死者儀礼としてのオリンピック

一条真也です。
7月1日、じつに5ヵ月ぶりにサンレー本社の総合朝礼を行います。夏越大祓式の神事も行います。ただし場所は、いつものサンレー本社4階ではなく、小倉紫雲閣の大ホール。わが社が誇る儀式の殿堂です。産経新聞社の WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第24回目がアップされました。タイトルは「死者儀礼としてのオリンピック」です。

f:id:shins2m:20200630095054j:plain「死者儀礼としてのオリンピック」

 

7月になりました。本来、今月から東京オリンピックパラリンピックが開始されるはずでしたが、信じられないような思いです。東京五輪は1年延期されましたが、新型コロナウイルスの収束が見えない今、その開催に疑問を抱く人は多いことと思います。

 

わたしも現在の商業主義にまみれたオリンピックには強い違和感をおぼえているのですが、ピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピックの精神そのものは高く評価しています。オリンピックは平和の祭典であり、全世界の饗宴です。数々のスポーツ競技はもちろんのこと、華々しい開会式・閉会式は言語や宗教の違いを超えて、人類すべてにとってのお祭りであることを実感させるイベントであることは間違いないでしょう。

 

古代ギリシャにおけるオリンピア祭の由来は諸説ありますが、そのうちの1つとして、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行ったというホメーロスによる説があります。これが事実ならば、古代オリンピックは葬送の祭りとして発生したということになるでしょう。

 

21世紀最初の開催となった2004年のオリンピックは、奇しくも五輪発祥の地アテネで開催されましたが、このことに人類にとって古代オリンピックとの悲しい符合を感じました。アテネオリンピックは、21世紀の幕開けとともに起こった9・11同時多発テロや、アフガニスタンイラクで亡くなった人々の霊をなぐさめる壮大な葬送儀礼と見ることもできたからです。

 

オリンピックは、クーベルタンというフランスの偉大な理想主義者の手によって、じつに1500年もの長い眠りからさめ、1896年の第1回アテネ大会で近代オリンピックとして復活しました。その後120年が経過し、オリンピックは大きな変貌を遂げます。

 

「アマチュアリズム」の原則は完全に姿を消し、ショー化や商業化の波も、もはや止めることはできません。各国の企業は販売や宣伝戦略にオリンピックを利用し、開催側は企業の金をあてにします。大手広告代理店を中心とするオリンピック・ビジネスは、今や、巨額のマーケットとなっているのです。そのオリンピックという巨大イベントを初期設定して「儀式」に戻す必要があると、わたしは考えます。

 

もし、1年後の2021年7月に東京五輪が開催されるのならば、それは新型コロナウイルスで亡くなった世界中のすべての方々の葬送儀礼であり、追悼儀礼であるべきでしょう。そんなことも6月11日に発売された最新刊『心ゆたかな社会』(現代書林)に書きました。ご一読下されば幸いです。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

2020年7月1日 一条真也

一条本100冊の取材

一条真也です。
30日の14時から、「ふくおか経済」のインタビュー取材を受けました。いつものように、八尋修平さんがサンレー本社の貴賓室で取材をして下さいました。

f:id:shins2m:20200630140157j:plain今日はブルーのマスクで取材を受けました

 

今回の取材テーマは、「一条本100冊」です。じつは、他にも複数の新聞や雑誌から取材を受けていますが、今回の取材は特に熱が入りました。というのも、八尋さんが大の本好きで、わたしの読書法とか執筆のノウハウなどについて細かい質問を受けたからです。八尋さんは、わたしの本もたくさん読んで下さっています。

f:id:shins2m:20200630140359j:plain細かい質問をたくさん受けました 

 

1988年5月20日に処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)が発売されて、わたし一条真也はデビューしました。その前月の4月1日、わたしは版元である東急エージェンシーに入社しています。「東急グループ政治部長」あるいは「広告業界のカリスマ」と呼ばれた同社の前野徹社長(当時、2007年逝去)の鶴の一声で、前代未聞の新入社員の出版が実現したのでした。故前野社長こそは「一条真也の生みの親」なのです。詳しくは、ブログ「恩師から学んだこと」をお読み下さい。

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これまでの作家人生を振り返りました

 

それから約32年後の5月26日、99冊目の「一条本」である『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)が発売されました。同書では、小説や映画に登場する言葉も含め、古今東西の聖人、哲人、賢人、偉人、英雄たちの言葉、さらにはネイティブ・アメリカンたちによって語り継がれてきた言葉まで、100の「死を乗り越える」名言を紹介しました。そして、100冊目の「一条本」となる『心ゆたかな社会』(現代書林)が6月9日に発売されました。同書では、アフター・コロナを超えたポスト・パンデミック時代の社会ビジョンについて書きました。新型コロナが終息すれば、人は人との温もりを求め合います。ホスピタリティ、マインドフルネス、セレモニー、グリーフケアなどのキーワードを駆使して、来るべき「心の社会」を予見し、さらにはその先にある「心ゆたかな社会」のビジョンを描き出しました。

f:id:shins2m:20200630140412j:plainわが人生がここに在る! 

 

100冊の軌跡を振り返ると、「ああ、わたしの人生がそのままここに在るなあ!」と思えて、感無量です。1冊も本を書かなかった10年間を含めて、わたしの人生そのものがここに反映されていると思いました。もちろん、100冊以上本を書いている人などいくらでもいますが、社長業を続けながらの執筆にはそれなりの苦労や想いもあり、100冊すべてがわたしの人生の宝物です。

f:id:shins2m:20200630160158j:plainこの本を読んだ人が幸せになれますように! 

 

100冊の中には売れた本も売れなかった本もありますが、わたしは「売れる本を書いてやろう!」とか「印税で収入を増やしたい」などと思って書いたことは一度もありません。いつも、「この本を読んだ人が幸せになれますように!」とか「少しでも世の中が良くなるように!」と思って書いてきました。なんとか、ブレずにここまで来ることができました。100冊目の本も、これ以上ないほどに、ど真ん中ど直球(笑)で行きました。これではメッタ打ちにあって惨敗するかもしれません。でも、良くも悪くも、これがわたしの生き方なのだと思います。

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祝賀 パーティーは辞退しました

 

100冊達成ということで、多くの読者の方々から「祝賀パーティーを!」などの声を頂戴いたしました。まことに光栄で有難いお話ですが、新型コロナウイルスの感染拡大の流れの中で、謹んで辞退させていただきました。
もし、「一条本100冊を祝ってやろう」という奇特な方がおられましたら、どうか、『死を乗り越える名言ガイド』、『心ゆたかな社会』の2冊をお求めいただき、ご一読下さいますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

 

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2020/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 


2020年6月30日 一条真也

わたしは、忘れたくない

一条真也です。
水無月晦日、一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)が発行する「互助会通信」451号が届きました。この最新号では、新型コロナウイルス感染対策として、「結婚式場及び葬儀業のガイドライン」について特集されています。わたしは同紙に「独言」というコラムを連載していますが、今回のコラムは非常に反響が大きく、多くの同業者の方々から感想のメールやLINEを頂戴し、感激しました。
「わたしは、忘れたくない」という題名のコラムです。

f:id:shins2m:20200630153804j:plain「互助会通信」451号より 

 

「わたしは、忘れたくない」

 今回の新型コロナウイルスの感染拡大は、とにかく想定外の事件だった。わたしを含めて、あらゆる人々がすべての「予定」を奪われた。
 一応は日本全国で緊急事態宣言は解除されたけれども、まだ終息したわけではない。将来、完全に日常が戻ってきたとしても、絶対に忘れてはならないことがあると思う。
 わたしは、忘れたくない。今回のパンデミックで卒業式や入学式という、人生で唯一のセレモニーを経験できなかった生徒や学生たちが大きな悲嘆と不安を抱えたことを。
 わたしは、忘れたくない。今回のパンデミックで多くの新社会人たちが入社・入庁式を行えなかったことを。わが社では、全員がマスク姿で辞令交付式のみを行ったことを。
 わたしは、忘れたくない。緊急事態宣言の中、決死の覚悟で東京や神戸や金沢に出張したことを。いつもの飛行機や新幹線は信じられないくらいに人がいなかったこを。 
 わたしは、忘れたくない。日本中でマスクが不足していた時、訪れたドラッグストアで1人の老婦人から「あなたはマスクをしていますね。そのマスクはどこで買えるのですか?どこにもマスクが売っていなくて困っているのです」と話しかけられたこを。 
 わたしは、忘れたくない。一世一代の結婚式をどうしても延期しなければならなかった新郎新婦の悲しい表情を。
 わたしは、忘れたくない。新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった方々の通夜も告別式も行えなかったことを。故人の最期に面会もできず、ご遺体にも会えなかった遺族の方々の絶望の涙を。
 わたしは、忘れたくない。外出自粛が続く日々の中で、社員や友人たちと、LINEで互いに励まし合ったことを。
 そして、これまでの人生の中で、最も妻と語り合う時間が持てたことを。(一条真也

f:id:shins2m:20200630154005j:plain「互助会通信」451号より  

 

また、わたしが担当副会長を務める儀式継創委員会がプロデュースした上智大学大学院実践宗教学研究科 死生学公開講座「死に向き合うアートと儀礼」の第6講「儀礼と芸術・芸能との関わり」として、鎌田東二先生(上智大学グリーフケア研究所特任教授、京都大学名誉教授)のオンライン講義の内容も紹介されています。非常に勉強になりますので、冠婚葬祭互助会関係者はぜひ、ご一読を!

