「月刊仏事」に『心ゆたかな社会』が紹介されました

一条真也です。
仏教界と供養業界の専門誌である「月刊仏事」11月号(鎌倉新書)が届きました。今回は、『心ゆたかな社会』(現代書林)が紹介されています。

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「月刊仏事」2020年11月号

 

同誌には「供養関連書」というコーナーがあります。
そこに掲載された記事には、こう書かれています。
「著者の一条真也氏は、作家であり、冠婚葬祭会社(株)サンレー代表取締役社長である。 全国冠婚葬祭互助会連盟前会長であり、 一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会副会長、そして上智大学グリーフケア研究所客員教授でもある。
本書は、そんな日々命と向き合う著者が新しい社会像を探る内容となっている。15年前、著者は敬愛するドラッカーの遺作『ネクスト・ソサエティ』のアンサーブックとして『ハートフル・ソサエティ』を出版した。人間が今まで経験してきた大きな社会変革である農業化、工業化、情報化の次の社会変革として、人間の心が最大の価値をもつ「心の社会」への変革を15年前に出版した書籍で提案したのだ。今、内閣府は次に国が目指すべき姿として『Society5.0』を掲げている。Society5.0は、『サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)』を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会」と位置付けられている。著者の提案する『心の社会』に通じていることがわかる。上記の書籍出版後の時代は『ハートレス』へと進んでいると指摘する。『ハートフル』な方向へ転換するために、アップデート版として全面改稿を行った。『まだ間に合う』と添えられた言葉に少し安堵を感じながら読み進める。新型コロナウイルスの流行により、全世界・全人類が同じ敵と闘っている現状。これを新しい世界が生まれる陣痛と著者は例える。先が見えない不安の中、どのような社会を今後目指していくか。考えるヒントとなる1冊である」

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

 一条真也

『アントニオ猪木 世界闘魂秘録』

アントニオ猪木 世界闘魂秘録

 

一条真也です。
アントニオ猪木 世界闘魂秘録』アントニオ猪木著(双葉社)を読みました。ブログ『猪木力:不滅の闘魂』で紹介した本と同じく、著者のプロレスデビュー60周年の記念出版です。「猪木信者」であるわたしには、たまらない1冊でした。 

f:id:shins2m:20201014142440j:plain本書の帯

 

本書のカバー表紙には、世界各地で撮影された著書の思い出の写真が8枚使われています。帯には赤いマフラーとともに右腕を突き上げた著者の写真とともに、「イノキ全史」「地球が俺の戦場(リング)だった!!」「秘蔵写真‟特別掲載”」「ウィズコロナを生き抜く日本人へラストメッセージ」「アントニオ猪木デビュー60周年 INOKI60th」と書かれています。帯の裏には章立てとともに、「恥をかけ。馬鹿になれ。そうすれば、自ずと道は開ける。それがどんなに険しい茨の道であっても、まずは一歩を踏み出すことだ。(本文より)」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、こう書かれています。
「目の前に理不尽があったら、蹴飛ばせ! 世の中の常識となれ合うな! 心配ばかりして、一歩を踏み出すことを恐れるな! 先輩を超えて行け! 師匠を凌駕しろ! そんな気迫がなければ時代は変わらない。『アントニオ猪木、誰だ? そんなヤツいたっけ?』それくらい豪語できる後輩が出現するのを俺は待っている。(本文より)」

f:id:shins2m:20201017153823j:plain巻頭には貴重な写真が満載!

 

本書の巻頭には貴重な写真が満載です。「祖父の相良寿郎と猪木寛至少年」「ロサンゼルス・マッカーサーパークのマッカーサー元帥の記念碑の前でポーズを取る米国修業時代の猪木青年」「ブラジル、アマゾンの現地民と交わるショット」「パキスタンモヘンジョ・ダロ遺跡を観光中の1枚」「イラク、『平和の祭典』でのワンシーン」「北朝鮮の名勝、金剛山の清流を泳ぐ」「北朝鮮の学校を訪問した際のカット」「夕日が落ちるパラオの海に佇む」の計8枚です。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」 
第1章 ブラジルで育まれた驚異の体力と直感力
第2章 力道山没後の単身アメリカ武者修行
第3章 未知なる強豪との遭遇
    パキスタン・ヨーロッパ・アフリカ
第4章 平和のための熱い闘い
    ロシア・キューバイラク北朝鮮
 終章 馬鹿になれ、恥をかけ~すべての日本人へ 



 第1章「ブラジルで育まれた驚異の体力と直感力」の冒頭では、「3人の人生の師」として、著者は「俺は、これまでの人生で、その背中を見ているだけで多くを学ぶことができた人物が3人いる。1人はプロレスの師匠である力道山。2人目が、ライバルであり親友でもあったモハメド・アリ。もう1人が祖父の寿郎だ」と書いています。祖父について、著者は「ひと言でいえば、スケールの大きな豪傑タイプの人だった。うまくいっているときは天下でも取りそうな勢いがあるし、悪いときが無一文。そんな振り幅の大きな生き方が、子どもながら魅力的に映ったのだと思う。俺は、この祖父に憧れ、中学生になっても祖父の布団に潜り込んで寝ていたほどだった」と回想します。

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珍しい祖父と猪木少年のツーショット写真 

 

祖父の性格は明らかに孫である著者に受け継がれているように思えますが、著者は「俺は祖父に命じられて、よく、どぶろくを買いに行かされた。その店は朝鮮人の集落にあり、あるとき、その集落の女の子がいじめられているのを目撃してしまったのだ。女の子はひどい言葉を浴びせられ、涙を流していた。当時の俺は体こそ並外れて大きくても、性格は内気で引っ込み思案だった。しかし、その卑劣な行為を許すことができず、いじめている奴らろ大喧嘩をした。まだ差別という言葉の意味も深く知らない。ただ、弱い者いじめが嫌だったのだ。おそらく正義感の強い祖父の影響もあったと思う。『どんな分野に進んでも世界一になれ』とは、祖父の口癖だった。『石油王』『牧場王』という言葉とともに、よく夢を語ってくれた。後年、俺がプロレスや格闘技の分野で世界一を目指したのも、祖父の存在と無縁ではない。今でも、祖父から受け継いだDNAを強く感じている」と述べています。



祖父ゆずりで正義感の強かった著者は、テレビの中のヒーローだった力道山に憧れました。本書には、「ちょうどプロレスのテレビ中継が始まっていた頃である。うちにテレビはなかったが、隣に住んでいたのがテレビ技師の一家なのは幸運だった。近所のよしみで、その家でいつもプロレス中継を見せてもらった。みんなが黒山の人だかりの中で街頭テレビを見なければならなかった時代、俺たちは家の中で座ってプロレス観戦できたのである。プロレスに魅了されたのは俺だけじゃない。祖父も同じで、力道山が卑怯な外国人レスラーを得意の空手チョップで叩きのめす姿に熱狂していた。力道山は敗戦国のコンプレックスを吹き飛ばす、まるで神風のような存在だった。だから、祖父も俺を相撲取りではなく、プロレスラーにさせたいと漠然と思っていたのかもしれない。角界入りの話は、いつの間にか立ち消えになった」と書かれています。



当時、体の大きな少年は相撲取りになるのが定番コースでした。ブラジルに移民する際の船中で大好きだった大黒柱の祖父を失い、ブラジルでも想像を絶する過酷な日々を送った猪木少年は、ブラジル遠征中の力道山の目にとまり、スカウトされてプロレスラーへの道を歩み始めます。しかし、力道山も著者を一度相撲取りにして、出世してから、再びプロレスのリングに戻すプランを立てていました。あるとき、著者が付け人をしていた力道山が大相撲の高砂親方(元横綱前田山)と飲んでいたとき、著者の顔を見た高砂親方が快活な声で「力さん、この若いの、いい面構えじゃないか」と言いました。それを聞いた力道山は嬉しそうに「うん、そうだろう、そうなんだよ」と答えたそうです。著者は、「毎日のように怒鳴られ、殴られるだけだった俺は、このとき初めてオヤジから褒められた気がした。心の底では俺のことを認めていてくれたんだと思うと、それだけで胸に熱くこみ上げるものがあった。あれから60年近い歳月が流れたが、このときのオヤジのひと言を聞いてなかったら、俺はその後、プロレスを続けていたかどうかさえ分からない」と述べています。



著者が「オヤジ」と呼んでいた力道山が刺されたのはその夜のことでした。著者は、「戦後最大のヒーローのあまりにも呆気ない死。俺は頭の中が真っ白になり、何も考えられなかった。自宅に遺体を運ぶと、家の中ではいろんな人たちが集まり、オヤジの財産の話をしていた。まだ20歳の俺には、人間の貪欲さが浅はかに思え、なんとも嫌な気分になった。一方に悲しい『死』があり、もう一方には生臭い『お金』の話が行われている。今思えば、その光景は人間社会の縮図のようでもあった。その晩、俺は金縛りにあった。ふと、足元のほうを見ると、オヤジらしい人影が立っている。目を凝らすと、起こった形相で俺に何かを伝えようとしているようにも見えた。思わず飛び起きると、汗びっしょりだ。そんな夢が1週間続いた。オヤジの顔はいつも厳しかった。ふがいない俺を叱咤したかったのだろうか。刺された日に見せたオヤジの嬉しそうな笑顔。夢に出てきたオヤジの厳しい顔。どちらの顔も俺の脳裏に深く刻まれている」と述べます。

 

著者にとって、力道山とは何だったのか。人権も完全に無視されたような辛い付け人時代のエピソードはあまりにも有名ですが、著者はこう述べています。
「俺はオヤジの恋人や愛人の送り迎えまで任されたくらいだから、他のどんなレスラーより信頼されていたはずである。オヤジの付き人仕事はつらかったが、プロレスは俺の肌に合っていた。自分がどんどん強くなっている実感があったし、来日した外国人レスラーとも積極的に交流した。その1人がカール・ゴッチだった。とにかく強い。それまで見たこともないような関節技で、相手を圧倒するのだ。俺はゴッチに教えを乞うために時間が空くと、外国人レスラーの控室を訪ねた。その頃、関節技を習いたいというレスラーなど他にいなかったのだろう。ゴッチは嬉しそうな顔で、関節技を伝授してくれたものだ。俺はなんとしてでも強くなりたかった。世界一強くなりたかった。ゴッチを始めとする海外の強豪レスラーと手合わせするたびに、夢は世界へと広がった」



力道山の死後、著者はプロレスの本場であるアメリカに武者修行に出ます。本書には修業時代の様子も詳しく書かれていますが、ハリー・レイスとの出会いに言及した箇所は初めて知りました。著者は、「当時の試合で鮮明に覚えているのはハリー・レイスとの対戦だ。レイスは俺と同い年で、後にNWA世界チャンピオンに8度も輝いた。来日回数も多く、日本では『美獣』の異名で人気だった。そのレイスのデビュー戦の相手を俺が務めた。もちろん、新人だからと言って容赦はしない。手加減なしにレイスの喉を突き上げると、あっけなく血を吹いて倒れてしまった。試合会場に来ていた家族は、『あいつを殺してやる』と、大騒ぎしていたらしい(笑)。そんなレイスも昨年8月に他界、かつての同志が次々に俺の前から消えていく・・・・・・」と述べます。レイスといえば、ジャイアント馬場の好敵手というイメージが強かったので、デビュー戦の相手が著者だったとは意外でした。



