死者儀礼としてのオリンピック

一条真也です。
7月1日、じつに5ヵ月ぶりにサンレー本社の総合朝礼を行います。夏越大祓式の神事も行います。ただし場所は、いつものサンレー本社4階ではなく、小倉紫雲閣の大ホール。わが社が誇る儀式の殿堂です。産経新聞社の WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第24回目がアップされました。タイトルは「死者儀礼としてのオリンピック」です。

f:id:shins2m:20200630095054j:plain「死者儀礼としてのオリンピック」

 

7月になりました。本来、今月から東京オリンピックパラリンピックが開始されるはずでしたが、信じられないような思いです。東京五輪は1年延期されましたが、新型コロナウイルスの収束が見えない今、その開催に疑問を抱く人は多いことと思います。

 

わたしも現在の商業主義にまみれたオリンピックには強い違和感をおぼえているのですが、ピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピックの精神そのものは高く評価しています。オリンピックは平和の祭典であり、全世界の饗宴です。数々のスポーツ競技はもちろんのこと、華々しい開会式・閉会式は言語や宗教の違いを超えて、人類すべてにとってのお祭りであることを実感させるイベントであることは間違いないでしょう。

 

古代ギリシャにおけるオリンピア祭の由来は諸説ありますが、そのうちの1つとして、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行ったというホメーロスによる説があります。これが事実ならば、古代オリンピックは葬送の祭りとして発生したということになるでしょう。

 

21世紀最初の開催となった2004年のオリンピックは、奇しくも五輪発祥の地アテネで開催されましたが、このことに人類にとって古代オリンピックとの悲しい符合を感じました。アテネオリンピックは、21世紀の幕開けとともに起こった9・11同時多発テロや、アフガニスタンイラクで亡くなった人々の霊をなぐさめる壮大な葬送儀礼と見ることもできたからです。

 

オリンピックは、クーベルタンというフランスの偉大な理想主義者の手によって、じつに1500年もの長い眠りからさめ、1896年の第1回アテネ大会で近代オリンピックとして復活しました。その後120年が経過し、オリンピックは大きな変貌を遂げます。

 

「アマチュアリズム」の原則は完全に姿を消し、ショー化や商業化の波も、もはや止めることはできません。各国の企業は販売や宣伝戦略にオリンピックを利用し、開催側は企業の金をあてにします。大手広告代理店を中心とするオリンピック・ビジネスは、今や、巨額のマーケットとなっているのです。そのオリンピックという巨大イベントを初期設定して「儀式」に戻す必要があると、わたしは考えます。

 

もし、1年後の2021年7月に東京五輪が開催されるのならば、それは新型コロナウイルスで亡くなった世界中のすべての方々の葬送儀礼であり、追悼儀礼であるべきでしょう。そんなことも6月11日に発売された最新刊『心ゆたかな社会』(現代書林)に書きました。ご一読下されば幸いです。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

2020年7月1日 一条真也