昼神温泉

一条真也です。
サンレー北陸社員旅行の一行は、28日の夕方、昼神温泉に到着しました。宿は、昼神温泉を代表する名旅館の「湯多利の里 伊那華」です。


昼神温泉のようす

昼神温泉にて



昼神温泉は長野県下伊那郡阿智村にあります。
阿智村は長野県の西南部に位置した人口約6,700人の村で標高410mから2,191mの山間地に60の集落が点在しています。この「阿智」という地名は、平安初期に編纂された旧事本紀にも記述があり、また、延喜式にも東山道の道筋の中に阿智駅が載っています。ちなみに1573年(元亀4年)武田信玄が上洛途上で病に倒れ、本国である甲斐に帰陣できず、この村の駒場という場所で没したといわれています。


たくさんの旅館が並んでいます



昼神温泉観光局公式HPでは次にように紹介されています。
「信州の南に位置し、静かな山間の温泉郷です。
その歴史は古く、約250年前の古書にも記されているほどで、その後、温泉は埋もれてしまいましたが、昭和48年に、旧国鉄のトンネルの調査中に再発見されました。日本には数多くの温泉があり、何百年の歴史を誇るところも多々あります。その中では昼神温泉は新しい温泉であり、まだまだ知られていない温泉ではありますが、湯量は豊富で、確かな効能を誇る天然温泉は、南信州随一の温泉とまでなりました。
その昼神温泉の泉質はアルカリ性単純硫黄泉。ph値9.7のとろっとした肌触りで肌がつるつるになると評判です」


こんな露天風呂も!

あー、極楽、極楽♪



このように効能ある温泉ですが、「昼神」という名称が気になります。
「神」が付くからには由来を知りたいところです。昼神温泉観光局公式HPには2つの伝承が掲載されています。まず日本武尊についての伝説です。
「大昔の事です。日本武尊がご東征の帰り途、伊那谷を通って園原の神坂峠へさしかかったとき、山と山に閉ざされて空もせまく、雲が幾重にも包んで、越す方法も知れませんでした。さすがの尊もしばらく手を組んで思案にくれていましたが、その時、悪事をなさる神が尊を苦しめようとして白鹿に化けて尊の前に立ちふさがったのです。尊は不思議に思いながら、口に噛んでいた蒜を鹿に投げつけました。それがちょうど鹿の目に当たって、鹿は死んでしまいました。ところがたちまち濃霧が巻き起こって、一寸先も見えなくなった時、一匹の白狗が現れて道に迷う尊を里へ導いてくれたのです。これ以来、神坂越えには蒜を噛んで通ると妖気に打たれる事がないと言われるようになりました。このことから「蒜噛」が、現在の『昼神』の語源になったという説があります」


昼神温泉においでなんじょ!



そして、もう1つの伝承は、この地にある阿智神社の祭神である天八意思兼命 (あめのやごころおもいかねのみこと)にまつわるものです。
「阿智神社に祀られているのは天八意思兼命ですが、その天八意思兼命は、「天の岩戸」にお隠れになった天照大神(あまてらすおおみかみ)を、岩戸の中から導き出す方法を考えて指示し、世の中に再び昼の明るさを取り戻させた智恵の神として知られています。信濃国阿智の里は、この神が天降りた地である、といわれるところから「昼神」と呼ばれるようになったとも伝えられています。また天八意思兼命は、「ものさし」の元をつくったことから、智恵と学問の神としても崇敬されています」
それはともかく、知る人ぞ知る「美肌の湯」として評判の温泉を堪能してきました(微苦笑)。ちょっとは美男子になったかな(笑)?



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2015年10月28日 一条真也

妻籠宿

一条真也です。
わたしたちは馬籠宿を後にし、次に妻籠宿を訪れました。長野県木曽郡南木曽町にある妻籠宿は中山道42番目の宿場で隣接する馬籠宿と並び木曽路を代表する観光名所です。戦後、高度経済成長の過程で日本各地の伝統的な町並みが近代化していく中、景観保全活動に取り組み、1976年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


中山道妻籠宿入口

妻籠宿の説明板

案内板

さあ、妻籠宿へ!

