『新型コロナウイルスの真実』

新型コロナウイルスの真実

 

一条真也です。
緊急事態宣言が全面解除された翌日となる26日、99冊目の「一条本」として、『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)が発売されました。ぜひ、ご一読下さい!
いま、出版界で売れているのは新型コロナウイルス関連の本です。わたしも、緊急事態宣言の間に大量に読みましたが、最も多くの読者に読まれているのが本書『新型コロナウイルスの真実』岩田健太郎著(ベスト新書)です。著者は1971年、島根県生まれ。神戸大学大学院医学研究科・微生物感染症学講座感染治療学分野教授。神戸大学都市安全研究センター教授。ニューヨークで炭疽菌テロ、北京でSARS流行時、またアフリカではエボラ出血熱の臨床を経験。帰国後は亀田総合病院(千葉県)に勤務。感染症内科部長、同総合診療・感染症科部長を歴任。著書多数。本書は、巻末に「本書は世界的なCOVID-19パンデミックの最中に作られた非常時の本です」と書かれていますが、著者の書き下ろしではなく、ライターさんが著者の話を聞いて文章起こしをしたそうです。緊急性のある出版なので仕方ないですね。

f:id:shins2m:20200507114654j:plain本書のカバーの下部

 

本書のカバー表紙の上部に著者の写真が使われ、下部にダイヤモンド・プリンセス号の青みがかった写真とともに「感染症専門医の第一人者が語る感染不安への処方箋」「ダイヤモンド・プリンセスになぜ私は乗船し、追い出されたのか? 動画公開に至るまでの顛末とは!?」と書かれています。

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本書のカバー裏の下部

 

カバー裏表紙の下部には、「自分と家族を守る感染症対策の鉄則」として、「新型コロナウイルスは空気かんせんするのか?/このウイルスがタチが悪いとはどういうこと?/手洗いやうがいで本当に感染は防げるの?/感染対策にマスクは効果ないって本当?/若者がウイルスを拡げているの?/満員電車には乗らないほうがいいの?/PCR検査で正しい結果が出るのは6割!?/なぜ世界中でパニックになってしまったの?/なぜ医療崩壊してしまう国が出てきたの?/感染症パンデミックは本当に収束するの?」と書かれています。

 

また、カバー前そでには以下の内容紹介があります。
「本書は、新型コロナウイルスの正体と感染対策を これ以上なく分かりやすく解説した決定版です。 感染症パンデミックとなったいま、世界中の人々が 過剰にパニックを引き起こす メカニズムまでをも理解できます。 そんなとき、組織はどうあるべきか、 個人はどう判断し行動すべきか。『危機の時代を生きる』ための指針に満ちています」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第一章 「コロナウイルス」って何ですか?

第二章 あなたができる感染症対策のイロハ

第三章 ダイヤモンド・プリンセスで起こっていたこと

第四章 新型コロナウイルスで日本社会は変わるか

第五章 どんな感染症にも向き合える心構えとは

「あとがき」



「はじめに」で、著者は「新型コロナウイルスについて自分で判断するために、必要な情報や知識とは何でしょうか」と読者に問いかけ、「それは、感染症の原則を押さえることです。『微生物と感染症は違いますよ』とか、『感染と病気は別物ですよ』とか、『感染経路を遮断することが大事ですよ』という、原則的なところからしっかり理解を深めていくことが重要です」と述べています。また、「ダイヤモンド・プリンセスでの対応を除けば、日本政府のコロナウイルス対策は概ね適切だし、諸外国の対応と大きな違いはない、というのがぼくの理解です」とも述べています。



第一章「『コロナウイルス』って何ですか?」では、ウイルスの定義を試みます。ざっくり言うと「他の生物の細胞の中に入らないと生きていけない微生物」ということになるとして、著者は「ウイルスと菌は、よく混同されることがありますね。ウイルスと菌の間で何が違うかというと、じつはこれも厳密に議論するとなかなかややこしい問題なんです。けれどもざっくり言えば、ウイルスは『抗生物質が効かない』もので、菌は『抗生物質で殺せる』ものと捉えていただければ、一般の方でしたら問題ないと思います」と述べます。



ブログ「コロナとサンレー」で、わたしは「コロナ(CORONA)」というのは英語で「太陽の炎」という意味だと説明しました。また、コロナは太陽光線の紫外線に弱いという説を紹介し、「サンレー(SUNRAY)」が太陽光線という意味であることから、「サンレーがコロナを打ち破るのかもしれません」と述べました。本書には、もともとコロナは「冠」のような意味合いだと書かれています。電子顕微鏡で見ると、周りに冠状のギザギザが付いた形をしているので「コロナウイルス」という名前が付いているそうです。



風邪で病院に行くと、抗生物質を処方されることがあります。でも、著者は「『風邪を治す』という意味での風邪薬は存在しなくて、薬にできるのは、くしゃみを止めたり、鼻水を止めたり、咳を止めたりなどの対症療法だけです。風邪そのものは自然に治るのを待つしかない、そして、たいていは自然に治ってしまう、というのが従来のコロナウイルスでした」と説明します。2002年、コロナウイルスの歴史が変わります。中国の広州を中心に、今まで見つかっていなかった新しいコロナウイルスが発見されたのです。これが後に「SARS(サーズ)」と呼ばれる病気の原因である「SARSコロナウイルス」でした。



従来のコロナウイルスは喉とか鼻など「首から上」の症状を引き起こすウイルスでしたが、このSARSコロナウイルスは「首より下」に位置している肺の病気を引き起こしました。著者は「人は肺で酸素の交換をしますから、ここが病気を起こすと呼吸ができなくなります。つまり、命に関わる病気の原因となるコロナウイルスが登場したんです」と述べています。肺炎を起こしやすいSARSは致死率も高く、罹った人の死亡率は約10パーセントでした。

 

その後、2012年に、今度は中東のラクダから感染するコロナウイルスが見つかりました。「MERS(マーズ)コロナウイルス」です。MERSはMiddle East Respiratory Syndrome(中東呼吸器症候群)の略で、Middle Eastとは中東のこと。MERSコロナウイルスもやっぱり肺炎を起こしました。これはSARSに輪をかけて致死率が高いウイルスで、罹った人の死亡率は30パーセントという非常に怖い感染症でした。



「7番目のコロナウイルス」として、著者は「風邪の原因となる従来のコロナウイルスは4種類で、2002年にSARSが、2012年にMERSが出て、延べ6種類のコロナウイルスが人間に病気を起こすことが、これまでに分かっていたことになります。そして、今回世界中で流行しているのが『7番目のコロナウイルス』になります。これはおそらく2019年の暮れ・・・・・・11月とか12月とか諸説ありますが、中国・湖北省武漢で感染を始めました」と述べています。武漢で患者が激増し、そうこうするうちに中国の正月休みである「春節」の時期に突入してしまいました。そして現在のような世界的な大問題になり、2020年3月12日にはWHO(世界保健機関)がパンデミック宣言を出したのでした。