テキサスでは、著者は日系人のデューク・ケオムカと組んで、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス組を破り、当地のタッグタイトルも獲得します。その頃から著者は、いざとなったら誰にも負ける気がしまかったそうです。「危険な相手はカール・ゴッチ直伝の関節技で極める!」として、「日本にいた頃、カール・ゴッチに仕込まれた関節技がものをいった。当時、関節技を使いこなせるレスラーはアメリカにはほとんどいなかったため、『生意気な日本のガキが』とナメたファイトを仕掛けられたら、すぐに関節を決めればよかった。確かに、アメリカにはパワーだけなら桁外れのレスラーがいる。たとえば、『狂牛』の異名があったオックス・ベーカーも、その1人で、いきなり力任せのラフファイトで勝負してきた。俺は、バックを取ってリングに転がし、関節を極めるだけでよかった」と述べています。カール・ゴッチ直伝の関節技は、その後、藤原喜明佐山聡前田日明といった著者の弟子たちにも受け継がれました。



アメリカ修行時代、著者はロサンゼルスのプロモーターからボクサーにならないかと誘われたこともあったそうです。「プロボクサーへの転向話もあった」として、著者は「当時、東洋人のヘビー級ボクサーが1人もいなかったため、俺に白羽の矢が立ったのだろう。デビュー戦のギャラは1000ドルだった。俺自身、その頃からなんにでも挑戦してやろうという意欲はあった。しかし、話は試合直前で流れた。記憶は定かではないが、プロレスのほうが多忙だったからだったと思う。『アントニオ猪木』の名はアメリカのマットでも売れ始め、明らかに上昇気流に乗っていたのである。まさか、この10年後にモハメド・アリに挑戦することになるとは、この時点では想像だにしなかった」と述べています。



モハメド・アリといえば、第3章「未知なる強豪との遭遇 パキスタン・ヨーロッパ・アフリカ」で、アリとの異種格闘技戦を凌ぐ世紀の大試合のエピソードが登場します。著者と試合する相手は、当時のウガンダ大統領イディ・アミンでした。試合は1979年6月10日、ウガンダの首都カンパラで行われ、レフェリーはアリが務めることに決定しました。しかし、反アミンのウガンダ民族解放戦線が蜂起して内乱が勃発し、アミンは失脚してリビアに逃亡してしまいました。その後、表舞台に現れることはなく、2003年に亡くなっています。中止になった世紀の一戦について、著者は「俺もプロモーターの康芳夫氏も残念でならなかった。もし実現していれば、世界中で大反響を呼んだはずである」と述べています。漫画家の赤塚不二夫は、「あまりにもシュールな対決で、もし実現したら、僕は漫画を描けなくなってしまうかもしれない」と語ったそうです。また、康氏によれば、アリの大ファンだった俳優の高倉健菅原文太からは、東京での記者会見があった段階で、すでにリングサイドのチケットの予約が入っていたとか。すごいですね!


では、実現していたら、どんな試合になったでしょうか。著者は、「おそらく俺が本気で闘えば、1分以内にカタがついてしまう。かといって、それでは世界中の視聴者が納得しないだろう。しかも、相手は30万人を虐殺したといわれる「人食い大統領」の異名がある独裁者だ。もし俺が勝ったら、リングを取り巻く親衛隊が俺を銃殺するかもしれない。実は、レフェリーのアリは有事に備え、防弾チョッキ、ヘッドギア、グローブという完全装備でリングに上がる予定だった。まさに戦場でのファイトと言っていい。もちろん同じイスラム教徒、それもアミンが神のように敬うアリを銃殺するはずはないが。俺はその場で撃たれなくても、捕らえられて終身刑、最悪は死刑を食らうことだってありうる」と述べます。なんとも凄まじい話です。



第4章「平和のための熱い闘い ロシア・キューバイラク北朝鮮」では、ペレストロイカソ連で、オリンピックや世界選手権でメダルを獲った超一流のレスリング選手や柔道家をプロレスのリングに上げたエピソードが語られます。当時のソ連の政府関係者のほとんどはプロレスがどんなものであるか理解しておらず、「サーカスの前座や幕間に見せる大男の怪力芸のようなものだろう」と安易に考えている者もいれば、アメリカでプロレスを見た経験のある政府関係者は「しょせん、八百長さ。世界トップクラスの格闘家が真剣に闘う価値があるのか」と発言したそうです。著者は政府関係者だけでなく、リングで大金を稼ぐことを夢見る格闘家たちを前に、まずプロレスについて説明することから始めなければなりませんでした。



著者は、「プロレスとは何か。それは肉体と精神の鍛練を重ねた人間同士が闘いを通じて観客を酔わせ、感動させるスポーツである」と述べ、さらに猪木流のプロレスの定義でもある「4つの柱」について語りました。第1の柱は「受け身」。第2の柱は「攻撃」。第3の柱は「感性と想像力」。そして、第4の柱はリングで闘う者同士の「信頼」です。こうした4つの定義を話したうえで、最後に著者は「プロレスは国の代表として闘うオリンピックとは違う。あくまで個人の闘いだ。私が説明した4つの柱を真に理解し、実践することができれば、数万人の大観衆でさえ、自分の手のひらに乗せ、感動を与えることができる。そのときの満足感、充実感はたとえようもなく大きい」と締めくくりました。話を聞き終えると、レスラーや柔道家たちが興奮した表情で口を開き、「私がやりたかったものはまさにそれだ!」「自分はアマチュアで金メダルを獲った。次はオリンピックではなくプロレスの世界でチャンピオンになってやる!」と言ったそうです。著者は、「その場に居合わせた格闘家全員が、もう一度、檜舞台に立つことを望んでいた。その舞台こそが、プロレスのリングにあることを感じ取ってくれたのだった」と述べています。



イラクの日本人人質解放のエピソードも興味深かったです。「人質解放のために学んだイスラム教」として、著者は「徴兵拒否によってアリはチャンピオン・ベルトを剥奪され、リングから追放されたが、3年近いブランクを経て復活。自分の祖先が生まれたアフリカで、イスラム教徒として世界チャンピオンに返り咲いた。そんな波瀾の人生を送ったアリにとって心の支えとなったに違いないイスラム教に、俺も興味を抱いていたのだ。さらに、俺はイラクへ行く前から、人質解放のためには当然、イスラム教を深く学ばねばならないという覚悟があった」と述べています。イラク入りした著者は、イラク政府の要人であるウダイ委員長から現地のモスクや遺跡を案内されました。



著者は、「バビロン遺跡のそばのイスラム寺院では、コーランが流れる中、俺のために白と黒の2頭の羊が生贄として捧げる儀式が行われた。来賓を迎える際、羊を生贄に捧げるのはアラブでは最高の歓迎を意味するのだが、通常は1頭だという。2頭の羊を捧げるようなことは、国王クラスの来賓でも、めったにないらしい。俺はこのとき、肌でイスラム教の教えを感じ、学ぶことができたのだと思う。イラク政府の懐に飛び込むには、これくらいやるのは当然だと考えていた。無謀だ、浅はかだと思う人もいるかもしれないが、俺はまったく躊躇しなかった」と述べています。



そして、ついに人質は解放されました。
フセイン大統領に直筆の手紙を書いて、ホテルの部屋で待機していた著者のもとに、ウダイ委員長が人質解放したという情報が届きました。「やった! ついに人質の解放が決まった!」と、著者はホテルの部屋で拳を振り上げ、ガッツポーズを決めました。本書には、「まもなく数えきれない報道陣の前で、解放された人々と、その家族の再会が果たされた。泣き崩れる人がいる。抱き合う人がいる。手を固く握り合い、言葉にならない言葉を交わしている人がいる」と書かれています。



著者は、「40組弱の家族の感動的な光景を見て、駆けつけた俺も胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。その夜は、深夜まで語り明かした。誰もが喜びと安堵にあふれた笑顔を見せ、話は尽きなかった。俺自身、『政治家になって本当に良かった』と、心の底から思える時間だった。翌日、フセイン大統領から人質解放の提案が国民会議に出され、正式に承認された。こうして俺たちは無事、日本に帰国したのだった」と書かれています。早いもので、イラクの人質解放から30年近い年月が流れましたが、まだ駆け出しの1年生国会議員が果たした偉業は今も色褪せません。



イラクでの人質解放が実現したのも、もとはといえば、著者がイスラム世界の英雄であり、世界最高のスーパースターでもあったモハメド・アリと戦った男だったからです。著者が国会議員となってからも、アリのネームバリューは強い味方でした。どの国に行ってもアリの対戦相手として知られ、たいていの要人が快く会ってくれました。そして、北朝鮮での「平和の祭典」でもアリの存在は大きな役割を果たすことになりました。アリの参加によって、この歴史的ビッグイベント開催そのものが決定したのです。また、著者の師匠の力道山の存在も大きかったと言えます。「平和の祭典」は著者の第1回訪朝からわずか7か月後の1995年4月28日から開かれることになりました。



「世界最多の38万人を動員した『平和の祭典』」として、著者は「新日本プロレスの国内における観客動員の最多記録は、1998年に開催された俺の引退試合だそうだ。東京ドームに7万人を超える観客が集まった。しかし、その3年前の1995年に北朝鮮で開催された『平和の祭典』(正式名称は「平和のための平壌国際体育・文化祝典」)は、初日も2日目も19万人、合計38万人の観客動員を記録した。なんでも、プロレス興行としては世界最多の観客数だったらしい。マスゲーム要員が2万人か3万人は動員されているから、19万人すべてが純粋な観客とは言えないかもしれない。しかし、その分を差し引いても、1日で15万人以上の北朝鮮国民が俺たちのプロレスを観戦したのは間違いない」と述べています。



メインイベントは、著者とリック・フレアーの一戦でした。「視聴率99%、一夜にして消えた反日感情」として、著者は「試合は俺とフレアーの間で技と技、力と力の激しい攻防が繰り広げられ、19万人の大観衆は湧きに沸いた。その熱い闘いこそ、オヤジが築き上げたプロレスであり、俺が北朝鮮国民の脳裏に焼きつけたかった『闘魂』である。『燃える闘魂』は今でこそ俺のキャッチフレーズのようになっているが、ルーツはオヤジにある。というのも『闘魂』の二文字は晩年のオヤジが好んで使った言葉で、付き人だった俺はオヤジが頻繁に色紙に書くのを見ていた。そして俺はその言葉をオヤジが残してくれた財産として、ずっと大切にしてきたのだ」と述べます。



では、「闘魂」とは何か。著者は、「俺は自分自身に打ち勝つことだと解釈している。さらに言えば、リングに上がったら自分に妥協せず、観客に過激なプロレスを見せることで自らの魂を磨いていくことだと理解している。この日、そんな俺の思いは19万人の大観衆に伝わったはずだ。彼らは俺が闘う姿の向こうに、祖国のヒーロー、力道山の雄姿を見たのではないだろうか。試合を終え、リングで両手を上げると熱い拍手が鳴り止まず、大歓声が俺の体を包み込んだ」と述べています。「これだけの大観衆の前で試合ができたんだ。もう、いつ引退してもいい」という思いが頭をよぎるほどの充実感があったそうです。この2日間のテレビの視聴率は99%を超え、ある政府高官は「一夜にして反日感情が消え去りました」と評価したとか。



