儀式なくして人生なし

 

一条真也です。
わたしはこれまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「儀式なくして人生なし」という言葉を取り上げることにします。



2011年3月11日に発生した東日本大震災は未曽有の大災害であり、「無縁社会」および「葬式は、要らない」といった風潮を変えました。大津波の発生後、しばらく遺体は発見されず、多くの行方不明者がいました。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。

 

 

拙著『のこされた  あなたへ』(佼成出版社)にも書きましたが、葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持ちのやり場がない・・・・・・まさに「ない、ない」尽くしの状況は、災害のダメージがいかに甚大であり、かろうじて助かった被災者の方々の心にも大きなダメージが残されたことを示していました。現地では毎日、「人間の尊厳」が問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けたのです。あのとき、葬儀という営みが「人間の尊厳」に直結していることを再認識しました。まさに、大地震は「無縁社会」を崩壊させ、大津波は「葬式は、要らない」という妄言を流し去ったのです。

 

 

2016年、わたしは『儀式論』(弘文堂)を上梓しました。合計600ページで函入りの大著です。結婚式にしろ、葬儀にしろ、儀式の意味というものが軽くなっていく現代日本において、かなりの悲壮感をもって書きました。儀式は、地域や民族や国家や宗教を超えて、あらゆる人類が、あらゆる時代において行ってきた文化です。しかし、いま、日本では冠婚葬祭を中心に儀式が軽んじられています。そして、日本という国がドロドロに溶けだしている感があります。

 

 

四書五経の『大学』には八条目という思想があります。
「格物 致知 誠意 正心 修身 斉家 治国 平天下」ですが、自己を修めて人として自立した者同士が結婚し、子供を授かり家庭を築きます。国が治まり世界が平和になるかどうかは、「人生を修める」という姿勢にかかっているのです。

 

 

かつての日本は、孔子の説いた「礼」を重んじる国でした。しかし、いまの日本人は「礼」を忘れつつあるばかりか、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。自由気ままに結婚し、子育てもいい加減にやり過ごした挙句、「価値観」の相違を理由に離婚してしまう。そんな日本人が増えているように思えてなりません。

 

 

日本人は、結婚式も挙げなくなっています。「みんなのウェディング」の「ナシ婚」に関する調査2015(有効回答数316)によれば、14年の婚姻件数64万9千組に対し、結婚式件数35万組というデータから、入籍者のおよそ半数が結婚式をしていないことを予想しています。これは、冠婚葬祭に代表される儀式の意味を子どもに教えることが出来なかった結果でしょう。「この親」にして「この子」ありとでも言えばいいでしょうか。「荒れる成人式」が社会問題となって久しいです。毎年のように検挙される「若者ならぬ馬鹿者」が後を絶ちません。成人式で「あれこれやらかす輩」が登場するのは90年代半ば以降、いまの40歳以降の世代です。

 

永遠葬

永遠葬

Amazon

 

結婚式も挙げず、常軌を逸した成人たちを持つ親たちを最後に待っているのは何か。それは、「直葬」という名の遺体焼却です。いまや、葬儀さえもがインターネットで手軽に依頼できるという時代となりました。家族以外の参列を拒否する「家族葬」という葬儀形態がかなり普及しています。この状況から、日本人のモラル・バリアは既に葬儀にはなくなりつつあることは言を待ちません。家族葬であっても宗教者が不在の無宗教が増加しています。また、通夜も告別式も行わずに火葬場に直行する「直葬」も都市部を中心に広がっています。さらには、遺骨を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで登場しました。しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は最も「人間尊重」に反します。

 

 

とはいえ、日本人の儀式軽視は加速する一方です。「儀式ほど大切なものはない」と確信しているわたしですが、あえて儀式必要論という立場ではなく、「儀式など本当はなくてもいいのではないか」という疑問を抱きながら、儀式について考えようと思い、その立場で『儀式論』を書き進めました。その結果、やはり、わたしは儀式の重要性を改めて思い知ったのです。わたしは、人間は神話と儀式を必要としていると考えます。社会と人生が合理性のみになったら、人間の心は悲鳴を上げてしまうでしょう。結婚式も葬儀も、人類の普遍的文化です。多くの人間が経験する結婚という慶事には結婚式、すべての人間に訪れる死亡という弔事には葬儀という儀式によって、喜怒哀楽の感情を周囲の人々と分かち合います。このような習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われているのです。すごいことですね。

 

 

社会学者エミール・デュルケムは、ブログ『宗教生活の原初形態』で紹介した本の中で「さまざまな時限を区分して、初めて時間なるものを考察してみることができる」と述べています。これにならい、「儀式を行うことによって、人間は初めて人生を認識できる」と言えないでしょうか。儀式とは世界における時間の初期設定であり、時間を区切ることです。それは時間を肯定することであり、ひいては人生を肯定することなのです。さまざまな儀式がなければ、人間は時間も人生も認識することはできません。まさに、「儀式なくして人生なし」です。儀式とは人類の行為の中で最古のものであり、哲学者ウィトゲンシュタインは「人間は儀式的動物である」との言葉を残しています。わたしは、儀式を行うことは人類の本能ではないかと考えます。本能であるならば、人類は未来永劫にわたって結婚式や葬儀を行うことでしょう。


ポロシャツの背には英文とQRコードが・・・

 

ブログ「50周年記念旅行祝賀会 in 台湾」で紹介した行事では、わたしはブログ「『天下布礼日記』BLOGシャツ完成!」で紹介したオリジナル・ポロシャツを着て、北島三郎の「まつり」を歌いました。このポロシャツの背面には「NO CEREMONY NO LIFE」と英文でプリントされています。もちろん、「儀式なくして人生なし」という意味であります。


NO CEREMONY NO LIFE!

 

2022年7月27日 一条真也

死を乗り越える宮沢賢治の言葉

 

わたしくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です。
宮沢賢治

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、詩人、童話作家として知られる宮沢賢治(1896年~1933年)の言葉です。賢治は、岩手県の花巻出身。盛岡高等農林学校卒。代表作『銀河鉄道の夜』は英訳、仏訳もされています。他にも『注文の多い料理店』『風の又三郎』など多数。

 

 

わたしは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が大好きです。宮沢賢治とは、文学者というよりも異界を見ることのできた幻視者だったのではないでしょうか。彼の作品の多くは、科学的だともいわれます。ここで取り上げた言葉も、じつに宮澤賢治らしい表現です。文学者は自分を何かにたとえることがあります。雨だったり、風だったり、海にたとえる人もいます。



冒頭の言葉は賢治が生前に出版した唯一の詩集である『春と修羅』の「序」に出て来る有名なくだりです。全文は以下のようになります。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い証明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の 
ひとつの青い証明です 
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

 

これらの謎に満ちた言葉は、あまりにも難解だとされてきました。わたしは、『涙は世界で一番小さな海』(三五館)でその謎に挑戦しました。たとえば、賢治が霊能力者であったことを頭に置いて読むならば、目から鱗が落ちるかのように、その意味が立ち上がってきます。神秘学の世界では、人間とは複合体です。すなわち、肉体とエーテル体とアストラル体と自我とから成り立っている存在が人間なのです。このことは、ルドルフ・シュタイナーが講演の度に毎回繰り返していい続けたことでもありました。それほど人間にとって重要な事実であり、神秘学の基本中の基本だからです。つまり、人間とはまさに透明な幽霊の複合体なのです!



そして自我とは、「幽霊の複合体」でありながらも、統一原理として厳然と灯る主体に他なりません。賢治は、このことを自分の体験によって実感していたのです。ちなみに、複合体の一つである「アストラル体」とは「幽体」とも呼ばれます。臨死体験などでの「幽体離脱」を「アストラル・トリップ」ともいいます。そして、どうやら賢治は人生のさまざまな場面でアストラル・トリップを繰り返していたようです。それにしても、「青い照明」とは、なんと美しい言葉でしょう。彼の才能を垣間見る一言です。そして死生観も伝わってきます。



賢治は、仏教、特に法華経に傾倒。信仰と農民生活に根ざした創作を行っていたといえます。父が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と語ったといいます。


生前に出版された彼の著書は二冊。童話集『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』だけでした。あまりに短いその生涯は、一瞬輝く青い光だった気がします。なお、この宮沢賢治の言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。

 

 

2022年7月27日 一条真也

松柏園TV放映中に東京へ!

一条真也です。
26日の朝、わたしは北九州空港に向かいました。そこから、スターフライヤー80便に乗って東京に出張です。東京は新型コロナウイルスの感染者が急増し、ついに3万人超えも果たしました。完全に「第7波」に入っています。その上、連日の猛暑で、熱中症患者も急増しているとか。

北九州空港の前で

北九州空港のようす(乗降客2000万人達成!)

いつも見送り、ありがとう💛

それでは、行ってきます💛

 

今回の東京行きは、前会長を務める全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の理事会、副会長を務める一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の正副会長会議、理事会、副会長を務める全日本冠婚葬祭互助会政治連盟の役員会、副理事長を務める一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の理事会、さらには社外監査役を務める互助会保証株式会社監査役会および取締役会に参加するためです。その他にも、出版社との打ち合わせなどもありますが、今回の最大の楽しみは、普段は絶対に予約できない飲食店の名店が奇跡的に予約できたことです。日本を代表する料理店で匠の品を味わって、わが社の松柏園ホテルの参考にしたいと思っています。

TNC「ももち浜ストア」より

TNC「ももち浜ストア」より

TNC「ももち浜ストア」より

TNC「ももち浜ストア」より

TNC「ももち浜ストア」より


TNC「ももち浜ストア」より

TNC「ももち浜ストア」より

TNC「ももち浜ストア」より

TNC「ももち浜ストア」より

TNC「ももち浜ストア」より

松柏園といえば、ランチ&アフタヌーンティーがTNCの「ももち浜ストア」という番組から取材を受け、今日26日の10時15分から生中継されました。あいにく、わたしは東京出張なのでテレビを観れませんが、録画を依頼しました。トロピカル★マンゴー・アフタヌーンティーフェアで紹介したように、松柏園ホテル のリゾートレストラン「ザ・テラス」において7月15日より8月31日まで「トロピカル★マンゴー・アフタヌーンティーフェア」が開催中ですが、大好評で予約が殺到しています。みなさんも、ぜひお越し下さい。ただし、完全予約制です!

スタ―フライヤー80便の機内で

 

ブログ「第7波の東京へ!」で紹介した7月20日の東京出張は10時15分発のJAL374便でしたが、この日は10時発のスターフライヤー80便に搭乗。乗客率は5割から6割ぐらいといった感じでしょうか。この日のわたしは、スーツ&ポケットチーフ&不織布マスクをロイヤルブルーでコーディネート。クールビズなのでネクタイはしていません。ブログ「マスクを楽しむ!」のように、わたしは多彩な色のマスクを着用しますが、常に「悪目立ちしない」ことを意識します。飛行機に乗るときは、必ず不織布マスクを着用します。

機内では読書しました

 

機内では、いつものようにコーヒーを飲みながら読書をしました。この日は、三崎律日著『奇書の世界史2』(KADOKAWA)を読みました。ブログ『奇書の世界史』で紹介したベストセラーの続編です。前作を超える、驚きの奇書とその歴史を紹介しています。『ノストラダムスの大予言』『シオン賢者の議定書』『疫神の詫び証文』『産褥熱の病理』『Liber  Primus』『盂蘭盆経』『農業生物学』『動物の解放』といった、時代の「むかし」と「いま」で評価が反転した奇妙な書物が続々と登場します。むかしは「名著」とされたのに現代の視点で読むとトンデモナイ書物だったり、むかしは「悪書」「フィクション」だったのに現代の視点で読むと大変な名著という本が紹介されていて、興味は尽きません。著者は1990年、千葉県生まれ。会社員として働きながら歴史や古典の解説を中心に、ニコニコ動画、YouTubeで動画投稿を行っています。代表作「世界の奇書をゆっくり解説」のシリーズ累計再生回数は600万回を超え、人気コンテンツとして多くのファンを持っているそうです。


東京の上空は雷が・・・


羽田空港に到着!


羽田空港にて


いつものラーメン店に入りました

 

11時35分に羽田空港に到着予定でしたが、東京の上空が雷とのことで上空で待機し、11時50分に到着しました。気温は26度でしたが、雨なので蒸し暑いです。わたしは、いつものラーメン店に入り、昼食に「ほぐし味噌ラーメン」を注文しました。わたしは九州の豚骨ラーメンよりも味噌ラーメンの方が好きなのです。食後は、赤坂見附の定宿でチェックインしてから亀戸の結婚式場「アンフェリシオン」に向かい、全互連の理事会に参加します。

ほぐし味噌ラーメンを食べました

さあ、行動開始です!

