『不倫のオーラ』

不倫のオーラ

 

一条真也です。
『不倫のオーラ』林真理子著(文藝春秋)を読みました。「週刊文春」2017年1月19日号~2018年1月4日・11日号に掲載された著者の連載エッセイ「夜ふけのなわとび」を単行本化したものです。
著者は1954年山梨生まれ。日本大学芸術学部を卒業後、コピーライターとして活躍。82年エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』がベストセラーとなる。86年『最終便に間に合えば』『京都まで』で第94回直木賞を受賞。95年『白蓮れんれん』で第8回柴田錬三郎賞、98年『みんなの秘密』で第32回吉川英治文学賞を受賞。現代小説、歴史小説、エッセイで活躍しており、NHK大河ドラマ西郷どん」の原作者でもあります。

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本書の帯

 

本書の帯には「美貌も度胸も権力もすべて得た女たちはどこに向かうのか!?」「芸能人・政治家のスキャンダルはなぜ続く」「トランプの妻vsマクロンの妻」「SMAP解散にハラハラ」「ダイエットの真実」「『週刊文春』大人気エッセイ最新刊!」と書かれています。帯の裏には、「大河ドラマ西郷どん』でさらに加速! 最先端がわかる名エッセイ」と書かれ、エッセイの一部が引用されています。

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本書の帯の裏

 

アマゾンの「内容紹介」には「バカなことをやる時は、死のものぐるいで!!」として、以下のように書かれています。
「還暦を過ぎても『威厳を持たず、ちゃらいおばさん』をモットーに、パンチパーマの鬘に金のネックレスをつけ、死ぬ気でピコ太郎のダンスを踊る。トランプ大統領の誕生、SMAP解散にハラハラしながらも、ついに人生の喜び・オペラの作家として舞台づくりに参加する。美貌の政治家・女優の相次ぐ不倫スキャンダル、小池都知事について鋭く読み解き、母の死を静かに悼む。時代の最先端を走り続けて衰えを見せない唯一無二の存在、原作執筆の大河ドラマ西郷どん』放送にむけてますますパワーアップ。 元気がでる人気ご長寿エッセイ、最新刊」



 「週刊文春」2017年1月19日号~2018年1月4日・11日号に掲載された著者の連載エッセイ48編を単行本化したものです。「週刊文春」といえば、芸能人の不倫への文春砲で有名ですが、本書でも「不倫」をテーマとしたエッセイが多いです。
たとえば「下界に降りてくる」というエッセイでは、著者は元「SPEED」の今井絵里子や女優の斉藤由貴の不倫スキャンダルを取り上げ、二人の相手が芸能人でないことを指摘して以下のように述べます。
「少年の時、大好きでたまらなかったスター。その人とひょんなことから知り合い、近しい関係になった。手を伸ばせば届きそうなところまでいった。
手を伸ばした。
手ごたえがあった。
その時の男の人の気持ちというのはどうだろう。もう嬉しくて嬉しくてたまらないはず。学生結婚した妻に『別れてくれ』ぐらいのことを言ってしまうだろうなあ。
そりゃあ不倫はいけないことだし、奥さんにそんな仕打ちをするなんて言語道断だ。しかし、小説家としては気持ちは充分わかるのである」



 また、著者は以下のようにも述べています。
「そうそう、今井さんのお相手は歯医者さんで、斉藤さんの方もお医者さんであった。子どもの時からうんとお勉強していた二人。そして大人になってから現れた、かつての憧れの人。
テレビやグラビアでしか見たことがなかった女性が、今、目の前にいる。自分のことを慕ってくれている。この奇跡は、今まで努力してきた自分への褒美だと考えても何の不思議もない。
そう、そう、松田聖子ちゃんのお相手も歯医者さんだっけ。彼女の場合も、今井さんと同じパターンだったはずであるが、頭のいい彼女は、うまく時間をずらしてしまった。結婚を発表する前に、相手の男性を別れさせているはずだ」



 「和食の魅力」というエッセイでは、バブル時代に流行したフレンチ・レストランでのデートが鳴りをひそめているいることを指摘する著者は、当時、ホイチョイ・プロなどが「女性を口説くなら絶対にフレンチ。あの長さがそれに適している」と断定していたことを紹介します。そして、以下のように述べるのでした。
「いま、若い男性の覇気も性欲も下がるばかり。フレンチを食べながら女性を口説くというのは、かなり体力と気力がいることであろう。しかしちょっと前まで男性の多くは頑張ってやってきたことだ。それがしんどいと皆が感じた頃から、日本の少子化は始まったのではないだろうか。若いコたちは背伸びせずに、みんな居酒屋へ行く。それもお酒を飲まず、だらだらと料理を食べる。あれも和食のうちに入るかな」

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

本書には、もちろん不倫や恋愛以外の話題も登場します。「桃畑で」というエッセイでは、山梨へと向かう中央線のグリーン車内で車内販売のコーヒーを飲みながら、著者は読書をするのですが、こう書いています。
「私の至福のひとときだ。読みかけの村上春樹さんの『騎士団長殺し』、読んでいるうちに胸がドキドキする。この方の文章のうまさというのはプロだからこそわかるところがいっぱい。簡潔でいて、次の出来ごとを予感させる波瀾を含んでいる。構文のなめらかさ、リズムのつくり方、自然に投入される比喩・・・・・・なんかもうすご過ぎる。ただ感嘆するのみ」

 

ルンルンを買っておうちに帰ろう (角川文庫 (6272))

ルンルンを買っておうちに帰ろう (角川文庫 (6272))

 

 

たしかに、ブログ『騎士団長殺し』で紹介した村上春樹氏の小説は面白かったです。読みながら大いにコーフンしました。そういえば、かつてエッセイ本でもコーフンしたことがありました。林真理子氏のデビュー作にして出世作である『ルンルンを買っておうちに帰ろう』(主婦の友社、角川文庫)を読んだときです。その文章のうまさ、ユーモアのセンスには唸りました。わたしは自分のことを「プロ」と呼ぶのはちょっと気が引けますが、物書きの端くれだからこそわかる著者の上手さを本書の端々からも感じました。

 

不倫のオーラ

不倫のオーラ

 

 

 2018年11月25日 一条真也

小学生時代の油絵

一条真也です。
24日の土曜日はサンレー本社に出社。ずっと出張続きだったので、社長室でたまった書類などの整理をしていたら、実家から連絡がありました。

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小学生時代の油絵と 

 

実家の倉庫を片付けていたら、わたしが小学生高学年の頃に描いた油絵が出てきたので、「どうするか?」という問い合わせの電話でした。わたしは、「とりあえず会社に持ってきてくれないか」と頼み、額縁に収められた4点の油絵が社長室に届きました。

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「果物」

 

