一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「公」です。

 

 

一時、「会社は誰のものか」という議論が盛んになりました。会社は株主のものなのか、経営者や社員のものなのか。ピーター・ドラッカーは、この問いに簡単に答えました。「会社は社会のもの」だというのです。したがって、社会の中に存在する社会のための機関として、富の増殖機能を伸ばしていくことがマネジメントの責任であるといいます。つまりは、会社とは社会の「公器」ということです。実際、成功した経営者の多くは、自らの会社を公器として意識しており、世の人々の共感を得ています。



古代ローマ人たちは国家を「レス・プブリカ」という言葉で表わしました。現代イタリア語のレパブリカ、英語のリパブリックのもとなる言葉で、「共和国」と訳されますが、もともとは「公共」という意味です。すなわち、古代ローマ人にとっての国家とは、公共の利益のためにこそ存在するものであったのです。

 

 

塩野七生氏は、著書『痛快!ローマ学』に「国家は一部の特権階級や個人の利益のためにあるのではない。国家の目的は、その中で暮らす人々の幸福を最大限にすることにあるのだというのが、一貫したローマ人の思想でした。そして、カエサルもまた国家とはレス・プブリカと考えていた」と書いています。この「国家」を「会社」に置き換えれば、そのまま社長の心得になるはずです。そして、カエサルはアレクサンダー以来の夢である、民族・文化・宗教の違いを超えた「普遍帝国」としてのローマ帝国を築き上げました。まさに、スーパー・パブリックな思想です。

 

 

幕末の日本においても、パブリックな思想というものが大きく花開きました。吉田松陰は、その師である玉木文之進から「侍とは公のためにつくすものであるという以外にない」と徹底的に叩き込まれたと、司馬遼太郎『世に棲む日日』に紹介されています。それゆえ松陰は、自分という存在と肉体はあくまでも私的なものであり、心は公のものでなければならないと覚悟したのでした。

 

 

坂本龍馬はさらに松陰の先を行き、「公」というコンセプトを、一山内家や一土佐藩でなく、日本および日本人という総体でとらえました。いわば龍馬によって、「日本」そして「日本人」という新しい言葉が発明されたのであり、従来の藩とは比較にならないほどの大きな公概念があることを知った幕末の志士たちの公意識は一気に高まりました。やがてそれが尊王攘夷思想と補完しあって、倒幕の強大なエネルギーと化していったのです。


日経電子版「すべては世のため人のため 夢から志へ

 

公意識が志というものを育み、やがて大いなる事を成すのです。何か事を成したいと考えておられる方は、ぜひ公意識というものを重視されるとよいでしょう。あなたの心の焦点が「私」から「公」に移行し、それを宣言したときから、あなた一人の問題ではなくなり、あなたの周囲の人々も巻き込まれてゆきます。そう、パブリックとは、自分以外の他人をすべて巻き込むことなのです。「公」については、『龍馬とカエサル』に詳しく書きました。

 

 

2024年9月10日  一条真也