「ムーンライト・シャドウ」

一条真也です。
ついに10月になりました。1日、産経新聞社の WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第39回目がアップされます。今回のタイトルは、「ムーンライト・シャドウ」です。 

f:id:shins2m:20210929165857j:plain「ムーンライト・シャドウ」

 

「ムーンライト・シャドウ」という日本映画を観ました。吉本ばなな氏のベストセラー『キッチン』に収められた短編小説を映画化したラブストーリーです。満月の夜の終わりに死者と再会するというグリーフケア映画で、どうしても観たい作品でした。この物語以外でも、古今東西、満月の夜は幽霊が見えやすいという話をよく聞きます。満月の光は、天然のホログラフィー現象を起こすのではないでしょうか。つまり、自然界に焼きつけられた残像や、目には見えないけれど存在している霊の姿を浮かび上がらせる力が、満月の光にはあるように思えます。

 

「ムーンライト・シャドウ」では、月が非常に重要な役割を果たします。主人公の女性は、死に別れた恋人と再会するべく、川を訪れます。夜明け近くの橋の下には、月光が降り注いでいます。そこで、彼女はなつかしい恋人の姿ともう一度出逢うのでした。巫女のような仲介者の女性によれば、100年に1回くらいの割合で、偶然が重なりあってこのように死者が出現するそうです。場所も時間も決まっていないが、川のある場所でしか起こりません。人によっては、まったく見えないといいます。死んだ人の残留した思念と、残されたものの悲しみがうまく反応した時に陽炎のように見えるのです。死者の残留した思念と生者の悲しみがうまく反応するのは、恐らく月のせいでしょう。

 

アメリカの神経学者カール・プリブラムや、イギリスの物理学者デイヴィッド・ボームは、この世界はホログラフィーのように、映し出された立体像の方にではなく、それを映し出した干渉板のフィルムの中にこそ、リアリティは巻き込まれているのではないかとの考えを打ち出しました。そして、その1つ1つの部分は全宇宙を宿していて、一即多、多即一、すなわち部分と全体は互いに他を含みあい、かつ空間にみられる巻き込みのように、時間も過去から未来にかけてのすべてがそこに巻き込まれているのではないかという世界のモデルを提出しています。

 

このホログラフィー理論は、全宇宙の記憶が刻まれているというアカーシック・レコードにも通じるし、実在界と現象界という宗教的世界観とも共通しています。この世(現象界)のすべてのものは、あの世(実在界)から投影されている幻影にすぎないという考え方です。死者の思念に月光が降り注ぐ時、一種のホログラフィーが発生します。それは、ムーンライト・シャドウという「愛の奇跡」なのです。同時に、わたしたち生者もまた、ホログラフィーによって浮かび上がった、ヴィジュアライズされた霊、すなわち幽霊だという考え方もできます。もしもわたしたち自身も幽霊なら、死者たちといかに理想的な関係を築いていくかを考えなければならないでしょう。



2021年10月1日 一条真也

『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』

すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった ──笑いと日本社会の現在地 (ちくま新書)

 

一条真也です。長月晦日になりました。
9月最後の日です。長かった4回目緊急事態宣言も今日で終わりですね。第100代首相となる自民党の新総裁も決まりましたし、これから日本社会がどんどん明るくなり、みんなが腹の底から笑える時代が来ますように。
『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』太田省一著(ちくま新書)を読みました。著者は1960年生まれ。社会学者、文筆家。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。それを踏まえ、現在はテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、歌番組、ドラマなどについて執筆活動を続けています。ブログ『ニッポン男性アイドル史』で紹介した本をはじめ、著書多数。

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本書の帯

 

本書の帯には、タモリビートたけし明石家さんまの3人のデフォルメされた似顔絵が描かれ、「80年代『漫才ブーム』から『お笑い第7世代』まで、『お笑いビッグ3』を軸にニッポンの『笑い』の変容を描く!」「『ビッグ3』が世界だった」と書かれています。また、カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「1980年代初頭、多くの人が『漫才ブーム』に熱狂した。その影響のもと、私たちは何かあればボケようとし、それにツッコミを入れるようになった。笑いが、重要なコミュニケーション・ツールとなったのである。そこにおいてシンボル的な存在となったのが、タモリ、たけし、さんまの『お笑いビッグ3』だった。先鋭的な笑いを追求して90年代に台頭したダウンタウン、M―1グランプリから生まれた新潮流、そして2010年代に入って頭角を現した『お笑い第7世代』・・・・・・。今なお中心的存在であり続ける『ビッグ3』を軸に、日本社会の『笑い』の変容と現在地を鋭く描き出す!」

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 序章 笑いは世界の中心に
    ――なぜいま、タモリ、たけし、さんまなのか?
第1章 「お笑いビッグ3」、それぞれの軌跡
    ――80年代まで
 1 変わらぬ趣味人・タモリ
 2 理想の悪ガキ・ビートたけし
 3 笑いの教育者・明石家さんま
第2章 「お笑いビッグ3」とダウンタウンの台頭
 1 ダウンタウンの東京進出と「お笑い第3世代」
 2 ダウンタウンが起こした“革命”
 3 「お笑いビッグ3」とダウンタウン
第3章 『M―1グランプリ』と「お笑いビッグ3」
 1 ダウンタウンが「スタンダード」に
 2 『M-1グランプリ』という“実験場”
 3 2000年代の「お笑いビッグ3」、それぞれの道
第4章 笑いの新たな潮流
 1 お笑い芸人とユーチューバー
   ――ネットの笑いはユルいのか?
 2 「お笑い第7世代」と「やさしい笑い」
 3 「肯定する笑い」の時代へ
最終章 「笑う社会」の行方
    ――「お笑いビッグ3」が残したもの
「あとがき」
「参考文献一覧」


序章「笑いは世界の中心に――なぜいま、タモリ、たけし、さんまなのか?」の冒頭の「2018年に起きた“事件”」を、著者は以下のように書きだしています。
「毎年、雑誌『日経エンタテインメント!』が実施しているアンケート調査がある。“1番好きな芸人”と“1番嫌いな芸人”を尋ねるもので、その結果はたびたびニュースにもなるので、調査の存在を知っているひともいるだろう。その中で、とりわけ大きなニュースとなったのが、2018年に発表された調査結果だった。前年の『好きな芸人』ランキングで1位だった明石家さんまが2位となり、代わってサンドウィッチマンが1位になったのである。それだけであれば、大騒ぎするほどのことでもないと思うかもしれない。しかし実は、明石家さんまが『好きな芸人』1位の座から転落したのは、2002年の調査開始以来初のことだった。それまで14回連続でさんまはトップをキープ。それが2018年に初めてその座を譲ったのである」

 

「『お笑いビッグ3』誕生の瞬間」では、さんまが頭角を現し、一躍人気者になった1970年代後半から80年代にかけての日本社会は、笑いを単なる息抜きではなく、生活するうえで最も重要なコミュニケーション・ツールととらえるようになったと指摘し、「笑いはコミュニケーション全般の中心になったのである。それはまさに、社会の大転換だった。そんな『笑う社会』と化した日本社会を象徴する存在になったのが、タモリビートたけし、そして明石家さんまの『お笑いビッグ3』である」と述べます。


「笑いは世界の中心に」では、1980年代初頭に起こった爆発的な漫才ブームが取り上げられます。当時、フジテレビの演芸番組『花王名人劇場』の企画である「激突!漫才新幹線」が高い視聴率を誇っていましたが、同局は人気の若手コンビを一堂に集めた『THE MANZAI』の放送を開始します。著者は、「『花王名人劇場』では笑いはまだ演者のものであったのが、『THE MANZAI』では、演者と観客の共有物になったのである。言い換えれば、『THE MANZAI』が私たちに発見させたのは、演芸としてではなくコミュニケーションとしての漫才、ひいては『ボケとツッコミ』のパターンに基づくコミュニケーションの魅力だった」と述べています。


日本人は1980年代以降、『THE MANZAI』の観客の大学生のように、ただ笑いを厳しく客観的に評価するだけでなく、笑いのコミュニケーションに自ら積極的に参加する存在へと変貌していったと指摘する著者は、「テレビがリードした漫才ブームをきっかけに、『ボケ』や『ツッコミ』といった語彙が、そうした笑いの実践とともに私たちの日常生活に浸透していった。私たちは、何かあればボケようとし、それにツッコミを入れることが一種の社会的礼儀になっていく。ここに『笑う社会』は生まれ、笑いは世界の中心となった。それは、テレビと社会の主従関係が逆転した瞬間でもあった。テレビの中の笑いは、単なる娯楽のひとつではなく、私たちの日々の振る舞いのお手本になった。その意味で、テレビが従で社会が主ではなく、テレビが主で社会が従になったのである。その象徴的な存在として、『ビッグ3』は尊敬の対象にさえなっていった」と述べるのでした。


漫才ブームと『ビッグ3』それぞれの関係」では、漫才ブームと「ビッグ3」の関係は三者三様であるとして、著者は「まず漫才ブームの最中にいたのが、漫才コンビ・ツービートとして活動していたビートたけしである。ツービートは、B&B島田紳助松本竜介ザ・ぼんち西川のりお・上方よしお太平サブロー・シローら、他の若手慢才コンビとともに慢才ブームをリードする存在だった」と述べています。


花王名人劇場』の演出家兼プロデューサーであった澤田隆治は、彼らの万歳はそれまでの漫才とはネタの成り立ちが違っていたと指摘しました。著者は、「昭和の初期にしゃべくり漫才を確立した横山エンタツ花菱アチャコのネタは、座付き作家・秋田實の手になるものだった。エンタツアチャコにおいては、それぞれの個性も大切ではあるが、基本的にかれらはネタの演じ手であり、ネタのなかで与えられた役柄を踏み外すようなことはしない。それに対し、漫才ブームで頭角を現した若手コンビのネタは、澤田によれば『自分たちの体験や考え方でつくられた』自作のネタだった」と述べます。



たけしの場合、そうした本音や主張は、世間の常識に対する批判へと向かいました。「赤信号みんなで渡ればこわくない」のような一連のギャグは、「一億総中流」意識のなかで安穏としている日本人の愚かさや危うさを鋭く衝いたとして、著者は「それは、単なる実体験に基づいた本音や主張とは異なる批評性、知的な魅力を感じさせるものであった。当時たけしが、アメリカ社会を鋭く批判した伝説的スタンダップコメディアンであるレニー・ブルースと重ね合わせて語られることが多かったのは、その証である」と述べています。


次にタモリですが、そもそもタモリは、漫才ブームとはほとんど無関係でした。それ以前からデタラメ外国語や寺山修司ら文化人の思想物まね(口癖や声色だけでなく、本人が言いそうなことを即興的に語る物まね)など、ナンセンスとパロディを真骨頂とする「密室芸人」として、一部に熱狂的なファンのいる、いわばマニア受けするタイプの芸人でした。ところが、1982年にフジテレビ『笑っていいとも!』の司会に抜擢されると、事態は一変します。それをきっかけに、タモリ漫才ブーム以降の笑いの本流を担う存在になるのでした。


そして明石家さんま。著者は、「彼は落語家として出発し、テレビのバラティに出るようになってからも、ひとりで活動するピン芸人であった。したがって、タモリと同じく漫才ブームの中心にいたわけではない。さんまがタモリ、そしてたけしと違っていたのは、関西出身だったということである。漫才ブームには、いわゆる『吉本の笑い』の全国区化という側面があった。ツービートは浅草を拠点にしていたが、紳助・竜介ザ・ぼんちのりお・よしおらはみな吉本興業所属であったし、B&Bも元は吉本興業に所属していた」と述べています。


