富士山さえあれば・・・

一条真也です。
「彼岸の入り」となる17日の朝、恒例の月次祭と天道塾が開かれるはずでした。ところが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、中止になりました。過去に例のない初めての出来事で、世の中が大変な状況になっていることを再確認した次第です。
まさか、「一同礼!」ができない日が来るなんて!

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スターフライヤーの機内で

 

わたしは北九州空港に向かい、スターフライヤーで東京に向かいました。今日は各種の打ち合わせ、明日の午前中に開催される全互協の正副会長会議に参加するためです。コロナ問題は冠婚葬祭業界を直撃していますので、早急に検討しなければならない案件が多いのです。

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ふと窓の外を見ると・・・

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雲の彼方に富士山の姿が!

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なんという神々しさ!

 

機内ではひたすら書類を読んでいました。途中、目が疲れたので、ふと窓の外を見ると、雲の彼方に富士山が見えました。なんという美しさ、なんという荘厳さ、そして、なんという神々しさ・・・・・・久々に見た富士山の姿に、わたしは感動しました。威風堂々、まさに富士は日本一の山です。わたしは富士山を見ると、いつも勇気が湧いてきます。

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富士山さえあれば、日本は大丈夫!


いま、日本社会は混迷をきわめています。新型コロナウイルスの感染拡大にはじまって、各種のイベント自粛、学校の臨時休校、株価の暴落、そして東京オリンピックの開催の危機・・・・・・暗い話題ばかりです。正直言って先行きがまったく見えず、「このまま日本は崩壊するのではないか」と言う人さえ現れています。しかし、わたしは、「富士山さえあれば、日本は大丈夫だ!」と思います。たとえ、東京オリンピックが中止になって大恐慌に襲われても大丈夫です。神々しい富士山の姿を眺めながら、わたしは日本人だけでなく人類が今回の苦難を乗り越えられることを祈念しました。

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関東平野が見えてきました

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東京に到着しました

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羽田空港にて

 

 

2020年3月17日 一条真也

『物語は人生を救うのか』

物語は人生を救うのか (ちくまプリマー新書)

 

 一条真也です。
『物語は人生を救うのか』千野帽子著(ちくまプリマリー新書)を読みました。ブログ『人はなぜ物語を求めるのか』で紹介した本の続編です。わたしたちの人生はままならないものであり、困難を乗り越えるためには物語が必要です。果たして、物語はわたしたちを救ってくれるのかを考える本です。著者はパリ第4大学博士課程修了の文筆家で、公開句会「東京マッハ」司会とのこと。

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本書の帯

 

本書のカバー裏表紙には「世界を解釈し理解するためにストーリーがあった方が、人は幸福だったり、生きやすかったりします。実話とは? そして虚構とは? 偶然と必然って? 私たちの周りにあふれているストーリーとは何でしょう?」と書かれています。また、帯には「人が生きていくうえで、ストーリーからは逃れられません!」とあります。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 人間は派手なできごとが好き?

1 犬が人を噛むか、人が犬を噛むか?

2 珍しいできごとと、けしからぬできごと

第2章 それ、ほんとうの話?

1 ストーリーには、派手なできごとさえあればいいのか?

2 架空の人がピンチに陥っても、笑う気にはならない

3 事実は小説より奇なり?

4 フィクションとノンフィクションの違いは?

第3章 僕たちの人生に必然性はあるのか?

1 人は現実にも必然性を要求してしまうことがある

2 できごとの意味づけ・必然性・因果関係と報告価値

3 僕がこうしたら、まさにそのとき、世界がこうなった

第4章 人生に本筋はあるのか

1 人は話の「本題」「本筋」を自動的に決めている

2 さて、この本の要点は? あなたの人生の教訓は?

第5章 自分の動機を自分は知らない

1 実話における偶然

2 わかったときには、
      「意味のあるストーリー」の形にしている

3 〈心の穴〉はいつできる?

第6章 ライフストーリーの構築戦略

1 脚本のレパートリーにないことが起こると、
       人間はフリーズすることがある

2 ストーリーは、
       特定の立場から見たストーリーにすぎない

3 人に罪悪感を抱かせようとするシステムからは
       すぐに逃げろ

補説 物語とストーリー、そして表現の責任

「日本語で読める読書案内」

「あとがき」

 

「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「人間は不可避的にストーリーを合成してしまう」として、「人間は物語を必要としている、というのは、まるで人間が、自分の外にある日光や水や酸素と同じように、物語を外から摂取することが必要であるかのようなイメージですよね。僕はそれとは違うことを考えています。人間は生きていると、二酸化炭素を作ってしまいます。そして人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。そう思っているのです」

