志村けんさん逝く!

一条真也です。
志村けんさん死去のニュースには驚きました。
70歳でした。心よりご冥福をお祈りいたします。

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ヤフー・ニュースより 

 

志村さんは「ザ・ドリフターズ」のメンバーとして活躍し、変なおじさん、バカ殿などのキャラクターや「アイーン」などのギャグで知られた志村さんは日本を代表するコメディアンでした。わたしも昔、「8時だヨ!全員集合」が好きで観ていましたし、2人の娘たちはテレビの「天才!志村どうぶつ園」が大好きで、いつも観ていたことを思い出します。番組に出てくるチンパンジーの「パンくん」に会いに「阿蘇カドリー・ドミニオン」にまで行ったこともあります。訃報を知った長女から、LINEに追悼コメントと涙のスタンプが送られてきました。志村さんは70年間の生涯でしたが、多くの人々を笑わせて幸せな気分にして、そして愛されて、人生を卒業されていきました。

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日本を代表するコメディアンでした 

 

イギリスのチャールズ皇太子やジョンソン首相、ハリウッド俳優のトム・ハンクスが感染し、スペインのテレサ王女や志村けんさんの生命を奪った新型コロナウイルス。どんなに社会的地位があって有名でも感染し、どんなに裕福で最高の医療が受けられても死に至ってしまう新型コロナウイルス。今回、多くの日本人はその恐ろしさを思い知りました。誰よりも、志村さんが強いインパクトで新型コロナの怖さを教えてくれました。今後、わたしたちは新型コロナウイルスに感染した有名人の訃報に何度も接することになると思います。

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心よりご冥福をお祈りいたします
 

東京都では小池知事が、福岡県では小川知事が、先週末の外出自粛を要請しました。銀座や浅草などは閑散としていたようですが、渋谷にはまだ若者の姿がありました。天神などは通常と変わらない賑わいを見せていました。無症状だから怖くないと思って外出する若者たちには、「もしかしたら自分が志村けんさんを感染させたかも」という可能性が0%ではないということを知っていただきたい。そして、君たちの無自覚な行動で君たちの両親や祖父母が感染して死に至るかもしれないという想像力を持っていただきたいです。

 

それにしても、事態は深刻化し、次の局面に入りました。
全互協では、正副会長会議を除く4月以降の理事会や各種会議を中止もしくは延期することが決まりました。4月1日に行われるはずだったわが社の入社式は規模を大幅に縮小して辞令交付式という形にすることになりました。
1日も早い感染拡大の収束を願うばかりです。

 

2020年3月30日 一条真也

パンデミック100年周期説

一条真也です。ブログ『ヒューマンスケールを超えて』には多くのアクセスが集まりました。鎌田東二先生も大変喜ばれ、特に「現在、人類社会は新型コロナウイルスの感染拡大の脅威にさらされています。世界有数の大都市が次々に首都封鎖(ロックダウン)され、ついにWHOは『パンデミック宣言』を行い、IOCは『オリンピック延期』を決定しました。いまだ収束の兆しは見えず、人類にとって暗黒のような日々が続いていますが、じつは地球環境の視点から見ると、中国でもアメリカでも大気汚染が劇的に改善されています。新型コロナウイルスを『地球の逆襲』と表現する人々もいるほどです。これこそ、ヒューマンスケールの視点ではBadでも、ネイチャースケールの視点だとGoodという典型例ではないでしょうか」というくだりに強く共感されました。

f:id:shins2m:20200329133926j:plain武漢の病院で患者を搬送する医療スタッフ(ロイター)

 

さて、パンデミックといえば、「パンデミック100年周期説」というものが流行しています。新型コロナウイルスが世界中で猛威をふるい、問題が深刻化しているわけですが、これは100年に1回の伝染病による人類の危機なのではないかという説です。それは、以下の通りです。

 

1720年 ペスト

1820年 コレラ

1920年 スペイン風邪

2020年 新型コロナ

 

といった具合ですが、最初はオカルト界で流布されていましたが、2月7日配信の「東スポWeb」の「パンデミック100年周期説 1720年・ペスト 1820年・コレラ 1920年・スペイン風邪 2020年・新型コロナ」という記事で世間にも広く知られるようになりました。最初は、わたしも「どうせ、東スポお得意の与太話だろう」ぐらいに思っていたのですが、よく考えてみると、たしかにこの奇妙な周期は歴史的事実であり、無視できない問題であることに気づきました。ブログ「呪われたオリンピック」で紹介した40年おきに五輪開催には問題が発生するという説をはるかに上回るインパクトの強い周期説であります。



記事には、「1720年前後にはフランスで『ペスト』が大流行となり、10万人が死亡した。100年後の1820年前後にはアジアから中東、ヨーロッパ、アフリカまで『コレラ』が蔓延した。1920年前後には、世界で5000万~1億人が亡くなった『スペイン風邪』が猛威を振るった。感染者は5億人で、当時の世界の人口は20億人だった。そして今年、2020年に新型コロナウイルスによる新型肺炎が発生し、パンデミック寸前の状態となっている」と書かれています。その後、東日本大震災の発生から9年目となる2020年3月11日、新型コロナウイルスの感染者の数が世界で12万人に迫るのを目前にして、WHO(世界保健機関)が「パンデミック」を宣言しました。ついに、感染症の世界的大流行を認めたのです。 

 

また、記事では、100年周期で人類に脅威を与える伝染病が流行してきたことを踏まえ、オカルト研究家の山口敏太郎氏の「経済の動きや病気の流行には、周期的なものがあるといいます。人間が集団で動いた結果として歴史が刻まれていくわけですが、必然的に似たような流れは繰り返されてしまうんでしょう。“歴史は繰り返す”といわれてきましたが、このパンデミックの歴史も奇妙なシンクロ現象を起こしています。とても偶然とは思えません」という発言を紹介しています。



さらに、記事には以下のように書かれています。
「実は、陰謀説として『100年ごとに伝染病が流行しているのだから、今回は中国が意図的にアウトブレイクさせていたとしてもおかしくない』という見方も出ている。科学問題研究家の阿久津淳氏は『武漢は中国で唯一、世界で最も危険な病原体(BSL-4=バイオセーフティーレベル4)の研究施設がある場所。約100万人の中国人がアフリカで働いていることから、クリミア・コンゴ出血熱を引き起こす病原体を研究したり、エボラウイルスの変異速度やその治療法、ラッサウイルスなどの研究をしているといいます。(重症急性呼吸器症候群)SARSウイルスの流出が、北京の保管施設であったとの報告もあるぐらいですから』と言う」



続けて、記事にはこうも書かれています。
「人為的に悪質なウイルスを作ることが可能だった施設があったことは間違いない。さすがに意図的にばらまくことはしないだろうが、何らかのミスで漏れてしまったのか、誰かが盗み出した可能性はないのか。一方でこれらとは無関係で、報道されている通り、武漢の海鮮市場で販売されていたコウモリやヘビ、タケネズミなどの野生動物からの感染だったのか。一説には武漢の海鮮市場での第1号とされる感染者の前に、市場と無関係な者が新型肺炎の症状で病院に運び込まれたという話もある。いずれにしても、新型コロナウイルスが100年周期の世界的伝染病として広がる可能性が出てきたのは確かだ」

 

世直しの思想

世直しの思想

  • 作者:鎌田 東二
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本
 

 

山口氏は「一部で、意図的に何者かが人工ウイルスを世界に拡散しているといわれていますが、人間の潜在意識の集合体としての歴史は、まるで神仏のように我々人類を定期的に間引いているのかもしれませんね」と指摘しています。神秘学研究の第一人者でもある宗教哲学者の鎌田先生はブログ『世直しの思想』で紹介した著書などで、などで、「スパイラル史観=現代大中世説」という、周期説を取られてきました。「パンデミック100年周期説」をめぐるわたし宛のメールで、鎌田先生は「自然界にも人間界にも周期があると確信しています。その周期には、氷河期などの大周期と、中周期と、小周期があると思います。20年単位の世代交代などは、小周期ですね。人間の平均寿命などは、小周期と中周期の間ですね。ハレー彗星76年も小周期と中周期の間です。したがって、100年単位の切り取りもあり得る1つの視角・視点だと思います」と書かれています。



ところで、「コンテイジョン」という2011年のアメリカ映画が、現在の新型コロナウイルスが猛威をふるう状況に酷似していると話題になっています。「オーシャンズ」シリーズや「トラフィック」のスティーヴン・ソダーバーグ監督が、地球全体を恐怖に陥れるウィルスの恐怖を豪華俳優陣で描くサスペンス大作です。接触によって感染する強力な新種のウイルスが世界各地に拡大していく中で、社会が混乱し人々が異常なパニック状態に陥っていく様子を映し出しているそうです。キャストには、マリオン・コティヤールマット・デイモンケイト・ウィンスレットなど実力派スターが集結し、映画としても極上のパニック・ムービーに仕上がっているとのこと。わたしも観てみようと思います。



映画といえば、最近、日本映画「復活の日」(1980年)をDVDで観ました。「愛は、人類を救えるか」というキャッチフレーズが流行した角川映画のSF超大作で、原作は日本SF界の巨匠・小松左京です。主演は草刈正雄、オリビア・ハッセ―です。「MM88」と名づけられた細菌兵器によって全世界はパニックとなり、45億人の人類が死亡する物語です。氷に閉ざされた南極大陸には863人の探検隊員が残されますが、滅亡寸前まで追いこまれた人類が生き残るドラマが壮大なスケールで描かれます。小松左京が原作である『復活の日』を書いたのは、なんと1964年。東京オリンピックの年でした。原作では、大相撲やプロ野球が短縮されたり中止になったりします。



映画の中のウイルスの画像は新型コロナに酷似しています。また、イタリアで完成拡大して「イタリア風邪」などと呼ばれるのですが、そのうち「新型ウイルス」という名前が付きます。最初は咳が出るので単なる風邪かと思ってしまうところも新型コロナにそっくり。感染は医療関係者にまで拡がり、医療崩壊を招いて、ついには日本全土に戒厳令が発令されます。そして、感染は世界中に拡大されて人類が存亡の危機を迎えるのでした。あまりにも映画の描写が現在の状況と似ているので、怖くなってきます。小松左京は予言者だったのでしょうか?

 

SF魂 (新潮新書)

SF魂 (新潮新書)

  • 作者:小松 左京
  • 発売日: 2006/07/14
  • メディア: 新書
 

 

コンテイジョン」や「復活の日」の他にも、人類がウイルスや細菌兵器と戦う映画はたくさんあります。それらは「SF映画」と呼ばれることが多いですが、ブログ『SF魂』で紹介した本の「あとがき」で、著者の小松左京は「SFとは思考実験である」「SFとは文明論である」「SFとは哲学である」といったSFの定義を延々と並べてから、最後には「SFとは希望である」と締めくくっています。人類が未曽有の危機に瀕している現在、わたしたちはSFにおける想像力を「人類の叡智」として使う時期なのかもしれません。そして、そこには「希望」があることを信じています。

 

2020年3月30日 一条真也

『ヒューマンスケールを超えて』

ヒューマンスケールを超えて

 

一条真也です。
新型コロナウイルスの猛威は増大する一方です。小池知事が外出自粛を要請した東京都では、28日も新たに60人以上が感染し、1日で感染が確認された人数の最高記録を更新しました。29日の日曜日、低気圧の通過で関東の上空には寒気が流れ込み、東京でも大雪が降りました。自然界にとっては、人間界の大混乱など無関係ですね。
『ヒューマンスケールを超えて』鎌田東二・ハナムラチカヒロ著(ぷねうま舎)を読みました。「わたし・聖地・地球」というサブタイトルのついた対談本で、鎌田氏から寄贈していただきました。ハナムラ氏は1976年生まれ。博士(緑地環境科学)。大阪府立大学21世紀科学研究機構准教授。ランドスケープデザインとコミュニケーションデザインをベースにした風景異化論をもとに、空間アートの制作、映像や舞台などでのパフォーマンスも行うとか。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞を受賞しています。

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本書の帯

 

本書の帯には、「人にやさしい尺度から地球にやさしい尺度へ。」「生命と地球と宇宙との動的(ダイナミック)な平衡(バランス)を取り戻すために。」「宗教学者ランドスケープデザイナーの対話」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

また、カバー前そでには、こう書かれています。
「『もう何をやっても地球は長くは保たないのではないか――』。2020年を迎えたいま、そんな思いが誰の頭の中にも浮かび始めている。だがいまの文明にはもはやオルタナティブが用意されていない。一方で『持続可能な開発』という題目だけは勇ましく唱えられ、世間は大騒ぎしている。しかし、その〝持続可能〟が何を意味するのかは依然として曖昧だ。地球環境は人間にとっていよいよ不都合な状況となりつつある。そんな危機的な状況にもかかわらず一向にまとまらない人類の問題の真の原因とは何なのだろうか。――本書『あとがき』より」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに――スケール転換を求めて」鎌田東二