 

2022年7月26日 一条真也

『陰謀論はどこまで真実か』

増補版 陰謀論はどこまで真実か

 

一条真也です。
『増補版 陰謀論はどこまで真実か』ASIOS著(文芸社)を読みました。著者のASIOSとは、2007年に日本で設立された超常現象などを懐疑的に調査していく団体で、名称は「Association for Skeptical Investigation of Supernatural」(超常現象の懐疑的調査のための会)の略です。海外の団体とも交流を持ち、英語圏への情報発信も行うそうです。メンバーは超常現象の話題が好きで、事実や真相に強い興味があり、手間をかけた懐疑的な調査を行える少数の人材によって構成されているそうです。ASIOSの本には、ブログ『UFO事件クロニクル』ブログ『UMA事件クロニクル』ブログ『超能力事件クロニクル』で紹介した本などがあります。


本書の帯

 

本書のカバー表紙の下部には、「Qアノン・Jアノン・米国大統領不正選挙説など22の陰謀論をファクトチェック!」「明治天皇すり替え説・田中上奏文日航機撃墜説・9・11自作自演説・地球温暖化否定説・3・11人工地震説・ダイアナ妃謀殺説などが『どこまで本当か』を調査し、考察する」と書かれています。


本書の帯の裏

 

カバー裏表紙には「CONSPIRACY THEORIES」「集団ストーカー・ケムトレイル・朝鮮風水破壊説・ブラジル勝ち組・M資金ロッキード事件謀略説・「アポロが持ち帰った月の石は地球の石」・月面にエイリアン居住説・ロズウェル事件とエリア51・ノーベル賞人種差別説・ホロコースト捏造説・フリーメイソンイルミナティユダヤによる世界支配説などを検証!」と書かれています。なお、 本書は、2011年に文芸社から発刊された『検証 陰謀論はどこまで真実か』をリニューアルしたものです。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
まえがき――増補版の発刊によせて(本城達也
第1章 Qアノンとアメリカ大統領選挙をめぐる陰謀論
第2章 私たちの生活に関わる陰謀論
第3章 日本史の中で語られた陰謀論
第4章 アポロとUFOをめぐる陰謀論
第5章 世界史の中で語られた陰謀論


「まえがき――増補版の発刊によせて」では、ASIOS代表の本城達也氏が「ここでいう『陰謀論』とは、『ある出来事や事件に対し、常識や通説とは大きく異なる陰謀があったとする主張』です。『陰謀』には『ひそかな悪だくみ』といった意味がありますから、もっと簡単に別の言い方をすれば、『あの事件や出来事の裏では、常識では考えられないひそかな悪だくみが行われていた』というものです」と述べています。近年、陰謀論が盛んになっています。なぜ、こうした変化が起きたのでしょうか? 本城氏によれば、考えられる要素は主に2つあるそうです。


1つは、2016年のアメリカ大統領選挙で、積極的に陰謀論を利用するドナルド・トランプが当選したことです。アメリカ大統領は絶大な発信力と影響力を持ちますから、当時の現役大統領としてトランプが発信する陰謀論の情報は、注目を集めないわけがないというのです。もう1つは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の利用者が増えたことです。ドナルド・トランプ前大統領が情報発信の手段の1つとして、SNSのツイッターをよく利用していたことは知られています。そうしたSNSを利用する人が、この10年ほどで増えているのです。

 

本書のスタイルは、最初に個別の陰謀論が紹介され、続いて「陰謀論」で詳しい内容を紹介し、さらには「真相」が語られるというものです。第1章「Qアノンとアメリカ大統領選挙をめぐる陰謀論」の冒頭に置かれた「Qアノン信奉者は、トランプとともにアメリカ再生のために戦っている(Qアノン陰謀論)では、「陰謀論」として、文学修士でAISOS運営委員のナカイサヤカ氏が「2017年、何でもありの4chan(フォーチャン)というアングラの電子掲示板で、『Q』というアカウントが、アメリカ政府の内部情報だと称する書き込みを始めた。軍関係の高官だと自称する『Q』が書く情報は、断片的な予言のような謎めいたものだった。だが、掲示板ユーザーの努力で解読が試みられると、だんだんとアメリカ政府の内部で大変な事態が起こっていることが明らかになってきた。掲示板ユーザーによる『解読』によると、民主党議員たちは実は小児性愛者で、日々子供たちに性的虐待を加えるという享楽にふけっている。虐待する相手の子供たちは人身売買組織から買っている」と書いています。


こうした「Q」が発信する情報を信じて活動する人々は、「Qアノン」信奉者と呼ばれています。「アノン」は匿名を意味する英語の「アノニマス」(anonymous)に由来するとして、ナカイ氏は「彼らが唯一の希望をつないだ存在がドナルド・トランプだ。長年民主党にやりたい放題やられてしまっている共和党大物議員たちと違って、トランプなら真実を暴き出してくれるだろう。『Q』が知らせようとしているのは、ドナルド・トランプがまもなくストーム(大変革)を起こし、すべてが変わるということだ」と述べます。


Qアノン陰謀論の「真相」の「『Q』の登場とQアノンの誕生」では、陰謀論の骨子に、「アメリカ政府を裏から操り、悪魔を崇拝する秘密結社ディープステート」という悪役が加えられたことが指摘されます。そして、悪役に対峙するヒーローには、「政治のしがらみとは無縁の庶民派大統領ドナルド・トランプ」が「神に選ばれた人」(ザ・チョーズン・ワン)として置かれ、そのトランプが「民主党議員たちの悪逆非道な行いを白日の下にさらし、アメリカに大変革(ストーム)をもたらす」という物語が付け足されたことを指摘し、ナカイ氏は「こうして誕生したのがQアノンである」と述べています。


また、「アメリカの分断の象徴となったエスタブリッシュメント」では、植民地時代のアメリカが本国イギリスの植民地政策に反抗して独立戦争を起こしたのは、植民地にやってきた財産も教育もあるイギリス人の子孫たちだったとして、ナカヤ氏は「さらにその子孫たちが東部に都市を作って、世界で初めて王様のいない共和国の舵を取る『アメリカのエスタブリッシュメント』となる。WASP(白人でアングロサクソンプロテスタント)という呼び名も、同じような人々を違うカテゴリーで呼んだものである。一方で、同じヨーロッパ出身でも、身一つでアメリカにやってきた人たちがいた。ピルグリム・ファーザーズたちと同じように信仰の自由を求めるプロテスタント信者たちである。彼らはヨーロッパの祖国では得られなかった夢を実現しようとして移住してきた人々で、新天地で生きていこうとして、自作農として農園を開いたり、鉱山を探したり、小さな事業を始めたりした」と述べます。


小児性愛者への敵意と『子供を救え』というキャッチフレーズ」では、陰謀論では、魔女や悪魔崇拝者は善良なキリスト教徒に対する不道徳の象徴として定番の存在であるとしながらも、著者は「だが、かつては不道徳の極みであり、悪魔と契約した人でなしの所業とされてきた離婚や未婚者の出産、同性愛や同性婚までがアメリカで認められるようになると、そうした行為をする人々が普通に社会的地位を獲得するようになる。それどころか、信仰の自由の名の下で、魔女の宗教ウィッカや悪魔教まで信者を集めているのが現代アメリカである。悪魔崇拝や魔女だけではもう敵としてのインパクトが弱い。そのような風潮にあって、道徳的な価値観が違う人でも一致して糾弾するのが、子供を傷つける行為だ。Qアノンが敵と見なす人々が小児性愛者という想定になっているのはこのためだろう。アメリカで子供を傷つけた人々への反感や反発は日本の比ではない。2003年に子供に性的虐待を行った罪で服役中だったカトリックの神父が刑務所内で殺された」と述べます。


このような背景がある中で、Qアノン信奉者は仲間を増やすためにSNSで拡散されやすい「子供を救え」(セーブ・ザ・チルドレン)というキャッチフレーズを考え出しました。このフレーズに興味をひかれ、クリックすると、そこには子供たちが酷い拷問を受けているという、おぞましい話が書かれています。ちなみに、「子供の血を使った悪魔の儀式が行われている」といった話は、12世紀から存在していたことがわかっています。それが「ブラッド・リベル」(血の中傷)といわれるもので、昔はユダヤ人たちがキリスト教徒の子供の血を使って悪魔の儀式をしているとされていました。ナカイ氏は、「これは、やがて20世紀になると、ナチスによってユダヤ人の迫害に利用され、ホロコーストにもつながっていく」と述べています。



「共通の敵を持つことで結びつく、コミュニティ型の陰謀論」では、Qアノン陰謀論にはSNSの仕組みも一役買っていると指摘し、ナカイ氏は「SNSで連絡し合っている仲間が陰謀論系の情報をシェアし始めると、『エコーチェンバー』(仲間内で同じような情報だけが繰り返し交換される状態)ができやすく、別の角度からの意見が届きにくくなる。また、仲間に勧められて、動画サイトでQアノンを解説している動画を見ると、次々と『お勧めの動画』として同じような動画が再生され続ける。気がつけば頭の中はQアノン情報で一杯になっているわけだ」と述べます。


イギリスのケント大学心理学教授カレン・ダグラスは、人々がそのように怯えてしまう内容の陰謀論に惹かれる理由は3つあると述べました。以下の通りです。
(1)人々は自分にとって理不尽で重大な出来事が起こったときに、自分が納得できる理由を求める心理が働く。
(2)さらに真実を知る自分は優位な立場にいると感じることで、重大な事件で感じた無力感から抜け出せる。
(3)次に、仲間に支持されていたいという心理が働いて、陰謀論に惹かれる。


つまり大事故が立て続けに起こってたくさんの人が死ぬのも、世界各地でずっと悲惨な内戦が続いているのも、「秘密結社による世界人口半減計画」が実行されているからだとなれば、原因があって起こってるのだと安心できるわけです。それに、そのような信じがたいことが実際にあると知っている自分は優位に立てると感じることもできます。さらに、同じことを知っている仲間を得られればもっと安心するといいます。ナカイ氏は、「このように陰謀論を信じる人は、理不尽で不安を煽るようなことばかり考えては怯えているように見えるかもしれないが、上記のように考えれば安心できるのが、陰謀論の魅力だというのだ」と説明します。


Qアノン内部には様々な矛盾した物語も共存しているため、ジャーナリストたちはQアノンを、様々な物語を中に入れる「大きな陰謀論のテント」と呼ぶようになっていると指摘し、ナカイ氏は「Qアノン信奉者たちが共有しているのは、彼らが敵と考えるディープステートの手先となっているエスタブリッシュメントへの怒りと、自分たちは正義を実行して国や家族を守らなくてはならないという自負であると言ってよい。Qアノン信奉者たちは共通の敵を持つことで、ゆるく結びつき、共存する。教祖的な存在を持たない彼らにとって大事なのは、自分の信じる筋書きに対して仲間同士の支持を得ることなのだ。Qアノンはいわば、コミュニティ型の陰謀論とも言える集団なのだろう」と述べます。


「そして議会議事堂乱入事件へ」では、陰謀論の世界にはまり込んでしまうことを、『不思議の国のアリス』に登場するアリスが白ウサギを追って落ち込んで不思議の国に行くことになるウサギの穴に例えて、『ウサギ穴に落ちる』というと紹介し、ナカイ氏は「穴の先には幻の陰謀論の世界があって、そこでさまよい始めると出口は見えず、脱出は難しいわけだ。Qアノン信奉者は自分で自分好みの幻想を作り出し、幻想の世界にはまってしまう。現実と切り離されて、適切な判断ができなくなってしまう状況をうまく表した例えと言える」と述べています。


そして、「反ワクチン運動との合体に警戒を」では、今最も警戒されるのは新型コロナウイルス流行でやや劣勢となっている反ワクチン活動家たちと合体することだろうとして、ナカイ氏は「反ワクチン運動は、もともとワクチンの副作用とされる薬害被害の補償を政府に求め、危険な副作用があるものを拒否する権利を認めてほしいという主張をしていた。だが、安全で効果が高いワクチンが普及して運動の存在価値が薄れるにつれ、だんだんと科学や医療を否定することが目的になってきている」と述べるのでした。


「Qアノンは日本人にも大事な真実を伝えている(Jアノン陰謀論)」の「陰謀論」では、「Qアノンの影響を受けた日本への陰謀論者『Jアノン』」として、アメリカには悪魔を崇拝する小児性愛者たちの秘密結社が存在し、それがディープステート(影の政府)として政府を支配しているという陰謀論の具体的内容を紹介します。カルト宗教研究家で「やや日刊カルト新聞」主宰者の藤倉善郎氏は、「リベラル的な政府高官や米民主党の政治家、ハリウッドスターたちはこの結社に属しており、こうした影の勢力と闘っているのがトランプ大統領(当時)なのだという」と述べています。


悪魔崇拝小児性愛といった類の主張は前面に出てはきませんでしたが、アメリカを牛耳るディープステートは中国共産党と結託しており、バイデンもその一味だという説を紹介し、藤井氏は「それらと闘うトランプは神に選ばれた大統領であり、中国共産党の脅威を退けるためにはトランプが再選されるべきだ。そんな主張を掲げるデモや街宣が日本全国(主に東京都内)で2020年11月から翌年1月までの間に少なくとも十数回も展開された。Qアノンの影響を受けた日本の陰謀論者『Jアノン』たちである」と述べます。


Jアノン陰謀論の「真相」の「路上の主力は2つの宗教勢力」では、Jアノンには多くの団体が入り乱れていてわかりにくいのですが、大まかに2系統に分けることができるといいます。1つは、サンクチュアリ協会系。サンクチュアリ協会とは、霊感商法や正体を隠していの偽装勧誘が問題視されている統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の分派で、「7男派」とも呼ばれます。2012年に死去した統一教会の教祖・文鮮明の7男・亨進氏を直接の指導者として設立された教団です。亨進氏は2021年1月6日の連邦議事堂襲撃事件の日にも、連邦議会を取り囲むトランプ支持者たちの抗議活動に参加しているそうです。そして、もう1つの宗教勢力は、大川隆法氏が主宰する「幸福の科学」を中心とする幸福の科学系です。



