はらぺこIOC

一条真也です。
金沢に来ています。ブログ「大額紫雲閣起工式」で紹介したように、10日は朝食も昼食もかなりの御馳走でお腹がいっぱいになりました。きっと夜はお腹が空かないだろうから、「菜っ葉でも食べようか」と思いましたが、流れでゴージャスなステーキ弁当を食べることになってしまいました。美味しかったですけど、お腹がパンパンです。明日からは、本当に菜っ葉をかじって暮らします。

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毎日新聞」6月5日朝刊より 

 

菜っ葉といえば、青虫の大好物ですね。青虫といえば、もちろん「はらぺこ あおむし」です。ブログ「お疲れさま、カール!」で紹介したように、5月23日にアメリカの絵本作家エリック・カールが91歳で亡くなりました。カールの代表作が『はらぺこ あおむし』です。1969年に刊行された大ロングセラー絵本で、生まれたばかりの小さなあおむしが葉っぱやリンゴやカップケーキなど、子どもたちの大好きなものをモリモリ食べて大きくなり、最後は美しい蝶へと姿を変えるというお話です。それを使った風刺画がいま大きな話題というか、大問題になっていますね。「毎日新聞」6月5日付け朝刊の「経世済民術」に掲載された風刺漫画「はらぺこIOC 食べまくる物語」がそれです。これはインパクト大ですね!


問題となった風刺画は、東京五輪の強行開催を企むIOC幹部を食欲旺盛なあおむしに見立て、バッハ会長、コーツ氏、パウンド氏ら3匹の顔をしたあおむしが、「放映権」と書かれた「ゴリンの実」をむさぼる様子を描いています。リンゴ1つ1つには「放」「映」「権」と書かれ、傍では菅義偉首相そっくりの人物が「犠牲が必要!?」と言いながらリンゴ(ゴリン?)の木にせっせと水をやっています。バッハ会長の顔の横には「東京で会いましょう」の文字が書かれています。さらには、5月に作者が亡くなったことを踏まえて、「エリック・カールさんを偲んで・・・」と、追悼を示す添え書きまであります。

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東京新聞」Webより

 

作者はイラストレーターのよこたしぎさんで、1998年から同欄に風刺漫画を描いているそうです。この風刺画に『はらぺこ あおむし』日本版の版元である偕成社が激怒しました。7日付けで、偕成社のウェブサイトに今村社長名で意見書が掲載されました。「表現の自由、風刺画の重要さを信じる」と強調した上で、今回の表現のあり方を疑問視しています。「はらぺこ あおむし」の楽しさは「「あおむしのどこまでも健康的な食欲と、それに共感する子どもたち自身の『食べたい、成長したい』という欲求」であり、「利権への欲望を風刺するにはまったく不適当」と主張。「風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつものだと思います」と訴えています。また、今村社長は「絵本は最後にきれいなチョウチョになるのがポイント。IOCの貪欲さ、強欲さの表現で、たくさん食べるところだけつまみ食いするのはないんじゃないかと思った」と語ったそうです。

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「JIJI.COM」より

 

わたし自身の意見ですが、『はらぺこ あおむし』という作品を大切に思う偕成社としてはもっともな怒りであり、毎日新聞社に意見するのは当然であると思います。わたしも『はらぺこ あおむし』の素晴らしさは大いに理解しており、2人の娘たちが小さいときはよく読み聞かせをしていました。でも、よこたしぎさんの風刺画は正直言って秀逸です。「あおむし」と「あいおーしー(IOC)」、「リンゴ」と「ゴリン(五輪)」という言葉遊びもナイスですし、リンゴという果実を放映権に例えたところなど見事です。青虫の顔が人間の顔というシュールな絵はカフカの『変身』を連想させ、まことにエクセレントであります。まあ難を言えば、「エリック・カールさんを偲んで・・・」という言葉が余計でした。追悼と風刺は相性が悪いですから。「毎日新聞」も偕成社のクレームに対して、「あおむしが最後に美しい蝶になるように、東京五輪も大成功することを願って、善意で掲載しました。東京五輪のスポンサー企業として・・・」とでも答えれば良かったと思います。まあ、そうは行かないか!(笑)


2021年6月10日 一条真也

大額紫雲閣起工式  

一条真也です。金沢に来ています。
10日、石川県のまん延防止等重点措置が13日で解除されることが決定する予定です。この日の金沢は気温28度で暑かったです。ホテルの朝食がコロナ対応の豪華和食の定食でした。ボリューム満点、食べて元気モリモリ!

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金沢の朝食は豪華でした!


また、この日、わが社の新しい施設の起工式が行われました。「大額紫雲閣」の新築安全祈願祭ですが、この施設は サンレー北陸の16番目、サンレーグループでは91番目の紫雲閣です。もちろん、100施設を目指します!

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本日の式次第

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本日の神饌

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一同礼!

 

大額紫雲閣の場所は、石川県金沢市大額1丁目です。一等地です。設計管理は翠建築設計室さん、施工は株式会社長坂組さんです。長坂組さんによってテントが建てられ、その中で起工式が行われました。

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低頭しました

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起工式のようす

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紫色の小倉織マスクを着けて

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清祓之儀のようす

 

神事は、地元を代表する神社である林郷八幡神社の加藤正俊宮司にお願いいたしました。地鎮祭を行いましたが、土地の四隅に青竹を立て、その間を注連縄で囲って祭場とします。祭場の中には木の台(八脚台という)を並べ、その中央に神籬(ひもろぎ)を立てて祭壇とします。神籬は、大榊に御幣・木綿を付けた物。これに神を呼ぶのです。

f:id:shins2m:20210610145644j:plain宮司から鎌を手渡される

f:id:shins2m:20210610111149j:plain斎鎌之儀のようす

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斎鍬之儀のようす

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斎鋤之儀のようす

f:id:shins2m:20210610111328j:plain地鎮之儀を終えて

さらに祭壇には、酒・水・米・塩・野菜・魚といった「供え物」を供えます。そして、地鎮之儀として、「斎鎌之儀」「斎鍬之儀」「斎鋤之儀」が行われます。今日はわたしが「斎鎌之儀」を、翠建築設計室の岡本代表が「斎鍬之儀」を、長坂組の長坂社長が「斎鋤之儀」を行いました。

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宮司より玉串を受け取る

f:id:shins2m:20210610111418j:plain玉串奉奠は二礼二拍手一礼で

f:id:shins2m:20210610111422j:plain拝礼しました

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玉串奉奠する東専務とサンレー

 

玉串奉奠では、最初にわたしが二礼二拍手一礼しました。その後、翠建築設計室の岡本代表、長坂組の長坂社長、サンレー北陸の東専務の順番で玉串奉奠しました。それから、撤饌、昇神之儀が行われて閉式となり、加藤宮司の「乾杯!」の発声で神酒を拝戴しました。

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加藤宮司の祝辞を拝聴しました

f:id:shins2m:20210610112028j:plain神酒を拝戴しました

 

いつも思うのですが、紫雲閣で行われる葬儀は、いわゆる「仏式葬儀」と呼ばれるものがほとんどですが、これは純粋な仏教儀礼ではありません。日本の「仏式葬儀」には儒教の要素が大きく入り込んでおり、いわば「仏・儒合同儀礼」としてのハイブリッド・セレモニーなのです。しかし、その舞台であるセレモニーホールを建設する際には、神道による「地鎮祭」が執り行われるというのが面白いですね。やはり、仏教や儒教に関わる儀式の舞台を作る上でも、その土地の神様(氏神)に土地を使わせていただくことの許しを得なければならないのです。ここに、わたしは日本人の「こころ」が神道儒教・仏教の三本柱によって支えられていることを痛感します。

f:id:shins2m:20210610112126j:plain施主挨拶をしました

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最初はマスク姿で挨拶しました

 

みんなで御神酒を頂いてから、最後はわたしが施主挨拶をしました。マスクを着けたままのわたしは、「現在わが社には、約90のセレモニーホール=コミュニティホールがありますが、新たにこの金沢市大額の地に大額紫雲閣が加わります。歴史的に石川県は信仰心が篤い人が多く、現在でも東本願寺の金沢別院をこころの拠り所にされている人々が多い地域でもあります。大額周辺の『金沢市南部丘陵歴史夢街道』に、四十万(しじま)という地名がありますが、この地名の由来は、百済からの距離が四十万里だったからという説があります。かつて、百済から阿弥陀如来像がこの地に迎えられたという伝承によるものだそうです。この土地の豊かな歴史と文化を感じます」

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マスクを取りました

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「大額」の地名について話しました

 

それから、マスクを外して、以下のように述べました。
「大額の『額』はぬかずくこと、すなわち『礼拝』するという意味です。清少納言の『枕草子』には『あはれなるもの』として『うちおこなひたる 暁の額(ぬか)など いみじう あはれなり』という一文があります。『勤行をしている夜明け前の礼拝などは、たいそう しみじみとして 心打たれるものよ』という意味ですが、サンレー紫雲閣を展開する地名として「大額(おおぬか)」はまことに相応しいものと感じられます」

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新施設への想いを述べました 

 

さらに、わたしは「コロナ禍の中にあっても、わが社の施設はオープンし続けました。この仕事は社会的必要性のある仕事なのです。わたしは、セレモニーホールというのは魂の港であると思っています。新しい魂の港から故人を素晴らしい世界へお送りさせていただきたいです。ぜひ、新施設で最高の心のサービスを提供させていただき、この地の方々が心ゆたかな人生を送り、人生を卒業されるお手伝いをさせていただきたいと願っています」と述べました。

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コミュニティホールを目指します!

f:id:shins2m:20210610112359j:plain工事は安全第一でお願いします!

