独りで座り、想うこと  

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雲の中に独りで座り、
松とともに老いていく。
何事にも心動かされることなく、
ただ真理の道についてだけ想う。
(『和陸州東博士』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2020年6月27日 一条真也

『リングの記憶 第三世代』

リングの記憶 第三世代~天山広吉×小島聡×永田裕志×中西学~

 

一条真也です。
6月26日は「世界格闘技の日」です。1976年6月26日、アントニオ猪木はプロボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリと「格闘技世界一決定戦」を行い、この試合は現在の総合格闘技のルーツとなりました。
以後の新日本プロレスでは格闘技路線がお家芸になりましたが、時代も平成になると猪木が仕掛ける格闘技路線にプロレスラー人生を狂わされる者たちも出てきました。そんな世代の証言集でもある『リングの記憶 第三世代』天山広吉×小島聡×永田裕志×中西学著(竹書房)を読みました。天山、小島、永田、そして中西の4人が、プロデビュー前後から現在までを振り返ったインタビュー集となっています。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には第三世代の4人が並んだ写真が使われ、帯には「仲間として、ライバルとして同じリングでしのぎを削った4人がデビューから現在まで、各々の戦いの歴史を振り返る。彼らの言葉から浮かび上がる新日本マットの真実とは?」「30年近いキャリアで築いた実績と実力で、いまなお根強い人気を誇る『第三世代』の4人。現在、新日本プロレスは黄金期を迎えているが、アラフィフとなった彼らは第一線からは徐々に退き、中西学は2020年2月22日のリングを最後にプロレスラー生活にピリオドを打った。世代闘争・長期欠場など幾多の困難を乗り越え、新日本“冬の時代”に最前線で踏ん張った4人がリングに刻んだ記憶を巡る!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「THE THIRD GENERATION」「『第三世代』4人の激動の記録!」として、「“猛牛”天山広吉」「レスラーならベルトっていうのが常に目標なのでいくつになっても若い世代ともバリバリ戦っていきたいっていう気持ちは強いです」、「“剛腕”小島聡」「新日本プロレスという壮大な闘いの中で、常に必要とされる人間でいたいし、ファンに一目置かれる存在でいたい」、「“ブルージャスティス”永田裕志」「いつも目の前には中西学のでっかい背中があって。『あの人は不器用だけどモノが違うんだな』って、悔しい目で見てましたよ」、「“野人”中西学」「地に足ついたレスリングを見せるのもプロレスやし、異次元のものを見せるのもプロレス。それが一番できるのは新日本しかない」と書かれています。



さらに、カバー前そでには、こう書かれています。「“第三世代”・・・それは長らく新日本プロレスのヘビー級戦線で戦い続けてきた天山広吉小島聡永田裕志中西学の4人を表す言葉。若き日の彼らは、がむしゃらなファイトで人気を集め、新日本が混迷の時代を迎えたときは、矢面に立ち、最前線で奮闘を見せた。そして、棚橋弘至中邑真輔といった次世代のエース候補が台頭すると、今度は追われる側として真っ向から激闘を繰り広げた。その後、ブシロード体制となり、オカダ・カズチカ内藤哲也など新たなスターたっちを輩出、劇的なV字回復を遂げた新日本の中で第三世代は、長年のキャリアから織り成すファイトで団体に厚みをもたらしてきた。そして、第三世代の一角である中西が、2020年2月22日のリングを最後に引退。その引退ロードでは、第三世代4人の戦いに熱い声援が注がれた。全盛期を過ぎようとも彼らが積み上げ、ファンと共有してきた歴史は何事にも代え難い財産だった。そんな彼ら4人の戦いに終わりはない・・・」



天山広吉は1971年、京都府京都市出身。新日本プロレス学校を経て、90年3月に新日本プロレス入門。「G1 CLIMAX」を3度制覇、IWGPヘビーに4度君臨。小島聡とのテンコジタッグでIWGPタッグには6度戴冠。得意技はアナコンダマックス、モンゴリアンチョップ
小島聡は1970年、東京都江東区出身。サラリーマン生活を経て、91年2月に新日本プロレス入門。2002年2月に武藤敬司らとともに全日本プロレスに移籍。05年2月20日に天山を下し、史上唯一の三冠ヘビー&IWGPヘビーのダブル王者に君臨。11年9月に新日本に再入団。得意技はラリアットコジコジカッター
永田裕志は1968年、千葉県東金市出身。日本体育大学レスリング部で数多くの好成績を残したのち、92年3月に新日本プロレス入門。2001年に「G1 CLIMAX」優勝。02年4月5日に安田忠夫を下してIWGPヘビー初戴冠を果たすと、当時の最多防衛記録“V10”を樹立。得意技はバックドロップホールドナガタロックI~IV。
中西学は1967年、京都府京都市出身。バルセロナ五輪レスリング代表として出場した直後の92年8月に新日本プロレス入門。99年に「G1 CLIMAX」優勝。2009年5月6日に棚橋弘至を下してIWGPヘビー戴冠。20年2月22日に現役引退。得意技はアルゼンチンバックブリーカーヘラクレスカッター。  

 

「はじめに」の冒頭には、「プロレス界における‟第三世代”、それは新日本プロレスで1990年代初頭にデビューしたプロレスラーの総称である。彼らのデビュー時に団体のトップだった藤波辰爾長州力を第一世代、続く武藤敬司蝶野正洋橋本真也闘魂三銃士は第二世代に当たる」と書かれていますが、昭和の新日本プロレスをこよなく愛するわたしには、この世代分けは非常に違和感があります。藤波と長州は第一世代ではなく、第二世代でしょう。そこには木戸修藤原喜明木村健悟佐山聡前田日明平田淳二ジョージ高野も入る?)らも入るでしょうが、第一世代とはやはりアントニオ猪木坂口征二山本小鉄星野勘太郎らのことだと思います。そして、闘魂三銃士を「3」つながりで第三世代(髙田延彦、船木誠勝鈴木みのる佐々木健介、山田恵一も入る?)とし、天山・小島・永田・中西の4人は「4」つながりで第四世代としたほうがスッキリします。


しかしながら、わたしの思惑などとは関係なく、「はじめに」には、「一般的に第三世代とは90年デビューの小原道由金本浩二、91年の天山広吉西村修小島聡、そして92年の大谷晋二郎高岩竜一永田裕志ケンドー・カシン(当時・石澤常光)、中西学を指す。その中でもとくに、長らく新日本マットのヘビー級戦線で戦い続けてきた天山、小島、永田、中西の4人を指す言葉として、現在は定着している」と書かれています。90年代の新日本はビッグイベントを次々に成功させ隆盛を誇っていましたが、第三世代の4人は、人気と実力で不動の地位を築いた闘魂三銃士の背中を必死で追いかけました。



しかし、99年1月4日に風向きを変える大事件が起こります。「はじめに」には、「あの日、バルセロナ五輪の柔道銀メダリストであり、アントニオ猪木の手により“格闘サイボーグ”に変貌を遂げた小川直也が、新日本の強さの象徴である橋本真也を暴走ファイトで無慈悲に‟破壊”した。その後、新日本は猪木主導の格闘技路線を突き進み、団体の方向性に反発した主力選手の退団が続く。第三世代きっての人気レスラーだった小島も、武藤に追随し全日本プロレスに移籍。新日本は混迷の時代を迎え、一時期は倒産寸前まで追い込まれた」と書かれています。



その中で、新日本に残った天山、永田、中西は最前線で奮闘を続けました。そして00年代に入り、棚橋弘至中邑真輔といった次世代のエース候補が台頭すると、今度は壁として真っ向から激闘を繰り広げたのでした。2012年にブシロード体制となった新日本は、棚橋や中邑に続く、オカダ・カズチカ内藤哲也などの新たなスターの活躍で大ブレークしましたが、11年に‟故郷”である新日本に再入団した小島を加えた第三世代の4人は20年のキャリアで新日本内のファイトに厚みをもたらしてきたのでした。しかし、昭和の新日派であるわたしは、棚橋や中邑やオカダや内藤にはまったく興味がありません。わたしがギリギリ知っていて、かろうじて興味を持てるプロレスラーが第三世代の4人ということになります。ここでは、本書に収められたインタビューの中から、それぞれのレスラーの人となりがわかるような発言を紹介したいと思います。


まずは、天山広吉です。彼は、棚橋や中邑とともに「新・闘魂三銃士」と呼ばれたことのある柴田勝頼と乱闘騒ぎになったことがあります。柴田が魔界倶楽部に入る直前の2002年1月、マスクをかぶってセコンドについたときに、天山はいい蹴りを食らってブチ切れました。そのときのことを以下のように語っています。
天山 試合後のバックステージでも「テメー、ふざけんな!」って、周りが唖然とするくらいボコボコにしちゃったんですよ。そうしたらライガーさんに「オイ、そのくらいにしとけよ!」って注意されて、「イヤ、アンタは関係ないでしょ!」って言い返したら「何、コラ!?」ってなって、周りが慌てて止めに入るっていう(苦笑)。いや、それこそ当時はモヤモヤが凄かったんですよ。会社にも不満がたまっていたし、格闘技がベースの選手を集めた魔界倶楽部っていうのがポッとできて、「なんだ、コイツら? やってられっか!」っていう気持ちがあって、そういう中でセコンドの柴田の蹴りがパコンって入って、お客さんの前なのに正体不明のマスクマンとか関係なく「テメー、柴田! 逃げんな、コラッ!」って追いかけ回して(笑)。



次に、小島聡です。史上唯一の三冠ヘビー&IWGPヘビーのダブル王者に君臨した小島は、新日本と全日本の団体間を行き来した、他の3人からすれば要領の良い人生を歩んできました。しかし、両団体の長所も短所も知り尽くしている彼に「三銃士と四天王をとおして、何か新日本と全日本の違いのようなものは感じましたか?」という質問に対して、以下のように答えています。
小島 そうだなあ・・・・・・。この言い方が適切かわからないですけど、三銃士はいろんな意味で‟アバウト”なんですよね。よく言えば臨機応変、「なんでもやっりまおう!」みたいな。逆に四天王と呼ばれる人たちは試合の序盤から終盤まで、計算の上に成り立ってると思いました。意外性のプロレスと起承転結のプロレスの違いというか、あと、四天王に関しては三沢さんや川田さん、小橋さん含めて持ってる空気感というか、オーラが似てましたね。それは自分が新日本育ちだったから、より強く感じたのかも知れないですけど、三銃士とは全然違いました。そういうものを体感できたのは財産だと思います。



続いて、永田裕志です。新日本の格闘技路線の最大の犠牲者である彼は、会長であった猪木の思いつきでミルコ・クロコップやエメーリヤンコ・ヒョードルといった総合格闘技界の最強戦士たちと準備もなく戦わされて惨敗を喫しました。「あらためてあのヒョードル戦は、ご自分の中でどういう位置づけですか?」という質問に対して、永田は以下のように答えています。
永田 俺のキャリアでアレがなければとか言われるけど、「ここからどう立ち上がるか?」を考えるしかなかったですよね。それがプロレスラーの見せるべき姿だと思うし、周囲の期待を裏切ったのは心苦しかったですけど、ただの人柱で終わりたくなかったんで。選手が無理やり、格闘技のイベントに担ぎ出されるのは、あのヒョードル戦が最後でしたよね。あれでプロレスラー、ファン、マスコミがハッキリとプロレスとは違うジャンルだっていうのを認識したんじゃないかと思います。新日本のあの狭い道場で練習を積めば、畑違いのジャンルでも勝てるっていう幻想が通用しない時代になったというか。あそこから新日本全体が「プロレスをしっかりやる」っていう意識に変わったと思いますよ。それで次の世代の選手たちが前に進めたと思うし、結果的にはよかったかなって。



