与えうるということです――に作用します。わたしたちの時代では、これはカール・マルクスヒットラースターリンのような人たちの場合にあたるでしょう。ナチスによって犯された残虐行為、スターリン共産主義の恐怖や虐殺は、いうなれば悪魔の行為のような極悪非道ぶりでした。政治の分野以外では、歌手たちが人のぎっしり詰まった会場で聴衆を扇動し、しばしば極度の激しさと破壊の絶頂に達する熱狂のように、ある種の音楽をサタンの道具として指すことをわたしはためらいません」と述べるのでした。

 

本書は、なんといってもジャーナリストではなく、バチカン公認のエクシストを代表する人物が書き下ろした本です。類書にはない説得力がありますが、この内容をそのまま信じれば、この世は悪魔に支配されており、日常生活のあらゆるところに悪魔が影響を及ぼしていることになります。そう、本書には「シャーマニズム」とか「解離性同一障害」といった用語は一切登場しないのです。版元のキリスト教系の出版社ですが、本書もまたキリスト教徒が信仰を強めるための書物だと言えるでしょう。それでも、本書を読めば、ピオ神父、カンディード神父、そしてアモース神父のような聖職者に会いたくなってきます。

 

エクソシストは語る

エクソシストは語る

 

 

2020年6月16日 一条真也

『バチカン・エクソシスト』

バチカン・エクソシスト (文春文庫)

 

一条真也です。
バチカンエクソシスト』トレイシー・ウィルキンソン著、矢口誠訳(文春文庫)を紹介します。カトリックの総本山バチカンには法王公認のエクソシストたちがいますが、そこへLAタイムズの女性敏腕記者が深く分け入った「現代の悪魔祓い」のレポートです。著者は、ロサンゼルス・タイムズのメキシコ支局長。90年代のボスニア戦争報道でジャーナリズム界で権威のある「ジョージ・ポーク賞」を受賞。

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
バチカンには法王公認のエクソシストがいて、いまもハリウッド映画さながらの“儀式”が行われている。約2千年にわたるカトリックの歴史のなかで、それはどのように位置づけられ、悪に取り憑かれた人々を救済してきたのか?  LAタイムズの女性敏腕記者がスリリングに暴きだす『現代の悪魔祓い』の闇と真実」

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
「プロローグ」
第一章 現代の悪魔祓い師たち
第二章 儀式は聖水とともに始まる
第三章 歴史
第四章 横顔
第五章 悪魔に憑かれた三人の女性
第六章 悪魔崇拝者たち
第七章 教会内部の対立
第八章 懐疑主義者と精神科医
「エピローグ」
「原註」
「参考文献」
「謝辞」
「訳者解題―日本のカトリック教会の場合」
「解説」島田裕巳

 

「プロローグ」で、著者は以下のように述べます。
「本物の悪魔祓いは精神科のセラピーとおなじで、一発勝負ではない。悪霊を追い払うには、祈禱の儀式を幾度となく重ねる必要がある。イタリアでは、非常に多くのカトリック教会で悪魔祓いが行なわれている。これは信仰心の篤い人々によって行なわれているバチカン公認の儀式だ。決してハリウッド映画の話ではない」

 

第一章「現代の悪魔祓い師たち」の冒頭を、著者は、「キリストが行なった悪魔祓い」として、「悪魔祓いはローマ・カトリック教会の歴史とともにある。その発祥の時代から、ローマ・カトリック教会は、悪魔祓いの儀式を正式に認可してきた。ただし、その態度は何世紀ものあいだつねに一貫していたわけではない。儀式を公然と奨励していた時期もあれば、困惑の種と考えているかに見えた時期もあった。聖書によると、イエス・キリストはいまから2000年以上もまえに悪魔祓いを行なった。ごく最近まで神の代理者を務めていた教皇ヨハネ・パウロ2世もまた、おなじようにこの儀式を行なっている。カトリックの信者たちは、悪魔祓いを“神に導かれた善なる意志と邪悪なる意志の大いなる戦い”とみなしている」と書きだしています。

 

また、悪魔祓いについて、著者は「現実には、悪魔祓いはカトリックの教義の一部として公式に承認されており、限られた範囲ではあるものの、一般に考えられているよりもずっと広く行なわれている。とくに、ローマ・カトリックのお膝元であるイタリアではかなり一般的だ。イタリアの司祭や敬虔なカトリック教徒の多くは、悪魔やデーモンと呼ばれている存在が正常な人々を苦しめ、憑依し、悪へ導くと信じている。しかし同時に、祈りの力が悪魔やデーモンを撃退するとも信じている。悪魔祓いという言葉は、“誓い”を意味するギリシア語からきたものだ」と述べています。

 

第二章「儀式は聖水とともにはじまる」では、著者は「歴史的に有名な第二バチカン公会議(60年代なかばにカトリック教会が開いた典礼刷新のための会議)で教会の現代化に関する草案が作成され、実施に移されてからは、カトリック信者たちは、論理と信仰のどちらも許されることになった。結局のところ、知性は神からの授かりものであり、その能力は神に許されている範囲で十全に使われるべきだというわけだ」と述べます。

 

また、「聖人の研究」として、著者は「いまは亡き宗教家に祈りを捧げたことで誰かの病気が奇跡的に治ったとすると、バチカンは複数の医師からなる諮問委員会(委員のほとんどはイタリア人で、全員がカトリック教徒)に指示をあたえ、その治癒が科学的に説明できないことを証明させる。医師団は実際に自分たちの目で証拠を調べ、その治癒を評価し、多くの場合には「これは現代の科学では説明がつかない」と結論を下す。医学的な承認が得られると、バチカンは、その治癒が奇跡であると宣言し、聖人候補者の宗教家をまずは列福し、その後――第2の奇跡が実証されてから――列聖する。現代医学の手を借りて、ここにひとりの聖人が生まれるというわけだ」と述べます。


続けて、著者は以下のように述べています。
「この認定作業のもっとも最近の例として、マザー・テレサ列福が挙げられる。マケドニアで生まれ、その後コルカタで活躍したこの小柄な尼僧は、貧しい人々や病人のための慈善活動で世界的に有名になった。マザー・テレサは1997年に87歳で亡くなり、ヨハネ・パウロ2世によって、2003年の秋に列福された。ベンガル地方に住むインド人女性の治癒が、バチカンの諮問委員会によって“奇跡”と認められたのである」

 

不治の病にある患者を祈りの力で治癒させることは、カトリックでは「奇跡」とみなしますが、著者は「この“奇跡的な治癒”は、聖人候補者が死んだあとに起こらなくてはならない。なぜなら、ここではその人物に祈りを捧げたときに治癒が起こることに意味があるからだ。奇跡的な治癒とは、その聖人候補者が神とともにいて、病人に代わって神に力添えを頼むことができる証拠にほかならない。神とともにいることは、聖人になるための必須条件なのだ。ある意味で、この奇跡的な治癒は悪魔祓いに似ている。これらの現象は、中世の古い思想や伝統と現代の文化の交点ともいえるだろう。科学や合理的な論理はここでわきにおかれ、霊的な真実としての信仰に取って代わられるのである」と述べています。

 

著者は、「悪魔祓いの典礼」として、こう述べます。
「悪魔憑きが本物かどうかを見分けることは(これは“識別”と呼ばれている)、悪魔祓いにおける最初にして最大の難問である。これは普通、悪魔祓いを希望している者が聖水や十字架といった宗教的シンボルにどう反応するかが判断の決め手になる。たとえば、その人物が教会に入ることを極端に嫌ったり、司祭と顔を合わすことができなかったりする場合には、悪魔憑きの可能性が高い。ただし、ここでこれだけは言っておこう。アモルス神父をはじめとするエクソシストたちは、本物の悪魔憑きは非常にまれであると主張している。自分自身や家族のためにエクソシストを探している何千人ものイタリア人のうち、ほんとうに悪魔に憑かれている者はごく少数だという。ほとんどの場合、エクソシストは本格的な悪魔祓いを行なわず、“解放の祈り”を捧げるだけにとどまる。これは基本的に悪魔祓いとおなじものだが、儀式のすべてを行なうわけではない」

