霊山歴史館

一条真也です。
ブログ「金戒光明寺」ブログ「建仁寺」で紹介した寺院を訪れた後、幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」に行きました。わたしは、ここに来るのは3回目です。前回の訪問のことは、ブログ「龍馬に会いました!」に書きました。以前は隣接する龍馬の墓参もしましたが、今回は時間がありません。


霊山歴史館にやってきました


同館公式HPの「霊山歴史館概要」には、次のように書かれています。
霊山歴史館は昭和45年(1970)に、全国ではじめて幕末・明治維新期の歴史を総合的にとらえて研究する専門博物館として京都に開館しました。幕末、京都は政治の中心地でしたが、この時代に活躍した志士、大名、天皇、公家のほか文人、画家などの遺墨や遺品、書状、各種資料・文献などを収集、調査、研究し、公開展示を行っています。
坂本龍馬中岡慎太郎西郷隆盛木戸孝允高杉晋作など倒幕派志士の遺品とともに、新選組徳川慶喜松平容保など幕府側に関する資料も数多くあり、倒幕・佐幕両派がともに活躍したこの地で幕末維新史を双方の視点から見ることができるという特色があります。
公開は5000点を超える収集資料から約100点を選んで展覧会を行っています。当館の運営は明治百年にあたる昭和43年(1968)に創設された霊山顕彰会(現・公益財団法人)のメイン事業として行われています」


松下幸之助銅像

「日本の心」を読むと、胸が熱くなります



霊山歴史館前の石碑には「館の理念」として、以下の言葉が刻まれています。
「近代日本を開化せしめた維新の志士の尊い精神を学び
この国の歴史と伝統に立ってあすの日本を考えるために
心をこめて若き人びとにおくる」
館内には、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助銅像が建っています。
彼こそは、霊山歴史館を建立した最大の功績者なのです。おそらくは彼の想いが込められているであろう「日本の心」を読むと、胸が熱くなってきます。


絵で見る幕末維新


霊山歴史館には、坂本龍馬をはじめ、幕末維新で活躍した人々の資料が多数展示されていますが、現在は「八重の桜」が満開といった状態です。2013年通年特別展として『幕末・維新を果敢に生きた新島八重心の支え「会津の武士道」第3期 戊辰戦争』が開催されているのです。


戊辰戦争」の特別展が開催中でした

八重の電子紙芝居



この特別展ですが、公式HPには以下のように書かれています。
「慶応4年(1868)1月3日、鳥羽の小枝橋付近で戦端が開かれた戊辰戦争京都守護職を務めた会津藩は、いやおうなく幕府軍の主力として戦争に巻き込まれていきます。そして8月23日、新政府軍は会津城下に侵入。藩主・松平容保以下、藩士たちは籠城戦に持ち込みます。新島八重は、鳥羽で戦死した弟・三郎の装束で男装し、元込め七連発のスペンサー銃で奮戦しますが、ひと月後の9月22日、会津藩はついに降伏、開城しました。
第3期では、初公開を含む豊富な資料で戊辰戦争をひも解きます。
また、好評の新島八重の資料も引き続き展示します」


龍馬の顔が怖いぜよ!

西郷どんに会えたでごわす! 



「日本のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた新島八重の生涯も興味深いですが、わたしとしては大好きな龍馬や西郷に再会できて嬉しかったでごわす!
毎回のことながら、ここに来ると、日本男児としての血潮がたぎるぜよ!
元気がない人は、ぜひ霊山歴史館を訪れるといいですよ。


孔子の木」の看板が・・・・・

孔子の木」はこちら・・・・・



見学を終えて霊山歴史館を出ると、なんと「孔子の木」という看板を発見!
孔子の木」の看板には次のように書かれていました。
「中国山東省にある孔子廟孔子のお墓)には、弟子が植えた孔子の木(楷の木)が大きく繁っています。
この孔子の木は孔子廟に植わっている木の種子から育てられた子孫です。
幕末志士は、孔子が始めた儒教などを学び、明治維新につなげました。
孔子の木は、志士たちゆかりの木だとも言えるでしょう」


これが「孔子の木」です!

由来を記した説明板に鳥のフンがヽ(´Д`;)ノアゥア...



もともと、山東省曲阜にある孔子墓所「孔林」に弟子の子貢が植えた櫂の木が代々植え継がれていることに由来します。また各地の孔子廟にも、楷の木が植えられています。時代を経るにしたがって中国では学問の聖木とされ、儒教の試験である科挙の進士に合格したものに櫂の笏を送ったそうです。わたしも、自宅の庭に孔子の木を植えたくなりました。でも、「孔子の木」の由来を説明した板には鳥のフンがこびりついていました。
鳥の糞害を見たわたしが、大いに憤慨したことは言うまでもありません。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年10月31日 一条真也

建仁寺

一条真也です。
ブログ「金戒光明寺」で紹介した浄土宗最初の寺院の後は、京都最古の禅寺の「建仁寺」を訪れました。建仁2年に開創された臨済宗建仁寺派大本山です。
本尊は釈迦如来、開山は栄西禅師、 開基は源頼家です。