わたしは、岡先生と西村先生という二人の北九州出身の洋画家から油絵を習いました。美術品のコレクターだった父が両先生を応援していた関係です。今ではお二人とも日本を代表する有名な画家になられました。最初に習ったのはブログ「岡義実展」でも紹介した岡先生で、セザンヌのような印象派を思わせる絵を描かれる方でした。わたしも果物などの静物画を描いていますが、光の描き方が岡先生の指導を思わせます。

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「茶器」

 

また、岡先生の指導の下に茶器も描いていますが、これがなかなかの出来ばえであります。シンプルな茶器の中に「わび」「さび」を感じますが、何よりも茶器とは「かたち」そのものです。水や茶は形がなく不安定です。それを容れるものが器です。水と茶は「こころ」です。「こころ」も形がなくて不安定です。ですから、「かたち」に容れる必要があるのです。その「かたち」には別名があります。「儀式」です。茶道とはまさに儀式文化であり、「かたち」の文化です。人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そんなことを小学生の頃から考えていたとしたら大したものです。わたしは少年時代の自分に「おまえ、えらいな!」と言いたくなりました。(笑)

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「海辺の光景」

 

岡先生の次に習ったのはシュールレアリスムに通じていた西村先生でした。わたしは当時愛読していた藤子不二雄Aのマンガ「魔太郎がくる」で初めて知ったマグリットの不思議絵のような絵を描きたいと思いました。そこで描いたのが、「海辺の光景」と題する絵です。空に浮かんだ雲のような白い唇、そして巨大な顔・・・・・・ちょっと、つげ義春のマンガも連想させるようなシュールな世界を表現しています。

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「欲望」

 

また、ゴヤの影響を受けていたと思われる西村先生の指導で、欲にかられた人間が黄金に手を伸ばそうとすると腕が白骨に変わるという「欲望」という絵も描きました。こんな絵を小学生で描くなんて、われながら、どーかしてるぜ!!
これらの絵を眺めながら、わたしは「これからは画伯として生きろ」という天の声かもしれないと思い、そのことを妻にラインしたところ、即座に「血迷うでない」との返信が届きました。ぎゃふん!

 

2018年11月24日 一条真也

2025年の大阪万博

一条真也です。
ゴーン容疑者の逮捕で暗雲ムードの日本経済に明るいビッグ・ニュースが飛び込んできました。2025年の万博開催地が大阪に決定したのです。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。長寿国の強みを生かし、「健康・長寿」の実現に資する万博を目指します。国連のSDGs(持続可能な開発目標)の達成を後押しする目標も掲げるとか。

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大阪万博決定を報道する各紙の朝刊 

 

各紙が一斉にこのニュースを報じています。
毎日新聞」11月24日朝刊TOPでは「2025年 大阪万博」「BIE総会 55年ぶり開催」の大見出しで、以下のように書いています。
「【パリ津久井達】政府が大阪誘致を目指す2025年国際博覧会(万博)の開催国を決める博覧会国際事務局(BIE)の総会が23日にパリであり、加盟国による投票の結果、日本がロシア(開催地エカテリンブルク)とアゼルバイジャン(同バクー)を破り、開催国に選ばれた。国内開催の大規模万博は1970年大阪万博、05年愛知万博愛・地球博)に続き3回目。大阪では55年ぶりの開催となる」
大阪決定に喜ぶ世耕経産相の躍動的な動きが印象的ですが、大阪万博は2025年の5月3日~11月3日の185日間、大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま)で開催する計画です。150か国・地域を含む166機関の参加を想定。来場者約2800万人、経済波及効果は約2兆円を見込みます。


遊びの神話』(PHP文庫)

 

会場は約155ヘクタール。各国のパビリオンが並び、「空(くう)」と名付けた5か所の大広場を設ける「パビリオンワールド」、水上に網目状の通路とVIP用の迎賓施設がある「ウォーターワールド」、緑地や既存の太陽光発電施設を生かした「グリーンワールド」の3エリアに分け、AR(拡張現実)やMR(複合現実)など最新技術を活用した展示を行います。1970年万博の「太陽の塔」のようなシンボルや中心施設は設けません。隣接地にはカジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致計画があるとか。
わたしは、かつて広告代理店で「花と緑の博覧会」「横浜博覧会」「アジア太平洋博覧会」といった博覧会ビジネスを目の当たりにしてきました。拙著『遊びの神話』(東急エージェンシー、PHP文庫)には、万博の歴史や理念、未来の万博などについて詳しく書きました。シンボルや中心施設は設けないとのことですが、絶対に必要です!

 
ヤフー・ニュース」2017年3月14日より

 

わたしは、2017年3月14日のヤフー・ニュースのTOPに「大阪万博 新たなテーマ公表」という記事を見つけました。松井一郎大阪府知事は「東京が二度目なら大阪も二度目を」とばかりに、「大阪万博」誘致に前のめりだそうですが、わたしは基本的に「万博の時代は終わった」と考えています。それであまり興味はなかったのですが、何気なく記事を読んでみると、以下のように書かれていました。
「大阪での誘致を目指す2025年の万博については、当初『健康と長寿』がテーマでしたが、若者に関心を持たれにくいということで13日、新たなテーマが公表されました。2025年、大阪万博の新テーマに掲げることになったのは『いのち輝く未来社会のデザイン』。では、このテーマに沿って具体的に万博で何を見せるのか? 
資料をじっくり読むと・・・・・・。『万博婚。遺伝子データを活用したマッチングなど、新しい出会いを応援する』(パビリオン案「万博婚」)
展開事例として、実に挑戦的な案が並んでいました。ほかにも“Memento Mori(死を思え・ラテン語)”。人間が生を感じるのは死を身近に感じる瞬間が多いということで、“太陽の塔”ならぬ“天国の塔”からバンジージャンプするパビリオンです。
一方、パワードスーツに身を包んだ高齢者とたくましい肉体の若者が、ヒップホップなどのダンスで対決するというもの。その姿を通して、全世代を元気付ける企画だそうです。実はこれらは8年後の万博の主役、いまの若者から募集していたアイデアでした」

 

おおっ! 万博婚! 天国の塔! 
なんと素晴らしい企画でしょうか!
パワードスーツやヒップホップなんか、どうでもいい!
万博婚や天国の塔は「結婚」と「死」をメインテーマにしているわけですから、これは「冠婚葬祭万博」と呼べるかもしれません。経済産業省は互助会をはじめとした冠婚葬祭業界を管轄する省庁ですから、広く業界に協力を呼びかけることでしょう。この万博で、未来の結婚式や葬儀が提案されれば素敵ですね。

 

わたしは、7歳のときに両親に大阪万博に連れて行ってもらいました。ブログ「太陽の塔」で紹介した岡本太郎がデザインした「太陽の塔」、ブログ『昭和ちびっこ未来画報』で紹介した「三菱未来館」といった超人気施設は、あまりに待ち時間が長いので断念しました。でも、万博の公式ガイドブックに掲載されている「三菱未来館」や「太陽の塔」の内部を紹介した図解を穴があくほど見つめた記憶があります。

 

あの頃、子どもたちにとって「未来」はキラキラ輝いていました。今の子どもたちにとって、「未来」はどのような存在なのでしょうか。それにしても、「メメント・モリ」とか「天国の塔」とか、ムチャクチャ魅力的ではないですか! もしかして、わたしのために企画してくれたのではないでしょうか?(笑)
2025年の大阪万博が楽しみになってきました!
最後にもう一度、「太陽の塔」のようなシンボルや中心施設は設けないといいますが、絶対に設けたほうがいいです。「天国の塔」を作りましょう!