新型コロナウイルスの感染についてはPCR検査の是非が議論されていますが、PCRとはPolymerase Chain Reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)の頭文字で、特定の遺伝子を捕まえて増幅させる技術です。著者によれば、対象がウイルスでなくても、遺伝子さえ持っていれば、例えば人の遺伝子に対してもPCRを使うことができるそうです。著者は、「PCRによる検査では、この新型コロナウイルスに特徴的な遺伝子の配列を探してきて、対になっている遺伝子を分離させ、ポリメラーゼという酵素の働きを利用して遺伝子を増幅させます。こうやってウイルスの遺伝子を増やし、見える形にしてあげて写真を撮り、ウイルスがいるかいないか判断する、というのがPCRの原理です」と説明しています。



また、PCR検査はよく間違えるということが指摘されていますが、新型コロナウイルスの検査の場合は喉をこすってサンプリングするので、そこで拾えた遺伝子の量が足りない場合と、そもそも喉にウイルスがいない場合があるそうです。著者は、「ウイルスは人間の細胞の中にいますから、細胞から外に出ているウイルスの遺伝子を捕まえてやらなくてはいけないんですが、感染していても細胞からなかなか外に出ずにサンプリングできないことがあるんですね。あるいは、ウイルスが喉にいなくて肺の中に入ってしまっていると、当然喉をこすっても捕まりません。というわけで、PCRによる検査では偽陰性、つまり体内にウイルスがいるんだけど検査で捕まらないことがしばしば起きます」と述べています。これは今回のウイルスに限った話ではなく、これまでに知られている感染症でもよく起きてきたことだとか。

 

PCRで陰性でもウイルスがいないという証明にはなりません。逆に、PCRが陽性の場合はウイルスがいるという証明にほぼなります。著者は「つまり、検査はよく間違えるということです。『医学的な検査は正しい』というのは、じつは間違い。多くの医者も誤解しているんですけど、検査はしょっちゅう間違える。ここを理解しておくことが、すごく大切なんです」と訴えます。そして、新型コロナウィルスの感染に関しては、「4日間症状が続いたら病院に行きましょう、あるいは妊婦さんや高齢者、持病のある人は少し早めに病院に行きましょうというのは、正しく診断することをはじめから放棄するということです」と述べています。



続けて、著者は「このやり方では、家で寝ていれば勝手に治るコロナウイルスを見逃しているかもしれないけど、別に見逃してもいいんです。家で安静にしているのなら」と述べています。病院に来なくていい人は病院に来ないほうが、二次感染は拡がりません。症状が軽い人に対して病院ができる治療はそもそもないんだから、勝手に治る人は勝手に治しちゃえばいい。それでも治らない人は病院に来れば、そこでは酸素も投与できるし、血圧を上げることもできるし、人工呼吸器につなぐこともできる。その必要性を判断する根拠は、症状です」と述べるのでした。



第二章「あなたができる感染症対策のイロハ」では、免疫力について語られます。「免疫力」とは病原体に対抗する力、つまり生体防御反応の強さのこと。著者によれば、これは、強くなれば強くなるほどいいものではなく、むしろ害になるといいます。例えばアトピー性皮膚炎や喘息、花粉症、関節リウマチなどの症状は「自己免疫疾患」に分類されますが、これらは全部免疫力が高すぎるがゆえに起きた弊害であるとして、著者は「つまり、免疫力ってバランスなので、高すぎても低すぎてもダメなので、『免疫力アップ』を売り物にしている時点で、既に間違いです」と述べます。それでは、インチキでなく免疫力を上げる方法はないのでしょうか。著者は、1つだけあると述べ、それは「ワクチン」だそうです。



第三章「ダイヤモンド・プリンセスで起こっていたこと」では、横浜に寄港した大量の感染者を出したダイヤモンド・プリンセスについて語られます。同船に乗船した著者は、船内では、感染の危険がある区域と安全な区域が区別されていなかったと指摘し、ネットを通じて、国の対策が不十分だと批判しました。その後、ネットに上げていた動画を削除しています。著者は、「クルーズ船が感染症に弱いというのは、感染症の専門家の間では昔から常識でした。肺炎とか、インフルエンザとか、ノロウイルスなんかがクルーズ船で流行りやすいことは以前から分かっていたんです。アメリカのCⅮCもガイドラインを作っていますし、事例もたくさん報告されています。もちろん論文も出ています」と述べています。



しかし、「クルーズ船が感染症に弱い」という常識をおそらく日本の官僚たちは理解していなかったとして、著者は「官僚というのは、要するに出てきたデータしか見ません。だから多分、香港で感染者が出た報告にも『なんだ、1人しか出てないじゃないか』という話になって、甘く見たんだと思います。感染症への経験や、専門知識のバックグラウンドがある人とない人、つまり玄人と素人の違いが出てしまったことが背景にあって、初動が遅れたわけです」と述べています。著者のダイヤモンドプリンセスの感染対策についての政府批判に関しては、じつに多様な意見が飛び交っていますが、政治的な問題には立ち入らないようにしたいと思います。

 

第四章「新型コロナウイルスで日本社会は変わるか」では、感染の再拡大について語られています。現在、日本においては新型コロナウイルスの感染拡大は収まってきたと見られています。緊急事態宣言も各地で解除されました。しかし、感染症の怖いところは、油断して対策の手を抜くとまた増えてしまうことであるとして、著者は「地震とか津波でも大変な被害は起こるけれど、来てしまえば終わりで、その後は終わったことに対する後始末をすればいい。それが感染症の場合は『終わりかけたんだけど、油断したからまたやり直し』みたいになる可能性があるわけですよ」と警告します。



日本の新型コロナウイルス対策は正しかったのでしょうか。それとも、間違っていたのでしょうか。この問題について、著者は「東京の屋形船の時や、和歌山の病院なんかではすごく上手な押さえ込みをしましたし、感染が拡がった初期、京都や奈良の患者さんからの感染はかなりうまく押さえ込みました。日本は局地戦では割とうまくやってるんです。ただし、戦争と一緒で、局地戦をそれなりに勝っていても全体として負けてしまうということもある。だからこそ、全体で勝つためのグランドデザインが必要です。局地的な戦術を勝利に結びつけるために、全体の戦略でしくじらないことが大事です」と述べています。



新型コロナウイルスの発生地は中国だという見方が大半です。わたしも、そう思います。また、日本はもっと早くに中国からの観光客らの受け入れを禁止すべきだったとも考えています。しかし、著者は「『中国からの渡航を禁止すればよかったじゃないか』という話がよくありますが、おそらくそれは五十歩百歩の問題で、感染の拡がりを止めるインパクトは最終的にはあんまりなかったと思います。中国からの渡航をさっさと禁止したアメリカでも、コロナウイルスはすごく流行しています。渡航禁止したら一時しのぎにはなるかもしれないけれど、他の国を介して、結局人は入ってくるんです。このウイルス感染を完全に免れた国、あるいは免れそうな国というのは今のところ存在しない。春節のときに中国人を入れなきゃよかった、みたいな話は、おそらく程度問題で、問題が深刻化する時期が後ろにずれるだけだったと思います」と述べるのでした。このくだりに関して、わたしは著者と意見が違いますが、「新型コロナウイルスとは何か」を学ぶという意味では、平易な語り言葉で書かれた本書は最適のテキストであると思いました。