建仁寺にやってきました

京都最古の禅寺です


建仁寺を訪れるのは初めてですが、わたしは前から一度来たいと思っていました。なぜなら、ここには国宝として有名な俵屋宗達の「風神雷神図」があるからです。また、「天使」こと書家の金澤翔子さんが揮毫された「風神雷神」の書があるからです。今日ようやく両作品と初対面しましたが、やはり凄い迫力でした。
心の底から感動しました。本当に、来て良かったです。


風神雷神図」(俵屋宗達)に感動しました

風神雷神」(金澤翔子)に感動しました


同寺HPの「建仁寺について」は、以下のように書かれています。
建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。ようやく天正年間(1573−1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります」


法堂天井画「双龍図」(小泉淳作筆)

天井の龍はまるで生きているようでした



建仁寺には、他にも法堂にある天井画「双龍図」(小泉淳作筆)が有名です。
天井に描かれた龍はまるで生きているようで、見上げた瞬間、わたしは息を呑みました。さらに、海北友松の襖絵などもあり、文化財が豊富に揃っています。
建仁寺文化財の数々については、「建仁寺ギャラリー」を御覧下さい。


池泉回遊式庭園も素晴らしかったです

やはり禅寺は心安らぎます



山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園がよく知られています。
また、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などを多数所蔵する両足院も有名です。
豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺建仁寺の末寺ですね。
寺号は「けんにんじ」と読みますが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれています。それにしても、このような凄い寺社が京都にはたくさんあるわけです。
延暦寺もあれば、知恩院もあれば、東西の本願寺もある。
金閣寺もあれば、銀閣寺もあれば、清水寺もある。
平安神宮もあれば、北野天満宮もあれば、伏見稲荷もある。
やはり、京都は日本最強の宗教都市であることを再確認しました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年10月31日 一条真也

金戒光明寺

サンレー 北陸の社員旅行で京都に来ています。
31日は、朝一番で「金戒光明寺」に行きました。
ここは、法然がはじめて草庵を営んだ地です。法然は15歳で比叡山に登りましたが、承安5年(1175年)、念仏の教えを広めるために、紫雲山の山頂の石の上で念仏を唱えました。ちょうど法然が43歳のときでしたが、そのとき、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵をむすんだのです。これが浄土宗最初の寺院となりました。


金戒光明寺にやってきました



同寺HPの「金戒光明寺について」には、「紫雲山・くろ谷 金戒光明寺」のタイトルで以下のように書かれています。
「浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結ばれたのが浄土宗最初の寺院 のはじまり。西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所、西10キロの小倉山を眺み山門、阿弥陀堂、本堂 など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。また、幕末京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった」


浄土宗最初の寺院です

「紫雲」といえば・・・・・



また、HPには「心に響く念仏」として、以下のように書かれています。
紫雲山つまり黒谷の岡は東の崖が険しく、西の傾斜に本坊から山内寺院、墓までが整然と建ちならぶ。とりわけ一万基をこえる墓碑はその殆んどが西向きで建てられている。なぜだろう?
答えは目を水平に西に向けると判然とする。
黒谷の西2キロに京都御所、更に西10キロ余で小倉山にたどりつく、ここは西山連峰中もっとも低い鞍部になる。彼岸の中日のころは真赤な夕陽が静かに沈むのが拝める京都盆地唯一の場所である。春秋の彼岸には夕日を拝んで仏を観る日想観をする人で埋めつくされ、口々に唱えるナムアミダブツの念仏の声は大きなうねりとなり、長い生命の中で生きる喜びの響きとなって京童たちもたくまざる演出に感動し、念仏を相続したものであった」


御影堂の前で


金戒光明寺の大殿は、「御影堂」といいます。
内陣の正面には、浄土宗の宗祖である法然上人75歳の御影(座像)を奉安しています。かつて御影堂は火災により焼失しましたが、昭和19年に再建されました。堂内の光線と音響には細部の注意がこらされており、昭和時代の模範建築物といわれているそうです。堂内は撮影禁止でしたが、入ってみると仏前結婚式を紹介したアルバムが置かれていて、興味深かったです。マリエールオークパイン金沢の女性スタッフたちも、みんな熱心にアルバムを見ていました。


ここは「新選組発祥の地」として知られます


金戒光明寺といえば、新選組と深い縁があります。というか、新選組の発祥の地として知られます。同寺HPの「会津藩と黒谷と新選組」には、「新選組発祥の地」というタイトルで次のように説明されています。
「幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久2年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
文久2年閏8月1日、會津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、十四代将軍徳川家茂から京都守護職正四位下に任ぜられた。役料五万石・金三万両を与えられた。會津藩は京都守護職に任命されるにあたり幾度か固辞をしたが、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)の「家訓(かきん)」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母田中土佐は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。これにより君臣一丸となり、會津藩松平容保は家臣一千名を率い文久2年12月24日午前9時頃京都三条大橋に到着、京都所司代京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた。この間、京の町衆も両側に人垣を作り大歓迎するのであった」


「八重の桜」も関係あります

江〜姫たちの戦国〜」とも関係あり



金戒光明寺は、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」をはじめ、「江〜姫たちの戦国」の舞台ともなりました。そもそも法然新選組のゆかりの地ですから、非常に強力な歴史ソフトを持っています。このような場所がたくさんあるわけですから、やはり京都は観光都市として最強ですね。



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2013年10月31日 佐久間庸和