緊急事態宣言解除間近の東京へ!

一条真也です。
14日の夜、知人の新居祝いがあり、少人数ながら久々に美味しいシャンパンをいただきました。やはりお酒のある食事は良いですね。東京都も福岡県も緊急事態宣言で飲食店ではアルコールが提供されていませんが、20日をもって解除される見通しです。

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北九州空港の前で

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あ、あれは!

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メーテル・・・・・・

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メーテル、行ってきます!

 

15日の朝、北九州空港からスターフライヤーで東京に飛びました。全互協の正副会長会議および理事会、冠婚葬祭文化振興財団の運営会議、経済産業省との打ち合わせなどに参加するためです。緊急事態宣言中の出張はいろいろと不便なので気が進まないのですが、仕方ありません。

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機内では不織布マスク
 

この日の北九州空港は、人が少なかったです。わたしは、スターフライヤー80便に乗り込みました。機内では、黒のウレタンマスクから黒の不織布マスクに替えました。サンレー流通事業課の梅林課長が探してきてくれた超強力な不織布マスクであります。プロレスの「スーパー・ストロング・マシン」にあやかったわけではありませんが、この「スーパー・ストロング・マスク」で、東京で初の死者が出たインド変異株への感染を防ぎたいです。

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加地先生の最新刊を読みました

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「礼」について書かれていました

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「鬼滅」についても書かれていました

 

機内では、いつものように読書しました。今朝、献本されたばかりの『論語入門』加地伸行著(幻冬舎)という本です。我が国の儒教研究の第一人者であり、私淑する加地先生の最新刊です。加地先生とは7月7日の七夕の日、大阪で『論語』をテーマに対談することが決まっており、まことにタイムリーな本を出して下さいました。この本を読むことが、そのまま対談の予習になります。同書には「礼」についての記述はもちろん、最後には「鬼滅の刃」の話題まで登場して驚きました。拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)を加地先生に献本させていただき、「鬼滅」について1時間以上も電話でお話したことがあります。

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機内で映画の台本を読みました 

 

論語入門』を読み終えると、18日に映画「RED SHOES」(雑賀俊朗監督)にチョイ役で出演することになりましたので、その台本を読みました。映画に出る(といっても、本当にチョイ役です)のは2回目ですが、セリフがありますので、しっかり予習しました。短いセリフも暗記しました。

f:id:shins2m:20210615131309j:plain羽田空港に到着しました
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羽田空港にて

f:id:shins2m:20210615132555j:plainいつものラーメン店へ!

f:id:shins2m:20210615133153j:plain今日は塩ラーメンをいただきます!


そんなことを考えていたら、搭乗した飛行機は順調に飛び、無事に羽田空港に到着しました。ちょうど昼時だったので、空港出口近くのいつものラーメン店に入りました。昨年の第1回目の緊急事態宣言のときはこの店も閉まっていましたが、今度の緊急事態宣言では営業しているので助かります。今日は、塩ラーメンを食べました。美味しかったです。食後は、そのまま赤坂見附の定宿に向かいました。これから出版関係の打ち合わせです。

 

2021年6月15日 一条真也

グリーフケア士テキスト

一条真也です。
わたしは、一般社団法人全日本冠婚葬祭互助協会のグリーフケアPT座長として、グリーフケア資格認定制度の発足に取り組んでいます。このたび、グリーフケア士になるための初のテキストである『グリーフケアの理論と実際Ⅰ』が完成しました。

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グリーフケアの理論と実践Ⅰ』の表紙

 

172ページありますが、ついに資格認定制度のテキストが完成し、感無量です。これで、グリーフケアの時代の到来が近づいたように思いました。このテキストは、上智大学グリーフケア研究所島薗進先生の監修、同研究所の客員研究員の粟津賢太先生の著書です。わたしも、校正の段階で何度もチェックをさせていただきました。

f:id:shins2m:20210614232525j:plainグリーフケアの理論と実践Ⅰ』より

 

巻頭には「刊行に寄せて」があり、全互協の山下会長、冠婚葬祭文化振興財団の金森理事長の挨拶があります。わたしも、「グリーフケア士が社会から感謝され、評価される時代のために」という題名で以下の挨拶文を書きました。
「ここに、グリーフケア士のためのテキストが完成したことを心より嬉しく思います。『グリーフケア』という言葉は現代では日常的に使われるほど浸透してきた言葉ですが、その言葉の意味を真に理解し、実践されている方は少ないのではないでしょうか。これから多死社会を迎えると言われる中で、死別を含んださまざまな喪失と悲嘆の経験が増えていくと考えられ、そのケアのためのグリーフケアの普及と実践は、日本人の『こころの未来』にとっての最重要課題と位置づけられています。これまで地縁や血縁といった縁で結ばれていた社会を構成する共同体がさまざまな社会変化により希薄化・弱体化する中で、共同体がもっていたグリーフケアの仕組みは機能不全を起こしつつあります。この機能不全は社会の存続と存在自体を危うくする危機的な状況でもあります。そのためにグリーフケアの役割を担ってきた共同体に代わり、グリーフケアを専門的に理解し実践する存在が求められています。その意味でグリーフケアの理解と実践のための明確な指針となる『グリーフケア士』という資格が誕生したことは、この危機的状況にある社会の存続と日本人の『こころの未来』のために必要とされ求められていた結果であり、必然でもあると考えます。どうか、多くの方々に資格認定制度を利用していただき、グリーフケアの知識を深め、実践していただければと思います。そして何よりも、今後の社会におけるインフラであり、必要不可欠なエッセンシャルワークとしてのグリーフケアを実践していく方々が、感謝され、評価される存在となる時代が訪れることを心から願っております」

 

このテキストの「目次」は、以下の通りです。
「序文」島薗進
「刊行に寄せて」山下裕史・佐久間庸和・金森茂明
第1単元 死別と悲嘆
構成と学習目標
Section1-1 グリーフケアという言葉
Section1-2 グリーフとはなにか
Section1-3 悲嘆と心身相関
Section1-4 多死社会の到来
Section1-5 死を悼む動物たち
Section1-6 ライフサイクル論
Section1-7 老年的超越とスピリチュアリティ
第2単元 グリーフケアの理論と歴史
構成と学習目標
Section2-1 グリーフワーク
Section2-2 グリーフ・プロセスの理論モデル
Section2-3 継続する絆:新たな理論モデル
第3単元 儀礼と葬制論
構成と学習目標
Section3-1 儀礼とは何か
Section3-2 通過儀礼と社会的地位の移動
Section3-3 葬送儀礼と共同体
Section3-4 儀礼のサイクル
Section3-5 共同体の空間構造と時間構造
第4単元 死を忘れた社会
構成と学習目標
Section4-1 村落共同体の解体
Section4-2 死を忘れた社会
Section4-3 共感と同苦の共同体
Section4-4 脱医療化するケアのコミュニティ
第5単元 さまざまな喪失と傾聴
構成と学習目標
Section5-1 さまざまな死別
Section5-2 日本における大事故・事件・災害とグリーフケアの展開
Section5-3 あいまいな喪失とネットワーク
Section5-4 傾聴と物語
第6単元 ケアの代償とセルフケア
構成と学習目標
Section6-1 最も自殺率の高い職業
Section6-2 バーンアウトとは
Section6-3 バーンアウトの症状
Section6-4 感情労働と共感疲労
Section6-5 予防システムとセルフケア
第7単元(付論) 
グリーフケア士の行動指針
ガイドライン
学習目標
グリーフケア士のガイドライン
グリーフケア士の第1の責任
グリーフケア士の第2の責任
傾聴について
セルフケア
困った時のために
「精神保険福祉センター・一覧」
「あとがき」
「参考文献」
「索引」

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「ふくおか経済」2021年1月号

 

グリーフケア資格者認定制度は、葬儀の施行に加え、サポートやケアなどのスキルを持った専門職(グリーフケア士)の育成が非常に重要になってきたため、創設されました。この資格認定制度を行う意義として、グリーフケアが葬儀施行以外にも医療の現場を始め様々な現場で必要とされるものであり、グリーフケア士の育成を行うことでグリーフを抱える「悲嘆者」が日常の生活の中でケアされる健全で心ゆたかな社会を構築していくこととなります。また、この制度は、わたしが客員教授を務める 上智大学グリーフケア研究所による監修のもと、葬儀業界関係者だけを対象とせず、多くの方が受験できるようにしています。

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「ふくおか経済」2020年12月号

 

資格認定の対象者としては、①互助会事業者等に勤務している方②職務を通してグリーフケアの実践が必要な方(医師、看護師、介護スタッフ等)③悲嘆を抱えた方に寄り添いケアを行う方(遺族会患者会)④グリーフケアに関心の高い方となり、広く門戸を開き、資格として認定することで人材を育成していくものです。

 

グリーフケア士の役割は人生の様々な節目において経験する〈ひと・もの・こと〉の深い喪失に際して、
・丁寧に想い起こし、感謝し、祝福し、決別を十分嘆くための特別な場を整える(文化・伝統・宗教資源)
・グリーフを大切に憶え続ける心の準備を促す
 (ケア資源)

・グリーフを経験した自分を見守ってくれるコミュニティーの再構築を目指す(地域資源)こととなります。
そしてグリーフケア士とは、その役割を果たすために、「悲嘆者」と誠実に向き合い、ライフサイクルの中で起こるグリーフの諸相を理解し、儀礼と傾聴を通して、悲嘆を抱えた方に寄り添いケアを実現する専門職です。グリーフケア士に認定された方には、その上位の資格である上級グリーフケア士の受験や、さらには高度なグリーフケアの能力を獲得するために上智大学グリーフケア研究所の「グリーフケア人材養成講座」の受講を推奨されており、そこではグリーフケアのマネジメント(指導・育成・管理)能力を会得することができます。

 

グリーフケア士の資格試験は全国の試験会場にてインターネット経由で配信する試験形式(CBT方式)により、すべての曜日(祝日及び年末年始休業等を除く。2021年3月末時点での試験会場数は287会場)で受験することができ、試験結果の評価判定に基づいて資格の認定が行われます合格者には、認定の証として資格認定証(カード)が交付し登録されます。また、資格を所得すれば終わりではなく、知識やスキルの向上、新たな情報の提供のため、登録者へのフォローを実施していくことも決まっており。具体的には、セミナーやワークの実施、定期的な機関紙の発行(年に一回)等などが検討されています。時代のニーズに答えるために、この資格認定制度はスタートします。グリーフケア士の皆様には、社会において必要不可欠な存在となるべく、そして共によりよい社会をつくっていく存在となっていただきたいと願っています。

 

2021年6月15日 一条真也

「キャラクター」 

一条真也です。
シネプレックス小倉で日本映画「キャラクター」を観ました。いま日本の男優では一番のお気に入りである菅田将暉の主演作ということで、楽しみにしていました。かなりグロテスクなスリラーでしたが、面白かったです。いつもながら、グリーフケアについて考えさせられました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『アルキメデスの大戦』などの菅田将暉と、バンド『SEKAI NO OWARI』のメンバーで本作が俳優デビューとなるFukaseが共演するサスペンス。悪を描けない漫画家が、偶然目撃した猟奇的な殺人犯を参考に漫画のキャラクターを生み出すも、それにより人生を翻弄される。原案・脚本を担当するのは、漫画原作者として『MASTERキートン』などを手掛けてきた長崎尚志。監督を菅田が主演した『帝一の國』などの永井聡が務める」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「漫画家のアシスタントをしている山城圭吾(菅田将暉)は、画力は高いが、お人好しな性格のためか悪役をリアルに描けない。ある日、圭吾はスケッチに訪れた一軒家で、殺害された家族と犯人(Fukase)の顔を見てしまう。圭吾は犯人をモデルにキャラクターを創り上げ、ついに売れっ子漫画家になるが、漫画をなぞるような事件が次々と発生。そして、犯人の男が圭吾の前に現れる」

 

冒頭から陰鬱で不気味なムードが漂っています。漫画家としてなかなか独り立ちできない山城圭吾を、菅田将暉は見事に演じていました。ブログ「花束みたいな恋をした」で紹介した映画では、菅田は売れないイラストレーターを演じていましたが、こういう陽の目を見ないクリエーターがすごくハマり役ですね。売れっ子になってからの彼がデジタルで描く漫画は殺人鬼の物語です。その漫画に描かれる惨殺場面、またそれが現実化する殺人現場のシーンはとても残酷です。「もしかすると、日本映画史上最もグロい殺人現場の描写ではないか」とさえ思えるほどでした。


わたしは「SEKAI NO OWARI」というバンドにはまったく興味がなく、その存在もNHK紅白歌合戦で知った程度でしたが、Fukaseの殺人鬼役は素晴らしかったです。これが俳優デビューだとは思えないほど不気味なサイコ野郎を演じていました。「羊たちの沈黙」でレクター博士を演じたアンソニー・パーキンスに勝るとも劣らない存在感を示していました。シリアルキラーである彼は何組もの一家を殺害しますが、やはり「世田谷一家殺害事件」などの実際の事件を連想してしまいます。


2000年の年末に起こった「世田谷一家殺害事件」の犯人はまだ逮捕されていません。被害者の妹さんがグリーフケアのお仕事に関わっていらっしゃいますが、世間を騒がす「殺害事件」の陰には、巨大な悲嘆を抱えた遺族がいることを忘れてはなりません。遺族の方々にとっては、何よりも犯人逮捕を望んでおられると思います。そして、これは敢えて書きますが、殺人犯への極刑を望む遺族もこの世にはたくさんおられます。それがグリーフケアとして最大の力を発揮することもあります。遺族の深い悲嘆の前には、「死刑は良くない」などという安易なヒューマニズムは色褪せていくのではないでしょうか。

f:id:shins2m:20201221125540j:plain「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林) 

 

拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)にも書きましたが、コミック・アニメ・映画において空前の大ヒットとなった「鬼滅の刃」の本質はグリーフケアの物語です。鬼というのは人を殺す存在であり、悲嘆(グリーフ)の源です。そもそも冒頭から、主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が家族を鬼に惨殺されるという巨大なグリーフから物語が始まります。また、大切な人を鬼によって亡き者にされる「愛する人を亡くした人」が次から次に登場します。それを鬼殺隊に入って鬼狩りをする人々は、復讐という(負の)グリーフケアを行います。そして、「キャラクター」を観ながら、仇討ちや復讐とともに、死刑執行もグリーフケアになりうることを再認識しました。