 

2018年11月24日 一条真也

『結婚の嘘』

結婚の嘘

 

一条真也です。
『結婚の嘘』柴門ふみ著(中央公論社)を読みました。
少し前にFOD(フジテレビ・オン・デマンド)で配信されていたドラマ「東京ラブストーリー」を全話観直しました。その後、柴門ふみ氏によるドラマの原作マンガおよび『東京ラブストーリー After25years』を読み、流れで同氏の『同窓生』を読んだら面白かったので、さらに同氏の最新作である『恋する母たち』を読んだら、これまた非常に面白かったです。

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本書の帯

 

今年で還暦を迎える著者は、1957年徳島県生まれ。お茶の水女子大学卒。79年漫画家デビュー。代表作に『P.S.元気です、俊平』『あすなろ白書』『東京ラブストーリー』など。『東京ラブストーリー』はドラマ化されて社会現象となり、著者は「恋愛の教祖」と呼ばれました。夫は『島耕作』シリーズなどをてがける漫画家の弘兼憲史氏です。
本書のカバー表紙には和装姿で笑顔の新郎新婦のイラストが描かれており、帯には「相手は変わらない。変えられるのは、自分の気持ちだけ。」と書かれています。帯の裏には「夫が『いい人』であることと、『結婚生活の不満』は別問題なのです」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

また、カバー前そで、および扉には、著者が1988年に31歳で出版した『愛についての個人的意見』(PHP研究所)の中に登場する以下の言葉があります。
「結婚生活とはいわば冷蔵庫のようなものである。
冷蔵庫に入っている限られた素材で、いかにおいしいご馳走を作り出すか、それに似ている。
決して、他人の冷蔵庫を羨ましがらないことだ」

 

愛についての個人的意見 (PHP文庫)

愛についての個人的意見 (PHP文庫)

 

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「『東京ラブストーリー』をはじめ、数々のヒット作を描き『恋愛の教祖』といわれる柴門さんですが、『夫婦関係』については多くを語っていません。2015年に『婦人公論』に掲載された夫・弘兼憲史さんとの赤裸々な夫婦の関係が読者やマスコミで大きな話題となりました。それをもとに、『夫婦』『結婚』『男と女』について、40年近くの自身の結婚生活や生い立ち、漫画を描く上でのリサーチなどをもとに踏み込む語り下ろし。これから結婚を考える若者向けの単なる結婚ハウツー本ではなく、現在結婚している層、人間関係に悩む人に『生き方・考え方』を提案できる本」」

 

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

序文

第一章 結婚観の嘘

第二章 結婚の誓いの嘘

第三章 夫婦は理解し合えるという嘘

第四章 結婚生活はやり直しができるの嘘

第五章 結婚生活がうまく行くというHOW TO本の嘘

第六章 老夫婦の絆は深まるの嘘

 

序文「問題のない結婚生活を送っている人などいない」で、著者は以下のように書いています。
「夫から妻に贈る結婚記念日のダイヤモンドの広告に心を乱してはいけません。ファミリーカーや電化製品のCMに出てくる家族を見て、なぜ私たちの家庭はこうではないのかと落胆する必要はありません。幸せなワンシーンを切り取っただけの、あれは幻想。『嘘』なのです」

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「どんなに幸せそうに見える人も、それはその人の幸せな側面を見ているだけ。女同士の話は赤裸々だといいますが、あけすけなようでいて話せるのはここまで、という線引きはハッキリしているように思います。家庭の事情は他言しないと決めている人も大勢います。ママ友や仕事仲間のおつきあいの中ではもちろんのこと、心を許した友人や姉妹にさえ」

 

さらに、著者はこう述べるのでした。
「モヤモヤとしているのは自分だけだと思えば不満は拡大してしまいますが、みんなそうなんだと思えば乗り越えられるということがあります。自分は可哀想な妻などではなく、不満を抱くのが結婚生活のスタンダードなのだと知れば救われます。膨らんでしまった被害妄想や自己憐憫を手放せば、幸せに気づくことだってできるかもしれません」

 

第一章「結婚観の嘘」では、「県民性の違いは侮れない」として、著者は以下のように述べています。
「人は自分とは異質な人に強く惹かれるといいますが、恋愛はともかく、結婚は同質の人としたほうがいいといえそうです。国際結婚も、価値観や生活習慣の大きな違いから、離婚に至るケースも多いようです。こんな狭い日本においてすら、さらに同じ地域で生まれ育った人を選んだほうが無難と私は思えるのです。気持ちが大きく盛り上がることもない代わりに、大ハズレもないように思います」

 

第二章「結婚の誓いの嘘」では、「感情を分かち合う相手がいる救い」として、著者は以下のように述べます。
「女は結婚生活の中で、妻として、母として成長し、変貌を遂げていきます。ところが結婚しても基本的に独身時代と生活形態の変わらない男たちは、いつまでも青春時代のまま。バイクだ、ゴルフだ、夜の街だといつまでもフラフラしている。このことに対して多くの妻たちが『ずるい!』と不満を募らせているのです」

 

また、「花嫁衣裳の白無垢は死装束」として、著者は「花嫁衣装の白無垢は実家に対する死装束なのだと知って愕然としました。角隠しは、ムカッときて頭に生える『角』を隠すことを意味します。日本において結婚式というのは、結婚生活は苦労が多いことを前提として行う儀式なのです」と述べ、さらに、神主は「あなたは好き好んで忍耐と屈辱を強いられる人生を選びました。自由だった昨日までのあなたは死にました。生まれ変わり、今日を限りに苦労の中へ飛び込みますが、よろしいですね? みんなの前で誓いを立てて覚悟を決めてくださいね」と促していると指摘します。

 

こんな神前結婚式について、著者は「一体、どこがオメデタイのでしょうか?もちろん結婚生活には、新しい家族を得たりと楽しいこともたくさんあります。とはいえ、なにやらトリッキーな儀式を経て幕を開ける新しい生活に対し、『こんなはずではなかった』と思う人がいるのは当然といえば当然だと思います」
このくだりは、儀式について毎日考えているわたしからすると賛成できる部分と異議を唱えたい部分の両方があります。

 

結魂論―なぜ人は結婚するのか

結魂論―なぜ人は結婚するのか

 