第1章「『お笑いビッグ3』、それぞれの軌跡」では、1981年に『オレたちひょうきん族』の放送が開始したことが紹介され、著者は「『ひょうきん族』の笑いは、ネタ中心からアドリブ中心へと大きく舵を切ることになった。番組の制作スタイルにもその変化は表れた。従来であれば、放送までに綿密な打ち合わせやリハーサルがあった。台本の読み合わせ、ドライリハーサル(簡単な動きをつけたリハーサル)、カメラリハーサル(衣装姿でのリハーサル)、ランスルー(通し稽古)というように。それに対して『ひょうきん族』では、そうしたやり方をやめた。ドライリハーサルもやらず、段取りだけ決めて、いきなり本番ということすらあった(こうした手法は、裏番組の『8時だヨ!全員集合』が、リハーサルの積み重ねによる練り込まれたコントを売りにしていたのを意識して独自色を出すために採用されたという側面もあった)」と述べます。


第2章「『お笑いビッグ3』とダウンタウンの台頭」では、ビッグ3以降の「お笑い第3世代」が取り上げられます。その代表格の1組が「とんねるず」でした。「テレビを遊び場にしたとんねるず」として、著者は「笑いのかたちとしては、先輩と後輩のような上下関係に基づくものが多かった。彼らが全国的にも有名な帝京高校の野球部とサッカー部の出身で、そうした体育会系の部活動での体験、ノリをベースにしていたからだった」と述べています。「夕焼けニャンニャン」での「タイマンテレフォン」など、彼らはやりたい放題でした。


とんねるずの笑いのもうひとつの柱であるテレビのパロディも、こうした体験から発しているといいます。『とんねるずのみなさんのおかげです。』における「仮面ライダー」のパロディ「仮面ノリダー」はその端的な例であるとして、著者は「それは、学校の人気者が教室や部室で仲間を前にして披露するテレビの物まねの延長線上にあるものだった。高校生の時から視聴者参加型番組に出演していた彼らにとって、プロになってもそうした笑いを続けるのはごく自然なことだった」と述べます。


とんねるずが「お笑い第3世代」の東の代表格なら、西の代表格はダウンタウンです。しかし、とんねるずが東京のテレビ局で大暴れしている頃、ダウンタウンは大阪で苦労していました。彼らの突破口となったのが、東京での初の冠番組ダウンタウンガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系、以下『ガキ使』と表記)です。放送開始時期は、奇しくも『オレたちひょうきん族』が幕を閉じたのと同じ、1989年10月のことでした。



1981年に放送開始した『オレたちひょうきん族』は、1984年度の年間平均視聴率で19.5%を記録し、ライバル視していた『8時だョ! 全員集合』の年間平均視聴率18.2%を抜いてからは常時20%以上の視聴率を記録するようになり、1985~1987年頃までは『ひょうきん族』の独走状態が続きました。初めはお笑い番組らしく漫才コーナーもありましたが、「つまらない」「人気が出ない」と見るやすぐに企画をやめ、新企画を練っていました。また、初期においてはスタジオに一般視聴者を入れてのコーナーもありましたが、その後は客は入れず、ギャグごとに笑い声が被さる演出(録音笑い・ラフトラック。外国のシチュエーション・コメディでよく見られる、いわゆる声のエキストラ)がなされました。


「お笑いから離れ始めたたけし」では、『ひょうきん族』の終了後、ビートたけしは『平成教育委員会』や『ビートたけしのTVタックル』などの出演が増えていき、お笑い芸人というよりもマルチタレントに近づきます。著者は、「そんなたけしの姿は、同じ時期に“笑いの求道者”として、自らの笑いを突き詰めようとしていた松本人志とは対照的だ。だが、両者のあいだには、笑いをめぐる継承関係かある」と述べています。

 

 

たけしは著書『コマネチ!』の中の松本人志との対談において、自身の慢才とダウンタウンの笑いを比べつつ、「(漫才ブームは)あの当時としては新しいことをやってたんだけど、かなり荒いんだよね。その時代のあとに出てきたダウンタウンはもっときめ細かい。おいらの2、4、6、8というネタの切り取り方が、1、2、3、4でとってきたという感じ。乗ったときは、0・1とか0・2の刻みで取り出したという感じがある」と語り、「それは進化だと思う」と感想を述べています。


「芸人世代論はなぜ1990年代に定着したのか?」では、漫才ブーム、そして『ひょうきん族』は、端的に言えばそれ以前のお笑い、テレビバラエティの破壊者だったとして、著者は「1960年代後半のテレビバラエティは、ドリフターズコント55号を軸に動いていた。コント55号は、テレビ画面からはみ出すほどのダイナミックな動きによって、ドリフターズは、『8時だヨ!全員集合』(TBSテレビ系、1969年放送開始)における、徹底して作り込まれたコントによって、それぞれ一世を風靡した。漫才ブームや『ひょうきん族』は、それらを“仮想敵”としていた。」と述べています。


続けて、著者は「コント55号、とくに萩本欽一はその後、素人を起用した『欽ドン』シリーズなどで、優しい笑いで一世を風靡したが、それに対してB&Bは、広島と岡山との地方格差ネタを、ツービートは『毒ガス』ギャグなどの過激な笑いを、それぞれ打ち出した。そして、作り込まれた『全員集合』の笑いに対しては、段取り無視のアドリブを前面に押し出した笑いを対置させた。このようにすることで、漫才ブームや『ひょうきん族』の笑いは、新たな時代の主流となった」とも述べます。

 

とんねるずがブレークしたのは、バブル景気の真っただ中であったとして、著者は「当時の浮かれた社会の雰囲気に呼応するように、彼らは体育会的なノリを武器にテレビの世界で暴れ回った。それは、1980年代前半の消費文化、遊び気分の盛り上がりを背景に誕生した漫才ブームや『ひょうきん族』が体現した、常識の破壊者としての魅力をさらに増幅させたものだった。その意味において、『お笑いビッグ3』ととんねるずは、世代論的には違っていても、笑いのあり方としては本質的には地続きの関係にある」と指摘しています。


それに対してダウンタウンは、関西ではすでにブレークしていたとはいえ、『ガキ使』や『ごっつ』のヒットで全国区の存在となったのは、平成に入ってからでした。そのため彼らの笑いは、バブルが弾けた後の平成日本の雰囲気を色濃く反映させてしていたとして、著者は「平成期に目を向けると、1991年にバブルが崩壊し、95年には阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件が起きた。バブル景気に沸いた80年代後半とは打って変わって、社会の各所で綻びがあらわとなり、不安が広がる時代となった。そこにおいてダウンタウンの笑いは、一種の救いとして機能したように思える。戦後の昭和期とは異なる笑い、ボケとツッコミの伝統的なスタイルではない、新しい笑いが求められるようになるなかで、ダウンタウンのフリートークやコントは、実験的で過激な面もあったものの、新しく魅力的な『笑いの共有関係』を私たちにもたらしたのである」と述べるのでした。


第3章「『M-1グランプリ』と『お笑いビッグ3』」の1「ダウンタウンが『スタンダード』に」の冒頭を、「『前衛』から『スタンダード』へ」として、著者は「ダウンタウンをはじめとする『お笑い第3世代』と、すでに地位を確立していた『お笑いビッグ3』の双方が拮抗する1990年代にあって、お笑いの世界はひとつのピークを迎えた。新旧の世代が対峙しつつも共存するなかで、両者の笑いに触れることで笑いのリテラシーを身に着けたファンや視聴者が一定の層をなすことによって、『笑う社会』としての日本社会は高度な発展を遂げたのである」と書きだしています。


しかし、その一方で時代は動いてもいました。実験的とも言える最先端の笑いで「前衛」に位置していたはずのダウンタウンの笑いは、次第に一般の人々にとっての笑いの「スタンダード」となっていったとして、著者は「それに伴い、『お笑いビッグ3』の立ち位置も、徐々にではあるが変化していく。2000年代はそうした変容が進むなかで、お笑い芸人のあいだにおいても、『ボケとツッコミ』という笑いの基本スタイルをめぐって、新たな模索が始められた時代だった。その分岐点となったのが、2001年にスタートした漫才コンクール『M-1グランプリ』である」と述べます。

 

 

島田紳助という理解者」では、『M-1グランプリ』の発案者であった島田紳助によれば、漫才ブームをともに担ったB&Bやツービートも、同じような発想をしていたといいます。紳助は、著書『自己プロデュース力』において、「それまでの漫才が4ビートだとしたら、『そんなのは古いねん。オレたちは8ビートでやろう』と言って、漫才のテンポを早くした。それを偶然同時にやったのが紳竜B&B、ツービート。そして、そのスタイルはいつの間にか主流になっていった」と書いています。ところが、NSCに講師として招かれて行った際にダウンタウンの漫才を見た伸助は衝撃を受けます。彼らの漫才のテンポが遅かったからです。紳助は同書で「ダウンタウンの笑いは4ビートでした。かといって古いわけではなく、ネタの中身は僕たちの漫才と同じように、若い人に向けたものでした。それを違うリズムでやっていたんです」と述べています。それは、ビートたけしも気づいていたことでした。


「『武』と『武』の“ふれ幅”効果」では、北野映画に対する評価は海外を中心に高まったことが紹介され、著者は「1999年のカンヌ国際映画祭で『菊次郎の夏』が上映された際には、スタンディングオベーションが巻き起こり、しばらく鳴りやまなかった。2007年には、カンヌ国際映画祭が選んだ著名監督35人のなかに、日本人として唯一選ばれもした。また2005年には東京芸術大学大学院映像研究科の特別教授に就任し、映画界だけでなく、アカデミズムからも、その芸術性が認められた。こうして映画監督・北野武の地位は、揺るぎないものとなった。そこには当然、社会的権威が伴う。映画監督・北野武は『偉い』ひとになったのである。そしてそのことは、お笑い芸人・ビートたけしにとって、絶好のフリになる。権威を身にまとった人間が、奇妙な扮装で無茶をしたり、つまずいて無様にコケたりすれば、たとえ単純であっても、それだけで面白い。“ふれ幅”をによる効果である」と述べます。

 

第4章「笑いの新たな潮流」の1「お笑い芸人とユーチューバー――ネットの笑いはユルいのか?」の冒頭を、「お笑い芸人は知的?」として、著者は「1980年代初頭の漫才ブーム以降、お笑い芸人という職業の社会的地位は上昇した。『人を笑わせること』の難しさを世間が認めるようになるとともに、お笑い芸人が尊敬される対象となったからである。『お笑いビッグ3』の息の長さは、そうした時代ならではのことでもあった。そのことはやがて、お笑い番組やバラエティ番組以外へのお笑い芸人の進出を促す。『人を笑わせる』には頭が良くなくてはいけない、つまり知性が必要というとらえ方が浸透した結果、それまでアナウンサーやジャーナリストが担当してきた報道番組や情報番組・ワイドショーのメインにお笑い芸人を起用する流れが定着する」と述べています。

 