グリーフケアはわたしの専門分野ですが、じつは開幕まで残り40日となった東京五輪の開催問題にも深く関わっています。どうやらコロナ禍にもかかわらず、東京五輪は強行開催される流れになっていますが、わたしは義によって東京五輪の開催中止を訴えてきました。国民のほとんどが望んでいない祭典ですが、経営者で表立って中止を訴える人は、ソフトバンクの孫氏や楽天の三木谷氏などの一部を除いては多くはありません。わたしがブログで五輪中止を訴えてきたことを、互助会業界の仲間たちも心配してくれているようで、大手互助会の経営者の方から弟を通じて、「反対派のイメージがつくことは、作家である一条さんにとってマイナスでは?」とアドバイスを寄せてくれました。本当にありがたいことであり、その方には感謝しています。作家業だけならまだしも、わたしは業界団体の副会長および互助会政治連盟の副会長も務めていますので、正直言って、業界の仲間たちを心配させるのは辛いです。


わたしが冠婚葬祭互助会という経済産業省の許認可事業の経営者でありながら、業界団体の副会長および互助会政治連盟の副会長でもありながら、政府および自民党が強行開催しようとしている東京五輪の中止を願うのは何故か。その最大の理由は、じつは冠婚葬祭という儀式そのものにあります。コロナ禍で多くの方々が、本来は行われるはずだった儀式を断念しました。入学式、卒業式、成人式、入社式・・・日本人が断念した儀式は数知れません。日本中の祭礼も新型コロナウイルスの感染拡大防止のためにことごとく中止されました。そして、冠婚葬祭。多くの新郎新婦が夢に描いていた結婚式や結婚披露宴を断念し、今も延期されている方々も少なくありません。葬儀においても、家族葬を希望しなくても結果的に参列者を制限して寂しい葬儀が多く生まれました。新型コロナウイルスの感染によって亡くなられた方に至っては看取りもできず、葬儀さえできませんでした。その悲しみは大きいものでした。


それは日本だけではなく、世界中がそうでした。人類全体が理不尽な悲嘆に包まれたのです。その遺族の方々の無念、披露宴を挙げられなかった新郎新婦の落胆、卒業式や成人式を体験できなかった若者たちの悲しみはどこに向かうのでしょうか。こんな状況で東京五輪が開催されれば、彼らの悲しみは増大するばかりです。逆に五輪が中止されれば、「パンデミックの状況下では、オリンピックでも開催できないのだから仕方ない」と少しはあきらめがつくのではないでしょうか。それは仇討ちや復讐とは違うけれども、負のグリーフケアではあります。しかし、日本中、いや世界中の人々の巨大な悲嘆を汲み取る可能性が高いという一点において、わたしは東京五輪の強行開催に最後まで反対いたします。古代ギリシャの葬送儀式として生まれたオリンピックは、コロナで亡くなった世界中の犠牲者および中止されたあらゆる儀式・祭典関係者の悲嘆と無念を受け入れ、今回の東京大会は開催されないことを願います。

 

話を「キャラクター」に戻します。この映画、タイトルの通りに登場人物たちのキャラが立ちまくっていました。菅田将暉が演じた主人公の漫画家・山城、Fukaseが演じた殺人鬼はもちろんですが、小栗旬中村獅童が演じた2人の刑事がすごく良かったです。あえて難を言えば、高畑充希が演じた山城の妻がイマイチ存在感が薄かったですね。売れっ子の彼女でなくとも、他の新人女優などの方がマッチしたかもしれません。ストーリーはわかりやすく、一気にラストまでスクリーンに引き込まれましたが、登場人物が急に刺されたり、銃撃されたりする展開には、大いに驚かされました。ラストシーンは原作とは違うそうですが、わたしは「せっかく面白い話なのに、最後がちょっとなあ・・・」と思ってしまいました。悪しからず。

 

2021年6月14日 一条真也

「Mr.ノーバディ」 

一条真也です。
金沢から小倉に戻った翌日、シネプレックス小倉で映画「Mr.ノーバディ」を観ました。最近の社会の動きにモヤモヤを感じていたところでしたが、この映画を観てスカッとしました。最高に面白かった!



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「家庭にも職場にも居場所のない平凡な中年男の覚醒を描いたアクション。ある出来事をきっかけにロシアンマフィアとの激闘に巻き込まれていく主人公を、ドラマシリーズ『ベター・コール・ソウル』などのボブ・オデンカークが演じる。共演には『ある愛の風景』などのコニー・ニールセン、『アイアン・フィスト』シリーズなどのRZAのほか、マイケル・アイアンサイドクリストファー・ロイドらが集結。『ハードコア』などのイリヤ・ナイシュラーが監督、『ジョン・ウィック』シリーズなどのデレク・コルスタッドが脚本を務めた」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「さえない中年男のハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)は、職場では実力が評価されず、家族からも頼りない父親として扱われていた。ある夜、自宅に強盗が押し入るも暴力を恐れた彼は反撃できず、家族に失望され、同じ職場の義弟にもばかにされる。鬱憤を溜め込んだハッチは、路線バスで出くわした不良たちの挑発にキレて連中をたたきのめす。この事件をきっかけに、彼は謎の武装集団やロシアンマフィアから命を狙われてしまう」


いやあ、この映画、本当にストレス解消になりました。ネタバレにならないように詳しいストーリーには触れません。最初に自宅に侵入した強盗に何も反撃しなかったのは、わたしも「なんでだよ?」と思いましたが、このマンセルというオッサン、まったく弱くない。弱くないどころかリミッターを外したら、もう無敵です。バスで不良たちをシバキあげる場面などは、まさに「オッサン無双」でした。わたしも58歳の立派なオッサンですが、世の人々に迷惑をかける無法な若者をこんなふうに制裁できたら、さぞ気持ちがいいでしょうね。ちなみに、わたしは、オヤジ狩りに遭ったり、若い奴らに舐められたりしないように、毎朝、筋トレで体を鍛えています。


このオッサン、ケンカが強いのには理由があって、もともと某組織の仕置き人だったのです。彼の命を狙いにきた武装集団も返り討ちにしますが、「ここまでやるか!」という徹底ぶり。というか、「ありえないだろ!」と突っ込みたくなる過剰な暴れっぷりでした。正直言って、やりすぎですし、あまりにも現実離れしていますが、映画というのはこれくらい現実離れしているほうが面白いし、スカッとしますね。敵役のロシアンマフィアも、これ以上ないほど濃いキャラで、気に入りました。


この「Mr.ノーバディ」という映画、何かに似ていると思ったら、ちょっと、シルベスター・スタローン主演の「ランボー」の第1作を連想させます。さえない父親が無双化する流れには引き込まれ、スクリーンから目が離せなくなりますが、そのマンセルの老人ホームに入居している老いた父親もまた無敵なのですから、たまりません。血は争えないというか、親子揃って戦闘スキルが超弩級なのです。20日の「父の日」にこの映画を観るのもオツなものかもしれません。すっかりマンセルの魅力にハマりましたが、ラストシーンでは続編の予感あり。これは楽しみです! 
この映画、ぜひ、シリーズ化してほしい!

 

2021年6月12日 一条真也

 

『自由になるための技術 リベラルアーツ』

自由になるための技術 リベラルアーツ

 

一条真也です。
『自由になるための技術 リベラルアーツ』山口周著(講談社)を読みました。著者と各界の第一人者たちとの対談集ですが、非常に示唆に富んで興味深い内容ばかりでした。著者は1970年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科美学美術史学専攻修士課程修了。電通ボストン・コンサルティング・グループ等を経て、組織開発・人材育成を専門とするコーン・フェリー・ヘイグループに参画。現在、同社のシニア・クライアント・パートナー。専門はイノベーション、組織開発、人材/リーダーシップ育成。著書にブログ『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』ブログ『ビジネスの未来』で紹介した本などがあります。 

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本書の帯

 

本書の帯には笑顔の著者の顔写真とともに、「中西輝政 出口治明 橋爪大三郎 平井正修 菊澤研宗 矢野和男 ヤマザキマリ」「達人たちと掘り下げる人類の叡智」「いままでの『正解』が通用しない時代を突破するヒント」「『日立 EFO』大好評連載書籍化!」と書かれています。また、カバー前そでには、「過剰な情報に振り回されがちな現代社会。私たちを縛り付ける固定概念、常識から解き放たれ、自らの価値基準を確立し行動するために必須の素養」とあります。アマゾンには、「リベラルアーツとは、『自由になるための手段』にほかならない。自分たちを縛り付ける固定観念や常識から解き放たれ、自らの価値基準を持って行動するために。いままでの正解が突破するヒントがここにある。独立研究家・山口周が、哲学・歴史・美術・宗教など知の達人たちと、リベラルアーツの力を探る」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章  リベラルアーツはなぜ必要か
第2章  歴史と感性 
             対談:中西輝政

第3章  「論理的に考える力」が問われる時代に
             対談:
出口治明
第4章  グローバル社会を読み解くカギは宗教にある
     対談:橋爪大三郎

第5章  人としてどう生きるか 
             対談:平井正

第6章  組織の不条理を超えるために
             対談:菊澤研宗

第7章  ポストコロナ社会における普遍的な価値とは
     対談:矢野和男

第8章  パンデミック後に訪れるもの 
             対談:ヤマザキマリ

 終 章    武器としてのリベラルアーツ


「はじめに」で、著者は「リーダーの立場になると、さまざまな情報を取捨選択しながら決断する場面の連続です。それなのに、その基盤となる肝心な『足元』は常に危うく、すぐに築けるものでもありません。そんな中、再び注目を集めているのが、『リベラルアーツ』です。日本語では『教養』と訳されることが多いのですが、本来意味するところは『“自由”になるための手段』に他なりません。己を縛り付ける固定観念や常識から解き放たれ、“自らに由って”考えながら、すなわち、自分自身の価値基準を持って動いていかなければ、新しい時代の価値は創り出せない。そんな時代を私たちは生きています。本書では、哲学、歴史、宗教、美術等の『知の達人』たちとともに、人類に蓄積された知を現代に照らし合わせて再考し、多様な視点を身につけるヒントを提示したいと思います」と述べ、最後に「HowからWhatへ――」と結びます。


第1章「リベラルアーツはなぜ必要なのか」の「‟美意識”というキーワード」では、著者は「VUCA」という言葉を取り上げます。「Volantility=不安定」「Uncertainty=不確実」「Complexity=複雑」「Ambiguity=曖昧」という今日の世界の状況を表す4つの頭文字を合わせたものですが、著者は「VUCAの時代と言われるいまでも、多くの企業がコンサルティング会社や広告代理店に巨額の費用を支払って、『何年先にどうなるのか?』という未来予測を依頼しています。はっきり言ってそんな発想が時代遅れなのです。未来を他人に聞くのではなく、『あなたは、一体どうしたいのですか?』と、そろそろ問いそのものを変えなければならない時期に来ているのだと思います。エシックスの問題にせよ、クリエイティビティの問題にせよ、元をただしてみれば、ある種のみっともなさに対する自覚というか、『美意識』が欠けているのではないかと考えたのが大きなきっかけでした」と述べます。

 

「『行き過ぎ』に対する世界的な潮流」では、美意識に限らず、人の感性に訴えるものが重要視されてきているのは近年の世界的な潮流であるとして、著者は「例えばアメリカでは、2008年のリーマンショック以降、マインドフルネスが一種のムーブメントになっています。シリコンバレーでは、トレーニングとして取り入れていない会社はないほど普及しています。マインドフルネスとは、『いまという瞬間に意識を向けるもの』で、言うなれば外部ではなく、自分の内部に目を向けていくための手法です。自分が何に価値を置いているかを認識することは、創造性の源にもつながっているのではないでしょうか」と述べます。


「OSとしてのリベラルアーツ」では、著者は「教養または教養主義は昔からずっとあったわけですが、いま求められているリベラルアーツとは、コンピューターでいえばOS――私たちの行動や判断を司るソフトウェア――のような根本思想なのです。対して、ロジカルシンキングマーケティングの知識といったものは、アプリ――状況に応じて使い分ける道具――であり、従来言われていた教養もまた一種の道具としてのものが多かったと思います。もちろん道具は道具で大切なのですが、どの場面で何を使うかというのはOSの判断です。ですから自らの足元をより確かなものにするためにはOSが重要となる。古今東西の、幅広い教養・知識を備えて、例えばワインや絵画などについて語れるようになれば、飲み会の話題としては役立つでしょうが、本当に大事な判断をする力や勇気を持って行動する原動力にはなりません」と述べています。


17世紀の哲学者スピノザは、人間の本質を最も指し示すものとして、「コナトゥス」という言葉を用いました。もともとは古代ギリシャ哲学に由来する概念ですが、自分が自分であろうとする力、モメンタム(推進力)といった意味です。著者は、「今日の私たちはビジネスでもプライベートでも多くの人たちと出会うわけですが、誰もが他人との関わり合いをお互いに心地よくコントロールできれば、と思っています。そこで最高の“武器”になるのが、『他人のコナトゥスを的確に理解する』ということです。相手の人間の本質に関わる部分がわかれば、その人物像が立体的に感じ取れて、場面ごとに相手がどう感じ、何を考え、どんな反応を示すのかということが読めるようになる。いわば、パースペクティブ(見通し)を持って人間を深く理解できるようになるのです」と述べます。


そう考えれば、今日の私たちが享受できるリベラルアーツとは、人間が何を愛好し、何に深く感銘を受けてきたかという「人類のコナトゥス」の膨大なリストなのだと気がつくとして、著者は「人々が深く心を動かされ、長く広く共鳴を受け続けてきたものが、絵画、音楽、文学、哲学といったコンテンツとして残されてきたわけです。そうした積み重ねから成る歴史は、過去の人間たちが何を欲し、どう行動し、その結果に対してどう反応してきたかという記録にほかなりません。リベラルアーツを学ぶということは、一見遠回りに見えますが、人間というものの普遍的な本性について皮膚感覚で知るとともに、人間理解を深める最も効率的なルートだといえます」と述べています。


