『人はなぜ物語を求めるのか』

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)

 

一条真也です。
14日はホワイトデーですが、土曜日で会社がお休みです。なので、前日の13日にバレンタインデーのお返しの品は配りました。遠方の方には、郵送しました。
『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子著(ちくまプリマ―新書)を読みました。人は人生に起こるさまざまなことに意味づけをし、物語として認識します。そうしなければ生きられないからでしょうが、それはどうしてなのか。その仕組みを探る本です。著者はパリ第4大学博士課程修了の文筆家で、公開句会「東京マッハ」司会とのこと。

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本書の帯

 

カバー裏表紙には、「人の思考の枠組みのひとつである「物語」とはなんだろう?私たちは物語によって救われたり、苦しめられたりする。その仕組みを知れば、人生苦しまずに生きられるかもしれない。物語は、人生につける薬である!」との内容紹介があります。また、帯には「私たちは多くのことを都合よく決めつけて生きている!?」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 あなたはだれ? そして、僕はだれ?

1 あなたは「物語る動物」です

2 どんな内容の話が物語る価値があるとみなされるのか

3 話にとって「内容」は必須ではない

第2章 どこまでも、わけが知りたい

1 ストーリーと「なぜ?」

2 説明の背後に、一般論がある

3 なぜ私がこんな目に?

4 感情のホメオスタシス

5 理由ではなく、意味が知りたい

6 なんのために生きているのか? と問うとき

第3章 作り話がほんとうらしいってどういうこと?

1 実話は必ずしも「ほんとうらしい」話でなくていい

2 人は世界を〈物語化〉する方法を変えることができる

第4章 「~すべき」は「動物としての人間」の特徴である

1 物語における道徳

2 世界はどうある「べき」か?

3 僕たちはなぜ〈かっとなって〉しまうのか?

4 不適切な信念=一般論から解放される

第5章 僕たちは「自分がなにを知らないか」を知らない

1 「心の理論」とストーリー

2 「知らない」とはどういうことか?

3 ライフストーリーの編集方針

「日本語で読める読書案内」

「あとがき」

 

「はじめに」で、著者は「ストーリーは人を救いもするし、苦しめもする」として、以下のように述べています。 

「『ストーリー』は人間の認知に組みこまれたひとつのフォーマット(認知形式)です。このこと自体は、ただの事実であり、いいことでも悪いことでもありません。人間はストーリー形式にいろいろな恩恵を受けています。それなしには人間は生きられないと言ってもいいくらいです。人がストーリー形式を理解することができなくなったときは、まともな社会生活に必要な記憶や約束といったものがその人のなかで壊れてしまっています」

 

人間本性論〈第1巻〉知性について

人間本性論〈第1巻〉知性について

 

 

第2章「どこまでも、わけが知りたい」に書かれてある「前後即因果の誤謬」のくだりが非常に興味深かったです。前後関係を因果関係だと思ってしまうことを、「前後即因果の誤謬」と呼びますが、人間の脳はつい、これをしてしまうそうです。英国の哲学者ヒュームは、著書『人間本性論』(1739)で、人間は、時間のなかで前後関係にあるふたつのことがらを、因果関係で結びつけたがる習性を持っていると指摘しました。

 

物語の構造分析

物語の構造分析

 

 

フランスの批評家ロラン・バルトは、「物語の構造分析序説」(1966)で、「物語はまさに人類の歴史とともに始まるのだ。物語をもたない民族はどこにも存在せず、また決して存在しなかった。あらゆる社会階級、あらゆる人間集団がそれぞれの物語をもち、しかもそれらの物語はたいていの場合、異質の文化、いやさらに相反する文化の人々によってさえ等しく賞味されてきた。物語は、良い文学も悪い文学も差別しない。物語は人生と同じように、民族を越え、歴史を越え、文化を越えて存在する」と宣言しました。そして彼は、前後即因果の誤謬をいわば体系的に濫用するのが「物語」だと断言しました。出来事の因果関係が納得できるものであるとき、人間はそのできごとを「わかった」と思ってしまうというのです。

 

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

  • 発売日: 1967/01/01
  • メディア: 文庫
 

 

宇宙論存在論」として、著者は以下のように述べます。
「『創世記』をはじめとする世界じゅうの創生神話・宇宙生成論は、『どういったいきさつで、この世界は在るのか』『なぜ僕たちは生きているのか』といった問に、各自のやりかたで答えようとしています。また古代のインドやギリシア以降、宗教や哲学では、『なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか』という究極の問が問われてきました。とくに哲学では、ストーリー的でない方法でこの問に答えようとする例もあります。この世界が存在すること自体が、最大の驚きといえば驚きなのです。でもこちらの問は多くの人にとっては『地』(背景)となっていて、なかなか『図』として認識されることはありません」

 

「感情のホメオスタシス」という考えも興味深かったです。
危機を理解するために、人間は、時間をさかのぼって、それが自分に理解できるような事情によって起こったということにしてしまいたいといいます。「求める着地点は『新たな平衡状態』として、著者は「ストーリー的な解釈によって非常時を切り抜け、失われた平常を取り戻したいという感情を、感情のホメオスタシスと名づけました。しかし、ここで多少の表現の修正・拡大が必要になります」と述べます。

 

 

このホメオスタシスは、必ずしも〈失われた平常〉そのものを取り戻したいわけではないといいます。著者は、「シンデレラ」のストーリーにおいては、シンデレラが舞踏会という非日常を経た後、継母にこき使われるもとの不本意な日常に戻ることが期待されているわけではないことを指摘します。そうではなく、主人公が王子と結婚して「末永く幸せに暮らしました」という平衡状態に着地することが期待されているというのです。

 

物語は人生を救うのか (ちくまプリマー新書)

物語は人生を救うのか (ちくまプリマー新書)

 

 

「あとがき」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「人間は物語を必要としている、とよく言われます。2011年の東日本の大地震のあとには、とくによく言われました。なんだかまるで人間が、自分の外にある日光や水や酸素と同じように、物語を外から摂取することが必要であるかのようです。本書の主張は違います。人間は生きていると、二酸化炭素を作ってしまいます。そして人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。というのが本書の主張なのです」
この発言は、著者の次回作である『物語は人生を救うのか』の内容につながっていきます。

 

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

  • 作者:小川 洋子
  • 発売日: 2007/02/01
  • メディア: 新書
 

 

ちくまプリマリー新書といえば、作家の小川洋子氏が書いた『物語の役割』という名著があります。わたしはこの本を何度も読み返し、グリーフケアの研究および実践において大いに参考としました。本書『人はなぜ物語を求めるのか』も物語論の基本についてわかりやすく説明されており、勉強になりました。

 

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)
 

 

2020年3月14日 一条真也

『座右の寓話』

ものの見方が変わる 座右の寓話

 

一条真也です。
『ものの見方が変わる 座右の寓話』戸田智弘著(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読みました。著者は1960年愛知県生まれ。北海道大学工学部、法政大学社会学部卒業。著書に『働く理由』『続・働く理由』『学び続ける理由』(以上、ディスカヴァー)、『海外リタイア生活術』(平凡社新書)、『元気なNPOの育て方』(NHK生活人新書)、『就活の手帳』(あさ出版)、『「自分を変える」読書』(三笠書房)などがあります。 

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本書の帯

 

本書の帯には「古今東西語り継がれる人生の教え77。『北風と太陽』『キツネとブドウ』『人間万事塞翁が馬』・・・寓話は大人の課題図書」「仕事に人生に効く!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「スピーチやプレゼン・ブログのネタにも使える!」として、以下のような実例が並びます。
「ナスルディンのカギ」(トルコ民話)●「墨子と占い師」(『墨子』より)●「北風と太陽」(イソップ物語)●「与えられたタラント」(キリスト教寓話)●「効率の悪い畑仕事」(『荘子』より)●「水車小屋の男」(トルストイ『人生論』より)●「狩人と鳥」(ユダヤ民話)●「三つの願い事」(ドイツの昔話)●「三年寝太郎」(日本の昔話)●「人間万事塞翁が馬」(中国古代寓話)●「閻魔王の七人の使者」(グリム童話)●「『死の意味』と『生の意味』」(『論語』より)

 