終章「馬鹿になれ、恥をかけ~すべての日本人へ」では、「アントニオ猪木を超えて行け!」として、著者は後進の者たちにエールを送っています。
著者は、「俺を育ててくれたプロレスの世界を見渡しても、これはという人材が見当たらない。興行的にはうまく行っているのかもしれないが、真のスター選手は誕生していないのではないか。プロレスファンの間では名前を知られているレスラーはいるだろう、しかし、日本人の誰もが知っているようなレスラーはいない、みんな小粒なのだ。プロレスという枠を超えて、広く認知されるようなレスラーは今のこところ現れてはいない。いつのまにかプロレスは、一部のファンのためのマイナ―な格闘技になってしまった感さえある」と述べています。



そして、著者は「力道山ジャイアント馬場アントニオ猪木。3人とも、その名前はいまだに全国区だ。好き嫌いは別にして、現役時代は日本人の誰もが知るプロレスラーだった。俺はオヤジの存在を超えようとアリ戦を仕掛け、世界各地に遠征したように、今の現役レスラーにも、アントニオ猪木を凌駕するようなサプライズをしけけてほしいと切に願っている。それこそが日本中、いや世界中の人々に夢を提供することである」と述べるのでした。著者の自伝はこれまでにも出版されていますが、本書は少年時代、ブラジル時代も詳しく書かれており、わたしが知らなかったこともたくさんあり、興味深い内容でした。



それにしても、14歳でブラジルのコーヒー農園で過酷な労働に従事し、日本では力道山の付き人として地獄のような毎日を送ったアントニオ猪木。彼ほど「苦労をした」人はいないのではないでしょうか。そして、彼ほど「スケールの大きな」人はいないのではないでしょうか。世界各地に遠征して、文字通りの「世界ケンカ旅行」を実践し、イラク北朝鮮では前人未到の足跡を残したアントニオ猪木・・・・・・こんな凄い男、なかなかいません。もともと「猪木信者」のわたしですが、著者に対するリスペクトの念がますます強くなりました。わたしが学生時代、早稲田祭で著者の講演会が開催されたことがあります。大隈講堂で行われたその講演会の演題は「俺のように生きてみろ!」でした。そのとき、「カッコいいなあ」と思った記憶がありますが、考えてみたら、誰も著者のようには生きられません。やっぱり、猪木は最高です!!

 

アントニオ猪木 世界闘魂秘録

アントニオ猪木 世界闘魂秘録

 

 

2020年11月6日 一条真也

葬祭責任者会議

一条真也です。
5日の午前中、北九州紫雲閣で執り行われた葬儀に参列しました。その後、小倉紫雲閣へ。ブログ「グリーフケア資格研修発会式」で紹介した記念すべきセレモニーが行われた翌日ですが、同じ小倉紫雲閣の大ホールで、サンレーグループの全国葬祭責任者会議が開催されました。2019年11月7日以来の開催です。

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葬祭責任者会議のようす

前回は、特別ゲストとして、上智大学グリーフケア研究所島薗進所長をお招きしました。そして今回、5日の16時半から、わたしは、恒例の社長訓話を1時間にわたって行いました。まずは、前日のグリーフケア資格研修発会式」の発会式に言及しました。わたしは、グリーフケアの普及が、日本人の「こころの未来」にとっての最重要課題と位置づけています。

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最初は、もちろん一同礼!

 

上智大学グリーフケア研究所客員教授として教鞭をとりながら、社内で自助グループを立ちあげグリーフケア・サポートに取り組んでいます。2020年からは、副会長を務める全互協と同研究所のコラボを実現させ、互助会業界にグリーフケアを普及させるとともに、グリーフケアの資格認定制度の発足にも取り組んでいます。全互協内にグリーフワークPTを発足させ、座長として2021年6月に「グリーフケア資格認定制度」を開始するべく活動を進めています。

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グリーフケアの目的は2つある!

 

グリーフケアの目的は、主に2つあります。
「死別の喪失に寄り添う」ことと「死の不安を軽減する」ことです。人間にとって最大の不安は「死」です。死の不安を乗り越えるために、人類は哲学・芸術・宗教などを発明し、育ててきました。哲学・芸術・宗教は「死の不安を軽減する」ために存在していると言っても過言ではなく、それらの偉大な営みが「グリーフケア」という一語のもとに集約されてきています。「こころの時代」と言われてきて久しいですが、「こころの時代」とは「死を見つめる時代」であり、「グリーフケアの時代」です。 f:id:shins2m:20201105163500j:plain互助会とグリーフケアについて

 

 「グリーフケアが冠婚葬祭互助会にとってなぜ必要になっているのか」についても話しました。冠婚葬祭互助会は、結婚式と葬儀の施行会社ではなく、冠婚葬祭に係る一切をその事業の目的としています。確かに結婚式と葬儀を中心に発展してきた業界ではありますが、結婚式と葬儀のいずれも従来は近親者や地域社会で行なってきたものが、時代の流れにより対応できなくなり、事業化されてきたとも言えますf:id:shins2m:20201105165237j:plain
「悲縁」を育てる!

 

グリーフケアについても、葬儀後の悲嘆に寄り添うということから考えると、まさに冠婚葬祭の一部分と言えると思います。このグリーフケアについても、従来は近親者や地域社会が寄り添いクリアしてきた部分でしたが、現在その部分がなくなり、今必要とされているのです。「血縁」や「地縁」が希薄化する一方で、遺族会自助グループに代表される「悲縁」を互助会が育てているとも言えます。f:id:shins2m:20201105200509j:plain
グリーフケアの必要性について

 

わが社の営業エリアにもある地方都市では、一般的に両親は地元に、子息は仕事で都市部に住み離れて暮らす例が多く、夫婦の一方が亡くなって、残された方がグリーフケアを必要とれる状況を目の当たりにすることが増えています。地域社会との交流が減少している中、葬儀から葬儀後において接触することが多く故人のことやその家庭環境が分かっている社員が頼りにされるという状況も増えています。互助会としては、このような状況を放置することはできません。しかしながら、グリーフケアの確かな知識のない中、社員の苦悩も増加しており、グリーフケアを必要とされている方はもちろん、社員そして会社のために必要です。

f:id:shins2m:20201105165327j:plain社会的責任(CSR)を果たす!

 

次に、 「冠婚葬祭互助会がグリーフケアに取り組むことで、地域社会との関係がどのように変わっていくか」について話しました。グリーフケアにとどまらず、地域社会が困っていることや必要としていることに関わっていくのは、冠婚葬祭互助会のような地域密着型の企業にとっては事業を永続的に続けていくために必要なことです。それは社会的責任(CSR)を果たすことにつながり、地域に認められる存在となる重要なキーポイントだと思います。

f:id:shins2m:20201105163700j:plain家族葬罪と罰」について

 

それから、葬儀の話に移り、少し前に週刊誌から取材を受けた「家族葬」の話をしました。ある週刊誌が終活特集を組み、「家族葬罪と罰」というテーマで、取材を受けました。わずらわしい人間関係を避けつつ、あまりおカネをかけたくない人たちが家族葬を選んでいるといいます。結局、家族葬の根本にあるのは、「なるべく労力をかけたくない」という本音です。

f:id:shins2m:20201105201112j:plain葬儀は、面倒だからこそ意味がある!

 

しかし、わたしは「葬儀は、面倒だからこそ意味がある」と指摘し、「よくよく考えてみれば、人がひとりこの世からいなくなってしまうというのは大変なことです。骨になってしまえば、生の姿を見ることは二度と出来ない。取り消しがつかないからこそ、憂いは残さないほうがいい。億劫という気持ちはいったん脇において、関係のあった多くの人に声をかけ、故人と最後の挨拶を交わす場所を用意してあげるべきです。選択を誤れば、最期を迎える自分自身も無念が残るし、家族にも『罪と罰』という意識だけを抱かせてしまうことになる。一生の終わりに間違いを犯さぬよう、よくよく考えて『去り方』を決めなければならない」と述べました。

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熱心に聴く人びと

家族葬」は、もともと「密葬」と呼ばれていたものです。身内だけで葬儀を済ませ、友人・知人や仕事の関係者などには案内を出しません。そんな葬儀が次第に「家族葬」と呼ばれるようになりました。しかしながら、本来、ひとりの人間は家族や親族だけの所有物ではありません。どんな人でも、多くの人々の「縁」によって支えられている社会的存在であることを忘れてはなりません。「密葬」には「秘密葬儀」的なニュアンスがあり、出来ることなら避けたいといった風潮がありました。それが、「家族葬」という言葉を得ると、なんとなく「家族だけで故人を見送るアットホームな葬儀」といったニュアンスに一変し、身内以外の人間が会葬する機会を一気に奪ってしまったのです。

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家族葬」と「直葬」の正体とは?

また、昨今わたしたちが目にするようになった「直葬」に至っては、通夜も告別式も行わず、火葬場に直行します。これは、もはや「葬儀」ではなく、「葬法」というべきでしょう。そして、「直葬」などというもったいぶった言い方などせず、「火葬場葬」とか「遺体焼却」という呼び方のほうがふさわしいように思います。すでにさまざまな関係性が薄れつつある世の中ですが、家族葬をはじめとする密葬的な葬儀が進むと「無縁社会」が一層深刻化することは確実です。さらにそれだけにとどまらず、家族葬で他人の死に接しないことが、他人の命を軽視することにつながり、末恐ろしいことにつながらなければ良いと思います。

f:id:shins2m:20201105164454j:plain葬祭業はエッセンシャルワークだ!

 

さて、最近、「葬祭業はエッセンシャルワークですね」とよく言われます。エッセンシャルワークとは医療・介護・電力・ガス・水道・食料などの日常生活に不可欠な仕事です。そして、葬儀もエッセンシャルワークです。葬儀にはさまざまな役割があり、霊魂への対応、悲嘆への対応といった精神的要素も強いですが、まずは何よりも遺体への対応という役割があります。遺体が放置されたままだと、社会が崩壊します。それは、これまでのパンデミックでも証明されてきたことでした。何が何でも葬儀に関わる仕事は続けなければならないのです。

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熱心に聴く人びと

 

感染症に関する書物を読むと、世界史を変えたパンデミックでは、遺体の扱われ方も凄惨でした。14世紀のペストでは、死体に近寄れず、穴を掘って遺体を埋めて燃やしていたのです。15世紀にコロンブスが新大陸を発見した後、インカ文明やアステカ文明が滅びたのは天然痘の爆発的な広がりで、遺体は放置されたままでした。20世紀のスペイン風邪でも、大戦が同時進行中だったこともあり、遺体がぞんざいな扱いを受ける光景が、欧州の各地で見られました。もう人間尊重からかけ離れた行いです。その反動で、感染が収まると葬儀というものが重要視されていきます。人々の後悔や悲しみ、罪悪感が高まっていったのだと推測されます。コロナ禍が収まれば、もう一度心ゆたかに儀式を行う時代が必ず来ます。

f:id:shins2m:20201105163500j:plainさらに「天下布礼」を進めよう!