 

2020年6月30日 一条真也

『町山智浩のシネマトーク 怖い映画』

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

 

一条真也です。
町山智浩のシネマトーク 怖い映画』町山智浩著(スモール出版)を読みました。著者は映画評論家。ジャーナリスト。1962年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。「宝島」「別冊宝島」などの編集を経て、1995年に雑誌「映画秘宝」(洋泉社)創刊。アメリカ・カリフォルニア州バークレー在住。ブログ『「最前線の映画」を読む』ブログ『映画には「動機」がある』に続き、3冊連続で著者の本を紹介するわけですが、わたしは映画評論家としての著者のファンであり、その映画の観方にはいつも刺激を受けています。また、わたしの一番好きな映画ジャンルは「ホラー」です。なので、著者が「怖い映画」について語る本と聞けば、これはもうたまりません! ふつう、この手の映画本に紹介されている映画には未見のものも多いのですが、本書に限っては取り上げられた映画はすべて観た作品ばかりでした。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、恐怖に震える著者のイラストが描かれ、帯には「なぜ、人は『怖い映画』に惹かれるのか?」「町山智浩が恐怖の仕組みを解き明かす!」「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」「カリガリ博士」「アメリカン・サイコ」「へレディタリー/継承」「運命から逃れることはできるのか」「ポゼッション」「世界を滅ぼすほどの悲痛な叫び」「テナント/恐怖を借りた男」「血を吸うカメラ」「たたり」「狩人の夜」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「スティーヴン・キングはホラー評論『死の舞踏』の中で、『恐怖とは秩序や日常や崩壊する感覚だ』と言っています。人は日常の足元に落とし穴があることを忘れがちです。だから、時々それをチラッと覗く。で、自分の幸運を実感する。恐怖した後に人が思わず笑うのは、そのせいかもしれません。(本文より)」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

ゾンビを通して暴かれるアメリカのダークサイド
ナイト・オブ・ザ・リビングデッド

正気とは何か、狂気とは何か
カリガリ博士

出口も善悪もない、永遠の荒野
アメリカン・サイコ

運命から逃れることはできるのか
へレディタリー/継承

世界を滅ぼすほどの悲痛な叫び
『ポゼッション』

隠されたホロコースト
『テナント/恐怖を借りた男』

メディアに支配される人間
『血を吸うカメラ』

幽霊屋敷ホラーの古典は「何も見せずに」怖がらせる
『たたり』

人が人を裁くということ
狩人の夜

「おわりに」

 

「はじめに」の冒頭を、新型コロナウイルス感染拡大の現況に合わせて、著者は以下のように書きだしています。
「街は恐怖に包まれています。
人々は見えない悪魔を恐れ、家を出ることもできません。隣に住む親切な主婦の中にも、それが潜んでいるかもしれません。いや、すでに自分の中に入っているかも。テレビを観れば、毎日、死者の数が増え、防護服を着た人々が死体を運んでいます。大統領は緊急事態を叫んでいます。『これから何十万もの人が死ぬだろう』と」

 

また、著者は「自分が住むカリフォルニア州では自宅待機がもう3週間も続いています。こんな経験は生まれて初めてです。でも、妙に落ち着いている自分もいます。どうも初めてに思えないから。何度も観てきたから。映画で。スティーヴン・キングの小説『ザ・スランド』や『ミスト』で。ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)や『ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖』(1973年)で。トイレットペーパーを求めて店に群がる人々を見た時は、『ゾンビ』(1978年)でショッピングモールに群がるゾンビを思い出しました」と述べています。

 

子どもの頃から怖い映画が大好きだったという著者は、「なぜ、怖い映画が大好きなのか? 人はなぜ、お金を払ってまで怖い映画を観るのか?」と自問し、「死、殺人鬼、亡霊・・・・・・どれも本当に怖いからこそ、映画館という安全な場所でそれを疑似体験しようとするのかもしれません。薄めた病原菌を注射して免疫を作るように」と答えます。そして、「こけおどしでない怖い映画は、人々の潜在的な恐怖心を突いています。だから、どんな感動的な映画よりも人間の心を深く鋭く描いているんです」と述べるのでした。



「ゾンビを通して暴かれるアメリカのダークサイド『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』」では、1965年8月、ロサンジェルス、黒人が多く住むワッツ地区で、警察官による黒人への不当な逮捕に怒って住民が暴れ、警官は銃撃で応戦し、死者34人、負傷者1000人を超える惨劇になったことが紹介され、さらに著者は「1967年にはデトロイトで暴動が発生します。原因はやはり警官による黒人に対する不当な逮捕と暴力でした。この時も軍隊が出動して大量の死傷者が出ています。ベトナム戦争と人種暴動の共通点は、普通の人々が突如、ゲリラや暴徒と化して襲いかかってくることですが、そうした殺伐とした世相の中で1968年に封切られたのが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』なんです」と述べています。この状況、なんだか現代のアメリカそのものではありませんか!



ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が公開された1968年というのは、ハリウッドのセックスや暴力描写の自主規制コードが撤廃された年でした。それまではダメだった残酷な描写も可能になり、監督のジョージ・A・ロメロは次の『ゾンビ』で、すべての残酷描写を露骨に見せています。即物的なホラーの時代の時代に入ったのです。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のヒロインのカレンはゾンビ化します。顔を白く塗って目の周りを黒くメイクし、金髪で片目を隠してワンピースを着るのですが、これは明らかにロマン・ポランスキー監督がイギリスで撮った映画『反撥』(1965年)のカトリーヌ・ドヌーヴを真似していると、著者は指摘します。メイクや衣装だけでなく、撮り方まで同じだというのです。



ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』には、黒人暴動の他にも、アメリカ人をぞっとさせる現実やイメージが90分に圧縮されており、いわば「悪夢のコレクション」と呼ぶことができます。著者は、「当時のハリウッドが絶対に見せようとしないアメリカの暗黒面を映した鏡だったんです。だから、鏡を突きつけられたアメリカ人は本当に嫌な気持ちになったんですね。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はその後、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に保存されました。その理由は、この映画を観ると1968年のアメリカがどういう状況だったかがダイジェストでわかるからです」と述べています。ロメロはこの後も、ゾンビ映画2作目の『ゾンビ』、3作目の『死霊の餌食』(1985年)、4作目の『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005年)などを通して、それぞれの時代を映していきました。



著者の本を読む大きな楽しみは、「この映画はあの映画の影響を受けている」といった影響関係の指摘がありますが、本書でもそれが随所に見られます。「正気とは何か、狂気とは何か『カリガリ博士』」では、ホラー映画の原点ともいうべき1920年のドイツ映画が取り上げられます。とにかく原点なので、『カリガリ博士』は、さまざまな映画に影響を与えています。たとえば、同作品に登場する夢遊病の殺人鬼「眠り男チェザーレ」はジョニー・デップが『シザーハンズ』(1990年)で演じたエドワードの原型ですし、カリガリ博士がカーニバルでチェザーレを紹介するシーンは、ブライアン・デ・パルマ監督の『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)で悪魔に魂を売ったレコード会社の総帥スワンが新人歌手ビーフを紹介する場面の原型です。



