『純情 梶原一騎正伝』

純情―梶原一騎正伝―

 

一条真也です。
『純情 梶原一騎正伝』小島一志著(新潮社)を読みました。著者は栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒業。株式会社夢現舎(オフィス Mugen)代表取締役。「月刊空手道」「月刊武道空手」元編集長。講道館柔道、極真会館空手道などの有段者です。本書は、ブログ『大山倍達正伝』ブログ『大山倍達の遺言』ブログ『芦原英幸正伝』ブログ『添野義二 極真鎮魂歌』で紹介したノンフィクションの続編であり、著者による一連の人物伝の集大成となる作品だと思いました。なぜなら、著者がこれまで書いてきた大山倍達芦原英幸、添野義二の3人はいずれも梶原一騎と深い関係にあったからです。非常に読みごたえがあり、梶原一騎のイメージが一変する一冊でした。

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本書の帯

 

帯には「徹底取材で新事実が続々!」「警察と報道により作られたイメージを根底から覆す衝撃ノンフィクション!〈漢(おとこ)〉の真の人生とは――」「超人気マンガ原作者はなぜ転落したのか?」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「昭和58年傷等の容疑で逮捕された裏事情」「当時の取調べ担当刑事の告白」「アントニオ猪木監禁事件の真相」「謎に包まれた出自」「祝福されない結婚」「大山倍達との蜜月と訣別」「妻の奇行と離婚・復縁」「凄絶なる闘病生活」「母と妻による二つの墓 他」「梶原ほど多くの人々に誤解され続けた存在は稀である。(本文より)」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
   序章 逮捕前夜
第一章 仕組まれた罪
第二章 アントニオ猪木監禁事件
第三章 高森朝樹から梶原一騎
第四章 時代に牙をむいた男 
第五章 大山倍達との蜜月と訣別
第六章 スキャンダルの舞台裏 
 終章 母と妻による二つの墓
「三十五年後の『あしたのジョー』」〈亀澤優の手記〉
「あとがき」
「参考資料・文献」

 

 

本書の扉には、「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。」「輿論の存在に価する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである。」という2つの言葉が引用されています。出典は、芥川龍之介の『侏儒の言葉』。巻頭における引用出典のセンスにはうるさいわたしですが、『侏儒の言葉』は中学生以来の愛読書でもあり、思わずニヤリとしてしまいました。



序章「逮捕前夜」では、梶原一騎と九州は小倉の生まれである母“や江”との別れの夜をセンチメンタルに描いており、最後には「梶原の太くもあまりにも短い人生のなかで“や江”の存在がいかに大きく影響したか知る人は極めて少ない。世に知られる〈梶原一騎伝説〉、また、いっときの〈梶原一騎スキャンダル〉にはほとんど登場しない。同様に梶原の妻・篤子の存在も意外に希薄だ。だが真の意味での〈梶原一騎伝説〉は、“や江”と梶原――母と子の物語であると同時に、“梶原と篤子の夫婦愛を描いた人生ドラマといっても過言ではないだろう」と書かれています。



梶原一騎とは何者だったのか?」という核心に迫る著者は、2つの可能性を浮かび上がらせます。1つは、彼が在日朝鮮人であったこと。もう1つは、高機能性自閉症であったという可能性です。まず、在日説ですが、証拠はありません。多くの関係者、黒崎健時中村忠芦原英幸、郷田勇三らの極真空手関係者、ジャーナリストの向井谷匡史らが断言しているそうです。しかし、元・新日本プロレス新間寿は「プロレスの世界は在日が多いから私は気にしたことなかったけど、梶原先生は日本人ですよ。猪木も前田(日明)も長州(力)も在日だけど、梶原先生と親しくなかったし。猪木も在日だが、猪木との関係は大山(倍達)先生のラインだったしね」と語り、その言葉に初代タイガーマスク佐山聡も同調したそうです。


ここで新間はさらりと「猪木も在日」などと重大発言をしていますが、これは聞いたことがありません。長州や前田は在日であることをカミングアウトしているので公然の事実ですが、猪木のことは初耳です。もちろん在日が悪いわけではありませんが、猪木は横浜出身でブラジル移民だったはずです。猪木に近かった新間が言うのですから「本当か?」とも思ってしまいますが、わたしは信用はできません。新間といえば、第二章「アントニオ猪木監禁事件」にも登場します。監禁事件では、梶原に呼び出された猪木はヤクザの空手家から膝蹴りを食らって悶絶したとか、拳銃をちらつかされて2時間以上震えながら正座していたとか、部屋を出るとき猪木の足が痺れて這うようにして退出したなど、猪木信者であるわたしには不愉快な内容でした。すべては梶原一騎たちの小芝居だったといいますが、真偽は定かではないにしろ、絶対に許せない行為です。



もう1つの可能性である「梶原一騎 高機能性自閉症説」ですが、以前から心理学や精神医療に興味があるという著者は、精神科医の石田浩純博士(中浦メンタルクリニック医院長)に梶原の性格・気質について相談したそうです。「梶原さんの原作者としての才能は常のレベルじゃないと思うんです。それに原稿を書くとくの集中力も並みじゃなかったようです」という著者の言葉に笑みを浮かべた石田博士は、「そういう〈過集中〉の傾向が強い者を、以前は〈アスペルガー症候群〉と呼んでいました。〈ADHD〉も元々は自閉症の一種と考えられていたんですが、特にこの数年で精神医療は著しい発展を遂げています。アメリカの学会では〈アスペルガー〉という名を公的に外しました。そして広範囲に捉える思考から〈自閉症スペクトラム〉と位置づけ、梶原さんのような極めて優れた能力の持ち主を〈高機能性自閉症〉と捉えるのが妥当でしょう。〈ADHD〉にして〈高機能性自閉症〉というのは天才と言われる人に多くてね。映画監督のスピルバーグとかアップル社の創始者スティーブ・ジョブズなどがそうだと言われています。梶原一騎さんが存命だったら是非カウンセリングをしてみたいですね」と言うのでした。

 

姿三四郎(完全版): 全巻セット 武道文庫

姿三四郎(完全版): 全巻セット 武道文庫

 

 

わたしの最も好きな梶原一騎の作品は、「柔道一直線」です。九州は小倉の出身である主人公・一条直也から「一条真也」というペンネームを思いついたぐらい好きな作品です。わたし自身、少年時代は柔道に打ち込んでいました。第四章「時代に牙をむいた男」では、柔道について、「1950年代後半、日本は未曾有の柔道ブームに沸いていた。富田常雄の小説『姿三四郎』はその嚆矢ともいえる名著であり、黒澤明によって映画化されて大ヒットを記録した(本作品は戦時中に制作発表されたが、鮮度1950年代初期に再公開された)。応用に『柔道一代』『柔道水滸伝』などがドラマ化され、演歌歌手・村田英雄が歌うテーマ曲も大いにヒットした。梶原は小説版の『姿三四郎』を肌身離さず繰り返し読んだ。後年発表された多くの梶原の作品には『姿三四郎』の影響が随所に見られる。現実に存在する〈世界〉のなかで〈虚像〉のキャラクターが活躍する斬新な構成。次々に現われるライバルたち。闘うごとに挑戦者は〈巨大〉になり、主人公の活動エリアは広大になっていく。『巨人の星』、『愛と誠』そして『空手バカ一代』などで繰り広げられる独特な〈世界観〉の源流は『姿三四郎』にあったと断言してもいいだろう。梶原が確立した物語の基本構成は現在のドラマやゲームにも受け継がれている」と書かれています。



後に梶原は柔道よりも空手に夢中になりますが、空手界の巨人である大山倍達との出会いも柔道が関係していました。「昭和の巌流島」で大相撲出身のプロレスラーである力道山に敗れた柔道王・木村政彦の仇を討つように、田園コロシアムで牛を倒した空手の大山に頼みに行ったのです。晩年の大山は、「梶原が私のもとを訪ねてきたのは、田園コロシアムのずっと後だった。それで言ったのは『石を割ってくれ』じゃないよ。『力道山と戦ってくれ、木村政彦の仇を討ってくれ』だよ。君ねぇ、私はプロレスラーじゃないのよ。戦うといえば実戦だよ。ケンカだよ。本当のケンカに応じるという言うならば、力道でも木村でもやってみせるよってね、そう言ってやったよ。それにね、自分は作家だというからね、『芥川賞でも獲ってから、また来なさい』って言って帰したら、本当に偉くなっちゃったから私も驚いたね」と語ったそうです。



木村政彦大山倍達拓殖大学の先輩・後輩の関係であり、親しい仲だったようです。事前に取り決めていた約束を破って木村の無防備な頸動脈に思い切り空手チョップを叩き込んだ力道山は勝利を収めたものの、後味悪い興行でした。マンガの「空手バカ一代」では、試合後に会場が騒然とする中で大山倍達が立ち上がり、力道山に対戦を迫ったことになっています。このエピソードを素直に信じたわたしは、力道山vs木村政彦の試合のビデオを何度も観たものですが、どこにもそれらしいシーンは映っていませんでした。その後、「空手バカ一代」は巨大なフィクションであると知ってからは、大山がリング上で力道山に挑戦したことなど信じませんでした。しかし、どうやら、これは事実だったようです。ちょっと意外で、嬉しかったです。


第五章「大山倍達との蜜月と訣別」で、格闘技・大相撲評論家の小島貞二は「木村が失神状態で倒れたとき、大山さんは叫びながら力道山に向かってリングをよじ登ろうとしていた。この目でしっかり見た。もしこのとき、大山が躍り上がり、もし力道山が『よし、来い』と身構えしたら、おそらく別の血がマットに散っていただろう。ケンカ殺法なら大山倍達の方が上ですから」と述べています。また、格闘技評論家の門茂男は『力道山の真実』の中で、力道山と大山について書いています。試合の翌日、力道山の自宅を訪ねた門は、「空手の大山倍達を知っているか?」と訊いたところ、力道山は「それがどうした?」と言ったそうです。門が「プロレスのコミッショナーが許してくれれば是非とも喧嘩マッチをしたいと大山は言っておるが、どうするつもりか? 返事は私があなたから頂くことになっているが、どうだ?」と言うと、力道山は「大山倍達なんて知らない、木村との試合は先に八百長を持ちかけたのは木村なのに、試合当日、何人ものホステスを引き連れ二日酔いでリングに上がった。木村が先に反則をしてきた」と言うばかりで話にならなかったそうです。

 

 

その後、梶原一騎力道山と知り合う機会を得て、力道山に憧れてプロレスラーを目指す少年の物語である「チャンピオン太」の連載を開始します。以後、力道山は梶原に目をかけるようになりました。戦後のプロレスに詳しい小泉悦次は、「ファンたちは誰も気付かなかったでしょうが、力道山は体力の衰えに悩んでいた。禁止薬剤のアンフェスタミンを酒と一緒に常用していたことは有名です」「大相撲でも関脇まで行った人間です。実力じゃ大関以上だったと初代の若乃花が太鼓判を押していました。なのに〈昭和の巌流島〉で悪役にされ、それがストレスとなって心を病んでいくんです。そんなときに梶原一騎が書いてくれた。だから『チャンピオン太』がテレビで実写化されたときゲスト出演したのも不思議じゃありません。大人より邪気のない子供たちのヒーローになることは力道山本人にとっても一種の清涼剤だったはずですよ」と語っています。


しかし、梶原一騎が最も心惹かれた格闘家は力道山ではなく、大山倍達でした。一時は蜜月関係にありながら、最後には絶縁関係にあった大山と梶原ですが、真樹日佐夫は真剣な眼差しで著者にこう語ったそうです。
「大山館長に再会して意気投合したって、兄貴は興奮して帰ってきたんだ。大山倍達って〈牛殺し〉の空手家がいることは俺も知っていたが、当時の俺はもっと悪い世界でフラついていたから、何をそんなに興奮しているんだと思ったよ。でも兄貴の大山館長への想いは本物だったんだ。俺が会ったときも物凄い圧力を感じたよ。兄貴が震えたように大山倍達は本当に凄い武道家だった。力道山木村政彦どころじゃない気迫を感じたな。とは言っても武道家も人間だ。人間的な欠点もいっぱいある。兄貴とも大山館長はどっちとも意固地だったから、何かといえばケンカしてた。ケンカするほど仲が良かったんだ。でも、いろんなことで揉めて、いつしかどっちも退けなくなって絶交せざるを得なかった。けど兄貴は死ぬまで大山館長が好きだった。最後の最後によく分かったよ、兄貴の気持ちが」

 

 

大山と出会った梶原は、1971年6月に「週刊少年マガジン」誌上で「空手バカ一代」の連載を開始。作画は、つのだじろう。梶原は、「大山倍達という孤高の超人空手家の半生を綴った大河劇画であり、正真正銘の実話である」と述べました。連載開始から1か月も経たず、大山と極真空手のすさまじいブームが巻き起こりました。多くの読者はこの劇画を「真実の物語」と信じ、1970年代から80年代後半に極真に入門した者の大半は「空手バカ一代」に強い影響を受けていました。松井派極真会館館長の松井章圭新極真会代表の緑健児などの新世代の極真空手のリーダーはみんなそうでしたし、今は亡き黒澤浩樹(第16回全日本選手権者)は、「僕たちの世代はみんな『空手バカ一代』をバイブルのように読んで、大山倍達のように強くなりたい一心で極真会館に入門したんです。僕にとって極真空手こそが誇りでした」と語っています。


しかし、著者は以下のように述べています。
「極論を言うならば『空手バカ一代』はフィクション、つまり〈作り話〉である。それは梶原によるものでなく、その多くが大山本人による〈創作〉が土台になっている。『空手バカ一代』の原点(ベース)は1955年2月から『京都新聞』に連載された大山自身のエッセイ『手刀十年』にある。大山は天才的なストーリーテラーだった。《単身アメリカに渡りプロレスラーと真剣勝負を繰り広げ全戦全勝で帰国。猛牛と素手で戦い、牛の角を折り〈牛殺しの大山〉と呼ばれる。邪道として空手界を敵にしながら、第一回全日本空手道大会で優勝した孤高の空手家の半生気》梶原はこれを信じた。信じたいと思った。『空手バカ一代』では、梶原自身の手で〈フィクション〉をストーリーに挿入することもあった。人気原作者・梶原の真骨頂である。だが、その根底に大山倍達が語る『英雄譚』に対する憧れと信頼があったことを無視してはいけない。今回、可能な限り多くの取材を通し私は痛感した。梶原の純粋さから目を逸らしてはいけないと」


著者は1980年代末から1994年4月、大山が不治の病で倒れるまでの5年間、ほぼ毎日、早朝に大山から電話が掛かってきたそうです。表向きの用件は、大山の空手家としての集大成である『極真空手百科事典』の制作に関するものでしたが、ほとんどが雑談に終始し、梶原に関する話題も時折出たとか。梶原が逝ってから2、3年経っていたにもかかわらず大山の梶原批判が衰えを知らず、「『空手バカ一代』には感謝しているが、途中から梶原は金儲けに走ってしまった。大山倍達の一代記なのに、芦原みたいな梶原に尻尾を振る〈犬〉を撫でて、〈犬〉の言うことを信じてウソを書くようになった。私はお人好しだから、梶原を信じ切っていたんだ。なのに映画『地上最強のカラテ』の儲けは全部持って行かれ、ウィリーと猪木のプロレスも私の反対を押し切って儲けを懐に入れた。とんだ裏切り者だよ」と語気を強めて言い放ったそうです。



その猪木vsウィリー戦について、著者は「1980年2月27日、蔵前国技館にてウィリー・ウィリアムスとアントニオ猪木の〈異種格闘技戦〉が行われた。試合は〈競技〉ではなくプロレスであり、プロレスの隠語でアングルと呼ばれる〈筋書き〉ありのショーだということは大前提である。試合開始早々、ウィリーのスローモーションと見紛う後ろ回し蹴り、猪木の大袈裟なスウェーバック、ウィービングだけで試合がかみ合っていないことが分かる」と書いています。この試合に最後まで大山は反対していましたが、じつはもともと大山のアイデアでした。新間寿も、「猪木との対談でウィリーと試合したらどうかと最初に言ったのは大山先生です」と明言しています。この試合を機に決定的に断絶した大山と梶原について、著者は「残念だったことは、両者の確執の原因の多くが金銭に係るトラブルに帰着する点と、常に前面に出た梶原に対し、大山は常に弟子たちの陰に隠れて動いていたことである。そこに大山倍達という人物の自己中心性と卑怯な権謀術数を感じざるを得ない――」とまで書いています。



わたしは格闘技が好きなので、格闘技のことばかり書きました。しかしながら、本書の白眉は梶原が愛し抜いた篤子夫人への‟純情“にあります。篤子夫人の抱えた心の闇については実際に本書を読んでいただきたいと思いますが、4人の子どもを置いて何度も家出した妻を赦し、一度は離縁したものの、彼女を見捨てることができずに復縁したというエピソードは驚きでした。また、異常な逮捕や長期間の拘留生活もすべて彼女に起因するものでしたが、梶原はそれに耐え抜いて彼女を守り切ったという事実には感動をおぼえました。そして、終章「母と妻による二つの墓」の最後、著者は「ただ五十年という短い人生でありながら何人も成し得ない最大級の成功を手にしつつ、身も心もすべて愚直なまでに貫いた梶原の‟純情”が多くの裏切りによって終止符を打たれたならば、これ以上切なく悔しいことはない。願わくば、私たちが知り得ない、そして見ることが出来ない涅槃の世界で、梶原と篤子の‟純愛“が永遠のときに包まれんことを・・・・・・私はそんな夢を見続けるだろう」と書くのでした。



「あとがき」では、著者自身の人生が振り返られます。それを読むと、著者がこれまで想像を絶する苦難に満ちた半生を送ってきたことがわかります。そして、その傍らには「柔道一直線」「あしたのジョー」「空手バカ一代」などの梶原作品がありました。著者は、「思えば、私の人生には常に何らかの形で〈梶原一騎〉がいた。私の初恋もまた『愛と誠』への憧れだった」と書いています。生前の梶原は、「俺が一番可愛い作品は『愛と誠』なんだ。真の愛の美学なんだ」と語っていたそうです。

 

 

そして、この「あとがき」を読めば、著者自身が‟純情“の人であり、‟純愛”によって現在の夫人と結ばれたことが窺えます。ネットなどで知る限り、著者は毀誉褒貶の激しい人物のようですが、それゆえに同じく毀誉褒貶の激しい人生を送った梶原の正体を見抜くことができたのかもしれません。それにしても、これまでの梶原一騎伝は何だったのか? 自分の本意を世に示してくれた著者に対して、あの世の梶原は感謝しているのではないでしょうか。本書の刊行は、梶原一騎という死者にとっては2つの墓にも勝る最大の供養になったように思います。

 

純情: 梶原一騎正伝

純情: 梶原一騎正伝

  • 作者:小島 一志
  • 発売日: 2021/02/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2021年4月15日 一条真也

『書評の星座 紙プロ編』

書評の星座 紙プロ編 吉田豪のプロレス&格闘技本メッタ斬り1995-2004 (ホーム社)

 

一条真也です。
『書評の星座 紙プロ編』吉田豪著(集英社)を読みました。ブログ『男の星座』で紹介した本の続編で、「吉田豪のプロレス&格闘技本メッタ斬り1995-2004」というサブタイトルがついています。著者は1970年、東京都生まれ。プロ書評家、プロインタビュアー、コラムニスト。編集プロダクションを経て「紙のプロレス」編集部に参加。そこでのインタビュー記事などが評判となり、多方面で執筆を開始。格闘家、プロレスラー、アイドル、芸能人、政治家と、その取材対象は多岐にわたり、「ゴング格闘技」をはじめさまざまな媒体で連載を抱え、テレビ・ラジオ・ネットでも活躍の場を広げています。著書にブログ『吉田豪の空手☆バカー代』で紹介した本をはじめ、『人間コク宝』シリーズ(コアマガジン)、『聞き出す力』『続聞き出す力』(日本文芸社)、『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書店)などがあります。

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本書の帯

 

表紙カバーには本書に登場する格闘技本の表紙画像が使われ、帯には著者の写真ともに、「あの問題連載が帰って来た!」「永久保存版」「『紙のプロレス』『紙のプロレスRADICAL』にて数え切れぬトラブルを起こした全書評294冊分を収録」「この1冊でわかるプロレス&格闘技『裏面史』!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、登場する本の書名と著者名が並んでいます。
「『やっぱり全女がイチバーン!』ロッシー小川★『傷つくもんか!』井上貴子★『いちばん強いのは誰だ』山本小鉄★『開戦!プロレス・シュート宣言』田中正志★『猪木寛至自伝』猪木寛至★『必殺!プロレス激本』★『プロレス「監獄固め」血風録』マサ斎藤★『強くて淋しい男たち』永沢光雄★『たたかう妊婦』北斗晶★『光を掴め!』佐々木健介★『ネェネェ馬場さん』馬場元子★『「反則ですか?」』小川直也★『力道山がいた』村松友視★『喧嘩空手一代』安藤昇★『船木誠勝 海人』安田拡了★『クマと闘ったヒト』中島らも、ミスター・ヒト★『つぅさん、またね。』鶴田保子★『すべてが本音。』秋山準★『破壊から始めよう』橋本真也中谷彰宏★『流血の魔術 最強の演技』ミスター高橋★『倒産!FMW荒井昌一★『弾むリング』北島行徳★『身のほど知らず。』高山善廣★『鎮魂歌』冬木弘道★『悪玉』尾崎魔弓★『会いたかった』向井亜紀・・・・・・」