 

最後に台風10号では、100人以上の避難者の方々を受け入れた話をしました。「魂を送る場所」であった紫雲閣が「命を守る場所」となったことは画期的であり、「セレモニーホール」が「コミュニティホール」へと進化しました。冠婚業も葬祭業も、単なるサービス業ではありません。それは社会を安定させ、人類を存続させる社会インフラとしての文化装置なのです。「礼経一致」に基づくサンレー の企業姿勢は正しいと信じています。冠婚葬祭は変わるけれども、冠婚葬祭はなくなりません。コロナ禍の時代にあっても、いやコロナ禍だからこそ、さらに「天下布礼」を進めていきたいものです。

f:id:shins2m:20201105171815j:plainグリーフケアの時代」の映像を上映

f:id:shins2m:20201105172429j:plainグリーフケアの時代」の映像を上映

f:id:shins2m:20201105172443j:plainグリーフケアの時代」の映像を上映

f:id:shins2m:20201105173026j:plainグリーフケアの時代」の映像を上映

f:id:shins2m:20201105173209j:plainグリーフケアの時代」の映像を上映

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最後は、もちろん一同礼!

 

なお、社長訓話後は「グリーフケアの時代」の映像を上映しました。その後、小倉紫雲閣から松柏園ホテルに移動して、懇親会が開催されました。もちろん、ソーシャルディスタンスには最大限の配慮がなされていました。料理はどれも美味しかったですが、特に「松茸の土瓶蒸し」が最高でした。

f:id:shins2m:20201105181327j:plain懇親会のようす
f:id:shins2m:20201105182422j:plain「松茸の土瓶蒸し」が最高でした!

 

2020年11月5日 一条真也

グリーフケア発会式

一条真也です。
2020年11月4日は、グリーフケアの時代を開く記念すべき日となりました。12時より、一般社団法人全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)、上智大学グリーフケア研究所JGCI)の精鋭陣による「グリーフケアPT」のメンバーが小倉の松柏園ホテルに集結。昼食を取った後、同ホテルで会議を行いました。リモートではなく、久々のリアルな会議です。

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グリーフケアPT会議のようす

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座長を務めさせていただきました

 

久々に開催されたリアル会議は、グリーフケアの定義から、テキストや試験問題の内容、ワークの評価の方法など、多様なテーマで大いに議論が白熱しましたが、14時半に終了。グリーフケアPTメンバーは、松柏園ホテルから、そのまま小倉紫雲閣の大ホールに向かいました。

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発会式のようす 

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司会進行の松嶌委員長

 

小倉紫雲閣の大ホールで、「グリーフケア資格研修発会式」(グリーフケア資格研修ファシリテーター養成課程・開会ガイダンス)が行われるのです。全国の互助会から選び抜かれた10名のファシリテーターのみなさんも集まっていました。司会進行は、全互協のコンプライアンス委員会の松嶌委員長(三重平安閣社長)です。カラオケで鍛えたノドで、いつもの名司会者ぶりを発揮しました!f:id:shins2m:20201104151254j:plain
冒頭、活動映像を流しました

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葬儀 グリーフケアとしての役割

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「月あかりの会」の活動を紹介

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「開会宣言」をする浅井委員長

 

冒頭、「グリーフケアの時代~サンレーの取り組み~」と題したムービーが流されました。その後、全互協の儀式継創委員会の浅井委員長(出雲殿社長)の「開会宣言」があり、発会式が華々しくスタートしました。まずは、グリーフケアPTの座長であるわたしが挨拶しました。

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うさぎマスクで登壇しました

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マスクを外しました


わたしは、レクストの金森社長(グリーフケアPT副座長)からお土産にいただいた日本製高級タオルのマスクをつけて登壇しました。わたしの干支である「うさぎ」の絵柄で、わざわざ金森社長と親しいマスク作家の方に作っていただいた逸品です。わたしは、まず、「みなさん、ようこそ、小倉へ!」と大きな声で言ってから、マスクを外しました。

f:id:shins2m:20201104151557j:plain選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり!

 

それから、わたしは、こう言いました。
「『選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり』という言葉があります。フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの言葉ですが、太宰治が『葉』という小説で使い、前田日明も新生UWFの旗揚げの挨拶で使いました。今日ここに全国から選び抜かれて集ったファシリテーターのみなさんも、同じ思いではないでしょうか?」

f:id:shins2m:20201104151710j:plain大いなるミッションを果たされて下さい!

 

それから、わたしは、こう言いました。
「本日は、上智大学からも先生方がお越しになられています。上智大学は日本におけるカトリックの総本山であり、イエズス会の日本支部です。カトリックでは、何よりも『ミッション』ということを重んじます。みなさんは、グリーフケアの時代を拓くパイオニアです。どうか、自身の大いなるミッションを果たされて下さい。ここに、グリーフケアの時代が幕を開いたことを心より祝福したいと思います!」

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発会式のようす

f:id:shins2m:20201104181053j:plain挨拶する金森副座長

f:id:shins2m:20201104182621j:plain挨拶する伊藤教授

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挨拶する粟津先生

 

その後、グリーフケアPTの金森副座長(レクスト社長)、上智大学大学院実践宗教学研究科の伊藤教授、同客員研究員の粟津先生が挨拶をされました。その後は、伊藤教授、粟津先生から「スケジュール」「注意事項」などについての説明がありました。

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記念の集合写真を撮影

f:id:shins2m:20201104181353j:plainムーンギャラリー」視察のようす

f:id:shins2m:20201106191339j:plain世界平和パゴダ」視察のようす

f:id:shins2m:20201106191449j:plain北九州紫雲閣」視察のようす

 

それから、参加者全員で記念撮影をしました。撮影が終了すると、みなさんは施設見学に出発されました。今回の視察コースですが、グリーフケアの場としての「ムーンギャラリー」、鎮魂の場としての「世界平和パゴダ」、慰霊の場としての「 月への送魂」(北九州紫雲閣)などです。この日は、日本のグリーフケアの歴史にとっても重要な1日になる予感がします。翌5日も松柏園ホテルで、ファシリテーターによるセッションが行われます。また、サンレー本社では、サンレーグループの全国葬祭責任者会議が開催されます。

 

 

2020年11月4日 一条真也

『猪木力:不滅の闘魂』

猪木力: 不滅の闘魂

 

一条真也です。
『猪木力:不滅の闘魂』アントニオ猪木著(河出書房新社)を読みました。ブログ「燃える闘魂60周年!」に書いたように、今年9月30日に、‟燃える闘魂アントニオ猪木はプロレスデビュー60周年を迎えました。それを記念し、猪木氏が一切の虚飾を排してプロレスと人生を見つめ、全てを語った本です。出尽くした感のある猪木本ですが、本書にはこれまで語られなかった本音がたくさん書かれており、猪木が自身の闘魂の継承者と認めた‟新格闘王”前田日明との対談も収録されていて、大変興味深く読みました。

 

改めて、著者のプロフィールを紹介します。
1943年、横浜市鶴見区生まれ。本名、猪木寛至。1957年、ブラジルへ移住。力道山に見出され、1960年、日本プロレスに入門。1972年、自身の理想を追う団体・新日本プロレスを旗揚げ。ストロング小林大木金太郎らとの息詰まる対決、タイガー・ジェット・シンとの血の抗争、モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦など、従来のプロレスを凌駕する「過激なプロレス」によって、伝説的存在となる。1989年、参院選に当選し、プロレスラーとして初の国会議員に。1998年、現役引退。2010年、世界最大のプロレス団体「WWE」において、日本人として初めて殿堂入り。2013年、参院選に再出馬し当選。2019年、政界引退を表明。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には著者の顔のアップ写真が使われ、帯でも赤いマフラーとともに右腕を突き上げた著者の写真とともに、「人生の重みを知る時、命は本当に輝く。」「アントニオ猪木が虚飾を排してプロレスと生涯を見つめ、すべてを包み隠さずに語った。好敵手、名勝負、生と死、愛した女たち、子供たち、そして『逆縁の愛弟子』前田日明との特別対談」「燃える哲学の尽きぬ生命力がここに!」「アントニオ猪木デビュー60周年」「INOKI60th」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のように書かれています。
引退試合の詩にある『迷わず行けよ 行けばわかるさ』という前に踏み出す勇気は、俺にとってブラジルの朝露の記憶と結びついている。朝露の記憶が蘇った今、あらためて『プロレス』に注ぎ込んだ猪木のエネルギー、つまり『猪木力』を書き残しておくのも悪くないと思った。昨年逝ってしまった妻・田鶴子が命がけで俺に教えてくれた『生きることの重み』を伝えたいという思いもある。――アントニオ猪木

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 序章 朝露の記憶が蘇る時
第1章 プロレスは哲学だ 
第2章 興行師アントニオ猪木 
第3章 闘魂の記憶
第4章 闘う男たちに花を 
第5章 闘魂の遺伝子――師弟対談
    アントニオ猪木×前田日明
第6章 元妻、娘、息子へのメッセージ
第7章 妻・田鶴子の愛と生きる重み
第8章 コロナ時代の「元気」
 終章 命が輝く時
「来年も桜が見えるか――『あとがき』にかえて」
アントニオ猪木 年譜」



第1章「プロレスは哲学だ」の「人の心を目覚めさせる」では、著者は以下のように述べています。
「自分に興味のない人がいる時、『人を振り向かせる』という表現があるけど、俺の場合は、ヒトの心をつかむなんて生易しいものじゃなくて、その人の心の中に入って、首根っこを押さえつけてでも、こっちへ振り向かせてやるって思いがあった。本来の『猪木寛至』は、実は弱気な面もあって、人に言われたことを気にするところもあるんだけど、『アントニオ猪木』はそうじゃなくてね。アントニオ猪木とは、眠っている何かを目覚めさせる存在で、ただひたすらに『振り向かせてやる』って一生懸命に頑張ってきた。それが俺の生き方なんだ」



「言われたことを無我夢中でやってみる」では、「ブラジルから帰国した時に力道山は俺をブラジル人の日系二世として売り込もうとした。スカウトされた時に力道山から『日本語をしゃべるな』と指示された記憶もある。横浜生まれだし、移民でブラジルへ渡ったわけで、日系二世じゃないんだけど、その時は、『違う』なんて思う余地もなくて、何しろ雲の上の存在だった力道山から言われたことだから、疑うこともなく『はい』と返事をするだけだった」と書かれています。これを読んで、ブログ『毒虎シュート夜話』で紹介した本で、ザ・グレート・カブキとタイガー戸口が「横浜市鶴見生まれの『アントニオ』」として、まるで猪木が経歴詐称しているかのような会話をしている理由がわかりました。たしかに、猪木は移民ではありませんでしたが、それを騙ったのは猪木ではなく、師である力道山だったのです。



著者は、「今、振り返ると、力道山がそうやって売り出したのは分かる。だって俺は、何の特徴もない17歳のただの少年だったからね。『日系二世』という触れ込みを付けて特徴を持たせたかったんだろう。日本語を話すなっていうのも、二世がベラベラしゃべったらおかしいから、そう言ったんだろうし、若い時にはある時期まで、その教えを守って、たどたどしい日本語で話していた。新しい世界に入る時は、そんな風に、上に立つ人から言われたことを無我夢中でやってみることは大切なことかもしれない。俺も『日系二世』だって言われて『これはおかしい』とか思ってしまっていたら、プロレスラーとして成長しなかったかもしれない」と述べています。

 

「馬場さんのようにはなりたくなかった」では、最大のライバルといわれ、著者と同日にデビューしたジャイアント馬場について語っています。著者は、「馬場さんは、巨人軍出身というブランドがあって、2メートル9センチという持って生まれたあの体の大きさは凄かった。俺はただのブラジルから来た少年でね。だけど道場で馬場さんは、練習もさぼっていた。だから、俺にとって馬場さんは、ズバリ言えば『ああいう風には、なりたくない』っていう存在。合わせ鏡でいつもあの人を見ながら、『俺は違うぜ』って気づかせてくれた。それは新日本プロレスを旗揚げしてからも同じ思いで、馬場さんの全日本プロレスがあったからこそ、あれじゃいけないって足元を見つめることができたんだ。あの存在はありがたかった」と述べています。正直といえば正直ですが、よくここまで言いますね!



