さよなら、小倉昭和館!

一条真也です。
11日は「山の日」ですが、暑いですね。わたしは、いま、悪夢を観ているような信じられない気持ちでいっぱいです。10日夜に発生した小倉の旦過市場の火災で、ブログ「小倉昭和館」で紹介した老舗映画館が焼失したからです。わたしの思い出が多く詰まった、大切な大切な映画館でした。わたしは、いま、深いグリーフの中にいます。

ヤフーニュースより

 

みなさんもご存知のように、ブログ『仕事と人生に効く 教養としての映画』をUPしたばかりです。また、昨日から次回作『心ゆたかな映画』(現代書林)の初校をチェックしています。わたしの仕事と人生において映画の存在は限りなく大きいのですが、そんなわたしを作り上げたのは他でもない小倉昭和館だと思っています。毎日新聞が配信した「老舗映画館『小倉昭和館』も焼失 館主『貴重なフィルムが・・・』」には、「館主の樋口智巳さん(62)は、同館が焼け落ちる様子をぼうぜんと見つめ、『昭和館は20日に創業83年を迎える。当日は子供たちのために無料上映会を予定していた。4月の火事で生き残り、旦過のためにこれからお役に立ちたいと考えていたのに・・・・・・』と立ち尽くした。館が焼けたこと以上に、配給会社から預かっていたフィルムを持ち出せなかったことを悔い、配給会社に次々と電話をかけて『貴重なフィルムをお預かりしていたのに、本当に申し訳ございません』と涙声でわび続けた」と書かれています。
映画館が消失したことを悲しむよりも、配給会社から借りていたフィルムが焼けたことを詫びる樋口さんのお気持ちを察すると、涙が出てきます。


ブログ「旦過市場の大火事」で紹介したように、。市場周辺では今年4月にも「新旦過横丁」などを中心に、42店舗計約1900平方メートルが焼けた火災があったばかりでした。それから4ヵ月も経たないうちにまた大火事が発生し、「まさか!」という思いです。旦過市場が出来たのは、大正時代の初期です。隣接する神嶽川から魚の荷揚げ場として成立したのです。その後、田川や中津方面からの野菜が集積され、現在のような市場となったそうです。市場はアーケードになっており、鮮魚・青果・精肉・惣菜などを扱う店が並んでいます。九州を代表する市場として、よく福岡市の柳橋連合市場と並び称されることが多いです。その旦過市場に小倉昭和館は隣接していました。



1939年創業の小倉昭和館は、福岡県内最古の映画館であり、北九州市に唯一残る個人経営の映画館でもありました。座席数228席の1号館と98席の2号館があり、現代の映画館では使用が減っている35ミリフィルムの映写機も稼働していました。樋口さんは同県中間市出身の俳優、高倉健さん(2014年死去)らとも親交があり、4月の火災後は俳優の仲代達矢さんや光石研さんらからも被害を心配して連絡があったそうです。


サンデー毎日」2016年9月18日号

 

2016年に小倉昭和館が創業77周年を迎えたとき、わたしはその祝賀会に参加しました。わたしは、小倉昭和館には高校時代から大変お世話になってきました。2館並んでいて、それぞれ2本立て。現在は、洋画・邦画、そしてヨーロッパ・アジアのミニシアター系作品が上映されていました。この映画館には舞台がありました。昭和の初期、片岡千恵蔵阪東妻三郎長谷川一夫らの芝居が行われていたのです。時は流れて映画が主流になりましたが、情緒はそのまま、設備は近代化されて「小倉昭和館ここにあり」といった存在感を漂わせていたのです。ブログ『キネマの神様』で紹介した原田マハ氏の名作小説には、「イタリアの感動名画 豪華2本立て」として「ニュー・シネマ・パラダイス」と「ライフ・イズ・ビューティフル」を併映するような名画座が登場しますが、小倉昭和館はまさにそんな感じの素敵な映画館でした。


サンデー毎日」2016年10月9日号

 

