一条真也です。
『内田樹による内田樹』内田樹著(140B)を読みました。
非常にシンプルな装丁の本ですが、帯には「『ためらいの倫理学』『下流志向』『日本辺境論』など、自らの重要11著作を語る」「なぜウチダは、これらの本を書いたのか?」「内田樹の初の自著解説!」と書かれています。
そう、本書は著者による自作自註集なのです。つまり、自分の書いた本、翻訳した本について、本人があれこれと解説をしているのです。
本書には13冊の本が取り上げられていますが、その書名と著者によるキャッチフレーズ(内容の要約にもなっています)は以下の通りです。
『ためらいの倫理学』
「正しさ」や「倫理」を語るための「語り口」とは。
親密圏のようなイデオロギーによって
人間の共同体を構築することはできません。
『レヴィナス序説』
食うこと、飲むこと、寝ること、服を着ること、
そういう身体のリアリティから
レヴィナスの他者論は出発する。
『困難な自由』
成熟の意味を真剣に問うようになったとき、
レヴィナスの書く物が「成熟せよ」という
叱咤の言葉に満ちあふれていたことに気づいた。
『レヴィナスと愛の現象学』
誰かが自分に代わってこの世界を
善きものとしてくれることはない。
これがレヴィナスの基本的立場です。
『街場のアメリカ論』『街場の中国論』『日本辺境論』
日本人が、絶えずそこから
目を逸らしている問題を主題化すること。
そこに素人のアドバンテージがある。
『昭和のエートス』『「おじさん」的思考』
父たちが「沈黙」によって遺贈したメッセージは、
言葉に置き換えられないがゆえに、
新しい言葉を生成せずにはおかない。
『下流志向』
「消費者」として合理的に
ふるまった結果、
子どもたちが学びから遠ざかってしまった。
著者には、100冊を超える著書・訳書があります。
本書の「まえがき」で、著者は次のように述べています。
「この業界では『自分で書かないで』本を出す人がけっこういます。『語り下ろし』とか、たぶんそうだと思います。マイクを前にしてしゃべったことをライターがまとめて、本人が少しリタッチして出来上がり。僕はそれが『悪い』と言っているんじゃないんです。コンテンツは紛れもなくその人のものなんですから。読者が具体的な知識や情報を手に入れたくて、『文体なんかはっきり言ってどうでもいいよ。本人が書くより、ライターがリライトしたものの方がリーダブルならそれでいいじゃないか』と思うなら、それでいい。でも、僕はそういう考え方をしない」
続いて、著者は以下のように非常に重要なことを述べています。
「それは人間がほんとうに言いたいことは、『書かれたこと』じゃなくて『書き方』に出ると思っているからです。メッセージは細部に宿る。僕が『指紋』と言ったのはそのことです。隠された欲望が副詞1つに露出するというようなことって、ものを書いているとよくあるんです。だから、他人にリライトしてもらったら、そこに露出するのは、しばしばリライトした人自身の欲望や臆断なんです。それを『僕のもの』と誤解されるかたちで世に出すことはできません。犯行現場に他人の指紋を残すようなものですから」
著者もわたしも本業は違いますが、ともに「書く」という行為に関わっている点では同じです。まあ、本の売れ方は違いますけどね。(苦笑)本書の中には、同じ「物書き」として考えさせられたり、参考になった部分がたくさんありました。
たとえば『ためらいの倫理学』は著者の「物書き」としてのデビュー作ですが、だいたい40代の終わりに書かれたものが中心だそうです(著者のデビューは、かなり遅かったのです。同書を著者本人が今読み返すと「若書き」だと感じるとか。「若書き」というのは、文章が肩肘張っているということで、著者は大学の研究者仲間の視線を意識した「格好をつけた文章」になっていると自己分析します。
この「格好をつけた文章」について、著者は次のように述べています。
「僕の場合は、カジュアルな文章を書き出すと歯止めが効かないというところもあるので、『一応学術論文らしく書く』という程度の縛りはかえってあった方がよかったのかも知れません。というのは、制約があると、ふだんは使わない言語資源が動員されるからです。手足を縛られて『泳げ』と言われたら、ふだんは使わない身体部位を使って泳ぐしかない。それと同じです。学術論文を書くという『エクササイズ』は僕にとっては言語資源を富裕化するという点ではとてもよい経験だったと思います」