「仕事とは『誇りの場所』だ」では、「プロレスは八百長」とバカにするような偏見や差別について、「選手の中には、八百長と書かれても相手にしない方がいいという人間もいたが、俺は、力道山にブラジルから連れてこられて、純粋に強くなりたいと思って修行をして必死で生きてきたから、自分がプロレス界にいる限り、そこは誇りの場所であって、プロレスの地位を脅かされたり、存在を否定されたら黙っちゃいねぇぞっっていうのがあったんだ。自分が命をかけて闘っていることをバカにされて、黙ってられるかって、自分の仕事に誇りを持っていたし、誇りがあるならいつの日か振り向かせてやるって思ってた。これは別にプロレスだけじゃない。どんな職業に就いている人も、自分が日々、汗水流して頑張っている仕事をバカにされたら「ふざけるな!」って怒るのが当たり前だと思う」と述べています。著者の意見に100%賛成です。

 

しかし、プロレスへの偏見や差別は、著者に劣等感を与えました。「力の源は『ざまあみろ!』」では、「おれが劣等感を糧にした最たるものが、異種格闘技戦だった。昭和51年2月6日、ミュンヘン五輪で柔道の金メダルを獲得したウィレム・ルスカとの試合から始まった異種格闘技戦は、強さを証明したいという俺の思いと、興行師的発想で言えば、世界に向かって『ざまぁみろ!この野郎』って言えるかどうかっていう勝負だった。昭和47年3月6日、大田区体育館新日本プロレスを旗揚げしてから、俺はレスラーだけじゃなくて社長にもなって、興行師としていつも意表をつくことをやってファンを興奮させることばかり考えていた。あと、『世界』っていう言葉に弱くて、常に『世界に発信』と掲げてきた。だから、世界中の誰もが『できるわけがない』とどこか見下していた、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとの試合も、『ざまぁみろ!』って叫びたい一心だったわけだ。ただ、それ以上に、試合がバッシングの嵐にさらされて挫折感も味わったんだけどね」と述べています。



引退後の著者は、「新日本プロレスの会長として「格闘技路線」を提唱し、新日本プロレスを迷走させます。総合格闘技に挑戦した所属レスラーたちもことごとく惨敗し、その後のプロレス人気低迷の大きな原因となりました。「プロレスラーのプライドを教え切れなかった」では、「引退してから、プロレスが嫌になったのは、プロレスラーのプライドを、俺が弟子たちに教え切れなかったっていう後悔があるから。人には、プライドがある。プライドとは、他人に対して『お前らとは違うんだよ』っていう熱い思いだと思っている。レスラーなら他のヤツらと俺はここが違うぜっていう武器を持つことがプライドであるはずなんだけど、弟子たちに『俺は違うんだよ』っていう本気のプライドを伝えて残すことができなかったのが、俺としては残念だったし、自分自身で反省する部分でもある」と述べています。


「鬼気迫る姿から学ぶ」では、著者には3人のプロレスの師匠がいたとして、「1人はもちろん、力道山。1試合、1試合、一瞬、一瞬にあの空手チョップを叩き込む姿は、ド迫力ですね。一説によると空手チョップを会得するために毎日3000回打ったという話があって、それが本当かどうかは分からないけど、あの狂気にも似た鬼気迫る姿から根性論、闘魂という魂を学んだ」「2人目がルー・テーズ。対戦したことはあるけど、直接、何かを教えてもらってはいない。だけど、あの天性のプロレスラーとしての素質は俺の憧れで、学ぶことが多くて勝手にこっちが師匠だと思っている」と述べます。



また、「3人目は、カール・ゴッチ。ゴッチさんからは、やられたらやり返せっていうか、いつでも真剣を抜けということを教えてもらった。(中略)あの人は、スパーリングで相手に極められそうになった時、尻の穴に指を突っ込んでまで相手を倒そうとした。尻の穴に指を入れられると腰が浮くわけで、その瞬間にひっくり返す。これは、刀で言えば木刀なのか真剣なのかという話で、ゴッチさんからは常に真剣を持てということを学んだ」とも述べています。そして著者は、「3人の師匠から学んだことを吸収して、闘いの中で俺なりの『猪木理論』を考えた。それは突き詰めると直感力で、計算なんかしたってしょうがねぇよっていうことで、計算通りに物事が進むことほどつまらないものはない。その瞬間瞬間、感じたままに動く直感がすべてでね」と述べるのでした。


「必死でやれば代弁してくれる人が現れる」では、「直感で勝負してきて、言葉にできなかった『猪木理論』だけど、いろんな人がそれぞれの言葉で表現してくれた。中でも直木賞作家の村松友視さんが昭和55年に書いてくれた『私、プロレスの味方です』は、俺の思いをしっかり捉えてくれる人がいたと思って、ありがたかった。テレビの世界では、古館伊知郎君が素晴らしかった。当時は、テレビ中継の興行が終わると、テレ朝のスタッフと反省会をかねて次のアイデアを話し合ってね。みんな、思いをぶつけあって熱かった。村松さんは作家の世界から見たプロレスで、古館君はずば抜けた自己表現力があった。全身で必死の思いでやっていれば、言葉にできない俺のことを代弁してくれる人たちが出てきてくれて、その表現によって周りの空気が変わった」と述べています。わたしは、いわゆる「猪木信者」の1人ですが、著者をイエス・キリストに例えるなら、村松友視や古館伊知郎はパウロやペテロのような存在だったのかもしれません。

 

第3章「闘魂の記憶」は、さまざまな強豪との戦いの軌跡が記されていますが、世紀の一戦として有名な「モハメド・アリ戦」(昭和51年6月26日、日本武道館異種格闘技戦3分15ラウンド)について、著者は「試合は、最初の蹴りで仕留めるつもりだった。ゴングが鳴って、ヤツの左足めがけて蹴りにいったんだけど、それが空振りでした。仕留められなかった。それは俺の中での誤算だったけど、アリもあれだけの蹴りを受けながら立っていたから、さすがボクシングの世界チャンピオンは違うなって感じた」「試合は引き分けになって、多くのマスコミから『世紀の凡戦』ってぶっ叩かれてね。挫折感を味わった時にひとつだけ救われたのが、試合の翌朝、家を出て通りを歩いていた時にタクシーの運転手さんが『いやぁ、ご苦労さん』って声をかけてくれて、その何気ない一言にもの凄く勇気づけられた。人生において持って生まれた運とか挫折とかあるけど、瞬間、瞬間の一言で立ち上がる勇気をもらえることをあの時に実感した」と述べています。



プロレスvs極真空手の「ウィリー・ウィリアムス戦」(昭和55年2月27日、蔵前国技館。WWF格闘技世界ヘビー級選手権3分15ラウンド)については、著者は「試合まで極真と新日本の間で挑発合戦を繰り返して、互いにカッカしていたけど、俺はそうでもなかった。俺はプロレス一本でやってきたからあまり他の格闘技には興味なくて、極真と言われてもあまりピンと来なかったんだ。大山倍達総裁とは、お会いして話をした。一流の空手家でありながら、極真をあれだけ広げたという意味では、どこか興行師でもある俺と似ているところがある人だな、と感じた」と述べています。



一世一代の大舞台で失神KO負けを喫した「ハルク・ホーガン線」(昭和58年6月2日、蔵前国技館。IWGP優勝戦時間無制限一本勝負)については、著者は「ホーガンは、この試合をきっかけに飛躍したと思う。ニューヨークでビンス・マクマホンに見いだされてアメリカンヒーローにまで駆け上がったけど、昭和55年、最初に日本に来た時は、でくの坊もいいところで何も知らなかった。フロリダでヒロ・マツダさんがコーチして、グラウンドテクニックは形だけは知ってやっていたけど、実際、関節のどこを触れば極まるかとか、全然分かってなかった。そういうところを俺と対戦、またはタッグを組むことで盗んだかどうかは分からない。ただ、マクマホンと出会ったことがよかったと思う」と述べています。



元祖・無観客試合である「マサ斎藤戦」(昭和62年10月4日、巌流島。時間無制限)については、著者は「マサとは東京プロレスを旗揚げした時からの付き合いで、東京五輪のアマレス代表だったから実力もあって強かった。性格的には人がいい男で、そのことで利用されたこともあった。だけど、彼なりにアメリカで修業して単独で頑張ってきた。昭和59年には仲間のレスラーを助けるために警官に暴行して刑務所にまで入って苦労もしたと思う。残念だけど、平成30年7月14日にパーキンソン病で75歳で亡くなってしまった。通夜告別式はちょうど腰の手術を終えたばかりで参列できなかったんだけど、せめてもの供養に通夜の時、寺の門まで行って窓を開けて祭壇へ向かって手を合わせた。マサ、本当にありがとう」と述べています。



第4章「闘う男たちに花を」では、ともに時代を駆け抜けたプロレスラーたちについて語られています。‟インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンについては、「自分の役割が分かった男」として、「俺は、興行屋でもあったから、常に選手をどうやってプロデュースするかということを考えていて、いろんなアイデアが研ぎ澄まされていったんだけど、シンはそれが見事に当たった代表的な選手だと思う。人は、自分がどういう風に見られていて、人にどう育てられているかっていうことに気がつかないことがある。俺は、どう見せれば客を引き付けられるかということを本能的に分かっているところがあって、シンの持って生まれた感性と俺の本能が絶妙なハーモニーとなって、あれだけの試合を見せることができたと思う。彼は会うたびに『猪木のおかげだ』と言ってくれたけど、シン自身が自分の役割をしっかり心得ていたからこそ、数多くの客の気持ちをつかんだと思っている。あれほど自分の役割を分かった外国人選手は、シンをおいて他にはいない」と述べます。



‟大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントについては、「時代が生んだ化け物」として、「アンドレと最後にシングルで闘ったのは、昭和61年6月17日、愛知県体育館。最後は腕固めで初めて彼からギブアップを奪ったんだけど、あの時は、もうピークを越えていたと思う。今、あの試合を振り返ると、客をしっかり自分の手でつかんだなっていう思いだけだね。全盛期は、岩みたいで蹴りを入れたら俺の足が剥離骨折したこともあったぐらい、人間じゃないみたいだった。アンドレは、言い方は悪いかもしれないが、時代が生んだ化け物。あれだけの選手と闘ったことが今もストーリーとして語り継がれているわけだから、逆に俺にとって、彼と出会えたのはラッキーだった」と述べています。