そして、中西学です。橋本vs小川の「1・4事変」のとき、控室のモニターで試合を観ていた中西は、「これ、おかしいな?」と思い、リングまで走って行きました。試合がノーコンテストで終わって両陣営が揉み合っているとき、中西は小川の顔面を張っています。「橋本さんの顔面をボコボコ殴って、倒れてる相手の顔を踏みつけて、そんなもん許せへんかったし」「プロレスのリングなのに、どういうことや? 来るんやったらやったるで!?」と思ったそうです。大乱闘の末に最後に小川を殴ったのは長州力でした。その長州と小川の初遭遇にして遺恨試合が2001年5月2日の福岡ドーム大会で実現します。長州&中西組vs小川&村上組でした。「暴走王」と呼ばれた危険きわまりない小川と戦う長州は用心棒として中西を指名した形でしたが、中西はこう語っています。
中西 あの試合前、長州さんが言うてはったんですよ。「いいか、場合によってはグーでガンガンいくぞ」って。でも、俺としてはそれだけは絶対にイヤやったんです。そんなん、これまで自分が信念持ってやってきたことちゃうし。ただ、その代わりに俺はチョップをガンガン入れたんですよ、相手が骨折したんちゃうかなっていうくらい。コッチの手も試合後に見たら腫れてましたからね。当時の新日本は格闘技路線に傾いてましたけど、俺はプロレスルールでやるなら、自分が食ってきたものにプライドを持ってリングに立たないとなっていう気持ちでしたよ。



五輪出場の実績と堂々たる体格、そして豪快無比なファイトで、中西は誰よりも将来を期待されました。しかし、格闘技路線に翻弄され迷走。2011年には脊髄損傷で長期欠場に追い込まれましたが、不屈の闘志でカムバック。そして2020年2月、惜しまれるつリングに別れを告げたのでした。第三世代の仲間たちも立ち会った引退セレモニーで、中西は「現役は終わりなんですけど、一度プロレスラーをしたからには、死ぬまでプロレスラーやと思っています」と挨拶。場内を感動と大きな拍手が包み、その光景をリングサイドから見つめ第三世代の同志たちは目を潤ませました。中西の別れの挨拶は、尊敬するマサ斎藤ゆずりでした。中西が若い頃、マサ斎藤から「いいか、レスラーはレスラーはデビューしたら死ぬまでレスラーなんだぞ。だから、リングを下りる日が来てもトレーニングは続けなきゃダメだ」と言われたというのです。



最後に、「あとがきにかえて」で、引退の日を振り返った中西は「しかしまあ、あれから世の中がこんなに変わるとは思ってへんかったな。引退興行(2月22日)の時点で濃厚接触はNGやから、試合前の撮影会が中止になったけど、いまとなっては大会自体を無事できたことが奇跡やったっちゅうか」と書いています。新日本は2月26日の沖縄大会を最後に、それ以降の大会は中止になりました。中西は「きっといまだにファンが俺にツイッター引退試合の感想を送ってくれるのも、リング上の流れが止まったままやからっちゅうのもあるんやろうなあ」と述べています。五輪レスラーとして過剰にされながらも、運命に翻弄されて才能を開花させることができず、ついには怪我で泣く泣く引退した”野人”中西学は「持ってない」男の典型でした。しかし、彼は最後の最後で「持ってる」ことを示したのです。

 

 

2020年6月26日 一条真也

『平成維震軍「覇」道に生きた男たち』

平成維震軍「覇」道に生きた男たち (G SPIRITS BOOK)

 

一条真也です。
24日、東京で新たに55人の感染者が報告されました。緊急事態宣言解除後としては最多で、50人を上回るのは5月5日以来です。そんな東京に25日から出張します。全互協のグリーフケアPT会議に座長として参加するためです。
平成維震軍「覇」道に生きた男たち』越中詩郎小林邦昭木村健悟ザ・グレート・カブキ青柳政司齋藤彰俊&AKIRA(辰巳出版)を読みました。ブログ『私説UWF 中野巽耀自伝』で紹介した本と同じく、「G SPIRITS BOOK」シリーズの1冊です。中野巽耀(当時は龍雄)が活躍したUインターが全盛の頃、新日本プロレスのリングでは平成維震軍が暴れまくっていました。 

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本書の帯

 

本書の表紙カバーには赤と黒の地の上に「覇」という字が大きく書かれ、帯には「誠心会館との抗争、選手会vs反選手会同盟、WARとの対抗戦、頓挫した2部リーグ構想、そして、現場監督・長州力と俺たちの関係・・・」「‟本体”とは真逆の視点から90年代の新日本プロレスを紐解く」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「『おい、お前! ドアくらい閉めていけ!』全ては1991年12月8日、後楽園ホールの控室で起きた‟殴打事件”から始まった――」と書かれています。さらに、アマゾンの「内容紹介」には、「G SPIRITS BOOKシリーズ第10弾は、1990年代の新日本プロレスで人気を博したユニット『平成維震軍』のメンバーによる初の共著になります。小林邦昭越中詩郎と空手・誠心会館の抗争に端を発し、『反選手会同盟』結成、天龍源一郎率いるWARとの対抗戦、そして『平成維新軍』に改名して独立興行を開催するまでに至る流れを各メンバーがそれぞれの視点から回想。1999年の解散宣言から20年・・・7人の男たちがあの熱い時代を本音で振り返る!」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「‟維震魂”の轍――まえがきに代えて」

平成維震軍の軌跡」

第1章 小林邦昭

第2章 齋藤彰俊

第3章 越中詩郎 

第4章 青柳政司

第5章 木村健悟

第6章 ザ・グレート・カブキ

第7章 AKIRA



すべては、1991年12月8日、後楽園ホールから始まりました。当時、新日本プロレスに参戦していた空手団体・誠心会館青柳政司館長はこの日、門下生の松井啓悟を伴って会場に入りました。ところが、その松井が控室のドアを閉めた瞬間、「ドアの閉め方が悪い」と小林邦昭が激昂しました。松井が口答え(一説では、小林の言葉が聞こえなかったので、松井が聞き返したとも言われる)したため小林は殴りつけて制裁。後日、松井の親友だった齋藤彰俊と小林の空手vsプロレスの異種格闘技戦が組まれましたが、齋藤が小林をTKO。これが後に平成維震軍へとつながる全ての発火点となりました。ここでは、7人の発言の中でわたしのハートにヒットしたものをご紹介したいと思います。

 

こんなことを言うのは大変おこがましいのだが、アントニオ猪木さんが行った異種格闘技戦の中でも本当に殺伐とした試合だったのはモハメド・アリ戦とウィリー・ウィリアムス戦くらいだったように思う。彰俊とは、そうした試合と比べられても、全く見劣りしない異種格闘技戦ができた。ファンの声を聞いても、この初戦と俺がチキンウィング・アームロックで彰俊にリベンジした4月30日の両国国技館の試合が特に記憶に残っているようだ。俺自身がといえば、彰俊との試合自体も忘れられない思い出だが、この直後にかつてライバルだった初代タイガーマスクこと佐山サトルと再会する機会があった。当時、修斗(シューティング)という格闘技を立ち上げてプロレス界とは一線を引いていた佐山に「小林さん、凄い試合をしたみたいですねぇ。俺の周りでも話題になってますよ」と言われたことが今でも強く印象に残っている。小林邦昭



普段からベタベタするような関係ではないが、唯一頻繁に会う師匠のカブキさんは「維震軍の時代ほど面白いものはなかった」と言っている。あれほどのキャリアを持つ人がそう言うのだから、やはり長いプロレスの歴史の中でも稀有なユニットだったのではないだろうか。蝶野さんが立ち上げたnWoジャパンはオシャレな軍団だったが、それに対して平成維震軍は「商店街のオヤジの集まりだ」と言われたことがある。その泥臭さが今でも支持を受けている理由なのだとしたら、それはそれで満更でもない。齋藤彰俊



95年のG1初日、公式戦で俺は当時IWGP王者だった武藤に勝利した。あいつが仕掛けてきた雪崩式フランケンシュタイナーを俺がそのままパワーボムで切り返した試合だ。3カウントが入った瞬間、セコンドに就いていた維震軍のメンバー全員がリングに上がってきて、彰俊が俺を肩車してくれた。リング上では、「覇」と描かれた旗がはためいていた。
「ああ、景色が違うなあ。高いところはいいなあ」
彰俊の肩の上で、俺はそんな感慨にふけっていた。良き仲間たちに恵まれたと実感した日でもあった。越中詩郎



ある日、山本小鉄さんから「青柳、ちょっと来い!」と呼ばれて、こう言われた。「お前、プロレスラーをナメるなよ」
「ナメていません。どういうことですか?」
「バカ野郎! お前、全力で蹴ってないだろう? プロレスラーはな、五段、六段持っている空手家が蹴ったって我慢するんだ。急所以外なら、お前がどれだけ蹴っても壊れやしない。だから、遠慮せずにガンガン行け!」
小鉄さんは、私が蹴りを躊躇しているのを見逃さなかったのだ。「分かりました。押忍!」
私はそう答え、それ以降はレスラーの分厚い胸板に思い切り蹴りを叩き込むようになった。青柳政司



平成維震軍は、ある意味で寄せ集めのメンバーだったため年齢もキャリアも出身団体もみんなバラバラだった。例えば越中は維震軍のリーダーだが、年齢もキャリアも俺のほうが上。カブキさんは年齢もキャリアも一番上だったが、後から加わった助っ人的なポジションだったので俺や越中を支える立場に回ってくれた。
もちろん、リングを降りれば、越中は俺を「木村さん」と呼び、俺は「越中」と呼び捨てにしていた。そういった一般社会と同じ先輩後輩の関係、年功序列は守られていたが、リングに上がってしまえば、そんなことは関係ない。みんながそれぞれの立場で、それぞれの役割を果たしていたのが平成維震軍の強みだったと思う。木村健悟



平成維震軍は本当に心地のいい空間だった。日本プロレス時代は上下関係で頭を悩ますことが多く、全日本プロレス時代は口うるさい元子さんがいて、SWS時代は自分勝手なレスラーたちによって散々引っ掻き回された。しかし、平成維震軍ではそういた余計なストレスから一気に解放された。メンバーは気を遣わなくていい気さくな連中ばかり。試合になれば、何も言わなくても自分のやるべきことが分かっている仕事人の集まりだ。「俺が! 俺が!」と出しゃばるような奴もいない。54年にわたるプロレス人生の中で最も楽しかった時間を与えてくれた仲間たちには、本当に感謝している。試合をするのはもう無理だが、俺が必要ならばいつでも声をかけてくれ。まだまだ毒霧を噴くくらいなら、お安いご用だ。ザ・グレート・カブキ



格闘技志向が強かった90年代の新日本で、平成維震軍のようなユニットが7年間も続いたことは奇跡的なことだったかもしれない。その歴史はプロレスvs空手の異種格闘技戦から始まったが、それはきっかけでしかなく、進退を懸けながら、プロレスならではの、プロレスでしかできないことを全身全霊で向かい合ったユニットが平成維震軍だったと思う。現在の日本のマット界を見渡すと、俺が違和感を覚えていた格闘技路線は時代の流れの中で、ほぼ姿を消してしまった。だが、それとはある意味で真逆に位置していた平成維震軍は今もこうして生き残っている。永遠に正解が見つからないであろうプロレスという難解な世界において、俺はそこに1つの「答え」があるように思えてならない。(AKIRA)



平成維震軍」という名称は大前研一氏の「平成維新の会」からインスパイアされたそうで、「プロレス界に激震を起こす」「プロレス界を震撼させる」という意味が込められているとか。新日本プロレスの‟平成・黄金期”と呼ばれる90年代に大暴れしましたが、その頃の新日マットはアントニオ猪木こそリタイア同然だったにせよ、長州力藤波辰爾を筆頭に、武藤敬司蝶野正洋橋本真也の「闘魂三銃士」に馳浩佐々木健介の「馳健コンビ」、それに獣神サンダーライガーエル・サムライ金本浩二大谷晋二郎ケンドー・カシンといった「新日ジュニア最強戦士」の面々が活躍していました。そんな中でくすぶっていた存在だった小林邦昭越中詩郎木村健悟・野上彰・後藤達俊小原道由らが結成した「平成維震軍」には、レスラー過剰の新日本プロレスにおける別動隊の意味がありました。実際、彼らは平成維震軍として自主興行も行い、WARやUWFインターナショナルなどの他団体にも参戦しています。



別動隊が成立しうるということは新日本プロレスにとっても最も良い時代であったということでしょうね。本書には、当時の平成維震軍の人気を物語るエピソードが2つ紹介されています。1つは、小林邦昭が以下のように語っています。
「後楽園大会の試合後、控室に戻ってきたら、セコンドの彰俊が50万円ほどの札束を握っていた。
『お前、それどうしたんだ?』
驚いた俺たちが聞くと、『いや、知らないオジサンが・・・』と彰俊自身も戸惑っているようだった。どうやら俺たちの試合を観て、エキサイトした観客がご祝儀として手渡してきたらしい。もしかしたら、後楽園ホールの隣の馬券場で大勝ちでもしたのだろうか。その日の帰り、俺たちは好きなだけ飲み食いし、残ったお金はみんなで山分けした。きっとメンバーの誰もが『そのオジサン、また来ないかな?』と期待していたはずだが、残念ながら我々の前に二度と姿を現すことはなかった」


もう1つのエピソードは、青柳政司が「我々を応援してくれるファンも増え、詳しい日付は忘れてしまったが、確か大宮の会場で思わぬプレゼントをいただいたこともある。会場に来ていたお客さんから渡されたのは、現金100万円。「みなさん、これで食事でも・・・」という意味合いでプレゼントしてくれたのだと思うが、あまりにも大金だったため私は木村さんに『会社に話しますか?』と相談した。『いや、みんなで分けようよ』だが、木村さんは維震軍のメンバーだけで山分けするのではなく、当日会場にいたリング屋さんや新日本の社員も含めて100万円を均等に分けた。自分たちを裏から支えてくれているスタッフに対し、感謝の念を忘れない木村さんの人間性を垣間見た瞬間だった」と述べています。いやあ、いい話ですね! 
それにしても、あの頃の新日本プロレスは面白かった!

