営業推進部総合朝礼

一条真也です。
2月5日、松柏園ホテルで開催されたサンレー営業推進部の総合朝礼に参加しました。この日も、300人以上が集まりました。熱気ムンムンです!

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入場のようす
f:id:shins2m:20190205105914j:plain営業推進部総合朝礼のようす(一同礼!)

f:id:shins2m:20190205110331j:plain全員で経営理念を唱和

f:id:shins2m:20190205110440j:plain社長訓話を行いました

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重要なメッセージを伝えました

小谷課長による勇壮なふれ太鼓の後、まずは全員で社歌を斉唱し、飯塚営業所の辻所長のリードで経営理念を唱和してから、わたしが登壇して社長訓話を行いました。重要なメッセージを営業員のみなさんに伝えなければいけません。最初に、わたしは「昨年の紅白歌合戦を御覧になりましたか。近年稀に見る素晴らしい紅白でした。サザンオールスターズ北島三郎さんの絡みには感動しました。新時代が来ると、あらゆる古いものが『もう不要では?』と言われます。紅白もきっとその危機感を抱いていたのでしょう。昨年の紅白は、北島三郎の『まつり』とサザンの『勝手にシンドバッド』で盛り上がりましたが、わたしも会社の新年祝賀会でその2曲を歌いました」と述べました。

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平成がもうすぐ終わります!

 

今年は平成の最後の年です。みなさんの人生においても、平成はいろんな出来事があったでしょう。かくいうわたしも平成元年に結婚し、平成5年に長女が生まれ、平成11年に次女が生まれました。そして、平成13年に社長に就任しました。その思い出に溢れる平成があと数ヵ月で終わります。今年の4月30日に今上天皇は退位され、翌5月1日に改元となります。新しい時代の訪れで、あらゆるものが変化することでしょう。今年も多くの方々から年賀状をいただきましたが、文面に「紙の年賀状は今年限りとさせていただきます」というものがたくさんありました。いわゆる「年賀状じまい」です。もう新しい時代が来るのだから、古い習慣は終わりにしよう」という考え方が広まってきています。

f:id:shins2m:20190205124549j:plain新時代に冠婚葬祭は生き残れるか?

 

その「新時代には不要では?」と考えられる可能性のある筆頭は冠婚葬祭かもしれません。バーチャルなIT社会の現在、リアルな冠婚葬祭という営みを否定する輩が必ず出てくるでしょう。世の中、変えてもいいものと変えてはいけないものとがありますが、窮屈なばかりで意味のない礼儀、いわゆる虚礼などは廃れていくのが当然でしょう。平成が終わって新元号となったとき、それらの虚礼は一気に消え去ります。しかしながら、結婚式や葬儀、七五三や成人式などは消えてはならないものです。それらは「こころ」を豊かにする「かたち」だからです。

f:id:shins2m:20190205124425j:plainコップを使って「こころ」と「かたち」を説明

 

人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。ちょうど不安定な水を収めて安定させるコップという「かたち」と同じです。

f:id:shins2m:20190205111536j:plain「こころ」を守る「かたち」を守ろう!

 

人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子どもが成長するとき、子どもが大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどがあります。その不安を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。今年はわれわれにとっても正念場です。ぜひ、サンレーグループ全員の「こころ」を1つにして、儀式という「かたち」を守りましょう!

f:id:shins2m:20190205112146j:plain決意表明のようす

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社長、お聴きくださ~い!

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頼もしく聴きました

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応援団も登場!

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とにかく前向きに・・・

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必ず、やりま~す!

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クラッカーが鳴りました

 

社長訓話の後は、各営業所長およびブロック長による決意表明が行われました。北九州だけで3ブロック・17営業所あるのですが、それぞれに趣向を凝らした決意表明でした。営業所長の音頭に合わせて、営業員さんたちが声を揃えたり、拳を突き出したり、「完達」などと書かれた団扇を振ったり、クラッカーを鳴らしたりしました。まったく、頼もしい限りです。最後は、豊原課長がみんなの決意表明をまとめて手渡してくれました。

f:id:shins2m:20190205124812j:plainみなさんの決意をしっかり受け取りました

f:id:shins2m:20190205124453j:plain決意表明の後で講評を述べました

 

すべての決意表明が終わった後、わたしは「素晴らしい決意表明でした。なによりも明るいのがいい。新体制になって営業推進部が本当に明るくなりましたね。営業に限らず、仕事というのは『嫌だ』『面倒臭い』『やりたくない』などとネガティブに考えると、どんどん悪い方向に転がるものですが、何事も陽にとらえて、前向きに明るくしていれば必ず好転します。みなさんは明るくて素晴らしい! 必ず、やれます!」と講評しました。

f:id:shins2m:20190205114129j:plain和のこえ」を行いました

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拍手の中を退場しました

 

その後は、玉中取締役の音頭で「和のこえ」を行いました。わたしたちは、手をつないで「ガンバロー!」と3回唱和しました。わたしは、「この勢いがあれば、新元号になっても必ず飛躍できる!」と思いました。期待しています!

 

2019年2月5日 一条真也

『最強のナンバー2 坂口征二』

最強のナンバー2 坂口征二

 

一条真也です。
ブログ『猪木流』で紹介した本に続いて、『最強のナンバー2 坂口征二』佐々木英俊著(イースト・プレス)を読みました。坂口征二ファンクラブ「荒鷲」会長である著者は1965年、北海道札幌市生まれ。78年10月、新日本プロレス初観戦時に垣間見た坂口征二の人柄からファンとなる。87年、青山学院大学文学部英米文学科卒業。2004年英国国立レスター大学経営大学院修士課程修了。大学卒業後は、国産洋酒メーカー勤務を経て、98年より外資系ビールメーカーに在籍。マーケティング担当時代、新日本プロレスとのコラボレーションを企画し、試合会場や飲食店などで共同プロモーションを仕掛けました。現在はセールスプランニングマネージャーを務めているとか。

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本書の帯

 

カバー表紙にはリング上で熱いファイトを繰り広げる坂口征二の写真が使われ、帯には「坂口征二 喜寿記念出版」「柔道、プロレス、すべての時代の私が詰まっている」「『世界の荒鷲』初の公認バイオグラフィー」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

また、アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「柔道日本一から、鳴り物入りでプロレス界へ転向。ジャイアント馬場アントニオ猪木とタッグを組んでトップレスラーとなり、新日本プロレスの社長・会長としてプロレス界を支え続けた『世界の荒鷲』のすべて」
坂口征二――この名前は私の格闘技人生そして人生闘争にとって決して欠かせず消せない4文字です。昭和48年、彼が旗揚げ間もない新日本プロレスに入った時から、私はこの4文字の男に支えられてきたのです」アントニオ猪木坂口征二引退記念写真集『黄金の軌跡』より) 

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カバーを取ると「世界の荒鷲」の雄姿が・・・

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

第一章  人生のはじまり

第二章  九州に坂口あり

第三章  柔道日本一への道

第四章  天皇杯とプロレス

第五章  日本プロレスの金の卵

第六章  坂口ブームからビッグ・サカへ

第七章  坂口征二の昭和四七年

第八章  猪木とのドッキング

第九章  自ら選んだナンバー2の道

第一〇章 猪木と会社のために

第一一章 世代交代

第一二章 社長就任

第一三章 荒鷲経営

第一四章 坂口会長

 

「まえがき」の最後に、著者は以下のように書いています。
坂口征二は日本のプロレスを創った力道山ジャイアント馬場アントニオ猪木ら昭和のスーパースターたちの誰もがなしえなかった偉業を達成した唯一のレスラーである。その偉業とは、『プロレス団体に一度も中断することなく籍を置き続けている』ということ。本人がよく使うフレーズだが、『どっぷりとプロレスの世界に浸っている』のだ。
力道山はプロレス生活12年で現役のままこの世を去った。ジャイアント馬場も現役のままプロレス生活39年でこの世を去った。アントニオ猪木新日本プロレスのオーナーの座を2005年11月に降りているので、プロレス生活は45年で一旦終了している。デビュー50周年を迎えたレスラーは複数いるが、日本人のレスラーでプロレス団体に半世紀以上籍を置き続けたのは坂口征二しかないのである」

 

これを読んで、正直わたしは「それのどこが偉業なの?」と思いました。著者は坂口征二ファンクラブ「荒鷲」会長を務めたくらいですから、坂口征二のことが好きで好きでたまらないのでしょう。それで、力道山や馬場や猪木よりも坂口の優れている点を無理矢理見つけたのでしょうか。
しかし、じつは、わたしも坂口征二の大ファンでした。わたしは熱烈な柔道少年でしたので、元柔道日本一である坂口を応援していたのです。現在は「猪木信者」と自認するほどの猪木ファンですが、そうなったのは猪木vsアリ以降です。その前に行われた猪木vsルスカのときは、わたしはルスカを応援しました。要するに、柔道が好きだったのです。当時、梶原一騎原作の『空手バカ一代』が大ヒットして極真空手ブームが巻き起こっていました。そこでは柔道家は空手家の嚙ませ犬的な役割を演じることが多く、わたしは「これ以上、柔道が貶められてはいけない」と思っていました。

 