第1章 わたしという現象♰人生とは演技の連続である

column「春日若宮おん祭と細男」鎌田東二

第2章 異化するデザイン♰見方を変えると風景が変わる

第3章 メタノイア♰自分のあり方を転換する

column「霧はれて光きたる春」ハナムラチカヒロ

第4章 意識の進化♰スケールが変わると正解がわかる

第5章 聖地の創造♰生命力を活性化させる場所

column「大重潤一郎――人と仕事」鎌田東二

第6章 生命のリズム♰両極を行き来して進む

第7章 宇宙の縮図♰聖地から宇宙を見上げる

column「『生命表象学』のダイアグラム」ハナムラチカヒロ

第8章 母なる地球♰太陽の原理から月の原理へ

「おわりに――Eの問題」ハナムラチカヒロ

「図版出典、資料提供一覧」

 

「はじめに――スケール転換を求めて」の冒頭を、鎌田氏はこう書きだしています。
「人間の苦しみの根源は、自己(エゴあるいはセルフ)にある。当然のことながら、自分がなければ、苦しみはない、すべての認識主体は自己だから。だから、このように苦しんでいる自分のありようを変えることができれば、そう考えて、自分を変える、自分を変えようとする。それがセルフスケールの転換となる。だが、自己というもの・ことは、そう簡単には変わらない。そのために、自己の構造とはたらきをじっくりと観察吟味する必要がある。もちろん、心理学や精神医学や生理学や解剖学など、自己を取り巻く身心のメカニズムやファンクションを科学的に理解することも大切だ」

 

続いて、鎌田氏は以下のように述べています。
「だが、それによって、ある程度自我の構造や機能やメカニズムがわかっても、自分を変えることができるかどうかは、別問題だ。ハナムラさんとの対談では、それを『まなざしの転換』とか、『メタノイア』(回心)として語り合った。本書で言及しているヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスやさまざまな身心変容技法も東山修験道も、そうした転換・メタノイアの方便(手法)である。それをどのように遂行し、徹底することができるか?」
そして、鎌田氏は読者に対し、「あなたは自分を変えることができますか?」とダイレクトに問いかけてくるのでした。

 

種の起原〈上〉 (岩波文庫)

種の起原〈上〉 (岩波文庫)

 

 

第4章「意識の進化♰スケールが変わると正解がわかる」では、「“わたし”を発見したホモ・サピエンス」として、ハナムラ氏は「ぼくは最終的には生命の進化に関心があるのです。われわれはどこからきて、どこに向かうのかということを知りたい。本当にどこからきたのだろうと思う。ぼくらはいま、この歴史の中でどういう役割を果たしていて、どこに向かっていくのか。ダーウィンの『進化論』が正しいかどうかは別にして、大きな生命の歴史においてわれわれがどこに位置づいているのかを知りたいと思っています」と語ります。

 

種の起原〈下〉 (岩波文庫)

種の起原〈下〉 (岩波文庫)

 

 

ネアンデルタール人は死者に花を供えていたという説もありますが、言語を持っていたかどうかはわからない」と言う鎌田氏に対して、ハナムラ氏は「いずれにせよ、7万年前に人間の頭の中に何かが起こったのです。それは何だったかを想像してみるのですけど、自然を見つめている自分を発見しちゃった。つまり“わたし”を発見したのだと思うのです。あまりにもいろいろなものが無常にうつろう自然の中で、それを見ている自分を発見して、たぶん怖くなったと思うのですよ。目まぐるしく変わっていく自然と、それに反応する不安定な精神を持つ自分を発見してしまう。それがものすごく怖くて仕方がないというところが宗教の原点になっているのではないかと思っています」
 
唯葬論』(サンガ文庫)

 

わたしは、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)にも書いたように、7万年前、「ホモ・フューネラル」(弔う人間)というものが誕生したと考えています。「人類の歴史は墓場からはじまった」という説があります。7万年前、旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、ときには、そこに花を捧げていました。死者を特定の場所に葬るという行為は、その死を何らかの意味で 記念することにほかなりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。ネアンデルタール人が最初に死者に花を手向けた瞬間、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な2つの価値が生み出されたのではないでしょうか。



それにしても、ネアンデルタール人たちに何が起きたのでしょうか。アーサー・C・クラークが 原作を書き、スタンリー・キューブリックが映画化したSF史に燦然と輝く金字塔の『2001年宇宙の旅』に出てくるヒトザルたちは、モノリスという石碑に遭遇して、進化のステ ージに立ちました。ネアンデルタール人たちの前にもモノリスのようなものが現れたのでしょうか。何が起こったにせよ、そうした行動を彼らに実現させた想念こそ、原初の宗教を誕生に導いた原動力でした。このことを別の言葉で表現するなら、人類は埋葬という行為によって文化を生み、人間性を発見したのです。

 

 

人間を定義する考え方として「ホモ・サピエンス」(賢いヒト)や「ホモ・ファ ーベル」(工作するヒト)、「ホモ・ディメンス」(狂ったヒト)などが有名です。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶヒト)、ルーマニ アの宗教学者ミルチア・エリアーデは「ホモ・レリギオースス」(宗教的ヒト)を提唱しました。同様の言葉に「ホモ・サケル」(聖なるヒト)というものもあります。それぞれの定義は、確かに人間の持つ一面を正確にとらえていると思われます。しかし、その本質を考えるならば、人間とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)であると、わたしは考えます。ネアンデルタール人が最初の埋葬をした瞬間、ヒトが人 間になったとさえ思っているのです。

 

 

ハナムラ氏の発言に戻ると、彼はこう語っています。
「そこから人類の進化は肉体ではなく、環境の領域に移る。1万5000年前に定住生活が始まって、環境が改変される。さらに5000年ほど前に都市ができて、自然と人間との間に線引きがされる。そして150年前に産業革命が起こって、自然の中でさらに特異な存在となる。どんどん変化のスピードが上がってきて、次はどこに行くんだと。次に起こるのが生物学的な進化なのか、それとも内部の意識の進化なのか、問いは尽きません。人間がサルや他の生物から進化してきたということが、もし正しいのであれば、これまでは生物学的に形態を変化させることで生命は進化をしてきたのかもしれない。でも、これから先、そうやって形態を変化させることで進化していけるのかどうかはわからない。AIのようなものに人間の進化が引き継がれる可能性だって大いにあるような気がしています」

 

そこから、次のような対話が展開されていきます。

鎌田 真実はもちろんわかりませんが、進化の考え方というのは宗教にとっても19世紀のダーウィン以来の科学にとっても、非常に大きなテーマなのですね。仏教もキリスト教も進化という言葉で語ってはいないけれど、違う人間になりなさいということは言っています。人間としてもう少し脱皮をしなくてはいけないとか、何かそぎ落としていかなければいけない、あるいはもっと純化しなければいけないと。

ハナムラ 洗練させていくことですね。

鎌田 それから神の国に入っていくために、この世の何かを捨てなければいけないとか、そういうことはずっと教えているし、道教だって仙人になることを教えている。そういう意味では、人間はメタモルフォーゼということをずっと問い続けているのですね。一種の“神まね”みたいな、神様になりなさいというようなことですね。それは進化ではなくて神化、あるいは仏化、成仏することもそうだけど、何か違うシステムに人間自身がならなければいけないというメッセージは送っていると思うのです。

満月交感 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)

 

さて、本書のタイトルにある「ヒューマンスケール」という言葉を見たとき、わたしは「人間尊重」というわが社のミッションを思い浮かべました。じつはその「人間尊重」の是非をめぐって鎌田氏とわたしは、もう15年間も満月の夜のWEB往復書簡である「ムーンサルトレター」で議論というか対話を重ねてきているのです。わたしはこよなくリスペクトする孔子の説いた「礼」というものを最重要視しており、「礼」を平たく言えば「人間尊重」であると考えています。ところが、鎌田氏によれば、この天然自然の中でしか、「人間尊重」は成り立たず、「自然感謝」が根底であり、先にあって、謙虚な人間尊重が成り立つと言われるのです。

 

狂天慟地

狂天慟地

  • 作者:鎌田東二
  • 発売日: 2019/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

わたし宛のメールにも、鎌田氏は「人間中心主義の、『人間の、人間による、人間のための人間尊重』であってはならないと思うのです。『自然への畏怖畏敬と感謝に基づく人間尊重』でなければ」と書かれています。もちろん、わたしも自然や神仏の存在が先にあって、それから人間があるとはわかっているつもりですが・・・・・・。ちなみに、ブログ『狂天慟地』で紹介した鎌田氏の詩集の根幹メッセージは、自然畏怖と感謝であり、人間の驕りや傲慢への戒め(自戒)であるとのことです。つまり、鎌田氏の言いたいことは、本書の書名そのままに「ヒューマンスケールを超えろ」ということでしょう。

 

「ネイチャーの次元で考える」として、鎌田氏は「ヒューマンスケールからいかに離脱できるかということが、わたしの思想のいちばん根幹にあるのです。仏教もキリスト教も基本はヒューマンスケールだと、わたしには見えるのです」と語ります。「密教はどうですか?」と問うハナムラ氏に対して、鎌田氏は「やはりヒューマンスケールだと思います。先住民とか神道は基本的にネイチャースケールで、そのネイチャースケールのもっとも深い根幹で、存在というか、宇宙というか、そういうものが何を望んでいるかというと、擬人的な言い方ですが、『何をしたいの、あなたは?』・・・・・・」と答えています。

 

「振動がもたらす痛い快感」として、以下のような対話が展開されますが、非常に興味深い内容です。

鎌田 わたしは機械的に起こした身心変容でいちばん感動したのは、ロケットの打ち上げを見に行ったときなのです。1989年に秋山豊寛さんが宇宙に出る前のソユーズ11号の打ち上げを旧ソ連に見に行きました。ソユーズ11号は200メートルか300メートルぐらい離れて見ないといけない。ロケットから一定の距離がないと観測できないのです。

ハナムラ そうですね、風景を見るためには距離が必要ですね。

鎌田 秋山さんも含めて、ソ連の人たちもそこで一緒にロケットの打ち上げを見ているわけです。初めてロケットの打ち上げを見たとき、まず驚いた。ロケットというのは、飛び上がっていくときの速度はすごく遅いんだよね。噴射するんだけど、ヒューッとすぐには飛ばないのです。空中浮遊をするように、本当にゆっくり、ふわーっとエレガントにワルツを踊るかのように上がっていくように見えるわけです、強烈な音はするんだけど。それが見る見る加速されて、ものすごい速度で上昇し、最後は点になって、その点も見えなくなっていく。本当に一瞬にして上昇加速がつく。そのとき、ロケットの噴射の光が地面にたたきつけるようにして火が見える。それを噴射しながら上がっていく。その部分が光のように見えて、太陽の小さい点みたいになっていくのです。その後、音は光の速度より遅いから、後からやってくる。噴射の後に音が振動になってやってくる。そのとき、蜂の大群に刺されたような、針の大群が自分の体を突き刺してくる。これはすごい。この噴射の50メートル内にいたら、死んでばらばらになって、穴だらけになってしまう。それほど空気振動が痛いのです。音が空気振動としてくるから、鉄砲で撃たれるような感じで、ガアーッと突き刺してくる。これはすごい快感なのです。

世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

 

ところで、わたしは「聖人」というものに大変関心があります。『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という著書や、『世界の「聖人」「魔人」がよくわかる本』(PHP文庫)という監修書も出しています。「聖人」という言葉ですが、『広辞苑』(第六版・岩波書店)によれば、「知徳が最もすぐれ、万人が仰ぎ崇拝する人」とあります。また「聖人」は儒教、仏教、キリスト教に共通する言葉でもあります。宗教の枠を超え、人々を善き方向に導いた人間のことを「聖人」と呼んでもよさそうです。わたしは、『世界をつくった八大聖人』で、人類にとっての教師と呼べる存在を8人選びました。ブッダ孔子老子ソクラテスモーセ、イエスムハンマド聖徳太子です。しかし、その「聖人」について、以下のような対話が展開されます。

 

鎌田 いまあがめられている聖人はみんな、生きていた当時はトリックスターだったと思います。老子孔子トリックスターじゃないですか。誰にも相手にされないような苦難な道を歩んで、その後、神格化されていく。イエスは犯罪者として処刑された。ソクラテスは死を宣告された人間です。彼らのアクションも知性も最高にトリッキーですね。