 

そして、わたしは「それだけではなく、わが社では、セレモニーホールの進化論というものを構想しています。すなわち、コミュニティホールへの進化です。『葬儀をする施設』から『葬儀もできる施設』へ。お元気な高齢者の方々が普段から集い、人生を豊かにするお手伝いをさせていただきたいと願っております。最後に、何は置いても、工事は安全第一でお願いします!」と言いました。

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コロナ完全対応の直会のようす

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直会でいただいたお弁当

 

神事の終了後、 金沢紫雲閣に移動して、 サンレー関係者のみでコロナ完全対応の直会を行いました。八寿栄の美味しいお弁当をいただきましたが、新しい施設を作る実感が湧いてきました。朝も昼も御馳走をいただき、元気モリモリ、腹はパンパンです。それにしても、儀式というのは良いものですね。人は、儀式によって魂を活性化させ、生きる活力を得ます。コロナ禍にあっても、いや、コロナ禍だからこそ、わが社は「天下布礼」を進めます!

f:id:shins2m:20210608115534j:plain「大額紫雲閣」のイメージパース

 

2021年6月10日 一条真也

死が怖くなくなる本

一条真也です。金沢に来ています。
10日に行われる「大額紫雲閣」の起工式に参列するためです。京都から金沢に向かうサンダーバード19号の車中での読書中、LINEにメッセージが届きました。読者の方からで、あるブログに拙著『死が怖くなくなる読書』(現代書林)が取り上げられているという案内でした。

f:id:shins2m:20210609173840j:plain徒然図書館」より 

 

それは「徒然図書館」というブログでしたが、物語仕立てで『死が怖くなくなる読書』が紹介されています。討ち入り直前の赤穂浪士の1人が決行を目前にして迷っていると、怪しげな商人が現れて、「ははあ、仇討ちに参加することになったはいいものの、死ぬのが怖い、と」と言います。それを聞いた赤穂浪士は、「な、貴様、なぜそのことを」と言います。以下、このように書かれています。
「まるで見てきたもののように看破してきた商人に寒気を覚えた。彼は問いには答えず、ただ胡散臭い笑顔を浮かべたまま、一冊の書物を取り出した。『こちらなんか、おすすめでございます』『な、なんだそれは』表題には、『死が怖くなくなる読書』と書かれている。『死への恐怖。それを消してくれる書物を知ることができる書でございます。これがあれば、死など人の円環のほんの一瞬に過ぎないのだと、実感することができるでしょう』『まことか』嘘は申しません、と彼は言う。俺はすでに彼の妖しさも忘れ、その書に惹きつけられていた。欲しい。その言葉ばかりが、頭に浮かぶ。俺の死がすぐ間近にまで迫っていることは間違いないだろう。だが、死を恐れながら死ねば、俺はただの臆病者としての一生を終えるのだ。それで果たしてよいのか。否、答えなど、わかりきっている。どうせ死ぬならば、俺は英雄になりたい。おそらく遠い未来に英雄として語り継がれる同胞たちに肩を並べられるような、英雄に。俺はその本を手に取った。ご武運を、と彼は言う。途端、彼の姿は白昼夢のごとく消え失せてしまった。俺は道の半ばに茫然と突っ立っている。だが、見下ろしてみれば、『死が怖くなくなる読書』は、俺の手の中に握られていた。その時にはもう、俺の心は決まっていたのである」

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昨年、アップデートされました

 

徒然図書館」には他にもいろいろ書かれています。しかしながら、拙著はけっして「自死のススメ」のような本ではありませんので、誤解なきようにお願いいたします。でも、物語仕立ての書籍紹介は意表を衝かれ、とても面白いと思いました。『死が怖くなくなる読書』は2013年に上梓した本ですが、その後、同書のアップデート版として、2020年7月に『死を乗り越える読書ガイド』が現代書林から刊行されました。

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このページを読んだ直後にLINEが!! 

 

ところで、わたしがサンダーバード19号の車内で読んでいた本というのは『文明が不幸をもたらす』クリストファー・ライアン著、鍛原多惠子訳(河出書房新社)です。ちょうど80ページあたりを読んでいるときにLINEにメッセージが入りました。そのページには、「死後を恐れる理由はあるだろうか。マーク・トウェインはこう言った。『私は死を怖いとは思わない。なぜなら生まれる前に何十億年も死んでいたし、それで不便だったことなど一度もないからだ』」と書かれており、その箇所を読んだとき、わたしは『死が怖くなくなる読書』を思い出しました。本当です。その直後に、その本がブログで取り上げられているというLINEが入ったので、大変驚きました。これは、ユングの言う「シンクロニシティ」ではないですか! 
ブログの管理人情報には、「エェ・・・・・・管理人の甘楽にございます。手前、書をこよなく愛する未熟な放蕩者にございまして、小説、漫画に解説なんでもござれ。当ブログにて貴方様にオモシロイ本を紹介できればと思うております」と書かれていますが、そのユニークな表現法には感心いたしました。甘楽さん、このたびは拙著を取り上げていただき、ありがとうございました。

 

 

2021年6月10日 一条真也

小倉から金沢へ! 

一条真也です。
9日は全国的に真夏日の土地が多かったようです。福岡の気温も35度で暑かったです。その日の朝、わたしは迎えの車に乗ってJR小倉駅へ。小倉駅からは9時31分発「のぞみ16号」に乗り込みました。小倉から京都を経て、目的地である金沢へ向かうためです。

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JR小倉駅の前で

f:id:shins2m:20210609093000j:plainJR小倉駅のホームで

 

福岡県は緊急事態宣言が発出されており、不要不急の県外移動は控えるべきでしょうが、今回はわが社の新施設である「大額紫雲閣」の起工式に参加するため、どうしても必要な出張です。わたしは、青白の小倉織のマスクに同系色のポケットチーフを合わせて出かけました。

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のぞみ16号の車内で

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車内で読書しました

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赤の傍線を引きながら読みました 

 

車内では、黒の不織布マスクに替えました。ついでにポケットチーフも青白から黒白に替えました。面倒なようですが、これがわたしのスタイルなのです。悪しからず!
車内では、いつものように読書をしました。今日は、『人類は絶滅を逃れられるのか』(ダイヤモンド社)という本で、「知の最前線が解き明かす『明日の世界』」というサブタイトルがついています。ハーバード大学心理学教授のスティーブン・ピンカー、ジャーナリストで作家のマルコム・グラッドウェル、科学ジャーナリストでイギリス貴族院議員(保守党所属)のマット・リドレーの3人によるディベート本です。昨日、著者の1人であるピンカーの大著『21世紀の啓蒙』上下巻を読了し、拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)に通じる内容に大いに共感したので、そのピンカーが出演したディベートの記録を読もうと思ったのです。人口爆発の危機、核戦争へのシナリオ、増大し続けるテロの恐怖、AIの脅威、気候変動リスクなどのテーマで「人類の明日」を科学・歴史・哲学すべての側面から解き明かしており、面白かったです。160ページちょっとの本なので、40分ぐらいで読み終えました。

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小倉駅で買った博多幕の内弁当

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中味は、こんな感じです

本を読み終えると、お腹が空いてきました。それで、昼食に駅弁を食べました。今日は、小倉駅で買っておいた博多幕の内弁当です。本当は京都駅で京風の弁当を買って金沢行きのサンダーバードの車内で食べたかったのですが、コロナ禍で便数が減っているため、乗り換え時間があまりなく、事前に小倉駅で買っておくことにしたのです。

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JR京都駅に到着しました

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閑散とした京都駅のようす

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ホームのセブンイレブンが閉まってる!

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京都で乗り換えて金沢へ!