サンクチュアリ協会が統一教会から離脱するより前の2010年、幸福の科学大川隆法氏は、当時存命中だった統一教会教祖・文鮮明の守護霊を呼び出したと称してその言葉を記録し、書籍『宗教決断の時代 目からウロコの宗教選び(1)』として出版しました。藤井氏は、「文鮮明を地獄に住む蜘蛛であるかのように扱う等の内容を含んでいたことから、統一教会幸福の科学に対して2度にわたって抗議文を送り、謝罪と訂正を要求。幸福の科学はこれを拒否し、2014年にも大川隆法氏が別の著書『忍耐の法』で、文鮮明イエス・キリストについて『偽物である』としているかのように述べたとして、統一教会は3度も幸福の科学に抗議書を送りつけた。ここでも幸福の科学は謝罪と訂正を拒否している」と述べます。


「2020年アメリカ大統領選挙民主党側が大規模な不正を行った」の「真相」では、米国現代史研究家の奥菜秀次氏が「なぜ2020年になったら突然空前レベルの選挙不正システム構築が可能になったのか。全米で数千人いる選挙管理人(公務員でもある)の目を盗んで、バイデン派はどうやって不正準備を行ったのか。トランプ派が言う不正が事実なら、とんでもない規模の準備が必要だが、なぜ事前に陰謀の計画が漏れなかったのか」」という疑問について、「郵便局員から選挙管理人までというと、全米各州に渡っており、地域的に東西南北に散らばっている。職種も統括も管理も異なる数多くの組織の上から下まで、バイデン派の息がかかるようにしないと、隠蔽もうまくいかない。そんな陰謀は現実的に不可能だ」と述べています。


第2章「私たちの生活に関わる陰謀論」では、世に流通しているさまざまな陰謀論が取り上げられていますが、「東日本大震災は『人工地震』によって起こされた!?」の「陰謀論」では、「日本攻撃のための人工地震津波実験が行われていた」として、「例えば、日本では、昭和初期から人工地震が何度も起こされており、その様子が新聞記事でも報じられていた。また、人工地震を起こすことが可能な、いわゆる『地震兵器』も、1976年にはその使用を禁止する条約が国連総会で採択されている。日本も1982年にこの条約に加入しており、外務省のウェブサイトでは条約文を確認できる」と述べています。


さらに2005年にはアメリカ軍から機密文書が公開され、第二次世界大戦中の1944年に、アメリカ軍とニュージーランド軍が共同で行っていた人工地震津波実験が明らかになったといいます。これは「プロジェクト・シール」と呼ばれるもので、当時、アメリカの敵国であった日本を攻撃するため、密かに行われていた実験であると指摘し、奥菜氏は「同プロジェクトの文書によれば、爆弾を爆発させることで、地震と30メートル超の大津波を発生させることに成功。爆弾は海底プレートから8キロ以内に仕掛ければ、1年以内に狙った場所で地震津波を起こせるという。日本人は知らなかったが、昔から日本は人工地震や人工津波の標的にされていたのだ」と述べます。


「私たちは『思考盗聴テクノロジー』を使った『集団ストーカー』に狙われている」の「陰謀論」では、「集団ストーカーの犯人は宗教団体や警察か」として、エレクトロニック・ハラスメントとかマイクロウェーブ・ハラスメントと呼ばれるものがあることを紹介し、SF作家の山本弘氏が「ある集団が最新の『思考盗聴テクノロジー』を用いて、特定の市民を攻撃し、苦しめているというものだ。彼らは被害者の心の中を遠隔から読み取る一方で、下品な内容や中傷するような内容の声を、被害者の頭の中に『放送』する。『殺す』『死ね』などと脅迫してくることもある。また、被害者の肉体を操って、痛み、かゆみ、めまい、心臓の動悸、下腹部への異常な感触を起こしたりもする。こうした集団は、いわゆる『集団ストーカー』と同一視されることが多い」と述べています。


「真相」の「『思考盗聴』の訴えは1930年代から存在していた」では、何者かに心を読まれているとか、電波が聞こえるという訴えは、近年になって生まれたものではなく、1930年代からすでに存在していたのだ。CIAもまだない時代であると指摘し、山本氏は「ラジオのなかった時代には、頭に響く声は神や悪霊のものと解釈されただろう。牧師のジョージ・トロスは、1714年に出版された自伝の中で、自分が20代から無数の幻影や声につきまとわれてきたことを語っている」と述べるのでした。


第3章「『M資金』はGHQが接取した財産などをもとに運用されている秘密資金」の「陰謀論」では、「日銀のダイヤ34万カラット以上が消えた!」として、その行方に関連して1960年代からある噂がささやかれており、それが「M資金」と呼ばれる闇の超巨大融資システムであると紹介されます。歴史研究家の原田実氏は、「M資金の『M』はGHQの経済科学局長として資産を管理していたウィリアム・マーカット少将の頭文字をとったものとする説が有力だが、アメリカの隠し資産として『メリケン・ファンド』の隠語で呼ばれたからという説などもある」と述べています。また、「西ドイツのマルク債や米ドルも利用された」として、「ウィリアム・マーカット少将は旧日本軍が隠匿していた資産の一部(もしくは大部分)をストックした。そして財閥解体で宙に浮いた資本やアメリカ政府の反共産主義諜報活動予算からの出資などと併せ、日本の戦後復興(ひいては日本の共産圏入り阻止)のための秘密予算を組んだ」と書かれています。


ロッキード事件アメリカが仕組んだ田中角栄つぶしの謀略だった」の「真相」では、原田氏が「ロッキード事件発覚当時のマスコミはほぼ一致して、田中角栄は金権の権化たる巨悪、検察はその巨悪と戦う正義というわかりやすい図式で事件を報じた。庶民は検察およびその図式を作ったマスコミを支持し、巨悪の逮捕に溜飲を下げたわけである。その先例が以後の政治・経済犯罪疑惑においてもマスコミ報道の定番を形成し、今にいたっているというわけだ。その説に基づくなら、検察による冤罪を生みかねないスタンドプレーのきっかけを作ったという意味で、ロッキード事件をめぐる『陰謀』は今もなお悪弊を残し続けているということになる」と述べています。


また、「通常の外交手順だけで米国の主張が通る」では、日本は安全保障だけでなく食料・エネルギーなど国民生活の根幹までアメリカと、アメリカを中心とする「国際社会』に依存していることが指摘されます。さらにいえば日本は戦後いきなりアメリカ頼みになったわけではなく、近代化以降、ほぼ一貫してアメリカとの交易は日本経済の基幹となっていたとして、原田氏は「1941年から1945年にかけて、アメリカと交戦状態だった時期の日本が、民需・軍需ともあっさり物資欠乏に陥ってしまった原因は輸入・輸出ともアメリカに依存する貿易構造にあったのである」と述べています。


もちろん、田中角栄を含む歴代の総理大臣は、その力関係の中でできるかぎり日本側の要望を通すために努力してきました。しかし、日本がアメリカに頭を押さえられているという事実は覆しようがないとして、原田氏は「その閉塞感ゆえに、日本国民の間には、日本史の中に、アメリカと果敢に戦った英雄を見出そうとする心理が生じやすいのかもしれない。山本五十六しかり、戦艦大和しかり・・・・・・。田中角栄は、かつて日本で最も人気があった政治家の1人であり、失脚後にアメリカとの関係で叩かれた人物でもあった。だからこそ、彼は陰謀の犠牲者と噂されることで、一部の日本国民の胸中においてアメリカと戦った英雄の列に加えられたのかもしれない」と述べるのでした。



第4章「アポロとUFOをめぐる陰謀論」の「アメリカ政府は『月面に異星人が住んでいる』という事実を隠蔽している」の「真相」では、「大気の状況や光学的現象で、奇妙な地形に見えただけ」として、AIOS創設会員で超常現象情報研究センター主任研究員の羽仁礼氏が「月面にある、建造物にも見えるような物体の目撃報告は、グルイテュイゼン男爵の発見をはじめとして無数にある。しかし、地上からの望遠鏡を用いた観測については、望遠鏡の精度が低かったため画像がぼやけた、あるいは大気の状況やレンズの反射などによって生じた光学的現象により、普通の地形が奇妙なものに見えたのだとも考えられる。さらに、観測者の先入観によって、自然の地形を人工物として認識することもある」と述べています。



第5章「世界史の中で語られた陰謀論」の「ナチスによるガス室でのユダヤ人虐殺はなかった(ホロコースト否定論)」の「真相」では、「群の到着時に遺体は残っていなかった」として、奥菜秀次氏が「〈ガス殺〉遺体の解剖・検死云々だが、ガス室稼働中にソ連軍が到着し施設を占領したなら解剖や検死もできたかもしれない。だが、運営役の親衛隊がソ連軍の侵攻を察知して証拠隠滅を図り、ガス室の稼働を停止し破壊した。つまり、軍が到着した時点で〈ガス殺〉遺体は焼却され残っていないため、検死も解剖も不可能だったのだ。ただし、〈ガス殺〉された女性囚人の毛髪が生地作成用に残されており、そこから青酸が検出されていて〈ガス殺〉の証拠となっている」と述べます。


また、「命令書が存在しない例は多い」として、アドルフ・ヒトラーによる〈ガス殺〉命令書が存在しないのは事実だが、ソ連スターリン首相やカンボジアポル・ポト首相、中国の毛沢東主席ら、数百万人の自国民の大量虐殺や処刑、大量殺人につながった武装闘争等を行った国のトップの命令書や指示書が存在しない例は珍しくはないとして、奥菜氏は「また、強制収容所の運営は、ガス室ができる前にヒトラーの元警護隊で私兵でもある親衛隊が統括運営することになったため、命令系統が軍とは異なる。親衛隊はヒトラーの指示書がなくとも命令で動けたため、『指示書がない行動をしたら違反』という概念は元からないのだ」と述べています。


さらに、「焼却炉におかしなところはなかった」として、「陰謀論」の「大量殺害に続く大量火葬をするには火葬炉が少なすぎる。連続火葬に必要な燃料もない」に言及する奥菜氏は、「通常の火葬場では一度に1人焼却する。だが、それは慣習に基づく使用法である。ガス室近くの火葬場では複数遺体を一度に焼却するので、『火葬炉が少なすぎる』ことも『必要な燃料がない』こともないのだ。また、通常の火葬場で焼かれる遺体は脂肪分の少ない老人や病死者が大半だが、アウシュヴィッツでは〈ガス殺〉直後の脂肪分の多い遺体が大半だった。それで、燃えやすく、燃料は少なくて済んだのだ。過剰な肥満体が多いアメリカで、遺体焼却時に大量の脂肪が燃焼し、火葬炉が過熱状態となって炉から火が噴き出したことがあった。だが、アウシュヴィッツでは焼却炉から流れ出た脂肪を燃料に使用するケースもあった。ナチス側の焼却炉設計時の機能算定書類では、実際の稼働推定より多い焼却可能数が出ていた。つまり、ナチスの焼却炉にはおかしなところは何もなかったのだ」と述べるのでした。


「米国同時多発テロは自作自演によって引き起こされた(9・11テロ陰謀論)」の「真相」では、「爆弾炸裂なら、数万人が証言するはず」として、奥菜氏が「世界貿易センタービル付近で本当に爆弾が炸裂したなら、『爆弾炸裂音を聞いた』という証言がマンハッタン島全土の住民の数万人から出てくることは間違いない。しかし証言は消防士やレポーター、地下にいたウィリアム・ロドリゲスも含め、ビルの近くにいた人たちからしか出ていない。しかもわずか100人足らずだ。そのことこそ、爆弾炸裂がなかった証拠だと言っていいだろう。要は、爆破解体時の爆音を聞き慣れた人でないと、轟音が爆弾炸裂かどうか判別するのは無理なのだ。さらに言うと、爆弾炸裂時には閃光が発生し空気振動も起きるが、世界貿易センタービル崩壊時にはそれもなかった」と述べています。


また、「『ペンタゴンの壁の穴』は最初にぶつかった部分の大きさ」として、「ボーイングが突入したというが、ペンタゴンの壁に開いた穴が小さすぎる」という、理解しやすい話は9・11陰謀論を蔓延させたことを紹介しつつも、奥菜氏は「だが、航空機の機体は飛行のため空気抵抗を減じる必要があり、水平尾翼は(垂直尾翼も)機首に近い方が短く(低く)デザインされている。そのため、ぶつかる相手が機体より柔らかくない限り、最初に短い(低い)部分がぶつかり、壁が機体より硬く尾翼では壁を砕けないため、穴は機体の左右の大きさにはならないのである。事実、目撃者によれば航空機は尾翼が折りたたまれる形で建物内に突入していったという」と述べます。


最後に、「ダイアナ妃はイギリス王室に謀殺された」の「真相」では、「有名人が死ぬと陰謀を信じる人が増える」として、ナカイサヤカ氏が「ダイアナ妃殺害陰謀説は、愛するダイアナを突然失った人々が味わった大きな喪失感を背景にして、生まれてきたことがわかってきた。人は喪失による衝撃には、まず否認することで対処しようとする。夭折した有名人が実は生きているという伝説は、大概この否認によって生まれる。『こんなに重要な人がただの事故や、そのような犯罪で死ぬはずがない』と思う人は、陰謀を疑う」と述べるのでした。世に陰謀論を真に受けて信じる頭の悪い人は多いですが、そういった困った人たちを論破のに本書は最適のテキストだと言えます。

 

 

2022年7月26日 一条真也

『プーチンと習近平 独裁者のサイバー戦争』

プーチンと習近平 独裁者のサイバー戦争 (文春新書)

 

