長女の結婚式

一条真也です。
時の経つのは早いもので、ブログ「長女の結納」で紹介した昨年11月3日の結納式から7ヵ月が経ち、6月5日の11時から長女の結婚式が行われました。この日は朝から小雨ですが、雨の日の結婚式は新郎新婦の人生に幸運をもたらすと言われているそうです。場所は、松柏園ホテルの新館「ヴィラルーチェ」のチャペルです。


親子3人で入場


母と娘


父と娘


新郎と向き合う

 

新婦の父親であるわたしは、長女と腕を組んで入場しました。長女と腕を組んだことなんて初めてなので落ち着きませんでしたが、そのまま前に進んで、新郎とバトンタッチしました。そのとき、ブログ「そして、バトンは渡された」で紹介した映画のクライマックス・シーンが頭に浮かびました。「娘の結婚」をめぐる映画には、小津安二郎の「晩春」「麦秋」「秋日和」「彼岸花」「秋刀魚の味」などがあります。なんだか、それらの小津映画を観直したい気分になりました。


新婦は新郎のもとへ・・・


そして、バトンは渡された


ああ・・・・・・


結婚式のようす

 

結婚式は粛々と進んでいきました。仕事柄、数えきれないほどの多くの結婚式に立ち会ってきましたが、やはり自分の娘の結婚式となると格別です。さまざまな感情が心に湧いてきました。長女は、2013年1月13日に成人式を迎えましたが、あれから9年後に花嫁になりました。

毎日新聞」2013年2月8日朝刊

 

ブログ「すべての儀式は卒業式」で紹介したように、成人式の本質は卒業式に似ていると思います。というよりも、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないでしょうか。七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式。そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのです。 結婚式というものも、やはり卒業式でしょう。花嫁の父はなぜ涙を流すのか。それは、校長である父親は家庭という学校から卒業してゆく娘を愛しく思うからだと思います。

 

そして、葬儀は「人生の卒業式」です。 長女が成人式を迎えた年の正月、妻の父親、つまり義父が亡くなり、葬儀をあげました。家族を心から愛し続けた義父は、77年の人生を堂々と卒業していきました。わたしは、喪家の一員として葬儀に参列しながら、「死」はけっして不幸な出来事ではなく、人生を卒業することにほかならないのだとしみじみと思いました。義父が存命なら、きっと孫娘の結婚を心から祝ってくれたことでしょう。この日の結婚式には、わたしの父も参列してくれましたが、きっと目には見えなくても、義父も参列してくれているような気がしました。

 

 

感染防止への配慮から、この日の結婚式は親族のみの参加となりましたが、コロナ前なら友人や知人も参列してくれたことでしょう。この後の披露宴は、感染対策を万全にした上でみなさんも参列して下さいます。まさに、新郎新婦を取り巻く「縁」と「絆」が見える化される場となるわけで、わたしはかつて詠んだ「目に見えぬ 縁と絆を目に見せる 素晴らしきかな冠婚葬祭」という歌を思い出しました。最後に、花嫁になった長女に「麻佑、結婚おめでとう。どうか、二人で力を合わせて幸せになっておくれ」と言いたいです。


結婚式のようす


指輪の交換


ついに、この日が来ました


涙が止まらない・・・
麻佑、結婚おめでとう!

 

2022年6月5日 一条真也

最後の晩餐?

一条真也です。
いよいよ明日5日は、長女の結婚式&結婚披露宴です。何かと落ち着きませんが、前日となる4日は サンレーグループの役員会が開かれました。その夜は、松柏園ホテルの茶室で、最後の晩餐(笑)を取りました。といっても、相手は明日結婚する長女ではなく、妻でもありません。


カンパ~イ!

 

明日の結婚披露宴に御列席いただくために小倉にお越しになられた東京大学名誉教授の島薗進先生、京都大学名誉教授の鎌田東二先生、それから「出版寅さん」こと内海準二さんと4人での会食です。内海さんとはよく東京で打ち合わせしますが、両先生にお会いするのは、ブログ「グリーフケア最終講義」で紹介した今年3月11日以来です。この日は、仕事の打ち合わせの後、久々にグリーフケアのこと、神道のこと、マルチバースのこと、その他もろもろについて大いに語り合いました。


鎌田先生(左)と島薗先生(右)

 

島薗先生、鎌田先生、わたしの3人は、『グリーフケアの時代』(弘文堂)という共著を出しましたが、そのプロデュース&編集を担当したのが内海さんでした。最近は、島薗先生が『教養としての神道』(東洋経済新報社)、鎌田先生が『教科書で教えない世界神話の中の『古事記』『日本書紀』入門』(ビジネス社)、わたしが『論語と冠婚葬祭』(現代書林)といったように、それぞれが憑き物が落ちたように(笑)自分の専門分野に関する果敢で意欲的な著作を世に問うています。この日は、それぞれの著作内容についても忌憚のない感想を述べ合い、今後の活動についても活発に意見交換させていただきました。

 

 

論語と冠婚葬祭』には「儒教と日本人」というサブタイトルがついていますが、続編として「神道と日本人」を予定しており、鎌田先生と対談させていただきます。いずれは、「ケアと日本人」をテーマに島薗先生とも対談させていただきたいものです。人生の師でもある両先生、「天下布礼」の同志である内海さんとの会食は、さまざまな話題で盛り上がりました。途中、長女と妻が挨拶に訪れるという場面もあり、記念撮影をさせていただきました。まことに、この上なくハートフルな時間となりました。

長女と妻を囲んで

 

2022年6月4日 一条真也

『思いがけず利他』

一条真也です。
125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」の最新号が出ました。同紙に連載中の「ハートフル・ブックス」の第169回分が掲載されています。今回は、『思いがけず利他』中島岳志著(ミシマ社)を取り上げました。

サンデー新聞」2022年6月4日号

 

最近、「ケア」について考え、サービス業をケア業へと進化させる方法を模索しています。そんな中、本書を読んだのですが、「利他」が「ケア」に通じることを確認しました。東京工業大学で「利他プロジェクト」を立ち上げた著者は、1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。

 

「はじめに」の冒頭を、著者は「コロナ危機によって『利他』への関心が高まっています。マスクをすること、行動を自粛すること、ステイホームすること――。これらは自分がコロナウィルスにかからないための防御策である以上に、自分が無症状のまま感染している可能性を踏まえて、他者に感染を広めないための行為でもあります」と書きだします。

 

いまの自分の体力に自信があり、感染しても大丈夫と思っても、街角ですれ違う人の中には、疾患を抱えている人が大勢いるだろうとして、著者は「恐怖心を抱きながらも、電車に乗って病院に検診に通う妊婦もいる。通院が不可欠な高齢者もいます。一人暮らしの高齢者は、自分で買い物にも行かなければなりません。感染すると命にかかわる人たちとの協同で成り立っている社会の一員として、自分は利己的な振る舞いをしていていいのか」ということが各人に問われるといいます。

 

著者いわく、人間が自身の限界や悪に気づいたとき、「他力」がやって来ます。「他力本願」というと、「他人まかせ」という意味で使われますが、浄土教における「他力」とは、「他人の力」ではなく、「阿弥陀仏の力」です。「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではなく、大切なのは、自力の限りを尽くすことです。 

 

自力で頑張れるだけ頑張ってみると、わたしたちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。そして、自己の絶対的な無力に出会うとして、著者は「重要なのはその瞬間です。有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。そのことを深く認識したとき、『他力』が働くのです」と述べています。それが大切なものを入手する偶然の瞬間です。

 

重要なのは、わたしたちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできませんが、偶然が宿る器になることは可能です。そして、この器にやって来るものが「利他」であるというのです。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めるのではないでしょうか。

 



2022年6月4日 一条真也

『ウルトラマンの伝言』 

ウルトラマンの伝言 日本人の守るべき神話 (PHP新書)

 

一条真也です。
ウルトラマンの伝言』倉山満著(PHP新書)を読みました。サブタイトルは「日本人の守るべき神話」です。著者は1973年、香川県生まれ。皇室史学者。1996年、中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤研究員として、2015年まで同大学で日本国憲法を教えました。12年、コンテンツ配信サービス「倉山塾」を開講、翌年に「チャンネルくらら」を開局。20年6月に一般社団法人救国シンクタンクを設立し、理事長・所長に就任。

本書の帯

 

本書の帯には、「ウルトラマンの『見せない演出』の行間にある〈現実〉への、瞠目の一冊である」という切通理作氏(文化批評)の推薦の言葉が紹介され、「過酷な現実を生きる勇気――皇室史学者が国民のヒーローと向き合う会心作」と書かれています。


アマゾン「出版社より」

 

カバー前そでには、「君は強大な敵に、いかにして立ち向かうか? 日本は、巨大な力に苦しめられ続けてきた。闇に怯え、打ちひしがれ、夢や希望を無くしている時代だからこそ、民族の神話が必要なのではないか。本書は、過酷な現実を生きていくために、架空の物語からの伝言を読み解く書である。現実世界にウルトラマンはいない。だから、ウルトラマンを知らねばならない。そして、日本人としてウルトラマンを語ることに意義があるのではないか――。文明と狂気の世界を描き、そして神話へと至る『ウェストファリア体制』『ウッドロー・ウィルソン』に続く著者の三部作、ここに堂々完結」と書かれています。

本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
はじめに――過酷な現実にこそ神話を
序章 円谷英二
       『ゴジラ』と『ウルトラQ

