『書評の星座』

書評の星座 吉田豪の格闘技本メッタ斬り 2005-2019

 

一条真也です。
東京から北九州に戻りました。
『書評の星座』吉田豪著(集英社)を読みました。
吉田豪の格闘技本メッタ斬り2005-2019」というサブタイトルがついており、その通りの内容です。著者は1970年、東京都生まれ。プロ書評家、プロインタビュアー、コラムニスト。編集プロダクションを経て「紙のプロレス」編集部に参加。そこでのインタビュー記事などが評判となり、多方面で執筆を開始。格闘家、プロレスラー、アイドル、芸能人、政治家と、その取材対象は多岐にわたり、「ゴング格闘技」をはじめさまざまな媒体で連載を抱え、テレビ・ラジオ・ネットでも活躍の場を広げています。著書にブログ『吉田豪の空手☆バカー代』で紹介した本をはじめ、『人間コク宝』シリーズ(コアマガジン)、『聞き出す力』『続聞き出す力』(日本文芸社)、『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書店)などがあります。

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本書の帯

 

表紙カバーには本書に登場する格闘技本の表紙画像が使われ、帯には「この一冊でわかる、格闘技『裏面史』!」「『ゴング格闘技』人気連載の待望の書籍化!」「ベストセラーから超マニア本まで名言・迷言揃いの計165冊にプロ書評家・吉田豪が迫る!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、登場する本の書名と著者名が並んでいます。
「★『幸福論』須藤元気★『大山倍達正伝』 小島一志・塚本佳子★『風になれ』鈴木みのる金沢克彦★『蘊蓄好きのための格闘噺』夢枕獏★『ぼくの週プロ青春記』小島和宏★『芦原英幸伝 我が父、その魂』芦原秀典・小島一志★『U.W.F戦史』塩澤幸登★『完本1976年のアントニオ猪木柳澤健★『空手超バカ一代』石井和義★『青春』魔裟斗★『男の瞑想学』前田日明・成瀬雅春★『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか増田俊也★『覚悟の言葉』高田延彦★『平謝り』谷川貞治★『野獣の怒り』ボブ・サップ★『あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っていた筈だ』菊地成孔★『芦原英幸正伝』小島一志・小島大志★『哀しみのぼく。』桜庭和志★『格闘者~前田日明の時代~』塩澤幸登★『真説・長州力 1951-2015』田崎健太★『1984年のUWF』柳澤健★『ストロング本能』青木真也・・・・・・」

 

「はじめに」によれば、本書は2005年から始まった「ゴング格闘技」の書評連載をまとめたものです。「プロ書評家」を名乗る著者ですが、意外にも、書評の本を出すのはこれが初めてだとか。全部で485ページもありますが、面白くて一気に読みました。そして、著者の毒舌ぶりに驚きました。著者は、「とにかく徹底した個人攻撃。プロだと思えない書き手は容赦なく糾弾するし、事実誤認も指摘せずにはいられないし、めんどうくさいことこの上ない。自分がこんな人間だったとは、自分でもすっかり忘れてた! そう、僕は基本的に平和主義者で喧嘩も好きじゃないはずなのに、プロとしてどうかと思う人間に対してだけは昔から厳しかった。おそらく、この仕事を始めたばかりのとき、まだ年齢的にも若くて出版の仕事を初めて数年ってぐらいで、プロレスや格闘技を学習し始めてからも日が浅かったからこそ、自分がそれほど詳しくないジャンルでデタラメなことを書いている年上の人間が許せなかったんだと思う」と書いています。

 

著者が特に厳しく追及している相手は、 “Show”大谷泰顕、小島一志、塩澤幸登といった人々ですが、「ちょっと、ここまで言わなくても」と、読んでいるほうがハラハラするような箇所も多かったです。実際、空手家で作家の小島一志氏、小島大志氏の父子とはトラブルにまで発展しています。おそらく、著者は「闘う書評家」を目指しているのでしょうね。著者が取り上げる本にはムックなども含まれていますが、須藤元気の著書が異様に多く、終盤は青木真也の著者がやけに多い印象です。それは、格闘技というジャンルが冬の時代に突入して、格闘技本がほとんどリリースされなくなったことが原因でしょう。