 

続いて、著者は以下のようにも述べています。
「生きていて、なにかを喜んだり楽しんだり、悲しんだり怒ったり、恨んだり羨んだりするのは、その『ストーリー』による意味づけのなせるわざです。『喜んだり楽しんだり』の部分だけを拾って生きることができればいいのですが、なかなかそうはいきません。『苦』とか『生きづらさ』とかを生み出しているのが、ほかでもない『喜んだり楽しんだり』の部分なのですから」
この発言は人間にとっての「ストーリー」の本質を見事に説明していると思います。ここでいう「ストーリー」とはもちろん小説や演劇や映画の筋ではなくて、人間が生きていくための内的な物語のことです。

 

物語は「宗教」と深い関係がありますが、「道徳」とはどうなのでしょうか。第1章「「人間は派手なできごとが好き?」の1「犬が人を噛むか、人が犬を噛むか?」では、「道徳規範、その他の規範からの逸脱」として、著者は以下のように述べています。
「道徳はあくまで感情という形で感じられるものです。理屈が先にあるのではありません。理屈はむしろ後づけです。言い換えると、道徳感情に、進化論でいう適応的な根拠(生物種の形や行動パターンが、周囲の環境下で生きていくのに向いたものになっていると判断できる根拠)がたまたまあったとしても、そういった偶発的事情から独立した『絶対的・客観的に正しい、合理的な』根拠というものは、おそらくありません。ヒトという生物は、道徳感情に反する事例が発生したら、群れでそれを情報としてシェアする必要を感じるようにできあがってきたのではないでしょうか」

 

たとえば、不倫がタブー視されるなどもそうです。共同体の中で他のメンバーの所有物(配偶者を含む)を脅かしたり、共同体内で望ましいとされている家族像から逸脱するような行動をするとスポイルされるのです。著者は、「思いっきり極論しちゃうと、僕らのご先祖は、自分が不利なあつかいを受ける可能性に敏感な(=心配性で僻みっぽい)人たちであったということ。呑気な人たちは子孫を残せず滅んじゃったのではないか。だから僕らのなかの動物的な部分は、心配性で僻みっぽくて、ほっとくと他人の瑕疵についつい気がついて大騒ぎしたがるのではないか。だから犯罪や著名人の醜聞がワイドショウの題材になるのではないか、と思うのです」と述べています。

 

 第2章「それ、ほんとの話?」の4「フィクションとノンフィクションの違いは?」では、著者は「フィクションとは近代的な約定である」として、「現在、僕たちはフィクションをフィクションとして受容しています。少なくとも、身体の文化的な部分では、そのように自覚しています。しかしそもそも、作り話がみずから作り話であることを謳って流通するというフィクションの伝達状況が、人類初期からずっとあったとは思えません。神話とか伝説とかいったものは、いかにファンタジー小説に似ていても、当初は特殊で象徴的な『実話』の一種として流通していたと思われま」と述べます。。

 

 著者いわく、作り話が演劇的パフォーマンス抜きで、みずから作り話であることを謳って流通するという伝達形態は、なんらかの条件を満たした社会・文化のもとにようやく成立するといいます。残された小説の古典から推測するに、1-2世紀のローマ帝国都市部、唐代都市部、アッバース朝バグダード平安京などはその要件を満たしていたと考えられるそうですが、政権交代などがあるとその要件は失われるとか。そして著者は、「現在の僕たちがフィクションをフィクションとして読んでいるのは、ルネサンス以後のヨーロッパの文化条件がグローバル規模に拡大した結果だと言えます」と述べています。

 

愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙

愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2007/07/04
  • メディア: 単行本
 

 

本書は、著者の前作『人はなぜ物語を求めるのか』の「あとがき」の内容をにさらに詳しく述べた印象です。書名の「救う」という単語からグリーフケアのヒントになる部分を期待しましたが、残念ながらそれは得られませんでした。
拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)で、わたしは葬儀という儀式の役割について書きましたが、必然的に物語の本質にも言及しました。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていきます。 

 

親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。まさに、葬儀を行なう最大の意味はここにあります。

 

では、儀式という「かたち」はどのようにできているのか。それは、「ドラマ」や「演劇」にとても似ています。死別によって動揺している人間の心を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。ドラマによって「かたち」が与えられると、心はその「かたち」に収まっていきます。すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。

 

それは、いわば「物語」の力だと言えるでしょう。わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。

 