「人間の奥深さを知るということ」では、イギリスがそうした人間の奥深さを非常に理解している国であり、他者との関わりの中でどうすることが最も得策なのかというリアリズムを皮膚感覚として持ち合わせていると指摘します。著者は、「それは欧州列強の戦いを勝ち抜き、七つの海を支配しながら、世界中で多くの植民地を統治してきたからこそ身につけたものなのでしょう」と推測し、さらに「そのリアリズムは欧米文化の底流に受け継がれていて、例えば、著名な経営学者のマイケル・E・ポーターの競争戦略論でも、自社が市場を独占するのではなく、良きライバルである他社と競り合う緊張状態で共存することが持続可能な成長をもたらす条件だと説かれています。これは近代の欧米に限った話ではなく、歴史を紐解けば、2000年近くも前に諸葛孔明が言った『天下三分の計』にも通じる考え方でしょう」と述べます。


わたしたちは、自社のシェアが高ければ高いほど良いものだと思い込みがちです。特に変化の激しい時代には、1つのモノサシを当てて短兵急に物事を判断し、行動したくなるものですが、著者は「そんなときだからこそ、落ち着いて別の角度からも複眼的に物事を見るリテラシー、皮膚感覚の知恵というものが求められてくる」と述べ、さらに「私は、いまここで大胆に発想を転換できたら、社会が大きく変わるのではと考えています。外側から与えられるモノサシに囚われずに、たとえ知らない会社でも、自分にとってすごくワクワクする仕事ができそうな会社を探して社会全体で大移動を始めるのです。すると、大数の法則が働き、より自分が活躍できる場所にいる人が多くなる。結果として職場や社会全体の生産性まで上がっていき、イノベーションだって起きてくると思うのです。そうしたら、個人も組織もとても強くて幸せな世の中になるのではないでしょうか」と述べます。



リベラルアーツは常識の正体を見破る」では、近代文明のあり方を否定して新しい国・社会を築こうとしたキューバの革命家チェ・ゲバラが取り上げられます。ゲバラが生涯を通して読んでいたのは、現代の法学者や憲法学者が書いた本ではなく、ギリシャ時代に書かれた古典でした。著者は、「長い淘汰に耐えてきた知、あえて自分からは遠く離れた古典を読んで現代を相対化する視点は、未来が見えない現代だからこそ、これからの社会像を模索するためにも、さまざまな意味で“役立つ武器”となるでしょう」と述べます。また、「リーダーにこそ必要なリベラルアーツ」では、質的な意味を設定するためには、より大きな価値の連鎖として、いま自分たちがやっている仕事が「世の中」のどういう意味につながっているのか、そこにどうやったら貢献できるのか、自分の中に広い世界観を持ち、高い視座から考えていくことが必要であるとして、著者は「さらに現代社会では『共感』も1つのキーワードになっていますから、相手の思考の枠組みを捉えるという意味でも、自分の中に広い世界観を持つことはますます重要になっていくといえるでしょう」と述べるのでした。


第2章「歴史と感性」では、著者が国際政治学・国際関係史研究の第一人者で京都大学名誉教授の中西輝政氏と対談。「経済的成熟から人間的成熟へ」では、中西氏は「まずリベラルアーツという言葉の意味について、私の考えをお話しします。英語の『liberal』は縛りがない、つまり『自由』という意味を含む言葉ですね。その反対の意味の言葉は『disciplinary』ではないかと思います。『規律』『訓練』『体系化された学問』といった意味を含む言葉です。そう考えるとリベラルアーツとは、A=B、B=C、ゆえにA=Cというように乾いた理論で体系的に積み上げていく学問ではカバーしきれない領域を担うものと言える」と語ります。


リベラルアーツがいま注目されているのは近代が終わろうとしていることと深く関わるとして、中西氏は「近代というのは、成熟に一方的に向かうというドライブだけでできあがっていった時代です。それが、めざしていた成熟に到達し、次はそれをいかに洗練させていくか。すなわち、これまでの一本調子の成長の過程で取り残されてきた部分にも目を向けながら、経済やテクノロジーの成長だけでなく、人間的に成熟した状態をめざす段階に入っているのです。ですからこれからは、世界の、特に日本の社会の先頭に立つ人たちが、人間的に成熟した社会、成熟した生き方をいかにして実現していくかを考えるにあたり、リベラルアーツが必要になっているのだと思います」と語ります。


「日本人が持つ、連続性への無意識の強い自信」では、イギリスの歴史には驚くべき連続性があり、過去1000年にわたってほとんど変わっていないと指摘し、中西氏は「現在のイギリス王室の始まりは1066年のノルマン・コンクエストにあり、議会制も1215年のマグナカルタ(大憲章)の時代から続いています。貴族制度も厳然と残っていますし、さまざまな古い習慣をイギリス人は意識的に残そうとします。対して、日本では江戸時代の末期から21世紀に至るまでさまざまな断絶があり、それが日本の史学分野における大きな研究テーマにもなっています。日本人は、古い上着をはいで新しい時代に入るということを気で行なってきました。このことは一貫性がないように見えますが、むしろ、イギリス人よりもっと深い部分での連続性に対する自信があるからこそ、できるのではないかと私は思います」と語ります。

 

中西氏は「ちょんまげを切って洋服を着たぐらいで、廃仏毀釈をしたくらいで、憲法が変わったぐらいで、自分たちが根本的に変わることはない。そのような無意識の強い自信が、日本人にはあるのではないでしょうか。そこは他のアジア諸国とは大きく異なる点です。このような日本人の連続性に対する強い、しかし無意識の自信と、イギリスの古いものを維持し続けようとする強い、意識的な執念というのは、必ずしも相反するものではなく、表裏一体を成すようにも見えます」と述べ、さらに「思うに世界には、新しいものを上へ上へと積み上げていくストック文化圏と、新しいものを取り入れるときに古いものを捨てたがるリプレイス文化圏があるのではないでしょうか」と述べます。


イギリスも日本も、趣きはかなり違いますが、古いものを残そうとして無原則に積み上げていくという点は一致していると指摘し、中西氏は「古いものと新しいものが矛盾しても、比較してどちらかを選ぶという対決のプロセスを回避してしまうのです。日本の神仏習合も漢字伝来も、また明治の近代化もそうです。いろんなものが重層的に積み上がっていっても矛盾を感じないわけです。これは私の仮説なのですが、不思議なことに、そうした文化は大文明を築いた大陸の少し沖合の島国に共通しています。日本、イギリスのほか、スリランカマダガスカルも、個人的な研究プロジェクトで調べた限りでは、やはり似たような結合性と、温和な国民性、そして心の機微を重視する文化、ムラ社会的なモラルに支えられた人間関係という共通した特徴を持っています」と述べます。


「かつての日本に足りなかった総合力」では、文明という、良いもの、便利なものは外からどんどん取り入れるけれど、じつは通底している文化、精神性のようなものは変えずにきたというのが、遣隋使・遣唐使の時代から続いてきた日本のあり方であったと指摘し、山口氏が「1990年前後のバブル景気の時代に時価総額の世界ランキング上位を日本企業が席巻し、経済・社会活動において歴史上初めて、めざすべきお手本がなくなるという状況が起きました。エリートというのは本来、お手本を自分で考える存在です。文明、社会というのはどうあるべきかと、それこそまさに大きな歴史的な文脈の中にいて、自分たちがいま何をめざしてやるべきかということを考えなければいけないわけですが、それまで外側からお手本をふんだんに与えられるという恵まれた状況にあった国が、手本がなくなって、そこから先の自分たちの行き先というものを考えなければいけないとなった時に、迷走状態に入ったのが平成という時代だったのではないでしょうか」と語っています。


リベラルアーツが未成熟な中で経済力だけが突出して、柄にもなく世界の覇権を窺うほどに強大化した昭和末期の日本というのは、やはり社会としていびつであり、それがバブル期の国としてのつまずきの最大の要因だったという中西氏は、「このことは太平洋戦争の教訓とも重なります。軍事力だけに偏らず、人文・社会科学の知識や、議会制民主主義をうまく運営できるような柔軟な社会、政治文化といった総合力をつけておくべきでした」と語ります。


「戦略、選択、決断を支えるリベラルアーツ」では、イギリスのエリート社会では、ビジネス戦略の立案で歴史の知識が欠かせないと考えられ、アメリカでは外交官を養成するスクールや大学、軍の士官学校などでもリベラルアーツを重視し始めていると指摘し、中西氏は「やはり戦略立案や行動の選択、最終的な決断においては、歴史によって培われた精神的な成熟や直感力というものが大きな意味を持つということが、きちんと理解されているのでしょう。日本のビジネスリーダーでも、例えば、次の1万円札の肖像に起用される渋沢栄一は、著作を読むと国家目標としての近代日本の発展を真剣に考えていた偉大な戦略家であったことがわかります。彼は幼い頃から四書五経や日本の国史を学び、その戦略、選択、決断の裏側には、リベラルアーツによって支えられた強靭かつ柔軟な精神がありました。そうしたことは、洋の東西を問わず、大を成したリーダーたちの共通要素であると私は思います」と語ります。


「自分の感情や直感を大切にする」では、面白く、よく書けている歴史書を読むべきであるとして、中西氏は「読み方として大切なのは、物知りになろうと思わないことです。何か得るものが欲しいと思うなら、『このことを人間一般に還元したらどういう意味を持つのか』というふうに、普遍性や通時代性を見出すような読み方をするのがよいと思います。あるいは、歴史の登場人物に感情移入するような読み方ができれば、もちろんそれは質の良い感情移入でないといけませんが、必ず心に残り、糧とすることができるでしょう。本に対しても人間に対するのと同じように、自分の感情や直感を大切にしながら向き合っていただきたい」と語るのでした。


中西氏との対談後、山口氏はこう述べています。
「2020年12月にコンサルティング会社のマッキンゼーが発表したレポートによると、コロナが収束したのちも、およそ20%の就労者は元の労働形態には戻らず、恒常的なリモートワークを継続するだろうと予測しており、その結果として都市の交通インフラや消費経済に『甚大な影響を与える』だろうと予測しています。ではどのような影響が具体的に考えられるのでしょうか? さまざまな予測が考えられるわけですが、ここで重要なのは、どのような変化が起こるにせよ、その変化の中心には人間がいる、ということです。だからこそ『人間とはどのような振る舞いをする生物なのか』という洞察が重要になってくるわけで、そのような洞察を与えてくれるものとして、歴史が重要だということではないでしょうか」



第3章「『倫理的に考える力』が問われる時代に」では、著者が立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明氏と対談します。「日本が行き詰まっている理由」では、なぜ日本で成長率が低迷しているのかというと、製造業からサービス産業へと産業構造が変化しているのに、人材も働き方も製造業の工場モデルを続けているからだと指摘し、出口氏は「サービス業で問われるのは、与えられた課題をこなす力よりも、課題を見つけ出す力、新しいサービスにつながる独創的なアイデアを生み出す力です。APUが評価されているのは、そうした力を養うには、とがった個性を尊重する教育に転換しなければならないということに、社会が気づき始めた証左かもしれません」と語っています。


「『女性』『ダイバーシティ』『高学歴』」では、レヴィ・ストロース以降の文化人類学者が繰り返し証明しているように、人間は生まれ育った数十年の社会の意識を反映している存在であると指摘し、出口氏は「そう考えると、いまの日本人は、戦後の製造業の工場モデルの下で高度成長した社会の意識を反映した存在であり、一律に日本人とはこういうものであると決めつけないほうがいいでしょう。正しくは、『いまの時代の日本人は戦後の製造業の工場モデルに過剰適応してこういう特質を持つようになった』と説明しなければいけないと思います」と語ります。それに対して、山口氏が「確かにそうですね。では、製造業モデルからサービス業モデルに適応していくためには、何が重要だと思われますか」と問い、出口氏は「キーワードは、『女性』『ダイバーシティ』『高学歴』です」と即答するのでした。

 

「新しいものは辺境から生まれる」では、山口氏が「私はもともとイノベーション研究が専門なのですが、やはり異なる分野の人が交わる場所でイノベーションが生まれやすいということは言えますね。例えば、ビートルズが出てきたのも、音楽のメッカであるロンドンではなく港町のリヴァプールでした。港町は異なる文化や民族の結節点となる場所です」と言うと、出口氏は以下のように語ります。
「中央は洗練が進むがゆえに保守的になり、異質なものや新しいものは辺境から生まれるというのが歴史の法則ですね。日本でも新しいものは僻地から生まれています。例えば、平清盛による武家政権という新しい発想は、彼が大宰大弐大宰府で次官に相当する役職)として大宰府に赴任したときに得たものです。日本に貨幣経済を導入し、武家政権というものを始めて、守護地頭の祖形を置いたり、軍事・警察権を掌握したり、これは全部が清盛のグランドデザインです。鎌倉幕府をつくった源頼朝は政策的には清盛のコピーです。大宰府は僻地でしたが、一方で大陸との接点でもあったわけで、さまざまな知識や情報が得やすかったのでしょう」


「人・本・旅を通じて学ぶヒント」では、読書について出口氏が「書店で実際に手に取って選ぶときには、本文の最初の10ページを読めばおもしろいかどうかがわかります。よく前書き、あとがきと目次を見たらだいたいわかるという人がいます。でも僕は自分で本を書いているからわかるのですが、前書きとあとがきは本が完成してやれやれと気が緩んでから書くものなので、おもしろさを判断するうえで役に立つかどうかはわかりません。それより、どんな本でも筆者が読んでほしいと思って本気で書いた本文の最初にこそ真価が出ていると思うのです」と語っています。また、「あのデカルトも、大学の本を読み尽くした後、世の中の人々の考え方を知るべく旅に出たように、たくさん人に会い、たくさん本を読み、たくさんいろいろな場所に行くこと以外に学ぶ道はありませんし、その学びは一生続くのです」と語ります。

 