     ──神話の創造
第一章 ウルトラマン
     ──異端を受け容れる正統
第二章 ウルトラセブン
     ──軍神の記憶
第三章 帰ってきたウルトラマン
     ──なぜ日本は敗戦国のままなのか
第四章 ウルトラマンエース
     ──史上最も成功した「失敗作」
第五章 ウルトラマンタロウ
     ──本格派だが異色作
第六章 ウルトラマンレオ
     ──たった1人でもお前を欲している間は死ねない
第七章 ウルトラマン80
   ──日本「特撮」の金字塔
第八章 ウルトラマンメビウス
     ──歴史の完結と新たな神話の創造
終章    なぜウルトラマン
      自分の星でもない

      地球のために戦ってくれたのか
おわりに――明日のエースは君だ

 

 

「はじめに――過酷な現実にこそ神話を」の冒頭を、著者は「本書は三部作の完結編である」と書きだしています。PHP新書・三部作の一作目は、『ウェストファリア体制 天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法』でした。「いまこそ人類は17世紀の思想に立ち返れ!」と訴えた本で、日本人を取り巻く「野蛮な東アジア」のなかで戦争と平和の均衡をどう保ち、生き延びるを考察しています。「国」という概念すらない16世紀に生まれながら、「戦争にも掟(ルール)がある」という英知を著す信じ難い学者がいました。その名もフーゴー・グロティウス。彼の思想はのちにウェストファリア体制として実り、国際法の原型となりました。同書は、天才グロティウスが混沌のなかに見出した「法」をわかりやすく読み解いています。

 

 

三部作の二作目は、『ウッドロー・ウィルソン 全世界を不幸にした大悪魔』でした。著者は、平和の伝道師のごとく語られるウッドロー・ウィルソンの正体は「大悪魔」だったと訴えます。自由主義・民主主義・国際主義による政治体制の変革を自国の使命と考える「ウィルソン主義」の提唱者として、第28代アメリカ大統領は「偉人」と見られています。しかし、「神の恩寵のしるしが現われはじめた」弁論部員時代からメキシコ、ハイチなど弱い者いじめを重ねた大統領一期目、無理難題を突き付けてドイツ、イギリスをキレさせた第一次世界大戦。従来の国際秩序を全否定し、思うように世界を改変しようとした十四カ条の平和原則。全世界を不幸に陥れたパリ講和会議。自らを神と一体化させ、地球上に災いを呼んだ男の狂気が次々と明らかになります。


本書より

 

そして、三部作の三作目が本書です。著者は、「言うまでもなく、ウルトラマンは日本を代表するヒーローである。この『ヒーロー』をどう訳すか。『英雄』『人気者』『神のように頼れる存在』・・・・・・等々。1967年5月14日日曜日、昭和天皇の御代、42年目である。齢7歳。翌日の新聞記事には『浩宮さま、初めてデパートへ』との見出しがある。学習院初等科2年生の浩宮殿下が、日本橋髙島屋で『怪獣図鑑』を手に取る姿がテレビで生中継された。全国の母親の中には前年からの怪獣ブームに抵抗を感じる者もまだ残っていたが、このニュースで障害は最終的に取り除かれた。今上陛下の幼き頃の文化的功績と言えば、大仰だろうか。ちなみに、特撮テレビ『ウルトラQ』と続く『ウルトラマン』は1966年が放映開始だ。当時、陛下は小学1年生。いわゆる「ウルトラマン世代」である」と述べています。


序章「円谷英二と『ゴジラ』と『ウルトラQ』――神話の創造――」の「円谷英二――神話の創造主」の冒頭を、著者は「ウルトラマンを現代の『神話』とするならば、“創造主”は円谷英二である。事実、英二は生前から『特撮の神さま』と崇められた。円谷英二は1901年7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現須賀川市)に生まれた。本名は英一。昭和天皇と同い年である」と書きだしています。1933年、彼のその後の人生を決定づける出会いがありました。アメリカの特殊効果撮影映画『キング・コング』です。当時の特撮映画世界の頂点『キング・コング』に衝撃を受けた英二は、そのフィルムを取り寄せ、1コマ1コマ分析し、研究したといいいます。


英二が日本一の特殊撮影技師として脚光を浴びたのが1942年、41歳のときでした。特殊撮影のカメラマンとして関わった、真珠湾攻撃1周年記念の国策映画『ハワイ・マレー沖海戦』でした。著者は、「国策映画であるにもかかわらず、海軍は制作に非協力的であった。そんな海軍が提供した、たった1枚の写真から真珠湾攻撃を再現してみせたとの伝説が生まれた。当時、記録映画かと誤解されたほどだった。戦時中のそうした戦意高揚のための映画で大評判を得た英二は、戦後には公職追放の憂き目に遭う。英二その人は、別に政治的ポリシーはなく、いわゆるノンポリであった」と書いています。『キング・コング』のような映画を日本でも作りたいという英二の願いと、特撮映像を活かした新しい作品を模索する東宝の思惑のもとに、生み出されたのが『ゴジラ』でした。特殊技術を駆使した『ゴジラ』は1954年11月に公開され、大ヒットを記録しました。


ゴジラ』は日本特撮映画においては別格であり、ひいては文化史上においての金字塔ですが、配給当時は批評家から「特攻隊賛美」と酷評されました。新聞その他の論評でも、特撮には甘く本編には辛かったようです。著者は、「大人に不評だった原因は、『ゴジラ』が特攻隊賛美と言われるように、戦争の記憶を思い出させる作品だったからである」と述べています。ちょうど、太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁アメリカによる水爆実験が4度行われ、日本の漁船・第五福竜丸をはじめ1000隻以上の船が被爆しました。ゴジラは幾度の水爆実験で古代からの眠りを覚まされたという設定で、東京湾を荒らしまくります。著者は、「米軍に空襲されて10年も経っていないのだ。いやがおうでも、戦争の記憶を思い出させられる。そしてゴジラを倒すシーンは、特攻隊そのものである」と述べるのでした。


「『ウルトラQ』――テレビで映画を流す!」では、映画『ゴジラ』と続編は大ヒット、円谷英二の特殊技術は手放しで賛美されたことが紹介されます。英二に「特技監督」の名称が与えられたのは、1955年公開の第2作『ゴジラの逆襲』においてでした。著者は、「英二は特技監督としてゴジラの映画以外にも多くの特撮映画を撮っている。たとえば、1959年に、東宝の制作1000本記念として『日本誕生』が作られた。『古事記』『日本書紀』に書かれる日本武尊を主人公とする物語で、三船敏郎日本武尊を演じた。他にも『白夫人の妖恋』『空の大怪獣 ラドン』『地球防衛軍』『美女と液体人間』『宇宙大戦争』『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』『ガス人間第1号』などなど」と述べています。


わたしが生まれた年の1963年に設立された円谷プロは、円谷英二の特撮映画をテレビで流すことに挑戦しました。それが、1966年にTBSで放映された『ウルトラQ』です。第1話「ゴメスを倒せ!」に登場する怪獣ゴメスは、映画でのゴジラの着ぐるみを使ったことで知られています。「設定――ケムール人とラゴンがつなぐ世界観」では、『ウルトラQ』の第19話「2020の挑戦」に登場するケムール人と、第20話「海底原人ラゴン」のラゴンは、後番組の『ウルトラマン』に登場することを紹介し、著者は「これにより、『ウルトラQ』と『ウルトラマン』は同じ世界観になっている。もともと両作品はまったくの別作品だったのだが、同一世界の設定となった。今に至るまで『ウルトラシリーズ』と呼ばれる」と述べます。


このようにウルトラシリーズの世界観は明確なわけですが、著者は「1979年に初放映のアニメ『機動戦士ガンダム』以降は、子供番組でも最初から詳細な設定を構築していくのが主流となっている。また、そうした設定の精密さが作品の完成度として評価される傾向もある。世界観が明確な作品が高く評価されるのは当然であろう」と述べています。また、「復興の時代、戦争の記憶」では、『ウルトラQ』には、ハッピーエンドか否かよくわからない、解決しない話ばかりであり、しかも意図的に解決しない話になっていることを指摘し、著者は高度経済成長期、日本人が健全な娯楽を求め、作り手はそれに忠実に答えた。そして、作品にメッセージを込めた。『ウルトラQ』は30分のテレビ番組でありながら、精巧な特撮と映画のような作りこみ方で、世界観を提示した作品となった。こうして『神話』が、はじまった」と述べるのでした。


第一章「ウルトラマン――異端を受け容れる正統――」の「史上初の変身巨大ヒーロー」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「『ウルトラQ』は人気絶頂のまま、『ウルトラマン』へと続いた。「白黒特撮テレビ映画」で成功したTBSと円谷プロは、「カラー特撮テレビ映画」に挑む。作品の主軸には、怪獣を据えた。『ウルトラQ』が放送されると、人気が出たのは怪獣だった。カネゴン、ガラモン、ぺギラ、パゴス・・・・・・魅力的な個性は視聴者を熱狂させた。怪獣ブームは絶頂を迎える。さらに『ウルトラマン』では、人間が変身して怪獣と戦う巨大ヒーローが登場した。それまで、『ゴジラ』も『ウルトラQ』も『怪獣対人間』の作品だったから、変身する巨大ヒーローは画期的だった」と述べています。


ウルトラマンは、人間が変身して巨大化して怪獣と戦うヒーローです。著者は、「それまでのヒーローでたとえるなら、ゴジラキング・コングのような怪獣と戦う巨大スーパーマンか。ただそれだけではない。変身とフォルムも、ウルトラマンはそれまでのヒーローと大きく違う。アメリカの『スーパーマン』は、人間クラーク・ケントの顔をしたまま戦う。日本では『スーパージャイアンツ』(1957~59年放映)のヒーローがスーパーマンと同じように人間の顔のまま戦っていた」と述べます。ウルトラマンは、彫刻家でありデザイナーである成田亨によってデザインされました。成田によれば、仏像とギリシャ彫刻をアウフヘーベンする、すなわち、それぞれの要素を取り入れて発展させたのがウルトラマンであるといいます。著者は、「『ウルトラマン』以降、ヒーローは変身し、人間の顔を見せずに戦うのが主流となる。東映作品では悪役が顔を見せるのとは対照的に、仮面ライダースーパー戦隊でも、ヒーローは変身後は素顔を見せない」と述べています。


