『史論ー力道山道場三羽烏』

史論‐力道山道場三羽烏 (G SPIRITS BOOK)

 

一条真也です。
『史論―力道山道場三羽烏』小泉悦次著(辰巳出版)を読みました。昭和のプロレスを愛してやまないわたしにとって非常に興味深い内容でした。著者は1960年5月14日、東京都北区生まれ。サラリーマンの傍ら、1996年よりメールマガジンにてプロレス記事を配信。プロレス史研究を深化させるにつれて、ボクシング史、相撲史、サーカス史、見世物史など隣接領域の研究も進めたそうです。プロレス文壇デビューは、2002年春の『現代思想・総特集プロレス』(青土社)。2009年より『Gスピリッツ』にプロレス史記事をレギュラーで寄稿。著書に『プロ格闘技年表事典~プロレス・ボクシング・大相撲・総合格闘技』(日外アソシエーツ)があります。

f:id:shins2m:20200601181230j:plain本書の帯

 

本書のカバー表紙には、ジャイアント馬場アントニオ猪木大木金太郎力道山道場三羽烏の若き日の顔写真が使われ、帯にはリング上で行われる力道山豊登のスパーリングを三羽烏を含む日本プロレスの面々がエプロンから見守る写真が使われ、「力道山が産み落とした3人の弟子が織りなす“冷戦時代の日・米・韓プロレス史”」「アメリカ武者修行時代の全試合記録も掲載」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「馬場vs猪木vs大木の20年戦争『力道山の後継者』は誰だ?」として、「『アメリカマット界のレスリングウォー』、『極秘裏に行われた力道山の渡韓』、『世界3代王座連続挑戦』、『ヒューストンの惨劇』、『最初の目玉くり抜きマッチ』、『日韓国交正常化』、『大熊元司リンチ事件』、『グレート東郷殴打事件』、『日本プロレスのクーデター未遂事件』、『韓国大統領・朴正熙の暗殺』――複雑に絡み合う物語を紐解きながら、隠された史実を読み解く」と書かれています。

 

本書の「目次」は以下の通りです。

「はじめに――力道山が産み落とした2個の卵」

プロローグⅠ

若手時代の力道山三羽烏

プロローグⅡ

1960年代のテリトリー制

chapter-1

ショーヘイ・ババのアメリカ武者修行

chapter-2

キンタロウ・オオキのアメリカ武者修行

chapter-3

カンジ・イノキのアメリカ武者修行

エピローグ

その後の力道山三羽烏

「おわりに」



「はじめに――力道山が産み落とした2個の卵」の冒頭で、著者は本書が生まれたいきさつを説明しています。
「本書は辰巳出版のムック『Gスピリッツ』に掲載された3本の連載記事『ショーヘイ・ババのアメリカ武者修行』、『カンジ・イノキのアメリカ武者修行』、『キンタロウ・オオキのアメリカ武者修行』を大幅に加筆修正し、新たな書き下ろしを加えて構成されている。加筆の主な目的はプロレス界における戦後・昭和の日本、アメリカ、韓国の連動と、その裏側をより詳細に描くことにある」
『Gスピリッツ』といえば、マニア向けのプロレス史専門ムックで、ブログ『最強の系譜』で紹介した名著の内容も同誌に連載されていました。わたしの愛読誌ではあるのですが、活字が小さすぎるのが老眼には厳しいものがあります。

 

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

  • 作者:那嵯 涼介
  • 発売日: 2019/10/28
  • メディア: 単行本
 

 

また、著者は「本書の主役である馬場、猪木、大木の三羽烏は、力道山が産み落とした。しかし、力道山が産んだ卵は2個である。BI砲は、そのうちの1個から孵った。そして、2人は『日本のプロレス』を継承する。具体的には馬場は日本テレビなどの人脈、猪木は闘魂とカリスマ性を力道山から受け継いだ。もう1個の卵から孵ったのが大木である。『韓国のプロレス』もまた力道山から産まれ、大木が継承したということだ」と書かれています。日本プロレスを旗揚げする前のアメリカ武者修行で、力道山はさまざまなものを学びましたが、そのうちの1つがエスニック(民族性)を基調としてベビーフェイス(善玉)とヒール(悪玉)を区別するというマッチメークのセオリーでした。しかし、凱旋帰国した力道山が作った日本のプロレスには、アメリカとは異なる特異性があったのです。



力道山朝鮮半島出身ながら、日本人としてベビーフェイスを演じました。ここに日本のプロレスの特異性の根源があったと見る著者は、力道山vs木村政彦の‟昭和の巌流島”決戦に言及し、「もし力道山が出自を明らかにしていたなら、セオリーに基づけば力道山vs木村戦は日本人である木村がベビーフェイスとなり、力道山第三国人(日本に居留する台湾・朝鮮など旧外地に帰属する人々の当時の呼称)としてヒールとなる。仮にそうなっていたら、以後の日本のプロレス史は大きく変わっていたであろう」と述べています。