それに対して、山口氏が「特にリーダーとなる人は学び続けなければならない」と言うと、出口氏は「リーダーは、判断を誤れば組織の多くの人を死なせかねないという責任ある立場にいるのですから、当然、人以上に勉強しなければなりません」と語り、さらには「将来、何が起きるかは誰にもわからない。そのときにリーダーが判断を誤ったら自分だけではなく多くの人に死活的な影響が出ます。だからこそ、リーダーは過去の歴史を教材としてしっかり学んでおかなければならないのです。さらにいえば、過去だけではありません。いまの時代は技術の進むスピードが速いので、世の中に入れないためにも学び続ける必要があるのです」と語っています。


「日本の生産性が伸びない理由」では、山口氏が、グローバルな潮流はサービス業モデルに転換しているのに、日本は製造業モデル、工場で大量の人を使って、同じ仕事を大量の時間を使ってやらせるというモデルから脱却できていないと指摘し、「スポーツでたとえるなら、野球からサッカーへ種目自体が変わっているのに、トレーニングのやり方も選手の育て方も変わっていないから、さまざまなところにねじれが生じているのですね」と言います。それに対して、出口氏は「そのねじれが閉塞感となり、先進国の中で最も若者の自殺率が高いという状況を生み出しています。長時間労でも報われない、骨折り損のくたびれもうけでは社会全体が疲弊してしまうのも当然です」と述べ、さらには「リーダーは組織を潰すこともできるし、トップダウンで世界を変えることもできる。人間社会を丁寧に見ていると、リーダーの役割の大きさに気づかされます。だからこそ、リーダーは謙虚な姿勢で、他人の5倍も10倍も学び続けなければいけない」と語るのでした。


「考える力の差が結果を分ける」では、考える力を鍛えるには、料理でレシピ本を参考にするのと同じように、最初は模倣から入るとして、出口氏は「ただし、よいレシピを真似しなければ料理が上達しないように、まずはアダム・スミスデカルト、ヒューム、アリストテレスといった、優れた考える力を持った先人が書いた古典を丁寧に読み込むことです。思考のプロセスを追体験して、思考パターンを学ぶことから入るのです。そしてそれを自分なりにアレンジしながら、考える力を鍛えるほかはありません」と語ります。山口氏が「考えることも一種の作法が必要ということですね」と言うと、出口氏は「ええ。型(形)から入るのです。レシピと一緒です」と語ります。


「数字・ファクト・ロジックに基づいて考える」では、出口氏が「物事を正確に見るための方法論として、僕はよく『タテ・ヨコ・算数』と話しています。タテは歴史です。昔の人が物事についてどう考えたのかを知ることです。ヨコは他の国や違う業界です。日本社会の常識、業界の常識と思っていることが、世界ではどう見られ、考えられているのかを知ることも欠かせません。そして算数は、データやエビデンス、タテ・ヨコで学んだことを具体的な数字・ファクト・ロジックで把握するということです」と述べ、さらには「少なくとも日本再生のカギは、これまでの学び方を見直し、人・本・旅で原点から学び続けることにあるということ、再生のキーワードは女性、ダイバーシティ、高学歴であるということを、最後に改めて強調しておきたいと思います」と述べるのでした。

 

出口氏との対談後、山口氏はこう述べています。
「出口先生のお話を伺っていると、『開かれてあること』をことのほか重要視されていることが感じられます。出口先生は製造業モデルからの脱却のカギとして『女性活用』『ダイバーシティ』『高学歴』の三つを挙げておられますが、この三つに共通するのは「他者との出会いを求めていく」ということです。それまで男性が支配していた職場で女性に働いてもらうというのも『他者との出会い』なら、ダイバーシティ=多様性もまた『他者との出会い』をもたらすものであり、さらに『高学歴』もまたしばしば海外留学が伴うことから、必然的に『他者との出会い』をもたらすものと言えます。この柔らかさ、しなやかさは前章で中西輝政先生が指摘されたリベラルの定義、すなわち『縛りがないこと』にも通じるものがあります。この『開かれてあること』という知的態度は、現在のようにさまざまな定説や常識が急速に陳腐化していく時代にあって、個人の知的生命力の根幹をなすものだと言えるでしょう」


第4章「グローバル社会を読み解くカギは『宗教』にあり」では、著者が社会学者で東京工業大学名誉教授の橋爪大三郎氏と対談します。「ハーバード大学は牧師養成から始まった」では、ハーバード大学が設立されたのは、いまから400年近く前の1636年であることを紹介し、橋爪氏は「最初の100年ほどは牧師つまり聖職者を養成する機関で、その間の卒業生は百数十人から数百人と言われています。1年間に一人か二人、多くても数人ということは、いまの一般的な学習塾よりずっと小規模ですね。当時、専任教員はプレジデント(学長)しかおらず、一人で何でも教えました。牧師になるために必要なのは、まずギリシャ語。新約聖書が読める。ヘブライ語もできたほうがいい。旧約聖書が読める。ラテン語。神学書が読める。それから地理、哲学、歴史など、リベラルアーツの科目も教えました」と語っています。


なぜ牧師にリベラルアーツが必要かというと、牧師は毎週、信徒に説教しなければならないからだといいます。教会には、農民、商人、ビジネスマン、政府の職員、軍人、医者、音楽家など、ありとあらゆる人々が来ますが、橋爪氏は「牧師はその全員の心に届くような説教をすることが理想です。的外れなことを言っていたら次から教会に来てもらえなくなる。そのためには世の中のことをよく知っておく必要がある。だから役に立つことは何でも教えたのです。さてその結果、どうなったかというと、卒業生は牧師になる以外に政治家、起業家、軍人や学者など、社会のリーダーになって活躍する人が増えてきた。それに伴って、だんだん牧師養成コース以外の分野が拡大していきました。そして、学部でリベラルアーツを勉強し、そのうえで医学、法学、神学などの専門分野を学ぶという大学の形がつくられたのです」と語ります。

 

「人と人は契約と法律で結びつく」では、キリスト教では、人は神と一対一で結びつき、人と人とは契約と法律で結びついていると指摘し、橋爪氏は「例えば結婚については、夫婦が契約を結び、教会で宣誓すれば家族となることが許される。政府は、国民と契約を結んで憲法を定め、国家組織のあり方を決めたから存在を認められ、命令権を持っている。一神教の国なのに人間が偉そうじゃないかと思われるかもしれませんが、人間はあくまでも契約に基づいて政治・社会を営んでいるのです。ビジネスも契約で成り立っていますね。資本家が資金を出して会社を設立する、経営者を雇う、経営者は従業員を雇う、全部契約です。MLB(メジャーリーグ)の投手が球団と、1試合で80球投げたら降板するという契約を結んでいたとする。それで80球投げたらベンチに下がるのは、本人の意思でもないし、監督の命令でもない、契約なんです。契約=法律によってすべてを動かすというのがキリスト教社会の基本です」と語ります。


「西洋社会の近代化とキリスト教」では、山口氏が「イギリスでは宗教改革によって英国国教会が成立し、同じプロテスタントの中で対立した清教徒アメリカに渡りました。資本主義はその二つの国で本格的に花開いたわけですね。それは、プロテスタントエートス(合理的倫理的生活態度)のようなものが、ビジネスにおける意思決定の質を高めることにつながったからとも考えられるでしょうか」と質問しますが、橋爪氏は「それもあるかもしれませんが、近代化というのはビジネスの世界だけでなく、社会全体で起きることなのです。経済や産業、政治とそれに付随する法律、家族や教育、そして自然科学、あるいは哲学、芸術、歴史学などの人文学。これらが一緒になって社会を構成しているわけですから、それぞれの近代化・合理化が連動しながら進んだわけです」と答えます。



そして、さまざまな分野の近代化・合理化が連動しながら進んだ根幹にキリスト教があったとして、橋爪氏は「例えば、自然科学は、キリスト教徒、特にプロテスタントギリシャ哲学から人間の理性という概念を取り入れ、理性を通じて神と対話する手段の一つとして発展させました。また、西洋音楽は教会音楽が基になって確立されていったものです。絵画や彫刻も、宗教美術が西洋美術の本流で、そこから静物画や風景画が派生していきました。ビジネスに限らず、社会のあらゆる領域の近代化にキリスト教は深く影響したのです。ウェーバーも、経済だけでなく社会のあらゆる領域において合理化が進んだからこそ、西洋近代社会が形成されたと考えていました」と語るのでした。


イノベーションに必要なものは『未来』」では、発明の動機は、隣人愛の実践であるとして、橋爪氏は「人々によりよく生きるチャンスを提供するため、というのがプロテスタントの教義です。さらに言えば、発明以前に、アメリカにはフロンティアというものがありますね。入植したときは何もなかったわけだから、アメリカ人は森があれば切り開き、丸太小屋を建て、水を引き、道路をつくり、社会インフラを一から建設して街をつくってきました。その過程で試行錯誤して、前回失敗したところを今度は改善しようとか、新しい技術を試してみようとか、都市開発と発明が直結していく。このように、常にフロンティアをめざしてきたのがアメリカの近代であり、フロンティアをめざすことが、神の視点で未来を見ることと結びついているのだと思います」と語っています。


「自分を超えるために必要な言葉の力」では、誰の話を聞き、どの本を読めばいいかということが問題とされます。地域や場所にかかわらず、大勢の人が読んできた本、すなわち古典を薦める橋爪氏は「大勢の人が繰り返し読んできた本からは、そうでない本に比べ、人生を支えるに足る大きな構造を見つけられる可能性が格段に高い。だから最初に読むのなら、あるいは何冊か読むのなら、その中に古典があるべきであると思います。宗教には必ず古典があるから、キリスト教ユダヤ教イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、何でもいいけれど、まずは古典を読むことが自分を超えるための確実で正しいやり方でしょう」と語っています。


西洋近代を形づくってきたキリスト教に加え、世界にはイスラム教、ヒンドゥー教儒教がそれぞれ大きな文明圏を形成してきました。宗教は、人間ならば誰もが持つ、「自分とは何か」という問いを解明しようとしてきたものであると指摘し、橋爪氏は「だからこそ、人間社会では何らかの宗教に基づき、文明圏が築かれてきた。複数の文明圏が並び立つ現代のグローバル社会を生きるうえでは、それらを理解するための『宗教のリテラシー』が不可欠です。ビジネスパーソンに限らず、すべての人が宗教を学ぶべきである、と私は考えます」と語るのでした。


橋爪氏との対談後、山口氏はこう述べています。
「ある宗勢を知ることは、その宗教に帰依している人々の思考や行動の様式、あるいは価値基準を理解する上で有用だということは、キリスト教だけでなくアジアの宗教についても同様に言えると思います。例えば中国における儒教を考えてみましょう。ご存知の通り、儒教は中国におけるエリートの必須教震でした。中国におけるエリートの登用試験として有名なのが科挙です。科挙は6世紀末に始まり、なんと1300年にもわたって実施された官吏登用試験です。この科挙に合格するには徹底的に儒教、つまり孔子孟子を勉強しなければならないわけですが、では合格するとどうするかというと、今度は処世術そのものと言っていい韓非子孫子呉子を勉強させられる。つまり、科挙に受かる前は『正義とは』『正しいこととは』という『タテマエの勉強』をして、受かった後は『世の中はどうやったら動くか』『人間/国家を支配するにはどうしたらいいか』という『ホンネの勉強』をさせられるわけです」


また、山口氏は特に儒教について言及します。儒教というのはひと言で言えば「政治万能主義」で、このルールや制度さえ守っていれば人々は健康になり、国は栄え、社会は花園のようになるという「美しい教え」であるが、実際には、権力や謀略といった実学を扱う韓非子孫子に支えられて初めて存在できているという側面が強いと指摘し、山口氏は「中国で儒教の伝統が根強いということは、皆さんもよくご存知の通りです。しかし、では儒教が数える道徳や倫理の規範が強く働いているかというと、そういうわけでもない。儒教という壮大な倫理体系をわざわざ構築しなければならなかったほどに功利的・打算的な思考様式が強かったのだということは、要するにマキャベリズムが異常に発達していたということですから、ここにも真逆のものが表裏一体となって働いていることがわかります」と述べるのでした。

 

第5章「人としてどう生きるか」では、著者が臨済宗国泰寺派全生庵住職の平井正修氏と対談します。「お寺やお墓が伝えてきた普遍的な真理」では、平井氏が「近年、これはお寺だけの問題ではなく核家族化や高齢化などの社会の変化も大きく影響していると思われますが、葬儀や法事を行なわない方が増えてきました。また最近は虐待や親族間の殺傷といった事件の報道が増え、実際にその件数が増えているのかどうかはわかりませんが、家族のつながりが薄れているように感じます。おそらくこれまでは、お墓参りや法事などを、皆さんあまり深く考えずに長年の習慣として行なってきたのだと思います。それが知らず知らず家族やご先祖様とのつながりを培うことになっていたのでしょう。人間は過去からの連綿とした命のつながりの上に生まれてくるもので、そうした普遍的な真理を伝えるのかお寺やお墓なのですが、そのことを果たして伝えきれているのか。伝わっていないのであれば、これからどう説いていくのかが、私たちに問われている」と語っています。


「文化として定着し始めている禅」では、山口氏は「西海岸の代表的なIT企業は禅をベースにしたマインドフルネスを、集中力や思考力、決断力、創造力などの向上に生かしています。坐禅とマインドフルネスは厳密には異なるものだと思いますが、ビジネスリーダーを育成するうえでメンタルトレーニングが欠かせないと考えられているのです。一方、日本企業の人材育成はこれまで業務に直接的に関わることが中心で、マインドフルネスを勧めても、『何の効果があるのか』『すぐに役立つものなのか』などと言われてなかなか理解されませんでした。経済学者の小泉信三に『すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる』という有名な言葉がありますが、私はこの『何の役に立つのか』といった考え方が物事を窮屈にしていると考えています」と語っています。