デザイナー成田亨ウルトラマンで、唯一、良しとしなかったのがカラータイマーでした。カラータイマーは、赤く点滅して、ウルトラマンのエネルギーの消耗を知らせる丸いランプですが、著者は「成田のデザインではカラータイマーはなかった。しかし、地球上では3分しかエネルギーがもたないウルトラマンの特撮シーンを、3分で終わらせなければならない演出上の事情もあって、成田が不承不承妥協した。それが、胸に突起した状態で付与されたカラータイマーである。のち『平成ウルトラマン』と呼ばれるシリーズのウルトラマンは全員、カラータイマーは埋め込まれている。さらに、庵野秀明が企画し、脚本を担当する令和の『シン・ウルトラマン』では、カラータイマーがはずされたデザインだ」と述べます。


今にして思えば、『ウルトラマン』は「タイトル勝ち」だったと言えるとして、著者は「前作が『ウルトラQ』で、しかも巨大なスーパーマンだから『ウルトラマン』である。さらに、主人公の『キャラ立ち』にも成功している。身長40メートルの巨大ヒーロー。3分間で人間がいかなる科学力を駆使してもかなわない巨大怪獣をスペシウム光線でやっつける・・・・・・。設定がわかりやすい。ウルトラマンの代表的な必殺技はスペシウム光線である。スペシウムとは、監督の飯島敏弘が考案した、架空の物質である。垂直にした右手と、水平にした左手をクロスさせて放たれる。そして、単なるクロスではなく、右手のプラスエネルギーと、左手のマイナスエネルギーから生み出される」と述べています。


「リアルさを捨ててでも子供に残虐描写は見せない」では、変身する巨大ヒーローが、毎回、巨大怪獣と戦うというコンセプトが決まったものの、単なる怪獣殺しの話にはしないと決めたことが紹介されます。著者は、「メインライター金城哲夫は固く心がける。加えて、監修の円谷英二、並びにメイン監督円谷一によって、『子供に残虐描写は見せるな』との方針も徹底された。その方針『ウルトラマン』の最終回、最強怪獣ゼットンとの戦いでも貫かれている。ゼットンの攻撃を受け、ウルトラマンが前のめりに倒れてしまう。しかし、次に映し出されたのは、ウルトラマンが仰向けに倒れている姿であった。矛盾するシーンのつながりに、編集の失敗だと指摘できる」と述べます。


しかし、これは編集の失敗ではありませんでした。実は、2つのシーンの間にあった場面を意図的にカットした編集の結果だったのです。カットされた場面とは、ゼットンウルトラマンの死体を蹴り飛ばすシーンだったのです。著者は、「残虐描写を見せない『ウルトラマン』は、能や歌舞伎の世界である。そのままを見せない想像力に訴える描き方であり、動きをそのまま再現しなくとも、想像力を働かせばわかる世界である。『機動戦士ガンダム』は、人間が残虐に殺されているわけではないが、人間型のロボットが残虐に破壊される描写が多い。人体を傷つける描写を回避して戦場の悲惨さを伝える、巧妙な表現である」


一方、最近のアニメは残虐描写を見せるのに躊躇しないとして、著者は「怪物が人間を食するシーンをリアルに描く『進撃の巨人』はその典型であろう。『エヴァンゲリオン』『鬼滅の刃』も然り。ある種の型により見る者に想像力を働かせるのと、そのままリアルに見せるのと、どちらが優れた表現技法か。たとえるなら、今や古典となった特撮が歌舞伎なら、想像力抜きでそのままを見せている日本のマンガやアニメは、中国雑伎団か。歌舞伎の宙乗りと、中国雑伎団の演武を比較しても意味がないとも言えるが、いずれにしてもどちらが優れているというより、違うものであると解釈するのが妥当だろう」と述べるのでした。



ウルトラマンと政治――バルタン星人は人間の影」では、人間が光を浴びて進化した姿がウルトラマンであり、人間が科学を悪用し邪悪になってしまった姿がバルタン星人であると指摘し、著者は「そのバルタン星人を『子分の1人』と言い放ったメフィラス星人は手強い相手だった。作品中でウルトラマンと引き分け、倒されることなく帰還した。地球侵略を狙うメフィラス星人の手口は、インディアンから土地を奪ったアメリカ人そのものである。メフィラス星人は、最も純情な年齢にあるサトル少年を選んで『どうだね? この私に、たったひと言“地球をあなたにあげましょう”と言ってくれないかね』と語りかける」と述べています。



メフィラス星人は友好的な口調で話しますが、一方で、バルタン星人、ザラブ星人、ケムール人を巨大化させて見せ、「バルタンもザラブもケムール人も、みんな私の命令で地球を攻撃することができる」と、有無を言わせぬ態度で脅してきます。著者は、「腕力には自信があるので実力行使も辞さないが、大人しく従うなら穏便に奴隷にするといった態度である。軍事力を使う直接侵略だけでなく、それ以外の方法による間接侵略である。間接侵略の要諦は、心を支配してしまうことだ。メフィラス星人は人間の心に忍び寄った。しかし、地球人は撥ねつけた。間接侵略されていなかったからだ。この時は」と述べます。

 

ゼットンが登場する最終回「さらばウルトラマン」の脚本はメインライターの金城哲夫でした。最初の脚本では、ゾフィーゼットンを倒す予定でしたが、地球人の自主防衛の話に変更しました。著者は、「『ウルトラマン』の最終回が放送されたのは1967年4月9日。折しも小笠原諸島の日本復帰に向けての交渉がなされているときであり、当時の日本政府は、沖縄返還も持ち掛けていた。金城の、『自分たちが弱いからこんな目に遭うのではないか』との思いが、『ウルトラマン』の終わり方に現れた。『ウルトラマン』が始まる前、岸信介内閣が1960年に締結した日米安保条約は、事実として日本の自主防衛を前提にしていた。高い視聴率に乗じて、『ウルトラマン』にそうした政治的メッセージを入れていたのではないかとの見方をする人もいる」と述べるのでした。


第二章「ウルトラセブン――軍神の記憶――」では、『ウルトラQ』『ウルトラマン』に続く「ウルトラシリーズ」第三弾の『ウルトラセブン』が取り上げられます。「孤高の作品」では、制作当時の『ウルトラセブン』は完全に孤立している作品であるにもかかわらず、雑誌展開する中で同じ1つの話にされていったとして、著者は「『ウルトラマンウルトラセブンの怪獣えほん』(大伴昌司監修・構成、講談社、1970年)や『怪獣ウルトラ図鑑』(大伴昌司、秋田書店、1968年)などに見られるように、ウルトラ怪獣ウルトラセブンの宇宙人が同時に掲載される影響もあって、当時の子供たちは、『ウルトラセブン』と『ウルトラマン』は1つの世界観であると理解していた」と述べています。


「テーマは宇宙人の侵略」では、著者は「『ウルトラセブン』はどんな作品なのか。テーマは『宇宙人の侵略』ある。怪獣には意思がないが、宇宙人には意思がある。自然現象である怪獣には災害対策だが、宇宙人とは意思がある闘争である。『ウルトラセブン』全49話のうち、宇宙人が登場しないのは、2回。怪獣だけが登場するのが、第26話『兵器R1号』だけ。この回の殺伐さは後述する。他に第31話『悪魔の住む花』では、宇宙細菌ダリーが登場するだけで、やはり宇宙人は登場しない。この2話を除いて全話に宇宙人が登場し、地球人と抗争する」と述べています。ちなみに、わたしは日本のすべての特撮ドラマの中で『ウルトラセブン』が一番好きです。


俗説では、ウルトラセブンとは「アメリカ第七艦隊」の意味だと言われました。本当はウルトラ警備隊の「七番目の隊員」という意味ですが、脚本家の市川森一が「ウルトラセブンは第七艦隊」と広めてしまったようです。のちに、市川はNHKのテレビ番組「私が愛したウルトラセブン」のシナリオを書きましたが、劇中で金城哲夫に「ウルトラセブンは第七艦隊に見える」と言わせています。第17話「地底GO!GO!GO!」は同じく沖縄出身の上原正三の脚本ですが、自らを犠牲にして仲間を救おうとした青年の名前を敢えて「薩摩」としたことを紹介し、著者は「沖縄人・上原の『日本人になりたくて仕方がない』思いの発露だ。沖縄人でも鹿児島人でもなく『日本国民』とするのが、国民国家の思想だ。沖縄人の上原が理想の人物に『薩摩』と名付けたのは、国民国家への憧憬だ」と述べます。



この17話には、宇宙人なのか地底人なのか、よくわからないロボットのような敵が登場します。ユートムと呼ばれるその敵は地下都市を築いていました。著者は、「ダンとソガが地底に迷い込み、ユートムと戦闘になる。ユートムは地球人の敵で、侵略しようとしているに違いないと、ソガが地底都市ごと爆破する。地上に戻ったソガ隊員が敵の地底基地を爆破してきたと報告すると、キリヤマ隊長は笑顔で迎えるのみ。まさに“疑わしきは、決めつけて滅ぼせ”、である。なお、戦時国際法では『疑わしきは殺せ』が鉄則である。なぜなら、そうしなければ、自分が殺され、時に祖国が滅ぼされるかもしれないからだ。『ウルトラセブン』は、戦争のリアルを描いていた」と述べます。


