『心ゆたかな社会』

一条真也です。
21日、全互協のグリーフケアPTのZOOMオンライン会議に座長として参加します。ギックリ腰なので、ずっと椅子に座るのは正直言って辛いですが、頑張ります!
さて、ブログ「一条真也の誕生日」でも書いたように、わたしの最新刊『心ゆたかな社会』(現代書林)の見本が出来ました。サブタイトルは「『ハートフル・ソサエティ』とは何か」で、記念すべき100冊目の「一条本」となります。

f:id:shins2m:20200516165530j:plain心ゆたかな社会』(現代書林)

f:id:shins2m:20200516165555j:plain本書の帯

 

カバー表紙には日光に輝く雲海が描かれ、帯には「コロナからココロへ」と大書され、「新型コロナが終息した社会は、人と人が温もりを感じる世界。ホスピタリティ、マインドフルネス、セレモニー、グリーフケア・・・・・・次なる社会のキーワードは、すべて『心ゆたかな社会』へとつながっている。ポスト・パンデミック社会の処方箋――ハートフル・ソサエティの正体がわかった!」「著者の本(一条本)100冊になりました!!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のように書かれています。
「これからの社会は、人間の心に向かっている、いわば『心の社会』である。『心の社会』はさらに『心ゆたかな社会』としてのハートフル・ソサエティを目的とすべきである。ハートフル・ソサエティとは、あらゆる人々が幸福になろうとし、思いやり、感謝、感動、癒し、そして共感といったものが何よりも価値を持つ社会と定義したい。残念ながら現代日本は、心を失った『ハートレス・ソサエティ』になっているように思える。『まえがき』より」と書かれています。また、カバー前そでには、「いま、『心の社会』は『ハートレス』に進んでいる気がしてならない。『ハートフル』に進路変更し、『心ゆたかな社会』を実現する必要がある」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

まえがき「ネクスト・ソサエティをさぐる」

ハートレス・ソサエティの衝撃

超人化のテクノロジー

脳から生まれる心

相互扶助というコンセプト

ホスピタリティが世界を動かす

メディアとしての花鳥風月

デザインされる生老病死

哲学・芸術・宗教の時代

共感から心の共同体へ

あとがき「ハートフル・ソサエティに向かって」

 

無縁社会」といわれて久しいです。度重なる自然災害で「絆」は語られますが、「縁」はほとんど触れられることがありません。「家族」は語られますが、「血縁」は疎まれます。「ボランティア」は称賛されますが、「地縁」は足かせのように語られることが多いです。葬式はしない、結婚式はあげないどころか結婚もしない。ひきこもり、独居老人、老々介護、さらには孤独死、子殺し、親殺しなど、「絆」はどこへいったと言いたくなるのは、わたしだけでしょうか。

 

わたしは冠婚葬祭業を営みながら、「縁」がなくなる、あるいは薄れていく現代日本を日々見てきました。「無縁」が進めば、社会さえなくなっていく――日本人はそのことに気が付かなければなりません。無縁社会を終わらせなければ、日本に未来はないとさえ思います。処方箋があるとすれば、「絆」「家族」「助け合い」を称賛できる、日本人がまだ失っていない「心」にこそあると感じています。これからの社会は、人間の心に向かっている。いわば「心の社会」です。

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人類はこれまでに、農業化、工業化、情報化という三度の大きな社会変革を経験してきました。それらの変革はそれぞれ、農業革命、産業革命、情報革命と呼ばれます。第三の情報革命とは、情報処理と情報通信の分野での科学技術の飛躍が引き金となったもので、変革のスピードはインターネットの登場によってさらに加速する一方です。わたしたちの直接の祖先をクロマニョン人など後期石器時代に狩猟中心の生活をしていた人類とすれば、狩猟採集社会は数万年という単位で農業社会に移行したことになります。そして、農業社会は数千年という単位で工業社会に転換し、さらに工業社会は数百年という単位で20世紀の中頃に情報社会へ転進したわけです。

 

それぞれの社会革命ごとに持続する期間が1桁ずつ短縮しているわけで、すでに数十年を経過した情報社会が第四の社会革命を迎えようとしていると考えることは、きわめて自然だと言えるでしょう。わたしは、その第四の社会とは、人間の心というものが最大の価値を持つ「心の社会」であると考え、そのことを2005年に上梓した『ハートフル・ソサエティ』で述べました。2016年1月、内閣府は「Society 5.0」というものを発表しました。第5期科学技術基本計画のなかに盛り込まれた科学技術政策のひとつで、Society 5.0 とは、未来を見据えた戦略です。

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過去の社会(Society)は以下の通りです。

Society 1.0:狩猟社会

Society 2.0:農耕社会

Society 3.0:工業社会

Society 4.0:情報社会

Society 5.0 は「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会」と位置付けている。人間中心の社会(Society)が新たな社会を指すもので、第5期科学技術基本計画において我が国が目指すべき未来社会の姿として初めて提唱されたのである。このSociety 5.0 は、情報社会の次なる社会というわけで、わたしの唱える「心の社会」に明らかに通じています。

f:id:shins2m:20200515162848j:plainネクスト・ソサエティ』(ダイヤモンド社

 

インターネットによってグローバルに結びつけられた世界で、Society 5.0 の名のもとに「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)が高度に融合していく」・・・・・・その流れの中で、「心の社会」は、ハートフル・ソサエティにもハートレス・ソサエティにもなりえます。社会生態学者としてのドラッカーは21世紀の始まりとともに『ネクスト・ソサエティ』を発表しました。ドラッカーの遺作にして最高傑作である。長年のコンサルタントとしての経験から、きわめて現実的であり、かつ実際的である一方、未来社会に対する展望が見事に描かれています。20世紀における「知の巨人」であったドラッカーが、最後にわれわれに21世紀の見取り図を示してくれたと言えるでしょう。

 

ドラッカーは同書の冒頭で日本の読者に対し、「日本では誰もが経済の話をする。だが、日本にとっての最大の問題は社会のほうである」と呼びかけている。90年代の半ばから、ドラッカーは、急激に変化しつつあるのは、経済ではなく社会のほうであることに気づいていました。IT革命はその要因のひとつにすぎず、人口構造の変化、特に出生率の低下とそれにともなう若年人口の減少が大きな要因でした。IT革命は、世紀を越えて続いてきた流れの1つの頂点にすぎませんでしたが、若年人口の減少は、それまでの長い流れの逆転であり、前例のないものでした。ドラッカーが言わんとすることは、ひとつひとつの組織、1人ひとりの成功と失敗にとって、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味を持つということ。急激な変化と乱気流の時代にあっては、単なる対応のうまさでは成功は望みえません。企業、NPO、政府機関のいずれであれ、その大小を問わず、大きな流れを知り、基本に従わなければならない個々の変化に振り回されてはならず、大きな流れそのものを機会としなければならないのです。その大きな流れこそ、ネクスト・ソサエティの到来なのです。

 

フランスの文化相も務めた作家のアンドレ・マルローは「21世紀は精神性(スピリチュアリティ)の時代である」と述べましたが、これまで多くの人々が未来社会について予測した。ジョン・ガルブレイスは「ゆたかな社会」を、ダニエル・ベルは「脱工業化社会」の到来を予告しました。アルヴィン・トフラーは、起こりつつある変化を「第三の波」と呼び、社会の根本的変化の近いことを予告しました。マリリン・ファーガソンは、あらゆる分野に起こりつつある変化が結合して、社会規範を変化させる「アクエリアン革命」になろうとしていることを指摘した。日本の堺屋太一は、知恵の値打ちが経済の成長と資本の蓄積の主要な源泉となる「知価社会」をつくり出す技術、資源環境および人口の変化と、それによって生じる人々の倫理観と美意識の急激な変化全体がもたらす「知価革命」を主張しました。


ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

そして15年前、わたしは、『ネクスト・ソサエティ』のアンサーブックとして『ハートフル・ソサエティ』(三五館)を書き上げ、新しい社会像である「ハートフル・ソサエティ」を提唱したのです。いま、「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会」という未来像が描かれるに至っています。15年間で変わったものと変わらないものの両方があります。特に、SNSやスマホの存在は人間の精神への影響はもちろん、人間の存在さえも変革しているかもしれません。わたしは時代の変化を踏まえて、心の社会は「ハートレス」の方向へ進んでいる気がしてなりません。「ハートフル」の方向に心の社会を転換するために、本書の改稿を決意しました。本書の別名は『ハートフル・ソサエティ2020』です。

f:id:shins2m:20200518111519j:plain別名は『ハートフル・ソサエティ2020』です!

そして、「まえがき」の最後に「『心の社会』から『心ゆたかな社会』へ。令和という新しい時代を、『心ゆたかな社会』の夜明けにしたい。まだ間に合ううちに」と書いたのでした。新型コロナウイルスが終息したアフターコロナの社会、そしてポスト・パンデミックの世界を描いた、この100冊目の「一条本」を、わたしは深い祈りとともに世に問いたいと思います。6月9日に全国の書店およびネット書店で販売されます。どうか、ご一読下さいますよう、お願いいたします。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

 

 2020年5月21日 一条真也

一条真也の誕生日  

一条真也です。
今日は、5月20日です。
5月10日、わたしは誕生日を迎えました。
でも、一条真也にとっての本当の誕生日は今日です。
おかげさまで、本日、デビュー32周年を迎えました。


ハートフルに遊ぶ』(1988年5月20日刊行)

ハートフルに遊ぶ』の奥付

 

1988年5月20日に処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)が発売されて、わたし一条真也はデビューしました。その前の4月1日、わたしは版元である東急エージェンシーに入社しています。同社の前野徹社長(当時、2007年逝去)の鶴の一声で、前代未聞の新入社員の出版が実現したのでした。故前野社長こそは「一条真也の生みの親」なのです。詳しくは、ブログ「恩師から学んだこと」をお読み下さい。

f:id:shins2m:20200430111411j:plain死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)

 

それから32年後の5月26日、わが最新作『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)が発売されます。同書では、小説や映画に登場する言葉も含め、古今東西の聖人、哲人、賢人、偉人、英雄たちの言葉、さらにはネイティブ・アメリカンたちによって語り継がれてきた言葉まで、100の「死を乗り越える」名言を紹介しています。

f:id:shins2m:20200417153028j:plain心ゆたかな社会』(現代書林) 

 

そして次は、いよいよ100冊目の「一条本」となる『心ゆたかな社会』(現代書林)を6月11日にお届けいたします。同書では、ポスト・パンデミック時代の社会ビジョンについて書きました。新型コロナが終息すれば、人は人との温もりを求めます。ホスピタリティ、マインドフルネス、セレモニー、グリーフケアなどのキーワードを駆使して、来るべき「心の社会」を予見、さらには「心ゆたかな社会」のビジョンを描き出しました。

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99冊目と100冊目 の一条本を持って(マスクは小倉織)

f:id:shins2m:20200516170642j:plainわが書斎に一条本が100冊並びました!

 

100冊達成ということで、多くの読者の方々から「祝賀パーティーを!」との声を頂戴いたしました。まことに有難いお話ですが、新型コロナウイルスの感染拡大の流れの中で、謹んで辞退させていただきました。
もし、「一条本100冊を祝ってやろう」という奇特な方がおられましたら、どうか、『死を乗り越える名言ガイド』、『心ゆたかな社会』の2冊をお買い求めの上、ご一読下さいますよう、お願い申し上げます!

f:id:shins2m:20200520111309j:plainこれからも、よろしくお願いいたします!



2020年5月20日 一条真也

結婚記念日   

一条真也です。
ギックリ腰で動くのが辛いです。
予定していた東京出張も断念しました。
そんな状態ではありますが、5月20日を迎えました。
わたしたち夫婦の31回目の結婚記念日です。わたしたち夫婦は、1989年5月20日に結婚式を挙げました。結婚式および披露宴は、小倉の「松柏園ホテル」および八幡の「松柏園グランドホテル」(現在のサンレーグランドホテル)で昼夜2回行いました。わたしが26歳になったばかりで、妻は22歳のときでした。

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30年前の思い出の写真

 

本日、小倉ロータリークラブから結婚記念日祝いの花が届きました。今年は新型コロナウイルスの感染防止のために休会でしたが、昨年は5月の最初に開催された例会で、メンバーのみなさんから結婚記念日祝いをしていただきました。みんなで、「君と我と遙けき旅路 思えば楽し 楽し♪」というロータリーの「結婚記念日の歌」を歌いました。

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昨年のロータリークラブの花見例会で

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結婚30周年で訪れた函館の八幡坂にて

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知人の金婚式で

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サンレーグループ創立50周年記念祝賀会の後で

 

次女が一昨年から慶應義塾大学に入学し、2人の娘たちは東京で一緒に暮らすことになりました。子どもが巣立った後の夫婦は「仲が良くなるか」「仲が悪くなるか」のどちらかだそうです。天国か地獄かの究極の選択ならば、仲良くして天国を選ぶしかありませんね(苦笑)。最近のコロナ騒動では、わたしたちは東京にいる2人の娘を心配する毎日で、東京の感染者数の増減に一喜一憂していました。

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志賀社長から届いたLINEの画像

 

ところで、数日前に埼玉県に本社を置く冠婚葬祭互助会の(株)セレモニーの志賀社長から面白い画像がLINEに届きました。「結婚前のアナタ(右から読んでね)」では、「幸せになりたいの。嫌よ、貴方と別々になんて・・・そんなの私じゃないから。一生私の愛する人は貴方だから、おねがい。」と読めます。一方、「あれから40年・・・(左から読んでね)」では、「だから、おねがい。私の愛する人は貴方じゃないから。一生なんて・・・そんなの私嫌よ、貴方と別々に幸せになりたいの。」と読めます。これを考えた人のセンスには脱帽ですが、31年目のわたしたち夫婦はもちろん右からです!(笑)

 

2020年5月20日 一条真也

『毒虎シュート夜話』

毒虎シュート夜話 昭和プロレス暗黒対談

 