前作同様、著者のプロレス&格闘技本の書評コレクション第二弾も大変面白かったです。取り上げているのが1995年から2004年の本ということで、最初は「情報が古いかな」とも思ったのですが、わたしが知らなかったこともたくさん書かれており、新しい情報を得ることができました。考えてみれば、1995年から2004年というのはプロレス&格闘技の世界は激動期でした。1995年の武藤vs髙田の「10・9」に始まって、1997年の髙田vsヒクソンの「10・11」、1998年の猪木引退を経て、1999年はいきなり橋本vs小川の「1・4事変」、馬場死去、前田vsカレリン→前田引退、2000年には船木vsヒクソン→船木引退・・・・・・まさに、めまぐるしい動きでした。

 

 

そして2001年、ミスター高橋の問題の本『流血の魔術 最強の演技――すべてのプロレスはショーである』が出版されます。プロレス史に残る大事件となった同書の出版もこの時期でした。本書を読んで意外だったのは、初めてプロレスの真実をカミングアウトしたとされるミスター高橋本の前にも、プロレスの仕組みや内幕を告白した本は何冊も存在したという事実です。本書には294冊ものプロレス&格闘技本が取り上げられていますが、特にわたしが面白いと感じた部分、著者・吉田豪氏のコメントが秀逸な部分などをご紹介したいと思います。

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まずは、1997年に刊行された『検証 新日本プロレスVS全日本プロレス・仁義なき25年抗争の真実』竹内宏介監修(日本スポーツ出版社)から。同書では、プロレス専門誌「ゴング」が日本プロレス界の両雄であるジャイアント馬場アントニオ猪木の対戦を煽りまくり、「馬場さんがショーマン・スタイル? 冗談じゃないですよ・・・・・・あれはショー以前のコミックです」(昭和50年・猪木談)を持ち出し、昭和54年のオールスター戦で猪木とタッグを組んだ後の「8・26で馬場―猪木戦をやったらと言われた時は、やれば喧嘩・・・・・・つまりスポーツではなく殺し合いにさえなりかねない雰囲気があった」(昭和55年・馬場談)というコメントを紹介。



この物騒なコメントを紹介した同書について、吉田氏は「なんとビックリ。フレッド・アトキンスにセメントを習い、地下秘密練習場で密かなるトレーニングに励んできた馬場が、下手すればキラー猪木と殺し合うところだったわけなのだ! とまあ興味深い発言も多い貴重な一冊だが、個人的には猪木が『前座試合もメインイベントも区別がなくなってしまったのは、いまのプロレス界の悲しい現実だ』などと昭和48年の時点で言い出していたのも非常に衝撃的であった」と述べています。たしかに驚きですね。

 

『空手バカ一代』の研究

『空手バカ一代』の研究

 

 

プロレスに次いで、よく取り上げられているジャンルが空手。それも、もちろん極真空手です。本書は、『「空手バカ一代」の研究』木村修著(アスペクト)を取り上げます。ブログ『吉田豪の空手☆バカー代』で紹介した名著ぼ著者でもある吉田氏は「これはいつかキッチリ言わなければいけないと思ってあのだが、実は『空手バカ一代』って名作扱いれがちだけど、それほど面白くない。ノンフィクションしては嘘がすぎるし、フィクションしてはスケールが小さい。梶原作品の中では明らかにレベルの低い宣伝色強めな作品あり(特につのだじろう降板後)、研究するほどのものではないと正直ボクは思う」と述べています。



吉田氏によれば、『空手バカ一代』よりも、『カラテ地獄変』シリーズや『人間兇器』などの「人間の性、悪なり」な暗黒空手漫画や、『ケンカの聖書』『花も嵐も』『虹をよぶ拳』『空手戦争』『英雄失格』などの極真をモデルにしながらも名前を変えて登場させた作品のほうが傑作で、破壊力やファンタジーが倍増するといいます。マス大山の人間的な魅力や圧倒的な強さが伝わるのも『空手バカ一代』ではなく、彼をモデルした大東徹源や大元烈山が登場るそれらの作品のほうだというのですが、わたしも同感ですね。ちなみに、暗黒空手漫画は梶原一騎ではなく弟の真樹日佐夫が原作を書いていたようですね。

 

不滅の闘魂

不滅の闘魂

 

 

1999年に刊行された『不滅の闘魂』アントニオ猪木著(海鳥社)の書評では、吉田氏は「ボクは常々『猪木本に外れなし』だと口を酸っぱくして主張しているのだが、『スポニチ』連載の猪木コラムをただまとめただけのこの本もまた案の定、期待通りの出来であった。ましてや、あの1・4橋本vs小川戦を終えたいまになってあらためて読み返したら、いろいろと考えさせられた次第なのである。そもそも、UFOとは最初から『プロレスラー時代に、わたしがやろうとして途中で挫折してきたものや、いろいろな障害によって邪魔されてきたもの・・・・・・、さらに現役時代では実現不可能だったものに、果敢に挑戦していくつもり』とのことでスタートさせたのだという。つまり、猪木は邪魔さえなければ橋本vs小川戦みたいなことを当たり前のように繰り返すつもりだったのだろう、きっと」と述べています。まことに怖ろしい話ではありますが、そんな新日を見たかったような気もしますね。


ジャンボ鶴田 第二のゴング』黒瀬悦成著(朝日ソノラマ)の書評では、「元気が売り物」だった猪木とは対照的に、鶴田は「呑気が売り物」だったなどと言いながらも、鶴田の「プロレスはね、力と力の本気のぶつかり合いの部分と、ショー的な部分の線引きがね、はっきり出来ないと、つまりどこまでが演技でどこまでが勝負なのか線を引けるところがないと、学問的に言ってスポーツとして認知できないんですよね」という発言を紹介し、彼が最高に強くてショーアップされたプロレスを目指したことを指摘します。さらには、「鶴田の構想では、プロレスの1日の試合を3部構成にする。第1部は、古代ギリシャレスリングの型を儀式的に披露する。第2部は、楽しさを全面に押し出したエンターテインメント・レスリング。そして最後に本格的な格闘技の試合を持ってくる」と紹介し、吉田氏は「これが鶴田にとっての理想の全日だとしたら、もし鶴田が実権を握っていたら想像を絶する世界が実現していたこと確実なのだ」と述べるのでした。見たかった!

 

真剣勝負

真剣勝負

 

 

2000年に刊行された『真剣勝負』前田日明福田和也著(草思社)では、保守論客として知られる福田氏がプロレスを「ある種の予定調和のストーリーが成立する格闘技」、リングスを「リアルファイトの世界」と定義しているのですが、前田は「プロレスというものは、純粋にスポーツとして見ようとしたら、勝ち負けではなくて、試合のイニシアチブの取り合いを楽しむものだと思うんです。ロープに投げ飛ばしたら返ってくる。相手との絡みのなかで技を仕掛ける。受ける。反撃する。こうしたやりとりは、一応、各自が瞬時に選びながらやってるんです。新日本プロレスの全盛時代というのは、そのときの前座はみんなそうだったんですよ」と語っています。



また、前田は「イニシアチブを取り合うゲームという感覚でやると、あれほどいいスポーツはないですよ。充実感もあります。それにちゃんとイニシアチブをとれれば、自然な形で相手が思うように動いてくれるんです。でも、いまのプロレスは、そういう動きのなかで何か決め事をつくったりとかして、選択の幅を狭めている」とも語っています。この前田発言について、吉田氏は「これはいわば前田版『ケーフェイ』宣言のようでありながら、不思議とプロレス愛を感じさせる発言だと思う。つくづくUWFとはプロレスの原点回帰運動だと痛感させられる次第なのだ」と述べていますが、この前田発言はわたしも知りませんでした。これほどプロレスを肯定的にとらえた発言を他に知りません。前田と藤波の名勝負を思い出しました。

 

 

『RIKI力道山、世界を相手にビジネスした男』東急エージェンシー力道山研究班・編(東急エージェンシー出版部)は、赤坂台町のリキ・マンションから発掘された貴重な8ミリ映像をもとに生まれた一冊だそうですが、吉田氏は「『寂しがり屋で短気で猜疑心も強い』し『トイレに入るときもドアは開けっ放し』というタチの悪い私生活と、『本気で闘っていた』ため『マムシの生き血や興奮剤を飲んで試合に挑む』というタチの悪いプロレスを続けていた力道山先生。その姿勢は、鉄人ルー・テーズに『リキはリング上で決してギミックを使おうとしなかった。なぜなら必要がなかったからだ。リキのプロレス観とは、ただリングに上がり、そして勝つことにあった』と証言されるほどのガチンコ野郎ぶりながら、なぜかリング外ではプロレス的なギミックを使いまくっていた様子なのであった」と述べています。力道山の本質を衝いてますね。



また、吉田氏は「つまり、『日本一のゴルフ場を作れ!』などとどんなビジネスでもプロレスラーらしく力尽くで日本一の座に立とうとしたため、業者たちは『注文主は尋常な人間ではないから、予定通りできなかれば殺される』と本気で脅えたのだそうである。まあ、確かにリキ・トルコ(いわゆるソープランドではなくサウナ風呂)建設中、工事の進行状況を見に行けば『こんな手抜き工事をやりやがってッ!』と激怒して、ほぼ完成した客室を次々と破壊して警察に連行されたりするんだから、それも非常に無理はない話ではあるんだが」と述べるのでした。いやあ、最高ですね。それにしても、わたしの古巣の東急エージェンシーがこんな本を出していたとは知りませんでした。いったい、力道山研究班って何だったのでしょうね?

 

船出―三沢光晴自伝

船出―三沢光晴自伝

 

 

『船出――三沢光晴自伝』三沢光晴著(光文社)では、同じ高校のレスリング部の後輩ながら仲が良くなかったという川田利明について、三沢が「小橋にはどんな技でお思い切りできるんだけど、川田は受けが上手い方じゃないんで、考えながらやらなきゃいけない。結局、打撃系なら思い切りやってもそれほどの怪我はしないだろうと、そうなっちゃう。だから、いがに川田との試合は非情に見えるんですよね。それは俺が川田を信用していないから。そうなるんですよ」と語っています。これについて、吉田氏は「信用がないからこそ名勝負が誕生する! 日本流の純プロレスがエンターテインメントや格闘技に勝てるのは、こういう生々しい部分しかないとボクは心から確信した次第なのである」と述べるのでした。確かに、そうですね。

 

魂のラリアット

魂のラリアット

 

 

2001年に刊行された『魂のラリアット』スタン・ハンセン著(双葉社)は、吉田氏によれば、ハンセンの日本人選手の強さに対する記述が非常に興味深いとのこと。ハンセンが猪木を「“強い!”と思ったことは一度もないが、とにかく試合運びが巧妙で、終わってみたらピンフォールを奪われている」と述べたかと思えば、「これに対して、常に“強い”という印象を持ったのは坂口だ」「試合がおわってホテルへ戻ったあと、肉体的な強さ、疲れを感じたことはシリーズで2度、3度あったが、その夜の相手は決まって坂口だった」と述べます。吉田氏は、「いまも最強論が囁かれているビッグ・サカを大絶賛!」と大喜びし、「新日では坂口、全日では『鶴田との試合は疲れる。足が地に張り付いたようで、持ち上げるのに一苦労だ。その点、馬場が相手だと楽だ』(ブロディ・談)とのことで、鶴田最強論をブチ上げてみせるのだった。それにはボクも同感である」と述べるのでした。もちろん、わたしも同感です!

 

野獣降臨 藤田和之

野獣降臨 藤田和之

  • メディア: 単行本
 

 

『野獣降臨』藤田和之・述、“show”大谷泰顕・監修(メディアワークス)では、藤田がケン・シャムロックと戦った試合に対して猪木が「一番危ない試合だった」とコメントしたことに対し、藤田は「猪木さんはもう『やる側』じゃないでしょ? だったらお前がやってみろって! って」と言い放ったことについて、吉田氏は「この怖い者知らずな姿勢は、まさにリアル・ノー・フィア―! 当然、ケロちゃん本でも暴露されていたように、藤田はたとえ現場監督の長州相手であろうともまったく動じないわけなのである。藤田は、「合同練習があったんですけど、その日の朝に帰ってきて、『いいや今日は』って言って寝てたら(長州に)起こされたんですよ。『何やってんだ、お前!』って。『だって今日は練習できない』って言ったら殴られました(苦笑)」と述べています。

 

また、「(長州が)『座れ』って言うんで『なんで座んなくちゃいけないのかなあ』と思いながらイスに座ったら、『何やってんだお前、下だーッ!』って。で、(アグラかいて)座ったら、『バカッ、正座だーッ!』って。俺、頭痛くなっちゃった(笑)」とも述べています。この藤田発言について、吉田氏は「これならマーク・ケアーを前にして、まったくビビらなかったのも当たり前。結局、藤田の強さの秘訣とは決して相手の幻想に呑み込まれることのない桁外れの『ふてぶてしさ』にあったはずなのだ」と述べるのでした。藤田がケアーを破った試合はわたしも会場で観戦しましたが、「霊長類最強の男」を猪木門下の新人プロレスラーが撃破したので狂喜したのを記憶しています。



『人間爆弾発言』山本小鉄著(勁文社)の書評では、吉田氏が「相変わらず小鉄が『どこかの団体に卵の白身ばっかり食べてる奴らがいるけど、俺から言わせれば黄身だって大切だよ!』『パンクラスのスタイルというのは、プロレスの進化じゃなくて退化なんだ』などとパンクラスに噛み付いたり、『ジョージも俊二もアホだ。頭、使わないもん。人としての完成がまともじゃなかったんだ』『俊二は俊二で、こいつも人でなしなんだ』などと『高野のバカ兄弟』に噛み付いたりとピンポイントで攻撃していくから、思わずこっちが『ちょっと待って下さい』と言いたくなるほどなのであった」と述べています。



続けて、吉田氏は「しかも今回は『坂口もどっちかって言ったら練習しない方だった』『一番練習が嫌いだったのが木村健吾』と、タブーというべき内部告発までスタート」と書いています。同書で小鉄が語った「橋本と小川の第3戦目の、いったい何処が異常事態なの!? 小川が橋本に馬乗りになって顔面にパンチを浴びせるけど、そんなものプロレスなんだから当たり前のこと」「ゴッチとヒクソンが試合をしたらどうなるか? 話にならない。ゴッチが圧勝する」「もし現役バリバリの俺がプライドのリングに上げられたら暴れちゃう、暴れちゃうよ。暴れて絶対マイッタしない」という発言には拍手喝采

 

船木誠勝リアル護身術

船木誠勝リアル護身術

  • メディア: 単行本
 

 

船木誠勝リアル護身術』船木誠勝・監修・実演(大泉書店)の書評では、吉田氏が「『もし仮にケンカになったら相手を殺してしまう可能性もあるので、ケンカになりそうな状況は避けて生きてきました』そう言った舌の根も乾かないうちに、『目潰しは思いっきりえぐること』『相手の股間を踏みつける』『顔面踏みつけ』『顔面を狙ってのつま先蹴り』といったエゲツない急所攻撃や、『金的を摑んだら引きちぎるくらいの気持ちでねじり上げることがポイントです』なんて物騒なアドバイスを淡々と読者に叩き込んでいくから、つくづく船木恐るべし! タックルへの対処法として『膝蹴りがポジション的に難しい場合は目潰し』『思いっきり耳に噛み付く』とアドバイスしたり、噛み付きから急所蹴りへ繋ぐ極悪なコンビネーションも教えたりと、ここは明らかに護身というには過剰防衛なスキルばかり詰め込まれているわけなのである。まさに喧嘩芸!」と書いており、爆笑しました。この本、読みたい!

 

 

『すべてが本音。』秋山準アミューズブックス)の書評では、吉田氏は「いろんな意味で平成新日の選手よりよっぽど新日らしい秋山ではあるが、格闘技方面のことを聞かれればすかさず『プロレスをキング・オブ・スポーツと呼んだのはぼくじゃないから、そう呼んだ人が自分で刈り取ればいいんじゃないかな』と新日に責任を押し付けたりするタチの悪さもやっぱり新日らしくて、シビレる限りなのであった。プロレスに対する姿勢にしても、『自分から掟は破りませんよ。でも相手がそのつもりなら、こっちだって目の中に指突っ込んだっていいんだから、いつもそれぐらいの覚悟は決めて試合やっていますからね』という物騒な代物(三沢イズム)だったりするから、秋山には絶対に乗れるはずなのだ。プロレスラーはこうじゃなきゃいけねえんです!」と述べます。これを読んで、秋山準を見直しました。これぞ漢です!

 

 

『マッキーに訊け!――真樹日佐夫のダンディズム人生相談』真樹日佐夫著(ぴいぷる社)では、吉田氏は「(俺も)青酸カリをひとビン抱えて、『貯水池に叩き込んでやる』と山を彷徨したこともあるくらいだからなあ(笑)。それを考えるとバスジャックなんて可愛いもんだよ」という真樹の発言に対して、著者が「なんと真樹先生が少年時代に無差別殺人を計画していたことが、いきなり発覚!」と動揺し、「さらには、『日本プロレス市場、セメント最強の男は誰だと思われますか?』と聞かれれば、思いっ切り意外なことを即答していくから本当に衝撃的すぎなのである」と述べています。素敵すぎる質問ですね。



その真樹の衝撃的な回答とは、「豊登じゃねぇかなぁ。力道山は生前、『いちばん強いのはトヨだ』と言っていたというしな。豊登というのはちょっと桁違いだったんじゃないか? 現役時代に会ったこともあるけど、なんというかオーラが感じられたね。セメントで強いヤツというのはもう技術じゃなくて、腕相撲が強い奴だよ」というものでした。確かに、これは衝撃的です。若き日の猪木をスカウトして東京プロレスを立ち上げた豊登が最強? 希代のギャンブラーだったというし、豊登の幻想が膨らんでしまいますね。誰か、豊登の伝記を書いてくれないでしょうか?

 

野心90%

野心90%

 

 

2002年に刊行された『MUTO 野心90%』武藤敬司著(アミューズブックス)の書評では、吉田氏は「どうにも地味なタイトルだって、なんと全日移籍の真相が『マスコミにはあれやこれやきれいごとを言ってるけれども、正直言って90パーセントは野心だよ(笑)』という意味だったりで、とにかく『要は俺、成り上がりたいんだ(笑)』『いつかは・・・・・・オーナーの座を目指したいよね(笑)』なんて野望すらも隠すことなく、馬鹿正直に告白していく武藤、最高!」と書いています。



また同書で、武藤は「新日本は余程、俺のことをプッシュしなかったんだなあ、なんて感じたりするね。闘魂三銃士の時代というのは、スターが3人いるという複数制だった。要は出過ぎる杭は程よく打たれていたんだよね。それはただの結果論かもしれないけど、出る杭を打っていたのは、もしかしたら長州さんが現場監督を務めていた時代の“実害”のような気もするんだよ(笑)」などと、堂々の長州批判も展開しています。

 

さらに武藤は、「結局、新日本の悪しき伝統というのは先輩のレスラーが自分より強いレスラーを作らないで現役を退いていく、ということだったんだな。猪木さんしかり、長州さんしかりでね。それだけは俺の代で終わりにしたいね」とも述べています。でも、最近の武藤は猪木のプロレスデビュー60周年を祝うイベントを開催したり、長州と仲良くYouTubeでリモート飲み会を開いたりしています。チャッカリしているというより、結局、新日本プロレスで同じ釜の飯を食った者同士の絆というものがあるのでしょうね。この2人以外にも、猪木をはじめ、藤波、前田、船木、蝶野といった新日黄金期を彩ったプロレスラーたちはイベントや動画などで盛んに交流していますね。髙田延彦以外は・・・・・・。



『「髙田延彦」のカタチ』東邦出版・編(東邦出版)は、芸能界から格闘技界まで各界の有名人が髙田について語る本で、吉田氏の天敵ともいえる“show”大谷泰顕氏がプロデュースしています。同書の中では髙田夫人である向井亜紀さんの手記が絶品だとして、吉田氏は「Uインター時代、『給料が6ヵ月連続で出なかったり、信頼していたマネージャーに大切なお金を持ち逃げされたり、さまざまなお金のドロドロに巻き込まれていく姿は本当に痛々しかった』という、よりにもよってそんな時期に結婚してしまった彼女」と述べています。


向井亜紀さんは、「結婚式のときも先立つ物がなく、婚約指輪もないし、ウエディングドレスも貸衣装でした。打掛を借りる余裕などなく、お色直しの赤いドレスは親しい友人が5万円で作ってくれたものでした。そんな結婚式でしたが、皆さん喜んで来てくださって、ホテルの方に、『うちの宴会場始まって以来のアルコール量が出ました!』『足りなくなって慌てて焼酎を買いに行きました』と言われるぐらい盛り上がりました」とも語っています。しかし、髙田道場を作ってからも「家を売り、車を売り、道場の規模を縮小しつつ、髙田の携帯は度々止められました」というくらい困っていたのに、鈴木健が焼き鳥屋を開店したときに訪れた髙田は20万円の御祝儀を置いていったとか。髙田も、根は「後輩思いの兄貴」なのでしょうね。

 

 

結婚式といえば、2003年に刊行された『夫・力道山の慟哭』田中敬子著(双葉社)にも結婚式のエピソードが登場します。吉田氏は、「引出物が足りなくなるぐらい大規模な結婚式をやったのも『俺にとって結婚式は興行と同じなんだ』という考えの上であり、『ヨーロッパからアメリカを回り最後にハワイに寄って静養し帰国する約1ヵ月弱』の新婚旅行を敢行したのも、やっぱり興行みたいなものとして捉えていたのが原因だったから、もう完璧すぎ」と述べています。また、「結婚式もそうですが、新婚旅行も当時では考えられないようスケールの大きさですべてがビッグ。力道山の頭の中には興行と同じで、常にファンに夢を与え続けなくてはならない義務感みたいなものもあったのでしょうね」という敬子夫人の言葉を受けて、「もはや力道山にとっては、自分の行動すべてが興行みたいなものだったのかもしれない。とことんまでプロだよなあ」と述べています。本当に、スケールが大きい!