 

 『結魂論』で詳しく述べましたが、日本の結婚式には離婚をしにくくさせるノウハウが無数にありました。仲人や主賓の存在、結納という儀式、文金高島田の重さや痛さ、大人数の前でのお披露目。どれも面倒でストレスのかかることばかりです。もうこんな大変なことは二度とやりたくない、それが安易な離婚の抑止力になっていた。昨今はカジュアルな合コンの延長のような感覚で結婚パーティーを開いてしまうから、簡単に離婚してしまうのではないでしょうか。

 

わたしが経営する冠婚葬祭会社サンレーが意識しているのは、離婚発生率の低い結婚式場の運営です。結婚式場はいわば「夫婦工場」ですから、その製品である夫婦が離婚するということは、不良品や粗悪品を製造していることにほかなりません。離婚しない夫婦を作ることは最もお客様の利益、幸福につながると思うのです。そのためにはやはり儀式を大切にすることです。わが社のスタッフはお客様に儀式の大切さをしっかりとお伝えしており、たとえば松柏園ホテルでは年間150組ほどの結納・顔合わせが行われています。

 

儀式論

儀式論

 

 

結納とは「結び納める」ことです。昨今のイージーな結婚式だと蝶々結びのようにすぐにほどけてしまう。結納は簡単にほどけないようにぐるぐると固く結ぶ儀式なのです。ブライダル業界はついついパーティーの提案ばかりに力を入れがちです。業界として、儀式をもっと重要視し、その大切さを訴えていくべきだと思います。わたしは『儀式論』(弘文堂)で、儀式の重要性を強く訴え、カタチにはチカラがあることを具体的に説きました

 

恋愛論

恋愛論

 

 

さて、著者の柴門氏は33歳の時に出版した『恋愛論』(PHP研究所)という本の中で、「恋愛ほど美しいものはない」と書いていますが、本書では「恋愛の正体は性欲」として、以下のように喝破します。
「じつは恋の正体は性欲なのです。性欲を美しく衣付けしていただけなのだと、60歳を前に性欲が枯れてきてはっきりと私は認識しました。同窓会で初恋の彼と会っても『どうしてこんな人が好きだったのか?』と不思議でならなかったのですが、こちらに性欲がなくなった以上、いかにセクシーな男であってもピンとこなくなってしまったということでしょうか。人は性的に惹きつけられる人にしか『恋』はしない。性欲がなくなると、興味の対象は男でなくても、犬でもガーデニングでもいいやということになるのです」

 

女性でよくここまで正直に書けたものだと感銘すら受けますが、さらに著者は「『愛している』に依存しない」として、以下のように述べています。
「作家の故・渡辺淳一さんは、『いわゆる女性への褒め言葉は、心を入れたら恥ずかしくて言えない。でも、心を入れずに言っても相手は喜ぶんだから言ったほうがいいんだ』とおっしゃっていたそうですが、本当にその通りだと思います。取材で知り合った千人斬りだという三十路の男性も、『息を吸うように女を口説く』『本気で惚れていたら、相手の反応が怖くて「愛してるよ」なんて簡単に言えるものじゃない』と豪語していました」

 

ベストセラーになった『恋愛論』の中で、著者は「恋とは稲妻に打たれるようなものだ」としたうえで、

1.相手に会いたい

2.相手のことをもっと知りたい

3.相手と寝たい

この3つがそろえば恋であると定義づけています。

 

そして著者は、「恋」と「愛」とは違うもので、「愛」とは相手に対する感情移入だと書いています。激しい思いである「恋」と、穏やかな思いである「愛」が合体した結果として生まれるのが、「恋愛」なのだというわけです。著者は「手軽な恋は手軽に終わる」として、こう述べています。
「人生の中で3回恋愛することができたら大儲け、1度でも両想いの恋ができれば幸せだというのが持論ですが、たまにしか訪れないからこそ、恋愛の記憶はかけがえのない思い出として、人の心の中で輝き続けるのではないでしょうか」

 

さて、この世で一番好きな相手を結婚することが最も幸福なことなのでしょうか。この問題について、著者は「世界で一番好きな男と結婚することの不幸」として、「恋愛関係であっても、夫婦関係であっても自分以外の人の心を縛ることはできません。男女関係は『縁があれば続く』としか言えない不確かなものなのです。もしかしたら、『好きの総量』はあらかじめ決まっているのかもしれません。総量が100だとして、『好きの度合い×時間』という計算式を当てはめるなら、100のエネルギーで愛すれば1年で終わるし、20しか好きじゃなければ5年もつ・・・・・・」などと述べています。卓見だと思います。

 

世界で一番好きな人と結婚した女性は幸せかもしれませんが、それで安泰というわけではありません。
著者は、以下のように述べています。
「大好きな人と結婚などしたら、気が抜けず、息もできない。夫の行動に神経を尖らせ、言葉を真に受けて動揺し、『好き』という気持ちの裏にぴったりと張り付いた、独占欲や嫉妬心に支配されながら生きていくなんて苦しすぎます。そんな結婚生活は、穏やかな幸せとは無縁です。結婚生活に必要なのは、男女愛ではなく家族愛。このことを若い世代の女性たちにしっかりと伝えていくことが、私たち世代の女性の使命なのだと私は考えています」

 

さらに著者は「結婚は互助会である」として、以下のように述べるのでした。
「私は、『結婚は互助会だ』と捉えることで楽になりました。病気になった時に病院へパジャマを届けてくれたり、支払いをしてくれたり、他人には頼めないことをやってくれる人材だと割り切れば、夫はやはりありがたいものです。そんなことは姉妹だって、子どもだってしてくれるという声が聞こえてきそうですが、それぞれの生活があると思うと意外と頼みづらいもの。重いものを持ってくれる、電球を取り替えてくれるなど、労働力としての男手は、女性主観で見れば結婚のメリットの1つと言えます」

 

困難な結婚

困難な結婚

 

 

この考えは、ブログ『困難な結婚』で紹介した内田樹氏の著書の内容にも通じます。同書で内田氏は「結婚しておいてよかったとしみじみ思うのは『病めるとき』と『貧しきとき』です。結婚というのは、そういう人生の危機を生き延びるための安全保障なんです。結婚は『病気ベース・貧乏ベース』で考えるものです」と述べています。これを読んで、わたしは、基本的に内田氏の発言に賛同しつつも、夫婦の本質である「安全保障」を別の四文字熟語で置き換えたいと思いました。それは「相互扶助」です。

 

「相互扶助」を二文字に縮めれば、「互助」となります。そう、互助会の「互助」です。そういうふうに考えれば、夫婦というのは、じつは互助会であることに気づきます。童話の王様ハンス・クリスチャン・アンデルセンは「涙は世界で一番小さな海」という言葉を残していますが、わたしは「夫婦は世界で一番小さな互助会」という言葉をブログに書きました。すると、本書『結婚の嘘』に著者の柴門氏が「結婚は互助会である」と明言されていたので、我が意を得た思いがしました。