ウルトラセブンが地球上で人間として過ごすための仮の姿がモロボシ・ダンです。地球人の青年・薩摩次郎が仲間を助けるために自分のザイルを切って崖に転落したところを助けたセブンが、この勇敢な行動に心を打たれて彼の魂と姿をモデルにしたのです。地球ではダンの姿で過ごしており、セブンとしての能力が必要な場合は本来の姿に戻る。その際、ゴーグル状のアイテムウルトラアイを着眼して変身します。著者は、「ウルトラセブンは人間モロボシ・ダンとして生きている。全く同一の人格である。この点が、ウルトラマンとハヤタが異なる2つの人格が1つの肉体に存在していたのとは、大きく異なっている。ウルトラセブンは宇宙人としての正体を隠し、モロボシ・ダンの名を借りて地球人として過ごしている。地球人と宇宙人の『恒星間戦争』にあって、『なぜ地球人の側に立って戦うのか』との悩みに直面してしまうのである」と述べます。



「ペガッサ星人の悲劇――野蛮な地球人」では、神話であったはずの『ウルトラセブン』は、「ウェストファリア体制」という現実の国際社会と同じ状況となると指摘し、著者は「『ウェストファリア体制』とは、主権国家ならば国家どうしは対等だとの考えである。『ウェストファリア体制』は、『ウルトラマン』には存在しない思考だった。『ウルトラマン』では、白人が有色人種を人間とは考えず、植民地にしていったのと同じように、人間を人間とは思わない宇宙人が登場するだけであった。ところが、『ウルトラセブン』では、地球はペガッサシティやキュラソ星と外交関係を持つ。主権国家ならば国家どうしは対等だと考える『ウェストファリア体制』になってしまった。そうなれば、地球人側に味方し、宇宙人と戦うウルトラセブンの立場は何なのか。超越した神ではない。一方に加担する当事者だ」と述べています。



「ノンマルトの悲劇――我々の勝利だ! 海底も我々人間のものだ!」では、地球人が実は侵略者であったという衝撃的な第42話「ノンマルトの使者」が取り上げられます。『ウルトラセブン』全話の中でも最大の問題作とされる作品ですが、この中でウルトラ警備隊のキリヤマ隊長は、地球の先住者たちが住むノンマルトの海底都市に乗り込んでいきます。著者は「宇宙人の侵略基地なら放置するわけにはいかない。一瞬、『我々人間より先に地球人がいたなんて』と躊躇する。その2秒後『そんなバカな。やっぱり攻撃だ』と、海底都市にミサイルを何発も撃ち込んで破壊した」と説明します。



キリヤマはたった2秒で疑問も苦悩も振り払い、任務だからとノンマルトを全滅させ、「我々の勝利だ。海底も我々人間のものだ。これで、再び海底開発の邪魔をするものはいないだろう」と高らかに宣言したのでした。著者は、「キリヤマの所業に、この時代の日本人は誰でも『鬼畜ルメイ』を思い出す。日米戦争末期、敗色濃厚の日本に対し、民間人殺戮をもいとわない無差別都市爆撃を立案・実行した人物だ。ノンマルトは『戦わない人たち』を意味する。ラテン語の軍神を意味する言葉『マルス』に否定の『ノン』を冠して『ノンマルト』である。『ノンマルトの使者』は、沖縄に帰るのを決めていた金城が、最終回の前に書いた作品であった」と述べるのでした。


第三章「帰ってきたウルトラマン――なぜ日本は敗戦国のままなのか」では、「ウルトラシリーズ」第四弾『帰ってきたウルトラマン』が始まった翌日に放送開始された『仮面ライダー』の企画に『ウルトラセブン』で脚本を書いた市川森一が関わったことが紹介されます。市川は『仮面ライダー』でヒーロー・ドラマの定番コピーである「正義の味方」という言葉を決して使いませんでした。著者は、「1969年は学生運動が終わるきっかけとなった、全共闘による東大安田講堂事件などの記憶が生々しく残っているときだった。当局側も学生側もどちらも自分たちこそが正義だと言う。市川にとっては、どちらも全然正義ではない。“正義”などの言葉は全く空しい」と述べています。


仮面ライダーについて、著者は「仮面ライダーは、ナレーションのフレーズどおり、『人間の自由を守るために戦う』のである。そして『仮面ライダー』における悪の組織ショッカーは、『人間の自由を犯すもの』と設定されている。人間にとって最も大事な自由を侵すから、悪なのだ。ただし、こうした暗い設定では人気が出ず、第13話で路線変更してしまう。仮面ライダーを演じた藤岡弘がケガを負ってしまい、主演交代を余儀なくされ、ライダー2号が第14話から登場する。ライダー2号の登場とともに、内容も人間の苦悩などは全く描かれず、完全に子供番組として作られる。その効果は視聴率に現れた」と述べています。


帰ってきたウルトラマン』といえば、現在、マクドナルドの「帰ってきたチキンタツタ」のCMに使われていますが、面白かったのは、この頃のウルトラシリーズの大前提は、コンビニエンスストアがないことだという指摘です。今では全国に約6万店舗(2019年)あるコンビニも、1983年ころでも約6000店舗しかありませんでした。ファミリーマートの実験店が1973年9月、セブンイレブンの1号店が1974年5月の開設です。著者は、「『帰ってきたウルトラマン』が放送された1971年前後は、家庭では妻が夫に敬語を使い、妻が家でご飯を作り家族で食べるのは当たり前で、“外食”はご馳走の代名詞だった時代であった。そんな時代の文化の産物である、昭和のウルトラシリーズには、コンビニが当たり前に身近にあると成立しない話が多い」と述べています。

 

帰ってきたウルトラマン』といえば、ウルトラマンが再び地球を去るときに少年と誓い合った約束である「ウルトラ五つの誓い」が思い出されます。「ウルトラ五つの誓い」とは、「一つ、腹ぺこのまま学校に行かぬこと、一つ、天気のいい日に布団を干すこと、一つ、道を歩くときには車に気をつけること、一つ、他人の力を頼りにしないこと、一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと」です。著者は、「この中の『他人の力を頼りにしないこと』に、市川森一は批判的だった。要するに、テレビのチャンネル権を握っている母親に媚びる話を作って、視聴率を稼ぐのがすばらしいのか、と。現在では、『帰ってきたウルトラマン』は、ドラマ性に優れた傑作と評価されている。しかし、ウルトラシリーズ第一期のファンから見れば、その人間ドラマこそが批判の対象であり、作品の世界観が分裂した駄作だと映ったのだ。また、制作者たちの軋轢が見え隠れする」と述べます。



ウルトラマン』の科学特捜隊、『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊のように、『帰ってきたウルトラマン』にはMATという組織が登場。Monster Attack Teamの略というのが何とも間抜けな印象ですが、怪獣攻撃隊であるはずのMATがシリーズを通して倒した敵は、巨大怪獣3匹、等身大宇宙人3人、小型怪獣2匹、円盤3機だけでした。「地球人の防衛チームは弱い」との印象を植え付けたわけですが、このMATは自衛隊、弱いウルトラマンベトナム戦争で苦しむアメリカに見立てられるとして、著者は「ウルトラマン(郷秀樹)とMATは固い絆で結ばれていた。現実の日米関係のように、騙し騙される関係ではない。また、アメリカは国益のために日本と同盟を結び従属させているだけだが、ウルトラマンは自分の利益のために戦っているのではない」と述べます。



では、ウルトラマンは何のために戦ってくれたのか。ウルトラマンが地球人に一切の見返りを求めないことに謎を解く鍵があるはずだとして、著者は「現実の国際社会には、『自分の命を差し出して他人の国のために戦ってくれる国』など存在しない。その意味で、ウルトラマンは徹底して『非ウェストファリア的存在』なのである。作品がいかに現実の人間社会を描き、そこにウルトラマンを放り込んで人間的な試練を与えても、ウルトラマンは神話の世界の存在なのである」と述べるのでした。このあたりが本書の白眉だと思いますが、非常に興味深いですね。

 

第四章「ウルトラマンエース――史上最も成功した『失敗作』――」の「三つの企画書と四つの設定」では、『帰ってきたウルトラマン』に続いて、新番組『ウルトラマンエース』を企画した市川森一は、ウルトラマンに始まるウルトラ兄弟たちを「キリスト者」に見立てたことを紹介します。市川は、切通理作のインタビューで、キリスト者とは「試される者」だと答えています。市川自身は、無教会派のキリスト教徒でした。市川は、『ウルトラセブン』で「カナン星人」「ペテロ」といったキリスト教にちなんだ名前の敵を登場させた。『ウルトラマンエース』でも「ゴルゴダ星」「バラバ」「サイモン星人」に重要な役回りを演じさせています。


また、『ウルトラマンエース』に登場する巨大ヤプールが取り上げられます。巨大ヤプールとは、地球に送った超獣がウルトラマンエースにすべて倒されたため、自らの手で地球を侵略するべく全ヤプール人が合体・巨大化した姿です。ヤプール人の意識集合体ともいうべき存在ですが、著者は「ヤプール人の侵略とは超獣による直接侵略に留まらず、人の心への間接侵略であり、『聖書』における『試す者』に他ならない。あまりにも斬新すぎた。ちなみに、沼正三の長編SFかつSM小説『家畜人ヤプー』がヤプールの語源なのは明らかだろう」と述べています。

 