 

力道山の弟子であった猪木は、女優の倍賞美津子さんと結婚し、超豪華な結婚披露宴を挙げました。当時、「1億円結婚式」と騒がれたものですが、猪木は力道山の真の後継者であることを証明したと思います。その点、猪木の弟子であった髙田は豪華な結婚式が挙げれなかったことは残念ですが、向井亜紀さんという素晴らしい女性と結婚でき、今も結婚生活が続いているのは素晴らしいことだと思います。じつは、わたしは向井亜紀さんに会ったことがあります。テレビ朝日の「プレステージ」という番組の企画コンペ特集にわたしがゲスト審査員として出演したときですが、レギュラー出演者の向井さんが話しかけてくれて、いろいろと親切に番組のことを教えてくれました。とても知的な印象で素敵な女性で、ファンになりました。

 

 

ということで、本書『書評の星座 紙プロ編』は前作に続いて非常に興味深い内容でした。長州力ターザン山本に「山本、Uはお前だ!」と言ったことをターザンが大喜びしたことについて、UをYOUにかけた単なるダジャレであり、「YOUはお前という意味だ!」でしかないという吉田氏の推測も最高でした。相変わらずの洞察力とパンチの効いたコメント力にはシビレますが、何よりも驚いたのはプロレス&格闘技本の書評集の第二弾が出版され、しかも576ページもの大冊であったことです。余程、第一弾である『書評の星座』が売れたのでしょうね!

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一条真也の読書館」の「プロレス・格闘技・武道

 

ブログ『男の星座』の最後にも書きましたが、じつは、」わたしは読んだ格闘技やプロレスの本をブログで取り上げた後、書評サイトである「一条真也の読書館」の「プロレス・格闘技・武道」のコーナーに保存しています。現時点ですでに139冊をカウントしています。これらをまとめて『闘うブックガイド』という本を上梓するのが夢であります。でも、「格闘技・プロレス関連書の紹介本なんて需要もないし、誰も読まないだろうなあ」と諦めていたところ、前作『書評の星座』が出版され、大いに驚きました。1人の読者として「こんな本を待っていた!」と非常に嬉しく思うとともに、1人の作家としては「自分もこんな本を出したい!」という強烈なジェラシーを感じてしまいます。このブログを読んだ出版関係者の方がおられましたら、『闘うブックガイド』の出版を御検討いただきますよう、何卒よろしくお願いいたします!

 

 

2021年4月14日 一条真也

「一礼」と「一同礼」

一条真也です。
男子ゴルフの松山英樹選手が日本男子で初制覇した米マスターズ・トーナメントでは、松山選手を支えた早藤将太キャディーの行動も話題を呼びました。松山選手の優勝後、早藤キャディーは最終18番のグリーンでピンをカップに戻した後、脱帽してコースに向かって一礼したのです。

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コースに一礼する早藤キャディー(写真PGA)

 

日本人らしいこのシーンを映した動画が米メディアのSNSなどで反響を呼び、「コースに敬意を示す素晴らしい振る舞いだ」など称賛の声が上がりました。12日、早藤キャディーは当時の心境について「特別な感情はありませんでした。ありがとうございました、ただそれだけでした」と振り返りました。ラウンド前後のコースに向けて、一礼するゴルファーは日本では必ずしも珍しくありません。しかし、優勝直後で会場が興奮に包まれる中で自然に出た振る舞いが、国内外で反響を呼んだようです。

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早藤キャディーの「一礼」を紹介したSNSは世界中に拡散されました。米スポーツ専門局ESPNのTwitter動画は、日本時間13日午前7時までに再生回数が140万回を突破、「リツイート」は1.1万件に上り、5万件の「いいね」が集まりました。海外から称賛コメントが多く寄せられましたが、元世界ランキング1位のリー・ウェストウッド(イングランド)は「これまで目にしたゴルフ、スポーツにおいて、おそらく最も敬意があり、相応しいことだ。ヒデキ、彼のキャディ、そして日本は素晴らしかった」と投稿しています。

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わたしは、このエピソードに感動をおぼえました。早藤キャディーの「一礼」に感動したというより、日本人なら何ということのない「一礼」が世界中の人々に感動を与えたということに感動したのです。思えば、莫大な資金を使って五輪を開催するよりも、礼をするというノーコストのふるまいで世界に感動を与え、日本のイメージを大いに向上させたというのは素晴らしいことではありませんか!

f:id:shins2m:20210413142716j:plainわが人生の「八美道」』(現代書林)

 

「一礼」とは「お辞儀」のことですが、お辞儀というのは世界中の人々に感動を与えるぐらい美しいのです。コロナ禍の中で拳を合わせたり、スポーツ選手たちがやっているような肘と肘を合わすような行為はけっして美しくありません。わが社の佐久間進会長は礼法家でもあります。実践礼道・小笠原流の宗家なのですが、『わが人生の「八美道」』(現代書林)という著書で、ブッダの「八正道」ならぬ「八美道」というものを提唱しています。「自分には正しいことはわからなくても、美しいことはわかる」というわけですが、その象徴が礼法なのです。早藤キャディーの「一礼」に感動した人々も、「正しさ」ではなく「美しさ」を感じたのでしょう。

f:id:shins2m:20210413142733j:plain礼を求めて』(三五館)

 

コロナ禍の中にあって、わたしは改めて「礼」というものを考え直しています。特に「ソーシャルディスタンス」と「礼」の関係に注目し、相手と接触せずにお辞儀などによって敬意を表すことのできる小笠原流礼法が「礼儀正しさ」におけるグローバルスタンダードにならないかなどと考えています。西洋式の握手・ハグ・キスではコロナ時代にマッチしないからです。じつは佐久間会長だけでなく、わたしも礼法家の端くれです。小笠原流惣領家第三十二代施主・小笠原流礼法宗家の小笠原忠統先生から免許皆伝されました。そんなわが社は、何よりも「礼」というものを重んじています。

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わが社の「一同礼」 

 

みんで一斉にお辞儀をする「一同礼!」がサンレーの代名詞になっています。毎日の朝礼や各種の式典、進発式、起工式、竣工式、責任者会議、平成心学塾などで「一同礼」をすることが習慣ですが、その写真をわたしがブログにアップし続けてきたこともあり、今では「一同礼!」でネット検索すると、わが社の画像が大量に出てきて驚きます。「礼の社」としては本望です。これからも、わが社では「一同礼!」で「こころ」を1つにしたいと願っています。最後に、わたしはコロナ時代の「礼」についてのガイドブックである『イラストでわかる 美しい所作・ふるまい』(仮題)という監修書を7月に刊行する予定です。

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2021年4月12日 一条真也

『この1冊、ここまで読むか!』

この1冊、ここまで読むか! 超深掘り読書のススメ (単行本)

 

一条真也です。
『この1冊、ここまで読むか!』鹿島茂著(祥伝社)を読みました。「超 深堀読書のススメ」というサブタイトルがついています。カバー表紙には著者である鹿島氏の対談相手(ゲスト)の名前と取り上げた本の書名が記されています。フランス文学者で、ALL REVIEWS主宰者の鹿島氏と各章のゲストが、ときにははみだし、ときには関連書籍を出しながら、深掘りの読みを展開しています。 

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本書の帯

 

帯には、「書評サイト『ALL REVIEWS』限定公開の対談書評 待望の書籍化!」「知の巨人たちが選んだ“今読むべき”ノンフィクション」「関連図書も紹介」と書かれています。著者は、です。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「これぞまさしく対談書評の醍醐味」として、「ゲストの方々とのトークは本当に刺激的で、ひとりで対象本を読んでいたのでは気づきもしなかった観点や切り口が示されて驚くことがあります。これぞまさしく、対談書評の醍醐味でしょう。対談の対象本に興味をもたれた読者は、ぜひ書店で実際に手に取っていただきたいと思います。書評の目的は、読まれるに値する本を強く推薦することにあるのですから、これは当然の願いです。そして読み終えたら、もう一度、本書をひもといていただけたら幸いです。理解がさらに深いところまで進むこと請け合いです。(「まえがき」より)」とあります。

 

カバー前そでには、以下のように書かれています。
「これを読んでいると、ある企業の戦略や競争上の強みというのは、成功した現在の姿だけを見ていてもわからないということをつくづく感じますね」――楠木建(第1章『NETFLIX コンテンツ帝国の野望』)
「人間は100メートル走ではほかの動物より遅いけど、それより長距離歩けることが生き残る上で大きかったんだ」――成毛眞(第2章『絶滅の人類史』)
孔子のいう『礼』は鹿島さんがおっしゃるとおりで、平たくいえば、差別化戦略です」
――出口治明(第3章『論語』)
「ノンフィクション・ライターとしてのマルクスの手腕は天才的」――内田樹(第4章『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』)

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」鹿島茂
第1章 楠木健×鹿島茂
『NETFLIX コンテンツ帝国の野望』
――戦略のヒントが詰まった1冊
第2章 成毛眞×鹿島茂
『絶望の人類史』――なぜ人類は生き延びたのか?
第3章 出口治明×鹿島茂
論語』――世界史から読む
第4章 内田樹×鹿島茂
『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』
――ジャーナリスト、マルクスの最高傑作
第5章 磯田道史×鹿島茂
『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』
――記録は命を守る
第6章 高橋源一郎×鹿島茂
『9条入門』――憲法と戦後史を改めて考える

 

「まえがき」の冒頭を、鹿島氏はこう書きだしています。
「私は2017年の7月から、新聞、週刊誌、月刊誌などの活字メディアに発表された書評を再録するインターネット無料書評閲覧サイト『ALL REVIEWS』を運営しています。創設の動機の1つは、遠い将来、紙の本というものが一切、出版されなくなり、古本として残された本も廃棄される運命にあるのではないかと強く危惧したことにあります。これまでに出版された本は無限にありますから、デジタル情報として残すべき価値のある本と、それ以外の本をトリアージ(命の選別)にかけなければならない日がくることは目に見えています」

 

そのトリアージの際、デジタル情報として、ある本の書評が残っていれば、その本は保存すべき価値のあるものと認められて救われることになるそうです。しかし、反対に書評がいっさいなければ(あるいは書評が書かれていても、それが発見できなければ)、その本は価値を認められずに永遠に忘却の淵に沈んでしまうに違いないとして、鹿島氏は「実際、文学賞や学芸賞の一次選考では、書評のあるなしがふるい落としの基準になっているのです」と述べています。この一文には、非常に感銘を受けました。ここには、書評の意義というものが示されています。125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」に連載中の「ハートフル・ブックス」で、150冊を超える本の書評を書き、書評サイト「一条真也の読書館」では2000冊以上の本のレビューを書いたわたしのハートにヒットする内容でした。そして、いま、本書の書評も書いているわけです。

 

NETFLIX コンテンツ帝国の野望 :GAFAを超える最強IT企業

NETFLIX コンテンツ帝国の野望 :GAFAを超える最強IT企業

 

 

第1章では、一橋ビジネススクール教授の楠木健氏が取り上げた『NETFLIX コンテンツ帝国の野望』ジーナ・キーティング著、牧野洋訳(新潮社)をめぐって対談が行われます。楠木氏は、「1つの作品に何百ものタグを『人力』でつける」では、「ネットフリックスが何を見ているかというと、いまの人々が、ストリーミングになって以降、どういう作品を選び、それをいつ、1回あたりどれぐらいの長さで見ているかといったことです。しかも、どこでポーズをしてどこで巻き戻して、その次にどこで視聴を止めるかといったことまで、すべて日常的にデータ収集しているわけですよね。それによって、いわば二重の意味で後出しジャンケンをしているわけですよ」と語ります。

 

そういうデータを集めると、ある俳優にものすごく食いつきのいい固定ファンがいるとわかるだけではなく、その俳優の作品が出たら何人ぐらいが見るのかも予測できるとして、楠木氏は「そうやって何から何まで分析すれば、主演も監督も物語のタイプも最初から売れるように組み立てて映画を制作できるわけです。昔から映画は典型的な興行世界で、山師みたいな人の勘に頼って『当たるか当たらないか』とやってきましたが、ネットフリックスのやり方だと後出しジャンケンができる。もう1つの後出しじゃんけんは、その映画ができたときに、きっと見てくれるだろうと思われる人に向けてピンポイントでガンガン推していけるということですね。これが、リスクを抱えていた従来の映画興行とまったく違うところです」と語ります。

 

ネットフリックスのアルゴリズム戦略について、鹿島氏が「たとえばアマゾンで本を買うと、すぐに『これもどうですか』とレコメンデーションしてきますけど、なんか違うんだよなぁと思うことが多いですよね(笑)、全然こっちの趣味を読み取ってくれていない。それをちゃんと読み取れる方法を考えることができたのは、やっぱり創業者の根がオタクだったからでしょうね」と言えば、楠木は「これはもう、アルゴリズムで回すデータの量が多ければ多いほど精度が上がりますからね。アマゾンとの違いは、ネットフリックスはすべて映像コンテンツなので、『♯後半に山場あり』とか『♯いきなりハラハラドキドキ』とか無限にタグがつけられるので、やりやすいですよね」と語ります。

 

また、楠木氏は「本ではなかなかそうはいかないと思いますし、洋服のような商品で、も難しいので、やはり映画コンテンツという商品のジャンルと経営手法がうまくフィットしたのが大きいと思います」とも述べます。そして、鹿島氏は「いまはハリウッドの映画製作自体がアルゴリズムになってますね。ありとあらゆる過去の映画をタグ付けみたいな形で分析して、演出や撮影方法も非常にアルゴリズム的になっている」と語るのでした。この対談を読むと、ネットフリックス大成功の秘密がより深く理解できます。

 

 

第2章では、書評サイト「HONZ」代表の成毛眞氏が取り上げたブログ『絶滅の人類史』で紹介した分子古生物学者の更科功氏の著書をめぐって対談が行われます。「辺境ほど古いものが残る」では、成毛氏が「これはユヴァル・ノア・ハラリの説ですが、ホモ・サピエンスは複数の大集団がネットワークを作るのに対して、ネアンデルタールはそれぞれが孤立した集団で生きていた。それが槍投げの機械を含めた決定的なテクノロジーの差になるんですね。ネットワークがあれば、一人が弓を見つければすぐに1万人に広まるでしょう。しかしネアンデルタール人は、自分の集団にいる30人ぐらいにしか伝わらない。だとすれば、これは決定的な差を生む可能性があります」と述べます。

 

すると、それに対して、鹿島氏は「そうですね。人類は何かを発明すると、あっという間に全員が持つようになる。言葉や文字もそうです。このことは逆に言うと、いろいろな辺境の文明が崩壊したというジャレド・ダイアモンドの最近の研究ともかなりクロスしてきます。たとえばイースター島の文明がなぜ滅びたか。いろいろな影響があったけれども、孤立していたのが大きいわけです。孤立している集団は絶滅しやすい」と語っています。

 

「役に立たない基礎科学こそ実は役に立つ」では、成毛氏が「地学や人類学、物理学などは基礎科学じゃないですか。目の前の現実社会では全然役に立たないんですよ、こんなものは。しかし、この役に立たない基礎科学こそが人類にとってもっとも大事だったことは、ギリシャ文明以来3000年の歴史が証明しているわけです。政治学や経済学みたいな学問は、役に立つようでいながら、そのじつ社会の足を引っ張ることもある。マルクス経済学などそのよい例です。ところが基礎科学は、たとえば100年前に量子力学相対性理論が生まれなかったら、スマホが生まれていないんです。量子力学がなければ、この中に入ってる半導体は存在しません。リチウムバッテリーもない。相対性理論がなかったら、GPSもうまく稼働しないんですよ」と語ります。

 

続けて、成毛氏は「100年前に量子力学ができたときは『こんなもん何の役に立つんだ』といわれたでしょう。相対性理論も、当初は東大の先生が『世界で4人しか理解できない』と紹介したらしい。そのぐらい役に立たないと思われていたのに、いまやこれがなければ社会は19世紀のままだった。そういう基礎科学の分野の本を一般読者が読むようになったのはいいことです。一般的な興味が高まれば、政府からも民間からもそういう研究にお金が行き渡るようになって、結果的に100年後の人類がより良くなるという気がしますね」と語っていますが、非常に示唆に富んだ発言であると思います。

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

  • 発売日: 1999/11/16
  • メディア: 文庫
 

 

第3章では、立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明氏が取り上げた『論語』をめぐって対談が行われています。現在、NHK大河ドラマの「青天を衝け」が放映中ですが、主人公の渋沢栄一は「論語と算盤」で有名な人です。フランス文化を研究する鹿島氏がパリ万国博覧会について調べているうちに、1867年万博のところで渋沢栄一の名前を見つけたそうです。鹿島氏は、「万博に日本からはるばるやってきた徳川昭武一行に、彼が会計係として入っていたんです。そこで僕は、日本の資本主義が明治に成功したのは、もしかしたらサン=シモン主義の影響が渋沢栄一を経由して日本に入ったからではないかという仮説を立てました」と述べています。

 

渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)

渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)

  • 作者:鹿島 茂
  • 発売日: 2013/08/06
  • メディア: 文庫
 

 

その仮説の証明をするために『渋沢栄一』という本を書いた鹿島氏は、「渋沢栄一という人物は、サン=シモン主義だけでは理解できません。彼の中にもう一つあったのが『論語』です。『論語』のエートスや倫理観を理解できなければ、渋沢の資本主義も理解できないというわけです。そこで『論語』を読み返してみたというのが、今日、『論語』を取り上げることになった一つのきっかけです。僕なりに理解すると、渋沢栄一は、お金儲けを卑しいものとする朱子学の考え方をぶち壊したかったということです。朱子学的価値観では資本主義は発展しない。自分の利益のみを追求しないかぎり、お金儲け自体は卑しむべきことではない、それどころか社会に貢献することであると証明したかったんです」と述べています。

 

渋沢栄一 下 論語篇 (文春文庫)

渋沢栄一 下 論語篇 (文春文庫)

  • 作者:鹿島 茂
  • 発売日: 2013/08/06
  • メディア: 文庫
 

 

続けて、鹿島氏は「そのために、彼(渋沢栄一)は『論語』を読み直しました。二松學舍大学の創設者でもある三島中洲さんという偉い論語学者について、一から勉強したんですよ。そして最終的には、利益を求めるときには、その利益が自分の与えたサービスとちゃんと釣り合っているかどうかがいちばんの問題だと理解しました。要するに、暴利じゃなければ、お金儲けをしてよい。孔子先生は、それがなければ国は成り立っていかないと言っている。これが、渋沢による資本主義のための『論語』解釈なんですね」と述べます。

 

これは、実のところサン=シモン主義とかなり近いと指摘し、鹿島氏は「僕なりに解釈すると、ちょっと資本主義に傾いた社会民主主義がサン=シモン主義ではないかと思うんです。ですから、『暴利を貪ってもOK』という英米型の資本主義とは違う。渋沢の求めていた資本主義も暴利を否定しますから、親和性があるんです。渋沢がサン=シモン主義を知っていたわけではないのですが、渋沢は、第二帝政とパリ万博で現実化されたサン=シモン主義をモノとして、あるいはシステムとして目撃したことで、これと似た資本主義を模索するために『論語』を援用したわけです」と述べるのでした。

 

これに対して、出口氏は開口一番、「荒っぽくいえば、渋沢はルターのような人だったと思います」と言った後、「ローマ教皇に疑問を抱いたルターが聖書に立ち返ったように、明治政府が天皇制とイエ制度をセットにネーションステートを創ったときに朱子学を大いに活用したわけですが、渋沢は孔子に立ち戻って『論語』を読んだ。原点に立ち返ることで商売の大事さを再発見したと考えればわかりやすいんじゃないですか」と語ります。

 

「中国社会はなぜ流動性が高いのか」では、出口氏が「ヨーロッパよりも広い中国をエリート官僚がコントロールするのは容易ではありませんが、それができたのは漢字と紙があったからですね。たとえば伝言ゲームでは5人ぐらい後になると中身がめちゃくちゃに変わってしまいますが、紙と漢字があればきちんと伝えられます。『始皇帝はこう指示した』と紙に書けば、全国津々浦々まで広めることができる。中国は漢字と紙のおかげで、文書行政による統技術がめちゃ早くに確立したのです」と語ります。

 

しかも「法家」という流派がいて、法治国家の概念を作り上げたから、イデオロギーだけでなく法律によって「一君万民」の体制を実施できるようになったことを指摘し、出口氏は「そのあたりが世界の中で中国は群を抜いて早い。『出鱈目もいい加減にせい、紙は紀元105年ぐらいに蔡倫が発明したんやないか』というツッコミが入りそうですが、蔡倫は紙を完成させたのであって、発明したわけではありません。始皇帝の時代にも、紙の祖形が豊富にあったのです」と述べています。

 

さらに、中国の場合、流動性の高い社会に一君万民の体制ができてしまったので、封建領主のような中間的な指導層がいないとして、出口氏は「中間層のリーダーがいれば、ひょっとしたら優しい殿様が村民を可愛がってくれるかもしれません。あるいは、ギルドのようなものが強ければ人々を守ってくれることもあるでしょう。ところが中国は殿様もいなければ、ギルドの力も弱いので、市民を守る仕組みが何もないんですよ。中間的な自治体制がないから、中国の人々は人間関係で自らの身を守るのです。いちばんわかりやすいのが一族や秘密結社ですよね。そういう点で、中国社会は国を治めるロジックも民のロジックも、ヨーロッパやその他の地域とはかなり違う、とても変わった地域なんです」と述べるのでした。

 