 

また、著者が「あとがき」に書いているように、「プロレスの暴露系ムックから格闘技的な要素を抜き出したり、やむなく全然知識もないボクシングや相撲の本を紹介したり、堅苦しい学術書やAV監督の自伝、関東連合本にパソナについてやヤクザについてのノンフィクションを紹介したり、新刊がないときは過去の犯罪ノンフィクションを紹介したこともあった。どんな本だって、格闘技の話が載っているのならそれで良し!」と述べています。ただし、連載媒体がプロレス雑誌である「紙のプロレス」から格闘技雑誌である「ゴング格闘技」に替わったことから、ネットなどによれば、プロレスの本を多く取り上げていることが格闘技ファンの不評も買っているようです。

 

本書に登場するすべての書評のリード文の最後には「書評とは名ばかりの引用書評コーナー」と書かれています。これには苦笑しました。じつは、わたしも当ブログで書評を書きますが、やはり「引用書評」が多いです。というのも、わたしは基本的に自分が勉強になった本、 面白いと思った本、感動した本しか取り上げないので、なるべくその本の内容を正確に紹介したいと思うのです。それで、帯のコピーや目次なども必ず紹介しますし、どうしても本文の引用も多くなってきます。もちろん、その本の商品価値を損なわないように細心の注意を払っていますし(というか、版元の回し者みたいに、なんとかこの本を買ってほしいという想いが強いです)、小説などは絶対にネタバレしないように気をつけています。

 

 

というわけで、本書についても引用書評を書きます。本書に掲載されている書評の中でも、わたしは著者のプロレス観が浮き彫りになる文章に心をときめかしたのですが、たとえば『別冊宝島U.W.F.伝説』(宝島社)の書評では、UWFブームの当時を振り返って、著者はこう書いています。
「当時、プロレスラーからは『同じプロレスなのに格闘技ぶりやがって!』と疎まれ、格闘家からは『真剣勝負の振りをして大金を稼ぎやがって!』と疎まれていたUWF。元はと言えば『プロレスラーたるもの、プロレスが八百長呼ばわりされたら怒るべし』だの『プロレスラーたるもの、リングで使わない技術も学んで強さを求めるべし』だのといった新日本プロレスの教えを守ってきただけのことなのに、なぜ疎まれる存在になったのかといえばファンが妄信的過ぎたせいなんじゃないかとボクは思う。『UWFは他のプロレスとは違って真剣勝負だ!』とか『UWFは他の格闘技よりも強い!』とか真顔で言われたら、そりゃあ頭にくるのも当然だろうし」

 

1993年の女子プロレス (双葉文庫)

1993年の女子プロレス (双葉文庫)

  • 作者:柳澤 健
  • 発売日: 2016/05/12
  • メディア: 文庫
 

 

また、『1993年の女子プロレス柳澤健著(双葉社)の書評では、著者は「プロレス」に真正面から対峙し、以下のように述べています。
「プロレスという言葉が何かの比喩で使われる場合、代替『茶番』とか『八百長』的な意味でしかないのが、ボクにはどうにも納得がいかない。プロレスとは本来、もっとややこしいものなのである。筋書きのあるショーのはずなのに強さを求められたり、試合が突然ガチになったりもするし、ただ強いだけでも演技が上手いだけでも駄目な、説明しにくい特殊なジャンル。そういうものの言い換え語として使うべき代物なのだ。たとえば、ボクが『近頃のアイドル界は対抗戦時代のプロレスみたい』と言っているのは、ショーの中に内包されたガチの要素を意味しているのであって、ただの茶番だったらこんなにも熱くなれるわけがない。ただのガチでもただのショーでもない複雑さが面白いわけである」
著者の意見に同感です。短い言葉で、見事にプロレスの本質と魅力を表現していると思います。

