『エクソシストは語る』

エクソシストは語る

 

一条真也です。
エクソシストは語る』ガブリエル・アモース著(エンデルレ書店)を紹介します。これまで、ブログ『エクソシストとの対話』、ブログ『エクソシスト急募』、ブログ『ザ・ライト――エクソシストの真実――』、ブログ『バチカンエクソシスト』で紹介した本を読んできましたが、そのすべてにカンディード・アマンティー二神父という人物が登場しました。カンディード神父は20世紀に活躍した「史上最高のエクソシスト」と呼ばれた人物です。本書は、弟子筋であり、バチカン公認エクソシストでもある著者のアモース神父がカンディード神父に取材した上で書かれています。なお、版元のエンデルレ書店は、キリスト教の専門出版社です。

 

本書のカバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
ローマ法王庁公認の祓魔師(エクソシスト)による、貴重な著書。国際祓魔師協会の創立者であり、1994年から2001年まで同協会会長を務めておられたアモース師は、本人ご自身もローマ教区直属の公認祓魔師(エクソシスト)であり、長年にわたって、悪魔の力との闘いに貴重な体験を積んでこられました。本書を、こうして日本の読者の皆さまにお薦めできることに、わたしはこの上ない喜びを感じています。【ローマ法王庁大使館大使 推薦文より】」

 

本書の「もくじ」は、以下のようになっています。
ローマ法王庁大使館大使 推薦文」
「著者の序文」
「イタリア版への序文」カンディード・アマンティー二神父
アメリカ版への序文」ベネディクト・J・グローシェル神父
エクソシストは語る
キリストが万物の中心
サタンの力
付録1 教皇レオ13世が目にされた悪魔のまぼろし
付録2 サタンの贈りもの

祓魔式(エクソシズム
悪魔の標的
付録 悪魔を恐れますか?
アビラの聖テレジアの答え
祓魔式の出発点
まず「祝福」
悪魔の習性
悪魔にとりつかれた犠牲者の証言
祓魔式の効果
水・油・塩
家から悪魔を追い出すこと
呪い
さらに魔法について
悪魔を追い出せるのはだれか?
儀式の「シンデレラ」
付録1 聖イレネウスの思考
付録2 悪魔学に関するバチカンの文書
作り直される司教上の指令
付録1 信仰の教義に対する教理省からの文書
付録2 専門家でないものが悪魔を攻撃するのは危険であること
「結びに」
「種々の救済の祈り」

 

ローマ法王庁大使館大使 推薦文」には、ローマ法王庁大使館の大使であるアルベルト・ボッタリーニ・カステッロ大司教が、「国際祓魔師協会(インターナショナル・アソシエーション・オブ・エクソシスト)の創立者であり、1994年から2001年まで同協会会長を務めておられたアモース師は、本人ご自身もローマ教区直属の公認祓魔師(エクソシスト)であり、長年にわたって、悪魔の力との闘いに貴重な体験を積んでこられました」と述べています。

 

「祓魔式(エクソシズム)」では、著者は「教会によって制定された準秘跡だけが祓魔式と呼ばれています。その名を他に使用することは誤った印象を与えやすく誤解を招きます。カトリック教会のカテキズムによると祓魔式には二つのタイプしかありません。1つは洗礼の秘跡で、これは『簡単な祓魔式』の唯一の形式です。それと祓魔師のために指定された準秘跡があり、これは『大祓魔』と呼ばれる盛儀祓魔式です。(カトリック教会のカテキズム1673)破魔式を個人または共同の祈りの形と呼ぶのは間違いです。それは実際のところ単なる解放を求める祈りにすぎません」と述べています。

 

続けて、著者は「祓魔師は悪魔祓いの儀式どおりの祈りに従わなければなりません。祓魔式とその他すべての準秘跡との根本的な違いは、祓魔式は数分で終わることもあれば、何時間もかかることもあるところです。したがって、悪魔祓いの儀式の祈り全部を唱える必要がないこともあるでしょうし、もしくは、その同じ儀式のうちにそれとなく示されているその他の数多くの祈りを付け加える必要があるかもしれません」と述べます。