チェザーレが美女ジェーンの寝室に忍び込んで彼女をさらう場面は、最初の吸血鬼映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)をはじめとした一連の吸血鬼映画に大きな影響を与えましたし、チェザーレがジェーンを抱いて立っているポーズは『大アマゾンの半魚人』(1954年)で半魚人が美女を抱きかかえて立っているシーンに受け継がれました。他にも、ヒッチコックの『下宿人』(1927年)、キャロル・リードの『第三の男』(1949年)、『大アマゾンの半魚人』(1954年)、『ロボコップ』(1987年)、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993年)、『複製された男』(2013年)などに影響を与えています。



カリガリ博士』の物語は現実なのか妄想なのかわからない構造になっていますが、著者は「現実に対する不安」として、「『カリガリ博士』のように、現実だと思って観ていると実は主人公の妄想だった、ないし妄想だったかもしれない、という映画は山ほどありますね。たとえばスタンリー・キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』(1999年)や、メアリー・ハロンの『アメリカン・サイコ』(2000年)、デヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』(1977年)、『ロスト・ハイウェイ』(1997年)、『マルホランド・ドライブ』(2001年)、『インランド・エンパイア』(2006年)、デヴィッド・クローネンバーグの『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』(2001年)とかもありましたね。あとマイケル・ケイトン=ジョーンズの『氷の微笑2』(2006年)、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)もそうでした。ザック・スナイダ―の『エンジェル ウォーズ』(2011年)という映画はまさに精神科病院が舞台で、『カリガリ博士』の直接的な影響で作られた映画でした」と述べています。



カリガリ博士』という映画は、すべては主人公の夢でしたという「夢オチ」の元祖のように言われることもあります。『オズの魔法使』(1939年)などがまさに「夢オチ」映画の代表ですが、著者は「『カリガリ博士』の夢オチは決して『夢でした、チャンチャン』じゃなくて『どこまでが夢で、どこまで現実かわからない』っていう、永遠のグルグル世界に観客を引きずり込む恐怖として成立しているんですね。現在もこの映画の影響下にある作品がたくさんあります。作っている側も気がつかないまま影響されている映画っていうのはずっと作られていますね。ホラー映画の『キャット・ピープル』(1942年)なんかももちろんそうですし、フィルム・ノワールから作られた『ブレードランナー』(1982年)はSF映画ですが、あれはライティングのやり方でフィルム・ノワールを真似しています。その原点にはやはり『カリガリ博士』があるんですね。あと、ハリウッドのユニバーサル映画『フランケンシュタイン』(1931年)であるとか『魔人ドラキュラ』(1931年)といったホラー映画。あれも実は、ドイツの表現主義をやっていたスタッフがアメリカに来て撮っていたりするんですね」と述べています。そのドイツ表現主義を代表する映画こそが『カリガリ博士』。一体どこまですごいんだ、『カリガリ博士』!



「隠されたホロコースト『テナント/恐怖を借りた男』」では、ロマン・ポランスキー監督による1976年のフランス映画が取り上げられます。『水の中のナイフ』(1962年)で映画監督として世界的な評価を得たポランスキーは、『反撥』(1965年)、『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)などを作りますが、いずれも大ヒット。彼はハリウッドに豪邸を構えますが、1969年8月、ポランスキーの留守中の自宅にチャールズ・マンソン率いるカルト集団が押し入り、妊娠中の妻シャロン・テートがめった刺しにされて殺されました。その後、1976年に『反撥』、『ローズマリーの赤ちゃん』に続くアパートメント・ホラーとしてポランスキーが撮ったのが『テナント』です。撮影直後、ポランスキーは当時13歳の少女との淫行罪でアメリカで逮捕されます。著者は「ユダヤ人としてホロコーストで両親を殺され、ハリウッドで妻と子を殺され、ロリコンとしてアメリカから逃げ・・・・・・と、まあ大変な人生を生きてきたのがポランスキーです。それを知ってからでないと、この『テナント』の意味はわかりません」と述べています。



「住む場所を追われた『間借り人』」として、著者は「『テナント(間借り人)』というタイトル事態、ユダヤ人を象徴しています。ユダヤ人は紀元1世紀、ローマ帝国によって祖国イスラエルを解体され、ヨーロッパに離散しました。それ以来2千年近く、守ってくれる祖国がなく、いつもどこかの国に間借りして、いつ追い出されるかわからない間借り人でした。ポランスキー自身がいつも間借り人ですよね。ポーランドから追い出され、フランスにもイギリスにも居場所がなく、ハリウッドに行ったら今度はそこからも追い出されて、ヨーロッパに帰ってきた。一生テナント(間借り人)ですね」と述べますが、さらには著者自身について、「僕のような在日韓国人もそうですね。日本で生まれて日本しか知らない。日本語しかしゃべれないのに、『韓国系』であるということで、たとえ帰化してもアウトサイダーで、韓国に行っても韓国人としては扱われない。どこに行ってもテナントです。だからこの映画はすごく切実に響いてくるんです」と述べます。切ない話ですが、そのようなアイデンティティというか、存在のあり方は著者の卓越した映画の観方に必ず良い影響を与えているのではないかと思います。



「メディアに支配される人間『血を吸うカメラ』」では、マイケル・パウエル監督による1960年のイギリス映画が取り上げられます。『血を吸うカメラ』の主人公マークは、女性を殺す瞬間を16ミリカメラで撮影し、そのフィルムをコレクションしています。ヒッチコックの名作『サイコ』(1960年)よりもわずかに早く作られたサイコキラー映画の傑作ですが、いわゆるスナッフフィルム(殺人フィルム)ものの先駆けでもあります。1960年代、古城や幽霊屋敷や吸血鬼などが登場するゴシックホラーとは違った、もっと人間そのものの怖さをリアルに描く現代的なホラー映画、つまり「モダンホラー」というジャンルが成立していきました。



『血を吸うカメラ』の主人公マークは、スクリーンの中で女性が殺害されるまさにその瞬間、「ダメだ! ダメだ!」と叫び、「いちばんの決定的な瞬間に、光量が足りなかった!」と言います。これは、かのマーティン・スコセッシ監督に多大なショックを与えたシーンだったとか。マークにとっては女性を殺すこと自体よりも、それをパーフェクトに撮影することの方がずっと重要だったわけですが、スコセッシは「彼の気持ちはよくわかるよ」「僕もそうなんだ。‟こういう映像が撮りたい”という欲望が人生のないよりも大切な目的になってしまうんだ。それに取りつかれておかしくなっていくんだ」と語っています。著者は、「父の支配からの逃避とセックスの代わりとして始まった殺人ですが、すでにマークは完璧な殺人フィルムを作ることこそが人生の目的になってしまったので、もう止まらないんです。そのマークを、映像に取り憑かれた男であるマイケル・パウエル監督自身も限りない共感を込めて描いています。それこそが、この映画が批評家に恐れられた理由です」と述べます。さらに著者は、「インスタグラマーやYouTuberの時代に、マークの悲劇はますます身近でリアルなものになっています」と付け加えるのでした。



「幽霊屋敷ホラーの古典は『何も見せずに』怖がらせる『たたり』」では、ロバート・ワイズ監督の1963年のアメリカ映画が取り上げられます。わたしが生まれた年の映画ですね。原作は、アメリカの作家シャーリイ・ジャクスンが1959年に発表した『丘の屋敷』という怪奇小説です。著者は、「小説『丘の屋敷』と映画『たたり』は、その後の様々なホラー作品に影響を与えてきました。たとえばホラー作家のスティーヴン・キングが書いた恐怖に関するエッセイ集『死の舞踏:恐怖についての10章』(筑摩書房)のクライマックスは『丘の屋敷』の徹底分析です。彼はこの小説の影響を非常に強く受けて『シャイニング』を書いています」と述べています。また、ホラー映画史上に残る大傑作である『エクソシスト』(1973年)や『ヘルハウス』(1973年)、『オーメン』(1976年)、『サスペリア』(1977年)、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)などには、明らかに「たたり」の影響を見つけることができます。