一条真也です。
相変わらず、ギックリ腰で動くのが辛いです。
そんな状態ではありますが、『毒虎シュート夜話』ザ・グレート・カブキ&タイガー戸口著(徳間書店)をご紹介いたします。「ギックリ腰なのに、どうしてブログが書けるの?」と思われる方もいるかもしれませんが、基本的に書評ブログはストック記事です。大量のストックあり。悪しからず。
「昭和プロレス暗黒対談」という忌まわしいサブタイトルを持つ本書では、ブログ『“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝』ブログ『虎の回顧録』の著者であり、ともにシニアの域に達した2人のプロレスラーの舌戦により、昭和、平成の日米マット界の暗黒史が明かされるという触れ込みです。アンドレ・ザ・ジャイアント、ハリー・レイス、ブルーザー・ブロディダスティ・ローデス、リック・フレアー、トミー・リッチ、ハルク・ホーガン・・・・・・2人が戦った世界のトップ・レスラーたちの素顔が暴露されます。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には毒霧を噴くザ・グレート・カブキ、裏表紙には毒霧を受けるタイガー戸口の写真が使われ、帯には「『お前は戸口じゃなくて大口だ!』カブキの毒霧に、たじろぐタイガー戸口――日米マット界の裏と表を生きた同世代の2人の『記憶』は、きれい事だけで作られた『記録』よりも濃厚な昭和プロレスの闇に染まっていた!」と書かれています。カバー前そでには「プロレスラーはバカじゃできない、利口じゃできない、中途半端じゃ、なおできないんだよ――ザ・グレート・カブキ」、カバー後そでには「ベビーフェイスは立っていればいい。試合は全てヒールが作っているんだから、ヒールができなきゃアメリカでは稼げない――タイガー戸口」とあります。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 力道山の遺産

第2章 全日本の闇

第3章 アメリカン・ドリーム

第4章 誕生「隈取りと毒霧」

第5章 日本マット界とピンハネ

第6章 レスラーたちの下半身

第7章 明かされるSWSの真実

第8章 馬場・猪木は強いのか

第9章 三沢光晴の死から・・・



「はじめに」では本書の構成作家である原彬氏が「猪木さんがコブラツイストをやり始めた時に、吉村(道明)さんが『寛ちゃん、もしそれでフィニッシュを取るんだったら、1年間、それを続けなきゃダメよ』って言ったの。それで、猪木さんは1年間やったんだよ。そうしたら、新聞が決め技のところに『コブラツイスト』って書くようになった。そうやって技の神話を作っていったの」というカブキの発言を紹介し、「マサ斎藤が亡くなった今、本物のプロフェッショナルヒールとして、全米で活躍してきたレスラーは、2人を除くと、キラー・カーンケンドー・ナガサキぐらいか。本人たちの記憶は、史実と違う部分もある。可能なかぎり事実確認をしたが、そもそも裏側の記録など存在しない密度のプロレス界にあって、とにかく興味深くておもしろい『記憶』を書き記すことにした」と述べています。



2人とも全日本プロレスの出身だけあって、新日よりも全日びいきの印象があります。猪木を評価しない一方で、馬場を過大に評価するきらいがあるのです。第1章「力道山の遺産」では、「日本で一番うまいプロレスラー」として、いきなり以下のような会話が交わされます。
カブキ 最初に、確認しておきたいんだけれども、戸口から見て「この人、プロレスが上手だな」って感心したレスラー、多いと思うけど、1人挙げるとすると誰?
戸口 そりゃ、馬場さんですよ。
カブキ そうだよね。馬場さん、実は、すごく運動神経がよくて。カラダの大きさ、手足の長さを見せつける、ダイナミックな試合が、天性でできた。今見ても、あれなら、お客さん来るし、テレビの視聴率も上がるよ。
戸口 昭和40年代のジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニアとの60分フルタイムマッチ、セコンドでリングサイドから見ていたけど、とにかくお客さんの目が「すごいな、この人」って思ってた。

 

2人の馬場びいきは止まらず、こうも語り合います。
戸口 正直、猪木さんとはレベルが違っていましたよね。あの会場の沸き方見たら、猪木さんも、嫉妬しますよ。
カブキ それがわかっているから、馬場さんも、「プロレス日本一、決定戦だ」とか言われても、いちいち相手にしなかったの。
戸口 うん、馬場さんが、歴代のプロレスラーの中で、日本ナンバーワンというのは、間違いない。世界はともかく。
カブキ そう、間違いない。もう、亡くなられて20年たつけど、日本では馬場さんが一番。
戸口 日プロ時代の馬場さんに限れば、世界のベストですよ。

 

プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチも2人に言わせたらボロクソで、以下のような会話が交わされます。
カブキ 俺に言わせるとカール・ゴッチは、なんで評価されているのか、わからない人だよ。とにかくプロレスはショッパイの。お客さんを何1つ沸かすわけでもないし。だから、アメリカに帰ったら、全然仕事がない。
戸口 ニューヨークに、ちょこっといただけですね。
カブキ 猪木さんが名伯楽に仕立て上げたんだよね。あれ、猪木さんが日本プロレスから出て、新日本を旗揚げする時に、外国人を呼ぶ人がいなかったんで。それで、カール・ゴッチは、プロレスの神様とか呼ばれていたから、「カール・ゴッチが呼んでくれる選手は、本物、強い選手ばかりだ」ってことにして、コネクションを取り始めた。実際来たのは、ショッパイレスラーばっかりだったけど。

 

とにかく猪木に対する発言はひどいものです、第5章「日本マット界とピンハネ」でも、「横浜市鶴見生まれの『アントニオ』」として、こんなふうに言われています。
カブキ 猪木さんって、運動神経がよくないとか言われたりしていたみたいだけど、実際、ショッパかったよ。ドロップキックも、正面飛びでやって、ドテーンと背中から落ちたりしていて、それが、なんで、エース候補になれたかというと、タッパがあったから。力道山が、横浜の鶴見出身と言わないで、「ブラジルから連れてきた」って言って。
戸口 そういう説明してましたね。
カブキ 馬場さんが読売ジャイアンツで、猪木さんには何もなかったから、「ブラジルから連れてきた」っていうことで記者会見をやったの。だから、ほとんどのお客さんが、「猪木は、ブラジルから来た」って思っていた。だから、「日本語をしゃべるな」とか言われていた。でもスパニッシュも、英語もしゃべれないんだから、無口になるしかないよね。
戸口 運動神経が悪かったからこそ、格好をつけたり、オーバージェスチャーでごまかしていた部分もあるんだ。



ちなみに、Wikipedia「アントニオ猪木」のプロフィール「生い立ち」には、以下のように書かれています。
「神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。父親は猪木が5歳の時に死去。前田日明は『猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって』と著書に書いている。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。現在は東京都港区在住。12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは『ドン寛(鈍感)』『運痴の寛ちゃん』などと呼ばれていたが、ブラジル移住後は陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど、その身体能力を発揮する。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる」



猪木が横浜市鶴見生まれというのは公然の事実で、本人も認めていますし、書籍やテレビ番組などでも明かしています。祖父たちとともにブラジルに移民して、コーヒー農園で働いたというのも事実です。そこで砲丸投げで活躍し、力道山の目に留まってスカウトされ、プロレスラーになるために日本にやってきたのも事実です。つまり、カブキと戸口の言っていることは、まったくの的外れであり、納得できません。だいたい、本書では猪木をボロクソに貶していますが、2人は何か猪木に恨みでもあるのでしょうか。ともに、猪木から新日本プロレスに呼んでもらって禄を食んだこともあるのに、あまりにも失礼千万と言えるでしょう。これを読んで、カブキと戸口の人間性が信じられなくなりました。