「中国社会に孔子が登場した背景」では、出口氏は「そういう社会で、なぜ孔子のような人が生まれたのか。これには2つの説明があります。1つは、ヤスパースが『枢軸の時代』と呼んだ紀元前500年前後にプラトンアリストテレス孔子ブッダといった賢い人たちが世界中で生まれています。昔は『なんでこの時期に一斉に天才が現れたんや!』と不思議に思われていましたが、いまの歴史学では『地球が暖かくなったから』というわかりやすい説明がなされています。ちょうど鉄器が普及したのと同じ時期ですね。気候が温暖になって、鉄器が普及したので農業の生産性が急上昇した。すると食糧の備蓄ができるので、『賢い人は農作業しないで勉強しとったらええわ』という余裕が出てくる。だから天才が能力を発揮できたというわけです」と述べます。拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)で、わたしは「枢軸の時代」について詳しく書きましたが、「地球が暖かくなったから」聖人たちが輩出したというのは一理あると思いました。

 

 

紀元前771年に周(西周)が滅びました。出口氏は、「それまで金文職人は高給を約束される代わりに『よそに行ったらアカンで』と囲い込まれていたのですが、雇い主が滅んだら別のところで雇ってもらわなければなりません。そこで、周から青銅器をもらってありがたがっていた地方の王様のところに行って、『青銅器が作れます』『字の読み書きもできます』と売り込むと、雇ってもらえるわけです。そうやって、周に囲われていたインテリゲンチャたちが各地に散らばりました」と述べています。

 

戦国時代になるとさらに世の中が豊かになったので、このインテリゲンチャは2つに分かれたとして、出口氏は「1つは、役人になる人たち。『戦国の七雄』という王様に仕えて文書を書いたり、下っ端のほうは県庁に行ってその文書を受け取ったりするわけですね。その一方で、社会が豊かになったのだから、インテリとして格好いい言説を弄すれば養ってくれる人がきっといるだろう、ということで野に出ていく人もいるわけですね。この人たちが、諸子百家になった。孔子もその中から登場したわけです」と説明しています。

 

「『マナースクールの校長先生』としての孔子」では、「礼」の問題が取り上げられます。鹿島氏は、「『論語』を虚心坦懐に読んでも、やたらとしつこく言われる『礼』というものをどう考えたらいいのか、なかなかわからない。僕なりに『礼』を解釈すると、これは宮廷儀礼のこと。たとえば王様の次に偉い人は右に座るべきか左に座るべきかとか、本当ならどうでもいいことなんですが、それを格付けして『王様の左に座る人が偉い』といったことを決めるのが宮廷儀礼です。もともと、孔子先生はその指導者でした。礼儀作法を教える塾の塾長なんですね。僕の通勤ルートの途中にブライダルの専門学校がありまして、生徒たちがずらりと並んで『腰は何十度傾ける!』などと言われながらお辞儀の練習をさせられています。別のところにはセレモニーホールがあって、お葬式のやり方を教えたりしているわけですが、まあ、孔子先生もそういうブライダル兼セレモニー学校の校長先生だったと考えていいんじゃないかと思います」と述べています。わたしも、冠婚葬祭業者こそは孔子の精神的末裔であると考えているので、この発言には納得する部分がありました。

 

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

  • 作者:白川 静
  • 発売日: 2003/01/01
  • メディア: 文庫
 

 

また、鹿島氏は以下のようにも述べています。
「ただ孔子先生は、どうもシャーマン系の占いや宗教みたいなものが大嫌いだったらしく、それを『淫祠邪教』などと蔑んでいるんですね。自分がやっているのはそういうものとは違う哲学的な意味があると考えていたのでしょう。それこそ「礼」にしても、単に知識として『左に座るほうが偉い』と教えるのではなく、哲学的な理由付けをした。『いまは形骸化しているから左右どちらが偉いか覚えればいいんだけど、もともとは左が偉い理由があったのだから、なぜそうなのか考えてみようじゃないか』といったことを、弟子たちに盛んに言うわけです。『論語』の最初のほうにも、『学んで思わざれば則ち罔し。思うて学ばざれば則ち殆し』という言葉がありますよね。知識を得たら、そこから理由なり、原因なり、わからないことを自分で考えてみよう、というのが孔子先生がやったことなんじゃないかと思います」

 

「『血統』と『礼儀』が社会を安定させる」では、出口氏が一般に「おばあちゃん仮説」といわれているものを紹介し、「本来、人間は動物なので、次の子孫をつくったらもう大人に用はないので、死んでいくはずなんですよ。ところが実際には、もう子孫を残せない年齢になっても長生きしています。昔は歯医者もありませんから、歯がボロボロになった高齢者に食事をすり潰して与えるのはすごくコストがかかるんですが、どういうわけか人間の寿命は長い。なんでそんなことになったのかというと、高齢者の経験(知恵)を活用することによって群れ全体が賢くなって、生き残る確率が高まるからです。そのために、生殖能力がなくなっても、ホモサピエンスは高齢者を長生きさせたというのが『おばあちゃん仮説』です。そういう面では動物とホモサピエンスは違うんですね。孔子のいう『礼』は鹿島さんがおっしゃるとおりで、平たくいえば、差別化戦略です」と述べています。

 

 

また、出口氏は「日本の古代の天皇制も、中世からやたらに有職故実が詳しくなりますよね。これに対して『そんな面倒臭いことはやってられん』と最初に抵抗した実力者が、平清盛でした。京都にいると儀式にばかり呼び出されるので、『これでは政治なんかできへん』ということで、福原に引っ込んだ」と述べます。一方、足利義満は儀式に対する考え方が清盛とは正反対であったとして、「彼は勉強が好きだったので、『面倒臭いけれど、いっぺん覚えてしまえばこちらの勝ちだ』と考えたんですね。『ガンガン礼儀を勉強しておれのほうが詳しくなったら、朝廷もいうことを聞くやろ』というわけです。日本の歴史の中では、儀式に対してこの2つのパターンがありました。清盛も義満も傑出した人物で、武家太政大臣になったのは近世以前ではこの2人しかいません」と述べています。

 

哲学と宗教全史

哲学と宗教全史

  • 作者:出口 治明
  • 発売日: 2019/08/08
  • メディア: 単行本
 

 

さらに、出口氏は、「礼」といわれるもののかなりの部分は孔子が創ったと推測し、「彼が理想としたのは周公旦という周の大宰相で、孔子は、何度も『周公旦の夢を見た』と述べています。孔子が生まれた魯という国は周公旦の子孫が治めていたので、『自分の国の先祖はきっとこういう礼儀作法で諸侯を仕切っていたにちがいない』と考えたのでしょう。全部が創作だとは思いませんが、夢で見たものを自分なりに再構成したのが、孔子の『礼』だと思います。そのノウハウを諸侯に売ることで、自分の教団が食べていけるようにした。さまざまな諸子百家がお互いに差別化戦略を練る中で、孔子はそういう形で生き残ろうとしたのではないかと思います」と述べます。

 

哲学と宗教全史

哲学と宗教全史

  • 作者:出口 治明
  • 発売日: 2019/08/08
  • メディア: 単行本
 

 

「文献学者であると同時に哲学者になった孔子」では、直系家族についての特徴について、鹿島氏が「それは土地私有と結びついていることです。当たり前ですが、農地が私有でなければ、それを大切に子どもに伝えようなんて誰も思いません」と述べ、直系家族と土地私有が結びついて代々やっていくと、先祖崇拝、原始シャーマンが生まれるとして、鹿島氏は「孔子さんも、当初は半分ぐらい原始シャーマンでした。それが途中から変わったんです。直系家族的もしくは先祖崇拝的な狭い共同体のルール、一族が大きくなると『宗族』と呼ばれるもの――これは中国にまだありますけれども、孔子はたぶんそういうものが嫌だったので、そこからフィロソフィーに転換したんです。つまり、血統的な直系家族的なものに普遍性や一般原理を求めた。単に『じいさんのそのまたじいさん』という個々の話からドーンと飛躍して、殷や周、その前の夏という王朝にお偉い人がいたんだぞ、と。そうやって遠い先祖に飛んだのが、彼なりの一般化だったんですね」と述べます。

 

 

さらに、孔子がやったのは、ドイツ的な意味での文献学あるいは系譜学であると指摘し、鹿島氏は「文献学(系譜学)とは、単に昔の文献を調べるだけではありません。たとえばニーチェは『道徳の系譜』というすごく面白い本の中で、聖書の記述に混在している古い内容と新しい内容を見分けてるんですが、それがまさに文献学的な方法です。孔子のやった文献学もそれと同じようなものです。『詩経』や『易経』などに含まれている古いものと新しいものを見分けた。その意味で、孔子は文献学の元祖ともいえます」と述べています。

 

 

一方、出口氏は「自分は周の礼節を発見した」「太古のルールをすべて知っている」と売り込むためには、自分で昔の文献を集めなければいけないし、みんなにその内容の正しさを整合性のある形で説得できるようにしなければいけないと指摘し、「孔子は、それを広く売りに行けるよう、古いものや新しいものを整理し、どこの国でも通用する儀礼マニュアルを作って、弟子に教えていた感じですよね。孔子は、どこかの国の大臣になって、給与をもらおうとしていた節があります。そこに自分の弟子を連れていって、政治をやろうとした」と述べています。

 

しかし、どこの国でも、「たしかに立派な教えだが、うちの国ではイマイチやな」という話になってしまって、お払い箱になるとして、出口氏は「とりあえず話は聞いてくれるけど、みんな『こんなグループを雇ったら、えらい出費やな』などと思うんでしょうね。それで最後は孔子も大臣になるのは無理だと諦めるんですよ。その代わり、自分が勉強してきたことを体系化し、普遍化して、それを弟子に教えた。それを各国へ売りに行った弟子の中から、ひょっとしたらいつか大臣が出るかもしれないという思いもあったのでしょうね」と推測します。

 

「全世界史」講義 I古代・中世編: 教養に効く!人類5000年史

「全世界史」講義 I古代・中世編: 教養に効く!人類5000年史

  • 作者:出口 治明
  • 発売日: 2016/01/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

そして、出口氏は「これは、意外にもプラトンと似ているんですよ」と言います。現実の政治は、海千山千の相手との駆け引きがあるとして、「時にはいうことを聞かない相手を脅したり、逆に頭を撫でたりもしなければいけません。それがプラトンにはできなかったので、最後はアカデメイアという学園を創って、そこで一所懸命教えることにした。そういう面では孔子プラトンはよく似ています」と述べるのでした。孔子プラトンも基本的に哲学者でしたが、彼らの哲学が後世の多くの政治家に大きな影響を与えたことは紛れもない事実です。

 

ブリュメール18日 (平凡社ライブラリー)

ブリュメール18日 (平凡社ライブラリー)

 

 

第4章では、「凱風館」主宰者で、思想家・武道家神戸女学院大学名誉教授でもある内田樹氏が取り上げた『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』をめぐって対談が行われます。「ヨーロッパからアメリカに亡命した『四八年世代』」では、マルクスの書く政治ドキュメンタリーは非常に面白く、中でも『ブリューメル18日』は「ジャーナリスト」マルクスの最高傑作であると絶賛する内田氏は「リンカーンマルクスが同時代人だったことに世界史の教科書を読んでいるだけでは気がつきません。でも、リンカーンの大統領再選のときに、第一インターナショナルを代表して祝電を送ったのはマルクスなんです。そして、リンカーンはそれに対して在英アメリカ大使を通じてマルクスに感謝の言葉を返している。アメリカとマルクスのあいだには深い因縁があるんです。南北戦争は人間社会はいかにあるべきかをめぐる思想的な戦いでもあるわけですけれど、北軍の思想の基盤形成にマルクスは深く与っています。いまのアメリカ人たちは、自分たちの国の歴史的転換点にカール・マルクスがいたという事実を絶対に認めないでしょうけれども」と語ります。

 

空想から科学へ (科学的社会主義の古典選書)

空想から科学へ (科学的社会主義の古典選書)

 

 

「ナポレオン3世がいなければ第二帝政はわかりやすかった」では、マルクスの盟友エンゲルスが『空想から科学へ』の中で空想的社会主義者としてロバート・オーエン、シャルル・フーリエ、サン=シモンの3人を取り上げたことを紹介し、内田氏は「その中のフーリエの弟子だったヴィクトル・コンシデランは、二月革命に『フーリエ派』としてかなりコミットしているんですね。そのコンシデランも、のちにテキサスに行きます。フーリエの理想郷であるファランステールを建設するために、集団で出かけたんです。それに対してサン=シモン主義のほうは、ナポレオン3世自身もサンシモニストでしたが、頭目のアンファンタンが同志を集めてアメリカではなくエジプトに行ったんです。そこでスエズ運河を通そうと言い出してね。サン=シモン主義は、ヒトとモノと金とアイデアを循環させることが富を生むという考えですから、東洋と西洋が分離しているのはよくない、東洋と西洋でヒトとモノと金とアイデアを循環させるには、スエズ運河を通してしまえばいいんだ、という話です」と述べています。基本的にマルクスは読まないわたしですが、彼の本がいかに面白いかを興奮気味に語る内田氏の発言を読んでいると、「そんなに面白いのなら、読んでみようかな」という気になりました。

 

 

第5章では、国際日本文化研究センター准教授の磯田道史氏が取り上げた『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』速水融著(藤原書店)をめぐって対談が行われます。著者の速水融は磯田氏の師ですが、歴史人口学の創始者でありながら感染症の本を書きました。「専門分野を超えたジェネラリストの多様な視点」では、磯田氏が「日本は『専門は何ですか』と聞く人が多くて、専門外のことを語ると批判する人もいますが、それは逆に面白がるべきです。『あなたは何が専門ですか』と問われたら、『いや、人間が専門です。私は人間としてやっているんです』というのが正しい姿。人を1つの専門分野に押し込めて、それに関する発言だけを求めるのは、豊かな社会のあり方じゃありません。それをやっていると脆弱になると思います」と述べています。

 

人類哲学序説 (岩波新書)

人類哲学序説 (岩波新書)

 

 

それに対して、鹿島氏が「そうですね。たとえば日文研国際日本文化研究センター)を作った梅原猛さんは、本当にジェネラリストですよ。専門ばっかりやっていたら、梅原先生のような学者は出てきません。京都大学から多くのジェネラリストが生まれるのは、自由の学風のおかげなんでしょうか。あまりに効率ばかり追い求めて専門への特化を促すと、本当の意味での学問が生まれなくなります」と言えば、磯田氏は「実は速水先生のお父さんは京都大学の哲学科なんです。西田哲学とか和辻哲郎とか、京都学派の人たちには、分野を超えて、あらゆる知識を世界中から、あるいは時代を超えて収集してやるという姿勢があったと思います」と述べるのでした。

 

子供より古書が大事と思いたい

子供より古書が大事と思いたい

  • 作者:茂, 鹿島
  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: 単行本
 

 

「博覧会と百科事典」では、鹿島氏が「あるとき、神田神保町田村書店パリ万国博覧会総目録が売られていたんです。すごく高くて、大学の研究室のお金ではとても買えない。そこで図書館の特別予算を使おうとしたら、主任の先生が『こんな本を買ってどうするんです? フランス文学の研究には何の役にも立たない。こんなものを買うなんて問題だな』と言うんです。そうしたら、その会話を横で聞いていた河盛好蔵さんが『面白いじゃないですかこれ。ぜひ買いなさい』とおっしゃってくれました。それで買ったんです。そこから僕の万国博覧会研究が始まり、第二帝政研究につながり、さらに渋沢栄一にまで来たわけです。資料との出会いとはそういうもので、何の役に立つかわからなくても、面白いと思ったら買う。こういう資料との出会いはとても重要ですね」と語っています。良い話ですね。

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百科事典を集めた実家の書庫

また、鹿島氏は「博覧会には、すべてがある。これは百科事典もそうなんです。古い百科事典は誰も買わないので神保町でいちばん最初に捨てられちゃう本なんですが、これは百科事典というものを知らない人の態度です。というのも新しい百科事典を作るときには新しい知識を入れるから、その分、古い項目は削除されてしまうのです。古いことを調べるには古い百科事典じゃないとダメなんですね。たとえば渋沢栄一の実家は藍玉製造を仕事にしていたんですが、藍玉製造の方法のことはいまの百科事典には何にも出てこないですよ。だけど昔の、平凡社が最初に出した頃の百科事典にはちゃんと出ているんです。藍玉の製法とかね」と述べます。わたしも、百科事典をこよなく愛しており、古今東西の百科事典をコレクションし、ブログ「実家の書庫」に書いたプライベート・ライブラリーである「気楽亭」に収めています。

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実家の書庫に並ぶ『古事類苑』

 

いま、実家の書庫には『ブリタニカ』や『ラルース』の初版をはじめ、『ブロックハウス』『チェンバース』『アメリカーナ』など世界中の百科事典が集められています。
特に、日本のものは『和漢三才図絵』『嬉遊笑覧』『厚生新編』『日本社会事彙』から『古事類苑』『廣文庫』、そして現代のものまでほとんど揃っています。平凡社の『世界大百科事典』などは、初版以来のあらゆる版を神保町で揃えました。平凡社以外の百科事典もたいていは揃えていますが、中でもお気に入りは、小学館の『万有百科大事典』です。各巻が「日本歴史」「哲学」「文学」といったふうに専門事典として編集されているので、使いやすい。この事典には非常にお世話になりました。専門事典では、他に、吉田東伍の『大日本地名辞書』とか、諸橋徹次の『大漢和辞典』とか、吉川弘文館の『国史大事典』、小学館の『日本国語大辞典』、角川の『日本地名大辞典』など、全部で数十巻に及ぶものもカバーしていました。それらの事典類をながめながら、少年時代は「古今東西の全知識を自分のものにしたい!」という大それた、というより罰当たりな妄想を抱いていました。

 

感染症の日本史 (文春新書)

感染症の日本史 (文春新書)

 

 

「真の意味での『撲滅』は難しい」では、スペイン・インフルエンザから100年後のパンデミックである新型コロナウイルス感染症について語られます。磯田氏は、「新型コロナへの対処では、トータルでの超過死亡を減らすことを考えるのも重要です。その方法に、あらゆる知恵と能力と資源を使わないといけない。新型コロナウイルス本体での死者以外にも、たとえば経済的に追い込まれた人々が自殺するといったことも起きかねません。もちろん、一方で外出の自粛によって、交通事故死など一時的に減少するものもあると思います。また、みんながマスク着用や手洗いを励行したことで、インフルエンザによる死者は劇的に減るかもしれません。しかしその反面、新型コロナが流行っているせいで、病院に行くのを見合わせる人もいます。その結果、症状を悪化させたり、中には手遅れになるといった形での関連死が生じるわけです。そういう死者を減らすことも含めて、政策担当者は総合的に考えなければいけません」と述べるのでした。

 

9条入門 (「戦後再発見」双書8)

9条入門 (「戦後再発見」双書8)

  • 作者:加藤 典洋
  • 発売日: 2019/04/19
  • メディア: 単行本
 

 

第6章では、作家で明治学院大学名誉教授の高橋源一郎氏が取り上げた『9条入門』加藤典洋著(創元社)をめぐって対談が行われます。「ヴィシー政権日本国憲法はどちらも『二重人格』だった」では、鹿島氏は「日本やドイツは明らかにあの戦争の敗戦国ですが、フランスは、勝ったのか負けたのか、被害者なのか加害者なのか、実はよくわからないんですね。戦争中に北半分をドイツに占領されて、南にそのヴィシー政権ができた。実際にはドイツの意向を忖度しているので、ユダヤ人虐待にも手を貸しているんですね。それを、とりあえずなかったことにしたんですよね」と述べています。

 

それに対し、高橋氏は「映画では、対独協力者を摘発して女性の髪の毛を剃るシーンなどがよく描かれます。それで、当時のフランス人はレジスタンスで戦ったという神話ができた。共産党ド・ゴールも戦った。ヴィシー? そんなのいたっけ? という感じで語ってきたわけです。要するに、記憶の捏造なんですね。フランスはレジスタンスによって勝った国だと思い込んでいるけれど、実は抵抗せずに対独協力したという暗部がある。それをごまかすことでフランスの戦後を作ってきたんだけれど、とくにアルジェリア戦争以降はそれが保てなくなってきた」と述べます。

 



「日本人の記憶の書き換え」では、高橋氏は「たとえば原爆についても、日本人は記憶の書き換えを行ないました。戦争中は日本も東大や京大で原爆の研究をしていましたし、極秘でもなかった。実は庶民も知っていたそうです。巨大新型爆弾を製造してアメリカに落とす、という小説が、1944年には何冊か出ていました。でも戦後は、広島・長崎の原爆について自分たちは無垢の犠牲者だと思いたいがために、原爆を研究して敵地に落そうとしていた記憶はなかったことになっている。本当は、ドイツも日本も研究していたけれども、残念ながらアメリカに先んじられたんです。被害者の顔をしているけれど、単に遅かっただけ。これも典型的な記憶の書き換えですよね」と語ります。

 

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:吉本 隆明
  • 発売日: 1982/01/16
  • メディア: 文庫
 

 

 「『選び直し』か『書き直し』か」では、吉本隆明の『共同幻想論』を読み直すという連載をやっているという高橋氏が、「吉本さんが天皇制を正面から論じた本があるですが、そこで彼は、天皇制自体が日本人のメンタリティを規定してはいるけれども、その淵源とマッカーサーの受け入れは同じではないかと、すごいことを言っています。彼は、天皇制の始まりよりも前に遡った『源日本人』というものを想定するんですね。そして源日本人は、上から接ぎ木のように体制が生まれたときに、それがまあまあ良い支配をする体制なら『OKよ』と受け入れるような人々なのではないかと考える。だから、大昔に天皇制を受け入れたのと同じレベルで、マッカーサーを受け入れたのではないかというわけです」と述べるのでした。

 

天皇制の基層

天皇制の基層

 

 

本書には6人のゲストが薦める「関連図書」のコーナーもあり、わたしの読んでいない本、知らなかった本も多く、大いに興味を惹かれました。ネット全盛で読書人口は減る一方かと思いますが、本書に紹介されているような深堀り読書から得られる学びはネット記事から得られるそれの比ではありません。コロナによってさらに混迷を極めているこの世界を生きていくためにも、わたしはこれからも読書を続けていきたいと思います。

 

 

2021年4月13日 一条真也

『逆・タイムマシン経営論』

逆・タイムマシン経営論 近過去の歴史に学ぶ経営知

 

一条真也です。
『逆タイムマシン経営論』楠木健・杉浦泰著(日経BP)を読みました。近年ピカイチのビジネス書の名著でした。楠木氏は一橋ビジネススクール教授。1964年生まれ。89年、一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年から現職。専攻は競争戦略。また、杉浦氏は社史研究家。1990年生まれ、神戸大学大学院経営学研究科を修了後、みさき投資を経て、ウェブエンジニアとして勤務。そのかたわら、2011年から社史研究を開始。個人でウェブサイト「The社史」を運営しています。 社史の研究家とは面白い!