本書では、柔道時代の坂口について、詳しすぎるくらい詳細に書かれています。福岡県久留米に生まれ、地元の南築高校から明治大学に進学し、明大柔道部に入部した坂口は、東京学生や全日本学生の団体戦で優勝し、東京オリンピック代表の有力候補となりました。なにしろ、無差別級、重量級の代表の座は神永、猪熊、坂口のうち2人が選ばれるところまで来ていたのですから、すごいですね。ちなみに、無差別級では神永が選ばれますが、オランダのアントン・ヘーシンクに敗れて、金メダルを逃がします。重量級は猪熊が選ばれ、見事に金メダルをさ獲得しました。坂口といえば、奈良の天理大学で行われた合宿で張り切りすぎて、高校時代からの古傷の腰を再び故障してしまいました。その結果、戦線離脱を余儀なくされます。

 

この腰のケガがなかったら、果たしてどうなっていたのでしょうか。196センチ、130キロの体格を誇る坂口が無差別級代表に選ばれ、ヘーシンクと決勝で激突したのでしょうか。坂口自身は「神永さんに負けて2位だったからね。神永、猪熊、坂口の3人のなかから重量級と無差別級に2人出すちゅうことだったけど、安心のため、キャリアのある先輩が出ることになった。坂口はまだ若いからというのがあったんだろうね」と語ったとか。著者は、「つまり、腰のケガがあってもなくても、坂口は出ることができなかったということである。その理由はキャリアの差であったというのだ」と述べています。

 

東京オリンピックの柔道無差別級決勝のようすを、著者は以下のように書いています。「神永以外を秒殺してきたヘーシンクは内股などでチャンスを伺う戦法。一方の神永は初戦でポイントを取られた右支え釣り込み足を警戒し、左に行かない動きとなり、試合開始5分はこう着状態となった。しかし、5分過ぎ、ヘーシンク得意の右支え釣り込み足が神永を捕らえ、そこから横四方固めに繋いで一気に抑え込む。もがきにもがいてなんとか抑え込みを解いた神永は、6分過ぎから体落としで攻める。8分半ば過ぎ、神永の左からの内股がヘーシンクにがっちり抱えられ、潰されてしまい、そのまま左の袈裟固めに押え込まれてしまった。9分22秒、ヘーシンクが勝った。場外でタオルを握りしめ応援していた坂口の前で、先輩神永は完敗した」

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ヘーシンクの勝利の瞬間、1人のオランダ人男性が喜びのあまり、畳の上のヘーシンクのもとに駆け寄ろうとしました。そのとき、ヘーシンクは右手をかざして、その男性を制しました。彼は神永を破っただけでなく、本物の武道家であることを世界中に見せたのです。このシーンを観たとき、坂口はヘーシンクの凄さを実感したといいます。敗れた神永は畳を下りて、「征二、次はお前だ。頼んだぞ」と言い、コーチも「征二、次はお前が取れる」と叫んだそうです。坂口はそれぐらいの選手だったのです。日本柔道界にとって最後の希望の星だったのです。その後、坂口は東京五輪の翌年にあたる1965年(昭和40年)の全日本柔道選手権で優勝し、悲願の「柔道日本一」となりました。

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ヘーシンクとは2回対戦しましたが、坂口はいずれも敗れました。ブラジル・リオデジャネイロで開催された第4回世界選手権で坂口に勝利したヘーシンクは重量級で優勝しますが、続く無差別級出場を棄権しました。日本チームには衝撃が走りましたが、ヘーシンクは「私が今大会に参加した目的は、日本のチャンピオンを破ることで、それを果たしたので引退する」と語りました、つまりヘーシンクは坂口に勝ったことに満足して引退したわけですが、日本チームは永遠に打倒ヘーシンクを達成することができなくなったのです。坂口は大きな目標を失ってしまいました。また、変化していく柔道のスタイル、次のメキシコ・オリンピックにおける柔道競技の除外、引退後の社会人生活、さらには会社勤務の片手間にスポーツをやっているという中途半端な状態が性格的に我慢できなかったこともあり、「思いきって好きな格闘技を職業として自分の限界を極めてみたい」と考えるようになりました。

 

そんなとき、彼に日本プロレスから誘いがあったのです。著者は、こう書いています。「当時の日本プロレス力道山亡き後、ジャイアント馬場大木金太郎吉村道明らが中心選手として隆盛を誇っていた。馬場は力道山の後継者としてインターナショナル選手権を保持し、その人気が頂点に達していた時期だった。しかし、アジアタッグ選手権を保持していた吉村道明は大正生まれで当時、41歳。大木金太郎は『いずれは韓国に戻ってプロレス団体を興したい』と語っていた。同年、若手のホープとして次の時代での活躍を期待されていたアントニオ猪木が対談し、競合団体の東京プロレスを立ち上げていたこともあり、当時の日本プロレスでは、馬場の後継者となり、猪木の対抗馬となるネームバリューのある若手レスラーのスカウトに奔走していた」

 

坂口は、もともと大のプロレス好きでした。中学3年の春、祖母の葬儀を抜け出してプロレス観戦に行ったほどでした。明治大学レスリング部出身で先輩のサンダー杉山、同級生のマサ斎藤らもプロレス入りしていたこともあり、本人にとってもプロレスは身近な存在だったのです。その年の末、ジャイアント馬場後楽園ホールでの試合後、六本木のしゃぶしゃぶ店「瀬里奈」で会食がセッティングされ、日本プロレス芳の里代表や馬場、坂口ら5人が参加しました。しゃぶしゃぶを生まれて初めて食べた坂口はその味に魅了されたそうです。結局、5人で100人前をたいらげました。

 

翌日にも坂口は銀座の「スエヒロ」で芳の里から接待を受けており、ステーキを何枚もおかわりして、「こんなうまいものが毎日食べれるんなんて、プロレスラーはいいな」と思ったそうです。本書には、その数十年後、坂口がプロレス入りを考えていた小川直也を六本木の焼肉店に誘い、武藤敬司橋本真也も含めた5人で会食したことも紹介されています。そのときは武藤と橋本がガンガン食べて、5人で焼酎を5、6本飲んだそうです。ちなみに坂口はプロレス界一の酒豪として知られ、焼酎が好きでした。

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

 

 

坂口のプロレス入りに対して家族は反対しませんでしたが、柔道界が猛反対しました。著者は述べます。
「当時、プロレスと柔道の関係は非常に険悪なものであった。プロレス入りを自分自身のことと捉えていた坂口は柔道関係者から予想以上に反対されることとなる。1967(昭和42)年当時、柔道界はプロレス界に対し、強いアレルギーがあった。それはその当時から13年前にさかのぼる。1954年(昭和29年)12月22日の出来事であった。プロレスファンにとってはプロレスの父である力道山木村政彦を破って日本選手権を獲得した日として記憶されているが、柔道家たちにとっては、『木村の前に木村なし、木村の後に木村なし』とうたわれた不世出の柔道家、日本選手権10連覇とまさに昭和最強、いや柔道史上最強ともいわれた木村政彦力道山に敗れ去った日として記憶されているのだ」

 

日本プロレスが坂口をスカウトした背景には、アントニオ猪木の存在がありました。著者は以下のように述べます。
アントニオ猪木坂口征二にとって運命の男である。そもそも、坂口征二日本プロレスにスカウトされたきっかけを作ったのがアントニオ猪木であったと言われている。この時からちょうど1年前の1966(昭和41年)4月、猪木は米国遠征から『第8回ワールドリーグ戦』への凱旋帰国途上のハワイで日本プロレスを退団した豊登に誘われ、新しいプロレス団体である東京プロレスの設立に参加している。同年10月12日、東京・蔵前国技館で行われた東京プロレスの旗揚げ第1戦で猪木はジョニー・バレンタインと歴史に残る名勝負を戦った。成長した猪木の戦いぶりを見た日本プロレス社長の芳の里が『対猪木用』に坂口征二を柔道界からスカウトしたと言われているのがその真相である」

 

柔道とプロレスではまったく違います、柔道の受け身は小さく取りますが、プロレスの受け身は大きく取ります。プロレスラーとなった坂口も最初は大いに戸惑ったようですが、次第に順応していきました。
坂口はどんなプロレスラーになりたいと考えていたのか。「東京スポーツ」1967年3月24日号には、「ワザのうまい人それに悪党でも悪に徹した人の試合は魅力がある。自分はあくまでも正統派として成長したいが、相手によっては悪になることも辞さない。とにかく魅力があって、ゼニのとれるレスラーになりたい。クリーンだが悪党にスイッチのきくレスラーが狙いです」という坂口の発言が紹介されています。

 

具体的な坂口の「憧れ」のレスラーは、フリッツ・フォン・エリックでした。「鉄の爪」の異名を持つ大物レスラーでした。日本プロレスの「アイアンクローシリーズ」に参戦したエリックを坂口は初めて目の当たりにします。そのときの衝撃を坂口は「『将来はエリックみたいになりたい』という目標をもったよね。彼は俺がまだデビュー前に日本に来たことがあるんだよね。馬場さんとやってね、すげえなぁって。アイアンクローでリングの外に引っ張り出してよ。多彩な技を使うわけじゃなく、殴って、蹴飛ばしてアイアンクローね。貫録もあったしね」

 

エリックも坂口と同じく大型レスラー(193センチ、125キロ)でしたが、坂口には独自のプロレス哲学がありました。著者は「長州力がスタン・ハンセンに喰らい続けたラリアットからヒントを得て、リキ・ラリアットをやりだすと、誰もがラリアットをやりはじめた時代であった」と述べてから、坂口の以下の言葉を紹介します。
「技でも流行があるじゃない。みんなこれやるちゅうね。で、俺はそういうのは、あまり好きじゃなかったからね。効く、効かん、ダメージ、うまい、下手は別にしてね。まあ、今じゃ大学のプロレス研究会の連中でも選手よりもうまい技やるんだから、衝撃度とか別にしてね、やれる技はみんなやれるんだよ。やれない技もあるけど」