ハナムラ 本当にトリッキーですね。

鎌田 でも、それが人類の二千数百年の歴史の中で聖人に祭り上げられたので、そのいちばんトリッキーな部分をわれわれは理解していないと思うのです。

ハナムラ 小さなスケールでは不正解に見えることが、大きなスケールで見たときには正解であることは多々ある。ぼくは『まなざしのデザイン――〈世界の見方〉を変える方法』(NTT出版、2017年)で、それを「砂糖菓子のジレンマ」として書きました。自分が砂糖菓子を持っていて、あげると子どもが「わあ、ありがとう」と言って喜ぶ。その一部分だけ切り取ると問題なく幸せな風景です。あげたぼくもうれしい、もらった子どももうれしい。でも、それをずっと十年続けていたらどうなるか。子どもは肥満か糖尿病になる。

鎌田 虫歯になって、食べられなくなる。

ハナムラ なぜ、あのとき砂糖菓子をいっぱいくれたんだ、みたいなことになるわけです。小さな時間スケールで物事を考えるとそういう間違いを犯すことが起こりうるのです。

鎌田 資本主義はまさにそれです。

リゾートの思想』(河出書房新社

 

それから、第5章「聖地の創造♰生命力を活性化させる場所」では、聖地の問題が語られます。わたしは、かつて、『リゾートの思想』(河出書房新社)という本を書きましたが、そこでわたしが「理想土(リゾート)」と呼ぶ天国や浄土や楽園を元型とする理想の土地を考える上で、聖地についても言及しました。そのときは鎌田氏の著書を参考文献として使わせていただいたのですが、その鎌田氏は、「聖地の起源というのは、人間だけではなく、あらゆる生命が生存するために発見していった場所の感覚だと思うのです。それが人類にとって聖地になっていった。生存に必要な何ものかを確保するために、あるいはその生存をより豊かにするために、より生命力を強化するためにとか、いろいろな意味や機能があると思うのです。そういうはたらきを聖地は間違いなくしていると思っています」と述べます。

 

また、鎌田氏は「巣と聖地はともに安全装置」という卓見を示した後、このように述べます。
「巣というのは、多くの生命体、生物にとって、種の保存を安定的にキープし促進していくために必要な環境であったり、状況であったり、場所であったりする。それぞれの形態は少しずつ違う。だけど、生命を保持していく役割を与えられているという点では共通している。人間はかつてどういうところを巣にしたのかというと、一つは洞窟だと思います。そこでは安全を担保できるし、落ち着いて話をしたり、食べたり眠ったりすることができる。生存に必要な空間の原型は洞窟です。もっと言えば、胎内は洞窟だと思うのです。その洞窟が、宗教の発生とか人間の進化に大きな影響を与えている空間であると、わたしは思っています」


そして、「聖地とは人間だけでなく、他の動物や生命にとっても聖地なのですね」と言うハナムラ氏に対して、鎌田氏は「そう。それは、神である大いなる存在、グレートスピリットとか、たかみむすび、かみむすびとか、そういう聖なる存在が生まれてくる原型は、人間以前からあるとわたしは思う。那智の滝のようなものは世界中にある、ナイアガラの滝とか。人間だけではなく、いろいろな動物は、そういう自然界の圧倒的な威力や息吹を感受して、それに対してリアクションをしている。そのリアクションの中に、動物界の聖地の原型的構造がある」と述べるのでした。



続けて、鎌田氏は聖地について次のように述べます。
「人間はそれを、あるカタチにデザインし、特化していくことができたわけですね。そこにしめ縄を張る、あるいは飾り物をつける、祭壇を組む、神社やお寺をつくるなど、さまざまな記念碑的な建造物を置くことによって、それら聖なる物を聖別――誰にもわかるように聖化していく――ということをやっていった。しかしその原型というか起源は、間違いなく生物学的なもの、進化生物学的に必要な空間の感覚であった。だから動物とも共有されるようなものであった。その段階から、シンボル的な構造、行動が加わっていく。その原型的な聖地空間は、洞窟が一つであり、滝のようなところとか巨石とか巨木とか、自然界の中でも、ある偉大なものを感受させるような何かは、とくにそういう場所に選ばれやすい。そこに行くと隠れやすいということもあったりする」



さらに、イギリスの地理学者ジェイ・アプルトンが、人が心地よさを感じる景観の1つに「眺望が効くが自分の身体は隠れている場所」を挙げていることをハナムラ氏が指摘すると、鎌田氏はこう述べます。
「隠れるとか、安全というのはとても重要な生存感覚ですね。たとえば、大木がある、巨石があるということ一つをとっても、地盤が強固で安定的でないと、1000年、2000年のスギとかクスノキの巨木は育ちませんね。津波に襲われたらぺしゃんこになってしまうし、地震で地割れしたら木は倒れるわけだから、2000年、3000年、5000年のスギがあるということは、そこが安定し、安全で守られた環境であるということです。そういうものを森の主、森の神として大切にしていく。それはもっとも長寿なるのですから。巨石も動かない。それもまた長時間を経験しているものとして、それを大切にすることが重要だった。それによって、人間の種の保存や安全や安定を図るシンボル的な行動を起こしていった。日本でいえば、そこにしめ縄を張るなり、何かを聖別する飾り物をつけたりして、そこで祭壇を組んで儀式を行い、聖なる建築を建てて空間を聖化していく。セイクリッドなものにしていくわけですね」


 

 

ここで鎌田氏は「ヒューマンスケール」を超える「ネイチャースケール」というコンセプトを提示し、「聖地・生地・性地・政地」として、以下のように述べています。
「元々は、ネイチャースケールであった。神も聖地も、ネイチャーなものの力と息吹をもっとも強く感じるところであったのですが、それはやがてヒューマンスケールになっていって、完全な人工空間である都市の一角に神殿をつくり、その神殿の初期の神像は動物神のようなものであったのが、やがてマルドゥク神とか天照大神とか、人間的な造形になっていった。そこでヒューマンスケールな宗教文化が生まれてきて、その聖地も極めて人間的なはたらき、機能を発揮するようになっていった。だけど、本来的には聖地は根源的な生命力そのものを目覚めさせたり、強化したり、喚起する力を持っているわけです」

 

さらに、鎌田氏は「祈り」について述べています。
「日本の宗教の歴史では、政治は朝廷や権力を取り込みながら、祈りを社会の安定のためにうまく活用していった。それが天台密教真言密教の手法にあるわけです。それは『源氏物語』などに密教者の祈禱として描かれています。それがさらに修験道やさまざまなものになり、芸能になれば、天下のご祈禱として能のようなものになる。神楽も基本的にはわれわれを守っている神の力をこの世界にダウンロードする、下ろしてきている。そういうものを再確認することを通して、社会の安定や安心を生み出してきた。そのときに、聖地が重要な拠り所として機能してきました。そのいちばん基層のものである洞窟や滝や巨本など自然の息吹を感じさせるものが、いわば奥宮的なもの、奥の院的なものです。それから中継点として里宮があって、遥拝所のようなものができる。それは街中に出張して、世俗の中でもさまざまなご祈禱をし、ちょっと安心できるような小さな社になったり祠になったりする。そういうふうにして、人身の安心と安定をつくりだそうとした」


さらに、鎌田氏は「祈りの方法をアップデートする」として、こう述べます。
「いままでの伝統的な宗教文化は特定の聖地をつくってきたのだけれど、もっと根底的には、地球を含めて宇宙全体が交信によって聖なるものの発動を維持してきた。そういう存在感とか生命感のようなものがどこかにないと、聖地に依存しているだけになる。単にお参りするだけでは足りないのではないか。巡礼も四国遍路だけでは足りない。もっと大きい宇宙的な巡礼といった意識、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』や宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の旅のようなものが必要ですね。もっと宇宙的な旅を自分たちの体験の中に組み込めなければ、人類の未来はないのではないか。わたしがやっている東山修験道は、そのときにいままでの伝統の方式が手がかりにはなることを教えてくれる。だけど、それを一歩も二歩も脱皮するというか、進化させる時期にきている」

 

「危険が透明化した都市」として、ハナムラ氏は、裸のサルが本当にひ弱で、人間は自然の中で生きていくのは「いと小さき者」であると指摘し、さらに以下のように述べます。
「そこで、いかにして安心感を得ていくのかということが大きな課題になってきます。動物たちは服を着なくてもいい。自分が裸で自然の中にいるという自覚はないわけですね、たぶん。人間は自意識を持ってしまって、この環境の中で、自分がいかにか弱い存在であるかということを知ってしまったのですよね。だから、安心、安全を切望するという精神性を持っている。それが、ぼくは衣服の原点だと思うし、建築の原点だと思う。さっきの洞窟の話もそうです。ぼくは衣服というのはある種の建築だと思っています。本当は暑かったら服を着なくてもいいのですけど、包まれていたら何か安心する。襞のようなものですよね。洞窟も襞のようなものだし、建築も襞のようなものだし、何かに囲まれ、包まれて生きていくということが、ある種の安全感とか安心感を生み出す。むき出しではない状態をつくる。人間はそうした自分を覆うものを求めて、文明を発達させてきた。とくに狩猟民族から農耕民族に移って、定住生活をしなければならなくなったときに、その場所から逃げられないわけです。だから自分の身体だけでなく、生活空間自体を守るものが何かしら必要になる。不安定な自然を生きる脆弱な人間だから、安心、安全、安定を目指すことを切望して文明をつくってきたというふうに思っています」
このハナムラ氏の発言は非常に興味深かったです。
じつは、わたしは『儀式をするサル』という本を書きたいと思っているのですが、この発言からインスパイアされるものが多々あり、執筆の参考になりました。



第6章「生命のリズム♰両極を行き来して進む」では、「安全な聖地・危険な聖地」として、なんと、わたしが大好きな映画が取り上げられます。ハナムラ氏は述べます。
「聖地は眠りと関係している。『ピクニックatハンギング・ロック』(ピーター・ウィアー監督、1975年)というオーストラリアの映画ですが、ハンギング・ロックという大きな岩の聖地で意識を失って眠り込む少女の描写がありました。古代ギリシャデルフォイの神殿では夢に神託があると聞いたことがありますが、眠りに入って自我を失っている時間にメッセージが差し込まれる。いずれにせよ、聖地というのは眠るとか、夢とか無意識との関わりが大きい場所だと思うのです。シュタイナーも、『眠っている間は身体からアストラル体(感情魂)が抜ける』と言っています。つまり夢を見ている時間というのは、身体から離れた心が何かを経験しているのであって、その間の無防備な身体には安全な場所が必要なのだと。人のまなざしを意識せずに、安心感があるような場所が、眠ることのできる場所。だから、寝室ってすごく重要だし、究極的にいうと、住宅は安全に眠ることができるという機能がいちばん大切だと思うのです。それは洞窟でもいいし、母胎内でも同じですが」

隣人の時代』(三五館) 

 

それから、「宗教・教育・人権」として、ハナムラ氏は多様性について、次のように述べています。
無縁社会が当たり前になりつつあるのは、多様性を目指したことの副作用かもしれない。だからこそ、いまコミュニティが重要だと言われていますが、コミュニティやソーシャルというのは少し前までは社会主義のキーワードでしたよね。全体主義のような方向へ向かったものが、今度は多様化の方向に行く。そして、孤立化してくるとまたつながりをつくらなくてはという方向へ進む。長いスパンで見ると、そうした離合集散が繰り返されながら、収斂されていくのではないかと思っています。多様性はすごく大事だし、『みんな違って、みんないい』はいいのですが、もっと重要なのはその後に続くフレーズです。『みんな違って、みんないい。だから、ばらばらでいましょう』ではなく、『みんな違って、みんないい。だから、仲良くしましょう』ということが重要なのだと思います」
このあたりの発言内容は、まさに無縁社会を乗り越えて有縁社会の再生のために書いた拙著『隣人の時代』(三五館)のテーマとそのまま重なっています。

 

 

多様性についてのハナムラ氏の発言を受けて、鎌田氏は「調和、ハーモニーですね」と述べ、さらには「調和とは、ある種、宇宙的なもので、ライアル・ワトソンが言うように、宇宙的な調和が聖地の持っている本質的なはたらきだとすると、そういう宇宙的な調和をわれわれは必要としている。そういうことを感知した先駆者にはいろいろな人がいるんだけど、近代においてそれをいちばん表現したのが南方熊楠宮沢賢治です。那智で熊楠がやった粘菌の研究なども、生物学と民俗学、自然と文明との間の仲取り持ちをどうできるかということで、2人は典型的にトリッキーな仲取り持ちなのですよ。ああいう知恵と力は、現代にも本当に必要です」と語っています。詳しくは、ブログ『南方熊楠と宮沢賢治』をお読み下さい。