 

また、著者は「祓魔式の第一の主要な目的は診断をするためであるとわたしは申し上げました。すなわち、その症状が悪魔の働きが原因で起きたものか、自然の成り行きで起きたものかどうかを確かめなければなりません。日付順の配列によって、これはわたしたちが求め、たどり着く第1の目的です。しかし、重要性という点からいうならば、祓魔式の明確な目的は、悪魔憑きもしくは、病気からの救済です。できごとの、この論理的な順序(第一は診断、その次に治癒)を頭に入れておくことが非常に重要です。祓魔式の前、式のあいだ、また式のあと、そして式の最中に起こる徴候の推移に気づくことも大変重要です」と述べています。

 

また、著者は儀式について、こう述べています。
「儀式は、次に、悪魔が自分たちの存在を隠すのに使う多くの策略に対抗するよう、祓魔師に警告するもう1つの規準を課しています。わたしたち祓魔師は、精神を病んでいる人たち、あるいは悪魔の影響を受けていないためにまったくわたしたちを必要としていない人たちに騙されないように当然警戒しなければなりません」

 

著者は、悪魔憑きの徴候として、儀式が挙げている3つのしるしは、知らない言語を話し、超人的な力を発揮し、隠されていることを知っていることであると指摘し、「このしるしは祓魔式のあいだに必ずおもてに現れてくるもので、けっして式の前ではないのがわたしの重要な体験であり、また、わたしが質問した祓魔師全員の体験したことでした。祓魔式を続けて行う前に、それらのしるしがはっきりと現れないかと期待することは非現実的というものでしょう」と述べています。

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「悪魔を追い払う水、もしくは少なくとも聖水、聖香油、塩のような適切な準秘跡が救済の祈りによって示された目標とともに使用されるときには非常に有益です。司祭はだれでも水と香油と塩を清めることができ、祓魔師はそれをする必要がありません。とはいっても、司祭は祓魔式のはっきりと限定された祝福を信じ、それを熟知している必要があります。これらの準秘跡を認識している司祭は非常にまれなのです。大多数の司祭がこれらの存在を知らず、祓魔式を依頼する人を笑うのです。この本の後のほうで、その主題に戻ることにいたします」

 

「悪魔の標的」では、著者は映画「エクソシスト」に言及し、「悪魔憑きというものへの関心が再び取り戻されたのは、映画『エクソシスト』のおかげです。1975年2月2日、バチカン放送局は映画『エクソシスト』の監督、ウィリアム・フリードキンと彼の「専属アドバイ「ザーである神学者イエズス会のトマス・ハミンガム神父にインタビューを行いました。監督は1949年に実際に起きたと本に記されている事件を映画にしたいと申し出ました。映画は悪魔憑きに関して、なんの結論も引き出してはいません。監督によると、これは神学者たちの問題だったのです。イエズス会の司祭は『エクソシスト』はたくさんのホラー映画の1つなのかもしくは、まったく異なった類のものなのかと訊かれたとき、断固として後者であることを主張しました」と述べています。

 

また、著者はサタンについて、「わたしたちはどういうわけで途方もないサタンの活動の餌食となるのでしようか? わたしがいおうとしているのは、誘惑のような通常の活動、だれにでも当てはまる活動以外のもののことです。わたしたちは自らの罪によってか、それともまったく気づかずに悪魔の餌食になります。その理由を4つに分類することができます。(1)神の許可で(2)悪魔の魔力の支配下にあるとき(3)頑なな大罪の状態のため(4)悪い仲間との交流や、悪い場所への出入りを通じて」と述べています。

 

まず、「(1)神の許可で」について、著者は「神は常にサタンの働き誘惑をお許しになり、わたしたちの霊的生活を強めて益となるよう、それに抵抗するのに必要な恵みをすべて与えてくださいます。それと同じように、神は時に悪魔が人間に取り憑くという途方もないサタンの活動を、わたしたちの謙虚さ、忍耐、屈辱に耐える力を増すためにお許しになるのです」と述べます。