仏教やキリスト教などの宗教は、大きな物語だと言えるでしょう。「人間が宗教に頼るのは、安心して死にたいからだ」と断言する人もいますが、たしかに強い信仰心の持ち主にとって、死の不安は小さいでしょう。なかには、宗教を迷信として嫌う人もいます。でも面白いのは、そういった人に限って、幽霊話などを信じるケースが多いことです。宗教が説く「あの世」は信じないけれども、幽霊の存在を信じるというのは、どういうことか。それは結局、人間の正体が肉体を超えた「たましい」であり、死後の世界があると信じることです。宗教とは無関係に、霊魂や死後の世界を信じたいのです。幽霊話にすがりつくとは、そういうことだと思います。

 

儀式の話に戻すと、死者が遠くに離れていくことをどうやって表現するかということが、葬儀の大切なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために、葬儀というものはあるのです。たとえば、日本の葬儀の9割以上を占める仏式葬儀は、「成仏」という物語に支えられてきました。葬儀の癒しとは、物語の癒しなのです。人類が葬儀を発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していたのではないでしょうか。わたしは、本気でそう考えています。

 

あなたの愛する人が亡くなるということは、あなたの住むこの世界の一部が欠けるということです。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、かならず精神の崩壊を招きます。不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことなのです。ですから、本書のタイトルである「物語は人生を救うのか」という問いに対して、わたしは「救える」と答えたいです。

 

物語は人生を救うのか (ちくまプリマー新書)

物語は人生を救うのか (ちくまプリマー新書)

 

 

 2020年3月17日 一条真也

まちがいを改める習慣をつけよう!

一条真也です。
神戸から小倉に戻ってきました。
「月刊リトル・ママ」2020年4月号が刊行されました。朝日新聞社系の「ママと子どもの明日を応援!!」するフリーペーパーで、各幼稚園などに配布されます。わたしは同紙で「一条真也のはじめての論語」というコラムを連載しています。拙著『はじめての「論語」 しあわせに生きる知恵』(三冬社)の内容をベースに、毎月、『論語』の言葉を紹介していきます。

f:id:shins2m:20200316155000j:plain「リトル・ママ」2020年4月号

 

第4回目は「子曰く、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」という言葉を紹介しました。『論語』の衛霊公編に綴られた有名な教えです。孔子はこう言いました。「過ちをおかしたとしても、その過ちに気づいたら、次からは改めればいい。気づいたのに改めようとしないのが、ほんとうの過ちなのですよ」。

 

人は誰でもまちがいをします。完全な人間なんていないからです。まして、小さな子どもだったらなおさらです。親として、子どもがまちがったことをしたらどのように対応するのが良いのでしょうか。一番良いのはどこがまちがっていたのかを落ち着いて見直して、改める手助けをすることです。そして、なんでまちがったのかを子どもと一緒に考えてあげることが大切です。まちがいの原因をきちんと理解してすぐに改めることができれば、それはもうまちがいではありません。

 

まちがったことがわかっていても、適当にごまかしてしまおうとするのが、本当のまちがいなのです。そして、ごまかせばごまかすほど、また、もっと大きなまちがいをするものです。子どもたちがまちがったことをした時には、叱って終わりにせず「なんでこうしちゃったんだろうね、ママと一緒に考えてみよう」と声をかけ、まちがいを改める習慣をつけてみてはいかがでしょうか。

 

はじめての「論語」 しあわせに生きる知恵

はじめての「論語」 しあわせに生きる知恵

  • 作者:一条真也
  • 発売日: 2017/07/07
  • メディア: 単行本
 

 

2020年3月16日 一条真也

「星屑の町」

一条真也です。
神戸の結婚披露宴に出席した後、シネ・リーブル神戸で日本映画「星屑の町」を観ました。日曜日というのに、観客はわたしを含めてなんと2人。でも、北九州では上映されていない作品なので、観ることができて良かったです。主演ののんが、スクリーンの中で輝いていました。映画は面白かったのですが、ラストが最悪で、せっかくの名作が台無し!



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
ラサール石井らによるユニット『星屑の会』の舞台を映画化したドラマ。東北の田舎町を舞台に、地方巡業にやってきたムード歌謡コーラスグループと歌手を夢見る女性との出会いを描く。監督は『トモシビ 銚子電鉄6.4kmの軌跡』などの杉山泰一。コーラスグループの面々を大平サブローラサール石井小宮孝泰、渡辺哲、でんでん、有薗芳記、歌手を目指す女性をのんが演じる」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「元レコード会社社員の山田修(小宮孝泰)がリーダーを務める、市村敏樹(ラサール石井)や天野真吾(大平サブロー)といったクセ者ばかりのコーラスグループ『山田修とハローナイツ』は、ベテラン歌手のキティ岩城(戸田恵子)らと地方巡業を続けていて、山田の故郷である東北の田舎町で公演を行う。ある日、山田の弟・英二(菅原大吉)の息子の幼なじみで、歌手を夢見る愛(のん)という女性がグループに入れてほしいと頼みにくる」