「自分の心と対話し、自分自身を見つめ直す」では、臨済宗国泰寺派全生庵ゆかりの山岡鉄舟が「禅というものは武人が行なえば武道になり、芸人が行なえば芸道になり、商人が行なえば商道になる」と書いたことを紹介し、平井氏は「茶道、華道、剣道、柔道など、『道』というものの真髄は、それらを通して人格を磨き完成させていくところにあります。単に技術や強さを追い求めるだけではない。それが『道』に通底する精神ですね」と述べ、さらに「禅は坐禅や写経のように孤独な修行を通して、自立して一人で生きられるようにすることを求めますが、同時に人は一人では生きていけないことに気づかせてくれます。小さな島国である日本では、自然や他人と共生する『和合』ということを昔から大切にしてきました。静かに坐って己を見つめることで、自立して一人で生きられる力を養う。と同時に、己を通じて生命のつながりを知り、また『自分が』という思いを捨てることで争いをなくし、人と和合していく。人らしく生きるために欠かせないことを、禅は私たちに教えてくれるのです」と語るのでした。


平井氏との対談後、山口はこう述べています。
リベラルアーツの特徴の1つに『事後性』という点があります。『事後性』というのは、つまり『事前に効果はわからない』ということです。一方で、企業の世界においては、基本的にすべての選択肢は現在の貨幣価値に換算され、比較されます。これはつまり、現時点で効果のはっきりしない選択肢は、そもそも選択の対象として検討すらされない、ということです。そういう点でリベラルアーツと経済というのは真逆の性格を持ったものだと言えるかもしれません」「スタンフォード大学の神経学者、ケリー・マクゴニガルは科学的な見地から、坐禅や瞑想の効果として『注意力、集中力、ストレス管理、衝動の抑制、自己認識と言った自己コントロールのさまざまなスキルが向上する』と述べています。これらは現在の複雑な社会をリードしていくことを求められている人々にとって必須のものと言えるでしょう。このマクゴニガルの指摘を総合的に表現しているのが、平井住職の『自分のことがわかる』という言葉だと思います。ここに『禅』と『現代マネジメント』の交接点があります。


第6章「組織の不条理を超えるために」では、著者が慶應義塾大学の元教授で経営哲学者の菊澤研宗氏と対談します。「システムい適合した人間だけが出世する」では、明治のリーダーは武士道を学んでいたから、道徳的優位性や儒教五常を備えているからこそ自分が人の上に立っているという意識が身についていたと指摘し、菊澤氏は「戦後に活躍し、名経営者と呼ばれた方々の多くも、戦前の教育できちんとリベラルアーツを学んでいました。しかし現代のリーダーのほとんどは、そうした教育を受けていないため、人の上に立つにあたっての哲学がないのだと思います。だから、自分の価値判断の拠り所がなく、自信が持てないのかもしれません」と語っています。


山口氏は「明治や戦後すぐは社会システムががらりと大きく切り替わった時代で、過去と切り離された環境だったからこそ、自分の意思、価値観を発揮できる人が活躍できたと言えるのかもしれません。太平洋戦争時や現在のリーダーは、社会や組織のシステムが固定化して安定してきた中で、それに上手に適合した人たちなのでしょう。そう考えるとやはり時代は違えども、両者は構造が似ていますよね」と述べますが、菊澤氏は「まさにご指摘のとおりだと思います。社会や組織が安定して人事制度や教育制度が固まってくると、人はそれを考慮しながら損得計算し、目的合理的に行動するようになっていきます。だから、個人も組織も損得計算だけに長けていくようになるのでしょう。まさに、ウェーバーのいう魂のない鋼鉄の檻のような人間組織が形成されるのです」と語ります。


「見えないものを見る力を養う」では、リベラルアーツ教育も実学も、「それを学ぶことがなぜ必要なのか」という位置づけをはっきりさせることが大切であるとして、菊澤氏は「単純に哲学の本を読むだけではあまり意味がないと言いますか、それを必要とするような問題意識が前提にあるべきです。僕が思うに、日本は『見える化』が重視されすぎているのではないでしょうか。数字、業績といった目に見えるものだけしか見ないから、隠れて悪いことをしても業績を上げればいいんだという考えが出てきてしまうのです。人間には見えない側面がたくさんあります。リーダーには、そうした見えないものを見る力も問われると思います。ここで言う見えないものとは、倫理、道徳や誠実さといった『人間性』の部分です。それを見抜いてくるリーダーは、どんな手段を使っても業績さえ上げればいいと考えている部下にとっては怖い存在です。一方、誠実に仕事をしている部下には歓迎されるでしょう。それによって組織が健全なものになっていきます。では、見えないものを見る力をどう養うか。そこでリベラルアーツが必要なのだと思います」と語っています。


菊澤氏との対談後、山口氏はこう述べています。
「グーグルは社是に『邪悪にならない(=Don't be Evil)』という一文を掲げています。なぜこのような社是を掲げたのでしょうか? 文言がユニークなこともあり、この社是についてはさまざまな解釈や憶測が流れていますが、この一文を『グーグルの美意識』の表出だと考えてみるとわかりやすいと思います。グーグルが事業を展開している情報通信や人工知能の世界は極めて変化が激しい、つまりルールの整備がシステムの変化に対して後追いでなされるような世界です。このような領域において大きな事業を運営していこうとする場合、さまざまな意思決定を明文化されたルールのみにしたがって行なっていたのでは、決定的な誤りをおかしてしまう可能性があります。では何を判断の軸にするべきか? そこで出てきたのが、『正邪の側面から考えよう』という判断軸なのです。グーグルが『邪悪にならない』という社是を掲げているのは、カリフォルニアの青臭いカウンターカルチャーの残滓などではまったくありません。システムの不安定な世界、人類が向き合ったことのない未曾有の選択を迫られるような事業環境において、決定的な誤りを犯さないための、極めて戦略的で合理的な社是なのです」


第7章「ポストコロナ社会における普遍的な価値とは」では、著者が日立製作所の中央研究所にて半導体研究に携わり、単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功した矢野和男氏と対談します。「幸福な組織に観られる4つの特徴」では、1人ひとりの幸福度が高く、生産性が高い組織には、普遍的かつ定量的に計測できる特徴があると指摘し、矢野氏は「まず、人と人とのつながりを線で表すソーシャルグラフの中に三角形が多い、つまり、自分とつながりのある人同士もまたつながりがあるという関係が多いほど、組織における人間関係が密で、幸福度が高い傾向にあります。2目の特徴は、5~15分程度の短い会話の頻度が高いことです。これは、組織のメンバーが気軽に会話できる関係にあるかどうかを示しています。しかもその会話が双方向であり、会議でも全員が均等に発言しているなど、つながりが平等であることが3目の特徴です。さらに、会話する相手と体の動きが同調していることも重要です。人間のコミュニケーションは言葉によるものだけでなく、声の調子や体の動きなどの非言語の情報で、相手に対する共感や拒絶を伝達しています。幸福度の高い組織では、特に体の動きがコミュニケーションの相手と同調している傾向が強く見られます。人は一人では生きていけないと言われるとおり、人類は集団で協力し合うことで繁栄してきた生物です。人と協力することによって幸福感が高まるという生化学的な仕組みを進化の過程で獲得してきました」と語っています。


「『易経』のすすめ」では、教育はオーバーホール(分解検査)する必要があるとして、矢野氏は「そろばんのようなスキルは、いまや人間よりもコンピューターのほうが上手にできます。このような時代に人間がやるべきことは、問題を認識する力です。問題をどのようなフレームワークで、ストーリーで捉えるか。そうした力を養う教育が必要です。じつはそのヒントの1つになるのが、『易経』ではないかと思っているのです」と語ります。それを聞いた山口氏が「物理学者には易経に関心のある方が多いですね」と言うと、矢野氏はヴォルフガング・パウリだとか、好きな人が多いのですが、易経は英語名が『The book of changes』というように、予測不能な未来に対して、どのように状況を捉え行動を起こしていくかということを説いている1つの学問体系です。『易』というのは、じつは一種の二進法で、陰と陽をそれぞれ0と1の組み合わせと考えると、2の6乗、すなわち64のパターンによって自然と人間の変化の法則を表しています。易経は江戸時代には、支配階級である武士が身につけておくべき教養の中核でした。四書五経を中心とした江戸時代の教育は、過去に学ぶだけでなく、自分は、自分たちはいかに生きるべきか、予測不能な未来にいかに臨むべきかを考える力を養うものだったと言えるでしょう」と語ります。


矢野氏との対談後、「社会の規制や規則が緩んでも、個人は必ずしも自由にならず、かえって不安定な状況に陥る。規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとってよいことではない」とデュルケムが指摘したことを紹介し、山口氏はこう述べています。
アノミー状況に国が陥ると、各個人は組織や家庭への連帯感を失い、孤独感に苛まれながら社会をさまようになります。事実、現在の日本ではアノミー化の進行を示唆するさまざまな現像が見られます。アノミーとは即ち無連帯である、と指摘しましたが、昨今人口に膾炙するようになった『無縁社会』という言葉はまさしくアミー状態に社会が陥りつつあることを示唆しています。また日本では1990年代以降、自殺率が高い水準で推移していますが、これもまさにデュルケムが指摘したことです。デュルケムは、1897年に著した著書『自殺論』の中で、自殺を『自己本位的自殺』『集団本位的自殺』『アノミー的自殺』『宿命的自殺』の4つに分類し、成熟社会においては人々の欲望が過度に肥大化する結果、個人の不満・焦燥・幻滅などの葛藤が増大してアノミー的自殺が増加するであろう、と予言しています。カルト教団への若者の傾斜も90年代以降顕著になった現象ですが、これもアノミー化の進行に対する若年層の無意識的な反射と考えることもできます」



第8章「パンデミック後に訪れるもの」では、著者が『テルマエ・ロマエ』などで知られる漫画家のヤマザキ マリ氏と対談します。「臨機応変に対応することを学ぶ」では、山口氏が「古代ローマ同様に宗教的拘束のない日本では、先ほども言ったように世間が倫理基準となっていて、『人に迷惑をかけない』ということが最も重要な行動規範の一つになっています。ところで、この『迷惑』という言葉は適切に英訳することがものすごく難しくて、一体、迷惑というのは何なのか、考えてしまうことがあります。例えば、最近よく問題になっている保育施設などの子どもの声。これを元気で微笑ましいと受け取る人もいれば、騒音だと受け取る人もいるわけですね。そう考えると、迷惑というのは受けるほうの捉え方の問題なのではないかとも思えます」と言えば、ヤマザキ氏は「寛容性の問題だと思います。迷惑をかけないという他者を慮る気持ちを持つことは必要ですが、現代の日本人は、迷惑をかけられることに対して不寛容になっているのではないかと感じます」と語っています。


人間性を取り戻すきっかけに」では、山口氏が「コロナ禍で家にこもる時間が増えたことで、思考する時間も増えたと前向きに捉えたいですね」と言えば、ヤマザキ氏は「パンデミックは、善い悪いは別として社会変革のきっかけになっていますものね。歴史的なパンデミックの中でも大きなものの1つが、紀元165年頃に起きた『アントニヌス・パンデミック』です。天然痘の流行であったと考えられていますが、それがキリスト教の拡大と五賢帝時代の終焉を招き、ローマ帝国の衰退につながったと見られています。その後もいくつかの大きなパンデミックを経て、中世の暗黒時代が訪れ、そこから人間を解放するルネサンスが起きました。もともと彼らの文化の根幹を成すギリシャ・ローマ時代の精神を再生し、人間性を取り戻そうという動きが1300年代のペストの大流行の後、大きく花開いたわけですよね。人口の半数から6割が死滅したと言われる絶望的な疫病のもたらした危機が、メンタル内の保守的で余剰なレイヤーをこそぎ落としたことで、斬新な表現に対するエネルギーが生み出されたのではないかとも考えられます」と語っています。

 

また、山口氏が「ルネサンスがもう一回来るといいなということを書きました。その頃には予想もしていなかったコロナ禍ですが、20世紀の経済発展の中で置き去りにされてきた人間性というものを、取り戻すきっかけになるかもしれないという期待もあります」と言えば、ヤマザキ氏は「今回のパンデミックが、暗黒時代への入り口になるのか、それともルネサンスがもう1度起きる光明となるのか、私たちはいまその岐路に立たされているとも言えるでしょう」と語ります。


ヤマザキ氏との対談後、山口氏はこう述べています。
「考えてみれば、欧州の上流階級の子弟の教育では、しばしば最終段階の仕上げとしてグランドツアーと呼ばれる大旅行が行なわれました。哲学者のトマス・ホッブズも家庭教師としてグランドツアーに同行していますし、あのアダム・スミスも『一生分の年金』を報酬として有名貴族の子弟が赴く1年のグランドツアーに同行しています。これは、言うなれば『人と話す』の1.5次情報と『本を読む』の2次情報で得た知識を、実地に赴いて1次情報とつなぎ合わせて考えるということをやっているわけです。だからこそ、教育の最終仕上げに『旅』というステップが置かれているわけです。そしていま、新型コロナウイルスの影響で、世界から『旅』が失われています。厳密な統計はわかりませんが、近代が始まって以来、おそらく最も『旅』が少なかったのが2020年だったのではないでしょうか? このまま、旅が厳しく制限される世界が続けば、私たちは『自由に考えるための思考の翼』を失い、ますます狭量で、不寛容で、共感する力を持たない社会を生み出していくことになります。そのような世界にあって、どのようにして私たちの知性を守り、育んでいくか。これは私たちに投げかけられた大きな問いです」


終章「武器としてのリベラルアーツ」では、著者は「現代をしたたかに生きていこうとするのであれば、リベラルアーツほど強力な武器はない。何らかの形で組織やシステムに関わる立場にある人であれば、リベラルアーツを学ぶことは、おそらく人生において最も費用対効果の高い投資になるであろう」と述べています。また、「『ソーシャルイノベーションを起こす武器』としてのリベラルアーツ」では、著者は「リベラルアーツを、社会人として身につけるべき教養、といった薄っぺらいニュアンスで捉えている人がいますが、これはとてももったいないことです。本書で再三にわたって指摘してきた通り、リベラルアーツのリベラルとは自由という意味であり、アート(アーツ)とは技術のことです。改めて確認すれば『リベラルアーツ』とは『自由になるための技術』ということ」と述べます。