 

 

2020年6月25日 一条真也

『私説UWF 中野巽耀自伝』

私説UWF 中野巽耀自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

一条真也です。
『私説UWF 中野巽耀自伝』中野巽耀著(辰巳出版)を読みました。著者は1965年、茨城県下妻市出身。84年に旧UWFに入門。同年8月29日、高崎市中央体育館での広松智戦でデビュー。新日本プロレスとの業務提携時代を経て、88年に新生UWFの設立に参加。91年2月にはUWFインターナショナルの設立に参加。96年5月にUインターを退団し、以後はWAR、格闘探偵団バトラーツ、超戦闘プロレスFMWなど様々なリングで活動。なお、著者および版元は、著者のUWFの同門であった宮戸優光から本書の内容が名誉棄損にあたるとして告訴されています。わたしは、陪審員になった気で、ブログ『U.W.F.最強の真実』で紹介した宮戸の著書も、本書と併せて読みました。

 

U.W.F.最強の真実 (講談社+α文庫)

U.W.F.最強の真実 (講談社+α文庫)

 

 

これまで、ブログ『1984年のUWF』ブログ『前田日明が語るUWF全史』ブログ『U.W.F.外伝』ブログ『証言UWF 最後の真実』ブログ『証言UWF最終章 3派分裂後の真実』ブログ『証言UWF完全崩壊の真実』ブログ『完全版 証言UWF1984-1996』など、UWFに関する本を多数紹介してきましたが、2017年1月に刊行された柳澤健著『1984年のUWF』からUWF検証本ブームというべきものが続いています。UWFの歴史は一種の「羅生門」状態になっていますが、本書には旧UWF、新生UWF、そしてUWFインターナショナル・・・一貫して選手として関わってきた著者ならではの発言も多く、書かれてある内容のほとんどをすでに知っているわたしとしても興味深く読むことができました。たしかに、宮戸についての記述にはいちいちトゲがありますが・・・。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙にはリング上で試合をする著者の写真が使われ、帯には「“プロレス”と“格闘技”の狭間で――純U系プロレスラー第1号が綴る『旧』、『新生』、『3派分裂後』」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「“UWF”の歴史に身を置いた“博多男”の軌跡」として、「デビュー戦はU史上初の“実験的な試合”/旧UWFの競技化に向けて藤原と佐山が交わした言葉/大田区体育館の控室に響いた前田と佐山の怒声/カール・ゴッチに師事して『プロテスト』に合格/エプロンサイドで目撃した前田vsアンドレ戦/顔面蹴撃事件で前田と髙田が決裂!?/なぜ『シャチホコ固め』は生まれたのか?/悔やんでも悔やみ切れない堀口の事故/船木&鈴木の新生UWF移籍は是か非か?/新生Uのマッチメーク会議が紛糾した日/3派分裂直後に前田から届いたメッセージ/UWFインターナショナルvs新日本プロレス全面戦争の内幕/初めて明かすUインター離脱の真相/リングネームを『龍雄』から『巽耀』に改名した理由/etc」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「G SPIRITS BOOKSシリーズ第11弾は、“純U系レスラー第1号”として旧UWF~新生UWF~UWFインターナショナル等で活躍した中野巽耀(当時は龍雄)がレスラー人生を総括する初の本格的自叙伝になります。自身のキャリアを振り返るだけでなく、伝説化しているスーパータイガー佐山聡)vs前田日明の不穏試合、前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアントセメントマッチ前田日明長州力の眼窩底を骨折させた顔面蹴撃事件、新生UWFの3派分裂劇、UWFインターナショナルと新日本プロレスの全面戦争など歴史に残る騒動について当事者の立場から『真実』を激白。UWFファン必携の一冊です」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

まえがき
「“プロレス”とは異なる試合だった俺のデビュー戦」

第1章
ラッシャー木村さんに国際プロレス入門を直訴

第2章
『無限大記念日』前夜―旧UWFの門を叩く

第3章
佐山さんに呼び出され“プロレス”のイロハを教わる

第4章 
大田区体育館の控室に響いた前田さんと佐山さんの怒号

第5章 
アンドレ戦後に前田さんと藤原さんがつぶやいた言葉

第6章 
UWF解体が進む中で、プロレス廃業を決意

第7章 
「中野さんも船木と鈴木の入団に反対してください」

第8章 
新生UWFが目指したのは“格闘技”だったのか?

第9章 
俺から見た「3派分裂」と「UWFインターナショナル」

第10章 
他団体との泥仕合は“UWF”の負の歴史

第11章 
臨戦態勢で臨んだ新日本プロレスとの対抗戦

第12章 
初めて明かす俺がUインターを辞めた本当の理由

第13章 
”UWF”を名乗る者の宿命だったMMA出陣

あとがき「私的“UWF”進化論」

 

まえがき「“プロレス”とは異なる試合だった俺のデビュー戦」では、1984年8月29日に旧UWFの『ヴィクトリー・ウィークス』開幕戦で高崎市中央体育館での著者のデビュー戦について書かれています。なんと入門してから2カ月足らずのデビューで、試合前にはカリフラワー状態だった著者の耳から藤原喜明が注射器で血を抜いてくれたそうです。相手は広松智でしたが、藤原から「普段、スパーリングでやっていることをそのままやればいいから」と言われ、ブックも何もない本当のセメントだったそうです。著者は「言うなればこの試合は『バーリ・トゥード』だった。ルールが整備された今のMMA(総合格闘技)ではない。まさに何でもありの試合である。藤原さんが特別レフェリーを務めたのは、おそらく俺たちの身の安全を考慮しての処置だったのではないだろうか」と述べています。



第5章「アンドレ戦後に前田さんと藤原さんがつぶやいた言葉」では、旧UWFが85年に崩壊し、翌86年から始まった新日本プロレスとの業務提携時代が語られています。著者は、「当初、完全にアウェイである新日本の会場へ行き、向こうの選手たちと同じ空間にいると、その場の空気は本当に張り詰めていたから息が詰まった。ただ、当然の礼儀として、目が合った選手、すれ違った選手にはしっかりと挨拶はする。初めて行った1月3日の後楽園大会ではザ・コブラさんに挨拶したが、物腰がとても柔らかく、俺たちに対する敵意のようなものは微塵も感じられなかった。意外だったのは、まだ若手だった蝶野正洋である。彼は俺より少しだけ先輩であるが、向こうから『お疲れ様です』と挨拶してくれた。初対面での印象が良かったからか、この2人のことはよく覚えている」と述べていますが、挨拶というのはやはり大切ですね。他にも、著者が少年時代からファンだったという藤波辰爾はひたすら格好良く、アントニオ猪木は「お前たち、今は大変だろうけど、そのうちにいいことがあるからな」と声をかけてくれたそうです。いい話ですね。



伝説化しているスーパータイガー佐山聡)vs前田日明の不穏試合、前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアントセメントマッチについても本書で語られていますが、すでに知っていることばかりで、新しい情報はありませんでした。ただし、前田日明長州力の眼窩底を骨折させた顔面蹴撃事件は別です。この事件に対する著者の発言は非常に興味深く、第6章「UWF解体が進む中で、プロレス廃業を決意」では、あくまでも著者個人の見解であると断りながら、「あの試合で前田さんが取った行動は、プロとして疑問符がつく。木戸さんにサソリ固めをかけようとしている長州さんに対し、前田さんは背後から顔面に蹴りを入れたわけだが、プロレスではガードができない相手の顔面を蹴るという行為はタブーである。そこは新日本もUWFも関係ない。当たりどころが悪ければ失明してしまう恐れもあるし、実際に長州さんは眼窩底骨折という重症を負って欠場に追い込まれた。その反面、あの事件が起きていなければ、新生UWFという団体が生まれなかったのも事実だ。前田さんの行動は肯定できないものの、歴史という観点から見た場合、全否定もできないのかもしれない」と述べています。ちなみに、宮戸優光は前田と長州のシングルマッチならあの蹴りは問題なかったが、タッグマッチのカットプレーとしては問題だというようなことを『U.W.F.最強の真実』で述べていました。 



前田の長州顔面蹴撃事件について、著者は「俺の中で印象に残っているのは、前田さんよりも髙田さんの姿である。あの日試合後は非常に機嫌が悪く、終始憮然とした表情を浮かべていた。事件の当事者である前田さんはアンドレ戦のときとは異なり、変なスイッチが入ってしまったようで、退場する際に何の罪もない安生の頭をひっぱたいていた。当然、UWF側の控室は凍てついており、その気まずい雰囲気を解消できないまま、俺たちは会場をあとにした。そして翌日、前田さんには新日本から無期限出場停止処分が下される。それからというもの、髙田さんは道場でも前田さんとは一切口を利かなくなった。『新日本と一緒にやっていこうとしているこの時期に、何てことをしてくれたんだ』言葉には出さなかったが、そんな髙田さんの胸中は容易に察することができた」とも述べています。現在にまで続く前田と髙田の絶縁の根がこの事件にあったとするなら、非常に興味深いことですね。



第7章「中野さんも船木と鈴木の入団に反対してください」では、著者の宮戸口撃が開始されます。まずは、新生UWFの練習生だった堀口和郎氏が受け身の失敗による脳挫傷から亡くなったことが宮戸の責任であるように書かれていたり、新日本から船木優治(現・誠勝)と鈴木実(現・みのる)が新生UWFに移籍してきたとき、宮戸が「僕と安生さんは、あの2人の入団に反対です。中野さんも反対してください」と言ってきたにもかかわらず、いざ2人が移籍してくると媚びていたようなことを書いています。さらには、89年11月29日に新生UWFが最初で最後の東京ドーム大会『U-COSMOS』を開催した際に、安生が対戦したムエタイのチャンプア・ゲッソンリットと宮戸が対戦した場合、“ガラスの膝”を持つ宮戸では、「膝にローキックを一発もらっただけで試合が終わってしまう」などと書いています。2人には相当な確執があったようですね。



しかし、著者は移籍してきた船木と鈴木についても厳しい見方をしており、「俺から見れば、新生UWFに来てからの船木と鈴木の言動はエゴイスティックな理屈を並べているようにしか思えなかった。俺や安生、宮戸は前田さんや髙田さんに『NO』を突きつけることが許されない。新弟子のことから、そうした環境の中で育ち、理不尽に感じるようなことも自分の中で無理やり消化して受け入れてきた。だが、船木と鈴木は先輩たちの意向よりも、自分たちの主張のほうがプライオリティーが高かった。これに関しては、船木が鈴木を焚きつけていた面もある。自分の意見を切り出しづらい局面に陥ったときは、『お前もそう思うだろ?』と鈴木を巻き込みながら議論を進めるところがあった。これは推測の域を出ないが、髙田さんも未来のエース候補と目されていた船木の存在は快く思っていなかったのではないか。髙田さんはナンバー2のポジションをヨシとするような性格ではなく、野心に満ち溢れた人である」