「“芸人至上主義”の背景」では、「笑う社会」が発展する中で、笑いは複雑さを増し、より高度なものとなっていったとして、著者は「その起点となったのが『お笑い第3世代』、とりわけダウンタウンの登場であり、その流れのなかで『M-1グランプリ』が誕生したという経緯は、これまで述べてきた通りだ。そしてその結果、笑いができる人とそうでない人、笑いがわかる人とそうでない人、といった評価基準による階層秩序(ヒエラルキー)が生まれていった。要するに、テレビを中心として発展した1980年代以来の『笑う社会』の歴史においては、内輪感覚に基づく一体感の深まりと、笑いに関する個人的能力に基づく階層化という相反する動きが同時に進行してきた。このうち、先に述べた“芸人至上主義”は、階層化の帰結ということになる。お笑い芸人は、笑いのヒエラルキーの頂点に立ったのである」と述べています。


ところが2010年代になると、ネットという新たなメディアが急速に普及し、それに伴ってエンタメを担う新たな職業が脚光を浴び始めます。ユーチューバーです。2019年末、こんなニュースが話題になりました。学研ホールディングスが小学生を対象に行った調査「将来就きたい職業ランキング」の男子の部門で「YouTuberなどのネット配信者」が1位になったのです。しかし、YouTubeの笑いは、さんまのような芸人からは否定的に見られています。それは、なぜか。著者は、「それはおそらく、ユーチューバーの動画には『オチがない』からだ。正確に言えば、オチを前提にした構成にはなっていない。例えば、『~してみた』という動画の場合、やってみた結果、意外なハプニングや展開が生まれ、それがオチのようになって笑いを生むことはある。しかし、必ずしもそれは意図して導かれたものではない」と指摘しています。


さんまのような、常に笑いをとるための計算をしている立場からすると、こうした動画はそこに潜む笑いの可能性を最大限には引き出せておらず、「ヌルい」ものとみなされるとして、著者は「つまり、『お笑い怪獣』のさんまにとって、笑いへの貪欲さが足りないのである。しかしながら、ユーチューバーの動画は、お笑い芸人のネタとはそもそもベクトルその ものが異なっている。ユーチューバーにとって、結果がどうなるかに関係なく、視聴者が 求めているだろうことをやってみせるのが最も重要なのであり、やってみた時点で所期の 目的は達せられている。別の言い方をすれば、視聴者の代表としてなんでもやってみること、そして視聴者の共感を得てバーチャルなコミュニティを形成すること、それがユーチューバーの目指すものなのである」と述べるのでした。


「“二刀流”芸人の登場――テレビからYouTubeへ」では、さんまが強調するような「プロ」と「素人」、テレビとYouTubeのきっちりとした棲み分けは、急速に過去のものとなりつつあると指摘し、著者は「ここ数年のあいだに、有名お笑い芸人のYouTube進出が相次いだ。なかでも2020年6月にとんねるず石橋貴明が公式チャンネル『貴ちゃんねるず』を開設したことは大きな話題を呼んだ。1980年代からテレビを自分の庭のようにしてきた、『お笑い第3世代』の一角を占めたとんねるずの石橋が、ネットに活動の場を求めたことにはインパクトがあった。近年、お笑い芸人が次々とネットに進出する背景には、コンプライアンス意識の高まりがあると言われる。かつては許された過激な企画も、昨今の社会規範や社会通念の変化に照らしてテレビでは許容されにくくなった。その結果、より自由な環境を求めた芸人たちがネットに目を向け始めたというわけである」と述べています。


「『やさしい笑い』の時代――さんまからサンドウィッチマンへ」では、さんまから「好きな芸人」ランキング1位を奪ったサンドウィッチマンの笑いは、「人を傷つけない笑い」だと評されると紹介し、著者は、「M-1優勝時に披露した『街頭アンケート』と『ピザの出前』のネタにしても、日常のよくある場面を設定して、富澤たけしのボケと伊達みきおのツッコミがテンポ良くやり取りを展開するというもの。ボケの内容としては何気ない聞き間違いや勘違いなどがベースである。そのため世代や性別を問わず、安心して笑うことができる」と述べています。


ただ、当時はサンドウィッチマンの笑いを「人を傷つけない」という観点から評価する声はまだそれほど見られなかったとして、著者は「あくまで漫才コンビとして呼吸の合った部分やネタの完成度の高さが評価されていた。ところが、ここ数年のあいだに『人を傷つけない』という観点からの評価がぐんと高まった。その表れが、序章でふれた2018年の『好きな芸人』ランキング1位の獲得である。しかもそれは、お笑い芸人の世界で長らくトップの座にあり、『好きな芸人』ランキングでも14年連続で1位の座にあった明石家さんまに取って代わってのことであった」と述べます。サンドウィッチマンの人気が、誰かを「いじる」ことで笑いを取ることが一般化していた従来の風潮へのアンチテーゼから来ていることは間違いないでしょう。


「お笑いビッグ3」については、2000年代に築いたポジションを2010年に入ってもそのままキープし続けたとして、著者は「ビートたけしは映画監督としての成功をベースにしつつ、テレビではご意見番としてのポジションをますます確固たるものにしている。タモリは、『ブラタモリ』や『タモリ倶楽部』のような番組を通じて趣味人としての道を究め、これぞタモリと言うべきマイペースな活動ぶりだ。そのなかで明石家さんまだけが、笑いの最前線で活躍してきた。1980年代以来、『ボケとツッコミ』の笑いを基盤に成立した『笑う社会』の衰えぬパワーの象徴が、さんまであった」と述べています。



3「『肯定する笑い』の時代へ」では、「漫才ブームの歴史的意味」として、高度経済成長とともに普及したテレビは、同質性の意識を日々確認するための手段でもあったと指摘し、著者は「皆が同じ番組を見ているという感覚が、一体感の証となったからである。『NHK紅白歌合戦』が、いまだに破られていない81・4%という驚異的な視聴率を記録したのは、東京オリンピックが開催される前年、1963年のことだった。高度経済成長の真っただ中にあって、この番組は国民の年中行事となったのであり、まさにそれは象徴的な出来事であった」と述べています。


「ボケとツッコミ」の笑いは、同質的社会を維持する基盤になりました。その中で、例えば「いじる」という、他者とのかかわりかたが市民権を得ていくことを指摘し、著者は「笑いにおいて『いじる』という表現は、相手を軽くからかうことを指す。その範囲は広い。日常のちょっとした失敗から、『ハゲ』『デブ』『ブス』といった容姿、『貧乏』といった経済状況、あるいはその人物の過去の恥ずかしい失敗や性的嗜好に至るまで、さまざまだ。『ボケとツッコミ』の図式に照らせば、これらの特徴を一種のボケととらえ、ツッコむのが『いじり』ということになるだろう」と述べています。



こうした「いじり」には、しばしば言われるように「いじめ」と紙一重のところがあるとして、著者は「軽くいじっているつもりが、暴力や差別と何ら変わらないものとなり、相手を深く傷つけてしまうことが起こり得る。それでも『いじり』は、バラエティ番組における笑いのツールとしてなくなってはいない。それは、同質性という前提が、その場における意識として決定的に揺らいではいないからである。それによって、いじられた側が『おいしい』というとらえかたも出てくる。だからこそ、一定の限度はあるにせよ、個人の属性を笑いのネタにすることが許容される」と述べるのでした。

 

「『一億総中流』意識の揺らぎ」では、2000年代に入ったあたりから、現実社会において、そうした同質性の意識に揺らぎが生じ始めたことが指摘されます。一方で、オタクの大衆化による「一億総オタク」化の傾向も見て取れます。矢野経済研究所が実施した2017年の調査によれば、18歳から69歳の男女のうち、約5人に1人が「オタク」(「自分自身をオタクと思っている、または、人からオタクと言われたことがある人)であるという結果が出ました。この調査では、2030年にはオタクの比率は30%を超え、40%に近づくと予測しています。


「オタクの大衆化」では、こうしたオタクの大衆化傾向は、一定の豊かさが維持されてきたなかで個人優先の生き方が成熟したことの帰結ととらえられるはずだとして、著者は「出世や経済力の上昇を望むのではなく、個人的な趣味・嗜好の充実を優先させる生き方を選ぶ人が、無視できない数になってきたのである。そのことは、社会そのものの構図を変えていく。「一億総中流」の時代にあっては、日本社会全体でひとつの“巨大な世間”が形作られていたとすれば、「一億総オタク」の時代においては、趣味・嗜好に応じて“小さな世間”がそこかしこに形成され、群れをなすようになる。言い換えれば、同質性のかたちが細分化・多様化することで、それまでの一枚岩的な同質性を前提にした社会ではなくなりつつあるのである」と述べます。



「他者を肯定する笑い」では、サンドウィッチマンは、2011年3月11日に東日本大震災が発生した際、たまたまテレビ番組のロケで宮城県気仙沼に来ていたことを紹介し、著者は「まさに当事者として震災を体験したわけである。もともと2人は東北出身ということもあり、震災後の復興に向けたボランティア、募金活動、お笑いライブなど、さまざまな被災地支援活動に熱心に取り組むことになる」と述べています。

 

時代は、彼らのような社会とのスタンスの取りかたを、お笑い芸人にも求めるようになりつつあると指摘し、著者は「彼らの代名詞である『人を傷つけない笑い』『やさしい笑い』は、世間の空気に忖度して当たり障りのないことを言う笑いではない。他者との共存を実現していくための、きわめて繊細かつ実践的な笑いである」「相互性の笑いとは、見知らぬ他者との共存のしかたを探り続けることであり、真の意味において他者を肯定する笑いに他ならないのである。」と述べるのでした。


最終章「『笑う社会』の行方――「お笑いビッグ3」が残したもの」では、2020年の『M―1グランプリ』で優勝したマヂカルラブリーが取り上げられます。彼らが決勝で彼らが披露したネタをめぐって論争が起こったことを紹介し、著者は「まだ記憶に新しいところだが、マヂカルラブリーのネタに対して少なからぬ視聴者がSNSなどで『あれは漫才なのか』などと書き込んだところ、『あれは漫才だ』といった反論がなされたのである。しかもそれは視聴者だけにとどまらず、松本人志など、当日の審査員や他のお笑い芸人をも巻き込んでの大論争に発展した。なぜ、『あれは漫才なのか』という声が沸き上がったのか? いくつか理由はあるだろうが、ひとつはマヂカルラブリーのネタが“しゃべらない漫才”だったからである」と述べています。


ボケとツッコミの定型をいかに崩すかということが、もうひとつの漫才の歴史であり、それを最も先鋭的におこなったのが「お笑い第3世代」のダウンタウン、なかでも松本人志だったとして、著者は「例えば、松本が『一人大喜利』をしたとき、そこでなされたのは、ツッコミなしのボケだけで笑いは成立するかという果敢な実験であった」と述べます。また、M-1審査員を務める松本人志が、「あれは漫才なのか」という疑問に答えて言った「漫才の定義は基本的にない」という言葉は、松本自身の信仰告白でもあったと指摘します。


そしてそのとき、漫才の歴史は上書きされることになったのでした。伝統的なしゃべくり漫才ではなく、ダウンタウン的な崩す笑いが漫才の新たな歴史的起点となり、漫才は「なんでもあり」の自由なものであることが“公式見解”となったと指摘し、著者は「そうなれば、マヂカルラブリーの『掛け合いのない漫才』も、漫才の定義を裏切るという点で立派な漫才である。結局、『あれは漫才なのか』論争は、論争の帰趨そのものよりも、そうした歴史の書き換えをもたらした出来事として記憶されるべきものであるように思う」と述べるのでした。

 

「あとがき」で、著者は、「お笑いビッグ3」をシンボリックな存在とする1980年代以降の「笑う社会」、すなわち笑いが世界の中心になった社会の変遷を描き出すことが本書の基本テーマであるとして、「直接のきっかけは、ここ数年のあいだで、見ない日はないと言っていいくらいになった『お笑い第7世代』の存在である。そこには確かにブーム的側面もあるだろうし、それぞれの芸風も一様ではない。だが私には、もっと深いところでの笑いと社会の関係性の変化が、そこに表れているように思われた。そしてそこに生まれる新しい笑いを、本書では『相互性の笑い』と名づけた」と述べています。

 

「相互性の笑い」は、社会の中に存在する他者とのさまざまなギャップを認めた上で、その違いを互いに肯定するなかから生み出されるような笑いのことであるといいます。そして、それは、「一億総中流」意識のような一体感を前提にして成立するような、これまでの「同質性の笑い」とは本質的に違っているのです。最後に、著者は「『同質性の笑い』から『相互性の笑い』へ。私には、いま、笑いが大きな過渡期を迎えつつあるように見える」と述べるのでした。社会学者の著者が書いただけあって、本書を読んで、「お笑い」が社会を映す鏡であることがよく理解できました。コロナ後のお笑いはどうなるのでしょうか?

