天恩郷

一条真也です。
30日、サンレー北陸の社員旅行に合流すべく、京都に向かいました。
宿は、亀岡にある湯の花温泉「松園荘 保津川亭」です。
いわゆる「京都の奥座敷」として知られる場所ですね。


JR亀岡駅前で



JR亀岡駅に降り立ったわたしには、どうしても行きたい場所がありました。
その場所とは、大本教の本部である「天恩郷」です。
日本の霊的巨人である出口王仁三郎が築いた地上天国です。


大本教本部にて

天恩郷を訪れました



大本教は1892(明治25)年の正月に突如、艮の金神が降りてきて神憑かりとなったという老女出口ナオによって開かれた、いわゆる新興宗教の1つです。1898(明治31)年にナオと出会った上田喜三郎ことのちの出口王仁三郎の手によって急速に信者を増やしていきました。なおの昇天後、王仁三郎は主著である『霊界物語』の口述を開始し、教団は隆盛をきわめます。
しかし、その時代の枠にまったくとらわれないでハイパーなアナーキー性のため、1921(大正10)年と1935(昭和10)年の2回にわたって当局から大弾圧を受け、今では大本教そのものとしては衰退してしまいました。



しかし、生長の家を創立した谷口雅春をはじめ、世界救世教の教祖・岡田茂吉、三五教の中野与之助、神道天行居友清歓真などがいずれも、かつては王仁三郎の弟子であり、大正期の大本教の青年幹部だったことを知れば、大本教がまさに現代宗教の「おおもと」であったことがわかります。さらに、念写の福来友吉と並ぶ「心霊学」と大家であった浅野和三郎や、合気道の開祖として知られる植芝盛平らも王仁三郎の右腕であったと聞けば、今さらながらに「日本霊学のダム」としての大本教の巨大さを思い知らされます。


かつて、ここには亀山城がありました

天恩郷の参道で



拙著『遊びの神話』(PHP文庫)にも書きましたが、丹波の国亀岡生まれの出口王仁三郎こそは明治維新以後の日本において最も注目すべき個性だと思います。王仁三郎は、「世界には数多くの宗教があるが、そのもとは同じで、目指す理想も同じはず。ただ、表現の仕方が違うだけだ」という万教同根の思想を持っていました。彼は、同じ考えを抱いている外国の宗教と次々に提携をします。その中には、中国の予言教団「道院・紅卍字会」も含まれていました。これは、至聖先天老祖を中心に世界5大宗教の宗祖である老子孔子、釈迦、キリスト、マホメットをまつるという、非常に興味深い教団です。


天恩郷の案内図

エスペラント



また、王仁三郎はザメンホフによって提唱された世界言語エスペラントにも大いに関心を示し、自らエスペラント普及会という団体を創立して会長になっている。このあたりは同時代の宮沢賢治、さらには人智学運動のルドルフ・シュタイナーともつながってきます。おそらく、王仁三郎は宗教も言語の区別もない平和な理想郷をつくろうとしていたのではないでしょうか。


久々にやってきました

広大な宗教施設です



わたしが天恩郷を訪れたのは二度目です。
最初は、2004年にサンレーグランドホテルがオープンする直前で、同ホテルに設置した宗教美術館「宗遊館」の参考にするための視察としてでした。
天恩郷は、亀山城跡にあります。築城400余年・かの明智光秀の居城でした。その姿を今に残す壕と石垣の一部から、当時の姿をしのぶことができます。
丹波亀山城は別名を亀宝城、霞城ともいい、層塔型の5層の天守閣と3重の堀をめぐらしたその偉容は、亀山5万石の規模をはるかに越えた全丹波29万石にも相当する城塞でした。しかし、1878年(明治11年)、政府の方針で廃城処分されることになりました。天守も解体され、建物の一部は払い下げられました。以降、土地も建物も転売を繰り返されるうちに見る影もなく、荒れ果てました。


大本大道場の前で

緑ゆたかな神苑でした



1919年(大正8年)、本丸、出口王仁三郎が聖師を務める大本が亀山城の二の丸付近を入手しました。そして、城内に残った石を掘り起こし、積み直し整備しました。翌年には大道場を開設し、建造物を建て、やがて「天恩郷」と命名したのです。1935年(昭和10年)の「第二次大本事件」での破壊を経て復興し、現在に至っています。
天守跡の石垣の一部に、築城、整備された時代のものが残っています。


「ギャラリーおほもと」の前で

天声社売店

万祥殿で拝礼する

万祥殿の縁側で「有縁社会」を想う



天恩郷には、万祥殿という礼拝殿があります。
昭和33年(1958)8月7日に完成しました。
「おほもとすめおほみかみ」をまつり、天恩郷の至聖所・月宮山を拝します。殿内には、切り妻造りの能舞台が造られ、建物の北側に茶室「万祥軒」が隣接し、大本の教風である「宗教と芸術の一致」の教えが表現されています。
大本教は、あらゆる宗教の源が同じであるという「万教同根」を唱え、「人類愛善協会」を設立して世界語としての「エスペラント」運動も積極的に推進しました。


大本花明植物園の前で

木の花桜(このはなざくら)



天恩郷には、「花明山植物園」という素晴らしい植物園もあります。
園内の中ノ島西南端に生育している「木の花桜」は樹齢約250年だそうです。
木の花桜は、ヤマザクラ(山桜)の変種で、花弁が60枚前後もあります。一花に雌しべが2本ついているのが特で、昭和29年、花明山植物園の竹内敬・初代園長と、バラ科の世界的権威・小泉源一博士によって、学会に発表されました。


現在の月宮宝座のようす

月宮宝座を遠くから拝礼する



天恩郷のシンボルとなるのは、至聖所・月宮宝座です。第二次大本事件が起きるまでは、十字の形の礎石に月宮殿が建っていました。1928年(昭和3年)に完成した月宮殿は、出口王仁三郎が高熊山修行(1898年・明治31年)中に見せられた天界の宮殿を地上に模写したものとされています。
約9000個にのぼる石を使用した総石造りで、日本建築史上にまったく類例がありません。しかも、古代アジアの伝統絵画を参考にしたというその様相は独創的で、まるで竜宮城のようだったとか。
わたしは、この月宮殿のエピソードに限りないロマンをおぼえます。
いつか、わたしも「月の宮殿」を地上に造ってみたいです。


これが今回の収穫物です!



第二次事件で、月宮殿は破壊されます。警保局保安課の記録には「数十発のダイナマイトを一時に爆発させても局部的損傷にしかならず、異常の苦心を重ねた」とあります。完全に破壊するまでに21日を費やし、使用したダイナマイトも実に1500発を数えたそうです。たまらなく想像力をかき立てられますね。
戦後になって新たに発足した大本では、出口王仁三郎教祖の意志に基づき、散乱した国魂石を積み上げ、1949年(昭和24年)、現在の月宮宝座が完成しました。頂にある「天拝石」は重さは約7.5トンにもなるとか。月宮宝座は、1992年(平成4年)から至聖所として、禁足の地となりました。現在も立ち入り禁止のため、わたしは遠くから拝ませていただきました。
久々に大本教の聖地を訪れ、いろいろと考えるところがありました。


*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年10月30日 一条真也