燃える闘魂60周年!

一条真也です。
9月30日になりました。今日は、‟燃える闘魂アントニオ猪木さんのプロレスデビュー60周年の記念すべき日です。猪木信者であるわたしは、これまで猪木さんから多大なパワーを与えられてきました。心よりお祝いを申し上げたいと思います。

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アントニオ猪木さん

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60年前の猪木さん

 

1943年(昭和18年)2月20日生まれの猪木さんは、1960年4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団。ジャイアント馬場のデビューと同日の同年9月30日、本名の猪木寛至として、東京都台東区台東区体育館でデビュー。対戦相手は、当時の力道山道場で最強とされた大木金太郎で、猪木さんは7分6秒に逆腕固めで敗退しました。ちなみに、馬場選手は道場で最も弱いとされていた田中米太郎を相手にデビュー戦勝利を収めています。



1962年11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームをアントニオ猪木に改名。本名で活動中に出演したテレビドラマ「チャンピオン太」での役名「死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木さんのリングネームにしようとしたといいます。ナンバー2の豊登も乗り気で実現しかけましたが、猪木さんは必死で拒んだとか。南米での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木さんを日系ブラジル人として売り出そうとしていました(猪木さん自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山の没後でした)。



デビューして間もなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年12月15日に死去。力道山は猪木さんに非常に辛く当たりましたが、後継者として期待したと思われます。猪木さんは、師である力道山から「闘魂」を継承しました。「闘魂」は力道山が使っていた言葉を猪木さんが引き継ぎ、アントニオ猪木の代名詞となったのです。最高の遺産ですね!


日本プロレスでは馬場との「GI砲」で無敵を誇りました。ドリー・ファンク・ジュニアらと名勝負も演じましたが、1972年、猪木さんは自身の団体・新日本プロレスを旗揚げし、従来のプロレスを超える「過激なプロレス」で、伝説的存在となります。ルー・テーズカール・ゴッチビル・ロビンソンタイガー・ジェット・シン、ローラン・ボック、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンらとの激闘は今でも語り草になっています。 



また、プロボクシング世界ヘビー級王者であったモハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」は現在のMMA(総合格闘技)のルーツとされていますし、アリ以外にも柔道世界一の‟赤鬼”ウィレム・ルスカ、プロ空手最強の‟黒い怪鳥”ザ・モンスターマン、極真空手の‟熊殺し”ウィリー・ウイリアムスらとの一連の異種格闘技戦も伝説となっています。



また、藤波辰爾長州力藤原喜明佐山聡前田日明、髙田延彦、船木誠勝武藤敬司蝶野正洋橋本真也小川直也藤田和之リョート・マチダといった日本のプロレス&格闘技の歴史を彩った弟子たちを育てました。一時は格闘技路線をめぐって新日本プロレスを混乱させたこともありましたが、その功績の大きさは誰も否定できないでしょう。‟燃える闘魂アントニオ猪木さんは1998年4月4日に超満員の東京ドームで引退しました。55歳でした。



いま、わたしは発売されたばかりの猪木さんの著書『猪木力:不滅の闘魂』(河出書房新社)を読んでいます。プロレスデビュー60周年と喜寿を記念し、猪木さんが一切の虚飾を排してプロレスと人生を見つめ、全てを語った本です。好敵手、名勝負、生と死、愛した女たち・・・燃える猪木哲学が余すところなく書かれていて、ものすごく面白いです。猪木vs前田の初対談も掲載されていて、これが恩讐を超えた師弟愛に溢れており、涙なしには読めません。そのうち、書評ブログをUPしますので、お楽しみに! 
最近、少し弱った感じで、杖もつかれている猪木さんですが、まだまだお元気でいていただき、わたしたちに猪木力を伝授してほしいものです!

 

猪木力: 不滅の闘魂

猪木力: 不滅の闘魂

 

 

2020年9月30日 一条真也