「おわりに――Eの問題」で、ハナムラ氏は、2020年を迎えたいま、「もう何をやっても地球は長くはもたないのではないか――」という問題を示しつつ、以下のように述べています。
「この複雑な問題を考える上で、『地球 Earth』の頭文字にちなんだ「Eの問題」を見取図にして追いかけてみたい。あらゆるスケールで海や大気や土壌が汚染する『Environment 環境』の問題。その結果として生命のネットワークシステムである『Ecology 生態系』の崩壊が深刻化しつつある。それは過剰な生産と消費を基本とするライフスタイルを維持するのに必要な膨大な『Energy エネルギー』の問題であり、言い換えると『Electricity 電気』の問題である。科学的に言うと無限に拡散していく『Entropy エントロピー』の制御が本質的な問題である」



さらに続けて、ハナムラ氏は「E」を語ります。
「一方で『Economy 経済』の仕組みは、富が富にますます集中するようになっている。行きすぎた格差を生む資本主義に対して『Equality 平等性』をいかに担保するのか、『Equity 公平性』をどのように定義するのか。その問題は、平等や公平をどの立場から眺めるかによって答えが異なる。グローバル化する世界では、観光を中心に移民や難民を始め、膨大な人々が国境を越える『Exodus 移動』が起こっている。そんな中で、『Ethnicity 民族性』を中心に、それぞれの立場から『Exclusion 排除』が起こり始めている。特にこの数年は高まるナショナリズムやテロの勃発の中で『Enemy 敵』が意識され、軍事的な圧力も再び高まる一方だ」



そして、ハナムラ氏は、このように「E」を語るのでした。
「確かに『Electrical communication 電子情報技術』の台頭は、地理的制約を越えて個人の自由なつながりと簡単な情報発信を可能にした。しかしそれは同時に孤独と混乱も生み出した。それまでの『Ethics 倫理』が徐々に機能しなくなる中で、『Evidence 証拠』の確認ができないショッキングなフェイクニュースが膨大にあふれている。嘘が日常化していく状況に馴れてしまうと、事実に基づいた理性の判断ではなく『Emotion 感情』だけを判断基準にしがちになる。そんな状況に『Education 教育』はまったく追いついておらず、なにを拠り所にすればよいのかと、わたしたちはうろたえ、心の中は『Emptiness 空虚感』に満ちている。1つの『Expertise 専門技術』だけでは解決どころか問題自体も見出せない。つまるところ、わたしたち人類と文明が次にどのような『Evolution 進化』を遂げるのかが問われていることだけは確かだ」



この「E」を頭文字とするキーワードを数珠繋ぎのように畳みかけるハナムラ氏のコンセプト・ワークは見事です。思わず、「E(いい)ね!」と言いたくなります。そして、目まぐるしいほどの「E」の連鎖が現代の世界の状況を鮮やかに浮かび上がらせていることに驚くばかりです。現在、人類社会は新型コロナウイルスの感染拡大の脅威にさらされています。世界有数の大都市が次々に首都封鎖(ロックダウン)され、ついにWHOは「パンデミック宣言」を行い、IOCは「オリンピック延期」を決定しました。いまだ収束の兆しは見えず、人類にとって暗黒のような日々が続いていますが、じつは地球環境の視点から見ると、中国でもアメリカでも大気汚染が劇的に改善されています。新型コロナウイルスを「地球の逆襲」と表現する人々もいるほどです。これこそ、ヒューマンスケールの視点ではBadでも、ネイチャースケールの視点だとGoodという典型例ではないでしょうか。

f:id:shins2m:20200326105203j:plain「EARTH」 とは何か?

 

最後に、「E」のキーワード群は「EARTH」から始まっていますが、わたしならば、「EARTH」を3つに分解します。「E」と「ART(アート)」と「H」です。その意味について考えると、おそらく「E」とは「EDEN(エデン)」で、「H」は「HEAVEN(ヘヴン)」ではないでしょうか。エデンの園から天国へ、地上の楽園から天上の楽園へ、人間の魂を導く手段が「ART」なのだと思います。ARTは芸術であり、ワザでもあります。

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そして、わたしは、自分の生業である冠婚葬祭を究極のアートであると考えています。結婚式にしろ葬儀にしろ、冠婚葬祭とは人間の魂を天国に導くことにほかなりません。現在、新型コロナウイルスの感染拡大で「集合罪」のような状況が生まれ、結婚式は延期され、葬儀も小規模化する一方です。このままでは人間集団としての「社会」は「個」に分断され、活力を失ってしまいます。その状況を打破するには、わたしたちが冠婚葬祭の意義、儀式の必要性を説き続けることしかないと思います。もちろん、わたしにとっての冠婚葬祭とは自然への感謝、神仏への敬意とともに人間を尊重する「祈り」の形です。ちゃんと、ネイチャースケールを視野に入れていますので、鎌田先生、どうぞご安心下さい。

 

ヒューマンスケールを超えて

ヒューマンスケールを超えて

  • 発売日: 2020/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

2020年3月29日 一条真也

『未来のルーシー』

未来のルーシー ―人類史のその先へ―

 

一条真也です。
ブログ『サル化する世界』で紹介した本からの連想ゲームではありませんが、「サル」から始まる対談本を読みました。『未来のルーシー』中沢新一・山極寿一著(青土社)です。中沢氏は1950年、山梨県生まれ。人類学者。明治大学野生の科学研究所所長。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。山極氏は1952年、東京都生まれ。霊長類学・人類学者。京都大学総長。京都大学大学院理学研究科博士後期課程単位取得退学。理学博士。日本学術会議会長。 

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本書の帯

 

本書の帯には、「人類史のその先へ」「出会うべくして出会った現代を代表するふたつの知性。霊長類学、そして人類学はもとより、考古学、宗教学、生命科学、AI、西田幾多郎今西錦司など、森羅万象を縦横無尽に往還しながら、閉塞した人類がまさにすすむべき未来を模索する。世界とは何か、わたしたちとは何か。根源的問いに迫る究極の対談」「人間は動物にも植物にもなれる」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

わたしは、中沢・山極のお二人と2015年9月13日の日曜日にお会いしました。ブログ「京都こころ会議シンポジウム」で紹介したように、京都ホテルオークラで開催された第1回京都こころ会議シンポジウム「こころと歴史性」に参加したのです。当時のわたしが連携研究員を務めていた「京都大学こころの未来研究センター」の主催イベントで、お二人がそれに出演されていたのです。

f:id:shins2m:20150914111140j:plain中沢新一氏と

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山極寿一氏と

 

終了後、ブログ「京都こころ会議懇親会」で紹介したパーティーが開かれ、わたしが『儀式論』(弘文堂)を上梓した直後だったこともあり、お二人と「儀式」について意見交換させていただいたことを記憶しています。それは、この上なくスリリングな体験でした。

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」中沢新一

1 人類の自然

プロローグ

人類の越境

「流動的知性」の革命

「ゼロ」の能力

人類のなかの自然

「ジャングル」をつくること

2 人類史のその先へ

“革命”はヒトに何をもたらしたか

意味の増殖と過剰の縮減

神・宗教と(非)暴力

プリミティブな暴力への回帰

個と種の変容のゆくえ

3 生きられた世界を復元できるか

今西錦司西田幾多郎

主体と環境の「相即相入」

日本文化の宗教的基盤

言葉によらないコミュニケーションと無意識

生命の普遍的なモデルを探して

4 華厳的進化へ

述語論理の世界

生命はインテリジェンス

日本の思考を再発見する

境界を越えていくこと

華厳へと向かう筋道

「おわりに」山極寿一

 

「はじめに」で、中沢氏は次のように書いています。
「山極さんと私の青春時代にはさまざまな形の『脱人間主義』の思想が花盛りであった。人間の中にいて人間を思考するのではなく、人間の外に出る試行を通じて『外から人間を考える』という思想が、新鮮な魅力をもって登場していたのである。構造主義などがその代表であるが、山極さんと私を共通に襲っていた時代の空気といえば、この『脱人間主義』の思想をまずまっさきにあげなければならない。私が霊長類学を最初目指していたのも、人間なるものをゴリラやチンパンジーの側から照らし出すことによって、人間という奇妙な生物をそのすぐ外側から観察し理解することが重要だと感じていたからであり、山極さんがこの学問を目指した動機も、たぶんそれに近いものだったと思われる。そういう意味で私たちは『人間を外から思考する』ことをめざす同一の思想体として、おたがいの人生を歩んできた(と私には思えた)」

 

中沢氏によれば、数十年前に盛行した「脱人間主義」の思想は、いま「ポスト・ヒューマン」の思想と言われるものに姿を変えて、AIのウルトラ的発達と地球温暖化による環境危機の現代によみがえりつつあるそうです。そして、中沢氏と山極氏の対話はそっくりそのまま現代から未来へとつながる「意味ある対話」になることができていると述べます。書名にある「ルーシー」とは、1970年代にエチオピアで発見されたオーストラロピテクス(アファール猿人、推定で318~322万年前)の個体に与えられた名前です。直立二足歩行を行い、類人猿に近い大きな脳容量を備え、さらには現代人につながる家族すら獲得されていたというこの猿人は、ビートルズサイケデリックな名曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」にちなんで「ルーシー」と名づけられました。



「ルーシー」と命名された小柄な女性は、人類学史上もっとも有名な猿人となったわけですが、中沢氏は「この猿人たちが進化を重ねてホモサピエンスにたどり着いた。したがって私たちは直接ではないにしても、象徴的な意味あいでこのルーシーの子孫であると言える。このルーシーの子孫たちの未来が開かれるか閉じられるかの、ぎりぎりの『とき』が迫っているというのが、現代である」と述べています。



1「人類の自然」の「人類の越境」では、「自然と文化のハイブリッド」として、中沢氏がくだんの「京都こころ会議」に言及して、以下のように述べています。
「自然と文化の分離自体がヨーロッパ近代の思考方法だったのではないかという反省が生まれて、今いろいろな思考の枠組みの組み換えが起こるようになりました。私は2015年の『京都こころ会議』で、自然過程とホモ・サピエンスの認知過程をどうやってつないでいけばよいのかという話をしました。[「『もの』と『こころ』の統一へ」『〈こころ〉はどこから来て、どこへ行くのか』岩波書店]。私には山極さんのお仕事自体がそうしたハイブリッド状の構造をしているように見えるのです。人間のことを考えるのにゴリラやボノボチンパンジーのことを考え、ホミニドの進化の問題を考えながら人間の家族の問題を分析していく。これは人間学や考古学が現在向かおうとしている方向と軌を一にしているという印象を私は持っています」

 

それから、「狩猟採集と農業」として、以下の対話が展開されます。
中沢 稲作は北陸のほうから日本海側へも伝わっていきます。稲作が成功するにはラグーン(潟)がなくてはいけません。このラグーンがあったために出雲の縄文社会で米づくりは大ヒットして、そこにはヤマトとは異質の「国」が生まれます。その後北陸のほうに広がっていきますが、これも能登半島でストップしてしまいます。

山極 やはり高い山が出てくるからなのでしょうか。

中沢 能登半島の場合は、クジラ漁やイルカ漁をやっている村で稲作を受けつけない連中が出てくるのです。その連中が太い柱を立てる祭儀を始めます。この柱が一体何かということに関してはいろいろな説があります。三内丸山遺跡でも同じように太い柱が天空に向かって立てられています。長いこと稲作を受け入れなかった諏訪でも御柱があります。

山極 あれは縄文からの文化ですか。

中沢 縄文からだと思います。イルカ漁をやっている北陸の縄文村落でも大きい支柱を立てる儀式を行うわけですが、そこの遺跡に行って見てみると、柱の周囲は子宮のかたちにつくってあって、おそらくはイルカの豊穣と人間の豊穣を重ねた儀式装置ではないかと思いました。北陸・東北・中部にかけてのいわゆる縄文文化が盛んだった地域では、あんなに手間のかかる、伝染病も出るような不潔な水田耕作よりも、ドングリだってあるしイモだってあるし、縄文の農耕のまま行こうじゃないかという勢力が非常に強かったのではないかと思います。だから何が突破口になっていったかと考えても、日本では稲作側が「ヤマト」という連合国家をつくり、その力がだんだん東に及んでいったという政治的側面が大きいと思うのです。

 

心の先史時代

心の先史時代

 

 

