一条真也です。
9日の日曜日、久々に映画を2本観ました。「ボヘミアン・ラプソディ」と「おとなの恋は、まわり道」です。あまりにも両作品のクオリティが違い過ぎたのですが、「ボヘミアン・ラプソディ」は猛烈に感動。ラストでは、涙が止まりませんでした。
「ボヘミアン・ラプソディ」ですが、ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『伝説のチャンピオン』『ウィ・ウィル・ロック・ユー』といった数々の名曲で知られるロックバンド、クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記ドラマ。華々しい軌跡の裏の知られざる真実を映す。『X-MEN』シリーズなどのブライアン・シンガーが監督を務めた。ドラマシリーズ『MR>ROBOT/ミスター・ロボット』などのラミ・マレック、『ジュラシック・パーク』シリーズなどのジョー・マッゼロらが出演。フレディにふんしたラミが熱演を見せる」
ヤフー映画の「あらすじ」には、以下の通りです。
「1970年のロンドン。ルックスや複雑な出自に劣等感を抱くフレディ・マーキュリー(ラミ・マレック)は、ボーカルが脱退したというブライアン・メイ(グウィリム・リー)とロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)のバンドに自分を売り込む。類いまれな歌声に心を奪われた二人は彼をバンドに迎え、さらにジョン・ディーコン(ジョー・マッゼロ)も加わってクイーンとして活動する。やがて『キラー・クイーン』のヒットによってスターダムにのし上がるが、フレディはスキャンダル報道やメンバーとの衝突に苦しむ」
7日の金曜日、ずいぶん久々に小倉ロータリークラブの例会に出席したところ、最近、「ボヘミアン・ラプソディ」を観たという会員の方から、上映前にわが社のシネアド(映画館広告)を観たと言われました。それで「ボヘミアン・ラプソディ」の内容について感想を求めたところ、「ものすごく感動した!」というので、ネットで調べてみたら、これがまた大変高い評価を受けています。この映画の存在自体は知っていましたが、正直わたしはクイーンのファンではないので、あまり観たいとは思っていませんでした。しかし、わたしと同い年のその会員さんの話を聴いて、「ぜひ観たい!」と思いました。観た結果、わたしはボロ泣きました。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、イギリス・ロンドン出身の男性4人組ロックバンド「クイーン」のボーカルだったフレディ・マーキュリーに焦点を当て、バンドの結成から1985年に行われた「ライヴエイド」でのパフォーマンスまでを描いた伝記映画です。音楽プロデューサーをクイーンの現役メンバーであるブライアン・メイとロジャー・テイラーがともに務めています。
わたしはクイーンの音楽をほとんど知らない人間ですが、この映画で耳にする彼らの曲はどれも魂に響き、心に沁みるものばかりでした。わたしは、「ああ、感受性の豊かだった中学とか高校のときにクイーンの曲を聴いていかえば良かった」と思いました。あの頃は、わたしが聴く洋楽といえばビートルズかカーペンターズぐらいで、ロックに関してはかなりのオクテだったのです。
クイーン(Queen)は、どんなバンドだったのか。Wikipedia「クイーン(バンド)」には、以下のように書かれています。
「1973年にデビュー。イギリス、アメリカ、日本をはじめ、世界中で成功したバンドの1つである。これまでに15枚のスタジオ・アルバム、その他多くのライブ・アルバムやベスト・アルバムを発表。アルバムとシングルのトータルセールスは2億枚以上と言われており、『最も売れたアーティスト一覧』にも名を連ねている。1991年にリードボーカルのフレディ・マーキュリーが死去してからも、残されたメンバーによるクイーン名義での活動は断続的に続いており、ギターのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの2人が、2005年から2009年までポール・ロジャースと組んで『クイーン+ポール・ロジャース』として活動を行った。その後はアダム・ランバートを迎えた『クイーン+アダム・ランバート』としての編成での活動も行なっている」
続いて、Wikipediaにはこう書かれています。
