礼欲

 

一条真也です。
わたしはこれまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「礼欲」という言葉を取り上げます。

儀式論』(弘文堂)

 

拙著『儀式論』(弘文堂)にも書きましたが、わたしは、人間は神話と儀式を必要としていると考えます。社会と人生が合理性のみになったら、人間の心は悲鳴を上げてしまうのではないでしょうか。結婚式も葬儀も、人類の普遍的文化です。多くの人間が経験する結婚という慶事には結婚式、全ての人間に訪れる死という弔事には葬儀という儀式によって、喜怒哀楽の感情を周囲の人々と分かち合います。このような習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われています。儀式とは人類の行為の中で最古のものなのです。



ネアンデルタール人も、現生人類(ホモ・サピエンス)も埋葬をはじめとした葬送儀礼を行いました。またそれは、エジプトのピラミッドや大阪府にある大仙陵古墳など、古代の墓が現存することからも分かるでしょう。人類最古の営みといえば、他にもあります。石器をつくるとか、洞窟に壁画を描くとか、雨乞いの祈りをするなどです。しかし現在、そんなことをしている民族はいません。儀式だけが現在も続けられているわけです。最古にして現在進行形ということは、儀式という営みには普遍性があるのではないでしょうか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を続けるはずです。

 

じつは、人類にとって最古にして現在進行中の営みは、他にもあります。食べること、子どもをつくること、そして寝ることです。これらは食欲・性欲・睡眠欲として、人間の「三大欲求」とされています。つまり、人間にとっての本能です。わたしは、儀式を行うことは人類の本能ではないかと考えます。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのです。

 

これはネアンデルタール人のみならず、わたしたちホモ・サピエンスの場合も同じです。儀式および相互扶助という本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。わたしは、この本能を「礼欲」と名づけました。「人間は儀式的動物である」という哲学者ウィトゲンシュタインの言葉にも通じる考えです。この礼欲がある限り、儀式は永遠に不滅です。もちろん、古代からの儀式のスタイルがそのまま継承されるわけではありません。そこには、時代の変化によるアップデートが求められるのは言うまでもありません。

 

わたしは、人類のさまざまな謎は儀式という営みの中にすべて隠されていると考えています。わたしたちは、いつから人間になったのか。そして、いつまで人間でいられるのか。その答えは、すべて儀式という営みの中にあるのです。やはり、人類にとって儀式は必要不可欠であると思わざるをえません。そして、なぜ儀式が必要かと言うと、人間には「礼欲」という本能があるというのがわたしの仮説です。礼欲がある限り、葬儀をはじめとした儀式は不滅であると言えるでしょう。

葬式不滅』(オリーブの木

 

2023年6月20日 一条真也