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本書の帯

 

本書の帯には、「近過去の歴史に学ぶ経営知」「『飛び道具』『激動期』『遠近歪曲』、3つの『同時代性の罠』を回避せよ。『新聞・雑誌は10年寝かせて読め』――過去記事は最高の教材」「変化する歴史を振り返ると、一貫して変わらない「本質」が浮かび上がる。本質を見極め、戦略思考と経営センスに磨きをかける」「古くて新しい方法論」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「われわれが歴史から学ぶべきことは、いかに人々が歴史から学ばないかということだ」(ウォーレン・バフェット)という言葉が紹介され、「――だからこそ、『歴史知』は最強の武器になる。『ファクトフルネス』だけでは物足りない。ビジネスパーソンに向けた、『パストフルネス』の知的作法」と書かれています。

f:id:shins2m:20210326232817j:plainアマゾン「出版社より」

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「『飛び道具トラップ』『激動期トラップ』『遠近歪曲トラップ』経営を惑わす3つの『同時代性の罠』を回避せよ! 近過去の歴史を検証すれば、変わらない本質が浮かび上がる。戦略思考と経営センスを磨く、『古くて新しい方法論』。『ストーリーとしての競争戦略』の著者らの最新作! これまで多くの企業が、日本より先を行く米国などのビジネスモデルを輸入する『 タイムマシン経営 』に活路を見いだしてきた。だが、それで経営の本質を磨き、本当に強い企業になれるのだろうか。むしろ、大切なのは技術革新への対応など過去の経営判断を振り返り、今の経営に生かす『逆・タイムマシン経営 』だ。
そんな問題意識から、日本を代表する競争戦略研究の第一人者、一橋ビジネススクール楠木建教授と、社史研究家の杉浦泰氏が手を組んだ。経営判断を惑わす様々な罠(わな=トラップ)はどこに潜んでいるのか。様々な企業の経営判断を当時のメディアの流布していた言説などと共に分析することで、世間の風潮に流されない本物の価値判断力を養う教科書『逆・タイムマシン経営論』を提供する。経営判断を惑わす罠には、AIやIoT(モノのインターネット)といった『飛び道具トラップ 』、今こそ社会が激変する時代だという『激動期トラップ 』、遠い世界が良く見え、自分がいる近くの世界が悪く見える『遠近歪曲トラップ 』の3つがある。こうした『同時代性の罠』に陥らないために、何が大事なのか──。近過去の歴史を検証し、『新しい経営知』を得るための方法論を提示する」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
はじめに「『逆タイムマシン経営論』とは何か」
第1部   飛び道具トラップ
第1章   「サブスク」に見る同時代性の罠
第2章   秘密兵器と期待された「ERP」
第3章   「SIS」の光と影
第4章   「飛び道具サプライヤー」の心理と論理
第5章   「飛び道具トラップ」のメカニズム
第2部   激動期トラップ
第6章   「大きな変化」ほどゆっくり進む
第7章   技術の非連続性と人間の連続性
第8章   忘れられた「革新的製品」
第9章   激動を錯覚させる「テンゼロ論」
第10章 ビジネスに「革命」はない
第3部  遠近歪曲トラップ
第11章 「シリコンバレー礼賛」に見る遠近歪曲
第12章    半世紀にわたって
     「崩壊」を続ける「日本的経営」
第13章    人口は増えても減っても「諸悪の根源」
第14章    海外スターCEOの評価に見る遠近歪曲
第15章    「日本企業」という幻想
「おわりに」

 

はじめに「『逆・タイムマシン経営論』とは何か」では、まず、「タイムマシン経営」という言葉を紹介します。「未来は偏在している」という前提で、すでに「未来」を実現している国や地域(例えばアメリカのシリコンバレー)に注目し、そこで萌芽している技術や経営手法を先取りし、それを日本に持ってくることによってアービトラージを取るという戦略です。実践者としてはソフトバンクグループの孫正義会長が有名です。逆・タイムマシン経営論はこの逆であるとして、本書には「タイムマシン経営の論理を反転させることによってはじめて見えてくる視点や知見がある。これが逆・タイムマシン経営論の発想です」と説明されています。



テクノロジーでいえば「AI(人工知能)」、経営施策でいえば「DX(デジタルトランスフォーメーション)」、ビジネスモデルでいえば「サブスクリプション」、いつの時代もこうしたバズワード(流行り言葉)が飛び交うとして、著者は「こうした先端的な事象についての情報はもちろん意味があるのですが、しかし、旬の言説には必ずと言っていいほどその時代のステレオタイプ的なものの見方に侵されています。情報の受け手の思考や判断にもバイアスがかかり、現実の仕事においてしばしば意思決定を狂わせる――本書の関心は『同時代性の罠』にあります。どうすれば同時代性の罠から抜けられるのか。タイムマシンに乗って過去に遡るに若くはなし、というのがわれわれの見解です。何も戦国時代に立ち返れという話ではありません。高度成長期前後から2010年代までの『近過去』に遡って、当時のメディアの言説を振り返ると、さまざまな再発見があります。同時代のノイズがきれいさっぱり洗い流されて、本質的な論理が姿を現します」と述べます。



誰かが考察した歴史書ではなく、「史料」に直接当たるのが逆・タイムマシン経営論のスタイルだとし、著者は「近過去であれば、メディアの記事がそのまま『一次史料』となります。過去記事アーカイブはインターネットで容易に手に入ります。古文書を渉猟する必要はありません。しかも、活字になった現代文で読むことができます。近過去に遡り、その時点でどのような情報や言説がどのように受け止められ、どのような思考と行動を引き起こしたのか。近過去を振り返って吟味すれば、本質を見抜くセンスと大局観が錬成され、自らの仕事にも大いに役立ちます。すなわち『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、ここに逆・タイムマシン経営論の眼目があります」と述べます。



「その効用」では、近過去の歴史を今から振り返れば、本質的に重要な論理が何であり、何がニセモノの言説だったかが浮かび上がってくるとして、投資家ウォーレン・バフェットの「潮が引いた後でだれが裸で泳いでいたかが分かる」という名言を紹介し、まさにその通りだと述べます。そして、「本質を見極める。一言で言えば、ここに逆・タイムマシン経営論の効用があります。誰もが『本質を見ることが大事だ』と言います。本質とは何でしょうか。『物事の基底にある性質』『そのものの本来の姿』を指す言葉ですが、本質の一義的な特徴は『そう簡単には変わらない』ということにあります。だとしたら、変わらない本質をつかむにはどうしたらいいでしょうか。もっとも有効な方法は歴史的変化を辿ることです」と述べています。

 

 

歴史の流れに目を凝らすと、多くの物事が変化していく中にも一貫して変わらないものが見えてきます。著者は、「去年今年貫く棒の如きもの」(高浜虚子)という句を取り上げ、本質とはこの「棒の如きもの」なのだと説明しますが、要するに松尾芭蕉の「不易流行」の「不易」ということではないでしょうか。著者はまた、「変化を振り返ることによってはじめて不変の本質が浮き彫りになる。逆・タイムマシン経営論はこの逆説に注目します。事実を正しく読み解く力の重要性を主張した『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』という本がベストセラーになりました。これになぞらえていえば、逆・タイムマシン経営論の本領は『パストフルネス』(past=過去)にあります」とも述べています。



また、「歴史的事実には統計データにはない強みがあります。それは1つひとつのファクトが豊かな文脈を持っているということです。特定のファクトが生起した背景や状況といった文脈を理解し、それを自分のビジネスの文脈と相対化し、ファクトを自らの文脈の中に位置づけて考える。本書で繰り返し強調する『文脈思考』はファクトから自分の仕事に役立てる実践知を引き出す上で決定的に重要です」と述べ、「われわれが歴史から学ぶべきなのは、人々が歴史から学ばないという事実だ」というウォーレン・バフェットの名言を紹介し、「言い得て妙です。だからこそ近過去の歴史に学ぶ経営知は、強力な差別化の武器になり得るのです」と述べます。


「その類型」では、さまざまな同時代性を罠を3つのタイプに分類して、説明しています。第1のタイプが「飛び道具トラップ」です。AIやIoT、ブロックチェーンといったそのときどきで目を惹くテクノロジー、DXなどの流行の経営トレンド、「オープンイノベーション」や「サブスクリプション」「プラットフォーマー」といった注目のビジネスモデルのことです。同時代の人々は「これからはこれだ!」という飛び道具めいた言説に飛びつきがちです。



第2が「激動期トラップ」です。同時代の人々は時代の変化を過剰に捉え、「今こそ激動期!」という思い込みにとらわれます。前世紀末の「インターネットですべてが変わる!」という言説はその典型です。現在進行形のテーマでいえば「ポストコロナで働き方は一変する!」「MaaS(Mobility as a Service:移動のサービス化)で世界が一変する!」などもこのタイプに入ります。3つ目のタイプが「遠近歪曲トラップ」です。すなわち「遠いものほど良く見え、近いものほど粗が目につく」というバイアスです。その結果として、時間的、空間的に遠い事象を過剰に美化するトラップが生まれます。

 

そして、「はじめに」の最後に、著者は「逆・タイムマシン経営論が意図するのは、『情報収集』や『スキル開発』のための技法やフレームワークの提供ではありません。本書が提示するのは、情報とつき合う際の『思考の型』であり、正しい状況認識と意志決定の『センス』、引いては自らの価値基準となる『教養』を錬成するための『知的作法』です。忙しい毎日に追われて近視眼的な思考に流れがちなビジネスパーソンが長期視点を取り戻すうえで、逆・タイムマシン経営論は最も有効な方法論であると確信しています」と述べるのでした。



第1部「 飛び道具トラップ」の第3章 「『SIS』の光と影」の「戦略が先、ITが後」では、花王、セブン‐イレブン、ヤマト運輸などのSIS(戦略情報システム)ブームの時代に脚光を浴びた企業を紹介します。しかし、その経緯をたどっていくと、いずれもブームを受けて情報システムに投資をしたわけではなく、ブームのずっと前から戦略的な必然性をもって情報システムづくりに取り組んでいたということを指摘します。本書には、「各社とも1970年代から1980年代初頭に情報システムを段階的に企業経営に導入し、実質的な成果を上げていました。現実の商売の競争力を強化する上で、もっとも有効な手段として情報システムを強化し、それが事後的に1980年代後半に『SIS』という名前をまとって紹介されたというのが実態です」と書かれています。

 

 

「戦略が先、ITが後」の最近の例としては、ネットフリックスが取り上げられます。現在のネットフリックスは“グローバル・インターネット・テレビ”のパイオニアとしてその地位を確立し、全世界で契約者を増やし、コンテンツ配信のみならず、独自コンテンツの制作でも他社を圧倒しているとして、著者は「ネットフリックスはエンターテインメント業界の競争構造を一変させました。その競争優位の正体は、よく知られているように、膨大な顧客の利用データにあります。誰が、どこで、何時に、何時間、どういう映画を見ているのか。どのシーンを早送りし、どの俳優を贔屓にしているのか。ビッグデータアルゴリズムを駆使することによって契約者の行動を高い精度で予測します。従来の映画制作が出たとこ勝負のジャンケンとすれば、ネットフリックスは後出しジャンケンをしているに等しい――というわけですが、これはあくまでも現在の『でき上った姿』です」と述べています。



「データ資本主義」の名のもとに、経営におけるビッグデータの重要性が叫ばれる今日、ネットフリックスは必ずといっていいほど参照される成功事例であると認めながらも、著者は「しかし、です。競争優位は一日にして成らず。現在の華々しい成功の背後には、長い時間軸をもった戦略ストーリーがあります。ネット配信前夜にネットフリックスの戦略と競争優位の全てがあったといっても過言ではありません。裏を返せば、この時期を知らなければネットフリックスの本当の強みは分かりません。花王、セブン‐イレブン、ヤマト運輸の事例にしても、3社に共通しているポイントは、明確な意図を持った戦略が情報システムに先行していたということです。この『戦略が先、ITは後』という順番が大切です」と述べています。



第2部「激動期トラップ」の第6章「『大きな変化』ほどゆっくり進む」では、タイムマシンに乗って近過去に遡ると、興味深いことに気づくと書かれています。それは、人々がいつの時代も「今こそ激動期!」と言っているということです。日経ビジネスアーカイブをひもといても、そうした傾向がはっきりとうかがえるとして、著者は「当然のことながら、人間である以上、誰も正確には未来を予知予測することはできません。ところが、いつの時代も世の人々は『未来はこうなる』という予測に簡単に流されてしまい、『今こそ激動期!』という言説を信じる傾向にあります。ここに同時代性の空気が加わると、『世の中は一変する』『これまでの常識は通用しない』となり、『時代の変化に適応できない者は淘汰される』という類の危機感をあおります。未来は誰にも分かりませんが、過去は厳然たる事実として確定しています。未来を考えるにしても、いったん近過去に遡って人と世の思考と行動のありようを冷静に見極め、そこから未来についての洞察を引き出すことが大切です」と述べています。



「インフラは30年にしてならず」では、非常に興味深い考察が展開されています。「水道」「電気」「ガス」のように、過去100年の間に人々の生活様式を大きく変えた変化はいずれも生活のインフラでした。著者は、「ローマは1日にしてならず」という言葉をもじって「インフラは30年にしてならず」であると言い、「自動車にしても、先行したのは車そのものの発明や開発で、インフラの整備には多大な時間を要しています。人々が当たり前のように自動車で移動できるようになるまでの歴史を振り返っておきましょう」と述べます。自動車の普及という文脈でよく引用されるのが、1908年の「T型フォード」の登場前と登場後のニューヨーク5番街の写真です。「激動期」の物的証拠というわけですが、こうした議論には落とし穴があります。著者は、「ニューヨークなどの都心部で乗用車が急速に普及したのは、既に馬車での移動を前提とした「舗装道路」というインフラが整っていたからです。自動車が普及する前の「馬車の時代」にすでに舗装道路が整備されており、既存のインフラがそのまま機能したからこそ、ニューヨークでは短期間に乗用車が普及しました」と述べます。

 

歴史を振り返ると、1923年の関東大震災で「自動車」が注目を集めてから、半世紀以上という長い年月をかけて「自動車社会」が定着したことがわかるとして、著者は「1966年にトヨタ自動車が発売した『カローラ』が実用的な大衆車として注目を集めました。カローラがよく売れた理由は、カローラを走らせるための舗装道路が整備され、それに合わせた都市構造が成立していたからです。逆に言えば、『モータリゼーション』を起こすカローラの出現は、インフラの整備を待たなければなりませんでした」と述べます。また、「自動車が人々の生活と社会を変える」という真の意味でのイノベーションの視点で歴史を振り返ると、最近の「自動運転で世の中が一変する」という議論はいかにもパーツ先行で、ナイーブなものだという感想を抱くという著者は、「これまでもそうだったように、自動運転にしても(1)自動運転のためのセンサーや制御のためのソフトウェアというパーツが実現し、(2)自動運転を可能にする有形無形のインフラが構築され、(3)自動運転の自動車がインフラに無理なく統合され、(4)ようやく世の中が変わる、というステップを踏んでいくだろうことはまず間違いありません」と述べるのでした。



「人間の需要は連続している」では、インターネットが取り上げられます。インターネットは自動車と比べて「軽い」技術革新であると指摘し、著者は「光ファイバー基地局、閲覧端末、サーバーといったハードウェア、そして何より分散的な情報処理のそれぞれを動かし、つなげるソフトウェアという補完財が必要となりますが、それは自動車が必要とした道路や給油所などの広く重く厚いインフラと比べればはるかに軽いものです。ユーザーにとっての初期投資も自動車と比べれば小さくて済みます。SNSに至っては、手元にスマートフォンが1台あれば可能で、そこに資金的、技術的な制約があるわけではありません。だとすれば短期間で世の中に「激動」をもたらすはずです。なぜSNSは同時代の予測のような爆発的普及にならなかったのでしょうか。その答えは、同時代の空気の中で新しい技術やサービスにばかり目が向いてしまい、技術を使う側にいる人間の本性についての理解や洞察が疎かになるということにあります」と述べています。



技術は非連続でも、それを使う人間と人間の需要は常に連続しています。このことを考えると、インターネットの登場による人間と社会の変化は、「革命」(revolution)というよりも、一定の時間幅をもって徐々に進行する「進化」(evolution)といった方が正確であるとして、著者は「インターネットのような技術的に非連続なインフラが出現すると、ユーザーである人間の連続性との大きなギャップが生じます。その結果、ユーザーの側に『不慣れ』『不安』『不要』という反応が生まれ、これらが技術の普及のボトルネックとなります」と述べます。また、「ユーザーの『不慣れ』」では、当然のことながら、若い世代ほどすぐに新しい情報端末に適応することを指摘し、著者は「なぜならば、今も昔も若い世代には絶対的に有利な点があるからです。それは『アタマが軟らかい』というだけではありません。若者は圧倒的に暇なのです。働き盛りの中年世代は責任ある仕事を抱え、子どもの教育など家庭の問題にも対応しなければなりません。ようやく子どもの手が離れると親の介護が始まり、いつも何かに追われています。これに対して若者は『余儀なくされる活動』が少ない。あっさりいえば、暇なのです」と明快に述べます。



人間は暇に耐えられません。何かで「暇潰し」をしなければならなりません。著者は、「かつてはテレビが暇潰しの横綱で、1950年代には『一億総白痴化』などと批判されたものですが、考えてみれば、いつでもどこでも取り出して使える携帯電話の暇潰し性能はテレビの比ではありません。これがスマートフォンになるとなおさらです。とっかえひっかえ、いくらでもアプリを入れられます。スマホこそ最強にして最高の暇潰しツールです。実際に、パソコン、ケータイ、スマートフォンといった新しい端末の黎明期をリードするのはいつでも『ゲーム』という暇潰し商品です。新しい端末が登場するたびに、それに対応したゲーム市場が端末の普及を後押しするという構図が繰り返されてきました。暇潰しに勤勉な若者は、知らない間に新しい情報端末に慣れ、使いこなすようになります」と述べています。



「『不要』な問題解決の押し売り」では、著者の楠木氏が2019年に御祖母様を亡くされたことが明かされます。享年107だったそうで、楠木氏は「明治、大正、昭和、平成、令和の5時代を経た上での『ザ・老衰』でした。これだけ長く生きていると世の中の変化を実体験として知っているわけで、生前の彼女との会話はなかなか勉強になりました。記憶に残っているものとして、『これまででいちばん生活にインパクトがあった技術革新は何か』という話題があります。この問いに祖母は『電灯』と即答しました。明治生まれの子どもにとって、最初に任される家庭内労働は『ランプの煤取り』だったそうです。電灯になると朝の煤取りの仕事がなくなって、その分ゆっくり寝ることができる。何よりも、当時は家事を一手に引き受けていた母親が、暗くなってからも様々な作業ができるようになったため、1日の家事労働が平準化し、家庭のゆとりが一気に増した、というのです。『洗濯機や冷蔵庫やクーラーが出てきたときもずいぶん便利になったと思ったけれども、電灯が圧倒的。あれほど生活が変わったときはなかった』と祖母は述懐していました。『テレビは?』と聞くと、『初めは驚いたけれども、前からラジオがあったので、そうでもなかった』とのこと」と述べています。非常に興味深いですね。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

わたしは、拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)の「超人化のテクノロジー」で取り上げた「人類史上最大・最高の発明とは何か」という問題を思い出しました。石器・文字・鉄・紙・印刷術・拡大鏡・テレビ・コンピュータといった大物の名が次々に頭のなかに浮かびます。なかには動物の家畜化、野生植物の栽培植物化といった答もあるでしょうし、都市、水道、民主主義、税金、さらには音楽や宗教といった答もあるでしょう。その答は、人それぞれです。しかし、現代のわたしたちの社会や生活に最も多大な影響を与えているという意味において、わたしは、人類最大の発明は電気であると考えています。より正確に言うなら、電気の実用化です。コンピュータにはもちろん電気が必要ですし、わたしにとって生活上欠かせないもの、スマホ、LED、エアコン、冷蔵庫、電子レンジなどの恩恵を受けられるのも電気のおかげです。さらには、飛行機・電話・映画・テレビといった大発明はすべて電気なくしては開発もありえなかったのです。


楠木氏は、「電灯に限らず、あらゆるビジネスは問題解決です。商品にしてもサービスにしても、顧客の抱える何らかの問題を解決することによって対価を得る。古今東西、これが商売の実相です。インターネットが問題解決を実現したのは言うまでもありません。電子メールは通信手段として手紙や電報と比べるとはるかに低コストかつ手軽で迅速です。電話が抱えていた同時性の問題も解決できます。だからこそ、メールやチャットはそれまでの手段に代替し、今日のような当たり前のツールとして世の中全体に普及したわけです」と述べます。また、電気やガス、水道はそれがなければたちどころに生活が行き詰まってしまう不可欠な技術であり、文字通りの「ライフライン(生命線)」であると指摘しています。楠木氏は、「自動車にしても、車があるのとないのとでは生活が明らかに変わってきます。洗濯機や冷蔵庫やエアコンも(祖母によれば電灯ほどではなかったにせよ)、あからさまなインパクトがあったでしょう」と述べています。