そして、著者は「プロレス定着期のセオリーの歪みは、本来は第三国人として後継者である大木というもう1つの卵を産み、それが韓国のプロレス史となった。プロレスを日韓という視点で見れば、力道山が持っていた『日本人としてのヒーロー像』は馬場と猪木が、『朝鮮民族にとってのヒーロー像』は大木が引き継いで時代を創ってきたと言える。力道山の死後、日本のプロレスが馬場と猪木を軸に動いてきたことは言をまたない。しかし、そこに大木というピースを組み込むことで浮かび上がってくる風景もあるはずだ」と述べるのでした。



わたしは大木金太郎というプロレスラーを梶原一騎原作の劇画『タイガーマスク』で初めて知りました。同作品では、馬場が日本プロレス界の不動のエース、猪木が若きホープとして描かれますが、両巨頭の次に存在感があった実在のプロレスラーが大木でした。彼は、「アジア王座決定戦」に韓国代表として日本代表のタイガーマスクと共に出場。覆面レスラーのミスター・?(クエスチョン)に一杯喰わせるなど、タイガーマスクの優勝に援護を果しました。当時のわたしは小学校低学年くらいでしたが、そのときに「馬場・猪木・大木」という3人の序列を知ったように思います。



しかし、1938年生まれの馬場、1943年生まれの猪木に比べて、大木は1929年生まれと、2人よりもはるかに年長でした。もっとも当初、本人は生年については1933年と公表していました。大韓民国(日本統治時代の朝鮮)・全羅南道高興郡金山面出身で本名は金一(キム・イル)。韓国では「大韓プロレス」のエース兼プロモーターとして、韓国プロレス界の発展に尽力しました。日本での引退セレモニーは、1995年4月2日に行われたベースボール・マガジン社(「週刊プロレス」)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で行われました。2006年逝去。



60年4月11日、力道山はブラジル遠征から日系移民の少年である猪木完至を伴って帰国。翌12日、元巨人軍の投手だった馬場正平と猪木の日本プロレスへの入団発表が行われました。その3日後、東京体育館で「第2回ワールドリーグ戦」が開幕しましたが、翌日の「ポーツニッポン」紙には、なんと馬場と猪木の観戦記が対談形式で掲載されています。著者は、「まだデビューしていないどころか、入門してから1週間も経っていないのにスポーツ紙に対談が載るとは異例中の異例だ。これは『大型新人として注目を浴びていた』というレベルではなく、2人が強い星の下に生まれ、プロレスが天職であったということを示していると言ってもいいかもしれない」と述べています。



本書では、三羽烏の対戦成績についても詳述していますが、プロローグⅠ「若手時代の力道山三羽烏」では、「大木の初勝利は60年9月30日、東京・台東体育館での猪木完至戦である。そう、猪木のデビュー戦だ。つまり、この有名な一戦は記録上、大木がプロ初白星を挙げた試合であった。大木はこの後、10月14日に札幌中島スポーツセンター、同月17日に山梨・都留市谷村中学校校庭特設リングでデビューしたばかりの馬場正平と連続で引き分けており、10月19日に台東体育館で竹下民夫を破って、ようやく両目が開く。ちなみに大木の3つ目の白星は同月25日、広島・呉市営二河プールでの馬場戦である」と書かれています。ちなみに、日本プロレスの若手時代の馬場と猪木は16回戦って、すべて馬場の勝ち。猪木と大木は20試合連続で引き分けを演じています。



chapter-1「ショーヘイ・ババのアメリカ武者修行」では、馬場の二度にわたる武者修行の様子が紹介されます。第一次武者修行(1961年7月~63年3月)では時のNWA世界王者バディ・ロジャースに何度も挑戦し、第二次武者修行(1963年10月~64年4月)ではNWA世界王者ルー・テーズをはじめ、WWWF世界王者ブルーノ・サンマルチノ、WWA世界王者フレッド・ブラッシーへ挑戦を果たしました。第一次武者修行の段階で、フリッツ・フォン・エリック、キラー・コワルスキー、ディック・ブルーザーといった大物を前座にメインイベントを務めていたのですから、著者が「この段階で4大世界王者を除けば、アメリカマットのトップは馬場だったと言っても過言ではない」と述べるのも納得できます。

 

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場

 

 

さらに著者は、「アメリカで馬場はNWA,WWWWF、WWAの壁を超え、天衣無縫に駆け巡った。つまり、『日本の馬場』になる前に『世界の馬場』になっていた。以降、いくら猪木に挑発されようとも悠然と構えて馬場の言動は、この揺るぎない事実と、それにより生まれた自身に裏打ちされていたのかもしれない」と述べています。なお、アメリカ時代の馬場については、 ブログ『1964年のジャイアント馬場』で紹介した柳澤健氏の著書に詳しく書かれています。 



chapter-2「キンタロウ・オオキのアメリカ武者修行」の大木の第一次武者修行(1963年7月~64年1月)、謎の無断帰国を挟んで、第二次武者修行(1964年9月~65年6月)の軌跡が描かれています。その中でも興味深いのが、「ヒューストンの惨劇」として知られる事件です。64年10月16日、大木はヒューストンで当時のNWA世界王者ルー・テーズに挑戦しましたが、大木がテーズにセメントを仕掛けて返り討ちにあったことで有名な試合なのです。テーズといえばセメントでも世界最強であった正真正銘の「鉄人」であり、そのことは大木もよく知ってしました。そのテーズにセメントを仕掛けて半殺しの目に遭ったわけですが、大木の行動は謎に満ちています。じつは、この背景には日韓両国にまたがる政治的駆け引きがあり、大木が二代目「力道山」を襲名するという計画が存在したのです。