ウルトラマンエース』には、画期的な点がありました。それは、北斗星児と南夕子という男女が合体してウルトラマンエースに変身することです。『ウルトラマンエース』と同時期に、合体変身ものの番組『超人バロム・1』が始まりました。こちらは完全に子供番組で、小学生の男子2人が合体変身する設定でした。「男女合体変身」といういうのは空前絶後のアイデアなのですが、著者は「男と女がもう一度合体することによって、完全な姿に戻れる。そしてその姿がウルトラマンエースであるとするのが、市川の考え方であった。『ウルトラエース』の企画書では、仏教の菩薩も『性の超越者』であるとも強調されている。ウルトラマンエースは、あらゆる宗教・思想において普遍的な存在として企画された」と述べています。


ヤプールが悪魔なら、ウルトラマンエースは神。『旧約聖書』によれば、神は自分の姿に似せて人間の男アダムを作り、アダムのあばら骨を取り出して人間の女イブを作ったといいます。『旧約聖書』の「創世記」に「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』」(第1章26節)、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(第1章27節)とあり、また、「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた」(第2章22節)とあります。無教会派のキリスト教徒だった市川は、『ウルトラマンエース』の北斗と南を『旧約聖書』のアダムとイブに重ねたのでしょうか。


帰ってきたウルトラマン』のMATは、『ウルトラマンエース』ではTACとなりました。TACとは、Terrible‐monster Attacking Crewのアクロニウムです。MATは上層部と世論の圧力にさらされ続けましたが、TACも同じです。ただし、隊長の竜が巧みな手腕でかわし続けるので、MATのように解散の危機に瀕したことは一度もありません。「兵器の性能は向上しても、弱さを印象づける」では、著者は、「『ウルトラセブン』が池田勇人内閣、『帰ってきたウルトラマン』が佐藤栄作内閣の防衛意識を反映した作品なら、『ウルトラマンエース』は田中角栄内閣のそれであろうか。池田内閣ほど防衛努力はしないが、佐藤内閣ほど自衛隊へのあたりは強くない。だが、一度でも失われた戦う心は取り戻せない。だから、武器が強くなっても、軍隊が強くなることはない」と述べています。


「女に逃げられたヒーロー」では、『ウルトラマンエース』は途中から南夕子がいなくなって(夕子の故郷である月に帰って)から人気が出たという指摘がされます。著者は「当時の子供にとっては隊員が減ったのに加えて、北斗1人で変身するのもわかりやすかった。設定されていた、男女合体変身そのもののウケがよくなかったようだ。実際に子供たちが“ウルトラマンごっこ”をして遊ぶとき、男の子と女の子が2人1組で変身するのが実際にはやりにくかったのだろう。子供にとってわかりやすくなった分、視聴率が回復していく。第29話を含めて連続7回20%台を取った。その後はまた下がるのだが」と述べています。しかし、『ウルトラマンエース』は、最大のライバルと位置づけた『仮面ライダー』に視聴率で完全に負けました。『ウルトラマンエース』と『仮面ライダー』が同時期に放送されていた期間の45回分の平均視聴率を比較すると、『ウルトラマンエース』が18.9%であったのに対して、『仮面ライダー』は22.1%でした。



第五章「ウルトラマンタロウ――本格派だが異色作――」の「売れる要素がすべて盛り込まれたヒーロー」では、爽やかで強いヒーローが、明るく楽しく、勧善懲悪のわかりやすい物語を展開し、親子が安心して見られる話を送り出した番組『ウルトラマンタロウ』は「売れる特撮の黄金パターン」を確立したとして、著者は「『タロウ』は、『格』を定着させた作品でもある。『帰ってきたウルトラマン』は『仮面ライダー』とほぼ同時期に始まり、『仮面ライダー』に苦戦する。そして、『ウルトラマンエース』は『仮面ライダー』と放送期間がかぶり、視聴率で敗北し、2番手に落ちていった。『ウルトラマンエース』が終了する約1カ月半前に、『仮面ライダーV3』が始まった。その約1カ月後に『ウルトラマンタロウ』が始まる。『V3』は平均視聴率(関東)が19.8%、『タロウ』は17.0%だった。単純な数字だけでは『V3』が『タロウ』を上回るが、その後は『ライダーシリーズ』の方が迷走する」と述べています。


ウルトラマンタロウ』では、ウルトラ兄弟の客演も印象的でした。「ウルトラ兄弟、父、母――神話から民話へ」では、ウルトラファミリーの誰かが登場する回が全部で15話であるとして、著者は「割合にすれば28.3%ほぼ3回に1回は、他のウルトラ兄弟が登場する計算になる。これは麻薬のように禁断の果実で、「兄弟が増えるにつれてウルトラマン1人1人の魅力が半減され、常に団体で出ていないと、間というか、場がもたなくなってきたのだ」った。これは人気シリーズの宿命で、『仮面ライダー』シリーズでも悩みである。『~タロウ』と同時期の『仮面ライダーV3』は第1話、第2話の前後編で前作の主人公である1号、2号を死なせる設定にした。ただし、後に2人を生き返らせ、客演回をつくる。番組後半では、仮面ライダー4号ことライダーマンをレギュラーとして登場させる。『~X』では終盤に4回、客演回。『~アマゾン』はあえて客演回なしで、『~ストロンガー』はシリーズ最終5話をかけて、最終回で全ライダーを集合させた。苦慮が感じられるが、客演率3割の『~タロウ』の方は、堂々としているとすら言える」と述べます。


第七章「ウルトラマン80――日本『特撮』の金字塔」では、1975年3月28日の『ウルトラマンレオ』の最終回で、「ウルトラシリーズ」は幕を下ろしたことが紹介されます。アニメとSFXの挟撃にさらされて、日本特撮の雄である円谷プロは岐路に立たされていたのですが、この事情は東映も同じでした。『仮面ライダー』シリーズは「ウルトラシリーズ」ほど特撮に予算がかかる訳ではありませんでしたが、曲がり角に立っていたのです。果、「仮面ライダーシリーズ」は『~アマゾン』をもってNETでの放映を終了、『~ストロンガー』はTBSで放映されることとなります。本書には、「そこで番組枠が空いたNETが東映と企画した新たな特撮番組が、『秘密戦隊ゴレンジャー』である。『ウルトラシリーズ』にしても『ライダーシリーズ』にしても、人気回は客演回である。ならば最初から複数のヒーローを出しておけばよいではないかとの発想で、5人のヒーローがレギュラーの『秘密戦隊ゴレンジャー』だった」と書かれています。


終章「なぜウルトラマンは自分の星でもない地球のために戦ってくれたのか」の「『我々は神ではない』」では、今でも伝説の超人と崇められているウルトラマンキング一神教の想定する絶対神に近いと指摘し、著者は「ユダヤ教ヤハウェ―、キリスト教のゴッド、イスラム教のアラーのような、絶対的な力を有する存在だ。破壊された宇宙を一瞬で元に戻すような、圧倒的な力だ。それに対して、ウルトラマンたちは地球人に対しては圧倒的な力を持つ存在だが、同時に人間と同じように喜怒哀楽がある。仏教の仏たち、ギリシャ・ローマの神々、そして日本神話の神々のようだ。実に感情的で、人間らしい」と述べています。


「共通の神話」では、著者はこう述べています。
「現実社会、特に国と国の関係、戦いのような複雑な事象に、神のような非現実的な存在を持ち込む野蛮に対し、1人の天才フーゴ―・グロティウスが文明の何たるかを創造し、人々に説き、やがて少しずつ人類は実現した。これがウェストファリア体制である。だが、ウェストファリア体制の歩みは遅々とし、脆く、拙く、瞬く間に1人の狂人によって粉々に砕かれた。1人の狂人とは、ウッドロー・ウィルソン。自分を絶対神と信じた、正真正銘の狂人である。ウェストファリア体制以前の十字軍など『自分がウルトラマンだと信じこんでいたバルタン星人』だったが、ウィルソンは『自分がウルトラマンキングだと信じて疑わないエンペラ星人』と言うべきか。エンペラ星人は己を闇の存在だと自覚していたが、ウィルソンは自分こそが光だと確信していた」


文明人は2つの真理を心得ねばならないという著者は、「1つは、神話の世界観を現実に持ち込まないこと。もう1つは、神話の世界観を理解することである。神話とは何かを熟知しているものだけが、神話を現実に持ち込まない大人の文明人でいられるからだ」と述べています。では、神話とは何か。神と人の絆(つながり)を語る物語であるとして、著者は「もし、宗教学者が1000人いれば、1000の宗教の定義が争われるだろう。だが、あらゆる宗教は「つながり」を表す。Religionの語源は、レリギオ(つながり)である。社会学や心理学によれば、人は誰とも繋がらない無連帯(アノミー)に陥った時に、自殺するとか。どれほど近代科学技術文明が進歩しても、人と人とのつながりは求められる」と述べます。


なぜウルトラマンは自分の星でもない地球のために戦ってくれたのか。この問いに対して、著者は「突き詰めれば、そこに価値を認めているから。守りたいという気持ちがあるから、以外に無いのではないか。そこにロウソクがあるとする。1000年以上前から燃えているロウソクである。1000年前に灯した火が今も燃えている。その火を、消してはならないと思うか、消しても構わないと思うか。いかなる理屈を並べて善悪を論じても、そこに価値を見出している以外の理由があるのか。価値を見出せない人間に、どのような理屈が通じると言うのか」と述べます。