 

「祓魔式を始める要点」では、著者は「悪魔祓いの儀式は祓魔師が従わなければならない21の規範を聞くことで始まります。これらの規範が1614年に書かれていてもかまいません。これらの指示――発展させることが可能――は知恵に満ちており、こんにちでもまだ有効です。儀式は悪魔の存在を簡単に信じることに反対する祓魔師に警告し、悪魔憑きが本当に存在することを認めることと、祓魔師の心構えを教えることの両方に役立つ一連の規則を読み上げることで始めます」と述べています。

 

「まず『祝福』」では、著者は「悪魔たちは実に用心深く話します。そういうふうに強いられているのにちがいありません。それだけではなく、完全に取り憑いているもっとも難しい場合にしか話しません。彼らの言葉数が自発的に多くなるのは尋問されるとき祓魔師の集中力をそらして、相手に役立つ答えをするのを避けるための策略です。わたしたちの質問については次の規則を固く守らなければなりません。それは好奇心から来る無駄な質問は一切しないということです。訊くのは悪魔の名前、他にも仲間がいるかどうか、いるとしたら何匹か、そして、いつ、どのようにして特定の人間の体に入ったのか、また、いつ出ていくつもりか、ということです」と述べます。

 

続いて、著者は「わたしたちはまた、その悪魔の取り憑いたのは呪文によるものかどうかを見極め、そして、その呪文を破る特殊な方法を見つけださなければなりません。もし悪魔に憑かれた人が、よくないものを食べたり飲んだりしたとしたら、それを吐き出さなくてはなりません。なにかの妖術が隠されているとしたら、それが隠されているところを話させることが重要です。そうすれば適切に慎重を期して消滅させることができます」と述べています。

 

また、著者は「祓魔式のあいだに完全な失神状態(トランス)に入るようなら、その患者の口をとおして話すのは悪魔です。患者が動くなら、その人の手足を使って動くのは悪魔です。そして、式が終わったとき、患者が何も憶えていないなら、わたしたちは悪魔憑きの症例を取り扱っているということになります。つまり、悪魔が一個人のうちに入っており、時どき取り憑いたものの体をとおして行動するのです。祓魔式の間には悪魔が――儀式の力によって――外に出てくるように強いられることに注目するとよいでしょう。悪魔はそれでも、別のときに、その人を攻撃できますが、通常攻撃の仕方が弱まります」と述べています。

 

さらに、著者は「どんな場合にもその治癒は同じです。祈り、断食、秘跡キリスト教的生き方、愛徳、そして祓魔式です。ありうる悪の源を確認するためには、きわめて簡単とは言いがたいある一般的な指針を使います。なぜなら「反対するもの」すなわち悪魔たちは、5つの領域から人間を襲う傾向があるからです。これらの攻撃は、それらの出所に応じて多かれ少なかれ激しいものです。その5つの領域とは、健康、愛情、仕事、生きる喜びそして、自殺志向です」と述べます。

 

「悪魔の習性」では、著者はこう述べます。
「一般に、悪魔というものはできるかぎり気づかれないように行動します。祓魔師と、自分たちが取り憑いた人たちの両方を落胆させるようなことを、すっかり話したり試みたりするのを嫌がります。この習性は4つの段階をとることを体験がわたしに教えてくれました。4段階とは、気づかれる前、祓魔式のあいだ、救済の始まるとき、救済後の4つです。ひとつとして等しい例はないことに注意するべきでしょう。悪魔の習性はまったく予知のできないもので、多くの異なった形をとります。わたしが説明しようとしているのは、もっともよく出くわす習性です」

 