「『流動的知性』の革命」では、「比喩としての言葉」として、山極氏が以下のように述べています。
「スティーブン・ミズンに言わせると、言語はもともとトーテミズムと非常に関連が深く、言葉は比喩であった。だから、自分の祖先を何かに譬えて言うことによって力を持ったり、あるいは他の家族や他の集団に別の動物を当てはめることによって区別したりした。集団を区別するということは、もちろん哺乳類段階からやっているわけですが、それをシンボリックに言い表す言葉というのは非常に効率的なのですね。比喩というのは実は非常に効率的なやり方なのです。自然界のものはすべて別々なのですが、それを類として区別して何かとして言い表す。しかも、ふつうそれは現物を持たなければ相手に見せることができないけれど、名前をつけてしまえば相手に見せなくてもそれをイメージさせることができる。つまり言葉というのはポータブルなものである」

 

この興味深い発言に続いて、以下の対話が展開されます。

山極 言葉の発生起源を考えたとき、おそらく自然物と人間関係との両方に応用可能なかたちで現れたのがその最初なのではないかと思っています。つまりトーテムということを言うと、ある動物と自分たち、家族や部族のつながりを意識せざるをえなくなる。そうすると、やはりそこに宗教的なものや神話的なものが発生する余地があると思うのです。

中沢 それがネアンデルタールと現生人類を分ける分水嶺だったのではないかと、私は思っています。ミズンもそのことを語っていますよね。いずれにしても、比喩能力というのが最大のポイントだと思うのです。



「『ジャングル』をつくること」では、「均質化した世界と境界の問題」として、山極氏が「自然に近づくということは、一人ひとりが違うことをやりつつお互いに存在を認め合っていく、ということになります。私はいつも『ジャングル』と言っているのですが、ジャングルにはものすごく多様な生物が共生しているわけです。しかし、自分が関係するものしか知らない。自分と同種の生物がどのくらいいるかもわかっていない。そうしてあるがままの生活をあるがままに生きている。しかし、システムとしてそれは安定していて統一されているように外からは見える。それは人間社会の1つのアナロジーに使えるかもしれないですし、そちらのほうに少し近づかないといけないとも思います」と語ります。

 

マルクス 資本論 全9冊 (岩波文庫)

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  • 発売日: 1997/06/12
  • メディア: 文庫
 

 

すると中沢氏は、「マルクスの『資本論』は、結局世界は均質化していくということが書いてある理論書です。ただし、その先の処方箋をつくれなかった。社会主義も均質化した社会の別の形態のマシンをつくろうとしたにすぎなかった。今われわれの時代が直面しているのは、均質化した世界のなかで『ジャングル』をつくるということです。私は仏教の勉強をしてきましたから、仏教がそのことをとても強く意識していたことを知っています。今山極さんがおっしゃった世界は、仏教では『華厳世界』と言われたものにつながりがあります。1人ひとりは全部違うのだけれど平等なのだというモデルですね。平等でありかつそれぞれに個体性がある。その全体がまるで音響ホールのように共鳴し合っている世界のモデルです」と語るのでした。そして、そのような世界の根源には「ゼロ」があるといいます。



最も興味深かったのは、「人類の多様性」について語り合われた以下の対話です。

中沢 文化的多様性をどう実現するのか。今はそれがとても乱暴なやり方で、反グローバリゼーションなどのかたちを取りながら出てきています。それは時代遅れと言って否定するようなものではなく、人類が現代の事態に古くからのやり方でもなんとか対応しようとしているのだとも思います。しかし、それを超えていくものが必要です。「人類の自然」というテーマはそこにつながっていくとき、初めて意味を持つでしょう。

山極 世界にはものすごく多様な自然がある。そしてそれぞれの自然に寄り添いながら、いろいろな儀礼が昔から行われてきた。日本も南北に長い島で、かつ6800くらいの島がありますから、そういうところでいろんな祭礼や冠婚葬祭がそれぞれの伝統に沿って行われています。その多様性が日本をつくっている。世界規模で言えばもっとそうで、日本はその縮図のようなものです。そういうものをきちんと見直す必要があるのかもしれません。

 

2「人類史のその先へ」の「意味の増殖と過剰の縮減」では、「芸術と宗教の誕生と変容」として、中沢氏は以下のように述べます。
「認知革命が起こった脳では意味増殖が起こります。言語で言うと比喩による言語が発生するようになって、1つの意味を1つの外界の対象に同定しなくなり、ズレが発生してきて、そこから意味の増殖を可能にする脳が活発に動き出す。そうすると夢を見る無意識が発達する。そのとき人類が何をやったか。芸術と宗教です。洞窟祭祀が発達し始めて、人間の脳のなかで爆発的な増殖活動を行う意味増殖を、宗教と芸術のかたちで処理していくことになる。洞窟祭祀では、社会が2つに分かれます。1つは洞窟の外の家庭生活のある空間で、そこには女性や子どもなどの家族がいて、岩くぼのシェルターが生活の場所です」
これを読んで、ブログ「世界最古の洞窟壁画」で紹介した映画を思い出しました。



続けて、中沢氏は洞窟の祭祀について述べています。
「イニシエーションの祭儀では男たちは森に入って、女たちの目から隠している洞窟に入っていきます。洞窟はかなり長く巨大なもので、そのなかで秘密祭祀をやった。秘密祭祀の痕跡を調べてみると、巨大な絵画や洞窟音楽を行っている。脳のなかの爆発的な部分を音楽と儀礼によって処理して、終わると外に出てきます。このイニシエーションのパターンを通して、社会生活に必要なモラルと、それを超えた神など超越者についての知識の両方を教えています。超越領域から日常領域に帰ってくるという繰り返しを行うことによって、認知革命が発生させた爆発的な精神に生じた自由空間を処理していました。その祭祀の形態は長く続きます。上部旧石器に始まり、新石器時代の狩猟採集時代でも、だいたい同じようなことを続けていました」
この中沢氏の発言を読んで、わたしは ブログ『世阿弥』で紹介した宗教哲学者の鎌田東二氏の名著を連想しました。同書には、宗教や芸術の発生が洞窟と深く関わっていたという記述があります。洞窟壁画で有名なアルタミラやラスコーをはじめ、古代人は母胎のメタファーである洞窟内において心身の変容を体験したといいます。

 

世阿弥 -身心変容技法の思想-

世阿弥 -身心変容技法の思想-

  • 作者:鎌田東二
  • 発売日: 2016/03/25
  • メディア: 単行本
 

 

宗教の発生については、「過剰を縮減する装置」として、山極氏が「私は言葉の発生と宗教の発生は非常に近い起源を持っていると思っていますが、言葉というのはひょっとしたら暴力を抑えるものだったのかもしれません。現代の暴力を起こす人間の年齢層を調べた人たちがいます。それによるとそのピークになっているのはほとんど10代の終わりから20代の初めなのです。これはまさしく思春期スパートの直後です」と語っています。それに対して、中沢氏は「思い当たる節がいろいろありますねえ(笑)」と応答するのでした。さらに、山極氏は成人儀礼について以下のように語ります。
「成人儀礼などは思春期スパートの最中かその直前にあって、暴力が噴出する前にそれを抑える修練を、人間はかなり古くからやってきたのではないでしょうか。それは言葉によってというよりも身体に刻印するような儀礼です。例えば抜歯や刺青、あるいは何らかのトライアルをして、その精神をみんなで合意するというようなものです。これは男に対して行われてきました。先ほどの思春期に暴力を起こす話も、ほとんどがその時期の男です。これは人間が持っている文化的な背景ではなく、生物的な背景です」



続けて、山極氏は以下のように述べるのでした。
「思春期スパートがなぜ起こるかというと、脳の成長を最初優先して身体の成長が遅れ、12歳から16歳くらいで脳の量的な大きさがストップする時期に身体の成長がアップするからです。これは女性よりも男性のほうが顕著に発現します。その時期に心身のバランスを崩して野心的な冒険をしたり、トラブルに巻き込まれたり、破壊的なものに欲を感じたりします。その時期の男たちがきちんと社会に定着しないと、社会は安定して運営できないので、長老たちが経験をもとに若者たちを教育するために、思春期スパートの時期かその前に森に入って、人生訓を施します。そして成人儀礼をやる。成人儀礼は基本的に女から認められるための儀礼です。要するに子どもを残す権利を与えられるようなものです。そこで社会的にきちんと組み入れられるということが起きます。そういう社会の形式が生まれたのは、恐らく狩猟採集時代に認知革命が起こった前後くらいではないかと思います」
ちなみに中沢氏は神話について、「神話は過剰を減らすというのが重要な機能です。原初のカオスにコスモスが発生するわけですが、コスモスは数を減らしたことで生まれます」と述べていますが、非常に興味深い発言です。



3「生きられた世界を復元できるか」の「日本文化の宗教的基盤」では、「汎アジア的アニミズム」として、山極氏が「日本人には、虫にもなれるし、動物にもなれる、あるいは植物にもなれるような、生き物の境界を越えて違う存在にもなれるという考え方が昔からありました。それはこの世とあの世という考え方にも表れていると思います。ただ、生き物はやはりこの世の外には出ていけないということが一方であります。例えばイザナギイザナミもそういう話ですが、決してあちらには行けないわけです。しかし、この世の中であれば、ハエになって人の耳のなかに飛び込んで話を聞くということも夢のなかではできる。そこには、人間の時間だけでなく、いろいろな生命の時間があってこの世の流れがつくられているのだという確信みたいなものがあるのではないでしょうか」と語ります。

 

 

これを聞いた中沢氏は「ようやく考古学の主題に入ってきましたね(笑)」と言って、アニミズムを研究した人類学者である岩田慶治の名前を挙げます。わたしは岩田慶治の著書はほとんど読みましたが、その世界は中沢新一氏の先達と呼べると思っています。また、中沢氏は『源氏物語』を取り上げ、「源氏の世界はすごく細かく張り巡らされた感情の蜘蛛の糸みたいな世界のなかで、こちらの糸の端がピンと動くと、あちらのほうにいる人が感情を感じ取るといったように、全体に響きあっている世界です。『源氏物語』の作者は華厳経をよく読んでいた人ですが、そこには汎アジア的アニミズム思考の高度な哲学思考が見られます。縄文や弥生を超えてもっと広大なアニミズム思想を考えていくべきかもしれません」と述べています。

 

さらに「日本仏教の原型」として、中沢氏はこう述べます。
弘法大師が開いたのは真言宗と言われていますが、実は哲学のベースにしたのは華厳です。華厳の哲学は、先ほど言ったように、あらゆるものが相即相入しあって全体宇宙の運動をつくっているという考え方で、それは空海の思想の根底に据えられているものです。ですから大日如来をめぐる曼荼羅の思想や密教儀礼の思想の背景には、全アジアに遍満していた華厳的な思想がある。例えばインドネシアのボロブドゥール遺跡なども華厳経をベースにつくられています。古代社会の仏教思想・哲学というと実は華厳なのです。それがだんだん顧みられなくなってきて、殊に日本では鎌倉仏教以後、華厳のようなアカデミズム仏教は意味がないというような扱いを受けてしまいました。それはまことにもったいないことで、日本的にカスタマイズされたものばかりを尊重して、世界から孤立するようになる」

 

レンマ学

レンマ学

  • 作者:中沢 新一
  • 発売日: 2019/08/08
  • メディア: 単行本
 

 

華厳経の思想は、中沢思想の到達点ともいうべき「レンマ学」に通じます。大乗仏教、哲学、量子論言語学精神分析、数学、生命科学脳科学などを超えて、東洋知の結晶した華厳経の潜在力を大展開する未来のサピエンス学としてのレンマ学とは何か。中沢氏の著書『レンマ学』(講談社)のアマゾン「内容紹介」には、「『ロゴス』は『自分の前に集められた事物を並べて整理する』ことを意味しています。その本質は時間軸にしたがう線形性にあります。それに対し、『レンマ』は『直観によって事物をまるごと把握する』という意味です。西洋では伝統的に『ロゴス的知性』が重要視され、そのうちに理性といえばこの意味でばかり用いられるようになりました。ところが東洋では、『レンマ的知性』こそが、理性本来のあり方と考えられました。まさに仏教はこの『レンマ的知性』によって世界をとらえようとしたのです。大乗仏教、とりわけ『華厳経』が『レンマ的知性』による高度の達成を実現しようとしました」と書かれています。
華厳経、おそるべし!



