上智大「グリーフケア映画」講義

一条真也です。
ブログ「上智大『唯葬論』講義」で紹介した連続講義の第一部は、26日の19時30分に終了しました。10分間の休憩を挟んで、19時40分から第二部として、「グリーフケア映画〜死を乗り越える映画鑑賞〜」と題した講義を行いました。グリーフケア研究所で「グリーフケア」について語るとは、まさに「釈迦に説法」の極みであり、とても勇気が要ることですが、「映画」というフィルターを通して語るということで、わたし自身楽しみにしていました。


第二部のテーマは「グリーフケア映画」です

死を乗り越える映画ガイド』を紹介しました

死が怖くなくなる読書』を紹介しました

まずは「グリーフケア読書」について語る



テキストは拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)ですが、この本は『死が怖くなくなる読書』(現代書林)の続編というべき内容です。前作では、読書という行為によって死の「おそれ」や死別の「かなしみ」を克服することができると訴えました。


グリーフケアとしての読書

なぜ、読書が悲しみを癒すのか?



そこで、「グリーフケア映画」に先立って「グリーフケア読書」について話しました。もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能があります。
たとえば、わが子を失う悲しみについて、教育思想家の森信三は「地上における最大最深の悲痛事と言ってよいであろう」と述べています。じつは、彼自身も愛する子供を失った経験があるのですが、その深い悲しみの底から読書によって立ち直ったそうです。本を読めば、この地上には、わが子に先立たれた親がいかに多いかを知ります。自分が1人の子供を亡くしたのであれば、世間には何人もの子供を失った人がいることも知ります。これまでは自分こそこの世における最大の悲劇の主人公だと考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟るのです。長い人類の歴史の中で死ななかった人間はいません。愛する人を亡くした人間も無数に存在します。その歴然とした事実を教えてくれる本というものがあります。それは宗教書かもしれませんし、童話かもしれません。いずれにせよ、その本を読めば、「おそれ」も「悲しみ」も消えてゆくでしょう。わたしは、そんな本を『死が怖くなくなる読書』(現代書林)で紹介しました。


物語こそが「死」の本質を語れる

ハートフル・ファンタジー



また、わたしは『涙は世界で一番小さな海』(三五館)という本を書きました。そこで、『人魚姫』『マッチ売りの少女』『青い鳥』『銀河鉄道の夜』『星の王子さま』の5つの物語は、じつは1つにつながっていたと述べました。ファンタジーの世界にアンデルセンは初めて「死」を持ち込みました。メーテルリンクや賢治は「死後」を持ち込みました。そして、サン=テグジュペリは死後の「再会」を持ち込んだのです。一度、関係をもち、つながった人間同士は、たとえ死が2人を分かつことがあろうとも、必ず再会できるのだという希望が、そして祈りが、この物語には込められています。


映画の誕生

映画とは何か?



それから、いよいよ「グリーフケア映画」の話に移りました。
死を乗り越える映画ガイド』のテーマは、そのものズバリ「映画で死を乗り越える」ですが、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。


写真と映画の相違について

映画は総合芸術



それは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。


映画への想いを語りました



そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないでしょうか。
唯葬論』(三五館)でも述べたように、わたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思っています。そう、映画を観れば、わたしは大好きなヴィヴィアン・リーオードリー・ヘップバーングレース・ケリーにだって、三船敏郎高倉健菅原文太にだって会えるのです。


宗教儀礼は洞窟から生まれた

映画館という「洞窟」の内部



古代の宗教儀式は洞窟の中で生まれたという説がありますが、洞窟も映画館も暗闇の世界です。暗闇の世界の中に入っていくためにはオープニング・ロゴという儀式、そして暗闇から出て現実世界に戻るにはエンドロールという儀式が必要とされるのかもしれません。そして、映画館という洞窟の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思います。なぜなら、映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。


グリーフケアとしての映画の効用



闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。つまり、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為にほかならないのです。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのですが、それもそのはず。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっているのでした。


映画について熱く語りました

個別の作品について解説しました



その後は、個別の映画作品について語りました。
死を乗り越える映画ガイド』の章立てで言えば、1「死を想う」では「サウルの息子」を、2「死者を見つめる」では「おくりびと」や「おみおくりの作法」や「遺体 明日への十日間」を、3「悲しみを癒す」では「岸辺の旅」を、4「死を語る」では「エンディングノート」を、5「生きる力を得る」では「シュガーマン 奇跡に愛された男」を、そして総論として「裸の島」を取り上げました。


紫雲閣のめざすもの

コミュニティセンターをめざして

「修活映画館」の構想を話しました

ご清聴ありがとうございました。



そして、最後に「修活映画館」のプランについてお話しました。
もうすぐ施設数が70を超える紫雲閣グループでは「セレモニーホールからコミュニティセンターへ」をスローガンに掲げていますが、その具体的実践の1つとして、日本最初の総合葬祭会館として知られる小倉紫雲閣の大ホールを映画館としても使う計画があります。主に「友引」の日を選んで、「老い」や「死」をテーマとした映画作品を上映し、高齢者の方々を中心に「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を自然に得る場にしたいと考えています。「友引の日は映画を観よう!」をキャッチフレーズに、明るい世直しに取り組んでいきたいと考えています。そして島薗先生とのトークや鎌田先生との質疑応答、さらには鎌田先生の法螺貝演奏で90分の時間が過ぎ、21時10分に連続講義は終了。盛大な拍手を頂戴し、感激するとともに安堵しました。


島薗先生とのトークタイム

鎌田先生が法螺貝を奏上して下さいました♪



講義の後、所長の島薗先生、副所長の鎌田先生とともに、ホテル・ニューオータニのレストラン「SATUKI」で遅い夕食を取りました。上智大学グリーフケア研究所の前所長である郄木慶子先生も御一緒でした。美味しいお料理をいただきながら、上智大学グリーフケア研究所の今後の在り方や活動についても意見交換させていただきました。
上智大学は日本におけるカトリックの「最強・最大」の組織ですが、上智大学グリーフケア研究所もグリーフケアの「最強・最大」の組織となりつつある予感がします。わたしが客員研究員を務める冠婚葬祭総合研究所とのコラボが実現すれば素晴らしいと思いました。



2017年7月26日 一条真也