ならば、馬場のことは手放しで絶賛かというと、冒頭こそそんな感じでしたが、ページが進むにつれて、だんだんこちらも雲行きが怪しくなってきます。第7章「明かされるSWSの真実」では、「SWS移籍の原因は馬場の『カブキ潰し』として、カブキが馬場が自分を潰そうとしていたと告白します。そして、以下のような会話が展開されるのでした。
カブキ 結局、馬場さんは、自分が育てた選手が、ガーッと上に行く分にはいいけども、よそに行って、それで帰ってきて大きくなられたら嫌なんだ。だから輪島さんも潰しにかかったじゃない。
戸口 輪島さん?
カブキ だって、テレビで言うんだから、「輪島はね、練習しないからダメですよ」って。
戸口 そんなこと言ったんだ。
カブキ それ聞いて、輪島さんが「辞める」って言いだして。
戸口 輪島さん、真面目にやってたんじゃないですか。普通、元横綱だと「俺は横綱」っていう頭があるから、1からプロレスのほうに切り替えられないのに。でも輪島さんは1から真面目にやってたよ。僕、その姿アメリカで見ていたから。大したものだなと思った。誰に対しても、腰が低かったし。
カブキ かわいそうだったよね。

 

この後、カブキによれば、馬場のジェラシーからカブキのCM出演がストップさせられたり、「笑っていいとも!」をはじめとして、テレビ出演も全部断られたことが明かされ、「馬場さん、自分より目立つこと、絶対させなかったから」と言われます。ついには馬場が極度のケチで2人ともアメリカと日本を行き来する飛行機代を払ってもらえなかったことまで暴露される始末です。いやはや、「故人であり恩人である人物に対してここまで言うか!」といった感じで、読んでいてじつに嫌な気分になりました。
本書のサブタイトルが「昭和プロレス暗黒秘史」であることから、馬場・猪木の両巨頭をコキおろすのが目的だったのかもしれませんが、カブキと戸口の2人について、「人としてどうよ?」と思ったのは、わたしだけではありますまい。

 

毒虎シュート夜話 昭和プロレス暗黒対談

毒虎シュート夜話 昭和プロレス暗黒対談

 

 

2020年5月19日 一条真也

『虎の回顧録』

虎の回顧録 昭和プロレス暗黒秘史

 

 一条真也です。
相変わらず、ギックリ腰で動くのが辛いです。
そんな状態ではありますが、『虎の回顧録』タイガー戸口著(徳間書店)をご紹介いたします。「昭和プロレス暗黒秘史」というサブタイトルがついています。著者は1948年、東京都葛飾区出身。韓国出身の力士・龍錦を父に持つ在日韓国人2世のプロレスラーです。修徳高校入学から柔道を始め、将来の大型五輪選手として期待されながら卒業後、67年に日本プロレス入り。72年にシューズとタイツ、片道切符だけを手に渡米。大型ヒール「キム・ドク」として才能を開花させ、トップとなり、週1万ドルを稼ぎアメリカン・ドリームを手にします。ジャイアント馬場の策謀により76年から全日本プロレスに参戦し、馬場・鶴田に次ぐナンバー3として活躍。81年には、当時、日本マット界では掟破りとされた新日本プロレス移籍を果たし、84年に新日離脱。全日再加入を模索するも、馬場の反対によりとん挫。88年、公開の映画「レッドブル」(主演、アーノルド・シュワルツェネッガー)に出演するなど、映画界にも進出。現在まで、現役レスラーとして日米で活躍。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には著者の顔写真が使われ、帯には「シューズとタイツだけを手に、片道切符で渡米。本場アメリカでトップをとり週1万ドルを稼ぎアメリカン・ドリームを実現したレスラーを、なぜジャイアント馬場アントニオ猪木は干したのか――」「初の自伝で日本マット界の闇が明かされる」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 マットに立つ

第2章 アメリカン・ドリーム

第3章 全日本プロレス

第4章 参戦WWF

第5章 虎は死なず

「あとがき」



アメリカでの生活が長い著者ですが、第1章「マットに立つ」では、「レスラーは舐められちゃいけない」として、「海外に出たら、必ず、プロレスについて、ああだ、こうだ言ってくる奴、プロレスラーを舐めてくる奴がいるんですよ。『こいつら、台本通りに、やっているだけだ』とか言って、絡んでくるのが。俺の中では、そういうときに、キチンと対応できるのがプロのレスラーだと思っているから。面倒なことに巻き込まれたくないからと、ヘラヘラしてその場を去るようなことは、すべきでない。証人を立てて、本当に強いのを教えてやればいいんですよ。アメリカで生き残っていくために、マサ斉藤さんなんかも、ずいぶんやっていたみたいですけど、それをやらなかったら、舐められる」と述べています。



続けて、著者は「今は、時代が違うと言うかもしれないけど、そういう気概を持っていなかったら、プロのレスラーではない。こういうこと、あんまり、言うべきではないかもしれないけど、今、『舐められたら、終わり』という気概を持った選手がどれだけいるのか。だから、ゴッチさんが凄いんですよ。あの当時、現地の人が誰も近づかなかった、ニューヨークのハーレムに1人で入っていって、『やれるものなら、やってみろ』って、睨みながら歩いたと言っていましたから。度胸ありすぎ。当時だったら、白人が1人で入ってきたら、普通に、殺されますよ。そういう話を聞きながら、プロレスラーというのは、どういうものなのかを、学びましたよね」とも述べています。



第2章「アメリカン・ドリーム」では、「ヒールになる」として、ベビーフェイスからヒールに転向したことについて、「キム・ドクというリングネームもヒールになったら大成功だった。なぜかって言うと、アヒルのことをダック『Duck』って言うでしょう。俺のドクは、『Duck』だけど、『c』入れなくても、発音がダックになっている。だから、ヒールの俺がリングに上がると、お客さんが、アヒルの鳴き声をやりだすんです。俺を怒らすために。『クワッカ、クワッカ』って。それで、俺が、アホみたいに、『俺はアヒルじゃねえ』って怒ってギャアギャアやれば、それで成立しちゃう。それで、3分や5分は遊べる。怒って、会場を温めて試合に入れば、やりやすいんだから。ヒールになって初めてキム・ドクの名前の恩恵を受けたよ」と述べます。

 

第3章「全日本プロレスへ」では、「望まぬアクシデントが客を呼ぶ」として、
「ケガはさせた方が悪いんです。カラダを預けている相手をケガさせるのは、自分がきちんとテークケアしてあげないから。テークケアできない相手とは『試合できない』ということになる。ニューヨークでキラー・カーンアンドレ・ザ・ジャイアントの足首を折ったとか言われた試合があったけど、あれもリングの床のラワン材が折れて、そこにアンドレが足を突っ込んでしまった事故。プロのレスラーが相手の足首なんか折るわけがない。アクシデント。でも、望まぬアクシデントが起こってしまったら、あとはもう、いかにそれを抗争の材料にするかってことを考える。だからその因縁マッチで、カーンとアンドレはずいぶん稼いだんです」と述べています。



全日本プロレス時代の著者は、ジャイアント馬場ジャンボ鶴田に次ぐ「第3の男」でした。「鶴田の第一印象は『こんなもんか』」として、鶴田の思い出をこう述べています。
「今、鶴田のことを思い出すと、真っ先に浮かぶのは、78年9月、名古屋でのUNヘビー級戦。俺と鶴田、65分も試合をやったんだから。1対1のフルタイムから、5分間延長して。あれは大変だった。65分もの間、お客さんを飽きさせない。そのために鶴田を引っ張るには、どうやって、どう持っていくか、いろりおなことを考えなきゃならなかったから。あのとき、『あと5分か10分か』って考えたけど、さすがに10分は無理だと。俺はあの試合で、始めて『鶴田はたいしたものだな』と思ったんです。鶴田にあんなにセンスがあるのに驚いた。俺が組み立てた通り、ちゃんと反応するんだから。『ここでドロップキックだ』と思ってロープに振ると、その通りに反応してくる。鶴田はレスリングできたから、スリリングな切り返しも上手くやっていた」