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シネ・リーブル神戸にて

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上映直前の3番シアター

それにしても観客2人というのは、奥菜恵主演のJホラー「弟切草」とブログ「アントラム/史上最も呪われた映画」で紹介した世にも奇妙なオカルト映画を観たとき以来です。そういえば、2本とも観たのは小倉のコロナワールド(!)という商業施設内のコロナシネマ(!!)というシネコンにおいてでした。今回、わたしがシネ・リーブル神戸の3番シアターに入ったとき、もう1人の方と目が合いました。すると相手が会釈をされたので、わたしもペコリと一礼しました。お互いマスクで顔は隠しており、座席も対角線上に離れていたのに、なんなんだこの連帯感は?(笑)



わざわざ神戸にまで出掛けてこの映画を観たのは、もちろん結婚披露宴の帰りだったこともありますが、のんが幾多の試練を超えて、6年ぶりに映画主演を果たしたのに、公開のタイミングが最悪だったことを不憫に思ったからです。のんは長女と同い年ですが、「ここは俺様が、のん推しとなって応援してやるぜ!」と変な義侠心を出したのです。



のんが能年玲奈の名で「あまちゃん」の天野アキを演じたのは2013年ですが、未知の輝きを持った彼女のインパクトは絶大で、それまでオワコンとされていたNHK朝ドラが復活して高視聴率が続きます。わたしは「あまちゃん」をリアルタイムでは観ませんでしたが、後追いしてネットで全話を鑑賞しました。東日本大震災で甚大な被害を受けた東北の被災地を舞台にしていたこともあり、「あまちゃん」というドラマは、多くの日本人にとってのグリーフケアの役割を果たしたのではないかと思います。

 

あまちゃん」では、「じぇじぇ」に代表される彼女の東北弁も魅力でしたが、今回の「星屑の町」でも東北弁が炸裂しています。「あまちゃん」以来のファンにはたまらないでしょうが、実際、「あまちゃん」のアキと「星屑の町」の愛は同一人物ではないかと思うぐらい、その容姿も性格も似ています。そういえばアキもアイドル志望でしたが、愛の歌は素晴らしく、のんの歌唱力を改めて見直した人は多いでしょう。ハローナイツに入るオーデイションで歌った藤圭子の「新宿の女」も良かったし、デビュー後に歌ったピンキーとキラーズの「恋の季節」もキュートでしたが、やっぱり最高なのは「シャボン玉」。一度聴いたら耳を離れません。

 

「田舎娘を演じさせたら天下一品!」と言いたいところですが、愛がハローナイツに入ってデビューするや人気者になるのですが、どんどん綺麗になっていきます。表情さえも大人っぽくなり、妖艶ささえ感じます。「BVLGARI AVRORA AWARDS 2019」のゴールデンカーペットセレモニーに登場した映像を観たときも思いましたが、のんは本当に美しくなりました。広瀬すず浜辺美波といった今どきのかわい子ちゃんがネコ系だとしたら、のんはイヌ系のかわい子ちゃんです(ちなみに、橋本環奈もイヌ系だと思います)。まあ、ネコもイヌもかわいいですけどね(笑)。



それにしても、のんは美声の持ち主です。
あまちゃん」の大ヒットで国民的アイドルとなった彼女は、その後、事務所とのトラブルで苦難の時期を迎えました。改名を経て、彼女がその魅力を再びわたしたちの前に示してくれたのは、その美しく澄んだ声でした。ブログ「この世界の片隅に」で紹介したアニメ映画で主人公すずの声を担当したのです。第40回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞をはじめ、世界各国でも高い評価と根強い支持を受けたこの名作で、悲嘆の淵に立ちながらも明るさを失わないすずの姿は、声優のんのイメージと見事に一致しました。


わたしは「この世界の片隅に」が大好きで、もう何度も観直していますが、グリーフケア映画の最高傑作とさえ思っています。「星屑の町」には戸田恵子も出演しており、歌手のキティを演じています。歌謡ショーの楽屋でキティと愛が人生について語り合う場面があるのですが、なかなか感動的なやりとりでした。それにしても、よく考えたら「アンパンマン」と「すず」が会話しているわけで、すごいことですね!