一条真也です。
プーチン習近平 独裁者のサイバー戦争』山田敏弘著(文春新書)を読みました。著者は1974年生まれ。米ネヴァダ大学ジャーナリズム学部卒業。講談社、英ロイター通信社、『ニューズウィーク』などの記者を経て、米マサチューセッツ工科大学で国際情報とサイバーセキュリティの研究・取材活動にあたりました。帰国後はフリーの国際ジャーナリスト、コメンテーター、ノンフィクション作家、翻訳家、コラムニストとして活躍。


本書の帯

 

本書の帯には、ロシアのプーチン大統領と中国の習近平国家主席の顔写真が使われ、プーチンの顔の下には「ウクライナ侵攻 米ロ水面下のスパイ戦」、習近平の顔の下には「AIと人海戦術 『14億総スパイ化』計画」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「ハッキング、フェイクニュースビッグデータ、デジタル人民元・・・・・・」として、「●側近も元スパイばかり、プーチン政権のアキレス腱●プーチンを追い詰めた、西側諸国の『情報同盟』●サイバー大国ロシアはなぜウクライナで失敗したのか●習近平が中国を14億総スパイ国家に変えた●原子力技術からジュース缶の塗装技術まで、何でも盗む中国●海底ケーブルから情報を抜き取る米中●トランプ大統領を誕生させたロシア発のフェイクニュース●日本にいま必要な本格的『サイバー軍』ほか」と書かれています。

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「ロシアによるウクライナ侵攻と共に注目が集まったサイバー世界の戦争。そしてにわかに高まる台湾海峡の危機、ロシアと中国というスパイ大国が、アメリカや日本など西側諸国に仕掛けた情報戦争の内幕をスパイ取材の第一人者が解き明かす」

 

アマゾンの「内容紹介」には、「第三次世界大戦はすでに始まっている」として、「アメリカの覇権をくつがえそうとするロシアと中国。サイバー技術とスパイを使った二大陣営の戦いは私たちに何をもたらすのか。ロシアによるウクライナ侵攻とともに注目が集まったサイバー世界の戦争。そしてにわかに高まる台湾海峡の危機。ロシアと中国というスパイ大国が、アメリカや日本など西側諸国に仕掛けた情報戦争の内幕をスパイ取材の第一人者が解き明かす」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 プーチンの戦争とサイバー戦
第二章 中国は技術を盗んで
    大国になった

第三章 デジタル・シルクロード
    米中デジタル覇権

第四章 中国に騙されたトランプ
第五章 アメリカファーストから
    「同盟強化」へ

第六章 日本はサイバー軍を作れ
「おわりに」


「はじめに」の冒頭には、2022年2月24日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領によるテレビ演説で、彼が「特別な軍事作戦を実施することにした。ウクライナ政府によって8年前、虐げられてきた人々を保護するためだ」と語った後、ロシア軍がウクライナ領内に侵攻したことが紹介されます。19万ともいわれるロシア軍によってウクライナを早々に屈服させるとみられていましたが、想像を超えるウクライナの徹底抗戦により、プーチンのもくろみは崩れ去りました。著者は「これは形を変えた第三次世界大戦の号砲ではないか」と感じていたそうです。


第一章「プーチンの戦争とサイバー戦」の「ロシアの情報を『フェイクニュース』にする」では、開戦直前の2月15日と23日に行われたサイバー攻撃は、ロシア軍によるものだと説明。実際の武力行使の前に敵国の情報系統を攻撃するのは、現代ロシア軍の得意とする戦術であり、この戦争でもウクライナ全土にわたって集中的に行われていたことがわかるとして、著者は「具体的には、DDoS(データを大量に送り付けサーバーをダウンさせる)型と呼ばれる攻撃方法が多く用いられる。ウクライナでも、このサイバー攻撃国防省などのHPが閲覧できないようになった。また、ロシア軍によってGPSのジャミング(電波による妨害)も行われた形跡がある」と述べています。


KGBスパイとしてのプーチン」では、ロシアをこのようなサイバー攻撃大国に育てたのは、スパイ出身の大統領、ウラジーミル・プーチンその人であるとして、著者は「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは、1952年にサンクトペテルブルクに生まれた。父はソ連海軍に徴兵され内務人民委員部(NKVD)という秘密警察に所属していたことがある。プーチンは地元のサンクトペテルブルク大学では法律を学び、大学卒業後は、同級生のセルゲイ・イワノフ(のちにプーチン政権で国防相となる)と共にKGBに入った。KGBでは、養成機関「レッド・バナー・インスティチュート(現SVRアカデミー)」でスパイのイロハを叩き込まれた。まず配属されたのは、政府に批判的な政治家や活動家らを監視するKGB第5局だった」と説明します。


プーチンの『精神分析』」では、かつて、プーチンは、多い時には1日30人以上の人と会議を行っていたと言われたことを紹介します。しかし、新型コロナの感染拡大以降は、ごく限られた側近たちのみと会うようになったとして、著者は「その結果、判断力が鈍ったのかもしれないが、それを『病気』とまで言ってしまうのには躊躇を覚える。しかし、欧米メディアからは、次々と『プーチンパーキンソン病の可能性がある』『がんで闘病している』などといった真偽不明の記事が流された。国家の要人の健康状態は最高機密情報であり、真実はうかがい知るすべもないにもかかわらずだ。筆者は、欧米が流す一連のプーチンの『精神分析』には、ある種のストーリーを作る意図があるように思える。それは、『プーチンとその側近が、この異常な戦争を起こしたのであって、ロシア国民は悪くない』というものだ」と述べます。


「強化されていたウクライナ軍」では、著者は「ロシアは一国で、西側の情報機関、メディアのすべてを相手に戦っていることになる。このような、世界的な団結が起こるとは、プーチン大統領は予想できなかったに違いない。最後に現在のウクライナ軍が、2014年のクリミア半島併合当時とは全く違う軍隊になっていたことにも触れておこう。クリミア半島併合の後、ウクライナは欧米から膨大な軍事支援を得てきた。特にアメリカは、紆余曲折あるにせよオバマ、トランプ、バイデンと歴代政権が軍事援助を続けてきた。トランプ政権は2019年に2億5000万ドル(約280億円)、バイデン政権では、戦争がはじまってからの金額を含めて、12億ドルのウクライナへの安全保障支援を行っている(「日経新聞」3月14日付)。支援は武器だけではない。軍事顧問団を派遣して兵士たちの訓練まで行っていたのだ」と述べるのでした。


第二章「中国は技術を盗んで大国になった」の「半導体の奪い合い」では、中国が「世界の工場」となり世界第2位の経済大国となったと自体は世界の経済にとって、何ら問題はないだろうとしながらも、著者は「しかし、問題は中国が経済成長、産業技術部門での発展を、外交、安全保障での他国への優位、強圧的な支配的ポジションの確立と、明確に結び付けようとしていることだ」と述べています。習近平国家主席は、2021年5月の談話で「もし科学とテクノロジーが確立できれば、国家が確立できる。そして、科学とテクノロジーが強ければ、国家は強くなるだろう」と述べています。


その「テクノロジー」には、AIや5Gなどに加えて、2021年から世界的な供給不足が大きな問題となっている「半導体」も含まれていると指摘し、著者は「あらゆる物事をデジタル化しようとするDX(デジタル・トランスフォーメーション)の世界では、半導体がいかに重要なものかは、誰の目にも明らかだ。そのため、現在は世界各国による半導体の奪い合いとなっている。半導体の確保が国力に直結する時代になっているのだ」と述べます。


アメリカのスパイ組織」では、世界最大かつ最強のスパイ大国であるアメリカには18の情報機関があるとして、著者は「そのうち国外に出て人を使った諜報活動を行うのはCIAで、国内で入国してくる外国のスパイなどを逮捕権を持って取り締まるのはFBIだ。また軍や国務省の組織なども含まれており、そうした組織が政府と、国民の生命と財産を守るために命懸けで諜報活動を行なっている。その中でサイバー戦に特化し、もっとも機密性が高く凄腕と言われるのがNSAである。もともとNSAは、第二次世界大戦中に盗聴などを行ってきたスパイ組織で、技術の発展に合わせインターネットを駆使したスパイ活動を行うようになった。ハッキングや盗聴などで世界を監視し、さらにはハッキングツールなどを独自に開発して米情報機関のサイバー攻撃を技術的に支えてもいる」と述べます。


現在、世界人口78億人のうち、インターネットにアクセスしている人は49億人ほどだそうです。北米や西ヨーロッパなどの先進国では利用者の数は人口の90%を超えます。インターネットを使っている人たちの92%(約45億人)がスマホなどモバイル端末経由でインターネットを利用しています。つまりネット利用者の多くは、電子メールやメッセージアプリを使いながら、位置情報を通信会社に提供していることになります。そうして集まったデータはさらなるスパイ活動に生かされてきたとして、著者は「さらに、NSAは米軍のなかにあるサイバー軍とも密接な関係がある。NSAの長官とサイバー軍の司令官は同じ人物が兼務することになっており、両組織はメリーランド州のフォート・ミード基地に本部が置かれている。アメリカのサイバー攻撃は、この両組織が共同で行っていると考えればわかりやすいだろう」と述べます。


世界で多くの人がインターネットやメッセージアプリなどを使えば使うほど、政府や情報機関は人々の行動を把握しやすくなります。著者は、「皮肉なことだが、つまりは、便利さの見返りに個人情報をスパイに手渡しているということなのだ。そもそもインターネットというシステム自体が、アメリカ軍から生まれたものだし、当然、インフラや関連産業のトップはアメリカ企業ばかりだ。ロシアや中国によるなりふり構わないサイバー攻撃にもかかわらず、このサイバー分野でのアメリカの優位は依然、保たれているといえるだろう。ロシアがウクライナ侵攻で情報拡散が劣った理由の1つには、この事実があった」と述べます。


アメリカのハッカー対策」では、アメリカが機動的になったのは、中国のサイバー攻撃の変化が原因の1つではないかと推測し、著者は「中国のハッカーが『盗み』以外にも手を広げてきたのだ。2020年7月、FBIはMSSの広東省安全局に協力する中国人ハッカー2人を指名手配した。公開されたその手配書には容疑としてこう書かれている。『不正アクセス』『コンピューター権限へのアクセスおよび損壊』『企業秘密の不正取得』『有線通信不正行為』『悪質な個人情報詐取」』。これだけ読むといつもの『盗み』のようにも読めるが、このケースは単なる情報の詐取というレベルを超えていた。ここで手配された2人は、中国の国外で香港の民主化運動に関わっている活動家たちなど、中国の反体制派や数百の関連組織の情報をターゲットにしていたのだ。中国政府に敵対的な人たちを監視するための情報を不正に取得していたいわばサイバー攻撃と人権侵害をセットで行っていたのだ」と述べます。


「インターネット世界のルールづくり」では、中国は、それぞれの国家が独自に自国内のインターネット上の情報やアクセス権などのルールを決め、統制すべきだとすることが紹介されます。つまり国際的な取り決めでインターネットの国内運用に口を出されるのは、主権侵害であるという姿勢なのだとして、著者は「中国政府がインターネットでの監視や検閲を正当化し、自国民がインターネットを使って何ができるのか、どんな情報を見ていいのかを管理するのは当然の権利であるというのである。さらに驚くべきことに、現行の国際法や人権法とは異なる独自の決まりを作るべきだと提案する。ことは単にネット上のルールではなく、もっと根本的な国家観、自由への考え方の対立なのだ」と述べています。


「中国のスパイの実態」では、中国のスパイの3分の1が中国の民間人である点に注目すべきであるといいます。つまり、専門的な訓練を受けた中国の人間だけが、アメリカ国内で暗躍して情報を盗んでいるわけではないのです。その一般人をスカウトしスパイに仕立てあげているのがMSSであるとして、著者は「近年では、UFWD(中国共産党中央統一戦線工作部)の活動も盛んだ。この組織は、中国共産党の政策に賛同する国外の中国人を増やすことや、その人物を使って外国の世論を『親中』にするための工作を行っている。旧ソ連の対外工作を参考に作られたとされる組織だが、長年活用されてこなかった」と述べます。


同組織に目をつけたのが習近平です。
2017年の党大会で同組織を「共産党の目標の達成を確かなものにするために重要」と位置付けていたのです。国家主席の肝入りということもあり、いまではすべての在外公館に職員を派遣していることを紹介し、著者は「留学生や海外の研究機関に所属している研究者たちの動向を、中国学生学者連合会を通じて監視している。主なチェック対象は、台湾問題、チベット問題、新疆ウイグル自治区の問題などで中国の政策に反対する言論活動をしていないか、という点だ」と述べています。


また、「中国語や中国文化を学ぶという名目で、日本やアメリカなど各国の大学に作られている『孔子学院』などの組織とも密接な協力関係があるとされている」と説明しています。「孔子学院」に関しては、習近平の野望のために孔子という聖人の名が利用されていることに大きな怒りをおぼえます。MSSやUFWDという情報機関に属している職員たちは、スカウトした一般人を工作員へと仕立て上げて盗みを行わせるそうです。「国民全員をスパイにする法律」では、中国のスパイの人数は、どこの情報機関も全体像を把握できないほど多いとして、著者は「それは、国民全体がスパイ活動に容赦なく動員されているからだ。驚くべきことに習近平体制では、民間企業や個人もMSSなど情報関連機関による協力要請や情報提供要請に応じる義務を負うことが、法律で明確に規定されるようになった」と説明しています。