 

著者は、現代のイタリアでエクソシストの養成講座を開いたアモルス神父を取り上げ、「アモルス神父はいたるところに悪魔の存在を感じている。数年前、神父はハリー・ポッター・シリーズのイタリアでの出版禁止を求めて戦った。神父によれば、あのファンタジー小説が子供たちに魔術を教えるものだからだという。この世界に悪が蔓延しているのは、サタンが超過勤務をしている大きな証拠だとアモルス神父は主張する。儀式的な殺人、被害者を拷問してレイプする悪魔カルト、エスカレートする残虐な幼児虐待事件など、いまの世界には陰惨な事件が続発している。価値観や道徳律を奪われた社会は、悪のための肥沃な原野を創りだした。誰がそれを否定できるだろうか? 実際、悪魔のもっとも悪賢い計略は、悪魔などこの世には存在しないと人間に思いこませることなのだ・・・・・・」と述べています。

 

第三章「歴史」の冒頭を、「悪魔祓いの起源」として、著者は以下のように書きだしています。
「悪魔という概念や悪魔祓いの儀式は、はるか昔、古都バビロンやエジプトのファラオの時代から存在していた。デーモンという言葉は“狂った”を意味する古典ギリシア語のダイモンやダイモニアンからきたものだし、サタンという言葉はヘブライ語の“敵対者”や“対抗者”から、悪魔は古英語のデオフェル、ラテン語のディアボラスギリシア語のディアボロスからきたものだ。キリスト教では、このほかにルシファー、ベルゼブブ、ゼブルン、メリディアン、ベリアルなどといった名前が使われている。言い換えれば、実体化した悪はあらゆる時代のあらゆる文化においてその存在を認められ、じつに多種多様な名前で呼ばれてきたのである」

 

また、イエス・キリストと悪魔祓いの関係について、著者は「イエス・キリストキリスト教における最初の重要なエクソシストだった。キリストの時代、盲目や聾唖、狂気など、肉体および精神の病は、しばしば悪霊の仕業と考えられた。キリストはデーモンを追いだすことによって苦痛に悩む人々や病人を癒した。当時これは、キリストは救世主だという説を裏づける証拠と見なされた。キリストはこの地上で神の仕事をする権能をあたえられた選ばれし者というわけだ。キリストはまた、彼の名においてデーモンを追放する権能を弟子と使徒をあたえた。悪魔祓いや清めの儀式、もしくはプロテスタントが“教済”などと呼ぶところの同種の儀式は、ユダヤ教イスラム教など、キリスト教以外の宗教にも見られる。しかし、そうした儀式を徹底的に成文化・制度化しているのは、ローマ・カトリック教会だけである」と述べます。

 

ピサの斜塔から130キロ離れたヴィアダーナで1529年に生まれたジロラヲ・メンギ神父は、悪魔や悪魔祓いに関する文献をまとめました。彼は、デーモンや悪魔に憑依された人間の兆候をリストにしたましたが、以下に挙げると、
●それまで知らなかった言語を話す
●知りえるはずのない事実を口にする
●超人的な力の発揮
●司祭や神聖なものに対する突然の(ときに暴力的な)嫌悪
●深い憂鬱
●悪魔の助けを求める
●ナイフやガラスの破片など、異常なものを吐きだす
となります。著者は「これは、現代のカトリックエクソシストが基準にするチェックリストとほぼまったくおなじである」と述べています。

 

著者は、「魔女狩りをへて」として、「14世紀から17世紀にかけて、一般民衆はサタンの力を深く信じるようになり、そこから魔女狩りの火がついた。妖術を行なった、呪いをかけた、悪魔的な所業に及んだなどの理由で、女性を中心とする何万人もの人々が罰せられ、火刑に処された。事態を憂慮した教会は、ついに魔女狩りの弾圧に乗りだした。その結果、18世紀に入ると、悪魔祓いの儀式は次第に人気を失いはじめた」と述べています。

 

また、「『ローマ典礼儀礼書』の改訂」として、著者は「第二バチカン公会議の結果、教会の典礼の大多数は時流に合わせて改訂されたが、悪魔祓いを律する『ローマ典礼儀礼書』の改訂は棚上げにされた。教会はエクソシストの任命にあたって候補者の全員をひとりひとり審議するのをやめ、『司教だけがエクソシストを任命し、悪魔祓いに許可を出せるものとする』と宣言した。その後、振り子は反対方向に振れはじめた。第2バチカン公会議の後半を監督した教皇パウロ6世は、悪魔の存在を神学的に否定することに危惧を覚えはじめた」と述べています。

 

一方、大衆文化の世界では、悪魔祓いに再び興味が集まりだしたとして、著者は「理由のひとつには、黒魔術や悪魔カルトの急激な流行があった。また、1970年代から80年代にかけ、癒しと予言を信じるカリスマ派が着実に勢力を伸ばしてきたことや、教皇ヨハネ・パウロ2世が悪魔祓いに好意的な態度を見せ、この世界にいま存在する現実的な危険としてしばしばサタンの名前を口にしたことも大きかった。しかし、やはり最大の理由は、なんといっても映画『エクソシスト』の世界的な大ヒットだろう」と述べます。

 

さらに、「ヨハネ・パウロ2世による悪魔祓い」として、著者は「1987年、ヨハネ・パウロ2世は聖ミカエルの聖所を訪れ、こう語っている。『悪魔との戦いは・・・・・・現在でもまだつづいています。悪魔はまだ生きており、この世界で活動しているのです。現代のわれわれを取り巻く悪や、社会に蔓延する混乱、人間の不調和と衰弱は、すべてが原罪ゆえのものではなく、サタンがのさばって暗い行ないをしている結果でもあるのです』信仰に対して神秘主義的で、本能的で、感情的でもあったヨハネ・パウロ2世は、サタンの敵であるマリアに何時間も祈りを捧げた。また、教皇在任中にすくなくとも3回の悪魔祓いを執り行なったと伝えられている」と述べています。

 

そして、「現教皇の支援」として、ベネディクト16世が教皇に就任して数カ月後の一般謁見演説で、ちょうどそのときイタリアのウンブリア州で年次大会を開いていたエクソシストのグループを賞賛し、多くのエクソシストたちを喜ばせました。アモルス神父はベネディクト16世の承認を聞いて大いに安堵し、「ほんとうにすばらしい演説だった」と言ったそうです。また、彼は「過去において、悪魔祓いを行なった司祭は大いなる誤りを犯した。不運にも、彼らは人々を悪魔とみなした。多くの人々が魔女として裁判にかけられ、悪魔に憑かれた者は火刑に処された。この狂気への反動で、悪魔の存在を信じることさえもが否定された」と語りました。また、アモルス神父は「もうひとつ、一般的な思想の流れがある。このうち、とくに合理主義と物質偏重主義は、悪魔や悪魔憑きや悪霊を信じない傾向に拍車をかけた。もはや、エクソシストの時代ではない、というわけだ。その後の3世紀のあいだ、ローマ・カトリック教会は悪魔祓いをすっかり捨ててしまった。それがふたたび戻ってきたのは、ここ数十年のことだ」とも言いました。

 

