日本人の心の三本柱

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一条真也です。
わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「日本人の心の三本柱」という言葉を取り上げることにします。


サンデー毎日」2015年11月1日号 

 

わたしは日本人の「こころ」は神道儒教・仏教の3つの宗教によって支えられていると思っています。「礼」は儒教の、「慈」は仏教の、そして「和」は神道の核心をなすコンセプトです。「和」といえば、「和をもって貴しと為す」という聖徳太子の言葉が思い浮かびます。内外の学問に通じていた太子は、仏教興隆に尽力し、多くの寺院を建立します。平安時代以降は仏教保護者としての太子自身が信仰の対象となり、親鸞が「和国の教主」と呼んだことはよく知られます。しかし、太子は単なる仏教保護者ではありませんでした。神道儒教・仏教の三大宗教を平和的に編集し、「和」の国家構想を描きました。


日本三大宗教のご利益』(だいわ文庫)

 

聖徳太子は、宗教における偉大な編集者でした。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を解消する。すなわち心の部分を仏教が担う、社会の部分を儒教が担う、そして自然と人間の循環調停を神道が担う・・・3つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのです。

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室町時代神道家の吉田兼倶が、仏教は万法の花実、儒教は万法の枝葉、神道は万法の根本とする「根本枝葉果実説」を唱えましたが、このルーツも聖徳太子にありました。この聖徳太子の宗教における編集作業は日本人の精神的伝統となり、鎌倉時代に起こった武士道、江戸時代の商人思想である石門心学、そして今日にいたるまで日本人の生活習慣に根づいている冠婚葬祭など、さまざまな形で開花していきました。

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冠婚葬祭の中にも神道儒教・仏教が混ざり合っていると言えます。神前結婚式は決して伝統的なものではなく、それどころか、キリスト教式、仏式、人前式などの結婚式のスタイルの中で一番新しいのが神前式なのです。もちろん古くから、日本人は神道の結婚式を行ってきました。でもそれは、家を守る神の前で、新郎と新婦がともに生きることを誓い、その後で神々を家に迎えて、家族、親戚や近隣の住民と一緒にごちそうを食べて二人を祝福するものでした。つまり、昔の結婚式には宗教者が介在しなかったのです。神道キリスト教も関係ない純粋な民間行事であったわけです。しかし、日本における冠婚葬祭の規範であった小笠原流礼法は朱子学すなわち儒学を基本としていました。昔の自宅結婚式の流れは小笠原流が支配していましたから、その意味では日本伝統の結婚式のベースは「礼」の宗教である儒教だったとも言えます。

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結婚式における神前式と同様、多くの日本人は昔から仏式葬儀が行われてきたと思っています。葬儀や法要に仏教が関与するようになったのは仏教伝来以来早い段階から見ることができます。しかし、仏式葬儀の中には儒式葬儀の儀礼が取り込まれています。仏壇も、仏教と儒教のミックスですもし住居にお壇があるな、仏教徒なら、朝の御挨拶は、もちろん御本尊に対して行いますが、その後で、本尊の下段に並んでいる親族の位牌に対して御挨拶をするはずです。これは、仏教と儒教とのミックスです。本尊に対して礼拝するのは仏教です。本尊の下段の位牌に対して礼拝するのは儒教です。そのように仏教と儒教とがミックスされたものが日本の仏壇なのです。

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サンデー毎日」2017年9月17日号

 

 ブッダが開いた仏教、孔子が開いた儒教は、日本人の「こころ」に大きな影響を与えました。加えて、日本古来の信仰にもとづく神道の存在があります。神儒仏が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であると言えるでしょう。その三宗教の聖典が、『古事記』『論語』『般若心経』です。わたしには、それらが日本人の「過去」「現在」「未来」についての書でもあるように思えてなりません。すなわち、

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

  • 作者:倉野 憲司
  • 発売日: 1963/01/16
  • メディア: 文庫
 

 

古事記』とは、わたしたちが、
どこから来たのかを明らかにする書。

 

論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)

 

 

論語』とは、わたしたちが、
どのように生きるべきかを説く書。

 

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

  • 発売日: 1960/07/25
  • メディア: 文庫
 

 

『般若心経』とは、わたしたちが、
死んだらどこへ行くかを示す書。

 

これからも、わたしは『古事記』と『論語』と『般若心経』を何度も読み返して、日本人の「心」について考えたいと思います。なお、拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)では、社会現象にまでなった「鬼滅の刃」という物語には、日本人の心の三本柱としての神道儒教・仏教のメッセージが込めらていることを指摘しました。

f:id:shins2m:20201221125540j:plain「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林) 

 

2021年4月10日 一条真也拝 

死を乗り越えるミケランジェロの言葉

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死と愛は、善人を天国へと
運ぶ二つの羽だ。(ミケランジェロ

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。今回の名言は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人であるミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(1475年~1564年)の言葉です。レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能人」と呼ばれ、代表作は「ダビデ像」「アダムの創造」「ピエタ」「システィーナ礼拝堂天井画」などです。

 

 

 「死」と「愛」は、文学における二大テーマであると言ってもよいでしょう。偉大な文学作品は、必ず「愛」と「死」の両方を描いています。なぜか。「愛」はもちろん人間にとって最も価値のあるものです。けれども「愛」をただ「愛」として語り、描くだけではその本来の姿は決して見えてきません。そこに登場するのが、人類最大のテーマである「死」です。

 

 

「死」の存在があってはじめて、「愛」はその輪郭を明らかにし、さらには強い輝きを放つのではないでしょうか。「死」があってこそ、「愛」が光るのです。そして、そこに感動が生まれるのです。逆に、「愛」の存在があって、はじめて人間は自らの「死」を直視できるとも言えます。「死」という直視できないものを見るためのサングラスこそ「愛」ではないでしょうか。

 

ミケランジェロの生涯 (岩波文庫 赤 556-3)

ミケランジェロの生涯 (岩波文庫 赤 556-3)

 

 

誰だって死ぬのは怖いし、自分の死をストレートに考えることは困難です。しかし、愛する恋人、愛する妻や夫、愛するわが子、愛するわが孫の存在があったとしたらどうでしょうか。人は心から愛するものがあってはじめて、自らの死を乗り越え、永遠の時間の中で生きることができるのでしょう。なお、この言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。ご一読下されば、幸いです。

 

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2020/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2021年4月10日 一条真也

「ハートフル・スタンプ3」できました!

一条真也です。
8日、サンレー北陸の本部会議に出席後、小松空港から福岡空港へ。金沢から小倉に戻りました。この日の全国の感染者数は、3398人でした。前日の3461人に続き、2日連続で3000人を超えました。「まん延防止等重点措置」が適用されている大阪府では、3日連続で過去最多を更新する905人の感染が確認されています。

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ハートフル・スタンプ3

 

変異株による感染拡大で不安が広がりますが、個人的にはこの日は嬉しいことがありました。なんと、わたしのオリジナル・スタンプ第三弾となる「ハートフル・スタンプ3」が発売されたのです。ブログ「『ハートフル・スタンプ』できました!」で紹介したように、昨年12月15日にLINEの「一条真也のハートフル・スタンプ」が発売。また、ブログ「『ハートフル・スタンプ2』できました!」で紹介したように、今年2月22日に「一条真也のハートフル・スタンプ2」が発売されました。ともに(本人も驚くほどの)大好評につき、このたび第三弾が発売。名付けて「年中行事篇」です!

f:id:shins2m:20210408111835j:plainハートフル・スタンプ3

 

今回も、わたしのいろんなシチュエーションにおけるスタンプが全24種公開されましたが、今回は正月・節分・桃の節句端午の節句・七夕・盆踊り・ハロウィン・クリスマスといった年中行事のスタンプが勢揃いしました。これだけ年中行事をコレクションしたのは初めてだそうです。また、花見・月見・雪見といった季節を愛でるスタンプ、母の日・父の日・敬老の日・バレンタインデー・ホワイトデーなどのハッピーデイのスタンプも揃えました。

決定版 年中行事入門』(PHP研究所)

 

本当は、神社で参拝したり、教会での結婚式に参加したり、お葬式で数珠を持って礼拝するなどの冠婚葬祭スタンプも作りたかったのですが、宗教関連はNGということであきらめました。冠婚葬祭は宗教というよりも日本人の生活慣習なのですけどね・・・・・・でも、日本の儀式文化には冠婚葬祭の他にも年中行事があります。民俗学者折口信夫は、年中行事を「生活の古典」と呼びました。彼は、『古事記』や『万葉集』や『源氏物語』などの「書物の古典」とともに、正月、節分、雛祭り、端午の節句、七夕、お盆などの「生活の古典」が日本人の心にとって必要であると訴えたのです。

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正月

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獅子舞

 

平成は大きな変化の時代でした。なによりも日本中にインターネットが普及し、日本人はネット文化にどっぷりと浸かってしまいました。正月に交わしていた年賀状を出すのをやめ、メールやSNSで新年のあいさつを済ます人も多くなってきました。その平成も令和になりました。日本人の間の「もう新しい時代なのだから、今さら昔ながらの行事をすることもないだろう」という気分は強くなりました。これに令和2年からの新型コロナウイルスの感染拡大が追い打ちをかけました。「人が集まる」こと自体が避けられ、年中行事の多くは中止されているのが現状です。

f:id:shins2m:20210408111600j:plainひな祭り

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盆踊り

 

しかし、世の中には「変えてもいいもの」と「変えてはならないもの」があります。年中行事の多くは、変えてはならないものだと思います。なぜなら、それは日本人の「こころ」の備忘録であり、「たましい」の養分だからです。スタンプを使って年中行事の素晴らしさ、大切さを発信するのはまさに「天下布礼」そのものではないかと思います。LINEの情報は韓国や中国に筒抜けのようですが、それを逆手にとって年中行事スタンプを流行させ、韓国や中国の人々に日本文化の素晴らしさを知ってほしい!

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雪見

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月見

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花見

 

日本文化の素晴らしさといえば、雪見、月見、花見のスタンプも発表しました。日本文化を考えるうえでのキーワードは「自然」ですが、松尾芭蕉は、自然を「造化(ぞうか)」と呼びました。「造」はつくりだすこと、「化」は形を変えることです。英語の「ネイチュア」と見事に一致しています。すなわち、ネイチュアとは、物ではなく運動なのです。そして日本の自然において、「雪月花(せつげつか)」がそのシンボルとなります。つまり、雪は季節の移り変わり、時間の流れを表わし、月は宇宙、空間の広がりを表わします。花は時空にしたがって表われる、さまざまな現象そのもののシンボルといえるでしょう。

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クリスマス

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ハロウィンの悪魔

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節分の赤鬼

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鬼を斬る!(このスタンプは非売品です)

 

前回はわたしが吸血鬼になったスタンプが登場しましたが、今回もサンタクロースやハロウィンの悪魔や節分の赤鬼に扮しています(笑)。ハートフル・スタンプの1・2とも、サンレーの営業スタッフのみなさんが愛用して下さっているようですので、この年中行事篇もぜひ活用していただき、良い人間関係づくりに努めて、さらにはサンレーグループ創立55周年を盛り上げていただきたいです。ともかく、新しいスタンプを使って「天下布礼」にさらに励みたいと思います。ハートフル・スタンプ3、よろしくお願いいたします。こちらから、購入できます!

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2021年4月9日 一条真也

『ビジネスの未来』

ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す

 

 一条真也です。
金沢に来ています。『ビジネスの未来』山口周著(プレジデント社)を読みました。「エコノミーにヒューマニティを取り戻す」というサブタイトルがついています。著者は1970年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科美学美術史学専攻修士課程修了。電通ボストン・コンサルティング・グループ等を経て、組織開発・人材育成を専門とするコーン・フェリー・ヘイグループに参画。現在、同社のシニア・クライアント・パートナー。専門はイノベーション、組織開発、人材/リーダーシップ育成。著書にブログ『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』で紹介した本など。 

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本書の帯

 

本書の帯には頬杖をつく著者の写真とともに、「新しい時代を創るために資本主義をハックしよう」と書かれています。また、カバー前そでには、「21世紀を生きる私たちに課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある『経済成長』というゲームに不毛な延命・蘇生措置を施すことではなく、私たちが到達したこの『高原』をお互いに祝祭しつつ、『新しい活動』を通じて、この世界を『安全で便利な快適な(だけの)社会』から『真に豊かで生きるに値する社会』へと変成させていくことにあります」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「本書が訴えようとしているメッセージのサマリー」として、以下のように書かれています。
1. 私たちの社会は、明るく開けた「高原社会」へと軟着陸しつつある
2. 高原社会での課題は「エコノミーにヒューマニティを回復させる」こと
3. 実現のカギとなるのが「人間性に根ざした衝動」に基づいた労働と消費
4. 実現のためには教育・福祉・税制等の社会基盤のアップデートが求められる

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 私たちはどこにいるのか?
第二章 私たちはどこに向かうのか?
第三章 私たちは何をするのか?
イニシアチブ1:真にやりたいコトを見つけ、取り組む
イニシアチブ2:真に応援したいモノ・コトにお金を使う
イニシアチブ3:ユニバーサル・ベーシック・インカム
        の導入
補論
1.社会構想会議の設立
2.ソーシャル・バランス・スコアカードの導入
3.租税率の見直し
4.教育システムの再設計
「おわりに」
「参考文献」

 

「はじめに」の冒頭で、著者は「ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか? これが、本書執筆のきっかけとなった私の疑問です」と書き出し、続けて「答えはイエス。ビジネスはその歴史的使命を終えつつある。ということになると思います」と述べています。本書で示されるさまざまなデータは、人類が過去200年にわたって連綿と続けてきた「経済とテクノロジーの力によって物質的貧困を社会からなくす」というミッションがすでに終了していることを示しているとして、著者は「この状況は昨今、しばしば『低成長』『停滞』『衰退』といったネガティブな言葉で表現されていますが、これは何ら悲しむべき状況ではありません。古代以来、私たち人類はつねに『生存を脅かされることのない物質的社会基盤の整備』という宿題を抱えていたわけですから、現在の状況は、それがやっと達成された、言うなれば『祝祭の高原』とでも表現されるべき状況です」と述べています。



また、著者は「21世紀を生きる私たちに課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある『経済成長』というゲームに不毛な延命・蘇生措置を施すことではなく、私たちが到達したこの『高原』をお互いに祝祭しつつ、『新しい活動』を通じて、この世界を『安全で便利で快適な(だけの)世界』から『真に豊かで生きるに値する社会』へと変成させていくことにあります」と述べ、この転換を前向きに乗り越えていくに当たって、大きく3つのポイントがあると指摘します。1つ目のポイントは「終焉の受容」です。2つ目のポイントは、この状況を「ポジティブに受け入れよう」ということです。