さらに、著者は「人間の思考――哲学は突き詰めれば、それを美しいと感じるか醜いと感じるかの審美眼に行きつく。何を真善美で偽悪醜とするかの根源は、そこに価値を見出すかどうか。そこにある1000年前の灯をこれからも守り続けることが美しいと感じるか否かの感性でしかありえないのではないか。言うなれば、ウルトラマンが地球人を守るのは、理屈抜きに地球人を美しいと価値を認めているからに他ならない。親が子供を無条件に愛おしいと感じるように。神話としての『ウルトラマン』は多くを教えてくれる。現実社会で巨大な力に押しつぶされそうな時こそ、神話に立ち戻り、己の守るべき価値とは何なのかを見つめ直すからこそ、何をなすべきかを思い出せるのではないだろうか。私はウルトラマンの伝言を『己の生き方を自分で考えよ』だと受け取っている」と述べます。


そして、「おわりに――明日のエースは君だ」では、ウルトラシリーズにおいて、地球人は兵器が強くなっても、心が侵略されて弱くなったことを指摘し、著者は「結果、直接・間接の侵略に右往左往する。だが、それでも一貫しているのは、『地球は我々人類、自らの手で守り抜かねばならないんだ』とのキリヤマ、その前任者のムラマツが残した精神だ。『ウルトラマンメビウス』においては、この言葉の解釈をめぐり、議論が戦わされている。『自らの手で守り抜くとは、どういう意味か』と。力を得るには、何をしなければならないかを問い直すことからだ」と述べるのでした。本書を読んで、子どもの頃に夢中になって観た「ウルトラシリーズ」が日本の防衛問題と密接に関わっていることを知り、興味深く思うとともに、皇室史学者である著者の見識に深く尊敬の念を抱きました。

 

 

2022年6月3日 一条真也

『「読む」だけだけで終わりにしない読書術』 

「読む」だけで終わりにしない読書術 1万冊を読んでわかった本当に人生を変える方法 【kindle特典動画付き】

 

一条真也です。
『「読む」だけで終わりにしない読書術』本要約チャンネル著(アスコム)を読みました。「1万冊を読んでわかった本当に人生を変える方法」というサブタイトルがついています。著者は、医学部在学中に起業、数々の失敗を乗り越え、現在は海外に拠点を置き、活躍する若き二人組の経営者。チャンネル登録者数98.5万人、再生回数1億回越えのYouTubeチャンネル「本要約チャンネル」の運営者でもあります。難解な書籍を含めビジネス本や健康本、さらには最新論文のポイントをわかりやすく要約する動画を毎日配信し、人気を博しています。長年、1日5冊ほどの読書を続ける生粋の本オタク。「本は読むものではなく、実践するもの」と考え、多読、速読にこだわらず古今東西の素晴らしいメソッドや習慣、考え方を集め、日々実践しているとか。本書が初の著書となります。


本書の帯

 

本書の帯には、「学ぶだけでは生き残れない時代の新常識」「毎日、本の要約動画を配信中」「YouTube再生数1億回超え」「ビジネス・キャリア・ライフプラン・健康・マネー」「本は読むものではない 実践するものだ」と書かれています。


本書の帯の裏

 

本書の帯の裏には、「本に書いてあることをすべて自分のものにする、超実践的読書術!」として、以下の項目が並んでいます。
●1日に何冊でも読めるように
●自分の成長、人生に必要な本が見つかる
●集中力を上げ、読書の成果が高まる
●スキマ時間、短い時間でできる
●本の「ムダ読み」が減り、効率的
●本に書かれていることが実践できるように
●「読んでも内容が頭に入らない」
  「翌日には忘れてしまう」がなくなる
●人生の悩みがすぐ解決できる
●本という最高の武器が手に入る
●コストパフォーマンスがバツグンに良い


アマゾン「出版社より」

 

カバー前そでには、「人生を大きく変えたいすべての人へ。」「1万冊以上の本を読み、あらゆるメソッド、習慣、思考法を検証&実践してきた『本要約チャンネル』が『人生を変える』読書術を教えます!」「本は何冊読んだかよりも『読む』→『実践する』のサイクルを回すこと。」「速読、多読も不要。1ページ目から読まなくてもいい。短時間の読書でもいい。本当に自分に必要な本を見つけ、『読むだけで終わり』にしなければよりよい未来は目の前です」と書かれています。


アマゾン「出版社より」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 「読む」だけで終わりにしない7つの読書術
第2章 「読む」だけで終わりにしない読書術 
    実践編「レコーディング読書」
第3章 1万冊を読んでわかった
    「本当に人生が変わる」5つの最強習慣
第4章 1万冊の中から選んだ、
    僕たちの人生を変えた最強の3冊


アマゾン「出版社より」

 

「はじめに」の「速読や多読などの『読書術』は必要ない 必要なのは、本を読み『実践できる』読書術」として、「本要約チャンネル」を運営している、YouTuberのたけみとりょうは、「僕たちはそれぞれ、心身の不調に長年苦労し、20歳を過ぎて入学した、某大学の医学部で知り合いました。それまで歩んできた人生がどこか似ていたこと、読書が好きだったことからすっかり意気投合し、二人でさまざまなビジネスを行い、今は共に海外に移住しています」と書いています。



本要約チャンネルは「読書の素晴らしさを、一人でも多くの人に知ってほしい」と2人が思い、2019年12月に立ち上げたチャンネルです。彼らが読んで「参考になる」「役に立つ」と思った本のポイントを伝えており、2022年6月自転で98・5万人が登録しており、登録者100万人達成も目の前にきています。そんな彼らが本書で伝えたいのは、「実践する読書術」「本を『読む』だけで終わりにしないための読書術」だといいます。



「答えのない社会で生き抜くための新常識」として、彼らが本書の中で薦める「目的を明確にして本を読み、書かれているメソッドを実践し、効果を検証する」という読書法は、実は今、社会によって求められていることでもあるとして、「社会で直面する課題は、答えのない、オープンエンドのものばかりだからです。そのため、社会生活の中で何らかの課題にぶつかると、思考が停止してしまったり、「正解にたどり着かなければ」と思うあまり、何も行動がとれなくなってしまったりする人はたくさんいます」と述べています。



続けて、著者は「でも、それでは何も解決しません。人生の課題は、実際に行動することでしか乗り越えられないからです。読解力を磨くこと、オープンエンドの課題に立ち向かえるようになることで、人生の質は大きく変わるといえるでしょう。そして、僕たちが『「本を読むこと」を目的にしても意味がない』『「読んで終わり」にするのはもったいない』と思うのも、本で得た知識を実践し、検証し、日々の生活の中で効果的に活かすことができてはじめて、その本を読んだ意味が生まれると考えているからです」と述べます。

 

「『読む』だけで終わりにしない読書術で、人生は大きく変わる」として、本を読む目的を明確にし、著者は、7つの読書術を紹介。自分にとって最高の一冊を見つける「目的型読書」。効率よく本を読み、実践しやすい状態をつくる「ドーパミン読書」「ランニング読書」「能動型読書」「分散型読書」「マインドセット読書」。この読書術のゴール地点ともいえる「レコーディング読書」です。著者は、「これら7つの読書術を活用すれば、みなさんは本で得た知識を実践することが楽しくなり、生活の質を高め、人生を変えることができるはずです」と述べるのでした。

 

第1章「『読む』だけで終わりにしない7つの読書術」では、読書術1「自分にとって最高の一冊を見つける『目的型読書』」を紹介します。これは「本を選ぶ前に、本の要約サイトを活用し、本を読む目的を具体化・明確化する」「本の表紙や帯、目次、著者のプロフィール、まえがき、書評、読者レビューなどをチェックし、目的に合致する本を絞り込む」というものです。読書術2「熱がさめないうちに読み、効果を高める『ドーパミン読書』」では、「やることは、ごくシンプル。本を買ったら、熱がさめないうちに、すぐに読む。ただそれだけで、読書の効果は飛躍的に高まります。『何らかの課題を解決したい』『人生を変えたい』と思って本を買った瞬間、脳内には『ドーパミン』という物質が分泌されています。そしてドーパミンが分泌されていると、脳は頑張って何かを達成することに快楽を感じ、記憶力なども高まるといわれています」と書かれています。

 

読書術3「脳の疲れをとり、読書への集中力を高める『ランニング読書』」では、「どれだけ疲れていても本が読める」として、「本を読む前に、5分間の軽いランニングをするというものです。ただそれだけで、集中力が高まります。集中力を高めたり保ったりするうえで『いい』とされている方法は、『姿勢を正しく保つ』『胃に負担のかかるものを食べない』『カフェインをとる』『邪魔にならない程度のBGMを流す』『質の高い睡眠をとる』など、たくさんあります。でも、1万冊以上の本を読み、集中力を高める数々のメソッドを実践した結果、僕たちがたどりついた最強の方法は、『5分間の軽いランニングをすること』です。今のところ、これに勝るものはありません」と述べています。

 

 

教育大国スウェーデンにあり、ノーベル生理学・医学賞を選考する機関「カロリンスカ研究所」で研究した精神科医のアンダース・ハンセン氏は、著書『一流の頭脳』(御舩由美子訳、サンマーク出版)で、「運動は集中力の改善にすぐれた効き目を発揮する、副作用のまったくない薬だ」と述べています。この本では、脳のコンディショニングを高め、「やる気」「学力」「記憶力」など、さまざまな点で「一流の頭脳」になる方法が語られます。著者は、「たとえば体日などに、読書をしたい気持ちはあるけれど『なかなかやる気が起きない』『集中できない』『つい、スマホやネット、テレビなどを見てしまう』という人は、まずは5分間の軽いランニングをして集中力を高め、15分間だけ本を読んでみてください」と述べています。

 

 