では、「自由になるための技術」の「自由」とは何か。もともとの語源は新約聖書ヨハネ福音書の第8章31節にあるイエスの言葉、「真理はあなたたちを自由にする」から来ているとして、著者は「『真理』とは読んで字のごとく、『真の理(=ことわり)』です。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ことわり)が『真理』であり、それを知ることによって人々は、その時、その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから、自由になれる、と言っているのです。その時、その場所だけで支配的な物事を見る枠組み、それは例えば『金利はプラスである』という思い込みです。つまり、目の前の世界において常識として通用して誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり『問う』ための技術がリベラルアーツの真髄ということになります。これがなぜ社会を生き抜くための功利的な武器となりうるのでしょうか? 答えは『なぜならイノベーションには“相対化”が不可欠だから』ということになります。過去のイノベーションを並べてみると、そこに何らかの形で、それまでに当たり前だと思っていた前提や枠組みが取り払われて成り立っていることに気づきます」と述べます。


そして、「どうせ買うなら長持ちする武器」として、経営学をはじめとした世知辛い学問の多くがせいぜい数十年の歴史しか持たないのに対して、リベラルアーツはすでに数百年、科目によっては数千年という時間のヤスリにかけられて残っている「人間の叡智」なのだということを忘れてはならないと訴え、著者は「そしていま、私たちはおそらく数世紀に一度あるかないか、という大転換を生きています。このような時代にあって、したたかに、かつ自由に思考し、行動するためにもリベラルアーツは必須の素養と言えるでしょう」と述べるのでした。本書は、これまでの山口周氏の一連の著書と同様に非常に刺激的で面白い本でした。最後に、リベラルアーツについてのわたしなりの考えを述べたいと思います。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

リベラルアーツが「自由になるための技術」であるということはわたしも著者と同意見ですが、「自由」について深く考えた場合、反対の「不自由」とは何かを考えざるをえません。そして、人間にとって最大の不自由とは「死」であることに気づきます。ならば、究極のリベラルアーツとは「死から自由になるための技術」、さらに言うならば、「死の不安から自由になるための技術」だと言えないでしょうか。もともと、哲学・芸術・宗教といったリベラルアーツの主要ジャンルは「死の不安からの自由」をメインテーマとしています。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)は、〈宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論〉全18章の構成となっていますが、同書の文庫版解説を書いて下さった「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二氏は、わたしとのWEB往復書簡である「シンとトニーのムーンサルトレター第126信」で、同書について「この体系性と全体性と各論との緊密な連系は目を見張ります。この全18章の前半部は、宇宙論から哲学・宗教・芸術論で、まさに全リベラルアーツ大特集です」と書かれています。過分なお言葉には恐縮するばかりです。

f:id:shins2m:20210519232055j:plain『死を乗り越える』シリーズ

 

さらに、わたしは、「一条真也『死を乗り越える』シリーズ」として、『死を乗り越える読書ガイド』、『死を乗り越える映画ガイド』、『死を乗り越える名言ガイド』の3冊を現代書林から上梓しました。これらは、いずれもグリーフケアの書として書きました。わたしは現在、グリーフケアの研究と実践に取り組んでいるのですが、グリーフケアという営みの目的には「死別の悲嘆の軽減」と「死の不安の克服」の両方があります。後者である「死の不安の克服」とは「死の不安からの自由」というリベラルアーツの本質と同じです。もともと、グリーフケアの中には哲学も芸術も宗教も含まれており、ほとんどリベラルアーツと同義語と言ってもよいでしょう。リベラルアーツグリーフケアこそは、現在の超高齢社会および多死社会における最重要の「知」ではないでしょうか。

 

自由になるための技術 リベラルアーツ

自由になるための技術 リベラルアーツ

 

 

2021年6月12日 一条真也

金沢から小倉へ!

一条真也です。
11日の朝、金沢のホテルで目覚めました。
今朝の気温は24度。晴天で、気持ちの良い朝です。

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朝食は洋食セットでした

f:id:shins2m:20210611084755j:plainエッグべネディクトが美味でした!

 

ホテルで朝食を取りましたが、今朝はコロナ対応の洋食セット。久々に食べたエッグべネディクトが美味しかったです。石川県産の車麩を練り込んだイングリッシュマフィンにポーチドエッグを乗せ、オランディーズソースで仕上げているとか。朝食が充実していると、その日はずっと元気でいられるように思います。やはり朝飯は大事!

f:id:shins2m:20210611105756j:plainJR金沢駅の前で 

f:id:shins2m:20210611110501j:plain金沢駅のホームで 

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サンダーバードに乗って京都へ!

f:id:shins2m:20210611112025j:plainサンダーバードの車内のようす 

 

朝食を済ませると、いくつかの打ち合わせをしてから金沢駅へ向かいました。11時24分金沢発のサンダーバード20号に乗りました。京都から金沢に来るときのサンダーバードは乗客が多かったのですが、今日はわたしの車両にはわたし以外に3人しか乗っていませんでした。気温が27度ぐらいまで上昇して暑くなってきたので上着を脱ぎ、マスクを黒のウレタンから黒の不織布に替えました。

f:id:shins2m:20210611112243j:plain車内では読書をしました 

 

車内では、いつものように読書をしました。今日は、『小泉今日子書評集』小泉今日子著(中央公論新社)を読みました。2005年から2014年まで、「読売新聞」読書欄に掲載された書評97本が収録されています。 小説、ノンフィクション、エッセイからコミックまで、 著者の独自の感性が掬い上げた名本たちを、唯一無二の視線で紹介しています。もうすぐ『心ゆたかな読書』(現代書林)という書評集を上梓するので、類書を読み漁っているのですが、この本が一番面白いです。キョンキョンは、本当に才能豊かですね。女優としての彼女も好きです。 

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小泉今日子書評集』の「はじめに」

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『心ゆたかな読書』の表紙案

 

小泉今日子書評集』の「はじめに」の冒頭の文章を読んだとき、驚きました。というのも、著者が読書を「心の中の森」を育てる営みだと表現していたからです。ちょうど、昨日、わたしの次回作『心ゆたかな読書』(現代書林)の表紙案が届いたのですが、それがまさに読書を「心の中の森」ととらえたイラストが使われており、その偶然に驚いたのです。これも「シンクロニシティ」でしょうか。最近は本を読んでいると、シンクロニシティのような現象がバンバン起こります。あと、『小泉今日子書評集』には、『悼む人』『小さいおうち』『ツナグ』『スウィート・ヒアアフター』など、わたしがこれまでに書評を書いた本がたくさん取り上げられていました。それらの書評は『心ゆたかな読書』に収めていますが、キョンキョンと共通した感想も多く、嬉しくなりました。『心ゆたかな読書』が刊行されたら、ぜひ、キョンキョンに献本したい!

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昼は幕の内弁当を食べました

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中身はこんな感じでした

 

約250ページの同書を読み終えると、昼食の時間です。会社の人が買っておいてくれた幕の内弁当を広げて食べました。朝食をガッツリ食べていたので、あまりお腹が空きませんでしたが、せっかくのお弁当なので美味しくいただきました。弁当を食べながら、琵琶湖や比良連峰の景色を車窓から眺めました。

f:id:shins2m:20210611133948j:plainJR京都駅で新幹線に乗りかえ

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京都駅のホームで

f:id:shins2m:20210611134723j:plainのぞみ号の車内のようす 

 

13時37分に京都駅に到着。そこから、13時46分京都発の新幹線のぞみ29号に乗り換えました。乗り換え時間が9分しかないので、広い京都駅の構内をキャリーバッグを引っ張って急ぎましたが、エスカレーターの速度が親の仇のように遅いのには参りました。一体全体どうして、あんなに遅いのでしょうか? わたしはギリギリで新幹線のホームに着くと、自動販売機でアイスコーヒーを買ってから「のぞみ29号」に乗り込みました。

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のぞみ車内でも読書しました

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今度は『岸惠子自伝』を読みました



のぞみ車内では、再び読書をしました。今度は、『岸惠子自伝』岸惠子著(岩波書店)を読みました。わたしは女優・岸惠子の大ファンなのですが、この本では、戦争体験、女優デビュー、人気絶頂期の国際結婚、医師・映画監督である夫イヴ・シァンピと過ごした日々、娘デルフィーヌの逞しい成長への歓びと哀しみ・・・・・・その馥郁たる人生を、川端康成市川崑ら文化人・映画人たちとの交流や、中東・アフリカで敢行した苛酷な取材経験なども織り交ぜ、綴っています。まさに円熟の筆が紡ぎ出す渾身の自伝を堪能しました。キョンキョンといい、岸惠子といい、美しいだけでなく知性のある女性は本当に魅力的だと思います。そういえば、2人とも「徹子の部屋」に出演したことがありますが、じつに知性溢れる会話を黒柳徹子と繰り広げていましたね。それにしても、岸惠子が現在88歳というのが信じられません!

f:id:shins2m:20210611161450j:plainJR小倉駅に到着しました

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小倉駅祇園太鼓像の前で

 

小倉駅には16時14分に到着しました。気温は25度で、暖かかったです。列車での長距離移動は、やはり疲れます。ずっと座りっぱなしだったので、腰が痛いです。わたしは、金沢の土産(笹寿司、餡ころ餅)を渡すために実家へと向かいました。両親ともに高齢で足を悪くしており遠出ができないので、土産を持っていくと大変喜んでくれます。笹寿司は母の、餡ころ餅は父の好物です。2人とも、どうか元気で長生きしてほしいと願っています。そういえば、もうすぐ「父の日」ですね。

 

2021年6月11日 一条真也

『エマニュエル・トッドの思考地図』

エマニュエル・トッドの思考地図

 

一条真也です。
11日、金沢から小倉へ帰ります。
エマニュエル・トッドの思考地図』エマニュエル・トッド著、大野舞訳(筑摩書房)を読みました。ブログ『自由の限界』ブログ『新しい世界』で紹介した本に著者のインタビューが掲載されており、興味を持ちました。もっと著者の考え方を深く知りたいと思い、2021年2月に刊行された本書を手に取った次第です。著者は、1951年フランス生まれ。歴史家、文化人類学者、人口学者。ソルボンヌ大学で学んだのち、ケンブリッジ大学で博士号を取得。各国の家族制度や識字率出生率、死亡率などに基づき現代政治や社会を分析し、ソ連崩壊、米国の金融危機アラブの春トランプ大統領誕生、英国EU離脱などを予言しました。著書に『経済幻想』『帝国以後』(以上、藤原書店)、『シャルリとは誰か?』『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(以上、文春新書)、『グローバリズム以後』(朝日新書)、ブログ『大分断』ブログ『パンデミック以後』で紹介した本など多数。 

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本書の帯

 

本書の帯には著者の顔写真とともに、「これから世界はどこへ向かうのか? 危機の時代を見通す真の思考法を世界で初めて語りつくす」「ソ連崩壊、イギリスEU離脱など数々の予測を的中させてきた」「現代最高の知性が明かす思考の極意」「完全日本語オリジナル」「創業80周年記念出版」と書かれています。

 

カバー前そでには、以下のように書かれています。
「『私が何かについて考える際の軸となっているものは、1つはデータであり、もう1つは歴史です』――。これまで、イギリスのEU離脱、リーマン・ショックソ連崩壊など数々の予測を的中させてきた、現代を代表する知性、エマニュエル・トッド。なぜ彼だけが時代の潮流を的確に見定め、その行く末を言い当てることができたのか。混迷の時代を見通す真の思考とはいかなるものか。そのすべてを世界で初めて語り明かす。完全日本語オリジナル」

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「日本の皆さんへ」
序章 思考の出発点
1 入力  脳をデータバンク化せよ
2 対象  社会とは人間である
3 創造  着想は事実から生まれる
4 視点   ルーティンの外に出る
5 分析  現実をどう切り取るか
6 出力  書くことと話すこと
7 倫理  批判にどう対峙するか
8 未来  予測とは芸術的な行為である
「ブックガイド」



「日本の皆さんへ」で、著者はこう述べています。
「私は日本では『予言』ということを通じて知られているのだと自覚しています。ソ連崩壊やリーマン・ショックアラブの春、イギリスのEU離脱などを予言した人物として。もちろん予言、あるいは予測というのは、超自然的なものではまったくありません。適切なデータを収集し、きちんと分析していけば、それが将来どうなっていくのかを見通すことは決して不可能ではないのです」

 

続けて、著者はこれまで半世紀近くにわたり、歴史人口学者として研究を続け、過去がどのような現在を作り上げ、そして未来をかたちづくっていくのか、といったことについて考えてきたとして、「私は自分自身のことを、このような思考についてのプロフェッショナルだと感じています。ただその成果については多くを発表してきたにもかかわらず、思考プロセスや思考そのものに焦点を当てたことはないことに気づかされました」と述べるのでした。



序章「思考の出発点」の「困難な時代」では、著者は自分の所属している社会から少しばかり逃れることで、自分の社会や世界、歴史について最低限の客観的な視点と明晰さを持って眺めることが可能になると考えているとして、「社会においてマージナルな存在、アウトサイダーになるというのは、ある程度は大切です。しかしながら、アウトサイダーになるためには1つの前提条件があります。それが、じつは集団的な構造の存在なのです。枠組みがあり、組織化され、ある考え方を持った社会がそこに存在していることが前提なのです。まったく何もない、無の状態に対して、人はアウトサイダーにはなれないのです」と述べています。

 

「思考のフレーム」では、著者の思考にフレーム(枠組み)を与えてくれたのが統計学であったとして、「私にとって考えるというのはデータを蓄積するということで、データの関連性を見つけることや地図を比較することは、ほとんど自然発生的にできることです。しかし、その後に統計学がフレームとしての役割を果たすのです。言い換えましょう。自然発生的なとっさの思考というのは、いわば『思いつき』あるいは『気づき』のようなもので、それ自体を方法論として体系化することは困難です。ですが、そこで生まれたものは何らかの手段で検証しなければなりません。こうした着想の検証やデータ分析の際に――私の場合は統計学という――フレームが重要な役割を果たすのです」と述べます。