 

新型コロナウイルスの真実

新型コロナウイルスの真実

 

 

2020年5月26日 一条真也

『コロナの時代の僕ら』

コロナの時代の僕ら

 

一条真也です。
25日、ようやく北海道、埼玉、千葉、東京、神奈川の5都道県の緊急事態宣言が解除されました。まだ油断はできませんが、一応は日本全国が緊急事態から脱した形です。
とにかく、今回の新型コロナウイルスの感染拡大は想定外の事件でした。わたしを含めて、あらゆる人々がすべての「予定」を奪われました。個人としては読書や執筆に時間が割けるので外出自粛はまったく苦ではありませんでしたが、冠婚葬祭業の会社を経営する者としては今も苦労が絶えません。もっとも、コロナとの付き合いはまだ終わってはいません。そんな中で、話題の書である『コロナの時代の僕ら』パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳(早川書房)を読みました。まさに「今、読むべき本」でした。

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本書の帯

 

著者はイタリアの小説家です。1982年、トリノ生まれ。トリノ大学大学院博士課程修了。専攻は素粒子物理学。2008年、デビュー長篇となる『素数たちの孤独』は、人口6000万人のイタリアでは異例の200万部超のセールスを記録。同国最高峰のストレーガ賞、カンピエッロ文学賞新人賞など、数々の文学賞を受賞。本書のカバー表紙にはイタリアの街を描いた高石瑞希氏の装画が使われ、帯には著者の顔写真とともに、「何を守り、何を捨て、僕らはどう生きていくべきか。」「2020年春、ローマにて。非常事態下で綴られたイタリア人作家の叫び。今読むべき傑作エッセイ」「27カ国で緊急刊行」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、著者あとがき「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」より「緊急事態に苦しみながらも僕らは――それだけでも、数字に証言、ツイートに法令、とてつもない恐怖で、十分に頭がいっぱいだが――今までとは違った思考をしてみるための空間を確保しなくてはいけない。30日前であったならば、そのあまりの素朴さに僕らも苦笑していたであろう、壮大な問いの数々を今、あえてするために。たとえばこんな問いだ。すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」という言葉が引用されています。また、「著者は印税収入の一部を医療研究および感染者の治療に従事する人々に寄付することを表明しています」と書かれています。

 

カバー前そでには、「感染症とは僕らのさまざまな関係を侵す病だ」として、「この災いに立ち向かうために、僕らは何をするべきだったのだろう。何をしてはいけなかったのだろう。そしてこれから、何をしたらよいのだろう。コロナの時代を生きる人々へイタリアを代表する小説家が贈る、痛切で、誠実なエッセイ集」と書かれています。

 

本書には、著者がイタリアの新聞「コリエーレ・デッラ・セーレ」紙に寄稿した27のエッセイが掲載されています。最初の「地に足をつけたままで」では、「今回の危機では『イタリアで』という表現が色あせてしまう。もはやどんな国境も存在せず、州や町の区分も意味をなさない。今、僕たちが体験している現実の前では、どんなアイデンティティも文化を意味をなさない。今回の新型ウイルス流行は、この世界が今やどれほどグローバル化され、相互につながり、からみ合っているかを示すものさしなのだ」と述べます。

 

また、著者は以下のようにも書いています。
「僕のこの先しばらくの予定は感染拡大抑止策のためにキャンセルされるか、こちらから延期してもらった。そして気づけば、予定外の空白の中にいた。多くの人々が同じような今を共有しているはずだ。僕たちは日常の中断されたひと時を過ごしている。それはいわばリズムの止まった時間だ。歌で時々あるが、ドラムの音が消え、音楽が膨らむような感じのする、あの間に似ている。学校は閉鎖され、空を行く飛行機はわずかで、博物館の廊下では見学者のまばらな足音が妙に大きく響き、どこに行ってもいつもより静かだ」

 

そして、「僕はこの空白の時間を使って文章を書くことにした。予兆を見守り、今回のすべてを考えるための理想的な方法を見つけるために。時に執筆作業は重りとなって、僕らが地に足を着けたままでいられるよう、助けてくれるものだ。でも別の動機もある。この感染症がこちらに対して、僕ら人類の何を明らかにしつつあるのか、それを絶対に見逃したくないのだ」と書くのでした。こうして感染症の拡大を受けて外出自粛する世界的作家による一連のエッセイは幕を開けるのでした。

 

「最善を望む」というエッセイでは、感染拡大の中での不安な心との付き合い方について、「感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。なぜなら、最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち方とは限らないからだ。不可能なこと、または実現性の低い未来を待ち望めば、ひとは度重なる失望を味わう羽目になる。希望的観測が問題なのは、この種の危機の場合、それがまやかしであるためというより、僕らをまっすぐ不安へと導いてしまうためなのだ」と述べています。

 

感染拡大の中で、わたしたちを囲む人間関係はどう変化していくのか。著者は、「手足口病」というタイトルのエッセイで、「新型ウイルスの流行は僕らの人間関係にすでにダメージを与えており、多くの孤独をもたらしている。集中治療室に収容され、一枚のガラス越しに他者と会話をする患者の孤独もそうだが、もっと一般的に広まっている別の孤独もある。たとえばマスクの下で固く閉ざされた口の孤独、猜疑に満ちた視線の孤独、ずっと家にいなければならない孤独がそうだ。感染症の流行時、僕らは自由でありながらも、誰もが自宅軟禁の刑に処された受刑者なのだ」と述べています。

 

21世紀は、インターネットやスマホをはじめ、さまざまなテクノロジーが花開きました。人類史における科学的進歩はめざましいと思うのですが、「専門家」というタイトルのエッセイで、著者は「今回の流行で僕たちは科学に失望した。確かな答えがほしかったのに、雑多な意見しか見つからなかったからだ。ただ僕らは忘れているが、実は科学とは昔からそういうものだ。いやむしろ、科学とはそれ以外のかたちではありえないもので、疑問は科学にとって真理にまして聖なるものなのだ。今の僕たちはそうしたことには関心が持てない。専門家同士が口角泡を飛ばす姿を、僕らは両親の喧嘩を眺める子どもたちのように下から仰ぎ見る。それから自分たちも喧嘩を始める」と述べています。

 

「日々を数える」では、「今度の危機は多くの部分で時間と関連している。僕たちが時間を整理し、歪め、また時間のために四苦八苦する有り様と関連している」と述べ、さらに「日常が不意に、僕たちの所有する財産のうちでもっとも神聖なものと化したわけだが、これまで僕らはそこまで日常を大切にしてこなかったし、冷静に考えてみれば、そのなんたるかもよく知らない。とにかくみんなが取り返したいと思っているものであることは確かだ」とも述べています。

 