第10章「他団体との泥仕合は“UWF”の負の歴史」では、92年からUインターは藤原組、リングスといった他のU系2派とは異なる新たなカラーを打ち出したことに言及します。それは、ルー・テーズビル・ロビンソンニック・ボックウィンクルダニー・ホッジといったレジェンドレスラーたちの招聘です。9月21日の大阪府立体育会館大会で行われた髙田とゲーリー・オブライトの一戦にテーズから贈られたベルトが懸けられて「プロレスリング世界ヘビー級選手権試合」として行われました。このとき、テーズだけでなく、ロビンソンやホッジも立会人として来日し、オブライトを下した髙田はテーズベルトを腰に巻いて、試合後にリング上でレジェンドたちと4ショットに納まったのでした。しかし、著者は「これらはUインター及びエースの髙田さんを権威づけるための仕掛けとして宮戸がひねり出したものだが、俺個人はそうしたオールドタイマーは必要ないという考えだった。宮戸はテーズさんやロビンソンさんたちを何かとありがたがっていたようであるが、元々カール・ゴッチさん派の俺は彼らと対面しても全くトキメキは覚えなかった。一応、業界の大先輩にあたるため髙田さんも敬意を持って接してはいたが、彼らのキャリアや威光にはさほど興味を示していなかったように思う。はっきり言って、あれは金の無駄遣いだった」とも述べています。



わたしは、まさに、ここが著者と宮戸が犬猿の仲になった最大の秘密があるように思いました。というのも、宮戸は著書『U.W.F.最強の真実』の中で、ゴッチについて言及し、「旧U.W.F.のときなどもカール・ゴッチさんに教わったことはあった。カール・ゴッチといえば、日本では“神様”という表現をされていた人であったし、プロレス界である種特殊な存在だと思っていた。しかしカリフラワーアレイクラブで、ルー・テーズさんをはじめ、いろいろな古い人たちと会うことによって、ゴッチさんだけが特殊なわけではないなということはもう、私たちにはわかってきていた。昔はこういう人がゴロゴロいたんだなということが。さらにロビンソンさんに教わったときに、『ちょっと待てよ?』と思ったのだ。たしかにゴッチさんのトレーニングも凄いが、技術で言ったらロビンソンさんのほうが数段上だということに気付かされたのだ。それこそロビンソンさんを100とすると、ゴッチさんは60くらいという感じになってしまう」と述べているのです。要するに、宮戸はテーズ&ロビンソン派、著者はゴッチ派という派閥というか、リスペクトするプロレスラーの違いが2人の対立の決定的な要因になっているのではないでしょうか。



その他にも、蝶野正洋の「髙田さんと闘ってもいい」という発言の揚げ足を取って宮戸がテーズを連れて新日本プロレスの事務所に乗り込んだり、ベイダー参戦時にも新日本と揉めてトラブルの常習犯になったことを批判し、Uインターの特色の1つとされた「根回しなしの交渉」について、「そう言われること自体が恥ずかしいという気持ちしかない」とまで言い切っています。例の「1億円トーナメント」で、新日本の橋本真也、全日本の三沢光晴、WARの天龍源一郎、リングスの前田日明パンクラス船木誠勝に公開挑戦状を送って参戦を呼び掛けたことも根回しなしの交渉」でした。著者は、「髙田さん自身は筋が通らないことは嫌う人だが、現場のことまで気が回らず、宮戸と安生に任せっきりになっていたところはある。もっと言えば、宮戸が吠えるだけ吠えて挑発し、前田さんが本当にUインターに参戦することになっても、リング上で相手をするのは髙田さんか安生だ。自分は闘う必要がないという安心感もあって、宮戸は好き勝手なことが言えたという部分も大きい」と述べ、さらには「この一連の出来事が雑誌や新聞の記事として後世に残り、UWFの歴史として語られると思うと本当に情けなくなってしまう」と述べるのでした。



著者がUインターを退団した翌年の97年10月11日、東京ドームで開催された『PRIDE-1』で、髙田とヒクソン・グレイシーの一戦が行われました。著者は、「大会当日、俺は東京ドームの観客席にいた。思うところがあって、髙田さんの控室には顔を出さなかったが、他人事ではないと感じていたのは事実である。『仕方ないな・・・・・・』これが試合後に抱いた率直な感想だ。俺から見ても、両者の間には歴然たる実力差があったと思う。腕十字固めで髙田さんが一本負けを喫するという結末は、プロレスファン、UWFファンを絶望の淵へと追いやったかもしれない。だが、ヒクソンは最初から最後まで表情を崩さず、あらゆる面で髙田さんを圧倒しており、俺は当然の結果として受け止めた。リングインする直前、髙田さんは一瞬、セコンドの安生と抱き合った。それは俺の知るフィジカル面もメンタル面も充実していた髙田さんの姿ではなく、そのらしくない行為を目の当たりにしたとき、寂しさを覚えた」と述べています。そのときの著書の胸中を察すると、たまりませんね。



著者自身もMMAに参戦しました。体重310キロの超巨漢力士エマニュエル・ヤーブロー、レスリングでオリンピック代表候補にも選出されたドス・カラス・ジュニアと2戦して、いずれも敗れました。著者は「MMAで2連敗。この戦績を笑いたいやつは、笑えばいい。だが、やってみないことには何も得られないし、語る資格もない。(中略)結果がどうなろうと、“UWF”の3文字を背負っているからには、こうした試合から逃げることは許されない」と述べますが、この言葉には純粋な格闘技ではなかったにせよ、格闘技としての意識を持ってUWFスタイルのプロレスの試合を闘ってきた著者の矜持を感じることができました。



本書を読んで感じるのは、著者の偏屈ぶりというか人間嫌いというか、あまりコミュニケーションが得意ではない性格です。とにかく合同合宿に自分だけ参加しなかったり、身内の不幸を理由に合同記者会見を欠席したりという記述のオンパレードで驚きました。何よりも、2002年11月24日に髙田が田村潔司を相手に東京ドームで開催された「PRIDE.23」で引退試合を行ったとき、わざわざ事前に髙田から電話をもらって来場を依頼されたにも関わらず、それを断ったというのは納得できませんね。著者は「会場に行ったところで、俺にできることは何もない。試合当日は髙田さんの友人や知人、そしてUインター出身の選手たちが駆けつけるだろう、“その他大勢”の1人になりたくなかった俺は、あえて会場にはいかないという方法で髙田さんを見送ることにした」と述べ、大会当日は新宿で友達と遊んでいたそうです。



すると、東京ドームで観戦していた友人から「今、どこにいるの?」と電話があったといいます。引退試合を終えた髙田がリング上から「Uインター出身のやつら、ちょっと上がってこいや」とマイクで1人ひとり選手の名を挙げ、最後に著者が呼ばれたそうです。この夜は「髙田さんが呼んでるよ!」という電話が他にも3件ほどかかってきたそうですが、著者は「今から急いで東京ドームに向かったところで間に合うわけはないが、名前を出してもらえたのはありがたかった」などと述べています。おいおい、それはダメだろ!
そんなこと言わずに、最初から行けば良かったのに! 
ちなみに宮戸はそのとき、リング上にいました。せっかく同じ釜の飯を食った宮戸と著者がいがみあって裁判沙汰にまでなるのはUWFファンにとっては寂しい限りです。どうか、彼らの共通のボスであった髙田が間に入って和解させることはできないでしょうか。もっとも、髙田自身も兄貴分だった前田といつの日か和解してほしいものですが・・・・・・。

 

私説UWF 中野巽耀自伝 (G SPIRITS BOOK)

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  • 作者:中野 巽耀
  • 発売日: 2020/02/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年6月24日 一条真也

『U.W.F.最強の真実』

U.W.F.最強の真実 (講談社+α文庫)

 

一条真也です。
『U.W.F.最強の真実』宮戸優光著(講談社+α文庫)を読みました。ブログ『自伝大木金太郎』で紹介した本と同じ講談社+α文庫のプロレス本です。社会現象にまでなるほどの大ブームを起こした新生UWFは前田日明・髙田延彦・山崎一夫の「上三人」と中野巽耀安生洋二、そして本書の著者である宮戸優光の「下三人」の二層構造でスタートしました。今年2月に刊行された『私説UWF 中野巽耀自伝』(辰巳出版)の内容に対して、宮戸氏が名誉棄損で中野氏と版元を告訴したというニュースを知りました。四半世紀ぶりに中野vs宮戸のセメント対決が法廷で実現するかもしれません。それで、両者の言い分に興味を持ったわたしは、勝手に裁判の陪審員になったつもりで、両者の著書を読み比べてみようと思った次第です。まずは先に本書を読みましたが、プロレスの本質に迫っており、思っていた以上の好著でした。

 

私説UWF 中野巽耀自伝 (G SPIRITS BOOK)

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  • 作者:中野 巽耀
  • 発売日: 2020/02/26
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これまで、ブログ『1984年のUWF』ブログ『前田日明が語るUWF全史』ブログ『U.W.F.外伝』ブログ『証言UWF 最後の真実』ブログ『証言UWF最終章 3派分裂後の真実』ブログ『証言UWF完全崩壊の真実』ブログ『完全版 証言UWF1984-1996』など、UWFに関する本を多数紹介してきました。
2017年1月に柳澤健著『1984年のUWF』が刊行されて以来、出版界ではUWF検証本ブームというべきものが続きました。本書『U.W.F.最強の真実』はこれらの本よりもずっと前の2003年7月にエンターブレインから単行本が刊行され、2007年12月に文庫化されています。

f:id:shins2m:20200620141832j:plain本書の帯

 

本書のカバー表紙には、U.W.F.インターナショナルのリングでエースの髙田延彦が北尾光司に腕ひしぎ逆十字をかけようとしている写真が使われ、帯には「格闘技ブームの原点!」と大書され、「真剣勝負(リアルファイト)を追求し、すべてを賭けて最強団体をつくった男たちの熱きドラマの舞台裏!」と書かれています。帯の裏には、「髙田さんの引退試合に込められた意味」「プロレスの名誉を賭けた『格闘技世界一決定戦』」「蝶野発言から始まった新日本プロレスとの対立」「『週刊プロレス』編集部襲撃事件」「本物のプロレスの伝承」と書かれています。
もちろん、旧U.W.Fや、新生U.W.Fや、さらにはU.W.Fインターナショナルのリング上で行われた試合が真剣勝負(リアルファイト)でなかったことは今では周知の事実ですが、本物のプロレスを追求したことも事実です。

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本書の帯の裏

 

 カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「あらゆる格闘技のスタイルが乱立し、多くの団体が設立されては解散していた激動の1990年代初頭。U.W.F.は、プロレスの『ショー的要素』を廃し、真剣勝負(リアルファイト)を追求することで、熱狂的なファンを獲得した。順風満帆に見えたU.W.F.だったが、度重なるルール変更や資金繰りの悪化から崩壊がはじまる・・・・・・。髙田延彦、桜庭和志など多くのスターを輩出し、さまざまな仕掛けでファンを魅了した最強団体の誕生から崩壊までの舞台裏に迫る!」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「文庫版まえがき」
「まえがき」
プロローグーー髙田さんの引退試合に込められた意味

第一章 夢に導いてくれた選手たちとの出会い

第二章 離合集散、U.W.F.の混迷の日々
  1.多くの不満を抱えさせられた新生U.W.F.
  2.U.W.F.はこうして解散した!