 

11時59分に京都駅に到着すると、乗り換えの時間がないので急いで0番線ホームに移動しました。途中、ホームにあるセブンイレブンで飲み物でも買おうと思っていましたが、なんと閉まっていました。ホームの売店が閉まっていると、本当に困ります。ちなみに、これから乗るサンダーバードには車内販売も自動販売機もありません。仕方ないので、今来たばかりのホームを逆行して自動販売機で飲み物を買い、12時10分京都発の「サンダーバード19号」に乗り込みました。

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サンダーバード車内のようす

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車内では、新しい本を読みました

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もちろん、赤の傍線を引きました

 

サンダーバードの車内では、また読書をしました。『人類は絶滅を逃れられるのか』は読み終えたので、今度は『文明が不幸をもたらす』クリストファー・ライアン著(河出書房新社)という本を読みました。「病んだ社会の起源」というサブタイトルがついています。著者はサンフランシスコのセイブルック大学で心理学の博士号を取得。CNN、「ニューヨーク・タイムズ」紙、「タイム」誌、「ニューズウィーク」誌、「TEDトーク」などのメディアで活躍しているそうです。本書のメッセージは、文明化による「進歩」は人類を幸福にするどころか、有史以前にはない暴力や病理に満ちた不健全な世界を生みだしたというものです。農耕と定住の開始から現代にいたるまでの社会の歪みを人類学・心理学・社会学・医学などの最新成果で分析し、未来に進むべき道を提示する異色の反文明論なのですが、わたしの好きなスティーブン・ピンカーやマット・リドレーとは正反対の論を唱え、実際に彼らへの批判が書かれていました。あまり共感できませんでした。

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車窓から琵琶湖が見えました

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琵琶湖の反対には比良連峰が・・・

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JR金沢駅に到着しました

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JR金沢駅前で

f:id:shins2m:20210609160558j:plain北陸中日新聞」夕刊の一面

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北國新聞」夕刊の一面

 

読書に疲れると、車窓から景色を眺めました。琵琶湖や比良連峰はいつ見ても良いものです。心が癒されます。金沢駅には、14時23分に到着しました。ホームにサンレー北陸総務部の橋谷部長、改札口には東専務が迎えに来てくれていました。わたしは、まず駅に隣接した定宿にチェックインしました。部屋には地元紙が置かれていましたが、「北陸中日新聞」夕刊一面のトップには「制限 プロ野球並みなら」「五輪観客310万人」という見出しが躍り、ギョッとしました。「まん延防止『13日解除』」「政府方針 石川など あす決定」という見出しの記事もありました。現在、石川県には新型コロナウイルス対応のまん延防止等重点措置が適用されていますが、明日で解除が決定する見込みだそうです。しかし、「北國新聞」夕刊一面のトップには「金沢以外は時短解除」の見出しがありました。うーむ、喜ぶわけにはいきませんね。これから、明日の起工式の打ち合わせなどをします。 

f:id:shins2m:20210609160659j:plainホテル客室から見た金沢駅前のようす

 

2021年6月9日 一条真也

『パンデミック以後』

パンデミック以後――米中激突と日本の最終選択 (朝日新書)

 

一条真也です。
パンデミック以後』エマニュエル・トッド著、聞き手・大野博人、笠井哲也、高久潤(朝日新書)を読みました。「米中激突と日本の最終選択」というサブタイトルがついています。ブログ『自由の限界』ブログ『新しい世界』で紹介した本に著者のインタビューが掲載されており、興味を持ちました。もっと著者の考え方を深く知りたいと思い、2021年2月に刊行された本書を手に取った次第です。著者は、1951年フランス生まれ。歴史家、文化人類学者、人口学者。ソルボンヌ大学で学んだのち、ケンブリッジ大学で博士号を取得。各国の家族制度や識字率出生率、死亡率などに基づき現代政治や社会を分析し、ソ連崩壊、米国の金融危機アラブの春トランプ大統領誕生、英国EU離脱などを予言。著書に『経済幻想』『帝国以後』(以上、藤原書店)、『シャルリとは誰か?』『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(以上、文春新書)、『グローバリズム以後』(朝日新書)、ブログ『大分断』で紹介した本など多数。

 

本書のカバー表紙には、腕組みをした著者の写真とともに「急拡大する『全体主義』の脅威とは――人類の大転換に、日本はどう対峙すべきか?」「現代最高の知性が緊急提言!」と書かれています。カバー裏表紙には、「中国リスク、米国の大分極、国家システムの敗北、自由貿易の限界・・・」「世界秩序の地殻変動に備えよ!」「『能動的な帰属意識』が再生のヒントだ」「日本向けインタビュー最新刊」と書かれています。

 

カバー前そでには、「日本は絶え間ない変化を生きて来た――。未曽有の厄災を糧とし、大変質する世界と向き合うための知見と思索」として、「グローバリズム自由貿易といった『幻想』は雲散霧消した。米国は左右に引き裂かれ、欧州は泥沼状態で、中国やロシア、東欧などで全体主義の傾向が強まっている。民主主義が失速していく今、私たちが進むべき道とは――。現代最高峰の知性が、これからの日本のロードマップを示す」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「新型コロナは国家の衝突と教育階層の分断を決定的なものにした。社会格差と宗教対立も深刻で、『トランプ退場』後もグローバルな地殻変動は続く。この近代最大の危機とどう向き合えばよいか。世界と人類の大転換を現代最高の知性が読み解く」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
1 トランプ政権が意味したこと
トランプ氏は重要な大統領だった
時代が求めた「逸脱した」人物
「上品な」装いのトランプ政策を
経済から離れてしまった民主党の主張
まちがった意識、迷走する意識
「トランプ排除」は政策にならない
分断を進めたのはトランプ氏か?
中国の脅威を暴いたコロナ禍
米国はロシアを中国から引き離せ
問題解決能力がないのに力を増す「国家」
悲劇のように語られた喜劇
2  新型コロナ禍の国家と社会
国民国家システムが勝利したわけではない
中間層も転落
ジレジョーヌ(黄色いベスト)運動は再統合への始まり
人口問題についての日本の「幻想」
中国は危ない国になっている
「能動的な」帰属意識
米中争覇は悪いことではない
3  新型コロナは
     「戦争」ではなく「失敗」
パンデミックは不平等を加速させる
グローバル化で生活は守れない
4  不自由な自由貿易
トランプの方が真実を語っていた
過度の自由貿易が社会を分断
自由貿易は宗教に近い
保護主義が民主主義を取り戻す/
WTO保護主義移行機関に
5  冷戦終結30年
ロシアは欧米に裏切られ、囲い込まれた
超大国は1つより2つの方がまし
東西ドイツ再統一で米国は欧州をコントロールする力を失った
欧州は両大戦に続く第三の自壊が起きている
共産主義崩壊で恐れるものが消え、古い資本主義が再登場
6  家族制度と移民
日本は新自由主義に囚われている
「直系家族のゾンビ」
島国のアイデンティティ
移民の問題は男女の関係に似ている
問題は移民か経済か
移民を受け入れるためにも出生率の向上を
「あとがき」
「初出一覧」


1「トランプ政権が意味したこと」の冒頭は、「4年間にわたり、米国と世界を揺さぶったドナルド・トランプ大統領とはいったい何だったのか。フランスの人類学者で歴史学者エマニュエル・トッド氏は『重要な』大統領だったという。彼がもたらした保護主義と反中国の姿勢は歴史的な転換点になると考えるからだ。『下品で好きになれない』トランプ氏の『逸脱』を読み解き、『米国人なら自分も支持者になるだろう』民主党の思想的混乱をきびしく突く」と書かれています。


それから、「トランプ氏は重要な大統領だった」として、著者は以下のように述べています。
「トランプ氏の政策はカタストロフ(大きな破滅)をもたらしたわけではありません。私は、もしコロナ禍がなければトランプ氏は再選されていただろうと思います。経済は好調だったわけですから。あるいは、もし彼が最高裁の判事に原理主義的なカトリック教徒ではなく、ヒスパニック系の人材を任命していたら、勝っていたかもしれませんね。これはトランプ氏の戦略的なミスでしょう。ヒスパニック系の人たちの3分の2は民主党に投票しますが、それほど固い支持ではないのですから」


「時代が求めた『逸脱した』人物」では、インタビュアーの「脱した人物はしばしば、諸刃の剣になるということですね」という発言に対して、著者は「世界恐慌のとき、西欧諸国のエリートたちはリベラリズムという考え方に凝り固まっていました。彼らが思いつけたことと言ったら、国家財政の緊縮だけでした。当時、世界的に需要が崩壊していたというのにです。ドイツのリベラル主義者たちもそう考えた。そして失業率が高まるままにしてしまった。そこに、こんなことは馬鹿げている。国家がなんとかするべきだ、と言って登場したのがヒトラーです。そして大規模な公共工事をやり、軍備も進めて、数ヵ月で失業率をほとんどゼロにした。ヒトラーはもちろん完全に常軌を逸した人物でした。でも、その彼は、経済的な現実をとてもシンプルに見ることができ、とても効果的で恐るべきやり方でものごとを行動に移すことができる人物でもあったのです」と述べています。


また、英国の経済学者のケインズを尊敬しているという著者は、ケインズについて「彼も自由貿易主義者でしたが、自分は考え方を変えたと言いました。彼は自分の誤りを認めることができる人でした。そして『雇用・利子および貨幣の一般理論』では、経済を立て直し、雇用の問題を解決するために国家が乗り出すことを正当化しました」と述べます。この本が出版されたのは1936年です。ヒトラーが政権を握ったのは1933年で、本が出版された頃にはすでに失業率をほとんどゼロにしていたことを指摘し、著者は「資本主義を救うためには国家が必要だという考えを西欧のエリートたちが受け入れられるようにするための見栄えのいい装い。それがケインズの『一般理論』だったと、私は思うのです」と述べるのでした。


「経済から離れてしまった民主党の主張」では、トランプ氏はヒトラーではないのであり、そんな風にたとえるのは気をつけるべきだと訴えて、著者は「私は、ワシントンポストニューヨークタイムズなどの米有力紙とはちがって、トランプ氏が人種差別主義者(レイシスト)だとか黒人排斥主義者だとはまったく思いません。トランプ氏がいちばん標的にしていたのはメキシコ人なのです。彼は外国人嫌い(ゼノフォーブ)なのです。メキシコ人だけでなく、中国人も、ヨーロッパ人も嫌った。しかし、黒人は彼の標的ではないのです。けれどもトランプ氏は、ブラック・ライブズ・マター運動に関して自分の支持層を否認することはできなかった。もちろん人種差別は米国社会が抱える根本的な問題です」