第三章「デジタル・シルクロードと米中デジタル覇権」の「デジタル・シルクロードの意味」では、中国が2049年までに世界の覇権を握るために、特に重視している産業がハイテク分野であるとして、著者は「それは単なる産業政策に留まらず、外交、安全保障とも深く結びついている。それを端的に示しているのが、2015年に中国政府が発表した『デジタル・シルクロード』構想だ。この構想は、『一帯一路』計画の一部で、中国国内だけでなく、ユーラシア、アフリカ大陸などにまたがる巨大な中華デジタル圏を作ろうとするものだ」と述べています。


デジタル・シルクロード構想の具体的内容ですが、中国政府が外交を通じ、「一帯一路」域内の各国に働きかけ、デジタルインフラの整備の許可を取ります。そして、中国の標準規格を導入させ、通信機器をファーウェイなどの、中国製のみで固めるよう促していきます。中国製品は、利益度外視で国の補助金を得て作られているので、格安で導入することが可能だとして、著者は「当然ながら欧米のメーカーは排除される。そこに、中国のEコマース(EC、ネット通信販売)業者や金融機関が進出してビジネスを拡大する。インフラ設備、端末機器、決済システムを中国が握ることで、金や情報が一気に中国に流れ込む仕組みを作るというわけだ。このデジタル・シルクロードが完成したら、各国のシステムが中国本国から常に監視されるばかりか、遠隔アクセスされるようになってしまうのではないか、という重大な懸念が持たれている」と述べます。

 

「顔認証の罠」では、AIを「賢く」するには深層学習(ディープラーニング)が重要な要素となっているとして、著者は「そのためには、できる限り多くのデータを読み込んで学習させる必要がある。人権への配慮を必要とせず大量のデータを集めるのに中国ほど適した環境はない、という皮肉な事態を生んでいるのだ。プライバシーや人権を無視しながらどんどん情報を収集して、AIの精度を高めている中国に対し、欧米諸国はまったく逆の方向に進んでいるのが現状だ。欧米などの自由主義国家では、民間企業が同様の措置を取ろうとすれば、ユーザーの反発を招くし、政府がそれをしようものなら反対運動が起きかねない。GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック〔現・メタ〕、アマゾン)として知られる米大手IT企業も、個人データの扱いについて、世界中の規制当局から厳しい眼差しで見られている」と述べています。

 

「中国市場の巨人・アリババ」では、デジタル・シルクロードが目指しているのは、ユーラシア大陸に中国主導の電子市場を確立させることだと指摘し、著者は「その先には、デジタル人民元による世界通貨の支配という目標がある。その“先兵”が、アリババグループであり、傘下にある金融関連会社アントグループ(螞蟻集団)だ。そしてその“主力兵器”は、アント・グループが運営するアプリ決済サービス『支付宝(アリペイ)』だ」と述べます。アリババとはどのような企業なのかというと、1964年生まれの英語講師ジャック・マー(馬雲)が、アメリカの影響を受けて情報発信サイトをつくったのは1995年のこと。その後、中国の政府機関でインターネット事業に携わり、1999年にアリババを設立しました。


アリババの規模の大きさは、日本で暮らす我々の想像を絶します。2018年には、中国のモバイル決済の総額は、約4709兆円にものぼっており、2013年からの5年間でその規模は約27倍に拡大しているといいます。その中でも、アリペイのスマホ決済額での中国国内シェアは54%に達し、中国の消費者に最も使われいるサービスとして君臨しています(中国大手調査会社iResearchによる)。また、著者は「中国でビジネスを行うときには、この国が、経営者に瑕疵があると決めつけられると企業が国有化されたり、財産が没収されたりするなど、自由主義世界とはかけ離れたルールで動くことを忘れてはならない」と述べます。


「デジタル人民元」では、情報インフラ、ECと並び、中国政府が力を注いでいるのがデジタル人民元です。そこには単に人民元を電子通貨にするだけに留まらない、中国の壮大な野望が見えてくるとして、著者は「これは監視社会を強化したい中国当局にとって実に都合のいいシステムだ。これまで中国で問題になってきた偽札への対策だけでなく、何よりも脱税やマネーロンダリング、テロリストへの資金提供など、従来の人民元では阻止しきれなかった犯罪行為を取り締まることができるようになる。さらに国民の監視という意味でも効果は絶大だ。デジタルで紐づけられた様々な取引情報などを吸い上げることができるので、人々のカネの流れから日々の活動まで徹底管理できるようにもなる」と述べています。


アメリカの金融支配をくつがえす」では、このデジタル人民元にこそ中国による壮大な野望があると著者は見ていと述べ、「それは、世界におけるドル覇権を終わらせ、人民元基軸通貨化するというものだ。基軸通貨とは、世界で中心的・支配的な役割を果たす通貨のことで、国際金融取引などで基準として採用されているものを指す。現在は米ドルやユーロがその役割を担っている。米ドルは米政府が動かしているから、国際通貨の動きはアメリカが握っているといえる。アメリカの経済政策が世界経済に大きな影響を与えている理由はそこにある」といいます。


現在、世界各国の外貨準備高を単純に比較すると、中国元はたったの2.66%にすぎません。一方でライバルの米ドルは、世界全体の60%を占めています。中国の行う貿易ですら、90%以上がドル建てで行われているという現実もあります。中国政府はデジタル人民元によって、そこに楔を打ち込む可能性を見出そうとしているのです。さらに「ファーウェィの海底ケーブル」では、著者は「5G、監視カメラ、AI、デジタル決済システム、そして海底ケーブルなどの通信インフラ。デジタル覇権は、米中サイバー経済戦争の最前線といえる」と述べるのでした。


第四章「中国に騙されたトランプ」の「ドナルド・トランプの登場」では、トランプ大統領の4年間で、国内外で引き起こした混乱のマイナスは小さいものではないだろうとしながらも、著者は「しかし、対中政策に限って言えば、中国への対応に出遅れたアメリカが、起死回生の挽回をするには、トランプのような存在が必要だったと筆者は考えている。敢えて言うならば、トランプの反中政策は『正しかった』のだ。ここまで見てきたように、中国はすでに世界第2位の経済大国となっているにもかかわらず、サイバー攻撃やスパイ行為をやめようとしない。中国は、もはやアメリカの『ビジネスパートナー』や『よき競争相手』といえないのではないか? そのようなことをアメリカの中枢が考え始めた時期に、トランプは対中政策の大転換を行ったのだ」と述べています。


「ロシア・ゲート」では、1980年代から90年代に不動産で財を成したトランプは、1991年にソ連が崩壊し新生ロシアが誕生するとロシアビジネスにのめり込んでいったことが紹介され、著者は「モスクワに『トランプ・タワー』の建設計画を発表するなど、資本主義化したロシアは、トランプの『ディール』の格好の舞台となったのだ。2008年夏ごろ、トランプは経営の失敗で資金がショートし、所有している不動産の売却先を探していたが、アメリカでは買い手がつかなかった。ところが、ロシアのオリガルヒ(新興財閥)が、トランプの購入価格の2倍で買い取ることになる。同年秋には、リーマン・ショックが起きたため、トランプは窮地に追い込まれるが、そこでも、ロシアからの金が流れ込んだとされる」と述べます。


2016年のアメリカ大統領選挙では、泡沫候補と思われた共和党のトランプと、民主党ヒラリー・クリントンの戦いとなりました。プーチンにとって、オバマ政権の国務長官で自身を「ヒトラー」呼ばわりし敵視するヒラリーよりも、「プーチンは、ロシアを再構築している」「NATOが攻撃されたら、否でも応でも助ける必要があるのか?」などと発言するトランプのほうが、好ましい大統領になることは明らかだったとして、著者は「ロシアはトランプを大統領にするため2つの攻撃を行った。まずは、サイバー攻撃による『盗み』である。もう1つは、『世論工作』だ」と述べています。

 

アメリカの情報機関が摑んだコロナ起源」では、「新型コロナについて中国政府の見解では、2019年12月に初めて感染が確認されたということになっている。武漢にある華南海鮮市場で、動物から人へ感染が起き、感染の拡大が発生したと主張し、当初はこれが「常識」となっていた。だがそれ以前に中国国内で、異変は起こっていた。その実態を告発していた医師たちに対して、中国政府が容赦の無い口封じをしていたことが判明している。現在では、武漢市の海鮮市場は、クラスターの発生場所の1つだっただけ、という意見も多い」と書かれています。


トランプは2020年1月末から、新型コロナの発生源について徹底調査を行うよう情報機関に命じていたとして、著者は以下のように述べています。
「その報告がトランプの中国に対する考え方を変える理由の1つとなった。それは、どのような内容だったのか。筆者がCIAの元幹部2人に取材をしたところ、アメリカの諜報関係者らの意見は2つのポイントに絞ることができた。1つは、新型コロナウイルスは、中国の武漢にある武漢ウイルス研究所にあるBSL4(バイオセーフティレベル4)の研究施設から漏れた可能性が高いこと。そしてもう1つは、この研究所では、中国の人民解放軍との共同プロジェクトがいくつも進められていたことだ」


「米国による24のうそ」では、コロナ起源問題でも情報戦は展開されたことが指摘されます。著者は、「中国は、都合の悪い事実から人々の目を逸らすために、新型コロナの発生源について、在外中国大使館のSNSアカウントなどを駆使して、情報工作を試みたのである。中国外務省の趙立堅報道官は2020年3月12日、ツイッターで『この感染症は、アメリカ軍が武漢に持ち込んだものかもしれない。アメリカは透明性をもって、データを公開する必要がある』などと主張した。民間人が陰謀論を作り出したのではなく、中国政府や情報機関が意図的に流したフェイク情報だった」と述べています。


「議会襲撃事件」では、2020年の米国大統領選挙について、著者は「最大の攪乱者はロシアではなくトランプ大統領だったといえるのかもしれない。選挙後、トランプはどうあがいても勝てないことを前提に行動をはじめた。フィルターやファクトチェックを回避しながら有権者に直接メッセージを伝えることができる、お気に入りの『拡声器』、ツイッターを駆使し、支持者たちを煽り続けたのだ。トランプによる発信を真に受けた支持者たちは、ついに米連邦議会を襲撃するにまで至った。民主主義を世界に広めてきたアメリカ政治の象徴的な建物に、暴徒が雪崩れ込んだ衝撃的な映像が全世界に配信された」と述べます。


さらに議会に突入する計画自体について、トランプ支持者たちがオンライン上で情報交換を行っていたことが分かっていることを紹介し、著者は「この議事堂襲撃には、元軍人や地方の元政治家、過激思想のネオナチや陰謀論を支持するQアノンなどの活動家らも関与していた。Qアノンとは、近年アメリカで勢力を広げている陰謀論をもとに、トランプを『正義の戦いを指導する人物』としてあがめている人々を指す。彼らは銃器や結束バンドを準備するなど、かなり周到に襲撃事件を計画していた」と述べます。


「トランプは復活するのか」では、米政治の象徴である連邦議会を襲撃するという事件は、トランプの正当性を完全に貶め、存在感を一気に消し去るのに一役買ったと言えるとして、著者は「議会の襲撃事件を事実上『煽動』したトランプは結果『声』を失った。有権者に直接語りかけるツールとして利用していたSNSのツイッターフェイスブックのアカウントを凍結されたのだ。影響はそれだけではない。トランプ支持者の多くが同様にアカウントが凍結されたために、彼らの中の保守派たちが集まった新しいSNS『パーラー』が始動した。ところが、そのSNSがサーバーを使用していた米アマゾンは、同SNSは暴力を扇動するプラットフォームであり、規約違反であるとして利用禁止にした」と述べるのでした。

 

第五章「アメリカファーストから『同盟強化』へ」の「日本が発案した『クアッド』」では、バイデン政権は中国に対峙するために、アジアに軸足を置く政策を推し進めており、中でも重要な動きは、「クアッド(QUAD、日米豪印戦略対話)」であるとして、著者は「政権発足後の2021年3月にも、早速ビデオ会議で『クアッド』の国々の首脳と会談を行っている。この戦略対話の枠組みは、日本ではあまり知られていないが、2007年8月に安倍晋三首相(第一次政権)が、インドを訪問して連邦議会で演説した際に、多角的な協力関係の構築を呼びかけたことに端を発している。安倍首相の呼びかけにインドが応じ、さらに2カ国が加わったことで、対中包囲網の中核を構築した。日本がアジア太平洋地域の外交新秩序の発端を作ったことは、もっと評価されてもいい」と述べています。



「世界はネットで分断される」では、追い詰められたロシアが、中国になびいていくことは、想像に難くありませんが、中国としても「西側同盟」を完全に敵に回すことは国益に反するとして、著者は「近年、緊張を高めている台湾問題ともつながっていくだろう。しかし、いま中国が進めているデジタル・ジルクロードやデジタル人民元が、『西側諸国』の考える秩序と最終的に対決することは避け難く見える。インターネットなどのネットワーク網が、国家運営に重要で不可欠なインフラとなった今、そのセキュリティは国の統制・支配そのものであり、安全性を維持しようと躍起になるのは当然である」と述べるのでした。


第六章「日本版サイバー軍を作れ」の「日本版NSA」では、日本でも、世界に広がる中国のサイバースパイ工作への対応や、実動的なサイバー組織が必要となってくることは間違いないが、今からCIAのような対外諜報機関を作るのは容易ではないとして、著者は「まずヒューミント(人による諜報活動)ができる人材を集めたり、訓練するのに莫大な時間と予算が必要になる。また外務省や警察庁防衛省、さらに法務省の外局である公安調査庁などが長く縄張り争いをしており、諜報専門の独立した組織を作るのは現実的ではないだろう。そこで参考になるのは、本家アメリカのNSAだ」と述べています。