 

「低成長」は「文明化の終了」がもたらした必然的な状況だと考えられるとして、著者は「文明化が終了してしまえば、文明化の推進を担っていたビジネスが停滞するのは当たり前のことです。本書で後ほどあらためて指摘する通り、地球の資源と環境に一定のキャパシティがある限り、全ての国はいずれどこかで成長を止めざるを得ません。この『成長が止まる状況』を『文明化の完成=ゴール』として設定すれば、日本は世界でもっとも早く、この状況に行き着いた国だと考えることができないでしょうか。これを逆さまにして指摘すれば、『高い成長率』は『文明化の未達』を意味することになります。『進んでいる』のではなく、『遅れている』からこそ成長率が高い、ということです。このように『成長の意味』を捉え直せば、世界認識の絵柄は180度反転することになります」と述べています。



最大の問題は、そもそも「どのような社会をつくりたいのか?」という構想が描かれないままに、単なる「変化率」を表す概念でしかない「成長」という指標だけが、独善的に一人歩きしていることだといいます。わたしたちが社会を評価する際にしばしば用いる「成長率」という概念は、社会の状態を表す指標ではなく「変化率」を表す指標であり、数字でいう「微分値」をあたかも状態記述の指標のように用いているのだとして、著者は「しかし、もし私たちが『目指すべき社会』の実現のために日々、働いているのだとすれば、それがどれほど実現できたかは『目指すべき社会』の『達成度』、つまり『積分値』で記述されなくてはなりません。そして、そのような『状態を表す指標』で現在の世界をあらためて振り返れば、私たち人類がここ100年のあいだに素晴らしい偉業を成し遂げてきたことが確認できるでしょう」と述べます。

 

 

さらに、この転換を乗り越えていくための3つ目のポイントとして「新しいゲームの始まり」という点を指摘し、著者は「端的に言えば、世界は大多数の人々にとって『便利で安全で快適に暮らせる場所』にはなりましたが、まだまだ『真に豊かで生きるに値すると思える社会』にはなっていないのです。これらの問題をどのように解決していくかは個別テーマによって異なりますが、いずれにせよ言えるのは『古いゲームが終わり、新しいゲームが始まる』ということです。なお、本書でたびたび用いられる『高原』という比喩をはじめ、私たちが生きている現代という時代を世界史上の『第二の変曲点』として捉える歴史観など、本書執筆の上では社会学者の見田宗介先生の著作『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』において用いられたさまざまな比喩的表現、思考の枠組みを転用させていただいていることを見田先生への感謝の意とともにここに記しておきます」と述べています。



第一章「私たちはどこにいるのか?」では、現在のパンデミックの収束がいつごろになるのか、そもそも果たして根治的な収束が起こり得るのかについて、さまざまな議論が交わされています。しかし、いずれの議論においても前提になっているのが「世界はもう元の通りにはならない」ということであるとして、著者は「その変化が良いものであれ、悪いものであれ、私たちは不可逆な変化の最中にあります。この変化をどのようにして乗り切っていくのか、私たちはこれから長い時間をかけて議論しなければならないわけですが、その議論の大前提として、あらためて確認しておかなければならない重大な論点があります」と述べ、それは、「私たちは、どこにいるのか?」「私たちの社会はどのような文脈の最中にあるのか?」ということだといいます。



経済を語る際に、必ず言及されるのがGDPです。しかし、「GDPの発明に関する問題点」では、そもそもGDPは、100年ほど前のアメリカで、世界恐慌の影響を受けて日に日におかしなことになっていく社会・経済の状況を全体として把握するという目的のために開発されたものであると指摘し、著者は「当時のアメリカ大統領、ハーバート・フーバーには大恐慌をなんとかするという大任がありましたが、手元にある数字は株価や鉄などの産業材の価格、それに道路輸送量などの断片的な数字だけで政策立案の立脚点になるようなデータが未整備だったのです。議会はこの状況に対応するために1932年、サイモン・クズネッツというロシア系アメリカ人を雇い、『アメリカは、どれくらい多くのモノをつくることができるか』という論点について調査を依頼します」と述べます。



数年後にクズネッツが議会に提出した報告書には、現在の私たちがGDPと呼ぶようになる概念の基本形が提示されていました。つまり「測りたい問題が先」にあった上で「測るための指標が後」で導入されたのです。著者は、「本来、私たちがやらなければならないのは、そのような『GDPの延命措置』ではなく、『人間が人間らしく生きるとはどういうことか』『より良い社会とはどのようなものか』という議論の上に、では『何を測れば、その達成の度合いが測れるのか』を考えることでしょう。経済学者をはじめとした専門家の多くはこの種の議論を非常に嫌がりますが、理由は明白で、このように抽象的で哲学的な議論のプロセスでは『専門家としての権威』を発揮できないからです」と述べています。

 

ゆたかな社会: 決定版 (岩波現代文庫)

ゆたかな社会: 決定版 (岩波現代文庫)

 

 

また、「GDPという指標がもつ意味」では、1958年に、いたずらに経済成長率という指標だけを追いかけることの危険性を訴え、経済成長と医療・教育・福祉などの充実をバランスさせるべきだと訴えたガルブレイスの『ゆたかな社会』が世界的ベストセラーとなったことを紹介し、著者は「その後、半世紀を経て、物質的満足度がすでに飽和しているにもかかわらず、ガルブレイスの主張とは逆行するようにして、なぜGDPという指標が、他の指標に突出して重視されるようになったのか? おそらくは『それ以外の適当な目標がなかったから』というのがその理由でしょう。かつてモンテーニュが言ったように『心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける』のです。私たちの社会が指標としてとうに賞味期限の終わった指標を使い続けていることは、とりもなおさず、私たちが新しい目標となる構想を描くことができていない、ということです」と述べています。



「新しい価値観、新しい社会ビジョンを再設計する」では、GDPという指標はもともとアメリカによって考案されたわけですが、この指標で国威を測るからこそアメリカがつねに優位な立場にある(ように見える)という点を忘れてはならないとして、著者は「アメリカの経済分析局はかつて『GDPは20世紀でもっとも偉大な発明の1つだ』と評しましたが、そう考えるのも無理はありません。なんといっても、この指標で測るからこそ『アメリカは世界一の覇権国』であり続けられるのです。そしていま、製造産業から情報産業へのシフトが大きく進むアメリカによって『非物質的な財=無形資産をGDPに算入しよう』という議論が主導されている」と述べます。

 

21世紀の資本

21世紀の資本

 

 

「『成長』のイメージは『幻想に過ぎない』」では、フランスの経済学者、トマ・ピケティは世界的なベストセラーとなった著書『21世紀の資本』において、わたしたちが一般に有する「成長」のイメージは「幻想に過ぎない」と一蹴していることを紹介し、著者は「成長というのは一種の宗教なのだな」ということをつくづく感じると述べています。また、「『成長・成長』は「信仰」と同じ」では、著者は2017年に上梓した『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』において、ビジネスにおける意思決定があまりにもサイエンスに傾斜するようになっていることで、かえってビジネスが矮小・脆弱になっており、人間性に根ざした感性や直感をビジネスに回復させることの重要性を指摘したことを紹介し、「こと経済・社会に関する認識については、この傾向が明らかに逆転していると感じています。理由はシンプルで、『無限の成長』という考えは『非科学的なファンタジー』でしかないからです」と述べています。

 

 

さらに、科学的にあり得ないことを信じることを「信仰」と言うのであり、「成長・成長」とひたすらに叫ぶ人たちというのは、これを一種の宗教として信じていると指摘して、著者は「アメリカの社会心理学者、レオン・フェスティンガーは、認知的不協和理論を提唱し、数々の例証から「自分の信念と事実が食い違うとき、人は『信念を改める』よりも『事実の解釈を変える』ことで信念を守ろうとする」と指摘しました。この現象が特にわかりやすく発現するのが信仰の現場です。フェスティンガーはカルト教団の内部に潜り込み、『UFOがやってくる』『大洪水が地球を襲う』といった教祖の予言が外れるという事実を眼前にしても、依然として帰依を解こうとしない信者を観察したことがきっかけとなってこの理論の着想を得ています」と述べています。



「枢軸の時代」では、人類史を4つのステージ、すなわち「文明化以前の時代」「前期文明化の時代」「後期文明化の時代」「文明化以後(高原)の時代」に分けて整理します。「文明化以前の時代」とは、今日の私たちの社会の基底をなすさまざまな抽象的な制度や仕組み、たとえば「貨幣」や「市場」や「宗教」などが考案・実装される前の時代ということです。人類の始祖がアフリカで誕生して以来、数万年にわたって続いたこの時代に転換点をもたらしたのが「枢軸の時代」でした。人類が向き合った「1つ目の変曲点」です。

 

 

「枢軸の時代」という言葉は、ドイツの哲学者・精神科医だったカール・ヤスパースが、紀元前5世紀を挟んだ前後の300年ほどのあいだに全地球規模で発生した思想史・文明史的な転換点を指して名付けたものだと説明し、著者は「一体、何が起きたのか?この時代、古代ギリシアではソクラテスプラトンによって哲学が、インドではウパニシャッドや仏教が、中東ではゾロアスター教が、中国では諸子百家による儒教が、パレスチナではキリスト教の礎となる古代ユダヤ教が、それぞれ生まれました。不思議なことに、たった500年ほどの短い期間に、西はエーゲ海から東は中国まで、今日の私たちの精神・思想・科学の骨組みとなる考え方が全地球規模といってよい範囲で同時多発的に生まれたのです。一般に、歴史の文脈で『近代』というとき、それは16世紀のルネサンス以降、啓蒙時代が始まってから現代までのあいだということにされていますが、筆者はこの「枢軸の時代」が、近代の特徴とされる「人間主義」「合理主義」「自由主義」の萌芽であったことから、これを「長い近代の始まり」と考えています」と述べています。ちなみに、わたしは『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)において、「枢軸の時代」について詳しく書きました。



「文明化の終焉を生きる」では、一般に第1次産業革命のスタートは18世紀後半と考えられていますが、このタイミングから、人間がもつ問題解決能力は爆発的に増殖し、衣食住それぞれの物理環境の劇的改善という「文明化」が急速に進むことになり、その上昇カーブは20世紀後半に至るまで続くことを指摘し、著者は「しかしこの上昇カーブは、すでに見た通りさまざまな側面でその勾配をなだらかにしつつあり、以降は定常状態を前提とする『高原状態』に移行して『無限に続く幸福ないま』が循環する時代がやってくるのではないか、というのが私の仮説です。これが、人類が向き合うことになる『2つ目の変曲点』です。つまり私たちは、BCE5世紀の頃、『1つ目の変曲点』を通過してから、ほぼ2500年ぶりに、新しいモードに切り替える時期にきている、ということです。冒頭から記述してきた内容を受けてそれを表現すれば、私たちがいま生きているのは『文明化の終焉の時代』だということになります。そして、おそらくは2020年に発生したグローバルなコロナによるパンデミックが、この高原状態への移行を急速に推し進めることになることでしょう」と述べています。

 

 

「『グレートリセット』が意味するもの」では、2020年6月、著者自身も分科会のメンバーとなっている世界経済フォーラム(通称ダボス会議)は、2021年1月に開催される年次総会のテーマを「The Great Reset=グレートリセット」にすると発表しました。世界経済フォーラムを創設したクラウス・シュワブ会長は、この「リセット」が意味するものについて、「世界の社会経済システムを考え直さないといけない。第2次世界大戦後から続くシステムは異なる立場のひとを包み込めず、環境破壊も引き起こしている。持続性に乏しく、もはや時代遅れとなった。人々の幸福を中心とした経済に考え直すべきだ(日本経済新聞2020年6月3日記事より)」と語っています。ここでシュワブがかなりオブラートに包んだモノの言い方をしていますが、彼のこれまでの言説を踏まえて意訳すれば、「第2次世界大戦後から続くシステム」とは、これまでたびたび言及した「無限の成長を前提とするシステム」を指すことは明らかです。



 では、この強迫的なシステムをどのように「リセットする」のか? シュワブはここで「人々の幸福を中心とした経済」という言葉を用いています。記者の「リセット後の資本主義はどうなりますか」という質問に対して、シュワブは「資本主義という表現はもはや適切ではない。金融緩和でマネーがあふれ、資本の意味は薄れた。いまや成功を導くのはイノベーションを起こす起業家精神や才能で、むしろ『才能主義(Talentism)』と呼びたい。コロナ危機のなか、多くの国で医療体制の不備が露呈した。経済発展ばかりを重視するのではなく、医療や教育といった社会サービスを充実させなければならない。自由市場を基盤にしつつも、社会サービスを充実させた『社会的市場経済(Social market economy)』が必要になる。政府にもESG(環境・社会・企業統治)の重視が求められる」と述べています。



また、「『資本の価値』も『時間の価値』もゼロに」では、わたしたちの社会システムは「時間によって資本の価値が増殖する」ということを前提にして構築されているわけですが、近代以降、長らく常識として考えられてきたことが、もはや成立しなくなってきていると指摘しています。これはいったい、どういうことなのか。著者は、「重要なポイントは『時間』です。『将来における資本の価格が利子』になるということはつまり『利子』と『時間』というものが不可分の関係にあるということです。『時間」によって「利子」の存在が合理化されるということは、逆に言えば「利子=資本の価値」がゼロになったということは、つまり「時間の価値」もゼロになったということです。いや、これはロジックが逆転していますね。実際に起きていることはむしろその逆でしょう」と述べています。



「『希望の物語』という幻想」では、「時間の価値の喪失」という状況は、わたしたちが人類史的な転換点に差し掛かっていることを示しているとして、著者は「人類の歴史に登場したイデオロギーにはしばしば『より良い未来のために、いまを手段化する』という考え方が含まれています。たとえばキリスト教に『最後の審判』という考え方があることはご存じでしょう。(中略)また、マルクス主義では、人類の歴史がすべて『階級闘争の歴史』であったと整理した上で、この歴史はやがて、労働者の団結によって資本家が打倒され、階級対立も支配もない共同社会が訪れることで完成する、としています」と述べます。

 