その直後に、著者は「しかし日常は一時中止され、いつまでこの状態が続くのかは誰にもわからない。今は非日常の時間だ。この時間の中で生きることを僕らは学ぶべきであり、死への恐怖以外にも、この時間を受け入れるための理由をもっと見つけるべきだ。ウイルスに知性がないというのは本当かもしれないが、すぐに変異し、状況に適応できるという一点では人間に勝っている。そこはウイルスに学んだほうがよさそうだ」と述べるのでした。

 

著者あとがき「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」は、まことに心を打つ文章です。感染症の始まりから現在までを思い起こして、著者はまず、「振り返ってみれば、あっという間に接近されたような気がする。『六次のへだたり』理論が本当かどうか、僕は知らない。知りあいのつてをたどっていくと、驚くほどわずかな人数を介しただけで世界の誰とでもつながってしまうという、あの話だ。でも今度のウイルスは、まるで網の目をたどる昆虫のように、そんなひとの縁の連鎖によじ登り、僕たちのもとにたどり着いた。中国にいたはずの感染症が次はイタリアに来て、僕らの町に来て、やがて誰か著名人に陽性反応が出て、僕らの友だちのひとりが感染して、僕らの住んでいるアパートの住民が入院した。その間、わずか30日。そうしたステップのひとつひとつを目撃するたび――確率的には妥当で、ごく当たり前なはずの出来事なのに――僕らは目をみはった。信じられなかったのだ。『まさかの事態』の領域で動き回ることこそ、始めから今度のウイルスの強みだった」
わたしは、これほど「まさかの事態」が生き生きと描かれた文章を他に知りません。ちょっと村上春樹氏の文体に近いのような気もしますが、さすがはイタリアの歴史に残る作家だけのことはあります。

 

著者は、「戦争」という言葉の濫用について書いているうちに、マルグリット・デュラスの言葉をひとつ思い出したそうです。逆説的なその言葉は「平和の様相はすでに現れてきている。到来するのは闇夜のようでもあり、また忘却の始まりでもある」(『苦悩』田中倫郎訳 河出書房新社)というものです。この言葉を受けて、著者は「戦争が終わると、誰もが一切を急いで忘れようとするが、病気にも似たようなことが起きる。苦しみは僕たちを普段であればぼやけて見えない真実に触れさせ、物事の優先順位を見直させ、現在という時間が本来の大きさを取り戻した、そんな印象さえ与えるのに、病気が治ったとたん、そうした天啓はたちまち煙と化してしまうものだ。僕たちは今、地球規模の病気にかかっている最中であり、パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終焉とともに消えてなくなることだろう。もしも、僕らが今すぐそれを記憶に留めぬ限りは」と書いています。

 

そして、著者は以下の感動的な文章を綴るのでした。
「僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそあることを。
僕は忘れたくない。パンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを。
僕は忘れたくない。家族をひとつにまとめる役目において自分が英雄的でもなければ、常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要に迫られても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを」

 

わたしは、この文章を読んで、大変感動しました。そして、自分なりに、今回のパンデミックを振り返りました。
わたしは忘れたくありません。今回のパンデミックで卒業式や入学式という、人生で唯一のセレモニーを経験できなかった生徒や学生たちが大きな悲嘆と不安を抱えたことを。
わたしは忘れたくありません。今回のパンデミックで多くの新入社員たちが入社式を行えなかったことを。そして、わが社では全員マスク姿で辞令交付式のみを行ったことを。
わたしは忘れたくありません。緊急事態宣言の中、決死の覚悟で東京や神戸や金沢に出張したことを。沖縄の海洋葬には行けなかったことを。いつもの飛行機や新幹線は信じられないくらいに人がいなかったことを。
わたしは忘れたくありません。日本中でマスクが不足し、訪れたドラッグストアで1人の老婦人から「あなたはマスクをしていますね。そのマスクはどこで買えるのですか?どこにもマスクが売っていなくて困っているのです」と深刻な表情で話しかけられたことを。

 

わたしは忘れたくありません。一世一代の結婚式をどうしても延期しなければならなかった新郎新婦の落胆した表情を。
わたしは忘れたくありません。新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった方々の通夜も告別式も行えなかったことを。故人の最期のに面会もできず、遺体にも会えなかった遺族の方々の絶望の涙を。
わたしは忘れたくありません。外出自粛が続く毎日の中で、これまでの人生で最も家族との時間が持てたことを。
わたしは忘れたくありません。緊急事態宣言の間、何度も社員や友人に希望のメッセージをLINEで送信したことを。
そして、わたしは忘れたくありません。感染拡大が続く中で、人類の未来についての希望を祈りとともに記した100冊目の著書を書いたことを。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

本書の最後には、著者の「家にいよう。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼み、弔おう。でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう。『まさかの事態』に、もう二度と、不意を突かれないために」と書かれています。これを読んで、わたしはアンデルセンの童話「マッチ売りの少女」を連想しました。この短い物語には2つのメッセージが込められています。1つは、「マッチはいかがですか?マッチを買ってください!」と、幼い少女が必死で懇願していたとき、通りかかった大人はマッチを買ってあげなければならなかったということです。少女の「マッチを買ってください」とは「わたしの命を助けてください」という意味だったのです。これがアンデルセンの第1のメッセージでしょう。

 

 

そして、アンデルセンの第2のメッセージは、少女の亡骸を弔ってあげなければならないということ。行き倒れの遺体を見て見ぬふりをして通りすぎることは人として許されません。死者を弔うことは人として当然です。このように、「生者の命を助けること」「死者を弔うこと」の2つこそ、国や民族や宗教を超えた人類普遍の「人の道」なのです。本書『コロナの時代の僕ら』を読んで、改めて、この2つの道の普遍性と必要性を心に刻み、現在もなお防護服の不足する中、この2つの道を守るために日夜奮闘している医療従事者と葬儀従事者のみなさんに心からの敬意の念を抱きました。

 

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

 

 

 2020年5月25日 一条真也

プロレスYouTubeが面白い!

一条真也です。
女子プロレスラーの木村花さん急逝のニュースには心が痛みました。SNSでの誹謗中傷を繰り返すクズどもを取り締まる必要性と、ツイッター社の管理強化を求めたいです。
さて、ブログ「闘魂YouTuber」では、プロレス界のレジェンドたちが続々とYouTubeに参戦していることをご紹介しました。その後、時間の許す限りチェックしてきましたが、プロレス関連のYouTubeチャンネルが面白すぎて困っています!