「まちがった意識、迷走する意識」では、米国ではとくに宗教的帰属意識が個人を共同体に結びつける役割を果たしていたことを指摘し、著者は「宗教離れは社会秩序の解体につながります。その不安と混乱から政治的なテーマに向かう人も出てきます。人種差別への抗議運動もそのことと関係あるかもしれません。教会での礼拝のような宗教的実践をやめている若者の世代にとって、あの運動は宗教に代わる社会参加になっているのでしょう。つまりゾンビのようになったキリスト教信仰かもしれない。また、その前の世代の保守的な信徒の振る舞いは、社会の宗教離れに先立って起きる態度硬化の現れではないでしょうか。歴史社会学的に見ればイスラム教での原理主義と似た現象でしょう」


「中国の脅威を暴いたコロナ禍」では、コロナ禍における対応が各国で異なることを見せつけたと指摘されます。人類学的におおまかにいうと、女性の地位が高い自由な国々が、あまりうまく対応できなかったといいます。また、著者は「自分自身も高齢者だから言わせてもらうわけですが、進歩した世界が抱える問題の1つは、人々が高齢になってきたことです。高齢者人口の増加は、先進社会のブレーキになってきました。だとすると、新型コロナウイルスが高齢者の命を奪ったとしても、社会にとって深刻な打撃にはなりません」と述べています。


「米国はロシアを中国から引き離せ」では、中国が人口動態上の弱みを抱えているとして、著者は「中国は約14億の巨大な人口を擁しています。しかし人口動態という点では、ものすごい速度で変わりつつあります。年齢構成が異常で、それが急速な高齢化につながっているのです。これまでは人口ボーナスのおかげで、生産年齢人口にも恵まれましたが、その人たちが社会保障制度もないまま年老いていくのです。そんな状況をさらに深刻にしそうなのが、中国社会の伝統への回帰です。人々はたくさん子どもを持とうとはしなくなり、しかも持つ場合は男の子の方をほしがっています。そのために子どもの性によって選択的に中絶をします。その結果、たくさんの中国人男性が結婚できないということになります。よそから女性に来てもらうにしても、あの巨大な人口ですから、ことは簡単ではありません」と述べています。


2「新型コロナ禍の国家と社会」の「人口問題についての日本の『幻想』」では、日本にとっての根本的な問題は、フランスが直面していない問題、つまり人口動態上の根本的な幻想であるとして、著者は「この幻想とは、自国の問題の解決策が経済の中にあるように思っていることではないでしょうか。少子高齢化は人口動態上の問題であって、その原因は家族関係、男女の関係、まだ十分なレベルになっていないのになかなか進まない女性の解放に根があります。これが、家族で子どもを作るための条件を損なっている。だから日本が取り組まなければならないのは、教育を受けた女性が仕事もできるし子どもも持てる新しい社会を確立することです。それと、軍国主義時代の経験から来る国家への恐れを克服する必要もあるでしょう」

 

歴史人口学事始め (ちくま新書)

歴史人口学事始め (ちくま新書)

  • 作者:融, 速水
  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 新書
 

 

著者は、日本の人口学者、故・速水融を尊敬しているそうです。彼の著書で読んだそうですが、17~18世紀にかけて日本は社会的にとても安定していました。人口もあまり変わらず、経済も安定し、社会は秩序立っていたそうです。しかし、それは日本の歴史の中では短い間にすぎないと指摘し、著者は「日本の歴史は変化に次ぐ変化でした。その点では欧州とも呼応する。だから、ずっと変わらない日本の文化といった考え方は、馬鹿げています。私は人類学者として、さまざまな社会の性格を考えるうえで家族の型の分類をしてきたわけだけれど、日本の男系の長子相続の直系家族システムですら、速水さんやその弟子たちの歴史人口学の研究によると、そんなに昔からあったわけではないそうです。おそらく14~19世紀にかけて長期にわたりゆっくりと確立され、頂点は19世紀の明治期だったようです」

 

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

 

 

続けて、直系家族構造を中心にして、階層がはっきりしていて、秩序のある、安定した社会という日本は、せいぜい1世紀も存在したかどうかと疑問を呈し、著者は「14~17世紀の日本には、農民層の反乱もあり、宗教的な危機もあった。18世紀には経済危機があり、国内での商取引がさかんになった。日本はずっと秩序立って安定的だったわけではありません。だから日本人は、今のフランス人のように、ではなく、かつての自分たちのようになればいいのです」と述べます。


「中国は危ない国になっている」では、著者はこう述べています。
「日本が攻撃的な国だなんて考えるのは中国くらい。世界中で多少とも日本の歴史を知っている人ならば軍国主義が日本の本質的な部分だとは思わないでしょう。簡単に証明できることですが、日本の歴史の基本的な部分は、ほとんど他国と戦争をしていないことです。日本が帝国主義植民地主義の国だったのは、きわめて短い期間。それは西欧を模倣したのであって、日本の欧化の一部分であったのだと思います。逆に確実なのは、中国は危ない国になっているということです。日本にとって軍事的な唯一の課題は防衛です。それは日本人の年齢構成を考えてもわかる。だから、かつて朝日新聞のインタビューで、長期にわたって可能な防衛手段として、核武装ではないかと話したんです。もちろん、日本人にとって受け入れがたい提案だということはわかっていましたけれど」


また、著者は天皇についても言及し、「私は日本での天皇の位置づけについてあまり知らないから言うのですが、天皇が子どもを増やそうとか移民を増やそうとか呼びかければいいのではと思うのですが。このことに比べれば、ほかのことは日本にとっては二の次なのですから」と述べます。それに対して、インタビュアーが「日本の天皇は政治的な発言はできません」と言うと、著者は「これは政治ではありません。国の存続の問題です。政治を超えている。人がいないと政治はできないのですよ。人のいない民主主義なんて、まだだれも見たことがない。民主主義国であるためにも、とにかく人口が必要です」と述べるのでした。


「『能動的』な帰属意識」では、フランスのような国で経済のシステムを再構築したり、日本で人口動態上の問題に取り組んだりするためには、とても強い帰属意識(le sentiment national)が必要であるとして、著者は「日本人同士であるいはフランス人同士で、何かをいっしょに成し遂げようと望む意思が必要。つまり結集した人々の並外れた努力がなければなりません。かつてフランス人には、それが可能でした。たとえば第二次世界大戦後、国が再建に向かっているとき、人々はちゃんと振る舞った。とてもたいへんだったけれど。日本だって、明治維新のときは国民全体がたいへんな努力をしたのだと思う。それがあったから西欧に追いつくという信じられない偉業を成し遂げたのでしょう」と述べています。


ここで、著者は「ちょっと考えてみましょう」と呼びかけ、「明治時代の日本が西欧に追いつこうとするときの努力と、今日もはや立ちゆかなくなったグローバル化という文脈の中で、経済の方向をナショナルなものに切り替えたり、人口動態問題を解決したりするという努力を比べると、明治時代の挑戦の方が物理的にはずっとたいへんだったと思う。けれども当時は、人々の間に非常に強い帰属意識があったのではないでしょうか。日本が考えなければいけないことの1つは、国民の結束する力と帰属意識をどう結びつけるかということだと思います」と語ります。


さらに、日本がとても快適に暮らせる社会であるのは、人々がお互いにとても礼儀正しいからだと思うと述べ、著者は「だから、規律をあまり守らなかったり、日本とはちがう振る舞いを身につけたりした人々が入ってくることを問題と考える。つまり、ある意味で日本はちゃんと存在している。けれどもそのことは、そこにほんとうの意味で帰属意識があるということを意味しない。真の帰属意識とはべつのことです。それは、社会でものごとを前進させる力です。つまり、ただみんなで快適にいっしょに暮らすというのではなく、いっしょに何かを成し遂げるためのものです」と語るのでした。


3「新型コロナは『戦争』ではなく『失敗』」では、「コロナ禍は戦争か?」という問題が語られます。インタビュアーが、フランスで2015年に新聞社「シャルリー・エブド」が過激派に襲撃され、その後もパリなどでテロが相次いだときに「戦争」という言葉が繰り返し使われたことに言及すると、著者は「私は人口学者ですから、まず数字で考えます。戦争やテロと今回の感染症を比較してみましょう。テロは、死者の数自体が問題なのではありません。社会の根底的な価値を揺さぶることで衝撃を与えます。一方、戦争は死者数の多さ以上に、多くの若者が犠牲になることで社会の人口構成を変える。中長期的に大きな社会変動を引き起こします。今回のコロナはどちらでもありません」

 

ペスト (岩波文庫)

ペスト (岩波文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 2021/04/16
  • メディア: 文庫
 

 

また、「かつてのスペイン風邪やペストと比較する議論も出ています。あなたの国の作家カミュが書いた『ペスト』は世界的に読まれています」というインタビュアーの発言に対して、著者は「そこまで深刻にとらえるべきではないと考えています。シニカルに言っているのではありません。データで考えてそうなのです。かつてのペストでは欧州の人口が3分の2になりました。比較にはなりません。HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の感染が広がったとき、20年間でフランスでは約4万人が亡くなりました。しかも若い人の割合が大きかった。一方、今回のコロナの犠牲者は高齢者に集中しています。つまり社会構造を決定づける人口動態に新しい変化をもたらすものではありません」と述べます。