かの松本清張が愛したことで知られる小倉昭和館ですが、「風と共に去りぬ」もリアルタイムで上映したという老舗映画館でした。じつは、わたしが初めて観た長編の洋画が「風と共に去りぬ」なのです。小学6年生のとき、テレビの「水曜ロードショー」で観ました。まず思ったのが、「よく人が死ぬなあ」ということでした。南北戦争で多くの兵士が死に、スカーレットの最初の夫が死に、2人目の夫も死に、最愛の父親も死に、親友のメラニーも死にます。特に印象的だったのが、スカーレットとレットとの間に生まれた娘ボニーが落馬事故で死んだことでした。わたしは「映画というのは、こんな小さな女の子まで死なせるのか」と呆然としたことを記憶しています。このように、わたしは「風と共に去りぬ」によって、「人間とは死ぬものだ」という真実を知ったのです。また、主役のスカーレット・オハラを演じたヴィヴィアン・リーの美しさに子ども心に一目惚れしました。「水曜ロードショー」では、ヴィヴィアン・リーの吹き替えを栗原小巻さんが担当しましたが、ラストシーンの「明日に希望を託して」というセリフが子ども心に深く残りました。


原作では“Tomorrow is another day”というセリフなのですが、翻訳者の大久保康雄は「明日は明日の風が吹く」と訳していました。それをテレビでは「明日に希望を託して」というセリフに変えて、栗原さんが力強く言い放ったのです。小学生だったわたしは非常に感動し、わが座右の銘となりました。その「風と共に去りぬ」をリアルタイムで上映した小倉昭和館の77周年祝賀会で、栗原小巻さんにお会いしました。わたしは、栗原さんに少年時代の感動のお礼を申し上げました。栗原さんは、とても喜んで下さいました。小倉昭和館には、そんな思い出もあります。また、いま校正している『心ゆたかな映画』で取り上げる最初の作品がまさに「風と共に去りぬ」で、不思議な縁を感じてしまいました。

炎に包まれる小倉昭和館(撮影:上入来尚)

 

映画「風と共に去りぬ」といえば、ヒロインであるスカーレット役の女優探しが難航したことが有名です。製作者セルズニックが理想のスカーレット女優と出会うまでに費やした時間はじつに2年に上りました。アトランタで行われたオーディションには500人もの自称スカーレットが殺到しました。キャサリン・ヘプバーンベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードなど、数多くの大物女優が候補に挙がっては消えていきました。カメラテストでポーレット・ゴダードが最有力候補となった直後、運命の女神はヴィヴィアン・リーに微笑みました。彼女はアトランタ大炎上のシーンの撮影が終りかけていたスタジオに偶然見学に来ていた新人女優でした。それは、1938年12月10日、小倉昭和館が誕生する直前のことでした。ニュース動画で小倉昭和館が炎に包まれた映像を見たとき、わたしは映画史に残る「風と共に去りぬ」のアトランタ大炎上シーンとオーバーラップし、不思議な感覚をおぼえました。


1939年映画祭」のポスター

 

1939年は映画史における奇跡の年でした。西部劇の最高傑作「駅馬車」、ラブロマンスの最高傑作「風と共に去りぬ」、そしてミュージカルおよびファンタジー映画の最高傑作「オズの魔法使」の3本が誕生したからです。その3本は、すべて、その年のアカデミー賞を受賞。そして、それぞれが現代作品にも多大な影響を与え続ける、名作中の名作たちが2019年で製作80周年を迎えました。この3本を愛してやまないわたしは、わが社のコミュニティセンターの施設数が80となったことを機に、2019年10月から12月にかけて、「1939年映画祭」を開催しました。そして、いま気づいたのですが、小倉昭和館も1939年に誕生していのですね。小倉が誇った名画座は、偉大な世界の三大名作と同じ年に生まれていたのです。映画を愛する映画館にふさわしい偶然と言えるでしょうが、この事実に気づいて、また泣けてきました。


トークショーのポスター

上映作品のポスターの前で

小倉昭和館の樋口館主と

 

ブログ「映画で学ぶ人生の修め方」に書いたように、終戦70年となる2015年の夏、わたしは小倉昭和館で生まれて初めてのシネマトークを行いました。ブログ「おみおくりの作法」およびブログ「マルタのことづけ」で紹介した小倉昭和館で上映されている映画について語るイベントでした。コーディネーターは館主の樋口さんでした。 


盛大な拍手に迎えられて入場しました

最初に花束を贈呈されました

 

最初に樋口館主が今回のシネマトークの趣旨を説明されました。そして、「それでは、一条真也さん、ご入場下さい。どうぞ!」と言われて入場しました。盛大な拍手を受けて感激しましたが、自分の席に着いて客席を見ると、知っている人がたくさんいたので驚きました。北九州市立文学館今川英子館長、それになんと父であるサンレーグループ佐久間進会長の姿もあったので、ちょっと動揺しました(苦笑)。また、このシネマトークは、拙著『唯葬論』『永遠葬』のダブル出版記念ということで、2冊の新刊の発売を記念して昭和館さんから花束を贈呈され、驚きつつも感動しました。