その後、著者は全日本から新日本に移籍するわけですが、「新日のプロレスは『1コマ漫画』」として、「プロレスの上手さで言ったら、日本では馬場さんが最高で、それを追っかけられる頭のある選手なんかいない。猪木さんが、プロレス対異種格闘技戦とかやり始めたのも、馬場さんのプロレス頭に対抗して、むりやりひねり出したんじゃないの。ストロングスタイルも。俺に言わせれば、ストロングスタイルなんて、ろくでもないよ。あれでどうやって、次の試合とつなげるの。彼らの試合は、1コマ漫画と一緒で、1コマで笑って、1コマで泣いてで終わり。つながりがなくて、最後まで同じような試合が続く。それは選手の自己満足。猪木さんがそうなんだから。俺だったら言いますよ。『お前ら、何やっているんだ。金をもらって試合を見せているんだから、その日の試合、興行のつなぎをやれ。1コマ、1コマで終わらないで、前座はメーンイベントが熱くなるように持っていかなくてはダメなんだよ。そのためには線なんだ』って。それをわかってない、自分だけ金髪にして目立とうとする選手ばかり」と述べています。



また、新日本と全日本が激しい企業戦争を繰り広げていた頃のことについて、著者は「あの頃の新日本は、本気で全日本を潰す気だったから。プロレスは、居場所、明確なポジションが与えられないと仕事ができないわけ。1つの興行の中で、何をすべきか、存在理由が理解できてなかったら、プロの仕事はできない。キラー・カーンとのタッグで、タッグリーグ戦準優勝したりしたけど、所詮外様だし、何をやっても生え抜きの連中がやっかむから。でも新日本と水が合わなかったことが、ニューヨークに行くきっかけにもなっているからね」と回想しています。



第4章「参戦WWF」では、スーパースターとなったハルク・ホーガンとの思い出を語ります。
「ホーガンの場合、本人がビジネスマンというわけでなく、奥さんのリンダがシャープだった。ホーガンはリンダに頭が上がらない。リンダのお父さんは映画監督組合のヘッドで、絶大な権力を持っていたから。結局、2人はホーガンの浮気で、離婚したわけ。ホーガンの友達がホーガンの浮気現場を盗撮して、ネットに流し、リンダがそれを見て別れた。でも、ホーガンは盗撮した友達を訴えて、裁判所に通い、賠償金110億円手に入れたから、リング童謡、倒れてもただでは起き上がらない男ですよ。俺もWWFにいた頃、エディ・マーフィーとか、シュワルツェネッガーの映画に出演したことがあった。あれは、ニューヨークのWWFに、ハリウッドから、パラマウント・ピクチャーから依頼が来たんです。『オリエンタルの人が欲しい』と。そのときキラー・カーンは、まだニューヨークに来てなかったから。大きい人で、オリエンタルだって、俺しかいなかったの」



また、「アンドレのバックドロップを受ける」として、著者は“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントにバックドロップをやられた選手は自分しかいないと自慢しつつ、「俺、柔道をやっていたから受け身が上手いので、やってくれた。でも、ニューヨークで、アンドレのバックドロップを受けたとき、あまりにも高いので、さすがに死ぬかと思った。もちろん、ケガをしないようにやってくれるんだけど。でも、お客さんは大喜びだったよね。アンドレのそんな技、見たことなかったから。アンドレは凄く人が良いからやりやすいんだけど、長州はアンドレの気分を悪くさせて、コーナーで顔を張られ、鼻血を出したりしていた。新日本の試合は、外国人から見ると善し悪し。自分勝手で小生意気に見える。日本人のファンにはそれがいいんだろうけど、アメリカのレスラーには『何だ、このチビ』ってムカつかれ、技を受けてもらえなくなるよ」と語っています。



第5章「虎は死なず」では、「プロスポーツには絶対フィックスがある」として、著者は「だいたい真剣勝負なんて、そんなもの10分もできないよ。5分で精いっぱい。ああいうのは、それに感化されるお客さんが悪いんだ。自分でやったことのある人間は、すぐわかるでしょう。これは、ハッキリ言うけど、プロって名のつくスポーツは、絶対にフィックス、決まり事がある。お客さんから、お金取ってやるスポーツは全部。フットボールでもボクシングでも」と述べます。

 

また、「やり方がチンドン屋すぎる」として、現在のプロレスについて、「俺は昭和の男だから、古いと言われるかもしれないけど、昔は、ハーリー・レイスの試合なんか、いい大人が熱中していたけど、今のプロレスには、そういうセンスがないよね、周囲を威圧するオーラを持った、エリック、ブルーザーみたいな選手がいない。あの頃は選手のインプレッションが凄くて、その辺のあんちゃんではなく、その存在感を見に来ていた。俺も、リングに上がるときは、目つきが変わっていたから、『うわっ、キム・ドク、怖そう』とか声が聞こえてきた」と述べるのでした。確かに、昭和のプロレスラーは周囲を威圧するオーラを持っていました。歯に衣を着せずに、本音をバンバン言う著者ですが、基本的にプロレスを愛していることがよくわかりますね。

 

虎の回顧録 昭和プロレス暗黒秘史

虎の回顧録 昭和プロレス暗黒秘史

 

 

2020年5月18日 一条真也

『ケンドー・ナガサキ自伝』

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

一条真也です。
ギックリ腰になってしまいました。ベッドから動けません。
そんな情けない状態ではありますが、『ケンドー・ナガサキ自伝』桜田一男著(辰巳出版)をご紹介いたします。今年1月12日に71歳で亡くなった著者の自伝です。昭和のプロレス界が生んだ名ヒールにして、現役時代に「喧嘩をさせたら最強」と噂された”剣道鬼"ケンドー・ナガサキがレスラー人生を総括する初の本格的自叙伝です。



著者は1948年9月26日、北海道網走市出身。身長188cm、体重120kg。中学卒業後、大相撲・立浪部屋に入門。1971年に日本プロレスへ入門。同年6月27日に戸口正徳戦でデビュー。日プロ崩壊後、全日本プロレスに合流。76年から海外遠征に出発し、81年にケンドー・ナガサキに変身。90年にSWS旗揚げに参画し、その後はNOW、大日本プロレスなどを渡り歩きました。

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本書の帯

 

本書の表紙カバーには剣道の面をつけて竹刀を持った著者の写真が使われ、帯には「仕事、金、女・・・世界を渡り歩いた“喧嘩屋”のセメント告白録!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「プロレスは最高に面白く刺激的なビジネスだった」として、「アントニオ猪木襲撃未遂事件/大城勤をリング上で制裁/『元祖タイガーマスク』に変身/天龍源一郎の「床山」として初渡米/“殺人鬼”キラー・カール・コックスとの出会い/「地下牢」でヒットマンを指導/『ドリーム・マシーン』と『ランボー・サクラダ』/武藤敬司との共同生活/ブルーザー・ブロディ刺殺事件に遭遇/“金権団体”SWSの誕生と崩壊/47歳でのバーリ・トゥード挑戦」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「まえがき――『剣道』と『長崎』」

第1章 子供の頃、俺は網走刑務所で遊んでいた

第2章 俺が日本プロレスの道場で教わったこと

第3章 俺が大城勤をセメントで叩き潰した理由

第4章 韓国で『元祖タイガーマスク』に変身

第5章 天龍源一郎の「床山」としてアマリロ地区に出発

第6章 “最高の手本”キラー・カール・コックス

第7章 「地下牢」で若き日のブレット・ハートを指導

第8章 スネーク奄美に拳銃の弾をプレゼント

第9章 俺が見たアメリカマット界のドラッグ事情

第10章 謎の中国系マスクマン『チャン・チュン』の誕生

第11章 なぜ俺は『ドリーム・マシーン』になったのか?