「2001年には、マイケル・ジャクソン、エアロスミスらと共にロックの殿堂入りをした。『ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト』において第52位。 よく知られたヒット曲として炎のロックンロール、輝ける7つの海、キラー・クイーン、ナウ・アイム・ヒア、ボヘミアン・ラプソディ、タイ・ユア・マザー・ダウン、ウィ・ウィル・ロック・ユー、伝説のチャンピオン、ドント・ストップ・ミー・ナウ、バイシクル・レース、地獄へ道づれ、愛という名の欲望、レディオ・ガ・ガ、ボーン・トゥ・ラヴ・ユーなどがある」
映画のタイトルになった「ボヘミアン・ラプソディ」(Bohemian Rhapsody)は、クイーンが1975年10月31日に発表したフレディ・マーキュリー作の楽曲です。Wikipedia「ボヘミアン・ラプソディ」に、こう書かれています。
「クイーンの4枚目のアルバム『オペラ座の夜』に収録。演奏時間が約6分と長すぎるために、内部で議論となったが、同年にそのままシングルカットされ(B面はロジャー・テイラー作の「アイム・イン・ラヴ・ウィズ・マイ・カー」。アルバムバージョンの冒頭に、効果音が付加されたバージョン)、世界中で大ヒットした。本国イギリスの全英シングルチャートでは9週連続1位を獲得、アメリカのビルボード誌では、1976年4月24日に週間最高9位を獲得。ビルボード誌1976年年間ランキングは18位。ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では163位」
続いて、以下のように書かれています。
「2010年現在この曲はイギリスでは、エルトン・ジョンの『キャンドル・イン・ザ・ウインド1997』、バンドエイドの『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?』に次ぐ歴代3位のセールスを記録している。クイーンの楽曲としては珍しく、歌詞中に『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody)が一切登場しない」
「2002年にはギネスブックを発行しているギネス・ワールド・レコーズ社が3万1000人以上から取った『英国史上最高のシングル曲は?』というアンケートの結果、『イマジン』(ジョン・レノン)や『ヘイ・ジュード』『イエスタディ」』ビートルズ)を抑えて1位になった(授賞式にはロジャーとブライアンが出席)」
『龍馬とカエサル』(三五館)
フレディ・マーキュリーは、自分の出自、容貌にコンプレックスを抱き、さらにはゲイであるという事実にも苦しみました。しかし、彼の過剰歯は独特の歌唱法を生み出しました。その出自やゲイであることも、彼の音楽性に多大な影響を与えました。いわば、彼は「弱み」を「強み」に変え続けた人であったと思います。
クイーンは特に日本での人気が高かったようですが、日本人にはフレディ・マーキュリーのように「弱さ」を「強み」に変えた高名な人物がいます。豊臣秀吉です。拙著『龍馬とカエサル』(三五館)にも書きましたが、秀吉は特に「気配り」に抜群のエネルギーを注ぎ、大きな効果をあげました。秀吉自身が貧しい農家の出身であり、子どものときから大変な苦労をしました。完全に社会的な弱者でした。自分が苦労した弱者でしたから、弱者の苦労がよくわかります。どこを押せば他人が痛がり、あるいは喜ぶかを熟知した稀代の「人間通」でした。その人間通は、司馬遼太郎をして「人間界の奇跡」と言わしめた成功者となったのです。信長に小便までかけられた一介の草履取りが、ついには天下人にまで上りつめたのです。
秀吉と並ぶ「人間界の奇跡」が、一代で世界の松下電器をつくり上げた松下幸之助です。世界企業の創業者は他にもいますが、彼はとにかく度外れた社会的弱者でした。それまでは素封家でしたが、小学4年生のときに父親が米相場に手を出して失敗、10人いた家族は離散し、極貧ゆえに次々に死んでゆきます。とにかく貧乏で、病気がちで、小学校さえ中退しました。この「金ない、健康にめぐまれない、学歴ない」の「三ない」人間が巨大な成功を収めることができたのは、自分の「弱さからの出発」という境遇をはっきりと見つめ、容認したからではないでしょうか。貧乏なゆえに商売に励みました。体が弱いゆえに世界的にも早く事業部制を導入しました。学歴がないゆえに誰にでも何でも尋ねて衆知を集めました。彼は、自分の弱さを認識し、その弱さに徹したところから近代日本における最大の成功者となったのです。松下幸之助のように、フレディ・マーキュリーその人も、「弱さ」や「孤独」をエネルギーに変えて素晴らしい音楽を生み出しました。「ボヘミアン・ラプソディ」の観客たちは、闇を光に転じるドラマに涙するのかもしれません。