 

 

2021年9月30日 一条真也

岸田新総裁に期待すること

一条真也です。
29日、13時から副理事長を務める一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団のオンライン会議が開催。同時刻に、事実上、次の総理大臣を決める自民党総裁選が行われましたので、社長室のテレビを無音でつけて、投票のようすをチェックしながら会議に参加しました。決選投票の結果、岸田文雄政調会長が新総裁に選出されました。

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新総裁誕生の瞬間!

 

岸田氏は1回目の投票で国会議員票と党員票を合わせて、256票を獲得しトップに立ちましたが、過半数の得票には至らず、2位となった河野行革担当大臣との間で決選投票が行われました。決選投票の結果は岸田氏が257票、河野氏が170票でした。わたしは冠婚葬祭互助会政治連盟の副会長も務めていますので、総裁選についての情報は逐一入っていました。早い段階で岸田氏の勝利を確信していましたが、岸田総裁が誕生して良かったと思います。

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岸田氏はわが母校である早稲田大学の出身ですが、久々の早大出身総理が誕生します。大学院まで行かれたとのことで、勉強熱心なのは素晴らしいことです。やはり、国家のリーダーには知性と教養が欠かせないと思います。見た目の印象もスカッとした印象で、海外の国家首脳とサミットなどで並んでも遜色ありません。いずれ日本国の第100代総理大臣になられるであろう岸田新総裁には、いろいろと期待したいことがあります。



まずは、コロナ対策。この先も感染拡大の波は来るでしょうが、いたずらに国民に自粛を強要したり、飲食店いじめをするのは止めていただきたい。岸田氏は政界きっての酒豪で、ロシアの外相と朝までウオッカの飲み比べをしても負けなかったといいます。お酒の素晴らしさを知っておられるだけに、ぜひ、アルコールの全面解禁を期待いたします。また、日本の最大の国難少子化による人口減少ですので、若者が結婚しやすい、また結婚式を挙げやすい政策を行なっていただきたいと希望いたします。「GoToトラベル2.0」などよりも、ぜひ「GoToウエディング」を実施していただきたい!


最後に、岸田新総裁の選挙区は広島です。アメリカでは「ヒロシマ出身者が日本の総理大臣になるのは好ましくない」などという声もあったようですが、原爆の悲劇を世界中にアピールし、平和を訴えていただきたい。わたしの妻も広島出身ですが、岸田新総裁の誕生を喜んでいました。妻の高校の先輩である元参議院議員溝手顕正氏は岸田氏の心の師ですが、河井安里氏の出馬によって落選。その後、河井克之元法相と安里氏の夫妻は公職選挙法違反で逮捕されました、自民党から出た1億5000万円の行方をしっかり追及して、師の無念を晴らしてほしいです。



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2021年9月30日の各紙朝刊

 

2021年9月29日 一条真也

『ニッポン男性アイドル史』

ニッポン男性アイドル史 一九六〇―二〇一〇年代 (青弓社ライブラリー)

 

一条真也です。
「嵐」櫻井翔相葉雅紀が、それぞれ一般人女性との入籍を電撃発表しました。国民的グループの5人のメンバーのうち2人が揃って結婚をファンに報告するという、日本アイドル史上例を見ないビッグニュースです。


『ニッポン男性アイドル史』太田省一著(青弓社)を紹介します。「一九六〇-二〇一〇年代」のサブタイトルがついています。著者は1960年生まれ。社会学者、文筆家。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本の関係が研究および著述のメインテーマ。それを踏まえ、現在はテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、ネット動画などメディアと文化に関わる諸事象について執筆活動を続けています。著書にブログ『SMAPと平成ニッポン』で紹介した本をはじめ、『中居正広という生き方』(青弓社)、『木村拓哉という生き方』(青弓社)、 『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)など。

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本書のカバー表紙の下部

 

本書のカバー表紙には、日本芸能史を飾って来た男性アイドルたちのイラストとともに、「男性アイドルとして存在感を放つジャニーズを軸に、歌手だけでなく、俳優、バンド、ダンスグループのアイドル的な側面にも光を当てる。未完成の存在であるがゆえの成長する魅力で私たちを引き付けてやまない男性アイドルの歴史を、戦後の日本社会やメディア文化との関係から描き出す」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、「1960年代のグループサウンズとジャニーズのライバル関係に始まり、70年代の新御三家、学園ドラマの俳優、80年代のたのきんトリオチェッカーズなど、多岐にわたる男性アイドルの足跡を、『王子様』『不良』『普通の男の子』というキーワードをもとにたどる。さらに、アイドルの定義を変えたSMAP、国民的アイドルになった嵐、その一方で独自のスタイルを構築したDA PUMPやEXILE、菅田将暉ら特撮ドラマ出身の俳優、K-POPアーティストなど90年代から現在に至る多彩な男性アイドルの魅力と特質を明らかにする。またテレビ、映画、舞台、SNSや『YouTube』などアイドルの多メディア展開も射程に収め、未完成の存在であるがゆえの成長する魅力で私たちを引き付けてやまない男性アイドルの歴史を、日本社会やメディア文化との関係から描き出す」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 序章 男性アイドルは、どのように変わって来たか
第1章 GSとジャニーズ
  ――1960年代、男性アイドルの幕開け
第2章 「新御三家」の時代
  ――1970年代の本格的な拡大
第3章 学園ドラマと「ロック御三家」
  ――1970年代の多様化
第4章 ジャニーズの復活とロックィドルの人気
  ――1980年代の全盛期
第5章 SMAPとダンスアイドルの台頭
  ――1990年代の新たな男性アイドル像
第6章 嵐の登場と「ジャニーズ1強時代」の意味
  ――2000年代以降の「国民的アイドル」のかたち
第7章 ジャニーズのネット進出、
    菅田将暉とBTSが示すもの
  ――2010年代という新たな変革期
 終章 男性アイドルとはどのような存在なのか
「あとがき」



序章「男性アイドルは、どのように変わって来たか」の1「男性アイドルの二大タイプ、『王子様』と『不良』」では、憧れをかき立てるやさしい「王子様」タイプとギラギラした野性味あふれる「不良」タイプ。この二つのタイプが競い合うことで、男性アイドルの世界は展開してきたと主張されています。たとえば、1960年代の初代ジャニーズとGS(グループサウンズ)、さらに70年代の郷ひろみ西城秀樹などは、それぞれ「王子様」と「不良」のタイプを担いながら時代をかたちづくった存在だったと指摘しています。これは、わたしも気づいていました。



続けて、著者は「ここでひとつ気づくのは、『王子様』タイプを担ったのがいずれもジャニーズアイドルだったこと、そして『不良』タイプを担ったのがそれ以外のアイドルだったことである。言い換えれば、ジャニーズアイドルの原点は『不良』ではなく『王子様』であり、それは1970年代まで変わらなかった。たとえば、70年代後半にロックミュージシャンがアイドル化した『ロック御三家』(Char、原田真二世良公則&ツイスト)の人気などは、『不良』タイプのアイドルがジャニーズ以外の領分だったことを物語るものだろう」と述べています。


大きく状況が変わるのは、1980年代からでした。70年代後半、勢いを失っていたジャニーズは、たのきんトリオ田原俊彦近藤真彦野村義男)のブレークによって息を吹き返すのです。著者は、「学園ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系、1979年放送開始)の生徒役から人気者になった3人には、それまでの男性アイドルにはない『普通の男の子』の魅力があった」と述べています。


また、著者は以下のようにも述べています。
「しかしそのなかでも、田原俊彦はジャニーズの伝統を受け継ぐ『王子様』タイプ、近藤真彦はやんちゃなイメージの『不良』タイプと従来の構図は引き継がれていた。このとき以来、『王子様』の系譜では少年隊、『不良』の系譜では男闘呼組といったように、ジャニーズが双方のタイプを一手に引き受ける時代が始まった」


ジャニーズが男性アイドル全般をカバーし、「男性アイドル=ジャニーズ」になる流れの大本は、ここにあるとして、著者は「1980年代後半に社会現象的ブームを巻き起こした光GENJIにしても、基本は『王子様』タイプでありながら、そこにやんちゃなタイプのメンバーもいるなど『不良』要素が絶妙のさじ加減でミックスされていた」と述べます。光GENJIの後には、SMAPが登場。


2「『普通』を男性アイドルの常識にしたSMAP、そして嵐」では、「普通」という魅力は、たのきんトリオにもあったものでしたが、著者は「SMAPは、それを『男の子』と呼ばれるような年齢に限定されないアイドルの魅力として認めさせたところが、決定的に新しかった。そしてSMAPのアイドル史に残る圧倒的成功は、必然的に『普通』を男性アイドルのスタンダードにした」と述べます。

 

そこには平成の日本社会に特有の時代背景もあったと指摘する著者は、「平成は、バブル崩壊に始まり、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件東日本大震災、さらに格差の拡大などによって漠然とした不安が社会全体に広まった時代、裏返して言えば当たり前に普段どおりの生活を送れることの価値が再認識された時代だった。だからこそ、そうした状況のもとでアイドルが『普通』を全うする姿は、より輝きを増した。実際、SMAPは、阪神・淡路大震災東日本大震災の際など、社会との接点を積極的にもとうとした点でも新しいアイドルだった」と述べています。


SMAPの「普通」の魅力を引き継いだのが、1999年にデビューしたジャニーズ事務所の後輩、嵐でした。著者は、「SMAPが切り開いた男性アイドルの生きる道筋は、その後デビューしたほかの多くのジャニーズグループにとってのお手本になった。そのなかでも嵐は、より普通らしい『普通』の魅力を備えたグループとして、2000年代以降のジャニーズグループの象徴的存在になった」と述べています。第1章以降は、グループサウンズ(GS)前夜からの日本のアイドル史を振り返っていきます。


第1章「GSとジャニーズ」の「エレキブームからGSブームへ」では、1960年代に大ブームとなったベンチャーズビートルズの音楽性を比較しながら、著者は「ベンチャーズの音楽はインストゥルメンタル、つまり演奏だけでボーカルがないものだった。それに対し、ビートルズは演奏しながら歌うスタイル。エレキギターと歌の組み合わせは当時の日本人にとっては新鮮で、ビートルズの来日をきっかけに、今度はそのスタイルを模倣するバンドが続々誕生した。それが、GSブームの土台になっていく」と述べています。

 