 

 

 本書には書籍だけでなく、DVDブックも取り上げられているのですが、『燃えろ!新日本プロレス エクストラ――至高の名勝負コレクション 猪木vsアリ 伝説の異種格闘技戦!』(集英社)の項では、「世紀のビッグマッチ猪木vsアリ戦がDVD化 格闘家も絶対に見るべき!」として、著者は以下のように述べています。
「ボクがモハメド・アリの魅力にやられたのは、猪木vsアリの試合以外の映像を見たときからだった。日本に到着し、羽田空港のロビーに出た瞬間からサービス満点でちゃんと表情を作り、テレビカメラに向かって吠えながら歩いて行ったりと、アリの『プロレスラーでもここまではやらないよ!』感がとにかく異常で、これだけのエンターテイナーがボクシングの世界で頂点に立ったら、そりゃあ人気も出るに決まっている」



 続いて、たまらなくプロレス的なアリについて、著者は以下のように述べています。
「一瞬でもダレた空気になるのが嫌なのか、公開調印式でもエキサイトしまくって、かと思えば女性に日本人形を手渡されれば分かりやすいぐらいにデレデレし、また一瞬で真顔になって猪木に向かっていこうとしたり、猪木が無反応だったら近くにいる新日本軍団(坂口征二木村健吾荒川真ほか)を挑発しに行ったりで全く飽きさせないアリ、アリの高額なファイトマネーを捻出するため、この調印式は参加費5万円のディナーパーティー形式で行なわれ、テレビ朝日の『水曜スペシャル』枠で放送されたんだが、これだけで元が取れるレベル。そもそも調印式がゴールデンタイムにテレビ中継して成立するコンテンツになるのなんて、確実にアリぐらいだと思われる」
この文章からは、アリの魅力がプンプン伝わってきます。



本書で取り上げられるのは、もちろんプロレス本だけではありません。柔道や空手といった武道の本も登場します。たとえば、『秋山か、チュか』朴忘一貯(G・PRESS)の書評では、「通販限定でひっそり売り出された秋山成勲の衝撃ノンフィクション なぜ解説がビッグ錠!?」として、著者は「最近、ボクは柔道で実績を残した格闘家の特徴に気付いた。それは、なぜかみんな空気が読めないということである。古くはルスカ、ヘーシンク、坂口征二辺りに始まり、最近でいえば小川直也吉田秀彦中村和裕瀧本誠と、誰もがプロの世界に馴染めなかったり、もしくはプロという概念を思いっ切り勘違いしたりで、ファンのニーズに応えることができない。そんな‟空気を読めない柔道家”の頂点に立つ男こそが、この秋山成勲なのだ」と述べています。
思わずクスっと笑ってしまいますが、本質を突いていますね。

 

空手超バカ一代 Bunshun Paperbacks

空手超バカ一代 Bunshun Paperbacks

 

 

空手の場合はどうでしょうか。『空手超バカ一代』石井和義著(文藝春秋)の書評では、「世間のニーズを無視して大半が葦原秀幸の弟子時代の苦労話・・・・・・だが抜群に面白かった!」として、芦原会館創始者で‟ケンカ十段”と呼ばれた芦原秀幸とその弟子で正道会館創始者で‟K-1の生みの親”である石井和義について、著者はこう述べます。
「芦原が『石井! 宗教は凄いな、凄い』『目指すは宗教法人だな!』『いいか、理由なんて後で付ければいいんだよ。夜中に観音様のお告げがあったとか、瞑想をしていたら後光が差して菩薩が現れて・・・・・・』とか言い出したとき、『先生、それは瞑想じゃなくて迷走ではないですか』と内心突っ込みながらも『武道と宗教は共通点が多く、よく似ています』と語っているのもポイントで、空手の世界のゴタゴタはほとんどそこが原因になっているじゃないかとボクは常々思っている」