「そこまで大騒ぎする必要はない、ということですか」というインタビュアーの質問に対して、著者は「私も69歳の高齢者ですが、少なくとも高齢者を中心にこれくらいの規模で人が亡くなる感染症を、文明の危機や社会のラディカルな変容としてとらえるべきとは思いません。むしろ懸念しているのは、私のような高齢者を守るために経済を完全にストップさせ、その犠牲として若者の生活が破壊されてしまうことです。そちらの方が中長期的に見ても大きな禍根を社会に残すでしょう。私は今回の事態を位置づけろと言われれば、何か新しいことが起きたのではなく、すでに起きていた変化がより劇的に表れたと答えます」


医療システムをはじめとした社会保障や公衆衛生を自らの選択によって脆弱にしてきた結果、感染者を隔離し、人々を自宅に封じ込めるしか方策がなくなってしまったと指摘する著者は、「ここ数十年、新しい時代を形容する目新しい言葉はあれこれと語られてきました。にもかかわらず、このような感染症の拡大下で言われているのは『家にいろ』『動くな』という単純なことです。そして貧富の差によって感染リスクの差が生まれている。そこに見えてくるのは身も蓋もない、すでに存在し、拡大してきた不平等です」と述べます。


今回のパンデミックでは、グローバルなレベルでヒト、モノ、カネの流れが止まりましたが、著者は「人々の移動を止めざるを得なくなったことで、世界経済は麻痺した。このことは新自由主義的なグローバル化への反発も高めるでしょう。ただこうした反発でさえも、私たちは「すでに知っていた」のだと思います。2016年の米大統領選でトランプ氏が勝ち、英国は欧州連合(EU)からの離脱を国民投票で選びました。新型コロナウイルスパンデミックは歴史の流れを変えるのではない。すでに起きていたことを加速させ、その亀裂を露呈させると考えるべきです」と述べています。


グローバル化で生活は守れない」では、「結局、新型コロナウイルス危機で、私たちは何を理解するべきなのでしょうか」というインタビュアーの質問に対して、著者は「お金の流れをいくらグローバル化しても、いざという時に私たちの生活は守れないことははっきりしました。長期的に見ると、こうした経験が、社会に歴然として存在する不平等を是正しようという方向につながる可能性はあります。これまで効率的で正しいとされてきた新自由主義的な経済政策が、人間の生命は守れないし、いざとなれば結局その経済自体をストップすることでしか対応できないことが明らかになったのですから。生活に必要不可欠なものを生み出す自国産業は維持する必要があるでしょう」と答えるのでした。


6「家族制度と移民」の「直系家族のゾンビ」では、著者は以下のように述べています。
「まず直系家族社会があり、最近になって近代化したと思われているかもしれない。しかし人口学者の速水融氏の論文を注意深く読むと、日本の場合、直系家族というシステムはゆっくりと、曲折を経ながら登場してきたことがわかります。長子相続の最初の事例の形跡が見られるのは鎌倉時代。武士階級に登場しました。その後、富裕な農家に広がっていった。農民や僧侶たちの反乱の時代、15世紀ごろ、直系家族の要素はあったと思う。しかし、日本の文化は深いところで個人主義的でアナーキーだったのではないでしょうか。直系家族の要素がすこしずつ根付き、その頂点に達したのは明治だと思う。皇室も長子相続の規範を引き受けました。それまでは、そうではなかったのです。直系家族というシステムの成熟の時期は、まさに日本にとって近代化を開始する時期と重なりました」

 

インタビュアーが「日本の場合、近代化には直系家族システムが必要だったのですか」と質問すると、著者は「直系家族というのは、能力を次世代に伝えるためのシステムです。その点でとても効果的です。直系家族の国々は産業革命を起こした国々ではない。他方、核家族はものごとを変えることに長けている。しかし、直系家族はいったん競争を始めると、もっとうまくやる。ドイツや日本がそうです。ドイツは離陸すると、数年で英国よりも強国になった。それが第一次世界大戦にもつながっていく。明治からの日本の離陸も恐るべきものだった。しかし問題は、直系家族はすでに発明されたシステムやテクノロジーの適用や完成には優れているとしても、構造全体の断絶を生み出すこと、つまりシステムを変えるということにはかなりの困難に直面します」と答えています。


「島国のアイデンティティー」では、歴史を見てみると、世界から切り離されながら、日本の歴史はほんとうに欧州の歴史によく似ていると指摘し、著者は「もし私が若くて日本語のわかる歴史家であれば、日欧で呼応する出来事の一覧表を作ろうとしたでしょう。直系家族の登場、まあ日本の方が少し早いけれど、それから同じリズムで直面することになった宗教的な危機。ドイツの場合、遅くなったけれど、それはプロテスタントの改革として表れた。日本では浄土真宗などの新しい潮流が生まれた。日本は、自分が島国だという事実から、自分たち自身であり続けたいと望むことが許されるように感じているのです」

 

「移民を受け入れるためにも出生率の向上を」では、著者は「日本人は移民がいやで、自分たちだけで暮らしたい」ということを指摘します。また、「最初に傾きがちな姿勢は、移民をあやしい人たちとみなす、というものです。でも、その次には、移民はとても役に立つということに気づきます。日本は移民を必要としている。移民がいる地域では、それが思っていたよりうまくいくことがわかるようになるでしょう。日本の歴史の中にも、植民地時代のように他者を同化しようとする時代があったのですから。これは直系家族の基本的なパラドックスです。直系家族はもはや存在しない。しかしその基本的な価値観は残る。人間は異なる。そういう考えは、外国人嫌いや自民族中心主義につながります。しかし、直系家族の社会にはこんな考え方もあります。過去をたどれば先祖は同じ。つまり直系家族は、統一の夢も持ち続けている。それは家族国家という考え方です」と述べています。


最後に、著者は「移民政策は決して出生率対策の代わりにはならない。最も優先するべきは、やはり女性が快適に働き、子どもを産むことができる政策です。日本の問題はそこにある。移民の問題以上に、出生率の方に大きな問題があると思います。その両方の解決が必要です。子どもが生まれなくなっているのだから、移民で埋め合わせようという議論がある。でも、それは難しいし危険です。移民を統合するためにも子どもは作らなければ。それがほんとうの知恵です。そして政府は、出生率の上昇を促すために莫大なお金を費やして貧しくなるような気がするとしても、実はそれは未来に向けて豊かになりつつあるのだということを理解しなければなりません。現在において豊かになるための経済財政政策を進める国は、将来に向けて貧しくなる。社会が出産と子どもの教育に投資することこそが長期的に見返りのある投資なのです」と述べるのでした。人口学者だけあって、移民や出生率対策についての著者の見方は的確であると思いましたが、本書は総じて「パンデミック以後」というより「パンデミック以前」の話題が多いような気がしました。

 

 

2021年6月9日 一条真也

『大分断』

大分断 教育がもたらす新たな階級化社会 (PHP新書)

 

一条真也です。6月8日になりました。
8人の児童が殺害された池田小学校事件から20年目、7人が殺傷された秋葉原無差別殺傷事件から13年目の日です。犠牲者の方々の御冥福を心よりお祈りいたします。
『大分断』エマニュエル・トッド著、大野舞訳(PHP新書)を読みました。「教育がもたらす新たな階級化社会」というサブタイトルがついています。ブログ『自由の限界』ブログ『新しい世界』で紹介した本に著者のインタビューが掲載されており、興味を持ちました。もっと著者の考え方を深く知りたいと思い、2020年7月に刊行された本書を手に取った次第です。著者は、1951年フランス生まれ。歴史家、文化人類学者、人口学者。ソルボンヌ大学で学んだのち、ケンブリッジ大学で博士号を取得。各国の家族制度や識字率出生率、死亡率などに基づき現代政治や社会を分析し、ソ連崩壊、米国の金融危機アラブの春トランプ大統領誕生、英国EU離脱などを予言。著書に『経済幻想』『帝国以後』(以上、藤原書店)、『シャルリとは誰か?』『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(以上、文春新書)、『グローバリズム以後』(朝日新書)など多数。 

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本書の帯

 

本書の帯には、著者の顔写真とともに、「やがて訪れる衝撃的未来への予言――」「欧州最大の知性による“日本への警告”は?」「発売即大重版!」「ウィズコロナ時代に加速する新たな階級化を読みとく」と書かれています。帯の裏には、「トランプ大統領の誕生、ブレグジット・・・・・・これまで数多くの予言を的中させてきた著者による4年ぶり待望の語り下ろし!」とあります。 

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本書の帯の裏

 

また、カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「現代における教育はもはや、社会的階級を再生産し、格差を拡大させるものになってしまった。高等教育の階層化がエリートと大衆の分断・対立を招き、ポピュリズムを生んでいる――これまで、ソ連崩壊、トランプ大統領の誕生など数多くの『予言』を的中させてきた著者は、こう断言する。民主主義が危機に瀕する先進各国で起きている分断の本質を、家族構造が能力主義・民主主義に及ぼす影響や地政学的要素を鑑みながら、鮮やかに読み解いていく。日本の未来、そして変質する世界の行方は。欧州最大の知性が日本の読者のために語り下ろした、これからの世界情勢を知るために必読の1冊」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 教育が格差をもたらした
第2章 「能力主義」という矛盾
第3章 教育の階層化と民主主義の崩壊
第4章 日本の課題と教育格差
第5章 グローバリゼーションの未来
第6章 ポスト民主主義に突入したヨーロッパ
第7章 アメリカ社会の変質と冷戦後の世界
「訳者あとがき・解説」