アマゾンの「内容紹介」には「古今東西語り継がれてきた迷ったときのヒントが見つかる。イソップ物語から中国古典まで仕事に人生に効く‟深イイ話”77」として以下のように書かれています。
「寓話は人生の教訓や真理を伝えてくれるツールです。 教訓や真理は一見抽象的で分かりにくいものですが、物語のかたちをとることで自然とその教えを受け入れることができます。本書はおなじみのイソップ寓話から世界の民話、古典、逸話など古今東西語り継がれてきた77の寓話を集め、その解説を載せました。 解説には一般的に語られる解釈に加え、通説とは異なる視点や現代的に見直した解釈など多面的に物事をとらえられるようにしました。本書は自らの仕事や人生についての考えを深めるのにはもちろん、スピーチやプレゼンなどの話の材料としても使えます。 そのために、すべての寓話は長くとも2分以内で話せるようにまとめ、表現も聞いて分かるように改めました。 朝礼やブログなどで話のネタに困っている方のネタ帳としても活用できるでしょう。77の寓話はそれぞれ15の章に分類されています。きっと今の悩みや現状に合った寓話が見つかるはずです」
いやあ、至れり尽くせりの「内容紹介」ですね。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 視点と視野と視座

第2章 幅広い認識としなやかな思考

第3章 思慮深さと正しい判断

第4章 聡明さと創造的な仕事

第5章 強い組織の精神

第6章 働く姿勢と働く意味

第7章 正義の心と共同体

第8章 科学技術と社会の関わり

第9章 人生の道理と「有り難う」

第10章 欲望との付き合い方

第11章 学びの心得と学ぶ理由

第12章 挑戦と持続可能性

第13章 自分の物語の描き方

第14章 生と死のつながり

第15章 どんなときでも「ものは考えよう」

 

新明解国語辞典 第6版 並版

新明解国語辞典 第6版 並版

  • メディア: 単行本
 

 

「はじめに」冒頭に「寓話」の定義が示されています。
『第六版 新明解国語辞典』(三省堂)で「寓話」という単語を引くと「登場させた動物の対話・行動などに例を借り、深刻な内容を持つ処世訓を印象深く大衆に訴える目的の話」と書かれています。イソップ寓話や仏教寓話、荘子の寓話などが代表的なものです。「本書ではこういう寓話に加えて、聖書で語られるイエスのたとえ話、道話(人の行うべき道を説いた話)、逸話、笑い話、民話、昔話なども取り上げている。何らかの教訓を読みとることができれば、それは広い意味で寓話だと解釈した」と述べられています。

 

著者いわく、寓話の目的は教訓や真理を伝えることであり、お話そのものはそれらを届けてくれる“運搬手段”だといいます。別の言い方をすると、寓話においては教訓や真理こそがその核であり、お話はそれらを包みこむ“外皮”だというのです。では、なぜそのような二重構造をとるのでしょうか。著者は、「教訓は苦く、真理は激しいので、そのままでは食べられない。ならば、楽しいお話で教訓や真理を包んで読者に届けようというわけだ。教訓や真理は抽象的であるのに対して、お話は具体的で動きを持っている。寓話の読み手や聞き手は登場人物や動物と同化し、お話の中に巻き込まれていく。面白さに気をとられているうちに、いつの間にか人間や世界、人生についての認識が深まっていくのである」と述べています。

 

 

アメリカの心理学者にジェロームブルーナーという人がいます。一般には教育心理学者として知られていますが、認知心理学の生みの親の1人であり、また文化心理学の育ての親の1人でもあります。その生涯を通して20世紀心理学の歴史を体現した巨人です。そのブルーナー著書『可能世界の心理』(みすず書房)の中で、人間が持っている思考様式として、「論理・科学様式」(理屈で説明する方式)と「物語様式」(物語で説明する方式)の2つがあると述べました。両者はお互いに補い合っており、どちらか一方が他方よりも優れているわけではないといいます。

 

本書について、著者はこう述べています。
「本は2種類に分かれる。1つは自分に何かを教えてくれる本、もう1つは自分が何かについて考えるための材料を与えてくれる本だ。私は本書をつくり込んでいく過程で、古今東西の寓話の面白さを再発見した。同時に、その寓話を1つの材料としながら、さまざまなことを考えた。お話の後に添えられた文章を読んでいただければ、『著書の私が、その寓話を材料にどんなことを考え、どんなことを連想した』かが分かるだろう」

 

 

本書に紹介された77の寓話はいずれも示唆に富んでいますが、わたしは17「大きな岩と小さな岩」が印象に残りました。『会社がなぜ消滅したか』読売新聞社会部著(新潮文庫)に登場するエピソードですが、「まず、大切なことに時間を使う」ことを説いた寓話です。2017年1月9日「朝日新聞」朝刊に掲載された「SNSの時代、格闘は続く」という記事によると、人類が創出した情報量は、2000年に62億GB(ギガバイト)だったものが、2011年には1兆8千億GBに急激に増え、近い将来の2020年には44兆GBになることが推測されているそうです。著者は、「一昔前に比べて私たちはおびただしい量の情報をインプットしている。人によっては、フェイスブックやインスタグラムでさまざまな情報を絶え間なくアウトプットしている。そのどちらも『自分にとって本当に大切な情報である』と胸を張れる人がどのくらいいるのだろうか」と述べます。

 

 

31「三人のレンガ職人」では、旅人が、建築現場で作業をしている人に「何をしているのか」と質問したエピソードが紹介されます。1人目の作業員は「レンガを積んでいる」と答えました。2人目の作業員は「壁を造っている」と答えました。3人目の作業員は「大聖堂を造っている。神を讃えるためにね」と答えました。
経営学ピーター・ドラッカーの『マネジメント』(ダイヤモンド社)には、これと似たエピソードが登場します。「三人の石工」という話で、「何をしているのか」と質問したところ、1人目は「仕事をしている」と答え、2人目は「石を切っている」と答え、3人目は「教会を造っている」と答えたというものです。ドラッカーはこのエピソードを紹介した後で、「企業が求めるのは3人目の人物である」と喝破するのでした。

 

著者は、「目の前の仕事の目的を考えてみる」として、「三人のレンガ職人」について、「人間の行為は必ず『何かのために、何かをする』という構造を持っている。1つの行為の目的にはさらにその目的が存在する。『目的と手段の連鎖』と呼んでもいいだろう。寓話を例にとれば、レンガを積む→壁を造る→大聖堂を造る→神を讃えるという構造になっている。上位の目的が下位の目的を決めてコントロールしているのだ」と述べ、この寓話から2つの教訓を読み取ります。第一に、できるだけ広く「目的と手段の連鎖」をイメージして仕事をするのが有益であるということ。「1人目の職人より2人目の職人、2人目の職人よりも3人目の職人の方が有意義な仕事ができることは容易に想像できる」というのです。第二の教訓は、自分の仕事は私の幸福や私たちの幸福とどうつながるのかを考えるということ。「『手段と目的の連鎖』はどこまでも無限に続くのかというとそうではない。哲学者のアリストテレスによれば、『・・・・・・のために』という目的の連鎖は『なぜなら幸福になりたいから』という目的にすべて帰結する」と、まとめています。

 

75「堪忍は一つ」はストレスに強い男の話で、『美談逸話辞典』三井晶史・菅原法嶺編纂(高山堂書店)に登場します。著者は、「ストレスは優先順位をつけて解消」として、「ストレスをためやすい人は、ストレスの原因となる問題点を横に並べる傾向を持っている。横に並べるということは、それらを同列に扱うということである。問題が羅列されているだけで、整理整頓されていない状態になっている。こういう状態になっていると、問題を解決していく速度よりも、ストレスがたまっていく速度の方が上回り、どんどんストレスが山積みになっていく」と述べます。それに対して、ストレスをためこまない人は、ストレスの原因となる問題点を縦に並べる傾向にあるというのですが、「大きなストレスの原因となる問題点の中から、小さな労力で解消できそうなものを一番上に、その真逆を一番下にというように配列し、上から順に片付けていく。こうすれば、ストレスがたまっていく速度よりも、問題を解決していく速度が上回るので、ストレスが山積みになることはない」と見事な解説をしています。

 

本書の77の寓話を1日に1つづつ読むのもいいですし、アトランダムにページをめくってみるのもいいでしょう。そこには、何かしらの仕事や人生の役に立つことが書かれています。それぞれの寓話についての著者の解説もわかりやすく、ふだん読書に慣れていない人でも気軽に読めると思います。読書好きな人なら、巻末に77の寓話の出典が詳しく紹介されていますので、それらの参考文献を読めば、さらに読書がレベルアップされ、教養も深まることと思います。

 

ものの見方が変わる 座右の寓話

ものの見方が変わる 座右の寓話

  • 作者:戸田 智弘
  • 発売日: 2017/12/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年3月13日 一条真也

パンデミックとオリンピック

一条真也です。
新型コロナウイルスの猛威に、人類が翻弄されています。
感染者の数が世界で12万人に迫るのを目前にして、WHO(世界保健機関)が「パンデミック」を宣言しました。ついに、感染症の世界的大流行を認めたのです。

 

3月11日、WHOのテドロス事務局長は、新型コロナウイルスの感染の拡大と深刻さ、それに対策のなさに強い懸念を示し、「パンデミックに相当する」と表明しました。また、感染者や死者の数が今後も増えて、感染がさらに拡大するとの見通しを示しました。一方で、テドロス事務局長は、感染者の90%は中国と韓国、イラン、イタリアに集中しており、それ以外の国では感染拡大を防ぐことができるとして、各国に対策強化を呼びかけました。その中に「日本」という国名は入っていませんでした。では、今年7月に開催が予定されている東京オリンピックはどうなるのでしょうか? 



IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長は、日本時間5日未明に行った会見で、東京オリンピックの予定通りの開催を強調しています。バッハ会長は、IOC理事会の終了後、「組織委は、新型コロナウイルスにどのように対処しているかを含め、非常に印象的な報告をした」と述べ、東京大会の組織委員会が示した新型コロナウイルス対策を高く評価し、東京オリンピックを予定通り開催すると改めて強調したのです。一方で、今後、WHOが新型コロナウイルスについて、パンデミックを宣言した場合、延期や中止を検討するのかという質問に対し、バッハ会長は「憶測には答えない」と回答を控えました。



このたびは実際にWHOがパンデミックを宣言したわけですから、東京五輪の開催についてIOCがどのような見解を示すかが注目されます。わたしは日本国内での感染拡大が収束しない場合は、日本国政府および東京都が東京五輪の「開催不可能宣言」を行って、五輪開催権の自主返上をすべきだと考えています。その場合は五輪の開催可能を表明しているロンドンで開催すればよいと思っています。しかし、パンデミックとなれば、ロンドン開催も難しくなり、オリンピック自体が中止あるいは延期の可能性も出てきました。

儀式論』(弘文堂)

 

このところ、わたしはブログで東京五輪の強行開催について疑問を唱えてきました。しかし、別にオリンピックそのものを目の敵にしているわけではありません。現在の商業主義にまみれたオリンピックに強い違和感をおぼえているのは事実ですが、クーベルタンが唱えたオリンピックの精神そのものは高く評価しています。拙著『儀式論』(弘文堂)の第11章「世界と儀式」では、「儀式としてのオリンピック」として、「オリンピックは平和の祭典であり、全世界の饗宴である。数々のスポーツ競技はもちろんのこと、華々しい開会式は言語や宗教の違いを超えて、人類すべてにとってのお祭りであることを実感させるイベントである」と書きました。



また、わたしはオリンピックの起源について書いています。
古代ギリシャにおけるオリンピア祭の由来は諸説あるが、そのうちの1つとして、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行ったというホメーロスによる説がある。これが事実ならば、古代オリンピックは葬送の祭りとして発生したということになろう。21世紀最初の開催となった2004年のオリンピックは、奇しくも五輪発祥の地アテネで開催されたが、このことは人類にとって古代オリンピックとの悲しい符合を感じる。アテネオリンピックは、20世紀末に起こった9・11同時多発テロや、アフガニスタンイラクで亡くなった人々の霊をなぐさめる壮大な葬送儀礼と見ることもできるからである」



 続いて、わたしは以下のように書きました。
「オリンピックは、ピエール・ド・クーベルタンというフランスの偉大な理想主義者の手によって、じつに1500年もの長い眠りからさめ、1896年の第1回アテネ大会で近代オリンピックとして復活した。その後120年が経過し、オリンピックは大きな変貌を遂げる。『アマチュアリズム』の原則は完全に姿を消し、ショー化や商業化の波も、もはや止めることはできない。各国の企業は販売や宣伝戦略にオリンピックを利用し、開催側は企業の金をあてにする。2020年の東京オリンピックをめぐる問題でも明らかなように、大手広告代理店を中心とするオリンピック・ビジネスは、今や、巨額のマーケットとなっている」



そして、わたしは以下のように書いたのでした。
「しかし、いくら商業化しようとも、オリンピックの火はけっして絶やしてはならない。言うまでもなく、オリンピックは平和の祭典である。悲しいことだが、古今東西、人類の歴史は戦争の連続だった。有史以来、世界で戦争がなかった年はわずか十数年という説もある。戦争の根本原因は人間の『憎悪』であり、それに加えて、さまざまな形の欲望や他国に対する恐怖心への対抗などが悲劇を招いてきたのである。だが、それでも世界中の人々が平和を希求し、さまざまな手法で模索し続けてきたのもまた事実である。国際連盟国際連合の設立などとともに人類が苦労して生み出した平和のための最大の文化装置こそがオリンピックであることには違いないのである」

 

21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考
 

 

いま、ブログ『サピエンス全史』ブログ『ホモ・デウス』で紹介した世界的ベストセラーの著者であるイスラエル歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリの最新刊『21 Lessons』(河出書房新社)を読んでいるのですが、第6章「文明」の中で著者ハラリはこう書いています。
「2020年に東京オリンピックを観るときには、これは一見すると国々が競っているように見えるとはいえ、じつは驚くほどグローバルな合意の表れであることを思い出してほしい。人々は自国の選手が金メダルを獲得して国旗が掲揚されるときに、国民としておおいに誇りを感じるものの、人類がこのような催しを計画できることにこそ、はるかに大きな誇りを感じるべきなのだ」(柴田裕之訳)



現在のわたしたちは、深く考えることなく「WHO」や「IOC」などの国際機関の名前を口にしますが、これらはものすごい苦労の末に生まれたグローバルな合意の表れなのです。そして、第一次世界大戦が起こったから国際連盟が生まれ、第二次世界大戦が起こったから国際連合が生まれた歴史的事実を忘れてはなりません。国連もWHOもIOCも、すべて人類の叡智の果実です。さらには、グローバリズムの「負のシンボル」がパンデミックであり、「正のシンボル」がオリンピックであることを知る必要があります。

 

 

何事も陽にとらえる。
これは父から受け継いだわたしの信条ですが、今回のWHOによるパンデミック宣言を陽にとらえると、どうなるか。それはもう、世界中のすべての人々が国家や民族や宗教を超えて、「自分たちは地球に棲む人類の一員なのだ」と自覚することに尽きるでしょう。「宇宙船地球号」とは、アメリカの思想家・デザイナーであるバックミンスター・フラーが提唱した概念・世界観です。地球上の資源の有限性や、資源の適切な使用について語るため、地球を閉じた宇宙船にたとえて使われています。安全保障についても使われることがあり、「各国の民は国という束縛があってもみんな同じ宇宙船地球号の乗組員だから、乗組員(国家間)の争いは望まれない」というように使われます。わたしたちが「宇宙船地球号」の乗組員であることを自覚する、その最大の契機を今回のパンデミック宣言は与えてくれるのではないでしょうか。

ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

いま、わたしは、100冊目の「一条本」となる『心ゆたかな社会』(現代書林)という本の校正作業に入っています。2005年に上梓した『ハートフル・ソサエティ』(三五館)のアップデート版で、当初は『ハートフル・ソサエティ2020』という題名を考えていました。そこでも「グローバル」という言葉について深く考察しました。今回のパンデミックですが、わたしは新しい世界が生まれる陣痛のような気がします。なぜなら、この問題は国際的協力なくしては対処できないからです。アメリカと中国とか、日本人と韓国人とか、キリスト教イスラム教とか、そんなことを言っている余裕はありません。人類が存続するためには、全地球レベルでの協力が必要とされます。もはや、人類は国家や民族や宗教の違いなどで対立している場合ではないのです。



その意味で、「パンデミック宣言」は「宇宙人の襲来」と同じようなものです。新型コロナウイルスも、地球侵略を企むエイリアンも、ともに人類を「ワンチーム」にしてくれる外敵なのですから。よく考えてみると、こんなに人類が一体感を得たことが過去にあったでしょうか。戦争なら戦勝国と敗戦国がある。自然災害なら被災国と支援国がある。しかし、今回のパンデミックは「一蓮托生」ではありませんか。「人類はみな兄弟」という倫理スローガンが史上初めて具現化したという見方もできないでしょうか。今回のパンデミックを大きな学びとして、人類が地球温暖化をはじめとした地球環境問題、そして長年の悲願である戦争根絶と真剣に向き合うことができることを望むばかりです。

f:id:shins2m:20200312220411j:plainワンチームで行こう!