また、悪魔について、著者は「悪魔たちは話すのをとても嫌がります。当然のことですが、儀式は好奇心から質問をすることなく、救済に必要なことだけを訊くように勧告しています。訊かなければならない第一のことは悪魔の名前です。というのも、悪魔は自らを顕すことは敗北だと考えていますから自分を明かしたがりません。自分の名を伝えるときでさえ、祓魔式のあいだであっても、それをくり返すのを嫌がります。次に、わたしたちは悪魔に、1人の特定の人間の体の中に何匹の悪魔が巣くっているかを白状するように命令します。たくさんのこともあれば、少ないこともありますが、必ず首領がいて、彼がいつも第1に名前を名乗らなければなりません。聖書に出ている名前、もしくは伝統的に与えられた名前(たとえばサタン、ベルゼべル、ルシフェル、ゼブルン、メリディアン、アシュマイダ)であるときには、負かすのが難しい「ヘビー級選手」と関わっているわけです。困難さの程度は、悪魔がある人に取り憑いている強烈さに比例しています。5、6匹の悪魔が取り憑いているとき、1番最後までねばって離れないのは必ずその首領です」と述べています。

 

さらに、著者は以下のように述べています。
「祓魔師は、いつも相手の一番の弱点を見つけることができます。ある悪魔はストラに描かれた十字架の印を体の一部に押し当てられると、ずきずきするその痛みに我慢できません。また、あるものは顔に息を吹きかけられるのに耐えられません。その他にも、あらんかぎりの力で聖水を使った祝福に抵抗するものがいます。祓魔式の祈りの中には、悪魔が激しく反応したり、あるいはそれによって力を失ってしまうある言葉があります。この祈りの点ですが、儀式が提案するように、祓魔師はこの祈りの文をくり返すようにします。儀式の長さは司祭の判断によって異なります。たびたび初めに診断を下すだけではなく、祓魔式の長さを定める目安にもなるため、医師の列席が役に立ちます。悪魔に取り憑かれたもの、もしくは祓魔師の具合がすぐれないときには、医師が儀式をいつやめたらいいかを助言します。祓魔師も、それ以上、続けても無駄だと判断したときには中止を決めることができます」

 

「悪魔にとりつかれた犠牲者の証言」では、著者は「サタンの真の目標は、苦しめたり、害を加えることではないのです。彼が人間に求めているのは苦痛ではなく、もっと重大なことです。つまり、彼はわたしたちの敗北した霊魂が「もう止めてください。わたしは負けました。わたしは悪の手に握られたひと塊りの粘土です。神はわたしを解放なさることができません。そんな苦しみをわたしたちに許されるのなら、神は子どもたちのことを忘れておられるのです。神はわたしのことなど愛してはおられません。悪は神よりも偉大です」というのを待っているのです。これでは完全に悪の勝利です。わたしたちの苦痛が信仰を鈍らせ、もはや信仰するのが無理になっても、「わたしたちは信仰を求めなければならないのだ」と、自分をきびしく叱らなければなりません」と述べます。

 

続けて、著者は「悪魔はわたしたちの意志には手を出すことができません。わたしたちの意志は神のものでもなければ、悪魔のものでもありません。わたしたちを造られるとき、神はそれをわたしたちに与えてくださいましたから、それはただわたしたち自身のものです。ですから、それをなくさせようとするものには、いつでも「だめだ」といってやらなければいけません。聖パウロのように『天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスのみ名にひざまずかなければならない』ことをわたしたちは信じなければならないのです」と述べています。

 

「家から悪魔を追い出すこと」では、著者は、「猫は『霊を身につける』動物で、悪霊は見破られないために猫の外観をとると、よくいわれます。ある魔術師や、魔術のある形式にとって、猫を使うことは基本的なことです。それはこの魅力的なペットの責任ではないことをわたしははっきりしたいのです」と述べます。また、「呪い」では、著者は「呪いは災いを呼び起こします。そして、すべての災いの源は悪魔的なものです。呪いの言葉が本当に真剣に口にされるとき、特に呪いをかけるものと、かけられるものとのあいだに血のつながりがあると、結果は恐ろしいものとなります。わたしの出会ったとても一般的な例では、子どもたちや孫の上に呪いがかかるように願った両親や祖父母が関わっていました。もっとも容易ならぬ結果は、災いが起こるようにとの呪いが、だれかを亡きものにしたいとか、結婚式のような特別の出来事にかけられるときに起こります。両親を子どもたちにつなぐ権威ときずなは他人のだれよりも強いのです」と述べています。