あらゆる差別と闘ってきたフレディ・マーキュリーの情念は名曲「伝説のチャンピオン」に最もよく表現されているように思います。この曲のシングルが発売された当時は「歌詞のチャンピオンというのは自分たちのことを指し、自分たちが世界一だと思い上がっているのではないか」と批判されたそうですが、後にブライアン・メイは「この曲は自分たちをチャンピオンだと歌っているのではなく、世界中の1人ひとりがチャンピオンなのだと歌っている」と反論しています。
どんな差別や迫害を受けても、「自分たちこそ勝者である」と高らかに歌い上げるこの曲は、まさに人類讃歌そのものであると思います。
『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)
あらゆる差別を否定した人物といえば、ブッダやイエスなどの聖人が思い浮かびます。拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)では、、人類にとっての教師と呼べる存在である「聖人」たちを紹介しました。グローバル社会において、わたしたちは地球的な視野ですべての問題を発想しなければならないことは言うまでもありません。結局は、わたしたち1人ひとりが、自分は「地球」に住んでおり、「人類」という生物種に所属しているという意識を強く持つことが大切でしょう。そして、人類に広く普遍的なメッセージを発信し、人類を良き方向に導いた人々が「聖人」なわけですが、フレディ・マーキュリーをはじめとする高名なロック・スターなどにもその要素があったと思います。
- 作者: フリードリヒ・W.ニーチェ,Friedrich Wilhelm Nietzsche,佐々木中
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2015/08/05
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (13件) を見る
映画のなかで、彼がクイーンの音楽を「人類への挑戦」ととらえていたことが紹介されています。同書では、ブッダ、孔子、老子、ソクラテス、モーセ、イエス、ムハンマド、聖徳太子の8人が取り上げられていますが、世界にはこの他にも偉大な聖人がいます、その1人がゾロアスターです。前10世紀から前11世紀にかけて活躍したといわれますが、諸説があり、パーシー教では前6000年より以前ともされます。彼の開いたゾロアスター教は「拝火教」とも呼ばれ、一神教を最初に提唱したともいわれます。その教えは、ユダヤ教、キリスト教に影響を及ぼしました。
ちなみに、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』の「ツァラトゥストラ」はゾロアスターをドイツ語読みしたものです。
フレディ・マーキュリーの父親は熱心なゾロアスター教徒でした。その父のはからいで、フレディは死後に火葬されています。アフリカ難民救済のためでノーギャラで「ライヴエイド」に出演しようとする息子フレディに対して、それまでずっと対立していた父が「善き言葉、善き想い、善き行い」に適う素晴らしい息子だと彼を初めて認めてハグするシーンでは、無性に感動して涙が出てきました。かの宮沢賢治が死の直前に「えらいやつだ、お前は」と褒められたことを思い出しました。そのことは、ブログ『銀河鉄道の父』で紹介した本に詳しく書かれていますが、わたしもフレディや賢治と同じく、実の父親からなかなか認めてもらえません。もし、わたしがフレディや賢治と同じく父よりも先に逝くとしたら、最後は認めてほしいものだと思いました。
世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 (光文社新書)
- 作者: 山口周
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2017/07/19
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (6件) を見る