 

人類はこれまでペストや天然痘コレラなどの疫病を克服してきましたが、それは、その時々の共同体内で人々が互いに助け合い、力を合わせてきたからです。韓国と北朝鮮も新型コロナ対策について電話会議を行いましたが、この動きをぜひ世界的に広めなければなりません。あわせて、新型コロナはITの普及によって全世界にもたらされている悪い意味での「万能感」を挫き、人類が自然に対しての畏れや謙虚さを取り戻すことが求められます。パンデミック収束後に開催されるオリンピックこそは真の人類の祭典であり、わたしも開催を心の底から願っています。その場所が東京であれ、ロンドンであれ、他の都市であれ・・・。

 

2020年3月12日 一条真也

「Fukushima50」

一条真也です。
9年目の「3・11」の夜、日本映画「Fukushima50」を観ました。新型コロナウイルスの感染拡大防止のために‟瀬戸際の2週間”は映画館通いを控えていましたが、安倍首相は19日までの自粛延期を要請。しかし、この映画だけはこの日に観なければと思ったのです。もちろんマスクを装着しながらの鑑賞でしたが、シネコンで一番大きなシアターには数人の観客しかおらず、全員マスク姿。映画の内容さながらに緊迫感のある映画鑑賞となりました。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「多くの関係者への取材を基に書かれた門田隆将のノンフィクション『死の淵を見た男 吉田昌郎福島第一原発』を実写映画化。世界を震撼させた東日本大震災による福島第一原子力発電所事故発生以降も現場に残り、日本の危機を救おうとした作業員たちを描く。『64-ロクヨンー』シリーズなどの佐藤浩市、『明日の記憶』などの渡辺謙らが出演。『沈まぬ太陽』などの若松節朗がメガホンを取り、ドラマシリーズ『沈まぬ太陽』などの前川洋一が脚本を務めた」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0の地震が発生し、それに伴う巨大な津波福島第一原子力発電所を襲う。全ての電源が喪失して原子炉の冷却ができなくなりメルトダウン炉心溶融)の危機が迫る中、現場の指揮を執る所長の吉田昌郎渡辺謙)をはじめ発電所内にとどまった約50名の作業員たちは、家族や故郷を守るため未曽有の大事故に立ち向かう」


「Fukushima50」とは何か。それは東日本大震災の際に福島第一原子力発電所の対応業務に従事していた人員のうち、同発電所の事故が発生した後も残った約50名の作業員に対し欧米など日本国外のメディアが与えた呼称です。Wikipedia「フクシマ50」の「概要」には、以下のように書かれています。「2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震の後に発生した津波によって福島第一原子力発電所の原子炉の冷却機能が停止し、それらの復旧作業や応急処置のために同発電所には社員を含め約800人の従業員が従事していた。しかし、懸命の復旧作業にもかかわらず、原子炉1号機の水素爆発など度重なる原子炉爆発事故が発生し、遂に3月15日には、原子炉4号機の爆発と火災が発生。この4号機の爆発は使用済み核燃料プールに保管していた『使用済み核燃料』が建屋上層にあり、爆発によってそれが露出した可能性があることと、放射性物質が飛散した可能性があるため、これらの危険回避の為に人員約750人は東京電力の指示によって避難した。しかし、約50人が現地にとどまり、福島第一原子力発電所の被害を食い止めることに尽力した。これを日本国外メディアが彼らを地名と人数を合わせた『Fukushima 50』の呼称で呼び始めた」



続いて、Wikipedia「フクシマ50」の「概要」には、こう書かれています。
「16日朝、検出された放射線の高さから健康への影響が懸念され、彼らは短い時間一時的に避難しなければならなくなった。彼らが現場に戻ったとき、新たに人以上が加わり、当初の約50人に加え総数は約180人になったと報告された。3月18日には柏崎刈羽原子力発電所や送電線敷設要員も加わり、総勢580人の体制になった。彼らの中には東京電力やその子会社の東電工業や東電環境エンジニアリングなど東京電力協力企業の社員、また東芝日立製作所の社員なども加わっている。3月21日までに、東芝横浜市磯子の技術センターで700人の原発事故対応チームを組織、そのうち100人を福島の2ヶ所の原発に派遣し、日立も1000人規模の対応チームを組織、120人を現場に送った」



さらに、Wikipedia「フクシマ50」の「概要」には、こう書かれています。
「人数は増えていったものの、『Fukushima50』の名前はそのままメディアで使われ、彼らを総称する言葉となった。アメリカのABC放送が原発事故においての対応として、たいていの場合は高齢者で生殖可能年齢を超えた者が対応に当たることが多いことから後日はそのような対応が行われたのではないかとの憶測を報じたが、事故当初はとにかく現場の技術者が対応せざるを得ない状態にあり事故拡大および被爆の度合いが予想不可能の状態での作業であった。 彼らの活動には、爆発によってもたらされた損害と放射線濃度の測定も含まれており、海水で損傷した原子炉を冷却し、火災の危険を除くことに取り組んだ。彼らは、放射線汚染を受けるリスクを承知で現場にとどまった。放射線汚染の危険レベルは非常に高く、半径20kmの避難地域が指定され、またメディアはこの厳しい状況が将来、彼らの健康に重大な悪影響を及ぼしうること、また場合によっては死にも至りうることを指摘した」



以上のような事実は、わたしも当時の新聞報道やTVニュースなどで断片的に知っていました。しかし、この映画を観たことによって多くの「点」が「線」としてつながりました。もちろん、映画ですから美談仕立てにはなっていることも承知していますが、映画にはこのように歴史的事実を時系列で示してくれる学習的効果があることを再確認しました。福島第一原発から帰ってきた東京消防庁隊員に対して東京都の石原慎太郎知事(当時)が涙ながらに感謝の意を表明したことなども思い出しました。石原知事はおそらく、彼らの姿に戦艦大和の乗組員や神風特攻隊の隊員などの姿を重ね合わせたのではないかと推察しますが、たしかに決死隊という意味では共通しています。わたし自身も、この映画を観ながら「YAMATO/男たちの大和」や「永遠の0」といった日本映画の名作を連想しました。いつの時代でも、自己犠牲の精神は泣けます。



石原知事の男泣きも忘れられませんが、当時の日本国首相であった菅直人氏の愚行も忘れられません、あの非常に、官邸が余計なことをして、どれだけ現場の邪魔をしたことか・・・・・・わたしも経営者の端くれとして、リーダーとして絶対にしてはならないことを反面教師として学びました。東日本大震災発生当時の民主党政権は最低であり、どれだけ「ああ、自民党政権なら良かったのに」と思った人が多かったことかと思いますが、その人たちは新型コロナ騒動のさ中にある現政権をどう思っているでしょうか?それはさておき、当時の福島第一原子力発電所吉田昌郎所長の苦悩を思うと、胸が痛みます。あのとき、もし発電所が大爆発を起こして最悪の事態となっていたら、じつに5000万人もの日本人が被爆し、東日本は壊滅していたところでした。もっとも、お隣の東北電力が巨大津波対策をしたのに東電では必要ないと決めていたのが吉田所長本人という話も聞いたことがあります。吉田所長が津波対策をしていたらあの事件は起きていなかったこともあり、「今回の映画は美化しすぎ」との声もあります。しかしながら、吉田所長自身も自分のせいでこんな事態になったと最後まで一生懸命だったのは確かでしょう。最後にギリギリのところで最悪の事態を回避したのは奇跡的ですが、これはもう多くの関係者の「祈り」の力のせいとしか思えません。



9年前、日本は未曾有の国難にありました。そのとき、この映画でも描かれた「トモダチ作戦」が実行されました。東日本大震災に際して、米軍が行った災害救援活動の作戦名ですが、作戦司令部を東京都の横田空軍基地に置き、各地の在日米軍基地が活用されました。他に原子力空母ロナルド・レーガンなども投入され、ピーク時には2万人近い人員を動員して展開されました。いま、また新型コロナウィルスによって日本は国難の中にあります。しかしながら、アメリカをはじめ、イタリアもイランも韓国も中国も同じように国難の中にあります。ここは9年前のように、各国が隣人愛を示し合って、人類の本能である「相互扶助」の姿勢を見せてほしいものです。

 