映画「たたり」だけでなく、小説『丘の屋敷』も多くのホラー小説に影響を与え続けてきましたが、幽霊を本当なのか妄想なのか曖昧な手法で描いている点がヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』に似ています。これは『回転』(1961年)として映画化されました。『ねじの回転』と『丘の屋敷』に共通するのは、どちらもヒロインが中年になった現在まで恋愛というか、性的な経験が一切ない女性だということです。この点について、著者は「原作者のシャーリィ・ジャクスンは、隠れバイセクシャルだったのではないかという説があります。ホラー小説の女流作家では『レベッカ』や『鳥』の原作者ダフネ・デュ・モーリエも、結婚していたけど女性の恋人がいたと言われます。『太陽がいっぱい』『見知らぬ乗客』の原作者パトリシア・ハイスミスは女性しか愛さない人でした。『ダロウェイ夫人』を書いたヴァージニア・ウルフ、詩人のエミリー・ディッキンソンもレズビアンだったという研究が進んでいます。同性愛が差別されていた時代には、それを隠して男性と結婚したりして、小説の中で本音を書く人もいたんですね」と述べています。



「ホラー小説の帝王」と呼ばれるスティーヴン・キングは『丘の屋敷』に影響を受けて名作『シャイニング』を書きましたが、閉鎖期間中のホテルの留守番をする売れない作家ジャックが発狂して妻や息子のダニーを殺そうとする幽霊屋敷ホラーです。スタンリー・キューブリック監督による映画版『シャイニング』(1980年)はもっと『丘の屋敷』に似ているとして、著者は「つまり、屋敷の幽霊はすべてアルコール依存症のジャック(ジャック・ニコルソン)の妄想のように見えるんです。ダニーは謎の女性に襲われたと証言しますが、自分を虐待した父親をかばって嘘をついたようにも見えます。ジャック自身も、血の洪水と双子の姉妹を見ますが、それは幽霊ではなく、この屋敷で過去に起こった惨劇を超能力で見ているんでしょう。ところが1カ所だけ、妄想か超能力では説明がつかない箇所があります。ジャックが奥さんに食料倉庫に閉じ込められた時、ホテルの幽霊が物理的に鍵を開けてくれるシーンですね。そこだけは幽霊が実在しないと説明がつかない。キューブリックは、わざとハマらないパズルのピースを紛れ込ませて観客を不安にするんですね」と述べています。



本書最後は、「人が人を裁くということ『狩人の夜』」です。1955年のアメリカ映画が取り上げられます。性的に不能な殺人牧師をロバート・ミッチャムが演じる怪作ですが、名優チャールズ・ロートンの唯一の監督作です。この映画が興行的に失敗したために彼は二度と映画を撮ることができず、公開から7年後の1962年に亡くなりました。その後、『狩人の夜』はテレビで放映され、多くの映画人に衝撃を与えました。その中には、デヴィッド・リンチブライアン・デ・パルママーティン・スコセッシコーエン兄弟、スアイク・リーなどの巨匠もいました。彼らは、いずれも『狩人の夜』に影響を受けた映画を撮っているのです。



監督のチャールズ・ロートンはもともとイギリス出身のシェイクスピア俳優でした。渡米していろんな映画に出演しましたが、著者は「顔がすごく怖いので、悪役が多いです。たとえば『獣人島』(1932年)。H・G・ウェルズの小説『モロー博士のシマ』の映画化です。豹とかライオンとかの動物を人間に改造しているマッド・サイエンティストのモロー博士をチャールズ・ロートンが演じています。それに『ノートルダムのせむし男』(1939年)でせむし男のカジモドを演じています。しかも、奥さんのエルザ・ランチェスターは『フランケンシュタインの花嫁』(1935年)で、怪物の花嫁を演じています。つまりモロー博士とフランケンシュタインの花嫁が夫婦だったんですよ。しかも、エルザ・ランチャスターは旦那が死んだ後、自伝に『チャールズ・ロートンはホモだった。私たちは一度もセックスしなかった』と書いているんですが、その彼がセックスできない殺人牧師の映画『狩人の夜』を映画化したのは興味深いですね」と述べていますが、これは本当に興味深い!

 

 

「おわりに」で、著者は読者に対して「なぜ、人はホラー映画を観るのでしょう?」と問いかけます。そして、「怖がりたい欲望、死に近づく欲望、嫌な思いをしたい欲望があるからです(自分が安全な状態で)、崖っぷちで、人がわざわざ崖ギリギリまで近づこうとするように。人が暗闇を恐れるのは、そこに自分の命を脅かす存在が隠れているのでは、想像するからでしょう」と述べます。スティーヴン・キングの『死の舞踏:恐怖についての10章』には「恐怖とは秩序や日常が崩壊する感覚だ」という名言が書かれていますが、著者は「ホラー映画とは最悪の状況のシミュレーションです。人は『もし、こんなことがあったら嫌だな』と想像します。人間性の最悪の部分ばかり考えます。それは怖がりの癖です。誰よりも怖がりのスティーヴン・キングは、怖い話を誰よりも創造しました。常に最悪を想定するのは、生存のための知恵です。だから皆さんも、もっと怖い映画を観ようじゃないですか」と述べるのでした。

 

 

著者のホラー映画に対する考え方は、ブログ『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』で紹介した漫画家の荒木飛呂彦氏の考え方に似ています。荒木氏は、ホラー映画とは究極の恐怖である「死」でさえも難なく描いてみせる、登場人物たちにとって「もっとも不幸な映画」であり、少年少女が人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習としての最高の素材であると指摘します。さらには、少年少女に限らず、この予行演習は大人にとってさえ有効であるとも述べています。本書『町山智浩のシネマトーク 怖い映画』は、あらゆる映画を観倒している著者の博識、慧眼、分析力がキラキラと輝いている名著でした。あえて難を言うなら、カバーや本文に描かれた「KOWAI EIGA」と書かれたTシャツを着た著者のイラストが可愛すぎて、本書の内容に合っていないことでしょうか。堂々たるホラー映画論なのですから、キングの『死の舞踏:恐怖についての10章』のような重厚感のある毒々しい装丁にしてほしかったですね。
それにしても、そろそろ映画館に行きたいなあ!

 

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

町山智浩のシネマトーク 怖い映画

  • 作者:町山 智浩
  • 発売日: 2020/06/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年6月30日 一条真也

『映画には「動機」がある』

「最前線の映画」を読む Vol.2 映画には「動機」がある (インターナショナル新書)

 

一条真也です。
『映画には「動機」がある』町山智浩著(インターナショナル新書)を読みました。ブログ『「最前線の映画」を読む』で紹介した本の続編で、「Vol.2」となっています。著者は映画評論家。ジャーナリスト。1962年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。「宝島」「別冊宝島」などの編集を経て、1995年に雑誌「映画秘宝」(洋泉社)創刊。アメリカ・カリフォルニア州バークレー在住。これまで、著者の本は、ブログ『トラウマ映画館』ブログ『トラウマ恋愛映画入門』ブログ『映画と本の意外な関係!』ブログ『ブレードランナーの未来世紀』でも紹介してきました。 

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本書の帯

 

本書の帯には「『シェイプ・オブ・ウォーター』のヒロインはなぜ口が利けないのか?」「『君の名前で僕を呼んで』の美少年の顔に蠅がたかるのはなぜ?」「『スリー・ビルボード』の暴力警官はなぜABBAを聞くのか?」「映画のワンシーンに込められた監督の『わけ』を解読する!」と書かれています。カバー前そでには、「映画は、何も知らずに観ても面白い。でも、知ってから観ると100倍面白い。観てから知っても100倍面白い!」(町山智浩)とあります。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

第1章 なぜストリックランドは手を洗わない?
    ――『シェイプ・オブ・ウォーター

第2章 なぜ暴力警官は「チキチータ」を聴くのか?
    ――『スリー・ビルボード

第3章 なぜ観てるとこんなに眠くなるのか?
    ――『ツイン・ピークス シーズン3』

第4章 なぜ牧師は教会を爆破するのか?
    ――『魂のゆくえ』

第5章 なぜバス運転手は詩を書くのか?
    ――『パターソン』

第6章 なぜデザイナーはハングリーなのか? 
    ――『ファントム・スレッド

第7章 なぜスパゲティを汚らしく食べるのか?
    ――『聖なる鹿殺し

第8章 なぜ少年の顔にハエがたかるのか?
    ――『君の名前で僕を呼んで

第9章 なぜ母は最後にベランダに出たのか?
    ――『ラブレス』

第10章 結局、犬殺しの正体は誰だったのか?
     ――『アンダー・ザ・シルバーレイク

第11章 最初と最後の女性は誰だったのか?
     ――『マザー!