 

「さらに魔法について」では、著者は「聖書が、旧約と新約の両方の中で、どれほどたびたび魔法や妖術師に注意するよう警告しているかは驚くばかりです。聖書は、魔法というのは人間を自分に縛り付けて人間性を失わせるよう悪魔が使うもっとも一般的な方法の1つだと警告しています。直接あるいは、間接的に、魔法はサタンの信仰(カルト)です。なんらかの種類の魔法を行うものは、自分たちはすぐれた力を操ることができると信じています。しかし、実際には、操られているのは彼らのほうです」と述べます。

 

魔法には模倣性のものと、伝染性のものの2種類があるとして、著者は「模倣性の魔法は、形式と慣習とが似通っている概念に基づいています――すべてのものが似たものを発生するという原理に基礎をおいているのです。例えば、操り人形が標的を演じます。そして、人形の体をピンで突き刺しているあいだに適切な『儀式の祈り』が唱えられたあと、犠牲者も突き刺されている感じがして、人形の体の突き刺されたのと同じ部分が痛み出したり、そこに病気が起きたりします。伝染性の魔法は体の接触や、接触伝染の原理に基づいています。標的を支配する力を得るために、妖術師は、犠牲者の髪の毛や、切った爪、衣類などに近づかなければなりません。写真でも構いませんが、その場合、全身が写ったものがよく、顔が必ずはっきり分かるものでなければなりません。この種の魔法では、1つの部分が全体を代表します。言い換えれば、1つの部分になされることが、その人全体に影響します」と説明しています。

 

また、最悪の呪術について、著者は述べます。
「最悪の呪術は、アフリカ起源のもので、人に害を与えることを目的とする魔術が根本となっており、また亡くなった人たちの霊や、優れた霊と接触することを目的とする交霊術(口寄せ)に基づいています。交霊術は、どこの国でも、またどの民族のあいだでも行われています。その手段は自己を明らかにしたいと求めている霊魂に、自分の活動力(声、身振り、書いたものなど等)を貸すことで霊と人間との仲介をすることです。これらの霊は――いつも、悪魔にすぎませんが――交霊術の会に参加する人たちのだれかに取り憑きます。教会はかならず、交霊術の会に出席する人たちを咎めています。サタンに相談することで役に立つことはけっして得られはしません。死者を呼び出すなど本当に不可能でしょうか?」

 

さらに、悪魔について、著者は「悪魔たちは1人の人間を使って実に大きな団体――ここでいうのは一国を引き継いだり、それ以上の国ぐにに影響を与えうるということです――に作用します。わたしたちの時代では、これはカール・マルクスヒットラースターリンのような人たちの場合にあたるでしょう。ナチスによって犯された残虐行為、スターリン共産主義の恐怖や虐殺は、いうなれば悪魔の行為のような極悪非道ぶりでした。政治の分野以外では、歌手たちが人のぎっしり詰まった会場で聴衆を扇動し、しばしば極度の激しさと破壊の絶頂に達する熱狂のように、ある種の音楽をサタンの道具として指すことをわたしはためらいません」と述べるのでした。

 

本書は、なんといってもジャーナリストではなく、バチカン公認のエクシストを代表する人物が書き下ろした本です。類書にはない説得力がありますが、この内容をそのまま信じれば、この世は悪魔に支配されており、日常生活のあらゆるところに悪魔が影響を及ぼしていることになります。そう、本書には「シャーマニズム」とか「解離性同一障害」といった用語は一切登場しないのです。版元のキリスト教系の出版社ですが、本書もまたキリスト教徒が信仰を強めるための書物だと言えるでしょう。それでも、本書を読めば、ピオ神父、カンディード神父、そしてアモース神父のような聖職者に会いたくなってきます。

 

エクソシストは語る

エクソシストは語る

 

 

2020年6月16日 一条真也