著者は、副業として「物書き」をしています。
その意味を述べた以下の部分も共感することができました。
「僕の場合は大学の教師という本業があって、物書きは副業です。副業として物書きをしていることの最大の利点は『生計のために妥協する』ということをしなくてよいということです。書きたいように書かせて頂く。『そんなものは読みたくない』と言われても、僕は気にしない。僕は『そんなもの』を読みたいという読者のために書いているわけですから」
ここで、著者は「生計のために妥協する」ということは「自分以外」の人間になるということであるとして、次のように述べます。
「伊丹十三がエッセイでこんなことを書いていました。取材を受けたとき、カメラマンがポートレイトを撮るために、伊丹十三に帽子を脱いで、サングラスをはずしてもらえないかと注文しました。すると伊丹十三はこう言ったそうです。
そうしろと言うなら、そうしてもいい。でも、私はこういう帽子をかぶって、こういうサングラスをかけている人間であり、そういう人間であることでこれまで飯を食ってきた。あなたはそれを止めろという。よろしい、止めよう。ではその代わりに、私と私の家族をこのあと一生養って欲しい。
僕は伊丹十三のこの言葉を忘れたことがありません」
本書に取り上げられている本の中で、最も共感したのが『先生はえらい』の自著解説でした。冒頭で、著者は次のように書いています。
「『先生はえらい』は、僕にとって転換点となった一冊です。
この本は『一気書き』しました。夏休みの間に、たぶん1週間ぐらいで書き上げたように記憶しています。一気に書いたものというのは、勢いがありますね。わかりにくい話をしていても、書いている方のドライブ感に乗せられて、読む方もあれよあれよと言っているうちに一気に読んでしまう」
この「わかりにくい話」についての以下のくだりは非常に納得しました。
「わかりにくい話をするときは、ときどき読者に向かって、『こんな話、わからないですよね?』と苦笑いしてみせることが必要です。そして、『だいじょうぶです。もうちょっと先まで読むとわかりますから』と声かけをする必要があるんです。
『わかりにくい話をしている』ということを書いている本人も自覚しているということが伝わると、読者もちょっとだけ安心できる。ああ、そうなのか。話がわからないのは自分の理解力が低いからじゃなくて、書いている本人が謝っているくらいにわかりにくい話だからだ。それがわかると読み続ける気になる。この話が『わかりにくい話』であるという読者サイドの判断が適切であるということを書き手自身が保証してくれたからです。つまり、このとき書き手と読者はとりあえずひとつの知的なプラットフォームを共有している。そう思えると、読めちゃうんです」
『先生はえらい』という本のコンセプト自体にも感心しました。
この秀逸なタイトルの本について、著者は次のように述べています。
「『先生はえらい』という言葉は日本の80万人教員にとって旱天の慈雨のようなものであろうから、これは売れますよ、と冗談まじりに担当編集者に話したことを覚えています。それが冗談にならないくらいに、教育現場を支援する言説は地を払っておりました。僕のまわりの大学の先生たちの中にも『高校は何を教えているんだ』と不平不満を言う人はいましたが、中高の教育現場をどう支援したらいいのかということを真剣に考えている人はほとんどいませんでした」
続けて、著者は『先生はえらい』というタイトルに込めた思いを語ります。
「でも、教育というのは人間がやる仕事です。生身の子どもを相手にして、生身の先生たちがする仕事です。『教育改革』『教育再生』と口でいうのは簡単だけれど、その『改革』を実現するのは、当の先生たちしかいないのです。
『お前たちはダメだ』と教師に向かって罵倒の言葉を投げつけておいて、『ついては教育改革をするように』と要求するというのは無理です。だって、教育改革を担う主体は『ダメ』の烙印を押された当の教員たちしかいないんですから」
著者は、現場の教員たちを批判する風潮について、次のように喝破します。