 

「はじめに」の最初に置かれた「階級化した世界」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「今、我々は『思想の大いなる嘘の時代』に直面しています。先進諸国では、識字率が上がり、多くの人が民主主義について語れるようになり、あらゆる民主的な制度が存在し、投票制度も、政党も、報道の自由もあります。しかし、実際には社会はいくつものブロックに分断されてしまい、人々が『自分たちは不平等を生きている』ことを知っている状態にいます。構造としては、上層部に「集団エリート」の層があり、その下に完全に疎外された人々、例えばフランスでは国民連合(旧・国民戦線。反移民などを掲げる極右政党)に票を入れるような層があります。そしてその間には、何層にもなった中間層が存在しています」

 

このような構造の中で、民主主義のシステムは機能不全に陥ってしまったとして、著者は「民主主義に基づいて築かれた制度は問題なく機能し、国としては全ての自由を手にしている。にもかかわらず選挙そのものは狂っているとしか思えないものになっている。民主主義というのは本来、マジョリティである下層部の人々が力を合わせて上層部の特権階級から社会の改善を手にしようというものです。ですから、民主主義は今、機能不全に陥っている。私はそう考えるわけです。そしてこの機能不全のレベルは教育格差によって決まるのです」と述べています。また、「経済構造と教育の歪んだ関係」では、「私は学ぶという行為自体が目的になるべきだと信じています。学ぶことでより良い人間になれます。そして、知るということ、それ自体が良いことだと思うのです。ところが、次第に社会が複雑化し、ますますその深刻さが増している現代社会では、教育は経済的、社会的な成功を収めるためのツールとなってしまいました」と述べます。


「分断された世界はパンデミック以後にどう変わるか」では、2020年、新型コロナウイルスの世界的大流行(パンデミック)が猛威を振るい、多くの国はロックダウン(都市封鎖)を行ない、経済活動や人の行き来を停止したとして、著者は「コロナ以後(ポスト・コロナ)について、私は『何も変わらないが、物事は加速し、悪化する』という考えです。コロナ危機が収束の兆しを見せ始めた頃、アメリカでは、白人警官による黒人市民の殺害が社会的波紋を引き起こし、全米で黒人差別に反対する大規模なデモが起きました。このデモには、黒人のみならず、高等教育を受けた若い白人たち――主にバーニー・サンダースの支持層――が多数参加しました。コロナ危機後の最初の出来事がこのアメリカで起きたデモだとすると、実はコロナ以前のアメリカにすでに存在していた傾向と、今起きていることの本質は全く変わっていない、ということがわかるでしょう。というのも、コロナ以前から白人の若者も、高等教育を受けた若者も、非・特権階級化しているという傾向はすでに見られていたからです」と述べています。

 

そして、著者は「本書では、高等教育が引き起こした社会の分断と格差について主に論じています。さらに、それに関連してグローバル化疲れ(グローバリゼーション・ファティーグ)についても分析しました。私は、これまでの研究者人生の中で、ソ連の崩壊やアラブの春トランプ大統領の誕生などについて予測し、それらは今日まで割と適切な予測であったと思います。ただ、私はアナール学派(フランス現代歴史学の学派の1つ)から教えてもらった変数を使い続け、それらを現代社会や社会の未来に当てはめて研究を進めただけなのです。アナール学派はそもそも社会のダイナミズムの本質を見抜いた人々だったため、それに続く私の分析も高性能なものとなりえた、ということを付け加えておきましょう」と述べるのでした。


第1章「教育が格差をもたらした」の「教育が社会を階級化し、分断を進めている」では、アメリカやフランスなどの国々では、全人口のおよそ3分の1が高等教育を受けるという比率に到達し、それ以降の伸び率は停滞し、教育の発展は壁にぶち当たっていると指摘し、著者は「もちろん、大学進学率でいえば日本ではおよそ50%、韓国では70%という数字がありますが、日本でも東京大学慶應早稲田大学を卒業するのと、地方大学を卒業するのとでは意味が異なると思います。つまりそこで注視しなければならないのは、大学の中でもトップレベルとそれ以外という区分がある点です」と述べています。


「エリート対大衆の闘争が始まる?」では、マルクスは『フランスにおける階級闘争』をまさしくフランスで書きましたが、そのフランスで2018年から起きていたのは、仏大統領マクロン派の権力側と「黄色いベスト」たちの対立でした(「黄色いベスト運動」。燃料税の引き上げ反対から始まったフランスの国民的デモ運動を指す)。著者は、「これは高等教育を受け、非常に頭が良いとされながら実際には何も理解していない人々と、下層に属する、多くは30代から40代の低収入の人々、高等教育を受けていないながらも知性のある人々の衝突でした。つまり、フランスのような国では学業と知性の分離というのはすでに始まっていることなのです」と述べます。


「20世紀の重要な思想の崩壊」では、著者は良いマルクス主義と悪いマルクス主義があると考えているとして、「悪いマルクス主義者は資本家階級を金持ちのロボットのように捉え、彼らが金儲けにしか目がなく、そこに喜びを見出していると捉えます。しかし、自らをヒューマニスト人道主義者)と称する私は、 お金持ちも人間として捉えています。つまり、彼らも自分たちの人生を意味あるものにしたいと考えている。だから金儲けもある程度を超えたら重要ではなくなります。社会には、経済的に特権的な立場にある支配階級が存在します。そういう人々がいること自体は問題ではなく、もっと重要なことは、その支配階級の人々が人間として存在することの正当性を得るために、何らかの目的を持っているかどうかです」と述べています。


「教育の発展が道徳的枠組みを崩壊させた」では、今の時代の自己中心主義という側面について考え、著者は「まず道徳というのは個人レベルの話ではありません。良い行動をするためには、(自分が望ましい行動をした時に)それを好ましく受け取ってくれる周囲の人たちがいることが必要です。つまり道徳というのは個人のものであると同時に集団的なものでもあるのです。集団的な道徳観とはフランスだとカトリックの道徳だったり、別の社会ではプロテスタントのものだったりしました。国家的なレベルでは愛国心共産主義社会主義、そしてもちろんキリスト教による倫理観が存在しました。個人は道徳的な枠組みの中にいて、その行動によって道徳や倫理そのものを生かしてきました。しかし今日、高等教育の発展や不平等の拡大によって集団の道徳的な枠組みが崩壊してしまった状態にあります。共産主義も宗教も消滅してしまいました。国家的なレベルでの集団的な感情というものもありません。社会主義的な感情も崩壊し、個人しかいない社会になっているのです。そしてこの集団的な道徳の枠組みをなくしてしまった個人は、以前よりもずっと卑小な存在になってしまっています」と述べます。


第2章「『能力主義』という矛盾」の最初に置かれた「識字率の上昇がもたらした歴史のうねり」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「教育の運命というのは歴史そのものです。まず文字はシュメール(初期のメソポタミア文明)で紀元前に神殿の会計を担当していた人々によって発明されました。ほぼ同時かその少し後にエジプトでも文字文化が生まれ、それは主に表意文字と呼ばれるものでした。ただ、文字を書くという行為は、筆生の階級に限定されたものでした。つまり文字が生まれた時代には、いつの日か全ての人が読み書きできるようになるなどとは誰も想像していなかったということです。なぜならば、最初の文字のシステムは非常に複雑だったという点が挙げられます。もちろんその後、フェニキア人によってアブジャド(子音文字)が生まれ、ギリシャ人によってアルファベットも生まれましたが、それでもまだ、まさか全ての人が読み書きできるようになることなど、誰も考えていませんでした」


その後プロテスタント宗教改革が起き、ようやく、全ての人々が読み書きできるようになるべきだという考え方が生まれたことを指摘し、著者は「私にとって近代社会の始まりはこのあたりです。北部、そして中央ヨーロッパ、つまりドイツや北欧の国々、オランダ、イギリスなど、プロテスタントの国々でようやく全ての人が読み書きを学ぶことが可能だと気づいたのです。中世の初期に一体誰がこんなことを想像できたでしょうか。そして、ヨーロッパ全体、全世界で現代に至るまで識字率は上昇していきました。これから10年も経てば地球上全ての人々が読み書きができるようになるでしょう。これに伴い、当然のことながら女性の識字率の上がり、地球上のあちこちで出生率が下がるという現象も起きました。このように、私にとって教育の発展というのは歴史そのものなのです」と述べています。

 

次に、中等教育の発展があります。全ての人が読み書きできるようになる世界を想像したプロテスタントの国々ですら、まさかある日、全ての人が中等教育を受けられるようになることは想像できなかったとして、著者は「最初にそれを実践に移したのは、第一次世界大戦後のアメリカでした。なぜならば国家がそれに反対しなかったからです。また、アメリカにはプロテスタントの信徒が多く、ハイスクールも設立され、第一次世界大戦後の時点ですでに中等教育を受けた子供たちの割合がとても高かったのです。アメリカでは、1929年の時点で実に人口の半数以上が中等教育を受けていました。それに続く形で高等教育の発展が始まり、それ以外の国々もアメリカに続きました。そして1965年頃、高等教育を受けた人々の割合が全人口の3分の1に達するあたりで停滞します。読み書きとは異なり、高等教育は複雑な問題です。生活水準や両親の学歴などとも複雑に絡み合っているのです」と述べます。