おみおくりの作法」について話しました

 

まず最初に、わたしはイギリス・イタリア合作映画「おみおくりの作法」について語りました。ヨーロッパ版「おくりびと」として話題になった映画です。感動のラストシーンが用意されていますが、わたしがステージに上がったときはちょうど「おみおくりの作法」が上映された直後だったので、観客のみなさんの目が赤くなっていました。「おみおくりの作法」の映画の主人公であるジョン・メイは、孤独死のお世話をするという仕事をしながらも、豊かな教養の持ち主として描かれていました。クロスワード・パズルなど、彼に解けない問題はありません。そんな該博な知識を誇る彼が他人の「死」と向かい合い続けているという事実に、わたしは「死生観は究極の教養である」という持論を改めて再認識しました。



「マルタのことづけ」について話しました

 

続いて、メキシコ映画「マルタのことづけ」について話しました。わたしは、最初に「老いない人間、死なない人間はいません」と言いました。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。このには、人生を修める知恵、そして人生をアートのように美しくする方法が描かれています。太陽の国メキシコの「修活」から日本人が学ぶことは多いはずです。あなたも、「死ぬまでにしたいこと」「死ぬまでにするべきこと」、そして「愛する人へのことづけ」を考えてみませんか? そんな話をしました。


たくさんの拍手を頂戴しました

拍手の中を退場しました

 

トーク後の質疑応答の時間では、上品な貴婦人から「家族葬についてどう思われますか?」という質問を受けました。わたしは、「家族葬というのは誤解されています。『身内だけで弔いますので、外部の方はご遠慮します』と言うのはおかしい」と申し上げました。「家族葬」は、もともと「密葬」と呼ばれていました。身内だけで葬儀を済ませ、友人・知人や仕事の関係者などには案内を出しません。本来、1人の人間は家族や親族だけの所有物ではありません。多くの人々の「縁」によって支えられている社会的存在です。家族が生前お世話になった方をお招きして、故人になりかわって御礼を述べる・・・これが本当の「家族葬」であると述べました。その貴婦人は満足されたように微笑んで下さいました。質疑応答も終わると、満員の客席からまるで名作映画を観終わったときのような盛大な拍手が起こり、とても感激しました。大きな拍手に包まれながら、退場しました。それにしても、映画館のトークショーでたっぷりと葬儀について語った人間は、世界広しといえども、わたしぐらいではないかと思います。


上映&シンポジウムのポスター


さらには、2018年6月5日、 ブログ「久高オデッセイ」で紹介した映画の完結篇「風章」の上映会が小倉昭和館で行われました。あいにくの大雨でしたが、多くの方が来場されて満員になりました。この映画には株式会社サンレーが協賛し、わたし個人も協力者の1人です。上映会には父も来てくれました。


シンポジウムのようす

パネリストの3人

 

映画の上映前には、製作者である「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生が法螺貝を吹かれました。映画の上映後はシンポジウムが開催されました。ブログ「『久高オデッセイ』シンポジウム」で紹介したように、テーマは「久高の魂と自然島の霊性」で、「古代以前の時代、先人たちの足跡、人々の生と死、育まれる命の息吹、死にゆく命の鼓動、人生儀礼としての祭祀。人間の魂が身体を脱ぎすて、海の彼方へ、原郷へ」などが語り合われました。


シンポジウムのようす


沖縄について大いに語りました!

 

登壇したわたしは、映画を観た感想を語りました。わたしは「久高オデッセイ 風章」を観て、まず、「これはサンレーのための映画だ!」と思いました。サンレー沖縄は、沖縄が本土復帰した翌年である1973年(昭和48年)に誕生しました。北九州を本拠地として各地で冠婚葬祭互助会を展開してきたサンレーですが、特に沖縄の地に縁を得たことは非常に深い意味があると思っています。サンレーの社名には「太陽光線」「産霊」「讃礼」という3つの意味がありますが、そのどれもが沖縄と密接に関わっています。以上のような話をしました。小倉昭和館には、本当にたくさんの思い出があります。今は、ただ、「ありがとう」と「さようなら」の言葉しかありません。わたしの心の中に、小倉昭和館は永遠に生き続けています!


上映前の小倉昭和館にて


ありがとう、小倉昭和館

 

2022年8月11日 一条真也