いまや個人が使うスマホやアプリなどはNSAなどの手にかかれば、すべて覗かれてしまうと考えていいという著者は、「世界がますますネットワーク化され、デジタル化が進み、IoTなどで電子機器が全てつながる世界になるなか、NSAの能力の重要度は増している」と述べ、さらには「インテリジェンスにおいても、軍事においても、サイバー空間が発展する中で求められるのは、NSAのような組織なのだ。そんな組織が、省庁の垣根を越えて実動できるようになれば、日本の防衛を根底から支えてくれることになる。そのとき、憲法9条の改正議論も新しい視点が必要になってくるだろう」と述べるのでした。



「おわりに」では、CIAのウィリアム・バーンズ長官がこれまでも指摘していましたが、中国とロシアの関係はここ最近、急速に緊密になっていたと指摘し、著者は「習近平プーチンは、2022年の北京冬季五輪の開会当日に北京の釣魚台国賓館で会談し、英語版で5300語を超える長文のコミュニケ(共同声明)を発表した。そこでは、「利害を共有する両国の協力関係に制限はない」と宣言している。当然、アメリカとその同盟国に向けたメッセージである」と述べています。



中露が手を組み欧米の民主主義陣営に対抗するような大きな勢力となることが、改めて示されたわけですが、著者は「天然ガスなどのエネルギー資源を持つロシアと巨大な市場であり最先端技術を安価で提供する中国のタッグは、西側世界にくさびを打ち込む力を持っている。ところがロシアのウクライナ侵攻によって西側世界は『反ロシア』一色になり、中国も『ロシアの同盟国』として扱われるようになってしまった。その意味で、ウクライナ侵攻は、アメリカにとって好都合だったはずだ。中国がこれまでのようにロシアと近い関係性を有効にアピールできなくなったからだ。『両国の協力関係』も非常に限定的なものになりつつある」と述べます。


習近平はバイデンとの会談で、「2段階でロシアに対応すべきだ」「まずは停戦を決め、その上での人道支援である」と述べましたが、なんら具体的ではなく何も言っていないに等しいとして、著者は「それほどに習近平は追い込まれているのだろう。ロシアのウクライナ侵攻によって覇権を狙う中国の行動にブレーキがかかったのだ。その一方で中国は、アメリカを中心とした『西側同盟』に追い詰められていくロシアの姿を、固唾を飲んで見ていたことだろう。そして、本書で見てきたような、『通信』『金融』などの分野で自分たちが取り組んできた覇権国家を狙うための『準備』が決して間違っていなかったと再確認したはずだ」と述べるのでした。本書を読んで、ロシアと中国のみならず、アメリカや日本のサイバー戦略の行方もよくわかり、非常に勉強になりました。

 

 

2022年7月25日 一条真也

『プーチンの野望』

プーチンの野望

 

一条真也です。
プーチンの野望』佐藤優著(潮新書)を読みました。著者は作家で、元外務省主任分析官です。特にロシア問題に詳しいことで知られており、ロシアのウクライナ侵攻以来、著者の最新刊が出るのを心待ちにしていました。そして、ようやく6月3日に本書が出版されましたが、内容は著者が論壇デビューした2005年から発表したプーチン論を再編集し、新たにウクライナ情勢を加えて大幅に加筆・修正したものでした。

アマゾン「出版社より」

本書のカバー表紙

 

本書のカバーには、プーチン大統領と著者の顔写真が使われ、「『残虐なロシア』『悲劇のウクライナ』だけでは見えない真実――権力者たちの内在理論をつかみ取れ!」「緊急出版!」と書かれています。カバー裏には、「『死神がやってきた』プーチンとの最初の出会い」として、「インテリジェンス(諜報)の世界で、お人好しは生き残っていくことはできない。だからインテリジェンス・オフィサー(諜報機関員)は、職業的におのずと陰険さが身につく。ただし、プーチンのように、陰険さが後光を発するほど強い例は珍しい。『プレジデントホテル』で死神の姿を見たときから、私のプーチン・ウォッチングが始まった。(本文より)」と書かれています。

本書のカバー裏表紙

 

アマゾンの「内容紹介」には、「独裁者・プーチンを徹底解明! その内在的論理を理解しなければ、ウクライナ侵攻を理解することはできない。外務官僚時代、大統領となる前の若き日のプーチンにも出会った著者だからこそ論及できる、プーチンの行動と思想」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章  仮面のプーチン
第2章  プーチン 独裁者への系譜
第3章  20年独裁政権構想と
                 ユーラシア主義

第4章  北方領土問題
第5章  クリミア併合
第6章  ウクライナ侵攻
 終章  平和への道程
「初出一覧」


「はじめに」の冒頭を、著者はこう書き出しています。
「2022年2月24日は、歴史の転換点になった。この日、ロシアがウクライナに軍事侵攻した。ロシアは『特別軍事行動』と呼んでいるが、客観的に見て戦争だ。ロシアの行為はウクライナの主権と領土の一体性を毀損するもので、既存の国際法に違反する。ヨーロッパにおいて第2次世界大戦後、最大規模の戦争が起きたことに欧米と日本の政府も国民も驚愕するとともに、ロシアに対する怒りの感情の渦に巻き込まれている」



このような状況で、ロシアのプーチン大統領の悪魔化が進んでおり、他方、ロシアにおいてはウクライナのゼレンスキー大統領とアメリカのバイデン大統領に対する悪魔化が進んでいるとして、著者は「私は大学と大学院で神学を学び、社会に出てからも(当初は外交官、その後、作家)キリスト教の研究を続けている。実は他者を悪魔化する発想の背景にはキリスト教の影響があることが私にはよく見える。人間は罪から免れない。罪が形をとると悪になる。悪を人格的に体現したものが悪魔なのである。この思考を採ると、一旦、悪魔のレッテルを貼られた者は、打倒するするしかないという結論になる」と述べています。


こういう思考を鈍化させると核兵器を使用してでも悪魔(敵国)を殲滅しなくてはならないということになりかねません。しかし、そのような発想は、イエス・キリストの教えに反すると考えるという著者は、「イエスは、『あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』(「マタイによる福音書」5章43~44節)と述べた。憎しみは人の目を曇らせる。敵を愛する気持ちをもつことで、われわれが敵と目している人が何を考えているかを理解する可能性が生まれる」と述べています。


著者によれば、この点で仏教から学ぶべきことが多いといいます。仏教ではすべての人間に仏性があると考え、当然、国家指導者にも仏性があるとして、「法華経によると人間の生命の状態(境涯)は、変化する。ある国家指導者の生命の状態が現在、地獄界や修羅界にあるとしても、それが仏界に到達することは可能なのである。戦争の興奮から距離を置いて、プーチンのそしてロシア人の内在的論理をとらえることが本書の目的だ」と述べます。また、「本書は、私が職業作家になった05年以降、さまざまな媒体に発表したプーチン論を再編集し、加除修正を加えたものだ。この機会に昔の原稿を読み直してみたが、基本線について変更することはなかった」と述べます。

 

 

戦争の熱気に包まれて、われわれは無意識のうちに国家と自己を一体化しようとしてしまうとして、著者は「その結果、戦争に苦しむ民衆の姿が見えなくなってしまう」といいます。創価学会の「精神の正史」である池田大作著『人間革命』第1巻(聖教出版社)には「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである」と書かれていることが紹介されます。


第1章「仮面のプーチン」の「独裁者プーチンとジャーナリストの対話」では、プーチンを非難してきた著名なジャーナリストの1人であるマーシャ・ゲッセンが登場します。彼女はユダヤ系ですが、プーチンは、ゲッセンが彼を独裁者だと激しく非難し、不正蓄財やジャーナリスト暗殺疑惑について書いていることを知らなかったことを紹介し、著者は「ちなみにエリツィンは、新聞を読まず、テレビを観なかった。自分を非難する不愉快な情報を知りたくなかったからだ。ニュースについては、報道担当の大統領補佐官がA4版3~4枚にまとめたサマリー(要約)を毎朝渡していた。私がこの補佐官から直接聞いた話だが、『大統領は良いニュースだけを知りたがる。悪い話については、それへの対策を記しておかないと機嫌が悪くなるので、この作業には神経を使う』ということだった。プーチンエリツィンと同じような状態になっていたのだろう」と述べています。


第2章「プーチン 独裁者への系譜」の「インテリジェンス・オフィサーの掟」では、ロシア人は自分の甲羅に合わせて相手を見るとして、著者は「私は東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、有罪が確定し、外務公務員(外交官)としての身分を失った経緯がある。だから今は外務省とはまったく関係ない。民間人の作家として発信しているにもかかわらず、ロシアの大統領府、首相府の関係者はそう受け止めない。『佐藤は日本版の特別予備役のようなものだ。日本政府、特に首相官邸の意向を受けて発信をしているに違いない』と勘違いしている。『日本は、ロシアとは国家制度や政治文化が異なる。そもそも独立した対外インテリジェンス機関も存在しない』と説明するのだが、ロシア人は『いや佐藤さん、表面上の機構が問題ではなく、実質的な機能が重要です』と言って、私の説明を額面通りに受け取らない。実に迷惑な話だ。もっとも、ロシア側の誤解によって、私のところにモスクワからときどき機微に触れる情報が入ってくる。これはロシア情勢を分析し、評価するうえでとても役に立つ」と述べます。


「中堅官僚がトップまで成り上がれた理由」では、プーチンが38歳でKGB第一総局を退職したときの役職は中佐だったことに言及し、著者は「この年齢で中佐ということは、KGBにおけるプーチンの出世が遅いほうだという事実を意味する。ロシア(旧ソ連を含む)では、警察、SVR、FSBなども軍隊と同じ階級組織になっている。モスクワの路上で交通整理をしている警察官には、大佐がいる(交通警察は、違反や事故のもみ消しによって給与以上の賄賂を得ることができる。だから大佐級の幹部が路上勤務を希望するという要因もある)。KGB退職時のプーチンの階級は、交通整理を行っている同年代の警官よりも低かった。にもかかわらず、中堅官僚に過ぎなかったプーチンは10年強で出世街道を駆けのぼり、ロシアのトップになった。端的に言うと、プーチンは小さな出世や利権にはとらわれなかった。そのことが、大統領という大きな出世をつかむきっかけになったのだ」と述べます。


「絶対に人を裏切らないプーチンの生真面目さ」では、エリツィンプーチンの生真面目さを評価したことを紹介。「この男ならば俺を裏切ることはない」という印象をエリツィンは持ったとして、著者は「1998年5月、プーチンは大統領府第一副長官に昇進する。このポストは、政府ならば第一副首相級に当たる。その先のポストは、首相か大統領府長官しかない。当時、エリツィンは後継者を探していた。ロシア憲法では、大統領に次ぐポストは首相だ。キリエンコ(98年3~8月在任)、チェルノムィルジン(98年8~9月在任)、プリマコフ(98年9月~99年5月在任)、ステパーシン(99年5~8月在任)が首相に任命されたが、いずれも後継大統領には不適任とエリツィンが考え、次々と解任された」と述べます。


「カリスマ性と指導力」では、著者は「2000年3月の大統領選挙でプーチンが当選した直後、私はモスクワに出張し、政治エリートと踏み込んだ意見交換をした。このときのブルブリス連邦院(上院)議員の見方が興味深かった。ブルブリスはエリツィン政権初期の知恵袋であり、ソ連崩壊のシナリオを描いた人物だ」と述べます。そのブルブリスが語るところによれば、エリツィン時代の寡占資本家や「家族」と比較すると、富や権力が集中していないそうです。寡占資本家は法による縛りを嫌い、エリツィンに影響力を行使して自らに有利な大統領令や政府命令を策定させ、利権を追求してきました。「法の独裁」を掲げるプーチン政権下では、このような恣意的な支配ができなくなったとして、著者は「プーチンの周辺の政治エリートは、議会に対するロビー活動を通じて、自らに有利な法律の採択を企てる。ただし、ひとたび成立した法律には従う。その結果、ロシアの社会が安定した」と述べるのでした。


ツァーリ=皇帝としての自覚」では、大統領に就任し1年半を過ぎてからプーチンの自己意識にさらに変化が生じたとして、著者は「3~4年前まで中堅官僚に過ぎなかった自分が、ロシア国家の元首になったのは、エリツィンから権力を譲り受けたとか、選挙によって国民から選ばれたということを超える天命であると思うようになった。ロシア正教会を重視し始めたのも、自らの権力が神によって与えられたという意識が芽生えてきたからだ。国家の指導者になるためには、超越的な使命を自らがもっているという自己意識が不可欠になる。同時にロシアの場合、こういう自己意識をもつ指導者は、皇帝に近い発想をもつことになる」と述べています。


「インテリジェンス・オフィサーとしてのプーチン」では、プーチンKGB第一総局の出身であると指摘します。プーチンの政治家としての行動様式には、インテリジェンス・オフィサーがもついくつかの特徴があるとして、著者は「最も重要なのは、独自の方式でシグナルを出すことだ。インテリジェンス・オフィサーは言葉を大切にする。無駄なことは言わない。プーチンにもその特徴がある。このことを私に初めて指摘したのもブルブリスだったそうです。エリツィンプーチンの政治スタイルの相違について著者が尋ねると、ブルブリスは「プーチンが、1970年代にKGBで基礎教育を受け、実践を積んだインテリジェンス・オフィサーであることを忘れてはならない。プーチンは、さまざまなルートで、情報の入手に努める。しかし、それぞれの情報に対する評価について、いちいちコメントしない。だから側近たちは、プーチンが何を考えているかわからずにやきもきする。しかし、プーチンは真剣に考えている。そして、発言するときはプーチンはすでに基本方針を決めている。自分が何を考えているかがわかるようにシグナルを出す。SVR(ロシア対外諜報庁)と相手国のインテリジェンス機関が、信頼できる関係をもっているときは、このチャンネルを用いる。それに加えてマスメディアを通じてシグナルを出すこともある」と答えたといいます。