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まずは、‟燃える闘魂アントニオ猪木が「最後の闘魂」で、‟熊殺し”ウィリー・ウイリアムス、‟空手バカ一代大山倍達へのコメントをはじめ、これまでなかなか真意がわからなかった数々の質問に対して率直なコメントを発しています。「よく、こんなことを猪木に聞けたなあ!」と「よく、こんな質問、猪木が答えたなあ!」の連続で、各所に猪木の人生観も示され、非常に満足度の高い動画でした。

f:id:shins2m:20200524185800j:plain前田日明チャンネル」 



 

次に、‟新格闘王”前田日明が開設した「前田日明チャンネル」ですが、ゲストに‟ドラゴン”藤波辰爾を迎えて、2回にわたって語り合っています。その内容が最高に素晴らしい! 新日本プロレスの若手時代の思い出から、カール・ゴッチ長州力アントニオ猪木に対するコメントも非常に味わい深いです。そして、なんといっても、未成年の頃の藤波がアフリカで猪木に置き去りにされて、独力で日本に帰国した驚愕のエピソードが秀逸。現在なら完全にパワハラを通り越した犯罪モノですが、わたしはこの動画を観て、藤波のプロレスラーとしての実力は当然ですが、それ以外に格闘技の実力、そして人間力を心底、見直しました。

f:id:shins2m:20200524184304j:plainRIKI CHANNEL」 





藤波・前田対談では、‟革命戦士”長州力の最近の「はじけっぷり」が大いに話題になっていましたが、その長州が開設した「RIKI CHANNEL」では、なんと‟プロレスリングマスター”武藤敬司とリモート飲み会しています。このときの長州が放つジョークとか、武藤に対する説教とか、いちいち面白かったです。わたしは「あの長州力が、こんなリモート飲み会で酔っぱらうのか!」という驚きもあり、意外と滑舌が良かったこともあって、「長州は役者だなあ!」と感心した次第です。しかし、何度も長州が「俺は、ホストクラブのナンバーワンだから」と大ボケをかましているのに、そこに突っ込まない武藤はダメだなあと思いました。

f:id:shins2m:20200524190531j:plainCHONO Network



長州と武藤とのリモート飲み会の動画がUPされた翌日、「CHONO Network」で‟黒のカリスマ蝶野正洋と長州の対談動画がUPされました。蝶野のデビュー35周年記念として企画されたトークショーでしたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、無観客での開催となりました。最初はテンションが低そうだった長州ですが、自身が「三バカ大将」と呼んでいた「闘魂三銃士」の話題になると乗ってきました。特に、長州が「チンタ」と呼ぶ橋本真也の思い出話は抱腹絶倒の面白さ。長州と橋本が環七をドライブしていて暴走族に遭遇し、長州が「轢いちまえ!」と言ったら、橋本が素直に従って4・5台のバイクを本当に轢いたというエピソードは最高でした。長州と橋本といえば、不仲のイメージが強かったですが、橋本への愛情に溢れた長州の語り口を見て感動しました。でも、よく考えたら、これも「長州は役者だなあ!」なのかもしれませんね。

f:id:shins2m:20200527230332j:plain日本プロレス殿堂会



長州と蝶野の対談動画がUPされた5月20日には、「日本プロレス殿堂会」も新しい動画をUPしました。なんと、天龍源一郎藤波辰爾長州力の3人が「ステイホーム」にどのように向かい合ってきたのかを紹介するという内容です。もともと3月末に撮影されたものですが、その後、4月7日に緊急事態宣言が出されて状況が変わってお蔵入りしていた映像だそうです。しかし、8都道府県の緊急事態宣言解除の動きが出てきた時点で、改めて天龍、藤波、長州の3人(滑舌三銃士?)が新型コロナとどう向き合ってきたのかというメッセージを公開されたわけですね。それにしても、わたしのような昭和プロレスをこよなく愛する者にとって、こんな感涙モノの動画をYouTubeで気軽に鑑賞できる時代が来るとは・・・・・・良い意味で完全に想定外ですよォォォォォォ!(ターザン山本風)。これからも、プロレス界のレジェンドたちのYouTube動画に期待しています!

 

2020年5月24日 一条真也

人間として正しいことを追求する(稲盛和夫)

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一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、現代日本を代表する経営者である稲盛和夫氏の言葉です。松下幸之助翁が「昭和の経営の神様」なら、「平成の経営の神様」と称される稲盛氏ですが、京セラを起業された当時は、弱冠27歳でした。当然ながら経営の経験があるわけではなく、営業や経理も分からない状態だったことと推察します。しかし、創業から決裁しなければならない課題が山積していく中、「何を基準に判断すべきか」悩み続け続けた果てに、「人間として何が正しいのか」、つまり、最も基本的な倫理観に基づき、判断していくことにされたそうです。

 

「成功」と「失敗」の法則

「成功」と「失敗」の法則

 

稲盛氏は、『「成功」と「失敗」の法則』(致知出版社)で次のように述べています。
「現在の社会は、不正が平然と行われていたり、利己的で勝手な行動をとる人がいたりと、決して理想的なものではないかもしれません。しかし、世の中がどうであろうと、私は『人間として何が正しいか』を自らに問い、誰から見ても正しいことを、つまり、人間として普遍的に正しいことを追究し、理想を追い続けようと決めたのです。『人間として正しいことを追究する』ということは、どのような状況に置かれようと、公正、公平、正義、努力、勇気、博愛、謙虚、誠実というような言葉で表現できるものを最も大切な価値観として尊重し、それに基づき行動しようというものです」



経営者は往々にして「儲かるかどうか」、「合理性や効率性」を判断基準してしまうことが多く、一生懸命働くというよりは、妥協や根回しなどで、少しでも楽をしようとするが、経営者は常に公明正大で大義名分を持っていなければならないと稲盛氏は訴えます。また経営者に限らず、政治家や官僚など指導的な立場にある者の心得について稲盛氏は「かくあるべし」と提起し、「指導的立場にあるリーダーと呼ばれる人々は、自らの言動が『人として恥ずべきところが少しでもないか』と常に厳しく自問していくべきではないでしょうか。政・官・財、あらゆる分野でリーダーと呼ばれる人々を先頭に、私たち一人ひとりが人間として正しいことを追求するようになってはじめて、社会全体のモラルが向上し、健全な社会が築かれていくのだと思います」と述べます。

 

心。

心。

  • 作者:稲盛和夫
  • 発売日: 2019/06/19
  • メディア: ペーパーバック
 

 

近刊『心ゆたかな社会』(現代書林)でわたしが提示した次なる社会像とは、まさに稲盛氏が理想とされている「健全な社会」にほかなりません。かのプロイセンの鉄血宰相ビスマルクに「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という有名な言葉があります。世間を騒がせた食品偽装問題も「人として恥ずべきところが少しでもないか」という判断基準があれば起こりえない事件です。稲盛氏がご自身の「生き方」「働き方」で証明し続けておられる「歴史」に、今こそ学ぶべきではないでしょうか。『心ゆたかな社会』は稲盛氏の最新の名著である『心。』(サンマーク出版)にインスパイアされて書きました。
どうか、ご一読下さいますよう、お願い申し上げます。

 

心ゆたかな社会: 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

2020年5月24日 一条真也拝 

白い雲を見上げて  

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松の生えている巌の下で暮らしているわたしは、空に浮かんでいる雲を見ると、あなたのことを思い出す。秋の月がひとたび過ぎ去って、春の花がまだ咲こうとしている。(『下野太守宛書翰』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2020年5月23日 一条真也

『猫を棄てる』

猫を棄てる 父親について語るとき

 