妻籠宿へ至る細道

妻籠宿にたたずむ

妻籠宿を歩く

脇本陣の前で



妻籠観光協会公式HPには「歴史の面影を残す宿場町」として、「江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていました。中山道六十九次のうち江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として古くから賑わいをみせていました」と紹介されています。


妻籠宿本陣の前で

妻籠宿ふれあい

観光案内所

忠魂碑

光徳寺

妻籠宿のど真ん中に立つ



そして町並み保存の運動について次のように書かれています。
「時代が変り明治になり鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途をたどりました。やがて昭和になり経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している町並みが見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こったのです。妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、『売らない・貸さない・壊さない』という3原則をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な財産を後世に伝えているのです 」


久々にリラックスできました

山がとても綺麗でした

ユニークなズボン屋さん

背後に豊川稲荷が見えました

稲荷神社の上に広がる秋空

柿を見ると秋を感じます

各所に柿が吊るされていました

ヘチマも吊るされていました



こうした地域での取り組みによって、わたしたちは「日本の情緒」を観光によって体感できるのですね。もちろん、観光地として栄えるためには初期設定とアップデートが必要です。景観保全と環境客を満足させていくことは容易なことではありません。「不易流行」とは芭蕉の言葉ですが、木曽路の歴史をいまに伝える馬籠宿と妻籠宿を訪れて「守るべきものを守る」ことの意義について思いを馳せました。



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2015年10月28日 一条真也

島崎藤村記念館

一条真也です。
サンレー北陸社員旅行で中山道の馬籠宿を訪れました。
そこで、有名な「藤村記念館」に入りました。


藤村記念館の前で

入るとすぐ大きな木がありました



公式HPには以下のように施設の「設立趣意」が書かれています。
藤村記念館は明治・ 大正・昭和の三代にわたって活躍した文豪島崎藤村の出身地、木曽谷最南端の馬籠宿にある文学館です。
生家は明治28年の大火で焼失しましたが、昭和22年、『この地に地元出身の文豪を記念するものをつくろう』と考えた地元住民の勤労奉仕により、建築家谷口吉郎博士設計による藤村記念堂が建てられました。
25年博物館運営のための財団法人藤村記念郷設立。長野県内の児童、生徒、教員の寄付金を受け展示施設藤村記念文庫が完成。藤村の長男楠雄氏より五千点を超える資料の寄贈を受け、昭和27年より文学館として活動を開始し、30年には『島崎藤村宅跡』として県の史跡指定を受けました。
現在は、藤村記念堂、藤村の祖父母の隠居所、ふるさとの部屋(DVDコーナー)記念文庫(研究室)、第二文庫(企画展示室)、 第三文庫(常設展示室)の建物からなり、『嵐』『夜明け前』などの作品原稿、遺愛品、周辺資料、 明治大正詩書稀覯本コレクションなど約6千点を所蔵しています。 常設展示室には処女詩集『若菜集』から絶筆『東方の門』までを展示、 終焉の地、神奈川県大磯町の書斎を復元してあります。一巡すると藤村の生涯をたどることが出来ます」