 

続いて、著者は同書から「そもそも経費がかからないのが武道と宗教でありまして、人件費といったって、寺の小僧や空手道場の内弟子の待遇を良くしたのでは修行にならないので、ほとんど無給」という石井館長の言葉を引用し、大山総裁と芦原について、石井館長は『強さとセコさと商魂にかけては、間違いなく空手史に残るこの御両人』とズバリ言い切っているが、それも全ては空手の世界が宗教団体システムを取っているためなのだろう」とまで述べています。これは、ちょっと笑えませんね。柔道以上に空手は本質を衝いています。まあ、極真会館の大山総裁こと大山倍達の武勇伝マンガ『空手バカ一代』の内容からもよく分かるように、空手も宗教もファンタジーの世界に通じているのでしょう。

 

最後に、正直言って、本書『書評の星座』が刊行されたとき、わたしの胸はざわつきました。というのも、わたし自身がこういう本を書きたかったからです。わたしは、ここ20年ぐらいの間に刊行された格闘技やプロレスに関する主な本はすべて読んでいます。本書の「はじめに」の最後に、吉田豪氏が「ハッキリ言えるのは、格闘技関係者でもこれだけの本をちゃんと読み続けている人は確実に存在しないはず」と書かれていますが、わたしは格闘技関係者ではありませんが、ここに紹介されている以上の冊数の格闘技本を読み続けています。どうも、すみません。ただし、本書に異常なまでに多く登場する須藤元気とか青木真也の本は読んでいません。基本的に、ヘビー級あるいは無差別級のアスリートやプロレスラーにしか関心がないのです。これも、すみません。あと、女子の格闘技&プロレスにも興味ない。何度も、すみません。

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一条真也の読書館」の「プロレス・格闘技・武道

 

わたしが読んできた格闘技やプロレスの本は、ブログで取り上げた後、書評サイトである「一条真也の読書館」の「プロレス・格闘技・武道」のコーナーに保存しています。現時点ですでに103冊をカウントしていますが、まだブログにUPしていないストック記事が10冊分以上あります。これらをまとめて『闘うブックガイド』という本を上梓するのが夢であります。でも、「格闘技・プロレス関連書の紹介本なんて需要もないし、誰も読まないだろうなあ」と諦めていたところ、本書『書評の星座』が出版されたことを知り、大いに驚きました。1人の読者として「こんな本を待っていた!」と非常に嬉しく思うとともに、1人の作家としては「自分もこんな本を出したい!」という強烈なジェラシーを感じてしまいます。このブログを読んだ出版関係者の方がおられましたら、『闘うブックガイド』の出版を御検討いただきますよう、何卒よろしくお願いいたします!

 

書評の星座 吉田豪の格闘技本メッタ斬り 2005-2019

書評の星座 吉田豪の格闘技本メッタ斬り 2005-2019

  • 作者:吉田 豪
  • 発売日: 2020/02/26
  • メディア: 単行本
 

 

2020年3月19日 一条真也

呪われたオリンピック

一条真也です。 
麻生太郎副総理兼財務相の「呪われたオリンピック」発言には唸りました。新型コロナウイルスの感染拡大で東京五輪開催への懸念が高まる中、18日に開かれた参院財政金融委員会で、麻生氏は国民民主党古賀之士氏への答弁の中で、今年7月から開催が予定されている東京五輪を「呪われたオリンピック」と表現し、「40年ごとに問題が起きた」と自説を展開したのです。

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「ヤフー・ニュース」より

 