4「華厳的進化へ」の「境界を越えていくこと」では、「日本人と死後の世界」として、対話が展開されます。

山極 私は、神社やお寺に行くことの意味は、仏像と出会うということだけではなくて、自然のなかに包まれてある自分というものを感じられるということだと思います。

中沢 寺は古い日本語だと「ティラ」と言ったみたいですね。それは古い沖縄語で墓地のことを指します。実際、お寺があるスポットを見てみると、だいたい渓谷地の奥であるとか、里山のエッジのところです。それは古墳時代に――あるいはすでに縄文時代にそうだったのかもしれないですが――埋葬地だったところです。そこに仏教寺院が作られました。死と関わりのない仏教寺院というものはありませんから。その近くに、それと対をなすように神社があります。日本の神社も、もともとは死と深いつながりがあるものだったと思います。いまの神道はどうしても死の概念を排除しますが、それはどうも平安時代から生まれたものであるようです。



最後に、「あとがき」で山極氏がこう述べるのでした。
アリストテレスが知を愛することを唱えて2000年が過ぎた。その知は人間の視点から世界を解釈し直し、社会の組織を変え、産業革命を起こし、情報革命へと至り、ついに脳のアルゴリズムを外に出して知性を外部化することに成功した。しかし、その過程で人間以外の生物と地球環境は利用しつくされ、いまや崩壊の危機に瀕している。それを救うには、今一度人間と他の生物や物理的な環境を包摂的に捉える観点に立たねばならない。生物も環境も互いにつながり合って循環する共生圏を作っているという考え方である。私たち人間の身体も心も進化の過程でそれを十分理解しているはずである。本書がその了解点にたどりつく一助となれば幸いである」

 

儀式論

儀式論

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2016/11/08
  • メディア: 単行本
 

 

本書は同世代、かつ現代日本のアカデミズムの頂点に立つといえるお二人の「知のフロントランナー」による自由で刺激的な対談本でした。わたしはいずれ、『儀式をするサル』という本を書きたいと思っているのですが、その執筆のためのヒントもたくさんありました。何よりも、京都大学の総長にして日本を代表する霊長類学者である山極氏が冠婚葬祭について肯定的な発言をされたことがとても嬉しく、たいへん勇気づけられました。お二人に拙著『儀式論』の内容についてお話しさせていただいた日を昨日のことのように思い出しました。人間が人間であるために儀式はあります。未来のルーシーは「儀式をするサル」であり続けるでしょう。

 

未来のルーシー ―人類史のその先へ―

未来のルーシー ―人類史のその先へ―

 

 

2020年3月28日 一条真也

『サル化する世界』

サル化する世界

 

一条真也です。東京都の小池知事の外出自粛発言を受け、パニックになった多くの都民が食料品などを買いだめするためにスーパーに殺到したという報道に接して、「ああ、日本人もサル化しているのか・・・」と悲しくなりました。
『サル化する世界』内田樹著(文藝春秋)を読みました。著者は1950年東京生まれ。思想家、武道家神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。

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本書の帯

 

本書の帯には、「ポピュリズム、敗戦の否認、嫌韓ブーム、AI時代の教育、高齢者問題、人口減少社会、貧困、日本を食いモノにするハゲタカ・・・・・・『今さえよければ自分さえよければ、それでいい』――サル化が急速に進む社会でどう生きるか?」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

また帯の裏には、以下のような言葉が並びます。
・「自分らしく生きろ」という呪符
・なぜ「幼児的な老人」が増えたのか?
・トランプに象徴される、揺らぐ国際秩序
・「嫌中言説」が抑止され、「嫌韓言説」が亢進する訳
・戦後日本はいかに敗戦を否認してきたのか
・どうすれば日本の組織は活性化するのか・・・etc.
そして、「現代社会の劣化に歯止めをかける、真の処方箋!」「堤未果氏との特別対談も収録」とあります。

 

カバー前そでには、以下のように書かれています。
「(・・・)サルたちは、未来の自分が抱えこむことになる損失やリスクは『他人ごと』だと思っている。その点ではわが『当期利益至上主義』者に酷似している。『こんなことを続けていると、いつか大変なことになる』とわかっていながら、『大変なこと』が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが『こんなこと』をだらだら続けることができる。その意味では、データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たちは『朝三暮四』のサルとよく似ている。――『サル化する世界』より」

 

つまり、書名にある「サル」は、「朝三暮四」に登場する「今さえよければいい」という思考回路のサルなのですね。本書は、著者が書いてきたブログやエッセイを見繕って一冊にしています。これまで、わたしは、ブログ『現代霊性論』ブログ『現代人の祈り』ブログ『街場のメディア論』ブログ『街場の大学論』ブログ『街場の教育論』ブログ『街場のマンガ論』ブログ『もういちど村上春樹にご用心』ブログ『大津波と原発』ブログ『最終講義』ブログ『日本の文脈』ブログ『内田樹による内田樹』ブログ『街場の天皇論』ブログ『困難な結婚』をはじめ、著者の本はたくさん読んできましたが、最新刊である本書も興味深い内容でした。

 

本書は、以下のような構成になっています。

「なんだかよくわからないまえがき」

Ⅰ 時間と知性

Ⅱ ゆらぐ現代社

Ⅲ ‟この国のかたち”考

Ⅳ AI時代の教育論

Ⅴ 人口減少社会のただ中で

●特別対談 内田樹×堤未果
  日本の資産が世界中のグローバル企業に売り渡される――
人口減少社会を襲う‟ハゲタカ”問題

 

9条入門 (「戦後再発見」双書8)

9条入門 (「戦後再発見」双書8)

  • 作者:加藤 典洋
  • 発売日: 2019/04/19
  • メディア: 単行本
 

 

特に興味深かったのは、Ⅲ「‟この国のかたち”考」の「憲法の日に寄せて」です。著者は『9条入門』加藤典洋著(創元社)という本を読んでたいへんに衝撃を受けたそうです。そこで、同書に書かれていた「憲法1条と9条はワンセット」という加藤氏の知見に基づいて、以下のように述べます。
天皇制の存続は戦争末期においてアメリカではほとんど論外の事案だった。1945年6月29日(終戦の6週間前)のギャラップによる世論調査では、天皇の処遇をめぐって、アメリカ市民の33%が処刑、37%が『裁判にかける・終身刑・追放』に賛成で、『不問に付す・傀儡として利用する』と回答したものは7%に過ぎなかった。そのような世論の中でGHQによる日本占領は始まった」

 

日本は、天皇制の存続につよい懐疑のまなざしを向ける極東委員会の国々(ソ連天皇制そのものの廃絶を求め、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンは天皇制による軍国主義の復活を恐れ、中華民国天皇が裁判で訴追されないことに不服を申し立てていた)に「天皇制は残す」という決定を呑み込ませる必要がありました。そのためには、「極端な戦争放棄条項」、すなわち個別的自衛権すら放棄するという条項を憲法に書き入れるしか手立てがなかったのです。

 

以上の加藤氏の行論を踏まえて、著者は「天皇制は戦争責任を免れるかたちで存命することになった。それを喜んだ日本人もたくさんいただろう。けれども、天皇がもはや国家の道義的な中心ではなくなったという事実に日本人は深い空虚感を感じたはずである」と述べます。では、いったいこれから先、日本人は何を道義とし、モラルとして生きていったらよいのか?

 

著者は、その「藁をもつかむ」状態にあった日本人に提示されたのが、戦力を持たず、交戦権を否定し、全面的な戦争放棄を実行して世界に類のない平和国家をめざすのだという憲法9条の「物語」であったと指摘し、さらに「『世界に類のない』というところが肝心なのである。世界に冠絶する大日本帝国が瓦解した後に、それでも日本人はなんらかのかたちで『世界に類をみない国』でありたいと切望した」と述べるのでした。

 

「比較敗戦論のために」も面白かったです。著者は、「アメリカの『文化的復元力』」として、以下のように述べます。
「なぜアメリカという国は強いのか。それは『国民の物語』の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる」

 

著者によれば、アメリカが超覇権国家たりえたのは、彼らが「文化的復元力」に恵まれていたからだといいます。つまり、カウンターカルチャーの手柄であるとして、著者は「70年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、1975年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで『米帝打倒』と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが『政治的な反米』から『文化的な親米』に切り替わることができたのか。それは70年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです」と述べています。



ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画が珍しくありません。著者は、クリント・イーストウッドの「目撃」(1997年)、ケヴィン・コスナーの「追いつめられて」(1987年)などの作品を例に出しています。また、警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。著者は、アメリカ映画は「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けていると指摘し、「世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです」と断言します。



続けて、著者は「米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる」と述べています。アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができるのです。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと、それを口にすることができるのです。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒していると、著者は述べます。



さらに、著者はアメリカについて以下のように述べます。
アメリカには『国民の物語』にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。『押し入れの中の死体』の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部11州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっていく」



著者によれば、アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあるそうです。これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと予測しています。そして、「アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを『供養する』ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは『祟る』ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、『この世の価値』とは別の価値があるという信憑に支えられている」と述べています。このあたりは、死者たちが社会を支えていると唱える『唯葬論』(サンガ文庫)のメッセージに通じます。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

  • 作者:一条真也
  • 発売日: 2017/12/25
  • メディア: 文庫
 

 

歴史に「if」はないといいますが、著者はなんと、日本がミッドウェー海戦で敗れた時点でアメリカに降伏していればどうだったかというシミュレーションを行います。「ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際にはその多くが戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。42年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた」というのです。



そして、著者は以下のように述べるのでした。
「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとても大切なものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、『そうなったかもしれない日本』を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。『アメリカの属国になっていなかった日本』、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います」
わたしは、つねづね日本が政治的にはアメリカの属国で、経済的には中国の属国となっているダブル属国の現状を憂いていますので、この意見には「目から鱗」の思いがしました。

 

困難な結婚

困難な結婚

  • 作者:内田樹
  • 発売日: 2016/07/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

Ⅴ「人口減少社会のただ中で」の「50代男性のための結婚論」も興味深く読みました。著者の『困難な結婚』についてのインタビュー記事で、「日経おとなのOFF」2016年10月号に掲載されたそうですが、まず、著者は結婚について、「そもそも結婚は、幸せになるためにしているのではありません。夫婦という最小の社会組織を通じた「リスクヘッジ」であり、安全保障の仕組みなのです。病気になったり失業したり、思いがけない事態になったときに、一人では一気に生活の危機に追い詰められますが、二人なら何とか生き延びられる。お互いがサポートできる。それが結婚の第一の意味です」と語っています。

 

続いて、著者は以下のように語っています。
「かつては、地域社会や血縁集団が確立していて、その中で夫婦という単位が機能していました。普段は不満の多い夫婦でも、夫が親族のややこしい話を丸く収めたり、妻が地域のイベントで絶妙な差配をしたり、夫婦がチームとして成熟する機会がありました。そうやって、異性愛とは別のレベルに『バディ』としての信頼感が育まれたのです。今の50代が不幸なのは、地域や血縁システムが崩れ、夫婦単位で行動して、『バディ』の見識や力量を目の当たりにする機会がほとんどなくなってしまったことです。それでも、自営業の夫婦でしたら、『連れ合いがいてくれて助かる』という実感が日々得られるでしょうけれど、勤めに出ていると、配偶者は支援者というよりはむしろしばしば『自己実現の妨害者』として登場してきます。お互いをしみじみ頼りになるパートナーだなと感じることが日常生活の中ではなかなか経験できません」

 

著者は「生き延びるために一番大切なのは、ネットワークです」と喝破するのですが、「都会から帰農した若者たちに聞くと、日々の生活必需品はほとんど物々交換やサービス交換で手に入るそうです。市場経済と直接にはリンクしていないから、不況になろうと株が乱高下しようと、生活の質は急激には変わらない。生活の安定を考えるなら、地域共同体や親族共同体の相互扶助ネットワークをしっかり構築するのはありうる選択肢の1つだと思います。とにかく性別も年齢も、社会的ポジションも違う人と連携するネットワークを形成すること。メンバーが多様である、ニッチを異にしていること、得意技がそれぞれ違うことは安全保障の基本中の基本です。階層や職業が同質的な人々とだけの集団には危機耐性がありません」と、ネットワークが大切な理由を説明しています。

 

生き延びるために必要なもう1つは、いかに“愉快に、機嫌よく”生き延びるか、だそうです。不機嫌では想像力も知性も働かないというのです。この意見には全面的に賛成です。そして、「50代男性のための結婚論」のインタビューの最後に、著者は「まずは配偶者との関係を穏やかで健全に保つこと。そのためには、自分が機嫌よくしていることが必須です。『バディ』として選んだその人と、夫婦というチームを成熟させ、安全保障を堅固にする。貧しくても、物心の不如意があっても、とりあえず『何とかなるよ』とにこにこ笑っていられるような、『機嫌のよい夫婦』にしか『夫婦が機嫌よく暮らす未来』は築けないと思います。ご健闘を祈ります」と述べるのでした。

 

人口減少社会の未来学

人口減少社会の未来学

  • 発売日: 2018/04/27
  • メディア: 単行本
 

 