GS最初のレコードは、1965年5月発売のザ・スパイダース「フリフリ」。著者は、「フリフリ」について、「ビートルズの来日よりも前だが、この曲の作詞・作曲者でもあるメンバーのかまやつひろしは、海外の最新音楽動向に詳しかった。そのために、日本ではベンチャーズスタイルが全盛のなかでいち早く歌入りの楽曲をリリースしたのである。そこには、スパイダースが所属していた芸能事務所ホリプロダクションの思惑もあった」と述べます。


意気込んで作ったものの洋楽色が強い「フリフリ」は、歌謡曲全盛の時代にはヒットするまでに至りませんでした。ホリプロダクションの創業者である堀威夫は、マネジメントする立場としてまずヒット曲を出すことにこだわったといいます。そこで堀からスパイダースに提案したのが、歌謡曲のヒットメーカー浜口庫之助が作った「夕陽が泣いている」(1966年9月)でした。著者は、「夕焼けを太陽が泣いている様子に見立てた詞がいかにもセンチメンタルなバラード曲だが、曲調はやはり歌謡曲的でスパイダースは難色を示した。しかし発売してみるとこれが100万枚を超える大ヒットになり、スパイダースは一躍人気グループとなる」と述べます。


その機をとらえた堀は、事前にスカウトして準備を進めていたほかのGSグループを一斉にデビューさせました。「亜麻色の髪の乙女」のヴィレッジ・シンガーズ、「小さなスナック」のパープル・シャドウズ、「ガール・フレンド」のオックス、「朝まで待てない」のザ・モップスなどで、これらはいずれもホリプロダクションの所属でした。そこにザ・タイガースザ・ワイルド・ワンズの渡辺プロダクション勢、さらにジャッキー吉川とブルー・コメッツやザ・テンプターズなども加わり、一気にGSブームが到来するのでした。

 

2「『不良』だったGS、『夢』を追ったジャニーズ」では、GS出身者からアイドル的な存在も生まれたことが紹介されます。代表は、タイガースの沢田研二テンプターズ萩原健一、スパイダースの堺正章などです。著者は、「あらためて言うまでもないが、沢田はソロ歌手、萩原は俳優、そして堺はコメディアンとして再出発し、それぞれ一世を風靡した。そして分野も芸風も異なるとはいえ、そこにはやはり前述したようなGS的不良性が感じられる」と述べています。


3「『王子様』フォーリーブスジャニー喜多川の哲学」の「GSとジャニーズ、その基本路線の対立」では、GSを魅力的なものに見せていたのは不良性だったとして、著者は「それは、この時代特有の反体制気分も含んでいたものの、最終的には政治色が薄いエンタメ限定のものとして発展した」と述べます。「ツッパリ」「ヤンキー」「やんちゃ」といったその後の男性アイドル史に登場するキャラクターは、ここで定まった「不良」イメージのバリエーションでもあるのです。


「テレビを味方につけた『王子様』フォーリーブス」では、ジャニーズ事務所の創業者であるジャニー喜多川は、GSと徹底的に差別化するためにジャニーズのタレントを健全なアイドル、その理想形としての「王子様」として打ち出す戦略をとりました。その戦略を体現したのが、初代ジャニーズの弟分にあたるフォーリーブスでした。フォーリーブスは、仕事よりも学業を優先する方針を打ち出し、舞台上でもGSとの違いを意識した演出がなされました。そして、初代ジャニーズの教訓に基づくフォーリーブスの戦略的独自性はテレビの重視にありました。フォーリーブスは、音楽番組(NHK「紅白歌合戦」は1970年から7回連続出場)だけでなく、バラエティ番組にも積極的に出演したのです。



2章「『新御三家』の時代」では、1970年代に人気を集めた西城秀樹野口五郎郷ひろみの「新御三家」が取り上げられます。御三家という括り方について、著者は「日本特有のことなのかどうかはわからないが、『三』という数字でその分野を代表させるパターンは少なくない。芸能の分野もそうだ。女性歌手だと、『三人娘』(美空ひばり江利チエミ雪村いづみ)や『新三人娘』(小柳ルミ子南沙織天地真理)がすぐに思い浮かぶ。そして男性歌手では、1960年代前半に登場した橋幸夫舟木一夫西郷輝彦の『御三家』がいた。3人全員がデビュー年にレコード大賞新人賞受賞と『NHK紅白歌合戦』初出場を果たし、その後も長く活躍した」と述べています。


2「野口五郎西城秀樹――対照的だった二人のアイドル」の「ロックとアイドルを共存させた『不良』西城秀樹」では、西城秀樹が一貫して追求したのは歌謡曲と洋楽、特にロックの要素を融合した良質の「歌謡ロック」だったと言えるとして、著者は「同じ方向性を共有していた沢田研二と同様、当時としては珍しく自前のロックバンドを従えて歌ったのは、その表れである。また『傷だらけのローラ』のようなバラード曲にしても、本人が言うように『洋楽と日本のメロがうまく融合したようなオリジナリティのあるメロディ』のものだった」と述べます。


西城秀樹の最も興味深い点は、根っからのロック志向でありながらも、同時に現在のアイドル文化にも影響を与えるスタイルの開拓者になりえたところであると指摘する著者は、「ファンのコールや振り付けはその一端だ。また、現在ではアイドルの現場に必須のペンライト(サイリウム)による応援のパイオニアであるともされる。またスタジアムコンサートを開催し、ゴンドラやクレーンを使った演出など現在のアイドル文化に残した影響は小さくない」

西城秀樹は、GSからの系譜を受け継いだという意味で、男性アイドルの『不良』タイプの正統的な後継者のポジションにあった。当時の人気劇画を映画化した『愛と誠』(監督:山根成之、1974年)で不良の主人公・大賀誠を演じたのも、その点で必然であった」と述べるのでした。『愛と誠』は、梶原一騎の原作、ながやす巧の作画で、「週刊少年マガジン」(講談社)にて1973年3・4合併号から1976年39号まで連載された日本漫画史に燦然と輝く名作で、1975年には講談社出版文化賞児童まんが部門を受賞しています。


3「郷ひろみ、そして『新御三家』のアイドル史的意味」の「『王子様』の系譜を継ぐジャニーズアイドル、郷ひろみ」では、西城秀樹が男性アイドルの「不良」の継承者だったとすれば、もうひとつの系譜である「王子様」のポジションにいたのが郷ひろみだったとして、著者は「それは、郷ひろみが『王子様』的アイドルの原点であるジャニーズのタレントだったという意味でも自然な流れだった」と述べています。郷ひろみは、もともと本名の「原武裕美」としてフォーリーブスの弟分でしたが、ファンから絶大な支持を受け、初めてテレビ番組のステージに立ったとき、会場の女性たちから一斉に「ゴーゴーゴーゴー レッツゴーヒロミ」というコールを浴びせられ、これに驚きと感激を味わった彼が、この「ゴー」につなんで芸名を「郷ひろみ」に決めたといいます。


デビュー曲「男の子女の子」のレコーディングディレクターだった酒井政利によれば、デビュー当時の郷ひろみは、「幾分ふっくらとした幼さの残る男の子ではあったが、目だけは決して子供のそれではなかった。ひと言で言えば、茫洋とした目、何を考えているのだろうかと思わせるような目・・・・・・であった。そして無口で、愛想笑いなど一切しない少年であった」と述べ、その魅力を「不気味」と表現しています。著者は、「それはおそらく、『郷ひろみ』という『王子様』的アイドルが、男性か女性か、子どもか大人かというような性別や年齢についての固定観念を第超えたところにいることを酒井なりに表現したものだろう」と述べています。


そこには、既存の性別を超えたところにあるエンターテインメントという点で、宝塚歌劇にも通じるものが感じられるとして、著者は「実際、『男の子女の子』の詞を担当したのは、越路吹雪との盟友関係で知られ、宝塚歌劇団出版部にいた経歴をもつ作詞家・岩谷時子だった。その後も岩谷は、『裸のビーナス』(1973年)、『花とみつばち』(1974年)など郷ひろみの初期ヒット曲の多くを手掛けることになる。そうした積み重ねのなかで、(これは岩谷の詞ではないが)『よろしく哀愁』(1974年)が郷自身、そしてジャニーズにとっても初のオリコン週間シングルチャート1位を獲得するに至るのである」と述べるのでした。

第3章「学園ドラマと『ロック御三家』」では、1970年代の男性アイドルの多様化について書かれています。1「森田健作と学園ドラマのアイドル化」の「思わぬ成功だった『青春とはなんだ』」では、学園ドラマの分野を大きく開拓したのは日本テレビだったとして、「記念すべき第1作は、石原慎太郎の同名小説が原作の『青春とはなんだ』(1965-66年)である。主演は当時東宝のスターだった夏木陽介。夏木が演じたのは、アメリカ帰りの新任教師・野々村健介。彼が赴任するのは田舎の小さな町の高校である。その町にはいまも昔からのしきたりが残り、人びとは閉鎖的だ。野々村はそんな古い慣習や価値観に反発し、アメリカ仕込みの果敢な行動力で生徒が抱える悩みや問題を解決していく。封建的な人びとに立ち向かう民主主義的な熱血教師。そんな学園ドラマの基本構図が当初から明確だったことがうかがえる。夏木演じる教師がアメリカ帰りで、しかも都会ではなく田舎の学校に赴任するという設定も、その対比を強調している」とあります。


「生徒が主役になった森田健作『おれは男だ!』」では、1970年代に入って登場した作品が、再び学園ドラマを活性化したことが紹介されます。森田健作主演の『おれは男だ!』(日本テレビ系、1971-72年)がそれです。最大の変更ポイントは、教師ではなく生徒が主人公になったことでした。著者は、「従来の学園ドラマの教師が完全無欠のヒーローだったとすれば、この『おれは男だ!』で森田健作が演じる生徒は、迷い悩みながらもライバルとの切磋琢磨のなかで成長していく、いわばアイドル的なキャラクターだった。学園ドラマでも1970年代になって、アイドルの時代が本格的に到来したのである。学園ドラマ出演の若手人気俳優は、『新御三家』とともに男性アイドル界の一角を担う存在になっていく」と述べています。


著者は、『おれは男だ!』に“歌謡ドラマ”の趣があった(初回にはフォーリーブスが本人役で出演し、歌った)ことに注目し、アイドル化の一端であると見ます。また、森田健作は自ら主題歌「さらば涙と言おう」を歌い、これがヒットしました。劇中で森田が挿入歌「友達よ泣くんじゃない」を歌うミュージックビデオ風の場面もありました。また不良生徒役で当時人気を集めた石橋正次日本テレビ系『飛び出せ!青春』の挿入歌「夜明けの停車場」(1972年)をヒットさせ、『NHK紅白歌合戦』にも出場したほどでした。


2「中村雅俊の登場と‟終わらない青春”」の「「中村雅俊が体現したモラトリアム」では、村野武範主演の『飛び出せ!青春』(1972年~73年)の世界をそのまま引き継いだ続編『われら青春!』(1974年)で新人ながら主演を務めた中村雅俊の魅力は、繊細さとラフさが同居しているところにあるとして、著者は「中村は、歌手としても多くのヒット曲を出した。そのきっかけになったのが、『われら青春!』の挿入歌『ふれあい』(1974年)である。このデビュー曲は、オリコン週間チャートでなんと10週連続1位を記録し、レコード売り上げも100万枚を超える大ヒットになった」と紹介します。