アモルス神父がエクソシストになった1986年、イタリアには20人のエクソシストしかいなかった。しかし、現在(2007年)ではほぼ350人になっているといいます。アモルス神父は「わたしたちエクソシストの時代がきたのだ」と言いました。
第四章「横顔」の冒頭を、著者は「エクソシスト志願者のための大学講座」として、「教皇庁立レジーナ・アポストロールム大学には、エクソシストになろうとしている司祭のための講座がある。儀式や悪魔憑きの現象をもっと深く学びたいと思っている同祭も受講できる」と書きだしています。この講座こそ、アモルス神父が中心となって開いたものでした。

 

21世紀のイタリアを吹き荒れたエクソシストルネサンスについて、著者は「こうした現象は、すべて現実的な説明をつけることもできる。暗躍する悪魔の影を非常に多くのイタリア人が見るのは、問題の原因を自分以外のものになすりつけたいからだ――そう考えると、実際には悪魔などいないことになるから、ある意味では安堵できる。しかし反対に、それはイタリア人が非常に迷信深い証拠でもある。問題の一部は、驚くほど多くのイタリア人が占い師や魔術師に頼ることだ。それでいて、やがて彼らは自分自身が魔術や邪悪な呪文の被害者になったと言いだす。この傾向は悪化してきているとダーミン神父は言う。しかし同時に、人々がオカルトに走るのは教会にも責任があると強く主張する。最近の司祭は頭でっかちな者ばかりで、一般信者との触れあいが減っている。混沌とした現在の世界において、多くのカトリック教徒は答えを探し求めているというのに、ほとんどの司祭は信者の話を聞く時間を持とうとしない」と述べています。

 

また、著者は「人々が求めているのは即効性のある解決法だ。大きな宗教はどれも、そんなものは提示していない。しかし、いわゆる新興宗教はしている。それに、魔術師もだ。この世界には不確実なことがあまりにも多い。司祭から助けを得られないとき、多くの人々は魔術師を頼る。教会の司祭たちは無能か、もしくは悪魔憑きを信じていない。多くの司祭はそれを迷信だと考えている。信仰はとても頭でっかちなものになってしまった。われわれ教会の人間は、ときとして、信仰の世界に生きるには知的すぎる」とも述べます。

 

第五章「悪魔に憑かれた三人の女性」では、「なぜ、女性が多いのか」として、著者は「自分は悪魔憑きだと信じている者の何割かはヒステリー症だと考えてまず間違いないだろう。このヒステリー症は、女性に結びつけられて考えられることが多かった。そもそも、ヒステリーという言葉は、ギリシア語で子宮を意味する“ヒステラ”からきている。古代のギリシア人は、子宮の異常が“ヒステリー症”の原因だと信じていた。いまや転換性障害という呼称が一般化しているヒステリー症とは、現代の定義によれば、抑圧された心理的(もしくは性的)不安が、麻痺や失明、痙攣などといった想像の身体的病気となって顕在化する現象である」と述べています。

 

続けて、著者は「長い歴史において、集団ヒステリーが席巻した時代の主役はつねに女性だった。15世紀から17世紀にかけて(一部ではさらに18世紀のなかばまで)、ヨーロッパ全土で魔女狩りが大流行した。黒魔術を使った、瀆神行為を行なった、悪魔と交わったなどの理由で糾弾され、多くの女性が魔女裁判にかけられた。カトリック教会とプロテスタント教会も――さらには当時の官憲当局までもが――この糾弾に手を貸した。じつに興味深いことに、魔女狩りはドイツやイギリス、スウェーデンなど、ヨーロッパ北部の国々で猛威をふるい、イタリアやスペインではあまり見られなかった。熱狂的なカトリック国であるイタリアのように、信仰が確固と根づいているところでは、一般民衆がパラノイアに飲みこまれなかったという説もある」と述べるのでした。

 

第八章「悪魔祓いと精神科医」では、「解離性障害として説明できる」として、著者は「悪魔祓いに批判的な者の多くは、悪魔祓いの儀式は被術者を催眠状態に陥らせ、催眠術をかけられたときとおなじ意識の状態をつくりだすと考えている。司祭のリズミカルな祈禱、自分の内面に向けられた被術者の意識、外界からの遮断――こうした要素がすべて組み合わさることによって、患者はトランス状態に陥り、催眠術をかけられたときと同様、無意識に自分の役割を演じはじめてしまう。ある種の感情伝染が、患者に特定の行動をとらせる合図になる。腕の立つ催眠術師は被術者を犬のように吠えさせることができる。エクソシストは催眠術師ほど意図的ではないが、被術者を悪魔のようにしゃべらせることができる。悪魔祓いの批判者たちによれば、この現象は迷信的な宗教環境によって引き起こされるものであり、これによって被術者は憑依を信じこみ、病気の原因を外部に求め、内面的な原因から目をそむけてしまうのだという」と述べています。

 

また、「催眠術の一種か」として、著者は「自分は憑依されたと人が考えるとき、脳のなかではなにが起こっているのだろうか?  その問いに対する科学的な説明でもっとも一般的なものは、解離性障害である。解離性障害は『正常なときには統合されている脳が、いくつかの部位に分断されている状態』によって引き起こされる。簡単にいえば、脳のそれぞれの部位がおたがいに話をしなくなっているということだ。なかでもとくに重要なのは、脳の一部が、メインの意識(脳のなかの“自覚”を司っている部分)に話しかけなくなってしまうことである。するとそれが原因になって、その人物は自分の気づいていない(もしくは予期していない)行動をとってしまう。もしその行動が自分の性格から著しく逸脱しているときや、なんらかの形で卑しむべきものであるとき、その人物はそれを外部の邪悪な力のせいにしたがる。非常に信仰の篤い家庭、もしくは迷信のはびこった村などは、この思いをさらに助長する。統合失調症の初期患者は、自分の問題を正当化、もしくは合理化しようとすることが多い。そうすることで、自分の属している社会集団から排斥されることを避けるのである」と述べます。

 

「訳者解題―日本のカトリック教会の場合」では、訳者の矢口誠氏が「結論からいえば、日本のローマ・カトリック教会に公式なエクソシストは存在していないという。「カトリックの司祭は、叙階と同時に誰もが祓魔師(悪魔祓い師)の権能を授けられています。しかし、実際の祓魔を行なうエクソシストは非常に高い徳性と経験を求められます。誰にでも行なえるというものではありません」と、その方は話してくれた。「日本で最近祓魔が行なわれたという話は聞いておりません。過去の古い時代に、外国人宣教師が祓魔を行なったという話は伝わっています。しかし、日本人の司祭が祓魔を行なったという話は聞いたことがありません」と述べています。最後に、「解説」をあの島田裕巳氏が書かれていますが、残念ながら無難な一般論に終始されており、印象に残る記述は見当たりませんでした。

 

バチカン・エクソシスト (文春文庫)

バチカン・エクソシスト (文春文庫)

 

 

 2020年6月15日 一条真也

『ザ・ライトーエクソシストの真実ー』

ザ・ライト ─エクソシストの真実─ (小学館文庫)

 

一条真也です。
13日の夜、金沢から小倉に戻りました。
今回は『ザ・ライト―エクソシストの真実―』マット・バグリオ著、高見浩訳(小学館文庫)を紹介します。ブログ「ザ・ライト」で紹介した映画の原案です。原作ではありません。映画は、本書からインスパイアされて作られたフィクションです。著者は、サンディエゴ生まれ。1996年、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で英文学の学士号を取得。ライターとして活躍した後、2000年に伊ローマに活動の拠点を移す。2005年から3年に渡り米国人神父やエクソシストたちに取材を重ね、2009年に本書『ザ・ライトーエクソシストの真実ー』を発表、高い評価を得ました。