マルクスが「宗教は民衆のアヘンである」と指摘したことはよく知られていますが、著者は「だからこそ、実際にロシア革命以後、ソ連や中国などの共産主義国家において明確な政策的意図をもって宗教が弾圧されたわけですが、そのようなマルクス主義と、そのマルクス主義が強く否定した正典宗教とが実は同じ枠組みの物語を唱えており、数十億人というスケールの人々がその物語に陶酔したという事実は、私たちに大きな洞察を与えてくれます。それは、私たち人間は、そういう類の『いま頑張っていれば、いずれ良い未来がやってくる』という『希望の物語』が大好きだということであり、これを逆に言えば、そのような『希望の物語』がなければ、私たちは生きていけない、ということなのです。ところが、そのような物語を、ついに誰も紡げなくなってしまった世界が、いままさに訪れているのです」と述べます。



「成長の完了した『高原状態』の社会」では、著者は「では資本に変わるものはなんなのか?」と問い、シュワブが「資本主義から才能主義への転換」と記者に答えたことを紹介し、「『才能』とは言い換えてみれば『個性』ということです。いま、この世界に生きている人々が、各自の衝動に基づいて発揮する個性こそが、社会をより豊かで瑞々しいものに変えていく。そういう未来を『才能主義』と言っているのです。ここでもまた『経済発展』だけをいたずらに目指すのではなく、『より良い社会』の実現に、私たち人間のもっている才能や時間という資源を投入するべきだというアイデアが提示されています。シュワブはまさに『高原社会の高度をこれ以上高めようとするのではなく、この高原社会を、私たちにとってより幸福なものにする方向へ転換しよう』と呼びかけているのです。ここに『新しい人間観・社会観』が求められることになります」と述べています。



近代から続いている上昇の放物線の慣性のうちにあって、無限の成長が続くということを当たり前の前提として考えている人たちにとって、成長の完了した「高原状態」の社会は、刺激のない、停滞した、魅力のない世界のように感じられるかもしれないとして、著者は「ここに、私たちが向き合わなければならない本質的な課題があります。真に問題なのは『経済成長しない』ということではなく『経済以外の何を成長させれば良いのかわからない』という社会構想力の貧しさであり、さらに言えば『経済成長しない状態を豊かに生きることができない』という私たちの心の貧しさなのです」と述べていますが、これはまさに拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)のメッセージでもあります。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

第二章「私たちはどこへ向かうのか?」の「『経済性から人間性』への転換」では、『心ゆたかな社会』に通じるメッセージがさらに展開されていきます。「高原への軟着陸」というフェーズにさしかかったわたしたちの社会は、これからどちらの方向へ向かうべきなのか。著者は、「便利で快適な世界」を「生きるに値する世界」へと変えていくと示し「これを別の言葉で表現すれば『経済性に根ざして動く社会』から『人間性に根ざして動く社会』へと転換させる、ということになります。私たちがこれから迎える高原社会を、柔和で、友愛と労りに満ちた、瑞々しい、感性豊かなものにしていくためには、この『経済性から人間性』への転換がどうしても必要になります」と述べています。そして、これを実現するために必要なのは、ここ100年のあいだ、私たちの社会を苛み続けてきた3つの強迫、すなわち「文明のために自然を犠牲にしても仕方がない」という文明主義、「未来のためにいまを犠牲にしても仕方がない」という未来主義、「成長のために人間性を犠牲にしても仕方がない」という成長主義からの脱却が必要になるといいます。

 

人間の大地 (光文社古典新訳文庫)
 

 

「『人間の条件』とは何か」では、フランスの文学者で飛行家でもあったアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが著書『人間の大地』の中で述べた「人間であるということは、まさに責任を持つことだ。おのれにかかわりないと思われていたある悲惨さをまえにして、恥を知るということだ。仲間がもたらした勝利を誇らしく思うことだ。おのれの石を据えながら、世界の建設に奉仕していると感じることだ」という言葉が紹介されます。サン=テグジュペリは「人間の条件」として「おのれにかかわりないと思われていたある悲惨さをまえにして、恥を知る」ということをあげています。著者は、「もし私たちが『経済合理性』を理由にして、社会に残存する格差や貧困や虐待といった『悲惨さ』を放置せざるを得ないのだとすれば、もはや私たちは人間性を備えた存在=ヒューマンビーイングたり得ないと言っているのです。今日の日本の社会が抱えている悲惨さを思い返せば、実に耳の痛い指摘です」と述べます。

 

マネジメント[エッセンシャル版]
 

 

「人為的に問題を生み出す体系=マーケティング」では、経営思想家のピーター・ドラッカーが、企業の目的は1つしかなく、それは「顧客の創造」であるとした上で、さらにその活動は「マーケティング」と「イノベーション」の2つに支えられると言い切ったことが紹介されます。著者は、これを「問題の開発」と「問題の解消」という枠組みで考えてみれば、実は同じことを言っているということがわかるとして、「『問題の開発』がマーケティングであり『問題の解消』がイノベーションだということです。マーケティングという用語自体は20世紀の初頭で生まれていますが、今日の私たちが用いているのと同様の概念として定着したのは、1960~70年代のこと」と述べます。

 

 

今日でもビジネススクールマーケティング科目の定番教科書として用いられているフィリップ・コトラーの『マーケティング・マネジメント』の初版がアメリカで出版されたのは1967年だと紹介し、著者は「この1967年という年に不思議な符号を感じないわけにはいきません。放っておいても社会が次から次へと『解いてほしい問題』を投げかけてくれているのであれば、マーケティングは必要ありません。マーケティングが体系的なスキルとして社会に求められるようになった、ということは、事業者みずからが問題を開発しなければ、新しい欲求を生み出すことができなくなったことの証左でもあるのです」と述べます。



「道徳か好景気か」では、具体的に、どのようにすれば「需要の飽和」を先送りできるのか? 著者は、1970年代において、広告代理店の電通マーケティング戦略立案のために用いられていた「戦略十訓」の内容を以下のように紹介します。

 1.もっと使わせろ
 2.捨てさせろ
 3.無駄使いさせろ
 4.季節を忘れさせろ
 5.贈り物をさせろ
 6.組み合わせで買わせろ
 7.きっかけを投じろ
 8.流行遅れにさせろ
 9.気安く買わせろ
10.混乱をつくり出せ

「戦略十訓」を紹介した後、著者は「たしかに、これらのことができれば「需要の飽和」は先送りにできるかもしれません。しかしおそらく、このリストを一読した人のほとんどは、内容に強い違和感を、あるいはもっと率直に言えば不快感を覚えたと思います。資源・環境・ゴミ・汚染といった問題が全地球的に議論されている現代の私たちから見れば、こういった意図をもって需要を誘起するのはあまりにも非倫理的だと思うかもしれません」と述べます。



「『欺瞞』の限界について」では、大規模な災害や戦争の後にはGDPが増大することが紹介されます。大きな破壊が起きるとその破壊を埋め合わせるための大規模な生産が必ず後で発生するからですが、著者は「これはつまり、経済成長というのはそもそも、その前提として破壊という営みを必要としているということですが、だからといって経済成長のために戦争を起こそう、災害を祈ろうということにはなっていません。なぜか? それがあまりにも非倫理的だということが誰にとっても明らかだからです。なので『破壊』という言葉を、当たり障りのない『別の言葉』に置き換えて、これを促進させることで経済を活性化させようということが、一種のまやかしとして行われることになります。この『別の言葉』が『消費』です。『消費』とはすなわち『廃棄してスクラップにする』ことですから『破壊』と同義なのです。そして、この『消費と呼ばれる破壊』を促進させるための知識・技術の体系が『マーケティング』なのであるとすれば、この活動が潜在的にいかに大きな問題に接続されかねない『倫理的にギリギリの活動』なのかが理解できると思います」と述べています。 

 

生きのびるためのデザイン

生きのびるためのデザイン

 

 

社会におけるデザインの役割と責任について活発な提言を行ったオーストリアのデザイナー、ヴィクター・パパネックは著書『生きのびるためのデザイン』で、「多くの職業のうちには、インダストリアル・デザインよりも有害なものも有るには有るが、その数は非常に少ない。たぶん、たった1つの職業がいっそうといかがわしいものだといえよう。広告デザインがそれである。多くの人を説き伏せて、手元に金がありもしないのに、もっぱら人目を引きたいという理由から要りもしない品物を買ってしまうように誘惑する職業などというものは、おそらくいまの世の中に或る職業のうちで最もいかがわしいものだといえるだろう。そして宣伝・広告人の広めるあくどい白痴的な考えを商品へとでっちあげるインダストリアル・デザインは、すぐにその次にならぶものだろう」と述べています。このパパネックの言葉について、著者は「非常に辛辣な指摘ですが、これを広告・マーケティング関係者のみに向けられた批判と捉えてしまったらパパネックの本意を読み誤ることになります。ドラッカーが指摘している通り、企業活動のエッセンスが『マーケティング』にある以上、パパネックが指摘する原罪性から逃れられるビジネスパーソンはいません」と述べます。

 

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 

 

このような経済のあり方はポトラッチを想起させる状況であるという著者は、「ポトラッチという『ゲーム』の勝者の末路」では、以下のように述べています。
「ポトラッチとは、文化人類学者のマルセル・モースが1925年に著した『贈与論』において紹介した、主にアメリカ先住民のあいだに見られる一種の儀式です。この儀式において、部族の酋長たちは『どちらがより多くの財産を蕩尽できるか』を競うことでお互いの立場の優劣を決めます。つまりポトラッチというのは、より気前よく、より大胆に財産をばら撒き、破壊した方が勝つという『ゲーム』なのです」



現代の文明世界におけるポトラッチがどのようなものか、なかなか想像できないかもしれませんが、著者いわく、映画には、このような「異常蕩尽」がしばしば印象的なシーンとして描かれています。著者は、「たとえばかつてはロバート・レッドフォードが主演し、近年、レオナルド・ディカプリオの主演によってリメイクされた『The Great Gatsby』の冒頭のパーティーシーンは、これこそ文明社会におけるポトラッチだ、と思わせるものですし、同じくレオナルド・ディカプリオの主演になる『The Wolf of Wall Stree』には、ウォール街で大成功した実在の投資銀行家、ジョーダン・ベルフォードのまさにポトラッチ的で破茶滅茶なライフスタイルを描き、それがあまりにも倫理的に常軌を逸したものだったので日本ではいわゆる『18禁』になってしまいました」と述べています。

 

 

また、「『必要』と『奢侈』のあいだの答え」では、ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』に言及した著者は、ゾンバルトの「奢侈には二種類ある」という指摘を取り上げ、「あらためて抜粋を引けば『壮麗な聖堂を黄金で飾って神に捧げる』のと『自分のためにシルクのシャツをオーダーする』のはどちらもともに『贅沢』には違いないが、両者には「天と地の差があることがただちに感ぜられるだろう」という指摘です。この2つの『消費行動』に私たちが感じる『天と地の差』は何に由来しているのでしょうか。ここでは2つの点を指摘したいと思います。それは『他者性』と『時間軸』です。『シルクのシャツ』が純粋に自己満足・自己顕示という『閉じた目的』に向けた消費である一方、『壮麗な聖堂』は自己だけに閉じることのない他者の救済という『開かれた目的』に向けた建設であるということです。そして『シルクのシャツ』が極めて短期間のあいだに、文字通り『消費』されてしまうのに対して、『壮麗な聖堂』は事実上、無限といっていいほどの長い時間にわたって、多くの人に『高い次元の悦び』を与えてくれます」と述べています。

 

 

このような喜びを、思想家ジョルジュ・バタイユは「至高性」と呼びました。「『至高体験』を味わえるかどうか」では、これらの欲求は人間性そのもの=ヒューマニティに根ざすもので、その衝動こそが人間を人間ならしめていると指摘し、著者は「しかし、こういった欲求が『実生活で必要なものか』と問われれば、それは『否』ということになります。一方で、これらの欲求が『奢侈』に接続されるかと問われれば、それもまた『否』ということになります。つまり、こういった『人生を生きるに価するもの』に変えてくれる重大な欲求が、ゾンバルトの指摘にも、ヴェブレンの指摘にも、ケインズの指摘にも含まれていないのです」と述べるのでした。ちなみに、拙著『儀式論』(弘文堂)でもバタイユの「至高性」について詳しく書きましたが、ここで著者が言う「『人生を生きるに価するもの』に変えてくれる重大な欲求」をわたしは「礼欲」と呼んでいます。礼とは神につながることであり、人と人が交流することでもあります。ポトラッチそのものが儀式的ですが、儀式とは究極の消費と言えます。

 

儀式論

儀式論

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2016/11/08
  • メディア: 単行本
 

 

インストルメンタルとコンサマトリー」では、著者は「私たち人間が『生の充実』をもっとも強く感じるのが『人間性に根ざした衝動』を解放した時なのだとすれば、すでに十分な文明化を果たした私たちの「高原社会」において、人々が、本質的な意味でより豊かに、瑞々しく、それぞれの個性を発揮して生きていくためには、各人の個性に根ざした衝動を解放しなくてはなりません。しかし、現在の社会では、このような『人間を人間ならしめる』衝動的欲求の多くが未達になっており、そしてより重大なことに、その『未達になっていること自体』にあまりにも多くの人々が無自覚です」と述べます。市場が「未達の欲求」があるところに生まれるのであれば、これまでの経済とは異なる位相の広大な市場が、潜在的には生まれることになります。著者は、まさにいま「高原」へと至りつつある社会において、このような「人間的衝動」に根ざした欲求の充足こそが、経済と人間性、エコノミーとヒューマニティの両立を可能にする、唯一の道筋なのではないかと考えていると告白します。この著者の考え方に、わたしは大いに賛同します。


第三章「私たちは何をするのか?」の「高原のコンサマトリー経済」では、わたしたちの社会は、200年にわたって続いた熾烈な文明化の競争、効率化への強迫から、ついに解放され、さらなる上昇を求められることのない穏やかな高原社会に到達したと指摘し、著者は「このような高原社会において、かつて私たちが経験したような高成長を志向すれば、それは必然的に非倫理的な領域への侵犯を伴うことになってしまいます。このような社会において、私たちの経済活動は、文明的な便利さを向上させることから、文化的な豊かさを向上させることへと転換し、経済活動と社会の豊かさの増進を同調させていくことが求められます」と述べています。



