上智大「唯葬論」講義

一条真也です。東京に来ています。
26日は昼から互助会保証株式会社の監査役会、続いて14時から取締役会が開催され、わたしも同社の社外監査役として参加しました。
その後、いったん赤坂見附のホテルに帰ってから、わたしは四谷の上智大学に向かいました。夜は、上智大学グリーフケア研究所の人材育成講座科目「グリーフケアと人間学」で連続講義を行うのです。


講義を行った6号館前で

上智グリーフケア研究所の島薗所長と



上智大学グリーフケア研究所といえば、以前は郄木慶子先生が所長を務めておられました。かつて、わたしはブログ『悲しんでいい』で郄木先生の著書を紹介しました。そして現在の所長は、宗教学者島薗進先生です。島薗先生の所長就任は2013年4月1日のことで、ブログ「島薗進先生からのメール」に書かせていただきました。さらには、ブログ「鎌田東二先生からのメール」に書いたように、昨年4月から「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生が上智大学グリーフケア研究所の特任教授に就任されました。わたしは、島薗・鎌田両先生との御縁で特別講義を担当することになったのです。今日は、特別講義を行う6号館の6階にある「ソフィア・サロン」で島薗先生と打ち合わせをしてから教室に向かいました。


冒頭、島薗所長から紹介を受けました

島薗所長のユーモアに笑みが浮かびました



18時から最初の講義を行いました。会場は、上智大学四谷キャンパスの6号館409教室。島薗所長の御挨拶の後、わたしを紹介していただきました。
連続講義の最初のテーマは「唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか〜」。
テキストとした『唯葬論』は、わたしのこれまでの活動の集大成となる本です。この本では、宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論という18の論考から「死」と「葬」の本質を求めました。


最初の講義のテーマは「唯葬論」

唯葬論』の全18章を紹介



わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、確かに埋葬という行為には人類の本質が隠されているといえるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。


さまざまな人間観を紹介しました

文明と文化の根底には「死者への想い」があった!



わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱しました。
結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっています。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考えます。


カタチにはチカラがある!



カタチにはチカラがあります。カタチとは儀式のことです。
わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、冠婚葬祭ほど凄いものはないと痛感することが多いです。というのも、冠婚葬祭というものがなかったら、人類はとうの昔に滅亡していたのではないかと思うのです。


「幽霊論」について



最期のセレモニーである葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供など大切な家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。


そして葬儀論へ・・・・・・



オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。
言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。
最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。よって、本書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。


「入館体験」について

パーソナル洞窟としての棺


わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。
つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。
そして、いま、超高齢社会を迎えた日本人には「人生を修める」という心構え、すなわち「修活」が必要とされています。


講義後の島薗所長とのトークタイム



葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。
もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。
葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。
葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのではないでしょうか。
講義後は島薗先生とのトークタイム、それから質疑応答を受けました。


さまざまな質問にお答えしました

禮鐘の儀」について話しました

最後は「禮鐘の儀」の動画を流しました



さまざまな質問をお受けしましたが、その中で「一条さんは、これからどのような儀式を創造しようとされているのですか?」という質問がありました。わたしは、その一例として、「禮鐘の儀」を紹介しました。葬儀での出棺の際に霊柩車のクラクションを鳴らさず、鐘の音で故人を送るセレモニーです。紫雲閣では、昨今の住宅事情や社会的背景を考慮し、出棺時に霊柩車のクラクションを鳴らすのではなく、禮の想いを込めた鐘の音による出棺を行っています。使用する鐘は、宗教に捉われない鰐口を使います。また、サンレー独自のオリジナル出棺作法として、3点鐘(3回叩く)による出棺とします。この3回というのは「感謝」「祈り」「癒し」の意味が込められています。
禮鐘の儀」には、みなさん多大な興味を示して下さいました。
こうして、わたしの連続講義の第一部は終わりました。



2017年7月26日 一条真也