第12章 なぜ父は巨大な車を押し込むのか? 
     ――『ローマ/Roma』

 

本書は2018年から19年にかけて作られた、アメリカ、メキシコ、ロシア、ギリシアなどの映画作家による映画の評論集です。「はじめに」で、著者は「こうしてまとめて読んでみて気づいたのは、自分が映画について考えるのは、ある疑問への答えを探しているんだということです。なぜ、この人はこの映画を作ったんだろう? 僕は映画を観て感動したり、逆に怒ったり、わけがわからなかった時、いつもそう思います。作り手の動機なんて、別に気にしない人が多いでしょう。多くの商業映画は依頼されて引き受けただけだったりもします。それに、映画を観ただけでは、その答えは見つかりません。普通の映画観客にとって、作り手の動機は知るよしもないことです。でも、僕は、それが気になってしかたがないんです」と述べています。



その一番わかりやすい例として、著者は『スター・ウォーズ』を挙げます。主人公ルーク・スカイウォーカーの宿敵であり、師匠オビ゠ワンの仇でもあるダース・ベイダーはルークに「私はお前の父だ」と言います。そして自分と共に父子で銀河帝国を支配しようと誘い、息子が拒否するとその手を斬り落とします。著者は、「その時のルークの絶叫は、物語を越えて、観る者の心に突き刺さるものがありました。これは作り手が頭だけでデッチ上げた話には思えなかったのです。こで、僕は雑誌や本を読み漁あさり、『スター・ウォーズ』を創ったジョージ・ルーカス監督について調べました。そして、彼と父親の確執を知りました。彼は強権的だった父親から事業を継ぐよう強制され、それを振り払って映画監督を目指したのでした」と述べます。

 

さらに著者が調べてみると、著者を感動させた映画の巨匠たちの多くが、そんな事抱えていました。「スティーヴン・スピルバーグの映画では、離婚家庭の子どもの寂しさが痛切に描かれますが、スピルバーグ自身、子どもの頃に父親が家を出て苦しみました。マーティン・スコセッシの映画では、それまで笑顔で話していた男が突然暴力を爆発させる恐怖が描かれますが、スコセッシは子供の頃、マフィアが仕切るリトル・イタリーでいじめられっ子として暴力に怯おびえながら育ちました。彼らのトラウマは、どこかで僕自身のそれとつながっていました。あんなに心を揺さぶられた理由がわかったような気がしました。だから、僕にとっての映画評論は、作品の出来不出来を評価することではなく、その映画が心に残したものの源泉をたどることになりました」と述べる著者は本書でも、監督に直接尋ねたり、インタビュー記事を探して、その映画に自分が感動した理由を探したといいます。そして著者は、「そんな謎を解く、一種のミステリーとして本書をお楽しみください」と述べるのでした。



第1章「なぜストリックランドは手を洗わない?――『シェイプ・オブ・ウォーター』」では、 ブログ「シェイプ・オブ・ウォーター」で紹介したギレルモ・デル・トロ監督が異種間の愛を描いたファンタジー映画を取り上げます。米ソ冷戦下のアメリカを舞台に、声を出せない女性が半魚人と心を通わせる物語で、第90回アカデミー賞で作品賞、監督賞、作曲賞、美術賞の4部門に輝きました。モンスター映画としては歴史に残る快挙です。



1962年、米ソ冷戦時代のアメリカで、政府の極秘研究所の清掃員として働く孤独なイライザ(サリー・ホーキンス)は、同僚のゼルダオクタヴィア・スペンサー)と共に秘密の実験を目撃します。アマゾンで崇められていたという、人間ではない“彼”の特異な姿に心惹かれた彼女は、こっそり“彼”に会いにいくようになります。ところが“彼”は、もうすぐ実験の犠牲になることが決まっており、イライザは救おうとするのでした。デル・トロ監督は少年時代にテレビでアメリカ映画「大アマゾンの半魚人」(1954年)や「半魚人の逆襲」(55年)を観て以来、ヒロインが半魚人と結ばれるハッピーエンドの物語を夢見ていたそうです。



シェイプ・オブ・ウォーター」には、他にも「フランケンシュタインの花嫁」(35年)、「未来世紀ブラジル」(85年)、「ゴッド・アンド・モンスター」(98年)、「アメリ」(2001年)といった映画の強い影響を受けていることを、著者は指摘します。「シェイプ・オブ・ウォーター」は、「あなたの形は見えなくても、私の周りにあなたを感じる。あなたの存在が私の目を愛で満たす。私は何も欲しくない あなたはどこにでもいるから」という詩で終わりますが、この詩における「あなた」とは「水」のことです。デル・トロ監督によれば、「どうしても映画を締める言が見つからなくて、本屋に行ってイスラム教の詩の英訳本を見つけて、そこにあった数百年前の詩がテーマに近いと思ったんだ」と述べています。デル・トロは詩人の名前を明らかにしませんでしたが、13世紀ペルシャイスラム神秘主義ジャラール・ウッディーン・ルーミーの詩をアレンジしたという説があるとか。

儀式論』(弘文堂)

 

この「水」の詩から、わたしは「こころ」を連想しました。水は形がなく不安定です。それを容れるものがコップです。そして、水は「こころ」のメタファーです。「こころ」も形がなくて不安定だからです。だから、「こころ」は「かたち」に容れる必要があります。その「かたち」には別名が存在します。「儀式」です。拙著『儀式論』(弘文堂)などにも書きましたが、人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定であるがゆえに、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子供が成長するとき、子供が大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどです。その不安を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。



第2章「なぜ暴力警官は『チキチータ』を聴くのか?──『スリー・ビルボード』」では、ブログ「スリー・ビルボード」で紹介した映画が取り上げられます。娘を殺害された母親が警察を批判する看板を設置したことから、予期せぬ事件が起こるクライムサスペンスです。登場する3つの看板は映画の3人の「主人公」を象徴しているとして、著者は「娘を何者かに殺された中年女性ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)、地元の警察署長ウィロビー(ウディ・ハレルソン)、それに暴力警官ディクソン(サム・ロックウェル)映画は最初、ミルドレッドの物語として始まり、次にウィロビー、最後は、ディクソンが物語の中心になる。そして、最初に観客が彼らに抱いた印象とはまったく違う裏面が見えてくる。看板の裏側をのぞき込むように」と書かれています。そのビルボードのあたりで、ミルドレッドの娘は何者かにレイプされ、殺され、ガソリンで焼かれました。犯人のDNAが残されていたにもかかわらず、地元の警察は犯人を見つけられませんでした。



無能な警察に抗議する意味で、ミルドレッドは3つのビルボードの広告料を出して、警察署長ウィロビーを糾弾するメッセージを掲げたわけですが、ウィロビーを敬慕するディクソンに嫌がらせをされます。末期がんを苦にしてウィロビーが自死を遂げた後、改心したディクソンはミルドレッドの娘を殺した真犯人を追います。酒場で、ある男が女性をレイプして焼き殺したと自慢するのを耳にしたディクソンは命がけで、その男からDNAを採集します。しかし、それは犯人とは一致せず、アリバイもありました。当時、男は軍の仕事で「砂の多い場所」にいたというのです。著者は、「そう聞いても、鈍いディクソンはわからないが、その男は戦争でイラクにいたのだろう。2006年3月、イラクで五人の米兵が十四歳の少女を輪姦し、彼女の一家もろともガソリンをかけて焼いた。ブライアン・デ・パルマの映画『リダクテッド 真実の価値』(07年)でも描かれた、おぞましい事実だ。その男も似たようなことをしたのだろう」と述べています。何ともやりきれないというか、心が痛む話です。



第6章「なぜデザイナーはハングリーなのか?──『ファントム・スレッド』」では、ブログ「ファントム・スレッド」で紹介したポール・トーマス・アンダーソン監督の映画が取り上げられます。1950年代のロンドン。仕立屋のレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)は、英国ファッション界で名の知れた存在だった。ある日、ウエイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)と出会った彼は、彼女をミューズとしてファッションの世界に引き入れる。しかし、アルマの存在が規則正しかったレイノルズの日常を変えていきます。ウッドコックは、アルマが作った毒キノコ料理を食べて食中毒を起こします。寝込んでいるウッドコックは、母親の幽霊(ファントム)を見るのですが、彼は懐かしそうに「そこにいたんだね。僕はいつもお母さんのことを思っていたんだよ」と語りかけるのでした。