第三章 U.W.F.インターナショナル革命

第四章 ファンを熱狂させた数々の「仕掛け」
  1.仕掛人として動いた数々のビッグマッチ
  2.元横綱・北尾との決戦!
  3.他団体も怖れたUインターの情熱
  4.Uインターの強豪外人はこうして育成した
  5.1億円トーナメントの真実

第五章 最強団体が消滅した日 
  1.ヒクソン道場での大失敗、そして会社への不信感
  2.Uインターが目指したものとは何か?
  3.髙田さんの引退発言、新日本との対抗戦、そして
  4.そして‟Uインター”の実体は完全に消えた

第六章 本物のプロレスの伝承
  1.私が見た髙田vsヒクソン戦の舞台裏
  2.“最強”のプロレスを再び世に送り出すために
  3.キャッチアズキャッチキャン復興
「文庫版あとがき」



「まえがき」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「2002年11月24日、自分自身の人生の中でも一番熱かった時代を一緒に駆け抜けさせてもらった髙田延彦さんが引退された。私は引退試合の相手である田村潔司選手のセコンドとして、エプロンからこの試合に立ち会うことができた。試合のゴングが鳴った瞬間、私の中から‟今”という時が消え、過去のU.W.F.インターナショナル時代のリングの中へ引き戻されてしまったような感覚に陥った。U.W.F.インターナショナル・・・・・・髙田さん、安生洋二さん、鈴木健さん、そして私自身、本当にみんな熱かった。もう、そのUインターはないが、‟髙田さんが引退された“”という、私自身にとっても何かひとつの節目と感じるこの“時”に、Uインター、そして私自身が通ってきた道程を書き記してみたいと強く感じたのだ」



髙田の引退試合は髙田のKO負けという形で終わりましたが、著者は「本当に髙田さんらしい最後だったと思う。あんな引退試合を見せてくれた選手は、かつて誰もいなかっただろう。タムちゃんも良くやったと思う。『蹴って来い!』と言わんばかりに出す髙田さんの脚を、よく最後まで思いっきり蹴り続けたと思う。あれは身内の中でもタムちゃんにしかできなかった大仕事だった。試合が終わって、安生さんや高山善廣もリングの上にいた。髙田さんとタムちゃんが握手した。私自身もそこにいることが、すごく幸せだった。そのとき、髙田さんが最後の相手にタムちゃんを指名したことの意味がわかった気がした。あの日、あのリングは、まさしくU.W.F.インターナショナルだった」と述べています。

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猪木vsロビンソンのNWF世界戦のポスター

 

著者はわたしと同じ1963年生まれですが、子どもの頃からプロレス大好き少年だったそうです。毎週金曜夜8時になると、テレビの前に正座して「ワールド・プロレスリング」を観たそうです。アントニオ猪木vsストロング小林戦や猪木vs大木金太郎戦にも衝撃を受けたそうですが、子ども心に最大のインパクトを与えられ、その試合によって未来を決定づけられたのが、小学校6年生のとき、1975年12月11日、蔵前国技館で行われた猪木とビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合でした。当時、神奈川県の二宮に住んでいた著者は、どうしてもこの試合だけは生で観たくて、片道2時間以上かけて蔵前まで観に行ったそうです。試合終了が夜10時近くて帰りは遅くなりましたが、帰り道もずっと興奮しながら「自分の道はコレだ!」というものが自分の中に芽生えたとか。

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猪木vsロビンソン(本書より) 

 

その猪木vsロビンソン戦について、著者は「今、私自身、プロとして、あるいは観客の側に立って改めて、あの試合のビデオを観ると、レスリングの技術的な部分であるとか、そういった細かいところでは、たしかにロビンソンが上回っているが、60分フルタイム、すべて観終わってみると、やはりアントニオ猪木の試合というか、たとえ押されていた試合であっても、猪木さんの印象が強い試合の気もする。たとえば両者のことを何も知らない外国人であるとか、プロレスファンではない人にあの試合のビデオを観せて、どちらの印象が強く残っているか? と聞いたら、猪木さんという人が多いのではないかと思う。そういう意味では、やはりあの試合は、プロとしては『アントニオ猪木の試合』であったといえよう」と述べています。



猪木もロビンソンも本物の強さを持ったプロレスラーでしたが、プロレス史上最強の「鉄人」として知られるルー・テーズによれば、2人に対する評価は微妙に違ったようです。第四章「ファンを熱狂させた数々の『仕掛け』では、「オールドタイマーとの出会いで知った本当のプロレス」として、テーズが「レスラー」「シュート」「ワーカー」「パフォーマー」という言葉でレスラーを区別していたことを紹介しています。それによれば、猪木はレスラーで、ダニー・ホッジビル・ロビンソンはシュート、Uインターでロビンソンと試合をしたニック・ボックウィンクルはワーカー、ジャイアント馬場パフォーマーだそうです。レスラーとシュートというのは、非常に重複している部分もあるのですが、テーズの中では「シュート」の方が上でした。

 

では、「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチはどうかというと、もちろんシュートです。しかい、「ゴッチを超えるロビンソンの技術」として、著者は「旧U.W.F.のときなどもカール・ゴッチさんに教わったことはあった。カール・ゴッチといえば、日本では“神様”という表現をされていた人であったし、プロレス界である種特殊な存在だと思っていた。しかしカリフラワーアレイクラブで、ルー・テーズさんをはじめ、いろいろな古い人たちと会うことによって、ゴッチさんだけが特殊なわけではないなということはもう、私たちにはわかってきていた。昔はこういう人がゴロゴロいたんだなということが。さらにロビンソンさんに教わったときに、『ちょっと待てよ?』と思ったのだ。たしかにゴッチさんのトレーニングも凄いが、技術で言ったらロビンソンさんのほうが数段上だということに気付かされたのだ。それこそロビンソンさんを100とすると、ゴッチさんは60くらいという感じになってしまう」と述べています。



さて、本書を読んでまず驚いたのは、著者が中学生の頃から前田日明と親しくしていたという事実です。新日本プロレスの道場を見学したときに知り合ったそうですが、前田は宮戸少年を弟のように可愛がり、練習を見てくれたり、本をたくさん薦めてくれたり、ステーキなどの外食を御馳走してくれたそうです。著者は「私は前田さんと出会いまでいわゆる先輩や先生に可愛がってもらったことは、実感として本当になかった。そんな自分が前田さんには本当に甘えられたし、前田さんもとても良くしてくれた。知らない間に前田さんは、私にとってかけがえのない先輩、師匠になっていた」とまで述べています。前田がヨーロッパに武者修行に出かけるときは空港で小遣いを貰ったり、佐山聡スーパータイガージムに紹介してくれたりと、著者にとって前田はいくら感謝しても感謝しきれないほどの恩人であることがわかります。それなのに、新生U.W.F.が解散したのは、著者が前田に対して反抗的な態度を取ったことが原因とされていますので、わたしは狐につままれたような気がしました。



第二章「離合集散、U.W.F.の混迷の日々」の2「U.W.F.はこうして解散した!」では、新生U.W.F.の後半、著者と前田の関係は冷え切っていたと明かされますが、著者は「私の中にも新生U.W.F.が旗揚げするときに前田さんから声を掛けられなかったこと、あるいは私や安生さんの下というのは、新生U.W.F.になってタムちゃんが来るまで誰も続かなかったおかげで、新生U.W.F.になってもまだ“新弟子”と言われ続けていたことなどの不満があった。デビューして5年も6年も経って、まだ『新弟子』なんて言われているヤツはいない。タムちゃんが入ってからも、タムちゃんは『田村』と呼ばれる。でも、私と安生さんは相変わらず『新弟子』と呼ばれている」と告白しています。これは、いつまでも若手を「新弟子」と呼び続けた前田にも問題がありますね。



前田日明に次ぐ新生U.W.F.のスターは髙田延彦でした。本書で、著者はとにかく髙田の強さについて強調し、「スパーリングでも、『オイ、リングに上がれ』と、髙田さんに言われるとゾッとしたものだ。とにかく、あの頃の髙田さんの基礎体力の凄さと強さ、そして練習に対する熱心さは凄かった。スパーリングの強さも思い知らされて、私と安生さんを含めた当時の若手たちは、暇なときは髙田さんの練習の凄さと強さの話ばかりしていた。『誰が強い?』という話になると『髙田さんにかなう人はいないでしょ』というのが、もうみんなの口癖みたいになっていた」と述べます。
著者自身、過去いろいろな選手たちとスパーリングをしましたが、やはり髙田は一番強かったそうです。新日本の業務提携時代には髙田は新日本の若い選手たちともスパーリングをやりましたが、みんなメチャメチャにやられたとか。佐々木健介などは、髙田とのスパーリング終了後に「強いね~、ビックリするぐらい強いね」と目を丸くしていたそうです。



新生U.W.F.が崩壊した後、髙田をエースとしてUインターを旗揚げするわけですが、ここで、著者の中野巽耀についての記述が出てきます。第三章「U.W.F.インターナショナル革命」では、「山崎・中野はいらない!」として、著者は「Uインターの旗揚げメンバーの中で、Uインターがどういう経緯で、みんなのどんあ思いでできた団体なのかを知らないのは中野さんと山崎さんのふたりだけだ。これから一致団結して、みんなが同じ志を持って、この団体をなんとかやっていこうという時に、その経緯も知らない人があとから入ってきて、自分たちと一緒にやること自体おかしいと思ったし、正直言ってそういう人には入ってほしくなかった」と述べています。中野と山崎はずいぶんな言われようですが、じつは中野の著書である『私説UWF 中野巽耀自伝』にも、山崎のことはボロクソに書かれており、新生U.W.F.やUインターの中で、山崎がいかに人気がなかったのかを知りました。いわば、国際プロレスでのグレート草津のような存在だったようです。



新たに出発したUインターで、著者はマッチメーカーとして活躍します。プロボクシングの元世界ヘビー級王者トレバー・バービックに続いて、エース髙田の「格闘技世界一決定戦」の相手となったのは大相撲の元横綱北尾光司でした。禁断の「八百長発言」でSWSを解雇された北尾と交渉を開始したとき、北尾サイドは「なんで、U.W.F.が?」と驚き、Uインターの内部スタッフも同じ反応だったそうです。著者は「みんなが『北尾?』『北尾? えっ?』という具合だった。でも、ヒットするマッチメークというのは、本来そういうものだと思う。みんなが『えっ?』と思うような、ちょっと意外なところ、思いも寄らない部分がないと、そのマッチメークは本当の意味での成功はないというのが私の考えとしてある。たとえばファンのアンケートを読んで、そこから思いつくようなマッチメークなんかは、本当は面白いわけがない。それは想像がつくマッチメークということだからだ。みんな一瞬『えっ?』と引くような、そして一瞬遅れて『でも観たいね、それ!』というのものでなければ、本当の意味でみんなが驚くようなマッチメークにならない」と述べています。



この著者の考え方は良く言えば「意表をつく」であり、悪く言えば「奇をてらう」ということだと思います。その発想と仕掛けは一貫してアグレッシブであり、髙田とともに「週刊プロレス」の編集部を襲撃したり、「髙田さんと闘ってもいい」という蝶野正洋の発言を逆手にとってルー・テーズを連れて新日本プロレスに押しかけたり、「1億円トーナメント」を開催するとして、新日本の橋本真也、全日本の三沢光晴、WARの天龍源一郎、リングスの前田日明パンクラス船木誠勝に公開挑戦状を送ってみたり、とにかくトラブルの連続でした。Uインターを終わらせるきっかけとなった新日本との全面対抗戦に(蝶野との試合が組まれていた)著者は出場しませんでしたが、じつは新日本との対抗戦ではなく、収監されたマイク・タイソンを髙田が面会に行くという計画を立てていたそうです。著者は、「私の作戦としては、髙田さんと一緒に面会に行って、もしタイソンとなんの仕切りもなく面会できるのであれば、その場でケンカを仕掛けようと思っていた。そこから、あわよくば闘いにもつれ込ませてしまうという作戦だ。おそらくケンカを仕掛けても看守などから、すぐに止められてしまっただろうが。ただし、それは間違いなく大ニュースになったと思う」と述べているのには驚きを通り越して、呆れました。



もちろん髙田はそんな非常識な行動は取らなかったでしょうが、ある意味でクレイジーな著者の数々の仕掛けを黙認し続け、結果としてUインター崩壊を招いた髙田にも大きな責任があります。著者のアグレッシブな仕掛けの最大の失敗が、安生をヒクソン・グレイシーの道場破りに行かせたことでした。その流れで、髙田はヒクソンと2連戦して惨敗するわけですが、著者は「髙田さんの2連敗で抱いたプロレスへの危機感」として、「髙田さんのヒクソン戦での負け、2連敗というのは、柔術ヒクソンに負けたというyりも、私の見方で言えば『時代』というものにやられたのだと思う。どういうことかというと、Uインターというのはある意味、プロレス界のタイムマシンだった。プロレスというのは、いろいろな時代の流れがあって、かつては今のアルティメットを超えるような、それこそ『プロレスのルーツはパンクラチオンだ』なんて言われているように、生きるか死ぬかという闘いだった時代もあるわけだ」と述べています。