 

「星屑の町」は、地方回りの売れないムード歌謡コーラスグループ「山田修とハローナイツ」の悲哀を描く舞台「星屑の町」シリーズを映画化したものです。劇作家・演出家の水谷龍二ラサール石井小宮孝泰が「笑ってホロリとする作品」を作ることを目指し、「星屑の会」というユニットを結成しました。平成6年に第1作「星屑の町・山田修とハローナイツ物語」が上演されたのを皮切りに全国各地で作品を上演し、平成28年には第7作目となる「完結編」、さらに平成31年冬にはアンコール上演されました。じつに四半世紀にわたって愛され続けたわけですが、映画版も出演者が高齢化はしているにせよ、なかなか味がありました。



なによりも、昭和歌謡の名曲の数々が流れるのがいいですね。映画にはスナックでカラオケを歌うシーンも登場しますが、ここのところコロナ騒動でずっとカラオケを歌っていないことに気づきました。やはり、好きなときに映画を観れて、好きなときにカラオケを歌える日常が早く戻ってほしいです。そういうわけで映画「星屑の町」を楽しく鑑賞したわたしですが、ラストで愛が選択した新しい生き方はいただけませんでした。わたしが彼女の父親なら絶対に「それは止めておけよ」と言いたくなる選択でしたね。あのラストさえなければ、素晴らしい名作だったのですが・・・・・・。

 

2020年3月16日 一条真也

神戸の結婚披露宴

一条真也です。
15日の日曜日、小倉駅から新幹線のぞみ18号に乗りました。11時54分に、JR新神戸駅には11時54分に到着。そのまま、わたしは(株)平安さんの結婚式場「エスタシオン・デ・神戸」に向かいました。

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会場のエスタシオン・デ・神戸の前で

f:id:shins2m:20200315174752j:plainエスタシオン・デ・神戸にて


披露宴は13時から開始されました。この時期に開かれた結婚披露宴に、全国から多くの方々が集い、新郎新婦を祝福しました。冠婚葬祭互助会業界の仲間もたくさんいました。わたしは、その姿を見て感銘をおぼえました。

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わたしの席のテーブルセッティング

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披露宴会場にて

 

いま、東京オリンピックの開催が不安視されています。関係者は開催強行を考えているようですが、IOCはWHOに判断を委ねました。ここ最近、結婚式などのキャンセルも相次ぎ、冠婚葬祭業界も混乱しています。しかしながら、1件の結婚式はオリンピックよりも重いのではないでしょうか。「オリンピックは平和の祭典」などと言いますが、結婚とは「最高の平和」であり、結婚式こそは「最高の平和のセレモニー」なのです!

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新郎新婦の入場!

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主賓として挨拶する全互協の山下会長

もし結婚式のキャンセルをお考えの方には、延期ならいいですが中止は絶対にやめたほうがいいとお伝えしたいです。後で必ず後悔します。くれぐれも、人生の重大事を放棄してはなりません。結婚式だけではありません。卒業式や入学式も大切なセレモニーです。拙著『儀式論』(弘文堂)でも述べたように、儀式は「こころ」を安定させる「かたち」です。卒業式や入学式や結婚式や葬儀を行わなければ、人間の「こころ」は不安定になるのです。不安定な「こころ」が増えれば、社会は崩壊します。

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披露宴は大盛り上がり!

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両親への花束贈呈のようす


この日、やむをえぬ事情からキャンセルされた方もいましたが、それでも全国から多くの方々が集まり、盛大な結婚披露宴となりました。新郎の御礼の挨拶では、「今回、新型コロナの感染拡大を受けて、結婚式を中止すべきかと悩みましたが、山下会長から『結婚式はやらなあかんよ』と言われ、決心しました。みなさん、本当に大変な時期にお越しいただき、ありがとうございました!」と述べていました。

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赤飯祝い蒸し

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活けオマール海老の香草焼きウニソース

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新たけのこ土佐煮 活アワビ友煮 木の芽味噌敷き

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国産牛フィレ肉のポワレとフォアグラ

 

披露宴の料理も贅を尽くしたものばかりで、とても美味しかったです。最近は、コロナ騒動で家に引きこもり、菜っ葉ばかり食べていましたので、ことさら美味しく感じました。「結婚披露宴とは、ふだん口にできない御馳走を食べられるハレの場なのだ」ということを再確認しました。 久々に業界の仲間たちとも顔を合わせ、語り合うことができました。政府の要請によってイベント自粛が続いていますが、このままでは社会が「個」に分断され、無縁化がさらに進行してしまいます。なんとか1日も早い感染拡大の収束を願います。

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やっぱり、結婚式っていいな!

 

この日の結婚披露宴は大変素晴らしいものでした。
わたしは思わず、「やっぱり結婚式っていいな!」と言ってしまいました。わたしにも2人の娘がいますので、彼女たちの花嫁姿なども想像し、ちょっとセンチメンタルな気分になりました。ご結婚、誠におめでとうございました。末永いお幸せをお祈りいたします。

 

2020年2月15日 一条真也

いざ神戸へ!