 

さらに、プロレス技について、坂口はこうも語っています。
「プロレス技もある程度、個性みたいなものがあるから。同じ技ばかりじゃ飽きられるし、かといって俺みたいなものが多彩になんだかんだっていろんな技を使ってしまったら、技が軽くなってしまうし。ヘビー級のレスラーだったら一発必殺の技は1つ2つあれば十分だと思うしね。それこそこの技喰らったら、もう相手は終わりだっちゅう技がね。だから俺がジャンピングニーアタックを使いはじめた頃もね、相手は喉笛つぶしたり、歯が折れたり、それぐらいの勢いでやっていたんだけど、やっぱりそういう点、自分の性格上遠慮がいってしまってね。どうしても七分八分で止める技が多かったよ」

 

この坂口の発言に対して、著者は「当時の坂口はたしかに試合で見せる技が少なかった。しかし、『ヘビー級のレスラーだったら、一発必殺の技は1つ2つあれば十分』という坂口なりのプロレス哲学があったのである」と述べています。
196センチ、130キロという全盛時の坂口の体格は、日本人離れしていました。209センチのジャイアント馬場は坂口よりも背は高かったですが、坂口ほどの体の厚みがありませんでした。大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントと正面からのファイトを挑んだ唯一の日本人レスラーも坂口で、アンドレ相手にいつもトリッキーな戦法を取った猪木と違って、坂口はつねに正々堂々と大巨人に向かっていきました。その迫力は素晴らしかったです。

 

当時、若手選手であった小林邦昭は語ります。
「昔から見てきて、坂口さんみたいなレスラーは後にも先にもあの人だけだと思いますよ。ナチュラルな力が強い。ボディビルで作った身体じゃないですからね。腹筋は割れているし、腕は太いし、足も太い。ああいう人はもう出ない」
初代タイガーマスク佐山聡も語ります。
「腕相撲がものすごく強い。130キロだけれども、ロープ登りが得意。そういうイメージがありましたね。腕相撲は僕が二番目に強かったんですよ。みんなが腕相撲大会やっていて、自分が勝っていって、坂口さんが『じゃあ、お前来い』って。坂口さんとやったらポンとやられて、『お前、強いな』って言われたことあるんですよね(笑)」

 

それほどナチュラルな力を持っていた坂口が、なぜプロレスラーとしては超一流のスーパースターになれなかったのか。それは、新日本プロレスと合流して猪木と組んだときに、自らが「ナンバー2で行く」と決めたからです。
猪木・坂口の新生・新日本プロレスが正式にスタートする前、猪木のマネージャーであった新間寿は、猪木と坂口はすべてにおいて対等の扱いをするという覚書を作成しています。それによれば、両者はすべてがフィフティ・フィフティで、メインイベントをやるときもダブルメインイベンター。月収もボーナスも同格。飛行機に乗るときも同じファーストクラスといった具合に細かく定められたものでした。実際、1973年4月以降の新日本プロレスの試合記録を見ると、メインイベントは猪木か坂口を主役とするタッグマッチで、両者が交互にメインに登場しています。

 

アントニオ猪木の伏魔殿―誰も書けなかったカリスマ「闇素顔」

アントニオ猪木の伏魔殿―誰も書けなかったカリスマ「闇素顔」

 

 

猪木にとって、坂口は絶体絶命だった新日本プロレスにテレビ放送をもたらした大恩人でした。坂口に対する猪木の気の遣いようは大変なもので、タッグマッチのとき、「自分より後に坂口をコールしてもいい」、つまりは自分よりも坂口を格上として扱っていいと新間に伝えたほどでした。しかし、新間は坂口にナンバー2の立場を受け入れてほしいと告げました。新間寿の著書である『アントニオ猪木の伏魔殿』には、以下のように書かれています。
「私は坂口に頭を下げて頼んだ。
『悪いけれども、新日本プロレスを売り出すか、坂口征二を売り出すかということになれば、私は会社を売りたい。新日本プロレスがよくなってこそ、あなたもよくなるから、二番手に甘んじてくれないか』
アントニオ猪木を立ててやってほしい――言いにくいことをはっきり切り出した私に、彼は嫌な顔ひとつせず、私の言う条件を受け入れてくれた。
『わかりました。新間さん。新日本に入る覚悟を決めている以上、いいですよ。新間さんのやりやすいようにやってください』」

 

このことに関して、著者は「坂口は自分自身のことよりも、新日本プロレスという会社組織がどのようにしたら良くなり、関わる人々が幸せになれるかを優先して意思決定をした」と述べています。また、坂口が新間に対して、「しかし、猪木さんに何かあった時は、私がメインを張りますよ。いつでも私はその立場にあることを忘れないでください」と言ったことを紹介し、「会社の発展を第一に考えていた坂口だったが、元日本プロレスのエースとしてのプライドだけは忘れていなかったのである」と述べます。
また著者は、以下のようにも述べています。
新間寿の要望を受け、一歩退くことを受け入れた坂口は『本当のメインイベンター』であるアントニオ猪木を光らせるために、それこそ『猪木の盾』となって邁進した。新生・新日本プロレスの躍進のきっかけとなった1973年10月14日、蔵前国技館における『世界最強タッグ戦』。20世紀最大のレスラーと呼ばれた『鉄人』ルー・テーズと『プロレスの神様カール・ゴッチにタッグを組ませ、猪木と坂口の黄金コンビが迎え撃つというものだ。昭和プロレスファンの間ではいまだに語り草となっている名勝負である」

 

坂口自身は、「この相手とだったらよい試合ができる」と心底思えるレスラーとして、ドリー・ファンク・ジュニア、アンドレ・ザ・ジャイアントアントニオ猪木の3人の名を挙げています。猪木とは12回対戦していますが、最後まで両者の対決は「新日本頂上対決」と呼ばれました。著者は、1974年4月26日、広島県立体育館で行われた「第1回ワールドリーグ戦」決勝リーグ公式戦の猪木対坂口戦を取り上げ、30分時間切れ引き分けとなったこの試合について、以下のように述べています。
「この試合は映像が残っており、今でも観ることができるが、ゴングが鳴ってからの1分間は坂口の強さがひときわ目立っている。まさにライバル心むき出しで、猪木は坂口のフィニッシュホールドのアトミック・ドロップを喰らっても、何食わぬ顔で次のムーブに移っているほどだ。『まったく効いていないぞ』という顔をしたのである。屈指の名勝負と言われたこの試合をプロレス評論家の門馬忠雄も坂口のベストバウトとして挙げている」

 

坂口征二にとってアントニオ猪木が最も重要な存在であったことは間違いありませんが、もう1人、忘れられないレスラーがいます。ストロング小林です。猪木との日本人対決に敗れ、1975年1月に新日本マットに参戦した小林について、著者はこう述べています。
坂口征二のレスラー人生において、ストロング小林は絶対に外せないレスラーだ。坂口の代名詞と言われた北米タッグ選手権全50試合のうち、約4割を占める21試合に出場している。坂口、小林組は1975年1月8日から1981年10月8日まで実働6年9か月と短かった。実際にタッグを組んだ回数は127回である。しかし、坂口がもっともタッグを組んだ猪木が199回(実働21年9月)、2位の木村健吾が163回(実働10年6か月)であることからも、もっとも中身が濃かったといえる。実働期間中だけでみると、実に年平均19試合組まれており、他のタッグパートナーと比較すると圧倒的に多い。ある意味、もっとも印象に残っているというファンもいるのではないかと思う」

 

ストロング小林について、さらに著者は述べます。
「小林は国際プロレスのエースの一角に入り、1970(昭和45)年2月5日、6日とバーン・ガニアのもつAWA世界王座に連続挑戦。1971(昭和46)年6月19日、米国でビル・ミラーを破り、IWA世界ヘビー級王座を奪取。帰国後はエースとして同王座を25回連続防衛する。また、『第2回IWAワールドシリーズ』準優勝、『第4回IWAワールドシリーズ』優勝とリーグ戦においても輝かしい実績を持っていた。坂口と小林はお互い『俺が、俺が』という性格でもなく、ある意味似た者同士であった。『特に意識はなかったかな。パートナーになったけどね。性格的にも2人とも似たような性格だったからよ、どっちかというとガツガツ言うようでもなかったし。気が合っていたよ、小林さんとは』と坂口は語っている」

 

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

 

 

第九章「自ら選んだナンバー2の道」では、猪木対ルスカ、猪木対アリの二大異種格闘技戦について興味深いことが書かれています。1976年からアントニオ猪木異種格闘技戦に踏み出します。最初に1972年のミュンヘン・オリンピックの柔道・重量級、無差別級の二階級制覇を成し遂げた世界最強の柔道家であるウィリエム・ルスカと猪木の試合が2月6日に日本武道館で行われました。この猪木対ルスカ戦の裏話を新間寿が次のように語っています。
「ルスカが『レスラーになりたいって』って、ある人を介してきたことがあったの。それを坂口さんに相談した。坂口さんも柔道日本一だから、僕が一番最初に考えたのは、坂口さんの顔をたてて、柔道ジャケットマッチとか。二本目は裸になってレスラーとしてやって、三本目はコイントスかなんかやって、柔道衣着るか、裸でやるか、そういう方法もあるなって。そうしたら、『新間さん、柔道と柔道でやっても面白くないんじゃないか。猪木さんがやったほうがよいですよ』って。坂口さんはそういう言い方だった。それで考えたのが、『プロレス対柔道』。坂口さんが一歩退いてくれたから、猪木・ルスカ戦ができて、名勝負が生まれたんです。あの試合もよい試合だったね」