 

第三章「夫婦は理解しあえるの嘘」では、著者は「男は『型』を優先する」として、こう述べます。
「子連れの女性と結婚する男は一見寛大に見えますが、じつはそれは子どもに対する男女の意識の違いから生じる勘違いに過ぎない場合があります。そばにいて毎日毎日愛情を注ぐというのが女の我が子に対する愛情のかけ方ですが、男は違います。もちろん例外はありますが、多くの男は子育ては妻の仕事だと考えているし、自分が毎日面倒を見るわけでもないので、経済的な算段が立ちさえすれば、結婚相手が子連れであろうと問題はないと考えるのです」

 

第五章「老後は夫婦の絆が深まるの嘘」では、「年を重ねれば人間ができてくる!?」として、著者は以下のように述べています。
「一頃、キレる老人が急増していると話題になっていました。ことの発端は、小学生にたばこのポイ捨てを注意された老人が、小学生の音を絞めたという事件だったように記憶しています。事件を起こした老人は極端な例だとしても、そもそも年を重ねれば人間ができてくるなどというのは嘘なのです。
老人がキレやすくなるのは脳の老化によるものなのだとか。難しいことはわかりませんが、若い頃には機能していた理性という名の筋肉が、老いると緩んでくるのではないかと私は推測しています」

 

最後に、著者は夫婦の「縁」について述べます。
「夫婦の縁とは何か?」と訊かれたら、著者は「相性」だと答えるそうです。「縁とは『相性』のこと」として、著者は以下のように書いています。
「なんだかんだいっても、長年連れ添う夫婦は相性がいいのです。喧嘩ばかり繰り返す夫婦であっても、破れ鍋に綴じ蓋。夫の愚痴をこぼしている人も、夫のことを話題にしているうちは、本人が思うほど深刻ではないともいえそうです」

 

そして、著者は、「本当に夫のことが嫌いなら、夫のことなど口にするのも不愉快だと感じ、心から抹殺してしまうのではないかと思うのです。重ねてきた日々は嘘をつきません。辛いことばかりならとっくの昔に別れていたはず。自分の意思で一緒にいるのだということ、そして縁があるのだと認めることが、心に折りあいをつけ、『これでよかったのだ』と思う気持ちに通じているのではないでしょうか」と述べるのでした。

 

黄昏流星群 TVドラマ化記念特別編 (My First Big SPECIAL)
 

 

著者の夫である弘兼憲史氏は、TVドラマ化も今年された『黄昏流星群』という大人の恋愛や不倫をテーマにしたマンガで知られています。妻である著者も最新作『恋する母たち』をはじめ、不倫は作品の大きなテーマとなっています。そんな夫婦生活を営んできた方から、上記のような言葉が出てきたことに、わたしは「やっぱり結婚はいいものだ」と思ってしまいました。

 

結婚の嘘

結婚の嘘

 

 

2018年11月24日 一条真也

 

『燃えつきるまで』

燃えつきるまで (幻冬舎文庫)

 

一条真也です。
めっきり寒くなってきましたね。11月22日は「いい夫婦の日」でしたが、わたしは東京から北九州に戻って妻と久々に夕食を共にしました。
さて、『燃えつきるまで』唯川恵著(幻冬舎文庫)を紹介します。ブログ「本と映画とグリーフケア」で紹介した上智大学グリーフケア研究所での講義で取り上げた小説です。グリーフケアの対象となる悲嘆には、大切な人との死別の他にも多くのものがあります。本書は失恋という理不尽な悲しみを真正面からとらえた小説です。著者は、1955年金沢市生まれ。金沢女子短期大学を卒業後、銀行勤務を経て作家に。2002年に「肩ごしの恋人」で第126回直木賞を受賞しています。

 

本書のカバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「恋も仕事も順調だった31歳の怜子は、5年付き合い、結婚も考えていた耕一郎から突然別れを告げられる。失恋を受け入れられず、苦しむ怜子は、最優先してきた仕事も手に付かず、体調を崩し、精神的にも混乱する。そして、友人の『好意』から耕一郎に関するある事を知らされた怜子は・・・。絶望から再生までを描き、誰もが深く共感できる失恋小説」

 

わたしも小説は読むほうですが、この作品は「失恋」というテーマを扱った作品としては最高傑作ではないかと思います。自分が女性で失恋経験者だったら、ボロボロに泣きながら読まずにはおれないようなリアルな小説でした。
耕一郎に失恋した怜子は、どうしても気持ちを整理できずに、「なぜ、ダメになったのか」の理由を考え続けますが、答は見つかりません。心変わりした相手の気持ちとうのは、どうやっても思い通りにならないもの。

 

そんなとき、怜子は友人の真樹子から耕一郎に新しい恋人ができたことを知らされます。その女性が自分よりもずっと年上のキャリアウーマンで、離婚歴まであることを知った怜子は冷静さを失い、彼女を尾行して耕一郎との逢引きの現場を目撃するのでした。そのときの怜子の心中を、著者は以下のように書いています。

 

 想像というより、妄想だ。
 怜子はそれと戦うことに疲れ果てていた。 
 あの後、ふたりがどんなふうに過ごしたか。どこで食事をし、どんな会話をし、どんなふうに視線を絡め、時々くすくすと笑い合い、ほんのり酔って手をつなぎ、キスをして、ベッドに入って、セックスをする。怜子にしたと同じことを、あの女にする。囁きも吐息も、怜子をとろけさせたあの指も、今はすべてあの女のものだ。
(『燃えつきるまで』幻冬舎文庫版P.124)

 

怜子は「自分は嫉妬している」とはっきり意識しながらも、「どうしてあの女なのだろう」と疑問に思います。「年上の、仕事好きの、さほど美しくもなく、おまけに離婚歴まである」女に本当に耕一郎は惹かれているのだろうかと不思議でなりません。自分と別れてから2ヵ月足らずで別の恋人を作ったことも気に入りませんが、百歩譲ってそれは良しとしても、それならせめて自分とはまったく違う相手であって欲しかったと怜子は思うのでした。

 

  若くて、可愛らしくて、仕事よりも家事が好きで、趣味はケーキ作りとフラワーアレンジメント、小説は恋愛ものしか読まず、口紅はピンク系を選ぶような、ウェディングドレスはバルーンのように広がったものを好みそうな、そんな女の子であって欲しかった。それなら、ほんの少しの軽蔑を含ませて、祝ってあげることができたように思える。それが、あの女だ。
 いわば、怜子と同じカテゴリーに含まれる。言ってみれば、怜子の方が価値がないと言われたようなものではないか。あの女より劣っていると真正面から突き付けられたようなものではないか。
 その夜は、ほとんど眠れなかった。
(『燃えつきるまで』幻冬舎文庫版P.125)