わたしの本業である冠婚葬祭互助会というビジネスにおいては、「結婚」問題とともに「高齢者」問題が重要なテーマです。著者が編著者を務めた『人口減少社会の未来学』の刊行にあたって受けたという「いい年してガキ なぜ日本の老人は幼稚なのか?――内田樹が語る高齢者問題」と題する「文春オンライン」全3回のロング・インタビューも興味深かったです。著者は高齢者について、こう語ります。
「高齢者にとって最も大切な生活能力は、他人と共生する能力です。理解も共感もできない他人とも何とか折り合いをつけることのできる力です。不愉快な隣人たちと限られた資源を分かち合い、共生できる力です。でも、そういう能力を開発する教育プログラムは日本の学校にはありません。ひたすら子どもたちを競争的な環境に放り込んで、相対的な優劣を競わせてきた。その同学齢集団のラットレースで競争相手を蹴落とすことで出世するシステムの中で生きてきた人間に高い生活能力を期待することは難しいです」

 

「失われた20年」を経て、「いま日本人が希望をもてる道筋とは何か」という質問に対して、著者は「先進国中で最初に、人類史上はじめての超高齢化・超少子化社会に突入するわけですから、日本は、世界初の実験事例を提供できるんです。人口減少社会を破綻させずにどうやってソフトランディングさせるのか。その手立てをトップランナーとして世界に発信する機会が与えられた。そう考えればいいと思います。その有用な前例を示すのが日本に与えられた世界史的責務だと思います。これから日本が闘うのは長期後退戦です。それをどう機嫌よく闘うのか、そこがかんどころだと思います。やりようによっては後退戦だって楽しく闘えるんです。高い士気を保ち、世界史的使命を背中に負いながら堂々と後退戦を闘いましょうというのが僕からの提案です」と答えます。

 

それから、冠婚葬祭互助会ビジネスでは当然ながら「葬」が最重要テーマなのですが、これについても、「文春オンライン」に掲載された「貧困解決には『持ち出し覚悟』の中間共同体が必要だ――内田樹が語る貧困問題」というインタビュー記事の中に興味深いことが書かれていました。著者は凱風館という合気道の道場を主宰しているのですが、「凱風館で計画している中で、僕が今一番関心を持っているのは『合同墓』構想です。数年前に独身の女性門人から、『墓のことが心配だ』という話を聞いたんです。自分は今家の墓を守っているけれど、自分が死んだ後、誰が両親や自分の墓を管理してくれるのか。それを考え出すと不安になるという。その話を聞いたときに、『じゃあ、お墓を作ろう』と(笑)。凱風館門人なら誰でも入れる合同墓を作ることにしました」と語っています。

 

また、著者は「人間が死期を考えるようになったときに気になるのは、自分が死んだ後にも人々は自分のことを思い出してくれるだろうか、供養の1つもしてくれるだろうか・・・・・・ということだと思うんです。合同墓なら、結婚していない人も、子どもがいない人も、自分のお葬式のことも年忌のことももう心配しなくていい」とか、「子育て支援と合同墓ですから、文字通り『ゆりかごから墓場まで』(笑)。凱風館では結婚式も2組やりました。釈先生に司式をしてもらって、仏前結婚式。結婚式もできるし、子育てもできるし、墓も用意した」と愉快に語ります。釈先生というのは、著者の同志的存在である僧侶です。著者と釈氏は『現代霊性論』および『現代人の祈り』という対談本を出しています。

 

さらに著者は、「人間は、始めと終わりが一番生き物として弱い時期なわけです。赤ちゃんのときと、老人になったとき。そのときについての備えをするのが相互支援の仕組みだと思うんです。それ以外でも、『共同体に属していてよかった』と思うのは、病気になったときとか、失業したときとか、要するに弱っているときですよね。相互扶助共同体というのは、そのためのものなんですよ。弱者ベースで制度設計をする。共同体は強者が集まって、効率よく何か価値ある仕事をするためのものじゃないんです。孤立した弱い人でも、ここにいれば穏やかな気持ちで生きていける。そういう仕組みしか共同体にならない」と語っています。この「相互扶助」という言葉に弱いので、わたしは大いに納得しました。

 

それにしても、「なんだか互助会のことを言っているみたいだなあ」と思いましたが、次の発言を読んで、その思いはさらに強くなりました。
「相互扶助的なネットワークに繋がっている人と孤立している人の生活の質の差はこれから大きく出てくると思います。確かに、家事でも育児でも介護でも、すべてのサービスは市場で商品として売り買いされている。だから、お金さえあれば、どんなサービスでも手に入れることができます。でも、そういうサービスを市場で買うとなると、かなり高額なんですよね。たとえば幼児を数時間預かってもらうサービスを市場で買おうとすると少なからぬ出費になる。でも、子育てのネットワークに繋がっていれば、『今日はうちが見るから明日はあなたが預かって・・・・・・』というようなことができる。ベビー服やベビーカーだってどんどん使い回せる。孤立した人は生きるために必要なものをすべて貨幣で調達するしかないけれど、相互支援ネットワークに属していれば、多くの場合にお金を出さなくても良質のサービスや商品を手に入れることができる」

 

そして、共同体の力というものを信じている著者は、「実際には、金でなんとかなる問題のほとんどは共同体に属していればなんとかなるんです。生きるために必要なものはすべて市場で貨幣で買うしかないというのは間違った思い込みです。生きるために本当に必要なものは、本来無償で手に入る仕組みでなければならないはずなんです。必要最低限の衣食住も、防災も防犯も公衆衛生も教育も医療も育児も介護も、そういう行政サービスは『税金を払っていない人間には利用させない』というようなことはないでしょう。人が生きてゆく上で必要不可欠のものは『金を出せば手に入るが、金がない人間には与えられない』ということであってはならないんです」と語るのでした。

 

巻末の国際ジャーナリストの堤未果氏との特別対談は、「日本の資産が世界中のグローバル企業に売り渡される――人口減少社会を襲う‟ハゲタカ”問題」のタイトルで「文春オンライン」に掲載されました。そこで、著者は以下のように語っています。
「人口減に限らず、自然災害でも、パンデミックでも、テロでも、国が直面する可能性のあるリスクはさまざまなものがあります。それは別に『誰の責任だ』という話じゃない。でも、そういうことが『いざ起きた』というときに、国民の被害を最小化するためにどうすればいいかについては、事前に十分なシミュレーションはしておくべきだと思うんです。でも、『何か起きたときに、その被害を最小化するためにどうしたらいいのか』というプラグマティックな頭の使い方をする習慣が日本の役人にはありませんね。『プランAがダメだったときにはプランB。プランBがだめだったときはプランC・・・・・・』というふうに二重三重にフェイルセーフを考案するという思考習慣がない」
これは、まさに新型コロナウイルスの感染拡大が「パンデミック」に発展し、「東京オリンピック」の延期が決定した現在の日本人に向けて発せられた言葉のようです。

 

そして、著者は「どうして、国難的事態に備えて制度設計をしないのか。理由はいくつか思いつきますけれど、1つは日本が主権国家じゃないからですね。安全保障でも、エネルギーでも、食糧でも、教育でも、医療でも、学術でも、国家にとっての重要分野において、アメリカの『許諾』を得られない政策は日本国内では実現しない。だから、日本では『国益を最大化するためにはどうすればいいのか?』という問いが優先的な問いにならないのです」
その通りです。日本は主権国家ではありません。政治的にはアメリカの属国であり、経済的には中国の属国です。オリンピックの開催延期問題ではアメリカの思惑に振り回され、新型コロナウイルス問題では中国に忖度し続けてきました。結果、日本の国益が失われ続けてきたことに怒りを感じます。

 

というわけで、今度のウチダ先生の新刊を読んで、いろいろと考えさせられました。じつは、わたしは『儀式をするサル』という本を書く構想を練っているので、その参考にならないかと思って本書を読んだのですが、そこは残念ながら肩透かしでした。ウチダ先生には、いつか冠婚葬祭互助会そのものについて語っていただきたいです。

 

サル化する世界 (文春e-book)

サル化する世界 (文春e-book)

 

 

2020年3月27日 一条真也

グリーフケア×葬祭業

一条真也です。
まさかの首都封鎖(ロックダウン)が実現しそうな流れになってきましたね。そんな場所で7月からオリンピックを開催しようとしていた事実には驚くばかりです。しばらくは東京に行けないかもしれませんので、23日に全互協のグリーフケアPT会議を開催しておいて良かったです。

f:id:shins2m:20200326154959j:plain「フューネラルビジネス」2020年4月号の表紙

 

ブログ「『フューネラルビジネス』取材」で紹介したように、2月17日に総合ユニコムが発行している「月刊フューネラルビジネス」4月号のインタビュー取材を受けました。本日、その掲載誌が送られてきました。表紙に大きく「グリーフケア×葬祭業」と書かれています。

f:id:shins2m:20200326103216j:plain「フューネラルビジネス」2020年4月号

 

特集「グリーフケア×葬祭業」として、フロントページには以下のように書かれています。「‟売上げに直結しないアフターサポート”と称されてきたグリーフケアが、いま注目を浴びている。その背景には、グリーフケアが『生前からアフターまで』、求められるサービスであると気づいた多くの葬祭事業者が、グリーフケアの基礎を習得するようになったことがある。今号では、グリーフケア関連3団体へのヒアリングのほか、全互協内に創設されたグリーフケアプロジェクトチームの座長でもあるサンレー 佐久間庸和社長へのインタビューを実施。グリーフケアと葬祭業との関わりについて考察する」

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f:id:shins2m:20200326103229j:plain「フューネラルビジネス」2020年4月号

 

記事ですが、顔写真の横に以下のリード文があります。
一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会で昨年立ち上がった『グリーフケア・プロジェクトチーム』で座長を務める、サンレー代表取締役社長の佐久間庸和氏。2010年に遺族会として『月あかりの会』を発足させ、上智大学グリーフケア研究所では客員教授を務める佐久間社長に、グリーフケアの意義や重要性、これからの互助会が進むべき方向性などについて伺った」

葬儀が必要である最大の理由
それが「グリーフケア

――御社では2010年に、ご遺族の会「月あかりの会」を発足され、今年で10年になります。当時としては、かなり先進的な取組みだったのではないかと思います。

佐久間 私は葬儀でのご遺族の姿を見るたびに「なんとか、この方々の悲しみを少しでも軽くするお手伝いができないか」と常々思っていました。配偶者を亡くした方は立ち直るのに3年はかかる、幼い子どもさんを亡くした方は10年かかるといわれています。大切な人を亡くすという悲嘆は、それだけ深く、長い時間が必要なのです。悲しみの極限で苦しむ方の心が少しでも軽くなるようお手伝いをすることは、われわれの使命だと考えており、グリーフケア・サポートを行なうことは20年来の悲願でした。「月あかりの会」は10年に開始して以来、心理カウンセリング、アロマテラピーなどの「癒し」、月例会や合同慰霊祭などの「集い」、カルチャー教室やセミナー、講演会などの「学び」、旅行、レクリエーションの「遊び」の4つのテーマで活動してきました。試行錯誤しながら続けてきましたが、10年経ってやっと形になってきたというのが実感です。

――長年グリーフケアと向き合ってこられて、どのようなことを感じておられますか。

佐久間 グリーフケアは非常に大切ですが、同時にとてもむずかしいということを日々痛感しています。一方で経営の観点では、ビジネス優先で考えざるを得ない状況もあり、「グリーフケアがどうビジネスに結びつくのか、売上げにつながるのか」というご質問もよくいただきます。しかし、これからの時代は、互助会という枠組みを超えて、日本社会全体で取り組んでいかなければいけないテーマだと考えています。

――なぜいま、グリーフケアに取り組むべきなのでしょうか。

佐久間 われわれの業界に携わっている方は「葬儀は必要だ」と考えているでしょう。しかし、一方で葬儀は必要ないという方もおられます。そういう方々に、葬儀が必要である理由をどのように説明できるでしょうか。伝統や縁・絆の大切さ、感謝の想い、故人を思う時間・・・・・・、すべて正しいですが、それだけでは通用しないのではないでしょうか。葬儀は不要という方に納得いただくには、そこにサイエンスの光を当てなければならない。そこで浮かび上がるのが、「こころの科学」であるグリーフケアです。私は著書のなかでも何度か言及してきましたが、葬儀というものを発明しなかったら、人類はとうの昔に滅んでいたと思います。

