金戒光明寺

サンレー 北陸の社員旅行で京都に来ています。
31日は、朝一番で「金戒光明寺」に行きました。
ここは、法然がはじめて草庵を営んだ地です。法然は15歳で比叡山に登りましたが、承安5年(1175年)、念仏の教えを広めるために、紫雲山の山頂の石の上で念仏を唱えました。ちょうど法然が43歳のときでしたが、そのとき、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵をむすんだのです。これが浄土宗最初の寺院となりました。


金戒光明寺にやってきました



同寺HPの「金戒光明寺について」には、「紫雲山・くろ谷 金戒光明寺」のタイトルで以下のように書かれています。
「浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結ばれたのが浄土宗最初の寺院 のはじまり。西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所、西10キロの小倉山を眺み山門、阿弥陀堂、本堂 など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。また、幕末京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった」


浄土宗最初の寺院です

「紫雲」といえば・・・・・



また、HPには「心に響く念仏」として、以下のように書かれています。
紫雲山つまり黒谷の岡は東の崖が険しく、西の傾斜に本坊から山内寺院、墓までが整然と建ちならぶ。とりわけ一万基をこえる墓碑はその殆んどが西向きで建てられている。なぜだろう?
答えは目を水平に西に向けると判然とする。
黒谷の西2キロに京都御所、更に西10キロ余で小倉山にたどりつく、ここは西山連峰中もっとも低い鞍部になる。彼岸の中日のころは真赤な夕陽が静かに沈むのが拝める京都盆地唯一の場所である。春秋の彼岸には夕日を拝んで仏を観る日想観をする人で埋めつくされ、口々に唱えるナムアミダブツの念仏の声は大きなうねりとなり、長い生命の中で生きる喜びの響きとなって京童たちもたくまざる演出に感動し、念仏を相続したものであった」


御影堂の前で


金戒光明寺の大殿は、「御影堂」といいます。
内陣の正面には、浄土宗の宗祖である法然上人75歳の御影(座像)を奉安しています。かつて御影堂は火災により焼失しましたが、昭和19年に再建されました。堂内の光線と音響には細部の注意がこらされており、昭和時代の模範建築物といわれているそうです。堂内は撮影禁止でしたが、入ってみると仏前結婚式を紹介したアルバムが置かれていて、興味深かったです。マリエールオークパイン金沢の女性スタッフたちも、みんな熱心にアルバムを見ていました。


ここは「新選組発祥の地」として知られます


金戒光明寺といえば、新選組と深い縁があります。というか、新選組の発祥の地として知られます。同寺HPの「会津藩と黒谷と新選組」には、「新選組発祥の地」というタイトルで次のように説明されています。
「幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久2年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
文久2年閏8月1日、會津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、十四代将軍徳川家茂から京都守護職正四位下に任ぜられた。役料五万石・金三万両を与えられた。會津藩は京都守護職に任命されるにあたり幾度か固辞をしたが、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)の「家訓(かきん)」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母田中土佐は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。これにより君臣一丸となり、會津藩松平容保は家臣一千名を率い文久2年12月24日午前9時頃京都三条大橋に到着、京都所司代京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた。この間、京の町衆も両側に人垣を作り大歓迎するのであった」


「八重の桜」も関係あります

江〜姫たちの戦国〜」とも関係あり



金戒光明寺は、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」をはじめ、「江〜姫たちの戦国」の舞台ともなりました。そもそも法然新選組のゆかりの地ですから、非常に強力な歴史ソフトを持っています。このような場所がたくさんあるわけですから、やはり京都は観光都市として最強ですね。



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2013年10月31日 佐久間庸和