また、著者は「グレイシー柔術のアルティメットスタイルというのは、格闘技の歴史で言えば大昔のスタイル。パンクラチオンの時代に近いスタイルだった。パンクラチオンはプロレスのルーツでもある。だからプロレスもまた、古き時代のレスラーたち、あるいは古き時代のレスリングをもっと突き詰めていたならば、グレイシーに負けることはおそらくなかったと思う。事実、レスラーたちもそういうものに慣れてからは、実際に負けなくなってきた。だから本当にあの髙田vsヒクソンというのは、ヒクソンによって、柔術によって“歴史”“時代”をぶつけられ、現代のプロレスが過去という“時代”にやられてしまったと、私は直観的に感じた」と述べています。この著者の直観は鋭いと思いました。

 

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

  • 作者:那嵯 涼介
  • 発売日: 2019/10/28
  • メディア: 単行本
 



さらに著者は、「グレイシー柔術はプロレス柔術」と喝破します。ブログ『最強の系譜』で紹介した名著に詳しく書かれていますが、20世紀前半1920年代までアメリカで「プロレス」と呼ばれていたものは「キャッチアズキャッチキャン」と呼ばれるスタイルで、シュートの格闘技でした。アメリカやヨーロッパでは、1900年代前半に多くのプロレス対柔術の試合が行われ、そこでは、レスラーたちが平気で道着を着用して柔術家に勝っています。1940年代に入ると、キャッチアズキャッチキャンの試合は見られなくなりますが、その技術はルー・テーズに代表されるアメリカのシューターたちに伝えられ、ヨーロッパではカール・ゴッチビル・ロビンソンたちに伝えられたのです。しかし、30年代後半から、プロレス界はショー的方向に加速度的に走り出してしまい、キャッチアズキャッチキャンの色彩をどんどん失っていきました。



それに対し、レスラーとの闘いの歴史の中でキャッチアズキャッチキャンの闘い方を学んだ一部の柔術家は、その闘いの方法を自分たちのものとして研究を重ね、磨いていきました。著者は「それがグレイシー柔術であると思う、彼らの柔術はそうう意味で日本で育った純粋柔術ではないと言えるだろう。歴史を見れば、彼らは怒るかもしれないが、キャッチアズキャッチキャンを取り入れた『プロレス柔術』なのだ。しかし、今の彼らの栄光も決してすぐにあった訳ではない。その学んだ柔術を何十年もあたため、研鑽し、やっと、ホイス、ヒクソンの代で今の表舞台に出て来たのだ。プロレス界が本質を見失いビジネスに走っている間に・・・・・・。それでは負けるのは当たり前である」と述べます。わたしはこれを読んで、目から鱗が落ちた思いがしました。たしかに、グレイシー柔術のルーツはプロレスにあると考えられます。そんな流れの中でも、桜庭や田村はグレイシー柔術に負けませんでした、なぜか? 「それは、彼らの育ったUインターの中にプロレスの本質(技術的、精神的、にくたいてきにすべて)があったからだと思う」と、著者は述べています。



田村、桜庭だけではなく、金原弘光高山善廣山本喧一など、Uインター出身の選手は総合格闘技でも強さを発揮しました。著者は、「なぜUインター道場から彼らが育ったのだろうか。それは、あの道場にプロレスの本質があったからだと私は思っている。そこで、我々が昔に戻る作業をしていたからである。Uインターの道場では、新しいことをやっていたのではない。ルー・テーズと出会い、ビル・ロビンソンダニー・ホッジ・・・・・・彼らと触れ合うことなもすべて、昔に、キャッチアズキャッチキャンの時代に戻る作業をしていたのだ。もちろん、そこから巣立った彼らがそんなことを意識していたかどうかわからないが、道場で行われていたのは、そういうことだったのである」と述べるのでした。わたしは「謎が解けた!」と、膝を打ちましたね。



そして、髙田の引退セレモニーに言及したくだりは感動的です。著者は、「人はみんな、髙田さんが引退したあの日の光景を『Uインター同窓会』といった言葉で語る。しかし、Uインターに関しては『同窓会』なんて言葉は本当は相応しくない。そのようなものより、もっともっと濃い血でつながっている、同じ血縁というか、切っても切れない同じ血の人間として結ばれているような気もする。おそらく、髙田さんをはじめ、みんなとは血のつながった親戚のようなものだと思う。違うことをやったり、違う場所で過ごしたり、ときに憎しみ合うことがあっても、桜庭をはじめ、その後活躍している若い選手たちが、仮に親を否定しようとも育ってみたら親そっくりだったというように、Uインターの同じ血を持つ関係はきっと変わらないだろう。垣原、高山、金原、桜庭、山本・・・・・・みんなUインターの血を引いた子どもたちだ」と述べています。



そのUインターの血の源流をたどれば、やはりアントニオ猪木に行き着きます。最近の著者は猪木と親しい関係であるそうです。正直に言うと、わたしは、ずっと著者のことが嫌いでした。「プロレスで大した実績も残してないのに仕掛人を気取っている」と反感を抱いていました。Uインター時代に新日本プロレスやリングスと揉めたときも「非常識な勘違い野郎」と思っていました。しかし本書を読んで、著者に対する見方は一変しました。「くそ」がつくぐらいに真面目な人物であることがわかりました。きっと、Uインター時代は、くそ真面目にさまざまな仕掛けを行い、くそ真面目に他団体を挑発していたのでしょう。その後も、ビル・ロビンソンをヘッドコーチに迎えて東京・高円寺に格闘技ジムジム「U.W.F.スネークピットジャパン(現在はC.A.C.Cスネークピットジャパン)」を設立。現在も同ジムでプロレスと格闘技の普及に努めて、くそ真面目に活動されています。ある意味で、著者は「求道者」なのだと思います。



求道者としての著者の生き方は料理にも反映されているようで、著者は料理が得意なことで知られます。若手時代から著者がちゃんこ番のときは「おいしい」と前田や髙田の評判も良かったとか。Uインター時代は“中華の鉄人”周富徳をもじって「宮戸味徳」(みやとみとく)を自称していたほどで、最近では、著者がプロレスにハマるきっかけとなったアントニオ猪木も著者のちゃんこに夢中だそうです!

 

U.W.F.最強の真実 (講談社+α文庫)

U.W.F.最強の真実 (講談社+α文庫)

 

 

2020年6月23日 一条真也

『自伝大木金太郎』

自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王 (講談社+α文庫)

 

一条真也です。
『自伝大木金太郎大木金太郎著、太刀川正樹訳(講談社+α文庫)を読みました。ブログ『史論――力道山道場三羽烏』で紹介した本を読んだら、そこに書かれてあった大木金太郎の人生について深い興味が湧いてきたのです。本書には「伝説のパッチギ王」というサブタイトルがついていますが、「パッチギ」とは韓国語で「頭突き」のことです。本書は韓国「日刊スポーツ」紙に、2006年4月10日から9月29日までの100回にわたり連載された「金一(キムイル)、私の生きざま、私の挑戦」を翻訳したもので、単行本は2006年、文庫版は2011年に刊行されました。 

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本書の帯

 

著者は本名・金一(キム・イル)。1929年、韓国南部居金島生まれ。韓国から日本に密入国し、力道山に弟子入り。ジャイアント馬場アントニオ猪木らの兄弟子。強烈無比な「原爆頭突き」を武器に一世を風靡し、後に韓国プロレス界のリーダーとなりました。日本での最後のファイトは1981年。韓国では国民勲章石榴章を受けるなど、国民的スターの1人として評価されています。2006年10月没。享年77歳。本書の帯には「アントニオ猪木推薦!」として、「私のデビュー戦の相手は大木さんでした。大木さんの頭突きは本当に痛かった」という猪木の言葉が記されています。

f:id:shins2m:20200615005641j:plain本書の帯の裏

 

帯の裏には、「力道山に憧れて、日本へ密入国」「頭突きを身につけるまでの、師匠・力道山からの地獄の特訓」「ジャイアント馬場アントニオ猪木との切磋琢磨の日々」「元祖・韓流スター? 熱烈な女性ファンとのエピソードと真実の恋」「日韓ファンからの応援……民族差別を超えた存在に」と書かれています。

 

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「1960年代、高度成長下の日本で、強烈無比な『原爆頭突き』を武器に一世を風靡したプロレスラー・大木金太郎。韓国に生まれ、密航船で日本に初上陸。当時大スターだった力道山に弟子入りし、厳しい訓練や民族差別にも負けず、日本中のプロレスファンに愛された。後年は韓国へ戻り活躍するが、2006年静かに息を引きとる。伝説のレスラー大木金太郎こと金一(キム・イル)が、自らの誕生から晩年に至るまでの激動の日々を振り返る感動の自伝」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「文庫版訳者まえがき」
「追悼の辞」アントニオ猪木

第一章 旅立ち~雌伏

第二章 飛翔

第三章 絶頂~変転

「年譜」
「訳者あとがき」



「追悼の辞」で、アントニオ猪木は「私のデビュー戦の相手が大木さんだと知らされたときはビックリしましたが、私たちを最強のプロレスラーに育てるための力道山先生の配慮だったと知りました。1960年9月30日、台東体育館での初試合はいまでも鮮明に覚えています。大木さんの頭突きは本当に痛かった。デビュー戦で血まみれになり、その後のプロレスラーとしての第一歩を歩みはじめました。力道山先生に殴られて元気のない私を大木さんはよく焼肉屋に連れていってくれました。本当に俺の兄貴みたいに面倒を見てくれました」と述べています。



第一章「旅立ち~雌伏」の「ゼロ以前、マイナスからの出発」では、韓国ではシルム(韓国相撲)の強豪だった著者が、 1958年に同郷の英雄力道山に憧れて漁船で日本に密入国し、プロレス入りのチャンスをうかがっていたが、1959年に入管法違反で逮捕されたことが紹介されます。著者は、収容所から力道山に弟子入り志願の手紙を書いて送るのですが、15日後に吉村という名の力道山の秘書が面会に訪れ、さらに10日後に力道山が身元引受人となり、日本プロレスコミッショナー大野伴睦代議士を動かしたことで釈放されたくだりは、映画にでもなりそうな話だと思いました。



「想像のなかにだけ存在していた力道山道場が目の前に」として、著者は以下のように書いています。
「収容所から1時間くらい走っただろうか。太陽が沈む頃、車は東京・日本橋人形町のある建物の前に止まった。『力道山道場』という大きな看板が目に入った。想像のなかにだけ存在していた力道山道場が目の前にあった。吉村秘書の案内で道場のなかに入った。最初に四角いリングが目に入った。その横にはバーベル、鉄アレイ、タイヤチューブ、縄跳び、サンドバッグなど、運動器具が散らばっていた。男くさい汗のにおいが鼻をついた。力道山道場は男たちがエネルギーを発散する肉体製造工場のようだった。道場は世界最高のプロレスラーになろうと野望に燃える男たちがリングとマットの上で出す気合いの声で活気に満ちていた。私は彼らの練習風景に夢中になった」



しかし、憧れの力道山道場は地獄でした。
「格闘技の宿命、つらい耳の鍛錬」には、「つぶれた耳はレスリングの勲章」として、著者は「レスリングの訓練がどれほど過酷なものか理解できない人は私の体を見ればよい。なかでもつぶれた耳を見てびっくりするはずだ。『一体その耳はどうしたのですか?』と、目を大きくしながら聞いてくる。そのたびに『レスリングの勲章ですよ』と言って笑い飛ばすことにしている。レスリングや柔道など格闘技をした人々の多くは『耳の勲章』をもっている。一般人に体のなかでいちばん我慢できない部位を選びなさいと言うと、耳、歯、鼻をあげるだろう。それほど耳が痛いのは我慢できない。私の耳は力道山道場に入門してから拳のように縮まった。力道山先生は耳を厳しく鍛錬させた。耳を鍛錬させたと言うと、人々は『まさか』と信じないかもしれない。レスラーの耳は、どれほど厳しい訓練をしたかを物語る勲章でもある。先生はレスリングが厳しい運動だからと耳の負傷を防ぐため鍛錬させたのである」と書いています。