一条真也です。
22日、会社の会議が開かれ、久々に会長である父と一緒になりました。今年で85歳になりますが、非常に元気で、わが社の稟議書システムの改善を強く訴えていました。小倉織のマスクをプレゼントしたところ、喜んでくれました。
さて、「父親について語るとき」というサブタイトルを持つ『猫を棄てる』村上春樹著(文藝春秋)を読みました。月刊誌「文藝春秋」2019年6月号に掲載されたエッセイを書籍化したものですが、全体で104ページしかない上にイラストが多く添えられているので、すぐ読めます。わたしもランチタイムの間に20分ぐらいで読み終えました。

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本書の帯

 

カバー表紙には、海岸の砂浜のような広い場所で段ボる箱に入った少年が本を開きながら近くの鳩の群れを眺めているイラストが使われています。台湾出身の若い女イラストレーターである高研氏のイラストですが、これが非常に素晴らしい。本書の中にはたくさん彼女の絵が使われていますが、著者自身が「彼女の絵にはどこかしら、不思議な懐かしさのようなものが感じられる」と「あとがき」に書いていますが、同感です。また帯には、「時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある」と書かれています。帯の裏には、「ある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史には過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた。――村上文学のあるルーツ」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

この本は薄いのですが、ハードカバーです。カバーを取ると、エバーグリーンの本体が出てきますが、ちょうどそのとき、わたしがエバーグリーン色の布マスクをしていたので、その偶然に驚きました。そのカバーを外した本体は新書版で小さいのにガッチリと作られていて、昔、岩波書店から出ていた『漱石全集』の新書版を連想しました。そう、ブログ『ビブリア古書堂の事件手帖』で紹介したベストセラー小説にも登場する『漱石全集』新書版です。すると、漱石の処女作である『吾輩は猫である』と本書『猫を棄てる』のタイトルが「猫」でつながり、夏目漱石村上春樹という新旧2人の国民作家のイメージが重なってきました。

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ヤフー・ニュースより

 

その猫の話から本書は始まります。著者と父が海辺に飼い猫を棄てくるのです。「当時は、猫を棄てたりすることは、今に比べればわりに当たり前の出来事であり、とくに世間からうしろ指を差されるような行為ではなかった」と書かれている文章を読んで、ふと目の前のパソコンがメールを受信したので、そちらに目を移し、ついでにヤフー・ニュースをチェックしたところ、わたしの目は点になりました。なぜなら、そこには「秋田の警察官、猫を遺棄か」の見出しで、近所の飼い猫など数匹を捕まえて自宅から離れた郊外に捨てたとして、秋田市の警察署に勤務する男性警察官が書類送検していたことが書かれていたのです。猫を棄てた記事なんて生まれて初めて見ましたが、それがヤフーのTOPニュースになっていたのです。最近、秋山眞人氏の新著『シンクロニシティ』を読んだばかりでしたが、こういった不思議な偶然の一致が起こるときは、わたしの感受性が研ぎ澄まされていることの証なのだそうです。実際、そうかもしれません。

 

シンクロニシティ: 願望が実現する「偶然」のパワー

シンクロニシティ: 願望が実現する「偶然」のパワー

  • 作者:秋山眞人
  • 発売日: 2019/07/19
  • メディア: 単行本
 

 

それはともかく、父親と著者が棄てたはずの猫は、なぜか2人よりも早く帰宅していました。著者は、「そのときの父の呆然とした顔をまだよく覚えている。でもその呆然としたは、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった。そして結局それからその猫を飼い続けることになった。そこまでしてうちに帰ってきたんだから、まあ飼わざるを得ないだろう、という諦めの心境で」と書いています。著者の父は、京都の浄土宗の住職の息子として生まれ僧侶の資格も持っていながら、3度も戦地に送られるという経験の持ち主でした。父は戦争では死なずに帰還し、戦後は国語教師となります。父が戦争から無事に帰ってきた「隠された理由」を読み解くことが本書の大きなテーマになっているのですが、棄てたはずの猫の帰宅に、父は自らの運命と共通するものを感じたようです。

 

2009年、村上春樹氏はエルサレム賞を受賞しました。イスラエルガザ地区攻撃で多くのアラブ人が死亡したこともあり、イスラエルには国際的な批判が高まっていました。当然、そんな国の文学賞を受賞した村上氏もいろいろと言われました。多くの人々は「辞退すべきだ」と主張しましたが、彼はあえて受けました。そして、エルサレムに出かけ、英語で受賞スピーチを行いました。「高く堅牢な壁と、そこにぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私は常に卵の側に立とう」という彼の言葉は、一人の作家の勇気ある平和のメッセージとして有名になりました。言うまでもなく、「壁」とは体制であり、「卵」とは一般民衆をさしています。 

 

もちろん、この言葉も多くの人々に深い感動を与えた素晴らしいメッセージですが、わたしにはスピーチの中の次のくだりが非常に印象に残りました。英語で語られた言葉を意訳すると、「わたしの父は、去年90歳で亡くなりました。父はもと教師でしたが、たまに僧侶の仕事もしていました。京都の大学院にいたときに徴兵された彼は、中国戦線に送られました。わたしは戦後に生まれましたが、父の毎朝の習慣を目にすることがよくありました。彼は、朝食の前に自宅にある小さな仏壇に向かい、長いあいだ深く真剣な祈りを捧げるのです。なぜ、そんなことをするのか。一度、彼に尋ねたことがありますが、そのとき、『すべての人々のために祈っている』と答えました。そして、『味方も敵も関係ない。戦争で亡くなった人全員の冥福を祈っている』と言いました。仏壇の前に座った父の背中をながめながら、父の周囲には死の影が漂っているような気がしました」

 

もういちど村上春樹にご用心 (文春文庫)

もういちど村上春樹にご用心 (文春文庫)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2014/12/04
  • メディア: 文庫
 

 

この村上春樹氏の言葉を聞いたとき、わたしには1つの謎が解けたような気がしました。その謎とは、「なぜ、村上春樹の文学には、つねに死の影が漂っているのか」ということです。実際、彼の作品にはおびただしい「死」が、そして多くの「死者」が出てくる。 ブログ『もういちど村上春樹にご用心』で紹介した本で、哲学者の内田樹氏は「およそ文学の世界で歴史的名声を博したものの過半は『死者から受ける影響』を扱っている。文学史はあまり語りたがらないが、これはほんとうのことである」と述べています。そして、近いところでは村上春樹のほぼ全作品が「幽霊」話であるというのです。もっとも村上作品には「幽霊が出る」場合と「人間が消える」場合と二種類ありますが、これは機能的には同じことであるというのです。

 

 

このような「幽霊」文学を作り続けてゆく村上氏の心には、きっと、すべての死者に対して祈りを捧げていた父上の影響があるのかもしれません。それは、「死者との共生」という意識につながります。日本にはもともと祖霊崇拝のような「死者との共生」という強い文化伝統がありますが、どんな民族の歴史意識や民族意識の中にも「死者との共生」や「死者との共闘」という意識が根底にあると思います。SFの巨匠アーサー・C・クラークは、名作『2001年宇宙の旅』の「まえがき」に、「今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、30人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した(伊藤典夫訳)」と書きました。クラークがこの作品を刊行したのは、わたしが5歳のときの1968年ですが、わたしにはこの数字が正しいかどうか知らないし、また知りたいとも思いません。それよりも問題なのは、わたしたちの傍には数多くの死者たちが存在し、わたしたちは死者に支えられて生きているという事実です。