プーチンから学ぶ具体的な5つの流儀」では、KGBの中堅官僚に過ぎなかったプーチンが独裁者に駆け上がった5つの理由として、その1「タイミングを待つ」、その2「人間関係を大切にする」、その3「サードパーティー(第三者)・ルールを守る」、その4「無責任な発言をしない」、その5「天命を信じる」が挙げられています。その中でも、「天命を信じる」について、著者は「プーチンは信仰心が厚い。プーチンの別荘が失火で全焼したことがある。別荘の壁に十字架の首飾りを掛けていたが、不思議なことにこの十字架の周囲の壁は焼けず、十字架は残った。プーチンはこの十字架を大切にしているというエピソードを時々口にする。また、ロシア正教会との関係を重視し、個人的にも親しい神父が何人かいる」と述べます。


ちなみに著者は外交官時代、仕事でSVRの幹部と宗教や神について話し合ったことが何度もあるとか。SVR幹部は、KGB時代にマルクス・レーニン主義に基づく科学的無神論の教育を受けていたにもかかわらず、例外なく神を信じていたとして、著者は「ソ連崩壊前後、ほんの小さな要因が、出世の明暗だけでなく文字通り生死を分けることになった。そういう強烈な経験をしているので、彼らは人知を超えた天命を信じるようになったのだ。天命を信じる人は、実力を最大限に発揮できる」と述べるのでした。


第3章「20年独裁政権構想とユーラシア主義」の「スターリンの正統な後継者」では、ある時期、著者は「ロシアで政局を見るコツは、男と男の愛と嫉妬である」ということに気づいたとして、「エリツィン大統領を本気で愛した政治家は、私が見るところでもブルブリス、ソスコベッツ(元第一副首相)、ガイダル(元首相代行)、キリエンコ(元首相)などたくさんいる。だが、これらの政治家の愛に対する見返りは、ほとんどなかった。結局エリツィンは、自分に愛情を注いだ政治家を全員退け、家族だけの閉鎖的な世界をつくった。後継には、愛情物語とは無縁のプーチンを指名した。大統領になった後、エリツィンは誰のことも愛さなくなったが、他人の愛は受け容れた。これに比べてプーチンは他人を愛することも、他人の愛を受け容れることもない。ロシアの帝王学では、最高権力者は愛することも愛を受け容れることも禁止されている。プーチン帝王学を学んでいないが、エリツィン周辺の男と男の愛と嫉妬を嫌というほど見る過程で『自習』したのであろう。その結果、他人を愛さず、誰の愛も受け容れなかったスターリンの正統な後継者になった」と述べています。


「日露の首相が同日に辞任 2007年9月の政変」では、世界史でもきわめて稀な出来事でしょうが、2007年9月12日、日本とロシアで安倍晋三首相、ミハイル・フラトコフ首相が同時に辞意表明をしたことに触れ、著者は「もちろん、その政治的意味合いには違いもある。日本の場合、首相は文字通り最高権力者であるが、ロシアの場合、最高権力者は大統領であり、首相は行政府の長に過ぎない。要するに、大統領から『お前、これをやれ!』と言われたら、『はい、わかりました』と言って、執行しなくてはならない立場だ」と述べます。



続けて、著者は「07年の政変の細かい違いについて述べれば、プーチン大統領はフラトコフ首相の辞任を直ちに受け入れ、内閣を総辞職させ、9月12日中にヴィクトル・ズプコフ(金融監視庁長官)を後任首相に指名した。9月14日、国家院(下院)が大統領によるズプコフ首相の指名を承認し、正式に首相に就任した。ズプコフは、08年3月の大統領選挙を円滑に行うための『選挙管理内閣の長』として首相に指名された。この間、政局の空白はまったくない。すべてがプーチン大統領の描いたシナリオ通りに進められたのだ」と述べています。


「『民族の理念』の探求」では、プーチンに2つの魂があることが指摘されます。著者は、「これは、インテリジェンス(諜報)の世界で生きてきた人間に特有の傾向である。まず、冷徹な分析家として、民族という意識は、近代に入ってからの流行現象に過ぎず、特に後発資本主義国であるロシアにおいては百数十年の歴史しかもっていないことをプーチンは十分理解している。同時に政治家として、ロシアを統合し、国民を動員するためには、政治的変化や体制転換を経ても変わることのない永続する『民族の理念』なるものを称揚することが効果をあげることをよく理解している。プーチンが追求する『民族の理念』とは、表面上は19世紀のロマン主義的言説のように見えるが、それとは本質的に異なる。民族を超克しようとしたソ連の実験は失敗した。その歴史を踏まえ、民族主義を刺激すると、チェチェンの分離独立運動のようにロシア連邦を内側から破壊する危険性をはらんでいることをプーチンは十分認識する。所与の条件では、民族以外に大衆を動員する『物語』を構築する理念を見出すことはできない。従って『民族の理念』として、ロシア正教や文化理論よりも、非ロシア人や非正教徒を包摂しやすい地政学プーチンは重視する。一種の消極的選択として、プーチンは『民族の理念』による統治を追求しているのだ」と述べるのでした。



「ロシア『中興の祖』としての自画像」では、ロシアに対して帝国主義的野心をもつアメリカやヨーロッパ、さらに巨大な多国籍企業からロシア国家とロシア国民を防衛する基盤を強化するために、自分には歴史によって与えられた使命があるとして、著者は「今もなお、プーチンはそう確信しているのであろう。21世紀のロシア国家とロシア国民を安定的に発展させる『民族の理念』を構築した『中興の祖』となるという課題をプーチンは自らに課しているのだと、私は考えている」と述べています。


「『一般の物差しで測ることができないロシア』では、ロシアという国家を成り立たせているのは信仰であると指摘し、著者は「この信仰は、国家指導者の人格に体現される。ロシア的伝統で、国家指導者に対する信仰が生じるのは、ごく自然なことなのだ。もっとも、ロシア人の大統領に対する信仰は、新宗教の教祖に対する崇拝とは異なる。ロシア人の内輪では、大統領に対する辛辣な批判や、誹謗中傷を平気でする。しかし、外国人が批判に加わると、それまで激しく大統領を非難していたロシア人が『お前はわが国の大統領を侮辱するのか』と食ってかかってくる。日本人でも、家族の間では父親の悪口を言っていても、他人がそれに同調すると嫌な思いをする。これと同じ感覚を、ロシア人 は大統領に対して無意識のうちにもっているのだ」と述べます。


第4章「北方領土問題」の「第1次チェチェン戦争とハサブユルト合意」では、1994年12月に第1次チェチェン戦争が始まった時点では、チェチェンロシア連邦からの分離独立を求める運動だったとして、著者は「96年8月のハサブユルト合意で、5年間の停戦合意がなされる。さらに『ロシアは、チェチェンは独立国であると主張していることに異議を唱えない』『ロシアが「チェチェンロシア連邦の構成員である」と主張していることに、チェチェンは異議を唱えない』という玉主色の合意がなされた。実質的にチェチェンの勝利である」と述べます。


さらに、著者は「チェチェンを実効支配しているのは、独立派だった。現状を維持することを認めたハサブユルト合意によって、ロシアが実態を追認した。しかし、その後チェチェンでは静かに変化が生じた。反ロシアという形で団結していたチェチェン人の間で、民族独立を主張する独立派とイスラーム世界帝国を建設しようとする原理主義者の間で対立が生じたのだ」とも述べています。


チェチェン人は、伝統的に祖先崇拝、聖者崇拝を重視するが、原理主義者はそれを認めないとして、著者は「チェチェン人内部で武装対立が起き、死傷者が発生するようになった。過去にロシア軍と戦った独立派の有力者アフマド・カディロフたちが、『原理主義者よりはロシア人のほうがまだましだ』とモスクワに接近した。カディロフはチェチェン共和国首長に就任したが、2004年5月9日、チェチェンの首都グロズヌィで行われた対独戦勝記念式典の席上で、爆弾テロによって殺害された」と述べます。


プーチンが柔道家としての仮面を前面に押し出した理由」では、北方領土問題解決に関して、プーチン大統領の仮面を剥がすことは不可能だとして、著者は「仕事に絡むことでは、プーチンは仮面を外さない。従って、われわれにできることは、日本の国益にとって最適の仮面をプーチンにつけさせることだ。そこから本気の話し合いを、膝をつき合わせて始めればいい。鈴木宗男氏が水先案内人として最適の役者だったため、森喜朗総理はプーチン大統領に、日本にとって役に立つ仮面をつけさせることに成功したのだ」と述べます。


また、「プーチン大統領は柔道家だから親日的だ」と言う人がいることに触れ、著者は「私はこの見方は完全にずれていると思う。ソ連時代、柔道協会会長は常に内務次官が務めていた。ソ連・ロシアの内務省、諜報・防諜機関関係者は、柔道が職務の役に立つから使っているだけだ。柔道を知っていることを『親日家』という表象に使うことができるから、プーチンはそれを最大限利用しているに過ぎない。柔道を北方領土問題解決の手掛かりにしようというのは、私の見立てではまったくカテゴリー違いの議論だ」と述べています。



さらに、著者は「東京宣言」にも言及します。1993年10月13日、エリツィン大統領が細川護熙総理と署名したのが東京宣言ですが、北方四島の名前をあげて、四島の「帰属の問題」が平和条約交渉の土俵であることを定めた点で重要な外交文書です。四島(択捉島国後島色丹島歯舞群島)の帰属に関する問題を解決して平和条約を締結することに、日露両首脳は合意しました。著者は、「首脳が合意したということは、国家が合意したということだ」と述べます。


「『東京宣言至上主義』の呪縛」では、そもそも1956年日ソ共同宣言第9項後段で、平和条約締結後の歯舞群島色丹島の日本への引き渡しは約束されていることが紹介されます。著者は、「だからこれら2島の日本帰属については、既に日露間で合意済みであるという立場で、日本はエリツィン大統領に臨むべきだった。従って、東京宣言では残る『択捉島国後島の帰属に関する問題を解決して』平和条約を締結する、とするのが筋だった。ここであたかも歯舞群島色丹島が係争問題であるかの如き外交文書を作ってしまったのは、ロシアに対する日本の大きな譲歩だ。当時、外務次官を務めていたクナッゼ氏が2001年に私に『あそこで日本側があんなに簡単に譲歩するとは思わなかった』と述べた」と書いています。


プーチンがもつ政治家の顔、戦略家の顔、歴史家の顔」では、プーチン大統領にはいくつかの顔(Персона、ペルソナ)があると指摘されます。政治家の顔、戦略家の顔、歴史家の顔です。「歴史的ピンポン」に終止符を打つとの発言は、政治家としての顔が顕在化した発言だとして、著者は「会見でプーチン大統領は日露関係の歴史について、1855年(安政元年)の日露通好条約から説き起こした。つまり、江戸幕府帝政ロシアの平和的な交渉の結果、この条約で択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれ、北方四島が日本領になったという日露関係の歴史的起点を示唆するものだ。1956年の日ソ共同宣言で、ロシアは歯舞群島色丹島の日本への引き渡し義務を負っているに過ぎない。そのうえで歴史的、道義的に、日本が国後島択捉島の領有に固執することには理解を示すという発言だ。ここでは、国後島択捉島について、日本に引き渡すことはないが、何らかの譲歩をすることを示唆している。これは歴史家としてのプーチンの顔が顕在化した発言だ」と述べています。


第5章「クリミア併合」の「ウクライナでの歴史的な宗教対立」では、16世紀にドイツで始まった宗教改革の影響は、ポーランドチェコハンガリーにも波及したことを紹介し、著者は「特にチェコ地域では、カルヴァン派の影響が強かった。この流れに危機感を強めたカトリック側、つまりローマ教皇庁は、トリエント公会議を開いてカトリックの立て直しを図る。その中心的な役割を果たしたのが、フランシスコ・ザビエルやイグナチウス・ロヨラを中心としたイエズス会だ。イエズス会は実質的に軍隊と言ってもよく、その軍事力を背景にプロテスタントの打倒を目指して『プロテスタント征伐十字軍』を仕掛ける。ところが彼らは強すぎて、プロテスタントをすべて駆逐した後に、ロシア正教の領域まで侵攻してしまった」と述べます。


いくらイエズス会から圧力をかけられても、ロシア正教徒は自らがとりおこなってきた伝統や儀式をそう簡単に改めようとしませんでした。イコン(聖画像)を掲げて拝む、お香を焚きながら儀式を行う。下級司祭の結婚を認めるなど、ロシア正教の習慣を残そうとして、必死に抵抗したとして、著者は「ロシア正教には、司祭に『キャリア組』と『ノンキャリア組』がある。ノンキャリアは婚姻可能であり、結婚して各地域に勤務する。キャリアは修道院や大教会に勤務するが、結婚はできない。ちなみにカトリック教会では、聖職者全員が結婚できない。プロテスタント教会は牧師全員が結婚できる」と述べます。