館内のようす

藤村の銅像がありました

藤村の銅像

藤村の著書が売られていました

藤村記念館の小道で

藤村の生家跡に建てられています

島崎藤村記念館の庭園で



また公式HPには、「島崎藤村について」としてこう書かれています。
「明治5年(1872)3月25日(旧暦2月17日)、筑摩県馬籠村(後の長野県西筑摩郡神坂村、現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。
本名島崎春樹(しまざき はるき)。生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。父正樹、母ぬいの間の末子。
明治14年、9歳で学問のため上京、同郷の吉村家に寄宿しながら日本橋の泰明小学校に通う。明治学院普通科卒業。卒業後『女学雑誌』に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論『厭世詩家と女性』に感動し、翌年1月、雑誌『文学界』の創刊に参加。
明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。 『一葉舟』『夏草』と続刊、明治32年函館出身の秦冬子と結婚。長野県小諸義塾に赴任。第四詩集『落梅集』を刊行。『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。
詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、筆一本の小説家に転身した。続けて透谷らとの交遊を題材にした『春』、二大旧家の没落を描いた『家』などを出版、日本の自然主義文学を代表する作家となる。
明治43年、4人の幼い子供を残し妻死去。大正2年に渡仏、第一次世界大戦に遭遇し帰国。童話集『幼きものに』、小説『桜の実の熟する時』、『新生』、『嵐』、紀行文集『仏蘭西だより』『海へ』などを発表。
昭和3年、川越出身の加藤静子と再婚。昭和4年より10年まで「中央公論」に、父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説『夜明け前』を連載、歴史小説として高い評価を受ける。昭和10年、初代日本ペンクラブ会長に就任、翌年日本代表として南米アルゼンチンで開催された国際ペンクラブ大会に出席。昭和18年、大磯の自宅で、『東方の門』執筆中に倒れ、8月22日 71歳で逝去。大磯町地福寺に埋葬される。馬籠の菩提寺永昌寺には遺髪・遺爪が分葬される。毎年命日の8月22日には菩提寺である永昌寺にて、関係者らにより藤村忌が執り行われています」



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2015年10月28日 一条真也

馬籠宿

一条真也です。
サンレー北陸の社員旅行に参加しています。
1日目は金沢をバスで出発して北陸・東海北陸・中央自動車道を走り、中津川ICで降りました。中津川で昼食を取った後、馬籠宿を訪れました。


中山道馬籠宿にて

なかなか風情があります



馬籠宿は、岐阜県中津川市にある馬籠宿は中山道六十九次の43番目の宿場です。石畳の坂が特徴の宿場で、馬籠峠を越えた信州側の妻籠宿とともに人気のある観光スポットですね。宿場の面影が残る町並みには、お土産物屋も多く、一般の家でも宿場時代の屋号看板を掲げるなど、史蹟としての保全にも力を入れています。


木曽の地酒店の前で

江戸時代の雰囲気があります



中山道ですが、馬籠観光協会公式HPでは次のように紹介しています。
「慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、翌年東海道の整備を手始めに順次交通網の整備に着手し、幕府が管轄する道路を定めこれらの道路には多くの宿駅を定めた。中山道は江戸日本橋を起点とし京都まで132里(約530km)の道程で、ここには69の宿場が設けられていた。本州の中部山岳地帯を縦断し、木曽を通っていたことから別名を『木曽路』とも『木曽街道』とも呼ばれていた」


馬籠宿のようす

栗きんとんで有名な「川上屋」の前で

栗きんとんをいただく

抹茶をいただく


続いて馬籠観光協会公式HPには、次のように書かれています。
「始めは中仙道と書かれていたが、享保元年(1716)に、『東の海沿いの道を東海道というように、本州の中央を通る道だから中山道と書き改めるべきである』として、以後中山道と書かれるようになった。しかし『なかせんどう』と読まれた。
中山道東海道と共に江戸と京都を結ぶ大動脈であった。東海道の126里・53宿に比べて遠回りではあったが、東海道は大井川の川留めで旅の行く手を遮られたり、桑名一宮間の船旅で海難の危険が伴ったのに対し、中山道の旅にはこうした惧れがなかったことから、京都から江戸に向かう姫君たちはほとんど中山道を選んだ。しかし中山道も決して安全な道ばかりではなく、とりわけ馬籠宿と落合宿の間にある十曲峠は険しさで旅人をはばみ、木曽の桟(かけはし)は危険な箇所として恐れられていた」


水車の前で

水が冷たかった!

石畳を歩く



俳聖・松尾芭蕉も「かけはしや 命をからむ つたかづら」という句を残していますが、馬籠といえば島崎藤村です。藤村は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた馬籠の旧家に生まれています。藤村は『若菜集』などロマン主義詩人としてデビューし、その後、小説家に転じ『破戒』『春』などを発表します。自然主義作家として知られ、「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで有名な自身の父親をモデルとした歴史小説『夜明け前』は日本近代文学を代表する名作として知られています。藤村ゆかりの地である馬籠宿には、旧本陣であった島崎藤村生家跡に「島崎藤村記念館」もあります。


島崎藤村生誕の地



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2015年10月28日 一条真也