アラン・ドロンよ、安らかに眠れ!

一条真也です。
18日の日曜日、いつものように実家に寄りました。この日も、あまり体調が良くない父といろいろ話をしました。この日、フランス人俳優のアラン・ドロンの訃報に接しました。父と同じ88歳でした。米寿だったのですね。

ヤフーニュースより

 

アラン・ドロンといえば、「二枚目スター」の代名詞で、日本でも女性ファンをとりこにしました。やれブラピだ、ディカプリオだといっても、アラン・ドロンこそ日本人女性にとっての最高のイケメン俳優でした。わたしが初めて彼の存在を知ったのは、今から50年ほど前、小倉の砂津にある「とん子」という町中華の店の看板にアラン・ドロンが豚骨ラーメンを啜っている大きな絵が描かれたときでした。数年後にその絵は消されましたが、誰かから「アラン・ドロンから訴訟されたそうだ」と聞きました。そのとき、「天下のアラン・ドロンが、日本の地方都市のラーメン屋を訴えるとは!」と驚いた記憶があります。その店は「いずみ」と名を変えて、現在も営業しています。



アラン・ドロンは、パリ郊外ソー生まれ。4歳の時に両親が離婚し、里親に育てられた。仏誌パリ・マッチのインタビューでは「不幸な幼少期だった」と振り返っています。17歳で軍に入隊。インドシナへ出征後、放浪の末に銀幕を目指しました。17歳でフランス海軍に入隊し、20歳で除隊すると様々な職業を転々としました。あまりの美貌に、周囲が俳優を薦めました。演劇を学ぶなど、俳優を積極的に目指したわけではありませんでしたが、スカウトに注目されるなど映画業界との接点が生じました。そして、1957年に映画「女が事件にからむ時」でデビュー。

 

その後、ルネ・クレマン監督の太陽がいっぱい(60年)で、友人を殺し財産を狙う貧しい青年役を好演して一躍脚光を浴びました。ドロンの代表作となった「太陽がいっぱい」は、パトリシア・ハイスミスの小説を映画化したサスペンスです。イタリアに金持ちの道楽息子を連れ戻そうとやって来た貧しい青年が、激情にかられてある犯罪を思い立つ姿を甘美な調べに乗せて映し出します。本作でドロンは鋭利な刃物のような危うい美貌と抜群の演技力を披露しました。映画音楽の名匠ニーノ・ロータの音楽によって際立つ、凶暴なまでの青春の狂気に惑わされます。1999年にマット・ディモン主演で、本作の再映画化となるリプリーが公開。現在、NETFLIXではドラマ版リプリーが人気を呼んでいます。

 

「太陽はいっぱい」が世界中で大ヒットした後、アラン・ドロン「太陽はひとりぼっち」(62年)、「山猫」(63年)、地下室のメロディー(同)などでも主役級を担いました。一時ハリウッド入りしたものの水が合わず、フランスへ戻って冒険者たち」(67年)、「サムライ」(同)、「ボルサリーノ」(70年)などで男の友情や孤独、執念を演じました。「真夜中のミラージュ」(84年)でセザール賞主演男優賞を受賞し、「危険なささやき」(81年)では監督も兼務。ジャンポール・ベルモンドと共に仏映画界を代表する俳優として知られました。わたしが一番好きなドロン作品は、ベルモンドと共演した「ボルサリーノ」です。

わたしも、ボルサリーノを愛用しています。

 

ボルサリーノの帽子は、映画「ボルサリーノ」により、世界中で人気に火がつきました。日本においては、「ボルサリーノ帽」が中折れ帽の代名詞となり、フェルト製のハット全般を指す愛称として広く用いられるようになったほどです。ボルサリーノの帽子には特別な大人の色気があり、スーツやコートなどダンディーなスタイルとの相性がよく、多くの帽子ファンにとって憧れの存在となっています。わたしも愛用しています。明後日から北海道の函館に出張するのですが、先日、新宿の伊勢丹メンズ館で求めたおニューの白のボルサリーノを持参します。

 