ロシア正教が自らの習慣を残そうと抵抗を続けたため、ローマ教皇庁は妥協案として特別の宗派を創設しました。著者は、「新しい宗派では、結婚も儀式は従来通りでかまわない。ただし「ローマ教皇が一番偉いという教皇の首位権」、そして『聖霊が父および子(フィリオクエ)から出ずるのかという神学上の議論を認めること』、この2点のみが求められた。要するに、形はロシア正教のままだが、バチカンとつながっている特殊な教会を使って、ロシア全域への影響を強めようとした。こうして誕生したのが『東方典礼カトリック教会』あるいは『ユニエイト教会』などと呼ばれる教会だ。ロシアとバチカンが今日でも緊張関係にあるのは、こうした歴史上の経緯があるためだと知ってほしい」と述べるのでした。


ウクライナ=正義なのか」では、ネットの一部には、中途半端な知識と、ウクライナ民族主義者が展開する実証性の低い物語を真実と信じ込んで主張する人がいるとして、著者は「私はモスクワの日本大使館では民族問題を担当し、ロシア語を学ぶだけでなく、ベラルーシ語の研修を3年、ウクライナ語の研修を1年受けた。またロシア科学アカデミー民族学人類学研究所では、東スラブの民族研究にも取り組んだ。日本では、ウクライナの専門家が非常に少ない。こういう地域の問題について、当該語学(ウクライナ語だけでなく、ロシア語で文献を読む力が不可欠)の基礎知識もなく、民族学的基礎訓練を受けていない人の言説が想定外の影響を与えることがあるので要注意だ。もちろんロシアによる制限主権論的なウクライナ政策は弾劾されるべきであるし、国際法違反、国連憲章違反にあたる行為は是認することはできない。しかしそのことは、キーウの現政権を手放しで支持することにはつながらない」と述べています。


第6章「ウクライナ侵攻」の「コメディアンが大統領に化けた ゼレンスキー大統領誕生劇」では、著者は以下のように述べています。
「そもそもゼレンスキーとは、どういう人物なのだろう。元コメディアンであるゼレンスキーの芸風は、あえて日本の例をあげるならば『志村けんのバカ殿様』を想起させるものだ。開けっぴろげな芸風は、裏返して言うと庶民にきわめて近い。15年、ゼレンスキーはウクライナのドラマ『国民の僕』に出演して人気を博す。ゼレンスキーが扮する主人公は高校教師だ。現職大統領の腐敗政治に憤慨する高校教師が『ウクライナの政治はおかしい』と言っているうちに、反体制派と見なされて投獄されてしまう。腐敗した大統領は、明らかに15年当時のポロシェンコ(14~19年在任)を当てこすっている」


「国民の僕」というドラマはテレビで爆発的な人気を得て、高視聴率を獲得しました。その勢いに乗ってゼレンスキーは19年3月の大統領選挙に出馬し、4月の決選投票でポロシェンコを破って当選を果たした。得票率は73%を超える。フィクションであるはずのドラマが、現実を上書きしてしまったのです。著者は、「なおウクライナ戦争が始まって以降、オレクシー・アレストーヴィッチという大統領府長官顧問が記者会見に毎日出てくる。彼も元コメディアンであり、かつては女装で笑いを取っていた人物だ。アレストーヴィッチはジョージア(旧称・グルジア)生まれのウクライナ人で、キーウ国立大学を卒業し、俳優になった。またカトリックの高等教育機関で神学を学んだ。その後、ウクライナ軍の諜報部門で勤務した。ゼレンスキーの側近のほとんどが、ドラマ『国民の僕』に出てきたスタッフによって固められている」と述べます。


ナチス支持者ステパン・バンデラの影」では、2月24日にロシアがウクライナに侵攻したあと、プーチン大統領、ラブロフ外務大臣らの政治家、ロシアのマスメディアは「ナツィスティ」(ナチス主義者)、「ネオナチスティ」(ネオナチ)、「ナアツィオナリスティ」(民族排外主義者)という言葉でウクライナのゼレンスキー政権を非難したことに触れ、著者は「ロシアは、ウクライナ民族主義者ステパン・バンデラとその系統の武装集団が、ナチス・ドイツと連携してウクライナ独立を図った事実に焦点を当てる。そして『バンデローフツィ』(バンデラ主義者)=『ナツィスティ』(ナチス主義者)という図式をつくっている。ロシアは今回の戦争の目的を「非ナチス化」と主張する。日本では『ウクライナの政権内部にナチス支持者がいるというロシアの主張は言いがかりだ』と決めつけるが、バンデラを英雄視する人々がウクライナ政権内部にも国内にも存在することは事実だ」と述べます。


経済制裁で戦争が止められた試しはない」では、見落としてはいけないのは、ロシアは意外と孤立していないという事実であると指摘し、著者は「西側諸国は、厳しい経済制裁によってロシアを締め上げ、音を上げさせようとしている。前にも述べたが、経済制裁によってプーチン政権が倒れることはない。考えてもみてほしい。経済制裁によって、体制が倒れた国がこれまでどこにあるというのか。世界中から激しい経済制裁を受けてきた北朝鮮もイランも、体制は転覆していない。少なくとも今のロシアは、北朝鮮やイランよりはよほど体力がある」と述べています。


ウクライナからのロシアの即時撤退を求める決議が、3月2日の国連総会で行われました。決議には193ヵ国中141ヵ国が賛成しました。ロシア、ベラルーシ、シリア、北朝鮮エリトリアの5ヵ国だけが反対し、中国やインドなど35ヵ国が棄権しました。人権理事会におけるロシアの理事国資格を停止させる4月7日の決議では、賛成が93ヵ国に減りました。中国など24ヵ国が反対し、58ヵ国が棄権に回ったのです。著者は、「自由と民主主義を掲げる陣営は、この数がもつ意味を深く考えていない。4月7日の決議で反対に回った国は、中国、北朝鮮、イラン、キューバ、シリアなど、一昔前の言葉を用いるならば、いわゆる『ならず者国家』だ。ただし、中立的な立場を取ろうとする国を加えると、世界の約半分を占めたことになる。さらに国家の人口で言うならば、アメリカの立場に賛成する人々のほうが少ないのだ。ちなみに、1933年に日本が国際連盟を脱退したとき、リットン調査団の報告書採択に反対したのは日本だけだ。棄権はシャム(タイ)だけだった」と述べます。



終章「平和への道程」の「平和のための『闘う言語』」では、著者は「私たちは、ウクライナ戦争で苦しむ人たちの痛みに想像力を及ぼしながら、少しでも早く戦争を終わらせなければならない。日本社会が戦争の熱気で興奮状態にある状況で、平和を望む人々が大きな声を出すことができなくなっている。しかし、少し勇気を出せばできることがあるはずだ。心の中で『平和』『対話』『核廃絶』を望むウクライナ人、そして同じく平和を望むロシア人たちに思いを寄せて、平和のための『闘う言論』を展開することが、日本で生活する知識人の責務と私は考える」と述べています。

 

 

そして、創価学会のシンパとしても知られる著者は、「ウクライナ戦争への創価学会の対応は十分合格点に達しているといえる。日本の若者が保守化していると言われる中、創価学会青年部は戦争の熱狂に引きずられることなく、小説『人間革命』『新・人間革命』という『精神の正史』からブレずに、『闘う言論』を展開している。その意味で創価学会とSGIが存在することは、戦乱の世界における大きな希望といえるだろう」と述べるのでした。ここまで著者が創価学会および池田大作氏に心酔しているとは思いませんでしたので、ちょっと驚きました。現在、著者はガン闘病中だそうですが、1日も早く元気になられることをお祈りいたします。

 

 

2022年7月24日 一条真也

「ボイリング・ポイント/沸騰」

一条真也です。東京に来ています。
21日の午前中にブログ「哭悲/THE SADNESS」で紹介した映画を観た後、16時半から開催される財団の経営会議 まで時間があったので、ヒューマントラストシネマ有楽町で映画「ボイリング・ポイント/沸騰」を鑑賞。レストランを舞台にしたワンショット撮影のヒューマンドラマで、大傑作でした。今年の一条賞候補作品です!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「イギリス・ロンドンの人気レストランを舞台に、オーナーシェフの波乱に満ちた一夜を描く人間ドラマ。クリスマス前の多忙な店内でさまざまなトラブルが巻き起こる様子を、ワンショットで映し出す。監督・脚本などは俳優としても活動するフィリップ・バランティーニ。主人公を『THIS IS ENGLND』などのスティーヴン・グレアムが演じ、『ポルトガル、夏の終わり』などのヴィネット・ロビンソン、『エイリアンVSヴァネッサ・パラディ』などのジェイソン・フレミングらが共演する」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「一年で最も多忙なクリスマス前の金曜日、イギリス・ロンドンの人気レストラン。妻子と別居し疲れ果てていたオーナーシェフのアンディ(スティーヴン・グレアム)は、多くの予約によってスタッフたちが多忙を極める中、衛生管理検査で店の評価を下げられてしまうなど、次々にトラブルに見舞われる。そこへ、ライバルシェフが著名なグルメ評論家を連れて予告なしに来店し、彼に脅迫同然の取引を持ち掛けてくる」


この映画、まず何よりも、崖っぷちのオーナーシェフの波乱に満ちたスリリングな一夜を捉えた全編90分のワンショット映像が素晴らしい! 1時間半の間に、じつにさまざまなドラマが起き、トラブルが発生し、心に波紋が生じ、人間関係が揺らぎます。ただでさえ次々に入るオーダーへの対応に追われ、多忙を極めるスタッフたちですが、そこへ、オーナーシェフであるアンディの元上司のライバルシェフが、高名なグルメ評論家を連れて、事前の予告なしに突然来店する場面には緊張が走ります。大物グルメ評論家には、レストランの信用と評判を一夜で一変させる力があるからです。また、スタッフに多大なストレスを与えるインスタのインフルエンサーの姿も描かれます。さらには、1人の女性客が食品アレルギーの発作を起こして病院に搬送されるのですが、起こりえないはずの事件はなぜ起こったかを探るミステリーの要素もありました。


ブログ「1917 命をかけた伝令」で紹介した第一次世界大戦の映画をはじめ、これまでもワンショットを売り物にした映画はいくつかありましたが、いずれも正真正銘のワンショットではなく、編集の手が入っていました。しかし、この「ボイリング・ポイント/沸騰」だけは本物のワンショット映画、しかもノーCGです。ロンドンのイースト・エンド(東部)、流行の震源地であり、レストラン激戦区でもあるダルストン地区に実際にあるレストラン「ジョーンズ&サンズ」で撮影されたそうですが、まるで魔法のような映像は「どうやって撮ったの?」と思ってしまいます。きっと、厨房や客席の限られた空間でカメラマンがさまざまな障害物をギリギリすり抜けたのでしょう。その結果、各キャストの表情や演技、料理の手さばきを見事にカメラに収めています。


この映画、マネジメントを考える上でも興味深かったです。海外のレストランは役割分担が明確で、スタッフは縦割りになっています。欧米の店では人種の問題もあって、人間関係は複雑。セクショナリズムも強いし、部下は言うことを聞きません。そんな彼らを管理するシェフやホール・マネージャーは苦労が絶えませんが、そのシェフやホール・マネージャーにしても個人的に悩みを抱えていて、ちょっとしたことで心が破裂しそうになります。特に、この映画では、クレイマーあるいは人種差別主義者のお客が、スタッフの黒人女性に心ない言葉を吐く場面があります。彼女の人間的尊厳は損なわれますが、それでも彼女は微笑んでいなければなりません。「接客業の人間相手にいばる奴は、本物の馬鹿」と言ったのは北野武ですが、レストランの接客係はいわゆる「感情労働者」であると言えるでしょう。現代は、モノを生産したり加工したりする仕事よりも、人間を相手にする仕事をする人、すなわち「感情労働者」が多くなってきました。感情労働とは、肉体労働、知識労働に続く「第三の労働形態」とも呼ばれます。

 

 

ブログ『管理される心』で紹介した名著を書いたアメリカの社会学者アーリー・ホックシールドは、「感情社会学」という新しい分野を切り開きました。ホックシールドは、乗客に微笑む旅客機のキャビンアテンダントや債務者の恐怖を煽る集金人などに丹念なインタビューを行い、彼らを感情労働者としてとらえました。彼は、「マルクスが『資本論』の中に書いたような19世紀の工場労働者は『肉体』を酷使されたが、対人サービス労働に従事する今日の労働者は『心』を酷使されている、と」と述べます。現代とは感情が商品化された時代であり、労働者、特に対人サービスの労働者は、客に何ほどか「心」を売らなければならず、したがって感情管理はより深いレベル、つまり感情自体の管理、深層演技に踏み込まざるをえません。それは人の自我を蝕み、傷つけるというのです。

心ゆたかな社会』(現代書林)

 

拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)にも書きましたが、わが社の事業である冠婚葬祭業にしろホテル業にしろ、気を遣い、感情を駆使する仕事です。お客様は、わたしたちを完全な善意のサービスマンとして見ておられます。もちろん、わたしたちもそのように在るべきですが、なかなか善意の人であり続けるのは疲れることです。わが社の社員たちは、感情労働のプロとして、ホスピタリティを提供しているのです。そして、コロナ時代を経て「ケア」がキーコンセプトとなります。わたしは、コロナ後のサービス業はケア業へと進化すべきであるとして、「サービスからケアへ」を訴えているのですが、まさにこの映画のメインテーマは「ケア」だと思いました。レストランを訪れるお客は空腹なだけでなく、心も満たされていません。お客だけでなく、シェフもマネージャーもスタッフも、みんな心のケアを求めているのです。わたしは今、「サービスからケアへ」をテーマにした本を書く準備をしていますが、コロナ禍で苦しんだ多くの飲食店のオーナーを含めた接客サービス業の方々にぜひ読んでいただきたいです!

 

2022年7月23日 一条真也