「罪と悪」 

一条真也です。石川県に来ています。
震災から5週間が経過した能登半島を回った7日の夜、ユナイテッドシネマ金沢で日本映画「罪と悪」のレイトショーを観ました。殺人事件が起こるサスペンスですが、そこにはグリーフを抱える人々の姿が描かれていました。


ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「『アンダー・ユア・ベッド』などの高良健吾が主演を務めるサスペンス。22年ぶりに再会した3人の幼なじみが、ある殺人事件をきっかけに陰惨な過去と向き合う。メガホンを取るのはドラマシリーズ『ワカコ酒』などの齊藤勇起。『草の響き』などの大東駿介、『狼 ラストスタントマン』などの石田卓也らが共演する」

 

ヤフーの「あらすじ」は、「ある町で、13歳の正樹が何者かに殺される。正樹の同級生の春(高良健吾)、晃(大東駿介)、朔(石田卓也)、朔の双子の弟・直哉は、正樹と交流のあった老人『おんさん』が犯人に違いないと家に押しかけ、4人のうちの1人がもみ合いの末におんさんを殺して家に火を放つ。22年後、刑事になった晃は、父の死をきっかけに町に戻った際、朔と再会し、彼が家業の農家を継いで引きこもりの直哉の面倒を見ていることを知る。ほどなくして、町で少年の遺体が発見され、晃は事件を捜査する中で春とも再会する」となっています。


なかなか見応えのある映画でした。往復8時間以上かかった能登半島からの帰りなので疲れており、「上映中に寝てしまうかな」と思っていたのですが、それは杞憂でした。115分間、まったく眠気など襲ってきませんでした。主人公たちの中学生時代が描かれる冒頭シーンが流れて、じつに30分後に「罪と悪」のタイトルバックとなります。齋藤監督自ら手掛けた脚本も良かったですが、何よりも春を演じた高良健吾と晃を演じた大東駿介の演技が素晴らしかったです。大人になった春と晃の対決シーンは緊迫感に溢れていました。特に高良健吾の目力がハンパではなく、「こんなに凄い役者だったのか!」と彼を見直しました。


この映画、詳しくストーリーに触れるとネタバレになるので控えますが、最後のどんでん返しで真の悪人が判明するところが秀逸で、わたしも完全に騙されました。故ジャニー喜多川を彷彿とさせる人物が登場し、少年たちに性加害をするシーンは「今風だなあ」と思いました。すごく気になったのは、登場人物の多くが故郷を憎んでいて、「こんな腐った町、ぶっ壊れてしまえばいい」などと言い放つところでした。この日の午後、珠洲市の正院町で見渡す限りの家屋が瓦礫の山になったのを見た直後だったので、わたしは「じゃあ、おまえら、故郷があんなふうに瓦礫の山になれば嬉しいのか!」と言いたくなりました。

法則の法則』(三五館)

 

この映画の登場人物の多くは不幸です。誰ひとり幸福感を抱きながら生きている人間はいません。それは、自分の故郷を否定していることが大きな原因ではないかと思います。拙著法則の法則(三五館)で、わたしは「幸福になる法則」というものを紹介しています。それは、ずばり、自分を産んでくれた親に感謝するというものです。親を感謝する心さえ持てれば、自分を肯定することができ、根源的な存在の不安が消えてなくなるのです。そして、心からの幸福感を感じることができます。それと同じく、自分の故郷を否定することも自分を否定することに通じ、けっして幸福にはなれません。親とは「血縁」のシンボルであり、故郷とは「地縁」の背景になるものです。血縁と地縁なくして、人は絶対に幸福にはなれないのです。

© 一条真也

 

現代人は、さまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。空中に漂う凧のようなものです。わたしは、凧が最も安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思います。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。この縦糸を「血縁」と呼びます。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。この横糸を「地縁」と呼ぶのです。この縦横の2つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての「幸福」の正体だと思います。ですから、自分が生まれて育った故郷を否定してはなりません。もちろん、故郷には不満や問題点も多いでしょう。ならば、自分の力で故郷を良い方向に変えていくべきです。だいたい、悪人や俗物というものは田舎だけでなく都会にもいることを忘れてはなりません。「今」「ここ」「自分」から変えるしかない。


「罪と悪」では高良健吾の演技が特に素晴らしかったですが、彼はブログ「悼む人」で紹介した2015年の名作にも主演しています。亡くなった人が生前に「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか」を記憶するという行為を、巡礼のように続ける主人公“悼む人”こと坂築静人を高良健吾が見事に演じました。原作者の天童荒太『悼む人』を書くに至った発端は、2001年、9・11アメリカ同時多発テロ事件、およびそれに対する報復攻撃で多くの死者が出たことでした。これらの悲劇だけではなく、世界は不条理な死に満ちあふれていることに改めて無力感をおぼえた天童に、天啓のように死者を悼んで旅する人の着想が生まれたのです。彼は実際に各地で亡くなった人を悼んで歩き、悼みの日記を三年にわたって記し、その体験を元に2008年、『悼む人』を刊行。そして2011年、日本は再び大震災に見舞われ、我々は改めて不条理な死と向き合う事を余儀なくされました。今また、2024年1月1日に発生した能登半島地震によって、わたしたちは理不尽な死と向き合っています。


映画「悼む人」では、「人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。ふいに目の前から消えてしまった者に対して誰もが抱いてしまう行き場のない思いをどうしたらいいのか」という問題が観客に突き付けられます。病や事故のような逃れようのないことであれ、殺人という加害者によることであれ、かけがえのない「生」を損なわれた時、人は深く傷つき、苦しみます。主人公の静人は旅をしながら、「生」を奪い奪われる人たちと出会っていきます。母を見殺しにした父を憎む男。愛という執着に囚われて夫を殺した女。末期癌療養に病院ではなく自宅を選ぶ母親・・・・・・静人自身も、大好きだった者の死を忘れるという行為に自らを責め続けていました。「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか」という3点を死者に対して見つめ、記憶することで、逃れることのできない「死」を、「愛」によって永遠の「生」に変えること。それこそが、「死すべき存在」である人としてできる最善なのではないか。静人の「悼む」行為はそう語りかけてきます。最後に、映画「罪と悪」を観た日、わたしも能登半島で多くの震災犠牲者の在りし日を想う「悼む人」となりました。

「悼む人」になりました

 

最後に、このブログ記事を読んだ金沢紫雲閣の大谷賢博総支配人からLINEが届きました。彼自身が能登半島地震の被災者ですが、この日、彼の運転で能登半島を回ったのです。大谷総支配人は、「被災してから初めて観た映画だったので、鑑賞中はいろんな感情が入り混じっておりました。小さな集落の閉鎖的な環境が生み出す悪。故郷は愛おしいはずなのに、小さな歪みが大きくなり後戻り出来ない状況になっていく。悪とは人間の弱さなのではないかとも思いました。能登半島地震の余震が1600回を超えた今、最初は無事だった建物が徐々に壊れていく。そして人の心もまた徐々に壊れていく。まるでそんな状況を現しているようでした。少年が殺人を犯して放火する。その炎すら燃えさかる輪島の朝市地域を連想しました。どのように自身の過去と向き合うのか。その感情の動き。まさにグリーフケアこそが闇の中にある一筋の光だと思います」と書いていました。素晴らしい感想であり、さすがは上級グリーフケア士だと思いました。この日、彼と一緒に能登半島の被災地を回り、映画を観ることができて良かったです。

金沢紫雲閣の大谷総支配人と

 

2024年2月8日  一条真也