情報端末の保有状況の推移を見ると、最も普及スピードが速いのは携帯電話です。生まれてから10年以内に90%を超える保有率になっています。楠木氏によれば、これは「人間が電話のあるところに行かなければならない」という固定電話の問題を、携帯電話があからさまに解決したからだといいます。インターネット上に出現してきたサービスやツールは、初期の電子メールに代表されるあからさまな問題解決をもたらす不可欠なもの(must―have)が一通り出そろって以降、次第に「あってもよい」「人によっては便利だろう(自分には必要ないが)」というもの(nice-to-have)へと移行しています。スマホ時代になってからはこの傾向はいよいよ顕著です。今日でも「画期的な新サービス」を謳うアプリが次から次へと出てきますが、ほとんどの人にとって不要なものが少なくありません。なぜか。楠木氏は、「答えは単純で、そのサービスが解決しようとする問題が既存の手段によってすでに解決されてしまっているからです。存在しない問題を解決することはできません。問題がないところに問題解決を売り込む、それはもはや『押し売り』です」と述べるのでした。



第8章「忘れられた「革新的製品」では、非連続な技術が登場したとき、それが一夜にして世の中を一変させるという同時代の空気が形成され、激動期トラップが発動することが指摘され、著者は「実際のところ、自動車が広く大衆に普及するまでには数十年という長い年月がかかりました。インターネットにしても、登場から25年を経た現在では、『インターネット革命ですべてが変わる!』という当時の言説は期待過剰であり、現実は『革命』というよりは徐々に世の中に受容されていく漸進的な『進化』でした。『木を見て森を見ず』――。ここに人々が激動期トラップにはまる理由があります。人々が現実の仕事や生活の中でどのようにその製品や技術を使い、どのような価値を享受するのか。製品や技術の新規性に目が向くあまり、ユーザーの使用文脈に位置づけた統合的な理解が甘くなりがちです。登場した製品や技術が見るからに斬新で、人々に直観的な驚きを与える『木』であるほど、『木を見て森を見ず』というバイアスが発生しやすくなります。見た目のインパクトが強烈な場合、ユーザーの使用文脈という『森』を冷静に見るのは難しくなります。『木』が効果や効率の点で、顧客にとって実質的な価値をもたらすのかどうかを見極める目が曇ります」

 

忘れられた「革新的製品」で、最初に登場するのは「セグウェイ」です。2004年前後に一世を風靡した電動スクーターですが、人間が2本足で立って操作するという、これまでとは違った見た目には圧倒的なインパクトがあり、メディアはセグウェイを競って取り上げました。セグウェイの注目度は、数ある期待され過ぎた「革新的製品」の中でもトップクラスといっていいとしながらも、著者は「人々がセグウェイに熱狂した理由は、その強烈なビジュアルインパクトにあります。セグウェイの機能や効用についての知識がなくても、人がセグウェイに乗って動くところを見るだけで、『未来』を感じさせるほどのインパクトがありました。見た目のインパクトが強いほど、メディアも写真や動画で製品を紹介したくなります。セグウェイはあっという間に人々の注目と話題の対象となりました」と述べています。



次に紹介される「革新的製品」は、「3Dプリンター」です。これはわたしもかなりのインパクトを受けましたが、著者は「初めて『3Ⅾプリンター』を見たときの驚きを覚えている人は多いと思います。実際に使ったことはなくても、立体的な有形物がにょきにょきと成形される映像は衝撃的でした。金型では作ることが難しい造形物も、3Ⅾプリンターを使えば立体的な層を重ね合わせて簡単に作れます。大規模な設備がなくても、3Ⅾプリンターがあれば自分だけのオリジナルなものが手軽に作れる。何万個と生産しないとペイしない金型を前提としていたものづくりの歴史における革新的な技術でした。3Dプリンターへの注目度は、セグウェイに負けず劣らず高いものでした」と述べます。



一歩引いて考えれば、3Dプリンターは量産には向いていないとして、著者は「現実的なコスト効率でいえば、金型を用いた従来の製造プロセスには太刀打ちできません。長年製造業に携わる人々からすれば、3Dプリンターが実際にはごく限定的な製品や用途にしか使えないことは明白でした。また、いくら自分のオリジナルな商品を作れるといっても、これだけ多種多様な商品が世の中にあふれている時代に、それでも自分がデザインした自分だけのモノを作りたいという動機を持つ人はごく限られるでしょう。アマゾンで販売されている大量の品ぞろえの中から選んで買ったほうが手っ取り早いし、自分のニーズに合ったものがはるかに低いコストで手に入ります」と述べます。3Dプリンターが世の中であれほどまでに注目された理由は、それが 作動する様子のビジュアルインパクトに加えて、将来的には「産業革命に匹敵するインパクトをもたらす」という期待を集めたことにあると指摘し、著者は「この点でも3Dプリンターはセグウェイと似ています。世の中を丸ごと変革するのではないかという期待が、『大量生産には向かない』という 限界を覆い隠し、そのポテンシャルに対する評価が先行することになり ました」と述べるのでした。



2014年ごろに話題となったヘッドマウントディスプレーも、今となっては期待され過ぎた「革新的製品」の1つでした。当時はスマートフォンの急激な成長が一段落した時期であり、このタイミングで、スマホの次の画期的な情報端末は何かが関心事になるという同時代の空気が生まれ、こうした文脈の中でヘッドマウントディスプレーに光が当たりました。グーグルが「グーグルグラス」を発表し、ヘッドマウントディスプレーへの期待は一気にヒートアップしました。ITの巨人グーグルがハードウエアの領域に参入したことで、「スマホの次はヘッドマウントディスプレー」というイメージが形成されたのです。



グーグルグラスの見た目は「メガネ」です。著者は、「形状や動きにはセグウェイほどのインパクトはありません。ただし、人が近未来的な装置を顔に装着し、それが人と情報のインターフェースになり、自然言語音声コマンドで手指を使わずに操作ができるという点でこれまでの情報端末と明確な違いがあります。最初の使用経験で感じるインパクトは明らかでした。しかも、グーグルグラスが注目された背景には『ウエアラブル・コンピューティング』『拡張現実(AR)』、さらにはその上位概念の『ユビキタス・コンピューティング』といった21世紀に入ってからしきりに喧伝されてきた技術進歩の大きなトレンドがありました。こうした同時代の空気とマッチしたこともあって、グーグルグラスは瞬間的に注目を集めました」と述べています。



2015年にグーグルは個人向けのグーグルグラスの発売中止を決定し、ブームは過ぎ去ります。普及に至らなかった原因としては、人間が本来的に持っている連続性からして、ユーザーが技術の非連続性を受け入れられなかったことにあると指摘し、著者は「1つにはユーザーの『不安』です。グーグルグラスの一般向け発売が中止された当初は、主としてプライバシー侵害のリスクが中止の理由として指摘されました。人々がグーグルグラスを装着することで顔認識機能を使って公共の場で他人を識別したり、気づかれないようにプライベートな映像を記録したり会話を録音したりするのではないか、という懸念がありました。それ以上に大きな理由は、そもそもグーグルグラスがほとんどのユーザーにとって『不要』だったことにあります」と述べています。



あらゆる商品やサービス、ビジネスは問題解決です。グーグルグラスにも「問題解決の押し売り」の面があったという著者は、「現在でも、人々は依然としてスマホの画面上で指を動かして、検索したりチャットしたり動画を閲覧したりしています。『スマホの次』という供給側の視点が先行し、人間の連続性と使用文脈を軽視した――。ここにグーグルグラスの挫折の本質的な要因があった」と分析します。これまで時計型、リストバンド型、眼鏡型、指輪型、靴型、ペンダント型と、様々なウエアラブル・デバイスが提案されてきましたが、ほとんどが商品としてはパッとしませんでした。相対的に成功しているのは、現時点ではスマートウオッチです。「アップルウォッチ」を使っている人は、今では多く見かけるようになりました。著者は、「確かに行動記録や健康管理というウエアラブルに固有の特徴を生かした機能は便利なのかもしれません。ただし、アップルウォッチの一定の成功にしても、機能的な問題解決よりも、アップルの強烈なブランド力を背景にした『おしゃれ』『自己表現』のほうにより大きな価値がありそうです」と分析します。



いずれの事例にも共通しているのは、人々が一目で驚くような新規性の高い商品に熱中するあまり、真の提供価値が何なのかを考えなくなってしまうことだといいます。「あっと驚くインパクト」は激動期トラップが作動する強力なスイッチになるとして、著者は「『マジックワード』が同時代の空気をつくっている場合、激動期トラップはいよいよ顕著になります。今回取り上げた事例でいえば『AI』『ロボット』『環境』『ユビキタス』はいずれも同時代のマジックワードでした。見るからにインパクトのある革新的な製品に出合った人々は、そのすごさの根拠を『マジックワード』によって論理を飛び越えて正当化します。『AIを搭載しているからすごい』というのは単なる思考停止です」と述べるのでした。



第9章「激動を錯覚させる『テンゼロ論』」では、2010年ごろから「テンゼロ論」――[○○2.0」や「××3.0」という時代認識――が目に付くようになったことが指摘されます。時代をいくつかのフェーズに区切って、「これまでにない新しい時代に突入した!」という言説です。「××3.0!」というと、いかにも従来の2.0の時代から相転移(一定の温度で氷が水に、水が蒸気に変わるような質的なフェーズのシフト)が起こるような印象を与えます。こうして「今こそ激動期」という同時代の空気が醸成されるのですが、著者は「その多くは眉唾物です」と喝破します。「インダストリー4.0」では、「第4の産業革命が始まる」というメッセージは、製造業だけでなく、広範な人々の注目を引きつけたことに言及します。著者は、「それにしても、タイムマシンで近過去に旅していると、いつの時代も何かしらの『産業革命』が進行中なのが面白いところです」と述べます。3Dプリンターのブームも「産業革命」という文脈で語られましたが、「オリンピックですら4年に1回なのに、『産業革命』は毎年のように起きている――。革命は定義からして非連続な現象です。非連続は連続しません。産業革命の毎年開催は無理な話です」と述べています。



ソサエティー5.0」では、「インダストリー4.0」に限らず、政府による政策提言は古今東西「バラ色の未来」に向けた「掛け声」になるという性質を多かれ少なかれ持っているとして、著者は「それにしても、です。科学技術基本計画の第5期(2016年度~2020年度)のキャッチフレーズとして日本が提唱する『ソサエティー5.0』となると、もはや底が抜けているとしか言いようがありません。狩猟社会(1.0)、農耕社会(2.0)、工業社会(3.0)、情報社会(4.0)に次ぐ第5の新たな社会を、デジタル革新を最大限活用して実現する――おそらくドイツの『インダストリー4.0』に影響されたのでしょうが、『掛け声ここに極まれり』です」と辛辣に批判しています。



「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する新たな社会」とソサエティー5.0は定義されています。著者は、「『情報社会が4.0ならば、5.0は何なんだ』と誰しも思うのですが、答えは『新たな社会』。全力で脱力するしかありません。さすがにこれではまずいと思ったのか、経団連は2018年にソサエティー5.0を『デジタル革新と多様な人々の想像・創造力の融合によって、社会の課題を解決し、価値を創造する社会』と再定義し、『創造社会』と命名しました。どちらにせよ、情報社会の延長上にあるもので、4.0と5.0の間に特別の質的変化があるとは思えません。実態はせいぜい『ソサエティー4.1』(「4.01」か?)といったところです」と述べています。



さまざまな「テンゼロ」論の落とし穴について考察した後で、著者は「この手の言説は『時代の相転移』を連想させ、しばしば『激動トラップ』を誘発します(ソサエティー5.0は話がゆる過ぎて、さすがに激動を感じる人はいないでしょうが)。こうしたときこそ『逆・タイムマシン経営論』の思考法が有効です。いったん近過去へと遡り、過去をひもとき、その延長上に未来を考えれば、『テンゼロ』論の多くは馬脚を現します」と述べます。まったく同感です。わたしが思うに、「テンゼロ」論というのは本を売るための出版関係者の発想に近いと思います。著者は、ドイツの文学者、アウグスト・シュレーゲルの「歴史は後ろ向きの預言者である」という言葉を紹介し、「いついかなる時代も大きな歴史の流れの中にあります。過去から連綿と続く歴史を振り返ることなしに、正しい時代認識と大局観は得られません。現れては消える『テンゼロ』論は、この不変の真理をわれわれに教えてくれる格好の反面教師です」と述べるのでした。蛇足ながら、シュレーゲルの名言の日本語訳にある「預言者」は、この場合は「予言者」が正しいですね。



第10章「ビジネスに『革命』はない」では、同時代の空気に「激動」の火を付けて増幅するのが、同時代のノイズであると指摘します。激動期トラップの場合、それはしばしば「マジックワード」として現れるとして、著者は「マジックワードとは、ある製品や技術が世の中に大きなインパクトを与える根拠として出てくる言葉です。自動運転が過剰な期待を集めるのは、それがAIやIoTやDXといった現時点で横綱級のマジックワードと結びつくからです。3Dプリンターがブームになったときは、『第4次産業革命』というマジックワードが『激動感』を大いに増幅しました」と述べます。


自動車という新しい製品の誕生は「モータリゼーション」という革命を期待させましたが、本格的な自動車社会の到来までには当初の予想と比べてはるかに時間がかかりました。自動車という特定の要素に注目が集まり、それを取り巻くインフラの重要性が看過されたことが激動期トラップを誘発しました。インターネットはちょうどこの逆であるとして、著者は「インターネットはインフラで、自動車にとっての道路のようなものです。それ自体では価値を生み出しません。自動車が舗装道路というインフラの整備なくしては普及しなかったということは、既に見た通りです。これと逆に、インフラだけあっても、その上に載る製品やサービスがなくては意味がありません」と述べています。



「『時価総額』が招く思考停止」では、同時代性の罠の背後にはいつもそれをあおる人々がいることが指摘されます。メディアの言説はその代表ですが、「飛び道具トラップ」の場合は、メディアに加えて経営ツールやソリューションを提供する「飛び道具サプライヤー」が同時代の空気を増幅し、これに相当する「激動サプライヤー」の中心に位置するのが資本市場で活動する投資家であるとして、著者は「『ユニコーン企業』――これもまた強力なマジックワードです。『シェアリングエコノミー』の到来が過剰に期待された背景には、ウーバーやエアビーアンドビーなど未公開企業(当時)の時価総額の大きさが強く作用していたと考えられます。すぐに経営難に陥ったオフォでさえ、2017年には20億ドル(約2200億円)という評価額がついていました。安く買って高く売る。投資家にとっては変化率がすべてです。変化に要する期間が短いほど、変化率は増大します。ようするに、投資家はその本性からして『激動』を求める生き物です。彼らの言説は結果的に激動期トラップをあおる方向に作用します」と述べています。



「激動期」には変化が起きている周辺で起業家が次々に出てきますが、そうしたスタートアップの中には、ひたすら投資を続け、一向に儲かる気配がない会社が少なくありません。こうした行動がしばしば「赤字を掘る」という言葉で正当化されるのですが、赤字の掘り方にも良いものと悪いものがあると指摘し、著者は「赤字を掘った先に果たして何があるのかを考えてみる必要があります。アマゾンは確かに『赤字を掘る』ことで現在の支配的な地位を獲得しました(現在も依然として投資を優先し、利益は相対的に低水準に抑えられています)。しかし、同社の猛烈な先行投資は膨大で複雑なオペレーションを回す能力を構築するためのものです。アマゾンのオペレーション能力は着実に蓄積され、他社がまねできない水準にあります。『赤字を掘る』が成功したのは、競争優位の根幹をリアルなオペレーションに据えていたからこそです。ところが、『赤字を掘る』という美名(?)のもとに、ひたすら広告宣伝やプロモーションに『投資』をしているだけのスタートアップが散見されます。そこにはアマゾンのような持続的な競争優位の見通しはありません」と述べます。



「『大きな変化』は振り返ったときにはじめて分かる」では、メディアはやたらに「革命」という言葉を使いたがるとして、著者は「確かに政治の世界では『フランス革命』や『ロシア革命』のように、短期間で覇権が変わる革命がありました。しかしビジネスの世界に限って言えば、言葉の本当の意味での『革命』はほとんどあり得ないというのがわれわれの見解です」と述べます。そういえば、「葬儀革命」を標榜した冠婚葬祭互助会もありましたね(笑)。そして著者は、「大きな変化ほどゆっくりとしか進まない。大きな変化は振り返ったときにはじめてわかる――。これが逆・タイムマシン経営論の結論です。裏を返せば、実際に短期間で起こる「激動」は、株価や為替レートのようにそもそも変動するようにできているものか、『商社3.0』論のようにたいした意味を持たない枝葉末節であることが多いものです。これからも激動期トラップが繰り返し発動するのは間違いありません」と述べるのでした。



第3部「遠近歪曲トラップ」の第11章「『シリコンバレー礼賛』に見る遠近歪曲」では、遠近歪曲とは「遠いものほど良く見え、近いものほど粗が目立つ」という人々の認識のバイアスであるとして、著者は「空間軸と時間軸、いずれでも遠近歪曲トラップは発動します。地理的に遠い海外の事象ほど良く見え、身近にある日本の事象ほど欠点が目につく、というのが空間軸での遠近歪曲です。これに対して、現時点で起きている事象ほど悪く見え、歴史的な過去の事象、もしくはまだ実現していない未来ほど良く見える、これが時間軸で発生する遠近歪曲トラップです」と述べます。「シリコンバレーに学べ!」では、この四半世紀で言えば、日本における「シリコンバレー礼賛」は遠近歪曲の典型として興味深いものがあるとして、「1990年代にインターネット産業が勃興し、米国のシリコンバレーで次々とベンチャー企業が誕生しました。2010年代には、巨大プラットフォーマーの『GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)』のうち、グーグル、フェイスブック、アップルの3社がシリコンバレー出身ということもあり、『シリコンバレーはすごい』が同時代の空気として定着しました」と書かれています。



2010年代半ばからは、「シリコンバレーはこんなにすごい」→「それなのに日本は・・・・・・」→「だから日本はダメなんだ」というロジック(?)が議論のテンプレートになった観があるとしながらも、著者は「そもそもシリコンバレーは地域です。人間が集まって経済活動を行う空間の1つに過ぎません。当たり前の話ですが、シリコンバレーも実際は玉石混交です。他の地域と同じように、良い経営もあれば悪い経営もあります。好業績の企業もあれば、パッとしないままなくなってしまう企業もあります。シリコンバレーの文化の1つである『起業で一獲千金』を狙う人々の中には、悪い意味で傑出した経営者が出てくるのも自然な成り行きです」と述べています。まさに、その通りではないでしょうか。著者が言うように、人々が同時代性の罠に陥る理由の本質は「文脈剥離」にあります。シリコンバレーにまつわる遠近歪曲トラップにしても、その原因はシリコンバレーという特異な生態系全体の文脈を理解せず、その時々で注目を集める技術やベンチャー企業や起業家にばかり目を向けることにあったのでしょう。

 

新版 ジャパンアズナンバーワン

新版 ジャパンアズナンバーワン

 

 

第12章「半世紀にわたって『崩壊』を続ける『日本的経営』」では、「近いものほど粗が目立つ」という遠近歪曲について語られます。題材として取り上げられるのは、1970年代から1980年代前半にかけての日本と日本的経営についての評価です。著者は、「当時の日経ビジネスを丹念に読み解くと、欧米と日本での議論には相当のギャップが見て取れます。『Japan as No.1』という同時代の空気があった欧米では『日本はすごい』『日本企業は脅威だ』『日本的経営には独自の強みがある』と、日本の競争力についての(今振り返れば)過大な評価がありました。

ところが、一方の日本ではどうだったでしょうか。『日本的経営は通用しない』『外資企業は脅威だ』という、今と大同小異の議論をしていたのです。欧米にとっては、遠くにある日本が良く見え、日本では身近にある日本の企業や経営の問題点がクローズアップされていました。日本と海外の両方で遠近歪曲トラップが作動していたわけです」と述べています。

 

「『Consider Japan』から『Japan as No.1』へ」では、バブル崩壊によって1990年代の日本経済は長期低迷に陥りますが、日本の企業や経営施策は海外からの注目を集め続けたことが指摘されます。その代表例がトヨタ自動車ソニーです。本書には、「トヨタの『カイゼン』はオペレーションの世界で国際語となりました。ソニーのユニークな商品開発力とそれを強力なブランドの下でグローバルに展開するマーケティング力は欧米の企業経営者にとってひとつのモデルでした。スティーブ・ジョブズですら当時は『将来はアップルをソニーのような会社にしたい』という発言を残しています」と書かれています。しかし、この半世紀の間、「日本的経営」は常に「崩壊」ということになっています。著者は、「既に半世紀近く崩壊し続け、2020年現在でも『日本的経営』は着実に(?)崩壊を続けています。裏を返せば、50年かかっても崩壊しきっていないとも言えるわけで、どれだけ『日本的経営』は盤石なのかとすら思います。この辺の人間の思考と認識のクセはつくづく面白いところです」と述べます。