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「二十一世紀のいま、“悪魔憑き”の犠牲者はイタリアだけで年間五十万人以上にものぼるという。その悪魔に心身を蝕まれていく人々を救うため、ヴァチカンでは、エクソシスト(悪魔秡い師)を養成するための講座が行われている。2005年、米カリフォルニア在住のゲイリー神父は司祭の指示により、講座受講のためローマへ渡った。そして実践法を手ほどきしてくれるカルミーネ神父を訪ねた彼は悪魔秡いの儀式に立ち会い、衝撃的な場面を目にする。知られざるエクソシストの実態を赤裸々に描いた話題のドキュメンタリー。A・ホプキンス主演の同名映画原案」

 

また、アマゾンの「内容紹介」では、「A・ホプキンス主演映画原案、驚愕の真実!」として、「かつて映画によって日本でも知られるようになったエクソシスト(悪魔払い師)。エクソシズム(悪魔払い)はキリストが12使徒に託した使命であり、儀式としては西暦500年ごろに体系化されたが、実はヴァチカンでは現在もエクソシスト養成講座が行われている。本書はエクソシスト養成講座受講のために留学したアメリカ人神父の1年間を追い、その実態を赤裸々に描いたドキュメンタリー。2005年、カリフォルニア在住のゲイリー神父(当時52歳)は司祭の指示によりヴァチカンに留学、『エクソシズム(悪魔払い)と悪魔払いの祈祷』という講座を受け始める。聖職者のみならず精神科医、看護師、心理学者などさまざまな受講者が参加し、現代的な教室で行われる講座を受けたゲイリー神父は、自分が悪魔払いについての知識をほとんど持っていないことに気づき、文献をあさるようになる。そして、実践法を手ほどきしてくれるカルミーネ神父を訪ねたグレゴリー神父は、実際のエクソシズムに立ち会い、衝撃的な場面を目にすることに・・・。2011年3月公開予定、アンソニー・ホプキンス主演映画『ザ・ライト -エクソシストの真実ー』原案」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「プロローグ」
第1章  ローマ
第2章  天職
第3章  学校に帰る
第4章  なんじの敵を知れ
第5章  扉をひらく
第6章  わが名において 
第7章  エクソシストを探す
第8章  最初の夜
第9章  識別 
第10章 境界の向こうへ
第11章 転落
第12章 魂の受難
第13章 聖職としてのアプローチ
第14章 魂の窓
第15章 解放
第16章 聖職の再編
第17章 エクソシスト
「著者覚え書き」
「感謝の言葉」
「訳者あとがき」

 

映画「ザ・ライト」には、2人のエクソシストが登場します。アンソニー・ホプキンス演じるルーカス神父と、コリン・オドノヒュー演じる神学生のマイケルです。2人とも実在の人物をモデルにしており、ルーカス神父のモデルはシチリアで2000回を超える悪魔払いを行い、現在も健在だそうです。また、神学生から神父となったマイケルは、最初は神も悪魔もともにその存在を疑っていましたが、次第に一人前のエクソシストになっていきます。その姿は、ある職業人の成長ストーリーでもあります。

 

そして、マイケルは葬儀業者の息子であり、父親の手伝いをずっと務めてきていました。いきなり映画の冒頭で、遺体安置所で遺体をきれいに整えるシーンが出てきたので、驚きました。マイケルの父は「おくりびと」でしたが、マイケル自身はエクソシストという「はらいびと」になったわけです。そして、「おくりびと」と「はらいびと」は、とても似た職業なのです。マイケルのモデルはゲイリー・トマスという人物で、本書には実名で登場します。

 

さて、題名の「ライト」という言葉ですが、その響きから多くの人は「正しい」という意味のRIGHTや「光」のLIGHTを連想するかもしれません。しかし、本書や映画の原題はRITEとなっており、すなわち「(宗教上の)儀式」という意味なのです。もちろん、「儀式」とは人間を「正しい」方向に向ける「光」を当てる営みであると考えることもできますが・・・・・・。

 

「プロローグ」で、著者は「現実のエクソシズムとは、ちょうど歯科医の診断を受けるような、ありふれた出来事なのである――待合室でつぶす時間や、次の予約日時が記されたカードのことまで含めて。エクソシズムの儀式ではどういうことが行われるのか、本当にわかっている者はごく限られている」と述べています。

 

第3章「学校に帰る」では、「エクソシズムの重要性は、ごく初期の洗礼の儀式にはっきり現れていた。そこで洗礼を受ける者は、数日間にわたって悪魔を弾劾しながら――悪魔の弾劾は今日の洗礼においても行われているが――一連の公式の悪魔祓いを受けたのだ。初期のキリスト教徒のあいだでエクソシズムが重要視されていたのは間違いない。ところが時代がずっと下って1960年代に入ると、悪魔の姿をそっくり認めるかどうかをめぐって、“リベラル派”の神学者と“保守派”の神学者のあいだで激しい論争が行われた。教会は元来2つの明瞭な要素、すなわち聖書と伝承を通して真理を規定する。それは教会の教導権によって最終的に決定される。したがって、リベラル派も保守派も歴史的証拠と聖書にもとづく証拠をないまぜにしながら自説を主張した。リベラル派に言わせれば、科学と理性の進歩によって悪魔などもう時代遅れになったのに、教会がいまだに“目に見えない霊”だの、“人格”を備えた悪魔の存在などを信じているのは理解できない、ということになる」と書かれています。

 

第4章「なんじの敵を知れ」では、デヴィルについて、「全能にして愛に満ちた神の創造した世界に、なぜ悪が存在するのか。その理由を説明する手段として深化してきたのが、悪魔(デヴィル)という概念である。デヴィルという言葉は、ギリシャ語のディアボロスからきている。敵、中傷者、反抗者、という意味だ。紀元前200年にヘブライ語の聖書がギリシャ語に翻訳された際(“七十人訳聖書”として知られる)、ギリシャ人は“告発者”を意味するヘブライ語のサタンの代わりにこの言葉をよく用いた」と述べられています。

 

紀元前1000年から100年にかけて書かれたとされる『旧約聖書』には、悪魔はほんの数えるほどしか登場しません。登場しても、具体的な形態を持つ存在にはほど遠いです。なぜか。著者は「たぶん、モーゼは“まだ未開の人々に語りかけていた”ので、偽りの偶像崇拝に誘導する恐れのある信仰を広めたくなかったからだろう。トマス・アクィナスはそう推測した。旧約聖書に具体的な悪魔像が登場しないのは、イスラエル人が魔術を厳禁する法律を施行していたからだ、と見る神学者たちもいる。サタンが歴然とした形で現れるのはヨブ記だが、数人の学者が指摘しているように、そこではサタンの名は単なる称号にすぎない。彼はまだ神の宮廷に出入りすることができて、神の代理人、一種の“検察官”として働いているかのようである。その権能において、サタンは神を説得し、ヨブの忠誠心を試すために彼を苦しめる権限を与えてもらうのだ(ヨブ記1:6-12)」と推測しています。

 

しかし、『新約聖書』になると、悪魔はもっと大きな役割を果たします。著者は、「キリストがこの世に到来する以前、全世界は邪悪なるものに支配されていた。その亀裂を埋めるために、神はただ1人の子を地上に送るのである。マタイ、マルコ、ルカによる3つの福音書は、この見解を明快に、くり返し述べている。神の子はこの目的を果たすため、悪魔の仕業を滅ぼすために、つかわされたのだ」と述べています。

 

著者はトマス・アクィナスに言及し、「アクィナスの解釈のうち、おそらくエクソシストの聖務にとって最も肝心なのは、天使(もしくはデーモン)は一定の空間を占有できないので、人間のようにある場所に物理的に存在することはあり得ない、という点だろう。逆に言えば、彼らはどこにもいないことになる。一方、デーモンが――たとえば、ドアをばしんと閉めたり、椅子を引きずったりして――物体を動かしている疑いがあるときは、彼が積極的にその物体に働きかけていると見ていいのだ。天使が物質ではないということは、彼らがA点からB点に、何の移行努力もせずに移れることを意味する。彼らはある点から別の点に、瞬間的に活動の場を変えるのだ。この動きを、遠方のものに瞬時に思いをめぐらせたり、脈絡のない事柄を同時に考えたりできる人間の頭脳にたとえた神学者もいる」と述べます。

