木戸修、死す!

一条真也です。
「いぶし銀」と呼ばれた元プロレスラーの木戸修さんが今月11日に亡くなったというニュースが入ってきました。73歳でした。娘でプロゴルファーの木戸愛さんがマネジメント会社を通じて明らかにしました。川崎市出身。葬儀は近親者のみで行うそうです。

ヤフーニュースより

 

1950年生まれの木戸修さんは、1968年10月、日本プロレスに入門。1969年2月21日にプロレスデビュー。ユセフ・トルコの付き人を務めました。アントニオ猪木日本プロレスを除名された翌日である1971年12月14日に、藤波辰巳ともども日本プロレスを退団し、1972年3月に新日本プロレスの旗揚げに参加し、藤波と共に西ドイツ遠征に出ました。その後、アメリカの「カール・ゴッチ道場」の門を叩き、ゴッチから直接レスリング技術を学んだ。ゴッチは木戸のことを「マイ・サン」或いは「私の領域に一番近付いた男だね」と評しています。



帰国後の新日本で木戸は地味なファイトスタイルや寡黙な性格が災いして前座試合の出場がメインとなり、デビュー当初はライバルと目されていた藤波とは差がついてしまいました。しかし、1984年9月から第1次UWFに参加すると徐々に評価が高まり、木戸の職人肌のグラウンド・テクニックは「いぶし銀」と呼ばれるようになりました。1985年に行なわれたUWF内の格闘技ロード公式リーグ戦では優勝しています。1985年12月に第1次UWFの崩壊に伴い新日本へ復帰すると、キド・クラッチや脇固めを駆使して活躍するようになる。1986年8月、前田日明とのタッグでIWGPタッグ王座を獲得した。

 

大技の攻防が日常化していく1990年代以後の新日本の中で一人、地味ながら切れ味鋭いレスリングスタイルを貫いた木戸さんは、「新日本の良心」として特に札幌地区での人気はすさまじいものがありました。木戸さんと札幌とは特に縁があるわけではありませんが、新日本の札幌大会は藤原喜明のテロリスト事件(藤原の項を参照。)に代表されるハプニングが頻発し、しっかりとした試合が提供されないことが多かったためでした。 新日本の札幌大会では会場中に応援の幟が立ち、札幌の後援者から贈られたハッピを着た木戸さんが登場すると大歓声が沸きあがりました。木戸もその後押しに答え、佐々木健介をキド・クラッチで下した実績があります。 専門誌はその現象を「木戸の異常人気」として伝え、後に木戸も「札幌男」と呼ばれるようになり、札幌ドームのこけら落としでの大会では全選手代表としてオープニングの挨拶まで行いました。



木戸さんの存在が改めてクローズアップされたのが1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で木村健悟と組んでジャンボ鶴田谷津嘉章組と闘い、鶴田を相手に渡り合った試合でした。また、1992年から始まった天龍源一郎率いるWARとの対抗戦においても注目を集めました。木戸さんも天龍のパワー、打たれ強さに多くの実力者がシングルマッチで敗れるなど苦戦する中で、関節技を主体とする木戸の存在が切り札としてクローズアップされました。 そしてWAR勢との5対5のタッグマッチに出場した木戸さんは脇固めやアキレス腱固めといった関節技で相手を苦しめ、天龍の右腕を破壊しました。試合終了までほぼ行動不能に追い込む活躍を見せ、新日本勢の勝利に大きく貢献したのでした。



2001年11月2日、横浜文化体育館で木戸さんの引退記念興行が行われ、長州力とタッグを組み藤波・木村組と対戦。いったんは現役を引退しました。この興行には、関東各地の後援者のほか遠く札幌からも応援隊が駆けつけ、試合後の木戸さんの引退セレモニーではゴッチからのメッセージが代読されました。木戸さんの姉や愛娘2人がリングで花束を渡すセレモニーも続き、控室での木戸さんのインタビューでは盛んに「家族」という言葉が発せられ、家族思いの優しい人柄が改めて確認できるものでした。



2005年9月11日、ビッグマウス所属選手としてビッグマウス・ラウドで復帰。2007年11月、ハッスルのハッスル軍コーチを務め、どハッス!!!(テレビ東京)に登場。2008年6月10日、全日本プロレスの「武藤祭」において西村修松田納とのユニット「オサム軍団」として参戦。2010年2月22日、IGFプロレスリング「アントニオ猪木50th Anniversaryスーパーレジェンドマッチ」に参戦。晩年は長くがんを患って闘病中でしたが、2023年12月11日に木戸さんの容態が急変して横須賀市内の病院へ救急搬送後、同日に死去。73歳没。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

2023年12月14日  一条真也