 

その後、ルスカを下した猪木は6月26日、日本武道館でプロボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリと「格闘技世界一決定戦」を行います。このときの坂口について、著者はこう書いています。
「ナンバー2の立場で何かと猪木をサポートしていた坂口は猪木と一緒にアリのビデオを観て研究したという。しかし、実戦でどのように戦うかについては一切コメントをしなかったという。なぜならば、パンチさえ受けなければ猪木は必ず勝てると思っていたからだ。打撃技だけ、しかもパンチだけで向かってくるボクサーに対して、チョップやキックの打撃技をはじめ、関節技、投げ技、絞め技とあらゆる格闘技の要素がミックスされているプロレスラーは最強だと考えていたというのである」
これはすごく良い話ですね。ちょっと感動しました。

 

猪木対アリ戦当日、坂口はカール・ゴッチ山本小鉄星野勘太郎藤原喜明荒川真小林邦昭らと一緒に猪木のセコンドにつきました。アリ側も当日、何十人もの取り巻きがついていましたが、猪木側の先頭は196センチ、130キロの雄大な体格をもつ坂口でした。当時のことを小林邦昭は「アリ戦の時、僕もまわりについていましたけど、坂口さんの身体を見て、アリがビビっていましたよね。デカいし、『こんなの相手に出来ないな』というのが会ったんじゃないですか」と述懐しています。著者は、「坂口はセコンドで猪木の戦いをずっと見ていながら、捕まえて倒してしまえば、絶対勝てると思ったという。また、『何かあったら試合をぶち壊してでも猪木さんを守らなくてはいけない』と覚悟していたという。ナンバー2として猪木、アリ戦の交渉に同行し、猪木不在のリングを守ったうえに、試合当日は猪木のボディーガード役をも買って出ていたのであった」

 

怪力無双の元柔道日本一だけあって、坂口の真剣勝負での強さは周囲からも一目置かれていました。日本プロレス時代に練習相手をよく務めていたというザ・グレート・歌舞伎は「坂口さん自身はそんなに器用な人じゃなかったからね。真面目すぎちゃって。器用に物事こなす人じゃないから。くそまじめ」と語っています。そんな坂口には「クラッシャー」(壊し屋)というあだ名がついたとして、カブキは「入って来た頃なんか、引きが強いんですよ。坂口選手。外国人なんか、その勢いで一回転しちゃう。だから『それじゃ危ないから、もっと緩めて投げないとダメだよ。外国人なんかすぐケガするから』って言って。案の定、外国人からあだ名がついたのが『ビッグ・サカはクラッシャー』だって」と語っています。

 

坂口征二の後にも「クラッシャー」と呼ばれた日本人レスラーが登場しました。前田日明です。前田は新日本プロレス内で猪木の後継者として期待され、1983(昭和58)年5月に開幕した「第1回IWGP」にヨーロッパ代表(当時の前田は欧州選手権王者)として参加しました。同年5月6日の福岡での開幕戦で、坂口のパートナーを務めた前田は当時、25歳でした。「スパークリングフラッシュ」というキャッチフレーズで売り出され、195センチ、110キロの大型選手であり、坂口と並んでも見劣りのしない体格の持ち主でした。この前田を坂口は何かとサポートしました」

 

坂口と前田について、著者はこう述べます。
「5月6日のIWGP決勝リーグ開幕戦。坂口は前田と組んだタッグマッチでビッグ・ジョン・スタッド、エンリケ・ベラ組を相手にしている。坂口は前田のチャンスメーカーに徹し、フィニッシュは凱旋帰国2戦目の前田がベラを抑えて勝利している。この日から前田が翌1984(昭和59)年春に旗揚げとなったUWFへ移籍するまでの10か月の間で、坂口と前田は実に33回もタッグを組んでいる。坂口がこれからのエースとなるであろう前田の介添え役を買って出たのであった」

 

その坂口と前田は、1986年11月24日に札幌で一度だけ対戦しています。当時、新日本マットに参戦していたブルーザー・ブロディと前田の試合が組まれていましたが、直前でブロディが出場をボイコットしたのです。前田対ブロディ戦の代わりとして、坂口対前田戦が急遽込まれたのです。対決しました。会場の札幌中島体育センターは満員となりましたが、著者は次のように書いています。
「坂口対前田戦は第7試合にラインアップされ、試合は前田が開始早々放ったフライングニールキックからスタートし、関節技の攻防となった。しかし、試合中盤で前田が放ったキックが坂口の顔面に入り、これでカッとなった坂口は、前田をコーナーに逆さ吊りにし、キックの乱打。レフェリーまで突き飛ばし、暴走の反則負けになっている。『反則で逃げるのか』と前田は叫ぶが、9分55秒の死闘は終わった。坂口にとって久々のビッグマッチ。『東京スポーツ』の記者は『年間最高試合候補だ』と書いた」

 

当時の前田らは、UWFからの出戻り組で、新日本プロレスの選手たちと対立していました。たった一度の前田戦について、坂口は「マッチメイクやっていたから、あれに代わるカードもなかったし、やりたくなかったけど(笑)、やらざるをえなかったんだよね。UWFアレルギーとかあったからよ、あの頃ね。レガース付けてよ、『相手のことを考えろ、この野郎!』って言いたくなるよな。蹴っている自分たちは痛くないだろうけどよ(笑)、相手はどんな痛みがあるんだって。『(レガースは)ファッションじゃない、飾りじゃない』って言ったことがあるよ。昔はビール瓶で叩いて自分の脛を鍛えていたんだからね。レガース付けりゃ(蹴るほうは)思いっきり蹴っても痛くない。ちゃんと入ればいいけど、受けるほうはたまったもんじゃない」と語っています。
前田対ブロディ戦が実現しなかったことは非常に残念でしたが、坂口対前田戦が実現したことは、わたしのようなプロレス・ファンにとって僥倖でした。

 

1990年2月14日、坂口は記者会見に臨み、自身の引退記念シリーズの内容発表とレスラー生活の思い出を語りました。記者の「一番印象に残っている試合は?」という質問に対して、坂口はこう答えています。
「昭和46年にドリー・ファンク・ジュニアと大阪でやったNWA戦ですね。猪木さんが欠場して、ピンチヒッターとして急遽、大きなチャンスをもらって、とにかく無我夢中で戦いましたね。確か三度目の渡米から帰ってきた直後だったと記憶しています。それ以外では、猪木さんと一番最初に広島でやった試合、福山で大木金太郎とやった喧嘩マッチが強く印象に残ってますね。試合内容ですか? だいたい覚えてますよ。プロレスっていうのはキャリアの世界でもあるけど“若さ”っていうのも大きかったよね。若いころは何をやっても怖くなかったし・・・・・・年とってくるとやっぱり、そういう面ではね(苦笑)。まあ23年間のレスラー生活に悔いはありませんけど、欲をいえば馬場さんと一度、やってみたかったですね」

 

同年3月15日、故郷の久留米で坂口は引退試合を行います。坂口は木村健吾と組んで、スコット・ホール、コープラル・マイク・カーシュナー組と対戦しますが、なんとパートナーである木村がカーシュナーを稲妻レッグラリアートからフォールし、勝利してしまったのです。そのとき、カットに入ろうとしたスコット・ホールに坂口は体当たりして、見事なアシスト・プレーを見せました。自分の引退試合にもかかわらず、坂口は脇役に回ったのでした。
多くのファンは、呆然としました。後日、「久留米での試合なのですが、ファンの気持ちとしては最後に坂口さんに決めてほしかったというのがあったのですが・・・・・・」と言う著者に対して、坂口は以下のように答えています。
「あったらしいね。自分では全然そこまで意識というか考えていなかった。『木村行け!』という感じで、木村が決めてね。まあ、そこまで考えていたら別のマッチメイクするだろうし、シングルにするとかね。あくまで試合の流れであって、反面、木村に『これから頼むぞ!』という気持ちがあったかもわからないね。まあ、大きな問題じゃない」
また坂口は、「辞める人間がよ、勝つような力があったら辞めないじゃない(笑)。まだやる人間に勝ってもらわなくちゃダメじゃない。引退試合で勝つ奴は、その力があるんだったら、『なんで辞めるんだよ』って言いたくなることあるよね」とも語っています。常識人の坂口らしい考え方ですね。

 

偉大なる常識人としての坂口は、新日本プロレスを離脱する選手への対応にも表れていました。著者は述べています。
「坂口自身は柔道界を辞めてプロレス入りした経験がある。自身の経験から、一度辞めるという気持ちになった人間は引き留めようとしても駄目だということを誰よりもわかっていた。だから、こうした離脱が起きるたびに『黙って行け。悪口言うな。黙って辞めるんだよ。「お世話になりました」って。唾を吐いたら、自分にかかってくるよ』と言っていたという」
また坂口は、こうも語っています。
「狭い業界、いつ何時、一緒になるかわからないし、ちゃんとお互い『やあ』と言えるようにしておけよって。仕事を続けていく以上、長い人生ね。結婚式や冠婚葬祭で会うこともあるし。俺の柔道人生のなかでも言えるんだよね。柔道をああいう去り方して行ったから、行きづらい、来づらいというのもあったし。その後、ちゃんと自分で頭下げて、『その節は』とフォローして、付き合いやってきたから、今でも堅苦しい気持ちしなくても顔出せるよね。会って嫌な顔されても、こっちも嫌だよな」
「冠婚葬祭」というキーワードにももちろん反応しましたが、これを読んで坂口の誠実な人生観に非常に感動しました。