 

第5章「扉をひらく」では、オカルトに関する著作もあるバモンテ神父によって、悪魔崇拝には2つの流れがあり、「「1つは“人格派”として知られるグループで、サタンは物理的な存在であると信じている。彼らによれば、サタンは祈りの対象になりうる神であって、もし生贄が捧げられれば、名声や富といった見返りまで授けてくれる。
もう1つの流れは“非人格派”として知られるグループで、サタンはもっと抽象的な力やエネルギーの保持者なのだ、と信奉者たちは主張する。彼らによればサタンは宇宙の一部であり、信仰しだいでより大きな存在に発展し、信奉者たちのために役立ってくれるという」という説が紹介されます。悪魔崇拝の“人格派”、“非人格派”、いずれのグループでも個人の願望が最優先され、“七つの大罪”が祝福されるといいます。バモンテ神父は、「彼らを理解する鍵は、“自分のしたいことをしろ、それが唯一の法則だ”という彼らのモットーを知ることだろうね。共通項はそれだけで、あとはみんなバラバラなんだ」と述べています。

 

エクソシストたちは、「人が悪魔にとり憑かれる際はさまざまな要素が作用する」と言います。著者は、「最初に留意しなければならないのは、神の許しがない限り悪魔憑きは起こらない、という点だと神学者は指摘する。これは一見矛盾するようだが、教会は次のように説明する――つまり、神はもちろん、人間を苦しめたくはないのだが、善き目的のために敢えて悪魔憑きを許すことがある。たとえば聖人のようにかなり高度な霊的生活を送っている人物に限って、その魂が肉体的な試練を克服して恩寵を得られるよう、悪魔がその人物を試すのを神は見逃すのだという」以下のように述べています。

 

第6章「わが名において」では、最近、国際エクソシスト協会が、『儀式書』の祈りを忠実に守るように会員のエクソシストたちに警告したことが紹介されます。「『儀式書』の祈りをただひたすらとなえる――それだけに留めたほうがいい場合があるんだ」とグラモラッツォ神父も述べています。また、エクソシストは魔術の儀式と混同されるような流儀でエクソシズムを実施してはなりません。この戒めが重要である理由を、ナンニ神父は「それは魔術を別の魔術で駆逐する、あるいは、悪魔を別の悪魔で駆逐するようなことになりかねないからね」と説明しています。それは教会の信用を失墜させるばかりか、エクソシズムの目的そのものを否定することにも通じてしまうのです。

 

続けて、著者は「もう1つ留意すべき点として、挑発の問題がある。エクソシズム自体に挑発的な性質を認めて、儀式を実施する際は婉曲な表現を用いるエクソシストはすくなくない。たとえば、エクソシズムという言葉の代わりに、彼らは“祝福”という言葉を用いる。請願者に対し、悪魔にとり憑かれている、とは言わずに、ある種困難な問題に悩まされている、と言う。同じ理由から、儀式の挑発性を緩和するため、祈りをラテン語でとなえる神父も多いようだ」と述べています。

 

第9章「識別」では、著者は以下のように述べます。
「人がエクソシストを頼る理由はいくつかある。当人(もしくは当人の知人)は、さまざまな問題をすべて悪魔のせいにしたがる。『そう、“あたしのなかには悪魔がいるんです。どうぞ悪魔祓いをしてください!”と訴える人が大勢いるね。その必要がないケースが大部分なんだが』と、カルミーネ神父は言う。
『そういう人たちはえてして、精神のバランスが狂っているか、本を読んだり、映画を見たりして、急に恐くなった連中なんだな。これは実にデリケートな問題で、事実は告げる必要があるけれども、断定的な審判は避けないといけない』
エクソシストたちに言わせると、彼らに会いにくる人々の大多数はこのカテゴリーに入るという。別に悪いところはないのですよ、と彼らにわからせるために、エクソシストは多くの時間を費やす。それは容易なことではないらしい。多くのエクソシストたちを嘆かせるのは、何の問題もない人物に、自分には悪魔が憑いているのかもしれないと思わせてしまう、善意の、お節介好きな人間がいるという事実だ」

 

著者は、悪魔憑きと間違われる精神障害の例は数多いと指摘し、「だからこそ、エクソシストは儀式に進む前に、精神科の診断を完全に受けてほしいと当人に言う必要があるのだ。が、当人はすでに何人もの医師の診断を受けてきていて、はかばかしい結果を得られなかったというケースがすくなくない。その場合、エクソシストは儀式に進んでいいと判断するかもしれない。しかし、その前に、精神科医臨床心理士、それに神経医から成るチームの助けを借りて、本当の悪魔憑きかどうかの識別にあたることが望ましい。とはいえ、現実には精神科医ならだれでも協力してくれるとは限らない。偏見を持たずに悪魔憑きという現象に対峙できる精神科医がいてはじめて、協力は可能になる。その精神科医が、同時にカトリックの信徒(もしくはキリスト教徒)であれば、なおいいだろう」と述べています。

 

偽の悪魔憑きを見抜くためのちょっとしたトリックを考案したエクソシストもいるとして、著者は「本来のエクソシズムでは聖水を用い、『儀式書』の祈りをとなえるのだが、その代わりに普通の水を使って、ラテン語の散文を読みあげるのだ。本物の悪魔なら、普通の水には無反応のはず。だから、たとえば、普通の水を体にかけられた人物が、『熱い、熱い、水が熱い!』などと叫んだら、偽の悪魔憑きと見ていいことになる。いずれにせよ、人が本当に悪魔の攻撃を受ける例はきわめてすくない、とエクソシストたちは見ている」と述べます。

 

エクソシストたちが一致して指摘するいちばん厄介なケースは何か。著者は、「それは、当人が精神障害と悪魔憑きの双方を背負っている、もしくは悪魔が精神障害と見まがうような徴候を発現させて自分の存在を隠しているケースだ。悪魔が犠牲者の頭脳を攻撃する憑依のケースなどに、それはとくに顕著のようである。バモンテ神父は書いている――“憑依現象が、純粋に病理的な原因で起こる場合がある。悪魔の異常な行動が引き金となる場合もある。それからまた、ふつうなら特に異常とも思われないような固定観念や衝動が、悪魔の異常な活動によって拡大され、当人の心に侵入して執拗に責めさいなみつづける場合もあるのだ”」と述べています。

 

ときに幻覚や偏執性妄想を伴う幻聴を生むとされているのが、〈統合失調症〉です。著者は「この病いを患っている人は、テレビが自分に話しかけているとか、UFOから信号が送られてくるといった妄想にとらわれる。厳格な宗教的雰囲気の中で育った人なら、こうした“声”を悪魔のものと見なすかもしれない。同様に、〈身体化障害(かつてヒステリーと呼ばれていた症状)〉を患う人々は、これというはっきりした病因もないのに、さまざまな肉体的不調を訴える――吐き気、鬱、さらには聴力の喪失までも。潜在意識は、ありもしない肉体的不調を脳に感じさせることができるのだ。〈双極性障害〉の人々も偏執性妄想にとりつかれることがあるし、気分が――ときに激しく動揺することがある。〈強迫神経症(OCD)〉にかかった人々は、偏執的想念や強迫衝動に苦しめられた結果、ふつうでは考えられないような行動に走ることがある」と述べます。