「イニシアチブ1:真にやりたいコトを見つけ、取り組む」では、あたかもアーティストやダンサーが、衝動に突き動かされるようにして作品制作に携わるのと同じように、私たちもまた経済活動に携わろうということを提案し、「20世紀後半に活躍したドイツの現代アーティスト、ヨーゼフ・ボイスは『社会彫刻』という概念を唱え、あらゆる人々はみずからの創造性によって社会の問題を解決し、幸福の形成に寄与するアーティストである、と提唱しました。世のなかには『アーティスト』という変わった人種と、『アーティスト以外』の普通な人種がいる、というのが一般的な認識でしょう。しかし、そのような考え方は不健全だ、とボイスは言っているのです」と述べます。



この「アートとビジネスの近接」は多くの場合、「ビジネス文脈にアートを取り込む=Art in Business Context」か、またはその逆に「アート文脈にビジネスを取り込む=Business in Art Context」という議論がほとんどで、「ビジネスとアートをまったく別のモノとして捉えている」という点で共通していると指摘し、著者は「このような枠組みを前提にした取り組みを続けている限り、アートはやがて、かつてもてはやされ、やがて弊履を捨てるようにして忘れ去られた数多くの経営理論やメソッドと同じように、ビジネス文脈での流行スキルの1つとして消費されて終わることになるだけだと思います」と述べます。



「根本的にそれは違うだろう」と思う著者は、「本質的に、いま私たちに求められているのは、ビジネスそのものをアートプロジェクトとして捉えるという考え方、つまり『Business as Art』という考え方だと思います。文明化があまねく行き渡り、すでに物質的な問題が解消された高原の社会において、新しい価値をもつことになるのは、私たちの社会を『生きるに値するものに変えていく』ということのはずです。そして、そのような営みの代表がアートであり文化創造であると考えれば、これからの高原社会におけるビジネスはすべからく、私たちの社会をより豊かなものにするために、各人がイニシアチブをとって始めたアートプロジェクトのようにならなくてはいけないと思うのです」と述べます。



「衝動で駆動するソーシャルイノベーション」では、「凍てつく真冬の夜に、屋台のラーメン食べたさに子供を連れて長い列に震えながら並ぶ人たちを見て『自宅で気軽に美味しいラーメンを食べさせてあげたい』と感じた安藤百福」や「ゼロックスパロアルト研究所で『コンピューターの未来』を示唆するデモンストレーションに接して『これは革命だ!このスゴさがわからないのか!』と叫び続けたスティーブ・ジョブズ」などを例として取り上げ、著者は「このような『経済合理性を超えた衝動』は、アーティストの活動においてしばしば見られるものですが、同様の心性がアントレプレナーにもしばしば観察されるのです。現在、ビジネスの文脈においてしばしば議論の俎上に上る、いわゆる『アート思考』とビジネスとの結節点はここにあります。高原社会において、必ずしも経済合理性が担保されていない『残存した問題』を解決するためには、アーティストと同様の心性がビジネスパーソンにも求められる、ということです。



「文明的価値から文化的価値へ」では、価値創出の転換の成功事例として、あらためて参照したい人物として、著者は我が国の武将である織田信長を取り上げます。織田信長はおそらく、日本の戦国時代がいつまでも終わらない本質的な理由について気づいた、歴史上最初の人物であるとして、「戦国時代において、武将の格を決めるもっとも重要な指標は『石高』ですが、これは要するに『保有している耕作地の大きさ』のことを指します。なぜ、耕作地の広さが問題になるかというと、当時の経済規模は耕作地の面積にほぼ比例したからです。信長はこの点を治世上の問題として考えました。どういうことでしょうか。日本は島国で国土を容易に拡大することができない上、その国土の9割は山岳や丘陵地帯で耕作に適した平地は1割程度しかありません。つまり『耕作地の広さ』をめぐって争うと必ず『誰かが得をすれば必ず誰かが損をする』というゼロサムゲームにならざるを得ないのです。これが、信長だけが気づいた『戦国時代がいつまでも終わらない本質的な理由』でした」と述べています。



信長は、自分が仮に天下を統一することになったとしても、この問題から逃れることはできないということに気づいていたとして、著者は「自分の部下である武将が勲功をあげたとして、彼に領地を与えようとすれば、それは必ず、他の武将もしくは自分の領地が減ることを意味したからです。このような状況では安定的な統治など望むべくもありません。最終的に、信長はこの問題をきわめて鮮やかに解いてしまいます。いったいとうやって? 『茶道によって』です。信長は自身が茶道を嗜み、茶器などの茶道具を山や城と交換することで、巨大な価値空間を創出することに成功したのです。一種の貨幣を生み出したといっても良いでしょう」と述べます。



「消費されていないという『価値』」では、すでに需要・空間・人口という3つの有限性を抱えている世界において、大きな経済的価値を創出しようとすれば、それは「文化的価値」という方向をおいて他にないとして、著者は「文明化がすでに終了した世界にあって、これ以上の過剰な文明化が富を生み出すことはありません。一方で『文化的価値の創出』についてはその限りではありません。意味的価値には有限性がありませんから、無限の価値を生み出すことがこれからも可能です。そしてその価値は資源や環境といった有限性の問題から切り離されているのです。文明化の終了した世界にあって、人々が人生に求めるのはコンサマトリーな喜びであり文化的豊かさであると考えれば、これからの価値創出は『文明的な豊かさ』から『文化的な豊かさ』へとシフトせざるを得なくなります」と述べています。

 

「労働+報酬=活動」では、「畑仕事」といえばそれは「労働」になりますが、同じ行為を「ガーデニング」といえば「遊び」になるとして、著者は「これは魚釣りも狩猟も同じで、過去の社会においてど真ん中の『労働』であったものが、今日の社会において優雅な『遊び』に転じているわけです。一方でその逆に、かつて貴族にしかできない『余暇』の過ごし方だった、研究、創作、執筆、ガーデニング、スポーツといった活動のほとんどは、今日の社会において、何からの経済的価値を生み出す『労働』として認められるようになっています」と述べています。

 

ニュータイプの時代

ニュータイプの時代

 

 

「遊びと労働が一体化」では、遊びと労働が一体化するコンサマトリーな経済はすでに社会の一部には顕現していると指摘し、「これは前著『ニュータイプの時代』でも指摘したことですが、今日の社会において、最前線で活躍している人ほど『遊びと仕事』の境界が曖昧になっています。これはもちろん『遊びがお金を生んでいる』という意味でもあるのですが、それ以上に『仕事そのものが報酬となってその場で効用として回収されている』ということでもあるのです。労働と報酬が一体化すれば、労働そのものの概念が変わることになります。おそらく、これは人類史における革命的な転換となるでしょう」と述べます。

 

 

「昔話と『重要な忠告』の共通項」では、第2次世界大戦時に日本に滞在して諜報活動を指揮したソ連共産党のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは日本への赴任が決まった際、真っ先に「日本の神話」を収集し、これを読み込むことで日本人の精神構造を理解しようとしたことを紹介し、著者は「イギリス大使のパークスなども同様のことを行っていますが、スパイ活動や外交交渉などのような、手続き上のルールだけに従っていてもコトが進まないような『一筋縄ではいかない』仕事に取り組む場合、相手の精神性を深いところまで理解するためのよすがとして、彼らはその国の文化が営々として築き上げてきた神話に頼るわけです」と述べています。



「生産者と消費者の顔の見える関係づくり」では、生産者と消費者が顔の見える関係にあれば、生産者は、自分の生み出したモノ・コトによって喜ぶ消費者を見て、喜びを感じるとして、著者は「しかし、それだけではありません。実はこの時同時に、喜ぶ生産者を見ることはまた、消費者にとっての喜びでもあるからです。そしてそのような関係性にある生産者と消費者を見ることは、枠外にいる他者にとってもまた喜びでしょう。喜びがエコーのように反射していくのです。現在の分断社会において、このような関係性がもっともわかりやすく成立しているのがレストランと常連客の関係です。シェフにとって、自分の労働から得られる最大の喜びは、支払われる代金などではなく、テーブルで顧客が交わす『美味しい!』という声であり、花のように咲く笑顔でしょう。そしてまた常連客にとっては『美味しい!』と伝えた時に見られるシェフが見せる喜びがまた、同時に自分にとっての消費の喜びとなっているのです。最終的にはもちろん、顧客は代金を支払ってその場の取引を閉じるわけですが、そこで支払われている代金は『等価交換によって関係をチャラにする』というよりは、むしろ『感謝のしるし』として、あるいはもっといえば多分に『贈与』のニュアンスを含んだものになります」と述べています。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

  • 作者:一条真也
  • 発売日: 2017/12/25
  • メディア: 文庫
 

 

また、「『責任ある消費』と『贈与』の関係」では、わたしたちの存在は「死者」と「自然」から贈与されているとして、著者は「贈与されたモノは贈与し返さないといけません。私たちもまたいずれ『死者』あるいは『自然』として未来に生きる私たちの子孫に対して贈与する義務を負っているからです。つまり、私のいう『責任消費』というのは、贈与された私たちの存在を未来の子孫に対して贈与し返しましょう、ということなのです。しかし、多くの人々は、私たちが『贈与された』ということを忘れてしまいがちです」と述べています。これは、まさに拙著『唯葬論』(サンガ文庫)で展開したメッセージと同じです。

 

ハートフル・ソサエティ: 人は、かならず「心」に向かう

ハートフル・ソサエティ: 人は、かならず「心」に向かう

  • 作者:一条真也
  • 発売日: 2019/03/01
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

「『消費』や『購買』は、より『贈与』や『応援』に近い活動へ」では、これからやってくる高原社会では労働と創造が一体化していくことになるとして、著者は「そのような社会においてはまた同時に、これまでの『消費』や『購買』は、より『贈与』や『応援』に近い活動になっていくことでしょう。そのような社会にあって『被贈与の感覚』を守り、育んでいくことは非常に重要です。しかし、このような指摘に対して『贈与が大事だということはわかったけれども、では具体的にどのようにすれば良いのか?』と思う人もいるかもしれません。なに、難しく考える必要はありません。大事なことは一点だけ、それはできるだけ『応援したい相手にお金を払う』ということを心がけるということです」と述べています。これを読むと、著者の言う「高原社会」とは、わたしの言う「ハートフル・ソサエティ」に限りなく近いことがよくわかります。

 

「『責任ある消費』で市場原理をハックする」では、わたしたちは日常生活の中で、特に意識することもなく、モノやサービスを購入するわけですが、この購入は一種の選挙として機能し、購入する人が意識することなく、どのようなモノやコトが、次の世代に譲り渡されていくかを決定することになることを指摘し、著者は「私たちが、単に『安いから』とか『便利だから』ということでお金を払い続ければ、やがて社会は『安い』『便利』というだけでしかないものによって埋め尽くされてしまうでしょう。もしあなたがそのような社会を望まないのだとすれば、まずは自分の経済活動から考え直さなければなりません。だからこそ、『責任ある消費』という考えが重要になってくるのです。なぜ『責任』なのかというと、私たちの消費活動によって、どのような組織や事業が次世代へと譲り渡されていくか、が決まってしまうからです。私たちが、自分たちの消費活動になんらの社会的責任を意識せず、費用対効果の最大化ばかりを考えれば、社会の多様性は失われ、もっとも効率的に『役に立つモノ』を提供する事業者が社会に残るでしょう」と述べています。


「おわりに 資本主義社会のハッカーたちへ」では、著者は「世界に満ちている不合理や不条理に憤っていて、それを変えたいと思いながらも、巨大な敵を前にしてどのように行動を起こしたらいいか、考えあぐねている人たち」に、「資本主義のハッカー」となることを提案し、「私たちが依拠している社会システムを外側からハンマーでぶっ壊すのではなく、静かにシステム内部に侵入しながら、システムそのものの振る舞いをやがて変えてしまうような働きをする静かな革命家たち。これから世界のさまざま箇所で、このような思考様式・行動様式をもった人々の台頭を私たちは目にすることになるでしょう。彼らこそ、21世紀の社会変革を主導する『資本主義社会のハッカー』です」と述べるのでした。

 

ミッショナリー・カンパニー

ミッショナリー・カンパニー

 

 

名著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』のときもそうでしたが、本書を読み終えて、わたしは「こんなにも同じ考えの人がいるのか?」と驚くほど、著者との思想の共通性を痛感しました。エコノミーにヒューマニティを取り戻すことは、「礼経一致」を掲げるわが社のミッションだと思っているからです。そして、本書に書かれているビジョンが今後の社会を的確に予見していることを確信しました。ゆえに、わが社の経営における認識基準や意思決定は間違っていないことを再確認し、非常に心強く思いました。

 

 

2021年4月8日 一条真也

感染者555人の東京から金沢へ!

一条真也です。
7日の午前中いっぱい、紀尾井町のホテルのラウンジで「出版寅さん」こと内海準二さんと打合せをしました。次回作である『心ゆたかな読書』について項目や装丁を詰めました。「サンデー新聞」に連載中の「ハートフル・ブックス」で取り上げた本のうち、珠玉の150冊を紹介するブックガイドです。7月刊行予定。お楽しみに!