それは当時の韓国の朴正熙大統領や在日ヤクザの超大物まで巻き込んだプロジェクトでしたが、いろいろと無理がありました。著者は、「得てして、無理のある計画は破綻を招く。この『力道山襲名』という初めから無理のあるプランを実現させるには、大木が業界の掟を破ってテーズにセメントを仕掛けざるを得なかった。しかし、この‟国家的プロジェクト”はテーズの手によってリング上で潰される。(中略)結果論でしかないが、朴側は少なくとも東郷だけでなく、事前にNWA本部もしくは王者テーズに話を通す必要があった(通したところで断られただろうが)」と述べています。



chapter-3「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」では、1964年3月から65年2月にわたる猪木のアメリカ時代が描かれています。著者は、「馬場・猪木比較論の中で、馬場が力道山にエリートとして育てられ、猪木は雑草扱いであったとする論調は多い。しかし、他の若手レスラー、あるいは吉原功、大坪清隆といった馬場、猪木入門以前にライトヘビー級部門で実績がある古参中堅レスラーに比べて、猪木の扱いは格段に良かった。そして、日増しに『第二のルー・テーズ』の声が高まっていく」と述べています。そのテーズは晩年、「私の長いキャリアの中で、多くの素晴らしいレスラーにも、カトゥーン(漫画)としか言えない連中にも出会った。猪木は文句なくグッドレスラーだね。日本人レスラーとしては、ヒロ・マツダと並んで東西の横綱だ」と語っています。テーズが「横綱」と評した2人は、65年にテネシー地区でタッグを結成し、1978年に新日本プロレスが開催した「プレ日本選手権」の決勝で激突しました。



猪木を称賛するルー・テーズの言葉を紹介した著書は、ビル・ロビンソンの「日本のベストレスラーは、アントニオ猪木だ。テクニック面とハート面。スタンド面とグラウンド面。さらにコンディション面。それらをオールラウンドに持っており、トータル的に欠点が少ないということだよ」という言葉も紹介しています。そして著者は、「猪木の武者修行期間は約2年で、馬場や大木より長かった。回ったテリトリーは質的にそれほど悪いマーケットではなかったが、馬場と比較すれば、『裏街道』だった。テクニシャンからラフファイターまで、ピンからキリまで、色々なタイプのレスラーと肌を合わせたことは、確実に猪木のプロレスラーとしての幅を広げた」と評しています。



その猪木の「武者修行時代のベストバウト」は何か?
1980年頃、当時、人気者だったボーカルグループのラッツ&スター鈴木雅之が「猪木さんにとっての名勝負を挙げてください」と質問された猪木は「海外ではジン・キニスキー、国内ではドリー・ファンク・ジュニア」と答えたそうです。これについて、著者は「80年といえば、新日本プロレス全日本プロレスが激しく競り合っていた時代だ。キニスキーにしてもドリーにしても全日本派である。猪木にとって2人は、その名を出すことが相手陣営の宣伝になるという考えを超えてしまうほどの存在だったということか」と述べています。



エピローグ「その後の力道山三羽烏」では、押しも押されぬトップレスラーになってからの三羽烏の激闘が描かれます。まず、1974年10月10日、超満員の蔵前国技館で猪木と大木の一騎打ちが実現。最後は猪木が勝利しましたが、両者はリング上で抱き合って号泣しました。翌75年3月には猪木が韓国のリングに上がって大木のインター王座に挑戦。4月から5月にかけては新日本の「第2回ワールドリーグ戦」に大木が韓国代表として参加、開幕戦でリングアウトながら猪木を破り、坂口征二との血の抗争がリーグ戦を盛り上げました。しかし、新日本のワールドリーグ戦から半年後の10月30日、大木は全日本プロレスに参戦し、超満員の蔵前国技館で馬場と一騎打ちを行います。馬場は7分足らずで大木を下し、「馬場は猪木よりも短い時間で大木に勝とうとした」と囁かれました。



その後も日本マット界では不遇だった大木ですが、引退セレモニーは感動的でした。1995年4月2日に行われたベースボール・マガジン社主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で、それまでの大木の功績を讃えて正式な「引退セレモニー」が行われました。大木は車椅子姿で花道を入場してきましたが、その車椅子を押していたのは、なんと「鉄人」ルー・テーズでした。30年前の「ヒューストンの惨劇」以来、セメントで戦い合ったテーズと大木は固い絆で結ばれていたのです。リング・インの際、大木は気丈に立ち上がり、テーズと一緒にリング内に進むと四方へ頭を下げました。ファンの声援を受けると、現役時代からの流暢な日本語で「(感激で)胸がいっぱいで声が出ません」と涙を流しました。ファンへの感謝とお詫びの言葉、力道山との思い出などを語り、引退のテン・カウントを聞くと眼を閉じて号泣。リングを降りる間際、ニュートラル・コーナーへ歩み寄ると、鉄柱に頭を付け愛おしそうに撫で、リングを後にしました。韓国での大木の引退セレモニーは2000年3月に行われましたが、このときもテーズが訪韓し、セレモニーにも立ち会いました。この2人の友情には泣けますね。