 

ご先祖さまとのつきあい方 (双葉新書(9))

ご先祖さまとのつきあい方 (双葉新書(9))

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2010/09/15
  • メディア: 新書
 

 

多くの人々が孤独な死を迎えています。亡くなっても長いあいだ誰にも発見されない「孤独死」、葬儀に誰1人として参列者のいない「孤独葬」も増加しています。最近では、新型コロナウイルスで亡くなられた場合、家族は最期のときにも会えず、通夜も告別式も行うことはできません。一度も顔が見れないまま、故人は遺体焼却されてしまうのです。このような今日、わたしたちに必要なのは死者たちを含めた大きな「魂のエコロジー」とでも呼ぶべき死生観であると思います。病死、餓死、戦死、孤独死、大往生・・・これまで、数え切れない多くの人々が死に続けてきました。わたしたちは常に死者と共生しているのです。絶対に、彼らのことを忘れてはなりません。死者を忘れて生者の幸福などありえないと、わたしは心の底から思います。村上氏のエルサレム賞受賞のスピーチから感じた以上のようなことを、わたしは拙著『ご先祖さまとのつきあい方』の最後の「生命の輪は廻る~あとがきに代えて」に書きました。

 

そして、このスピーチで村上氏が自身の父親について話した内容が本書『猫を棄てる』には詳しく書かれているのです。僧侶であり兵士であった父の戦場での苦悩、惨殺された中国人捕虜の悟りきったような最期の姿、戦死した戦友たちの遺骨のうちには、今でも野ざらしになっているものも少ならからずあること・・・・・・それらすべてを抱えたまま戦後の平和な日本を生きた著者の父の生き様が描かれています。その父と著者の関係は疎遠になり、著者がプロの作家になってからは関係がより屈折したものとなり、最後には絶縁に近い状態になったそうです。じつに20年以上も顔を合わせませんでしたが、最後にようやく顔を合わせて話をしたのは父が90歳になって亡くなる前でした。著者も60歳近くになっていましたが、最後にぎこちない会話を交わし、和解のようなことを行ったそうです。

 

本書には、著者の子ども時代の、猫にまつわる思い出がもう1つ書かれています。それは当時飼っていた白い小さな子猫が自宅の庭の高い松の木にするすると上っていき、ずっと上の枝の中に姿を消したものの下に降りれなくてなって情けない声で鳴き始めたそうです。目で見えないほどの高い枝の中で鳴いている子猫に対して、著者も父もどうすることもできませんでした。翌日の朝起きたときたとき、もう鳴き声は聞こえず、それから子猫は再び姿を現さなかったそうです。その後、著者は、その枝に小さな爪を立て、必死にしがみついたまま、死んでひからびてしまった小さな子猫のことをよく想像したそうです。それは、まだ幼かった著者に「降りることは、上がることよりもずっとむずかしい」という生々しい教訓を残してくれました。「より一般化するなら、こういうことになる――結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す」と、著者は書いています。

 

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

  • 作者:五木 寛之
  • 発売日: 1999/03/01
  • メディア: 文庫
 

 

そして、最後に著者は「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこういうべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と」と述べるのでした。このくどいまでに「一滴」という単語が出てくるこの一文は、明らかに著者の大学の先輩でもある国民作家・五木寛之氏の『大河の一滴』の影響があると思います。思えば、『大河の一滴』も、教師でありながら敗戦とともに無気力になった父親への五木氏の供養の書であったような気がします。そして、そこでも仏教の思想が背景にありました。2人の大学の後輩であるわたしの中で、五木寛之村上春樹という2人の国民作家が初めてつながりました。

 

「あとがき」で、著者は「歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微小な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いはない」と書いています。これは、わたしが『ご先祖さまとのつきあい方』の「生命の輪は廻る~あとがきに代えて」で述べたこととほぼ同じだと思いました。

 

猫を棄てる 父親について語るとき

猫を棄てる 父親について語るとき

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2020/04/23
  • メディア: 単行本
 

 

2020年5月23日 一条真也

『逆ソクラテス』

逆ソクラテス

 

一条真也です。
小学校の9月入学が現実味を帯びてきましたが、小学生たちが主人公の素敵な物語を読みました。『逆ソクラテス伊坂幸太郎著(集英社)です。著者は、1971年千葉県生まれ。東北大学法学部卒業。2000年、『オーデュボンの祈り』で第5回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。04年、『アヒルと鴨のコインロッカー』で第25回吉川英治文学新人賞、「死神の精度」で第57回日本推理作家協会賞(短編部門)、08年『ゴールデンスランバー』で第5回本屋大賞・第21回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『重力ピエロ』『終末のフール』『残り全部バケーション』『AX』『ホワイトラビット』『クジラアタマの王様』、阿部和重氏との合作『キャプテンサンダーボルト』などがあります。日本を代表する人気作家の1人として知られていますが、わたしが著者の小説を読んだのは本書が初めてです。 

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、絵本作家のjunaidaが描いた、ランドセルを背負った子どもたちが進撃するようなイラストが使われ、帯には「敵は、先入観。世界をひっくり返せ!」「僕は、そうは、思わない」「伊坂幸太郎史上、最高の読後感。デビュー20年目の真っ向勝負!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

また、帯の裏には、「逆境にもめげず 簡単ではない現実に立ち向かい 非日常的な出来事に巻き込まれながらも アンハッピーな展開を乗り越え 僕たちは逆転する!」「無上の短編5編(書き下ろし3編)を収録」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「逆転劇なるか!? カンニングから始まったその作戦は、クラスメイトを巻き込み、思いもよらぬ結末を迎える――『逆ソクラテス
足の速さだけが正義・・・・・・ではない? 運動音痴の少年は、運動会のリレー選手にくじ引きで選ばれてしまうが――『スロウではない』
最後のミニバス大会。五人は、あと一歩のところで、“敵”に負けてしまった。アンハッピー。でも、戦いはまだ続いているかも――『アンスポーツマンライク』
ほか、『非オプティマス』『逆ワシントン』――書き下ろしを含む、無上の短編全5編を収録」

 

「逆ソクラテス」「スロウではない」「アンスポーツマンライク」「非オプティマス」「逆ワシントン」の短編5編すべてが、大人になった主人公が小学生時代を回顧する物語です。そこで展開されるのは、小学校で巻き起こる「答えのない問題」の数々です。わたし自身が公立小学校に通ったので、よくわかるのですが、金持ちの子もいれば、貧しい家の子もいます。運動のできる子もいれば、運動が苦手な子もいます。そして、いじめっ子もいれば、いじめられっ子もいるのが公立小学校です。5つの物語を読みながら、「ああ、あのときの自分は・・・」となつかしく思い出したり、激しく後悔したり、たまらなく恥ずかしかったことや、とても悔しかったことなどが心に蘇ってきました。