 

 そのうち、怜子は耕一郎が新しい恋人とバリ島へ旅行に行くことを知り、ショックを受けます。まだやり直せるのではないか、あの女と別れて自分のところへ戻ってくるのではないかという淡い期待が消えてしまった怜子は、以前の耕一郎と行った国内旅行の代金を立て替えていたことを思い出し、耕一郎に電話をかけて立替え分を返してほしいと告げます。その後、怜子はまた深く落ち込みます。

  

 何ていやな女なんだ。
 耕一郎はそう思ったに違いない。たとえ別れてしまっても、この世でいちばん好きな男に、この世でいちばん嫌われることになってしまった。あんな女と自分は付き合っていたのか、別れて正解だったと、耕一郎は思っているだろう。二度と顔も見たくない、思い出したくもない、そんな存在になってしまった。(『燃えつきるまで』幻冬舎文庫版P.159~160)

 

怜子は「あんなことをするつもりじゃなかった」と激しく後悔します。本来、自分はそんなケチ臭いことをする女じゃないと思い、「そうさせたのは、みんな耕一郎のせいだ」と自分に言い聞かせます。耕一郎があんな女を自分よりもずっとずっと大切にし、自分は国内旅行だったのに、あの女とはバリになんか行くからだというわけです。しかし、いくら耕一郎を恨んでも気分は晴れません。

 

 憂鬱はタチの悪い風邪のように、しつこく怜子を痛めつけた。実際、体調が悪く、生理はいつもより5日も早くきたし、ちょっとしたことで腸がぐるぐるいいだし、通勤電車の吊り革に摑まりながら脂汗をかかなければならない時もあった。肌の調子も相変わらず戻らない。額のラインにできた吹出物は、いつまでもぐずぐずと赤い腫れがひかないでいた。(『燃えつきるまで』幻冬舎文庫版P.159~160)

 

怜子は乱れる心を落ち着かせるために、酒も飲みました。しかし、飲めば飲むほど、暗闇のような悲しさが身体の奥底から込み上げてきて、「私の何が悪かったの?」「あの女のどこがいいの?」という死ぬほど繰り返した自分への問いかけを、また一から始めてしまいます。少しづつ重ねた積木を自分で壊し、またひとつめから重ね始めるように、同じことを性懲りもなくやってしまいます。そんな怜子が待っているのは次の段階でした。

 

    思い切り泣いて、思い切り自問自答した後、気の抜けたような「もう、いいや」がやってくる。そうして強気の自分が顔を覗かせる。
 どうせなら、私から別れを宣告してやればよかった。今の自分は、耕一郎を失ったことばかりでこうなっているわけではなく、別れを切り出したのが耕一郎だったということが許せないだけだ。あんなに好きだと言っていたくせに、あんなに結婚してくれと頼んだくせに。その耕一郎にふられたという腹立たしさから派生しているのだ。自尊心の問題であって、決して未練じゃない。
 うまくいけば「耕一郎より、ずっとレベルの高い男を見つけてやるわ」と意気揚々とした気分になれる。そうなってくれれば、後は一気にベッドに潜り込む。
(『燃えつきるまで』幻冬舎文庫版P.164)

 

耕一郎と彼女が結婚するという事実を知り、怜子は理性を失います。二人に憎悪、怒り、焦りが、怜子を犯罪行為に走らせます。第三者から見れば間違った行動だろうと思えるでしょうが、当事者の気持ちもよくわかります。怜子と同じ理不尽な失恋をした読者なたなおさらでしょう。著者は、ある日突然、自分を奈落の底に突き落とした相手だけが幸せになってゆくことに対する感情をリアルに描いています。そして、以下の一文が失恋という理不尽な出来事の本質を見事にとらえていると思いました。

 

 たかが恋愛じゃないか、と思う。
 たかが失恋、たかが男。そんなことに我を失うほど振り回されているなんてあまりに情けない。世の中にはいろんな事件が起きている。環境問題、経済問題。いったいどれほどの子供たちが飢えで苦しんでいるだろう。平和は崩れ、テロはくり返され、戦争は終わらない。どれだけの人間が命を落としているだろう。もっと世界に目を向けるべきだ。もっと大きな目を持つべきだ。そうしたら、つまらないことに捕らわれている自分が恥ずかしくなるから。自分がいかにみみっちいことをやっているか気付くから。 
 新聞もニュースも、どうでもよかった。世の中がどうなろうと関係なかった。明日、地球に隕石がぶつかるなら、勝手にそうなればいいと思った。問題は戦争でも飢饉でもない。耕一郎があの女が結婚することだ。(『燃えつきるまで』幻冬舎文庫版P.208~209)

 

著者が描き出す女性特有の怖さや執念深さの描写が本当にリアルです。いわゆるハッピーエンドではないかもしれませんが、失恋というグリーフを経験したことがある人なら、誰でも深く共感できる作品です。読み終えたとき、過去の悲しみをなつかしく思い出すとともに、現在の配偶者や恋人に対して「自分を選んでくれて、ありがとう」という感謝の念が湧いてくるような小説です。

 

燃えつきるまで (幻冬舎文庫)

燃えつきるまで (幻冬舎文庫)

 

 

2018年11月23日 一条真也

本と映画とグリーフケア

一条真也です。東京に来ています。
21日の朝は気温7度以下の寒さでした。
その日は早朝から議員会館で国会議員の先生方との朝食会、その後は西新橋で互助会保証の取締役会の事前打ち合わせ、全互協の正副会長会議と委員長会議に出席。そして、夜は客員教授を務める上智大学グリーフケア研究所で講義を行いました。この日は「朝日新聞」の取材が入りました。夜空には幻想的な月が輝いていました。

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早朝の東京

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上智大学を照らす月

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もうすぐクリスマス!

f:id:shins2m:20181121175806j:plain上智大学の正門前で

f:id:shins2m:20181121180409j:plain講義を行った6号館の外観

f:id:shins2m:20181121180847j:plain6号館の中で

 

先週、ブログ「グリーフケアと葬儀」で紹介した講義に続いての講義となります。テーマは「グリーフケアと読書・映画鑑賞」でした。当初は「グリーフケアと読書」の予定でしたが、島薗所長と鎌田副所長からブログ「上智大『グリーフケア映画』講義」で紹介した昨年の特別講義が非常に良かったので、「ぜひ今年もお願いしたい」というリクエストがあり、急遽、「読書」に「映画鑑賞」を追加した次第です。

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なんとかパワポを操作しました

 

2010年6月、わが社では念願であったグリーフケア・サポートのための自助グループを立ち上げました。愛する人を亡くされた、ご遺族の方々のための会です。月光を慈悲のシンボルととらえ、「月あかりの会」という名前にしました。同会で行っている読書会や映画鑑賞会の実例などについて話しました。事前に再生OKだった動画が再生できず焦りましたが、上智大で随一のIT通の学生さんに助けられて、なんとかパワポを操作しました。


なぜ、読書が悲しみを癒すのか?