外国人レスラーだけでなく、身内である新日本プロレスの日本人レスラーについても著者は正直に語っています。特に、新日本プロレスの社長を務めた坂口征二藤波辰爾の感想が興味深いです。‟世界の荒鷲”坂口については、「夢を語らなかった坂口征二」として、「坂口は、昭和48年4月に、日本プロレスから旗揚げ2年目の新日本に移籍してくれた。移籍の交渉は、新日本のテレビ中継をスタートするためにNET(現テレビ朝日)が間に入ってつないでくれた。見た通りの穏やかな性格で、とてもいい人間。人を使うのがうまかった。副社長として社長の俺ができない役割をやってくれて、右腕としてこのバカな俺を支えて本当によくやってくれたと感謝している。ただ、ちょっと荒っぽい話になるけど、ここ一番というときに勝負をかける、命をかける、差し違えてもっていうタイプじゃない。金の部分しか見ないで、夢を語らない男だった。だからこそ夢ばかり追っていった俺にとって大切な男だったとも言えるのだが」と述べています。



 ‟炎の飛龍”藤波については、「髪切り事件の中途半端さ」として、「俺から言わせると、真面目一辺倒じゃなくて、もっと性格的にはじけるところがあったらよかった。例えば、髪切り事件っていうのがあってね。あれは昭和63年4月22日、沖縄の奥武山体育館、試合後の控室でマッチメイクへの不満を俺にぶつけてきてね。決意の表れかどうか今も分からないんだけど、なぜか突然、自分でハサミを持ち出して髪の毛を切り始めたんだけど、ほんのわずかのこれっぽっちしか切らなかったんだよ。どうせ切るなら、もっとバサって切れよって。髪切りますって言ったのはいいけど、あれじゃ、お前、そんなの切ったうちに入らないよって思ったよ。そういうところで、もっとはじけていれば、さらによかったと思うんだけど、それもすべて藤波の個性で、もっと切れよっていうのは俺の価値観だから今さら言っても仕方ないんだけどね」と述べています。



著者は、藤波辰爾の他にも、長州力藤原喜明佐山聡といった弟子たちについて語った後、「プロレスと格闘技はなぜ分かれたのか」として、「アリ戦に始まって、一貫して『プロレスが一番だよ』っていうことを訴えたかった。時代が流れて、みんなは勝手にプロレスと格闘技を分けているけど、俺は分けたことがない。だって、強さが一番だということは一緒でしょ。そこは、俺の中では何も変わってない。それが、どうしてプロレスが格闘技と別れたのかは分からない。ひとつ反省点で言えば、おれが国会議員になって、この業界をすべて任せきりにしてしまったことで、こうなったのかも分からない。新日本で言えば、道場で馳浩が指導にあたるようになってから変わってしまった。彼は、シュートを教えなかったからね」と述べています。

 

第5章「闘魂の遺伝子」では、著者と、弟子の1人である前田日明との対談が収められています。冒頭、‟新格闘王”前田と著者の間で以下の対話が交わされます。
前田 猪木さん、当時、道場で自分たち若手におっしゃっていた言葉って覚えてらっしゃいますか?
猪木 どんな話かな?
前田 猪木さんがよく言われていたのは「プロレスは、いつまでもこんな飛んだり跳ねたりするアメリカンプロレスのようなことをやるんじゃないんだよ」って、それで、将来、純粋に強さを競えるものをやるから「そのためにお前らちゃんと練習しないとダメだよ」って言っていました。
猪木 それは、「レスラーは強くあれ」ということが基本だから、常に強さを目指せということを伝えたかったんだよね。例えば、グレイシー柔術なんてのが後から出てきてプロレスラーが負けてしまったんだけど、彼らがやっていたあんな技は全部、俺は日本プロレスの道場で使っていたからね。関節技はいろんな締め方があるけど、柔道五段の大坪清隆さんとか柔道上がりの先輩がやる技を学んで自分のものにしていたよ。ただ、アキレス腱固めを教えられたのは、カール・ゴッチさんからだけどね。



ここで、「力道山日本プロレスの底力」として、前田が日本プロレス出身の北沢幹之から話を聞いたり、文献を調べて知ったことを以下のように披露します。
力道山日本プロレスを旗揚げした後、関西にも全日本プロレス協会があって対抗戦とかしているんですけど、全部真剣勝負なんです。当時の状況というのは、終戦後にGHQが指令して武道の指導者を養成する大日本武徳会専門学校(武専)が廃校になったり、しばらくは、柔道、剣道、空手が禁止になった時があったんです。その中で力道山が1953年に日本プロレスを設立して本格的なプロレス団体が日本に興るんですけど、その時に旧制高校とかでやっていた寝技中心の高専柔道や武専という流れの人たちがプロレス界へ入ってきたんです。そういう全国でもまれにもまれた人材が集まってきた場所が日本プロレスの道場だったんです。そんなことも知らないで、当時のプロレスラーは実力がなかったとかレベルが低いとか言う人がいるけど、当時の日本の中で一番技術があったところだったんです、日本プロレスは」と述べています。



そして、力道山木村政彦の「昭和巌流島」について、以下の対話が交わされます。
前田 力道山と木村さんの試合は、力道山が木村さんをKOするんですけど、柔道側の人は「本気でやれば力道山は木村にかなわない」って言うんですけど、絶対にそんなことはないんです。
猪木 俺は、その試合は後からテレビで見たんだけど、試合が終わって「あれは約束があった」とか「力道山が裏切った」とかいろんなことを言う人がいたけど、あれは、あの結果がそのままじゃないの。木村さんも凄い人だけど、じゃあ、その約束というものがなかったとして、本気でやってもババンッて力道山が倒して終わりじゃないの。
前田 自分もそう思いますね。
猪木 俺は師匠のことはよく知っているけど、あの人の凄さは半端じゃなかったからね。まず精神面で、朝鮮半島から来て、相撲界に入って、その流れで自分でマゲを切ってプロレスという世界を作った魂は半端じゃない。それと拳が大きくて固くて凄かったし、ケンカは強かったと思う。相撲を辞めてから力道山が相撲部屋へバイクに乗ってくると、みんなビビッたって言うもんね。ただ、俺から見ればレスリングの技術はそれほどでもなかったけどね。

 

そして、「猪木さんが総合格闘技の火付け役」として、前田は以下のように語ります。「自分は、これまで今もいろんな人にいろんなことを言われるんですけど、ひとつだけ言えることは、自分は新日本プロレスに入ったときは真っ白でした。ただひたすらに猪木さんから言われることを聞いて、それを守って必死で練習して生活していたんです。だから、今でも胸張って言えるのは、自分のプロとしての人生は、猪木さんの言われたことをそのまま真っ直ぐにやっただけです。これっぽっちも外れずに真っ直ぐにやっただけです。『UWF』でも『リングス』でも本当にバカ正直にやっただけです。それは『プロは強くないといけない』『プロは誰が見てもこれは凄いなって思われないといけない』『世界の格闘技の一流の選手と試合ができないといけない』っていう教えで、猪木さんから言われたことをそのままやっただけです」



続けて、前田は以下のように語っています。
「佐山さんも若手のころ自分に『猪木さんは、こういうことを言っているぞ』ってよく語っていて、そのまま猪木さんの影響を受けていましたから、そういう猪木さんの言葉が後の『修斗』につながって、自分は『リングス』になったんです。だから、今になって総合格闘技の発展に力を注いだのは、佐山さんがどうとか前田日明がどうとか誰がどうとかって議論するのは意味がなくて、すべては猪木さんの思いや異種格闘技戦から始まったことで、猪木さんがいなければ、今の総合格闘技はなかったし、プロレスは存続できなかった。猪木さんが総合格闘技の火付け役なんです。ただ、その中で自分自身がひとつだけ自慢することがあるとすれば、総合格闘技という言葉を作ったことです」と述べます。



前田が「新生UWFは、格闘プロレスとか言われてブームになったんですけど、自分は、前にも言いましたけど、猪木さんから一番最初に『プロレスはこうでなければいけない』って言われたことをそのままやっただけなんです。猪木さんのコピーとしてUWFをやっていました」と言えば、著者は「最近は、師匠は夢に出てこないけど、昔は必ず出てくるといつも怒られてね。目が覚めると『こんなんでいいのかな』って思ったこともあったよね。ただ、今日、こうやってしゃべって、俺が力道山という源流から受け継いだ魂の遺伝子は、前田にもつながっていたんだなと分かって嬉しく思うよ」と語るのでした。それにしても、これまでの師弟の生き様と因縁を知るわたしとしては感涙モノの対談です!



第8章「コロナ時代の『元気』」では、「建前を捨てて、本音をぶつける」として、著者は東京オリンピックパラリンピックの開催問題に言及します。もう今やオリンピック選手は半分プロみたいなもので、金を儲けるのは悪くないが、アマチュア精神とか言いながら、本音と建て前にオブラートをかぶせて、きれいに見せているとして、著者は「だいたい、オリンピック、パラリンピックの開催時期がそうでね。7月から9月ってあんなに暑い時期にやるバカいねぇだろ。裏側には、アメリカのテレビ局の放送権料とかお金が絡む問題があるわけでね。アスリート・ファーストなんて出まかせばかりがまかり通って、誰も選手のことなんて本気で考えていない。選手は、お上が決めたことには従うしかないから仕方がないかもしれない。だけど、もっと選手たちは声をあげるべきだ。『こんなのやってられないよ』って、そういう現場の声が今こそ必要だ。建て前より本音が今は必要じゃないか」と述べます。まったく同感ですね。

 

第7章「妻・田鶴子の愛と生きる重み」では、「時はすべてのさよなら」として、著者は「何人もの人たちと永遠の別れを経験してきて、それぞれの別れ方があったけど、俺の中で忘れることのできない人が4人いた。一番強烈なのがカリブ海で急死したじいさん。人生でこれほど泣いたことはないという経験でね。次は力道山で、あまりのあっけなさに命のはかなさを教えられた。離れて暮らす娘の死に人生の虚しさを知った。そして、女房を看取って、命の重さを感じた。時間が経つと、俺を慰めようと思って『1人もいいですよ』って言う人もいて、『そうですか』って答えるけど、実際に自分の身に降りかかったこと以外は、みんな他人事だもんね。だけど、『猪木寛至』の本当のところは、性格的にそんなに強くてさっぱりしているわけじゃない。ただ、人に泣き言とか愚痴を言ってもしょうがないから、自分で耐えるしかない。でも、おくられびとの方が楽だよ。おくりびとよりも」と述べています。著者の口から「おくられびと」とか「おくりびと」といった言葉が出てくるのは意外でもあり、新鮮でもありました。 



「来年も桜が見えるか――『あとがき』にかえて」では、「闘魂」は、力道山が使っていた言葉を勝手にもらって著者の代名詞になったことが明かされます。さらには、「闘魂とは死ぬまで闘うこと」として、著者は「引退試合の時に『闘魂とは、闘いを通じて己を磨くこと』とメッセージを送った。確かに闘う魂なんだけど、あれから22年を経て思うことは、もっといろんな形で重ねていくと『闘魂』とは死ぬまで闘うことだと実感する」と述べます。


最後に、「あの世に旅立つ時、俺が何を思うのかは分からない。今、言えることは『アントニオ猪木』っていうバカが一生懸命、生きたことを感じてくれたらそれでいい。そして、最後に俺はこう叫ぶだろう。『ざまぁみろ!』」と述べるのでした。本書は、著者の遺書ではないかと思えるほど、何でも本心で語っている印象でした。それにしても、力道山vs木村政彦の一戦に対する著者と前田日明の正直な感想を知ることができて感動でした。巻末に置かれた著者が作った「桜の詩」も素晴らしい!