――それはどういうことでしょうか。

佐久間 葬儀には2つの大きな目的があります。1つは故人を供養すること、もう1つは遺された方の心をケアすること、つまりグリーフケアです。
一緒に生活していた家族や配偶者、子どもが亡くなってこの世から消えてしまったら、何事もなかったように、それまでと同じ生活していくことは到底できません。心に空いた大きな穴をそのままにしていたら、精神的に病んでしまいます。実際、うつ病は古代からあり、そのせいで自死する人もいたといわれています。そうならないように、いったんけじめをつける知恵、あるいは文化装置が葬儀だったのです。その重要性がわかっていたからこそ、日本だけでなく、世界中でそれぞれの葬儀が脈々と受け継がれてきたのでしょう。
葬儀という知恵がなければ、悲嘆が深くなり、精神的に病んで自殺に至る。自死の連鎖が起こり、人類は滅亡していた・・・・・・、と私は思っています。
最近は「葬式は、要らない」という人たちが現われ、その考えに賛同する人たちも少なくないという現状は、危機的な状況です。家族が亡くなったことを近所にも職場にも知らせない方もおられますが、健全とはいえないでしょう。
その背景には、ご自宅で亡くなる方が減り、子どもたちが祖父母の亡くなる場面を見ることもなくなり、葬儀の意味がわかりにくくなっているということがあると思います。葬儀にはグリーフケアとしての役割があり、それが遺された方にとっていかに重要か。それこそ、葬儀が必要である最大の理由だと思います。

――あえて伺いますが、グリーフケアはビジネスにどうつながるのでしょうか。

佐久間 一般に葬祭ビジネスにとって優秀なスタッフとは、これまでは単価の高い葬儀を受注する人だったと思います。当社もそうでした。しかし、現在の消費者はどのように故人を見送るかより、なるべく費用をかけないことに関心があります。こうした多くの消費者の考えと裏腹に、単に単価を上げようとしていては、生き残ることはできません。
いま葬祭業界がやるべきことは、葬儀にはどんな意味があるのか、どういう重要性があるのか、また故人をしっかり見送ることが悲しみを癒せる最大の力であることをきちんと理解し、お客様にお伝えすることです。
言い換えれば、これからはグリーフケアをしっかりサポートすることが、葬儀という仕事を続けていくうえでの前提になる。ひいては、「グリーフケアがどうビジネスに結びつくのか」という問いに対する答えにもなると思います。そして私は、グリーフケアの普及が、日本人の「こころの未来」にとっての最重要課題と位置づけています。

互助会にとってグリーフケアは社会的責任 新たな縁としての「悲縁」が生まれている

――昨年、全日本冠婚葬祭互助協会(以下、全互協)に「グリーフケア・プロジェクトチーム」(以下、グリーフケアPT)が発足し、その座長を務められています。

佐久間 グリーフケアPT発足のきっかけは、昨年亡くなられたラックの柴山文夫社長が、グリーフケアの重要性を熱心に説いておられたことです。柴山社長は、「互助会こそグリーフケアに取り組むべき」と強く訴えておられました。私もおっしゃるとおりだと思いますし、そのご遺志をしっかりと受け継いでいきたいと思って座長をお引き受けしました。
現在グリーフケアPTでは、私が客員教授を務めている上智大学グリーフケア研究所と全互協のコラボにより、互助会業界にグリーフケアを普及させる活動をしています。「グリーフケア資格認定制度」(仮称)も、来年秋に開始する予定で準備を進めているところです。

――なぜ互助会こそグリーフケアに取り組むべきなのでしょう。

佐久間 グリーフケアは、互助会にとってCSR(社会的責任)の1つではないかと思います。
かつて冠婚葬祭は、地縁、血縁の手助けによって行なわれていました。家族の形の変化や時代の流れのなかで、冠婚葬祭互助会という便利なものが生まれ、結婚式場や葬祭会館ができ、多くの方にご利用いただくようになりました。図らずも互助会は、無縁社会を進行させた要因の一部を担ってきたといえるのかもしれません。
同様に死別の悲しみも、近所の方、近親者の方によって支えられてきましたが、地縁、血縁が薄くなるなかで、グリーフケアの担い手がいなくなっています。生まれてから「死」を迎えるまで人生の通過儀礼に関わり、葬儀やその後の法事法要までご家族に寄り添い続ける互助会が、グリーフケアに取り組むことは当然の使命だと思うのです。
また、グリーフケアには死別の悲嘆を癒すということだけでなく、死の不安を軽減するというもう1つの目的があります。超高齢社会の現在、多くのお年寄りが「死ぬのが怖い」と感じていたら、こんな不幸なことはありません。死生観をもち、死を受け入れる心構えをもっていることが、心の豊かさではないでしょうか。
人間は死の恐怖を乗り越えるために、哲学・芸術・宗教といったものを発明し、育ててきました。グリーフケアには、この哲学・芸術・宗教が「死別の悲嘆を癒す」「死の不安を乗り越える」ということにおいて統合され、再編成されていると思います。特にご高齢の会員を多く抱えている互助会は、2つ目の目的においても使命を果たせると思っています。

――悲嘆や不安の受け皿の役割は、これまで地域の寺院も担ってきたと思います。

佐久間 そうですね。宗教離れが進み、人口も減少していくなか、互助会は冠婚葬祭だけでなく、寺院に代わるグリーフケアの受け皿ともなり得ると思っています。月あかりの会を運営して気づいたのは、地縁でも血縁でもない、新しい「縁」が生まれていることです。会のメンバーは、高齢の方が多いので、亡くなられる方もいらっしゃいますが、その際、ほかのメンバーは必ずその方の葬儀に参列なさいます。楽しいだけの趣味の会ではなく、悲しみを共有し、語り合ってきた方たちの絆はそれだけ強いのです。この月あかりの会によってできた新しい縁を、私は「悲縁」と呼んでいます。寺院との関係が希薄になっているいま、地域に葬祭会館を構える互助会は、コミュニティセンターの機能を担うことができるし、担っていかなければいけないと思います。

資格によって葬祭業の社会的地位を高め 誇りをもって働けるように 

――グリーフケアPTで進めているグリーフケア資格認定制度についてお伺いします。グリーフケアには、やはり人材の育成が重要ということでしょうか。

佐久間 グリーフケアは、何よりも人材が命です。
実際は、互助会や葬儀社の第一線で活躍しているスタッフは、悲嘆にくれている方との接し方をすでに身に付けていると思います。しかし、ご遺族は悲しみのあまり辻褄の合わないことを話されることもありますし、やり場のない怒りをスタッフにぶつけることもあります。
受け止められる準備のないまま相談などを受けていると、聞いているスタッフ側が病んでしまいかねません。資格認定制度によって宗教・医療・心理など、グリーフケアについて体系立てた知識を身につけることは、スタッフが自分の苦悩を軽減するためにも必要なことです。
また葬祭業は非常に重要な仕事ですが、まだまだ偏見もあり、辛い思いをしているスタッフも少なくありません。資格認定制度創設のいちばんの願いは、葬祭業の社会的地位を高め、そこで働くスタッフが自分の仕事に誇りをもてるようにすることなのです。グリーフケアは非常に将来性のある分野だと思っていますし、業界いちばんの花形の職種にしたいと考えています。

――しかし、カリキュラムの内容や試験の方法もむずかしいのではないかと思います。

佐久間 はい。基本的には葬祭ディレクター技能審査がモデルになると思いますが、グリーフケアは心の問題に関するスキルなので、とてもむずかしいですね。たとえばグリーフケアにおける傾聴は、悲嘆の極みにある方のすべてを受け止めなければなりません。そういうスキルをどう高め、どう試験をするのかなど、現在、制度設計をしているところです。
現時点の構想では資格は1級から3級までとし、互助会スタッフのみならず、専門葬儀社、JA葬祭スタッフの受験も可能とする予定です。3級はすでに一部グリーフケアについても学んでいる葬祭ディレクター1級の取得者ならば、問題なく合格できるレベルを想定しています。最上位のグリーフケア1級では、大規模災害時に資格保持者を派遣することも視野に、葬祭業界のスタッフに限らず悲嘆に苦しんでいる方に対処できるスキルをもつ人材を育成したいと考えています。
葬祭に関する技術的な資格である葬祭ディレクターと、心のケアに重点を置いたグリーフケア資格の両方を取得すると1人前……、という時代も来ると思います。あるいは、互助会を退社してグリーフケアの専門家になるという人も出てくるかもしれません(笑)。

――今年2月末からは、上智大学とのコラボによる、公開講座も開催しておられます。

佐久間 上智大学大学院実践宗教学研究科主催、上智大学グリーフケア研究所共催、全互協、冠婚葬祭文化振興財団等の後援で、6つの講座を開催しています。
一般の方も参加できる公開講座としては、キリスト教上智大学以外にも、神道國學院大學とも開催してきましたし、仏教については、今後、全日本仏教青年会と連携して開催していこうと計画しています。
儀式の重要性や意義を啓発するには、インフラをつくっていかなければなりません。特に元号が変わるタイミングで、人々が新しいものばかりに目を向けるせいか、古くからの風習や慣習、儀式などが失われる傾向があります。最大の人生儀礼である葬儀の必要性について、広く啓発していかなければならないと思っています。

――佐久間社長は、常々「無縁社会を克服して、有縁社会を再生する」と言っておられます。

佐久間 私の使命は、葬儀に参列する方をふやすことだと思っています。なぜなら、葬儀は血縁や地縁、その他の縁を結びつけるチャンスであり、その方が亡くなったときに葬儀に参列する方こそ、本当の縁者だと思うからです。
価値観が多様化し、地縁、血縁が希薄化する一方で、悲しみを共有することで悲縁も生まれている。悲しんでいる方に寄り添うグリーフケア遺族会自助グループなど悲縁を育む場は、互助会が提供し、サポートしていくべきだと思います。それが社会的責任を果たすことにつながり、互助会が地域に認められる存在であるためにも重要なことだと考えています。そのために、柴山社長の遺志を継ぎ、必ずや互助会業界にグリーフケアを浸透させてまいります。

f:id:shins2m:20200124133148j:plain柴山社長の遺志を継ぎます!

 

2020年3月26日 一条真也

NO!3密・NO!3権

一条真也です。
25日夜、東京都の小池百合子知事は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて緊急記者会見を開き、「オーバーシュートが懸念される重要な局面。平日は職種にもよるが仕事はできるだけ自宅で、夜間外出も控えてほしい。また、今週末は急がない外出はぜひとも控えてほしい」と呼びかけました。

f:id:shins2m:20200326151638j:plainヤフーニュースより 

 

また、1日に発表する感染者の数としては最多の41人が新たに感染したことに触れた小池都知事は「NO!3密(換気の悪い密閉空間、多くの人の密集する場所、近距離での密接な会話)を要請。オーバーシュートを防ぐためには都民のみなさんの協力が不可欠。意識を持って行動するようお願いする」と訴えました。

 

すでに世界の主要都市で首都封鎖(ロックダウン)が行われていますが、いよいよ日本でも現実化してきました。その後、東京都に隣接する神奈川県、千葉県、埼玉県も都への外出自粛要請を行う方針との報道がありました。まさに、リアル「翔んで埼玉」ではありませんか! 東京には2人の娘が住んでいるので、わたしも心配です。それにしても、東京五輪の延期が決定した途端に、この事態です。26日には1日の最多記録を更新する47人の感染者が出ていますし、多くの都民いや国民が不信感を抱いています。



鳩山由紀夫元首相が自身のツイッターを更新しましたが、「小池都知事が週末外出自粛の要請をされた。東京五輪の実現のために感染者の数を少なく見せ、東京はコロナを抑えている如く厳しい要請を避けて来られたが、延期と決まった矢先にこのパフォーマンスだ。その間にコロナは広がってしまった。あなたは都民ファーストよりオリンピックファーストだったのだ」とツイートしました。
作家でコメンテーターの室井佑月さんは、今回の小池知事の要請に「自粛しろって言われれば、できる限りそうしますけど」とした上で「五輪が延期になったら、こういう感じで小池さんって都知事とか国も? 安倍さんもそうですけど私達の命と五輪を天秤にかけていたところがあるんじゃないかなというのが率直な感想です」と指摘しました。

 

東京五輪延期となって以降に増え続ける都内の感染者、未だに1%程度のPCR検査など、たしかに東京都いや日本政府は「オリンピックファースト」「命と五輪を天秤にかけていた」と言われても仕方がありません。そもそも、あれだけ大量の中国人観光客でにぎわっていた銀座や新宿から感染者が出ていないのが不思議でなりません。もちろん、密室・密閉・密接な環境を避ける「NO!3密」は大切ですが、それとともに、利権・金権・政権よりも国民ファーストということで、わたしは「NO!3権」を訴えたいです。

一般に「三権」といえば、「三権分立」で有名な国会(立法)、内閣(行政)、裁判所(司法)ですが、あくまでは主権は国民です! 安全で安心な国民生活が利権・金権・政権などの都合で脅かされることは絶対に許されません。ということで、わたしは「NO!3権」を提唱したいと思います。
「NO!3権」、拡散希望です。
よろしくお願いいたします!

 

2020年3月26日 一条真也