麻生氏は、麻生氏はオリンピックについて「40年ごとに問題が起きたんだ。事実でしょうが」と述べた。1940年の開催都市は、夏季大会が東京、冬季大会は札幌が予定されていたが、日中戦争の拡大で返上に追い込まれた。80年のモスクワ五輪ソ連(当時)のアフガニスタン侵攻に抗議し米国や日本などの西側諸国がボイコットした」と、歴史的事実を紹介し、東京五輪を「呪われたオリンピック」だと表現しました。その上で、今年の五輪について「(感染拡大が)日本だけ良くなったからといって、他の国で参加する人がいなくなったらできない」とも語りました。これまで数々の失言で騒動を起こしてきた麻生氏ですが、この「呪われたオリンピック」発言はナイスだと思います。

 

麻生氏の「呪われたオリンピック」発言について、新聞などには「開催に向けて準備を進める競技者や関係者の気持ちを傷つける可能性があり、不適切な発言と批判も出そうだ」と批判的に書かれています。しかし、この発言を評価する人もいます。たとえば、高須クリニック高須克弥院長が自身のツイッターを更新し、「麻生財務相に対する言葉狩りはやめましょう」とツイートし、「飾らない本音を語る政治家は国の宝だと思います。応援します」とつぶやきました。同感ですね。これは失言でなく名言です。

 

 

それにしても、よく、このような40年周期説を思いついたものです。麻生氏自身が発見したとしたら、物凄いことです。誰かが教えたとしたら、そんなオカルト・アドバイザーがいるというのも凄い。まるでオカルト雑誌「ムー」が特集しそうなテーマです。ちょうど、『日本のオカルト150年史』秋山眞人、布施泰和著(河出書房新社)という本を読んだばかりなのですが、同書に登場する出口王仁三郎とか五島勉といった人々にも通じるオカルト言語センスだと思います。わたしも麻生氏には何度もお会いしていますが、頭の回転が速く、話術の巧みな方だと、いつも感心しています。その氏の過去の全発言の中でも、今回の「呪われたオリンピック」は最高傑作です!



しかし、いよいよ東京五輪の開催が危機的になってきましたね。IOCやJOCは日本国政府は相変わらず予定通りの強行開催を叫んでいますが、海外の五輪関係者やアスリートからは批判の声が続々とあがっています。17日、スペイン五輪委員会のブランコ会長は、東京五輪の延期を求める見解を示しました。今夏に開催すれば、新型コロナウイルスの感染が拡大するスペインでは選手が十分に練習できず、不平等だというのです。また、2016年リオデジャネイロ五輪陸上女子棒高跳び金メダリストのエカテリニ・ステファニディ(ギリシャ)は、ツイッターで「IOCは練習を続けさせることで私たちや家族の健康、公衆衛生を危険にさらしたいの?」と怒りをにじませました。

 

フランス全土では不要不急の外出が禁止され、欧州を中心に他国からの入国制限が広がってきました。世界中が緊迫した空気に包まれる中、多くの利権が絡む五輪は7月24日開幕を目指して突き進もうとしています。しかしながら、日本国民の間では東京五輪を延期するか中止すべきだという声が高まっています。14日、「スポーツ報知」が500人を対象に実施した世論調査結果によると、7月24日に開幕する東京五輪を延期すべきだという回答が61.4%(307人)、中止すべきが19.4%(97人)で全体の80.8%が延期か中止すべきだと答えました。予定通り開催すべきだと答えた人は19.2%(96人)に過ぎませんでした。こうなったら、予定通りの開催は無理でしょう。というか、呪われているのですから、開催できなくて当然?

 

2020年3月18日 一条真也

妖怪アマビエ

一条真也です。
新型コロナウイルスに関して、興味深いムーブメントが起きています。「アマビエ」という妖怪です。江戸時代に熊本(当時は肥後の国)の海に現れたという半魚人のような妖怪なのですが、「疫病が流行したら自分の姿を絵に描いて広めなさい」といい残して海の中に消えたといいます。

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江戸時代に描かれたアマビエ

 