さて、映画「Fukushima 50」の感想ですが、まずは豪華な俳優陣の顔ぶれに驚かされます。そして、その中でも、やはり佐藤浩市渡辺謙の日本映画を代表する2人の演技合戦が圧巻です。1月26日に東京都内で行われたワールドプレミアイベントに、福島第一原発1・2号機当直長の伊崎を演じた佐藤浩市は、福島第一所長の吉田役の渡辺謙について、「出所出自は違ってもほぼ世代は一緒。何十年もこの世界で物作りをやっている。その思いですよね。同胞と言っちゃうと安っぽいけど、どこかそういう関係性が役の中でも一緒だったと思う」と語りました。それを聞いていた渡辺謙も、「そういう関係が、ちょうど吉田と伊崎という、原発に対して抱いている気持ちみたいなものと、どこかフィックスするところがあった」として、「クランクインで浩ちゃん(佐藤さん)と握手をしたとき、(原発1・2号機のシーンに登場する)彼らが必死の思いで撮ったボールを渡されたような気がした。熱さをそのまま(自分たちの本部の方の撮影に)ぶつけていかなきゃいけないという思いだった」と撮影当時の心境を振り返りました。どうやら、2人の名優の実際の人間関係が役作りにも影響を与えたようですね。



東日本大震災といえば、「シンとトニーのムーンサルトレター」の第179信において、宗教哲学者の鎌田東二先生が、「3月11日は東日本大震災から丸9年となります。政府は主催してきた東日本大震災追悼式を中止にすることを決めました。安倍政権の政策が後手後手になっているという批判もその通りですが、これほど疾病を含め、自然災害を繰り返し経験してきた国であるにもかかわらず、対策や対応が迅速に行われないというのは、また、情報も透明性を以て精確に伝えられないというのは、ガバナンスの仕組み自体に欠陥があるとしか思えません。やはり防災全般に対する体系的な研究対策機構が必要だということでしょう。それが防災省という形がよいのか、それとも内閣直轄の機構がよいのかと言えば、独立しつつも中央と地方と国際機関と緊密に連携できる研究と対策の専門機関がわたしは絶対に必要だと思ってきました」と書かれています。まったく同感です。


 この映画の最後には、「2020年に開催される東京オリンピックパラリンピックは『復興五輪』とされている。聖火ランナーはフクシマからスタートする」とのクレジットがありました。しかし、ブログ「オリンピックどごろでねえ」でも紹介したように、現地である福島では東京五輪の開催に批判の声もあがっています。そのブログ記事の最後に、わたしは「Fukushima50」を紹介し、「わたしもまだ観ていないのですが、東日本大震災の教訓を忘れないためにも、すべての日本人が観るべき映画のような気がします。落ち着いたら、ぜひ鑑賞したいです」と書きました。その後、3・11当日を迎えて、居てもたってもいられずに映画館を訪れたわけですが、この日に観て良かったと心底思いました。というのも、現在の新型コロナ騒動のさなかで、わたしたちがどう生きるべきかのヒントを与えられたからです。



映画の終盤には、渡辺謙演じる吉田所長の葬儀のシーンが登場しました。そこで、佐藤浩市演じる伊崎が弔辞を読みます。葬儀会場には「フクシマ50」の面々も揃って参列しているのですが、当然ながら彼らはみな喪服に身を包んでいます。制服姿で原発で奮闘する彼らの姿も美しかったですが、彼らの喪服姿も美しいと感じました。結局、大切なものを守るために必死で闘うことと、死者を弔うことには共通して人間としての「美」があるように思いました。わたしは、この葬儀のシーンを見ながら、「おそれずに 死を受け容れて 美に生きる そこに開けり サムライの道」という自作の歌を思い出しました。ラストシーンは福島に咲く満開の桜がスクリーンに映し出されました。吉田と「同期の桜」である伊崎が「今年も桜が咲いたぞ」とつぶやきます。そういえば、もうすぐ日本列島は桜の季節になりますが、新型コロナ騒動の中で花見も確実に自粛されるでしょうね。この国難の中だからこそ、1人でも多くの日本人に観てほしい映画です。

 

2020年3月12日 一条真也拝 

東日本大震災9年

一条真也です。
3月11日になりました。
東日本大震災の発生から9年目です。

f:id:shins2m:20200310134211j:plain(ヤフー・ニュースより)

 

 ブログ「東日本大震災八周年追悼式」で紹介したように、昨年、わたしは東京の国立劇場で開催された内閣府主催の追悼式に参列しました。昨年は平成最後の追悼式でしたので、令和最初の追悼式にも参加したかったのですが、今年は新型コロナウィルスの感染拡大防止のために政府が中止を発表しました。まことに残念ですが、今日は小倉の地で黙祷を捧げます。また、11時から「日本経済新聞」の取材を受けることになっています。テーマはグリーフケアですが、3・11の当日に「死別の悲嘆」について語ることに、自分なりのミッションを感じます。

f:id:shins2m:20200311131739j:plain今朝の新聞各紙の一面

 

2011年3月11日は、日本人にとって決して忘れることのできない日になりました。三陸沖の海底で起こった巨大な地震は、信じられないほどの高さの大津波を引き起こし、東北から関東にかけての太平洋岸の海沿いの街や村々に壊滅的な被害をもたらしました。福島の第一原子力発電所の事故も引き起こしました。亡くなった方の数は1万5894人、いまだ2562人の行方が分かっていません。関連死は3739人、さらには4万7737人の方々が今も避難生活を送っておられます。未曾有の大災害は現在進行形で続いているのです。


陸上に漂着した船の前で(気仙沼

 

この国に残る記録の上では、これまでマグニチュード9を超す地震は存在していませんでした。地震津波にそなえて作られていたさまざまな設備施設のための想定をはるかに上回り、日本に未曾有の損害をもたらしました。じつに、日本列島そのものが歪んで2メートル半も東に押しやられました。


願はくば海に眠れる御霊らよ 神の心で子孫をまもれ

 

震災の直後、わたしは足を骨折してしまいました。
ようやく快癒したわたしは、被災地に向かいました。まず気仙沼を訪れたわたしは、今も海の底に眠る犠牲者の御霊(みたま)に対して心からの祈りを捧げるとともに、「ぜひ、祖霊という神となって、次に津波が来た時は子孫をお守り下さい」との願いを込め、数珠を持って次の歌を詠みました。

 

願はくば海に眠れる御霊らよ 
   神の心で子孫をまもれ(庸軒)



三陸の海をながめて

 

気仙沼から南三陸に向いました。途中で、三陸線の鉄道線路がブツッと切れていました。わたしは、多くの人命を奪った三陸の海をしばらく眺めました。南三陸町は根こそぎ津波にやられており、一面が廃墟という有様でした。
そんな中に、かの防災対策庁舎がありました。津波が来たとき、最後までマイクで避難を住人に呼びかけ続け、自らは犠牲となってしまった女性職員がいた庁舎です。ここは建物の廃墟の前に祭壇が設えられ、花や飲み物やお菓子などが置かれていました。多くの人々がこの場所を訪れていました。


防災対策庁舎の前で祈る

 

それにしても、見渡す限り一面が廃墟でした。この場所のみならず、東北一帯で多くの人が亡くなりました。
地震と大津波で、3・11以降の東北はまさに「黄泉の国」といった印象でした。黄泉の国とは『古事記』に出てくる死後の世界で、いわゆる「あの世」です。神話では、かつて「あの世」と「この世」は自由に行き来できたとされています。それが日本では、7世紀頃にできなくなりました。それまで「あの世」に通じる通路はいたる所にあったようですが、イザナギの愚かな行為によってその通路が断ち切られてしまいました。イザナギが亡くなった愛妻イザナミを追って黄泉の国に行きました。そこまでは別に構わないのですが、彼は黄泉の国で見た妻の醜い姿に恐れをなして、逃げ帰ってきたのです。イザナギの心ない裏切りによって、あの世とこの世をつなぐ通路だったヨモツヒラサカは1000人で押しても動かない巨石でふさがれました。


みちのくのよもつひらさか開きたるあの日忘るな命尽くまで

 

マグニチュード9の巨大地震は時間と空間を歪めてヨモツヒラサカの巨石を動かし、黄泉の国を再び現出させてしまったのではないか。そのような妄想さえ抱かせる大災害でした。わたしは、「東北でヨモツヒラサカが再び通じた3・11をけっして忘れず、生存者は命が続く限りおぼえておこう」と願って、数珠を持って次の短歌を詠みました。