「世界的に学力が低下している?」では、今のフランスで問題だと思われるのは、計算力と読解力の低下が管理職の親を持つ子供たちにおいても起きているという点であるとして、著者は「この理由として、学校教育や教育法そのものが放任主義的になってきているという見方もあります。しかし私は、どちらかというと子供たちが読書をしなくなっているということに理由があると思っています。テレビやテレビゲームができる前の時代、子供たちは読書をしているか、そうでなければ退屈していたのです。私は退屈というのは進歩のための大切な要素だと信じています」


「エリートたちが愚か者ばかりなのはなぜか」では、15歳以上の思春期を迎える子供には、考える時間を与えるべきであるとして、著者は「考えるということは、自由な時間を持つことで自然と身に付きます。自由な時間で学校の課題図書以外のものもとにかくなんでも読んでみる。もしかすると、子供にはある時点で敷かれたレールから外れることが必要なのかもしれません」と述べ、さらに「親たちは子供の成績を気にして過ごします。そうして、成績によって区分けがなされ、子供たちも自分の能力によって定められたレベルを内面化していきます。しかし、このような教育は子供たちから何を奪っているのでしょうか。それは1人でじっくり考える時間です。本当に頭の良い人間になるためには、1人で考える時間が欠かせないのです。満点を取るということが究極の目的となれば、子供にとって考える時間がなくなることは間違いありません。社会が完璧さを要求しすぎるがために、結果的に教育や学力の低下を招いているのです」と述べています。


能力主義が階級の再生産をもたらす」では、高等教育の発展は、メリトクラシー、つまり能力主義のプロセスの中核にあるものであると指摘し、著者は「能力主義の観念を編み出したイギリスの社会学マイケル・ヤングは、それを非常に軽蔑的に見ていた人物です。教育によって人々が区分けされる世界では、実際に学業で失敗をした人々はそれを内面化し、自分は劣っている人間だという認識に至ってしまうからです。ですから学校教育の結果によって人々が選り分けられる社会という理想自体、どこかおかしなものなのです。本当にそうやって人々は共に生きていけるのでしょうか」と疑問を呈します。


「女性が男性より高学歴になるという新しい現象」では、国によってかなり大きな可変性を含むものの、わたしたちは人類史上初めて、先進国の教育において女性が高等教育を受ける比率が男性のそれを超えるという時代を迎えたことを指摘し、著者は「このような追い越しは、初等教育レベルではかつてカリブ海アンティル諸島の社会か、ブラジルの黒人社会でしか見られなかったことです。これらの社会では、奴隷制度によって家族制度の崩壊が起き、男女間の識字レベルの不平等が生まれたのです。同様に18世紀から19世紀のスウェーデンでもこのような状況が見られました。しかし、今日、アメリカ、イギリス、フランスやスウェーデンで見られる、高等教育における女性の優位性は全く新しい現象であり、事実として間違いなく観察できることなのですが、どのように解釈をしたら良いのかはまだわかりません」と述べます。


フランス国立人口研究所(INED)の『Population(人口)』と題された雑誌の中に最近面白い記事を見つけたとして、著者は「そこでは、『女性が自分より社会的地位が高い男性と結婚をする』という従来のモデルが、崩壊していることが示唆されているのです。なぜならば若いカップルにおいては女性の方が男性よりも高学歴であるケースが増えているからです。そういう意味で、全く新しい現実が訪れていると言えます。あるいは、これを世代間の問題として議論を進めるのも面白いと思います。全ての世論調査結果から見えてくることですが、昨今見られる世代間の分裂は教育問題と同じくらい重要な社会の差別化の要素になりつつあります」と述べています。


第3章「教育の階層化と民主主義の崩壊」の「教育格差がトランプ大統領を生み出した」では、歴史のある時点で成熟した社会には民主的な時代が到来することを指摘し、著者は「読み書きの大衆化に続き、教育格差の時代がやってきます。まさしく現在、我々は初等教育だけでなく、中等・高等教育の発展が著しい時代に入りました。現代社会の特徴はこの高等教育のレベルがさらに何層にもなっていることです。その結果、お互いは不平等な関係である、という潜在意識が広がっています。社会の中でお互いを学歴や高等教育の種類などで判断するようになったのです。これが教育格差の時代です。例えば、2016年のアメリカ大統領選の際に最も注目された変数の1つが、教育レベルでした。高等教育を受けた人たちは、民主党の候補であるヒラリー・クリントンに、中等教育で止まっている人たちは共和党の候補であるドナルド・トランプに投票したと言われました。しかし本当に注目すべきは、高等教育の中でも、学部以上の学歴を有している人、あるいは有名大学出身者たち、文化的階層の最上部にいる人の多くがクリントン(左派政党)に投票したという点です。また、このような状況は世界のあちこちでレベルは違えど、見られるものです」と述べています。


「『集団エリート』という新たな現象」では、著者は「エリートとは何者なのか」と問いかけ、以下のように述べています。
「これは時代によって異なります。民主主義を機能させるエリートとして最初に思い付く人物は、古代ギリシャアテナイペリクレスでしょう。ペリクレスは貴族階級を代表し、同時に大衆の民主的なものへの願いを汲み取った人物です。また、19世紀のイギリスで投票権の拡大に貢献した人々もまたエリートと呼べる人々でした。彼らは民衆を選挙システムに組み込むことを受け入れたのです。さらに、左派政党にも枠組みを与え、自由党が生まれました。のちに労働党の出現で勢力が衰退しますが、自由党は、例えばウィリアム・グラッドストンのような、教育を受けた伝統的にプロテスタント宗派の人々、つまりその時代の知識人やブルジョワたちで構成されていました」と述べるのでした。


第4章「日本の課題と教育格差」の「日本における『能力主義』」では、基本的に直系家族を基盤とする日本のような社会は、そもそもが身分制の社会であると指摘し、著者は「ここでは長男が重要とされてきました。それは徐々に男性全体が特権を持つ、つまり男性優位社会へと変化していきました。日本でももちろん、戦後には能力主義の発展が見られましたが、そこにはフランスで見られるような、平等に対する強いこだわりがないのです。日本にも奥深いところで、巧妙な形での平等主義が存在するとは思います。例えば、あるレベルにおいてはどの仕事も高尚であり、正しく為されるべき、といった考え方です。『馬鹿な人はいても馬鹿げた仕事はない』ということです。そしてきちんと為された仕事はそれがどんな仕事であれ評価されます。それぞれがある身分に属していて、そこで自分の仕事をきちんとこなすという社会です。もちろん、日本にも高等教育を受けたエリートが存在しますが、他国と異なるのは、人々がその身分の序列を認めているという点です。ここでは上層部の下層部に対する軽蔑、あるいは下層部の上層部に対する憎しみというものはないのです」と述べています。


「なぜ日本ではポピュリズムが力を持たないか」では、日本は身分制の社会ですが、明治の頃からすでに教育の重要性を認識してきたと指摘し、著者は「私が思うにこれもまた、国家が生き延びるためだったのだろうということです。日本人であると感じることや、西洋からの脅威に対抗し生き延びるために、日本社会は自分たちの価値観を超越し、階級化したシステムを残したままで大規模な民主化へ進んでいったのだと思うのです。なお、直系家族構造の社会の問題は、非常に効率的ではあるのですが、現状の形をそのまま繰り返すという傾向があり、無気力な社会になることと関係しているという点です。直系家族の罠は、自分と全く同じものを作り出そうとする点にあるのです。それと同時に、虚弱なシステムでもあるため外からショックを受けた時に再び活性化するという側面もあります」と述べます。


「日本は中国とどう対峙すべきか」では、「日本は核武装をしたら良い」と主張する著者が、以下のように述べています。
「もちろん、日本は被爆国として核保有に対する抵抗が強いこともよく理解しています。しかしあの時代はアメリカが唯一の核保有国で、また、アメリカ自体が非常に人種差別的な時代であったという背景も含めて考えるべきなのです。確かに日本では福島の原発事故がいまだ記憶に新しく、日本の核に関するリスクは地震津波であるという点も理解できます。しかしそれでも、結果的に日本は国家の自立を守るために核エネルギーの利用を続けています。私からしてみたら、リスクの高い核の利用法(原発)を続け、一方で国の安全を確実なものにする方の核(兵器)を避けていると見えるのです。日本が核武装をすれば中国との関係は大きく変わり、この規模の異なる二国間の平和はほぼ永久的に約束されると思います」


一方で日本は、靖国神社とそれが象徴するもので周辺国と対立するのはやめるべきであるとして、著者は「靖国神社が象徴するものは、日本が本当はどんな国なのか、ということを隠してしまっていると思います。日本は17世紀から19世紀まで鎖国をし、外部と一切戦争をしなかった国なのです。にもかかわらず、靖国神社を巡って対立が起きることで、日本の歴史について間違ったイメージが広がってしまうのです。なお、ここから展開する見解は他の誰にも認められてはいないもので、むしろ私の日本に対する個人的な愛着心から出ているということをまずお断りしておきましょう。日本の歴史を見る限り、基本的に戦争にはあまり関心がない国だったということがわかります。だから、近代の植民地主義もある種の“勘違い”から端を発しているのではないかと思うのです」と述べます。