大ヒット曲「ふれあい」では、悲しみや空しさに襲われるとき、「あの人」にそばにいてもらいたいという内容の歌詞を、当時中村雅俊アコースティックギターの弾き語りで切々と歌いました。これは野口五郎の「私鉄沿線」などと同じく、フォークがもつ繊細さを歌謡曲に取り込んで成功したケースと言えるとしながら、著者は「ただそうした一方で、中村雅俊には昔懐かしい『バンカラ』を思い起こさせるラフな魅力があった。そのイメージを決定づけたのが、1975年から76年にかけて放送された日本テレビ俺たちの旅』である」と述べます。

 

「‟終わらない青春”というメッセージ」では、1970年代の終わり、「学校は社会の縮図」という発想に基づいた新しい学園ドラマの波が起こったことが紹介されます。その代表が、1979年に始まりシリーズ化された『3年B組金八先生』(TBS系)でした。著者は、「このドラマでは中学生の性や校内暴力、さらには性同一性障害やドラッグ問題まで実にさまざまな社会的テーマが扱われ、新しいリアルな学園ドラマとして高く評価された。ただし興味深いことに、そのようなシリアスな内容にもかかわらず、この『3年B組金八先生』からは従来の学園ドラマと同様に多くのアイドルも生まれた。その先鞭をつけたのが、第1シリーズに生徒役で出演して爆発的ブームを巻き起こした田原俊彦近藤真彦野村義男たのきんトリオである。1970年代後半停滞していたジャニーズは、これをきっかけに80年代以降大きく息を吹き返すことになる。その意味では、男性アイドル史のターニングポイントになった作品でもあった」と述べます。

 

第4章「ジャニーズの復活とロックアイドルの人気」では、1980年代の男性アイドル全盛期について書かれています。「田原俊彦が変えた歴史――『寝たい男』になったジャニーズ」では、女性誌「an・an」(マガジンハウス)の企画で毎年発表される「好きな男」ランキングで、1987年のアンケートの結果、田原俊彦が1位になりました。この「好きな男」とは「寝たい男」のことであり、同誌の主な読者層が20代から30代の働く女性だったことを考えると、これは画期的なことでした。ちなみに、85年の1位は山崎努で、86年の1位は岩城滉一でした。その劇的な変化は明らかであり、それまでトップを渋い年上の俳優が占めていたのが、いきなりジャニーズアイドルになったわけです。


「『不良』から『やんちゃ』へ――近堂正彦が体現したもの」では、田原俊彦がバックダンサーを従えて華やかに歌い踊ったとすれば、近藤真彦はロックバンドを従えてシャウトするのが二人の個性のコントラストでもあっとして、著者は「その意味では、田原の郷ひろみに対し、近藤は同じ『新御三家』でも西城秀樹に近いと言える。やはり男性アイドルの『不良』の系譜である。本人にとってもジャニーズ事務所にとっても初となった日本レコード大賞の受賞曲『愚か者』(1987年)が荻原健一との競作だったのも、その意味でうなずける」と述べています。

 

また、著者は「田原俊彦がファンにとって身近な『王子様』だったように、近藤真彦も身近な「不良」だった。そのあたりは、同じロック路線のアイドルだった吉川晃司(1984年に「モニカ」でデビュー)と比べても明白だろう吉川が最終的に本格的なロックミュージシャンの道を選んだのに対し、近藤真彦はあくまでジャニーズアイドルとしての道を進んだ」と書いています。ちなみに、わたしが1番好きな男性アイドルは田原俊彦で、2番目が吉川晃司でした。2人の共通点は足が高く上がることで、若い頃は、カラオケを歌うときによく真似して右足を高く上げてみたものでした。それで転んだこともあります。(笑)


5「シブがき隊、少年隊、そして光GENJIブーム」では、たのきんトリオに続いてデビューし、人気を集めたのが、同じ3人組のシブがき隊であるとして紹介されます。著者は、「デビューの経緯も似ていた。シブがき隊は、『3年B組金八先生』と同じ枠で放送された学園ドラマ『2年B組仙八先生』への生徒役出演をきっかけに結成された。不良タイプの薬丸裕英、王子様タイプの本木雅弘、優しい感じの布川敏和という3人のバランスも、たのきんトリオを思わせる」と述べています。

 

シブがき隊の同期には小泉今日子中森明菜松本伊代堀ちえみ早見優石川秀美ら人気アイドル歌手も多く、「花の82年組」と呼ばれました。彼らの活躍の背景には、ジャニーズの躍進以外にそうしたアイドル全盛期の到来があったとして、著者は「それらアイドル歌手たちの人気を支えていたのが、『夜のヒットスタジオ』や『ザ・ベストテン』などのテレビの音楽番組である。たのきんトリオ松田聖子から始まって、1980年代前半はテレビとアイドルの関係が一心同体と言えるほど密接になった時期だった。当然、『花の82年組』の活動の主舞台もテレビだった」と述べています。

 

「‟光GENJI現象”が意味するもの」では、著者は「たのきんトリオは『3年B組金八先生』というテレビドラマが生んだアイドルだった。つまり、1960年代以来のジャニーズの原点が舞台であるとすれば、活動の場としてそれに加えてテレビの比重がぐっと増したのが80年代だった。シブがき隊と少年隊の路線の違いは、そんな歴史的変化の反映でもあった。そこに彗星のように登場したのが、光GENJIである。彼らは、ジャニーズにとどまらず男性アイドル史上でもあまり類をみないような爆発的ブームを巻き起こした」とも述べています。光GENJIのデビュー曲「STAR LIGHT」(1988年)はオリコン週間シングルチャートで初登場1位を獲得、年間ランキングでも4位を記録しました。


それだけでも人気のほどがうかがえますが、翌1988年度のオリコン年間ランキングでは、「パラダイス銀河」「ガラスの十代」「Diamondハリケーン」がトップ3を独占するという快挙を達成。さらに「パラダイス銀河」でデビュー2年目にして日本レコード大賞を受賞するなど、光GENJI旋風が吹き荒れました。その人気の一因に、代名詞とも言えるローラースケートでの派手なパフォーマンスがあったと指摘し、著者は「曲のあいだメンバーは縦横無尽にローラースケートで駆け回り、バク転やバク宙まで披露した。その華麗さと疾走感は、彼らのアイドル性をいっそう際立たせた。なぜ、ローラースケートなのか。そこにはジャニーズらしく、ミュージカルが関係していた。当時、世界的に人気を集めていた『スターライトエクスプレス』というロンドン発のミュージカルがあった」と述べています。


「伝統的男性アイドル像の終わり?――SMAPへ」では、“光GENJI現象”は、1970年代以来続いてきた伝統的男性アイドルの最後の輝きだったのではないだろうかとして、著者は「光GENJIが登場したのは80年代後半、つまりちょうど昭和の終わりごろである。したがってそれ以降の平成の男性アイドルは、まったく新しいタイプのアイドル像の確立を求められた。そのパイオニアとしての役割を担うことになったのが、光GENJIのバックで踊っていた6人の少年たちである。光GENJIのバックダンサーだったJr.のなかに、『スケートボーイズ』という10人あまりのグループがあった。そしてそのメンバーのなかから6人が選ばれ、新たにグループが結成される。彼らは『SMAP』と名付けられた」と述べます。


第5章「SMAPとダンスアイドルの台頭――1990年代の新たな男性アイドル像」の1「SMAPの登場、そのブレークへの道のり」では、昭和から平成になった頃、つまり1990年の前後に『夜のヒットスタジオ』や『ザ・ベストテン』、『歌のトップテン』(日本テレビ系、1986~90年)など当時を代表する長寿音楽番組が続々と終了したことを紹介し、著者は「それは、60年代からテレビとともに発展してきた歌謡曲全体の衰退と軌を一にするものだった。その結果、テレビの音楽番組で新曲を聴いた視聴者がレコードやCDを買ってヒットにつながるという従来の構図が崩れた。SMAPは、ちょうどそのタイミングでデビューしたことになる。その意味では、本人たちの努力だけではどうしようもない部分も小さくなかった」と述べています。


2「SMAPはアイドルの定義を変えた」の「『SMAP×SMAP』のアイドル史的意味」では、1996年4月15日、SMAPの冠バラエティ番組『SMAP×SMAP』(以下、『スマスマ』と表記)が始まりました。フジテレビ系の月曜夜10時。「月9」に続く時間帯ですが、実はその日は、メンバーの木村拓哉が主演して社会現象的な人気を博することになる『ロングバケーション』の初回放送日でもあった。『スマスマ』の冒頭に生放送でそのことを話題にする場面もあり、グループとソロの両立を図るSMAPの活動を凝縮したような番組編成でもあったとして、著者は「『スマスマ』はまさにバラエティの王道をいくものだった。旬のゲストを招いて料理を振る舞いながらトークを楽しむ『BISTRO SMAP』、『マー坊』『古畑拓三郎』『カツケン』など多くの人気キャラクターを生んだオリジナルコント、そしてマドンナやマイケル・ジャクソンなど海外の大物を含む人気アーティストとのコラボによる『S-Live』。この基本構成は、番組が続いた約20年間ほとんど変わらなかった」と述べます。


男性アイドル史のなかでSMAPは「普通の男の子」の系譜を受け継いでいたという著者は、「ときにはかっこわるい部分をさらすこともいとわない。だが、そのために私たちも共感し、応援できる。そんな『王子様』でも『不良』でもない『普通の男の子』という第3の道を、SMAPは大きく発展させた」と述べ、さらには「SMAPの登場とともに、男性アイドルは『普通の男の子』から脱皮し、『普通のひと』、言い換えればあらゆる人にとって『普通』であることの価値を体現してくれる存在になったのである。違う言い方をすれば、ここでSMAPは、アイドルグループでありながらどのような人びとをも包み込む一種のコミュニティのようなものになっていた。東日本大震災があった2011年末の『NHK紅白歌合戦』で『オリジナル スマイル』を大トリで歌い、15年に被災地での『NHKのど自慢』に出演した姿は、その証しだった」と述べるのでした。


第6章「嵐の登場と『ジャニーズ1強時代』の意味」の2「ジャニーズJr.黄金期」の歴史的意味、そして嵐のデビュー」では、1999年10月にジャニーズJrが最初の東京ドームでコンサートを開いたとき、ファンの前でお披露目されたのが、すでにデビューが決まっていた嵐でした。相葉雅紀松本潤二宮和也大野智櫻井翔(当初は「桜井」表記)の5人からなる嵐。リーダーの大野が1980年生まれで、あとの4人はみな82年から83年生まれ。比較的年齢が近いメンバーが集まっていました。


3「国民的アイドルになった嵐、そのジャニーズ史的意味」の「嵐が示した“より普通らしい『普通』”」では、櫻井翔のキャスターとしての活動などが典型的ですが、嵐全体に言えることは、いわゆる芸能界の匂いがあまり前面に出てこないことであり、そのことが「普通」であるという嵐の魅力につながっているとして、著者は「嵐はジャニーズアイドルが『普通』であることがすでに当たり前になった時代に誕生した。その意味で、嵐が体現したのは“より普通らしい「普通」”であった。全員がそうだというわけではないが、嵐のメンバーたちは、ある意味ジャニーズであることへのこだわりが薄かった。