今、なぜ注目が集まっているかというと、うろこのある体に長い髪の毛とくちばしの姿を描いて見せることで妖怪「アマビエ」が疫病から人間を守ってくれるという言い伝えがあるのです。SNSでは、「アマビエチャレンジ」や「アマビエ祭り」というキーワードで、タレントの原田龍二氏をはじめとして、多くの人々が自作のアマビエを披露しています。描くだけでは物足らず、彫刻したり、アマビエのラテアート。布でアクセサリーを作ったり、小さいミニチュアに挑戦する人や、自らアマビエのコスプレをするという人も登場しています。

 

妖怪談義 (講談社学術文庫)

妖怪談義 (講談社学術文庫)

  • 作者:柳田 國男
  • 発売日: 1977/04/07
  • メディア: 文庫
 

 

つくづく、日本人は妖怪好きな民族なのだなと思います。妖怪アマビエは、困ったときには「尋常ならざる畏きモノ」にすがる日本人の心性と、それらとの距離感を示した好例だと思います。日本民俗学創始者である柳田国男は、著書『妖怪談義』において、「我々の畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと、結合することになったでしょうか」といった問題意識から、さまざまな「妖怪」の正体を明らかにしていきます。そして、柳田は「妖怪とは神の零落した姿」と主張します。この新型コロナウイルスによる病禍がうまく収まれば、アマビエは信仰を得て、「妖怪」から「神」へと変わるかもしれません。そうした日本人の信仰の点からも、興味深い話だと思います。



2020年3月18日 一条真也

短所が幸いして成功できた(松下幸之助)

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一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。今回の名言は、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助の言葉です。彼は、「長所や短所というものは絶対的なものではない。学問がある、また身体も頑健である、これは常識的に考えれば長所と考えられる。しかし、それを過信して失敗すれば、結果として短所となってします。学問がない、体が弱い、これも常識的には短所と考えられている。けれども、私の場合にはそのことが幸いして、成功できた。とすれば、それはむしろ長所であったと言えなくもない。悩みに負けてしまわず、自分なりの新しい見方、解釈を見出して、その悩みを乗り越えていくことが大切である」という言葉を残しています。

 

道をひらく

道をひらく

 

時代の激動期に企業や組織を対応させていく場合、その改善・改革に3つの型があります。すなわち、古い経営方法の破壊、新しい経営方法の創造、すぐれた経営方法の維持の3つです。これらの組み合わせで、そのときどきの社会のニーズに合った企業運営が行われます。そして、戦国時代の武将の組織や管理方法をこれに当てはめてみると、古い経営方法の破壊は織田信長型、新しい経営方法の創造は豊臣秀吉型、すぐれた経営方法の維持は徳川家康型となるでしょう。

 

もちろん3人はそれぞれ、3つのいずれの方法も展開した名リーダーですが、そのなかでも際立っていたのが、信長は破壊、秀吉は建設、家康は維持管理の部分です。このなかで最も重要なのは、やはり新事業の建設です。秀吉は、この建設の主力を現場の人々に置きました。そのために現場の人間のやる気を高めることに努力を惜しみませんでした。特に「気配り」には抜群のエネルギーを注ぎ、大きな効果をあげたのです。

 

秀吉自身が貧しい農家の出身であり、子どものときから大変な苦労をしました。完全に社会的な弱者でした。自分が苦労した弱者でしたから、弱者の苦労がよくわかるのです。どこを押せば他人が痛がり、あるいは喜ぶかを熟知した稀代の「人間通」でした。その人間通は、司馬遼太郎をして「人間界の奇跡」と言わしめた成功者となったのでした。信長に小便までかけられた一介の草履取りが、ついには天下人にまで上りつめたのです。

 

秀吉と並ぶ「人間界の奇跡」こそ、一代で世界の松下電器をつくり上げた松下幸之助です。世界的な企業の創業者は他にもいますが、彼はとにかく度外れた社会的弱者でした。それまでは素封家だったが、小学4年生のときに父親が米相場に手を出して失敗、10人いた家族は離散し、極貧ゆえに次々に死んでゆきました。とにかく貧乏で、病気がちで、小学校さえ中退しました。この「金ない、健康にめぐまれない、学歴ない」の三ない人間が巨大な成功を収めることができたのは、自分の「弱さからの出発」という境遇をはっきりと見つめ、容認したからではないでしょうか。