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「歴史的に、〈癲癇〉は憑依と関連づけられてきた。〈ジル・ド・ラ・トゥレット症候群〉も同じである。これは、自分の話し方や仕草をコントロールできなくなる病気だが、いまでは、脳内の異常な電気活動によって起こる神経障害が原因だとわかっている。おそらく、悪魔にとり憑かれた、と人に感じさせる最もありふれた現象は〈解離〉だろう。簡単に言うと、〈解離〉とは、本来統合されているはずの心理プロセスがバラバラになってしまうために起きるさまざまな行動形態をさす」

 

悪魔憑きの科学的解釈としていちばん妥当なのは解離性同一性障害(DID)――かつて多重人格障害(MPD)と呼ばれた疾患――だろう、と考える科学者たちは数多くいるとして、著者は「DIDの特徴は、それにかかった人物が、自分の中には1人、ないしそれ以上の別の人格がいる、と主張するところにある。それらの人格は別の名前と別の声を持ち、個性も、筆跡すらもちがう。記憶をはじめ、当人の意識のさまざまな側面が異なる人格に分け与えられており、それらが自発的に顔を出す。だが、この疾病についてはかなりの議論があって、治療法についても心理療法士たちの見解は割れている」と述べます。

 

では、DIDはどうして生まれるのか。著者は「その見方は2つに分かれている。1つは伝統的な疾病観に基づくもので、DIDの病因は明瞭だと見る。それは幼児期のトラウマ、とりわけ性的、心理的虐待に対する防衛反応にほかならない、とする。もう1つの見方は社会認知的モデルと言われており、DIDとは、人が一定の目的と制約下で、多重的な役割を演じることから生じる病状とする。その役割とは、社会的な重圧によって生まれ、正当化され、維持されるものなのだ。その場合、人は、あたかも自分の中に異なる人格があるように振る舞うわけである」と述べます。

 

さらに、著者は「エクソシズムの社会認知的な見方の中で、いちばんわかりやすい解釈の1つは、“ロール・プレーイング(役割演技)”だ。つまり、エクソシスト、悪魔に憑かれた人物、いずれかが悪魔祓いの儀式にたびたび参加するうちに、期待されている振る舞いを演技するようになる、とするものだ。人類学者たちはその具体的な実例を数多く見ている」と述べるのでした。

 

エクソシズムでは、悪魔のその名を告白させることが最も重要だとされています。しかし、第13章「聖職としてのアプローチ」には、「もっとも、あるイタリア人エクソシストに言わせると、悪魔の名前はさほど重要ではないのだという。それはただ単に、その悪魔が属している“軍団”を意味しているにすぎないというのだ。つまり、ある悪魔が“アスモデウス”を名のるのは、第2次大戦中にG.I.が“おれは海兵隊員だ”とか、“おれはアイゼンハワーの指揮下にいる”とか言うのと変わらないらしい。『重要なのは、彼らが“儀式”に反応して、つい名前を明かしてしまう、ということなのさ』と、そのエクソシストは言う」と書かれています。

 

エクソシズムとは一発勝負だ、という大きな誤解を世間の人が抱いていることも、ゲイリー神父は知っているとして、著者は「ひとたびエクソシストが『儀式書』の祈りをとなえはじめたら、闘いはそのまま何日もつづき、最後にどちらか一方が倒れて終わる、と大方の人間は思い込んでいる。ペンシルヴァニア州スクラントンで活動するアメリカ人エクソシストは、マスコミとハリウッド映画が広めたこのお手軽なエクソシズムのイメージを評して、“ドライヴ・スルー・エクソシズム”と呼んだ。エクソシストを頼る人々の多くが、そのイメージを抱いているのは驚くにあたらない。彼らの大半は速戦即決を望んでいるのだ」と述べます。

 

グラモラッツォ神父は、「実のところ、エクソシズムとは旅に似ているんだ」と説きました。その旅の“霊的なリーダー”がエクソシストであって、彼は祈りと秘跡を通して請願者が“神の恩寵を再発見する”手助けをするのだというのです。彼は、「そもそも、人が悪魔に憑かれるのを神が黙認する理由はそこにあるのだ」として、「このメッセージはきわめて重要でね。だからこそ、悪魔から解放されるまでには長い時間を要するのさ。それは、当人と家族と教区、それぞれにとっての、長い信仰の旅にほかならないんだ」と言うのでした。

 

第15章「解放」では、著者は「人は祈りやエクソシズムのような儀式によって“癒やされる”という考えに、科学界や医学界は長年白い目を向けてきた。しかし、今日では、治癒を目的としたある種の儀式が真正の回復をもたらし得るということに、疑問をさしはさむ者はいない――鬱、異様な常習行為、過度の不安、そして生命を脅かすほどの病気に至るまで、さまざまな問題がその種の儀式を通じて克服された例を、多くの人類学者が記録している。では、この種の“変則的な治癒”を科学はどう説明するのだろうか?」と述べています。

 

その根底には、“治癒”と“治療”の相違が横たわっているとして、著者は、
『変則的治癒の種類――科学的証拠の検証』の著者、スタンリー・クリップナーとジャンヌ・アフターバーグの「多くの先住民族にとって、“治癒”とは肉体的、精神的、感情的、霊的な能力の回復を意味するのに対し、“治療”とは生物学的な病いを克服することを意味する」という見解を紹介します。

 

変則的な治療の効果を解明するにあたって、科学者や医師はさまざまな手法を試みてきたと指摘し、著者は以下のように述べます。
「ハイチにおける霊的な憑依現象を観察した学者スティーヴ・ミツラクは、ヴードゥー教の憑依現象は心理療法、もしくは“民間療法”の一種と考えられるという結論に達した。また、『恍惚の宗教――シャーマニズムと霊的憑依の研究』の著者I・M・ルイスは、その種の儀式の“心理的に高揚した雰囲気”が、ある種の神経症心因性の病気の治療に効果的なのではないか、と述べている。そして、彼はこう付け加えているのだ――器質的な病気の場合でも、その種の儀式は、患者の回復意欲を強めることによって治療効果を発揮するのではなかろうか、と」

 

続けて、著者は「DID(解離性同一性障害)の患者の治療面では、多くの認知科学者がエクソシズムの持つメリットを指摘している。たとえば、マンツォーニ博士の見解はこうだ――障害の原因は外部の存在であって、病んでいる当人ではないのだ、と指摘することによって、エクソシストは安心感を与える。『それを聞くと――』と、博士は言う。『人は悩みから解放されるのです・・・・・・悪魔憑きから解放されるのも、基本的には神父がセラピストの役割を果たすからなのですね。その人の悪い部分を治療する役目を神父が担うわけです』」と述べています。

 

DIDの治療法として、エクソシズムと科学的なアプローチを比較すると、エクソシズムのほうがずっとメリットが大きいと言うスティーヴン・ジェイ・リン博士は、「ある意味で、エクソシストの儀式のほうがずっと簡略だと思うのです。西洋医学のセラピストは、患者のすべての潜在意識を把握し、記憶を掘り起こし、それらすべてを統合できないと患者を治療できないと考えています。患者のほうでは記憶をとりもどそうとして多大な心理的苦痛に耐えなければならない。それが真の記憶でない場合は、なおさらです。その点、エクソシズムは患者の膨大な過去の記憶に依存する必要がないので、実に簡略な方法と言えます。ですので、こちらのほうが、患者を助ける上でずっと有効ではないかと思います」と語っています。

 

そして、著者はこう述べるのでした。
「治癒をもたらす儀式が有益なのは、プラシーヴォ(偽薬)効果のせいもあるのかもしれない。イギリスのプリマス大学の心理学者マイケル・E・ハイランド博士は偽薬効果の広範な研究を行ってきた。が、プラシーヴォ効果による治療のことを、博士はむしろ“儀式的治療”と呼びたいと言う。『プラシーヴォという言葉が、わたしは好きではないんですね。1つには、“偽”と呼ぶ以上、われわれは真の病因を知っていることを示唆するでしょう。そして2つには、この病気のメカニズムのこともわれわれが知っていることを暗示するからです。本当は知らないのにね』」