大野智は、元時代に「芸能界はもういいかな」と思い、一度はジャニーズ事務所を辞めようと考え、その意向を伝えてもいました。絵の関係の仕事に就きたいと思っていたのです。二宮和也も、嵐のデビュー直前に事務所を辞めてアメリカで映画製作の勉強をする決意を固めていました。櫻井翔は、Jr.時代には学業優先で生活していました。試験のひと月前からは仕事を休んだ。そのため仕事が減ったこともあったが、「それはそういうもんだ」と受け止め、「高校卒業したらジャニーズはやめようかな」と思っていたといいます。そして、彼らは2020年をもって活動休止することを発表しました。


第7章「ジャニーズのネット進出、菅田将暉とBTSが示すもの」の2「新しいソロアイドル、菅田将暉若手俳優の台頭」では、「福山雅治星野源北村匠海・・・・・・、“演技する歌手”の時代」として、著者は「『アイドル=歌手』という常識は、1980年代まで根強いものがあった。ただ前に書いたように、学園ドラマの出演をきっかけにアイドル的な人気を集める中村雅俊のような俳優もいた。森田健作石橋正次などもそうだったが、彼らは俳優を本業とする一方で歌も歌ってヒットを飛ばし、歌手としても存在感を発揮した。それはさかのぼれば石原裕次郎小林旭などにも共通するが、いずれにせよ彼らは“歌う俳優”として活躍した。1990年代に入り、同じ兼業でも逆のタイプの存在が頭角を現す。つまり“演技する歌手”である。彼らは、いま挙げたような俳優と比べれば、明白に音楽により多くの比重を割いた活動を展開した」と述べています。その先駆的存在は福山雅治であり、同じことは星野源にも当てはまり、この系譜を継ぐ直近の存在としては北村匠海がいます。

 

一方、最近の若手俳優の登竜門になっているのが、ライダーもの(「仮面ライダーシリーズ」[テレビ朝日系ほか、1971年-)や戦隊もの(「スーパー戦隊シリーズ」[テレビ朝日系ほか、1975年-])などの特撮ドラマです。2000年代後半から10年代に時期を絞ってみても、特撮ドラマ出身で現在活躍する俳優は枚挙にいとまがありません。主だったところだけでも、ライダーものでは佐藤健瀬戸康史菅田将暉福士蒼汰吉沢亮竹内涼真磯村勇斗戦隊ものでは松坂桃李千葉雄大山田裕貴竜星涼、志尊淳、横浜流星など、錚々たる顔ぶれが並んでいます。本当に、みんな大活躍ですね!

 

錚々たる仮面ライダー俳優たちの中でも、「平成仮面ライダーシリーズ」のひとつ、『仮面ライダーW』(テレビ朝日系、2009-10年)に主演した菅田将暉の存在感が際立ちます。1993年生まれの彼は、放送開始時16歳。ライダーものの主役としては史上最年少でした。ブログ「アルキメデスの対戦」ブログ「糸」ブログ「花束みたいな恋をした」ブログ「キャラクター」などにも書いたように、わたしは俳優としての彼を非常に高く評価しています。また、歌手としても紅白出場を果たすなど、マルチな才能の持ち主です。本人によれば、自分自身の俳優としての強みは「身長176cm、A型、長男、右利き、顔は濃くも薄くもなく、眉を隠すことで印象を変えられる」とデータ的に全てにおいて「普通」なので、どんな役にも寄せやすいのかもしれないと分析しています。ということで、SMAPや嵐を経て、いま最も「普通」を体現している男性アイドルが菅田将暉なのかもしれません。

 

 

2021年9月29日 一条真也

白鵬の引退に思う

一条真也です。
28日の夕方、名古屋から小倉に戻ってきました。この日の朝、大相撲の第69代横綱白鵬(36)が現役引退の意向を日本相撲協会に伝えたことを知りました。

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ヤフーニュースより

 

同協会の諮問機関である横綱審議委員会(横審)の定例会合が27日に開かれ、会合後の会見で矢野弘典委員長(産業雇用安定センター会長)が「白鵬が引退するという届けを、親方を通じて今日、あったということを理事長から聞きました」と明らかにしました。

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ヤフーニュースより

 

矢野委員長は「横綱在任中の実績は45回の優勝を始め歴史に残るものがあった。今までの横綱の実績と比べて、本当に見事な成績を収めた」と実績を評価する一方で、「反面、粗暴な取り口、審判に対する態度、あるいは土俵外での振る舞いなどに目に余ることも多く、横審はそれらを都度、反省を求めてきた」と語りました。また、「やっぱり横綱という者はもっともっと大きな責任があるということ。自分1人が強くなるじゃなしに、相撲界を引っ張っていかないといけない。模範になる存在でないといけない。時々、苦言を申し上げてきたのですが、それはみんなの共通した思い」と不満を露わにしています。


わたしは、白鵬ほど横綱にふさわしくない力士はいないと思います。言いたいことは山ほどありますが、最も憤慨したのが、2018年の九州場所11日目での行為です。結びの一番で初黒星を喫した後、土俵下で右手を挙げて勝負審判に立ち合い不成立をアピールし続け、勝負後の礼をしないという前代未聞の振る舞いをしたことです。長い大相撲の歴史でも、横綱の品格が最も損なわれた瞬間でした。相撲の原則は「礼に始まり礼に終わる」であり、礼をしないで横綱が土俵を下りるなど言語道断!

f:id:shins2m:20210928224546j:plainサンデー毎日」2018年1月21号

 

白鵬は、『相撲よ!』という著書で、「横綱が土俵入りをすることが、なぜ神事となるのか」という問いに対し、「横綱が力士としての最上位であるからだ」と即答し、さらに「そもそも『横綱』とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称である。その綱は、神棚などに飾る『注連縄』のことである。さらにその綱には、御幣が下がっている。これはつまり、横綱は『現人神』であることを意味しているのである。横綱というのはそれだけ神聖な存在なのである」と述べています。



この「現人神」という言葉は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味し、戦前までは「天皇」を指しました。この言葉を使うからには、白鵬は「横綱」を神であるととらえているのでしょう。わたしは、ここに「礼をしない横綱」の秘密があると思いました。なぜなら、神であれば人間である対戦相手に礼をする必要などないからです。



一方で、引退した元貴乃花親方はつねづね「土俵には神様がおられる」と述べていました。横綱という存在を神であるとはとらえていないのです。「横綱≠神」と考える貴乃花親方、「横綱=神」と考える白鵬・・・・・・この両者の横綱観にこそ、2人の大横綱の考え方の違いが最も明確に表れているのではないでしょうか。



歴代最長の14年以上にわたって横綱に君臨した白鵬の優勝回数は「平成の大横綱」と呼ばれた貴乃花(22度)の2倍余です。しかしながら、横綱の品格において両者は「月とスッポン」だったと思うのは、わたしだけではありますまい。最後に、引退後に白鵬は年寄「間垣」の襲名を目指しているそうですが、日本で親方になるよりも故郷モンゴルに帰って事業をやる方がいいと思います。同じモンゴル出身の先輩横綱だった朝青龍のように・・・・・・。


2021年9月28日 一条真也

リブランディングによる他社会館の価値創造

一条真也です。
いま、新幹線のぞみ29号で名古屋から小倉に向かっています。前夜の通夜式に続いて、28日は出雲殿互助会取締役会長の故浅井明子様の告別式に参列しました。

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荘厳な告別式でした

f:id:shins2m:20210927172849j:plainイズモ葬祭名古屋  貴賓館」の前で

会場は名古屋駅近くの「イズモ葬祭名古屋  貴賓館」でしたが、7階建ての非常に立派な会館で驚きました。浅井社長のお好きな赤ワインに例えれば、オーパスワンのような味があります。会館といえば、前夜、冠婚葬祭文化振興財団の井辺専務理事から「お宅の会館が『フューネラルビジネス』に紹介されていましたね」と言われました。

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「フューネラルビジネス」2021年10月号の表紙

 

わたしはまったく知らなかったのですが、冠婚葬祭業界のリーディング・マガジンである「月刊フューネラルビジネス」の最新号にサンレー北陸の「神田紫雲閣」が紹介されたようです。同誌の2021年10月号の特集は「リブランディングによる他社会館の価値創造」でした。

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「フューネラルビジネス」2021年10月号

 

特集記事のリード文は、「以前から中小葬儀社を中心に葬祭事業からの撤退というニュースは漏れ伝わっていたが、コロナ禍の影響でその動きに拍車がかかっているようだ。その背景には、会葬者減に伴う経営不振や従前から指摘されている後継者不在がある。だが、(その意識の程度の差はあれど)すでに社会インフラとして消費者生活を支える葬祭事業者の撤退はつまり、その地域における葬祭サービスの担い手の喪失であり、失ってはじめてその存在の大きさに気づく住民も多いはずだ。こうしたなか、撤退を表明した企業を救う友好的『M &A』『事業提携(アライアンス)』といった動きもあれば、出店戦略上の『敵対的買収』などが水面下でより活発化している。会館開設手法第3弾となる今号では、他社会館をグループインして価値創造をなし得た5社6事例をクローズアップ。そのプロセスと価値創造の手法について学ぶ」と書かれています。

f:id:shins2m:20210928144505j:plain「フューネラルビジネス」2021年10月号

 

そのケーススタディとして、「多様化する葬送ニーズに応えるべく1日1件貸切型として他社会館取得」のタイトルで以下のように書かれています。
北九州市を拠点に、福岡県、大分県、宮崎県、沖縄県の九州・沖縄エリアに加え、北陸の石川県で冠婚葬祭事業を展開する(株)サンレー(本社北九州市小倉北区、社長佐久間庸和氏)。現在、その会館数はグループ全体で90か所(2021年8月現在)と順調に版図を拡大している。石川県内においては、金沢市小松市白山市加賀市野々市市七尾市珠洲市で15拠点の葬祭会館を展開している。そのなかの1つである『神田紫雲閣』(金沢市)は、他社会館を購入後、リニューアルオープンした。本稿では、その経緯等について同社北陸エリア(以下、サンレー北陸)の紫雲閣事業部部長である青木博氏に話を伺った」

 

また、「老舗葬儀社倒産後 競売となった会館を購入」として、以下のように書かれています。
「石川県のほぼ中央に位置する金沢市は、石川県の県庁所在地であり北陸最大の都市である。21年8月1日現在、人口は46万2,448人(国勢調査人口速報集計)を数える一方で、年間死亡数は2011年に4,000人を超え17年には4,526人と右肩上がりの状況にある(厚生労働省人口動態調査)。このため、金沢市内には10社34会館が凌ぎを削っている。前述のとおり、サンレー北陸は石川県内15拠点の葬祭会館を展開しており、県都金沢市においては、JR西日本・IRいしかわ鉄道が乗り入れる金沢駅に近接するサンレー北陸のフラッグシップ店『金沢紫雲閣』をはじめ、7か所の会館を展開し、会員サービスに努めてきた。今回、取り上げる『神田紫雲閣』もそのなかの1つだが、同会館はもともと『ほくそう セレモニー神田』(以下、旧館)が営業していたものを、同社が取得しリノベーションを施したもので、17年1月、『神田紫雲閣』として新生オープンしている。前経営体における年間施行件数は60件ほどだったが、徐々に減少。さらに、同会館は北陸自動車道金沢西ICに続く県道25号沿いに立地するものの、正確に言えば北陸本線を超える高架下の側道に入らなければならず、かつ、当時は駐車スペースも少なく、使い勝手やアクセス面にもやや難点を抱える会館だったという。かかる課題・問題を抱える会館でありながらも、サンレー北陸が旧館を取得するに至った経緯について、青木部長は、『旧館の競売情報を得るにあたり、社内でも購入すべきか否かについては議論されたところでした。というのも、旧館は、すでに当社会館が展開する3会館(金沢紫雲閣泉が丘紫雲閣古府紫雲閣)の2kmエリアのほぼ中央に位置していたことから、会員カバー率からすればすでに十分ではないかという意見もありました。しかし、当社が跡地を購入することでさらに市南西部エリアの施行を盤石にしていくべきという意見もあったのです。そうした経緯を経て、最終的に購入という決断に至りました」と語る」