2006年10月26日に大木が亡くなったときの描写も感動的です。著者は、「猪木は大木の遺体がまだ置かれていたソウルの乙女(ウルチ)病院に駆けつけた。そして、大木の棺を前に跪いて深々と頭を下げ続けた。猪木の垂れた首の深さ、その時間の長さは『力道山三羽烏』のもう1人、馬場の分も含まれていたようでもあった」と書いています。馬場は、すでに1999年1月31日に亡くなっていました。

 

自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王

自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王

  • 作者:大木 金太郎
  • 発売日: 2006/12/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

大木が亡くなってからちょうど49日目、「大木を偲ぶ会」が開かれました。会場は東京の赤坂プリンスホテルでしたが、もともと『自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王』の出版記念パーティーのために、版元の講談社が宴会場を押さえていたそうです。力道山未亡人の田中敬子さんが献杯の挨拶を行い、猪木はスピーチで「(大木選手は)私の筆おろしの相手でして」とその場を笑わせたそうです。「筆おろし」とはプロレス業界では「デビュー戦」を意味する隠語なのですが、会場には一般人も多く、言葉通りにとらえ、「猪木を初めて良からぬ場所に連れて行ったのが大木だった」と誤解したわけです。じつに、いい話ですね。

 

史論‐力道山道場三羽烏 (G SPIRITS BOOK)

史論‐力道山道場三羽烏 (G SPIRITS BOOK)

  • 作者:小泉 悦次
  • 発売日: 2020/05/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年6月21日 一条真也

心ゆたかな話

一条真也です。
ネットで、心ゆたかな話を見つけました。19日に西日本新聞が配信した「電車内で『電話、かけた方がいいですよ』 思いやり感じた忘れられない出来事」という記事です。

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ヤフー・ニュースより 

 

それによれば、看護の心温まる思い出や物語を表彰するコンクール「忘れられない看護エピソード」(厚生労働省日本看護協会主催)の看護職部門で、佐賀県鳥栖市の看護師斎藤泰臣さん(43)の作品が最優秀賞に選ばれたそうです。コンクールは5月12日の「看護の日」に合わせて2011年から毎年実施。「看護職」「一般」「Nursing Now」の3部門で800字以内のエピソードを募集し、日本看護協会関係者らが審査します。今年は2701作品の応募がありました。西日本新聞社の梅本邦明記者が書かれた記事には、以下のように書かれています。
「斎藤さんは、数年前の冬、JR長崎線の電車内でのエピソードを紹介した。夫婦と思われる男女が『病院まで遠いよ。最期の会話になるかもしれない』『そんなことない。間に合う』と小声ながらも切羽詰まった様子で言い争っていた。会話を聞いた斎藤さんは、息を引き取ろうとする父親の臨終の場に、男性が間に合わない状況だと理解した。斎藤さんは久留米大病院(福岡県久留米市)に勤務し、当時は末期がん患者を診る緩和ケア病棟を担当。患者の家族には、後悔しないように最期の声かけや気持ちを伝えるように促してきた。その経験から男女を静観できず、近づこうとしたとき、ある女性が『電話、かけた方がいいですよ』と声をかけ、他の乗客もうなずいた。背中を押された男性は電話をかけ『おやじが一生懸命働いてくれたから俺たちは少しもひもじい思いをしなかったよ。心配しないでいいから。本当にありがとう』とおえつを抑えながら感謝を述べた。斎藤さんは胸が温かくなり、電車内にいたみんなが『看護』をしていたと感じたという。最優秀賞を受け『評価してもらい、うれしかった』と語った」

 

わたしは、このエピソードに非常に感動しました。わたしは「礼」を何よりも重んじている人間ですので、車内のルールやマナーなどには敏感な方ですが、このときの乗客の方々は車内ルールやマナーなどよりももっと大切なものがあるということに気づかれました。わたしは「礼」には二種類あり、マナーというのは「小礼」であると思っています。では、「大礼」は何かというとモラルです。それは思いやりを表現することであり、いわば「人の道」とも呼ぶべきものです。このご夫婦がもし電話ができずに、お父さんに感謝の言葉を伝えられなかったら、大きな悲嘆を感じていたことでしょう。それをケアしてあげたことは「人の道」だったと思います。「電車内にいたみんなが『看護』をしていたと感じた」というくだりにも感動しました。これこそ、グリーフケアの理想ではないでしょうか?