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f:id:shins2m:20210407120006j:plain東京駅丸の内口エントランスにて

 

打合せを終えると、わたしはホテルをチェックアウトして東京駅に向かいました。東京駅の丸の内口に到着すると、北陸新幹線の乗り場へ。今日は、久しぶりにピンクの不織布マスクを着けました。九州や東京では桜は散ってしまいましたが、これから向かう金沢は兼六園をはじめ、まだ咲いているという情報を得たからです。思えば、今年の桜は早く咲いて、早く散ってしまいました。

f:id:shins2m:20210407165321j:plain北陸新幹線はくたか563号を背景に

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車内は貸し切り状態でした

 

それにつけても、首都圏の緊急事態宣言解除を花見シーズンに行ったことは大失敗だったと思います。案の定、解除後、感染者が目に見えて増えてきました。今日の東京の感染者は2度目の宣言解除後最多となる555人でした。大阪はなんと過去最多の878人で、大阪府全域で聖火リレーの中止が決まったそうです。ちなみに、これから向かう金沢市の今日の感染者は16人です。

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車内のようす

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車内サービスの弁当を食べました

 

わたしは、12時24分発の北陸新幹線はくたか563号に乗車しました。この日は久々にサービス再開したグランクラスに乗車しましたが、乗客は終点の金沢までわたし1人だけでした。貸し切り状態です。昼時だったので、車内サービスで出された小さなお弁当をいただきました。

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食後は読書をしました 

論語―心の鏡 (書物誕生-あたらしい古典入門)

論語―心の鏡 (書物誕生-あたらしい古典入門)

  • 作者:橋本 秀美
  • 発売日: 2009/09/29
  • メディア: 単行本
 

 

食事を終えると、いつものように読書をしました。今日は、『『論語』 心の鏡』橋本秀美著(岩波書店)を読みました。5月の連休明けに我が国の儒教研究の第一人者である加地伸行先生(大阪大学名誉教授)と「礼」について対談させていただくことになったので、これから『論語』や儒教に関する資料を読み込みます。同書は岩波の「書物誕生 あたらしい古典入門」シリーズの1冊ですが、名著の声が高いにもかかわらず品切れ状態が続き、古書価が高騰している本です。『論語』を長い歴史の中からどのように中国当地の世代、世代の人たちが当時の社会背景の中での価値観で、その意味を理解しようと努めていたことが詳しく書かれています。非常に面白く、勉強になりました。

f:id:shins2m:20210407141338j:plain車窓からの眺め

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車窓からの眺め

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グランクラスのデッキで

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金沢駅に到着しました

 

目が読書に疲れると、車窓から外の風景を眺めました。長野や黒部のあたりはまだ雪が積もっていました。富山のあたりから雪は消えて、のどかな景色が広がっていました。金沢駅に到着したのは、15時20分でした。金沢は気温13度でしたが、けっこう寒く感じました。兼六園の桜は、辛うじてまだ咲いているそうです。駅のホームには、サンレー北陸のマリエール小松の伊藤支配人、改札口には東専務が迎えに来てくれました。明日は、北陸本部会議に参加してから、福岡に戻ります。

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JR金沢駅前で

 

2021年4月7日 一条真也

「テスラ エジソンが恐れた天才」  

一条真也です。
東京に来ています。6日午前中の打ち合わせで、コロナ時代の所作・ふるまいの本の監修をすることが決定。10月に刊行予定です。その他にも打合せがありましたが、その合間に、ヒューマントラストシネマ有楽町で、映画「テスラ エジソンが恐れた天才」を観ました。ニコラ・テスラには非常に興味を抱いていましたが、映画は画面は暗いし、内容はわかりにくいしで、眠たくなりました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「19世紀から20世紀にかけて活躍した発明家ニコラ・テスラの伝記ドラマ。世界的な偉人と評価される一方で孤独だった彼の人生が描かれる。メガホンを取るのは、『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』などのマイケル・アルメレイダ。『ストックホルム・ケース』『スリー・ジャスティス 孤高のアウトロー』などのイーサン・ホーク、『ツイン・ピークス』シリーズや『カポネ』などのカイル・マクラクランらが出演する」 

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1884年にアメリカに渡り、憧れていた発明家トーマス・エジソンカイル・マクラクラン)のもとで働くニコラ・テスライーサン・ホーク)。しかし、交流電流を支持していた彼は、直流電流の方が優れているとするエジソンと対立して決別する。独立した彼は実業家ウェスティングハウスと手を結び、シカゴ万国博覧会で交流電流の優位性を証明して電流をめぐるエジソンとの戦いに勝利。やがて大財閥J・P・モルガンの娘と接するようになり、モルガンの資金を得て無線の実現にチャレンジする」

 

ニコラ・テスラ(1856年7月10日―1943年1月7日)とは、いかなる人物か? 最近までオカルト界の住人のように思われていた彼は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家です。Wikipedia「二コラ・テスラ」には、「グラーツ工科大学で学んだあと1881年にブダペストの電信(電話)会社に入社し技師として勤務。1884年にアメリカに渡りエジソンのもとで働くが1年後独立」と書かれています。


また、「1887年にTesla Electric Light and Manufacturingを設立。新型の交流電動機を開発・製作、1891年にはテスラ変圧器(テスラコイル。変圧器の一種だが、きわめて高い電圧を発生させるもので空中放電の(派手な)デモンストレーションの印象で今にいたるまで広く知られているもの)を発明。また回転界磁型の電動機から発電機を作り上げ、1895年にはそれらの発明をナイアガラの滝発電所からの送電に応用し高電圧を発生させ効率の高い電力輸送を実現させた。(通常の発明家と言うよりは)『天才肌の発明家』である。交流電気方式、無線操縦、蛍光灯などといった現在も使われている技術も多く、また『世界システム』なる全地球的送電システムなどの壮大な構想も提唱した」とも書かれています。


さらには、「電気や電磁波を用いる技術(テクノロジー)の歴史を語る上で重要な人物であり、磁束密度の単位「テスラ」にもその名を残しており、LIFE誌が1999年に選んだ『この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人』に選ばれている。テスラが遺した技術開発にまつわる資料類はユネスコの記憶遺産にも登録されている。8つの言語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通。電流戦争ではテスラ側の陣営とエジソン側の陣営はライバル関係となり、結局、テスラ側が勝利した」とあります。


数々の発明を生み出し、それなりに輝かしい時期もあったテスラの生涯ですが、この映画ではテスラの光の部分には焦点を当てず、ひたすら闇の部分ばかり取り上げた印象があります。実験に失敗して多額の負債を背負い、モーガンなどの富豪に資金援助の依頼ばかりしているような情けない発明家として描かれ、とにかく暗い映画でした。画面も暗いですが、その上に停電のシーンまであるので、さらに暗かったです。ラスト近くでテスラが歌うシーンも意味不明で、もしかしたらこの歌の歌詞に重要なメッセージが込められているのかもしれませんが、これまた暗い歌で、聴いていてやりきれない気分になりました。


主人公のテスラは、ブログ「6才のボクが大人になるまで」で紹介した映画などで知られる俳優イーサン・ホークが演じています。ホークの演技も悪くはないのですが、「テスラのイメージとは、ちょっと違うな」と思いました。ホークは身長179センチですが、実際のテスラは188センチありました。体重は64キロの細身であり、ハンサムだったこともあって女性から非常にモテたそうです。生涯独身でした。そんなテスラを演じたホークといえば、1998年に「ガタカ」で共演したユマ・サーマンと結婚。同年に長女が、2002年に長男が誕生。しかし、2004年に自身の浮気が原因で離婚しています。2008年に子供たちの子守だった女性と結婚。その後、2人の女児が生まれています。


一方、エジソンを演じたのはカイル・マクラクランですが、こちらはけっこう似ていました。マクラクランといえば、デヴィッド・リンチのTVドラマ「ツイン・ピークス」でのFBIフィラデルフィア支局のデイル・バーソロミュー・クーパー捜査官の役が有名です。オールバックの黒髪に黒一色のスーツという、隙のない出で立ちが特徴でした。独身であるものの、左手の小指に金色の指輪を着けていました。クーパー捜査官といえば大の甘党で、チェリー・パイをよく食べていました。この「テスラ エジソンが恐れた天才」でも、エジソン役のマクラクランがパイを食べるシーンがありました。思わずニヤリとした人も多かったと思いますが、これは「ツイン・ピークス」を愛するファンへのサービスでしょうね。きっと。


さて、ニコラ・テスラはIQ240の大天才でした。
彼の名は、電気とエネルギーに関する研究で有名です。偉大な業績を収めた彼は、長距離の送電を可能にしました。また、無線通信やエネルギー伝達についての研究で知られています。主な業績だけを列挙しても、交流発電・送電技術、蛍光灯、現在のドローンに相当する無線操縦できる垂直離着陸機技術などを発明し、800以上の特許を取得しています。さらに無線通信も発明していたことが後で判明しました。無線通信というとイタリア人のグリエルモ・マルコーニが発明したとされていますが、テスラはそれ以前に無線装置の基本回路を開発して特許を取得しており、アメリカの最高裁判所はテスラの特許がマルコーニの特許を無効にすると認めています。


こんな大天才だったテスラですが、彼が5歳のときに大好きだった兄を12歳で亡くしました。その兄は、テスラよりもずっと才能があったというのですから、すごいですね。幼くして最愛の兄を亡くしたテスラは、生涯その悲嘆を抱えて生きたといいます。彼の発明の背後には兄という死者の存在があったのかもしれません。また、彼にとっては発明に打ち込むことがグリーフケアになっていたようにも思います。ライバルのエジソンといえば、「霊界ラジオ」の発明を企んだことで知られていますが、テスラも発明によって霊界の兄との交信を望んでいたように思います。おそらくは、無線通信という技術の先には死者と会話する「霊界通信」の構想があったと噂されています。


その他にも、テスラをめぐっては、人工地震発生装置とか、「フィラデルフィア実験」として有名な駆逐艦のステルス実験(テスラ・コイルによって、駆逐艦がレーダーに映らないように透明化する実験)などの都市伝説が流布しており、オカルト関連の話題には事欠きません。最近では、グーグルの創業者であるラリー・ペイジが少年時代にテスラの伝記を読み、借金を抱えて人知れず亡くなる結末に涙したことが知られています。ペイジは、世界を変える技術を生み出すだけではなく、それを広める方法に気付くビジネスセンスを得ようと考えるようになったそうで、「発明するだけでは駄目だと分かった。何としてもそれを世に送り出し、人に使わせ、何らかの成果を生まなければならない」と語っています。また、イーロン・マスクのEV(電気自動車)メーカー「テスラ」の社名は、ニコラ・テスラにちなんでつけられたもの。マスクはニコラ・テスラの信奉者として知られています。

f:id:shins2m:20210409114920j:plainグーグル検索結果より

 

「テスラ エジソンが恐れた天才」には、狂言回しのような女性が登場し、登場人物などについての説明を行っています。面白いのは、最初のその人物のグーグルでの検索結果を紹介することです。たとえば、「エジソンの検索ヒット数は約6000万件。テスラの検索ヒット数は約3000万件で、両者の間には2倍の差があります」といった具合です。ウェスティングハウスとかモルガンなどの事業家について説明するときも、最初に検索ヒット数を紹介します。なんだかグーグルの検索ヒット数がその人物の評価を定めているようで不思議な感覚でしたが、もしかしたらテスラから学びを得たグーグル創業者のラリー・ペイジへのサービスかもしれません。わたしは基本的にエゴサーチというものをしないのですが、上映終了後に「一条真也」でグーグル検索してみたら、ちょうど80万件がヒット。「へえ、こんなにあるの?」と、ちょっと意外でした。

f:id:shins2m:20210406225302j:plain心ゆたかな社会』(現代書林) 

 

テスラの発明は、主に電気に関するものが多いです。
電気について、わたしは『心ゆたかな社会』(現代書林)の「超人化のテクノロジー」で、「人類史上最大・最高の発明とは何か」という問いを立てました。石器・文字・鉄・紙・印刷術・拡大鏡・テレビ・コンピュータといった大物の名が次々に頭のなかに浮かびます。なかには動物の家畜化、野生植物の栽培植物化といった答もあるでしょうし、都市、水道、民主主義、税金、さらには音楽や宗教といった答もあるでしょう。その答は、人それぞれです。しかし、現代のわたしたちの社会や生活に最も多大な影響を与えているという意味において、人類最大の発明は電気であるとわたしは思います。


そう、人類最大の発明すなわち「最大の魔法」とは、電気なのです。より正確に言うなら、電気の実用化です。たしかにコンピュータは人類史上においてもトップクラスの大発明でしょう。しかし、テクノロジーの歴史の研究者が決ってもちだす効果的な質問は「ある1つのものが開発されるには、何を知る必要があったか」というものです。たとえば、シリコンチップの発明がなかったなら、現在あるようなパワーと順応性ともったデスクトップ・コンピュータ、さらにはノート型パソコンは生まれなかったはず。次々とあらわれるテクノロジーをこうした姿勢で見ていけば、必要とされる技術が扇状に拡がることになります。


これをイギリスの行動生物学者パトリック・ベイトソンは、歴史家が時代をさかのぼるにつれて、どんどん分岐していく木の根であると表現しています。根によっては、疑いもなく他より重要なもの、明らかに他より多くの可能性を与えるものがあります。ちなみにベイトソンも、過去の2000年で最大の発明として「電気の実用化」をあげています。コンピュータにはもちろん電気が必要ですし、わたしたちの生活に欠かせないもの、スマホやエアコンや蛍光灯などの恩恵を受けられるのも電気のおかげです。さらには、飛行機・電話・映画・テレビといった大発明はすべて電気なくしては開発もありえなかったのです。それらの発明は、多くの人々にとって「魔法」に他なりませんでした。その意味で、エジソンとテスラの「電流戦争」とは世界の命運を握る「魔法戦争」でもありました。テスラとは史上最大の魔法使いであったと言えますが、そう考えると、「テスラ エジソンが恐れた天才」に登場する陰気な歌も、なんだか魔法の呪文のように思えてきます。

 

2021年4月7日 一条真也

『人新世の「資本論」』

人新世の「資本論」 (集英社新書)

 

一条真也です。
「新書大賞2021」受賞作である話題のベストセラー『人新世の「資本論」』斎藤幸平著(集英社新書)を読みました。著者は1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想、社会思想。Karl Marx’s Ecosocialism:Capital,Nature,and the Unfinished Critique of Political Economyによって権威ある「ドイッチャー記念賞」を日本人初歴代最年少で受賞。編著に『未来への大分岐』など。 

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本書の帯

 

本書の新装版の表紙カバーには、「気候変動、コロナ禍・・・。文明崩壊の危機。唯一の解決策は潤沢な脱成長経済だ。」「人新世【人‐しんせい】人類が地球を破壊しつくす時代」と書かれ、赤い地球のイラストと著者の顔写真が使われています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のような讃辞が並んでいます。
斎藤は、ピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の『資本論』」である。――佐藤優氏(作家)
マルクスへ帰れ」と人は言う。だがマルクスからどこへ行く? 斎藤幸平は、その答えに誰よりも早くたどり着いた。理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。――白井聡氏(政治学者)
気候、マルクス、人新世。これらを横断する経済思想が、ついに出現したね。日本は、そんな才能を待っていた!――松岡正剛氏(編集工学研究所所長)
気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら?――坂本龍一氏(音楽家
資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ。――水野和夫氏(経済学者)
経済力が振るう無慈悲な暴力に泣き寝入りをせず、未来を逞しく生きる知恵と力を養いたいのであれば、本書は間違いなく力強い支えとなる。――ヤマザキマリ氏(漫画家・文筆家)

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「人類の経済活動が地球を破壊する『人新世』=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。いや、危機の解決策はある。ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第一章  気候変動と帝国的生活様式
第二章  気候ケインズ主義の限界
第三章  資本主義システムでの脱成長を撃つ
第四章 「人新世」のマルクス
第五章  加速主義という現実逃避
第六章  欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第七章  脱成長コミュニズムが世界を救う
第八章  気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために



「はじめに――SDGsは『大衆のアヘン』である!」では、国連が掲げ、各国政府も大企業も推進する「SDGs(持続可能な開発目標)」では地球全体の環境を変えていくことができないと断言し、著者は「政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる『宗教』を『大衆のアヘン』だと批判した。SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』である。アヘンに逃げ込むことなく、直視しなくてはならない現実は、私たち人間が地球のあり方を取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということだ」



人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」(Anthropocene)と名付けました。著者は、「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。実際、ビル、工場、道路、農地、ダムなどが地表を埋めつくし、海洋にはマイクロ・プラスチックが大量に浮遊している。人工物が地球を大きく変えているのだ。とりわけそのなかでも、人類の活動によって飛躍的に増大しているのが、大気中の二酸化炭素である」と述べています。



人類が築いてきた文明が、存続の危機に直面しているのは間違いないとして、著者は「近代化による経済成長は、豊かな生活を約束していたはずだった。ところが、『人新世』の環境危機によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄の基盤を切り崩しつつあるという事実である。気候変動が急激に進んでも、超富裕層は、これまでどおりの放埓な生活を続けることができるかもしれない。しかし、私たち庶民のほとんどは、これまでの暮らしを失い、どう生き延びるのかを必死で探ることになる」と述べます。



著者は、わたしたちが生き延びる正しい方向を突き止めるためには、気候危機の原因にまでさかのぼる必要があると指摘し、「その原因の鍵を握るのが、資本主義にほかならない。なぜなら二酸化炭素の排出量が大きく増え始めたのは、産業革命以降、つまり資本主義が本格的に始動して以来のことだからだ。そして、その直後に、資本について考え抜いた思想家がいた。そう、カール・マルクスである。本書はそのマルクスの『資本論』を折々に参照しながら、『人新世』における資本と社会と自然の絡み合いを分析していく。もちろん、これまでのマルクス主義の焼き直しをするつもりは毛頭ない。150年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を「発掘」し、展開するつもりだ。この『人新世の「資本論」』は、気候危機の時代に、より良い社会を作り出すための想像力を解放してくれるだろう」と述べるのでした。



第一章「気候変動と帝国的生活様式」の「ポイント・オブ・ノーリターン」では、気候危機は、2050年あたりからおもむろに始まるものではなく、危機はすでに始まっていると、著者は訴えます。事実、かつてならば「100年に一度」と呼ばれた類いの異常気象が毎年、世界各地で起きるようになっていると指摘し、「急激で不可逆な変化が起きて、以前の状態に戻れなくなる地点(ポイント・オブ・ノーリターン)は、もうすぐそこに迫っている。例えば、2020年6月にシベリアで気温が38℃に達した。これは北極圏で史上最高気温であった可能性がある。永久凍土が融解すれば、大量のメタンガスが放出され、気候変動はさらに進行する。そのうえ水銀が流出したり、炭疽菌のような細菌やウイルスが解き放たれたりするリスクもある。そして、ホッキョクグマは行き場を失う」と述べています。



「犠牲を不可視化する外部化社会」では、巨視的な観点から世界の歴史・社会全体を「単一のシステム」ととらえる「世界システム論」で有名なアメリカの社会学者・歴史学者のイマニュエル・ウォーラーステインの見立てでは、資本主義は「中核」と「周辺」で構成されているとして、著者は「グローバル・サウスという周辺部から廉価な労働力を搾取し、その生産物を買い叩くことで、中核部はより大きな利潤を上げてきた。労働力の『不等価交換』によって、先進国の『過剰発展』と周辺国の『過小発展』を引き起こしていると、ウォーラーステインは考えたのだった。ところが、資本主義のグローバル化が地球の隅々まで及んだために、新たに収奪の対象となる、『フロンティア』が消滅してしまった。そうした利潤獲得のプロセスが限界に達したということだ。利潤率が低下した結果、資本蓄積や経済成長が困難になり、『資本主義の終焉』が謳われるまでになっている」と述べています。



「加害者意識の否認と先延ばしの報い」では、いわゆる「帝国的生活様式」は、日常の私たちの生活を通じて絶えず再生産される一方で、その暴力性は遠くの地で発揮されているために不可視化され続けてきたと指摘し、著者は「環境危機という言葉を知って、私たちが免罪符的に行うことは、エコバッグを『買う』ことだろう。だが、そのエコバッグすらも、新しいデザインのものが次々と発売される。宣伝に刺激され、また次のものを買ってしまう。そして、免罪符がもたらす満足感のせいで、そのエコバッグが作られる際の遠くの地での人間や自然への暴力には、ますます無関心になる。資本が謀るグリーン・ウォッシュに取り込まれるとはそういうことだ」と述べます。

 

「外部を使いつくした『人新世』」では、人類の経済活動が全地球を覆ってしまった「人新世」とは、そのような収奪と転嫁を行うための外部が消尽した時代だといってもいいとして、著者は「資本は石油、土壌養分、レアメタルなど、むしり取れるものは何でもむしり取ってきた。この『採取主義』(extractivism)は地球に甚大な負荷をかけている。ところが、資本が利潤を得るための『安価な労働力』のフロンティアが消滅したように、採取と転嫁を行うための『安価な自然』という外部もついになくなりつつあるのだ」と述べています。



また、著者は以下のようにも述べています。
「資本主義がどれだけうまく回っているように見えても、究極的には、地球は有限である。外部化の余地がなくなった結果、採取主義の拡張がもたらす否定的帰結は、ついに先進国へと回帰するようになる。ここには、資本の力では克服できない限界が存在する。資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限である。外部を使いつくすと、今までのやり方はうまくいかなくなる。危機が始まるのだ。これが『人新世』の危機の本質である」



マルクスによる環境危機の予言」では、資本主義の歴史を振り返れば、国家や大企業が十分な規模の気候変動対策を打ち出す見込みは薄いと指摘します。解決策の代わりに資本主義が提供してきたのは、収奪と負荷の外部化・転嫁ばかりなのであり、矛盾をどこか遠いところへと転嫁し、問題解決の先送りを繰り返してきたのであるとして、著者は「実は、この転嫁による外部性の創出とその問題点を、早くも19世紀半ばに分析していたのが、あのカール・マルクスであった。マルクスはこう強調していた。資本主義は自らの矛盾を別のところへ転嫁し、不可視化する。だが、その転嫁によって、さらに矛盾が深まっていく泥沼化の惨状が必然的に起きるであろうと。資本による転嫁の試みは最終的には破綻する。このことが、資本にとっては克服不可能な限界になると、マルクスは考えていたのである」と述べています。



「周辺部の二重の負担」では、資本はさまざまな手段を使って、今後も、否定的帰結を絶えず周辺部へと転嫁していくに違いないとして、著者は「その結果、周辺部は二重の負担に直面することになる。つまり、生態学帝国主義の掠奪に苦しんだ後に、さらに、転嫁がもたらす破壊的作用を不平等な形で押しつけられるのである。例えば、南米チリでは、欧米人の『ヘルシーな食生活』のため、つまり帝国的生活様式のために、輸出向けのアボカドを栽培してきた。『森のバター』とも呼ばれるアボカドの栽培には多量の水が必要となる。また、土壌の養分を食いつくすため、一度アボカドを生産すると、ほかの種類の果物などの栽培は困難になってしまう。チリは自分たちの生活用水や食料生産を犠牲にしてきたのである」と述べています。



そのチリを大干ばつが襲い、深刻な水不足を招いているとして、著者は「これには気候変動が影響しているといわれている。先に見たように、気候変動は転嫁の帰結だ。そこに、新型コロナウイルスによるパンデミックが追い打ちをかけた。ところが、大干ばつでますます希少となった水は、コロナ対策として手洗いに使われるのではなく、輸出用のアボカド栽培に使われている。水道が民営化されているせいである。このように、欧米人の消費主義的ライフスタイルがもたらす気候変動やパンデミックによる被害に、真っ先に晒されるのは周辺部なのである」と述べます。



「資本主義よりも前に地球がなくなる」では、著者は、リスクやチャンスは極めて不平等な形で分配されており、中核が勝ち続けるためには周辺が負け続けなくてはならないと指摘します。アメリカを代表する環境活動家ビル・マッキベンは、「利用可能な化石燃料が減少していることだけが、私たちの直面している限界ではない。実際、それは最重要問題ですらない。石油がなくなる前に、地球がなくなってしまうのだから」と述べています。著者によれば、この発言のなかの石油を資本主義と言い換えることもできます。もちろん、地球がダメになれば、人類全体がゲーム・オーバーとなります。地球のプランBは存在しません。



「大分岐の時代」では、気候危機が人類に突きつけているのは、採取主義と外部化に依拠した帝国的生活様式を抜本的に見直さなくてはならないという厳しい現実にほかならないことを指摘します。しかし、転嫁がいよいよ困難であることが判明し、人々のあいだに危機感や不安が生まれると、排外主義的運動が勢力を強めていくとして、著者は「右派ポピュリズムは、気候危機を自らの宣伝に利用し、排外主義的ナショナリズムを煽動するだろう。そして、社会に分断を持ち込むことで、民主主義の危機を深めていく。その結果、権威主義的なリーダーが支配者の地位に就けば、『気候ファシズム』とでも呼ぶべき、統治体制が到来しかねない」と述べるのでした。



第二章「気候ケインズ主義の限界」の「グリーン・ニューディールという希望?」では、グリーン・ニューディールは、再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動公共投資を行うことを指摘し、著者は「そうやって安定した高賃金の雇用を作り出し、有効需要を増やし、景気を刺激することを目指す。好景気が、さらなる投資を生み、持続可能な緑の経済への移行を加速させると期待するのだ。かつて20世紀の大恐慌から資本主義を救ったニューディール政策の再来を、という願いがここには読み取れる。危機の時代に、新自由主義はもはや無効だ。緊縮と『小さな政府』では対応できない。これからは、新たな緑のケインズ主義、『気候ケインズ主義』だ、というわけである」と述べています。



著者は、気候ケインズ主義に依拠した「緑の経済成長」こそが、資本主義が「平常運転」を続けるための「最後の砦」になっていると訴えます。そして、その「最後の砦」の旗印になっているのが「SDGs」です。国連、世界銀行IMF国際通貨基金)、OECD経済協力開発機構)などの国際機関もSDGsを掲げ、「緑の経済成長」を熱心に追求しようとしています。しかし、著者は「資本主義的な『緑の経済成長』を追い求める、先進国の気候ケインズ主義の未来は、暗い。たしかに、自国では『緑』を謳う経済政策が実行されるかもしれない。だが、周辺部からの掠奪は深刻化していく。掠奪こそが、中核部における環境保護のための条件になってしまっているのである」



「脱成長という選択肢」では、「緑の経済成長」という現実逃避をやめるなら、多くの厳しい選択が待っているとし、「二酸化炭素排出量削減にどれだけ本気で取り組むのか。そのコストは誰が背負うのか。先進国はこれまで続けてきた帝国的生活様式について、どれくらいの賠償をグローバル・サウスに行うのか。持続可能な経済に移行する過程でも生じるさらなる環境破壊の問題をどうするのか。答えは簡単には見つからない。そんななか、本書が提起したいひとつの選択肢は、『脱成長』である」と述べています。



第三章「資本主義システムでの脱成長を撃つ」では、わたしたちが、環境危機の時代に目指すべきは、自分たちだけが生き延びようとすることではないと指摘し、著者は「それでは、時間稼ぎはできても、地球はひとつしかないのだから、最終的には逃げ場がなくなってしまう。今のところは、所得の面で世界のトップ10~20%に入っている私たち多くの日本人の生活は安泰に見える。だが、この先、このままの生活を続ければ、グローバルな環境危機がさらに悪化する。その暁には、トップ1%の超富裕層にしか今のような生活は保障されないだろう。だから、グローバルな公正さというのは、抽象的で、偽善的な人道主義ではない。他者を切り捨てる前に、他者の立場に立ち、明日は我が身だということを想像してほしい。最終的に自分自身が生き延びるためにも、より公正で、持続可能な社会を志向する必要があるのだ。それが、最終的には人類全体の生存確率も高めることになる。それゆえ、生存の鍵となるのは『平等』である」と述べるのでした。



「なぜ、資本主義のもとでは脱成長できないのか」では、資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムであると指摘します。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間から収奪を行ってきたとして、著者は「この過程は、マルクスが言うように、『際限のない』運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。その際、資本は手段を選ばない。気候変動などの環境危機が深刻化することさえも、資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。山火事が増えれば、火災保険が売れる。バッタが増えれば、農薬が売れる。ネガティブ・エミッション・テクノロジーは、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっての商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ」



危機が悪化して苦しむ人々が増えても、資本主義は、最後の最後まで、あらゆる状況に適応する強靭性を発揮しながら、利潤獲得の機会を見出していくだろうと推測し、著者は「環境危機を前にしても、資本主義は自ら止まりはしないのだ。だから、このままいけば、資本主義が地球の表面を徹底的に変えてしまい、人類が生きられない環境になってしまう。それが、『人新世』という時代の終着点である。それゆえ、無限の経済成長を目指す資本主義に、今、ここで本気で対峙しなくてはならない。私たちの手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わる」と述べます。

 

「日本の特殊事情」では、経済成長の追求にこれだけの不合理が伴うのに脱成長論が不人気なのは日本特有の事情もあるとして、著者は「高度経済成長の恩恵を受けてあとは逃げ切るだけの団塊世代の人々が、脱成長という『綺麗事』を吹聴しているというイメージが強いのだ。若いころに経済成長の果実を享受しておきながら、一線を退いたそのときから『このままゆっくり日本経済は衰退していけばいい』と言い始めたというわけである。そのことが、就職氷河期世代からの強い反発を生んでいる」と述べます。また、気候変動と資本主義に対する姿勢の違いは、脱成長をめぐる日本と欧米の言説状況にも影響しているとして、「欧米においては、気候変動問題への取り組みを通じて、資本主義システムを乗り越えようとする要求が出てきている。そのなかで、脱成長が新世代の理論として台頭するようになっているのである」と説明しています。

 

 

「日本の楽観的脱成長論」では、日本でも、旧世代の脱成長派が資本主義の超克を目指していないことが指摘されます。例えば、「定常型社会」の概念を日本に広めるのに大きく貢献した広井良典は、「定常型社会」を「持続的な福祉国家/福祉社会」として定義し、「まず基本的な確認として、筆者が考える定常型社会という社会の姿において『市場経済』あるいは『私利の追求』ということがすべて否定されるものではない。言い換えれば、定常型社会=社会主義共産主義)経済システムということではないし、(中略)それは従来型の『資本主義vs社会主義』、『自由vs平等』といった二項対立をすでに超えている社会の理念である」と述べています。

f:id:shins2m:20190702092305j:plain西日本新聞」2019年7月2日朝刊

 

