島崎藤村記念館

一条真也です。
サンレー北陸社員旅行で中山道の馬籠宿を訪れました。
そこで、有名な「藤村記念館」に入りました。


藤村記念館の前で

入るとすぐ大きな木がありました



公式HPには以下のように施設の「設立趣意」が書かれています。
藤村記念館は明治・ 大正・昭和の三代にわたって活躍した文豪島崎藤村の出身地、木曽谷最南端の馬籠宿にある文学館です。
生家は明治28年の大火で焼失しましたが、昭和22年、『この地に地元出身の文豪を記念するものをつくろう』と考えた地元住民の勤労奉仕により、建築家谷口吉郎博士設計による藤村記念堂が建てられました。
25年博物館運営のための財団法人藤村記念郷設立。長野県内の児童、生徒、教員の寄付金を受け展示施設藤村記念文庫が完成。藤村の長男楠雄氏より五千点を超える資料の寄贈を受け、昭和27年より文学館として活動を開始し、30年には『島崎藤村宅跡』として県の史跡指定を受けました。
現在は、藤村記念堂、藤村の祖父母の隠居所、ふるさとの部屋(DVDコーナー)記念文庫(研究室)、第二文庫(企画展示室)、 第三文庫(常設展示室)の建物からなり、『嵐』『夜明け前』などの作品原稿、遺愛品、周辺資料、 明治大正詩書稀覯本コレクションなど約6千点を所蔵しています。 常設展示室には処女詩集『若菜集』から絶筆『東方の門』までを展示、 終焉の地、神奈川県大磯町の書斎を復元してあります。一巡すると藤村の生涯をたどることが出来ます」


館内のようす

藤村の銅像がありました

藤村の銅像

藤村の著書が売られていました

藤村記念館の小道で

藤村の生家跡に建てられています

島崎藤村記念館の庭園で



また公式HPには、「島崎藤村について」としてこう書かれています。
「明治5年(1872)3月25日(旧暦2月17日)、筑摩県馬籠村(後の長野県西筑摩郡神坂村、現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。
本名島崎春樹(しまざき はるき)。生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。父正樹、母ぬいの間の末子。
明治14年、9歳で学問のため上京、同郷の吉村家に寄宿しながら日本橋の泰明小学校に通う。明治学院普通科卒業。卒業後『女学雑誌』に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論『厭世詩家と女性』に感動し、翌年1月、雑誌『文学界』の創刊に参加。
明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。 『一葉舟』『夏草』と続刊、明治32年函館出身の秦冬子と結婚。長野県小諸義塾に赴任。第四詩集『落梅集』を刊行。『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。
詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、筆一本の小説家に転身した。続けて透谷らとの交遊を題材にした『春』、二大旧家の没落を描いた『家』などを出版、日本の自然主義文学を代表する作家となる。
明治43年、4人の幼い子供を残し妻死去。大正2年に渡仏、第一次世界大戦に遭遇し帰国。童話集『幼きものに』、小説『桜の実の熟する時』、『新生』、『嵐』、紀行文集『仏蘭西だより』『海へ』などを発表。
昭和3年、川越出身の加藤静子と再婚。昭和4年より10年まで「中央公論」に、父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説『夜明け前』を連載、歴史小説として高い評価を受ける。昭和10年、初代日本ペンクラブ会長に就任、翌年日本代表として南米アルゼンチンで開催された国際ペンクラブ大会に出席。昭和18年、大磯の自宅で、『東方の門』執筆中に倒れ、8月22日 71歳で逝去。大磯町地福寺に埋葬される。馬籠の菩提寺永昌寺には遺髪・遺爪が分葬される。毎年命日の8月22日には菩提寺である永昌寺にて、関係者らにより藤村忌が執り行われています」



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年10月28日 一条真也