一条真也です。
15日の日曜日の朝、小倉駅から新幹線のぞみ18号に乗りました。行き先は神戸です。今日は、同業である互助会経営者の息子さんの結婚披露宴に出席するのです。

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JR小倉駅のホームで

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新幹線のぞみ18号が到着!

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新幹線のぞみ18号の車中で

 

相変わらず、新型コロナウイルスが猛威をふるっていることもあり、新幹線はガラガラで、わたしの車両には他に1人しかいませんでした。これほど空いた新幹線に乗るのは生まれて初めてです。国内でも新型肺炎の感染者が増加する一方ですが、収束の行方が見えません。このままでは、東京オリンピックの開催も厳しいと思います。

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週刊文春」の最新号を読みました

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車内で読書をしました

 

車内ではいつもはコーヒーを飲むのですが、この日はなるべく飲み物も飲まずに、読書をしました。最初に駅の書店で求めた「週刊文春」の最新号を読み、それから『幻影の偽書竹内文献』と竹内巨麿』藤原昭著(河出書房新社)という本を読みました。キリストの足跡を東北に見出し、超国家主義福音書として超古代史の夢を紡いだ『竹内文献』と偽作者・巨麿の実態を描いたノンフィクション。戦時、巨麿に超国家主義の夢を託した、軍人、政財界人、神秘家、宗教家たちの物語が興味深く、赤のボールペンで傍線を引きながら夢中になって読みました。

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車内の空調に関するお知らせが・・・

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常時、空気を入れ換えているそうです

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それでも、マスクは外さず・・・

 

本当は、この騒動の中で新幹線に乗るのは嫌でした。というのも、飛行機と違って新幹線は換気が悪いと聞いていたからです。しかし、今日は車両内の電光掲示板に」「常時、空調装置を作動し、車内の空気と外の空気を入れ換えております」というお知らせが流れていました。それを見て、少しは安心しましたが、もちろんマスクは外しませんでした。

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JR神戸駅に到着!(撮影:武智康行)

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さあ、これから結婚披露宴へ!

 

JR新神戸駅には11時54分に到着。駅のホームで互助会業界のお仲間である(株)ベルモニーの武智康行社長にお会いしました。同じ新幹線に乗っていたようです。そのまま、わたしたちは、(株)平安さんの結婚式場「エスタシオン・デ・神戸」に向かいました。披露宴は13時から開始です。

 

2020年2月15日 一条真也

「ジュディ 虹の彼方に」

一条真也です。
14日に開かれた記者会見で、安倍首相は新型コロナウィルス感染拡大による緊急事態を宣言しませんでした。どうやら、東京五輪の開催を本気で考えているようですね。
その夜、映画「ジュディ 虹の彼方に」を観ました。観客は3人しかいませんでした。もちろん、わたしも含めて全員マスク姿。イタリアのように全店閉鎖になれば、映画館にも行けなくなります。主演のレネー・ゼルウィガーの熱演はもちろん素晴らしかったですが、それ以上に「虹の彼方に」という歌の持つ希望のメッセージに感動しました。パンデミックで不安の中にある全人類への応援歌だと思いました。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『オズの魔法使』『スタア誕生』で知られる女優・歌手のジュディ・ガーランドを、『シカゴ』などのレネー・ゼルウィガーが演じた伝記ドラマ。47歳の若さで亡くなる半年前に行ったロンドン公演に臨むジュディを映し出す。自ら全曲歌い上げたレネーをはじめ、フィン・ウィットロック、ジェシー・バックリーらが共演。監督を『トゥルー・ストーリー』などのルパート・グールドが務める」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
ミュージカル映画のスターだったジュディ・ガーランドレネー・ゼルウィガー)は、遅刻や無断欠勤を重ねた結果、映画のオファーがなくなる。借金が増え続け、巡業ショーで生計を立てる毎日を送っていた彼女は、1968年、子供たちと幸せに暮らすためにイギリスのロンドン公演に全てを懸ける思いで挑む」



 

最初、わたしは、この映画をブログ「ボヘミアン・ラプソディ」ブログ「ホイットニー ~オールウェイズ・ラヴ・ユー~」ブログ「ロケットマン」で紹介した一連の音楽界のスーパースターを描いた伝記映画のハリウッド女優版かと思っていましたが、じつは主人公のジュディは偉大な歌手でもあったので、それらの作品と同じテイストでした。アメリカ人にとってのジュディとは、日本人にとっての美空ひばりのような存在だったような気がします。THE芸能人というか、エンターテインメントの頂点を極めた人物ですね。