 

貧乏なゆえに商売に励んだ。体が弱いゆえに世界的にも早く事業部制を導入した。学歴がないゆえに誰にでも何でも尋ねて衆知を集めた。彼は、自分の弱さを認識し、その弱さに徹したところから近代日本における最大の成功者となったのです。「強みを生かせ」と強調したのはドラッカーですが、松下幸之助こそは「弱みを生かせ」というテーマをを自身に銘じ、それを見事に果たしたのです。偉大なり、松下幸之助。彼こそは、弱みを生かしに生かした人でした。なお、今回のエピソードは、『孔子とドラッカー新装版』(三五館)にも登場します。

 

 

 2020年3月18日 一条真也

東京にて

一条真也です。
「彼岸の入り」となった昨日、東京に来ました。
昨夜はどこにも出かけず、ホテルの部屋で弁当を食べました。その後は次回作の校正作業をしたり、読書をしたりして静かに過ごしました。

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富士山が見えました

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新国立競技場が見えました

 

今回、事情があって現在の常宿には泊まらず、以前の常宿に泊まったのですが、朝、客室の窓から富士山が見えました。ブログ「富士山さえあれば・・・」にも書いたように、わたしは富士山を見ると元気になります。そして、富士山の右横には新国立競技場の姿も見えました。連日、東京オリンピックの開催の危機が叫ばれています。大会組織委員会では1年延期を検討しているようですが、昨日は安倍首相が「完全な形で実現することについてのG7の合意を得た」と発言しています。アメリカやヨーロッパの状況を見ると、とても無理だと思いますが・・・・・・。

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左に富士山、右に新国立競技場・・・

 

新型コロナウイルスはあいかわらずの猛威を奮っています。15日、中国以外の感染者数が中国国内を初めて逆転しました。イタリアなど欧州を中心に140カ国・地域以上に感染が拡大し、中国以外が全体の5割を超えたのです。世界保健機関(WHO)は流行のピークを予測するのは不可能としており、人々の暮らしや経済の混乱が長引く恐れがあります。このニュースに触れたとき、わたしは中国という巨大な国が1つの国家であることに改めて驚きをおぼえました。

 

古代中国の春秋・戦国時代、それが当時の全世界でした。秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓、すなわち「戦国の七雄」がそのまま続いていれば、その世界は7つほどの国に分かれ、ヨーロッパのような形で現在に至ったことでしょう。当然ながらそれぞれの国で言葉も違ったはずです。そうならなかったのは、秦の始皇帝が天下を統一したからでした。その意味で、始皇帝は中国そのものの生みの親なのですが、中国だけでヨーロッパに対抗できるほどのスケールを保っていることは奇跡的だと言えるでしょう。ヨーロッパといえば、新型コロナの感染拡大のためにEU圏内で鎖国している状況には違和感をおぼえますね。

 

 日本はどうか。国内の新型コロナウイルス感染者の発症日を調べると、政府の専門家会議が「1~2週間が急速な拡大か終息かの瀬戸際だ」と警鐘を鳴らした2月24日以降、爆発的な感染拡大は起きていませんが、ピーク越えとは言えない状況が続いています。しかし、国民が検査を受けることができていないわけですから、本格的に国民が検査をすれば感染者数が一気に激増するのは明らかでしょう。

 

アメリカやヨーロッパでは検査体制を整え、ドライブスルー検査まで登場していますが、日本にその兆しは見えません。その最大の理由は「東京五輪開催のため」ではないでしょうか。開催国として、感染者数が爆発的に増えては困るわけです。しかし、為政者の最大のミッションとは、国民の生命を守ることです。ここは「五輪より国民」を優先して、日本国政府および東京都はすみやかに五輪開催権を自主返上すべきでしょう。五輪中止を決定してしまえば、ある意味で最大の「しがらみ」がなくなりますので、じっくりと検査体制の整備と感染封じ込めに取り組めると思います。

