水と火と産霊 

一条真也です。
18日の早朝から、ブログ「春季例大祭」で紹介した神事が行われ、朝粥会が開かれました。その後、松柏園ホテルで恒例の天道塾が行われました。最初にわたしが登壇して、まずは開塾の挨拶をしました。


天道塾前のようす

最初は、もちろん一同礼!

冒頭、挨拶をしました

社長講話を行いました

 

一同礼をして挨拶を終えると、わたしは社長講話を行いました。まずは、「春季例大祭を無事に終えて安心しました。能登半島珠洲はもちろん七尾さえもまだ水道が復旧しておらず、断水状態が続いています。能登半島地震では、珠洲市の下水管被害(1月末時点)が総延長の約94%となり、被災自治体の中で突出していることが分かりました。104.3キロのうち97.9キロが被害を受けたとみられ、下水管とつながるマンホールが道路から突き出た光景があちこちで見られました。市は飲料水確保へ上水道の復旧を急ぎますが、生活排水を流す下水の復旧にはさらに時間がかかる見通しです」と述べました。


水と葬儀は大切!

 

それから、わたしは以下のような話をしました。
人が生きていく上で、一番大切なものは「水」です。そして、水の次に大切なものが「葬儀」だと思います。孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったそうです。雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げること。その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じです。水がなければ、人は生きられません。そして、葬式がなければ、人は旅立てないのです。水を運ぶものは水桶であり、遺体を運ぶものは棺桶です。この人間にとって最も大切なものをテーマにした映画があります。



その映画とは、新藤兼人監督の名作「裸の島」(1960年)です。瀬戸内海に浮かぶ小さな孤島に4人家族が住んでいました。夫婦と2人の息子たちです。島には水がないので、畑を耕すためにも、毎日船で大きな島へ水を汲みに行かなければなりません。子どもたちは隣島の学校に通っているので、彼らを船で送り迎えするのも夫婦の仕事です。会話もなく、変化のない日常が続いていましたが、ある日、長男が高熱を出し、島には病院がないので亡くなってしまいます。夫婦は亡き息子の亡骸を棺に入れて墓地まで運びます。


「裸の島」について語る

 

そう、「裸の島」夫婦が一緒に運んだものは水と息子の亡骸の入った棺でした。二人は、ともに水桶と棺桶を運んだのです。その2つの「桶」こそ、人間にとって最も必要なものを容れる器だったのです。水がなければ、人は生きられません。そして、葬儀がなければ、人は旅立てないのではないでしょうか。悲嘆にくれる母は、息子を失った後、大切な水を畑にぶちまけて号泣します。葬儀をあげなかったら、母親の精神は非常に危険な状態になったでしょう。喉が渇けば、人は水を必要とし、愛する人を亡くして心が渇けば、人は葬儀を必要とするのです。



第96回アカデミー賞授賞式が3月11日(日本時間)、アメリカ・ロサンゼルスのドルビー・シアターで開催されました。オッペンハイマーが作品賞を含む7冠に輝きました。クリストファー・ノーラン監督が、原子爆弾の開発に成功したことで「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いた伝記映画です。興行的にも、全世界興行収入9億5000万ドルを超える大ヒットを記録。実在の人物を描いた伝記映画作品として、歴代1位の記録を樹立しています。日本では今月29日からの公開ですので、かなりの観客動員が見込まれると思います。


オッペンハイマー」について語る

 

3・11という日本人にとってのグリーフ・デーの当日に、日本人にとって最大のグリーフといってもよい原爆の開発者についての映画がアカデミー賞で旋風を起こしたというのが、どうにも複雑な気分であります。原爆というのは世界史上で2回しか使われていません。その土地は日本の広島と長崎です。ですから、被爆国である日本の人々は、当事者として、映画「オッペンハイマー」をどこの国の国民よりも早く観る権利、また評価する権利があると思いますした。当然のことではないでしょうか?


オッペンハイマー」はどういう映画か?


熱心に聴く人びと

 

わたしは、「オッペンハイマー」が日米同時公開されるとばかり思っていました。それが、日本だけ非公開だった事実が釈然としませんでした。この映画で、原爆開発の倫理的責任はどう描かれているのか。試作弾頭「トリニティ」の臨界実験の描写は凝りに凝ったCGと音響で圧倒的なインパクトが強いそうですが、それが、原爆の恐怖を表現しているのか、それとも開発成功を称える高揚シーンになっているのか。さらには、広島・長崎の惨状はどう描かれているのか?


セカンド・グリーフを負わせるな!