ポール・トーマス・アンダーソン監督は、「幽霊を扱ってもホラーにならなかった。僕は幽霊が怖くないから。愛する人に死んでも会えるなら、いいことだと思うから」、あるいは「スタンリー・キューブリックは『シャイニング』を監督したとき、幽霊は楽観的なものだと言っている。それは霊魂の不滅、死後の世界を信じることだから」と語っています。「ファントム・スレッド」には、「レディに捧げる殺人物語」(32年)、「レベッカ」(40年)、「美女と野獣」(46年)、「マイ・フェア・レディ」(64年)、「羊たちの沈黙」(91年)の影響も見られることを、著者は指摘します。アンダーソン監督は、「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミ監督を師と仰ぎ、父子のように親密にしていました。そのデミ監督は『ファントム・スレッド』が公開直前の2017年4月に亡くなり、映画は故人に捧げられました。



著者は、アンダーソン監督に取材したときに「デミ監督の『羊たちの沈黙』も、『ファントム・スレッド』に似ていますね」と言ったことがあるそうです。アンダーソン監督は、自分で「引きこもりで尊大な男、貧しい田舎者のヒロイン、男はメンター気取りでヒロインを教育するが、ヒロインは彼の予想を超えて才能を開花させ、そんな彼女を男は愛し、立場は逆転する・・・・・・」という共通点をしたとか。そして、監督は「たしかに・・・・・・でも、それは影響を受けたんじゃなく、そういう物語の『型』があるんだよ」と答えたそうです。ちなみに、その「型」は、『美女と野獣』、『ジェーン・エア』、『レベッカ』、『マイ・フェア・レディ』、『ミスティ・ベートーベン』、『羊たちの沈黙』と引き継がれ、今、『ファントム・スレッド』があるのでした。



第11章「最初と最後の女性は誰だったのか?──『マザー!』」では、ブログ「マザー!」で紹介した日本公開中止になった超問題作が取り上げられます。わたしはDVDで観ましたが、ぶっ飛びました。こんなにも観る者に不安をあおり、かつ不快な感情を与える映画は初めてでした。著者は「この映画は2時間の拷問」と言っていますが、わたしは「よくぞ、ここまで奇妙な映画を作ったものだ」と感心さえしました。ダーレン・アロノフスキー監督の作品ですが、ある郊外の一軒家を舞台に、スランプに陥った詩人の夫を持つ妻が、次から次へとやってくる不審な訪問者と彼らを拒むことなく受け入れる夫に翻弄されていくさまを描いたサイコスリラーです。ジェニファー・ローレンスハビエル・バルデムという、アカデミー賞に輝いたことのある実力派2人が夫婦を演じ、エド・ハリスミシェル・ファイファーら名優がその脇を固めています。



アロノフスキー監督はロシア系ユダヤ移民の、厳格なユダヤ教徒の両親に育てられました。監督デビュー作『π』(98年)は、「数字の中に神の真理が隠されている」「それを解明できれば未来も予測できる」というユダヤ教神秘学に取り憑かれた男の物語でした。その後もアロノフスキーは聖やユダヤ教にこだわり続け、『ファウンテン 永遠につづく愛』(2006年)は、ユダヤ神秘思想「カバラ」にあるセフィロト(生命の樹)についての物語でした。『マザー!』も聖書のメタファーとなっており、エド・ハリスミシェル・ファイファーの恥知らずな夫婦はアダムとイブです。著者は、「彼らの息子はカインとアベル。弟アベルばかり神に寵愛されることに嫉妬した兄カインは弟を殺してしまう。これは間違いない。なにしろ、トロント国際映画祭のプレミア上映の後、アロノフスキー本人が舞台に上がってそう説明したのだ。エド・ハリスミシェル・ファイファーが落として割ってしまうクリスタルは、アダムとイブが食べた知恵の実。すると、彼らを追い出したハビエルはエデンの園からアダムとイブを追放した、神、ということになる」と述べています。



では、ヒロインであるジェニファーは?
著者は、「『マザー!』のジェニファー・ローレンスは、マザーアース(母なる地球=ギリシャ神話におけるガイア)、つまり地球の象徴だったのだ」と種明かしし、さらに「上映後、アロノフスキー監督は、ハリケーンアメリカを次々と襲っているとき、この映画のアイデアを思いついた、と言っていた。近年、アメリカでは地球温暖化によって異常に強力なハリケーンが発生したり、南部に雪が降ったり、カリフォルニアでは異常乾燥で山火事になったり、異常気象が続いている。それに対する憤りから『マザー!』が生まれたという」と述べています。『マザー!』の前作となるアロノフスキー映画はブログ「ノア 約束の舟」で紹介した作品ですが、これももちろん旧約聖書に出てくる「ノアの箱舟」伝説の映画化でした。そして、『マザー!』の水道管の破裂はノアの大洪水を意味していると、著者は指摘します。これには、わたしも気づきませんでした。本書で取り上げたさまざまな映画に影響を与えた作品の指摘とともに、わたしは「さすがは町山サン!」と感心した次第です。本書はシリーズ第2弾ですが、出版社によれば第3弾、第4弾もあるそうですので、楽しみにしています。

f:id:shins2m:20200901105223j:plain町山智浩さんのツイッターより 

 

2020年6月29日 一条真也

『「最前線の映画」を読む』

「最前線の映画」を読む (インターナショナル新書)

 

一条真也です。
『「最前線の映画」を読む』町山智浩著(インターナショナル新書)を読みました。著者は映画評論家。ジャーナリスト。1962年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。「宝島」「別冊宝島」などの編集を経て、1995年に雑誌「映画秘宝」(洋泉社)創刊。アメリカ・カリフォルニア州バークレー在住。これまで、著者の本は、ブログ『トラウマ映画館』ブログ『トラウマ恋愛映画入門』ブログ『映画と本の意外な関係!』ブログ『ブレードランナーの未来世紀』で紹介してきました。

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本書の帯

 

本書の帯には「『ブレードランナー2049』と『ロリータ』の意外な接点!?」「『ラ・ラ・ランド』は愛のミュージカルなんかじゃない!」「『ダンケルク』に仕掛けられたトリックとは!?」「あの話題作、ヒット作に隠された『暗号』を解読する!」と書かれています。カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「映画を観れば『世界の今』が分かる! アメリカ、ヨーロッパ、アジア諸国の『最前線の映画』を当代一の評論家が鋭く解剖。なにげないシーンやしぐさに秘められた監督の意図、ちょっとした台詞の中に隠された過去の名作・傑作の引用などを次々に読み解いていく――。『町山映画塾』、ますます絶好調!」

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

第1章 Kが追い求めた「噴水」
    ――『ブレードランナー2049』

第2章 アンドロイドはオジマンディアスの夢を見る
    ――『エイリアン:コヴェナント

第3章 「それ」から逃れるたったひとつのやり方
    ――『イット・フォローズ』

第4章 「8マイル」の現実――『ドント・ブリーズ

第5章 神は果てしなく試す――『哭声/コクソン

第6章 360年後の「ゆるし」
    ――『沈黙―サイレンス―』

第7章 イランのウィリー・ローマン
    ――『セールスマン』

第8章 バンパーはぶつけるためにある
    ――『エル ELLE』

第9章 アン・ハサウェイは何と戦ったのか?
    ――『シンクロナイズドモンスター

第10章 アウシュビッツで埋められたもの
     ――『サウルの息子

第11章 トビマメたちの沈黙
     ――『ルック・オブ・サイレンス』

第12章 狂気が開ける扉――『ラ・ラ・ランド

第13章 なぜ彼は「ベイビー」と名乗るのか
     ――『ベイビー・ドライバー

第14章 偽りのタイムリミット

     ――『ダンケルク

第15章 ドローンという「レッサー・イーヴル」
     ――『アイ・イン・ザ・スカイ』

第16章 戦う『ローマの休日
     ――『ワンダーウーマン

第17章 宇宙からのライプニッツ
     ――『メッセージ』

第18章 変えられない過去、贖えない罪
     ――『マンチェスター・バイ・ザ・シー

第19章 「男らしさ」からの解放
     ――『ムーンライト』

第20章 世界の終わりの西部
     ――『LOGAN ローガン』

 