 

その坂口の常識や人間関係を大切にする生き方は、新日本プロレスの危機を何度も救ってきました。プロレス評論家の門馬忠雄は、「坂口のなかで大事なのはね、柔道人脈がビジネスに影響したというかね。明治の柔道選手たちが警察にするでしょ。トラブルになったときに頼むって。ベイダ―が暴動起こした時、あの時は警察も怒ったんだよ。『なんで、アントニオ猪木が挨拶に来ないんだ。二番目が来た』って。坂口がそのデカい体で頭下げて歩いたんだよ。でもね、明治の連中がその署だったかは知らないけど、手まわしてうまくやってくれたんだよ」と語っています。

 

その暴動騒ぎになったベイダ―初登場のアイデアもすべてはアントニオ猪木の発案によるものとされています。第1回IWGPで猪木が狂言で失神・入院騒ぎを起こしたとき、坂口は「人間不信」と書き残したといいます。人を驚かすことに生きがいを感じ、壮大なロマンのためには湯水のごとく金を使う猪木とひたすら誠実で堅実な坂口。どうして両者は合体したのでしょうか。もともと坂口は猪木のライバルである馬場と性格が似ていると言われ、猪木の新日本ではなく、馬場の全日本に合流すると見られていました。当時の猪木夫人であった倍賞美津子と坂口夫人の仲が良かったこともあったようですが、猪木との合流について、坂口は「馬場さんと一緒にならなくて、猪木さんと一緒になって良かったですよ」と語っています。

 

坂口は、次のようにも語っています。
「馬場さんと一緒になっていたら、何年かで(指を下に下げる仕草をして)こうなっていた。似たような性格だったし、猪木さんとは性格違うしよ。『猪木さんと一緒になったからのうのうと暮らしていますよ』と言ったら、猪木さん、笑っていたよ。
ブラジルのハイセルとか永久電気とかよ、『こうしたら何十億円になるから、お前も面倒見てやるからな』『そうですか』って。猪木さん、将来レスラーのためにとか、辞めた人間のためとか、世界の何とかとか・・・・・・。私利私欲でやったわけやないやない。金使って、夢があったやない。馬場さんというのはコツコツやって、コツコツ貯めて、それでゴルフ場会員になったり、ハワイに別荘買ったりやっていたやない。猪木さんは馬場さん以上に稼いでもブラジルに投資したりよ、騙されても、『またですか?』ってね。憎むに憎めないところあるんだよね。助けてあげようちゅうね」
まさに、坂口が「最強のナンバー2」であったことが、この言葉に見事に表現されています。

 

No.2理論: 最も大切な成功法則 (能力開発の魔術師・西田文郎)

No.2理論: 最も大切な成功法則 (能力開発の魔術師・西田文郎)

 

 

著者は西田文郎の著書『No.2理論』を参照しながら、「ナンバー1に必要な第一の才能は、『夢見る力』です」と紹介し、ナンバー2の仕事については「トップに気を使わせず、心もムダに使わせない。そして、トップとしての仕事に専念してもらう、それがナンバー2のもっとも大事な仕事です」と紹介しています。そして、ナンバー2がトップに次の言葉を言うだけで会社は成功するといいます。その言葉とは、「社長は、自分のやりたいことを思いっ切りやってください。やりたいことが思いきりできるように、私が頑張ります。私に何でも言ってください」というものです。まさに坂口が猪木に対して言いそうな言葉ではないですか。
坂口が新日本プロレスの社長になってから、大幅な経費削減が実現したと言われています。社長就任時を振り返って、坂口は「旭化成に勤務していた経験が役に立った」と述懐しています。一部上場企業の人事勤労課で給与計算などの仕事をした経験と軍人だった親譲りの几帳面で律儀な性格のなせる技だったのでしょう。しかし、経営者としての坂口の素晴らしさは、なんといってもナンバー1である猪木の夢をナンバー2として支えた点にあったのです。

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「ナンバー1」と「ナンバー2」の生き方を知る

 

全盛時の新日本プロレスを支えた次の3人はこう語ります。
「女房役は坂口さん、ちゃんとできたよね。『俺が、俺が』というタイプではない。彼の性格が新日本プロレスの歴史を作った。猪木さんも大きいけど、支える者がいたからできた」(木村健吾
「坂口さんは一部上場企業の総務部長が務まるような人でしたよ。部下が上司に対して好き嫌いはすごくありますよね。猪木さんには無条件でついていく。そういう人たちの矛先、はけ口は坂口さんへ向かっていく。坂口さんは苦情受付係であり、自分はその苦情を処理しなければならない。猪木さんを神格化させるという状況に坂口さんが持って行ったからね」(新間寿
「自分を抑えたところがあるでしょ。ナンバー2に徹する。それこそ武道家だと思いますけどね。目立つことを意図しない。反対に言えば、スターになることを一生懸命考えているのは武道家ではないですよね」(佐山聡

 

本書はソフトカバーながら、じつに520ページもあります。この分厚い本を一気に読み終えました。どうしても、ブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』ブログ『完本 1976年のアントニオ猪木』といったプロレス関連の名著と比較してしまいます。それらの本に比べると、本書にはそれほど感動する内容は書かれていません。どちらかというと事実を淡々と記述しており、ときおり著者の意見が挟まれるといった内容です。地味で堅実な本と言えるでしょうが、それはそのまま坂口征二その人の性格を表しているように思いました。個人的に言えば、わたしの知らなかったことがたくさん書かれていて興味深く読めました。それにつけても、「燃える闘魂アントニオ猪木と「世界の荒鷲坂口征二の2人は真の「黄金コンビ」であったと思います。

 

最強のナンバー2 坂口征二

最強のナンバー2 坂口征二

 

 

 2019年2月4日 一条真也

「雪の華」

一条真也です。
2日の小倉は雪が降りそうな寒さでした。そんな中、日本映画「雪の華」を観ました。絵に描いたようなメロドラマで、涙腺の緩いわたしのハンカチはビショビショになりました。なんか隣りの席の人もずっとハンカチを目に当てていましたが・・・。しっかり泣きたい人に、おススメです。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
中島美嘉の代表曲の一つ『雪の華』からインスパイアされたラブロマンス。東京とフィンランドを舞台に、余命わずかの女性と青年の恋が描かれる。メガホンを取るのは『羊と鋼の森』などの橋本光二郎。『HiGH&LOW』シリーズなどの登坂広臣、『ニセコイ』などの中条あやみが出演するほか、『モンスター』などの高岡早紀、『ディアスポリス-DIRTY YELLOW BOYS-』などの浜野謙太、『ハッピーフライト』などの田辺誠一らが共演した」 

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「幼少期から病気を抱え、余命を宣告された美雪(中条あやみ)は、幸せになれないと考えていたが、最期の日が来る前にフィンランドでオーロラを見るという目標を持っていた。ある日、ひったくりに遭って動けなくなってしまった彼女にガラス工芸家を目指す青年・悠輔(登坂広臣)が声を掛けてくる。それを機に彼との交流が始まり、真っすぐな性格に心惹かれていく美雪。やがて悠輔の働く店が経営難に陥っているのを知った美雪は、100万円の援助と引き換えに1か月だけ交際してほしいと彼に持ち掛ける」

 

久々に「これぞ恋愛映画!」という感じの作品を観ました。もうすぐ命が消えてしまう薄幸の美女が主人公の恋愛物語といえば、これはもうメロドラマの王道中の王道です。「雪の華」のヒロイン・美雪は、古くは田中絹代に始まって、原節子高峰秀子岸恵子吉永小百合といった日本映画のレジェンド女優たちが演じるようなキャラでした。それを21歳の中条あやみが見事に演じ切りました。彼女の主演作というと、これまで「覆面系ノイズ」とか「3D彼女 リアルガール」「ニセコイ」などのキワモノ的な話が多かったですが、今回の「雪の華」では素晴らしい悲劇のヒロインぶりを見せてくれました。彼女には、こういう正統派の役の方が似合います。ハーゲンダッツのCMで初めて中条あやみを知ったのですが、とにかく可愛らしい女の子ですね。モデルだけあって、スタイルも抜群です。

 

悠輔を演じた登坂広臣も悪くありませんでした。三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBEのボーカルだそうです。わたしはこれまでずっとEXILEグループの連中が苦手、というか嫌いでしたが、ブログ「去年の冬、きみと別れ」で紹介した映画に主演した岩田剛典、ブログ「この道」で紹介した映画に主演したAKIRAなどの演技をスクリーンで観て、彼らに対する見方が変わりました。歌、ダンス、そして演技と、トータルに活躍するエンターテインメントのプロフェッショナルであると思います。「雪の華」に出演した登坂の場合は岩田やAKIRAに比べて目つきが悪く、とてもイケメンとは思えませんが、それでも物語の中の恋愛が進行するにつれ、次第に王子様のように見えてくるから不思議ですね。その登坂くん、この映画ではとにかく走りまくっていました。走る姿が非常に絵になる人ですね。