 

本当は、「オッペンハイマー」は昨年8月6日の「広島原爆の日」までには公開されているべきだったと思います。ということで、わたしはまだ「オッペンハイマー」を観ていないわけですが、日本人のグリーフを無視した映画がアカデミー賞作品賞を受賞した事実によって、日本人はセカンド・グリーフを負ったように思えてなりません。アカデミー賞の審査員たちには、「ポリコレとか多様性とか言う前に、もっと大事なことがあるだろう!」と叫びたい!



その後、ヒロシマナガサキという2007年のアメリカ映画を紹介しました。日系米国人映画監督スティーヴン・オカザキがインタビュアーとなって広島原爆・長崎原爆の被爆者14名と、投下に関与した米国側の関係者4名に取材したドキュメンタリー映画です。オカザキ監督は当初、1995年の「原爆投下50周年」にあわせての映画制作を構想していたが、エノラ・ゲイスミソニアン博物館への展示が政治問題となり、企画は頓挫した。だが、2005年の「原爆投下60周年」のタイミングで、再度企画がスタートし、この映画を完成させることとなった。アメリカでは2007年8月6日夜、ケーブルテレビHBOが全米に放映。原爆投下の正当性を根強く信じる米国人がどう受け止めるか、注目を浴びました。また、この映画は国連でも上映されています。



続いて、この世界の片隅にという2020年の日本のアニメ映画を紹介しました。テレビドラマ化もされましたが、わたしは2016年の11月にシネプレックス小倉でこの名作を観ました。もう、泣きっぱなしでした。主人公すずが船に乗って中島本町に海苔を届けに行く冒頭のシーンから泣けました。優しくて、なつかしくて、とにかく泣きたい気分になります。きっと、日本人としての心の琴線に触れたのだと思います。この映画は本当に人間の「悲しみ」というものを見事に表現していました。玉音放送を聴いた後、すずが取り乱し、地面に突っ伏して慟哭するシーンがあるのですが、その悲しみの熱量のあまりの大きさに圧倒されました。エンドロールでグリーフケアが描かれたことにも感動しました。わたしは、この映画も全米や国連でぜひ上映するべきだと思います。



今回のアカデミー賞では、ブログ『君たちはどう生きるか』で紹介した宮崎駿監督のアニメ映画が長編アニメ映画賞に輝いた他、ブログ「ゴジラ-1.0」で紹介した山崎貴監督のSF怪獣映画が視覚効果賞を受賞しました。「ゴジラ-1.0」は、ゴジラ生誕70周年となる2024年に先駆けて製作された、実写版第30作品目となるゴジラ映画です。1954年に公開された1作目の「ゴジラ」は、当時、ビキニ環礁の核実験が社会問題となっていた中、水爆実験により深海で生き延びていた古代生物が放射能エネルギーを全身に充満させた巨大怪獣が日本に来襲するという物語でした。すなわち、明確な反核映画だったのです。「ゴジラ」で中では銀座や日比谷を蹂躙したゴジラが皇居の前まで来ると回れ右をするシーンがあります。ゴジラとは太平洋戦争で亡くなった日本兵たちの霊魂の集合体という見方もできるのです。



ゴジラ-1.0」が「オッペンハイマー」とあわせて注目されていることについて山崎監督は、「作っている時はまったくそういったことは意図されていなかったと思いますが、出来上がった時に世の中が非常に緊張状態になっていたというのは、運命的なものを感じます。『ゴジラ』は、戦争の象徴、核兵器の象徴であるゴジラをなんとか鎮めようとする話ですが、鎮めるという感覚を世界が欲しているのではないか。それがゴジラのヒットの一部につながっているんじゃないかと思います」と見解を述べました。さらに、「『オッペンハイマー』に対するアンサーの映画は、個人的な思いとしてはいつか、日本人として作らなくてはいけないんじゃないかな、と思っています」と秘めていた思いを明かしていました。


原爆と火の柱について

 

わたしは、他のノミネート作品に比べて製作費が破格に少なかった「ゴジラ-1.0」が受賞したのは、同じ第96回アカデミー賞において「オッペンハイマー」旋風を吹かせることに対する免罪符ではないかと思えてなりません。さて、「ヒロシマ ナガサキ」に登場する広島で被爆した男性が「原爆が落ちた直後、きのこ雲が上がったというが、あれはウソだ。雲などではなく、火の柱だった」と語った場面が印象的でした。その火の柱によって焼かれた多くの人々は焼けただれた皮膚を垂らしたまま逃げまどい、さながら地獄そのものの光景の中で、最後に「水を・・・」と言って死んでいったといいます。


命を奪う火、命を救う水

 