世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

 

小学生の物語のタイトルに「ソクラテス」という哲学者の人名が入るのは、とても新鮮です。ソクラテスは「自分は何も知らないと言うことを知っている」ということを言った人ですが、わたしは『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という本でソクラテスを「人類の教師」の1人として取り上げました。わたしたちは、現在、新型コロナウイルス問題に悩まされていますが、その他にも戦争や環境破壊などの大きな危機とつねに向き合っています。さらには差別や病気や貧困などなど、人類はさまざまな難問に直面していますが、いずれも本当に厄介な難問です。難問に直面したとき、そしてどうしてもその解決策が思い浮かばないとき、どうすればよいでしょうか。わたしという個人レベルの問題なら、子どものときに先生から教わった教えを思い出すことにしています。小学校の先生は、「挨拶をきちんとする」とか「人に迷惑をかけない」とか「ウソをついてはいけない」とか、とにかく人間としての基本を教えてくれました。

 

そして、それらの教えは大人になって何かで悩んでいるときに思い出すと、意外に解決策を与えてくれました。おそらくは、人間が本当に追い詰められて悩んでいるときというのは「人の道」から外れている、あるいは外れかけているためでしょう。先生たちが教えてくれたことは「人の道」のイロハなのです。ならば、難問に直面し、大いに悩んでいる人類も、同じことをすればよいのではないでしょうか。つまり、かつて先生から教わったことを思い出すべきなのです。『世界をつくった八大聖人』では、人類にとっての教師と呼べる存在を8人紹介しました。ブッダ孔子老子ソクラテスモーセ、イエスムハンマド聖徳太子です。なぜ、この8人が「人類の教師」として選ばれたのか、また、この8人はどのようなメッセージを人類に残したのか。それを知りたい方は、ぜひ本書をお読みいただきたいと思います。

 

さて、本書の最初の物語である「逆ソクラテス」には「自分は何も知らないと言うことを知っている」というメッセージが、最後の物語である「逆ワシントン」には「ウソをついてはいけない」というワシントンのメッセージ(じつは後世のフィクション?)が見事に反映されています。他の3つの物語にも、さまざまなメッセージが込められています。でも、5つの物語すべてに共通するメッセージは、「人間は誰でも間違える」「でも、それを繰り返さない努力をすべきである」「間違いを繰り返すのが、本当の間違いである」ということではないかと思いました。

はじめての「論語」 しあわせに生きる知恵』(三冬社)

 

拙著『はじめての「論語」 しあわせに生きる知恵』(三冬社)でも紹介しましたが、『論語』の衛霊公編には「子曰く、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」という有名な言葉があります。孔子はこう言いました。「過ちをおかしたとしても、その過ちに気づいたら、次からは改めればいい。気づいたのに改めようとしないのが、ほんとうの過ちなのですよ」と。人は誰でも間違いをします。完全な人間なんていないからです。まして、小学生だったらなおさらです。親として、子どもが間違ったことをしたらどのように対応するのが良いのでしょうか。一番良いのはどこが間違っていたのかを落ち着いて見直して、改める手助けをすることです。そして、どうして間違ったのかを子どもと一緒に考えてあげることが大切です。

f:id:shins2m:20200316093809j:plain「リトル・ママ」2020年4月号

 

間違いの原因をきちんと理解してすぐに改めることができれば、それはもう間違いではありません。間違ったことがわかっていても、適当にごまかしてしまおうとするのが、本当の間違いなのです。そして、誤魔化せば誤魔化すほど、また、もっと大きな間違いをするものです。子どもたちが間違ったことをした時には、叱って終わりにせず「なんで、こんなことをしたんだろうね、一緒に考えてみよう」と声をかけ、まちがいを改める習慣をつけてみてはいかがでしょうか?

 

それから、5つの物語すべてに登場する問題は「いじめ」の問題です。「いじめは、いけませんよ」とか「自分がいじめられたら、どんな気持ちがするか?」などと言うのは簡単ですが、なかなか子どもたちの心には届かないのも事実です。「逆ワシントン」では、主人公の母親が正義感の強い人なのですが、主人公の姉の授業参観で「先生、時間ください」と教室の前に出て行き、ちょうど書写の授業の時間だったのですが、「みんな、筆を置いて、ちょっと聞いてね」と、いきなり「いじめ」の話をし始めます。というのも、母親は書写の時間に、クラスの女子が半紙に1人の子の悪口を書いて、別の子に見せつけるのを目撃したそうです。相手が傷つくようなことを書いて、その子に見せて、筆ですぐ塗り潰せば消えるという陰湿ないじめでした。

 

そこで、そのことに義憤を抱いた母親が大演説を開始するのですが、その中の以下の核心部分だけは引用させていただきます。
「人生って超大変なんだから。大人だって正解は分からないし、普通に暮らしていくのだって超難易度高いんだよ。ゲームでいうところのイージーモードなんてないからね。なのに、誰かを馬鹿にしたり、いじめたりする奴は、それだけで難易度上がるんだよ。だって、将来、いつそのことがばらされるか分からないでしょ。何で好き好んでハードモードにするんだろ。よっぽどの権力者になれる自信があるんだったらまだしも、将来、どこで誰と、どういった立場で出会うかなんて分からないでしょ。自分が馬鹿にしていた相手が、仕事の取引相手になることもあるだろうし、将来結婚する相手の知り合いってこともある。もしかしたら、大人になって大怪我して、担ぎ込まれた救急病院の担当医が、昔、自分がいじめていた相手だったら、どうする? 怖くない?」
(『逆ソクラテス』「逆ワシントン」P.244)

 

もちろん、いじめは簡単に解決できる問題ではありません。この母親の発言も正解ではないかもしれません。かつ功利主義的な匂いがプンプンしますが、じつにユニークで説得力のあるメッセージであると思いました。もっとも、授業参観で教室の前でこんな大演説を母親にぶたれた主人公のお姉ちゃんには同情しますけれども・・・・・・。いずれにせよ、短編小説の中でこんなセリフを書くことができる著者は、「どうすれば、人は幸せに生きることができるか」を真剣に考えているのではないかと思いました。そして、それはソクラテスやワシントンのテーマでもあったはずです。「逆ソクラテス」に登場する小学生たちは、常生活にはびこるありとあらゆる先入観や大人の悪しき習慣に対して、「僕は、そうは、思わない」の一言で軽快に飛び越えてゆきます。なんだか。欅坂46のヒットナンバーの歌詞に似ているような気がするのは気のせいでしょうね。本書について、著者自身は「自分の作品の評価は客観的にはできませんが、デビューから20年、この仕事を続けてきた1つの成果のように感じています」と巻末で述べていますが、よくぞ言いました。この素晴らしい成果に対して、心から敬意を表したいと思います。

 

逆ソクラテス

逆ソクラテス

 

 

2020年5月22日 一条真也