土偶の正体

一条真也です。
4都府県に3度目の緊急事態宣言が発出された25日の日曜日、自宅の書斎でヤフーニュースを見ていたら、興味深い記事が目に飛び込んできました。JBpressが配信した「日本考古学史上最大の謎『土偶の正体』がついに解明」というタイトルの記事です。

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「ヤフーニュース」より 

 

ブログ「縄文展」でも紹介したように、わたしは縄文時代に並々ならぬ関心を抱いています。今から約1万3000年前、氷期が終わりに近づいて温暖化が進み、入り江や干潟が生まれ、現在の日本列島の景観が整いました。この頃に日本では土器作りが始まります。縄文時代の幕開けです。「土偶」とは縄文時代に作られた素焼きの人形です。1万年以上前から土偶の制作が始まり、およそ2000年前には姿を消しました。



現在までに2万点近い土偶が発見されていますが、女性や妊婦をかたどったものだというのが従来の定説でした。有名な青森県亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶重要文化財東京国立博物館所蔵)などは、宇宙服を着た古代の宇宙人であるといったSF的見解も流行しました。しかし、2021年4月に刊行された『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社)で、人類学者の竹倉史人氏は驚きの新説を提唱しました。

 

土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎

土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎

  • 作者:竹倉 史人
  • 発売日: 2021/04/24
  • メディア: 単行本
 

 

当該記事で、竹倉氏は「結論から言おう」と述べ、続けて「土偶縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。ただしここで〈植物〉と表記しているのは、われわれ現代人が用いる『植物』という認知カテゴリーが、必ずしも縄文人たちのそれと一致しないからである。私の土偶研究が明らかにした事実は、現在の通説とは正反対のものである。すなわち、土偶の造形はデフォルメでも抽象的なものでもなく、きわめて具体的かつ写実性に富むものだったのである。土偶の正体はまったく隠されておらず、常にわれわれの目の前にあったのだ」と述べます。



また、竹倉氏は以下のように述べています。
「ではなぜわれわれは一世紀以上、土偶の正体がわからなかったのか。それは、ある一つの事実がわれわれを幻惑したからである。すなわち、それらの〈植物〉には手と足が付いていたのである。じつはこれは、『植物の人体化(アンソロポモファイゼーション、anthropomorphization)と呼ばれるべき事象で、土偶に限らず、古代に製作されたフィギュアを理解するうえで極めて重要な概念である。たしかに土偶は文字ではない。しかしそれは無意味な粘土の人形(ひとがた)でもない。造形文法さえわかれば、土偶は読むことができるのである。つまり土偶は一つの“造形言語”であり、文字のなかった縄文時代における神話表現の一様式なのである』

 

 

そしてそこからひらかれる道は、はるか数万年前の人類の精神史へとつながっているとして、竹倉氏は「私の土偶の解読結果が広く知れ渡れば、日本だけでなく、世界中の人びとがJOMONの文化に興味を寄せ、そしてDOGŪというユニークなフィギュアが体現する精神性の高さに刮目することだろう」と述べます。また、竹倉氏は、19世紀末にイギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーが著した『金枝篇』に言及し、「私が特に注目したのはフレイザーが叙述している『栽培植物』にまつわる神話や儀礼である。植物の栽培には必ずその植物の精霊を祭祀する呪術的な儀礼が伴うことを、彼は古今東西の事例をあげて指摘している」と述べます。

 

 

「野生の思考」を生きる人びとにとって、植物を適当に植えるということはあり得えません。播種が行われるのは単なる畑ではなく、植物霊が集う聖地だからです。竹倉氏は、「一粒の小さな種が発芽し、伸長し、何倍もの数の種を実らせるのはまさに奇跡であって、精霊(生命力)の力と守護がなければ絶対に成就しない事業である。それゆえ播種にあたっては、植物の順調な活着と成長を精霊に祈願してさまざまな呪術的儀礼が行われる。古代人や未開人は『自然のままに』暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである」と述べます。

 

儀式論

儀式論

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2016/11/08
  • メディア: 単行本
 

 

このあたりは拙著『儀式論』(弘文堂)の第四章「呪術と儀式」で詳しく書きましたが、竹倉氏は「呪術が科学技術より優先する社会において重要なのは、儀礼を通じて、自分たちが資源利用する植物の精霊と円滑なコミュニケーションをとることである。とりわけその食用植物が自分たちの食生活の中心となっていたり、交換財としての価値が高い場合には、『植えっぱなし採りっぱなし』ということはあり得ない。播種の春には歓迎会が開催され、人間界へ来訪する精霊たちをご馳走と歌舞でもてなし(予祝儀礼)、収穫の秋にはふたたび宴席を設けて当該シーズンの精霊の事業を顕彰し(収穫儀礼)、翌年の来訪を約束して盛大な送別会が行われる。こうしたことからも、『植物を成長させる精霊』という観念と『それを祭祀する儀礼』という事象が、植物栽培によって生命を繫いできたわれらホモ・サピエンスにとっていかに普遍的なものであるかがわかるだろう」と述べます。

 

図説 金枝篇

図説 金枝篇

 

 

竹倉氏は、「フレイザーの『金枝篇』は、こうした植物霊祭祀の慣習と心性が、食用植物を重点的に資源利用するほぼすべての文化においてみられることを明らかにした人類学の古典なのである」と述べます。縄文時代にはすでに広範な食用植物の資源利用が存在していました。しかも地域によっては、トチノミなどの堅果類を“主食級”に利用していた社会集団があったこともすでに判明していることを指摘し、竹倉氏は「ということは、そうした植物利用にともなう儀礼が行われていたことは間違いないのであるが、なぜか縄文遺跡からは植物霊祭祀が継続的に行われた痕跡がまったくといっていいほど発見されていないのである。一方、それとは対照的に、動物霊の祭祀を行ったと思われる痕跡は多数見つかっている」と述べています。



ここで疑問が浮かびます。なぜ、最重要と思われる植物霊祭祀の痕跡は見つかっていないのか。これについて、竹倉氏は「植物霊祭祀の痕跡が見つかっていない」のではなく、本当はすでに見つかっているのに、われわれがそれに気づいていないだけだという可能性を示唆します。そして、「実はこれこそが私の見解なのだ。つまり、『縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない』というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される」と述べるのでした。


この竹倉氏の説には大いに納得。エーリッヒ・フォン・デニケンやグラハム・ハンコックといったトンデモさんたちが好む古代宇宙人説などよりも、フレイザーの『金枝篇』という古典中の古典からヒントを得て、人間は儀礼を必要とする存在であることを見事に解き明かしています。竹倉氏の著書『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』は早速、アマゾンで注文。東京五輪開催のための緊急事態宣言発出に気分が重くなっていたところ、古代のロマンに触れて、想像力の翼を伸ばすことができました。

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古代のロマン、大好物です! 

 

2021年4月25日 一条真也