 

また、「おやじが一生懸命働いてくれたから俺たちは少しもひもじい思いをしなかったよ」という言葉には泣けました。プロの物書きの端くれとして言わせてもらうなら、このエピソードが感動的であるのは、ある女性の「電話、かけた方がいいですよ」と、声をかけられた男性の「おやじが一生懸命働いてくれたから俺たちは少しもひもじい思いをしなかったよ」という2つの言葉が共振するように読む者の心を震わせるからではないでしょうか。わたしは、そう思います。

 

わたしは、昔、たしかサンレー創立30周年記念式典で、故 重岡専務が社員一同を代表して「会社があったから私たちは生活することができ、家族を食べさせることができ、子供たちを学校にもやることができました」と挨拶され、それを聞いていた松柏園の大塚支配人が男泣きしていたことを思い出しました。そのとき、わたしは大塚支配人の横にいたのですが、サンレーに入社したばかりでした。重岡専務の言葉を聴きながら、「会社というのは社員の生活のベースなのだ」ということを改めて学びました。現在、コロナで会社も大変ではありますが、絶対に社員のみなさんとそのご家族が困らないように、不安な思いをしないように、「サンレーで良かった」と言っていただけるように、社長として頑張ります!!

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西日本新聞」2020年6月18日朝刊 

 

ところで、表彰状を手にする斎藤さんの写真を見て、同じ「西日本新聞」の18日朝刊に掲載されたわたしの写真とダブりました。わたしは100冊目の一条本である『心ゆたかな社会』(現代書林)を手に持っていますが、記事には「人と人との縁が希薄になる『ハートレス社会』を憂い、縁ある者同士が心でつながる社会の復活を訴えている」などと紹介されました。「西日本新聞」さんといえば、先々月まで「令和こころ通信 北九州から」を連載させていただき、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムを24回にわたってお届けしてきました。心ゆたかな社会を支える「西日本新聞」さんには感謝するばかりです。最後に、斎藤さんは電車内で父親の臨終の場に向かう男性と、乗客の思いやりを描かれましたが、このような思いやりのある行動が「心ゆたかな社会」への扉を開いていくように思います。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

2020年6月20日 一条真也

『アントニオ猪木 闘魂語録大全』

アントニオ猪木 闘魂語録大全

 

一条真也です。
19日、都道府県をまたいだ移動自粛もクリアになり、ようやくプロ野球も今シーズンの開幕を迎えました。日本に元気が戻りつつあるような気がしますが、こんなときは「元気ですかっー!?」が口癖のあの人のことを思い出します。
そこで、『アントニオ猪木 闘魂語録大全』アントニオ猪木著(宝島社)を読みました。これまで宝島社の昭和プロレス本は「これでもか!」というくらいに紹介してきましたが、「さすがにネタも尽きただろう」と思っていたら、まさかの猪木の名言本が出ました。これは読まねば! 

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本書の帯

 

本書の帯には、リング上で対戦相手にナックルパートを見舞う鬼の形相をした猪木の写真が使われ、「人生にもビジネスにも効く! 言葉の『闘魂ビンタ』108発」「馬鹿になれ」「恥をかけ」「一歩踏み出せ」「難局にこそ『非常識』が必要だ!」「常識を超えた発想と行動力を生む全思考」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

また帯の裏には、「人に気をつかって平均点とってるやつに光るだけのエネルギーなんかありっこない」「リング側に、カリスマ的な絶対性があってこそ、ファンの方がついて来るんです」「やっぱり人間、怒りがないとダメだな」「そもそも俺は詐欺師が大好きなんだ」「今日の絶対は明日の絶対ではない」「感じただけでもアクションを起こさなければ無意味」と書かれ、カバー前そでには「日本には、イノキが足りない――。未曽有の難局にこそ、‟過激な非常識”が必要だ」と書かれています。

 

元気があれば何でもできる アントニオ猪木流「燃える」成功法則58

元気があれば何でもできる アントニオ猪木流「燃える」成功法則58

  • 作者:松本 幸夫
  • 発売日: 2013/04/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

猪木の語録は、これまでも何冊か刊行されていますし、本書と似たコンセプトの本として、ブログ『アントニオ猪木流「燃える」成功法則58』で紹介した本があります。同書は、2013年7月21日に行われた参議院選挙において、日本維新の会から出馬し、同会内最多得票となる35万6606票を獲得して当選、18年ぶりの国政復帰を果たした猪木の生き方から「苦しいとき、どん底の時にこそ、過激に生きなければならない」というメッセージを根底にした成功への指南書でしたが、本書は2019年6月26日に政界を引退し、2020年2月に喜寿を迎えた猪木自身の言葉を集めた本です。過去約40年にわたる新聞・雑誌などでのインタビューや連載から厳選した闘魂語録108個を収録。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

第一章 仕事
        真のプロフェッショナルに必要なこと

第二章 発想
        大衆の心を摑む「非常識」という哲学

第三章 行動

        一歩を踏み出さなければ何も始まらない

第四章 人間
        修羅場を乗り越え辿りついた猪木流人間学

第五章 自信
        自分の殻をブチ破るための勇気が出る言葉

第六章 組織
        闘う組織のリーダーに求められる条件

〈完全年表 アントニオ猪木 過激なる77年の軌跡〉
〈出典一覧〉

 