みちのくのよもつひらさか開きたる 
  あの日忘るな命尽くまで(庸軒)



巨大なクジラ缶の前で(石巻

 

津波の発生後、しばらくは大量の遺体は発見されず、多くの行方不明者がいました。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。
葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持のやり場がない・・・・・まさに「ない、ない」尽くしの状況は、今回の災害のダメージがいかに甚大であり、辛うじて助かった被災者の方々の心にも大きなダメージが残されたことを示していました。現地では毎日、「人間の尊厳」が問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けたのです。「葬式は、要らない」という妄言は、大津波とともに流れ去ってしまいました。


京大で「東日本大震災グリーフケアについて」を報告


わたしは、東日本大震災愛する人を亡くした人たちのことを考えました。わが社が取り組んできたグリーフケア活動をさらに推進させました。上級心理カウンセラーの資格を多くの社員が取得しました。わたし自身も、さらにグリーフケアについての研究を重ねました。そして、ブログ「『こころの再生』シンポジウム」に書いたように、2012年7月には京都大学で「東日本大震災グリーフケアについて」を報告する機会も与えていただきました。わたしにとって、まことに貴重な経験となりました。


のこされた あなたへ』(佼成出版社

サンデー毎日」2017年3月19日号

 

愛する人を亡くし、生き残った方々は、これからどう生きるべきなのか・・・・・・そんなことを考えながら、わたしは『のこされた あなたへ』(佼成出版社)を書きました。もちろん、どのような言葉をおかけしたとしても、亡くなった方が生き返ることはありませんし、残された方の悲しみが完全に癒えることもありません。しかし、少しでもその悲しみが軽くなるお手伝いができないかと、わたしは心を込めて、ときには涙を流しながら同書を書きました。

 

のこされた あなたへ』で、わたしが一番言いたかったことは何か。それは、残された人は、亡くなった愛する人に必ず再会できるということ。死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。残された人は、また亡くなった人に会えるのです。
風や光や雨や雪や星として会える。
夢で会える。
あの世で会える。
生まれ変わって会える。
そして、月で会える。
世の中には、いろんな信仰があり、いろんな物語がある。
しかし、いずれにしても、必ず再会できるのです。
ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのです。先に行く人は「では、お先に」と言い、後から行く人は「後から行くから、待っててね」と声をかけるのです。ただ、それだけのことなのです。


石巻の教会の上空に上る月

 

考えてみれば、本当に不思議なことなのですが、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。
日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうです。
英語の「See you again」もそうです。
フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
これは、一体どういうことでしょうか。世界中に住む昔の人間たちは、辛く、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が、世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
「また会えるから」という言葉を合言葉に、愛する人との再会の日を楽しみに、残された方々には生きていただきたいと心から願っています。


石巻の海に上る月

 

言うまでもなく、これからも人間は死に続けます。
多くの地震津波や台風で、そしてテロや戦争で、世界中の多くの人命が失われることでしょう。また、天災や人災でなくとも、病気や事故などで多くの方々がこの世を続々と卒業されていくでしょう。
愛する人と死に別れることは人間にとって最大の試練です。
しかし、試練の先には再会というご褒美が待っています。
けっして、絶望することはありません。
けっして、あせる必要もありません。
なぜなら、最後には、また会えるのですから。

 

どうしても悲しくて、辛いときは、どうか夜空の月を見上げて下さい。そこには、あなたの愛する人の面影が浮かんでいるはずです。愛する人は、あなたとの再会を楽しみに、気長に待ってくれることでしょう。
東日本大震災から9年、多くの死者たちに支えられて、わたしたちは生きていきます。そう、わたしたちは、これからも生きていくのです。ブッダは、満月の夜にあらゆる生きとし生けるものの幸せを願って「慈経」を説きました。
幸せであれ 平穏であれ 安らかであれ・・・・・・。

 

毎年3月11日、サンレー本社の朝礼では、東日本大震災の犠牲者の方々の御冥福を祈念して、黙祷が行われます。総務部の國行部長の進行で、全社員が鎮魂の祈りを捧げるのですが、今年は新型コロナウィルスの感染拡大防止のために控えることにしました。大震災の発生時間である午後2時46分に、それぞれの社員が各自で黙祷を行います。

f:id:shins2m:20190311092317j:plain昨年3・11でのサンレー本社朝礼の黙祷のようす

 

それにしても、あれから、もう9年も経ったのですね。
先程、わたしはサザンオールスターズの「TSUNAMI」を聴きました。ここ数年、よくこの曲を聴いたり歌ったりします。一時は津波の被害を連想させるタイトルからタブー視された曲ですが、逆に「TSUNAMI」こそは津波で亡くなられた方々のための鎮魂の歌であり、遺された方々のためのグリーフケア・ソングと思えてなりません。今もなお苦しみ続けておられる被災者の方々に、あの歌の歌詞のように「深い闇に夜明けが来る」ことを心から願っています。


鎮魂のTSUNAMI歌へば光射す 
  深い闇にも夜明け来れり(庸軒)

 


2020年3月11日 一条真也

オリンピックどごろでねえ

一条真也です。
9年目の「3・11」を迎えますが、被災地の復興は進んでいません。新型コロナウィルスの感染拡大という新たな国難も日本を襲っています。そんな中で東京オリンピック開催を強行しようとする政府の姿勢に批判の声があがっています。

f:id:shins2m:20200311133106j:plain東京五輪開催に抗議する福島の人たち

 

東京オリンピック聖火リレーの出発地となるのは、福島県楢葉町にあるサッカーのナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ(J‐Village)」です。Jヴィレッジは原発事故の対応拠点として利用され、昨年ようやく一般向けに再開された場所です。聖火は今月20日、宮城県に到着しますが、少なくとも2022年より前に住民が帰還する見込みはないといいます。水道などの基本インフラもまだ整っていないそうです。

 

『オリンピックどごろでねえ』聖火リレー出発地・福島、『復興五輪』に喜べず」というAFP=時事のネット記事によると、先月、このJヴィレッジ前で行われた抗議デモで、「福島はオリンピックどごろでねえ」と書かれた横断幕が掲げられました。記事には以下のように書かれています。
福島県出身でひだんれん共同代表の武藤類子(Ruiko Muto)さん(66)は、五輪の焦点がずれており、Jヴィレッジが聖火リレーに使われることに怒りを覚えるという。武藤さんは『私たち福島県民にとっては、ここを使ってオリンピックの聖火リレーを始めるということは原発事故というものを本当になくしてしまう、終わらせてしまうという意味に取れる。ここから聖火リレーが走るということは、私たちにとっては屈辱的なことでもある』とAFPに述べた。さらに汚染土壌や汚染水の問題、避難者たちの問題が解決していないままで、五輪どころではない状況だと指摘。『心から楽しめる人はそれほど多くないと思う』と語った」

 

また、記事には以下のようにも書かれています。
「ひだんれん幹事の一人、熊本美彌子(Miyako Kumamoto)さんは、政府が避難指示を取り下げたことで、住宅支援を削減される避難者らが苦境に立たされていると指摘。復興五輪の考えについて否定した。支援者らは、多くの人が今も汚染を恐れて帰還したがらない状況であるにもかかわらず、日本政府は震災が終わったと宣言しようとしていると非難している。熊本さんによると、震災当初に無償提供された仮設・借り上げ住宅に住む避難者らは、家賃の支払いを強いられるようになり、その家賃も徐々に値上がりし、最終的には退去を求められているという。熊本さんは、政府は東京五輪に120億ドル(約1兆2500億円)以上を費やすのに、なぜ避難者支援を削減するのかと疑問を投げ掛け、福島は五輪を祝える場所ではないと語った」

 

わたしは、日本はオリンピックの開催権を返上すべきであると考えています。儀式や祭典やイベントといった「人が集まる」ことの意義と重要性を誰よりも理解しているつもりなのですが、今回だけは日本はオリンピックを開催すべきではありません。詳しくはブログ「東京で考えたこと」ブログ「すべては東京五輪開催のために」ブログ「もう、中止だ中止!」をお読み下さい。国際オリンピック委員会(IOC)で最古参委員であるディック・バウンド氏は「東京五輪の開催判断の期限は5月下旬」との見方を示しました。この頃、ロンドン市長選が行われ、新市長が「五輪のロンドン開催」を提言すると見られています。わたし個人の見解は、日本人として大変残念ではありますが、もはや東京五輪の開催は厳しいと思います。

 

これから日本国内での感染拡大を想定した場合、海外から選手や観客を日本に集めるのはリスクが高すぎます。というか、彼らは日本に渡航してこないでしょう。「中止」だと選手があまりにも気の毒ですので、「ロンドンに開催地を変更」でいいではないですか。「日本が30兆円の経済損失」などという声も聞こえますが、この際、金のことなど言っている場合ではありません。だいたい、スポーツの祭典であるオリンピックに参加する選手の健康を損なう可能性があるのは本末転倒ではないですか!