第12章 坂口さんの誘いを受けて全日本プロレスと決別

第13章 失敗だった『ランボー・サクラダ』への変身

第14章 俺は遠征に行った先の女とは一通りやった

第15章 ブルーザー・ブロディ刺殺事件に遭遇

第16章 旗揚げ前からSWSが抱えていた最大の問題

第17章 99億円の資金をつぎ込んだ金権団体が崩壊

第18章 一生忘れることのできない悲しい事故

第19章 47歳の誕生日にバーリ・トゥードに挑戦

「あとがき――プロレスは『最高の仕事』だった」



第2章「俺が日本プロレスの道場で教わったこと」では、大相撲を経て日本プロレス入りした著者が、同じ頃に入門した小沢正志(キラー・カーン)や藤波辰巳(辰爾)、さらには元柔道日本一の坂口征二との思い出を語っています。
「プロレスでは基礎中の基礎である腕立て伏せや腹筋、背筋といったトレーニングも相撲ではほとんどやることがなかったので、最初はかなりキツかった。それは相撲出身の小沢選手も同じだったようで、練習でいつも泣きを入れていたし、スクワットなんかはすぐに回数を誤魔化すタイプだった。逆に真面目な藤波選手は身体を大きくしたいという気持ちがあったからか、基礎体力の練習を一生懸命やっていた印象がある。筋力トレーニングの中でも特に大変だったのは、ロープ登りだ。これは足を使わずに腕の力だけで天井から吊るされたロープを登るのだが、俺は体重が重いので、こういうメニューはどうしても苦手だ。ロープ登りが得意だったのは坂口征二さんで、元柔道日本一だけあって引く力がとにかく強かった。あれだけの体重があるにもかかわらず、足を使わずスイスイ登っていく姿を初めて見た時は本当に驚いたものだ」



また、プロレスの基本であるロープワークについて、著者はこう語っています。
「今の試合を見ると、ロープに走って戻ってくるときは威勢がいいが、相手にぶつかる瞬間に減速する選手がいる。怖がって中途半端なタイミングでぶつかると、迫力が出ないし、自分も相手もケガをする恐れがある。ロープワークからのショルダータックルは単純な攻防だが、見様見真似でできることではないのだ。昔は走って相手をショルダータックルで倒し、またロープに走って、立ち上がってきた相手をまた倒すという練習を何度も繰り返しやっていた。これにより、倒される受け身と立ち上がり方を反復練習で覚える。倒されてから立ち上がる時は、右肘を支店にして回り、相手との距離が空くようにして立ち上がるのが基本だ。そうすることによって、次の動きがスムーズになる。このようにプロレスの基本は闘いとして理に適ったものなのに、それを知らない奴がやると、おかしなことになるのだ」



長くアメリカマット界で活躍した著者ですが、第9章「俺が見たアメリカマット界のドラッグ事情」では、以下のように述べています。
「向こうのレスラーの多くは、身体を大きくするためにアナポリックスステロイドを使っていた。日本でステロイドの存在が広く知られるようになったのは90年代になってからだと思うが、アメリカでは70年代から使われていたそうだ。もともとは小児麻痺などに使う薬で、入手するには医師の処方箋が必要である。それをどうやって手に入れるかというと、試合会場にはドクターがいるから、嘘の処方箋を出してもらって、薬局で薬と注射器を買うのだ。後にAWAでロード・ウォリアーズホーク・ウォリアーと一緒にサーキットしたことがあるが、彼は口癖のように『苦しい』と言っていた。心配して『どうしたんだ?』と聞くと、『俺はステロイドを使っている。凄く強い奴だから、心臓が苦しくなることがあるんだ』と顔をしかめていた。これは薬の副作用で、心臓が圧迫されているのだ。薬漬けだったホークは、若くして命を落としてしまった」



第11章「なぜ俺は『ドリーム・マシーン』になったのか?」では、ケンドー・ナガサキとしてアメリカマット界でブレークを果たした著者が凱旋帰国したところ、全日本マットでは良い扱いを受けなかったことが明かされています。これはザ・グレート・カブキこと高千穂明久の場合も同じでしたが、全日本のトップである馬場のジェラシーであるとされています。著者は述べます。
「馬場さんは俺が日本でオーバーすることなんて望んでいなかったのではないだろうか。NWAの黄金テリトリーのフロリダ地区でトップを取っているケンドー・ナガサキのまま帰国させたら、全日本のリングでもそれに見合った扱いをしなければいけない。だが、俺に上を取られるのは面白くなかったはずだ。馬場さんはアメリカで最も成功した日本人レスラーは自分だという思いがあったから、俺や高千穂さんのようにアメリカでオーバーしたレスラーを快く思っていなかったような気がする」

その後、著者は全日本マットを離れて新日本マットに参戦します。そこでは新日正規軍のみならず、前田日明らUWF勢とも試合をしました。著者は述べます。
「ペイントを施して悪徳マネージャーをつけている俺たちとシュートスタイルを押し出すUWF勢は水と油のように映ったかもしれないが、やる側としては違和感はない。彼らもやっていることは、同じプロレスだ。前田日明藤原喜明も試合をしてみて、やりづらいとはまったく思わなかった。試合で俺が前田のアキレス腱固めをしたり、スープレックスを切り返したことで観ていた人は驚いたようだが、別に不通に試合をこなしただけのことだ。相手が足を取ってきたときの切り返しは基本として徹底的に学んだから、それが通常のプロレスのレッグロックだろうが、UWF流のサブミッションだろうが、俺の中で区別はない。一方、新日本の選手たちはUWFの選手と試合をするのを嫌がっているように見えた。だが、俺が前田から受けた印象は、『普通のプロレスラー』というものだった。少なくとも俺と試合をした時は、こっちの技もしっかり受けていた」



その後、著者は1990年にメガネスーパーが設立した新団体SWSに参加します。第16章「旗揚げ前からSWSが抱えていた最大の問題」では、旗揚げ当初からいろいろな問題を抱えていたSWSですが、絶対にクリアしなければならない最重要事項があったとして、以下のように述べています。
「レスラー側が一番気になっていたのは、田中社長がプロレスというビジネスの仕組みを理解していなかったことだ。SWSは旗揚げ当初、トーナメントに賞金が出ていた。田中社長は何も知らないで賞金を出していたわけだから、我々の中には申し訳ないという気持ちがあった。俺は最初に都内のホテルで会った時から、田中社長がプロレスをよく理解していないことはわかっていた。旗揚げ前に伝えるべきだったのではないかという考えもあるかもしれない。しかし、プロレスビジネスの仕組みを知って、旗揚げ前に田中社長が団体から手を引くと言い出したら、それはそれで大問題だ。多くの選手は、所属していた団体と喧嘩別れするような形でSWSに来ている。だから、レスラーサイドで話し合って、団体が動き始めてから田中社長には説明しようということになった」つまり、SWSを興したメガネスーパー田中八郎社長は、プロレスを真剣勝負の純粋な格闘技だと思っていたというのです。驚くべき話ですが、99億円もの巨額の資金を投入して参入する新規事業の内容も把握していなかったというのは、経営者として完全に失格ですね。