全部で108ある言葉の中から、わたしの心に特に響いた12の名言をここに紹介させていただきたいと思います。なお、●に続く言葉は名言に添えられたタイトルです。

 

力道山のDNAを受け継ぐプライド

 

「闘魂」とは何か。俺は自分自身に
打ち勝つことだと解釈している。

 

 

 ●「世間」を巻き込む環状線理論

 

プロレスは、ある意味、劣等意識がある。新聞も扱わない。じゃあ、どうやったら扱うんだ、書くんだ。そういう戦いがいろんな場面である。

 

 

●時代の空気を感じる

 

先導動物っていうのがいるんです。
アフリカの草原にね。
群れをなしている中でも、
必ず一頭だけが耳をそばだてて
風をうかがっている。
人間の社会もそうだと思う。

 

 

●運気のつかみ方

 

運のいいヤツ、
つまりラスベガスで
ギャンブルに勝つようなヤツというのは、勝ったら、あっさりその場を去っていく。その見切りが優れているのだ。

 

 

●日本人の悪しき国民性

 

今怒らないヤツは
後になって
文句言う資格はない。

 


 

●毒を食らわば皿まで

 

たとえ嫌いな相手でも
一度その人間を
飲み込んでしまう度量が
必要だと思う。

 

 

●時間を我慢できるか

 

本当に自分の目で見て体験している
世界さえ持っていれば、人が何を言おうとそれは変えられない。
それさえあれば待つこともできるし、
壁を打ちやぶることができる。

 

 

●本当の強さ

 

負けなければ人間は強くなれない。

 

 

●猪木哲学の根本原理

 

バカになれ。
恥をかけば本当の自分が見える。

 

 

●人と争うことを恐れるな

 

ケンカとは全人格の放電である。

 



●未来を閉ざさないために

 

別れ際というのは綺麗であるべきだ。

 



●猪木流の死生観

 

死というのは
素晴らしい世界だと思うね。
みんなは
悲しく
しすぎるんじゃないかな。

 



この最後の「死というのは素晴らしい世界だと思うね。みんなは悲しくしすぎるんじゃないかな」という言葉には、非常に感動しました。解説ページで、猪木氏は「私は宗教家じゃないから、なんともいえないけど、死というのは素晴らしい世界だと思うね。みんなは悲しくしすぎるんじゃないかな。もうひとつの新しい世界というか、来世に向かって旅立っていくときは、もっと祝福すべきなんじゃないかって・・・・・・」と述べています。まさに、「ロマンティック・デス」の世界ではないですか! もっと、早くこの名言を知っていれば、『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)で取り上げたかったです!

 

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2020/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

正直言って、わたしはもう昭和&平成プロレスの検証本は食傷気味でした。しかし、猪木とあれば話は別です。天龍源一郎長州力前田日明武藤敬司らを超えるプロレス界最大のカリスマといえば、“燃える闘魂アントニオ猪木しかいません。本書には、常識を超えた発想と行動力でカリスマとなった天才レスラーの思考が網羅されています。コロナ禍という前代未聞の難局を乗り切るためにも、わたしたちには「猪木の思考」が必要であると思った次第です。

 

アントニオ猪木 闘魂語録大全

アントニオ猪木 闘魂語録大全

 

 

2020年6月20日 一条真也

「積ん読」もまた楽しからずや(渡部昇一)

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一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、「稀代の碩学」であり「知の巨人」、そして「現代の賢者」である渡部昇一先生の言葉です。渡部先生は昭和5年(1930年)に山形県鶴岡市でお生まれになりました。上智大学大学院修士課程修了後、ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学に留学。母校である上智大学で長年教鞭を執られ、同大学の名誉教授を務められました。平成29年(2017年)逝去。


 

渡部先生は1冊の本を読んでいると、そこに出てくる別の本をどうしても読みたいと思うことが多いそうです。夏目漱石を読んでいて森鴎外が読みたくなることもあれば、哲学の本を読んでいて自然科学のことを教えられ、新しい分野の本を注文されることもしばしばだとか。読書にキリがなくなり、本が増えて置き場所に困るようになると慨嘆されながらも、芋づる式に読書の範囲が広がっていくことは自分の視野を広めることになるとした上で、『楽しい読書生活』(ビジネス社)で、「私は、新しい興味を覚えたらとりあえず本を買っておいたほうがいいという考え方をしています。たしかに、そうやってとりあえず注文したり買ったりした本が『積ん読』の元凶になるわけですけれども、『積ん読』もまた楽しからずや―と思えばいいのです」と述べておられます。


渡部昇一氏の書斎に積まれた蔵書

 

渡部先生は、「積ん読」は必要悪であり、これを全部やめてしまったら読書としては不完全であるとまで言い切られています。本を読んでいるとどうしてもその関連本を読みたくなるのは人情であり、あえて人情に逆らうのはよくないし、何より「別の世界が開けてくる可能性」や「新しい発見」も「積ん読」の魅力であると語られています。まさに読書の醍醐味を知り尽くした渡部氏の「積ん読」論に、勇気づけられる読書家、蔵書家、愛書家も少なくないでしょう。