それにしてもジュディ・ガーランドを演じたレネー・ゼルウィガーの歌唱力には圧倒されました。この役のためにボイトレを重ねたそうですが、ハリウッドのトップたちは、その才能が演技力だけに留まりません。本当にエンターテインメントの申し子であると感服します。この映画を観ながら、わたしは「エディット・ピアフ愛の讃歌~」(2007年)を思い出しました。「愛の讃歌」「バラ色の人生」など、数々の名曲で世界中を魅了した伝説の歌姫エディット・ピアフの生涯を描く伝記ドラマです。マリオン・コティヤールがピアフを演じましたが、これまた素晴らしい歌唱力でした。



ジュディ・ガーランドアメリカ人にとって特別な存在であるように、エディット・ピアフはフランス人にとって特別な存在です。2人はほぼ同時代人で、ジュディ・ガーランドは1922年生まれで、1969年に亡くなっています。エディット・ピアフは少し年上で1915年生まれ、1963年に亡くなりました。ともに亡くなったのは47歳であり、孤独な死であったことも共通しています。「エディット・ピアフ愛の讃歌~」でマリオン・コティヤールは第80回アカデミー主演女優賞を受賞し、レネー・ゼルウィガーは第92回アカデミー主演女優賞を受賞しています。



ジュディ・ガーランドは子役として出演した「オズの魔法使」(1939年)で大人気を博し、アカデミー子役賞を受賞。 以後、当時の大スターだったミッキー・ルーニーとコンビを組むミュージカルシリーズ、「若草の頃」「ハーヴェイ・ガールズ」、フレッド・アステアと共演する「イースター・パレード」といった娯楽大作で主役をつとめ、国民的な人気俳優としての地位を不動のものとしてゆきます。以後も「スタア誕生」などで抜群の歌唱力を披露しました。1940~50年代のハリウッドを代表する大スターの1人です。



デビュー作である「オズの魔法使」は、昨年で制作80周年を迎えました。ブログ「『1939年映画祭』のお知らせ」で紹介したように、1939年は映画史における奇跡の年でした。西部劇の最高傑作「駅馬車」、ラブロマンスの最高傑作「風と共に去りぬ」、そしてミュージカルおよびファンタジー映画の最高傑作「オズの魔法使い」の3本が誕生したからです。3作品とも、その年のアカデミー賞を受賞しています。そして、それぞれが現代作品にも多大な影響を与え続ける、名作中の名作たちが2019年で製作80周年を迎えました。この3作を愛してやまないわたしは、わが社のコミュニティセンターの施設数が80となったことを機に、「1939年映画祭」を開催することにしたのです。



少しでも映画が好きな人で、「オズの魔法使」を知らない人はいないでしょう。カカシ、ライオン、ブリキの木こり、愛犬のトト、そして主人公であるドロシーが共に旅をする成長物語。大人から子どもまで楽しむことができ、奥行きのあるストーリー展開が魅力です。1939年のアカデミー賞で作品賞を含む5部門にノミネートされ、作曲賞(ハーバート・ストサート)、歌曲賞(「虹の彼方に」)、特別賞(ジュディ・ガーランド)を受賞している童話ミュージカルの代表作です。わたしはこの映画の大ファンで、最初はテレビの洋画劇場で観たのですが、ビデオやDVDなどでもう10回ぐらい鑑賞しています。



オズの魔法使」の主題歌が「虹の彼方に」です。エドガー・イップ・ハーバーグが作詞し、ハロルド・アーレンが作曲しました。ジュディ・ガーランドの歌でサウンドトラック用の録音もされ、彼女がこの曲を歌うシーンの撮影もされましたが、映画の編集段階になって撮影所幹部たちから物言いがつきました。「14歳の少女が歌うには大人びた歌で相応しくない」というのです。それで、「虹の彼方に」の歌唱シーンはカットされかけましたが、映画のプロデューサーであったアーサー・フリードはこの曲が気に入ってカットに猛反対し、葬られかけたこの曲は土壇場で踏み止まったのです。



結果、「虹の彼方に」はアカデミー歌曲賞を受賞して大ヒットしました。歌ったジュディにとっても自らのトレードマーク、テーマソングとも言うべきナンバーとなって、以後の彼女の生涯を通じての持ち歌となったのです。彼女が1961年のカーネギー・ホールでのソロ・コンサートで歌ったライブ・バージョンは、ことに名唱とされています。映画公開後のヒット以来、スタンダード・ナンバーとして世界的に広く親しまれ、数知れぬカバーの対象となってきました。2001年に全米レコード協会等の主催で投票により選定された「20世紀の名曲」(Songs of Century)では堂々の第1位に選ばれています。