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今朝の朝食メニュー 

 

ということで、今朝は感染防止のためにホテルの朝食会場へは行かず、部屋でささやかな朝食を取ることにします。メニューは、おにぎり(梅しらす)、青汁、特茶です。それを食べたら、西新橋にある一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)を訪れます。そこで全互協の正副会長会議に出席し、山積している業界の諸問題について話し合います。新型コロナウイルス問題は冠婚葬祭業界を直撃していますので、早急に検討しなければならない案件が多いのです。今日は暖かくて気温も20度近く、コートが要らないそうです。それでは、行ってきます!

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昼食は、吉野家の牛丼でした

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生卵をかけて、いただきます!

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ごちそうさまでした!

 

正副会長会議は、さまざまな話題が出て、活発な議論が交わされました。12時を過ぎると、昼食が提供されました。今日は、金森副会長(レクスト社長)のご厚意により、吉野家の牛丼を差し入れていただきました。しかも、生卵と味噌汁付きです。いつもは、東京のいろんな名店の仕出し弁当が出されるのですが、金森会長が「こんな高いだけで不味い弁当より、吉野家の牛丼のほうがいいよ!」と口癖のように言われていましたので、その想いが実現した形です。まだ温かい牛丼はたしかに美味しかったですが、わたし的には生卵はかけない方がいいと思いました。すみません。金森さん、大変ごちそうさまでした!

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夕陽を浴びる新国立競技場(落日の東京五輪?)

 

2020年3月18日 一条真也

すばらしき高野山  

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高野山の松と岩は、いくら見続けていても飽きることがない。高野山の清らかな水の流れは、いつでも心を癒してくれる。(『入山興』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2020年3月18日 一条真也

葬儀は人生の「卒業式」

一条真也です。
17日の「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第22回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは「葬儀は人生の「卒業式」」。

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西日本新聞」2020年3月17日朝刊

 

卒業式のシーズンです。 しかし、新型コロナウイルス感染拡大の不安が日本中を覆っており、卒業式を中止や延期にする動きも相次いでいます。 まことに残念です。卒業式というものは、本当に深い感動を与えてくれます。それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからだと思います。

 

わたしは、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないかと思っています。たとえば、七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式ではないでしょうか。そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのです。

 

結婚式も、やはり卒業式だと思います。なぜ、昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのでしょうか。それは、結婚式とは卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業してゆく娘を愛しく思うからでしょう。

 

そして、葬儀こそは「人生の卒業式」です。最近、わたしはいわゆる「終活」についての講演依頼が非常に増えてきました。お受けする場合、「人生の卒業式入門」というタイトルで講演させていただくようにしています。

 

わたしは「死」とは「人生の卒業」であり、「葬儀」とは「人生の卒業式」であると考えています。日本人はよく、人が亡くなると「不幸があった」などと言いますが、昔から違和感がありました。人の死を「不幸」と表現しているうちは、日本人は幸福になれないと思います。

 

言うまでもないことですが、わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものなのです。

 

わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。そんな馬鹿な話はないと思いませんか?

 

わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。死は不幸な出来事ではなく、人生を卒業することにほかなりません。そして、葬儀とは「人生の卒業式」と言えるでしょう。

 

最期のセレモニーを卒業式ととらえる考え方が広まり、いつか「死」が不幸でなくなる日が来ることを心から願います。葬儀の場面で、卒業式で歌われる「仰げば尊し」の歌詞のように、「今こそ別れめ いざ さらば」と言えたら素敵ではないでしょうか。これからも、わたしは、多くの方々の「人生の卒業式」のお手伝いをさせていただきたいです。

 

2020年3月17日 一条真也