渡部先生の書斎で、先生と

 

わたしは、「世界一」と呼ばれる渡部先生の書斎および書庫を拝見させていただきました。2階建ての書斎には膨大な本が並べられており、英語の稀覯本もたくさんありました。チョーサー『カンタベリー物語』やパスカル『パンセ』の初版本などをはじめ、日本に1冊だけ、世界でも数冊しかない貴重な書籍の数々を見せていただきました。伝説の『ブリタニカ百科事典』第1版の初版をはじめ、歴代のブリタニカもすべて全巻揃っていました。ちなみに先生の蔵書は約15万冊だそうです。これは間違いなく日本一の個人ライブラリーでしょう。何よりもわたしが感銘を受けたのは、この素晴らしい書斎および書庫を渡部氏はなんと77歳で作られたということです。もう凄すぎる!
なお、渡部先生とわたしは対談本『永遠の知的生活』(実業之日本社)において、本や読書の魅力についてたっぷり語り合いました。

永遠の知的生活』(実業之日本社

 

2020年6月19日 一条真也

林泉に酔う  

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木々と湧水がわたしを酔わせるので、
山の中に一度足を踏み入れてしまうと、思わず帰るのを忘れてしまう。
(『如宝宛書翰』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2020年6月19日 一条真也

コロナ後 心のつながり訴え

一条真也です。
18日の小倉は、朝から激しく雨が降っています。この日の朝、ブログ「心ゆたかな社会へ!」で紹介したように、久々に講話を行いました。終了後、今日の「西日本新聞」朝刊にわたしの記事が掲載されていることを知りました。

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西日本新聞」2020年6月18日朝刊 

 

記事は「サンレーの佐久間社長100冊目出版」「コロナ後 心のつながり訴え」の見出しで、こう書かれています。
一条真也ペンネームで作家として活動する冠婚葬祭業『サンレー』(北九州市小倉北区)社長の佐久間庸和さん(57)が100冊目の著書『心ゆたかな社会』(現代書林)を出版した。人と人との縁が希薄になる『ハートレス社会』を憂い、縁ある者同士が心でつながる社会の復活を訴えている。佐久間さんは超高齢社会のいま、『老い』の知恵と経験に価値を置くことが必要だと強調。北九州市が医療や介護を一層充実させ、高齢者向けのレジャーや文化活動を拡充することで『高齢者特区』となるよう提言している。
32年前に初めて本を出版して以降、10年の休筆期間以外、執筆を続けてきた佐久間さんは『「コロナ後」もぬくもりを求めあう社会を描いた。本を100冊書いた人は珍しくないが、経営しながら書くことには苦労や思いがあり、私の人生の宝だ』と話す。書店やネット通販で購入できる。
1650円(税込)(金子純)」

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 


2020年6月18日 一条真也

心ゆたかな社会を!

一条真也です。
17日、東京で全互協の正副会長会議および理事会に参加しました。理事会終了後は羽田空港に向かい、ANAで福岡へ。18日、早朝から松柏園ホテルの神殿で恒例の月次祭が行われました。2月以来となる4カ月ぶりの月次祭です。いつもより人数を大幅に減らし、マスク着用でクールビズでの神事となりました。皇産霊神社の瀬津神職が神事を執り行って下さり、祭主であるサンレーグループ佐久間進会長に続き、わたしが社長として玉串奉奠を行いました。わたしは、会社の発展と社員の健康・幸福を祈念しました。

f:id:shins2m:20200618081026j:plain月次祭のようす

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拝礼する佐久間会長

f:id:shins2m:20200618081633j:plainわたしも拝礼しました

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神殿での一同礼!

f:id:shins2m:20200618083944j:plain天道塾のようす

f:id:shins2m:20200618083622j:plain訓話する佐久間会長

 

神事の後は、恒例の「天道塾」を開催しました。こちらも新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、4カ月ぶりの開催です。いつもと人数は同じですが、会場の広さは3倍です。最初に佐久間会長が訓話を行いました。会長は会場を埋め尽くしたマスク姿の人々を見ながら、コロナ禍の数カ月を振り返りました。会長は「世界でのコロナの感染者が800万人を超えたそうですが、ものすごい数です」と述べ、それから池見酉次郎、胡蘭成、小笠原忠統といった恩師たちからの学びを振り返り、サンレー思想のルーツともいえる柳田國男折口信夫らの日本民俗学にも言及しました。

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訓話する佐久間会長

 

それから、佐久間会長は「共飲」「共食」「共浴」「共健」「共笑」「共歌」「共遊」「共旅」という8つの「共」信仰というものを示し、アフターコロナの時代に互助会として提供できないかという話をしました。さらに会長は、「今度のコロナ禍は、天の声ではないかと思ったりします。それは、互助会は金儲けに走るのはやめて、相互扶助の原点に戻れということではないでしょうか」と述べました。

f:id:shins2m:20200618100322j:plain小倉織マスク姿で登壇しました

f:id:shins2m:20200618102737j:plainマスクを外して講話をしました

続いて、わたしが登壇しました。わたしは着けていた小倉織のマスクを外し、まず、こんな話をしました。
新型コロナウイルスの感染拡大もピークを過ぎたようで、日本全国の緊急事態宣言が解除されました。もちろん、第2波の到来に備えなければならず、油断は禁物ですが、とりあえず一つの区切りはついたように感じます。わが社の冠婚部門や営業部門のスタッフのみなさんは緊急事態宣言のあいだ、力を発揮することができませんでした。これからは、少しずつ再開していっていただければと思います」