「耳の鍛錬」とは、わざと耳をつぶす恐ろしい痛みを伴う行為でした。著者は「耳が痛くても治療はできなかった」。痛くて耳に絆創膏を貼ったり、薬を塗ったりしているのに気がつくと、先生はわざとその耳を集中攻撃した。鼓膜が破れたのか、先輩たちが私の名前を読んでも聴き取れないときも多かった。でも治療はできなかった」と述べています。力道山は耳だけでなく、著者の体全体を鍛えました。それは訓練を通してだけでなく鞭による鍛錬でした。著者は毎日、力道山に全身を鞭で叩かれ、屈辱感をおぼえたそうです。著者は「先生は日本人選手をなかなか叩かなかった。私だけを徹底的に叩いた。なぜ私だけを叩くのか? その差別に私は気が変になりそうだった」と述懐しています。ちなみに、著者は最初から韓国人であることを周囲に明かしていましたが、力道山朝鮮半島の出身であることは秘密のままでした。



さらには、力道山は著者に「頭突き」の訓練を命じ、額を鍛えさせました。首の骨にひびが入ってドクターストップがかかっても、頭突きの訓練を止めることを許しませんでした。著者は「最初は痛くて死にそうだったが、不思議なことに痛みがなくなってきた。ひびの入った骨が再びくっついた感じがした。折れた骨がくっつくと、以前よりもっと硬くなると言うのではないか。先生の『人間の体は折れても破れても、そのまま放っておくと自然に治る』という言葉は嘘ではなかった」と書いています。しかし、無理な頭突きの訓練は、著者の脳と首を蝕み、その後遺症は著者の晩年を大いに苦しめたのです。



そんな屈辱の日々を過ごした著者にも春が訪れます。第二章「飛翔」の「スターレスラー街道」では、頭突きでプロレスラーとしての頭角を現した著者が人気者になっていく様子が綴られていますが、特に女性に人気があったそうです。晩年は「キム・イルさんは韓流スターの元祖ですね」と言われたそうですが、本人も「韓国のトップスター、ぺ・ヨンジュンは日本女性に人気が高いという。しかし昔を振り返ると、私もぺ・ヨンジュンに劣らない人気をもっていた。いまではいい思い出になった」などと言うではないですか。


さらに、「私に女性ファンが多かったのは事実だ。女性ファンが多いことの利点は同僚からうらやましがられたこと、いつも女性ファンに囲まれていると試合でも闘志がわいてきたことだ。マイナス面は『大木金太郎は女性関係が複雑だ』という悪意の噂が流されたことだ。もちろん、私はこんな噂を気にはしなかった。しかし私が気にしなくても女性のほうが私を独占しようとして自ら噂を流していることが多かった。多くの女性ファンは、『私の彼氏は大木金太郎』と勝手に言い歩いてしまうのだ」と述べるから、「おいおい、本当かよ?」と思ってしまいました。わたしの中の印象では、著者は「禿げ頭のオヤジ・レスラー」でしたから。でも、確かに若くて髪の毛があった頃の著者の写真を見ると、かなりのハンサムですので女性にモテたのかもしれませんね。

 

1960年、期待の大型新人として馬場正平猪木寛至日本プロレスに入団します。後のアントニオ猪木です。ともに著者の後輩ということになりますが、特に猪木とは同室ということもあり、仲良くなりました。著者は述べます。
「猪木との思い出は本当に多い。彼は力道山道場に入門してから私と同じ部屋で生活した。彼が来てから私の分担が少なくなって楽になった。彼は炊事、洗濯には慣れていなかったが、私たちはお互いに役割を分担した。彼のあごは本当に印象的だった。韓国式表現で『しゃもじあご』と呼ぶ。『お前はボクサーじゃなくてよかったな。ボクサーだったらあごが何回もつぶれただろう』と冗談を言った。彼も『僕もそう思います』とニコッと素直そうに笑った。彼は私を本当の兄のように慕ってくれていたが、彼の心のなかはプロレスに対する野望で燃え上がっていた。猪木はいつも『先輩、僕は必ず世界レスリング界を席巻します』と常に情熱的に語っていた。サンドバッグを叩きながら、あるいはバーベルを持ち上げるたびに『世界チャンピオンになるぞ』『世界チャンピオン』とくり返し叫んでいた」



力道山門下の四天王」では、著者は修業時代の猪木や馬場についてコメントしています。猪木については、「運動選手がもつべき身体的条件をすべて備えていた。背が高いと一般的に柔軟性が落ちるが猪木はそうではなかった。柔軟性、瞬発力、敏捷性、それにすごいパワーもあった」と述べています。前田日明武藤敬司といった猪木の弟子たちは「猪木さんは運動神経はけっして良くなかった」などと述べ、ブログ『毒虎シュート夜話』で紹介した本で対談したザ・グレート・カブキやタイガー戸口なども「猪木はドン臭かった」などとコキおろしていますが、戸口の師匠である大木の見方は違ったようですね。また、著者は「猪木はボディスラムとパワースラムを駆使した。しかしこれはレスラーにとっては基本技にすぎない。猪木は相手の両足を握って反動で持ち上げて投げる技も上手だった。だが、これらの技は相手に瞬間的な衝撃を与えることができるが完全に制圧することはできない。先生と一緒に猪木が考え出した技はコブラツイストだった。相手を前にして左脚を相手の左脚にかけ、左腕を相手の右腕にかけながら相手の脇を押さえ腰を横にねじらせた後、腕を後ろに折り曲げる技術である」と述べています。



その猪木のデビュー戦の相手は著者でした。
著者は当時を振り返って、「猪木との初対決は試合というより男たちの闘魂を先生がテストすることが目的だった。だから激情、興奮、凶暴といった言葉で表現されるプロレスの試合とは異なった展開だった。私は力を消耗するボディプレスは使わなかった。着実に正攻法でチャンスを狙った。次第に猪木の弱点が見えてきた。猪木の気力、体力が限界にきていることを感じた。私は彼の体を押さえつけた。同時に腕を逆に極めると、彼は『参った』と小声でつぶやいた。7分6秒で私が勝利した。マットから起き上がった猪木は頭を左右に振った。私も樋口との初試合で負けたとき、どんなに落胆しただろうか? 彼の気持ちがわかるような気がした。われわれは同時にロッカールームに入った。猪木は一言も口をきかなかった。私は彼に近づいて『よくやった』と手を差し出すと、ニコッと笑った」と述べています。



著者と猪木が初対戦した同じ会場で、もう1人の伝説的なプロレスラーがデビュー戦を行いました。田中米太郎を相手に勝利を飾った身長209センチのジャイアント馬場です。馬場は著者よりも9歳年下でしたが、著者は「身長の大きい人は情のある人間だという。馬場も同じだった。馬場はとてもやさしかった。私は彼が怒るのをほとんど見たことがない。しかしリングでは違った。冷酷非情なプロレスラーに変身した。彼は身長の高さを利用したテクニックを多く使った。16文キックが代表的だ。ロープに押しつけて反動で跳ね返ってくる相手を大きな足でキックするところから命名された技術である。ランニングネックブリーカー・ドロップ、ジャイアント・チョップ、32文ロケット砲、ヤシの実割りなど、1つ1つが芸術的といってよいすばらしい技だった。巨人のような彼がリングの上でさまざまな技を披露すると、熱狂しないファンはいなかった」と述べています。馬場の魅力を最大限に表現している感じですが、著者の人間性もわかりますね。



馬場はもともとプロ野球の投手でしたが、風呂場で転倒して腕を折る大怪我をし、それがもとで引退しました。著者はプロレスラーとしての馬場を絶賛しながらも、「気になるのは腕の負傷だった。馬場は折れた腕をちゃんと治療しなかったため、骨がそのまま固まり腕を伸ばすことができなかった。いくら馬場の背が高くても、腕を自由に使えないのでは技術習得に障害になることは明らかだった。しかし馬場はアメリカ人と比べても稀な巨人ではないか。先生は将来、馬場がプロレス界を担う男になることを疑わなかった」と述べ、さらに「たとえ、片方の腕が自由ではなかったにせよ、馬場のレスリングに対する情熱はすごかった。恐怖の16文キック。先生は馬場にさらに空手チョップを伝授した。馬場は猛威を振るった。彼の登場は猪木とともに、私にとってもう1人のライバルが現れたことを意味した」と述べるのでした。ちなみに、著者、ジャイアント馬場アントニオ猪木マンモス鈴木の4人は「力道山道場の四天王」と呼ばれるようになりました。その後、鈴木が脱落して、馬場・猪木・大木が「力道山道場の三羽烏」となったのです。



馬場と猪木については、第三章「絶頂~変転」の「恩師なきあとの日本プロレスの再生」の新生日本プロレスのハイライト、馬場、猪木との対戦」で、著者は「リングの上では敵だったが、ロッカーで顔を合わせた私たちは仲のいい先輩後輩だった。馬場は『先輩、すごく頭が痛いですよ、リングでどんなに我慢をしたかわかりますか! 次はどうかお手柔らかにお願いしますよ』と冗談を言った。敗者の私を労う言葉は少しもなかった。私は『今度はお前の額にタンコブを数十個つけてやるぞ』と心のなかでつぶやいた。ショーマンシップの強かった猪木は、私の頭突きを一発くらうと、痛くてどうしようもないと派手なジャスチャーをした。頭突き1回で大げさにリングの外に落ちたことも一度や二度ではなかった。彼は試合前に『先輩、今日だけは頭突きはやめてください』と哀願したりした。ところが、リングに上がると猪木は逆に容赦なく私を攻撃してきた」と述べています。



本書には、馬場や猪木といったライバルたちだけでなく、恩師である力道山についても多くが語られています。プロレスの英雄となり、また実業の世界でも成功を収めた力道山には各方面から寄付の要求が殺到しました。力道山は社会奉仕団体にはある程度の寄付をしたものの、ヤクザたちは相手にしなかったそうです。ヤクザたちは力道山のビジネスを虎視眈々と狙っており、力道山とヤクザたちとの間には薄氷を履むような緊張関係が生じていたとして、著者は「マスコミは『力道山は暴力の化身』『力道山が暴行で警察の取り調べを受けた』といった記事や、『力道山は粗暴で、感情の起伏が激しく、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常的だった』といったマイナス・イメージを増幅させるような記事ばかりを書いた。しかし私は断言できる。先生は口が悪く、血の気の多い性格ではあるが、言いがかりをつけたり、先に暴力を振るったことは一度もなかった。先生が暴力を振るったとするならば相手側が執拗に絡んで、やむなく正当防衛的に暴力を振るったと考えて間違いない」と述べています。



わたしは、力道山という男はヤクザとズブズブの関係で、酒癖が悪くて暴力沙汰も日常茶飯事だったと思っていましたので、著者の述懐は少々意外でした。儒教精神の強い韓国人として、著者が師である力道山を悪く言わずに美化している可能性は大いになるとは思いますが、著者は「ケンカ相手はヤクザだけではなかった。売名行為で因縁をつける、ちょっと体格のよい男たちも多かった。トラブルを避けようと先生が無条件に謝ったりすれば、相手は『力道山を謝らせた』と自慢して触れ歩くに違いない。それが彼らの目的だ。そのなかには『力道山を殺してやる』と公然と言っていた人間も多い、先生を刺し殺して服役、約10年も苦労して出所すれば、『力道山を殺した男』というハクがつくからだ」とも述べるのでした。ここで、わたしは「伝説のヤクザ」と呼ばれた花形敬のことを連想しました。彼は力道山も恐れた男として有名ですが、意外と著者の言う「売名行為で因縁をつける、ちょっと体格のよい男」で、トラブルを避けようとした力道山が謝ったのを「力道山を謝らせた」と自慢された可能性はないでしょうか?