 

映画「雪の華」の舞台は日本とフィンランドが半々ですが、スクリーンに広がるフィンランドの光景がとても美しかったです。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、オーロラの描き方も感動的でした。わたしはフィンランドには行ったことがありませんが、いつか訪れて、冥途の土産にオーロラを見てみたいです。極寒の中で重病の人間がひたすら夜空にオーロラが出るのを待つ場面はちょっとリアリティに欠けると思いましたが、この映画そのものが「おとぎ話」のようなものですから、まあ、そこは許せますね。 あと難を言うなら、スクリーンに霧がかかったように画面が不鮮明で、美雪が手帳に書いた文字とかメモなどが観客には読みにくかったです。そこに書かれてある内容が物語の重要な役割を果たすので、残念でした。画面の色調は演出の上で必要だったかもしれませんが、せめて文字が映る場面だけでも明るく鮮明な画面にしてほしかったですね。

 

この映画は、2003年10月1日に発売された中島美嘉の10枚目のシングル「雪の華」にインスパイアされて製作されています。中島自身が出演した明治製菓「boda」「galbo」のCMソングであり、第45回日本レコード大賞金賞および作詩賞を受賞しています。
「NHK紅白歌合戦」では、2003年第54回、2005年第56回と2回歌われています。第56回紅白出場者選考の参考アンケートとしてNHKが実施した「スキウタ紅白みんなでアンケート〜」では紅組9位にランクインしています。さらには、毎年「冬うた名曲ランキング」など各冬うたランキングに選ばれる曲となりました。

 

雪の華」のプロモーションビデオは、中島美嘉のリクエストによって摂氏0度以下のスタジオで撮影されました。Wikipedia「雪の華」の「概要」には、「韓国では、多くのアーティストがカバーするために中島側に許可を求めたが、本人が直接聴いた結果、シンガーソングライターのパク・ヒョシンに決定。そして、KBS第2テレビのドラマ『ごめん、愛してる』の主題歌として披露され、大ヒットを記録した。また、2008年10月29日に発売されたコンピレーション・アルバム『LOVE』にも収録されている。他にも徳永英明や森山良子、Boyz Ⅱ Menなど多くの歌手がカバー版を発表している。2015年のFNS歌謡祭にて、河村隆一とともにこの曲を披露している」とあります。

 

また、Wikipedia「雪の華」の「概要」には以下のように書かれています。
「2016 年、TVアニメ『ReLIFE』第8話のエンディングテーマに起用された。2016年10月度の日本レコード協会リリースにおいて、フル配信でのミリオン到達が認定された。本作の配信開始から13年0か月かかっており、中島みゆき『糸』(所要15年10ヶ月で到達)に抜かれるまでは史上最長記録であった」
雪の華」のリリースから15周年を迎えた2018年10月1日より発売15周年記念した15の企画がスタートし、10月10日には12inchアナログ盤が数量限定で再リリース、11月7日には一発録りで再録したアコースティック版を収録したカバーアルバム「PORTRAIT〜Piano&Voice」が発売。2019年1月30日には15周年を記念した企画ベストアルバム『雪の華15周年記念ベスト盤「BIBLE」』が発売。そして、2月1日にはこの歌をモチーフとして製作され、そのまま主題歌となる映画「雪の華」が公開されました。映画音楽は、葉加瀬太郎が担当しています。

 

雪の華」には多くの観客が感動の涙を流すと思います。なぜなら、この映画のテーマは「愛」と「死」だからです。これはメロドラマの定番でもありますが、小説にしろ演劇にしろ映画にしろ、大きな感動を提供する作品は、必ず「愛」と「死」という2つのテーマを持っています。
古代のギリシャ悲劇からシェークスピアの『ロミオとジュリエット』、そして「タイタニック」まで、すべて「愛」と「死」をテーマにした作品であることに気づきます。「愛」は人間にとって最も価値のあるものです。しかし、「愛」をただ「愛」として語り、描くだけではその本来の姿は決して見えてきません。そこに登場するのが、人類最大のテーマである「死」です。「死」の存在があってはじめて、「愛」はその輪郭を明らかにし、強い輝きを放つのではないでしょうか。「死」があってこそ、「愛」が光るのです。そこに感動が生まれるのです。逆に、「愛」の存在があって、はじめて人間は自らの「死」を直視できるとも言えます。

死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス

 

わたしは、「今日は残りの人生の最初の1日」と毎日思っています。人生、悔いのないように生きたいものですね。映画「雪の華」で余命1年と宣告された美雪は、「死ぬまでにやっておきたいこと」を考えます。彼女が考えたことは、「フィンランドに行ってオーロラを見ること」、そして「恋をすること」の2つでした。わたしには『死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス)という著書がありますが、同書で「満足のいく人生」を全うするために提案した50のことの中に「行きたい場所に行く」というものがありました。特に、「圧倒的な自然の絶景に触れる」ことを薦めています。わたしたちは自然の絶景に触れると、人間の存在が小さく見えてきて、死ぬことが怖くなくなってくると思います。「死とは自然に還ることにすぎない」と実感できるのではないでしょうか。ナイアガラの滝、グランドキャニオン、アンコールワット、ウユニ塩湖、オーロラ・・・・・・世界には、想像を超えた絶景がたくさんありますが、少しずつでもいいから、ぜひ見てみたいものです。

 

また、『死ぬまでにやっておきたい50のこと』では「恋をすること」も提案しています。現在は中高年者の未婚が増えています。女性未婚率が低いですが、夫に先立たれる人が多いので、結果独身になります。異性を意識することで、免疫力が上がるというのは、医学的も証明されています。わたしはそれをもう一歩、進めてみることを提案します。意識するだけではなく、実際に恋をしてみませんか。脳は筋肉と同じで、使わないと老化するそうです。あなたの恋愛脳を作動させましょう。「これから何をしたいか?」という質問に対して、高齢者には「恋をしたい」という希望があるそうです。また、「俺は今まで本当の恋をしたことがない」という声もあるとか。

 

誰かに好かれたいというのは、じつはエネルギーを相当に使います。エネルギーがない人間は、やはり異性からモテません。クジャクという鳥は、オスが立派な羽を広げて、メスにアピールします。最近の研究で、じつは見かけだけでないことがわかってきました。羽飾りの魅力だけで、メスをゲットできているわけではないということです。モテるオスのクジャクというのは、メスを誘う鳴き声の回数も多かったという事実がわかってきました。つまり、オスのクジャクも努力をしているわけです。単なる見かけだけではメスにはモテないのです。これは人間も同じ。人気のホストに、モテる理由をインタビューしたテレビ番組を観たことがあります。彼いわく、「マメさです。相手に関心があることをアピールするんです」。これこそ、モテる極意、モテる真髄でしょう。

 

最後に、この映画の主人公である美雪は「死」を覚悟して生きていますが、映画の中では「そのとき」は描かれませんでした。逆に、恋愛による免疫力の向上で希望の光さえ見えてくるようなエンドロールでした。幼少の頃から身体が弱かった彼女は、自らの不運な人生を嘆きます。しかし、絶望の底に落ちたまさにその瞬間、美雪は悠輔と出会ったのでした。
病気だけでなく、人生にはいろんな苦難があります。悲しいこと、不幸な出来事もたくさんあるでしょう。ですが、正々堂々と真摯に生きている人には、必ずや楽しいこと、幸せな出来事も待っています。美輪明宏さんは「正負の法則」という人生法則を唱えておられますが、結局は、人生プラス・マイナス=ゼロではないでしょうか。これまで辛いことが多かった人ほど、これから喜びを感じることが多いのではないでしょうか。そして、その鍵は、その人の人生を左右する大切な人との出会いにかかっています。濡れたハンカチを握りしめながら、わたしはそのように思いました。

 

2019年2月3日 一条真也

老後を豊かにするための「修活ノート」

一条真也です。
月刊「清流」3月号が送られてきました。「主婦たちへ贈るこころマガジン」として有名な雑誌です。表紙には新井苑子さんのかわいい人形のイラストが描かれています。

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月刊「清流」2019年3月号の表紙

 

「清流」3月号には「いまから始める“明るい”終活」として、わたしのインタビュー記事が掲載されています。「老後を豊かにするための『修活ノート』」のタイトルで、未来工房さんが記事をまとめて下さいました。リード文には、「作家の一条真也さんは中高年に『修活ノート』づくりをすすめています。これは単なる『エンディングノート』ではなく『自分史』の項目も入っています。“財産目録”中心の部分は遺された家族への配慮ですが、自分史は『老いを豊かに過ごす』ために役立つからです」とあります。

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「清流」2019年3月号より

 

最初に、「『終活』ではなく『修活』の精神で」として、わたしはこう述べています。
「わたしは、世間一般でいう『終活』の言葉は、あえて使いません。なぜなら『人間は死んだら終わりではない』と思っているからです。『終』という言葉には、まるでその瞬間に、一切が消滅してしまうような響きがあります。しかし、たとえ肉体は滅びても、故人が生きてきた歴史まで消えてしまうわけではありません。その人が抱き続けた〝思い〟は必ず残された人たちに影響を与え、そうして人間の営みが受け継がれていくのです。ですから死は決して終わりではありません。
また、死を『ご不幸』などと表現しますが、これも間違っています。すべての生物は、必ず死を迎えます。もし『死ぬ者』と『死なない者』に分かれるのなら、『死』に当たった者は不幸だといえますが、死は誰にも平等に訪れるので、『幸』も『不幸』もありません。死とは“いまの人生”を卒業することです。いつかは必ずやってくる死に向かって、どう人生を収束させていくか、そのために老いの時間をどう有意義に過ごすか・・・・・・。この心構えをもって老い支度、死に支度を整える姿勢が、人生を美しく飾ってくれるのだと思います。だから、わたしは『終活』ではなく『修活』という言葉を使っています」