『脳のパフォーマンスを最大まで引き出す神・時間術』(樺沢紫苑著、大和書房)には、「かなり深い集中が持続できる濃い集中時間は、『15分』程度であって、20分を超えない、つまり『15分』が一単位と考えることができます」と書かれています。これを受けて、著者は「読書においても、ただ時間をかけてダラダラと読んでいたら、途中で集中力が切れてしまい、大事なことが頭に入らなくなります。目的を明確にして、読むべき本だけでなく、読むべき箇所もしぼりこみ、5分で本当に必要な情報だけを、しっかりつかみ取りましょう。そうすることで、その本の面白さに気づいて、自然と『もっと読みたい』という気持ちになり、その後は寝食を忘れるほど読書に没頭できるかもしれません」と述べています。

 

読書術4「本の内容を自分のものにするための『能動型読書』」は、「メモをとりながら本を読む、もしくは読んだ直後に感想をメモする」というものです。用意するのは、色つきのペンとマーカーのみ。本を読むときには、常にペンとマーカーを近くに置いておき、覚えておきたい箇所があればマーカーで線を引き、気づいたこと、感じたことがあれば余白にペンでどんどん書き込みます。また、本を読み終わったときには、たいてい表紙の裏などに感想を書きます。著者は、「これをやることで、本の内容を『自分ごと』としてとらえられるようになり、読書へのモチベーションや集中力も、さらに高まります」と述べます。



「自分ごとになると、本の内容を忘れにくくなる」では、「エビングハウス忘却曲線」が紹介されます。これは、人間が記憶した内容をどの程度忘れていくかを示したものであり、「ちゃんと覚えた」と思っても、20分後には42%、1時間後には56%、1日後には74%を忘れてしまう、とされています。著者は、「人間は、忘れる生き物であり、特に『インプットしただけ』の情報の記憶は、時間がたつにつれてどんどん薄れ、曖昧になっていきます。よほどの記憶力の持ち主でない限り、ただ読んだだけの本の内容を忘れてしまうのは、当たり前のことなのです」と述べます。

 

 

「アウトプットを行うことで、内容への理解が深まり、内容を忘れにくくもなる」では、『学びを結果に変える アウトプット大全』(樺沢紫苑著、サンクチュアリ出版)に、アウトプットの効果について、「『書く』『話す』といった運動神経を使った記憶は、『運動性記憶』と呼ばれます。運動性記憶の特徴は、一度覚えるとその後はほとんど忘れることはないということです。3年ぶりに自転車に乗ったら乗り方を忘れていた、ということはないはずです」と書かれていることが紹介されます。また、アウトプットを行うとき、人は脳内で記憶を何度も参照し、処理して、情報を外へ出すといいます。その過程で、記憶が鍛えられ、強化されるのです。

 

読書術5「時間を上手に活用し、効率よく本を読む『分散型読書』」は、スキマ時間をうまく利用するというもので、忙しくてまとまった読書時間がとれない人に、特におすすめだといいます。日本人(社会人)が本などを黙読する際の平均的なスピードは、1分間あたり500~600文字といわれています。200ページ前後の単行本だと、文字数は8万字~12万字程度のことが多いため、1冊の本を読み終えるのに、早くても2~4時間ほどかかることになります。著者は、「ふだん、本を読み慣れていない人だと、それ以上に時間がかかることもあるでしょう。『本を読むにはまとまった時間が必要』と考えてしまうのも、仕方ないかもしれません」と述べます。

 

しかし、この「分散型読書」を実践することで、読むべき本を適切なタイミングで読むことができるようになるだけでなく、ただ時間をかけてダラダラと読むよりも、読書によって得られる効果が高くなるというのです。「スキマ時間でも質の高い読書ができる」では、著者は、分散型読書のキモは「スキマ時間の活用」と訴えます。これは、文字通り、通勤・通学時間、休憩時間、レストランや喫茶店で注文したものが届くまでの時間、待ち合わせ相手が来るまでの時間、多少本が濡れてもいいという人であれば、湯船につかって体があたたまるまでの時間など、日常のちょっとしたスキマ時間を読書にあてるというものです。

 

「締め切り効果を活用する」では、人は、「いつまでに~をやらなければならない」という締め切りが決まっていたほうが、やるべきことに集中できると指摘し、著者は「読書についても同様です。なんとなくダラダラと時間をかけて読むよりも、『この15分間に、ここまで読んでしまおう』『待ち合わせ相手が来るまでの5分間に、ここまで読んでしまおう』といった締め切りを設定したほうが、より読書に集中できるのではないでしょうか。その理由としては、目標を設定し、自分を追い込むことで、ドーパミンやアドレナリンなど、集中力を高める作用をもつ脳内物質が分泌されることが考えられます」と述べます。

 

「起床して3~4時間後の読書がおすすめ」では、本を読む時間帯としては、起床して3~4時間後が特におすすめであるとして、著者は「1日の中で脳がもっとも活発に動いているのは午前中、特に起きて間もないうちで、それから徐々に活動レベルは下がっていきます。しかし、生体リズム的に、記憶力がもっとも高くなるのは、起床して約3時間後、知的な作業がはかどるのは、起床して4時間後だといわれています」と述べています。

 

読書術6「本に書かれている内容が実践しやすくなる『マインドセット読書』」は、本に書かれている内容を実践し、「読書には効果がある」とマインドセットするというものです。本要約チャンネル流読書術において、もっとも重要なのは実践であるとして、著者は「僕たちが本を読むのも、みなさんに読書をおすすめするのも、真の目的は『人生を変えるため』であり、そのためには本に書かれている内容を実践することが不可欠です」と述べています。

 

 

潜在意識こそが思考や行動を大きく左右しており、人が意識的にやっていることはわずか3%にすぎず、97%は無意識にやっているともいわれているそうです。「自分は変われると思えれば、本当に成長する」では、潜在意識のベースになるものがマインドセットであるといいます。マインドセットとは、生まれ持った性質や経験、教育、育った環境によって形成される、固定された考え方や物事の見方のことで、個人の信念や価値観もそこに含まれます。著者は、「マインドセットの重要性を知るうえで、とても参考になるのが、スタンフォード大学の心理学の教授であり、パーソナリティ、社会心理学発達心理学における世界的な権威でもある、キャロル・S・ドゥエック氏の『マインドセット「やればできる!」の研究』(今西康子訳、草思社)です」と紹介します。

 

読書術7「実践・検証を繰り返し、人生を変える『レコーディンぐ読書』」は、本に書かれている内容を実践し、記録し、検証するというものです。著者は、「その作業を繰り返し、目的を達成(課題を解決)するうえで、そのときの自分にとって最適な判断を下したり、もっとも合うメソッドを見つけ出したりすること。最適な判断を積み重ね、有効なメソッドを生活に採り入れ、ルーティーン化することによって、生活の質を高め、人生を自分の望む方向へ変えていくこと。それこそが、「読む」だけで終わりにしない、 本要約チャンネル流読書術の究極の目的です」と述べるのでした。

 

第2章「『読む』だけで終わりにしない読書術 実践編『レコーディング読書』」の実践編3「本の力を最大限生かし、自由な時間と喜びを増やす」では、著者は「みなさんも、今抱えている不安や不満、焦りを解消し、人生を喜びで満たしていきたいと思いませんか? 本こそが、目標を達成し、望み通りの人生へ近づく早道。その際にもっとも役に立つのが、本であり、読書です。解決したい課題があるとき、自分一人でゼロから考えるのは難しく、時間もかかります。しかし、本には、その道の専門家である著者の知見が詰まっており、あなたが課題を解決するまでの時間を大幅に短縮してくれます」と述べています。

 

テレビの情報は一瞬で流れてしまうため、録画でもしていない限り、繰り返し観ることはできません。ネットの情報は便利ですが、どのような人が書いているのかわからず、信憑性に欠けるものもたくさん混じっています。著者は、「その点、本は、基本的には出版社という企業や著者の実績が信頼性を担保してくれますし、一冊の中に課題解決の実践方法から裏づけまで、必要な情報がすべて書かれており、繰り返し読むことができます」と述べるのでした。

 

 

第3章「1万冊を読んでわかった『本当に人生が変わる』5つの最強習慣」の最強習慣5「人生の質を決定する『究極の睡眠』」では、最強習慣のラストは「究極の睡眠」であるとして、著者は「質の良い睡眠をとることができるかどうかは、心身の状態を左右し、パフォーマンスにも大きく影響します。『SLEEP 最高の脳と身体をつくる睡眠の技術』(ショーン・スティーブンソン著、花塚恵訳、ダイヤモンド社)の著者であるショーン・スティーブンソンは、「良質な睡眠をとると、免疫系が強化され、ホルモンバランスが安定し、新陳代謝が促進される。身体のエネルギーが増加し、脳の働きも改善される。睡眠を適切にとらない限り、自らが求める肉体や人生を手にすることはできない。絶対に不可能だ」と述べています。

 

 

また、『スタンフォード式 最高の睡眠』(西野精治著、サンマーク出版)の著者である西野清治氏は、同書に「仕事を含めた日中のパフォーマンスは、睡眠にかかっている。夜な夜な訪れる人生の3分の1の時間が、残りの3分の2も決めるのだ」と書いています。これを受けて、著者は「テレビやパソコン、スマホタブレットなどの画面が発するブルーライトはわたしたちが思っている以上に強い光を発しています。暗くなり、眠りにつくはずの時間帯にブルーライトを浴びると、体内時計に狂いが生じます。そして、本来なら、夜に睡眠を促す働きをするメラトニンの分泌が抑制されたり、日中に分泌されるべき『コルチゾール』というホルモンの生成が促されたり、といったことが起こってしまうのです」と述べています。

 