SWSはトラブル続きの団体でしたが、トラブルメーカーとして知られる元横綱北尾光司を受け入れてから前代未聞の不祥事が発生します。91年4月1日、神戸ワールド記念ホールで北尾はジョン・テンタと対戦しましたが、試合を一方的に放棄し、反則負けになると、テンタに向かって「この八百長野郎!」と暴言を吐いたのです。著者は述べます。
「この時、北尾を焚きつけたのはドン荒川だと言われているが、こいつも調子のいい奴だった。あっちこっちに自分の都合のいいことばかりを吹き込んで、トラブルを誘発する。田中社長にも『今度、長嶋茂雄を紹介しますよ!』などと調子のいいことを言ってゴマ擦りばかりしていた。この神戸大会の時も、荒川が『カブキが横綱のことを潰そうとしている』と吹き込んだことで北尾の様子がおかしくなったという。要はマッチメーカーの高千穂さんがテンタを使って、北尾を懲らしめようとしているというのだ。それを信じた北尾は仕掛けられるかもしれないと疑心暗鬼になり、目潰しをするような仕草でテンタを挑発したりして、試合中もまったく組み合おうとしなかった」



プロレスラーとしての著者には、つねに「強い」というイメージが付いていました。「喧嘩をさせたら最強」とも言われました。そんな著者は、当時全盛だったバーリ・トゥードに挑むことになります。1995年9月26日、著者の47歳の誕生日のことでした。第19章「47歳の誕生日にバーリ・トゥードに挑戦」では、以下のように述べています。
駒沢オリンピック公園体育館で開催された『バーリ・トゥード・パーセプション』で、俺は第2試合の出場だ。対戦相手は第1回UFCにも出たUSAケンポー・カラテのジーン・フレージャーで、打撃技を得意とする選手だった。とにかく捕まえて倒し、関節技を極める――。俺の狙いは、それだけだった。ところが、勝負はそこまで甘くなかった。フレージャーを捕まえに行ったところで左フックを食らい、俺はいきなりダウンしてしまった。何とか立ち上がって再び捕まえに行ったが、再び一発いいのを食らってKO負けとなる。最大の敗因は、甘く見ていたことだ」



「あとがき――プロレスは『最高の仕事』だった」では、著者は「プロレスは、夢でもロマンでもない。俺にとっては、あくまでも生きていくために必要な仕事だった。プロレスをやって一番良かったのは、金を稼げたことだ」と言います。また、「特別な区切りは必要ない。プロレスは、俺にとっては天職だった。そして、俺はプロとして自分の仕事を全うしたと思っている。それは最高に面白く、刺激的で、人生を満たしてくれた仕事だった」とも語っています。
なんという爽やかな言葉でしょうか!
ここまではっきりと言い切ることのできる著者には感銘を受けました。著者は、本当に満足のゆく人生を歩んだ人だと思います。心からご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

  • 作者:桜田 一男
  • 出版社/メーカー: 辰巳出版
  • 発売日: 2018/05/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年5月17日 一条真也

『‟東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ自伝』

“東洋の神秘

 

一条真也です。
『“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝』ザ・グレート・カブキ著(辰巳出版)をご紹介します。2014年に刊行された本ですが、その年にデビュー50周年を迎えた往年の人気レスラー"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキが自身のキャリアを総括する本格的自叙伝です。日本プロレスでの若手時代に始まり、一大ブームを巻き起こした全日本プロレス時代、メガネスーパーが設立した新団体SWSへの参加、平成維新軍のメンバーとして活躍した新日本プロレス時代まで波乱万丈の人生を歩んできた「プロレス界のご意見番」が今、すべてを語り尽くしています。



著者は、本名・米良明久。1948年9月8日、宮崎県延岡市出身。64年、日本プロレスに入門。同年10月31日、宮城・石巻市での山本小鉄戦でデビューしました。団体が73年4月に活動停止すると、全日本プロレスに合流。81年に遠征先のアメリカでザ・グレート・カブキに変身して大ブレイクし、83年の日本逆上陸は社会的ブームとなった。98年9月7日、IWAジャパンのリングで現役を引退。2002年10月に復帰し、現在は東京・飯田橋で「BIG DADDY酒場かぶき うぃず ふぁみりぃ」を経営しています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「まえがき」

第1章 隠れ里伝承に包まれたミステリアスな俺の家系

第2章 15歳で日本プロレスに入門を直訴

第3章 リキ・パレスにあった「道場」という名の地獄

第4章 突然の人員整理と5万円の退職金

第5章 芳の里さんに授けられた「高千穂明久」の由来

第6章 生意気な後輩は制裁すべし!

第7章 "若獅子"アントニオ猪木と初対面

第8章 東南アジア遠征で暴動が発生

第9章 後輩・マサ斎藤とロサンゼルスで再会

第10章 デトロイトで「ヨシノ・サト」に変身

第11章 ミツ荒川とNWF世界タッグ王座を獲得

第12章 「おまえらに俺の気持ちがわかってたまるか!」

第13章 1973年4月20日、日本プロレスが消滅

第14章 オーストラリア遠征で起きたハイジャック事件

第15章 「馬場さん、アメリカに行かせてください!」

第16章 ミスター・サイト―&ミスター・サト

第17章 「ダラスのオフィスから電話がなかったか?」

第18章 “東洋の神秘"ザ・グレート・カブキの誕生

第19章 俺が各テリトリーで飽きられなかった理由

第20章 佐藤昭雄が仕組んだカブキの凱旋帰国

第21章 新日本プロレス副社長・坂口征二の誘惑

第22章 「受け身」と「ガチンコ」の重要性

第23章 天龍同盟と繰り広げた「アメリカンプロレス」

第24章 ハル薗田ブルーザー・ブロディを襲った悲劇

第25章 「源ちゃん、俺も全日本にはいたくないんだよ」

第26章 俺が戦ってきた外国人トップレスラーたち

第27章 新団体SWSのマッチメーカーに就任

第28章 歪んだ人間関係が生み出した2つの事件

第29章 派閥闘争の末、SWSが2派に分裂

第30章 楽しかった反選手会同盟~平成維震群時代

第31章 “マイ・サン"グレート・ムタとの親子対決

第32章 初めて足を踏み入れたインディーの世界

第33章 49歳最後の日、10カウントを聞きながら

「あとがき」

 