 

葬式は必要! (双葉新書)

葬式は必要! (双葉新書)

 

 

さて、本書を再読して、わたしはあることを再確認しました。それは、葬儀も悪魔祓いも、ともに「物語の癒し」としての儀式だということです。拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも書いたように、葬儀とは「物語の癒し」です。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。大事な人間が消えていくことによって、これからの生活における不安。その人がいた場所がぽっかりあいてしまい、それをどうやって埋めたらよいのかといった不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになりますこれは非常に危険なことなのです。

 

古今東西、人間はどんどん死んでいきます。
この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心にひとつの「かたち」を与えることが大事であり、ここに、葬儀の最大の意味があります。この「かたち」はどのようにできているのでしょうか。昔の仏式葬儀を見てもわかるように、死者がこの世から離れていくことをくっきりとした「ドラマ」にして見せることによって、動揺している人間の心に安定を与えるのです。

 

ドラマによって形が与えられると、心はその形に収まっていき、どんな悲しいことでも乗り越えていけます。つまり、「物語」というものがあれば、人間の心はある程度、安定するものなのです。逆にどんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもグラグラ揺れ動いて、愛する肉親の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。死者が遠くへ離れていくことをどうやって演出するかということが、葬儀の重要なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために葬式というものはあるのです。

 

スリランカの悪魔祓い (講談社文庫)

スリランカの悪魔祓い (講談社文庫)

 

 

悪魔祓いも、まったく同じです。
悪魔が実在するのか、実在しないのかは置いておくとしても、悪魔が人間に憑依したものとして、周囲の人間は行動しなければなりません。そして、悪魔と対決し、それを追い払う物語を演じる必要はあります。このあたりはブログ『スリランカの悪魔祓い』で紹介した本に詳しいですが、悪魔と対決して追い払ったというドラマを演じることによって、病気だった患者や精神が衰弱しきっていた者が元気になったという実例はたくさんあるのです。葬儀と同じく、悪魔祓いもまた、「物語の癒し」なのです。

 

実際に、物語は人間の「こころ」に対して効力があります。いや、理論の正しさや説得などより、物語こそが「こころ」に対して最大の力を発揮すると言ってもよいでしょう。葬儀や悪魔祓いの儀式という「かたち」には「ちから」があるのです。いっぽうで、「物語の癒し」といった考え方は、文化人類学民俗学や心理学といった近代的学問の生んだ概念にすぎず、悪魔は実在するし、よって悪魔祓いとしての「エクソシスズム」も実在すると考える人々もいます。その考えは、宗教的でありオカルト的であるとも言えますが。

 

最後に、映画「ザ・ライト」の中に印象深いシーンがありました。父親が危篤になったという連絡を受けたマイケルが、すぐに父のもとに駆けつけようとします。しかし、イタリアの火山が噴火したために22カ国の飛行機が欠航となって、彼は父親の死に目に会えませんでした。そして、そのことが彼の大きなトラウマとなるのです。
ここで、わたしは「もし富士山が噴火したらどうなるか?」ということを考えました。富士山の麓には人家がないため、噴火しても人は死なないと言われていますが、その煤煙で飛行機や列車などの交通機関が完全に不通になるそうです。すなわち、東日本と西日本が真っ二つに分断されるわけです。当然、親などの死に目に会えない人も増えてくるでしょう。葬儀という「物語」によって、こころを癒すことができない人も多いでしょう。映画「ザ・ライト」を観て、そんなことを考えました。

 

ザ・ライト ─エクソシストの真実─ (小学館文庫)

ザ・ライト ─エクソシストの真実─ (小学館文庫)

 

 

 2020年6月14日 一条真也

柳橋紫雲閣竣工式  

一条真也です。
梅雨入りした金沢は今日もしとしと雨でした。福岡は豪雨のようで、心配です。この日、「柳橋紫雲閣」の竣工清祓御祭の神事が行われました。

f:id:shins2m:20200613104123j:plainオープンした柳橋紫雲閣

f:id:shins2m:20200613104052j:plain柳橋紫雲閣の前で

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大谷支配人と

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ロビーには胡蝶蘭が・・・・・・

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中陰会場

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親族控室

f:id:shins2m:20200613104244j:plain休憩室(1人用)

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和室

柳橋紫雲閣は、サンレーグループで全国84番目、サンレー北陸で15番目の施設です。場所は、石川県金沢市柳橋町丙3-1。設計管理はMAC建築研究所さん、施工は豊蔵組さんです。まるで自宅のリビングルームのような、ゆったりいとした最新控室を完備しています。一日一式のみご葬儀をお受けし、大切な人との最後の時間を心安らかに過ごせるよう、経験豊富なスタッフが真心込めてお手伝いいたします。

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本日の神饌

f:id:shins2m:20200613104423j:plain本日の式次第

f:id:shins2m:20200613105852j:plainさあ、儀式の場へ!

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竣工式にて

f:id:shins2m:20200613105956j:plainソーシャルディスタンスを保って・・・・・・

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一同礼!

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清祓之儀のようす

 

神事の進行は、サンレー北陸総務部の上本さんが担当。竣工神事は地元を代表する神社である「松尾神社」の松本昌丈宮司にお願いしました。 開式の後、修祓之儀、降神之儀、献饌、祝詞奏上、清祓之儀を行いました。

f:id:shins2m:20200613111421j:plain玉串奉奠して柏手を打ちました

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神酒拝戴のようす

 

それから、玉串奉奠です。祭主に続いて、最初に サンレー社長であるわたし、続いて東専務が玉串を奉奠しました。その後、撤饌、昇神之儀、神酒拝戴、そして閉式と、滞りなく竣工清祓神事を終えました。

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主催者挨拶でマスクを取る

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主催者挨拶をしました

 

それから、いよいよ主催者挨拶です。
わたしは、次のように挨拶しました。
今も昔も変わらぬ金沢市北部の玄関口であり、藩政時代に江戸へと続いた街道の街並を一部で面影を残し参勤交代の行列が華々しく通った情景を彷彿とさせます。本日、このように立派なホールを建設できて、本当に嬉しく思います。関係者のみなさまに心より感謝いたします。これで、会員様に満足のゆくサービスを提供することができます。ぜひ、新施設で最高の心のサービスを提供させていただき、この地の方々が心ゆたかな人生を送り、人生を卒業されるお手伝いをさせていただきたいと願っています。

f:id:shins2m:20200613112201j:plain柳橋について述べました

 

また、わたしは柳橋について、こう述べました。
柳橋町の町名の起こりは、言い伝えによりますと鎌倉時代浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が越後(現在の上越市)へと下向の際に京都からお后の玉日姫(たまひのひめ)が後を慕って、この地まで逃げて来られました。途中、大雨となったために姫はこの地の街道筋の茶屋にて休まれている時に近くを流れる川が氾濫し橋が流出してしまい渡ることが出来なくなりました。川には他に橋が架かっておらず、そこにはただ一本の大きな柳の木があるのみでした。玉日姫は「柳に霊あれば川を渡してたもれ」と祈ったところ、翌朝には柳の木は自然に倒れ伏して橋となっていたそうです。それ以来、この地は「柳橋」という地名となりました。

f:id:shins2m:20200613112330j:plain土地の由来を話しました

 

さらに、わたしは以下のようにも述べました。
無事に越後に到着された玉日姫は、後に遣いをよこし親切にしてくれた茶屋の好意に報いるため京都で人気のあった京団子の秘法を授けられました。これが今でも伝えられる柳橋団子の始まりとなります。参勤交代の時代には、この街道沿いは多くの旅人たちで賑わい、柳橋団子は食され名物となりました。しかし鉄道が開通してからは時代の移り変わりとともに寂れてしまいました。昭和30年代には東金沢駅の構内で立ち売りされていて人気を博していたといわれております。今はない柳橋団子の面影は現在では兼六団子として売られているものに伝えられています。

f:id:shins2m:20200613112425j:plain聖人を追いて来たるは柳橋ここより向かふ極楽浄土 

 