 

猪木力: 不滅の闘魂

猪木力: 不滅の闘魂

 

 

2020年11月4日 一条真也

『ロレンスになれなかった男』

ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯 (角川書店単行本)

 

 一条真也です。
11月3日は「文化の日」ですね。
『ロレンスになれなかった男』小倉孝保著(角川書店)を読みました。「空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯」というサブタイトルがついています。8月末に、わたしのオフィシャルサイトの連絡欄に「いつもレビューを読ませていただいています。プロレス、格闘技の本はいつも買うときの参考にさせていただいています。一条さんのレビューでみたいのが『ロレンスになれなかった男』のレビューが見てみたいです。とても面白かったので一条さんの感想がどんなものなのか見たいと思いました」という内容の読者からのメールが届きました。それで、直後に本書をアマゾンで求めて読んだのですが、なにしろ書評ブログのストックが多いため、ご紹介が遅くなりました。

 

 

著者は、1964年滋賀県長浜市生まれ。88年毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長、編集編成局次長を経て論説委員。2014年、日本人として初めて英国外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人 「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』(小学館)で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。「女子柔道の母」に続いて、「アラブ空手の父」を描いた本書は、プレジデントオンライン、SNSで圧倒的反響を呼びました。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙にはアラブの少年たちに空手の指導をしている岡本秀樹の写真が使われ、帯には「サダトムバラクフセイン一族――政官中枢に近づき暗躍した空手家がいた」「中東で秘密警察や政府要人に空手を指導、外国製品の闇ルート販売とカジノ経営に乗り出す。命運を賭したビジネスがイラク戦争開戦により頓挫した男は、ナイルに散った・・・・・・。200万人に及ぶ“空手の種”を撒いたその光と闇の濃い人生を描くノンフィクション!」

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「映画『アラビアのロレンス』に憧れ1970年、シリアに向かった岡本秀樹。空手の稽古を通じて、アラブ民族に自立への誇りと現地の活気をもたらしていく。稽古を通じ築いた政官中枢との人脈を生かしエジプト、イラクでビジネスに挑むが、イラク戦争勃発により計画は暗礁に乗り上げる。すべてを失った彼が、たどり着いた場所とは――。日本の外務省に徹底的に嫌われながら、灼熱の地でアラブ民族に“自立の精神”を刻んだ男――構想18年、国際ジャーナリストが満を侍して贈る!」と書かれています。さらに、カバー前そでには、「命がけでアラブに挑んだ。一人で砂の地を開いていった。あれほど破天荒な生き方をする男は今、日本にはいない」とあります。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 序章 「オカモト」が生まれた日
第一章  取材ビザを求めて(イラク前編)
第二章  空手との出会い(日本編)
第三章  中東の空手家(シリア・レバノン編)
第四章  闇商売に堕ちる(エジプト編)
第五章  最後の賭け(イラク後編)
 終章  岡本が遺したもの
「あとがき」
「主要参考文献」

 

「はじめに」で、岡本秀樹について、著者は「岡本は1970年にアラブに渡り、シリア、レバノン、エジプトを拠点に約40年にわたって空手を指導してきた。日本空手協会(本部・東京)の中東・アフリカ担当責任者として、空手の空白地帯だったこの地域に空手を普及させている。前立腺がんからの転移で全身をがんに冒された岡本は08年夏、日本に帰国し闘病の末、09年4月30日、67年の生涯を閉じた。現在、中東・アフリカ地域の空手人口は200万人を超えている。その源流は岡本にある。ゼロから空手を育てた彼は、『アラブ空手の父』と呼ばれてきた」と述べています。



序章「『オカモト』が生まれた日」では、本書のタイトルのもとになった映画「アラビアのロレンス」が登場します。著者は、「日本空手協会での研修を終えて指導員になったとき、岡本は映画『アラビアのロレンス』を見た。1962年に制作され、翌年日本で公開されたこの映画は、オスマン帝国支配下でのアラブの独立を支援した英国軍将校、トマス・エドワード・ロレンスを描いた名作である。当時、東南アジアで空手を指導したいと思っていた岡本は、ロレンスの姿をスクリーンに見て、アラブ世界で空手を教えるのも悪くないと考えるようになる」と書いています。わたしは、中学3年生になったばかりの1978年4月に日本テレビ系の「水曜ロードショー」で「アラビアのロレンス」を初めて観ました。オマー・シャリフ演じるアリが砂漠の向こうから蜃気楼のようにやって来るシーンを観て感動したことを記憶しています。とにかく壮大なスケールの映画でした。



映画「アラビアのロレンス」が描いたように、欧州の植民地政策に苦しめられたのは東南アジアや南アジアだけではなく、西アジアも白人に支配されてきました。著者は、「空手で彼らの自信や誇りを取り戻させることができないか。ベトナム反戦運動の高まりもあり、60年代後半は帝国主義に抗議する世界の若者たちが連帯した時代だった。日本赤軍などの共産主義と、岡本が影響されている民族主義から来る反帝国主義は立ち位置において違いがあった。ただ、熱に浮かされていた点では右も左も大きな差異はなかった。岡本は70年1月、意気揚々とシリアにやって来たのだった」と述べています。

 

シリアにやって来た岡本は、首都ベイルートで機動隊を相手に大立ち回りを演じます。この喧嘩で、シリア人の岡本を見る目は明らかに違ってきました。著者は、「日本人相手にやっていた方法でここの人たちを指導することはできない。この地域に合った指導法を作り上げる必要がある。日本ならば暴力的だ、規則に反していると厳しく指弾されるであろうあの乱闘、大立ち回りが、この国では『空手は強い。実戦的だ』という評価になる。ルールや規則よりも実際の力を重視する。それがアラブなのだ」と書いています。

 

乱闘以来、「空手は(実戦で)使える」との評判がアラブ各地に広まりました。しばらくすると岡本の下にパレスチナ・ゲリラやエジプト大統領の息子たちから指導を求める連絡が入り始めます。著者は、「岡本は空手の指導をシリア、レバノンから中東・アフリカ全域に広げ、結果的に約40年間で200万人以上の空手人口を持つ地域を作り上げた。警察・機動隊を相手にした彼の大立ち回りは、アラブでの空手普及の幕開けになった」と書いています。

 

第一章「取材ビザを求めて(アラブ前編)」では、著者は岡本の空手がアラブ各地で知られていったことについて、「国際空手道連盟極真会館が68年にヨルダンで国王のフセインに空手を指導するなど、岡本以前にもアラブで空手を指導する日本人や欧州人がいなかったわけではない。ただ、岡本の場合、シリアに渡って以降、途切れることなくこの地域で空手を指導してきた。中東・アフリカ各国は70年代から国レベルで空手道連盟を設立して空手を普及させる態勢を整えていくが、そのほとんどすべての連盟設立に岡本が関与している。過去に岡本よりも強い空手家はいたはずだ。ただ、彼ほど多くの連盟設立に携わった空手家は空前絶後だ」と書いています。やはり、岡本は「アラブ空手の父」だったのです。



第二章「空手との出会い(日本編)」では、再び映画「アラビアのロレンス」が取り上げられ、「アラブはこの戦争で何を得たがっているのか」と米国人記者に聞かれたロレンスが、「(アラブは)自由を望んでいる」と答えるシーンを紹介します。アラブ人が自由を手に入れるのは容易ではないと説く記者に、ロレンスは「私が与えてみせる」と語るのですが、著者は「岡本は多民族の独立のために戦ったロレンスに自分を投影した。『東南アジアだけではない。西アジアにも植民地支配にあえいだところがあったのか』岡本は立て続けに3回、この映画を見ている。さほど映像文化に興味のない彼が複数回、見た映画は、生涯、この映画だけである」と書いています。優れた映画には、人の人生を変える力があるのですね。

 

第三章「中東の空手家(シリア・レバノン編)」では、シリアでの指導にようやく熱が入り始めた岡本に、日本空手協会から「第一回世界空手道選手権大会にシリア代表を出場させろ」との連絡が入り、1970年10月10日から日本武道館を中心に開かれた大会について書かれています。主催は全日本空手道連盟全空連)で、日本空手協会全空連に参加する主要組織の1つでした。第一回世界空手道選手権大会には33カ国が参加していますが、中東から参加するのはシリアとイスラエルだけでした。イスラエルには欧米で空手を学んだ選手が多く、エジプトは「アラブ連合」の名で役員のみの派遣でした。著者は、「イランやトルコといった中東の地域大国ではなくシリアが代表チームを送ったのは、岡本の力が大きかった」と述べています。

 

靴をはいたまま試合のマットに上がって主審に怒られた選手もいましたが、岡本は「しっかりと礼をしろ」と大声で指導し、「礼に始まり、礼に終わる。何度言っても、それが伝わらない。武道には勝敗以上に大切なことがある。それがわかんないんです。勝てばいいのはスポーツです。武道は違う。勝敗は勝者の、そして敗者は敗者の振るまいがある。勝ち負けじゃないんです」と語っています。シリア代表は2回戦でフランスに敗れ、初の世界大会は終わりました。ただ、アラブ社会に空手を知らしめる効果は絶大でした。アラビア語新聞がシリア・チームの健闘を報じたことで、岡本のところにアラブ各国から空手指導の依頼が入りました。


世界大会を終えて、岡本がダマスカスに戻るとすぐ、東京から三島由紀夫自決のニュースが入ってきました。三島は自衛隊に決起を呼びかけ、それがかなわずに切腹したのです。アラブ人の空手の生徒たちはその精神性が理解できませんでした。岡本に対して「ミシマはなぜ自殺したのか」と質問します。「日本男児は夢かなわずと悟ったときは腹を切る。そうした覚悟で生きている」と答える岡本に、「でも、神からいただいた命をそまつにしてはいけない」と言うのでした。イスラム教は自死を戒めています。岡本がどれだけ三島の行動を説明しても、生徒たちは最後まで理解できない様子だったといいます。それから約30年後の2001年9月11日、米国同時多発テロでのイスラム教徒の自爆テロに世界は震撼することになります。



テロといえば、1972年5月30日午後10時、鹿児島大学農学部の学生だった岡本公三たち日本赤軍のメンバーがイスラエル・テルアビブのロッド空港(現在のベン・グリオン空港)で銃を乱射し、乗降客ら26人を殺害した事件が発生しました。アラブ・イスラエル紛争とは無関係と思われた日本人によるテロに世界中がショックを受けました。戦争イスラエルに負け続けていたアラブ人たちの中には、遠い極東の島国に自分たちを理解してくれる人間がいることを喜ぶ者が多かったようで、「日本人は兄弟だ」ということでダマスカスの街を歩いている日本人に抱きつき、「ありがとう」と言う者もいました。事件の翌日の31日の朝、岡本の空手道場の生徒も岡本に敬礼し、「我々の兄弟」と呼んだそうです。それぐらい、アラブ人の感情は鬱屈としていたのでした。ちなみに、岡本秀樹と岡本公三は「2人のオカモト」としてアラブ社会で有名になったとか。