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「清流」2019年3月号より

 

次に、「自分の人生を整理するためのノート」として、以下のように述べています。
「老い支度、死に支度というのは、言い換えれば『死生観』の表現です。わたしはこれこそが、人間の“究極の教養”ではないかと思います。確かに、誰でも死ぬのは怖い。まして、苦しみながら死にたくはありません。
でも死を前にしてうろたえ、必要以上に嘆いたら、やがて残されるご家族の悲しみはいっそう深くなるでしょう。しかし、『死は誰にでも来るのだから、怖がらなくていい』『いままで精一杯生きてきたのだから思い残すことはない』と、落ち着いて死を迎えることができたら、自分も遺族も心安らかになるはずです。自分自身はもちろん、周囲の人たちのストレスを軽くし、むしろ幸福な気持ちにさせるためにも、美しく人生を修める・・・・・・。『修活』とはこういうものだと思います。わたしは世界各地の葬送儀礼を研究してきましたが、日本人は世界有数の“死を怖がる”民族だと思います。神道の“穢れを嫌う”思想の影響もあるようですが、それと同時に近代化以降、『死』を毛嫌いし、深く考えることを避けてきたからではないかと思います。
しかし、死をタブー視して遠ざけてしまうと、不安が増すばかりです。反対に、『死はこの世での役目を終えて別な世界への旅立つこと』だと考えれば、悠然と最期を迎えることができるのではないでしょうか。
死は、キリスト教では『帰天』(天に帰ること)であり、イスラム教は『アッラー(神)に召されること』です。仏教でも『成仏』(仏になること)と考えます。たとえ病に倒れて苦しんだとしても、死はその不幸から解放されることにつながるので、むしろ喜ばしいことと思えるはずです。

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「清流」2019年3月号より

 

また、「“向かって”いけば死が怖くなくなる」として、こう述べました。
「しかし、一朝一夕にこの心境に達することはできません。準備が必要です。その手助けになるのが『修活ノート』です。そこに『人生を卒業する準備』として、これから起こることを想定して記しておく。例えば保険証券、預貯金、通帳の保管場所といった『財産』的なものや、葬儀やお墓のことなど。遺された人たちが困らないように項目を整理し、一目瞭然にしておくことは旅立つ者の責任です。
ただ『修活ノート』に書き入れる要素はこれだけではありません。『自分の死後の手続き』も大事ですが、残った時間を有意義に過ごすことのほうが、より重要だからです。そのために、ノートに自分の人生を振り返る項目をつけ加えてほしいのです。例えば『幼い頃や青春時代の記録』『楽しかったこと』『これまで読んできた本や映画のベスト10』『これから読みたい本、見たい映画』など・・・・・・。
いわば『自分の歴史』です。自分が生きてきた行程を振り返ると同時に、『やり残したこと』『必ずやっておきたいこと』を整理する。これが、残された時間を有意義に生きていくための備忘録の役割を果たします。
もし残された人たちが、その記録に目を通してくれれば、『故人はこんな人だったのか』と、知らなかった一面にふれることができます。そして故人をしのぶだけでなく、『こういう考え方もいいな』と感じてくれたら、故人の“意志”や“想い”が、遺された人たちに受け継がれるかもしれません。

人生の修活ノート

 

「効用はまだあります。人生を克明に振り返る“記憶ノート”としての役割も果たすので、読み返せば認知症予防にも役立つはずです。
元気なうちに、辞世の句をつくっておくことや、『遺影(葬儀用の写真)』の準備もおすすめします。考えてみれば、葬儀というものはたくさんの花に囲まれ、大勢の参会者がお別れを告げにきてくれる、人生最後の晴れ舞台です。その主役になるのですから、自分らしい個性を演出しましょう。輝いていた時代の写真を飾って、それでみんなが微笑んでくれれば、残された人たちへの、すてきな思い出のプレゼントになります。
女性の場合は、元気なうちに、できればお気に入りのお召し物を着て髪型を整え、写真館で撮影してもらいましょう。それをノートにはさんでおいて、実際に葬儀で使ってもらうのです。あるいはその一枚と、若い頃の写真を並べて飾るとか、結婚式のようにフォトアルバムで見せる方法もあります。このように『自分はこの写真で見送られたい』と思えば、心構えができ、死が怖くなくなるはず。

 

人生の修め方

人生の修め方

 

 

「ちなみに最近、『家族葬』という葬儀の形態が流行っているようですが、わたしはこれには反対です。遺族が『家族葬』を選ぶのは『迷惑をかけたくない・・・・・・』というのが主な理由のようですが、でも、よく考えてみてください。人間は一人では生きていけない存在なのですから、故人も友人、先輩、同僚、ご近所の方など、いろいろな人に支えられてきたに違いありません。中には、故人にお別れをいいたかった人もいるはずです。それを無視して『家族だけで執り行いました』と、一片の通知だけですますのは、故人が生きてきた歴史を否定するのと同じなのです。義理で来てもらう必要はありませんが、家族といえども、故人と親交が深かった方々の『最後のお別れをしたい』という気持ちを無視してはいけないと思います。
葬儀に参列する人たちの立場になって考えると、それは故人にお別れを告げるという目的のほかに、参列した人自身に『死の準備』をしてもらうためのお手伝いでもあるのです。例えばあなたは、親しい人の葬儀に参列して、『自分のときはこうやってほしいな』と思ったことはないでしょうか。自分の葬儀を考えることは、いずれ来る死を受け入れられるきっかけになるかもしれません。また、『故人の分まで、私は残りの人生を生き切ってやろう』と、前向きな気持ちになれるはずです。そうした思いもノートに書き入れましょう。ぜひ『修活ノート』を活用して最後まで“自分らしい時間”を充実させてください。(談)」

 

人生の修活ノート

人生の修活ノート

 

 

2019年2月2日 一条真也

『没イチ』

一条真也です。
125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」の最新号が出ました。同紙に連載中の「ハートフル・ブックス」の第130回が掲載されています。今回は、『没イチ』小谷みどり著(新潮社)を取り上げました。

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「サンデー新聞」2019年2月2日号 

 

著者は1969年大阪府生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員。専門は死生学、生活設計論、余暇論。「終活」に関する講演多数。著書に『だれが墓を守るのか』、『こんな風に逝きたい』、『ひとり終活』などがあります。

 

著者は夫を突然死で亡くされていますが、自らの境遇をバツイチならぬ「没イチ」と呼びます。そして、立教セカンドステージ大学講座「最後まで自分らしく」を持ったことがきっかけで、配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成しました。「パートナーを亡くしてからの生き方」という副題がついている本書で、著者は死別の喪失感は抱きつつも、せめて亡き人の分も楽しく生きようと提案。没イチゆえの人間関係や日常生活、自身の終末期から死後まで、さまざまな心得の数々を、「没イチ会」メンバーの体験談とともに一冊にした本です。

 

第一章「目覚めたら夫が死んでいた――没イチになった私」には、著者の夫が突然死した当時の様子が詳しく書かれています。非常にリアルな描写で、著者の心中を思うと胸が痛いですが、なんとか夫の葬儀を終えた著者は次のように述べています。
「私は長年、葬送の研究をしているとはいえ、お葬式の喪主なんてやったこともないうえに、その心積もりもないのだから、とにかく気がついたら、すべてが終わり、夫は骨になっていたというのが正直なところです。仕事でこれまで縁のあった火葬場の職員、僧侶など、知り合いが助けてくれたから乗り切れました。金曜日は普通に出勤していたのに、月曜日は遺骨になっているという現実は、とても受け入れられることではありませんでした」

 

著者によれば、死にゆく人も、大切な人と死別した人も、けっして「かわいそうな人」ではありません。なぜなら、みんな、いずれ同じ立場になるからです。「でも私たちは自分が経験するまで、そんな当たり前のことが分からないのです。特に、子供が巣立ち、シニアになって配偶者と死別した人は、その後の人生を一人でどう生きていくのかは大きな課題です」と書いています。

 

本書は、日本中にたくさんいる、またこれからも増え続ける「愛する人を亡くした人」のための素晴らしいライフ・アドバイス・ブックとなっています。単なる理論やデータだけでなく、実務性も高い本です。著者がこれまで研究、調査、実践されてきたすべてのことが集大成として本書には織り込まれています。自身の配偶者を突然死で亡くすという辛い経験についても赤裸々に書き記されたことは、必ずや後に続く人たちの心の支えとなることでしょう。

 

没イチ パートナーを亡くしてからの生き方

没イチ パートナーを亡くしてからの生き方

 

 

 

2019年2月2日 一条真也

合同厄除け祝い  

一条真也です。
1日の夜、ブログ「節分祭」で紹介した神事に続き、松柏園ホテルで「合同厄除け祝い」が開催されました。わが社の創業以来の恒例行事です。

f:id:shins2m:20190201182526j:plain「合同厄除け祝い」のようす

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前年度厄除け者の挨拶

 

今回の「合同厄除け祝」には、5名の厄除け者が参加しました。「開会の辞」の後は、厄除け者入場、そして、厄除け者紹介が行われます。厄除け発起人代表挨拶は前年の厄除け者が務めますが、今年は行橋営業所の小澤所長が立派に務めました。

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佐久間会長の挨拶

f:id:shins2m:20190201183820j:plainわたしが挨拶しました

 

続いて佐久間会長が登壇し、「社会でも会社でも重要な役を担う厄除け者のみなさんの活躍に期待しています」と挨拶しました。続いて、わたしが登壇して、サンレー社長として祝辞を述べました。わたしは、儀式文化は「人生儀礼」と「年中行事」の2つから成っていると述べ、厄除け祝いは人生儀礼であることを説明しました。そして、節分に代表される年中行事の重要性について話しました。民俗学者折口信夫は、年中行事を「生活の古典」と呼びました。彼は、『古事記』『万葉集』『源氏物語』などの「書物の古典」とともに、正月、節分、雛祭り、端午の節句、七夕、盆などの「生活の古典」が日本人の心にとって不可欠であると訴えました。

f:id:shins2m:20190201192238j:plain「生活の古典」を大切に!

f:id:shins2m:20190201192310j:plain大いに役に立って下さい!