アラン・ドロンは、とにかく女性にモテました。1959年に出演したコメディ映画「お嬢さん、お手柔らかに!」がヒットし、まだ駆け出しの俳優だったにもかかわらず、西ドイツの若手スターだったロミー・シュナイダーに見初められて同棲を始めました。彼女と同棲を続けながら、ドロンは他の女性とも関係を持ちました。アルバムヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」で知られるモデルのニコとの交際はよく知られており、1962年に長男が生まれました。1963年には映画の撮影でナタリー・バルテルミーと共演して交際。この時はロミー・シュナイダーと別れることを選んだため、フランスの芸能メディアから叩かれたといいます。


1964年に結婚し、ナタリー・バルテルミーはナタリー・ドロンとなり、彼女もスターになった。2人は一児をもうけましたが、69年に離婚。ナタリーは演技の仕事を続けたかったのだが、ドロンが難色を示したことが原因と言われています。ナタリー・ドロンと破局すると、次は女優のミレーユ・ダルクと関係を持ちました。長い交際となりましたが、80年代後半にオランダ人モデルとの間に二児をもうけ、後に破局しています。私生活では、女優ロミー・シュナイダーさんとの婚約を解消、ナタリー・ドロンと結婚・離婚し、ミレーユ・ダルク事実婚。女性関係は華やかで、晩年には連れ添ってきた日本出身の女性とドロンの家族が訴訟合戦を展開しました。


アラン・ドロンは、日本人なら誰でも知っている有名な女性ともロマンスがありました。デヴィ夫人です。2017年5月14日放送のフジテレビワイドナショーに、デヴィ夫人が初登場。ドロンとの知られざる関係について、大胆告白しました。番組のトップ項目として選ばれたのは、当時81歳で俳優業から引退を表明したドロンについての話題。ナレーションでは「かつて、デヴィ夫人ともロマンスがあったという」と伝えました。インドネシアスカルノ大統領の第3夫人だったデヴィ夫人アラン・ドロンさんと初めて会ったのは、1964年。東京オリンピックが開催されていた当時、帝国ホテルでだったそうです。夫人は、「いっつも私たちがロビーを通って外出すると、いらっしゃるんですよ。で、外出から帰ってくると、またいらっしゃるの。で、もうスカルノ大統領は「おまえがお目当てなんじゃないか」って、ジェラシーをなさったぐらい」と語っています。それにしても、すごい話ですね!


「東洋の真珠」と呼ばれたデヴィ夫人

 

その後、国の情勢が悪くなって1人でフランスへ亡命したデヴィ夫人は、社交界で名をはせ「東洋の真珠」と呼ばれました。ロスチャイルド家のパーティーなどに出席し、貴族や実業家といったセレブと交流していた際、アラン・ドロンと再会。「ワイドナショー」のMCだった東野幸治が「じゃあアラン・ドロンさんと再会された時は燃えたでしょう」と聴くと、夫人は「そうですね~」と、遠い目で答え、堀潤の「夫人とアラン・ドロンさんは2人きりでお部屋で過ごされるってことですか?」との質問にも「そうですね、あんなような(若い2人が向かい合う写真を指して)感じで。あれはマキシム・ド・パリですけれども」と答えたのです。それを聴いた松本人志も仰天していました(笑)。ブログ「デヴィ夫人にお会いしました!」で紹介したように、2019年9月19日の夜、わたしはデヴィ夫人と会食させていただきましたが、夫人の圧倒的なセレブ・オーラに圧倒されました。あの方なら、アラン・ドロンとのロマンスがあっても不思議ではありません!



自身の名をブランドにした香水が人気を博すなど、アラン・ドロンは実業家としても成功しました。2017年、俳優業から引退するとの意向を示しました。2019年、第72回カンヌ国際映画祭でドロンに対し、映画界への長年の功績をたたえて名誉パルム・ドールが贈られました。アラン・ドロンはわたしの大好きな俳優でしたが、古くからの映画ファンは、彼に若くして世を去ったジェームス・ディーンの面影を感じるようです。わたしも、ジミーとドロンの2人は似ていると思います。特にはにかんだ表情などがそっくりでした。ドロンがハリウッドで活躍できなかったことは残念ですが、世界の映画界を代表するスーパースターであったことに変わりはありません。美しき銀幕の星・アラン・ドロンよ、安らかに眠れ! 



2024年8月18日  一条真也