「人口減少解決のために不可欠なこと」では、たった一国のみで生き延びることはできないとして、著者は「米中覇権争いなど世界で国家間関係が再編されている今、日本の将来についても再考するべきでしょう。これは急務であると言えます。なにせ日本はこれから移民を受け入れなければならないからです。それは単純に国内のバランスを保つためでもありますが、老いていく社会の高齢者たちを支えるためにも必要でしょう。移民については、中国など隣国との関係性をしっかり把握した上で、インドネシアベトナム、フィリピンなどからの受け入れを優先する方法もうまくいくのではないでしょうか。ヨーロッパからの移民だってありえると思います。また、さらに言うならば、天皇陛下が移民についてスピーチなどをすることは非常にいいことではないかと思います。というのも、この移民の受け入れというフェーズは日本にとって明治維新ほどの重要性を帯びるはずだからです。明治維新は日本が植民地化されずに生き抜くために起きたわけですが、それと同じように、少子化は今後日本という国が生き延びられるかどうかという問題と深く関わっているのです。


「日本は少しばかりの『無秩序』を受け入れよ」では、日本で話をする時に、よく半分冗談として言うのは「日本にとっていいモデルとなるのは、江戸時代の日本だ」ということであるとして、著者は「19世紀の直系家族システムの最盛期ではなく、むしろ江戸時代を参考にしたらいいと思うのです。移民政策は政府がしっかりと管理して行なうべきではあるのですが、それと同時に日本人は『無秩序』を学び直す必要があると確信しています。例えば、日本では学校で子供たちに掃除の仕方を教えるといいます。また、スポーツ選手たちのクロークは試合後も非常に綺麗だそうです。それらは非常な美点であり、維持するべきです。しかしそれと同時に『多少秩序が乱れていても世界は崩壊しない』ということを学ぶべきではないでしょうか。


第5章「グローバリゼーションの未来」の「グローバリゼーションは終わるが“世界化”は終わらない」では、「グローバリゼーション」と「世界化(Mondialisation)」を区別しておく必要があるとして、著者は「世界化というのは、インターネットにより世界中とコミュニケーションを取ることが可能になった状態、英語の世界共通語化、人々の国家間移動が強化されたことなどを指します。今やほぼ世界中の人々が読み書きができるようになり、発展途上国でも西洋の夢を自分たちのものにすることが可能になっているのです。それは、19世紀、より良い世界の夢を農民たち自身が描けるようになり、都市への流入が起きたことと同様です。一方でグローバリゼーションというのは、モノと資本の自由な流通という点に限ります。私たちはグローバリゼーションの終焉を迎えようとしているのかもしれませんが、それは世界化が終わるということではないのです」と述べています。


「移民と民主主義の関係――民主主義には『外国人嫌い』の要素がある」では、民主主義というのは最初から普遍化を目指すものではなかったことを指摘し、著者は「民主主義とは、ある土地で、ある民衆が、お互いに理解できる言語で議論をするために生まれたものでした。民主主義の思想には、土地への所属ということと、外から来るものに対する嫌悪感が基盤にあるのです。歴史を侮ってはいけません。ギリシャアテネ、人種差別主義のアメリカ、フランスのナショナリズム的な革命。ですから、ブレグジットポピュリズム運動など、今起きている民主主義への復活の裏にはこの『外国人嫌い』の要素が含まれていることはある意味当たり前なのです。これは半分冗談として聞いていただきたいのですが、『もし大規模な外国人嫌いの思想が民主主義を崩壊させるとしても、少しだけであれば逆に民主主義を到来させるだろう』ということです。民衆の自己意識は、ある程度の社会的な団結と集団行動を可能にするための『必要悪』なのです」と述べるのでした。


第6章「ポスト民主主義に突入したヨーロッパ」では、人類学的かつポスト宗教の大陸ヨーロッパのポテンシャルを鑑みると、地政学上で昨今実際に起きたイギリスとアメリカの撤退の後、この地域において真の民主主義が持続されると考えるのは愚かだと言わざるをえないとして、著者は「今日表出してきていることは(権威主義的価値観という)大陸ヨーロッパの伝統であり、それはリベラル民主主義にとって決して好都合なものではないのです。フランスならば民主主義的な価値や平等の価値をそこにもたらすこともできたのかもしれませんが、そんなフランスも今や自立した国ではなくなってしまっています。さらに言えば、EUは、抽象的な政治哲学の観念が現実の壁にぶち当たっている場所でもあります。民主主義の考え方、つまり「人はみな平等で自由」という理想は素晴らしいですし、私自身も大賛成です。しかしながら、それがうまくいくためには人々の教育レベルが均一でなければならず、お互いに理解し合えて、そして時には衝突し合うことも可能でなければいけません。今のEUではそれは不可能なのです」と述べるのでした。本書を読んで、著者が訴える「教育がもたらす新たな階層化社会」の姿がおぼろげに見えてきたような気がしました。

 

 

2021年6月8日 一条真也

葬式は必要!

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一条真也です。
わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「葬式は必要!」という言葉を取り上げることにします。

 

 

コロナ禍の前から、日本人の冠婚葬祭、特に葬儀を取り巻く環境が激変しています。家族葬、密葬から、現在は直葬が非常に増えてきています。その背景には様々な要因があるのでしょうが、1つには、日本社会全体が「無縁社会」になってきているということだと思います。この「無縁社会」は、2010年1月31日にNHKスペシャルで放映されて大変な反響を呼びました。1年間に3万2000人もの人たちが無縁死しているそうです。 もう1つは、島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)という本が非常に売れました。「無縁社会」とともに、このような「葬式不要」の風潮も当時はありました。

 

 

しかしながら、葬式が要らないはずがありません!
葬儀は人類が長い時間をかけて大切に守ってきた精神文化です。ブログ「ホモ・フューネラル」にも書いたように、「人類の文化は墓場からはじまった」という説があります。じつに7万年も前、旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、ときには、そこに花を捧げていました。死者を特定の場所に葬るという行為は、その死を何らかの意味で記念することに他なりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。ネアンデルタール人が最初に死者に花をたむけた瞬間、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な2つの価値が生み出されたのです。

 

 

ネアンデルタール人たちに何が起きたのでしょうか。アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』のヒトザルたちが遭遇したようなモノリスのようなものが目の前に現われたのでしょうか。何が起こったにせよ、そうした行動を彼らに実現させた想念こそ、原初の宗教を誕生に導いた原動力だったのです。このことを別の言葉で表現するなら、人類は埋葬という行為によって文化を生み、人間性を発見したのです。

 

 

人間を定義する考え方として「ホモ・サピエンス」(賢いヒト)や「ホモ・ファーベル」(工作するヒト)などが有名です。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶヒト)、ルーマニア宗教学者ミルチア・エリアーデは「ホモ・レリギオースス」(宗教的ヒト)を提唱しました。同様の言葉に「ホモ・サケル」(聖なるヒト)もあります。しかし、人間とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)だと、わたしは思っています。ネアンデルタール人が最初の埋葬をした瞬間、サルが人になったとさえ思っています。

f:id:shins2m:20210606172550j:plain葬式は必要!』(双葉新書) 

 

『葬式は、要らない』などという本が世に蔓延しては倫理的にも良くありません。そこで、わたしはカウンターパンチというかアンサーブックとして、『葬式は必要!』(双葉新書)を書き上げたわけです。けっして会社のためでも業界のためでもなく、日本人のために書きました。あらゆる生命体は必ず死にます。もちろん人間も必ず死にます。 親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことです。


「FLASH」2010年8月3日号

 

でも、決して不幸なことではありません。残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければなりません。葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえます。葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場ではないでしょうか。「葬式をしない」という選択は、その意味で自分を表現していないことになります。


「週刊 東洋経済」2010年12/25-1/1号

 

「死んだときのことを口にするなど縁起でもない」と、忌み嫌う人もいます。果たしてそうでしょうか。わたしは、葬式を考えることは、いかに今を生きるかを考えることだと思っています。ぜひ、みなさんもご自分の葬義をイメージしてみてください。 そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像して下さい。そして、その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。

f:id:shins2m:20210607123247j:plain「読売新聞」2010年10月4日夕刊

 

葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像して下さい。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる・・・・・。このように、自分の葬儀の場面というのは「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そんな理想の葬式を実現するためには、残りの人生において、あなたはそのように生きざるをえなくなるのです。つまり、理想の葬式のイメージが「現在の生」にフィードバックしてくるのです。

葬式に迷う日本人』(三五館)

 

ちなみに「無縁社会」や「葬式は、要らない」といった妄言は、2011年3月11日に発生した東日本大震災が粉々に砕き、大津波が流し去ってしまった観があります。遺体も見つからない状況下の被災地で、多くの方々は「普通に葬式をあげられることは、どんなに幸せなことか」と痛感したのです。やはり、葬式は人間の尊厳に関わる厳粛な儀式であり、遺族の心のバランスを保つために必要な文化装置なのです。なお、この「葬式は必要!」という言葉は、もちろん同名タイトルの拙著『葬式は必要!』で打ち出した言葉です。その後、わたしは2016年に島田氏と「日本の葬式」をテーマに徹底討論し、『葬式に迷う日本人』(三五館)という共著を上梓しました。

 

2021年6月7日 一条真也