 

まずは読書ですが、もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能があります。たとえば、わが子を失う悲しみについて、教育思想家の森信三は「地上における最大最深の悲痛事と言ってよいであろう」と述べています。じつは、彼自身も愛する子供を失った経験があるのですが、その深い悲しみの底から読書によって立ち直ったそうです。本を読めば、この地上には、わが子に先立たれた親がいかに多いかを知ります。自分が1人の子供を亡くしたのであれば、世間には何人もの子供を失った人がいることも知ります。これまでは自分こそこの世における最大の悲劇の主人公だと考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟るのです。

f:id:shins2m:20181121184400j:plain死が怖くなくなる読書』に沿って本を紹介

 

長い人類の歴史の中で死ななかった人間はいません。愛する人を亡くした人間も無数に存在します。その歴然とした事実を教えてくれる本というものがあります。それは宗教書かもしれませんし、童話かもしれません。いずれにせよ、その本を読めば、「おそれ」も「悲しみ」も消えてゆくでしょう。わたしは、そんな本を『死が怖くなくなる読書』(現代書林)で紹介しました。同書で紹介した50冊の本についても講義で1冊づつ紹介し、最新のおススメ本にも言及しました。 


「ハートフル・ファンタジー」とは何か 

 

さらに、わたしはグリーフケアに絶大な力を発揮する「ハートフル・ファンタジー」について話しました。わたしは、かつて『涙は世界で一番小さな海』(三五館)という本を書きました。そこで、『人魚姫』『マッチ売りの少女』『青い鳥』『銀河鉄道の夜』『星の王子さま』の5つの物語は、じつは1つにつながっていたと述べました。ファンタジーの世界にアンデルセンは初めて「死」を持ち込みました。メーテルリンクや賢治は「死後」を持ち込みました。そして、サン=テグジュペリは死後の「再会」を持ち込んだのです。


涙は世界で一番小さな海』(三五館)

 

一度でも関係をもち、つながった人間同士は、たとえ死が2人を分かつことがあろうとも、必ず再会できるのだという希望が、そして祈りが、5つの物語には込められています。「死」を説明するために、人は「医学」や「哲学」や「宗教」を頼りにしますが、他にも「物語」という方法があるのです。いや、物語こそが死の本質を語れるのかもしれません。


死が怖くなくなる読書』(現代書林)


死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

「読書」の次は「映画鑑賞」です。『死を乗り越える映画ガイド』をテキストとしましたが、同書のテーマは、そのものズバリ「映画で死を乗り越える」です。わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を封印する芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。


写真と映画の相違について

 

それは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。


映画とは何か?

 

そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないでしょうか。『唯葬論』(サンガ文庫)でも述べたように、わたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思っています。そう、映画を観れば、わたしは大好きなヴィヴィアン・リーオードリー・ヘップバーングレース・ケリーにだって、三船敏郎高倉健菅原文太にだって会えるのです。


映画は総合芸術

 

古代の宗教儀式は洞窟の中で生まれたという説がありますが、洞窟も映画館も暗闇の世界です。暗闇の世界の中に入っていくためにはオープニング・ロゴという儀式、そして暗闇から出て現実世界に戻るにはエンドロールという儀式が必要とされるのかもしれません。そして、映画館という洞窟の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思います。なぜなら、映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。


映画館という「洞窟」の内部

 

闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。つまり、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為にほかならないのです。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのですが、それもそのはず。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっているのでした。

 

 

 

 

 

 

その後は、個別の映画作品について語りました。
死を乗り越える映画ガイド』の章立てをもとに5つのテーマに分け、1「死を想う」では「サウルの息子」を、2「死者を見つめる」では「おみおくりの作法」と「おくりびと」を、3「悲しみを癒す」では「岸辺の旅」を、4「死を語る」では「エンディングノート」を、5「生きる力を得る」では「リメンバー・ミー」を取り上げました。


一条真也の読書館」TOPページ

一条真也の映画館」TOPページ

 

グリーフケア」にしろ、「修活(終活)」にしろ、一番重要なのは、死生観を持つことだと思います。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。一般の方が、そのような死生観を持てるようにするには、読書と映画鑑賞が最適だと思います。本にしろ、映画にしろ、何もインプットせずに、自分1人の考えで死のことをあれこれ考えても、必ず悪い方向に行ってしまいます。ですから、死の不安を乗り越えるには、読書で死と向き合った過去の先人たちの言葉に触れたり、映画鑑賞で死に往く人の人生をシミュレーションすることが良いと思います。 この日は、そんなことを話しました。

 

過去のすべての講義を振り返っても、この日は受講生の方々の反応を最大級に感じました。多くの質問をお受けしましたし、最後はこれまでにない大きな拍手も受けて感動しました。講義後は、近くのレストランで「朝日新聞」の取材を受けました。記者の方にもお話しましたが、グリーフケアの研究と実践はわたしの天命だと思っています。これからも全身全霊で、この道を歩んで行く覚悟です。すべての愛する人を亡くした人に幸あれ!

 

愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙

愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙

 

 

2018年11月22日 一条真也

「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」 

一条真也です。
20日の朝、北九州から東京へ。
14時から全互協の儀式継創委員会に担当副会長として出席しました。終了後は有楽町で出版関係の打ち合わせをした後、ヒューマントラストシネマ有楽町で映画「A  GHOST  STORY/ア・ゴースト・ストーリー」を観ました。タイトルそのままに幽霊が登場する映画で、グリーフケアに関わっていることを思わせる内容です。翌21日に客員教授を務める上智大学グリーフケア研究所の講義を行いますが、そのテーマが「本と映画とグリーフケア」なので、講義の最新ネタを拾う目的もあって観たのです。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「事故死した男が幽霊になって残された妻を見守る姿を描いたファンタジー。シーツ姿の幽霊としてさまよい続ける夫を『マンチェスター・バイ・ザ・シー』などのケイシー・アフレック、彼の妻を『キャロル』などのルーニー・マーラが演じる。メガホンを取るのは、二人と『セインツ ー約束の果てー』で組んだデヴィッド・ロウリー監督」 

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ヤフー映画の「あらすじ」には、こう書かれています。
「若夫婦のC(ケイシー・アフレック)とM(ルーニー・マーラ)は田舎町の小さな家で幸せに暮らしていたが、ある日Cが交通事故で急死してしまう。病院で夫の遺体を確認したMは遺体にシーツをかぶせてその場を後にするが、死んだはずのCはシーツをかぶった状態で起き上がり、Mと暮らしていたわが家へ向かう。幽霊になったCは、自分の存在に気付かず悲しみに暮れるMを見守り続ける」

 