 

また、「記憶力という知性」では、もう1つの知性が記憶力であると指摘し、著者は「学生のころに、あるマルクス主義歴史学の教授が言っていたのですが、少なくとも歴史学においては、記憶力というのも1つの知性なのです。歴史学者になるために記憶力というのは欠かせません。私は頭の回転の速さはもっていませんが記憶力には自信があります。幼いころは映像記憶の能力を持っていたくらいですから。中学生のころ、親にちゃんと勉強をしたのかと聞かれて、急いで教科書を丸暗記したという思い出もあります。私はこのように視覚から入る記憶力に長けているのだと思います。そういうわけで、大学時代には大教室での授業はほぼ行っていませんでした。話を聞いて覚えるのは苦手だったので、それなら本を1人で読んでいたほうがよかったわけです」と述べます。

 

さらに、「創造的知性」では、すでに手元にあるデータを説明する、あるいはかたちづくるために脳にあるさまざまな要素を自由に組み合わせ、関連づけることができる知性を「創造的知性」と呼びます。しかし、創造というのは「無」から何かを生み出すことではないとして、著者は「知性の本当の謎というのは、どうやって斬新なアイディアを思いつくか、という点にあるのです。人はどうやって提案や解釈、新たな視点、あるいは誰も考えつかなかった表現方法などを思いつくのか。非常に能力の高い人たち、頭の回転が速く記憶力も抜群な人たちの頭というのは、勝手に動く機械のようになっていて、読書をこなして記憶し、すべて求められたフォーマット通りに吐き出すという一連の作業を楽々とこなせます」と述べています。

 

そして、「機能不全に注目する」では、ある程度の処理能力は社会を理解するために必要であるが、社会を理解することは、必ずしも社会について考えることを意味するわけではないと指摘し、著者は「社会を考えるためには、機能不全や一見関係のないもののつながりに気づくことが何よりも大切です。聴力に長けている人は音で関連性を見いだすこともできるでしょうし、私のように視覚から入る人間は、イメージとイメージをつなげていくことで関連性を見いだします。私が研究の際にしばしば地図製作などを用いるのも、じつはそれにつながっています。さまざまな事柄を関連づけるとともに、通常の状況から外れたものに関心をもつこと、それが思考の出発点だと言えるのではないでしょうか」と述べるのでした。

 

1「入力 脳をデータベース化せよ」では、あらゆる知的活動は、基本的に「入力(インプット)→思考→出力(アウトプット)」という3つのフェーズで構成されると指摘し、著者は「『入力』というのは読書などを通じたデータの蓄積、『思考』というのは脳内での処理プロセスのことで、『着想』『モデル化とその検証』『分析』などに細分化できます。『出力』というのは、言うまでもなく話したり書いたりすることでそれを伝えていくことですね。もちろん、この流れが絶対というわけではありません。それは研究の対象や内容によって異なってくるものです」と述べています。

 

このプロセスの最初に位置し、最も重要で、そして著者にとって最も面白い作業は「入力」であるとして、著者は「私にとって考えるということは、椅子に座って自問自答を繰り返すようなものではない」「むしろ、ひたすらに本を読み、知識を蓄積していくことなのだと。何かを学び、新たなことを知ったときの感動こそ、私が大切にしてきたものです」と述べます。「自分のなかに図書館をつくる」では、ジョージ・マードックという構造主義人類学者の著作『アフリカ――その民族と文化の歴史』(未邦訳)をどうしても読みたいと思っていたとき、なかなかその本を入手できなかった著者は、ある日、人類博物館の館長から、この本を持ち帰ってコピーをしてもよろしいという許可をやっとのことで得たというエピソードを披露します。

 

 

著者は、「そのときの極度の興奮状態はだぶんどんな女性にも感じることのなかったものではないかというほどのものでした。それは私の思い出のなかでも最も興奮に満ちたエピソードとして、いまも覚えているのです。それは一種の幸福であり、知識や何か新しいことを学ぶということに対する抑えきれないほどの欲動が、私のなかにあったということなのです」と述べています。わたしにも同様の経験があります。『儀式論』(弘文堂)を執筆するときに、エドワード・タイラーの『原始文化』という本がどうしても参考文献として必要だったのですが、古書でも入手できずに途方に暮れていたら、編集者の方が母校の図書館から借りてきてくれたのです。喜んだわたしは早速コピーを取って、『儀式論』を一気に書き上げました。そのとき、エマニュエル・トッドと同じく、極度の興奮状態にあったように記憶しています。

 

儀式論

儀式論

Amazon

 

研究者の脳みそというのはデータを蓄積するもので、特に歴史学者の脳には膨大な知識が蓄積されているとして、著者は「ですから、ぼうっとしているときというのは単に何もないところでぼうっとしているのではなく、じつは自分の脳である巨大な図書館のなかをさまよっていると言うほうが正しいのです。私も、自分のなかに図書館を持っています。図書館ですから、どんどん蓄積され続けています。それはあたかもコレクターのようなものです。インドの菜食主義についてのデータも使うかどうかわかりませんが、脳のどこかにストックされているのです。もちろん人間の脳ですから私も歳をとるわけで、すべてが残るわけではなく、ある程度は取捨選択もされます」と述べています。これは、わたしにもよく理解できます。

 

「研究者とは旅人である」では、著者はデータの中をふらふらと散歩しているとして、「昔であれば研究所の資料室でデータ年鑑を眺めたり、今日ではインターネットでデータの検索をしたりというふうに。私は、インターネットというのは人々の生活を巨大な図書館に変えたツールだと考えてきました。インターネットというのは図書館なのです。インターネットに間違った情報がたくさんあるとはいっても、図書館でとんでもない本に巡り合うことも十分にありうることなのですから」と述べます。

 

「仕事にヒエラルキーはない」では、本を読み続け、さまざまな情報を収集し、自分の頭のなかにデータを蓄積していくと、ある時点で自分の脳がデータバンクのようになってくるとして、著者は「いまの私は、頭のなかで地球上のあらゆる場所をナビのように周り、地域レベルでそれぞれの家族システムについて見ることもできます。家族システムのすべてを知っていますが、それは長年にわたって、情熱と喜びを持ってそれに関する研究をしてきた結果なのです」と述べます。

 

「趣味の読書、仕事の読書」では、著者の仕事の95%は読書(残りの5%は執筆)であるとして、著者は「いまはメモを取りながら読書をすることは昔ほど多くはありませんが、それでも読書は研究に欠かせないことなのです。研究を進めるためには、とにかく事実(ファクト)を蓄積しなければなりません。読書というのはこの事実の蓄積に必要不可欠なものですし、その積み重ねによって、やがてあるモデルが立ち現れてきます。もちろん、蓄積したデータのすべてがすぐに役立つわけではありません。モデルの構築のために使われなかったデータは忘れられる傾向にありますが、メモやノートをのちのち読み返して思い出すこともよくあります」と述べています。

 

 

著者がまだ趣味で読書をしていたころ、モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」シリーズは何度も読み込んだそうです。著者は、「それに、ルパンを読みながらとある方法論を見つけたこともあります。ルパンがあるときこう言うのです。『まだ十分に材料が揃っていない。とりあえず考える前に進まなければならない』と。これにはハッとさせられました。つまり、考え始めるにはまだ早いということなんです。もちろん、ルパンにとってデータの蓄積というのは波乱万丈の冒険を繰り広げることを意味するけれども、私の場合はとにかく文献を読み漁ることだという違いはあるわけですが。とにかく、このような読書をしていても、そこに自分の研究のためのヒントを見いだしてしまうのですから、もはや職業病と言ってもいいかもしれません」と述べます。

 

カニ歩きの読書」では、社会科学の諸分野を横断的に理解できたために最終的に気づいたことというのは、よい研究の進め方というのはカニ歩きのようなものだということだとして、著者は「カニというのは斜めに歩き、横に進みます。そういう進み方こそが研究に必要なのです。アイディアを得るために、そして思っても見なかったような事柄に気づけるようにするためには、その研究の柱となる部分から外れた読書をすることが大切なのです。研究の第一フェーズが読書です。どうやってアイディアを得るのか、そのために何をすべきかというと、ひたすらなんでも読むべきなのです」と述べるのでした。

 

2「対象 社会とは人間である」の「社会から覆いを取り去る」では、本来の社会学というのは覆いを取ることだと指摘し、著者は「家族構造から思想を説明する――これが私の立場なわけですが――というのも同じようなことなのです。そもそも家族構造に関する仮説は、大衆的な社会政治的マルクス主義を1つの虚偽意識と見なすものでした。私はこれをすることによって、人々の自己イメージが実態とはかけ離れたものだということを見せてしまったのです。その結果、社会からひどい仕打ちを喰らうことは、社会学をする側からしてみれば当然のこととして受け入れられるはずです。我々は文化的な矛盾を生きています。あるいはそれはむしろ一貫性のなさ、支離滅裂さと言えるかもしれません。今日、誰もが個人の無意識について知っています。精神分析というのは中間管理職など教育を受けた層の人々から受け入れられたのですから。ところがそれでもなお、個人の無意識に表出する社会的無意識というのは受け入れられなくなってしまっているのです」と述べます。

 

「社会を維持するための幻想」では、人類学は基本的には先進国社会を対象にしないとして、「なぜならば、『進んだ』社会というのは解放された社会であり、人生に意味を与えるために存在する非合理的な慣習などからも解放された社会であると認識されているからです。しかしそんなことはないのです。私のように平等主義のフランス人も、最初の原始人も、最も進んだ人間もみな同じであり、同じ遺伝子形態をもち、結局は死へと向かいます。そしてこの死への恐怖には同じように目を背ける必要があり、絶対的なものと定義される信仰を基盤とする組織化された共同体に生きる必要があります。そして、社会科学が探求の対象としているのは、このような存在としての人間であり社会なのです」と述べます。

 

 

精神分析による観察」では、著者はフロイトをたくさん読んだと告白し、「ですから私は彼の説く無意識の存在に完全に同意しますし、みずからの無意識について、年とともにますますその存在を受け入れられるようになってきました。この無意識は、とても緊張していたり、あるいは精神的に困難な状況に陥っているときに表出してくると気づきました。身体に表れたり、はたまた神経がやられることもあります。ですから、私は自己が1つであるとは思っていません。ちなみに無意識についてはこのように述べているのは私だけではありません。たとえば、アイザック・アシモフというSF作家がいますね。彼は科学者でもあったのですが、問題の解決方法がどうしても見つからないときは、映画を観て自分の無意識を働かせるのだと確か言っています。そして映画館から出ると、無意識が働いてくれて答えが見つかるのだというのです」と述べています。



「合理主義と経験主義」では、フランスの合理主義という伝統を引き継ぐ哲学者たちがいると指摘し、著者は「彼らは自分の頭のなかを探って一般的に人間と呼ばれるものが何かを考えるのです。この最たるものが『我思う、ゆえに我あり』のデカルトです。哲学では、いつも意味の変化が含まれ、因果関係も意味のぼやけた言葉や概念によってゆがめられるのです。最終的には確かに、明白な論理展開が部分的に含まれてはいるものの、そのほかはぼやけている――私にとって哲学の世界とはこういう世界なのですフランス人はデカルト的な合理的精神を持っているといわれます。地に足のついた思考をする人々などとも言われますが、このデカルト的な精神の持ち主たちというのは、私にとってはその真逆で、現実離れした人々のことを指すと思うのです。このような精神構造とフランス人らしさというものを関連づけるということ自体が、フランスの国家的な幻想の中心にあるとすら私には思えます」と述べます。

 

 

「歴史に語らせる」では、大切なのは歴史的出来事を時間に沿った配列として捉えることであるとして、著者は「たとえば宗教の危機は識字率の向上よりも前に来るとか、女性の地位低下という事象は技術発展よりもずいぶん前から始まるということなどです。これらは人間とはどのようなものかという仮説を1つも必要とせずに描くことができます。そして、それを通して結果的に人間とはどのような存在なのかが浮かび上がってくるのです」と述べ、さらに「この歴史的視点というのは人間を理解するうえでは、デカルトの『我思う、ゆえに我あり』よりも何倍も強いことだと私は思うのです。また、精神医学よりも、小説よりも強いものなのです。私はどちらかというと精神医学よりも小説のほうが人間の本質を理解するものとして力強いと思っていますが」と述べています。



「すべては歴史である」では、とにかく歴史はすべてを含むとして、著者は「突き詰めれば社会学や人類学などもすべて歴史に含まれることなのです。アレキサンダー大王だってローマ帝国だってそうです。農業技術の発展も同様です。デュルケームの『自殺論』もそうです。自殺率が19世紀から1914年の第一次世界大戦にかけてブルジョワ社会で高まった、というのも歴史なのです。政治史も軍隊の歴史も心性史も、また経済史も、とにかくすべては歴史なのです。そしてこれこそアナール学派の遺産なのです」と述べています。



そして、歴史は解釈によって異なるというのは確かですし、いろんな意見があるのも認めるけれども、その根底には覆すことができない真理があるとして、著者は「人間の社会が自分たちに対して嘘をつき続けたとしても、奥深くに歴史の真理というのは存在しています。もしかしたら歴史が終わるまで、その真理は人間からは隠され続けるのかもしれません。そうだとしても歴史の真理は存在し、私はわずかではあれ、その一部を理解したと思っています。確かに真理を求めるという戦いのなかで、私が社会に負けたものもありました。ですから、私の著作や私が見つけた真理がこれから先も社会に残り続けるかどうかはまだわかりません」と述べるのでした。

 

3「創造 着想は事実から生まれる」の「『発見』とは何か」では、著者にとって思考することの本質とは、とある現象と現象の間にある偶然の一致や関係性を見いだすということ――つまり「発見」をするということであるとして、著者は「私には、方法論や抽象的な問いよりも、このことのほうが重要なのです。私にとって『発見』とは、変数間の一致を見いだすことを意味します。とはいえ実際のところ、社会科学の研究者の大半はたいした発見をしません。理系の学問と異なり、すべてを科学的に確認するわけではありませんから。その意味では私の態度はどちらかというと、理系の科学者に似ているのかもしれません」と述べています。