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コロナは「多死社会」を意識させた

 

「海外の国々に比べて、日本は新型コロナによる死者の数が少ないなどと言われていますが、それでも猛烈な勢いで感染拡大している間は、誰もが『自分も感染するのではないか』と心配し、高齢者の方々は『感染すれば、新型肺炎で命を失うのではないか』と思われたことでしょう。現代日本は超高齢社会ですが、それはそのまま『多死社会』でもあります。その『多死社会』という言葉を、今回のコロナ禍では、多くの日本人が具体的なイメージで意識したと言えるでしょう。これからは、死を乗り越える言葉が求められると思います」

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2020/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

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コロナにすべての「予定」を奪われた!

 

新型コロナウイルスの感染拡大はまだ終息してはいません。このウイルスは消滅することはなく、人類は新型コロナと共生しなければならないという意見もあります。ならば、日本人が『死』を意識する時代はこれからも続いていくということになります。それにしても、今回のコロナ禍は、とにかく想定外の事件でした。わたしを含めて、あらゆる人々がすべての『予定』を奪われました。将来、完全に日常が戻ってきたとしても、絶対に忘れてはならないことがあると思います」

f:id:shins2m:20200618102704j:plainわたしが忘れたくないこと

 

「わたしは忘れたくありません。今回のパンデミックで卒業式や入学式という、人生で唯一のセレモニーを経験できなかった生徒や学生たちが大きな悲嘆と不安を抱えたことを。わたしは忘れたくありません。今回のパンデミックで多くの新入社員たちが入社式を行えなかったことを。そして、わが社では全員マスク姿で辞令交付式のみを行ったことを。わたしは忘れたくありません。緊急事態宣言の中、決死の覚悟で東京や神戸や金沢に出張したことを。沖縄の海洋葬には行けなかったことを。いつもの飛行機や新幹線は信じられないくらいに人がいなかったことを。わたしは忘れたくありません。日本中でマスクが不足し、訪れたドラッグストアで1人の老婦人から『あなたはマスクをしていますね。そのマスクはどこで買えるのですか?どこにもマスクが売っていなくて困っているのです』と深刻な表情で話しかけられたことを」

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わたしが忘れたくないこと

 

「わたしは忘れたくありません。一世一代の結婚式をどうしても延期しなければならなかった新郎新婦の落胆した表情を。わたしは忘れたくありません。新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった方々の通夜も告別式も行えなかったことを。故人の最期に面会もできず、遺体にも会えなかった遺族の方々の絶望の涙を。わたしは忘れたくありません。外出自粛が続く毎日の中で、これまでの人生で最も家族との時間が持てたことを。わたしは忘れたくありません。緊急事態宣言の間、何度も社員や友人に希望のメッセージをLINEで送信したことを。そして、わたしは忘れたくありません。感染拡大が続く中で、人類の未来についての希望を祈りとともに記した本を書いたことを」 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

f:id:shins2m:20200618102652j:plain「礼」がグローバル・スタンダードになる!

 

新型コロナウイルスによる死者の数が多いのは、アメリカ、イタリア、イギリス、フランス、スペインなど。最近ではブラジル、ロシア、インドが激増していますが、これまでは西洋のキリスト教国が多かった。コロナ以後は、握手・ハグ・頬へのキスといった西洋式コミュニケーションは難しくなります。そこで国際的に注目されるのがお辞儀という東洋式コミュニケーションです。もともと『礼』が生まれ、発達したのは、感染症大国である中国でした。お辞儀を進化させたのが日本の礼法です。これからは、小笠原流礼法がグローバル・スタンダードになるかもしれません」

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心ゆたかな社会へ向かって!

 

最後に、「わたしは今回、感染症についての本を読み漁り、映画を観ましたが、重要な事実を発見しました。それは、ペストに代表されるように感染症が拡大している時期は死者の埋葬がおろそかになりますが、その引け目や罪悪感もあって、感染症が終息した後は、必ず葬儀が重要視されるようになるということ。人類にとって葬儀と感染症は双子のような存在であり、感染症があったからこそ葬儀の意味や価値が見直され、葬儀は継続・発展してきたのだという見方もできます。結婚式も同様で、ポストコロナは儀式が重んじられる『心ゆたかな社会』が訪れることでしょう。コロナ禍の中にあっても、わが社の施設はオープンし続けました。この仕事は社会的必要性のある仕事なのです。新型コロナウイルスが完全終息するのはまだ先のことでしょうが、儀式文化を基軸とした『人間尊重』というわが社のミッションは永久に不滅です。一緒に力を合わせて、心ゆたかな社会を創造しましょう!」と述べてから、降壇しました。

 

2020年6月18日 一条真也