「いつの時代も外資は『黒船』」では、日本の企業の経営は非合理で時代遅れであり、日本企業がとらわれている旧弊とは無縁な「合理的」で「先進的」で「攻撃的」な外国の企業とは比較にならないとして、著者は「異質のロジックで動いている外資系との戦いを強いられる時代が来た。『黒船』の到来だ。いよいよ日本は『開国』を迫られている――。近過去の言説をたどっていくと、こうした議論が何度となく繰り返されていることが分かります。『外資系=黒船』論はメディアの定番ネタです。最近の『デジタルトランスフォーメーション(DX)』や『プラットフォームビジネス』といった文脈でも基本構図は変わりません。欧米企業(最近は中国企業も)の最新の動向は常に『脅威』で、外資系企業はいつも『黒船』です」と述べます。



第13章「人口は増えても減っても『諸悪の根源』」では、「昔のことほど良く見え、現在進行中のことは深刻に見える」というバイアスについて語られます。「人口問題」は時間的な遠近歪曲トラップの典型です。明治維新期の1868年に3400万人程度だった日本の人口は、終戦時の1945年にはおよそ7200万人と倍以上になりました。その後さらに増加を続け、2004年には約1億2700万人になりましたが、この年をピークに日本の人口は減少に転じます。現在までおおむね年率0.2%程度で人口減少が続いています。著者は、「少子高齢化に伴う人口減少は現実に日本の最大の課題となっています。『少子化に歯止めをかけ、国として活力を取り戻さなければならない』という問題意識が広く共有され、ありとあらゆる社会的、経済的な問題が人口減と関連づけられて論じられるようになりました。今ではすっかり「人口減少=諸悪の根源」の観があります」と述べています。



このような議論の前提は次の2つです。第1に、かつて人口が増え続けていた時代は、日本は人口増のメリットを享受できていた(しかし、現在ではそのメリットが失われた)。第2に、人口減が抑制されれば問題は解決、ないし緩和される(だから、少子化に歯止めをかけなければならない)。著者は、「要するに、人口が増え続けていた昔は良かった、それに比べて人口減少に直面している今は大変だ、という話です。ビジネスの文脈でも、『少子高齢化による国内市場の縮小によって・・・・・・』という文言は、上場企業が提出する有価証券報告書に頻出する定型句になりました。高度成長期の日本企業は、人口増加による内需拡大の追い風を享受できた。ところが、今となっては人口減少で日本国内の市場が縮小し、経営に逆風が吹きつけている。何とかして人口減少に歯止めをかけなければならない――。こうした考え方が同時代の空気として定着しています」と述べます。



「高度成長期になっても『人口増が諸悪の根源』」では、明治時代から1980年ごろまでの100年間、日本では一貫して人口増加が問題視されてきたことが紹介されます。食糧難を解決するための移民、人口抑制のための産児制限、住宅難を解決するための郊外・地方への移住というように、その都度「切迫した事態に対する喫緊の対応策」が叫ばれてきました。ところが、1990年代にようやく人口減少の兆しが出てくると、人々は手のひらを返したように「人口減少は諸悪の根源!」「少子化対策は喫緊の課題!」と言い始めたとして、著者は「それまで『人口さえ減れば問題は解決する』と言い続けてきたのですから、人口減少が実現した今、国民をあげて人口減少を寿いでもよさそうなものですが、現実はまるで逆です。人口が減ったら減ったで『人口減少が問題だ。人口さえ増えれば・・・・・・』と言っている。現在進行形の状況については問題ばかりが目立ち、過去については悪いことが視界から消え、あたかも問題がなかったかのように思い込んでしまう。人口は増えても問題、減っても問題――これこそ遠近歪曲の最たるものです」と述べます。確かに、その通りですね。



「人口の増減は『メガトレンド』」では、世の中の変化は「トレンド」と「サイクル」に大別できることが指摘されます。変化の方向性が長期的に固定しているのがトレンド、方向自体が時間とともに変わっていくのがサイクルです。この両者では変化の質が大きく異なります。それゆえ、変化にどう構えるべきかもまた違ってきます。例えば、ファッションのはやり廃りはサイクルの典型ですが、同じファッションでも「カジュアル化」はこの数十年、一方向的なトレンドとして定着しています。著者は、「昭和までの人口増加は明らかにトレンドでした。数百年間続いたのですから「メガトレンド」と言ってよいでしょう。これからの人口減少が長期にわたるメガトレンドであることもまた確かです。つまり現在の日本は、人口増加というメガトレンドが人口減少というメガトレンドにシフトする端境期にあるということです。メガトレンドは定義からしてめったに変わりませんが、その『めったにないこと』が起きているわけです」と述べます。



歴史を振り返ると、人口増に苦しんでいた頃の日本は、それなりに様々な解決策を打ち出し、問題を克服しようとしていたとして、著者は「例えば、住宅難に伴う郊外の『ニュータウン』の開発や、田中角栄政権時代の『日本列島改造論』です。そうした『努力』が積み重なって、高度成長期の構造を生み出しました。ところが、世の中は変化しています。一方で、いろいろな物事が絡み合ってできている構造は相当に固定的です。すぐには変わりません。定義からして構造は常に世の中の実態と乖離していく宿命にあります。かつての『切迫した問題に対する必要不可欠な対策』が、少子高齢化の時代となると地方の過疎化という問題に変容しているわけです」と述べます。



大きな社会の変化は漸進的にしか起きません。開戦や敗戦や大震災のようなメガトン級の出来事や、2020年の新型コロナウイルスのような一時的な騒動となれば、誰しもが即時の対応を余儀なくされるとして、著者は「意思決定が強制され、具体的なアクションがとられます。しかし、そうしたド級の事件は例外です(例外でなければ困ります)。世の中の変化のほとんどは、徐々に進む「静かな変化」なのです。人口減少も例外ではありません。あるメガトレンドから逆向きのメガトレンドへ移行するという意味では大きな変化なのですが、新型コロナウイルスのように「緊急事態宣言」を出して対処するというようなものではありません」と述べます。



遠近歪曲トラップが作動すると、視野狭窄を起こします。著者は、「目先の問題解決に明け暮れて、骨太の戦略構想が出てこなくなってしまいます。実効性のある戦略を立てるためには、歴史的な文脈に位置づけて現実を直視し、冷静に機会と脅威を識別することが大切です。確かに人口減少は様々な問題を引き起こします。多くの人が漠然と持っている危機感は『国力が衰退する』でしょう。しかし、本当にそうでしょうか。『人口さえ増えれば・・・・・・』と言いますが、人口が増えていく時代に問題がなかったわけではありません。むしろありとあらゆる問題の原因になっていたのはここで見た通りです。事実として、過去の日本においては『人口増が諸悪の根源』『人口増を抑制しなくてはいけない』と真剣に論じていたのですから、考え方によっては人口減少にもポジティブな面がいくつもあるはずです」と述べます。わたしも、まったく同じ意見です。



「このままいくと日本人は絶滅する」と言う人もいますが、著者は「そんなことはあり得ません」と喝破し、「少子高齢化は間違いなく進行しますが、幸か不幸か、人はいずれ亡くなります。日本は世界に先駆けて『高齢者の絶対数の増大が止まる国』でもあるのです。少子化に一定の歯止めがかかれば、あるところで人口減が止まり、定常状態を迎えます」と述べます。仮に日本が人口7000万人規模で定常状態を迎えたとします。著者は、「これは敗戦時の日本の人口です。人口が増えていた高度成長期は、交通渋滞、受験戦争、住宅難といった不満や不安が世の中に充満していました。ついこの前まで『こんな小さな国にそんなに人が増えてどうするんだ、大変だ、問題だ』とみんなが言っていたのです。少子高齢化は新機軸を打ち出す絶好のチャンスです。人口減少を前提に、将来の7000万人の日本のポジティブなビジョンを描く。そこにリーダーの役割があるはずです」



「脅威を逆手に取るビジョンを描く」では、松下幸之助小林一三など時代を画した優れたリーダーの評伝を読むと「災いを転じて福となす」という意味の言動が多く見られることを指摘します。わが社の創業者である父は、「何事も陽にとらえる」を信条としており、わたしもそれを受け継いでいます。およそ人の世に起こることで全面的に良いとか全面的に悪いということはありません。夏に「今は少なくとも寒くないぞ、だとしたら・・・・・・」と考えられるのが本当の経営者ですあるとして、著者は「表面的な脅威の裏にはいつも大きな機会が潜んでいます。昔から言うように『ピンチはチャンス』なのですが、遠近歪曲トラップはせっかくのチャンスを覆い隠してしまいます。逆・タイムマシンから見える日本の人口問題における歴史風景は、時間的に広い視野を持ち、問題を歴史的な文脈に置いて考えることの大切さをわれわれに教えています」と述べるのでした。



第14章「海外スターCEOの評価に見る遠近歪曲」では、海外の「CEO(最高経営責任者)」礼賛について取り上げています。日本のメディアでは、「先進的」な発想と「グローバル」な視点を持ち、「改革」を「大胆」に実行する海外のCEOが注目を集め、手本として称賛されることがしばしばありますが、それに比べて日本の経営者は「時代遅れで内向きで、過去のしがらみを断ち切れず、目先の細事に終始している。これではダメだ・・・・・・」という話になります。しかし、著者は「同時代に称賛された海外スターCEOのその後を追いかけてみると、たいした業績を残さないどころか、とんでもない意思決定や戦略で会社を窮地に追い込んだ例が少なくありません」と述べています。



松下幸之助本田宗一郎に代表される昭和時代の大物経営者に代わって、海外のCEOが以前より大きな注目を集めるようになっている現状について、著者は「海外のスター経営者というと、現在はフェイスブックマーク・ザッカーバーグ氏、テスラのイーロン・マスク氏、アマゾンのジェフ・ベゾス氏のような新興テック企業のCEOが注目を集める傾向にあります。しかし、2000年前後の時点では、むしろ欧米の伝統的な大企業のCEOがメディアの主役でした。日本の大企業がなかなか変化を打ち出せない中、同じように成熟ゆえの転換期を迎えているにもかかわらず、『欧米のグローバル企業にはドラスチックな経営改革を果敢に推し進めるリーダーが出てきている。彼らに学ぶべきだ』というわけです」と述べます。



「背景錯誤による遠近歪曲」では、同時代性の罠に共通しているのは文脈剥離のメカニズムであると指摘し、著者は「考察する対象がそもそも置かれていた文脈から切り離され、『単体』として注目を集める。その結果として、注目対象が全面的に過大評価されたり(例えば「シリコンバレー」)、過剰に悪者扱いされたり(例えば「人口減少」)、これが時として意思決定者の判断や行動を誤った方向に導きます。経営者評価における遠近歪曲トラップの原因もまた文脈剥離にあります。その企業におけるCEOの置かれた状況や、CEOの意思決定の中身やその結果よりも、性別や人種や出身や報酬といった個人的な背景の方に目が向いてしまう。つまりは『背景錯誤』です。遠いところにある海外の企業については、経営者のアクションやその結果についての情報は自然には耳に届きません。同時代の関心を引く背景が華々しいほど、背景錯誤が生まれやすい。結果として文脈剥離を引き起こし、トラップを発動するという成り行きです」と述べるのでした。



第15章「『日本企業』という幻想」では、遠近歪曲トラップが作動すると、何を見ても聞いても「今の日本はとにかくダメ」という結論になりがちであるとして、著者は「ちょっと考えてみれば当たり前の話ですが、しょせん人の世の中、すべてにおいて優れた国や体制などというものは存在しません」と述べます。日本にも米国にも中国にもドイツにも、それぞれ良いところと悪いところが混在しています。米国のシリコンバレーという地域にも、良いところと悪いところがあるのです。「『日本企業』という主語との決別」では、「ダイバーシティが大切だ」と言いながら、企業の多様性を無視し、存在すらしない「日本企業」を主語にして企業や経営を論じることは、いかにも矛盾しているとして、著者は「なぜメディアや人々は相変わらず『日本企業の競争力』『日本的経営の崩壊』といった頓珍漢な議論をするのでしょうか。私見では、その1つの理由は、この日本という国がいまだに(無意識のうちに)高度成長期の幻影を引きずっていることにあります。確かに日本の戦後復興と世界第2位の経済大国への高度成長は世界史的にいっても奇跡的な出来事でした。それだけ成功体験が強烈だったのかもしれません」と述べます。



「おわりに」の冒頭を、著者は「日々われわれが情報源として触れている新聞や雑誌やウェブサイトは『ファストメディア』です。人々は瞬間的に目に入った記事をざっと見て、すぐに次の記事へと目を移します。最新の情報や断片的な知識であればいくらでも手に入ります。しかし、そこには肝心の論理はありません。『いつ』『だれが』『どこで』『何を』『どのように』は知ることができても、なかなか『なぜ』に注意関心が向かないのです。次から次へと記事を流し読みするだけでは、論理をつかみ取れません。情報のデジタル化はそのままメディアの『ファスト化』でもあります。皮肉なことに、情報を入手するコストが低下し、そのスピードが増すほど、本質的な論理の獲得は難しくなります。即効性を競うファストメディアとは一線を画し、読み手に完全な集中を求める『スローメディア』と向き合う必要があります」と書きだしています。

 

 

また、スローメディアの主役は本であるとして、「著者の独自の視点で事象をつかみ、その切り口の上に本質的な考察と洞察を展開する良書を読む。昔も今もこれからも、読書が知的鍛錬の王道であることは間違いありません。逆・タイムマシン経営論が「新聞雑誌は寝かせて読め」を標榜するのは、新聞や雑誌の記事が、一定の期間を置いてみると、良書に勝るとも劣らぬスローメディアへと変質するからです。しばらく放置しておくだけで、かつてのファストメディアが上質のスローメディアへと熟成されるわけで、こんなに旨い話は滅多にありません」と書かれています。歴史はそれ自体「ファクトフル」なものです。しかも、記事や情報のアーカイブは山のように蓄積されています。幸いにして、アーカイブへのアクセスも容易になりました。著者は、「私たちはかつてないほど『パストフル』な時代に生きています。今や逆・タイムマシンは誰もが使える知的鍛錬の乗り物です。近年の情報技術の発達のおかげで、逆・タイムマシンの性能はかつてないほど強力になっています。われわれが逆・タイムマシン経営論を提唱する所以です」と述べるのでした。本書は、わたしがこれまでに読んだ膨大なビジネス書の中でも3本の指に入るほどの素晴らしい本でした。これから、何度も何度も読み返したいと思います。

 

 

2021年4月12日 一条真也

『2040年の未来予測』

2040年の未来予測

 

一条真也です。
『2040年の未来予測』成毛眞著(日経BP)を読みました。著者は、1955年北海道生まれ。中央大学商学部卒業。元マイクロソフト代表取締役社長で、現在は書評サイトの「HONZ」代表です。ブログ『実践!多読術』ブログ『面白い本』ブログ『本棚にもルールがある』ブログ『情報の「捨て方」』ブログ『amazon』で紹介した本の著者でもあります。 

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本書の帯

 

本書の帯には「知っている人だけが悲劇を避けられる」と大書され、「あなたの20年後に関係あることを全部出しました!」「年金/社会保障/医療費/ベーシックインカム/資産形成/MMT/5G/空飛ぶクルマ/監視カメラ/ゲノム編集技術/核融合/温暖化/南海トラフ/首都直下型地震」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「考えられる人の未来は明るい」として、以下のような内容紹介があります。
chapter#01 
テクノロジーの進歩だけが
未来を明るくする

・新しいテクノロジーが登場したとき、
 人間はその普及に反対する

・空飛ぶクルマも2040年には可能になる

・中国と監視カメラと個人データ

・日本の過疎化を救うのは5Gでの診療

・ゲノム編集技術で難病の治療に光が見える

再生医療パーキンソン病
 アルツハイマー病を治すかも

風力発電に向かない日本の地形

chapter#02
あなたの不幸に直結する未来の経済
ーー年金、税金、医療費

・国の財源は、私たちの社会保険料からまかなうしかない

・すべての問題は、高齢者が増えること

・70歳まで働くなら、今と同じ額の年金はもらえる

・日本のGDPはお先まっくらなのか

・これからの時代はテクノロジーよりも
 政治が株価を決める

chapter#03
衣・食・住を考えながら、
未来を予測する力をつける

・遺伝子編集した魚を食べないともうもたない

・マンションの価値は下がる

・日本では学歴の意味がなくなる

・貧しくなる日本にシェアリングは不可欠

chapter#04 
天災は必ず起こる

南海トラフ地震の際は、日本中で
 地震が連動して起こる可能性が高い

・温暖化によって戦争が起こる

・「水」が最も希少な資源になる



カバー前そでには、「『今日』には、これから起こることの萌芽がある。現在を見つめれば、未来の形をつかむことは誰にでもできる(「はじめに」より)と書かれ、アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「20年後、あなたは何歳だろうか? ひとつ確実なことがある。それは、人間が必ず歳をとることだ。iPhoneが発売されたのは、たった13年前だった。現在、スマートフォンがない世界なんて考えられない。そして、これまでの10年より、これからの10年の方が世界は大きく、早く変わるだろう。テクノロジーだけでなく、ほかのことも、気づいたときには手遅れになっているのが人間の性である。地震や災害も、リスクをわかっていながらも被災するまで手を打つ人は少ないし、明らかに社会制度の破綻しつつある。人口は増えず、老人ばかりの国になるし、環境問題も悪くなる一方だ。これまでと同じように暮らしていたら、今の年齢によっては取り返しのつかない可能性もある。この本は、あらゆるデータから導き出されるありのままの未来を書いた。「今日」にはこれから起こることの萌芽がある。現在を見つめれば、未来の形をつかむことは誰にでもできる。本書は、ただ知識を得るためだけの本ではない。読んだ後、俯瞰的に未来を考えられる力がきっとついているだろう」



「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「2021年の今、電車の中を見渡しても、ゲーム機や本を持ち歩いている人はめっきり見なくなった。道を聞くために交番に駆け込む人も激減しただろう。すべてを変えたのはスマートフォンの普及だ。日本で米アップルの『iPhone』が発売されたのは2008年7月だ。今からたった13年前の2008年の正月にはスマホがない景色が日常だったのだ」



これまでの10年よりこれからの10年の方が世界は大きく、早く変わるだろうとして、著者は「これまでの10年間の変化は、主に情報通信の大容量高速化がもたらした。この大容量高速化は今後さらに進む。すでにパソコンやスマホでストレスなく動画を見られるようになったし、家にいながらビデオ会議ができるようになっている。その恩恵はますます大きくなる。2030年頃には第6世代移動通信システム『6G』が始まるといわれている。たとえば、つい最近までダウンロードに5分かかった2時間の映画が、0.5秒もかからなくなる。瞬きほどの時間になるのだ」と述べています。



chapter#01「テクノロジーの進歩だけが」の「未来を明るくする」の「新しいテクノロジーが登場したとき、人間はその普及に反対する」では、著者は「19世紀末にカメラが、20世紀初頭に映画が、20世紀終わりにテレビゲームが登場した際、いずれも当初は受け入れられなかった。『カメラに写ると魂をとられる』などといわれたものだ。しかし、現在、この3つがない暮らしなど考えられるだろうか」と述べています。



1970年代末に携帯電話が登場してしばらくは、戦場での無線機のような大きさだったことが記憶にある人もいるだろうとして、著者は「その不格好さに誰もが『いらない』といったと思う。その後、1999年にNTTドコモの『iモード』が登場しても、電話にそんな機能は必要ないと指摘されたし、iPhoneが登場した際も、おもちゃと揶揄された」と述べています。



しかしながら、今や子どもから大人まで、寝る間を惜しむどころか、歩きながらもスマホをいじることが社会問題になるほど生活に欠かせない存在になっており、このiPhoneが登場したのはわずか13年前に過ぎないことを指摘し、著者は「新しいテクノロジーに対して、ふつう、人は懐疑的になる。そういうものなのだ。だからこそ、いち早くその可能性に思いを巡らせられる人にはチャンスがある」と述べるのでした。


「5Gとはそもそも何で未来の何を変えるのか」では、通信の規格は約10年ごとに次の世代に進むことを指摘し、著者は「日本電信電話公社(現NTT)がアナログ方式の1Gを開始したのは1979年だ。あのショルダーフォンの時代だ。自動車電話もそうだ。それから約14年後の1993年にデジタル方式の2Gが始まる。アラフォー以上の方はPHSの記憶があるかもしれないが、PHSが2Gである。そして、2001年にNTTドコモが『W-CDMA』と呼ぶ方式で3Gサービスを開始する」と説明。



ここからは多くの人の記憶にあるかもしれないとして、「携帯電話のメールで写真をやりとりするのが不自由なくなったのもこの頃だ」と言います。そして、2010年にLTE(4G)が始まりました。世代が代わると何がすごくなるのかというと、通信速度が速くなることと、情報伝達量が増えることだと指摘し、著者は「ここまでの30年で最大通信速度は約10万倍である。そして、4Gから5Gへの大きな特長は、さらに高速になり、大容量化が進んだことにある。5Gは4Gの最大100倍の速さになる」と述べています。



鮮明な映像をストレスなく配信・視聴できるだけではありません。AR(拡張現実)やVR(仮想現実)の利用も進むだろうと推測し、著者は「ポイントは、通信速度が速くなり、情報伝達量が増えるということだ。これが世界を変える。とはいえ、現在は基地局が限定されていることもあり、しばらくは4Gでつながり、時に5Gがつながるという状況だ。4Gという大海に5Gという島がいくつか浮いているイメージが正しい。その5Gがさらに進化するのが6Gだ。これまでの歴史を振り返ると、2030年頃に実用化される」と述べるのでした。



「6Gのすごさは『早く』『大量の情報のやりとりができる』こと」では、ネットワークは地上だけでなく、衛星、航空機などでも使えることが指摘されます。また、消費電力が減り、省エネにもなるともいわれているとして、著者は「デジタル機器の1回の充電での利用時間が、今の10倍になるのも夢ではない。高速通信の6Gの登場とともに、ディスプレイやセンサーなどの映像機器も発達すれば、ライフスタイルそのものが変わる。VR(仮想現実)やAR(拡張現実)などは誰もが使うツールになり、家にいながら服を試着したり、モデルルームに行くというサービスが登場するだろう」と述べています。