 

次に、「館内諸室のダウンサイジング化図り 中小規模葬特化の道を選択」として、以下のように書かれています。
「旧館はサンレー北陸が展開する金沢紫雲閣(84年開業、3式場)、泉が丘紫雲閣(89年開業、2式場)、古府紫雲閣(98年開業、2式場)の2kmエリアのほぼ中央に位置している。旧館の諸室構成をみると、1階は100~150人規模に対応する大式場、2階は小式場と遺族控室といった構成となっていた。しかし、近接する既存3会館の大式場も100~250人に対応する規模であったため、1式場しかない旧館を既存3会館と同じ位置づけにする必要はない。そこで、会館のリノベーションにあたっては、当時の時代の流れを鑑み、中小規模の葬祭会館とすることで既存3会館との差別化を図るとともに、1日1件貸切型をセールスポイントとした葬祭会館として位置づけるようにした。具体的には、1階の大式場部分を最大50人規模の式場とリビング、ベッドを備えた仮眠室、和室、浴室などからなる開放的な遺族控室に変更。2階は大きな改装を行なわず、既存の遺族控室として利用していた和室をそのまま法要会場として、2階小式場は会食室として利用。また、2室あった寺院控室を1室に集約させるなどの改装に留めた。一方、外観については、躯体をそのまま活かし壁面をアイボリーベースに変更するとともに、壁面サイン看板などは、道路高架下ということもあるなか、条例で許される範囲内まで拡張し、高架上を走るドライバーや近隣住民からの視認性をさらに高めるといったリノベーションを実施した」

f:id:shins2m:20210928144432j:plain「フューネラルビジネス」2021年10月号

 

さらに、記事には以下のように書かれています。
「なお、旧館時代は駐車スペースも十分とはいえない状況だったが、旧館に隣接する横地が、旧経営会社の本社だったこともあり、こちらの土地も取得して、現在は40台収容可能な駐車場を整備している。こうした経緯を経て誕生した神田紫雲閣は、既存会員からの評価も高く、特に近隣に住む会員からは『近くにできて便利になった』という声があがっているそうだ。そのほか、『小規模な葬儀で故人をお見送りしたいという葬家様はもちろん、見学会や葬儀に参列され事前に会館をご覧いただいた葬家様からは、このエリア付近の方でなくでも、わざわざこちらの会館で施行を依頼される方も多い』(青木部長)とのことで、既存会館との明確な差別化を推し量ったことが結果として奏功している状況となっている。加えて、既存3会館のように、『複数式場を有する会館では、どうしても葬家が混在してしまうのですが、ここ数年の傾向として、他の葬家とバッティングを避けたいと希望される方も多くなっておられますので、そうした葬家様から喜ばれています』と、プライバシー重視の葬家からの支持率も高いことがうかがい知れる」

 

そして、「貸切という特別空間としての 利用を促すグリーフケア士の存在」として、こう書かれています。
神田紫雲閣は中小規模に特化しているものの、実はそれだけの利用を促すポジショニングとして存在しているわけではない。『先日あった例ですが、別の紫雲閣に事前相談でお見えになりお話をしているなかで神田紫雲閣を紹介させていただいたところ、会館の設えが1日1施行ということでお客様のニーズと一致し、実際に施行をしていただきました。その方から御礼の手紙をいただき、またSNSなどでも当社を紹介していただいたエピソードがあるほどです』(青木部長)それゆえ、『事前相談等を通してしっかりと時間をかけヒアリングを行なうなかで、故人様に対する想いを汲み取りながらお客様のニーズにあった施設を紹介しています。ただ、昨今は、神田紫雲閣を選ばれるケースがふえています』と、サンレー北陸が管轄する15拠点のなかでも特別な式場として位置づけてられているようだ。そして、その事前相談に対応するサンレー北陸の社員については、(一財)冠婚葬祭文化振興財団がこの6月から運用をはじめた『グリーフケア士資格試験』の合格者を中心に担当するのも大きな特徴といえるだろう。その背景には、有資格者が事前相談を担当することで、相談者は安心感を得ることができ、事前相談の担当者も葬家の心のケアのために寄り添った葬儀式の提案、さらにはアフターケアを含めた遺族サポートの充実が叶うとしているからだ。
なお、サンレー北陸では、このコロナ禍においては、既存会館については大・中式場をゆったり使うことでソーシャルディスタンスの確保を優先した利用を促進しつつ、神田紫雲閣においては、他の葬家とバッティングを避けたい葬家やグリーフケア士との事前相談を経て神田紫雲閣を利用したいとする葬家、という大まかな会館運用の方向性がみえるほか、施行後の葬家とサンレー北陸に属するグリーフケア士との接点の場として神田紫雲閣の活用という戦略がうかがい知れる。今後も同社では、多種多様な会員ニーズに応える会館運営とオペレーション、さらにはグリーフケア士によるサポートというように、多方面から会員を支えていくとしている」

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神田紫雲閣

 

2021年月日 一条真也

『庸軒いろは歌』

一条真也です。
わたしは、これまで多くのブックレットを刊行してきました。わたしのブックレットは一条真也ではなく、本名の佐久間庸和として出しています。いつの間にか44冊になっていました。それらの一覧は現在、一条真也オフィシャル・サイト「ハートフルムーン」の中にある「佐久間庸和著書」で見ることができます。整理の意味をかねて、これまでのブックレットを振り返っていきたいと思います。 


『庸軒いろは歌』(2008年10月刊行)

 

今回は、『庸軒いろは歌』をご紹介します。
2008年10月に刊行したブックレットです。
庸軒は、わたしの歌詠みの雅号です。福島県三春の偉人に佐久間庸軒という方がいたことを知り、わたしの名前と一字違いであることから不思議な因縁を感じました。それで、わが歌詠みの雅号とした次第です。庸軒の名で短歌を詠みだしてから、「言霊」つまり言葉の持つ不思議な力のせいか、万事が順調に進んでいるような気がします。なにぶん商売人の身で、なかなか花鳥風月を詠んで風雅の世界に遊ぶというわけにはいかず、もっぱら会社や仕事に関する話材で歌を詠んでおります。


道歌で「いろは歌」を詠みました

 

このブックレットでは、かの弘法大師の作とされる「いろは歌」にあわせて自作の短歌を揃えてみました。江戸時代に石田梅岩が開き、商人のあいだで盛んになった「心学」では、人の道を説く教訓の歌として「道歌」が多く詠まれました。この「いろは歌」の中には、道歌をめざして作られたものもたくさん入っています。「一条真也オフィシャル・サイト「ハートフルムーン」の「庸軒いろは歌」でも紹介していますが、47首の「いろは歌」は以下の通り。

 

・・・・・癒しとは 欠けた世界を戻すため 
        こころ繕ふ大工仕事よ

・・・・・論語読み 論語知らずとなるなかれ 
                       知行合一めざして行かん

・・・・・花は咲きやがて散りぬる 
                       人もまた婚と葬にて咲いて散りぬる

・・・・・人間の関係良くし 世の中を
                       明るくするは われらのつとめ

・・・・・本当におはしましたか知らねども 
                       かの聖人を拝むほかなし

・・・・・変人と言われながらも 
                       自らの信念通す者は偉人よ

・・・・・朋ありて遠くより来て語り合ふ 
                       楽しからずや道を説く君

・・・・・知恵を出せ 知恵が出ぬなら汗を出せ 
                       汗も出ぬならハイそれまでよ

・・・・・琉球の翁和となるお手伝い 
                       ニライカナイへ導く光

・・・・・盗人も三分の理ありやみくもに
                       人を責めるな話よく聞け

・・・・・ルビコンを越えしカエサル 
                       土佐の海超えし龍馬の道にあこがれ

・・・・・をこがまし おのれの夢を語るとは 
                       口にすべきは志のみ

・・・・・別れ際 情かけたる人ならば 
                       別れた後も憎く思はず

・・・・・神の道 仏の道に 人の道 
        三つの道を大和で結び

・・・・・喜びを分かつ笑顔と 
                       悲しみを癒す微笑ともに求めて

・・・・・大切なものほど目には見えぬゆえ 
                       心に残る仕事良し良し

・・・・・礼すれば人も返せり
                       お互いに相手重んじ心軽やか

・・・・・総務とは法を守りて人守り 
                       祭り護りて社を護る

・・・・・つらくとも別れの時は笑顔見せ 
                       さよなら三角また来て四角

・・・・・寝不足も朝の気功で補へり 
                       気がみなぎれば憂ふことなし

・・・・・七つまで神の内よと愛で育て 
                       背中示せば道は外れず

・・・・・ライオンはウサギ追うにも手を抜かず 
                       人事尽くして天命を待て

・・・・・昔より今へとつづく孝の糸 
                        紡ぎて仰ぐ白山の嶺

・・・・・宇佐の地で大和の心救はれり 
                       神と仏を結ぶ八幡

・・・・・井の中の蛙となるな 本を読み 
                       人にも会ふて旅をするべし

・・・・・野垂れ死ぬ哀れな人も
                       幸せな最期迎へる人も等しき

・・・・・思いやり形にすれば礼となり 
                       横文字ならばホスピタリティ

・・・・・苦情言ふ人こそ師なりありがたや 
                       クレーム文はラブレターかな

・・・・・山でさへ声をかければこだまする 
                       挨拶交はす人に福あり

・・・・・摩天楼そびゆる魔都の宴にて 
                       天下布礼の旗を掲げん

・・・・・経理とは財務にあらず 
                       経営の流れを読みて理を知る

・・・・・不安なく心ゆたかに生きるには 
                       老いる覚悟と死ぬ覚悟持て

・・・・・ここちよき耳のごちそう数あれど 
                       わが名に勝る良き響きなし

・・・・・縁により人は出会ひて 
                       縁により人は結ばれ今日の高砂

・・・・・天仰ぎ あの世とぞ思ふ望月は 
                       すべての人が  かえるふるさと

・・・・・ありがとうすべてのものにありがとう
                       君に出会えた奇跡をはじめ

・・・・・坂のぼる上に仰ぐは白い雲 
                       旅の終わりは紫の雲

・・・・・巨星堕つ まぶしき光身に受けて 
                        われ月となり世に反射せん

・・・・・行く年を忘るるも よし来る年を
                       望むるもよし 酒は飲め飲め

・・・・・名月の下で詩を詠む謙信の 
                       こころ偲びて七尾に来たる

・・・・・身はたとひ地球(ガイア)の土に
        還るとも  月に留めん心の社会

・・・・・人事とは人の良き面引き出して 
                       人の振り見てわが振り直せ

・・・・・笑み浮かべ挨拶述べてお辞儀して 
                       愛語忘れず人に会うべし

・・・・・人は生き老い病み死ぬるものなれど 
                       夜空の月に残す面影

・・・・・もてなしの文化栄える金沢に 
                       もとのもとたる礼を伝えん

・・・・・世間とは住みにくきものと言ふなかれ 
                       住めば都と思ひて生きよ

・・・・・すばらしき人をもてなす人もまた 
                       紳士淑女と知りて励まん

 

2021年9月28日 一条真也