「今の日本の政治家やオピニオンリーダーを見ていると、彼らはたぶんほんとうの『戦場』ではぜんぜん使いものにならないだろうと思います。指揮官が自分の部下を『弱兵ばかりだ』と罵倒して、『こんな戦力では戦えない。精兵を連れてこい』と不平をならしても、戦況が好転するはずがない。前線では兵士も火器も手元にあるものだけで戦うしかありません。手兵がわずかで戦闘力が低いなら、彼らの欠点を微に入り細を穿って意地悪く数え上げるよりも、彼らのパフォーマンスを上げるためには、どうすればいいのかを僕なら考えます。
100の能力を150にする方法を考える方がいい。長く教える仕事をしてきて経験的に言えるのは、人間の能力のひろびろとした発現を阻害している要因が2つあるということです。それは恐怖と自己評価の低さです」
この「恐怖と自己評価の低さが能力の発現を妨げる」というのはマネジメントの核心でもあり、まったく同感ですね。
そして、著者は今の日本の教育危機の理由について以下のように述べます。
「教育危機の原因は、世上言われるように、教師に教科についての知識が不足しているからでも、教育技術が拙劣だからでも、専門職大学院を出ていないからでもありません。そうではなくて、教師たち自身が教育を信じるのを止めてしまったからです。『学校がなければならない』ということについての教師たち自身の確信が揺らいでいるからです」
他には、『レヴィナス序説』の自著解説が興味深かったです。
レヴィナスといえばユダヤ教について考え続けた人ですが、ユダヤ教は一神教です。一神教は族長アブラムが主の声を聴いてアブラハムに改名するところから始まります。著者は、アブラムが「ここ」とは違う周波数のメッセージを聴き取ったのだとして、次のように述べます。
「中学生や高校生の頃に、深夜、ラジオのチューナーをでたらめに回しているときに、はじめて聴くDJの声が飛び込んで来るということがありました。話の文脈はわからないし、出てくる固有名詞も知らないし、どうしてここで笑うのかも何もわからない。でも、惹きつけられるように最後まで聴き続けてしまった。次の週も同じ時間に同じ周波数にチューニングを合わせる。そんなふうにして、深夜放送のヘビーリスナーになったという経験はみんな持っていると思うんです。そのときもやはり『この周波数帯で流れているメッセージは僕を宛て先に想定している』という幻想を抱いた。そういうことってあると思うんです」
著者の場合は大瀧詠一の「Go! Go! ナイアガラ」というラジオ関東の深夜放送を初めて聴いたとき、大瀧詠一が「僕宛てに制作している」と確信したそうです。著者は、このような経験について次のように述べます。
「それは『幻想』や『関係妄想』に類するものだと思うんです。でも、僕たちが自分たちがそこに産み落とされた文化的閉域から踏み出して、『外』に出るためにはどうしたって、そういう種類の強烈な幻想が必要なんです。僕たちはまず『自分宛てのメッセージ』だと何かを『誤認する』。誤認でいいと思うんです。でも、とにかく聴いてしまったので、その音がよりはっきりと聴き取れるように、『ここ』を離れる。『ここ』とは違うところに向けて旅立つ。それが一神教信仰の原点に存在するみぶりだった。それが僕の理解です」
ラジオ放送ではありませんが、わたしも2001年に社長に就任した直後、ドラッカーの遺作『ネクスト・ソサエティ』や孔子の言行録である『論語』を読んだとき、「これは自分のために書かれた本に違いない」と確信したことがあります。
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最後に『下流志向』の自著解説で、著者が記した以下の一文が心に残りました。
「経済活動はもともと人間が社会的成熟の装置として創り出したものです。経済活動に奉仕するために人間が存在するのではありません。逆です。人間が成熟するための装置として経済活動が存在する。この順序はどんなことがあっても取り違えてはならないと思います」
この一文は、日頃から経営者としてわたしが肝に銘じていることでもあり、非常に共感しました。本書『内田樹による内田樹』は、著者自身が自著を解説しているわけですから、本当に選び抜かれた言葉だけが並び、著者の思想を知る上での格好の入門書となっています。
わたしも、当ブログで自著解説を試みたいと思いました。
*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。
2014年1月18日 一条真也拝