「はじめに」の内容は、アマゾンをはじめ複数のサイトに《著者の言葉》として公開されているので引用させていただきますが、著者は以下のように述べています。
「本書は、ここ2年ほどの間に公開された映画作品について、筆者なりの解説を加えたものです。特に、映画を観た時、多くの観客が疑問に思うだろう点、最初は自分にもわからなかった点について、何らかの答えを見つけようとしました。それはこんな疑問です。
ラ・ラ・ランド』の2人はなぜ、別れなければいけないのか?
ダンケルク』にはなぜ、3機しか戦闘機が出てこないのか?
サウルの息子』はなぜ、背景がピンボケでスクリーンが小さいのか?
『LOGAN/ローガン』の最後にウルヴァリンが言った『あれってこんな感じなんだ』の『あれ』とは何か?
『メッセージ』のヒロインはなぜ、若くして死別すると知っていながら娘を産んだのか?
ベイビー・ドライバー』はなぜ、ベイビーと自称しているのか?
エイリアン:コヴェナント』のアンドロイドはなぜ、ワーグナーを弾くのか?
ブレードランナー2049』のテストで聞かれる「白く高い噴水」とは何か?
『セールスマン』の主人公はなぜ、イランで『セールスマンの死』を上演するのか?」

 

これらの問いを提示した後、著者はこう述べます。
「答えは映画の中に隠されている場合もあります。何度も観るうちに、登場人物のちょっとしたしぐさ、表情、セリフ、読んでいる本、流れる歌などに謎を解く鍵があります。映画の外、監督のインタビューや、過去の作品、時代や社会状況などを調べなければわからないこともあります。ドストエフスキーなどの著作が補助線になって謎が解ける場合もあります。それを探っていくのは本当に面白い作業です。あ、これだったのか! と思わず声が出そうになることもあります。それが快感で映画評論家をやっているわけです。もちろん、映画はクイズでもテストでもありませんから、答えは1つではありません。ただ、映画鑑賞の助けとして楽しんでいただけると幸いです」



本書が取り上げている20本の映画のうち、わたしがすでに観ている作品も、まだ観ていない作品もありました。第1章「Kが追い求めた『噴水』――『ブレードランナー2049』」ではブログ「ブレードランナー2049」で紹介した作品が取り上げられます。SF映画の金字塔「ブレードランナー」の続編で、前作から30年後の2049年を舞台に、違法レプリカント(人造人間)処分の任務に就く主人公が巨大な陰謀に巻き込まれる様子を活写します。著者のコメントは意外なほどあっさりしていて、ちょっと拍子抜けします。すでに『ブレードランナーの未来世紀』という本を書いた著者にしては物足りませんが、同書1冊を費やして「ブレードランナー」を語った著者にすれば、わずか新書本の7ページに満たない分量で新作を語ることは困難だったのかもしれません。



ブレードランナー2049」の製作総指揮者であるリドリー・スコットは前作「ブレードランナー」の監督でしたが、ブログ「エイリアン:コヴェナント」で紹介した映画は同じく彼の監督作品です。著者も、この作品を第2章「アンドロイドはオジマンディアスの夢を見る――『エイリアン:コヴェナント』」で取り上げています。同じくスコット監督の「プロメテウス」(2012年)の後日譚であると同時に、やはりスコット監督の「エイリアン」(1979年)の前日譚でもあります。この「エイリアン:コヴェナント」の著者のコメントもじつに淡泊なのですが、「エイリアン」シリーズの中では評価が低めだったことも影響しているのかもしれません。シリーズを俯瞰すると、エイリアンをめぐる神話が形成されている感があります。「映画は神話の代用品である」とはわが持論であり、神話なき国アメリカで最も映画産業が発展した秘密はここにあります。特に、SF映画は神話的要素が強いと言えるでしょう。



本書ではスロースタートに思える著者がノッてくるのは、第3章「『それ』から逃れるたったひとつのやり方――『イット・フォローズ』」からです。「イット・フォローズ」は、クエンティン・タランティーノ監督も「とにかく恐い!こんな設定のホラーは観たことがない!」と太鼓判を押したホラー映画です。ある男から「イット」を移され、その日以降、他の人には見えないはずのものが見え始めた少女の恐怖を描きますが、「イット」はセックスで感染するのでした。著者は、「イット」の正体は性病であるという大方の見方を紹介しながらも、「死」こそがその正体であると喝破します。そして、「セックスした若者は死ぬ――ホラー映画の観すぎかもしれないが、ある種の真実もある。子どもたちはセックス、つまり大人になることに憧れる。でも、大人になってしまえば、そこから先は年老いていくだけ、その先には死が見え始める。誰も逃れられない。その現実をホラー映画として見せたのが『イット・フォローズ』だったのだ。『なんだかわからないけど怖い』と『イット・フォローズ』に殺到した若者たちは、その恐怖を肌で感じたのだろう」と述べます。



わたしは「イット・フォローズ」を映画館ではなくDVDで鑑賞したのでレビューをブログに書いていないのですが、第5章「神は果てしなく試す――『哭声/コクソン』」で取り上げられた韓国映画も同じくDVDで観ました。韓国映画界を支える1人であるナ・ホンジン監督の異色作で、じわじわと息の根を止めるように高まる緊張感とまったく先の読めない展開、そして圧倒的な映像で観る者を映画の中へ引きずり込みます。村人を惑わすよそ者を日本の俳優・國村隼が演じ、数々の映画賞に輝きました。國村隼の「よそ者」は最後に悪魔のような姿を見せますが、著者は「『哭声/コクソン』には無数の解釈があるだろう」として「悪魔は神の道具かもしれない」という見方を示します。ここで、なんと江戸時代の儒学者である新井白石が、捕らえたイエズス会の宣教師シドッチに「神がすべてのものをつくったのなら、この世の悪も神がつくったことにならないか?」と質問したエピソードを紹介します。白石は「神が正義で、全知全能なら、悪魔の存在する余地などないはずだ。矛盾している」と考えたのでした。宣教師は、白石を納得させる答えを出すことはできませんでした。しかし、著者は「神は人間を試すために、悪魔をつくった」という答えを想定し、「神は人間が信仰を守れているかをつねに問うている。一心不乱に神を信じるものだけが、神の国に入れる。その信仰を試すための道具が悪魔なのだ」と述べるのでした。



哭声/コクソン」の章でいきなりガチンコの信仰論が登場して驚きましたが、続く第6章「三百六十年後の『ゆるし』――『沈黙―サイレンス―』」では、さらに深く信仰の問題が語られます。ブログ「沈黙―サイレンス―」でも紹介しましたが、この映画は遠藤周作の小説『沈黙』を、巨匠マーティン・スコセッシが映画化した歴史ドラマです。17世紀、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる江戸時代初期の日本を舞台に、来日した宣教師ロドリゴの衝撃の体験を描き出しています。「人間に最も必要なのは、奇蹟でも説教でもなく、ただ黙って肩を抱いてくれる存在ではないのか」と問う著者は、「イエスはユダすらも愛したはずだ。それを確信したロドリゴはキリストの境地に達した。スコセッシは『沈黙』を完成させるとまず、バチカンでフランシスコ法王とイエズス会の修道士200人を招いて試写した。彼らがロドリゴをどれだけ追体験できたかを伝える資料はないが、スコセッシは映画の終わりに、『迫害されたすべての切支丹と伝道士たちに捧ぐ』との献辞と共に『神の大いなる栄光のために』というイエズス会のモットーを掲げることをゆるされた。遠藤周作が願って得られなかった『転び伴天連』たちへの『ゆるし』が360年ぶりに与えられたのだ」と述べるのでした。



第10章「アウシュビッツで埋められたもの――『サウルの息子』」では、ブログ「サウルの息子」で紹介したホロコースト映画が取り上げられます。ハンガリー出身のネメシュ・ラースローがメガホンを取り、強制収容所に送り込まれたユダヤ人たちがたどる壮絶な宿命に迫る感動作です。仲間たちの死体処理を請け負う主人公が、息子と思われる少年をユダヤ人としてきちんと葬るために収容所内を駆けずり回る2日間を活写します。わたしはこの映画について、ブログにも感想を詳しく書き、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)でも書きました。しかし、著者から新たに教わったことがありました。著者は、ユダヤ人が少年の遺体を埋めようとすることの象徴的な意味について、主人公サウルと同じアウシュヴィッツのゾンダーコマンド(同胞を処刑するユダヤ人作業員)だったフィリップ・ミュラーの著作を参考に、彼らには「子どもの遺体は丁重に扱う」という掟があったと紹介します。そして、「大人の遺体をガス室から運び出すときは、重いからずるずると地面を引きずらざるをえなかった。しかし、子どもの遺体は両手でしっかり抱きかかえて運んだ。それだけは絶対に守ろう、子どもの遺体をモノ扱いして引きずって捨てたら俺たちはおしまいなんだ、とゾンダーコマンドたちは、これを掟にした」と述べています。