そんな順風満帆なハリウッド・デビューを飾ったジュディでしたが、必ずしも幸せな人生を送ったとは言えません。1935年に彼女はメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約しますが、当初採用候補だったディアナ・ダービンとジュディのうち社長のルイス・メイヤーは「ジュディを追い出せ」とプロデューサーのアーサー・フリードに命じました。しかし、ジュディの歌唱力に注目したフリードが指示を無視してジュディと契約を結んだのです。当時13歳のジュディは肥満気味だったため、MGMは契約に「スリムでいること」を含め強制的なダイエットを命じました。体質的に太りやすかった彼女は当時のハリウッドのスタジオでダイエット薬として使用されていた覚醒剤アンフェタミン)を常用するようになります。このへんも、しっかり映画では描かれていました。



その後の彼女の生活は乱れ、自殺未遂事件を起こし、度々薬物治療のための入退院を繰り返します。1954年、ワーナー・ブラザースで撮影された「スタア誕生」で、彼女は久々の映画出演を果たします。この作品は大ヒットし、ジュディはアカデミー主演女優賞にノミネートされました。しかしワーナー・ブラザースは、彼女の撮影中の遅刻や出勤拒否、それに伴う制作費の増大を問題視し、彼女の受賞のための宣伝や根回しを一切行いませんでした。そればかりか、授賞式前に「彼女ではもう二度と映画は撮らない」と宣言したのです。結局、主演女優賞は「喝采」のグレース・ケリーが受賞しました。受賞を逃した失意により、ジュディの私生活は再び荒れはじめ、数度の自殺未遂を起こしています。



1963年はわたしが生まれた年であり、エディット・ピアフが逝去した年でもありますが、その年を最後にジュディは表舞台から姿を消します。1965年にはシドニー・ラフトと離婚しますが、その後も2度結婚しています。生涯で、じつに5回結婚したことになります。そして、1969年6月22日に滞在先のロンドンで、睡眠薬の過剰摂取にてバスルームで死去。自殺とする説もありました。彼女には莫大な収入がありましたが、その大半を浪費してしまっており、埋葬の費用にも事欠いたといいます。長女のライザ・ミネリは、「母はハリウッドが大嫌いだった」「母を殺したのはハリウッドだ」と発言し、ハリウッドではなくニューヨークで葬儀を執り行い、ニューヨーク郊外の墓地にジュディを埋葬しました。その後、2017年になって遺族の意向によりハリウッドへ墓所が移されています。



波瀾万丈の生涯を送ったジュディですが、その人生が不幸だったかというと、わたしはそうは思いません。映画や舞台やショーで、彼女は多くの人々を幸せな気分にしました。そして、何よりも「虹の彼方に」という永遠の名曲を自身のテーマソングにしました。表現者として、これ以上の幸福があるでしょうか。映画の最後に、ロンドンでのステージ上でジュディが「虹の彼方に」を歌えなくなる場面が登場します。それを見て、「人生は思うようには行かない」「人生は想定外の出来事の連続だ」と考えていた人は深く共感し、涙することでしょう。でも、ジュディが「虹の彼方に」を歌えなくなったとき、ロンドンの観客たちが彼女の代わりに合唱するという感動的なシーンが出現するのでした。
アメリカだけではなくイギリスの人々も、いや世界中の人々が「虹の彼方に」を愛していたのです。虹の彼方には素晴らしい国があり、そこには幸せの青い鳥たちが飛び交い、すべての夢がかなう・・・・・・今回、映画で聴き直してみて「この歌は希望の歌だ!」ということを再確認しました。パンデミックに揺れている現在の世界に必要なものは「希望」です。まさに、「虹の彼方に」は人類への応援歌であると思いました。



そう、虹は「希望」のシンボルです。東日本大震災の発生から9年となった3月11日、被災地などでは亡くなった人たちに祈りを捧げる姿が見られました。地元の中学生14人を含む700人以上が犠牲になった宮城県名取市閖上地区では、地震の発生時間にあわせて遺族たちが集まった場に鮮やかな虹が姿を現し、感激の声が上がったそうです。また岩手県大槌町福島市でも、午前6時すぎ、田んぼや海の向こうに虹が見られたといいます。このことをニュースで知ったわたしは、もう猛烈に感動してしまいました。
どうか日本だけでなく、中国、韓国、イラン、イタリア、そしてアメリカ・・・・・・新型コロナウイルスに揺れるすべての国々の空に希望の虹が架かりますように・・・・・・。

 

2020年3月15日 一条真也拝