 

文化が大きく変化する、あるいは衰退するのは、日本の場合は元号が変わった時であると言われています。実際、明治から大正、大正から昭和、昭和から平成へと変わったとき、多くの「生活の古典」としての年中行事や祭り、しきたり、慣習などが消えていったといいます。そして、平成も終わり、新しい元号へと変わります。今年の4月30日、天皇陛下は退位されることになりました。平成は4月末で終わります。翌5月1日に改元となります。どうか、平成が終わっても「生活の古典」を大切にしていきたいものです。そして、厄年の「厄」を落としたみなさんがぜひ、会社や社会の役に立ってほしいと述べました。

f:id:shins2m:20190201183941j:plain厄除け者に記念品を贈呈しました

f:id:shins2m:20190201184038j:plain大盃でカンパ〜イ!

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カンパ~イ!


挨拶の後で、わたしは厄除け者に記念品を贈呈しました。いつも記念品は男性がベルト、女性が傘で、男女ともに松柏園特製の恵方巻も贈られます。今回は男性のみだったので、みなさんに超高級ベルトをお贈りしました。それから厄除け者による「大盃の儀」が行われ、次々と酒を飲み干す姿に会場が大いに沸きました。その後、サンレーの東常務による乾杯の音頭を合図として、今夜の祝宴が華やかにスタートしました。

f:id:shins2m:20190201185401j:plain合同厄除け祝いのようす

f:id:shins2m:20190201190535j:plain厄除け者紹介

f:id:shins2m:20190201193043j:plain紫雲閣事業部によるカラオケ

f:id:shins2m:20190201193624j:plain営業推進部によるカラオケ

f:id:shins2m:20190201194023j:plain冠婚事業部によるカラオケ

 

わたしは、いろんな方々とお酒をついだりつがれたりしながら、大いに語り合いました。けっこう寒い夜でしたが、参加者の熱気で会場がヒートアップしました。その後はカラオケタイムで、紫雲閣事業部、営業推進部、冠婚事業部の順番で秀逸なパフォーマンス合戦が繰り広げられました。

f:id:shins2m:20190201203154j:plain戦闘服に着替えました

f:id:shins2m:20190201194635j:plain今日は祭りだ! 祭りだ!

 

最後は、わたしの番が来ました。わたしは北島三郎の「まつり」を歌いました♪ イントロの部分で、「年がら年じゅう、お祭り騒ぎ。初宮祝に七五三、成人式に結婚式、長寿祝に葬儀を経て法事法要・・・人生は祭りの連続でございます。今日は合同役除け祝いとあっちゃ、こりゃめでたいなあ〜。今日は祭りだ! 祭りだ!」と言ってから、歌い出しました。今日も、つかみはOK牧場!(笑)

f:id:shins2m:20190201194711j:plain男は〜ま〜つ〜り〜を〜♪

f:id:shins2m:20190201195007j:plainみなさん、ご一緒に!

 

わたしが「男は〜ま〜つ〜り〜を〜♪」と歌い始めると、大いに盛り上がりました。この歌は、今年の新年祝賀会で全国で歌ってきた名曲です。北九州では蛇踊り、大分では中津祇園、宮崎ではひょっとこ踊り、北陸では御陣乗太鼓、そして沖縄ではカチャ―シーで一連の祭りシリーズはクライマックスを迎えました。この夜はノー・コラボ、ノー演出、ノー衣装だったので、少し心細かったですが、がんばって歌いました。

f:id:shins2m:20190201194718j:plain会場を練り歩いて歌いました♪

f:id:shins2m:20190201203620j:plainこれが隣人~祭り〜だ〜よ〜♪

 

最後の「これが日本の祭り〜だ〜よ〜♪」の歌詞を「これが隣人~祭り〜だ〜よ〜♪」に替えて歌い上げると、興奮が最高潮に達しました。最後は「厄除け者のみなさん、今日はおめでとうございました!」と叫ぶと、割れんばかりの盛大な拍手をいただきました。

f:id:shins2m:20190201195629j:plain最後は「末広がりの五本締め」で

 

それから、厄除け者を代表して小倉営業所の浦壁所長から謝辞がありました。続いて、来年の厄除け者の紹介があり、1人づつ紹介されるたびに大きな拍手が起こりました。最後は、サンレー名物「末広がりの五本締め」です。この「人間関係を良くする魔法」は、全国的にもすっかり有名になりました。今夜は、松田取締役がしっかりと締めてくれました。厄除け者のみなさん、誠におめでとうございます。これからの活躍に大いに期待していますよ!

 

2019年2月2日 一条真也

節分祭  

2月3日は節分です。もともと節分とは「季節を分ける」という意味で、「季節の変わり目」ということです。本来は春、夏、秋、冬のすべての季節に節分があります。しかし、一年の始まりが「春」ですので、その春が始まる「立春」の前日に「不幸や災いのない一年になりますように」との願いを込めて、毎年、節分を行うのです。1日の夜、松柏園ホテルの顕斎殿で、恒例の「節分祭」が行われました。

f:id:shins2m:20190201184945j:plain節分祭のようす

 

皇産霊神社の代表役員である佐久間進サンレーグループ会長に続いて、玉串奉奠を行いました。わが社の厄年に当たる社員のみなさんが参加しました。厄年の「厄」とは、災厄の「厄」ではなく、役員の「役」です。つまり、共同体の中で一定の役割を果たすという意味での「厄」年だそうです。厄年が災いの年になることがあるのは、年齢に応じて与えられた役割を果たすことができない、つまりさまざまな難題課題を解決することができず、それに振り回されてしばしば失敗してしまうからだ、という考え方によるようですね。

f:id:shins2m:20190201190017j:plain一同礼!

 

男性の42歳というのは、たしかに重要な時期です。
というのも、50代、60代といった老年期にある者と、10代、20代にある若者や青年たちとのあいだを責任をもってつなぎ、文化を伝達し、集団の中で中心的な、また中堅的な役割を果たさなければならないからです。このとき、その年齢に達した人たちは、集団の中での主要な役割を振り分けられます。その役割を果たすためには、それ相応の覚悟や能力や集中力が必要です。その集中力を発揮することによって、つつがなく課題を達成し務めを果たしたときに、その人は集団の中で認められ、評価され、次のステップに向かって進んでいくことができるのです。

f:id:shins2m:20190201185906j:plain破魔矢授与

 

このような役割を振りあてられ、その役割を果たすことができるかどうかという試練を受けることが、厄年の根本的な意味です。それを災いとするのも、人生のよき糧、養分とするのも、すべてはその人次第です。どのような困難が降りかかってこようとも、積極的に前向きに取り組み、課題を解決し、能力を高め、周りからも評価を受けることによって、さらに大きな人格として成長を遂げていく。その時期が厄年なのです。厄除け者のみなさんは、佐久間会長から破魔矢とお守りを貰いました。

f:id:shins2m:20190201190147j:plain豆まきをしました

 

しかし、基本的に厄年というのは、村落共同体や町の共同体の中で、一定の年齢に達した者が受けるネガティブ・イメージです。その負のイメージがなぜできたかというと、それが大変な時期だからです。災難が起こってくると考られるようになる以前は、この年齢になると、いろんなことをしなければいけないので神頼みをします。その時期になると神様に頼んで、この役割がちゃんと果たせますようにと祈る。それをいつしか災いと見るような「厄年」の漢字をあて、厄年信仰が確立していきました。
ふだんは神仏など信じない人でも、厄年を迎えるとどうも不安になり、神社で厄除け祈願をすると安心します。

f:id:shins2m:20190201181602j:plain福はうち〜!

 

神事を終えた厄除け者たちも、心なしか安心した表情をしていました。
その後、佐久間会長とわたし、それにサンレーの東常務、年男の玉中取締役の4人が豆まきをしました。豆と一緒に、餅や5円玉も一緒にまきました。5円玉はこの世が多くの「ご縁」で満ちる有縁社会を願ってまきました。多くの人々が福にあやかろうと5円玉に殺到しました(笑)。
みなさんに福が訪れますように・・・・・。

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厄除け者との記念撮影

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

 

 

2019年2月2日 一条真也拝