さて、わたしには、フレディが「現代のツァラトゥストラ」として、数々の託宣を人類に伝えたような気もします。実際、哲学とロックには共通性が多いことが最近読んだ本に書かれていました。その本とは『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』山口周著(光文社新書)で、ビジネス書大賞2018準大賞を受賞したベストセラーです。同書で、著者の山口氏は、哲学で真に重要なのは「その哲学者が生きた時代において支配的だった考え方について、その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考えたかというプロセスや態度」であり、「その時代に支配的だったモノの見方や考え方に対して、批判的に疑いの目を差し向ける。誤解を恐れずに言えば、これはつまりロックンロールだということです。『哲学』と『ロック』というと、何か真逆のモノとして対置されるイメージがありますが、『知的反逆』という点において、両者は地下で同じマグマを共有している」と述べています。
この山口氏の意見、全面的に賛同します。ならば、フレディ・マーキュリーは「20世紀の聖人」であると同時に、「20世紀の哲人」でもあったのかもしれません。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」の白眉は、ラスト21分におよぶライヴエイド(LIVE AID)でのクイーンのパフォーマンス・シーンです。ライヴエイドは「1億人の飢餓を救う」というスローガンの下、「アフリカ難民救済」を目的として、1985年7月13日に行われた、20世紀最大のチャリティーコンサートです。「1980年代のウッドストック」とも一部でいわれていましたが、その規模をはるかに超越したものとなりました。「バンド・エイド」を提唱した、「ブームタウン・ラッツ」のリーダーであったボブ・ゲルドフが中心となって開催されることとなり、その呼びかけに賛同した、多くのミュージシャンが、国とジャンルを越えて参加したスーパー・イベントが「ライヴエイド」です。
わたしは「ライヴエイド」の開催当時は22歳でしたが、非常に大きなインパクトを受けました。1988年に上梓した処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)で、わたしは理想のライフスタイルを「はあとぴあん」という言葉で表現しましたが、同書に次のように書いています。
「1985年は音楽において世界的なチャリティープロジェクトが2つ組まれた。1つは、イギリスのバンド・エイドであり、もう1つはアメリカのUSAフォー・アフリカである。さらに両者は合体してライヴエイドというスーパー・イベントを実現した。若者にとってミュージシャンこそは現代の神であり、ミュージシャンが彼らのオピニオン・リーダーになることも珍しくない。その意味で、これらのチャリティーが若者に与える影響の大きさは測り知れないはずである。バンド・エイドに参加したカルチャー・クラブのボーカル、ボーイ・ジョージはこう言った。『大切なのは政治をこえた思いやりの心なんだ』。思いやりの心、奉仕する心・・・・・・心こそ、『はあとぴあん』の追い求めてきたものだ。第五世代コンピューターさえも持ちえないもの、それが心である。教育も躾も心からだ。はあとぴあんは、心の理想郷はあとぴあの住人なのである」
『ハートフル・ソサエティ』(三五館)
いま、ライヴエイドの映像を観直すと、10万人もの大観衆が生み出す異様な熱気に圧倒されます。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「共感から心の共同体へ」にも書きましたが、ロック・コンサートなどの会場には共感のエネルギーがたびたび生まれます。いまや、カリスマ的なロック・ミュージシャンなどは「現代の神」とさえ言えますが、何度も繰り返されるリズミカルな刺激をともなう音楽には、大脳辺縁系や自律神経系を活性化させる効果があることが分かっています。こうした変化は、脳が現実を解釈したり、感じたり、思考したりする方法を根本的に変化させ、自己の境界を規定する能力に大きな影響を及ぼします。これによって共感のエネルギーが生まれるわけです」
- 作者: ヴィクター・W.ターナー,Victor W. Turner,冨倉光雄
- 出版社/メーカー: 新思索社
- 発売日: 1996/07
- メディア: 単行本
- クリック: 9回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
これは、かつてイギリスの人類学者ヴィクター・ターナーが「コミュニタス」と名づけたものに通じていると言えます。コミュニタスとは、身分や地位や財産、さらには男女の性別など、ありとあらゆるものを超えた自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方です。簡潔に言えば、「心の共同体」ということになるでしょう。