加えて、パソコンやスマホや、タブレットでネットを見たりSNSをチェックしたりすると、脳内にドーパミンが分泌されるとして、著者は「質の高い睡眠をとるためには、少しずつ脳や体を落ち着かせ、休息モードに移行する必要がありますが、ドーパミンは逆に、気持ちを高揚させ、意識を覚醒させてしまいます。このように、パソコンやスマホタブレットなどは、脳や体が眠りにつくための準備の妨げにしかなりません。ですから、寝る120分前にはパソコンの電源を落とし、スマホタブレットに触れない状態をつくったほうがいいのです」と述べるのでした。

 

 

わたしは読書術に関する本は、これまで大量に読んできました。自分でも、「万能の読書術」のサブタイトルをもつ『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)を書きました。多くの類書の中でも、本書『「読む」だけで終わりにしない読書術』が興味深いのは、じつに具体的な手法をたくさん紹介している点です。最後の、質の高い睡眠をとるために「寝る120分前からは、スマホタブレットを一切触らない」などはその最たるものだと言えるでしょう。「本は読むものではなく、実践するものだ」という超実戦的読書術はいささか功利主義的な印象もありますが、多忙な現代社会を生きる多くの読者の共感を得るのではないでしょうか。「本要約チャンネル」はまだ観たことがありませんが、ぜひ観てみたいと思います。

 

 

2022年6月2日 一条真也

6月度総合朝礼 

一条真也です。ついに6月になりました。
1日の8時45分から、わが社が誇る儀式の殿堂である小倉紫雲閣の大ホールにおいて、サンレー本社の総合朝礼を行いました。ソーシャルディスタンスには最大限の配慮をしています。ちなみに、今日からクールビスです!

総合朝礼開始前のようす

最初は、もちろん一同礼!

社歌斉唱のようす

青白ストライプのマスク姿で登壇

 

全員マスク姿で社歌の斉唱は黙唱で行いました。それから社長訓示の時間となり、わたしが青と白のストライプ柄の不織布マスク姿で登壇しました。まず、わたしは「6月になりました。『ジューン・ブライド』の言葉もあるように、結婚式の季節ですね。5日、わたしの長女も結婚式を迎えます。父親として感無量ですが、改めて『結婚とは何か』『結婚式はなぜ行うか』について考えてみました。


マスクを外しました

 

まず、結婚とは何か。哲学者の内田樹氏は、著書『困難な結婚』で「結婚しておいてよかったとしみじみ思うのは『病めるとき』と『貧しきとき』です。結婚というのは、そういう人生の危機を生き延びるための安全保障なんです。結婚は『病気ベース・貧乏ベース』で考えるものです」と述べています。これを読んで、わたしは、基本的に内田氏の発言に賛同しつつも、夫婦の本質である「安全保障」を別の四文字熟語で置き換えたいと思いました。それは「相互扶助」です。二文字に縮めれば、「互助」となります。そう、互助会の「互助」です。そういうふうに考えれば、「夫婦は世界で一番小さな互助会」であるということに気づきます。

夫婦は世界で一番小さな互助会!

 

次に、結婚式はなぜ行うか。それは、ずばり、離婚を防いで、夫婦という「世界で一番小さな互助会」を解散させないためです。拙著『結魂論』で詳しく述べましたが、日本の結婚式には離婚をしにくくさせるノウハウが無数にありました。仲人や主賓の存在、結納という儀式、文金高島田の重さや痛さ、大人数の前でのお披露目。どれも面倒でストレスのかかることばかりです。もうこんな大変なことは二度とやりたくない、それが安易な離婚の抑止力になっていた。昨今はカジュアルな合コンの延長のような感覚で結婚パーティーを開いてしまうから、簡単に離婚してしまうのではないかと思っています。

結婚式はなぜ行うか?


熱心に聴く人びと

 

わが社の冠婚部門が、これまで目指してきたのは、離婚発生率の低い結婚式場の運営です。結婚式場はいわば「夫婦工房」ですから、その作品である夫婦が離婚するということは、不良品や粗悪品を製造していることにほかなりません。離婚しない夫婦を作ることは最もお客様の利益、幸福につながるのです。そして、離婚しない夫婦を作るためには、やはり儀式が大切です。お客様に儀式の大切さをしっかりとお伝えしなければなりません。わが国における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行先生とわたしの対談本『論語と冠婚葬祭』がついに刊行され、反響を呼んでいます。

婚礼こそはすべての礼の最も重要なる根本!

 

論語と冠婚葬祭』の対談では、加地先生と「礼」について大いに語り合う機会に恵まれました。加地先生とは『論語』と並んで儒教の最重要聖典とされている『礼記』の話題になりました。『礼記』の「昏義篇」には、「婚礼こそはすべての礼の最も重要なる根本と云える」と書かれています。わたしは、これを読んで不思議に思いました。というのも、一般に、儒教では「葬礼」を重視することが知られています。しかし『礼記』には、「葬礼」ではなく「婚礼」が礼の最も重要なる根本であると書かれています。これは、一体どういうことことでしょうか?


日本人は家族主義である!


熱心に聴く人びと

 

この問題について、わたしは以下のように考えました。葬儀を行うためには家族の存在が必要です。葬儀の当事者は死んでいるわけですから、自分では葬儀を行なうことはできません。その家族をつくるためには夫婦が子どもを授からなければならず、そのためにはまず結婚しなければならないわけです。 家族を形成するにはまず結婚する必要があります。礼の精神は天地に基づき、具体的な制度としての礼は男女の婚礼から出発します。家族主義は中国・朝鮮・日本といった東アジア全体に拡がっていきました。欧米の影響でいくら個人主義が叫ばれようとも、東アジア人の基本は家族主義であり、それが冠婚葬祭という文化を支えているのです。


道歌を披露しました

 

考えてみれば、結婚式や葬儀といった冠婚葬祭を行わなければ家族や親族といった「一族」が一同に会しません。そうなれば、ただでさえ進んでいる個人主義がさらに加速し、血縁というものは完全に崩壊するでしょう。「葬儀を行うためには、まずは結婚する」という認識が広まることを願ってやみません。そして、それは日本人の生存戦略にほかならないのです。そして、「結婚は最高の平和です。世界大戦の危機が囁かれている今こそ、一組でも多くの夫婦が誕生するお手伝いをし、『最高の平和』を実現しようではありませんか!」と述べてから、わたしは以下の道歌を披露しました。

 

助け合ふ夫婦を作る手伝ひは

      戦なき世の平和の祈り

 

「今月の目標」を唱和

最後は、もちろん一同礼!

 

総合朝礼の終了後は、北九州本部会議を行います。昨年、一昨年はなんとかコロナイヤーを黒字で乗り切りましたが、コロナ3年目となる今年は正念場を迎えています。全社員が全集中の呼吸で全員の力を合わせて最後まで走り抜きたいです。

 

2022年6月1日 一条真也拝  

沖縄の海洋散骨に立ち合う

一条真也です。
6月になりました。1日、産経新聞社の WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第47回目がアップされます。今回は、「沖縄の海洋散骨に立ち合う」。

「沖縄の海洋散骨に立ち合う」

 

先日、わが社は、沖縄の地で「合同慰霊祭」および「海洋散骨」を開催し、わたしは主催者として挨拶した。まずは、沖縄県浦添市の「サンレーグランドホール中央紫雲閣」で「合同慰霊祭」が行われた。ここは沖縄県最大級のセレモニーホールである。「開会の辞」に続いて、黙祷、禮鐘の儀、追悼の言葉、カップローソクによる献灯が行われた。ご遺族の方々に続いて、わたしも心を込めて献灯させていただいた。

 

その後は、三重城港に移動。14時に出港し、15時頃に散骨場に到着。そこから、セレモニーのスタートである。開式すると、船は左旋回した。これは、時計の針を戻すという意味で、故人を偲ぶ儀式である。続いて黙祷をした。次に、日本酒を海に流す「献酒の儀」が行われた。そして、いよいよ「散骨の儀」だ。ご遺族によって遺骨が海に流された。そのとき、号泣された方、海に向かって「ありがとー! また会おうね!」と叫ばれる方など、それぞれにいろんなお別れの形があった。改めて、海洋散骨とはグリーフケアのセレモニーであると感じた。

 

それから、「献花の儀」を経て主催者挨拶が行われた。マイクを握ったわたしは、「今日は素晴らしいお天気で本当に良かったです。今日のセレモニーに参加させていただき、わたしは2つのことを感じました。1つは、海は世界中つながっているということ。今回の海洋散骨には日本全国からお申し込みいただいていますが、海はどこでもつながっています。沖縄の海も世界中の海とつながっています。海を見れば故人様の顔が浮び、そしてさまざまな思い出を思い出すことでしょう。故人様との思い出を大切にし、そして海をみると思い出してあげるということは故人様にとって最高のご供養ではないでしょうか」と述べた。

 

続けて、「もう1つは、故人様はとても幸せな方だなということです。海洋散骨を希望される方は非常に多いですが、なかなかその想いを果たせることは稀です。あの石原裕次郎さんでさえ、兄の慎太郎さんの懸命の尽力にも関わらず、当初は願いを叶えることはできませんでした。愛する家族である皆様が海に還りたいという自分の夢を現実にしてくれたということで、故人様はどれほど喜んでおられるでしょうか。沖縄では、魂はニライカナイという理想郷に還り、その魂は皆様を見守り続けると言い伝えられています。皆様と故人様がいつかまた会う日まで、故人様の安寧と皆様のご健勝を祈念いたしましてご挨拶に代えさせて頂きます」と申し上げた。その後、散骨場を去る際、船は右旋回を行い、永遠の別れを表したのである。

海洋散骨に立ち合いました

 

 

 

 

 

 

 

2022年6月1日 一条真也