「自由、平等で公正な脱成長論を!」では、「脱成長」が平等と持続可能性を目指すのに対して、資本主義の「長期停滞」は不平等と貧困をもたらし、個人間の競争を激化させるとして、著者は「絶えず競争に晒される現代日本社会では、誰も弱者に手を差し伸べる余裕はない。ホームレスになれば、台風のときに避難所に入ることすら断られる。貨幣を持っていなければ人権さえも剥奪され、命が脅かされる競争社会で、相互扶助は困難である。したがって、相互扶助や平等を本気で目指すなら、階級や貨幣、市場といった問題に、もっと深く切り込まなくてはならない。資本主義の本質的特徴を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって、『脱成長』・『定常型経済』へ移行することはできないのである」と述べています。ちなみに、相互扶助の実現を目指す互助会であるわがサンレーは、北九州市と「災害時における施設の使用に関する協定」を締結しています。災害時に予定避難所として小倉紫雲閣小倉北区)と北九州紫雲閣(八幡西区)の2施設を使用するという協定です。もちろん、ホームレスの方の受け入れも行っています。NPO法人へのサポートを通じて、わが社はホームレス支援活動を行ってきました。


毎日新聞」2013年1月11日朝刊

 

第四章「『人新世』のマルクス」の「マルクス復権」では、ソ連崩壊の結果、日本ではマルクス主義は大きく停滞していることを指摘し、「今では左派であっても、マルクスを表立って擁護し、その知恵を使おうとする人は極めて少ない。ところが、世界に目を向けると、近年、マルクスの思想が再び大きな注目を浴びるようになっている。資本主義の矛盾が深まるにつれて、『資本主義以外の選択肢は存在しない』という『常識』にヒビが入り始めているのである。先述したように、アメリカの若者たちが、『社会主義』を資本主義よりも好ましい体制とみなすようになっているという世論調査のデータもある」と述べます。

 

 

「〈コモン〉という第三の道」では、近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが、〈コモン〉、あるいは〈共〉と呼ばれる考えであるとして、「〈コモン〉とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。20世紀の最後の年にとマイケル・ハートというふたりのマルクス主義者が、共著『〈帝国〉』のなかで提起して、一躍有名になった概念である。〈コモン〉は、アメリカ型新自由主義ソ連型国有化の両方に対峙する『第三の道』を切り拓く鍵だといっていい。つまり、市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連社会主義のようにあらゆるものの国有化を目指すのでもない。第三の道としての〈コモン〉は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す」と述べます。



「地球を〈コモン〉として管理する」では、マルクスにとっても、「コミュニズム」とは、ソ連のような一党独裁と国営化の体制を指すものではなかったとして、著者は「彼にとっての「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段を〈コモン〉として、共同で管理・運営する社会のことだったのだ。さらに、マルクスは、人々が生産手段だけでなく地球をも〈コモン〉(common)として管理する社会を、コミュニズム(communism)として、構想していたのである」と述べます。



また、「コミュニズムは〈コモン〉を再建する」では、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが言うように、コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまった〈コモン〉を意識的に再建する試みにほかならないとして、著者は「あまり一般には知られていないことだが、マルクスは〈コモン〉が再建された社会を『アソシエーション』と呼んでいた。マルクスは将来社会を描く際に、『共産主義』や『社会主義』という表現をほとんど使っていない。代わりに使っていたのが、この『アソシエーション』という用語なのである。労働者たちの自発的な相互扶助(アソシエーション)が〈コモン〉を実現するというわけだ」と述べ、さらに「単に人々の生活をより豊かにするだけでなく、地球を持続可能な〈コモン〉として、資本の商品化から取り戻そうとする、新しい道を模索せねばならない。そのためには、大きなビジョンが必要だ。だからこそ、まだ誰からも提示されていないマルクス解釈が、『人新世』という、環境危機の時代に求められるのである」と述べています。



「新たな全集プロジェクトMEGA」では、近年MEGAと呼ばれる新しい『マルクス・エンゲルス全集』(Marx‐Engels—Gesamtausgabe)の刊行が進んでいることを紹介し、著者は「日本人の私も含め、世界各国の研究者たちが参加する、国際的全集プロジェクトである。規模も桁違いで、最終的には100巻を超えることになる。一方、現在日本語で手に入る『マルクスエンゲルス全集』(大月書店)は、本当の意味での「全集」ではない。大月書店版に収録されなかった『資本論』の草稿やマルクスの書いた新聞記事、手紙などは膨大にある。大月書店版は、正しくは、「著作集」である。それに対して、はじめて公開されることになる新資料も含めて、マルクスエンゲルスが書き残したものはどんなものでも網羅して、すべてを出版することを目指しているのがMEGAなのだ」と述べています。



なかでもとりわけ注目すべき新資料はマルクスの「研究ノート」だとして、著者は「マルクスは研究に取り組む際、ノートに徹底した抜き書きする習慣をもっていた。亡命生活でお金もなかったため、ロンドンの大英博物館で、毎日、本を借りては、閲覧室で抜き書きを作成したのである。その生涯で作成されたノートは膨大であり、なかには『資本論』には取り込まれなかったアイデアや葛藤も刻まれている。その意味で、貴重な一次資料なのである。MEGAによって可能になるのが、一般のイメージとはまったく異なる、新しい『資本論』解釈である。悪筆のマルクスが遺した手書きのノートを丹念に読み解くことで、『資本論』に新しい光を当てることができるようになる。それが現代の気候危機に立ち向かうための新しい武器になるのだ」と述べます。

 

マルクス 資本論 1 (岩波文庫)

マルクス 資本論 1 (岩波文庫)

 

 

 「生産力至上主義者としての若きマルクス」では、まだ若かった当時のマルクスは、資本主義が早晩、経済恐慌をきっかけとした社会主義革命によって乗り越えられるという楽観論を抱いていたとして、著者は「資本主義の発展は生産力の上昇と過剰生産恐慌によって革命を準備してくれる。だから社会主義を打ち立てるために、資本主義のもとで生産力をどんどん発展させる必要があると考えていた節がある。いわゆる『生産力至上主義』である。ところが、1848年の革命は失敗に終わってしまう。そして、資本主義は息を吹き返した。1857年の恐慌のときも同じだった。恐慌を繰り返し乗り越える資本主義の強靭さに直面するなかで、マルクスは自らの認識を修正するようになる。そして、この新しい認識が展開されるのは、『共産党宣言』から20年ほどたって刊行された主著『資本論』以降においてなのだ」と述べます。



「未完の『資本論』と晩年マルクスの大転換」では、マルクスが自らの最終的な認識を『資本論』においてさえ十分に展開できなかったという事情が事態をややこしくしていると指摘し、著者は「というのは、『資本論』第1巻は本人の筆によって完成し、1867年に刊行されたものの、第2巻、第3巻の原稿執筆は未完で終わってしまったからだ。現在読まれている『資本論』の第2巻、第3巻は、盟友エンゲルスマルクスの没後に遺稿を編集し、出版したものにすぎない。そのため、マルクスエンゲルスの見解の相違から、編集過程で、晩年のマルクスの考えていたことが歪められ、見えにくくなっている箇所も少なくない」と述べています。



なぜなら、マルクスの資本主義批判は、第1巻刊行後の1868年以降に、続巻を完成させようとする苦闘のなかで、さらに深まっていったからです。いや、それどころか、理論的な大転換を遂げていったと指摘し、著者は「私たちが『人新世』の環境危機を生き延びるためには、まさに、この晩期マルクスの思索からこそ学ぶべきものがあるのだ」と訴えます。また、結果的に、晩期マルクスの本当の姿は依然として、ノートの研究を行うごく一握りの専門家にしか知られていないと指摘し、「そのため研究者やマルクス主義者たちのあいだでさえ、依然としてマルクスは大きく誤解されたままである。そしてこの誤解こそ、マルクスの思想を大きく歪め、スターリン主義という怪物を生み出し、人類をここまで酷い環境危機に直面させることになった原因といっても過言ではない。今こそ、この誤解を解かなければならないのだ」と述べるのでした。



「生産力至上主義からの完全な決別」では、『資本論』第1巻刊行後のエコロジー研究のなかでマルクスが集中的に読んだのが、ドイツの農学者カール・フラースだったことが紹介されます。フラースの『時間における気候と植物世界、両者の歴史』は、メソポタミア、エジプト、ギリシャなどの古代文明の崩壊過程を描いているとして、著者は「この本によれば、それらの文明崩壊に共通した原因は、過剰な森林伐採のせいで地域の気候が変化し、土着の農業が困難になってしまったことにあるという。たしかに現在あの一帯は、乾燥しきっているが、かつてはそうではなかった。自然の乱開発のせいで肥沃な大地を失ってしまったのである」と説明します。



晩年のノートから浮かび上がってくる彼の研究姿勢は、生産力の上昇が自然の支配を可能にし、資本主義を乗り越えることを可能にするという単純で楽観的な見解とは大きく異なっているとして、著者は「その際、生産力至上主義からはっきりと決別していたのはいうまでもない。かといって、環境危機による単純な文明崩壊論を展開しようとしていたわけでもない。むしろ、『資本論』以降のマルクスが着目したのは、資本主義と自然環境の関係性だった。資本主義は技術革新によって、物質代謝の亀裂をいろいろな方法で外部に転嫁しながら時間稼ぎをする。ところが、まさにその転嫁によって、資本は『修復不可能な亀裂』を世界規模で深めていく。最終的には資本主義も存続できなくなる」と述べています。



「『ザスーリチ宛の手紙』――ヨーロッパ中心主義からの決別」では、マルクスの認識の変化が最もはっきりと表れるようになるのが最晩年であるとして、「それは、ロシアの共同体がどのような道を進むべきかという論争に、マルクスが介入したときのことであった。マルクスが亡くなる2年前、1881年に書いたロシアの革命家ヴェラ・ザスーリチ宛の手紙である。晩期マルクス進歩史観批判が最も明瞭に表明された、この手紙のおかげで、『資本論』第1巻刊行後14年間の研究によって、マルクスの見解がどの程度変化したかを窺い知ることができるのだ。いや、それどころか、この手紙にはマルクスの思想的到達点が秘められているといっても過言ではない」と述べます。



「崩壊した文明と生き残った共同体」では、フラースが古代ゲルマン民族の共同体である「マルク協同体」(Markgenossenschaft)について、持続可能な農業を営んでいたことを高く評価していたことに触れ、著者は「ゲルマン民族は『蛮族』といわれたりもするが、持続可能性という意味では、非常に優れていたのである。『マルク協同体』とは、皇帝カエサルからタキトゥスの時代のゲルマン民族社会を広く指す呼称である。狩猟及び軍事共同体としての部族共同体から、定住して農耕を営む共同体へと移行する時期にあたる」と述べます。また、最晩年のマルクスの認識は「資本主義のもとでの生産力の上昇は、人類の解放をもたらすとは限らない。それどころか、生命の根源的な条件である自然との物質代謝を攪乱し、亀裂を生む。資本主義がもたらすものは、コミュニズムに向けた進歩ではない」というものだったと指摘しますむしろ、マルクスは、社会の繁栄にとって不可欠な「自然の生命力」を資本主義は破壊すると考えるに至ったのです。



「『新しい合理性』――大地の持続可能な管理のために」では、リービッヒやフラースからマルクスが獲得したのは、資本主義のもたらす危機を乗り越えるための、自然科学の知見に基づいた「合理的農業」という視点であったとして、「もちろん、彼らの言う合理性とは、資本主義的な利潤最大化を目指すという意味ではない。『新しい合理性』である」と述べます。資本主義は自然科学を無償の自然力を絞り出すために用います。その結果、生産力の上昇は掠奪を強め、持続可能性のある人間的発展の基盤を切り崩すします。そのような形での自然科学利用は長期的な視点では、「搾取」的・「浪費」的であり、けっして「合理的」ではないとして、著者は「そう批判するマルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を〈コモン〉として持続可能に管理することであった。それこそまさに、リービッヒやフラースも求めていた、より『合理的』な経済システムの姿である」と述べるのでした。そして、そのような科学的要求が、資本主義の不合理さを暴露し、その正統性の「危機」をもたらしているといいます。



「真の理論的大転換――コミュニズムの変化」では、共同体では、同じような生産を伝統に基づいて繰り返している。つまり、経済成長をしない循環型の定常型経済であったとして、著者は「共同体は、単に『未開』で、『無知』だったから、生産力が低く、貧困に喘いでいたわけではない。共同体においては、もっと長く働いたり、もっと生産力を上げたりできる場合にも、あえてそうしなかったのである。権力関係が発生し、支配・従属関係へと転化することを防ごうとしていたのだ」と述べています。



「脱成長へ向かうマルクス」では、持続可能性と平等こそ、西欧近代社会が資本主義の危機を乗り越えるために、意識的に取り戻さなくてはならないものであり、その物質的条件が、定常型経済なのであるとして、「要するに、マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ」と述べます。そして、資本主義の危機を乗り越えるために西欧社会は「原古的な類型のより高次の形態である集団的な生産および領有へと復帰」しなくてはならないとマルクスが言うとき、彼は定常型経済という共同体の原理を、西欧において高次のレベルで、復興させようとしていたのではないかと推測しています。



「『脱成長コミュニズム』という到達点」では、マルクスの将来社会のビジョンは最晩年において明らかに大きく変容していることを指摘し、一昔前に流行ったルイ・アルチュセールの表現を借りれば、「認識論的切断」といってもいいほどの変化であるとして、著者は「要するに、進歩史観を捨てたマルクスは、共同体の持続可能性と定常型経済の原理を、自らの変革論に取り入れることができた。その結果、コミュニズムの理念は、『生産力至上主義』とも『エコ社会主義』とも、まったく違ったものに転化したのだ。それが、最晩年に到達した『脱成長コミュニズム』である。これこそ、誰も提唱したことがない、晩期マルクスの将来社会像の新解釈にほかならない。それは、盟友エンゲルスでさえも、まったく理解することができなかったものだ。その結果、マルクス歴史観は、彼の死後、単線的な進歩史観であると誤解され、生産力至上主義が左派の思考のパラダイムを規定するようになってしまったのである」と述べるのでした。