わたしは、「このような真宗王国の素晴らしい歴史を持つ柳橋に新しい紫雲閣をオープンすることができて嬉しく思っています。新型コロナウイルスの感染拡大で不安な毎日ですが、多くの方々が人生を卒業される儀式のお手伝いをしっかりさせていただきたいです」と述べました。そして最後に以下の道歌を披露しました。

 

聖人を追いて来たるは柳橋
   ここより向かふ極楽浄土

 

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決意表明のようす

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決意表明を受け取りました

f:id:shins2m:20200613112746j:plain集合写真を撮影しました

その後、大谷支配人より、この地の方々の人生の卒業式を心をこめてお世話させていただき、地域に愛される会館をめざしますという力強い決意を受け取りました。決意表明の後は、参加者全員で集合写真を撮影しました。

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昼食会でマスクを外す

f:id:shins2m:20200613115457j:plain昼食会の冒頭で挨拶しました

本来は、柳橋紫雲閣でそのまま直会を開催するのですが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、マリエールオークパイン金沢に移動して、サンレー幹部のみ少人数で昼食会を開きました。もちろん各自、2メートル以上のソーシャル・ディスタンスをしっかり取っていました。冒頭、わたしが挨拶をしました。わたしはマスクを外して、「このような時期ですが、わが社は『礼の社』ですので、竣工式だけは行いました。現在、日本全国に緊急事態宣言が出されています。冠婚葬祭業界も大混乱で、結婚式の多くは延期され、葬儀も感染の危険に脅かされています」と述べました。

f:id:shins2m:20200613115542j:plainこの前代未聞の時代を共に生き抜こう!

f:id:shins2m:20200613115849j:plainいただきます!

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美味しいお弁当でした

f:id:shins2m:20200613120200j:plain昼食会のようす

f:id:shins2m:20200613120212j:plain昼食会のようす

f:id:shins2m:20200613122503j:plainごちそうさまでした!

 

そして、わたしは「まだまだ先が見えませんが、季節は春から初夏に向かい、太陽は輝きを増しています。どうか、何事も陽にとらえていきましょう。どんな絶体絶命になっても、ピンチをチャンスに変えなければなりません。始めがあれば、必ず終わりがあります。未来は明るいですし、サンレーは必ず良くなります。どうか、この前代未聞の時代を共に生き抜きましょう!」と述べました。それから、マリエールの美味しいお弁当をいただきました。柳橋紫雲閣が多くの方々に愛される施設となりますように。

f:id:shins2m:20200612190613j:plain北國新聞」2020年6月13日朝刊

f:id:shins2m:20200430111411j:plain死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)

 

なお、この日の「北國新聞」朝刊に広告が掲載されました。今回は、拙著『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)を抽選で30名様にプレゼントいたします。同書では、小説や映画に登場する言葉も含め、古今東西の聖人、哲人、賢人、偉人、英雄たちの言葉、さらにはネイティブ・アメリカンたちによって語り継がれてきた言葉まで、100の「死を乗り越える」名言を紹介。人生を変えうる言葉を集めました。
みなさま、どうぞ、ふるってご応募下さい!


2020年6月13日 一条真也

オンライン会議in金沢

一条真也です。
金沢に来ています。昨日の北九州市が20日ぶりに新規感染者ゼロだったことが本当に嬉しいですが、この日、九州北部も北陸も梅雨入りしました。今日の金沢も雨です。

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金沢は昨日から梅雨入り・・・・・・

f:id:shins2m:20200612134843j:plainマリエールオークパイン金沢にて

朝、金沢駅前のホテルからわが社の結婚式場である「マリエールオークパイン金沢」に向かい、いろいろと打ち合わせをしました。ここ数か月の新型コロナウイルスの感染拡大による環境の変化で、検討すべき案件が山ほどあります。

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ゴーゴーカレー」ルネスかなざわ店の前で

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ソーシャル・ディスタンスを保った店内

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これが金沢カレーだ!!

f:id:shins2m:20200612121958j:plain久々に、いただきます!

 

ランチタイムには、金沢カレーの王道を行く「ゴーゴーカレー」のルネスかなざわ店を訪れました。「ゴーゴーカレー」の社長さんはマリエールオークパイン金沢で結婚式を挙げて下った方なので、金沢に来るたびに来店します。店内はソーシャル・ディスタンスを保ちながらも、多くのお客さんがいました。久々に大好物の金沢カレーを食しましたが、とても美味しかったです。

f:id:shins2m:20200612135128j:plain マリエールオークパイン金沢にて

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オンライン会議に参加しました

 

食後はマリエールオークパイン金沢に戻って、再度の打ち合わせ。そして、14時からは全互協の儀式継創委員会のZoomオンライン会議に参加しました。ブログ「オンライン会議」に書いた5月11日の会議以来です。あとのときは生まれて初めての経験でしたが、その後、グリーフケアPT会議、互助会保証監査役会、互助会保証取締役会・・・・・・立て続けにリモート参加し、すっかり慣れました。

f:id:shins2m:20200612140622j:plain冒頭、副会長として挨拶しました 

 

本日の会議では、冒頭で担当副会長の挨拶をしました。まず最初に、「みなさん、こんにちは。わたしは、いま、金沢にいます。今回の新型コロナウイルスの感染拡大は、とにかく想定外の事件でした。わたしを含めて、あらゆる人々がすべての『予定』を奪われました。一応は日本全国で緊急事態宣言は解除されましたが、まだ終息したわけではありません。将来、完全に日常が戻ってきたとしても、絶対に忘れたくないことがあります。それは、新型コロナウイルスによって、行われなかった多くの儀式のことです」と言いました。

f:id:shins2m:20200612150552j:plain終息後も絶対に忘れたくないこと 

 

それから、わたしは「今回のパンデミックで卒業式や入学式という、人生で唯一のセレモニーを経験できなかった生徒や学生たちが大きな悲嘆と不安を抱えたこと、一世一代の結婚式をどうしても延期しなければならなかった新郎新婦の悲しい表情、新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった方々の通夜も告別式も行えなかったこと、故人の最期に面会もできず、ご遺体にも会えなかった遺族の方々の絶望の涙・・・・・・これらを、わたしは絶対に忘れたくありません」と言いました。

f:id:shins2m:20200612190335j:plain ポストコロナは儀式の時代です!

 

そして、最後に「今回の外出自粛、ステイホームの間、わたしは感染症の歴史に関する本をたくさん読んだのですが、そこで気づいたことがあります。感染症の流行によって死者の葬送儀礼が満足に行われませんが、その反動で、感染が終息した後は手厚く死者を弔う時代が訪れることです。ポストコロナは、心ゆたかな社会となり、儀式の時代が到来します。儀式という人間にとって最も必要な営みの継続と創新のために、みんなで力を合わせて頑張りましょう!」と述べたところ、盛大な拍手を受けて感激しました。

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上着を脱いで白熱の議論!

 

その後、浅井委員長の「オンライン会議だからこそ、みなさん全員の顔が見えて、意見も聞けるような気がします」との挨拶があり、会議がスタートしました。2時間以上にわたって活発な議論が交わされました。次回の日程も7月22日(水)に決定しましたが、全国どこでも参加できるのでオンライン会議は便利ですね。でも、やはり実物に会うのが一番。新型コロナウイルスの感染拡大が終息して、リアルなみなさんに早く会いたいです!

 

2020年6月12日 一条真也