ターナーは、ブログ『儀礼の過程』で紹介した主著において、マルティン・ブーバーの「我と汝」という思想、アンリ・ベルグソンの「開かれた道徳」「閉ざされた道徳」という考え方を援用してコミュニタスを説明しています。ターナーによれば、コミュニタスは、まず宗教儀式において発生します。
一般に儀式とは、参加者の精神を孤独な自己から解放し、より高く、より大きなリアリティーと融合させることを目的にしています。特に、宗教儀式においては、一般の信者には達し得ないような宗教的な高みを彼らに垣間見させるという意味合いが大きいです。カトリックの神秘家の目的は「神秘的合一」の状態に達すること、すなわち、神の存在を実感し、1つになるという神秘体験をすることにありますし、熱心な仏教徒が瞑想をする目的は、自我がつくり出す自己の限界を打ち破り、万物が究極的には1つであると悟ることにあります。けれども、稀代の高僧ならいざしらず、誰もが独力でこうした高みに到達できるわけではありません。そこで、一般の信者にも参加できる効果的な宗教儀式というものを考案して、彼らにもおだやかな超越体験をさせ、その信仰を深めさせようとしたのでしょう。
これは、キリスト教や仏教などの大宗教に限りません。これまで地球上に登場した人類文明のほとんどすべてが、何らかの宗教儀式を生み出してきました。そのスタイルは無限といってよいほど多様ですが、1つだけ共通点がある。それは、宗教儀式が成功した場合には(当然のことながら常に成功するわけではない)、脳による自己の認知や情動に関わる知覚に、ある共通の変化が起きるという点です。そして、あらゆる宗教人たちは、この変化を「自己と神との距離が縮まった経験」として理解します。もちろん、すべての儀式が宗教的であるわけではありません。政治集会から、裁判、祝日、求愛、スポーツ競技、そしてロック・コンサートや個人の冠婚葬祭に至るまで、いずれも立派な社会的・市民的な「儀式」です。
『儀式論』(弘文堂)
こうした世俗的な儀式にも、個人をより大きな集団や大義の一部として定義しなおすという意義があるのです。拙著『儀式論』(弘文堂)にも書いたように、個人的な利益を犠牲にして公益に奉仕することを奨励し、社会の団結を強めるための機構としては、世俗的な儀式は、宗教的な儀式よりもはるかに実践的です。この機能を軽視してはなりません。そもそも、社会に利益をもたらすからこそ、儀式的行動が進化してきたとも考えられるのです。ターナーも、コミュニタスは何より宗教儀式において発生するとしながらも、それを大きく超えて、広く歴史・社会・文化の諸現象の理解を試みています。そしてターナーは、この「心の共同体」としてのコミュニタスに気づくことにより、「社会とは、ひとつの事物ではなく、ひとつのプロセスである」という進化論的な社会観に到達したのです。「ライヴエイド」は、オリンピックの閉会式などと同じく、巨大なコミュニタスが発生した場にほかなりませんでした。
クイーンの名曲の中に「レディオ・ガ・ガ」というのがありますが、この曲名から生まれた実在の歌姫がレディ・ガガです。彼女が主演した「アリー/スター誕生」が12月21日に公開されますが、この映画も非常に楽しみです。音楽をテーマにした映画というのは、映画館がコンサート会場になったような感覚で、ライヴ感を味わうことができますね。レディ・ガガといえば、「アメリカン・ホラー・ストーリー/ホテル」で披露した卓越した演技力に驚かされました。「アリー/スター誕生」で、彼女はアカデミー賞の主演女優賞の有力候補になっているそうです。
最後に、「ボヘミアン・ラプソディ」を観たとき、わたしは少々落ち込んでいたのですが、この映画を観て、生きる勇気のようなものが湧いてきました。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)の第5章は「生きる力を得る」で、ブログ「シュガーマン 奇跡に愛された男」で紹介した映画などを取り上げましたが、「ボヘミアン・ラプソディ」こそはまさに「生きる力を得る映画」です。同書の続編を刊行する機会があれば、ぜひ取り上げたいと思います。「ボヘミアン・ラプソディ」を観るまで、わたしはクイーンやフレディ・マーキュリーについて無知でしたが、考えてみれば、伝記映画というのはそれを観て、初めてその人物を知ればいいのです。
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
2018年12月10日 一条真也拝