亡くなった少年がサウルの息子かそうか曖昧にされているのは、誰の子でもあるからです。著者は、ホロコースト映画の名作であるスピルバーグの『シンドラーのリスト』でも、赤いコートを着た少女がすべてのユダヤ人の象徴となっていたことを指摘します。シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが彼に贈った指輪には、「1人を救う者は世界を救う」というユダヤ教の戒律書『タルムード』の言葉が刻まれていました。原典には「それを教えるために神はアダム1人から人類を創った」と書かれているのですが、著者は「子どもを作り、その子どもが・・・・・・と何万人にも増えていく。子どもは未来の種だ」と述べます。そして、著者は『サウルの息子』の感動的なラストシーンについて、「最後、反乱を起こしたゾンダーコマンドたちと共に、サウルは『息子』を抱えて収容所を脱走し、川に遺体を流す。そして森の奥で、ポーランド人の少年と出会う。それまでずっと無表情だったサウルは、ここで初めて微笑む」と書いています。この微笑みの意味について、ラースロー監督は「メッセージを未来に伝えていかねばならない。そういうことです。人間性が失われ、死んでいく最中にもまだ希望は存在しうるのか、という問いかけです」と語りました。最後に、著者は「サウルは、未来と希望を子どもに、そして観客に託して、微笑んだのだ」と述べるのでした。



第12章「狂気が開ける扉――『ラ・ラ・ランド』」では、ブログ「ラ・ラ・ランド」で紹介したミュージカル映画の名作が取り上げられます。この映画のオープニングでは、画面が横に長く広がり、「シネマスコープ55」と出るのですが、著者によれば、これは「略奪された七人の花嫁」「スタア誕生」「オクラホマ!」「回転木馬」「王様と私」などのハリウッド黄金時代のミュージカル大作に多く使われたワイドスクリーン方式であり、よって「ラ・ラ・ランド」はディミアン・チャゼル監督のミュージカル・ルネッサンス宣言であると指摘します。この他にも「フォーリング・ダウン」「裏窓」「今晩は愛して頂戴ナ」「8½」「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」「ニューヨーク・ニューヨーク」「巴里のアメリカ人」、そして「雨に唄えば」という映画史上に残る数々の名作から引用されていると知り、ある意味でミュージカル映画の百科事典のような「ラ・ラ・ランド」の奥深さと著者の知識量に感嘆したのでした。



ラ・ラ・ランド」のラストでは、愛し合うミアとセバスチャンがそれぞれ違う道を歩み、5年後に再会します。ここで突然、2人が添い遂げて幸福な家庭を持つ人生が展開して、観客を驚かせるとともに感動させます。チャゼル監督は、この7分間のシーンについて「ただの夢じゃない」とインタビューで主張しました。彼は1927年のサイレント映画第七天国」の戦死した死者が生き返る結末を例に挙げます。主人チコは第1次世界大戦で戦死しますが、妻は夫の死を信じません。すると、なぜか生きていたチコが部屋に駆け込んできて妻と抱き合います。このハッピーエンドはあまりにも無理やりというか、常軌を逸しています。夫と死別した悲しみのあまり、妻が狂気に陥って死者が蘇った妄想を抱いたと見ることもできます。ところが、「第七天国」の結末について、チャゼルは「チコが死んだのも事実だし、生きているのも事実だ」と語るのでした。

 

死を乗り越える映画ガイド あなたの死生観が変わる究極の50本

死を乗り越える映画ガイド あなたの死生観が変わる究極の50本

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2016/09/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

チャゼルはまた、「本当に深い感情は時空も現実も超える」と語り、ミュージカルで人が突然踊り出すのは「気持ちが心にあふれた時、天国から90人編成のオーケストラが降りてきて演奏してくれるんだ。それはバカバカしいかもしれないけど、真実なんだ。少なくとも僕にとって」と述べるのでした。わたしは、このチャゼルの言葉ほど映画への愛情に溢れた名言を知りません。そして、映画が人間の心に与える影響力の大きさとグリーフケアにおける絶大な力を再認識しました。まさに、わたしが『死を乗り越える映画ガイド』で強く訴えたことです。その他にも、ブログ「ワンダーウーマン」やブログ「メッセージ」で紹介した映画など、わたし好みの映画も本書には取り上げられており、非常に楽しく読むことができました。それにしても、著者のユダヤ教キリスト教に対する造詣の深さには感心しましたが、考えてみれば、宗教も映画も人間を幸福にするための文化装置ではないでしょうか。著者の最大の関心事は「幸福」なのかもしれません。

 

「最前線の映画」を読む (インターナショナル新書)
 

 

2020年6月28日 一条真也

神話とは壊れるものではない(鎌田東二)

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一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生の言葉です。鎌田先生は、著書『古事記ワンダーランド』(角川選書)で、「神話とは、壊れるものではない」と述べています。


古事記ワンダーランド (角川選書)

古事記ワンダーランド (角川選書)

 

鎌田先生は、日本を代表する宗教哲学者です。わたしは「義兄弟」として親しくお付き合いさせていただいています。また、毎月、満月のたびに「シンとトニーのムーンサルトレター」というWeb書簡を交換しています。その内容を掲載した共著『満月交感 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)も上梓しましたが、その下巻の「まえがき」の最後に、わたしは次のような歌を詠みました。

 

人はみな神話と儀礼求むると
    文を交わせし師に教えられ

 

そう、人類は、神話と儀礼を必要としているのです。
その真実を、文通を通じて鎌田先生から学びました。


満月交感 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)

 

平成の頃から、主に若い人たちの間で、神社が「パワースポット」として熱い注目を浴びています。「パワースポット」とは、いわゆる生命エネルギーを与えてくれる「聖地」とされる場所です。宗像大社も日本を代表する神社の1つですが、2010年10月にここで鎌田先生が法螺貝を奏上した瞬間、突然、後光が射して仰天したことがあります。まさに神秘的な体験でした。そのとき、わたしは「この人は、神話の世界を現実として生きている!」と思いました。


宗像大社で法螺貝を吹く鎌田先生に後光が!!

 

日本の神話は『古事記』として集成されました。和銅5年(712年)に太安万侶を撰録者として成立したとされます。鎌田先生が初めて『古事記』に出合ったのは小学5年生の時だったそうです。通っていた小学校の図書館に口語訳の『古事記』があり、この本を読んだとき、突き抜けたような感覚、至福感が起こったのだそうです。そして鎌田少年は『古事記』に書かれている内容を「これは真実だ!」と直観し、我を忘れてしまうほど感激されたそうです。鎌田少年は、神話が持つ命、エネルギーに触れることによって、自分自身は渦の中に巻き込まれ、感動の頂点に達してしまったのでした。一種の神秘体験であろうと思います。

 

超訳 古事記

超訳 古事記

  • 作者:鎌田 東二
  • 発売日: 2009/10/22
  • メディア: 単行本
 

 

この神秘体験の影響もあったのでしょう。いまや日本を代表する宗教哲学者となった鎌田先生は、『古事記ワンダーランド』の中で「神話とは何か」について、「神話とは、壊れるものではない。簡単に壊れてしまった原子力発電所の『安全神話』なるものは、その意味で、神話の名に値しない。それは幻想であり、イデオロギーであり、詐術であった。イデオロギーは壊れ、変化する。しかし、神話は壊れることなく伝承されてきた。人類史を貫く根源的な感性や想像力のDNAが神話であり、それはいわばATGCのような塩基記号で書かれている原形的な表象である」と力強く述べます。そう、神話が壊れるときは人間が壊れるときであり、人類消滅のときは神話が壊れます。そして、『古事記』に書かれている日本神話が壊れる時は日本人が消滅する時でしょう。わたしたち日本人は、そのことを肝に銘じておく必要があるのではないでしょうか。

 

2020年6月27日 一条真也