「6Gで自動運転が可能になる」では、遠隔手術も現実になるとして、著者は「カメラとロボットを使って、専門医師が多くの救えなかった命を遠隔で救うはずだ。専門医師が不在だったという理由で、世界では1億件以上の手術が行えていないとの試算もある。安定した大容量超高速通信は会議のあり方も変える。クラウド経由で、リアルタイムに翻訳することも可能だ。あなたが日本語しか話せなくても、遅延なく、世界の人と会話ができるようになるはずだ」と述べています。



コロナ禍であたりまえになったテレビ会議も、技術的にはSF映画にかつて見られたような、あたかも目の前に人がいるかのような3Ⅾのホログラムによる会話も可能になるといいます。上司が3Ⅾになってもうれしい人は少ないだろうと突っ込みながらも、著者は「違う場所にいる人が同空間にいるように感じることができるようになれば、遠隔での教育も進むだろう」と述べるのでした。



「家中が便利な家電でいっぱいになる」では、著者は、未来の生活について以下のように述べています。
「あなたが、朝起きると必ず枕元の照明をつけ、カーテンを開けて、ソファーに座りテレビをつけてニュース番組をみていたとしよう。これを繰り返していると、あなたが起きただけで、照明がつき、カーテンも自動で開くようになる。あなたがテレビの前に座れば、好んで見ているニュース番組が自動に映し出される。あなた以外の人が座ってもニュース番組は映らない。住人の行動をAIが学習するから、予測して勝手にすべてを行ってくれる。家中に配置されたセンサーがあれば可能だ。これは間違いなく、スタンダードになる。遠い未来のことに映るかもしれないが、じつは、これらの機能を搭載した『AIマンション』はすでにアメリカで商品化されている」



「コンビニやスーパーは無人店舗になる」では、すでに、小売店舗の無人化への助走は始まっているとして、アメリカではアマゾンドットコムが、2018年初め、シアトルの本社敷地内に初のレジなしコンビニ「アマゾンゴー」を開設した。今では20店舗近くを展開することが紹介されます。著者は、「アマゾンゴーのしくみはこうだ。まず、店舗の入り口に改札口のようなゲートがあり、事前に携帯にダウンロードしたアプリのコードをゲートでスキャンし入店する。この段階で、システム上で客は店内での行動が追跡される。カメラと棚に設置された重量センサーを使用し、客がどの商品を棚から取ったかを特定する。客は、自分の持っているバッグに、購入する商品を入れるだけだ。買物が終了してゲートを通過すると、自動的に課金されアプリに通知される」と述べています。



無人店舗のメリットは、万引きが防止できること」では、今、アマゾンが人間の手のひらをクレジットカード代わりにしようとしていることを紹介し、著者は「指紋認証と同じように、来店者の手のひらを、クレジットカード情報と連携してカードやスマートフォンを取り出さずに決済できるしくみだ。具体的には、静脈ではなく、手のひらの幅や指の長さなどで認証するもののようだ。最初に、これらの情報を登録して、決済用のクレジットカードと紐づければ、あとは、スキャナーに手のひらを一瞬かざすだけで決済が済む。その時間は、わずか0.3秒というから、カード決済でわざわざカードを財布から取り出す手間などを考えるとケタ違いに利便性が高まる」と述べています。



「中国と監視カメラと個人データ」では、中国が監視カメラ国家なのは有名であり、中国の一部の都市で設置が進む信号無視防止システムがその象徴であるとして、著者は「このシステムは、横断歩道が赤のとき、動いている物体を感知すると、写真と動画を自動的に撮影する。そして、これらの画像を自動的に解析し、公安が保有する身分証の顔写真データと照合し、違反をした歩行者の名前、住所、勤務先を特定する。そのあと、警察当局が電話などで違反者に通知し、罰金を科すのだ。勤務先などにも通知される。それだけではない。交差点近くに設置された大型モニターに、信号無視した人の顔写真も大きく映される。赤信号を渡っただけなのにと思われるかもしれない。信号無視で街頭モニターに顔が晒され、職場にも通知された日にはお先真っ暗な感じもするが、これは大げさにしても、事故や犯罪の防止には強い抑止力があるだろう」と述べます。


アリババが運用する「芝麻信用」は、ネット通販の取引履歴や職業、クレジットカードの支払い状況からソーシャルメディアでの言動までをもとに、個人を350~950点でスコア化しているとして、著者は「低い得点の人や、サービスを利用しない人は、すでに就職や結婚で不利になる事態になっており、このような『人のスコア化』は社会の常識になっている。特筆すべきは、こうしたIT企業のサービスが、行政と強く結びつき始めている点だ。想像しづらいかもしれないが、共産主義なので、個人情報のデータを国が使える。この評価システムも国が使っているのだ。すでに上海など20以上の地方政府で、個人の評価システムが始まっている。就業情報、社会保険の支払い状況のほか、刑事罰行政処分の有無を判断材料に個人の評価を5段階に分けるのだ。大手企業が構築したスコアリングのしくみに、地方政府が持つ個人情報をのせて判断する」と述べています。



「日本の過疎化を救うのは5Gでの診療」では、2040年には、病院に行かなくてもいいかもしれないとして、著者は「医療は最も変化の激しい領域だ。通信技術が高度化し、高速な上に途切れにくい5G回線の利用が進めば、オンライン診療の環境も整うだろう。現時点では、オンライン診療は対面診療を補助するものとしてしか存在しておらず、診られる病気も生活習慣病など慢性疾患に限られている。しかし、地方の過疎化が絶対にとまらない今、田舎の医師不足は必至だ。過疎化がオンライン診療を後押しするのは間違いないのだ。この流れは以前からあった。加えて、新型コロナウイルスの爪痕の深さから、『直接対面せずに診断する』という取り組みは加速するだろう。アメリカや欧州ももちろんだ」と述べます。

 

「ゲノム編集技術で難病の治療に光が見える」では、がんにはいろいろな種類があるが、メカニズムはすべて同じだと指摘します。遺伝子の変異によって起きるとして、著者は「2000年代以降、個人の遺伝子配列の解析が進んだことで、遺伝子に直接アプローチして治療できる抗がん剤が実用化された。『分子標的薬』だ。この薬はがんの原因となっている特定の遺伝子を攻撃できる。2005年頃に乳がん胃がん、血液がんから開発が始まり、2010年代に入ってからは膵臓がんなど治療が難しいがんも対象にし始めている。遠い未来の願望ではなく、がんは治る病気の時代がすぐそこまできているといっていいだろう」と述べ、いまだに「がんになったらおしまいかも」と思う人は多いかもしれないとしながらも、著者は「2035年にはほとんどのがんが治るのではとの楽観的な見方もある」と述べるのでした。



chapter#02「あなたの不幸に直結する未来の経済ーー年金、税金、医療費」の「老人が増え、それを支える若者が減る」では、少子高齢化が進んだ2040年の世界は想像するだけでも恐ろしいとして、「団塊世代が90歳、団塊ジュニア世代が65歳になる。そして、団塊ジュニアの4割が集中するのが首都圏だ。膨大な数の都民が高齢化を迎える。見渡す限り老人だ。過疎地ではすでに現実になっている老老介護が現実のものになる。東京都の年少人口(15歳未満)が占める割合は2019年は11%だったが、2040年以降には10%を割り込む。子育て支援に力を入れようとしても、対象となる子どもがいなくなるのに歯止めがかからない皮肉な状態だ」と述べます。



「すべての問題は高齢者が増えること」では、一昔前は医療や栄養問題から子どもがたくさん死にましたが、これからは増え続けた高齢者が多く亡くなる社会になるとして、著者は「当然、医療の発達もあり、なかなか簡単には亡くならず、慢性的な病気を抱える人も増える。1950年生まれの男性の35%、女性の60%は90歳まで生きるといわれている。1990年生まれの場合は、65歳まで生きた女性の2割は100歳まで生きる。これは、少なく見積もってだ。おまけに、現在、65歳以上の7人にひとりは認知症といわれているが、高寿命化により、2035年には4人にひとりが認知症になる。100歳を超えると必ず認知症になるともいわれるが、つまり、高齢になれば認知症になるのはあたりまえなのだ。これは確実に訪れる未来だ」と述べます。



「老人ホームは高い」では、現在、都心部だと、看護師が夜も常駐している民間の老人ホームは、月35万円くらい出さないと入れないと指摘します。安くても25万~26万円はするとして、「特別養護老人ホームの利用料でも、年金で入れるような月15万円くらいの施設は都市部にはない。特養であっても、経済的余裕がなければ入れないのが実情だ。施設に入れない人の介護を誰が引き受けるかというと、家族が自宅で面倒を見ることになる。自宅で亡くなる人の割合は東京17.5%、大阪では15.4%だ」と書かれています。



自宅での介護も、介護保険で全部まかなえるわけもなく、肉体面、金銭面における自己負担が大きいとして、著者は「特に都市部では、地域の共同体のむすびつきも希薄だから、家族がすべてを背負いがちだ。その上、介護離職者も全国10万人を超え、男性の離職者も増えている」と述べます。2019年時点の75歳以上の未婚者は全国で70万人弱。2030年には約140万人に増え、2045年には約250万人になる。総人口は減るにもかかわらず、未婚の人口は今の3~4倍になると指摘し、「独身で低所得だった場合、孤立死は避けられない」と断言します。


「日本のGDPはお先まっくらなのか」では、日本の人口は2008年がピークだったことを指摘し、政府がまとめた高齢社会白書(2018年)によると、2045年には1億1000万人を割り、2055年には1億人の大台も下回る。そして、2100年には現在の半分以下の6000万人規模になると予測されていることが紹介されます。さらに恐ろしいのは高齢者比率だとして、高齢者を65歳以上とすると、2035年にはほぼ3人にひとり(32.8%)、2065年には2.6人にひとり(38.4%)になることを指摘し、著者は「誕生する子どもが減少し続ける状況は、変わらないどころか、加速する。医療の発達と食生活の改善などで、それまでなら亡くなった人たちも長生きする」と述べます。


chapter#03「衣・食・住を考えながら、未来を予測する力をつける」の「日本では学歴の意味がなくなる」では、大学生が勉強しないことを指摘し、著者は「大学生の平均学習時間は小学生よりも短いという統計調査もある。なぜ勉強しないかというと理由は簡単で、勉強しようがしまいが、大半が入社する企業での処遇がほとんど変わらないからだ。アメリカでは大卒と博士課程修了者は初任給が約5割違うが、日本の場合、よくて2割程度だ。学生にしてみれば金も時間もかけようと思わないだろう。むしろ、理系ですら博士まで進学すると給与があがるどころか就職口も減るのが現実なので、誰も進学しようとしない」と述べています。



chapter#04「天災は必ず起こる」の「このまま温暖化がすすむと、飢餓に満ちた世界が必ずくる」では、このまま何の対策も講じなければ、今から2100年までに地球の平均気温は4度上昇すると指摘し、著者は「これがどのくらい異常なことかというと、1880年から2012年までの世界の平均気温の上昇は、1度にも満たない。4度上がると何が起こるか。気温が上昇すれば、海水の温度も当然上昇する。そうすると、ほぼすべての珊瑚礁が白化、絶滅する。珊瑚礁には海洋生物種の3割以上が生息するといわれており、結果的に、数億人の人々の食料事情が深刻なものになる」と述べています。ちなみに最悪の場合、2100年には日本は熱帯化しているそうです。著者は、「夏の東京の昼間の気温は40度をこえ、夜も30度をほとんど下回らない。米はとれなくなり、関東や近畿圏でバナナやパイナップルが栽培に適しているようになるだろう」と述べます。



南海トラフ地震の際は、日本中で地震が連動して起こる可能性が高い」では、遠くない将来に確実起きるといわれている南海トラフ地震と首都直下型地震について、著者は「これらはどれくらいの確率で起きるだろうか。マグニチュード(M)9級の南海トラフは、30年以内に70~80%、M7級の首都直下型は30年以内に70%の確率で起きると予測されている。今後30年で交通事故に遭遇して怪我を負ったり、死んだりする確率(1.05%)よりはるかに高い。被害もすさまじい。南海トラフは、死者行方不明者数は最も多い場合だと23万1000人、全壊・全焼する建物は209万4000棟としている。首都直下型地震の場合は、死者数は2万3000人、家屋の全壊・全焼は61万超棟と想定する」と述べます。



また、電気や上下水道などのライフラインや交通が長期にわたり麻痺し、交通渋滞が数週間継続するかもしれないとして、著者は「鉄道も1週間から1ヵ月程度運転ができなくなるだろう。首都直下型の場合、避難者数は720万人に達すると想定されており、通常モードになるまで、混乱が数年、いや数十年続く可能性すらある。地震発生から20年間の経済損失は、首都直下型で778兆円、南海トラフで1410兆円になると推定している。建物の被害だけだとそれぞれ47兆円と170兆円だが、交通インフラが寸断されて工場が長期間止まる影響など、間接的な影響が重くのしかかる。国の年間予算が約100兆円だ。いかに巨大なリスクかがわかるだろうか。どちらの地震による被害も「国難」級だと指摘している」と述べます。



さらには、南海トラフ地震に対応する財源の問題を指摘する声もあるだろうとして、著者は「それならば、東京一極集中を見直せばよい。経済活動の3割を地方に分散すれば、首都直下地震による被害額は219兆円軽減できるという試算もある。自然災害はパンデミックとは関係なく襲ってくる。近代日本ではこれらが重なったことはないが、1918~1920年に猛威をふるったスペイン風邪の3年後の1923年は、関東大震災が起こっている。弱り目に祟り目というが、こちらの都合に関係なくウイルスは到来するし、自然災害も起こる。巨大地震のリスクから目を背けている余裕はないのである」と述べるのでした。



「富士山が噴火すると日本中の機能がストップする」では、災害大国日本で想定しなければならないリスクは地震だけではないと指摘し、「火山だ。万が一、首都圏近郊で大噴火が起きれば影響は広範に及ぶ。京都大学大学院人間・環境学研究科の鎌田浩毅教授は『火山学的に富士山は100%噴火する』と断言している。日本の活火山は現在111あるが、このうち50を常時観測が必要な火山として、24時間体制で気象庁が監視している」と述べます。


富士山が最後に大規模噴火したのは1707年ですが、そのときは16日間、噴火が続き、現在の東京の都心部に5センチ、横浜には10センチの火山灰が積もったとされることを紹介し、著者は「5センチと聞くと影響がないように思えるかもしれないが、数ミリ積もるだけで、車道は通行不能になり、飛行機などもエンジンが動かなくなり、公共交通機関も麻痺するだろう。物流もストップする。インフラの崩壊は道路だけにとどまらない。東京湾周辺に集中する火力発電所の発電機は火山灰を吸い込んで動かなくなるだろうし、コンピューターに火山灰が入り込めば通信機能もダウンするはずだ。数センチも積もれば火山灰の重さで送電線は倒壊し、停電は長期化する。農作物も全滅だ。噴火で起きた泥流や火山灰が川をせきとめ、決壊などすれば流域では浸水などの被害もでる」と述べます。



富士山が噴火すれば、おそらく1年以上、首都圏は機能しなくなるとして、著者は「日本経済が止まれば全世界の経済は滞り、世界のGDPは年率5%程度は下落するはずだ。株価は絶望的に下落するだろうし、不動産価値は紙くずになるはずだ。とはいえ、2040年代の日本は落ちぶれたとはいえ、いまだ世界有数の経済国であることは間違いないだろうから、ハイパーインフレにはなりにくい。世界経済のために、諸外国が支えてくれるだろう」と述べます。日本ではこの300年ほど大きな噴火は起きていませんが、歴史的には珍しいそうです。「逆にいえばいつ起きてもおかしくないともいえる。現代の科学の力では、地震や火山がいつ起きるかは正確に予測できないが、いつかは起きる前提での備えが必要だ」と述べるのでした。



「『水』が最も希少な資源になる」では、1995年に、世界銀行環境担当副総裁のイスマイル・セラゲルディン氏が発した「20世紀の戦争が石油をめぐって戦われたとすれば、21世紀の戦争は水をめぐって戦われるであろう」という警告を紹介し、著者は「食料不足もそうだが、その前に深刻な水不足も起きるだろう。水は石油よりも貴重になる。すでにアフリカでは、気候変動による水不足に2億5000万人が直面している。2050年は、アジアでも水不足が起こる。10億人が水不足に陥り、世界中の都市部で利用できる水が今の3分の2まで落ちこむ。水不足で戦争も起きかねない。かつて、エジプトとスーダンエチオピアナイル川の利権でもめたような事態が常態化する。20世紀には石油の利権が戦争を引き起こしたが、21世紀は水を巡る戦争が多発するはずだ」と述べます。



テクノロジーが解決する根拠を示せといわれれば難しいとして、著者は「100年前の人は、100年後には地震や噴火を完璧に予知できるようになると考えていたが、できていない。ただ、一方で、なくなるといわれていた石油は、枯渇していないし、核戦争も起きていない。公害が深刻化して住めないような場所もでていない。危機に直面してもテクノロジーで解決の道筋を示してきたのが人類なのだ。それは本書をここまで読みすすめてきた方は十分に理解しただろう。そして、20年前のあなたが、今のあなたの生活を想像できなかったほどにテクノロジーが進展していることを考えれば、自然がもたらす危機に対しても解決策を示してくれるかもしれない、と考えるべきではないだろうか」と述べています。



「おわりに」では、GAFAのような企業が日本から生まれる兆しはまるで見えないと指摘し、いまだに産業界では「かつてのソニーウォークマンのような製品を日本企業はなぜ生み出せないのか」と真顔で議論しているとして、著者は「ソニーウォークマンが世界を席巻したのは1980年代だ。産声を上げた赤子が中年にさしかかるほどの歳月がたっていることに、どれほどの産業人が自覚的なのだろうか。つまり、政治の世界も民間の世界も、飛び抜けて優秀な人材が日夜を問わず働いても、世界的ヒット商品のひとつ生み出せないのが実情だ。今、これを読んでいるあなたは、国を忘れて、これからの時代をどうやって生き残るのかをまず考えるべきだ。どうすれば幸せな人生を送れるかに全エネルギーを注ぐのをオススメする。生き残るためには、幸せになるためには環境に適応しなければならない。生き残るのは優秀な人ではなく、環境に適応した人であることは歴史が証明している」と述べるのでした。



本書には、わたしの知らなかったことも多く書かれていました。まるで未来社会の生活カタログを読んでいるような気分になり、SF好きとして楽しい読書となりました。空飛ぶクルマなんて、たまりませんね。しかしながら、超高齢化社会、巨大災害への不安はさらに増大しました。2040年といえば、わたしは78歳になっています。生きていたとしても老人ですが、未来社会がどんなふうになっているのかを想像すると、やはりワクワクします。

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2040年の未来予測

2040年の未来予測

 

 

2021年4月11日 一条真也

元気の出る歌 ♪

一条真也です。
今日の東京の新規感染者は570人、大阪ではなんと過去最多の918人でした。とにかく毎日、暗いニュースばかりで、たまりませんね。何事も陽にとらえるわたしでさえ、気が滅入ってきます。これもすべては新型コロナウイルスのせいでありますが、YouTubeで昔の明るい曲をいろいろ見つけ、すごく元気になれました。

f:id:shins2m:20181231233416j:plain平成最後の紅白の大トリはサザンオールスターズ

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ユーミン&桑田で大盛り上がり!
 

ブログ「平成最後の『まつり』」で紹介した2018年12月31日放送の「第69回NHK紅白歌合戦」では、大トリにサザンオールスターズが登場。桑田サンとユーミンの奇跡もコラボも実現して大盛り上がり。新しい時代への希望に満ちていました。それが、その後の日本はどうでしょうか? どうして、こんなことになってしまったのか?
せめて、YouTubeでアトランダムに見つけた元気の出る曲をご紹介したいと思います。いずれも明るい未来を歌ったナンバーばかりです。あと、個人的に好きな歌ばかりでございます。客観性などゼロですので、悪しからず。


サザンオールスターズ勝手にシンドバッド」 


Re  Japan「明日があるさ」 (がんばれ大阪!)


米米CLUB「君がいるだけで」

中山美穂WANDS世界中の誰よりきっと」 


プリンセス  プリンセス「Diamonds」 


モーニング娘。「LOVEマシーン」 


AKB48「ヘビーローテーション」 


SMAP夜空ノムコウ」 


松平健マツケンサンバⅡ」 


北島三郎「まつり」

 

最後はサブちゃんの「まつり」でした。かつて、わたしは会社や業界の懇親会でこの曲のカラオケを歌っていましたが、まるで夢のようです。「第69回NHK紅白歌合戦」では、5年ぶりに登場したサブちゃんが巨大な竜の上で「まつり」を熱唱するという大掛かりな演出でしたが、サザンの桑田サンも大きな内輪を振って大喜びでした。

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平成最後の「まつり」

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あの頃に帰りたい!(涙)

当時のブログの最後に書いたわたしの「白組のトリは嵐ではなくてSMAPだったら良かったなあ!」「2020年の東京五輪の開会式では、ぜひ、サブちゃんに『まつり』を、閉会式ではサザンに『勝手にシンドバッド』を熱唱していただきたい!」などの文章を今読むと泣けてきます。令和になってから何も良いことがないような気がするのは、わたしだけではありますまい。それにしても、SMAPが「夜空ノムコウ」で歌った「あの頃の未来に、ぼくらは立っているのかなあ? すべてが思うほどうまくはいかないみたいだ」という歌詞が心に沁みまくりますね。

 

2021年4月10日 一条真也