命を奪う火、命を救う水という構造が神話のようなシンボルの世界ではなく、被爆地という現実の世界で起こったことに、わたしは大きな衝撃を受けました。考えてみれば、鉄砲にせよ、大砲にせよ、ミサイルにせよ、そして核にせよ、戦争のテクノロジーとは常に「火」のテクノロジーでした。火焔放射器という、そのものずばりの兵器などもあります。拙著リゾートの思想河出書房新社)やリゾートの博物誌(日本コンサルタントグループ)にも詳しく書いたように、楽園とは豊かな水をたたえた場所です。人類における最初の戦争は、おそらく水飲み場をめぐっての争いではなかったでしょうか。それほど、水は人間の平和や幸福と深く関わっていると思うのです。

火は文明のシンボル


熱心に聴く人びと


そして、火は文明のシンボルです。いくら核兵器を生んだ文明を批判しても、わたしたちはもはや文明を捨てることはできません。歴史的に見れば、戦争が文明を生み出したと言えるでしょうが、その不思議な戦争の正体とは間違いなく火であると、わたしは思います。そして、自動車もエアコンもパソコンもスマホも、みな火の子孫なのです。その最たる子孫こそが原子力発電所であったように思います。わたしたちは、もはや火と別れることはできないのでしょうか? しかしながら、水が人類にとって最も大切なものであることも事実です。ならば、どうすべきか?

火と水を結んで「火水」を求める

 

わたしは、人類には火も水も必要なことを自覚し、智恵をもって火と水の両方とつきあってゆくしかないと思います。人類の役割とは、火と水を求めて「火水(かみ)」を追い求めていくことではないでしょうか。「火水(かみ)」とは「神」です。これからの人類の神は、決して火に片寄らず、火が燃えすぎて人類そのものまでも焼きつくしてしまわないように、常に消火用の水を携えてゆくことが必要ではないかと思います。現在、世界には広島型原子爆弾の40万個分に相当する核兵器があると言われています。9.11テロ以降、世界的緊張とともに核拡散の危機が急速に高まり、核兵器による大量殺戮が現実化する恐れも出てきました。こうしている今も、ロシア・ウクライナ戦争やイスラエル・ガザ戦争が続いています。わたしは、葬儀というセレモニーは「世界平和」と「人類平等」への祈りであると思えてなりません。



最後に、わたしはブログ「葬送のカーネーション」で紹介したトルコ映画について語りました。トルコ南東部。年老いたムサ(デミル・パルスジャン)は、故郷に埋葬するという亡き妻との約束を守ろうと、彼女の遺体を納めた棺を孫娘のハリメ(シャム・シェリット・ゼイダン)と共に運びながら故郷を目指す物語です。「人間とは何か」「死とは何か」「葬とは何か」といった問題を観客に問う哲学的な映画でしたが、葬儀とは、人間の存在理由に関わる重大な行為であることが訴えられていました。ネアンデルタール人は死者に花を手向けたとされていますが、祖母の墓に捧げられたのは、ハリメが描いた故人の似顔絵と1輪の赤いカーネーションでした。その花を見たとき、わたしは「ネアンデルタール人と同じだ!」と思いました。



映画といえば、ブログ「グリーフケアの時代に」で紹介したドキュメンタリー映画が公開され、拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)を原案とする映画「君の忘れ方」がもうすぐ完成しますが、さらにグリーフケアという考え方が、世の中に広まり、愛する人を亡くした人の悲嘆が少しでも軽くなることを願っています。特に、「グリーフケアの時代に」は、ロシアの大統領、中国とか北朝鮮の主席にも見ていただきたいです。愛する人を亡くす悲嘆の大きさ、グリーフケアの大切さを知っていただきたい。グリーフケアが広まることは戦争のない平和な世界が来ることだと思っています。

時代に合わせたアップデートを!

 

それから、「葬儀やグリーフケアも時代に合わせてアップデートします。4月15日には、いよいよ『ロマンティック・デス』最新版と『リメンバー・フェス』が同時刊行されます。5月には宗教学者東京大学名誉教授の島薗進先生との対談本『いま、宗教を問う』が弘文堂から刊行されます。5月末には芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久先生と「佛教と日本人」をテーマにした対談も行います」と言いました。最後に、詩人でもある鎌田東二先生の「春だ 春だよ 春だから 身も心も魂も 軽くなるのだよ」という詩を紹介し、最後に「今日、春季例大祭も行いました。みなさん、春は近いです。わが社の春も近いです!」と笑顔で述べてから、わたしは降壇しました。

最後は、もちろん一同礼!

 

2024年3月18日 一条真也