力道山は1963年の12月に亡くなりましたが、その年の9月、「おい、大木、今晩俺と一杯やろう」と言って、銀座の高級クラブ「姫」に誘ってくれたそうです。大木をアメリカ武者修行にやるための壮行会のつもりだったようですが、生まれて初めて恩師から飲みにつれて行った著者は戸惑うばかりで、「私は先生が注いでくれるビールを飲むことができなかった。先生の前で酒を飲むこと自体が礼儀に反すると思っていたからだ。両親や目上の人の前で酒を飲むことは儒教精神にはない。飲んでよい場合でも目上の人と正面からは向かい合わず横を向いて飲むのが礼儀だった。私は神様のような存在の力道山先生の前で酒を飲むことなど想像したこともなかった。注いでもらったビールはテーブルの下のごみ入れに捨てた」と述懐しています。



その後、著者はアメリカに出発する当日、旅立ちの挨拶をするために力道山を訪ねました。力道山は「一所懸命、最善を尽くせ」と激励してくれたそうです。「闘魂を胸に抱いて試合に臨め」という言葉も忘れませんでした。そして力道山は著者の手に熱いドル札の束を握らせながら「この金は酒や女には使うな。たっぷり肉を食え」と注意したそうです。その言葉を聞いた著者は涙があふれ出そうで、「必ずチャンピオンベルトをもって帰ります」と挨拶しましたが、力道山は「ベルトを手にできなければ帰ってくるな、わかったな」と言って著者の肩を叩いたといいます。このあたりは感動的ではあるのですが、プロレスをショービジネスではなく真剣勝負の格闘技として描いており、韓国の新聞用に語られた美談ではないかという気もしました。



その力道山の死は、アメリカ修行中だった著者に多大なショックを与えました。「理解できない、受け入れられない現実」として、著者は以下のように書いています。
「私は先生が亡くなったという現実を受け入れることができなかった。先生は以前にもナイフで刺されたことがいく度もある。今度にかぎって死亡するなんて信じられるか? 私は突然の先生の死について疑問をもった。先生は、数え年17歳のとき単身で故郷の咸鏡道を離れ、関釜連絡船に乗って日本の地を踏んだ。相撲とレスリングをしながら、あらゆる苦労と迫害の末に、ようやく日本最高の英雄になった人ではないか? 先生の死にはなにか陰謀が潜んでいるかもしれないという気がした。正直、現在でも先生の死をそのまま受け入れることができない。いまでも先生の死は私の人生のなかで最大のミステリーであり、疑問として残っている」



確かに力道山の死に関しては謎が多いです。著者は、「手術後医師の特別な指示があるまでは、水と炭酸飲料を絶対に飲んではいけない。ところが先生は炭酸飲料を飲んだという話を聞いた。禁止されている炭酸飲料を飲んだことが腹膜炎を誘発した直接的なゲインだという」と書いています。この話は有名で、わたしも聞いたり、本で読みました。しかし、著者は「先生に炭酸飲料を渡したのはだれなのか? 弟子であるアントニオ猪木が炭酸飲料を直接手渡した人物として疑われたりもした。術後に喉の渇きを感じた先生が猪木に『喉が渇いた。サイダーをくれ』といったので、猪木はうっかり渡したというのだ。先生の言われたことにだれが逆らえるだろう。私がもしその場にいても渡したはずだ。しかし猪木は無責任なこの噂を悔しがった。彼は決して渡していないと否定した。病室にいた妻の田中敬子さんも渡していなかった。だれも渡していないとなれば、先生自ら起き上がって飲んだというのだろうか。先生も医師に『炭酸飲料は飲んでいない』と言っていたという」と述べています。



朝鮮半島情勢と絡んだ陰謀説」として、著者は「力道山先生の死因をめぐる疑惑は時が経つにつれて大きくなった。マスコミは特ダネ競争で『力道山死亡ミステリー』を書きなぐった。そのなかに『陰謀説』があった。その1つが民族問題である、先生は民族統一問題に対して日増しに関心を深めていた。1963年1月には韓国を極秘に訪問したあと、金日成主席に親書と高級外車を贈ったりした。先生は祖国統一を望む民族主義者へと変身していった。実際に先生は南北共同のプロレス大会をソウルと平壌で開催しようとした。また、1964年東京オリンピックに出場する北朝鮮選手団の警備を提供することも計画していた。こうした急激な南北和解や統一機運が生まれることに不安を感じた日本国内の目に見えない勢力が、先生を暴力的に排除したという見方だ。在日朝鮮人だという事実を徹底して隠したまま、日本人として英雄の座にのし上がった先生が、祖国愛に目ざめて具体的な行動をとりはじめようとした矢先に急死を遂げたのである。南北和解を望まない米CIAが日本の地下勢力と組んで、何者かに殺人を依頼したという説もある、国際情勢と絡ませた見方である」とも述べます。これも映画になりそうな話ですね。



本書の最後では、「力道山先生に会いたい」として、著者は「私はもう一度生まれても力道山先生の弟子になってレスリングをするだろう。そして、先生と一緒に堂々と韓国人として日本ファンの前に立ちたい。日本で国籍を隠して生きるしかなかった先生と一緒にタッグマッチに出場し、世界を制覇したい。そして、もう少し日韓の友情を築くために力を捧げたい。人間はいちばん苦労したときが記憶に残るようだ。1956年、密航して日本警察の検問で捕まり収容者生活をしたとき、1958年、先生の弟子になって厳しい訓練をしたときはいまも記憶に新しい。そして、世界チャンピオンになって受けた韓国人と日本人の愛、私の頭突き一発で笑ったり泣いたりしたファンたちに本当に感謝する」と述べます。



そして、著者は「渋谷のリキ・スポーツパレスでの思い出、力道山道場で世界チャンピオンを夢見ていた同僚にもすごく会いたい。あの世に去ったジャイアント馬場マンモス鈴木吉村道明先輩、私と激しい試合を繰り広げた鉄人ルー・テーズ、先生に会って南北統一の夢を話し合いたい。彼らと会って男泣きしたい。最後に、力道山先生にもう一度会いたい。先生から受けた愛の鞭も懐かしい。もう一度生まれ変わっても先生の弟子でありたい。勝つも負けるも道は1つ。勝っても負けても頭突き一筋の人生だ。『玄界灘を渡ってきたからには、死ぬ気で練習しろ』と怒鳴っていた先生の声がいまも私の耳元に響く」と述べるのでした。



本書の元になった連載が終了したのが2006年9月29日でしたが、その直後の同年10月26日に著者は77歳で亡くなりました。アマゾンのレビューで「まるで宮本武蔵五輪書を書き終えて細川の殿様に献上してから亡くなったのとかぶってしまいます」というものがありましたが、まさに同感です。本当は、ルー・テーズとの謎のセメントマッチ大山倍達への挑戦の背景、二代目「力道山」襲名の真相なども知りたかったですが、著者は語ってくれませんでした。韓国プロレスの英雄として君臨した著者は朴正熙大統領の厚い支援を受け、ソウル市内に建設した「金一記念体育館」を贈られたほどでした。しかし、朴正熙の死後に大統領に就任した全斗煥は大のプロレス嫌いで、著者は無視されたばかりか「金一記念体育館」も国家から没収されたそうです。韓国プロレスの英雄であった著者は不遇のまま波瀾に富んだ人生を終えたのでした。

f:id:shins2m:20200616003226j:plainヤフー・ニュースより 

 

さて、不思議なことがあります。わたしは本書を6月14日に読み終えたのですが、ちょうどその日に産経新聞が「【外信コラム】韓国プロレス界のスター『大木金太郎』 国立墓地に」という記事を配信したのです。まさに「シンクロニシティ」と呼ぶべきその記事には、「昔、日韓を舞台に活躍した韓国プロレス界のスター大木金太郎ことキム・イル(1929~2006年)の名前が久しぶりに韓国のマスコミに出ていた。スポーツを通じた国家功労者としてこのほど国立墓地に安置されたという。彼は韓国プロレス界の草分けで、1960~70年代を中心に韓国では日本人プロレスラーをやっつける役を演じ韓国人を熱狂させた。戦後の日本で米国人レスラーと対決し日本人を熱狂させた力道山と似た役割の国民的英雄だった」と書かれていました。



さらに記事には、「50年代末、日本に密航して力道山に弟子入りし日本では『大木金太郎』のリングネームで知られた。ジャイアント馬場アントニオ猪木と同じ時代に活躍し、韓国人のケンカ作法(?)である“頭突き”を得意技にし人気があった。引退後は商売に失敗するなど尾羽打ち枯らし、晩年は高血圧など満身創痍で長く入院していた。そのころ病院で昔話を聞いたことがあるが開口一番、日本語で『サンケイスポーツにはずいぶんお世話になりました』と喜んでくれた。密航者なのに受け入れられ、日韓双方でスターになれた人生を振り返り『みんな日本のおかげですよ』といっていた。手土産に日本の週刊誌を何冊か持っていったのだが、これにもうれしそうだったことを今も覚えている。(黒田勝弘)」と書かれていました。わたしは、この記事を読み、最後まで感謝の心を忘れなかった著者の人生を思いました。そして、同じくプロレスで活躍したヒーローの生涯を振り返ったブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』ブログ『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』で紹介した本を思い浮かべました。故人の人生を書くことは最高の供養になるでしょうが、それを読むこともまた供養になることに気づきました。偉大なる「パッチギ王」大木金太郎ことキム・イルの御冥福を心よりお祈りいたします。

 

自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王 (講談社+α文庫)
 

 

2020年6月22日 一条真也

父の日

一条真也です。
6月21日(日)は、「父の日」であります。
わたしと妻はプレゼントを持って実家を訪れました。LANVINの派手めのシャツを贈ったところ、父はとても喜んでくれました。ちょうど父もわたしも紫色のシャツを着ていたので、妻が記念に写真を撮ってくれました。

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実家の前庭で、父と

 

実家訪問の前、「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生とメールのやりとりをしました。ブログ「心ゆたかな社会を!」で紹介した6月18日の天道塾で父が示した8つの「共」信仰のことを鎌田先生にお知らせしたところ、先生は「佐久間進会長の8つの『共』語、衰えぬアイデア、心から敬意を表しました」「『八美道』に次ぐ『八共道』は、お釈迦さんの『八正道』を現代の日常生活に活かすより具体的な実践だと思います」と述べて下さいました。

f:id:shins2m:20200621141240j:plain父と、マスクを外して

 

さらに鎌田先生は、「御父上の『共飲』『共食』『共浴』『共健』『共笑』『共歌』『共遊』『共旅』という8つの『共』信仰ですが、上智大学の『他者のために、他者とともに』(Men and Women for Others, with Others)の理念にも通じます」と書かれていたので、これにはわたしも驚きました。これは「キリスト教ヒューマニズム」を基盤とする「隣人性」ということであり、こちらから他者の隣人となっていき、「愛をもって正義と平和」の実現に尽くすことを指します。すなわち上智大学は、激動する現代世界に向かって広く窓を開き、人と人との交わりを大切にし、「貧困」「環境」「教育」「倫理」という問題を抱えた現代世界の中にあって、人類の希望と苦悩をわかち合い、世界の福祉と創造的進歩に奉仕する人を育てるよう力を尽くすということです。
最後に、鎌田先生は「今度、コロナ騒ぎが落ち着いたらまたお父上とこれからの社会や生き方や仕事のことなどについて、いろいろとお話しすることができれば幸いです」と書かれており、それを父に伝えると非常に喜んでいました。

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さて、「父の日」は6月の第3日曜日です。「母の日」に比べて、「父の日」はどうも盛り上がりに欠けます。もともとは20世紀の初頭にアメリカで生まれた記念日で、ワシントン州スポケーンの女性、ソノラ・スマート・ドッドの発案によるものです。彼女の母は早く亡くなり、父は男手ひとつで6人の子どもたちを育てました。当時、すでに「母の日」は始まっていましたが、ソノラは「母の日があるなら、父に感謝する日もあるべき」と牧師協会に嘆願したといいます。世界初の「父の日」の祝典は、1910年6月19日、スポケーンで行われました。16年、アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンは、スポケーンを訪問。そこで「父の日」の演説を行ったことにより、アメリカ国内で「父の日」が認知されるようになったそうです。また66年、第36代大統領リンドン・ジョンソンは、「父の日」を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を「父の日」に定めました。正式に「父の日」が国の記念日に制定されたのは72年のことです。

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このように、「父の日」そのものは非常にアメリカ的なのですが、日本においても必要であると思います。なぜならば、「父の日」でもなければ、世のお父さんたちは子どもたちから感謝される機会がないではありませんか!
人間関係を良くする「法則」を求めた儒教においては、親の葬礼を「人の道」の第一義としました。親が亡くなったら、必ず葬式をあげて弔うことを何よりも重んじたというのも、結局は「親に感謝せよ」ということでしょう。親とは最も近い先祖です。「いのち」のつながりを何よりも重んじた儒教では、祖先崇拝を非常に重要視した。それは、「孝」という大いなる生命の思想から生まれました。どうか、「父の日」をお忘れなく!

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

 

 

2020年6月21日 一条真也