 

政府も東京都も東京五輪『開催不可能宣言』の準備に入るべきではないのか?」というネット記事で、作家・ジャーナリスト・出版プロデューサーの山田順氏はこう述べます。
「日本が目指さなければいけないのは、五輪開催ではない。優先事項は五輪開催より、国民の命、安全を守るための新型コロナウイルスの感染拡大防止だ。これが、最優先課題で、五輪開催は優先課題ではない。この点をメディア報道ははき違えているように思えてならない。 この優先順位がわかれば、いま、日本がしなければならないのは、どれほど感染が拡大しているのか、PCR検査を徹底して、その実態をつかむことだ。五輪開催を優先して、感染者数を少なくしようと検査数を抑えようなどとは、けっしてしてはならない。 そうして、そろそろ準備に入らなければならないのが、東京五輪の自主返上である。自ら期限を決めて『開催不可能宣言』の準備に入ることだ。その準備をしないで、ずるずると時間がすぎ、世界から五輪開催は無理と宣告されたら、これほど屈辱的なことはない。日本と日本人の信用は地に落ちる」
わたしは、山田氏の意見に全面的に賛成です。



最後に、「瀬戸際の2週間」がようやく終わったと思ったら、政府はさらに19日までのイベント自粛を国民に要請しました。ホテル業界も冠婚葬祭業界も大打撃で、経済的にも厳しくなりますが、ここは「天下布礼」の幟を立てて踏ん張ります。ライブハウスやスポーツジムはもちろん、映画館なども閑散としています。6日から公開されている日本映画「Fukushima50」も興行的に苦戦するでしょう。福島第一原発事故の実話を映画化したものですが、公開のタイミングが悪すぎました。わたしもまだ観ていないのですが、東日本大震災の教訓を忘れないためにも、すべての日本人が観るべき映画のような気がします。落ち着いたら、ぜひ鑑賞したいです。

 

2020年3月10日 一条真也

『フランス人は「老い」を愛する』

60歳からを楽しむ生き方 フランス人は「老い」を愛する

 

一条真也です。
9日の夜から、小倉では強い雨が降っています。
10日は春の嵐で、日本各地で強雨や暴風雨になるとか。
ようやく「瀬戸際の2週間」を終えましたが、政府の専門会議では、新型コロナウィルスが長期化する可能性を示唆しました。気の重い日々がまだまだ続きますね。
『フランス人は「老い」を愛する』賀来弓月緒(文響社)を読みました。「60歳からを楽しむ生き方」というサブタイトルがついています。なぜ、この本を読もうと思ったかというと、ブログ「男と女 人生最良の日々」で紹介したフランス映画に登場する高齢者カップルがあまりにもオシャレで魅力的だったので、その秘密を探りたいと考えたのです。



著者は1939年愛知県に生まれ。1960年外交官上級試験合格、1961年名古屋大学法学部卒、外務省入省、英オックスフォード大学大学院留学(外務省在外上級研修員)。本省では、国連局、欧亞局、経済局に勤務。海外は、英国、スイス、ブラジル(2回)、米国(2回)、デンマークタンザニア、イタリア、カナダ、インド(2回)などに勤務。外務省退職後、清泉女子大学非常勤講師、NPO法人アジア近代研究所特別顧問。ローマン・カトリックだそうです。

f:id:shins2m:20200310135100j:plain本書の帯

 

本書の帯には「なぜ、フランスの高齢者は『人生は美しい(La vie est belle)』と口にするのか」「外務省を退職後、フランスのカトリック修道会で介護ボランティアをした著者が伝えたいこと」と書かれています。また、カバー前そでには、「何歳になっても人生を楽しむ!」と書かれています。

f:id:shins2m:20200310135128j:plain本書の帯の裏

 

また、帯の裏には「『笑うこと』『食べること』を愛するフランス人に学ぶ60歳からを楽しむ生き方」として、以下の言葉が並びます。

◎フランス人は規則正しい生活を「美しい」と考える

◎フランス人はお金をかけずにオシャレを楽しむ

◎フランス人はゴシップより政治に興味を持ち、テレビより新聞を好む

◎フランス人は自身の孤独感を認め、友人に話す

◎フランス人は陽の光を浴びながら暮らす

◎フランス人にとってジョークはユーモアでなく「エスプリ(才気)」

◎フランスの高齢者は遠足(バラデ)と巡礼を趣味にする

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 老後を楽しみにするフランス人、
    老後に不安を覚える日本人

第2章 「孤独感」を和らげる
    フランスの高齢者たちの暮らし

第3章 心豊かに生きるフランス人の
    精神性(マンタリテ)

第4章 老いて家族の有り難さを見直す

第5章 老いの試練を受けながらも
    人生を最後まで楽しもう

「おわりに」

 

「はじめに」で、著者は、「私は、フランスのカトリック女子修道会の老人ホームのボランティアをする中で、多くのフランスの高齢者たちとの出会いがありました。その経験を通じて『年を重ねることが私たちの人生を豊かにする』という心境にいたることができました。この本では、フランスの高齢者から教わった『老いを生きる喜び』についてお話ししたいと思います」と述べています。

 

また、フランスには老いを「人生の実りと収穫の秋」と考える文化があるとして、「フランスでは年を重ねても(あるいは年を重ねたからこそ)生き生きと毎日を過ごしている多くの高齢者たちに出会いました。一般的に、フランス人は定年退職や引退を楽しみにして生きています。そして、30代、40代という若い時代、あるいは遅くても50代の初めから、その準備にとりかかります。そのことについても日本との違いを感じました」と述べます。さらに、日本で一般的にイメージされている通り、フランス人には、おしゃれや美食や性愛を、生きるときの大きな喜びと考える国民性があるといいます。そうした楽しみをフランス人は80歳になっても90歳になっても断念しようとはせず、フランスの高齢者たちは人生の最後まで生きることを楽しもうとするそうです。

 

著者いわく、フランス革命の「自由・平等・博愛」の精神に生き、徹底した個人主義者で合理主義者であるフランスの高齢者たちは、自分の境遇を他者のものと比較して、悲観したりやっかみを感じたりはしないといいます。自分よりももっと恵まれない人々のことを常に忘れない心の余裕というか心の優しさがあるからだとして、著者は「『自分の老いを愛する』フランスの高齢者たち。いつまでも自立した人間として生きる幸せを追求し続けるフランスの高齢者たち。その生き方や精神性には、私たち日本の高齢者も、学ぶところが多いのではないでしょうか」と述べるのでした。

 

 

第1章「老後を楽しみにするフランス人、老後に不安を覚える日本人」の冒頭を、「老いは『人生の実りと収穫の秋』」として、著者は以下のように書きだしています。
「フランスの高齢者たちは、よく人生を『一年の四季』にたとえます。ひとは春に生まれ春、夏、秋を生き冬に死ぬという考え方です。そして高齢期を『秋』と考えます。フランスの諺に『老いは熟した果実である』(La vieillesse est un fruit dans samaturite)というものがありますし、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920-2005)も高齢期を『人生の実りと収穫の秋』と形容しました。フランスでは、神父や修道女がよくこの言葉を口にしていました」
ちなみに、わたしは『人生の四季を愛でる』(毎日新聞出版社)という本を書きましたが、「人は老いるほど豊かになる」と訴えており、老いは「人生の実りと収穫の秋」という考え方には大賛成です。



フランス人は「La vie est belle(ラ・ヴィ・エ・ベル)」と叫びますが、その言葉に込める思いは、「人生を思い切り楽しもう」「生きる喜びを精一杯享受しよう」「人生を楽しく有意義なものとするために、自分自身で考え、自分独自の道を切り拓こう」というもの。フランスの高齢者は老いを賛美するためにこの言葉を発しますが、同じ精神を表すものとして、世界的に有名なフランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ(1915-1963)が歌った『バラ色の人生(La vie en rose)』という有名な曲があります。著者は「『人生は美しい』と『バラ色の人生』には、フランス人の美しく、楽しく生きようという強い思いが込められているといえるでしょう」と述べます。

 