岡本は空手家の顔の他に、実業家の顔も持っていました。空手を通じてアラブの特権階層と知り合になり、さまざまなビジネスに手を染めました。エジプトでは、スーパーマーケットやカジノも経営しています。中には闇商売のようなものもあったようです。本書のアマゾン・レビューでは、日御碕巌という方が「アラブに空手を伝えた知られざる武道家」のタイトルで、「アラブ社会では、ごく少数の政治・経済の特権層が権力をふるってきたことも本書からはうかがい知ることができる。小池百合子都知事カイロ大学入学に便宜を図ったとされているエジプト三代の大統領顧問であったアブドル・カーデル・ハーテム氏も本書には登場するが、アラブ社会の闇をあらためて知らされるようだ。2011年の民主化要求運動『アラブの春』は、本書に現われるようなごく一部の特権階層によるアラブ社会の不正・不義を正そうとするものではなかったかとも思う」と書かれています。



終章「岡本が遺したもの」では、エジプトやイラクで闇商売にまで手を染めたとされる岡本の知られざる一面が明かされます。岡本は、「アフリカのエイズの子供達を支援する協会」を立ち上げ、南アフリカエイズ孤児に空手を教える活動を行っていたのです。エイズ孤児とは両親、もしくはどちらかの親をエイズ後天性免疫不全症候群)で亡くした子供(15歳以下)で当時、アフリカ全体で約1200万人いると推定されていました。岡本は南アフリカで空手を指導しているときに、教え子からエイズ孤児の現状を聞き、支援に乗り出したのでした。



当時の岡本を知る中東研究者の佐々木良昭氏は、岡本の生き様を考えるとき、アフガニスタンで凶弾に倒れた「ペシャワール会」の中村哲医師との共通点を見出すといいます。佐々木氏は、「中村医師はアフガンに命を賭けたわけでしょう。同じように岡本さんは命がけでアラブに挑んだ。1人で砂の地を開いていった。あれほど破天荒な生き方をする男は今、日本にはいないよね。突破力がないというのかな。社会がエネルギーを失ってしまっている。今の若者に彼のような爆発力があるか。ないよね。無理を承知でやってみようということにならないんだから。『そんなことやっても無駄だ』ってなるでしょう。大人っぽいと言えば、大人っぽい。でも、それで社会を変えることができるか。俺は今こそ、日本社会に彼のような人間が必要な気がするね」と語っています。



岡本が亡くなった後、著者は遺骨をエジプトに返そうとしました。岡本は飲むたびに、著者に「私の骨はピラミッドの近くの砂漠に埋めるか、ナイルに撒いてほしい」と口にしていたのです。李香蘭こと山口淑子にも語っていたそうですが、岡本はシリアに渡った頃から、アラブに骨を埋める覚悟を固めていたのです。著者は「彼の人生劇場は、遺骨をアラブに返して初めて終幕となる」と思ったといいます。そして、本書の最後は以下のように書かれています。
「映画のロレンスは結局、この地を去った。仲間同士で対立し、いつまでも自立できないアラブ人に失望したのだ。彼は、『砂漠など二度と見たくない』とまで語っている。一方、ロレンスに憧れた岡本は最後までアラブに失望することはなかった。騙され、陥れられても彼はアラブを愛し、信じ、子供たちを励まし続けた。岡本はすべてを失いながらも、この地域に200万人を超える空手家を育てた。砂漠にまいた空手の種は大輪となって咲いている。ロレンスになれなかった男は、ナイルの水となった」



「あとがき」で、本書のタイトルを『ロレンスになれなかった男』としたことについて、著者は「映画『アラビアのロレンス』に憧れシリアに渡ったものの、その後、女性に溺れて闇商売に手を染め、最後は国の保護(生活保護)を受けることになった点を念頭に置いたタイトルだった。ただ、彼の生涯を書き進めるにつれ、彼はロレンスに『なれなかった』のではなく、『ならなかった』のではないかと考えるようになった。映画のロレンスは最後、アラブに絶望して祖国(英国)に帰った。ロレンスはあくまで英国のためにアラブ人を鼓舞した。一方、岡本は最後までアラブの若者、子供に期待し、決して絶望しなかった。祖国を顧みず、アラブで生きようとした。彼はロレンスよりも何倍も純粋にアラブを愛した」と述べるのでした。



もともと、わたしの「プロレス・格闘技・武道」関連の書評の愛読者の方から教えてもらった本でしたが、空手家の生涯というよりも、1人の日本人の破天荒な生涯に興味を抱きました。「強さ」というものを求めながらも、女性や商売にも色気を出し、不可能なことに次々とチャレンジし続けた破天荒な人生といえば、アントニオ猪木氏を連想します。湾岸戦争時、イラクで日本人46人が人質となりましたが、その際にサダム・ フセイン大統領(当時)と交渉をして、彼らを全員救出したのは外務省でも時の政府でもなく、猪木氏でした。

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わたしも、ロレンスになりたかった!

 

いま、日本の若者は海外や国際問題への関心が希薄になっているそうです。青年海外協力隊員の応募者も激減するようになったと聞きます。その傾向は新型コロナウイルスによって、さらに加速していることでしょう。ぜひ、本書を若い人たちに読んでいただき、日本人のバイタリティーは世界でも通用することを知っていただきたいと思います。最後に、岡本秀樹の人生に絶大な影響を与え、本書に何度も登場する映画「アラビアのロレンス」はわたしの大好きな映画です。じつは、わたしもロレンスになりたかった男の1人であったことを告白いたします。

 

 

2020年11月3日 一条真也

11月度総合朝礼

一条真也です。
11月になりました。2日の朝、わが社が誇る儀式の殿堂である小倉紫雲閣の大ホールで、サンレー本社の総合朝礼を行いました。もちろん、ソーシャルディスタンスには最大限の配慮をしています。

f:id:shins2m:20201102084414j:plain11月度総合朝礼のようす

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最初は、もちろん一同礼!

f:id:shins2m:20201102084604j:plain社歌斉唱のようす

f:id:shins2m:20201102084817j:plain黒マスク姿で登壇しました

 

全員マスク姿で社歌の斉唱および経営理念の唱和は小声で行いました。それから社長訓示の時間となり、わたしが黒マスク姿で登壇しました。わたしは、まず、「10月31日をもって、マリエールオークパイン金沢が閉館しました。翌1日からは新しい冠婚施設がオープンしましたが、コロナ禍の中にあってもマリエール金沢では8月~10月で70件以上もの施行を実現し、まさに有終の美を飾りました」と言いました。

f:id:shins2m:20201102084830j:plainグリーフケアの時代」が幕を開ける !

 

それから、以下のような話をしました。11月4日、この大ホールで一般社団法人全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の「グリーフケア資格認定制度」のキックオフ・セレモニーが行われます。上智大学グリーフケア研究所の先生方、冠婚葬祭互助会の経営者の方々、そして全国の互助会各社から選び抜かれたファシリテーターのみなさんも参加されます。グリーフケアのパイオニアが一同に会し、まさに「儀式の殿堂」であるこの大ホールから新しい「グリーフケアの時代」が幕を開けることになります。

f:id:shins2m:20201006093107j:plain「PHP」2020年11月号

f:id:shins2m:20201102084902j:plain礼とは「人の道」である !


冠婚葬祭の基本は、なんといっても「礼」です。「PHP」11月号の「私の信条」というコーナーに、わたしが登場しました。インタビュー取材の中で、わたしは、PHPの創設者である松下幸之助の「礼は人の道である」という言葉を挙げて、わが社のミッションである「人間尊重」について語りました。わたしは日頃から「礼経一致」の精神を大事にしたいと考えていますが、「経営の神様」といわれた松下翁も「礼」を最重要視していました。彼は、世界中すべての国民民族が、言葉は違うがみな同じように礼を言い、挨拶をすることを不思議に思いながらも、それを人間としての自然の姿、人間的行為であるとしました。すなわち礼とは「人の道」であるとしたのです。

f:id:shins2m:20201102140403j:plain「礼」について語りました

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熱心に聴く人びと

 

松下幸之助はさらに言います。礼とは、素直な心になって感謝と敬愛を表する態度である。商いや経営もまた人間の営みである以上、人間としての正しさに沿って行なわれるべきであることを忘れてはなりません。礼は人の道であるとともに、商い、経営もまた礼の道に即していなければならないのです。礼の道に即して発展してこそ、真の発展なのです。70年間で実に七兆円の世界企業を築き上げ、ある意味で戦後最大の、というよりも近代日本で最大の経営者といえる松下幸之助翁が最も重んじていたものが人の道としての「礼」と知り、わたしは非常に感動しました。

f:id:shins2m:20201102085101j:plainコロナ禍の中で「礼」を考える

 

コロナ禍の中にあって、わたしは改めて「礼」というものを考え直しています。特に「ソーシャルディスタンス」と「礼」の関係に注目し、相手と接触せずにお辞儀などによって敬意を表すことのできる小笠原流礼法が「礼儀正しさ」におけるグローバル・スタンダードにならないかなどと考えています。コロナ禍のいま、冠婚葬祭は制約が多く、ままならない部分もあります。身体的距離は離れていても心を近づけるにはどうすればいいかというのは、この業界の課題でもあります。

f:id:shins2m:20201102140329j:plainこれから儀式の時代が来る!

f:id:shins2m:20201102085244j:plain熱心に聴く人びと

 

感染症に関する書物を読むと、世界史を変えたパンデミックでは、遺体の扱われ方も凄惨でした。14世紀のペストでは、死体に近寄れず、穴を掘って遺体を埋めて燃やしていたのです。15世紀にコロンブスが新大陸を発見した後、インカ文明やアステカ文明が滅びたのは天然痘の爆発的な広がりで、遺体は放置されたままでした。20世紀のスペイン風邪でも、大戦が同時進行中だったこともあり、遺体がぞんざいな扱いを受ける光景が、欧州の各地で見られました。もう人間尊重からかけ離れた行ないです。その反動で、感染が収まると葬儀というものが重要視されていきます。人々の後悔や悲しみ、罪悪感が高まっていったのだと推測されます。

f:id:shins2m:20201102140304j:plain最後に、道歌を披露しました

 

コロナ禍が収まれば、もう一度心ゆたかに儀式を行う時代が必ず来ます。そのためにもいま一度、礼と人間尊重の心を養っておかねばなりません。「礼経一致」に基づくサンレー の企業姿勢は正しいと信じています。冠婚葬祭は変わるけれども、冠婚葬祭はなくなりません。コロナ禍の時代にあっても、いやコロナ禍だからこそ、さらに「天下布礼」を進めていきたいものです。最後に、わたしは以下の道歌を披露しました。

 

 人びとの身と身
  離るるコロナの世

    心近づくかたち求めん 

 

f:id:shins2m:20201102140445j:plain「今月の目標」を唱和

f:id:shins2m:20201102090511j:plain
最後は、もちろん一同礼!

 

総合朝礼の終了後は、大会議室で北九州本部会議を開催します。コロナ時代にあっても未来を拓くための有意義な会議にしたいと思います。みんなで力を合わせて、「心ゆたかな社会」を創造しましょう!

 

2020年11月2日 一条真也