 

「無意識での攪拌プロセス」では、アイディアを得ること、あるいは変量や変数の関係性や時間・空間における一致などに気づくことの裏では、なんらかの無意識のメカニズムが働いているということを指摘し、著者は「たんに膨大な情報をインプットするだけでは十分ではないのです。そうした情報を完全に咀嚼し、はっきりと意識されなくなるところまで、つまり無意識のレベルにまで深く沈殿させる必要があるわけです。それには時間がかかります。やがて、その無意識において別々の情報どうしが自然と攪拌され、あるとき新たなアイディアとして突然飛び出してくるのです」と述べます。

 

「アイディアにどう向き合うか」では、著者のアイディアがきわめてシンプルなものだったからというのも、そうした不安に駆られた理由の1つでしたが、それだけではないとして、「ここで説明しておかなければいけないのは、私がこれを思いついた当時の時代背景です。その時代はちょうど家族構造に関する研究がものすごいスピードで発展していた時期でした。その一方で、思想界は非常に安定していたのです。私の発見というのは家族構造と思想の関連性でしたから、別の誰かが私よりも前にこの発見をしていても、決しておかしくなかったのです。発見した瞬間から、私にとってこの説はどう考えても明白なことだったので、誰かに越されるのではないかと非常に心配で、先を越されぬよう、本の執筆を大急ぎで進めたのです」と述べます。

 

 

「自分の発見に驚く」では、デュルケームの『自殺論』は「19世紀の終わりに自殺をする人々はどちらかというと教育を受けた裕福な人々であり、貧しく教育を受けていない人々ではなかった」ことを発見するものだったとして、著者は「このような結果は驚きに値するものでしょう。ですから研究、発見としても意味があるものだといえるわけです。ちなみに、デュルケームの『自殺論』は私が崇拝する作品の1つです。私自身、昔からずっと統計的な観点から社会と歴史を認識するという方法に惹かれてきたこともあり、この著作には非常に魅了されるわけです。もちろん、私が使う統計は相関関係、回帰分析と残差ぐらいのレベルで、統計が大の得意というわけではありませんが。とにかく、デュルケームが自殺の規則正しさと、経済的、宗教的、あるいは家族レベルにおけるその他の現象とを関連づけて研究し、現代では相関関係、あるいは非相関関係と呼ばれるものについて、それらが発見される以前にすでに分析していたということは、もはや感動的ですらあります。もともと哲学の専門から出発した人物だからこそ、それは感嘆すべきことであり、心に響くのです」と述べます。

 

 

「予想外のデータを歓迎する」では、人口統計学の祖の1人、ヨハン・ペーター・ジュースミルヒが『神の秩序』(1741年)という本を書いたことを紹介し、著者は「デュルケームにも言えることですが、初期の人口学者が発見したのは、毎年の観察を重ねると人口がいかに規則正しい側面を持っているかという点でした。たとえば、人口に対して毎年ある程度の死亡件数があり、出生件数がある、といった規則正しさです。彼らが驚いたのは、人口とその社会の規則正しさだったのです。ただ、私たちはその驚きが当然のこととなった時代を生きています。毎年どれだけ人が死んでいくのか、そのデータが見せる規則正しさに驚かされることは特にありません。もちろん、インフルエンザやエイズなどの影響もあったりはするのですが、自分自身がある程度安定した社会に生きているということも関係しているのだと思います」と述べています。

 

 

著者が25ページくらいまでしか読めていなくても素晴らしいと思うのは、アインシュタイン相対性理論です。著者は、「そのころの物理学というのは壁にぶち当たっていました。それは相対性原理とマイケルソン=モーリーの実験に基づいた光速度不変の原理との矛盾でした。これらの2つは絶対的な矛盾として考えられていたわけです。しかしアインシュタインはここで、ではこの2つの原理が真実だったらどうなるか、と説くのです。そこからアインシュタイン相対性理論が生まれ、それまでのニュートン物理学を根底から再検討することにつながっていったのです。私自身がこのような偉大な発見をしていると言いたいわけではありません。驚くべきデータを排除しない、無視しないというのがいかに重要かということです」と述べます。また、アイディアを得るためには自分自身に自信を持つことが重要であり、「そうしなければ思い切ったアイディアも湧いてきません。自分に対してポジティブなイメージを持ち、そんな自分には何ができるのか把握することです」とも述べるのでした。



4「視点 ルーティンの外に出る」の「外の世界へと出る経験」では、著者の知性の理想的なモデルというのはマルクスであるとして、著者は「もちろん彼の思想を私がたどることはありませんでしたが、マルクスの人としてのあり方、研究者としてのスタイルは私のモデルです。マルクスは私の知性面そして精神面での理想像と言えるでしょう。彼はドイツ系ユダヤ人でした。そして父親はルター派に改宗した人間です。その後、フランスに渡り、イギリスへも行きます。彼はドイツ語で書いていましたが、ドイツの思想を批判し、またフランスの階級社会を外からの視点で批判しました。さらに、イギリスの政治経済状況をも批判しています。なぜこうしたことが可能だったかというと、彼自身が宗教的なマイノリティ出身だったのみならず、その家系がその宗教から抜け出していたからでしょう。また、そのころ支配的であったヨーロッパの3か国を見たというのも重要な点だと思います」と述べています。

 

 

 「古典を読む意義」では、すでに亡くなった学者、マルクスデュルケームマイケル・ヤングと、まだ生きている学者とのあいだに違いがあるかどうかはわからないが、ある意味では著者はすでにこの世にはいない人たちのなかで生きているとも言えるとしています。著者は、「なぜならば特に社会学歴史学や人類学といった分野で、名作、古典と呼ばれるような作品がしょっちゅう生まれるわけではないからです。だから、たいていはすでに亡くなった人たちの本を読むことになります。私は死者たちと生きている、というのはそういうことです」と述べます。

 

 

著者はマルクスをはじめ、ヴェーバーデュルケームタルドなど、古典を本当によく読んだと告白し、「もちろん現代の研究者で大切な著作もあります。マクファーレンなどもそうですし、ル・ロワ・ラデュリ(1929年―。アナール学派を代表するフランスの歴史学者)やピエール・ショーニュ(1923―2009年。フランスの歴史学者)などもそうです。別に生きている学者を嫌っているわけでは決してないのですが、おそらくすでに死んでしまった人の書いたものが私の読書の90%を占めていると思います。古典と言われるものもありますが、ルプレの作品などは忘れ去られていたものです。こうした過去の書物を読むことで、現在に囚われない一歩引いた視点を持つことが可能になるのです」と述べています。

 

 

「別の世界を想定する」では、SFというジャンルはイギリスが生み出したものであるとして、著者は「マイケル・ヤングH・G・ウェルズなどを拠りどころにしています。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』やジョージ・オーウェルの『1984年』などもイギリスの作品ですね。イギリスにはSFと社会の未来とを結びつける伝統があるのかもしれません。とにかくヤングは、そうであるかもしれないような別の世界を構築し、そこから未来の社会を捉え直したのです。そして実際に今日、ヤングが描いたような社会が訪れているのです。私自身もSFはたくさん読みました。SFというのは自分で創造できる外の世界なのです。つまり、自分の社会を見るためにはそこから出なければいけないのです。井戸から出る蛙というような感じです。社会から逃げることが大切なのです。フィリップ・K・ディックのようにドラッグをしろとは言いませんが」と述べています。



「機能しすぎる知性はいけない」では、脳があまりにも効率よく働いてしまう人たち、つまり出る杭にはなれない人たちからは新しいアイディアは生まれないと指摘し、著者は「軽い精神障害というのは、もしかすると研究にとってのアドバンテージになる可能性もありますね。自分の社会やすぐ目の前にある現実から少し外れたところにいるのですから。そしてそのことが大切なのです。私も若いころは、ずれていたことで少し苦しい思いをしたりもしました。学業は普通にこなせましたが、私自身、少し不思議な若者でしたし、精神面では苦しかったりしました。だからこそ読書に逃げていたのです。本は、それ自体が1つの世界ですから」と述べています。

 

著者は、以下のように助言をまとめています。
(1)思考の面では自分の国に留まらず、
   外へ行ってしまいなさい

(2)SFを読み、想像の世界へ行きなさい
(3)すでに死んだ人の作品をより多く読みなさい
(4)恋愛面で危機にあるときほど研究に邁進しなさい
そして、著者は「こうしていつもとは違う刺激が与えられることでアイディアが浮かぶ、つまり思考が進むのです。私の場合は感情面で不安定になったときにも、思考が一歩進むという経験をするのですが、外的な刺激によって思考がルーティンから出るということが重要なのです」と述べるのでした。

 

5「分析 現実をどう切り取るか」の「今現在から逃れること」では、著者の情報の多くは本から来ているとして、「書籍というのはテレビなどに比べてある事象を遅れて伝える媒体と言われますが、私は統計年鑑などからデータを取り、基本的な変数を見て、総合的に考察するのです。それに統計が現在という時間に対して遅れをとってしまう点は、インターネットの出現によってかなり改善されたと思います。いま、統計は1年から2年程度の遅れですが、昔は3、4年は遅れていました。でも統計こそが、物事の傾向と発展について明確にしてくれるのです」と述べます。



7「倫理 批判にどう対峙するか」の「フォーマット化される知性」では、日本でも教育が人々をフォーマット化するということで批判が起きていると思うとして、著者は「日本文化が目上の者を敬うということを踏まえた規律正しい文化に基づいているため、そこに発生する問題というのは、そうした規律への圧力から知性の自由をいかに守るかということなのだと思います。それは知的な分野においての自由もそうですし、決断をするというところでも見られるものです。映画『シン・ゴジラ』でも、誰が責任を持って決断するかということが柱となっていましたね。でもこれは日本の「文化的側面」なのです。他方で強調しておきたいのは、フランスやイギリスのようなもともと個人主義的な文化のある国々においても、この種の順応主義のメカニズムというのが台頭してきているということなのです。個人主義社会においても、同じような問題が発生してきているのです」

 

「複数の自己」では、西洋の個人主義では、すべてが個人ありきで始まるとして、著者は「個人のなかには、たった1つの、すべてを統制する自我が存在する――こうした想定が個人主義的文化の基盤にあります。それと対照的なのが、こうした自我の存在というのはそもそも幻想であるとする仏教的な考え方だと思います。仏教では「私」や自己の存在を明確に否定していますね。この『私』というものについて、非常に関心を抱いているのです。そして私自身としては、両者の中間の考え方に落ち着いています――たぶん複数の私がいるのだと。私は哲学的に自己の存在を否定する立場ではありませんが、いくつもの私があるというのが持論です。研究者としての私、フランス人としての私、4人の子どもの父親としての私などといったように」

 

「最悪の事態を予期できないわけ」では、著者は「人間は、死ぬということを知っている動物です。だからこそ、人間として心地よく生きていくためには、この点について忘れる必要があるのです。目をつぶる必要があるのです。ですから、人間を構成している遺伝子のなかに、つまり生物学的にも生理学的にも、理性を忘れるという機能がサブプログラムとして組み込まれていると思うのです。宗教などよりもさらに奥深い部分の話です。とにかく、死については考えてはいけないのです」と述べますが、この発言は納得できません。死について考えることは哲学的営為であり、人間ならではであると言えるからです。



8「未来 予測とは芸術的な行為である」の「家族構造との関連性」では、新型コロナウイルスが明らかにしたことの1つは、グローバル化というのは社会発展の単なるステップではなかったということであると指摘し、著者は「つまり、それは卑劣な金融の思惑であり、西洋社会の一部を後進国状態にしてしまったのです。こうして自国に生産チェーンを保持した国々というのは、ドイツやオーストリア、日本、韓国、つまり直系家族の国々なのです。私にとってそれは悲しくもすばらしいことです。そして最も被害が大きかった国々を見てみると、フランスというのはドイツよりもイタリアやスペインに近い状況です。また驚くべきことは、人口10万人当たりの死亡者数でイギリスがフランスを抜いてしまった点でしょう。アメリカについては、これからいろいろとわかってくると思います」と述べています。

 

厳密な意味でいう核家族であり、フェミニズム的な西欧社会の出生率の高さという利点は、高齢者層での死亡者数の増加よりも重要であるとして、著者は「もちろん高齢者を大切にするという価値観はすばらしい面もありますが、人間社会の運命というのは、生産をし、若者たちを育てるということに尽きると思うのです。もちろん、人々を傷つけたくて言っているわけではありません。私自身が高齢者層に所属しますが、こう思うのです」と述べます。

 

他の人がどうかはわからないけれども、著者の思考の方法というのは、どこかしら芸術家のような部分があるのだと思うとして、著者は「芸術的というのが何かと言われると定義が難しいのですが。芸術的な身ぶりはとても短い瞬間に見られるものですが、その身ぶりに凝縮されているさまざまな要素というのは、1つ1つを取り出してみればそれぞれは非常に合理的なものだったりするわけです。そこには多くの知識や職業的経験が含まれています。それはまるで、それまでのことが結晶化したようなものです。そこには本当かどうかわからないもの、特別なもの、いろいろなものが含まれるのです。予測という行為には、これまで私が得てきた知識、研究、アイディア、理論、価値観、そうしたすべてが含まれているのです」と述べます。

 

歴史学者として、著者は膨大な知識を蓄積してきました。歴史の多くを知っているし、家族システムについても膨大な知識を持っているとして、著者は「決して傲慢な態度を取りたいわけではありませんが、自分はプロフェッショナルであると私は思っています。たとえば整備士がプロであるのと同様に。私が知識人かどうかはともかく、知識人に本当に必要なのは、プロフェッショナリズムなのだと思うのです。プロの仕事や手つきには、おのずと芸術性が宿るものです。なによりも、リスクを負う、思い切る勇気がある、というのがこの私が言うところの芸術的な学者の条件なのです。このリスクを負えるかどうかは、その性格以上に、その人自身が社会にどのように関わっているかということにかかっているのです」と述べるのでした。本書は、日本の読者向けに書かれただけあって、これまでの著者の本と比べても非常に読みやすかったです。

 

 

2021年6月11日 一条真也