著者は「一般的に、われわれ日本人には『人生を思う存分楽しむという意識がやや希薄』なように感じられます。むろん、『定年後には、思いきり人生を謳歌するのだ』と意気込む現役世代の人は少なくありません。しかし、何かが欠けているような気もします。というのは、このような人たちの叫びには、退職して初めて人生を楽しもうとしていて、“今現在”を楽しく生きることが犠牲にされている悲哀みたいなものが感じられるからです」と述べます。



「自由を生きるフランス人」として、著者は、フランス革命の「自由・平等・博愛」の精神は、フランス人の生き方を支えていることを指摘します。フランス人は徹底した合理主義者、個人主義者だといわれていますが、彼らは自由に考え、自由に行動し、自由に生きようとします。しかしながら、著者は「フランス人は個人主義者ですが、利己主義者でも孤立主義者でもありません。フランス人は博愛主義者として社会の弱者の痛みを感じることができ、そうした人たちを支援するために行動しようとします。フランスの人たちはそういう生き方が自分自身の人生を充実させ、幸福にすると信じているのです」とも述べています。

 

フランス人たちの定年後までに準備に言及しながら、①貯蓄、②健康、③趣味・活動、④家族・友人、⑤感受性というカテゴリに分けて定年後の生活のためのスムーズな準備を考察しますが、特に興味深いのは③趣味・活動でした。著者は、「私の出会ったフランスの高齢者たちは、現役時代から、できるだけ多くの趣味を持ち、多くの活動に参加するよう心掛けていたといっていました。どんな趣味・活動かといえば、例えば、音楽や絵画の鑑賞、チェス、旅行、スポーツ、社会奉仕などです。そして、現役時代が終わりに近づく時期には、定年退職後の予想される生活環境(例えば、金銭的余裕など)に合わせて、趣味や活動の範囲を絞り込んだり優先順位を変更したりするのです」と述べています。

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「趣味は、個人で楽しむだけでなく、地域コミュニティの同じ趣味を持つ人々の団体に所属できるというメリットもあるでしょう。そうすることで、高齢期にありがちな孤独感を和らげることができるのです。フランスの高齢者たちの間には、老いを共に楽しく生きることができる新たな友人を得ることを主要な目的にして、優先的な趣味を決めている人が多かったように思います」

 

次に、⑤感受性が興味深かったです。著者は、「若いときに怠けている者は年をとってから苦労する」というフランスの諺を紹介し、「特に私が大事にしてほしいと思うのは、日常生活の『当たり前のことがら』『小さなこと』の中に生きる喜びを見いだせる感受性を養うことです。死ぬまで海外旅行を大いに楽しみたいなどと意気込んでいても(可能であればもちろんそれも大変素晴らしいことですが)、体力と精神力は確実に衰えていきます。経済的余裕も次第に無くなっていくかもしれません。そのときに、いかに自分の身の回りの小さな出来事や自然をどれだけ楽しめるかが非常に重要になってくるのです」と述べます。

 

第2章「『孤独感』を和らげるフランスの高齢者たちの暮らし」では、「フランスの高齢者たちは孤独にどう向き合っているのか」として、著者は「孤独に対して不安を抱く気持ちは、日本人であれフランス人であれ、基本的には同じだと思います」と述べます。しかし、日仏では大きく違う点もあり、それは、フランスの人々は、孤独を感じるときに、信頼できる他の人に自分の孤独感を率直に口に出して、訴えることができるということだそうです。

 

具体的には、「一緒に老人ホームに入っていた夫が死んで話し相手がいなくなってしまった」「老人ホームには友達といえるような親しい人がひとりもいなくて淋しい」「一人娘は私のことを忘れてしまっている。私は天涯孤独も同然です」「妻が亡くなって非常に淋しい。茶飲み友達程度でもよい、心から愛せる女友達が欲しい」などの例が挙げられています。著者は、「フランスの高齢者たちは人間味に満ちている」と感じたそうです。

 

では、日本の高齢者はどうでしょうか。
自らが高齢者である著者は、以下のように述べます。
「孤独感や寂しさを抱えていても、これを友人や家族に打ち明けることを躊躇する人が多いのではないでしょうか。それどころか、『毎日が充実していて、楽しくて仕方がない』というふりをする人も少なくないようです。日本人の『恥の精神』からくるもの、あるいは、『他の人に心配をかけたくないという気持ちの表れ』かもしれません。自分の孤独感を率直に認めて、他人にそれを伝えて心の支えを求める勇気が必要なのではないでしょうか」

 

第3章「心豊かに生きるフランス人の精神性(マンタリテ)」では、「笑い」に注目します。「フランス人にとってのジョークは『エスプリ(才気)』である」として、「笑いは、医学的にも高齢者の自立生活機能の維持に大きく寄与すると考えられています。フランスのレンヌの老人ホームのある神父は、寂しげであまり笑わない高齢者たちのことをいつも心配していました。高齢者が必要としているのは『無邪気な心から自然に湧きでるおおらかな笑いだ。そのような笑いは、他の人に向けられるときには、その人に対する優しさや愛情表現そのものになる』と、この神父は始終力説していました」と述べられています。

 

「笑い」だけでなく「恋」も大切な要素です。
「高齢期の性愛をタブー視しない」として、老人ホーム内外の多くのフランスの高齢者たちと交流しながら、著者ははフランスの人たちは死ぬまで恋をしたいと考えていることを知ったそうです。性愛の欲求は死ぬまで続くという著者は、「生きる喜びを感じるのは、『人を愛し、人に愛されている』ことを実感できるときではないでしょうか。そこに、性愛を含めるのはごく自然なことでしょう。友人同士の友情であれ、夫婦愛であれ、配偶者を失ったあとの恋愛であれ、死ぬまで誰かを愛し、誰かに愛されているという心の充実感があれば、高齢期はもっと幸せなものになるに違いありません。フランスの多くの高齢者たちの『性愛に生きる姿勢』を知って、そんな思いを強くしました」と述べています。映画「男と女 人生最良の日々」に登場する元レーサーの老人ジャンの言動を見れば、よくわかりますね。

 

第4章「老いて家族の有り難さを見直す」では、「最後に頼ることができるのは家族」として、フランスの高齢者たちに「定年後の生活に何を求めるか」と聞いたところ、次の3つを挙げる人が多かったそうです。第1に、家族、特に配偶者と一緒に多くの時間を過ごすこと。第2に、日常的に自然の美しさや爽快さに触れながら、生きること。第3に、社会的弱者のために奉仕活動をすること。これらを踏まえて、著者は「人間を最も幸せにするのは、『人を愛し、人に愛されている』という充実感です。その意味で、家族は、愛を与え、愛を得ることができる最も重要な生活の場なのです」と断言しています。

 

愛する人がいれば、必ず別れが訪れます。
「高齢期の死別の悲しみとどう向き合うか」として、著者は「死別の悲しみは、感情を抑制せずに、嘆き、悲しみを表現する方がよいといわれています。しかし、問題は、そもそも高齢者には、死別の悲しみに耐える体力や気力が残っていないということ。打ちひしがれる高齢者の支えになるのは、家族や友人などの存在です。修道会では、そうした喪失感に苛まれる高齢者たちを修道女やボランティアの人々が支えていました」と述べています。

 

第5章「老いの試練を受けながらも人生を最後まで楽しもう」では、「日本の高齢者仲間に伝えたいこと」として、著者は「フランスの高齢者は、『年を重ねたからこそ見える人生の素晴らしい景色がある』ことをよく知っています。いたわり合う老夫婦だけの穏やかな生活、日常生活の小さなこと、周囲の自然の爽快さと美しさ、子どもや孫との家族愛の絆、友人との友愛の絆などの中に、生きている喜びを感じようとします。生きていること自体に感謝する気持ちが強いのです」と述べるのでした。

 

 

「老い」に関する本はこれまでもたくさん読んできましたが、本書は読みやすく、またメッセージが具体的で示唆に富んでいます。世界で最も高齢化が進行する日本の高齢者たちが読むべき名著であると思いました。わたしは、かつて、『老福論』(成甲書房)という著書で「老いの豊かさ」について論じました。そこでは、古代エジプト古代ローマ、古代中国、そして日本の江戸時代などにおけるポジティブな「老い」の思想を紹介したのですが、現代のフランスに「老いの豊かさ」が存在していることに気づきませんでした。なんだか、エディット・ピアフの「バラ色の人生」が無性に聴きたくなってきました。

 

2020年3月10日 一条真也