葬儀は人生の「卒業式」

一条真也です。
17日の「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第22回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは「葬儀は人生の「卒業式」」。

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西日本新聞」2020年3月17日朝刊

 

卒業式のシーズンです。 しかし、新型コロナウイルス感染拡大の不安が日本中を覆っており、卒業式を中止や延期にする動きも相次いでいます。 まことに残念です。卒業式というものは、本当に深い感動を与えてくれます。それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからだと思います。

 

わたしは、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないかと思っています。たとえば、七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式ではないでしょうか。そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのです。

 

結婚式も、やはり卒業式だと思います。なぜ、昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのでしょうか。それは、結婚式とは卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業してゆく娘を愛しく思うからでしょう。

 

そして、葬儀こそは「人生の卒業式」です。最近、わたしはいわゆる「終活」についての講演依頼が非常に増えてきました。お受けする場合、「人生の卒業式入門」というタイトルで講演させていただくようにしています。

 

わたしは「死」とは「人生の卒業」であり、「葬儀」とは「人生の卒業式」であると考えています。日本人はよく、人が亡くなると「不幸があった」などと言いますが、昔から違和感がありました。人の死を「不幸」と表現しているうちは、日本人は幸福になれないと思います。

 

言うまでもないことですが、わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものなのです。

 

わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。そんな馬鹿な話はないと思いませんか?

 

わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。死は不幸な出来事ではなく、人生を卒業することにほかなりません。そして、葬儀とは「人生の卒業式」と言えるでしょう。

 

最期のセレモニーを卒業式ととらえる考え方が広まり、いつか「死」が不幸でなくなる日が来ることを心から願います。葬儀の場面で、卒業式で歌われる「仰げば尊し」の歌詞のように、「今こそ別れめ いざ さらば」と言えたら素敵ではないでしょうか。これからも、わたしは、多くの方々の「人生の卒業式」のお手伝いをさせていただきたいです。

 

2020年3月17日 一条真也