マルクスは自分の理論的転換があまりにも大きすぎたために、死期までに『資本論』を完成させることができなくなってしまいました。しかしながら、この議論を展開しきれなかった先の地点にこそ、現代のわたしたちが求めている将来社会に向けたヒントが埋められているとして、著者は「だから、『人新世」の危機に立ち向かうため、最晩年のマルクスの資本主義批判の洞察をより発展させ、未完の『資本論』を『脱成長コミュニズム』の理論化として引き継ぐような、大胆な新解釈に今こそ挑まなくてはならないのだ』と述べるのでした。



第五章「加速主義という現実逃避」の「技術が奪う想像力」では、技術というイデオロギーこそが、現代社会に蔓延する想像力の貧困の一因であると指摘し、著者は「私たちは、もう一度、別の社会を思い描けるようになるために、資本の包摂に抗い、想像力を取り戻さなくてはならない」と訴えます。そして、マルクスの「脱成長コミュニズム」はそのような想像力の源泉だといいます。また、「別の潤沢さを考える」では、想像力を取り戻すためには、「閉鎖的技術」を乗り越えて、GAFAのような大企業に支配されないような、もっと別の道を探らなくてはならないと訴え、著者は「そのためにまず必要なのは、『開放的技術』である。『閉鎖的技術』がもたらすトップダウン型の政治主義の誘惑に打ち克ち、人々が自治管理の能力を発展させることができるようなテクノロジーの可能性を探らなくてはならない」と述べるのでした。



第六章「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」の「欠乏を生んでいるのは資本主義」では、著者はこう述べます。
「豊かさをもたらすのは資本主義なのか、コミュニズムなのか。多くの人は、資本主義だと即答するだろう。資本主義は人類史上、前例を見ないような技術発展をもたらし、物質的に豊かな社会をもたらした。そう多くの人が思い込んでいるし、たしかに、そういう一面もあるだろう。だが、現実はそれほど単純ではない。むしろ、こう問わないといけない。99%の私たちにとって、欠乏をもたらしているのは、資本主義なのではないか、と。資本主義が発展すればするほど、私たちは貧しくなるのではないか、と」



「ブランド化と広告が生む相対的希少性」では、希少性という観点から見れば、ブランド化は「相対的希少性」を作り出すといってもいいとして、著者は「差異化することで、他人よりも高い社会的ステータスを得ようとするのである。例えば、みんながフェラーリやロレックスを持っていたら、スズキの軽自動車やカシオの時計と変わらなくなってしまう。フェラーリの社会的ステータスは、他人が持っていないという希少性にすぎないのだ。逆にいえば、時計としての『使用価値』は、ロレックスもカシオもまったく変わらないということである」と述べています。



相対的希少性は終わりなき競争を生みます。自分より良いものを持っている人はインスタグラムを開けばいくらでもいるし、買ったものもすぐに新モデルの発売によって古びてしまいます。消費者の理想はけっして実現されません。わたしたちの欲望や感性も資本によって包摂され、変容させられてしまうとして、著者は「こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。『満たされない』という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない」と述べます。



「GDPとは異なる『ラディカルな潤沢さ』」では、安定した生活を獲得することで、相互扶助への余裕が生まれ、消費主義的ではない活動への余地が生まれるはずだとして、著者は以下のように述べます。
「スポーツをしたり、ハイキングや園芸などで自然に触れたりする機会を増やすことができる。ギターを弾いたり、絵を描いたり、読書する余裕も生まれる。自ら厨房に立ち、家族や友人と食事をしながら、会話を楽しむこともできるようになるだろう。ボランティア活動や政治活動をする余裕も生まれる。消費する化石燃料エネルギーは減るが、コミュニティの社会的・文化的エネルギーは増大していく。毎朝満員電車に詰め込まれ、コンビニの弁当やカップ麺をパソコンの前で食べながら、連日長時間働く生活に比べれば、はるかに豊かな人生だ。そのストレスを、オンライン・ショッピングや高濃度のアルコール飲料で解消しなくてもいい。自炊や運動の時間が取れるようになれば、健康状態も大幅に改善するに違いない」



希少性を本質にする資本主義の枠内で、豊かになることを目指しても、全員が豊かになることは不可能だとして、著者は「だから、そんなシステムはやめてしまおう。そして脱成長で置き換えよう。その方法が『ラディカルな潤沢さ』を実現する脱成長コミュニズムである。そうすれば、人々の生活は経済成長に依存しなくても、より安定して豊かになる。1%の超富裕層と99%の私たちとの富の偏在を是正し、人工的希少性をなくしていくことで、社会は、これまでよりもずっと少ない労働時間で成立する。しかも、大多数の人々の生活の質は上昇する。さらに、無駄な労働が減ることで、最終的には、地球環境をも救うのだ」と述べるのでした。


 

 

第七章「脱成長コミュニズムが世界を救う」の「コロナ禍も『人新世』の産物」として、気候変動もコロナ禍も、「人新世」の矛盾の顕在化という意味で、共通しているからだ。どちらも、資本主義の産物なのであると指摘し、著者は「資本主義が気候変動を引き起こしているのは、これまで見てきたとおりだ。経済成長を優先した地球規模での開発と破壊が、その原因なのである。感染症パンデミックも構図は似ている。先進国において増え続ける需要に応えるために、資本は自然の深くまで入り込み、森林を破壊し、大規模農場経営を行う。自然の奥深くまで入っていけば、未知のウイルスとの接触機会が増えるだけではない。自然の複雑な生態系と異なり、人の手で切り拓かれた空間、とりわけ現代のモノカルチャーが占める空間は、ウイルスを抑え込むことができない」と述べます。



そして、ウイルスは変異していき、グローバル化した人と物の流れに乗って、瞬間的に世界中に広がっていく。しかも、パンデミックの危険性は専門家たちによって以前から警告されていた。気候変動の危機の到来を科学者たちが悲痛な声で警鐘を鳴らしているように。対策についても、気候危機とコロナ禍は似たものになるだろう。「人命か、経済か」というジレンマに直面すると、行きすぎた対策は景気を悪くするという理由で、根本的問題への取り組みは先延ばしにされる。だが、対策を遅らせるほど、より大きな経済損失を生んでしまう。もちろん人命も失われる」

 

21世紀の資本

21世紀の資本

 

 

「トマ・ピケティが社会主義に『転向』した」では、『21世紀の資本』で経済学のスーパー・スターとなったフランスの経済学者トマ・ピケティが取り上げられ、著者は「ピケティといえば、行きすぎた経済格差を批判し、その解決策として、累進性の強い課税を行うことを提唱するリベラル左派として知られている。このようなピケティの折衷的態度は、スティグリッツと同様の『空想主義』であるとジジェクに批判されてきた」と述べています。たしかに、『21世紀の資本』に限っていえば、ジジェクは正しいとしながらも著者は「けれども、2019年に刊行された『資本とイデオロギー』でのピケティの論調はまったく異なる」と指摘します。


『資本とイデオロギー』において、ピケティは「資本主義の超克」を繰り返し求めるようになり、そのうえで対案として、単なる「飼い馴らされた資本主義」ではなく、「参加型社会主義」(socialisme participatif)をはっきりと要求するようになっているのです。著者は、ピケティの「現存の資本主義システムを超克できるし、21世紀の新しい参加型社会主義の輪郭を描くこともできると私は確信している。つまり、新しい社会的所有、教育、知と権力の共有に依拠した新しい普遍主義的で、平等主義的な未来像を描くことはできるのだ」という発言を取り上げ、「これほどはっきりとした社会主義への『転向』は近年、ほかには存在しない」と述べています。



「人新世の『資本論』」では、マルクスの脱成長の思想は150年近く見逃されており、そのため、同じように見える要求も、経済成長をスローダウンさせるという文脈では、けっして定式化されてこなかったとして、著者は「今はじめて、『人新世』の時代へと『資本論』がアップデートされるのだ。ポイントは経済成長が減速する分だけ、脱成長コミュニズムは、持続可能な経済への移行を促進するということだ。しかも、減速は、加速しかできない資本主義にとっての天敵である。無限に利潤を追求し続ける資本主義では、自然の循環の速度に合わせた生産は不可能なのだ。だから、『加速主義』(accelerationism)ではなく、『減速主義』(deaccelerationism)こそが革命的なのである」と述べます。



「脱成長コミュニズムの柱①――使用価値経済への転換」では、パンデミック発生時に社会を守るために不可欠な人工呼吸器やマスク、消毒液は、十分な生産体制が存在しなかったことを取り上げ、著者は「コストカット目当てに海外に工場を移転したせいで、先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかったのである。これらはすべて、資本の価値増殖を優先して、『使用価値』を犠牲にした結果である。その結果が、危機を前にしたレジリエンスの喪失であった。こうした『使用価値』を無視した生産は、気候危機の時代には致命的となる。食料、水、電力、住居、交通機関への普遍的アクセスの保障、洪水や高潮への対策、生態系の保護などやるべきことはたくさんある。だからこそ、『価値』ではなく、危機への適応に必要なものこそが、優先されなくてはならないのだ」と述べています。



「脱成長コミュニズムの柱⑤――エッセンシャル・ワークの重視」では、一般に、機械化が困難で、人間が労働しないといけない部門を「労働集約型産業」と呼び、ケア労働などは、その典型であると指摘されます。脱成長コミュニズムは、この労働集約型産業を重視する社会に転換しますし、その転換によっても経済は減速していくとして、著者は「現在高給をとっている職業として、マーケティングや広告、コンサルティング、そして金融業や保険業などがあるが、こうした仕事は重要そうに見えるものの、実は社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない。デヴィッド・グレーバーが指摘するように、これらの仕事に従事している本人さえも、自分の仕事がなくなっても社会になんの問題もないと感じているという。世の中には、無意味な「ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)」が溢れているのである」と述べます。



たしかに、わたしたちは無駄な会議をたくさん開き、プレゼンの資料を無駄に作り込み、誰も読まないようなFacebookの企業広報記事をまとめたり、フォトショップで写真を加工したりしているとして、著者は「ここでの矛盾は、『使用価値』をほとんど生み出さないような労働が高給のため、そちらに人が集まってしまっている現状だ。一方、社会の再生産にとって必須な『エッセンシャル・ワーク(「使用価値」が高いものを生み出す労働)』が低賃金で、恒常的な人手不足になっている。だからこそ、『使用価値』を重視する社会への移行が必要となる。それは、エッセンシャル・ワークが、きちんと評価される社会である。これは、地球環境にとっても望ましい。ケア労働は社会的に有用なだけでなく、低炭素で、低資源使用なのだ。経済成長を至上目的にしないなら、男性中心型の製造業重視から脱却し、労働集約型のケア労働を重視する道が開ける。そして、これは、エネルギー収支比が低下していく時代にもふさわしい、労働のあり方である」と述べます。

 

「ケア階級の叛逆」では、ついに、エッセンシャル・ワーカーたちが抵抗のために立ち上がりつつあると指摘し、著者は「彼らも、これ以上の労働条件悪化には耐えられない。そしてなにより、コストカットのせいで自分が提供するサービスの質が低下することにも我慢できなくなっているのである。その結果、日本でも、保育士一斉退職、医療現場からの異議申し立て、教員スト、介護ストが目立ってきている。それ以外にも、コンビニの24時間営業停止や高速道路のサービスエリアでのストライキなども増えている。そして、それがSNSで拡散されて、人々の支持を集めるようになっているのだ」と述べています。



エッセンシャル・ワーカーたちが抵抗のために立ち上がることは世界的な流れであるとして、著者は「こうした連帯の流れを、より広い、そしてよりラディカルな流れにつなげられるだろうか。この瞬間に、私たちは彼らと連帯できるだろうか。それとも『使用価値』を蔑ろにし、くだらない仕事を重視するブルシット・エコノミーに固執するのか。これこそが、相互扶助の強化か、分断の深化かの分かれ道となるだろう。うまくいけば、より民主主義的な相互扶助のコミュニティ再形成が可能となり、別の社会への道が開けるはずだ」と述べます。



「脱成長コミュニズムが物質代謝の亀裂を修復する」では、晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切り替え、無駄な「価値」の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであったと指摘し、著者は「労働者の創造性を奪う分業も減らしていく。それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化だ。労働者は、生産にまつわる意思決定を民主的に行う。意思決定に時間がかかってもかまわない。また、社会にとって有用で、環境負荷の低いエッセンシャル・ワークの社会的評価を高めていくべきである」と述べるのでした。



第八章「気候正義という『梃子』」の「経済、政治、環境の三位一体の刷新を」では、著者は「意味を根本から問い直し、今、『常識』とみなされているものを転覆していく。この瞬間こそ、既存の枠組みを超えていくような、真に『政治的なもの』が顕在化する。それこそが、『資本主義の超克』、『民主主義の刷新』、『社会の脱炭素化』という、三位一体のプロジェクトだ。経済、政治、環境のシナジー効果が増幅していくことで、社会システムの大転換を迫るのである」と述べています。また、「持続可能で公正な社会への跳躍」では、このプロジェクトの基礎となるのが、信頼と相互扶助であるとして、「なぜなら、信頼と相互扶助のない社会では、非民主的トップダウン型の解決策しか出てこないからだ。ところが、新自由主義によって、相互扶助や他者への信頼が徹底的に解体された後の時代に私たちはいる。だとしたら、結局は、顔の見える関係であるコミュニティや地方自治体をベースにして信頼関係を回復していくしか道はない」と述べるのでした。



「おわりに――歴史を終わらせないために」では、著者は「3.5%」という数字を示します。ハーヴァード大学政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「3.5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのです。フィリピンのマルコス独裁を打倒した「ピープルパワー革命」(1986年)、大統領のエドアルド・シェワルナゼを辞任に追い込んだグルジアの「バラ革命」(2003年)は、「3.5%」の非暴力的な市民不服従がもたらした社会変革の、ほんの一例だといいます。こうして、著者は本書の読者に「3.5%になろう」と呼びかけるのでした。



この興味深い本を通読して思ったことは、「この本の本質は、ネオ共産主義宣言である」ということ。そして、そのような本がベストセラーとなり、「新書大賞2021」まで受賞するというのは時代も変わったなということです。安易にコミュニズムに賛同する気はありませんが、今後の社会のキーワードが「相互扶助」であるという指摘には大いに共感できました。なぜなら、わが社は互助会であり、そのコンセプトは「相互扶助」そのものだからです。

 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

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2021年4月6日 一条真也