第1章「隠れ里伝承に包まれたミステリアスな俺の家系」では、著者が1948年(昭和23年)、宮崎県延岡市山下町で3人兄弟の末っ子として生を受けたことが紹介され、さらには以下のように述べています。
「親父は、宮崎県椎葉村の出身だ。親父自身が言うのは、先祖は平家の落人だったらしい。実際、この辺は平家の落人の隠れ里だったという伝承が残っている。あの源氏方の武将で、弓の名人として名高い那須与一の弟・大八郎が平家の残党狩りに来た際、この地で平家の娘と恋に落ち、子供を授かったという。のちに俺がザ・グレート・カブキというミステリアスなキャラクターのレスラーになったのも、そんな謎めいた血筋のせいという気がしないでもない」
椎葉村といえば、日本民俗学発祥の地としても知られる秘境です。ブログ「椎葉村」で紹介したように、わたしも昨年10月に訪れました。たしかに、ミステリアスな場所でした。ここがカブキのルーツだったとは驚きです。



第8章「東南アジア遠征で暴動が発生」では、後輩レスラーであるタイガー戸口との出会いが書かれていて、これが面白かったです。日本プロレスの若手レスラーだった著者がネルソン・ロイヤルとの試合を前に後楽園ホールの選手が出入りするエレベーターの前にいると、学生服姿の戸口がやって来て、「おい、大木金太郎さんを呼んでくれよ」と言ったそうです。著者は述べます。
「カチンと来た。まだ学生服を着ているガキが偉そうな口ぶりで話しかけてきたから当然だ。『いや、俺は試合があるから、違う人間に聞いてくれ』怒りを抑えて、俺は大人の対応をした。ところが、戸口は俺の苛立ちを理解できなかったようだ。『いいから、呼んできてくれよ』俺の堪忍袋の緒が切れた。『ふざけんな! てめえ、誰に口効いてんだ!』俺はそう怒鳴ると、思いっきり戸口を殴りつけてやった。戸口は腰から落ちて、エレベーターの前でへたり込んでいた。そんな戸口に向かって『大人をナメんじゃねえぞ!』と再び怒鳴りつけると、細い声で『すいません』と謝ってきた」
その後、2人は仲良くなり、最近では『毒虎シュート対談』という対談本まで出したのですから、人の縁というのは面白いですね。

 

第18章「“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキの誕生」では、1981年にペイントレスラーザ・グレート・カブキとなって全米を転戦していたとき、かの毒霧を思いついた瞬間のことが書かれています。
「ある日、面白いことを思いついた。試合後、俺はシャワーを浴びてメークを落としていた。シャワーは高いところにあるから、どうしても水が口に入ってきてしまう。オレはその口に入った水を天井に向かって、フッと噴いてみた。すると、俺の噴いた水をライトが照らして虹のようにキラキラと輝いているではないか。その瞬間、俺は『これだ!』と思った」



 さらに、毒霧について、著者は述べています。
「毒霧は噴くタイミングが重要だ。まずは入場してきたときに一発、緑の毒霧を噴く。そして、試合中に赤い毒霧を噴くのだが、なるべくコーナーに近い場所で相手の技を受けるようにした。そうすると、相手は自然とコーナーに上り、飛び技を放とうとする。その瞬間に下から相手の顔に目掛けて、毒霧を噴き上げるのだ。そうすると、相手とリングを照らすライトが一直線上に並んでいるため、相手を包み込むように見える。これが水平に噴いてしまうと、ライトの光に当たらないので、いまいち観客にわかりづらい。あくまで下から噴き上げてこそ、観客に‟毒霧”として認識されるのだ」



「東洋の神秘」としてアメリカで大ブレークした著者は、その後、帰国して全日本プロレスを主戦場とします。85年頃、新日本で一大ブームを作り上げた長州力維新軍団が離脱して新団体ジャパンプロレスを立ち上げ、全日本に乗り込んできました。当然、著者も彼らと試合をするようになりましたが、まったく噛み合いませんでした。著者は
「なにしろ、長州たちは相手の技を受けようとしないのだ。改めて説明するまでもなく、技を受けて対戦相手を引き立たせてやることもプロレスでは重要なことである。ところが、長州たちは一方的に攻めるだけなのだ。とにかくこの頃の長州たちは自分たちが強く、カッコ良く見えればそれでいいという試合スタイルを貫いていたから、俺は戦いながらイライラしていた」と述べます。

 

著者は、長州力のプロレスは認めていませんでしたが、天龍源一郎のプロレスは認めていました。全日本でジャンボ鶴田に次ぐ存在だった天龍は阿修羅・原、川田利明サムソン冬木冬木弘道)、北原辰巳(光騎)、小川良成らを集めて「天龍同盟」を結成し、鶴田らの全日正規軍と抗争しました。著者は正規軍として天龍同盟に対向する立場でしたが、「俺はこの時期に彼らがやっていたプロレスこそ、本当のアメリカンプロレスだと思っている。みんな勘違いしているかもしれないが、本当のアメリカンスタイルはチョップでもキックでもパンチでもバチバチやり合うものだ。しかも源ちゃんたちは攻めも激しいが、受けも抜群だった。俺は久しくこういう試合をやれていなかったし、ファンも喜んでいたので、戦いながら嬉しかったというのが本心である」と述べています。



第26章「俺が戦ってきた外国人トップレスラーたち」では、プロレス界の最高峰とされたNWA世界ヘビー級王者について、こう述べています。
「NWA世界王者は各テリトリーを回り、現地のベビーフェイスの挑戦を受けるのが仕事だ。大きな選手から小さな選手まで様々なタイプの挑戦者を迎え撃つわけだから、平均的な体格がいい。その方が相手が引き立つから当然だ。言ってみれば、NWAのチャンピオンは“相手の引き立て役”という側面も持っている。だから、どんな試合でもこなせるような選手が好まれる」
著者はNWA世界王者だったジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクハーリー・レイスらを高く評価する一方で、ジャック・ブリスコなどは「自分本位の試合をする男だった」と低評価を下しています。


「あとがき」では、日本のプロレス界全体を俯瞰して、以下のように述べています。「プロレスが変わり始めたのは、馬場さんがキッカケだと俺は思っている。大仁田厚渕正信ハル薗田の3バカがまだ全日本の若手だった頃、馬場さんはこんなことを言っていた。『おまえら、できる技があるんだったら何をやってもいいぞ』それまでは若手がメインイベンターの使うような技を使ってはいけないという仕来りがあった。俺や(佐藤)昭雄はそのように若手たちを教えていたし、俺もそう教えられてきた。その仕来りを馬場さんが破ったのだ。規格外の体格を持つ馬場さんの技は、誰も真似できない。だから、何をやってもOKと言えるのだ。これ以後、第1試合から平気でバックドロップのような大技が出るようになった。俺は一度、大仁田と渕が第1試合で大技を使ったので引っ叩いて叱ったことがあったが、この辺は馬場さんとの間でずっとせめぎ合いがあった」



著者は、新日本プロレスについても言及し、「意外にも自己主張の激しいレスラーが多い新日本の前座は、そうでもなかった。俺が平成維震軍として参戦していた頃、若手は若手らしい試合をしていたし、大技が飛び出すのは興行の後半になってからだった。おそらく山本小鉄さんがしっかりと教育していたのだろう。しかし、全日本の若手が大技を使うようになっていたこともあり、新日本も次第に崩れ始めた。技を制限すると、技に頼らない試合の組み立て方を覚える勉強になる」と述べています。



本書は、全米マットで一世を風靡した著者が、日本マット界の未来を憂う形で終わっていますが、このときからすでに6年の歳月が経過しています。71歳になった著者は、現在の日本のプロレス界をどのように見ているのでしょうか?

 

“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝

“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝

 

 

2020年5月16日 一条真也