この映画、タイトルの通りにゴースト、つまり幽霊が登場します。ちょっとオバQを連想させる外見なのですが・・・・・・幽霊が登場する映画といえばホラーというイメージがありますが、この映画はホラーというエンターテインメント映画ではありません。アート系の映画です。まるで「詩」のような映画と言ってもいいでしょう。この映画に出てくるゴーストは家に憑きます。いわゆる「地縛霊」というやつでしょうか。


死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

この映画のゴーストは空間に縛られますが、時間には縛られません。自由自在に過去や未来を行き来します。そのあたりに「?」という矛盾を感じる部分もあったのですが、あくまでも幽霊の時間感覚で描かれた喪失と記憶のファンタジーというところなのでしょう。わたしは『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で、映画の本質とは「死者と再会すること」、そして「時間を超えること」と指摘しましたが、まさにこの映画はそれを体現している作品でした。

 

同書の中には「ホラー映画について」というコラムが収録されています。何を隠そう、わたしは三度の飯よりも、ホラー映画が好きです。あらゆるジャンルのホラー映画のDVDやVHSをコレクションしていますが、特に心霊系のホラーを好みます。
そういえば、「ゴースト ニューヨークの幻」というハリウッド映画もありました。冠婚葬祭業の経営者が心霊ホラー好きなどというと、あらぬ誤解を受けるのではないかと心配した時期もありました。しかし、今では「死者との交流」というフレームの中で葬儀と同根のテーマだと思っています。


唯葬論』(サンガ文庫)

 

「葬儀」と「幽霊」といえば、わたしは『唯葬論』(サンガ文庫)の「幽霊論」で、「葬儀」と「幽霊」は基本的に相容れないと述べました。葬儀とは故人の霊魂を成仏させるために行う儀式です。葬儀によって、故人は一人前の「死者」となるのです。幽霊は死者ではありません。死者になり損ねた境界的存在です。つまり、葬儀の失敗から幽霊は誕生するわけです。ちなみに、この映画には葬儀のシーンが一切登場しません。未亡人のMが亡夫Cの葬儀を行ったのかどうかさえ定かではありません。

 

誤解を恐れずに言えば、わたしはこれからの葬儀には「幽霊」というビジュアル作りが必要になってくるように思っています。とはいえ、その「幽霊」とは恐怖の対象ではありません。あくまでも、それは愛慕の対象でなければなりません。生者にとって優しく、愛しく、なつかしい幽霊、いわば「優霊」です。ブログ「岸辺の旅」で紹介した黒澤清監督の日本映画などは代表的な優霊映画です。

 

怪談文芸ハンドブック (幽BOOKS)

怪談文芸ハンドブック (幽BOOKS)

 

ブログ『怪談文芸ハンドブック』で紹介した本で、著者の東雅夫氏は欧米の怪奇小説における「gentle ghost」というコンセプトを紹介しています。
「『gentle ghost』とは、生者に祟ったり、むやみに脅かしたりする怨霊の類とは異なり、絶ちがたい未練や執着のあまり現世に留まっている心優しい幽霊といった意味合いの言葉で、日本とならぶ幽霊譚の本場英国では、古くから『ジェントル・ゴースト・ストーリー』と呼ばれる一分野を成しています。私はこれに『優霊物語』という訳語を充ててみたことがありますが、あまり流行らなかったようです・・・・・」

 

 このジェントル・ゴースト・ストーリーは、英米だけでなく、日本にも見られる文芸ジャンルです。古くは上田秋成雨月物語』の「浅茅が宿」から、近くは山田太一の『異人たちとの夏』や浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』『あやし うらめし あな かなし』『降霊会の夜』、さらには荻原浩の『押入れのちよ』、映画化された岡田貴也の『想いのこし』、加納朋子の『ささら さや』(映画名は「トワイライト ささらさや」)なども典型的なジェントル・ゴースト・ストーリーであると言えるでしょう。このように、日本でもじつに多種多様な優霊物語の名作が書かれ、映画化されました。ブログ「母と暮らせば」で紹介した吉永小百合の主演映画も忘れられません。

 

 

それにしても、幽霊とは何か。
唯葬論』の「死者論」でも紹介した日本文学研究者の安永寿延は、「幽霊、出現の意味と構造」(河出書房新社『怪異の民俗学〈6〉幽霊』所収)という論考において、以下のような卓見を示しています。
「人間は死ぬことができる存在である。
それはとりもなおさず、人が希望だけではなく絶望をも享受しうるように、生を享受するだけでなく死をも享受しうることを意味している。
だが、生を享受できないものは死をも享受できない」

 

怪異の民俗学〈6〉幽霊

怪異の民俗学〈6〉幽霊

 

 

続けて、安永は以下のようにも述べています。
「人はしばしば死で持って生を飾ろうとする。だが、生で死を飾れなかったものが、死で生を飾れるはずがない。死を享受できないものには、死を了解することなどできない。つまりは、死んでも死にきれないのだ。
だからこそ、宗教は葬送の儀礼を、人が“第二の生”を生きるための通過儀礼とみなし、“第一の生”の不遇と“第二の生”の豊かさとが交換可能だと説いた。こうして死者がみずからその死の意味を解読し、了解可能として受け入れるなら、そこではじめて死者は死の世界を獲得し、そこに安息を見出す」

 

幽霊とは何か──500年の歴史から探るその正体

幽霊とは何か──500年の歴史から探るその正体

 

 

ブログ『幽霊とは何か』で紹介した本の著者であるイギリスの映画評論家ロジャー・クラークは、幽霊と人間の関係について、以下のように述べています。
「わたしたちが幽霊を愛するのは、死んだらどうなるのかを説明してくれるからだけではなく、彼らがわたしたちを過去に引き戻し、子ども時代の楽しい思い出にふたたび結びつけてくれるからだ。間接的に伝えられる恐怖のぞくぞく感には、大きな魅力があり、多くの人は大人になってもそれを忘れたくないと思う。ひそかに幽霊を信じることはひとつの楽しみで、子ども時代の自分に戻れる瞬間でもある。今の子どもたちは、とても幼いころから幽霊を見ないように教えられる。幽霊を信じるとは自然の法則を破ることで、中流階級の科学者や大学で批評を書く博学者ほどきびしい法の番人はいないからだ。幽霊はもう恐れられてはいないが、幽霊を信じることは確かに恐れられている。それでも、目撃と幽霊事件は続く」(桐谷知未訳)

 

 

死を乗り越える映画ガイド』では、多くのジェントル・ゴースト・ストーリー作品も紹介しています。「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」の場合は、ジェントル・ゴースト・ストーリーというよりも、単なる「こわくないゴースト・ストーリー」と言えるでしょう。ポルターガイストの仕組みを明らかにするなど、幽霊の視点で世界を描いているという点では斬新ではありますが、アートに走り過ぎている感もありました。正直、あまりグリーフケアの参考にはなりませんでした。

 

2018年11月21日 一条真也